ナボコフ自身もっともお気に入りの短篇小説だという『フィアルタの春』は、ロシア語で書かれた(1936)(のちに自ら英訳(1956))最後の小説だが、比較的初期の作品ながら、すでにナボコフ作品の特徴、秘密の種をほぼすべて持ち合わせている。 ナボ…
丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(以下、『後鳥羽院』と略)は「歌人としての後鳥羽院」「へにける年」「宮廷文化と政治と文学」からなる。第二版で、「しぐれの雲」「隠岐を夢みる」「王朝和歌とモダニズム」の三篇を追加した。 開巻第一の「歌人とし…
詩人吉岡実に、舞踏家土方巽についての『土方巽頌――<日記>と<引用>による』という書物がある。その「補足的で断章的な後書」によれば、 《「土方巽とは何者?」誰もがそう思っているにちがいない。この人物と二十年の交流があるものの、私には「一個の天…
まず、皮膚、表皮、表層に関わる種々言説を反芻してから、大江健三郎の初期小説における皮膚的な表層/深層について読み直し(リリーディング)してゆこう。 《…おお、このギリシア人! 彼らは、生きるすべをよくわきまえていた。そのためには、思いきって表…
スラヴォイ・ジジェクは柄谷行人『トランスクリティーク ――カントとマルクス』におけるパララックスな読解に影響され、これまで書いてきた事柄を再編成して『パララックス・ヴュー』を上梓した。 その柄谷は『パララックス・ヴュー』の書評(朝⽇新聞掲載:2…
映画『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督の卒論は「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」であり、学生時代にレイ・カーニー編『ジョン・カサヴェテスは語る』を読みこんだと述懐している。『ジョン・カサヴェテスは語る』はカサヴェテスが自作について、…
(井上ひさし作成「海坂藩城下図」) 藤沢周平『蟬しぐれ』の文庫本(新装版)解説で、湯川豊は稀に見る「青春小説」と讃えている。 《丸谷才一は『闊歩する漱石』中の一章「三四郎と東京と富士山」で、この小説を、始め、半ば、終りの三部に分けた上で、始…
谷崎潤一郎は回想録『幼少時代』で、「団十郎、五代目菊五郎、七世団蔵、その他の思い出」という章を設けて歌舞伎経験を語っているが、そのハイライトは明治二十九年に観劇した『義経(よしつね)千本(せんぼん)桜(ざくら)』にまつわる、谷崎文学の根幹ともい…
もしかしたら、リヒャルト・シュトラウスとオペラ『ばらの騎士』のことを、音楽愛好者以外の人は、村上春樹『騎士団長殺し』で初めて知ったのではないだろうか(そのうえ、かなりの人はシュトラウスと聞いて、ウィンナ・ワルツ作曲家のヨハン・シュトラウス…
ヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ “LA TRAVIATA”(「道を踏み外した女」)』(日本では原作小説『椿姫(原題”LA DAME AUX CAMELIAS”(椿を持つ女)』がオペラでも通称され『椿姫』)を観賞するとき、理解しようとして理解しきれない私と、こんなメロ…
<ジェイムズ・ジョイス> 川上未映子はジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』についてたびたび語っている。 《ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は私の中で定点的な作品として存在していて。あれって一晩の話じゃない? 一晩で見た長いんだか…
フランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とマルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』に、プルーストの末裔としての、匂いとイメージの照応をみる。イメージは匂いに誘われたかのように薄暗がりから引き出される。 <プルースト『失わ…
《読むということから、書くということが生まれる。私はしつこくそれを言い続けている。》 水村美苗は『日本語で書くということ』の「あとがき」で、そう宣言している。「読むということ」から「書くということ」への連なり、転移、そしてまた「書くというこ…
片岡仁左衛門の清玄/権助二役と坂東玉三郎の白菊丸/桜姫二役の配役による鶴屋南北『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』が、人気コンビとして三十六年ぶりに、二〇二一年四月「上の巻」、六月「下の巻」に分れて歌舞伎座で上演され、観劇した人から…
『オセロー』から『オテロ』へ、脱落するもの、それは穢れ(アブジェクト)である。かわって強化されたもの、それはロマンティシズムである。穢れ、おぞましさは、忌避/浄化される。 作曲家ヴェルディと台本(リブレット)作者ボーイトの共作によるオペラ『…
・多和田葉子はカフカ(1883~1924年)、ベンヤミン(1892~1940年)、ツェラン(1920~1970年)を尊敬し、さまざまな刺激を受けている。 ユダヤ系のドイツ語作家である三人は、それぞれチェコのプラハ、ドイツのベルリン、旧ルーマ…
2011年4月、ウィーン国立歌劇場初演となるドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』は、各国に生中継された。ソプラノ、アンナ・ネトレプコにとってタイトル・ロールのデビューであり、メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ演じる侍女ジョヴァン…
《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》 こう主張するナボコフ『ロシア文学講義』の『アンナ・カレーニナ』論(ナボコフは、「アンナ・カレーニナ…
吉田修一『悪人』に、ドストエフスキー『罪と罰』の殺人場面の象徴である斜めからの夕日の光を照らす。と、そこには車のライトに照らし出された峠の絞殺と、パトカーの赤いライトに照らし出された灯台の未遂現場しかない。 両者の差異を見ることで、『悪人』…
三島由紀夫『女方』(昭和22年、1957年)と吉田修一『国宝』(平成30年、2018年)は歌舞伎の世界を描いた小説で、前者は短篇、後者は長編であり、どちらにも主役、脇役の違いこそあれ、名女形の「万菊(まんぎく)」が登場する。前者の万菊の芸名…
・ミュージカル『エヴィータ』の人気に、実在のエヴィータ(エバ)のカリスマ性、神話性が寄与していることは否めないだろう。丸谷才一はエッセイ『私怨の晴らし方』で、『まねごと』におけるボルヘスの完璧な私怨の晴らし方を紹介してから、比較して鷗外『…
<舟橋聖一『堀江まきの破壊』> 《追ひ追ひに、ものが復興してくる中に、却て、昔より一歩乃至(ないし)数歩をすゝめたと思はれるものもあれば、どうしても、昔のものに及び難い、どこかで、今一つ、気が足りないといふものもある。これは、作る側で、工夫が…
<徳田秋声『戦時風景』> 《或る印刷工場迹の千何百坪かの赭土の原ツぱ――長いあひだ重い印刷機やモオタアの下敷になつていたお蔭で、一茎の草だも生えてゐない其のぼかぼかした赭い粉土(こなつち)は、昼間は南の風に煽られ、濠々と一丈ばかりも舞ひあがつて…
『花柳小説名作選』(丸谷才一選。以下『名作選』と略す)から永井荷風『あぢさゐ』、徳田秋声『戦時風景』、舟橋聖一『堀江まきの破壊』の三作品を読む。 荷風は別格として、徳田秋声、舟橋聖一の二人はかつて大家でありながら今ではほとんど忘れられている…
加賀乙彦の「『フランドルの冬』 新しいあとがき」は次のようにはじまる。 《長編小説『フランドルの冬』は私の処女作である。一九六七年八月筑摩書房から出版された。翌六八年四月芸術選奨文部大臣新人賞を受賞した。一九七四年に文庫化され、その後十年ほ…
群 シェイクスピア『マクベス』は「二枚舌」の観点から読み解くことが出来る(残念ながら、ヴェルディによるオペラ『マクベス』には「二枚舌」の台詞で有名な「門番」の場面はないが、「二枚舌」はなにも門番の場面ばかりではなく、意味的には、「魔女」の言…
』ーと はじめに、水村美苗『本格小説』の「ルチア」を紹介したい。 軽井沢でのハイ・ティーの晩に照り渡る月の光を白い服に集めて、マリア・カラスの好きな春絵に嫌みを言われながら、よう子は歌を歌ったことがあった。それは「桜の園」の章で、雅之の父雅…
一九〇〇年にプッチーニのオペラ『トスカ Tosca』がローマで初演されるや、ワーグナー崇拝が濃い北ヨーロッパの評論家、音楽家たちはこぞって批難した。グスタフ・マーラーの「巨匠の駄作」、リヒャルト・シュトラウスの「たちの悪い札つきの低俗作品」、ユ…
「文楽の男の手」 文楽の男の手を知っていますか。 五月の東京三宅坂、国立劇場でのことです。若草色の市松単衣を着た私は楽屋を横目で見ながら狭い廊下を進みました。先を歩いていた知人の人形遣いは、女の人形をひょいと手に取るとすたすたと舞台袖に向か…
里見弴の花柳小説を丸谷才一と読む ――『いろをとこ』『河豚』『妻を買う経験』 『丸谷才一編・花柳小説傑作選』(以下、『傑作選』)(講談社文芸文庫、平成二十五年=二〇一三年)は、編者丸谷才一の急逝によって生前の出版を見なかった。同じく丸谷による…