文学批評 デュラス『愛人』とバルト『明るい部屋』――「存在しない写真」と「時間」

 

 

 

<デュラス『愛人』>

 よく知られているように、マルグリット・デュラス『愛人』(『ラマン』)は次の文章から始まる。

《ある日、もう若くはないわたしなのに、とあるコンコースで、ひとりの男が寄ってきた。自己紹介をしてから、男はこう言った。「以前から存じあげてます。若いころはおきれいだったと、みなさん言いますが、お若かったときよりいまのほうが、ずっとお美しいと思ってます、それを申しあげたかったのでした、若いころのお顔よりいまの顔の方がほうが私は好きです、嵐のとおりすぎたそのお顔のほうが」》

 

 一行空いて、「映像(イマージュ)」の話になる。

《わたしはよくあの映像(イマージュ)のことを考える、いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像(イマージュ)、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりとしてしまう像。》

 

《言いそえれば、わたしは十五歳半だ。

 メコン河を一隻の渡し船がとおってゆく。

 その映像は、河を横断してゆくあいだじゅう、持続する。

 わたしは十五歳半、あの国には季節のちがいはない。いつも、同じひとつの、暑い、単調な季節、ここは地球の上の細長い熱帯、春はない、季節のよみがえりはない。》

 

《まさにこの旅の途中で、あの映像(イマージュ)ははなれて浮かびあがったのであろう、あの映像(イマージュ)が全体から取り出されたのであろう。その像は現実に存在することができたかもしれない、写真を一枚撮るということがありえたかもしれない、ほかの場所、ほかの場合の写真はあるのだから。しかし、それは写真には撮られなかった。あまりにささやかで、写真を撮ろうという気持をそそらぬ対象だった。だれがそんなことを考えることができたろう。写真を撮るということがありえたとしたら、だれかが、わたしの人生におけるあの事件の重大さを、あの河の横断の重大さをその場で判断できた場合にかぎる。ところが、渡し船が河を横切ってゆくときには、そんな像が存在するということまでは、まだだれも知らなかった。知っているのは神だけだった。だからこそ、あの像は、――そう、そうでしかありえなかったのだ――あの像は存在しない。それは省かれてしまった。忘れられてしまった。それだけがはなれて浮かぶあがり、全体から取り出されることが現実にはなかった。この像がつくられることはなかったというこの欠如、まさにこの欠如態のおかげで、この像は独自の力、ある絶対を表現しているという力、まさしくこの像の産出者であるという力をもっている。》

 

 その映像(イマージュ)(写真)は存在しない、という。欠如ゆえの絶対、空虚、不在による現前性の強度、というのはデュラスの核心だ。

《あの日の娘の服装で、異様さ、途方もなさをなしているのは靴ではない。あの日のありようはというと、娘は縁(つば)の平らな男物の帽子、幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色のソフトをかぶっている。

 あの映像の決定的な多義性、それはこの帽子にある。

 どんなわけでその帽子がわたしの手もとに辿りついたか、忘れた。だれからもらったのだろう、思いつかない。母が買ってくれたのだろうと思う、それもわたしのほうから頼んで。》

 

 写真に映っている母に何度か言及する。それは絶望の写真ではあっても、絶対の写真ではないだろう、存在しているがゆえになおさら。

《縁(つば)が平らで幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色の帽子を買ってくれたのはこの女(ひと)、ある写真に映っている女(ひと)、わたしの母だ。もっと最近の写真もいろいろとあるけれど、この写真のほうがわたしにとってはずっと母らしい。場所はハノイの小湖(プチ・ラック)に面した家の中庭。家族全員がそろっている、母とわたしたち、つまり子供たち。わたしは四歳。母は中央にいる。母がどれだけ居心地が悪いか、微笑みもせず、はやく終らないかとどんなに待っているか、わたしには手にとるようにわかる。やつれた顔、身なりにうかがわれるある種のだらしなさ、眼差のけだるさから、この日が暑い日で、母が疲労困憊して気力をなくしている、とわかる。》

 

《あのころのわたしは、縁(つば)の平らな同じような帽子をかぶり、編んだお下げを身体のまえに垂らしているインドシナの女たちの出てくる映画を見たことが一度もなかった。あの日はわたしも編んでお下げにしているが、いつもやるようにその三つ編みを上にはあげなかった、といっても映画のなかのインドシナの女たちのとはちがう。(中略)わたしの髪は重たく、しなやかで、悲しげだ、腰まで届く赤銅色の集積(マッス)。それがわたしの一番きれいなところだとよく言われるけれど、それはつまりわたしが美人ではないという意味だと自分では理解している。この注目に価した髪を、わたしは二十三歳のときパリで切ってしまうことになるだろう、母と別れて五年後に。》

 

渡し船の上では、ごらんなさい、まだ髪を長くしている。十五歳半。すでにわたしはお化粧をしている。トカロン・クリームを塗り、頬骨のあたり、眼の下にある雀斑を隠そうと努める。》

 

《ソフト帽の娘は、大河の泥のような光のなかで、ただひとり渡し船の甲板に立ち、手すりに肱をついている。男物の帽子が情景全体を薄い紫檀色に染める。色彩はそれだけだ。靄をとおして大河に照りつける陽光のなかで、暑い陽光のなかで両岸は消え、河はまるで地平線とつながっているように見える。》

 

《だれがあの絶望の写真を撮ったか、わたしは知らない。ハノイの家の中庭での写真。もしかしたら父が最後に撮った一枚か。数か月後には父は健康上の理由でフランスに帰国させられるだろう。》

 

《映像は、手すりに倚る白人の娘に男が言葉をかけるよりまえに、男が黒塗りのリムジンから降りたときから始まる、男が娘に近づきはじめ、娘のほうでは男が怯じけづいていると気がついていたときから。》

 

《ときどき母は宣言する、明日、写真屋に行くわよ。値段が高いとこぼすが、それでもやっぱり家族の写真のために出費を惜しまない。写真、みんなはそれをしげしげと見る、たがいにしげしげと見ることはないが、写真はしげしげと見る、ひとりひとり別々に、註釈(コメント)などひとことも加えずに、それでもじっと見ている、自分たちの姿を見ているのだ。》

 

『愛人』は最初、「絶対の写真」(photo absolue)と名づけられていた。

 訳者清水徹の「解説――『愛人』とデュラスの世界」にもあるように、作品発表直部に受けた「ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌によるインタビューで、『愛人』のテクストは、はじめ「絶対の写真」(photo absolue)(または「絶対の映像」(L’image absolue))と名づけられて、デュラスの写真を集めたアルバムにつけるためのものだった、と発言していることはよく知られる。版元から依頼されたもので、本来は写真に対する註釈(コマンテール)となるはずだった、と。

 つづけて、『愛人』に変遷する経過についてデュラスは語る。

《「あの映像、写真には撮られることのなかった、絶対の写真が本の中に入ってきました。それは、渡し船による川の横断と関わるものだったのかもしれません。この中心的な映像は、おそらくもはや存在してはいない。あの渡し船と同じように、破壊されてしまったあの風景、そしてまた、あの国と同じように、私以外の誰も知ることのないものであり、私によってしか、私が死ぬことによってしかなくなることはありません。しかし、それは存在し、目にみえるままであり続けるのかもしれません。その存在、「網膜的な」永続は、そこに、本の中に、とどめられたままでいるのかもしれません。」》

 

<バルト『明るい部屋』>

《結局のところ――あるいは、極限においては――写真をよく見るためには、写真から顔を上げてしまうか、または目を閉じてしまうほうがよいのだ。《映像の前提条件となるのは、視覚である》と、ヤノーホがカフカに言うと、カフカは微笑してこう答えたという。《いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じる一つのやり方なのである》と。》

 

《ところで、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思いだせる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待してはいなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。いや、私は、ヴァレリーが母親の死に際して心から願ったように、《ただ自分だけのために、母を偲ぶささやかな本を書こう》と思ったのだ(印刷されることによって、母の思い出が、せめて私自身の名が知られているあいだだけでも消えずにいるように、おそらく私はいつかそうした本を書くだろう)。それにまた、私の手許にある母の写真は、どれも私の好きな写真であるとは言いがたかった。ただ、私がすでに公表した一枚の写真だけは別だった。そこには、ランド地方の砂浜を歩いている若い母が写っていて、私は母の歩き方や健康や明るさを《ふたたび見出す》――が、しかし顔は、遠すぎてはっきりしない。私は母の写真にじっと眺め入ることもなく、我を忘れて没入することもなかった。つぎつぎに手にとって見たが、どれも本当に《良い》写真であるとは思われなかった。写真としての出来ばえも良くないし、愛する母の顔を生き生きとよみがえらせてもいない。いつか友人たちに見せるような機会があっても、それらの写真が彼らに語りかけるかどうか疑問だった。》

 

「温室の写真」を見出す。

《かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を遡り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人をまねてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表していた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の実体をただちに、そして永久に形づくったところのものであるが、少女はそれを誰から受けついだわけでもなかった。かかる善意が、彼女をろくに愛しもしなかった不出来な両親、つまり要するに、ある家系から、どうして生ずることがありえよう? 彼女の善意はまぎれもなく例外だった。(中略)《正しい映像などはない、ただの映像があるだけだ》、とゴダールは言った。しかし私の悲しみにとっては、正しい映像、正当でかつ正確な映像が必要だった。ただの映像にすぎないとしても、正しい映像が必要だった。私にとっては、「温室の写真」がそれだった。

 ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意識的記憶によって、初めて、祖母の生き生きとした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真〔写真17〕を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのであるから)、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないであろう。そのようなことは割愛するが、しかしこの写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれている、ということは確かだった。この写真とは逆に、そうした属性の一部が欠けるかまたは変質すると、母のほかの写真のようになってしまって、私を満足させることができなかったのだ。そうした写真は、現象学で言うところの《任意の》対象であって、ただ類似しているにすぎず、ただ単に母の自己同一性を示すだけで、母の真実は示されないのだ。しかし「温室の写真」はと言えば、まさしく本質的な写真であった。私にとって、それは、唯一(・・)の(・)存在(・・)を(・)扱う(・・)ありえない(・・・・・)科学(・・)というユートピアを実現させてくれるのであった。》

 

《私はまたつぎのことも考察から省くわけにはいかなかった。すなわち、私は「時間」を遡ることによってその写真を発見した、ということである。ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前にあったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(私の友人たちに囲まれ、わが家の門の前に坐っている、いかにも疲れきった、いかのも気高い姿)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。私は目をこらして少女時代の、母の、母=少女の「最高善」の姿を見る。確かに、そのとき、私は母を二重に失おうとしていた。人生の最後の疲労につつまれた母と、最初の写真、私にとっては最後の写真に写っている母とを。しかしまた、まさにそのとき、すべてがひっくりかえり、私はついに、母のあるがままの姿(・・・・・・・)を見出したのである……》

 

 ところが「温室の写真」は掲載されない。排除される、空虚、欠如。読者にとって、存在させられない。「時間」の遡行。「時間」のめまい。

《その特別な写真のなかには、何か「写真」の本質のようなものが漂っていた。そこで私は、私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から。「写真」のすべて(その《本性》)を《引き出す》こと、その写真をいわば導き手として私の最後の探求をおこなうことに決めた。この世にある写真の全体は一つの「迷路」を形づくっていた。その「迷路」のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は。私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝物)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。これからは、快楽の頂点に立つのではなく、ロマン主義的に言えば愛や死と呼ばれるであろうものとの関連において、「写真」の明証を問わなければならない、ということを私は理解したのだった。

(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウム(筆者註:バルトによれば、《あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による》、《文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれている》、ラテン語のstudium。バルトは、対する第二の要素をプンクトゥム(punctum)と呼び、《ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである》。)をかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)》

 

《それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》、あるいは「手に負えないもの」である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》〔動詞intersum「~のあいだにある、相異する、居合わせる」の完了過去〕ということになろう(ラテン語を使えばさまざまなニュアンスが明らかになるのだから、これは必要なペダンティスムというものである)。つまり、いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者(・・・)または観客)とのあいだに広がるその場所に、そこに見出された。それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。Intersumという動詞には、まさにそうした意味がすべて含まれているのである。

 写真の日常的な氾濫と、写真が呼び起こしているように思われるさまざまな形の関心のため、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》というノエマは、抑圧されることはない(ノエマは抑圧されない)としても、わかりきった特徴として無関心に生きられるおそれがある。「温室の写真」は、まさにそうした無関心から私の目を覚まさせたところであった。》

 

《母のあの写真が黄ばみ、色あせ、うすれていって、いつの日にか私の手でごみ箱に捨てられるとき――といっても、私は迷信深いから、まさかそうはしないだろうが――、少なくとも私の死後に捨てられるとき、いったい何が失われてゆくのであろうか? 失われてゆくのはただ単に《生命》(それは生きていて。カメラの前でポーズをとった)だけではない。ときにはまた、何と呼んだらよいのか、愛が失われてゆくのである。父と母が互いに愛し合っていたことを私は知っているが、その二人が並んで写っている唯一の写真を見て私はこう思う。永久に失われてしまうのは、宝のような愛である、と。なにしろ私がいなくなれば、もはや誰もそれについて証言することはできないからである。》

 

《私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕(スティグマ)》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。(中略)

 少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と。私はウィニコット精神病者のように、すでに起こってしまっている破局(・・・・・・・・・・・・・・・)に戦慄する。被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである。(中略)そこでは「時間」の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでいる(・・・・・・・・・・・)、と、それはこれから死ぬ(・・・・・・・・・)、とが一つになっているのだ。》

 

 

 デュラスにとっても、バルトにとっても、「存在しない写真」とは、絶対の写真の欠如とは、「時間」の遡行、「時間」のめまいであり、その不可能性は、「時間」というプンクトゥム、《それは(・・・)=かつて(・・・)=あった(・・・)》という映像(イマージュ)の表象であった。

                                (了)

         *****引用または参考文献******

マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出書房新社

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(「対談 港千尋×塚本昌則 存在しない写真へのまなざし」他所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(青土社

マルグリット・デュラス/ミシェル・ポルトマルグリット・デュラスの世界』桝田かおり訳(青土社

*アラン・ヴィルコンドレ=文、ジャン・マスコロ=写真コレクション『デュラス[愛の生涯]』田中倫郎訳(河出書房新社

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪充訳(みすず書房

*芦川智一『『愛人』における「絶対の映像」について――写真をめぐるディスクールとしての『愛人』』(成城大学フランス語フランス文化研究会機関紙『AZUR』第1号)

*『現代詩手帖 ロラン・バルト 1985年12月臨時増刊』(多木浩二「パトス/現実(レエル)/想像的(イマジネール)なもの 『明るい部屋』を読む」、他所収)(思潮社

青弓社編集部編『『明るい部屋』の秘密 ロラン・バルトと写真の彼方へ』(滝沢明子「ロラン・バルト『明るい部屋』考察――写真の時間と狂気」、松木健太郎「言語と写真――ロラン・バルトの『明るい部屋』における時間遡行の意義」、他所収)(青弓社