文学批評 丸谷才一『輝く日の宮』の『源氏物語』成立史(引用ノート)

 

 

 丸谷才一『輝く日の宮』で、熱海から東海道線に乗った国文学の専任講師杉安佐子は、バッグからノートを出して読むこととした。自分の考えている『源氏物語』成立史をおさらいしてみよう、光源氏藤壺との最初の関係を書いた幻の第二巻「輝く日の宮」の喪失ないし脱落について事情が明らかになるだろう、というわけで……

 

《995 長徳元年 秋、藤原宣孝、方違(かたたが)へにことよせて藤原為時邸に来り、紫式部と見合。縁談不成立。

 

 この年、宣孝は四十二、三で、前筑前守(さきのちくぜんのかみ)であつた。つまり為時と同じく受領(ずりょう)(地方官)階級に属するし、それに、わりに近い親類である。宣孝の邸には正室がゐたらしいが、紫式部の父、為時は。この宣孝と婚期の遅れた娘(二十代半ば)との結婚を企てたやうで、男のほうも若い娘との婚姻を望み、そこで方違へといふ迷信を利用して見合をした。当時、方違へはこんなふうにいろいろ使はれてゐた。ところがその夜、何か変なことがあつたらしく、翌朝、紫式部はそれを咎めるきつい歌を朝顔の花につけて送つてゐるが、四十男はしやあしやあとした感じの歌を返してゐる。とにかく、見合はうまくゆかなかつた。

 

  996 長徳二年 一月、為時、越前国守となる。初夏、紫式部を同行して任地へ。

       越前の国府は武生(たけふ)。

       秋から冬にかけて物語の構想が浮ぶ。

 

 はじめての田舎住(ずま)ひは侘(わび)しかつたらうし、北国の晩秋と冬は辛い。それに、うまく運ばなかつた縁談が心に傷を残してゐる。寂しさがつのつた。文才に富む娘が、花やかなものを空想し、豪奢なものに憧れるための条件が整つた。孤独や憂愁をそのままぢかに差出すのではなく、それを動力にして美しい世界、輝かしいものを創造し、そのことの果てに悲しみや虚無を漂はせようとする方法を、都で育つた娘は鄙(ひな)にあつて模索してゐた。しかし彼女の想像力がうまく発揮されるためには、宮廷風俗についての知識と情報が要る。これは彼女が持合せてゐないものだし、何しろ学者肌の官吏だから一向に要領を得ない。どうしても、女の視点で見た話を聞かなければならない。全体が、さるお女中がお女中たちに語る話といふ仕組にしようといふのだから、なほさらのこと。親類の老女たちを訪ねる必要が生じた。

 

  997 長徳三年 十月、紫式部帰京。中河わたりの家に住む。これは広い邸で、 為頼、為時兄弟の共同の住ひ。

  999 長保元年 一月、紫式部藤原宣孝と結婚。

  1000 長保二年 紫式部、長女賢子を産む。

  1001 長保三年 四月、宣孝死す。紫式部、一年の喪(も)に服す。

        春、越前より為時帰京。

 

 角田文衛の考證によると、為頼の邸は、堤中納言と呼ばれる藤原兼輔から伝来したもので、東京極大路東、正親町(おほぎまち)小路(こうぢ)南にあつたといふ。ずいぶん広い邸で寝殿造。このため兄弟と親族が同じ邸にあつて、寝殿、東対(ひんがしのたい)、西対(にしのたい)、といふ具合に分れて暮してゐたらしい。紫式部はここへ帰つて来て、取材したり想を構へたりしてゐたが、それを聞きつけて宣孝がまた迫つて来た。そして結婚することになる。宣孝の邸には正室がゐた。通ひ婚である。為時の詩に「家旧(ふる)く」とあるその中河に近い家の、紫式部の日記に「あやしう黒み煤けたる曹司(ぞうし)」とあるその部屋で共寝したのだ。おそらく執筆はその曹司でではなく、もつと明るい所に出て。翌年、娘が生れ、その翌年には夫が亡くなつた。わづかな年月の結婚。

 

  1001 長保三年 春、越前から帰任した為時は、紫式部の書き溜めた『源氏物語』のはじめの数巻を読む。

  1003 長保五年 為時は『源氏』のはじめの数巻を道長に献じた。「桐壺」「輝く日の宮」「若紫」「紅葉賀」「花宴」「葵」の六巻であつたらう。

 

 武生ではすこししか書いてなくて、父に見せなかつたといふのが、安佐子の推定である。長保三年春、どのへんまで進んでゐたかはむづかしいが、「桐壺」と「輝く日の宮」だけだつたはずはない。「若紫」を書いたときにはじめて作者は手ごたへを感じ、自信を得、父親に読ませる気になつたのではないか。夫と死に別れた寂しさをまぎらすといふこともあらう。

 為時はまつたく新しい型の読物に接して舌を巻き、自分が前まへからこの子を見込んでゐたのは正しかつたと思ひ、でも、その喜びは、これは果して客観的な評価なのか、子煩悩にすぎないのかも、といふ不安と相半ばしたのではないか。ここで安佐子は思ひ出す。お父さんは「週刊花冠」の記事(筆者註:シンポジウムで、『源氏』には「桐壺」と「帚木」の間に「輝く日の宮」の巻があったと主張する19世紀文学専攻の杉安佐子と、『源氏』学者の大河原篤子との対立、論戦をとりあげた記事)について、どうも安佐子が得をしてるみたいな感じ、親のひいき目かもしれないが、とつぶやいたことを。あんなことでさへ親はわからなくなる。判断に自信が持てなくなる。まして前例のない作品の出だしの所を娘から差出されたら、すごく困る。道長に見せようか、どうしようかと悩みつづけたにちがひない。もともと道長と為時は小説好きだつた。どちらも唐宋小説の愛読者で、為時は越前にゆく前、道長が手に入れた新着の書を借りて読み、それを紫式部も読んだにちがひない。たとえば『杜陽雑編』のなかの日本の王子の話。(中略)

 越前守が京に帰ると、小説本の貸し借りが復活する。日本最初の小説批評と言はれる『無名(むみょう)草子(そうし)』の先駆のやうな対談がまたはじまつた。海外文学中心ではあるけれど。さういふ仲だつたので、為時は娘の作を見せたくて仕方ないが、気おくれして、一年以上もためらひつづけた。何しろ相手の文学的な指揮権と趣味が大したものなのだ。しかし、もう我慢ができなくなつたし、あるいはつひに確信が生じたし、それとも駄目なら笑ひものにされてもいいと度胸を決めて、何巻かを献上することにした。父親は、自分で写本を作らうかと思つたけれど、ここはやはり女手のほうがいいと考へ直して、娘に書かせた。紙はもちろん越前紙である。

 この場合「桐壺」「輝く日の宮」の二巻は発端だから落すはずがないし、「若紫」は充実してゐて変化に富むから、見せるに決つてゐる。しかし、ここまででよしとしたとは考へられない。宮廷生活の公的な豪奢な面を描いた「紅葉賀」と私的な色つぽい面の「花宴」を添へて賑やかにしたにちがひないし、それだけではなく、もう一つ変化をつけて怪奇小説的な「葵」を加へ、これで道長をびつくりさせようと企てたはずだ。

 道長は驚嘆したし深い感銘を受けたけれど、でも、大事を取つた。慎重を期した。きつとさうだつたと思ふ。何しろこれまで日本の物語でも唐宋の伝奇でも読んだことのない破天荒(はてんこう)なものだから、ひよつとすると眼鏡(めがね)ちがひぢやないかと心配でたまらなかつた。これは当然の話。今の批評家でも新人の第一作を絶賛するときはかなり不安になると聞いたことがあるけれど、小説といふ概念が確立してゐる現代でもさうだから、世界最初の型の小説が現れたとき、いくら鼻つ柱が強くて自信満々の道長だつてずいぶん迷つたらう。多忙のなかで「桐壺」から「葵」まで何度も読み返し、漢詩の会で為時と顔を合せても、空つとぼけて、まだ読んでないやうなふりをしただらう。しかし結局、圧倒的な魅力に逆らふことができなかつた。道長は激賞し、この本が参考になると言つて『蜻蛉(かげろふ)日記』を渡した。ひよつとすると『蜻蛉日記』が世に出たのはこれがはじめてかもしれない(筆者註:丸谷はこの記述に先んじて、『蜻蛉日記』の作者は、道長の父兼家と結婚して道綱という子を産んで「道綱母」と呼ばれているが、道長から『蜻蛉日記』を借覧した紫式部は、その風俗と人情を重んずる近代風の、写実的な人間のとらえ方を学んだのではないか、と推定している)。紫式部はもちろん喜んだし、書き進めるのの励みになつたけれど、為時の興奮ぶりはそれをしのぐものがあつた。そして道長紫式部を宮仕へさせることを思ひついた。これには、稀代の才女であること、父の為時が衣装代を持てること(この衣装代の件は大切な条件らしい)などのほか、道長正室倫子と紫式部が又(また)従姉妹(いとこ)だといふことも……

(中略)

 

  1004 寛弘元年 道長、方違へのため中河わたりの藤原伊祐宅(従姉妹である紫式部も住む)に赴く。

  1005 寛弘二年 十二月二十九日、紫式部はじめて出仕。

 

 当時、貴人が自分より身分の下の者を訪ねるのは不謹慎なことだつたので、道長は方違へに名を借りて紫式部のところへ出向いた。ぢかに人物を見なければ心許(こころもと)なかつたし、好奇心もつのつていた。その印象はよくて、つまりテストに合格した。そのとき、対面したか、それとも非常に特殊な役目を果すお女中を雇ふのだから、ぢかに話し合つたかもしれない。しかし、何しろ仄暗くて、あまりよく見えなかつたはずだし、それでも紫式部は消え入りさうなくらゐ恥しがつてゐたにちがひない。道長は『源氏』を褒めちぎり、紫式部は『蜻蛉日記』を貸してもらつたことの礼を述べた。もちろん大量の紙のお礼も言上した。宮仕への件はかたはらにある為時に向つて言つたらう。父も娘もこの就職を拒否できる立場ではないけれど、しかし子供がもうすこし大きくなつてから、と猶予を願つたのではないか。それでも、寛弘二年になると道長の督促がきびしく、それで、押し詰まつてからの出仕といふことになつたのだらう。なほ、この方違への夜、道長紫式部のあひだには何事も起らなかつたと思ふ。もしあつたら、寛弘五年に交渉がはじまるのがをかしい。などと考へながら、こんなふうに推測に推測を重ねるのは、寝殿造の建物の奥へ、外光や風が、何枚もの戸、簾(すだれ)、障子、凡帳、衝立(ついたて)、衣類がかけてある衣桁(いこう)などを透かしてはいつてゆくのに似てまだるつこしいけれど、千年前に迫つてゆくにはこれしかない、と安佐子は吐息をつく。

 

  1006 寛弘三年 花山院撰『拾遺和歌集』成る。

  1007 寛弘四年 道長、『源氏物語』を流布させる。

 

『拾遺』と『源氏』の関係はたしかに見のがしてはならない。何と言つても勅撰集だから『拾遺集』はみんなの関心を集める。とすれば、同じ時期に『源氏』を発表するのはまづい。一年くらゐ間を置かなければ、と考へたに決つてゐる。誰のが何首はいつたとか、一首もはいらなかつたとか、しきりに噂してゐる最中に『源氏』を出したら、あふりを食つて損をする。道長は日本文学史上最初にして最高の大ジャーナリストだつたから、その辺の計算はしたたかだつた。それに自作が、『拾遺抄』には一首も取られなかつたのに『拾遺集』には二首撰入する。もちろんこのことはとうに知つてゐた。それでやはり自慢したかつたといふこともすこしある。

 その二首はもちろん紫式部はそらんじてゐる。とりわけ「岩の上の松にたとへむ君ぎみは世にまれらなる種ぞと思へば」(岩に生えた松にたとへよう、皇子(みこ)たちお二人は世にもまれな尊い血筋を受けた方々だから)といふ賀歌には感銘を受けたはず。と言へるのは、「柏木」でこれに影響を受けた和歌を作つてゐるから。光源氏のもとに降嫁した女(をんな)三(さん)の宮(みや)が柏木と通じて子を生(な)す。柏木の没後、女三の宮が仏門に入らうとすると、光源氏はこれを咎める歌を詠んで女三の宮を恥ぢ入らせる。「誰が世にか種はまきしと人問はばいかが岩根の松はこたへむ」(昔、種をまいたのは誰、と人が訊ねましたら、岩の上に生えてゐる松はどう答へるかしら)と。これは表面は『古今』の本歌どりだが、しかし記憶のなかから道長の詠が作用してゐたらう。もちろんこれは後のことだけれど。

 物語はまづはじめに中宮、それから帝が読んだ。これは間違ひないが、問題なのはここから。つまり道長はどの巻を最初に流布させたのか。わかりやすくするため番号を振ると、

① 桐壺

⑤ 若紫

⑦ 紅葉賀

⑧ 花宴

⑨ 葵

の五巻だつたと思ふ。

② 帚木

③ 空蝉

④ 夕顔

⑥ 末摘花

を読ませなかつたわけだが、これは当り前の話。a系b系論(筆者註:『源氏』五十四帖のうち、第一帖から三十二帖「藤裏葉」までにはa系(紫の上系)と、のちに書かれて嵌め込まれたb系(玉鬘系)の二系列があるという説)でゆけば(そしてこれは正しいと思ふけれど)まだ書いてなかつたのだから。しかし困るのは、

②´輝く日の宮

が抜けてるといふこと。

 紫式部は……もちろんまださうは呼ばれなくて藤(とうの)式部(しきぶ)だけれど……藤式部は『源氏物語』を中宮様に誰かが読んでお聞かせする席につらなつてゐて、何日かに「桐壺」を読み終へると、その翌日はいきなり「若紫」の冒頭、光源氏が瘧病(わらはやみ)にかかつて北山の聖(ひじり)を訪れるくだりになるので、本当にびつくりした。朗読の係りのお女中にそつと声をかけて訊ねても、「輝く日の宮」の巻はないといふ返事。それで茫然としてゐる作者を置き去りにして「若紫」が読まれ、中宮様もお喜びだし、お女中たちもおもしろがつて、藤式部が変だ、変だと思つてゐるうちに物語は進んでゆく。出だしの二巻目がまるごと失せてしまふなんて、あまりに異様なことなので、これは殿(と彼女は呼んでゐたらう)が故意に除いたのだとはつきり了解するまで、才女にしては珍しく時間がかかつた。あそこを飛ばせば変なことになるのに(しかし聞えて来る評判はよくて、みんなおもしろがつてるし、筋があやふやになるのもあまり気にしてない様子で)作者としては不思議でたまらない。狐につままれたやうな気持。どうしたわけかとあやしむものの、殿に訊ねるなど、とんでもない話。第一、そんなこと思ひつかない。道長と藤式部では、王様や女王様とモーツァルトくらゐ身分が違つてゐたし、それに平安朝における物語は十八世紀ヨーロッパにおける世俗音楽よりもずつと位置が低かつた。漢詩や和歌とくらべることもできないほど。『続本朝往生伝』に一条天皇の御代は人物を輩出した、と述べて八十六人の名がずらずら並べてある。文士(漢詩文)は十人で、高階積善(『本朝麗藻』の撰者)も藤原為時(言ふまでもなく紫式部の父)もはいつてゐる。和歌は七人で、しかし式部とあるのは和泉式部のこと。これはもつともなことで、歌人としての紫式部が地位を確立するのは御子左家(藤原俊成、定家の家)による文学革命つまり『千載』と『新古今』が『源氏物語』をかついで成功したからだつた。異能といふのは相撲のことで、これは四人。だが物語といふ項目はない。相撲以下の扱ひだつた。向うは呪術的な権威のあるものなのに、こちらは単なる娯楽にすぎない。さういふわけだから、そんなものの一巻や二巻なくなつたつて別にどうつてことはない。さうしてゐるうちに月日が経つてゆく。そのあひだにも稿が進む。ときどきは宿下りして書くこともあつて、寛弘五年の末にはもうとうに光源氏が明石から都に帰つて来てゐる。それを道長は一巻づつ中宮に奉り、中宮は帝に差上げ……やがて写本が出まはる。ちようど連載小説のやうな仕組。

 一条天皇が、どのへんの巻かわからないけれど朗読を聞いてゐて、関心し、「この作者はよほど『日本記』に詳しいに相違ない」とつぶやいたので、その朗読係りが藤式部に日本記の御局と綽名をつけた。それを当人はひどく厭がつて、まづ日記に書き、それからb系のかなりあとのほうの「蛍」の巻の物語論で「日本記などはただ片そばぞかし」(『日本書記』とか六国史なんかに書いてあるのは人間的現実のごく一部分よ)と憎まれ口を叩いた。かなり執念深い女。「蛍」を書いたときは一条天皇は亡くなつてゐたはずだけれど。(中略)

 

  1008 寛弘五年 五月末か六月はじめ、中宮彰子の前に『源氏物語』があるのを道長が見て、その席にあつた紫式部をからかふ和歌を詠む。返歌あり。

        七月十六日、懐妊の中宮、土御門邸(道長の邸)へ。紫式部随行

        七月、道長紫式部の関係が生じる。

 

 五月か六月、といふのは、中宮の身辺に読みかけの『源氏』といつしょにお菓子がはり(?)の梅の実があつたことで見当がつく。懐妊してゐるので酸つぱいものがほしいのである。梅の実が載せてあつた紙を取つて道長は書いた。

「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(酸つぱいもの=好き者と世間では評判だから、手を出さぬ男はあるまいな)。『源氏』には色恋沙汰が多いからその作者もきつと浮気者にちがひないといふ、昔も今も同じ文学と実生活の混同による冗談。それを酸つぱい梅の実にかけて。そしてもちろん裏では、『源氏』の好評を喜んでゐる。その場にゐる当の作者も嬉しがつてゐる。彼女の返歌は、あら、好き者だなんてとんでもないことです、くらゐのもの。これは明らかに道長が言ひ寄つてゐるので、何なら一つ自分が折りませうかといふ歌なのに、今までの注釈はさう見てゐない。どうかしてゐる。一つには、懐妊した娘の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしつかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(めしうど)(妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券(こけん)にかかはる、といふ気持もあつた。そんなあれやこれやでかういふことになつたと思ふ。

 七月に中宮が内裏からお里の土御門殿へ行つたのはお産のため。こんなことをするのは母系制の名残りである。道長紫式部の仲がはじまるのは、歌に水鶏(くひな)があしらつてあるのを見ると、夏至(げし)のあとと見当がつく。とにかく七月十六日以後のことである。中宮のお供をして土御門殿へ行つてゐて、その寝殿造の渡殿(通路だけれどそこに局(つぼね)とか曹司(ぞうし)とか個室をしつらへることもある)の部屋で、夜、休んでゐると、戸をたたく人があつた。日記ではその者の名を伏せて、しかしそれが道長だと察しがつくやうにしてある。後世の藤原定家は『新勅撰』の作者名を記すとき、はつきり道長だとした。紫式部は怖くつて(と表向きは言ふ)返事もしないでゐる。翌朝、道長から歌が届いた。「夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる」(夜どほし戸をたたきましたよ、水鶏みたいに、鳴いて=泣いて)。そこで返歌。「ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし」(一大事みたいにして戸をたたく水鶏を真に受けて開けたりしたら、どんなにくやしい思ひをしたことでせう)。これについてはいろいろ言はれるけれど、求愛されたら一応は拒むといふ型に従つたまでのこと。それがあのころの風習だし、作法として確立してゐた気配がある。じらすことで色情の趣を深くするのだつた。後世、さまざまの説が生じたなんて聞いたら、きつとびつくりしたにちがひない、紫式部も、道長も。どうしてこんなこと、わからないのだらうなんて。

 それで翌日の夜、今度は戸を開けて招じ入れる。寝物語になつて、しばらくしてから女は言つた。

「巻が一つ除いた形で出まはつてをりますので、びつくりしました」と。抗議とか不満とかぢやなく(そんなこと口にできる立場ぢやない)、ごくあつさりと。男は笑つて、

「あのほうがいいと思つてね。どうでした?」なんて訊ねる。何しろ著作権などといぐ概念はない時代だから、平気でである。そこで女はつぶやく。

「花落林間枝漸空(クワランリンカンシゼンクウ)、多看獏々灑舟紅(タカンバクバクサイシウコウ)。季節はづれですけれど」と。上機嫌で笑ふ男の体の動きが女の裸身にいちいち伝はる。これは彼が二年前に作つた漢詩の出だしの所。訓読すれば「花は落ち林間枝(えだ)漸(やうや)く空(むな)しく、多(た)だ看(み)る漠々として舟に灑(そそ)ぐ紅(くれなゐ)」くらゐの感じ。そのころ漢詩人はみな音読してゐただらうし、それも遣唐使を廃止して百年以上経つてゐるから、きつと、本式の中国音ではなくて、日本化した発音だつたはず。「輝く日の宮」が削られたせいでまるで桃の花が散つたみたいに枝(物語それ自体)が寂しくなりましたが、でも紅い花(「輝く日の宮」の巻)がちらちらと舟に降りそそぐやうで、これはこれで風情(ふぜい)がございます、と引用によつて述べた。相手の作つた詩を暗誦して答へるのはもちろん社交的礼節。そしてこの詩は、そのときの作文会(さくもんえ)に出た父親から見せてもらつたもの。

 道長は、

「あれは今度の総集にはいる由」と嬉しさうに言ひ、紫式部は、

「きれいな詩でございますもの」とたたへた。(中略)

 それから男は、飛ばした巻の件は忘れてしまつて、若い娘とのこともよいが年増との共寝はいつそう楽しい味のものなどとお世辞を言ひ、女が笑つて受け流すと、一転して少年のころの思ひ出話をはじめた。頭のいい聞き上手が相手なので、話上手がいよいよ力がこもつて、素性(すじょう)の知れない娘と知り合つたときの綺譚が巧みに語られる。ひよつとすると何度も披露したことがあるのか。女の住ひは陋巷(ろうこう)にあつて、隣家の物音がうるさいし、瓦屋根でも檜皮葺(ひはだぶ)きでもない板屋根の隙間から枕もとに月の光が洩れ落ちる。その真直(まっすぐ)な白い線のせいで、ふと、今宵は八月十五夜と気づき、長く打ち捨ててある荒れた別荘へ連れ立つて赴いたところ、その出さきで女に頓死されたといふ一部始終を詳しく語つたのだ。そしてひよいと言ひ添へる。

「あれは十七の年だつたか。二十何年も前のこと」などと。

 添臥(そひぶし)してゐる三十女は権力者の回想を、テープ・レコーダーのやうになつて聞いてゐた。

 幾夜か経つて、また男の若いころの思ひ出。貴い身分の方を夜(よ)一夜(ひとよ)よろこばせ、霧の深いあした、見送ることもおできにならぬほど疲れ寝させた。侍女にせつかれ、形ばかり頭(かしら)もたげて挨拶なさるのをお受けになつたあと、その娘にやはやはと謎をかけると、粋な歌で上手に拒まれたといふおどけ話。歌ものがたり。そして又の夜には、がらりと趣向の違ふ恋がたりを聞かせられる仕儀になつて。さながら「輝く日の宮」の件を避けようとしてのやうに披露なさる問はず語りのかずかず(筆者註:この辺りの道長が語る話は「夕顔」巻に読みとれる)。そしてまた、……

(中略)

 

  1008 寛弘五年 七月某日夜、道長紫式部の局を覗く。

        九月十一日、皇子誕生。

        十月十六日、天皇、土御門邸に行幸

        十一月一日、五十日(いか)の祝宴。このとき藤原公任、「このわたりに若紫やさぶらふ」と声をかけておどける。

        中旬、中宮の前でお女中たちが、天皇へのお土産にする『源氏物語』の豪華本を作る。

 

 七月といふのは女郎花(をみなへし)からの推定。関係が生じてからのある朝、道長が庭を散歩してゐる。おそらくは他の召人の局を訪ねての朝帰りの途中だつた。咲いてゐた女郎花の一枝を折つて、それを手にして紫式部の部屋を几帳の上から覗く。それがじつに粋で立派な感じで、紫式部が圧倒されてゐると、道長から歌を催促された。即興の才が雅(みや)びなことなのだ。そこで、こちらがまだ化粧してない朝顔(寝起きの顔)なのにかけて、「女郎花さかりの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ」(今を盛りと咲く女郎花の美しさを見ると、朝露の恵みにあづかれない身のあはれが思ひ知らされます)と、今朝まで道長に添臥ししてゐた若い女をねたむ(ねたむふりをする……ふりをして男への愛を示す)歌を詠むと、

「おや、早いね」と微笑して、硯を所望(しょもう)し、「白露は分きてもおかじ女郎花こころからにや色の染むらん」(露が分け隔てなどするものですか。女郎花は心のありやう一つで色つぽくなりますよ)と返歌を詠んだ。上手に言ひ返し、やきもちを慎しむほうがきれいに見えますよとユーモアに富む言ひ方でたしなめてゐる。情(じょう)緒(ちょ)纏(てん)綿(めん)。

 十一月一日の五十日(いか)の祝ひは、はじめは儀式的でやがて酒がはいると乱れるパーティ。今と同じこと。

 藤原公任が几帳のあひだからこちらを覗いて、

「このあたりに若紫がおいででは?」と声をかけた。これは『源氏物語』の評判がよく、とりわけ若紫といふ作中人物の人気が高かつたことを示す。藤式部(とうのしきぶ)が紫式部となるのはこのころからか。

 しかし公任は、「若紫」と呼ぶところを見ると、まだ「若紫」のへんまでしか読んでなかつた。この箇所をとらへて寛弘五年十一月には「若紫」のあたりまでしか出来てなかつたと見るのは尾上八郎の説。一九二六年「日本文学大系」本『源氏物語』の解題。すばらしい指摘で、ここはどうしても慧眼(けいがん)といふ言葉を使ひたい。ただし日記のすぐあとに、「源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上(うへ)は、まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり」(源氏の君に似てる方もいらつしやらないのに、ましてあの上の方がどうしておいでになるものですかと、あたしは聞いてゐた)と書いてゐた。上と呼んでゐる。紫の上と呼ばれるのは「薄雲」(藤壺の死、冷泉帝が出生(しゅっしょう)の秘密を知る、六条院(ろくじょういん)の構想)から。そこでこのころには「薄雲」まで進んでゐた、というのは武田宗俊説。一九五〇年の論文。四半世紀かかつて学問がぐつと展開した。そしてここから「藤裏葉」までは一グループをなしてゐるから、このころにはもう「藤裏葉」まで書いてゐたらうと見る。つまり明石の姫君が入内(じゅだい)し、紫の上と明石の上は親しくなり、光源氏は准太上天皇(じゅだいじょうてんのう)となり、帝は六条院に行幸するといふあたりまで。きつとさうだった。物語の冒頭の予言が的中して、いいことづくめになつてゐた。このことを考へ合せると、帝にお土産に差上げる御祝儀の本といふのが納得がゆく。慶祝性が強くて時宜(じぎ)にかなつてゐる。もちろん道長の企画。それでたぶん、「梅枝」「藤裏葉」などの巻々は、いや。もつと前の「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」「少女」もさうかもしれないけれど、帝にお目にかけるのが封切りだつたかもしれない。もちろん中宮は別。そのおこぼれにあづかつて取巻きのお女中たちも読んでゐて……聞いてゐて……それにまじつて紫式部も耳かたむけてゐる。読者といふか聴衆といふかの反応を見て、満足したり、喜んだり、当惑したり、軽蔑したりしてゐた。

 もちろん全体としては大受けで、中宮彰子の妹、後に三条天皇中宮になる姸子(きよこ)などは、物語のさきが読みたくて、父親にねだり、それで道長紫式部の留守中、部屋をあさつて、実家から持つて来てある下書を探し出して娘に渡す。ほんとに困るなんて日記に書いてある。とにかくすごい人気だつた。

 公任などはまだ「須磨」「明石」のへんまでも行つてなかつたかもしれない。本を借りるのが大変だから、どのへんを読んでゐるかで序列化される。ちようど左京でも上京(かみぎょう)のほうは地価が高く六条以北なら安いし、右京には落ちぶれた人が住んでゐたと同じやうに。公任は必死になつて道長に取入らうとしてゐたから、その権力者と親しい仲になつたお女中から軽んじられるといふこともあつたらう。しかし「若紫」あたりであの物語を推しはかられては迷惑ですといふ、自負心もあつたのではないか。いいえ、もつとさき、このあひだ書きあげたばかりの「藤裏葉」までで決められるのも困る。あの物語には理想的な主人公を扱ふサクセス・ストーリーといふ側面もあるけれど、でもそれは「藤裏葉」までで、理想主義小説を突きつめたあげくのどんでん返しをこれから書かうとしてゐるのに。これまではむしろ準備、用意、伏線なのに。そんな気持だつたらう。(中略)

 しかしそんなに気負つてゐても、作者としての不安は、寝殿造の邸の下を流れつづける水のやうに絶えなかつたらう。どんな小説家だつてそれが普通かもしれないが、この場合は特別な条件が加はつてゐる。心配になる一番の理由は、道長が、あれほど認め、褒めてくれるくせに「輝く日の宮」を除いた形で流布させ、しかもそれについて、関係が生ずる前はもちろん、親しい仲になつてからも、何も語らないことだつた。あの巻なしの形で読んだのでは、当然、筋はみちのくのをだえの橋さながら、たどりにくくなるのに、不思議なことに読者たちは、脱落ではなく飛躍と取つたやうである。いや、もつと気もそぞろな読み方で、読んだり聞いたりしてゐるのだらうけれど。つまりあの処置はあれでよかつたのか。でもあれではあんまり、などと彼女は悩んだ。

 不安がいつそう昂(こう)じたのは、道長の問はず語りめく話を聞くやうになつてからであつた。はじめのうち、その色ばなしのかずかずはまことに興が深く、魅惑された。巧みな絵師の描いた絵巻を、いきを心得たお女中が然るべき速さでくりひろげ、巻いてゆくときのやうで、おもしろくてたまらない語り口だけれど、思ひ出話を裏打ちする現実感の強さにいつも驚かされた。まるであの『蜻蛉日記』の細部のやう、と。かういふ実感、あたしの書いたものにあるかしらと反省すると、たとへば「花宴」の、出会ひがしらに犯す、向うも喜んで犯されるあの場面でも、何か小説的な勘どころをもう一つ押へてゐない。われながらもどかしい。ほかの巻でも似たやうな欠点がいろいろある。とすれば、これだけの材料を寝物語でせつかく手に入れたのに、それきりはふつて置くのは勿体ない。これを取入れれば光源氏が段違ひに颯爽と歩きまわるし、喜劇的な趣も備はるので、いい男がいつそう魅力を増す。今までの書き方では理想と貴公子を描かうといふ狙ひのせいで、どうしても賛美ばかりしてゐて扱ひ方にむごさが足りない。しかし、幾夜もかけて耳にしたかずかずの挿話は若いときの話で、これからの、中年以後の光源氏には向かない。どうしよう、どうしたものかしらと思ひあぐねてゐるうちに、あるとき、今までの巻と巻とのあひだに適当に挟めばいいといふ案がひらめいた。あ、これいいぢやないの。

(中略)

 

  1008  寛弘五年 十一月中旬、中宮の発意で内裏(だいり)還御(かんぎょ)に当り、帝へのお土産として、『源氏』の豪華本を御前で作る。

         この月、道長より中宮への贈り物あり。見事な細工の品を収めた櫛の箱。手箱が二つあつて、上には藤原行成と延朝の筆蹟による三代集(『古今』『後撰』『拾遺』)、下段には大中臣能宣清原元輔のやうな歌人の私歌集。すばらしい造本。

  1009 寛弘六年 三月、為時、左少弁(さしょうべん)に任ぜられる。この年、高階積善撰『本朝麗藻』成る。

 

紫式部日記』にはただ物語としか書いてないけれど、これが『源氏』なのは言ふまでもない話だし、それに中宮の発意とはいふものの、道長が発案したに決つてる、と安佐子は考へる。やはりこれはお女中たちが中宮の前で清書してゐたのではなく、ほうぼうに依頼して出来あがつて来た清書を、製本してゐた。道長は顔を出して、はしやいで、冗談を言つたり、上等の紙や硯を持つて来たりした、と日記にある。『源氏』の成功が皇子誕生と重なつて、二重に嬉しい。

 この満悦の体(てい)と、翌六年春、為時が左小弁(筆者註:詔勅を書く役)に任ぜられたこととは明らかに関連がある。(中略)

 ここで帝への贈り物の件に戻ると、問題なのはこのとき『源氏』がどの巻までかといふことである。いくら考へてみても「藤裏葉」までで、つまり光源氏は准太上天皇になり、六条院に帝の行幸があつて、源氏一族の栄華の極みといふ所まで。これだと区切りがよくて、すっきりしてるし、光源氏が明石から帰つてからここまでは、一気に筆が進みさうな気がする。もちろん「玉鬘」から「真木柱」までのもたもたした十巻は除いての話。あのへんはあとで入れたので、どうも入れ方がうまく行つてない。それから「末摘花」とか「蓬生」とかb系全部もないし、もちろん「輝く日の宮」も道長の判断ではいつていない。つまり

 ① 桐壺

 ⑤ 若紫

 ⑦ 紅葉賀

 ⑧ 花宴

 ⑨ 葵

 ⑩ 賢木

 ⑪ 花散里

 ⑫ 須磨

 ⑬ 明石

 ⑭ 澪標

 ⑰ 絵合

 ⑱ 松風

 ⑲ 薄雲

 ⑳ 朝顔

 ㉑ 少女

 ㉜ 梅枝

 ㉝ 藤裏葉

の十七巻を差上げた。そして「澪標」以後のはかどり方は大評判になつて、そのせいで道長の次女姸子は父親にねだつて下書のほうを手に入れたりした。あの挿話は、娘ごころと親ごころの取合せがいいので、何べん思ひ出しても楽しくなる。そのことを日記に書くときの紫式部の文体の嬉しさうなこと。作者冥利(みょうり)に盡(つ)きる思ひだつた。

 そして同じ時期に、帝への贈り物は『源氏』、中宮への贈り物は三代集としたのも、『源氏』の格をあげるための道長の策略だつた。こんな具合に配慮してもらつて、万事うまくゆき、好評で、紫式部道長にお礼を言上した。閨の外でも、共寝しながらも。そしてa系の物語の合間合間に、道長の体験談がヒントになってゐるb系の説話を入れたいといふあの計画を打明けた。道長は、若いころの自分の面影が光源氏二重写しになるといふ話にいたく満足して、しかし、「おや、また物入りだ」などと紙の消費を嘆く冗談を言つたことだらう。「紙屋院(かんやいん)をもう一つ建てなければ」などと。そして紫式部は、「実はもつと要るのでございます」などと恐縮して、光源氏の一代記を終へたら彼なきあとの世を書くつもりといふ計画を口にしたと思ふ。つまりd系(筆者註:「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖)。といふのは、多分このころ物語全体の眺望が見えてきたはずだから。光源氏の魅力によつて、儒仏二教到来以前のこの国の、モラルといふか気風といふかをいはば時代物のやうな調子で書かうとしてゐた彼女が、ここまで書き進めてきて、そして道長から聞いた話を使つて光源氏をもつと生き生きと活躍させることができさうな気になつて、そこで光源氏がゐなくなつたあとの現代物といふ形で古代的なものの喪失を嘆く、世界の衰弱を悲しむ、さういふことを、すなはち「匂宮」から「夢浮橋」までを、心に思ひ描いたのではないか。

 光源氏の死後、世の中が小ぶりになるといふ史観は、紫式部の最初の構想の底に予感のやうな形でおぼろげにあつた。事実、さういふふうに描かれてゐる。つまり古代の終焉。そしてこの話を聞いた道長は、わが意を得たみたいな思ひだつたらう。だつて、歴史哲学といふか、史論として、自分の考へ方に近いから。道長はかなり似てゐる史観をいだいてゐたはずだ。伯父に一条摂政伊尹(これただ)がゐて、その家集といふか、ほとんど恋歌(こひか)ばかりの本の冒頭で、近頃の若い貴族は利口になつて、われわれのころと違つて愚かな恋をしなくなつたやうで寂しい、みたいなことを言つて同時代を批判してゐた。あれはつまり色好みがすたれて気風がちんまりとしてきたと嘆いたので、甥の道長のほうも同じことを感じていたはず。そしてこの古代的なものの衰弱と仏教の末法思想とが、からみ合ひ、重なり合つて、平安中期の精神史の、世も末だみたいな風潮が形成されて行つた。実際『源氏物語』は、さういふ二つの思想の融合として出来あがつてゐるし、その点でも道長と共通したものを持つ。あの物語はじつにいろいろな意味で、紫式部道長との合作だつた。

(中略)

 

  1009 寛弘六年 六月、再度懐妊の中宮、土御門邸へ。

        紫式部随行。十一月、敦良親王誕生。

  1010 寛弘七年 二月姸子、東宮に入侍。

        この年b系成立。ただちにc系(筆者註:「若菜」「柏木」から「竹河」まで)に取りかかる。

 

 娘である中宮のまはりに、自分と関係のある女を配置するのが道長の常套手段で、とすれば情報を受取るのは共寝のときが多かつたはず、と安佐子は考える、大勢ゐたわけだし、当然、実事ありになるはずだから(でなければ相手が承知しない)、かなりタフだつた。

 政治家は、妥協とか、欺瞞(ぎまん)とか、懐柔とか、恫喝(どうかつ)とか、いろいろな手を使ふ。血を流すのは好きな政権もあるし、嫌ひな政権もある。一般に荒つぽいことをしないのが公卿の流儀だつた。保元の乱からはちよつと別になるけれど。菅原道真の流刑それとも左遷でさへ、あれだけみんなに厭がられた。そして道長のやり口は、いざとなると果断であるけれど、むしろ政敵を自滅させる策を選ぶ傾向がある。とすれば「輝く日の宮」を書き直させないで湮滅(いんめつ)するといふ手を思ひついたのは、いかにも彼らしい。ずるくて、しやあしやあとしてゐて、後くされがない。はじめは呆気に取られてゐたが、「帚木」を書き、「空蝉」「夕顔」と進んでゆくと、だんだん気持が変つて、すごい解決策だと思ふやうになつた。現実処理の能力といふか、工夫の才に舌を巻く思ひだつた。

(中略)

 b系の巻々は好評だつた。道長の体験談を使つてあるので妙になまなましいし、それに作者の腕だつてぐつとあがつてゐる。これはもうすこしさきの話だけれど、「玉鬘」にはじまる十帖はすこしもたもたしてゐる。でも、あれだつて、いろんな趣向で釣つてゆく。筋の流れの太い線でぐいぐい引張つてゆくわけではないにしても、部分的にはおもしろいし、うまい。いよいよ人気を博した。

 それで「真木柱」で玉鬘が髭黒の大将といつしよになつて、光源氏の彼女に対する恋ごころが変な形で結着がついて……何だかあそこの始末のつけ方、強引だなあと思ふけれど……とにかくb系を書きあげ、それがa系の終りの二巻「梅枝」と「藤裏葉」につながる。明石の姫君の入内(じゅだい)が近づき、夕霧と雲居の雁の恋がうまくゆき、源氏は准太上天皇になつて、幼いころ高麗人(こまびと)の相人が述べた予言が、的中といふか、成就した。サクセス・ストーリーの完結。理想主義小説の理想が全部かなつた。a系とb系が合体して、いはばダブル・プロットがきれいになひ合せられた。そこで紫式部はすぐにc系にとりかかる。これは光源氏の晩年で、女(をんな)三(さん)の宮(みや)といふ若い姫君の降嫁があつて、もともとは朱雀院(すざくいん)の帝の押しつけだけれど、光源氏もまんざらではなかつた。色情の面でも、貴い初花には関心があるし、それにこの方を引受ければ朱雀院の厖大な財産がついて来る。ところが、柏木の寝取られ、柏木の子を自分の子として育てる羽目になる。その姦通事件の一部始終から源氏の死までをたつぷりと叙述する。紫式部はどうやらかなりしよつちゆう宿下りして、それも中河の邸ではない別の所に仕事場があつて、そこで書きつづけた様子。「若菜上下」と「柏木」は前まへから楽しみにしてゐた巻々で、『源氏物語』全体の急所だし、自分がやうやく、人生のこんな皮肉な局面――人間にとつて理想の叶(かな)ふことがどんなに不しあわせなことか――を書けるやうになつたといふ思ひもある。心が弾んでゐたにちがひない。ちようど都へ向ふ望月の駒や霧原の駒が逢坂の関にさしかかつたときのやうに。

 それで多分このあたりで「輝く日の宮」が焼かれた。こんなこと空想するのはあたしの悪い癖だけれど、と安佐子は自分に語りかける。(中略)

 

  1011 寛弘八年 二月、為時、越後守に任ぜられる。六月、一条天皇、病のため三条天皇に譲位。八月、姸子、三条天皇の女御となる。

  1012 長和元年 彰子、皇太后となり、紫式部は引続き仕へた。

  1014 長和三年 二月、後一条天皇(敦成=母は彰子)即位。六月、為時、越後守を辞す。甥にして婿である藤原信経に譲るため。

  1017 寛仁元年 八月、敦明親王東宮を辞し、小一条院院号を授けられ、准太上天皇となる。

  1018 寛仁二年 彰子、太皇太后となり、紫式部は引続き仕へた。

        紫式部藤裏葉」に加筆か。

  1020 寛仁四年 菅原(すがはら)孝標女(たかすゑのむすめ)、京に上り、翌年(?)かねて熱望してゐた『源氏物語』五十余帖を入手、耽読する。

  1027 万寿四年 十二月、藤原道長没。

 

 a系とb系との結合でいよいよ興趣が増し、人気が高まつたので、道長は気をよくして、その結果、為時が越後守になつた。(中略)

 敦明親王が准太上天皇となるのは『源氏物語』に示唆を得ての処置といふ清水好子先生のおもしろい説があつて、この策を思ひついたのは道長にちがひないが、これが世に受け入れられると彼が見たことは、この年、寛仁元年には『源氏』はずいぶん広く読まれてゐたことを示す、と安佐子は考へる。もちろん『夢浮橋』まで書きあげてゐた。それは菅原孝標女が東国にゐたころから『源氏』の評判を知つて憧れてゐたことでもわかる。長和三年に為時が越後守を甥であり婿である信経に譲ることを許されたのも、案外、『源氏』の完成と成功を祝ふ意味合のものだつたかもしれない。ただし、それでも折りにふれて加筆してゐたけれども。》

 

                                (了)

     *****引用または参考文献*****

丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)

丸谷才一大野晋『光る源氏の物語』(中央公論社

*角田文衛『紫式部伝 その生涯と『源氏物語』』(法蔵館

*倉本一宏『藤原道長御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ

木村朗子『女たちの平安宮廷 「栄花物語」のよむ権力と性』(講談社選書メチエ

*『ビキナーズ・クラシックス 蜻蛉日記 藤原道綱母』(角川ソフィア文庫

*『ビキナーズ・クラシックス 紫式部日記』山本淳子編(角川ソフィア文庫