文学批評/映画批評  マン/マーラー/ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』 

 

 

 

ルキノ・ヴィスコンティとの対話」(『ヴィスコンティ秀作集1 ベニスに死す』に所収。この本ではトーマス・マンの原作小説”Der Tod in Venedig”を『ヴェニスに死す』、ヴィスコンティの監督映画”Morte a Venezia”を『ベニスに死す』と訳名を表記分けしているが、この論考では映画も『ヴェニスに死す』と一本化する)におけるヴィスコンティの発言を主軸に、「筆者註」として、トーマス・マン(1875~1955年)の『ヴェニスに死す』(1912年)、『ファウストゥス博士』(1947年)、「『ファウストゥス博士』の成立」(1955年)、『非政治的人間の考察』(1918年)やテオドール・W・アドルノマーラー 音楽観相学』(1960年)、グスターフ・マーラー(1860~1911年)の『交響曲第五番』(1901~02年)などから引用、補填することで、ヴィスコンティ(1906~1976年)の『ヴェニスに死す』(1971年)を多層的に理解したい。

 というのも、映画『ヴェニスに死す』に関するいくつかの解説、言説を読んでみれば、ほとんどすべて、ヴィスコンティがこの対話で誠実に(と私には思われる)語ったことの焼き直しにすぎないからで、それならばいっそ源泉を引用符のヴェールで覆うことなく、ヴィスコンティ自身の言説をそのまま書き写せば奇妙な脚色も過不足もないからである。

 

 対話のインタビュアーの名前記載がないのだが、かなりヴィスコンティと親しく、忌憚なく意見できる(が断定的な見解をぶつけ、結果としてヴィスコンティの反発、本心を引きだしている)映画批評家であったらしいことは感じ取れる。ここでは、インタビュアーの質問そのものは、ヴィスコンティの回答発言が分かりにくい場合に補う程度の引用とする。

 

<何故『ヴェニスに死す』なのか>

――まず第一に、『ヴェニスに死す』でマンが言おうとしていることは、今日ではのり越えられてしまったのか、という意味では「古くなった」とは私には思えません。(中略)

 審美的願望を抱く芸術家と実人生の間、また、はっきりと歴史の上に立っている芸術家の存在とブルジョワ的な《史的》状況に身を置いていることの間に横たわる矛盾、というようなテーマに私はいつも惹きつけられましてね。(中略)

 こういう事だったのです、つまり、老境に達した一芸術家の芸術と生活の葛藤というテーマに取り組むには、以前よりはずっと適切で、それを必要としているような精神状態があるように思われましてね。そういうわけで、『地獄に落ちた勇者ども』(筆者註:1969年)のすぐあとで、私はいく人かのイタリアの製作者に企画を提案したのですが、すべての製作者が企画を理解せず、ばかげていて危険だという考えでした。

 私に最も好意的な意見は、タッジオを美しい少女に変えたらどうかというものでした。しかし私は頑固に、マリオ・ガッロ(筆者註)制作者)の頑固さに私の頑固さを結びつけて、二人してイタリアで拒絶された映画を作る可能性を、外に求めたわけです(筆者註:ハリウッドのワーナー・ブラザーズの資本で完成することとなった)。

 

<グスターフ・フォン・アシェンバッハ>

――あなたは少し考えすぎているようです(筆者註:『地獄に落ちた勇者ども』でナチズムのイデオロギーと真理を人格化している登場人物の名はアシェンバッハであり、プロシャのフリードリッヒについての著作を持つ『ヴァニスに死す』の作家グスターフ・フォン・アシェンバッハもまたナチズムの背後にある階級の文化、一種の特殊な文化に帰属する、と指摘されて)。疑いもなく、あなたが例としてあげている事実は存在しているし、唯名論的一致も存在します。私の作品に頻繁に起こっているそうしたことは、多分、直観的なことであって、決して計画的なものではありません。

 マーラーという名の『夏の嵐』(筆者註:1954年)のフランツを考えてみてください。ハイネの文化で陶冶(とうや)されたオーストリアの小貴族を、フランツで私が作り出したかったことを考えてみてください。つまり、その姓名で彼はボヘミヤンになったわけです。こういうことが偶然から生まれたと言いたくありません。私たちは一つの新しい作品を前にして、私たちの過去から切り離され、隔絶されて生きているわけではありません。あらゆる作品の中には、はっきりと全ての過去の遺産と部分的ではあるが、未来の先取りもあります。

 私は『夏の嵐』のフランツに与えた名前のマーラーという謎について言いましたね。しかし、『夏の嵐』ではブルックナーの音楽を使いました(筆者註:交響曲第七番のアダージョ)が、彼はマーラーの師でした。だから、もうおわかりでしょう。マーラーとの特殊な関連は、孤立したものでも偶然でもなかったわけです。

 

<パロディー的な調子>

――マンの言葉遣い、マンというドイツ人は、例えば意図的と言える程「学者的」であり、表現としてはブルジョワ的に洗練されていますが、時折、大げさになりますね。しかし、この極めて文学的な表現というものをどうやって映像の中で再生させるか? そこで私は作家のああいうタイプのパロディー風の風刺を私の映画では抜き出してしまって、小説の中ではパイドロス(筆者註:小説でアシェンバッハはタッジオを観察して、ソクラテスパイドロスの対話の「美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ」を思い起こすが、映画ではシーン22で作中人物アルフリートの台詞として、「いや、グスタフ…美は感覚に属す…感覚だけに!」と発言させる)についての独白として典型的に文学的表現部分で出される、「教養的」かつ「知的」雰囲気をとりもどす役割を二人の音楽家の対話に与えてみた、というわけなんです。さらに、私はこの役割を特に視覚的方法にも持ちこみました。たとえば、音楽家が化粧する全場面にはパロディー的な色調を出しました(筆者註:ヴェニスへ渡る船の甲板でのシーン7で、グロテスクな化粧をした老人が未来のアシェンバッハの姿を暗示し、ろれつ(・・・)の回らぬ舌で「可愛い愛しいお方によろしくお伝えください…」とタッジオの出現を預言する)。(それは小説のその場面にはなかったものです。)つまり、主人公が一種の操り人形、でくの坊のように見えるからです。

 同じように、ヴェニスでの最後の散策の場面で、彼が井戸の傍でくずおれるように倒れる時、操り人形の糸をゆるめた時に起こるようなものにして、堪えがたい哄笑を作り出しましたが、それは少々、彼自身についての風刺的で堪えがたい哄笑でもあるんです。(中略)アシェンバッハは単に泣いたり、態度に出したり、つまり苦しむだけであったわけでなく、自己をあわれまなければならなかった。つまり自己の状況というものを意識していたということに私は苦心をはらいました。

 

<グスターフ・マーラー

――映画では文学者よりも音楽家のほうが「表現しやすい」ということです。つまり音楽家ならば、つねに音楽を聞かせることができるが、文学者だと、「オフ」の声のようにあまり表現に富むとは言えない耳ざわりな手段に訴えざるを得ないわけですからね。もしこれがアシェンバッハを文学者から音楽家に変えた理由の第一番のものであるならば、音楽家グスターフ・マーラーの歴史的具体像がどのようにマンの小説のインスピレーションに流入したかを明らかにしている、原作についての二、三の資料や解説からもたらされる示唆が、決定的重みをしめたとも言っておかねばなりません。

 父の書簡集の序文でそれをはっきりと言っているエリカ(筆者註:トーマス・マンの長女、エリカ・マン)は別にしましても、作者とはそのことについて前もって全く交渉はなかったんですが、アシェンバッハにマーラーの容貌をあてて小説の挿絵をかなり描いていた、画家のヴォルフガング・ボルンにあてた一九二一年の手紙で、マン自身それをはっきり言っているんですよ。いずれにしましても、マーラーとのマンの出会いはほんの短いもので、その後のエピソードはありませんが、作家マンに深い印象を残しています。

 たとえば、その出会いの直後に音楽家マーラーにあてた書状で、彼は「われわれの時代の最も神聖で峻厳な芸術的意思を体現している」人物と規定しています。またマンのことですが、彼が心の中でブリオーニで『ヴェニスに死す』の執筆にとりかかろうとしていた時、音楽家マーラーの重病に関する容態の報がとどき、つづいて彼の死という報が入ったわけですが、それは非常に深く印象に残ったと言っています。ですから。アシェンバッハという名はグスターフ、まさにマーラーの名前であるという事実を偶然なものとしては、絶対に考えることはできません(筆者註:シーン16/aで、聴診器を当てられた苦しそうなアシェンバッハは医者に「自分の心臓を誇らしく思うような理由はまったくない」「休暇が必要だ…長期間の完全な休息が」と言われ、シーン22では、アシェンバッハがアルフリートに、「時々、芸術家は闇におおわれた狩人のようだと思うことがある…獲物を射止めたのか…獲物が何だったのかさえ分からない。と言って、われわれは人生に獲物を照らし出してもらったり、狙いを定めてもらったりすることは期待できないのだ…」と語るが、これらは妻アルマ・マーラーの回想記から来ているだろう)。

 

マーラー第五交響曲の「アダージェット」>

――初めは、多くの考えや仮説というものをたくさん持っていたし、マーラーのたくさんの「楽曲」もいく度となく調べたりしました。というよりもむしろ、ほかの部分をすでに準備していて、どんなふうに作用するのか確かめるために視覚的な面についてのテスト・モンタージュの時に用意していたんです。

 さて、その日なんですが、第五交響曲の「アダージェット」をためしたところ、イメージ、動き、調子、内的リズムと一致していて、あたかも「あらかじめ」用意されてでもあったかのように、完全にぴったりと合うことがすぐにはっきりしたんです。第十交響曲の第一楽章にも、あなたが記憶しているようにある点ではうまくいったかも知れませんが、第五交響曲の「アダージェット」のほうがうまくいってますね。同じようなことは、撮影前から私の頭の中にあった「亡き子を偲ぶ歌」についても言えます。視覚的な面には合いませんでした。いずれにしても、第三交響曲の第四楽章の選択は次のように歌われている、ニーチェの非常に美しい詩句(筆者註:フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)の『ツァラトゥストラはかく語りき』の第三部「後の舞踊の歌」および第四部「酔歌」の「おお、人間よ!」で、『ヴェニスに死す』のライト・モチーフとも言える)によって決定されたんです。

  おお、人間よ! おお、人間よ!

    注意深く聞け!

  深淵なる夜は何を言っているのか。

    私は眠っていたのだ。眠っていたのだ。

  深い夢から私は目覚めたのだ。

 意味の深い詩句です。それは映画のあの諸場面の集まりからなる精神に完全に入りこみますね。

(筆者註:トーマス・マンが『『ファウストゥス博士』の成立』で書いているように、マンは《アドルノの音楽論考には実際何か「重要なもの」があった。私は極めて大きな進歩と精緻さと深さを兼ね備えた芸術的=社会学的な状況批評を見出したのだが、それは、私の作品の理念、すなわち、そのなかで私が夢中になって生きていた「作曲」に対していかにも独特な親和力を持つものであった》とばかりにインスパイア―され、《十二音階または音列の音楽様式というシェーンベルクの着想をアードリアーン・レーヴァーキューンのものにした》ことで『ファウストゥス博士』を書きあげ、かつアドルノ夫妻に原稿を読んでもらって意見を聞いている。

 そのアドルノは『マーラー 音楽観相学』でアダージェットに関して次のように論じている。《たとえば第五交響曲のアダージェットのアプゲザングの形態がある。この性格を作っているのは、始まりの部分が長く広がるということ、すなわち時間の経過を一時止めて音楽を回顧へともたらす、一種のためらいの身振りである。この種の終結型にとって本質的な要素は、マーラーが非常に好んだ下降する二度の動きである。この動きは下降する声の響きを聞き取ってまねたもので、言葉の末尾を落とす話し手のようにメランコリックである。両者の間で意味のずれを生ずることなく、言葉の身振りが音楽へと移される。当然、二度の下降形のようにありふれたものは、身振りという点から見れば、強調されたものとしてのみ、その役を果たす。このアダージェットにはすでに二度の下降はたくさんあるのだが、この後楽節部分においてのみ、広がりによってそれは特殊なものとなっている。マーラーの音楽には、全体として下降する旋律の傾向がある。従順にも音楽言語の重力による傾斜に順応しているのだ。しかしマーラーは、この重力を明確にわがものとすることにより、通常の音の連関の中では欠けていた表情豊かな彩りをそこに生じさせる。》というが、この「下降する」感覚こそ、『ヴェニスに死す』の精神の海面で妖しく揺蕩するのであり、また《アダージェット[第五交響曲第四楽章]においては、美をいつくしむ感傷性(クリナーリツシユ)へと近づいている》、《第五交響曲のアダージェットは一つの曲として全体の中での重要な構想にもかかわらず、その甘い響きによりほとんど風俗画風のものとなっている》は『ヴェニスに死す』の本質を音楽の言葉で表現している。)

 

ムソルグスキーの「子守歌」>

――あれも計画された計画されていたものではなくて、偶然生まれたものです。アシェンバッハの死ぬ少し前に、浜辺は初めの雑踏に続いてほとんど人が誰もいなくなり、ロシア人だけ、つまり、恐れを知らず、外交的で、おしゃべりな人たちだけが残ることを予定していました。

 その場面を撮影する段になって、「音楽」には元宮廷歌手で非常にすぐれたマーシャ・プレディットが居ることが私の頭に浮かんだわけです。そこで、彼女に何かロシアのものを歌ってくれるように頼んだのです。すると、ちょっと驚いたようでした。つまり楽譜を持っていなかったから、そらで歌わなければならなくなり、それについて丸一日考えてくれてから、ムソルグスキーのあの挽歌(筆者註:ムソルグスキーの友人、詩人ゴレニシチェフ・クトゥーゾフの詩からなり、病いの幼児のところにやってきた「死」が子守歌を歌い、母親の抵抗むなしく幼児の命を奪ってしまう)を歌ったというわけです。彼女が歌っている間中、スタッフ全員はびっくりしていましたが、みな感動していました。あの抒情的な楽章は、アシェンバッハの死に、まさに必要な適切な音楽的序曲ではないかということをすぐに思いました。

(筆者註:このようなBGM的ななにげない音楽としては、シーン19のホテルのホールで、アシェンバッハがくつろいで新聞を読みながらポーランド貴族一家の中にタッジオの完璧な美しさを見初める場面において、ホテル専属の楽団が演奏するフランツ・レハールオペレッタメリー・ウィドウ』からの「唇は語らずとも」がある。アルマ・マーラーの回想記には、結婚してからの五年間、私たち夫婦は楽しいパーティーにも、マーラーが指揮するオペラ以外は劇場にも行かなかったが、ただ一回例外があって、『メリー・ウィドウ』を見に行き、楽しかったので、家に帰ってから二人で踊り、ワルツを記憶で弾いた、とある。)

 

トーマス・マンファウストゥス博士』>

――それを私は望んだのです(筆者註:タッジオと売春宿の娘エスメラルダ(映画では、ヴェニスに向う汽船の舷側に「エスメラルダ号」(Esmeralda)の文字が見てとれる)が「エリーゼのために」を弾くことで、タッジオをちょっと売春婦にし、売春婦を少しばかりタッジオにしたわけですか、と問われて)。「頽廃」や官能的誘惑の要素と幼児にある清純の要素を一つにし、同時に二つに分けることを実際私は気にかけていました。いずれにしても、売春宿の娘は、タッジオが少女のような清純な顔つきをしているのでタッジオを少し想起させます。その挿話は、それを読んだことのある人にとっては少くとも『ファウストゥス博士』、もっと正確にはニーチェの伝記を暗示させるものを『ファウストゥス』が含んでいたことを、思い出させます(筆者註:シーン23で、アシェンバッハはアルフリートから悪魔の誘惑的芸術論議で挑発されて激論となる。アルフリート「叡智? 尊厳? それが何の役に立つ? 天才は天賦の…いや! 天賦の苦悩だ! 天来の才能の罪深く病的な閃きだ!」/アシェンバッハ「芸術のデモーニッシュな力は認めん」/アルフリート「それは間違いだ。邪悪は必要だ。邪悪は天才の糧だ!」/アシェンバッハ「芸術は教養の最高の源泉だ!…芸術家は模範的でなければならない。…調和と唯一義の模範でなければ!」/アルフリート「唯一義だって?…しかし、芸術は多義的なものじゃないか、いつだって。ましてや音楽は最も曖昧な芸術だ。曖昧さこそ体系を築くのだ」……。ここで、アルフリートの「天賦」云々の台詞は、『ファウストゥス博士』の《美の観点からは、とインスティトーリスは言った、賞賛すべきものは意志ではなくて、天賦の才能なのです、そしてこの才能だけが功績と呼びうるのです。努力とは賤民的なもので、高貴なのは、そしてそれゆえに功績でもあるものは、ただ、本能的に、無意識のうちに、軽々と生起するものだけなのです》に相当し、「多義的なもの」云々は、音楽修業時代のアードリアーン・レーヴァーキューンが友人ツァイトブロームに《「ぼくが発見したことを知ってるかい?」と彼は聞いた。「音楽は体系(システム)としては曖昧だということだよ。――この音、あるいはこの音を例にとってみたまえ。君はこれをこう解することも出来るし、あるいはまたこう解することも出来る。下から上げられたものと理解してもいいし、上から下げられたものと理解してもいい。そしてもし君が老獪なら、君はこの曖昧さを好きなように利用できるんだ」》から来ているだろう)。

  要するに、売春婦の思い出、すなわち何年も前に持った「頽廃」にタッジオの出現を結びつけることで、アシェンバッハはタッジオに対する自己の態度の紛らわしいが極めて罪のある様相を充分に打ち出すことになるのです。つまり彼は餌食になるのです。何年も前のエスメラルダとのように、もう一度屈服の餌食となるのです。だからタッジオはアシェンバッハの実人生の極性の一つ、実人生を表わしながら――厳正に知的な宇宙、アシェンバッハが閉じ込もっていた「至高な生」と交代し、正反対に――死をもって終わる極性であったものを、要約していることになります。エスメラルダとタッジオは単に実人生を表わしているのではなく、彼を悩ませ、頽廃させる彼の特殊な次元に属する生、それはまた美でもあるが、そういうものを表わしているのです。「結婚について」マンが書いたものの中で彼は、プラーテンの次のような詩句を引用しています(筆者註:アウグスト・フォン・プラーテン(1796~1835年)はバイエルン出身で、晩年をイタリアで送り、シチリア島コレラにかかって死んでいるように、ミュンヘンに自宅がありヴェニスで客死したアシェンバッハと少なからぬ因縁がある。引用された詩は、作品『ヴェネツィアソネット』の中の「トリスタン」から)。

  自己の目で美を凝視した者はすでに

  死に供えられている。

 これは映画の「宣伝文句」ではないか、というのはむしろ、まさにその中に彼の最大の官能が閉じ込められているからだ、と言いたいのです。

(筆者註:エスメラルダについては『ファウストゥス博士』のⅩⅥ章から引用したい。

その前にマンは『『ファウストゥス博士』の成立』で次のように述べている、《ニーチェの生涯からこの小説に引用したことを挙げると、ニーチェがケルンで娼家に連れ込まれた体験や彼の病気の徴候などをそのまま文字どおりに引継いだこと、ⅩⅩⅤ章の悪魔に『この人を見よ』から引用させたこと、ニーチェがニツァから出した手紙で知れる食餌養生の献立を引用したこと――これはほとんど読者の誰にも気づかれない引用だと思う――、あるいは、やはり目立たない引用だが、精神の暗夜に沈んだニーチェに花束を持っていってやったドイセン(筆者註:パウル・ドイセンは、ニーチェの親友で、ショーペンハウアーインド哲学の研究者。『フリードリッヒ・ニーチェの思い出』にニーチェとの娼家訪問のエピソードを書き残している)の最後の見舞いを引用したこと、などである。引用というものは、機械的な性質を持っているにもかかわらず、特別に音楽的なところのあるものだが、その上に、引用というものは、虚構に変化する現実であり、現実的なものを吸収する虚構であって、現実と虚構という二つの領域の独特に夢想的な魅惑的な混合ともいうべきものなのだ。》

 さて、『ファウストゥス博士』のⅩⅥ章、ニーチェの生涯から引用された娼家に連れ込まれるエスメラルダ体験を少々長くなるが引用する。シーン34に映像化された。

《ぼくがベルを鳴らすと、扉がすうっと開いて、玄関の間に飾りたてたマダムが迎えに現われました、頬は干葡萄色で、胸の脂肪の塊の上に蠟色の真珠のロザリオをかけています。マダムはほとんど上品といっていい態度で歓迎の意を表し、待ちに待った人がやっと現われたとでもいうように、いかにも嬉しそうに絶えず囁きかけ、いちゃつき、お世辞を言いながら、幾つもの帳(とばり)をくぐってきらきらと輝いている部屋にぼくを連れて行きました、壁には縁飾りのついた内張りがほどこされ、水晶のシャンデリアが輝き、鏡の前には枝燭台が点っています、そして絹の寝椅子がいくつかあって、それに、君、水精(ニンフ)たちや砂漠の娘たちが六、七人坐っているのです、さあなんと言ったらいいか、モルフォ蝶、ガラス蝶、エスメラルダ蝶たちです、衣裳はあまりつけていません、チュール、紗、きらきら光る布などの透き通る衣裳を着ているのです、長くしどけなく垂れた髪、捲毛の短い髪、化粧した乳房、腕には飾環をはめて、彼女たちは期待に満ちた、シャンデリアの光を受けて煌(きらめ)く眼でじっと君を見つめているのです。

 いや、君ではなく、ぼくを見つめていたのです。あいつは、ゴーゼのシュレップフースはぼくを魔窟の隠れ家に案内したのです! ぼくは立止まって動揺を隠していました、すると、開いたままになっている一台のピアノ、わが友が眼にとまりました、ぼくは絨緞の上を足早にピアノの方に駆け寄って、立ったまま、和音を二つか三つ弾きました(筆者註:映画ではエスメラルダが、タッジオが弾いたのと同じベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾いている)、それが何だったのかぼくは今でも覚えています、というのはその時ちょうどぼくの頭の中にはその音現象が浮んでいたからです、それは『魔弾の射手』のフィナーレで太鼓、トランペット、オーボエがハ音の四六の和音で入ってくるあの隠者の祈りの中にあるような、輝かしい半音の距離、ロ長調からハ長調への転調なのでした。いや、これは後で知ったことです。あの時にはそれを知らずにただ弾いただけでした。そのとき小麦色の膚(はだ)の女、スペイン風の胴着を着た、口の大きな、鼻が低く反っている、巴旦杏(はたんきょう)のような眼のエスメラルダがぼくに近づいてきて、腕でそっとぼくの頬を撫でたのです(筆者註:映画でもエスメラルダは左腕の内側でアシェンバッハの右頬をそっと撫でる)。ぼくは向きなおり、膝で腰掛を払いのけると、絨毯の上を飛ぶようにしてこの肉欲の地獄を横切り、喋りまくる遣手婆(やりてばばあ)のそばを駆け抜け、玄関の間と階段を一足跳びに跳んで、真鍮の手摺に触れもせずに、一気に路上に飛出したのです。》)

 

<悪夢の挿話>

――タッジオは単に母親と海にいる子供というわけではありません。浜辺でアシェンバッハの心を打つということは親子関係的恋の牧歌、つまり頽廃的でない幸福感、晴朗な雰囲気なのです。しかしその牧歌の「フラッシュバック」(筆者註:シーン49から54にかけて、マーラー交響曲第三番の第四楽章「おお、人間よ!」が聴こえて来る)は、その晴朗な空をおおう雲で終わります。この悪天候はどのようなものかと言うと、浜辺に帰るとタッジオが外に出ているということです。いずれにしても、タッジオとの関係はマンにおいても曖昧なんですよ。

 アシェンバッハにふりかかる事件は、すべて頭脳的で知的なことです。マン自身それについて言うには、「非常に瀆れのないこと」――むしろフランス語で「トゥレ・コンヴナブル=非常に穏当な」と言うほうがずっとよいのです――と言っています。ですが、同時にそれはアシェンバッハを悩ませ、彼の精神的均衡と「品位」を崩すような要素を含んでいるのです。(中略)この曖昧な微妙性という限界の中で私自身を保存するのに、小説の中にもあり、脚本の段階でも予定していた悪夢の挿話を映画では撮らなかったということをあえて言っておきます(筆者註:原作のワルプルギスの夜(魔女たちによる卑猥な饗宴)に代えて、ミュンヘンのディスコでの堕落した喧噪シーン81を脚本化するが、結局は趣味が悪く、調子が崩れるだろうと削除され、アシェンバッハが「いやだ!…いやだ!…」と悪夢から目覚めるシーンとなった)。

 そこで私は悪夢を――本の中では最も精神的に沈滞した時であり、死のプレリュードが始まること――コンサートを開く芸術家の「大失敗」に置き代えたわけですが、そこは映画の中でも最も精神的な沈滞期で、終局の前の絶望に対応するところなんです。

 

<映画の時間的韻律>

――小説ではたしかに最初の困惑は、町とその雰囲気からのものです。しかし、これはともかくまだ何だかわからない虫の知らせで、その後、小説の筋が進むとかなりはっきりとした事実となります。そして、タッジオの出現があのような精神的困惑に一役買っていて、むしろそれが鍵となっていることを思いきって自分に言う、あるいは自覚しようとはしないのです。(中略)

 結局、書かれたものは映画というものが譲歩し得ないひろがりを許すということです。だから私は情緒をおさえこみ、それをできるだけ積み重ね、一つ一つずっと凝縮しなければなりませんでした。それと同じ理由で、映画の時間的韻律は本のそれとは違ったものです。

 小説では、出来事は二、三週間続いて、アフリカからの蒸し暑い風(シロッコ)が吹き、ヴェニスが崩れ落ちるという感覚に満たされ、町は空になり、困惑と不快感の入りまじった感覚がおとずれる、と言った具合です。しかし、映像は書いたものよりも明確でそれとは違った具体性を要求するので、映画ではそういうわけにはいかないのです。

 

<小説の端緒>

――しかしここでも、小説の端緒は映画に映す場合にはうまくいかなかったと、はっきり言っておきます。

 考えてみてもください。「一九××年の春のある午後」フォン・アシェンバッハ教授は「少し長い散歩」をするために外出し、墓地に行き、そこで「放浪者」に出会います。放浪者は彼に旅立ちという考えを起こさせて、アシェンバッハはジャングルやエキゾチックな国々を思い浮かべて家に帰り、必要なものを調えて出発します。最初トリエステに行き、それからポーラですからブリオーニということになります。ここには騒がしい観光客がいて、彼には居心地が悪いので、一隻の老朽船に乗ってヴェニスに行きます。

 全部こういった題材を、それが本筋の物語の序にすぎないのだということを忘れて、全く変更せずに一つの映画にもりこめると思いますか。そうは思わないでしょう。脚本の段階からその問題についてはかなり考えていたから、私は初めヴェニスに向かう老朽船を予定していました。ですから、最初の「フラッシュバック」としては、墓地で放浪者との出会いがあったわけです(筆者註:該当のシーン3は、実際に撮影され、視覚的にすばらしいスチール写真があるにもかかわらず、編集で全てカットされた)。そのあとで家の中の場面があるわけですが、そこで旅立ちの準備に没頭するアシェンバッハが画面に現れ、その準備をしている時、気分転換をし、自分自身をみつめ、自分をわかろうとするために休暇をとることに決めた、と彼がアルフリートに言うわけです(筆者註:シーン4だが削除された)。

 紙の上ではこれは全部うまくいっているが、映画では初めから物語を挿入することになるので、メチャメチャでした。同時に、観客はよくわからなかっただろうと思います。実際アシェンバッハが感じている不意の旅立ちの必要性を画面に出すには、「放浪者」を見せるだけでは確実に充分であるとは言いがたいのです。

 いずれにしても、もう一度言うと、小説の中でマンによって表現された出立の動機の心理的過程を、スクリーンの上ではそのとおりに《再生産できる》ことにはなりません。そこできっぱりと別の解決方法を打ち出し、不明瞭なものをそのままにしておくのを避けたわけですね。そこで、私は充分納得ずくで全部削除したというわけです。

 

<「フラッシュバック」>

――「フラッシュバック」は実際には二つの事柄について構築されています。

 その一つはマンであり、もう一つはマーラーのです。マンに関する「フラッシュバック」は、イデオロギー的なものと謂えるかと思います。それは美についての対話の場合のように小説に含まれている題材的部分と、『ファウストゥス博士』における暗示の部分とです。一九〇〇年の初頭とは違っていますが、一貫した方法でマンが芸術と芸術家についての自己の主張をはっきりと言っている作品が、描き出されているということです。

 マーラーに関するそれは、反対に家族的な生活のエピソードを基にしたものです。まさにマーラーについては、ジフテリアではないかと思うのですが、幼い娘が山で死んでいます(筆者註:マーラーの長女マリアの死にもとづく挿話はシーン69、「チロルの峡谷と湖畔のシャレ—風別荘」「彼方の別荘の近くに、小さな葬列ができ、僅かな村人や純白の四輪馬車に載せられた白く、小さな棺(ひつぎ)が見える」)。当然、正確なことについてよりも暗示についてのほうが多いわけです。音楽家グスターフ・フォン・アシェンバッハの像とグスターフ・マーラーのそれの間に、たとえ部分的であるにせよ同一視をすること、あるいはなんらかの方法で私が伝記的意味でのマーラーのエピソード(筆者註:ちなみにマーラーは敗血症のため、ウィーンで亡くなった)や、資料に言及しようとしていると信じること以外には、何も根拠はないんじゃないですか。

 それに、たとえば失敗の挿話(筆者註:アシェンバッハの交響曲の初演の失敗シーン79)は、それが《音楽的》様相の場面をとっていますが、さまざまな視点からというよりも、私にとっては『若者のすべて』(筆者註:ネオレアリズモ的作品、1960年)に対する非難の思い出の上に生まれたものなのです。それは批評的性格のものだけでなく、ほかのジャンルのものも含めて、曖昧を避けるために、明瞭なものにしたわけです。

 たとえば、アルフリートは一種のシェーンベルクではなかろうかと誰かが言ったそうですが、あまりにも根拠のなさすぎる推論だと思えます(筆者註:アルノルト・シェーンベルク(1874~1951年)は十二音技法の創始者で、マーラーと親交があった。トーマス・マンファウストゥス博士』の作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンはシェーンベルクニーチェがモデルともされる)。アルフリートは単に主人公の悪い――あるいは良い――意識という「もう一つの自己」なわけで、精神的危機の間中ずっと自分自身についての一種の悪夢的な投影として、彼につき纏(まと)っているわけなんです。ですが、人は私が知らずに創造しているものを私の映画の中に見つけるということがよくあります。しかしそれは私が意識的に創造したものではないが、どちらかと言えば私が直観でそうしたと言えると思います。

 

プルースト

――『ベニスに死す』のあとの今、私がプルーストの『失われた時を求めて』(原註:ヴィスコンティは、『ベニスに死す』の後、フランスの作家マルセル・プルースト(1871~1922年)の七巻からなる『失われた時…』の『花咲く乙女たち』と『見出された時』の映画化を準備。だが、製作費の問題でこの企画は挫折し、『ルードウィヒ』にとりかかる。)に取り組んでいるのは偶然ではないでしょう。マルセルはまさしく一九一一年に「もう私は朝早くからかなりねてしまった。」と書き始め、一八年にそれを書き終えています。その時、マンは『非政治的人間の考察』に示された反動的嵐の中にすでに立たされていて、『魔の山』の原案を作り始めていたことを思うと、結局、時代の出来事というものは同時に起こるんですよ。

 あの時代は大雑把に言うと、一一年から一八年というのは、マンだけでなく、ヨーロッパのブルジョワ文化が行き詰まってしまって、すべての問題が新しい光の下に立たざるを得なくなります。そして、戦争が古い解決方法や古代的幻想をすべて掃蕩してしまうのです。こういったことからも、マンではもっぱら風刺という形で表現されているあの《将来についての意識》をあなた方に気づかせるために、『ヴェニスに死す』の今日的課題の広がりをいくぶんなりとも私は示唆したかったのです。

 

ファウストゥス博士』の主人公アードリアーン・レーヴァーキューンのモデルともされたニーチェが親しい友人の音楽家ペーター・ガストがいるヴェニスを始めて訪れたのは、バーゼル大学を辞した翌年の1880年で、3ヶ月あまり滞在した。2度目のヴェニス滞在は4年後の1884年だった。若きニーチェワーグナーに心酔し、のちに離反して批判を書き連ねる幾重にも屈折した愛憎劇はよく知られたところだが、ワーグナーもまたヴェニスを好んで6回滞在し、1883年にグラン・カナル沿いのパラッツォ・ヴェントラミン・カルレジで心臓発作により終焉を迎えている。ニーチェは1887年まで毎年のようにヴェニスを訪れ、『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』などを完成させたが、(エスメラルダ挿話の)梅毒の影響もあって精神と肉体が蝕まれてゆき、1989年トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒、生ける屍と化して精神の暗夜に沈み、世紀の変わり目の1900年にワイマールで死す。

 ヴィスコンティは「人は私が知らずに創造しているものを私の映画の中に見つけるということがよくあります。しかしそれは私が意識的に創造したものではないが、どちらかと言えば私が直観でそうしたと言えると思います。」と控えめに語ったが、そのような意味合いで、映画『ヴェニスに死す』には、マン、マーラーのくっきりとした影だけではなく、プルーストの影もほの見え、さらにはワーグナー(1813~1883年)や、マーラーが若い頃に傾倒していたニーチェといった北方的な精神が南方的なものへ憧憬する入口、天国にして地獄の門ヴェニスの、「愛と死」「実人生と芸術」の潮の干満の表徴があって、アシェンバッハの死にワーグナーニーチェの死さえも多重映像化したくなるではないか。

                                                    (了)

          *****引用または参考文献*****

*『ヴィスコンティ秀作集1 ベニスに死す』(「ベニスに死す=ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バタルッコ」柳沢一博訳、「ルキノ・ヴィスコンティとの対話」長谷部匠訳、「「ベニスに死す」をめぐる対話=ニコラ・バタルッコ(脚本)、フランコ・マンニーノ(音楽)、マリオ・ガッロ(制作)」兵藤紀久夫訳、「「ヴェニスに死す」トーマス・マン書簡」兵藤紀久夫訳、リーノ・ミッチケ「トーマス・マンの「ヴェニスに死す」とルキノ・ヴィスコンティの「べニスに死す」」兵藤紀久夫訳、所収)(新書館

トーマス・マン『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』高橋義孝訳(新潮文庫

トーマス・マンヴェニスに死す』実吉捷郎(岩波文庫

*『トーマス・マン全集Ⅵ』(『ファウストゥス博士』円子修平訳、「『ファウストゥス博士』の成立」佐藤晃一訳、他所収)(新潮社)

*『トーマス・マン全集Ⅺ』(『非政治的人間の考察』森川俊夫、野田倬池田紘一、他訳、「ヒトラー君」高田淑訳、他所収)(新潮社)

*テオドール・W・アドルノマーラー 音楽観相学』龍村あや子訳(法政大学出版局

*テオドール・W・アドルノ『新音楽の哲学』龍村あや子訳(平凡社

*アルマ・マーラー『マーラー 愛と苦悩の回想』石井宏訳(音楽之友社

*『ユリイカ 特集ヴィスコンティ』1984年5月号(青土社

*L・ヴィスコンティ、S・C・ダミーコ『シナリオ 失われた時を求めて』大條成昭訳(ちくま文庫)

プラトンパイドロス』藤沢令夫訳(岩波文庫

ニーチェツァラトゥストラ手塚富雄訳(中央公論社

マルセル・プルースト失われた時を求めて吉川一義訳(岩波文庫