オペラ批評 ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』――「沈黙」と「愛死」に関する引用ノート

誰しもワーグナー『トリスタンとイゾルデ』を論じるとなれば、ニーチェの『この人を見よ』の《あれこれ考え合わせてみると、私はヴァーグナーの音楽がなかったら、私の青年期を持ちこたえることが出来なかったと思う。(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチの示…

文学批評 丸谷才一『輝く日の宮』の『源氏物語』成立史(引用ノート)

丸谷才一『輝く日の宮』で、熱海から東海道線に乗った国文学の専任講師杉安佐子は、バッグからノートを出して読むこととした。自分の考えている『源氏物語』成立史をおさらいしてみよう、光源氏と藤壺との最初の関係を書いた幻の第二巻「輝く日の宮」の喪失…

文学批評 江國香織『去年の雪』は何処  ――スケッチ・サイクル・群像/エピファニー・不穏/断片・モザイク/物語・時間

江國香織『去年の雪』の123の話、断片(断章、スケッチ)は短いもので半ページ、長くとも数ページからなり、ひとひらひとひらはさらさらと舞い散る淡雪か細雪のようであり、湿って結び合うぼたん雪のようでもあり、あるいは知らぬ間に溶けて消えるかと思…

文学批評 折口信夫の『源氏物語 若菜』――「反省の書」 (引用ノート)

小林秀雄『本居宣長』は、小林が折口信夫の大森の家を初めて訪問し、『古事記』について尋ねての帰途、駅まで送ってきた折口が、《お別れしようとしたとき、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」と言われた》というエピ…

文学批評 漱石『こころ』のアポリア (ノート)

夏目漱石『こころ』は、1960年頃からほとんどの高校教科書の教材として国民的に読まれることになった。多くは高校2年の国語教科書で、「全体構成+あらすじ+(下)35~48節+その後のあらすじ」の構成からなる。「学習の手引き」によって、教師か…

文学批評/映画批評  マン/マーラー/ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』 

「ルキノ・ヴィスコンティとの対話」(『ヴィスコンティ秀作集1 ベニスに死す』に所収。この本ではトーマス・マンの原作小説”Der Tod in Venedig”を『ヴェニスに死す』、ヴィスコンティの監督映画”Morte a Venezia”を『ベニスに死す』と訳名を表記分けして…

文学批評 折口信夫『恋の座』について ――越人「うらやまし おもひ切時 猫の恋」と芭蕉「きぬ/\゛や あまりかぼそく あてやかに」

折口信夫は歌(和歌、短歌)について、『古代研究』、『国文学の発生』、『口訳万葉集』、『日本文学の発生 序説』などの「学術的」論考や同時代批評を残しており、約四十巻に及ぶ『折口信夫全集』は歌・文学(釈迢空名での歌集『海山のあひだ』、『倭をぐな…

文学批評 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』とプラトン/カフカ

ケント大学で英文学と哲学を専攻したカズオ・イシグロは「カズオ・イシグロ・インタビュー ~The Art of Fiction 第196回」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)で、 「『わたしを離さないで』にも中止した幾つかのバージョンがあると聞いています」と…

文学批評/演劇批評 泉鏡花『日本橋』の「紅と浅黄の段染麻の葉鹿の子の長襦袢」

「(同じく妻。)だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告(なの)つて、一所に詣る西河岸の、お地蔵様が縁結び。……これで出来なきや、世界は暗夜(やみ)だわ。」 という稲葉家お考(こう)…

文学批評/オペラ批評  シラー/ヴェルディの『ドン・カルロス』について

<フリードリヒ・シラー> フリードリヒ・シラーのことは、世界史の教科書で、ゲーテと共に「シュトルム・ウント・ドランク Sturm und Drang」(18世紀後半、啓蒙主義、理性に反発し、感情の優越を唱えてロマン主義へつながる)時代の人物と教えられたくら…

文学批評 ナボコフ『フィアルタの春』を読む――細部と記憶の螺旋

ナボコフ自身もっともお気に入りの短篇小説だという『フィアルタの春』は、ロシア語で書かれた(1936)(のちに自ら英訳(1956))最後の小説だが、比較的初期の作品ながら、すでにナボコフ作品の特徴、秘密の種をほぼすべて持ち合わせている。 ナボ…

文学批評 丸谷才一『後鳥羽院』(ノート) ――「しかし」で転回/多層化する後鳥羽院和歌

丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(以下、『後鳥羽院』と略)は「歌人としての後鳥羽院」「へにける年」「宮廷文化と政治と文学」からなる。第二版で、「しぐれの雲」「隠岐を夢みる」「王朝和歌とモダニズム」の三篇を追加した。 開巻第一の「歌人とし…

文学批評 吉岡実、禁欲と侵犯の窃視者

詩人吉岡実に、舞踏家土方巽についての『土方巽頌――<日記>と<引用>による』という書物がある。その「補足的で断章的な後書」によれば、 《「土方巽とは何者?」誰もがそう思っているにちがいない。この人物と二十年の交流があるものの、私には「一個の天…

文学批評 大江健三郎初期小説の皮膚的な表層/深層(引用ノート)

まず、皮膚、表皮、表層に関わる種々言説を反芻してから、大江健三郎の初期小説における皮膚的な表層/深層について読み直し(リリーディング)してゆこう。 《…おお、このギリシア人! 彼らは、生きるすべをよくわきまえていた。そのためには、思いきって表…

美術批評 ゲルハルト・リヒター論(ノート) ――痕跡と灰/移動と転回

スラヴォイ・ジジェクは柄谷行人『トランスクリティーク ――カントとマルクス』におけるパララックスな読解に影響され、これまで書いてきた事柄を再編成して『パララックス・ヴュー』を上梓した。 その柄谷は『パララックス・ヴュー』の書評(朝⽇新聞掲載:2…

映画批評 濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』のエモーションを感じとるために(ノート)

映画『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督の卒論は「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」であり、学生時代にレイ・カーニー編『ジョン・カサヴェテスは語る』を読みこんだと述懐している。『ジョン・カサヴェテスは語る』はカサヴェテスが自作について、…

文学批評 不可能な「恋愛小説」として藤沢周平『蟬しぐれ』を読む

(井上ひさし作成「海坂藩城下図」) 藤沢周平『蟬しぐれ』の文庫本(新装版)解説で、湯川豊は稀に見る「青春小説」と讃えている。 《丸谷才一は『闊歩する漱石』中の一章「三四郎と東京と富士山」で、この小説を、始め、半ば、終りの三部に分けた上で、始…

演劇批評 『義経千本桜』の<象徴界>と<大文字の他者>

谷崎潤一郎は回想録『幼少時代』で、「団十郎、五代目菊五郎、七世団蔵、その他の思い出」という章を設けて歌舞伎経験を語っているが、そのハイライトは明治二十九年に観劇した『義経(よしつね)千本(せんぼん)桜(ざくら)』にまつわる、谷崎文学の根幹ともい…

オペラ批評/文学批評 R・シュトラウス『ばらの騎士』のホーフマンスタールの織糸(ノート)   ――夢見ることと認識すること/官能的なものと精神的なもの

もしかしたら、リヒャルト・シュトラウスとオペラ『ばらの騎士』のことを、音楽愛好者以外の人は、村上春樹『騎士団長殺し』で初めて知ったのではないだろうか(そのうえ、かなりの人はシュトラウスと聞いて、ウィンナ・ワルツ作曲家のヨハン・シュトラウス…

オペラ批評/文学批評 ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』とプルースト『スワンの恋』

ヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ “LA TRAVIATA”(「道を踏み外した女」)』(日本では原作小説『椿姫(原題”LA DAME AUX CAMELIAS”(椿を持つ女)』がオペラでも通称され『椿姫』)を観賞するとき、理解しようとして理解しきれない私と、こんなメロ…

文学批評 川上未映子『夏物語』を斜めから読む(ノート) ――「カントとニーチェのあいだ」をジョイスのように

<ジェイムズ・ジョイス> 川上未映子はジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』についてたびたび語っている。 《ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は私の中で定点的な作品として存在していて。あれって一晩の話じゃない? 一晩で見た長いんだか…

文学批評 モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とデュラス『モデラート・カンタービレ』

フランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケイルゥ』とマルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』に、プルーストの末裔としての、匂いとイメージの照応をみる。イメージは匂いに誘われたかのように薄暗がりから引き出される。 <プルースト『失わ…

文学批評 水村美苗『続明暗』から夏目漱石『明暗』へ(資料ノート)

《読むということから、書くということが生まれる。私はしつこくそれを言い続けている。》 水村美苗は『日本語で書くということ』の「あとがき」で、そう宣言している。「読むということ」から「書くということ」への連なり、転移、そしてまた「書くというこ…

演劇批評 南北『桜姫東文章』を巡って ――「「桜姫」の神話」と「理性の不安」

片岡仁左衛門の清玄/権助二役と坂東玉三郎の白菊丸/桜姫二役の配役による鶴屋南北『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』が、人気コンビとして三十六年ぶりに、二〇二一年四月「上の巻」、六月「下の巻」に分れて歌舞伎座で上演され、観劇した人から…

文学批評/オペラ批評 シェイクスピア『オセロー』からヴェルディ『オテロ」へ――穢れ(アブジェクト)の忌避/浄化

『オセロー』から『オテロ』へ、脱落するもの、それは穢れ(アブジェクト)である。かわって強化されたもの、それはロマンティシズムである。穢れ、おぞましさは、忌避/浄化される。 作曲家ヴェルディと台本(リブレット)作者ボーイトの共作によるオペラ『…

文学批評 多和田葉子とカフカ/ベンヤミン/ツェラン ――多和田『百年の散歩』を読むための引用モザイク

・多和田葉子はカフカ(1883~1924年)、ベンヤミン(1892~1940年)、ツェラン(1920~1970年)を尊敬し、さまざまな刺激を受けている。 ユダヤ系のドイツ語作家である三人は、それぞれチェコのプラハ、ドイツのベルリン、旧ルーマ…

オペラ批評 ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』とホルバイン『大使たち』――「切れた絃」と「歪んだ髑髏」

2011年4月、ウィーン国立歌劇場初演となるドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』は、各国に生中継された。ソプラノ、アンナ・ネトレプコにとってタイトル・ロールのデビューであり、メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ演じる侍女ジョヴァン…

文学批評 ナボコフと『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見る

《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》 こう主張するナボコフ『ロシア文学講義』の『アンナ・カレーニナ』論(ナボコフは、「アンナ・カレーニナ…

文学批評 吉田修一『悪人』論 ――ドストエフスキー『罪と罰』から欠落したもの

吉田修一『悪人』に、ドストエフスキー『罪と罰』の殺人場面の象徴である斜めからの夕日の光を照らす。と、そこには車のライトに照らし出された峠の絞殺と、パトカーの赤いライトに照らし出された灯台の未遂現場しかない。 両者の差異を見ることで、『悪人』…

文学批評 二人の万菊 ――吉田修一『国宝』と三島由紀夫『女方』

三島由紀夫『女方』(昭和22年、1957年)と吉田修一『国宝』(平成30年、2018年)は歌舞伎の世界を描いた小説で、前者は短篇、後者は長編であり、どちらにも主役、脇役の違いこそあれ、名女形の「万菊(まんぎく)」が登場する。前者の万菊の芸名…