オペラ批評 ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』――「沈黙」と「愛死」に関する引用ノート

 

 

 誰しもワーグナートリスタンとイゾルデ』を論じるとなれば、ニーチェの『この人を見よ』の《あれこれ考え合わせてみると、私はヴァーグナーの音楽がなかったら、私の青年期を持ちこたえることが出来なかったと思う。(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチの示すあらゆる異様な魅力も、『トリスタン』の最初の一音で魔力を失ってしまうであろう》あたりの、いかに『トリスタンとイゾルデ』に麻薬的に魅了されたことから始まって(そして後年のニーチェの愛憎相半ばしたワーグナーへの毀誉褒貶のいきさつも眺めたうえで)、トーマス・マンの『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』におけるショーペンハウアーの「意志と表象」、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスへの言及や、マン『トリスタン』の短篇小説的魅力解説に触れるだろう。

 そのうえで、マティルデ・ヴェーゼンドーク宛の書簡(『トリスタンとイゾルデ』の産みの苦悩と愉楽、『トリスタン』前奏曲についての解説)や、ワーグナーによる「日記」、「未来音楽」、「移行の技法」といった音楽秘法的な一文を引用紹介するとともに、「トリスタン和音」「半音階」「モチーフ」について言及するのが一般的だ。

 ちょっと捻ったところでは、三島由紀夫が自分の原作を監督・脚色・主演で映画化した『憂国』があげられる。三島が選択した背景音楽は『トリスタンとイゾルデ』で、三十分ほどの映画で、九分の「第三章 最後の交情」は『トリスタンとイゾルデ』の第二幕の交情に、八分もの「無為の待機」として「沈黙」のうちに続く「第四章 武山中尉の切腹」は第三幕の「愛死」に合致する音楽であることに違いない。しかし、丸谷才一が「女の救はれ」で論じたような、日本文学における「お初徳兵衛」「梅川忠兵衛」「小春治兵衛」「お染久松」「おかる勘平」といった女人の名が先に来る仏教的な救われではなく、あくまでも男トリスタンが主体(シェイクスピアロミオとジュリエット』、ダンテ『神曲』の「パオロとフランチェスカ」も同様)であって、しかもワーグナーに顕著な、女に救われる男の独りよがりな死への悦楽と言えるだろう。

 他にも、近松心中物(皮肉なことに形而上的なものの欠如ゆえに涙を誘う)との比較論や、T.S.エリオット『荒地』での『トリスタンとイゾルデ』からのパスティーシュや、村上春樹文学におけるワーグナーの登場頻度などを語ることができようが、ここでは寄り道しない。

 それらよく知られた道筋、解説は容易にたどれる(アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス ワーグナー トリスタンとイゾルデ』は網羅的だ)ことから、ここでは『トリスタンとイゾルデ』における哲学的問題としての「沈黙」と「愛死」に関する優れた論考を引用したい。

 

「沈黙」については、カール・ダールハウスとハンス・マイヤーの論考が核心を摘出している。

 

<「ハンドゥルング(行為、劇の展開)」>

《《トリスタン》はワーグナーによって<ハンドゥルング(行為、劇の展開)>(<音楽劇>ではなく)と副題を与えられているのだが、このシンプルな表記は人目を引かずにはおかない。実際《トリスタン》は、通常の概念からするとドラマとも叙事詩劇とも言えない代物なのである。もっともワーグナーは通常の概念など拒み続けてきたのであるが。3幕目の真中に位置しているという以上に、内容的にも作品の中心をなす第2幕において、無音のカタストローフとして成就するもの、それは、行為も、それどころか、そもそも言葉すら持たずに立ち現れる。すなわち、トリスタンとイゾルデの対話は伝統的ドラマの対照法からあまりにかけ離れており、いま話しているのが果たしてトリスタンなのか、イゾルデなのかほとんどどちらでも良いようにみえ、彼らの話す文あるいはその断片は交換が可能で、実際しばしば交換されている。》(カール・ダールハウストリスタンとイゾルデ」から)

 

 

 

<内面的な>

《第3幕について、すなわちトリスタンの負傷、カレオールへの逃亡、そして<女医イゾルデ>への苦渋に満ちた待望等は、――誤解に基づくマルケ王の和解について沈黙するために――ワーグナーによる筋書スケッチでは語られていない。このことが意味するのは、そもそも語り得るような<出来事>は、内面の出来事として、第2幕の出来事を持たない会話においてすでに先取りされていたものであり、それがここで外に現れたものに他ならないということである。「救済があるとしたら、それは唯一、死のみだ、没落すること、もはや目覚めないということだ!」。(中略)

 ワーグナー1860年に《未来音楽》の中で《トリスタン》についてこう書いている。「私の《トリスタン》詩劇をひと目見ていただければ、ただちにおわかりになると思いますが、歴史的題材を扱う詩人は、内面的モチーフを明白に示すのを不利益と考えて、行為の外的連関をこと細かく、詳しく説明するのに躍起のようですが、私はあえてこの内的モチーフだけを使うことにしました。つまり、完全に人を把える行為が現れるのは、最も内面的な魂がそれを必要とするときだけなのです。そして、それは内面であらかじめ形作られているそのままの姿で明るみに出るのです」。

 ドラマは少なくとも近代的な意味においては、いわば行為の媒体である対話において構成されるのであるが、この決定的な要因を、ワーグナーは《トリスタン》が<ハンドゥルング>の典型だと宣言するとき(これはじつは<ドラマ>を意味しているのだが)見誤っているのである。このことはしかし、この作品にドラマの弁証法が欠けているということではない。第2幕にある対話の本質はまさに弁証法なのである。とはいえ、この対話はドラマの規範に反して2人の人物の間の会話としてではなく、この人物の内面での内的な共有の事件として展開するのだ。》(同上)

 

<「響きわたる沈黙という深遠なる技法」>

《愛し合う2人の間で本当の会話が交されるべきときに、会話は我と汝の共存ではなく、我をもう一方の我の中で放棄することを目指す。愛し合う2人の返答は交換可能なのである。あの夜もまた真理へではなく、自己放棄の過程へと通じている。この過程は――いかなる死亡よりも前にすでに――死を意味し、と同時に歌をも意味するものである。したがってリヒャルト・ワーグナーの「響きわたる沈黙という深遠なる技法」という言葉は本当はそのように理解されねばならない。

 この愛の歌は、昼と妄想、生と名誉、憎悪と黙秘の終焉を告げ知らせるためのものなどではない。それは同時に2つのこと、つまり沈黙と音、死と歌とをもたらすのである。もし次のように考えるならば、それはトリスタンの底知れぬ深さを見誤っていることになるだろう。つまり、あのロマンティックな一夜のお膳立てが、昼と社会のあらゆる因襲から解放することによって、愛し合う2人に心の充足をもたらしたのだと考え、ここ、すなわちあの愛の一夜において人間の自己疎外の止揚が成功していて、それは、ちょうどシラーSchillerの《歓喜に寄せる歌Lied an die Freude》が伝え、またベートーヴェンの《第9交響曲》が奏でようとしたあの魔力、<時流>つまり因襲のあらゆる制約を勇ましく打ち破る人間的共感という、歪められていない真の感覚の魔力と似たようなものなのだと考えるならば。リヒャルト・ワーグナーベートーヴェンの最後の交響曲を好んでいた。しかし《トリスタン》は、ブルジョア社会における人間の自己疎外を啓蒙や倫理的な芸術によって取り除こうというこのような努力を引きつぐものではない。》(ハンス・マイヤー「トリスタンの沈黙」から)

 

<「黙することを私は学んだ」>

《トリスタンはアイルランドの王妃と彼女の医術の神通力を知っている。瀕死のタントリスは彼女のもとに教えを請いに行く。沈黙をも彼はそこで学ぶのである。「沈黙の姫」――船の天幕で最初に再会した際、この愛する敵の王妃のことをトリスタンはそう呼ぶ。もはや肝要なのは死ぬことであると悟ったとき、《トリスタン》の台本の大きな特徴である対照法の言いまわしを用いて、「気が鬱(ふさ)ぐ」と言う。

  沈黙の姫が黙っておいでですから/私も黙っています/姫が隠しておられることは、私にもわかっていますが/姫がおわかりにならないことは、私も黙っています

 沈黙の姫が沈黙を教える。彼女のもとで学んだトリスタンは沈黙の術に関してはいまやこの姫さえも凌駕したと考える。なぜなら彼は彼女が隠して言わなかったことを見抜いていて、しかし自分が彼女に隠さねばならなかったことは知られていないと思い込んでいるからである。しかしそれは思い違いなのだ。なるほどイゾルデはタントリス(筆者註:トリスタンの偽名)の事情をトリスタンに思い返させていた。「黙することを私は学んだ」、そして死の誓い、「このことは沈黙を守ると誓ったのだ」。しかし内心ひそかに彼女は彼女でまた別のことに気づいていたのである。イゾルデの「私の夫として選ばれた者が――私のもとから失われた」という言葉は、単に彼女がトリスタンを愛していると内心気づいていることを意味している。》(同上)

 

「愛死」についてはスラヴォイ・ジジェクが『オペラは二度死ぬ』で長い論考を提出している。

 

ショーペンハウアー経由の)仏教的涅槃と形而上学的エロティシズムと>

《では、イゾルデはなぜ歌うのか。まず最初に銘記すべきは、イゾルデの最後の歌がもつ、行為遂行的で自己再帰的〔自己反省的〕な側面である。(中略)崇高な愛死Liebestodの瞬間にあっては、イゾルデの歌そのものが問題となるのである。ここで歌は単に彼女の内面を、命をすてることによってトリスタンと結合するという彼女の願望を、表現しているだけではない。彼女は歌うことによって、歌に没入することによって、死ぬのである。いいかえれば、声との同一化の高まりこそが、彼女の死の手段なのである。

 では、何がこの愛死を構成しているのだろうか。答え、つまり(ショーペンハウアー経由の)仏教的涅槃と形而上学的エロティシズムとのワーグナーによる折衷主義的な結合という答えは、明白であるようにみえる。構造的な対立は、昼と夜のあいだにある。つまり、象徴的な責務および名誉からなる昼の宇宙と、夜においてその宇宙がエロティックな自己消去へとむかう「至高の悦楽höchste Lust」を通じて廃棄されることとのあいだにある。》(スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』から)

 

<生を過剰に享楽したいという欲望>

フロイトによるエロスとタナトスの対置に対してワーグナーがあたえる解決は、その二極の同一性である。つまり、愛そのものは死において極点に達するのであり、愛の真の対象は死であり、愛する者を恋いこがれることは死を切望することなのである。フロイトのいう死の欲動Todestrieb)は、ワーグナー的主人公にとりついた衝動なのだろうか。われわれは、まさにワーグナーを参照することによって、フロイトのいう死の欲動は、自己消滅に対する、いかなる生の緊張もない無生物的な状態への回帰に対する渇望とはいっさい関係がない、ということを理解できるようになる。死の欲動は、死に安らぎを見出すことを望むワーグナーの主人公に備わっているのではない。それとは逆に、死の欲動は、死ぬこととは正反対のもの(・・・・・・・・・・・・)――死を迎えられないまま続く永遠の生そのものの状態につけられた名前、罪と苦痛にさいなまれながら、いつまでもひたすら彷徨を続けざるをえないという恐るべき運命に対してつけられた名前――である。したがって、ワーグナー的主人公が終局でむかえる死(オランダ人、ヴォータン、トリスタン、アムフォルタスの死)は、彼らが死の欲動の支配から解放(・・)される瞬間なのである。トリスタンが第三幕において絶望的な状態にあるのは、死への恐怖からではない。イゾルデがいなければ彼は死ぬことができず、永遠の渇望状態にとまることになってしまうからなのだ。彼は死を可能なものにするために、イゾルデの到着を待ちこがれる。彼が恐れるのは、イゾルデを見ぬままに死ぬこと(恋する者によくありがちな不満)ではなく、むしろ、彼女を欠いたまま終わりなき生を送ることなのである。したがって、ここでフロイトのいう死の欲動のパラドクスがはっきりする。死の欲動とは、その語が予想させる意味とは正反対のことに対して、不死ということ(・・・・・・・)が精神分析の内部に現れる事態に対して、生の不気味な過剰性に対して、生と死、生成と頽廃の(生物学的な)循環をこえて存在しつづける不死の衝動に対してフロイトがつけた名前なのである。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「単なる生」ではないということである。つまり、人間は単に生きているのではなく、日常的な事物の成り行きを脱線させる剰余に強い愛着をいだきながら、生を過剰に享楽したいという欲望に取り憑かれているのである。

 過剰なまでに満たされた生を経験すべくそのように奮闘すること。それがワーグナーのオペラの内容である。この過剰性は、主体を不死の状態にする傷というかたちをとって人間のからだに刻印され、死ぬための力を主体から奪っている。》(同上)

 

<侵犯行為>

トリスタンとイゾルデの神話は、愛とは、あらゆる社会的、象徴的紐帯を一時無効にするラディカルな侵犯行為である、という宮廷恋愛の原則をあますところなく表現した最初のものである(この原則が必然的に行き着く先は、愛と結婚は両立しえないということである。社会的、象徴的な責務にしばられた宇宙の内部では、真の愛の不義というかたちをとらざるをえない)。しかし、侵犯行為としての愛という概念をもうしぶんなく現実化している点だけにワーグナーの『トリスタン』を還元するのは、単純すぎる話である。『トリスタン』の偉大さは、その表向きのイデオロギー的企図と、テクストに緻密に刻印された、その企図に対する距離感とのあいだの緊張関係に存するのだ。アルチュセールであれば、こういっただろう。ワーグナーエクリチュールは、それ自身の明示的なイデオロギー的企図を掘り崩す、と。『トリスタン』というオペラは、自己消滅へとむかう夜への沈潜を言祝いでいるようにみえる。しかし、それは実際には何を表現しているのか。この自己消滅の最初の試み(第二幕の二重唱)は、芸術史におけるもっとも暴力的な性交中断といってもよいブランゲーネの叫びによって冷酷にさえぎられる。第二の試みは成功するが、しかし、それはずれをともなっている。愛し合う二人は、いっしょに死ぬのではない。順々に死ぬのである。二人の死は、平凡な外部の現実の侵入によって――ふたたび――切断されるのである。まずはじめにトリスタンが死ぬ。それは、彼が突如ヒステリーをおこしてイゾルデの到着の「光を聞く」ときにことである。続いてイゾルデが死ぬ――いや、彼女は本当に死ぬのだろうか。本章全体は、ジャンーピエール・ポネルによる一九八三年のバイロイト公演を支持するための議論として読むことが可能である。その上演では、実際に死ぬのはトリスタンだけである。イゾルデの出現と死は、死を迎えたトリスタンが見る幻想にすぎない。》(同上)

 

独我論的な夢に沈潜する>

《『トリスタン』におけるワーグナーの明示的なイデオロギー的企図がラディカルであるのは、その表面上の単純さにおいてである。それは、その導き手であるショーペンハウアーが反対しているものを取り込んでいる。ショーペンハウアーにとって、救済とは、生への意志――性的渇望はその究極の表現である――が完全な自己消滅を果たすことにほかならない。これに対しワーグナーは、この二つの対立物を単に結び合わせるだけではない。彼からすれば、われわれが完全に性愛に身をゆだねることは、贖罪的な自己消滅をもたらすのである。したがってわれわれは、(たとえば『ロミオとジュリエット』とは対照的に)ワーグナーの『トリスタン』が悲劇ではなく、探し求めていた至福に到達するという「幸福」な結末をもった神聖な美学的―宗教的楽劇である、ということをけっして忘れるべきではない。(中略)最後に愛する二人が死をともにすることは、ロマン派オペラではよくあることである――ベッリーニの『ノルマ』における、あの意気揚々とした「いっしょに死のう」を思い出せば十分だろう。これをふまえて強調されるべきは、この死の共有を明示的なイデオロギー的目標にまで高めたオペラであるワーグナーの『トリスタン』において、そもそもこの共有が実際には起きていない(・・・)、ということである。音楽において、愛する二人はいっしょに死ぬようにみえる。しかし、現実には、二人は順々に死に、それぞれの独我論的な夢に沈潜するのである。》(同上)

 

<日常的現実の介入>

《では、『トリスタン』の三つの幕のどれもが、死を求める企て(第一幕における毒をあおる行為、第二幕における愛の二重唱、およびメーロトに命をあずけるトリスタン、第三幕における、ブランゲーネの到着によって中断されるイゾルデの恍惚状態)において山場をむかえるのだとすれば、そして、そのたびごとにこの企てが日常的現実の介入(毒のすりかえと、コーンウォールへの到着を告げる船乗りたちの合唱、愛する二人の耽溺状態に割ってはいるマルケ王の到着、そして第三幕におけるブランゲーネと王の到着)によって妨げられるのだとすれば、ここでラカンのいう現実的なものは、どこにあるのだろう。それは、二人が消滅する場として望む夜なのか、それとも、この自己消滅の恍惚状態をさまたげるものの予期せぬ介入なのか。逆説的ではあるが、現実的なものとは、現実が崩壊する場としての夜の深淵ではなく、なんども現れては脱我的な夜への沈潜というなめらかな動きをさまたげる偶発的な障害物のことである。この障害物は、空想的な夜への沈潜を内側から掘りくずす内在的な不可能性を物質化しているのだ。

 トリスタンとイゾルデが希求するのは、互いの差異を無化するものへと、合わせ鏡の像のように二人で沈潜することである。これこそが、第二幕の長い二重唱の内容である。その(いささか早まった感のある)結びはこうなっている。「あなた(わたし)はイゾルデ、トリスタンは(わたし)(あなた)、もうトリスタンではなく! もうイゾルデではなく! 名を呼ぶこともなく、離れることもなく、新たに認め合い、新たに燃え上がる。とこしえに果てなく喜び(意識)をひとつにして、永遠に成長する愛、こよなく高い愛の喜び」。分節言語は、このプロセスにおいて崩壊しているようにみえる。それは、シンタックスが不明瞭になるにつれて、ますます子供じみた、反転する鏡像のようになってゆく。(中略)誰にも制止できない、この自己消滅という究極の至福への上昇は、突然、暴力的に(これ以前に、夜はすぐに去ってしまうと二人にやさしく忠告していた)ブランゲーネによって中断される。ワーグナーによるト書きはこうなっている。「ブランゲーネがけたたましい叫びをあげる。トリスタンとイゾルデは恍惚としたままである」。昼の現実が介入し、マルケ王は恋人たちを驚かす。ここでは二つの特徴が重要である。第一に、恍惚としたメロディの高まりは、不明瞭な叫びによって中断される。第二に、この叫びは、完全な不意打ちのかたちで暴力的な突発事態として介入するのだが、にもかかわらず、それは厳密な構造的理由からみて必然的であり、自己消滅という空想の完全な実現を内的にさまたげる障害を具体化している。(中略)ここではあたかも、過剰な享楽jouissanceに接近しすぎたために、至福がその対立物に変わらざるをえないかのようなのだ。したがって、真のトラウマは、至福への没入を中断する外的現実の介入ではなく、喜びがその対立物に転化することである。客観的現実が介入するのは、内的な障害を外在化するため、この介入がなかったら至福への没入は絶頂をむかえていたはずだという空想を支えるためなのである。》(同上)

 

<相互受動性>

《第二幕の長い二重唱を注意深く読めば、トリスタンの立場とイゾルデの立場の差異を示す微細な、しかしきわめて重要な特徴が、おのずと明らかになる。長い再帰的〔反省的〕なやりとりから、有名な「そうであるなら死のうではないか、離れることなく」ではじまる最後の雄弁な恍惚状態への移行の直前、すなわち、たとえかねてから望みの死を手にすることになったとしても自分の内部の愛は死に絶えることはない、とトリスタンがくだくだと語ったあと(「トリスタンの愛が死なないのなら、どうしてトリスタンがその愛のために死んだりしようか?」)、イゾルデはやさしく、しかしはっきりと彼に悟らせる。この愛にあっては、あなたはひとりではないのだ、と。「しかし、私たちの愛は、トリスタンと――イゾルデという名ではないの?」。トリスタンが、死は二人の愛を破壊しないだろうという主張を繰り返すとき、イゾルデは二人の死の仕組みを簡潔に提示する。「しかし、この<と>という小さな言葉――もし万一それが壊されれば、どうしてイゾルデ自身の死を通じてトリスタンが死を迎えることができようか」。要するにトリスタンは、イゾルデの死において、そしてイゾルデの死を通じて、はじめて死ぬことができるのである。だとすれば、ワーグナーの『トリスタン』は、死そのものの、「死ぬと想定された主体」の相互受動性を示す最たる事例ではないのか。トリスタンは、自分の死をイゾルデに移す/ずらすことによってはじめて死ぬことができる。いいかえれば、彼が死ぬことができるのは、イゾルデが彼の立場に立って、彼のために死に至る自己消滅の至福を十全に経験するかぎりにおいてである。さらにいいかえよう。『トリスタン』第三幕で現実に起きているのは、トリスタンによる長い「夜の底への航海」だけである。それに対してイゾルデの死は、トリスタン自身の空想的な補充物、彼が平穏に死ぬことを可能にする、錯乱した精神のうみだす構築物である。》(同上)

 

<回想のサイクルの反復>

《傷ついたトリスタンが第三幕においてたどる内面の旅は、二つのサイクルを描いており、どちらのサイクルも回想―悪態―再転落―期待という流れとして構造化されている(Kernan)。第三幕においてもトリスタンは、すでに生ける屍になっている。そこでの彼は、二つの死のあいだに住まい、もはや現実に足場をもっていない。また、夜の至福の領域から昼の生へと連れ戻された彼は、ふたたび夜の領域にもどることを望んでいる。最初のサイクルにおいてトリスタンは、イゾルデに対する自分の愛を呪っている。その愛によって彼は、「広大な、果てしない夜の国」から昼の平凡な現実へと引きずり出されたからである。「私のもとを訪れ、私を悲嘆にくれさせた愛、それが光を見よと、私を追い立てたのだ」。イゾルデへの愛がある以上、トリスタンがふたたび平安を得るためには、彼は彼女との結合を果たすしかない。「私は彼女を求め、見とめ、見出さねばならない。トリスタンが救われるには、彼女と結ばれるしかないのだから」。この回想は、彼の平安を乱した昼に対する悪態において最大の山場をむかえる。「呪わしいのは、昼とその輝き!」。体力を消耗しきって衰弱した彼は、幻覚のなかでイゾルデの到着をみることによって活力を取りもどす。「近づいてくる! 近づいてくるぞ、思い切った速さで! はためいている、ひるがえっている、マストに旗じるしが。船だ! あの船だ! あそこの岩礁をかすめて来る! あれが見えないか? クルヴェナル、あれがお前には見えないか!」船が実際には来ていないことを知って意気消沈したトリスタンは、さらなる回想へと沈んでゆく。彼は自分の置かれた、終ることのない苦境を適切に表現したあと(「私は死を憧れているにもかかわらず、まさにこの憧れによって死ねなくなっている!」)、そうなった原因は媚薬にあると断定する。「私は、あの飲み物が私をすっかり癒してくれることを望んだ。しかし、そうはならず、私には強力な魔法がかけられた。私を殺すのではなく、私をとわの苦しみに委ねるために」。しかし、彼はその飲み物を呪いはしない。それどころか、彼はこう認めるのだ。幼年期における両親の死にはじまる出来事をよりあわせて、そこからこの飲み物を醸造した(つまり、己の悲しい運命を調合した)のは自分である、と。「私が、私自身が、その媚薬を醸したのだ。父の苦しみと母の痛みから、愛の涙のしずくの、折々に流されたものから/……私は狂気の媚薬を蒸留したのだ」。その結果として、この原―フロイト的な自己分析は、最終的に、トリスタンが自分の運命の責任をすべて引き受けることに、自分を呪うことに行きつく。「呪われてあれ、無慈悲な薬よ! 呪われてあれ、それを醸した男よ!」。ここで起きている反復は、重要である。ひとは一気に真正な立場にたつことはできないのだ。最初の試みは必然的に、物象化による神秘化に行きつくのだが(「それは<運命>だ、私ではない!」)、回想のサイクルを反復することによって、ひとははじめて実際に自分の過去を受け入れられるようになるのである。》(同上)

 

<「光を聞く」>

《トリスタンが自らの主体的立場を明らかにしたあと、あたかもそれによって条件が整ったかのようにイゾルデが到着する。悪態をついたあとで第二の虚脱状態におちいったトリスタンは、新たな期待にみちた熱狂を手にするが、今回は正しかったことがはっきりする。羊飼いは、もの悲しい懐かしい調べに代わって陽気な歌を演奏しはじめ、イゾルデの船が本当に到着したことを知らせるのだ。この知らせに対するトリスタンの反応は重要である。幻覚を生み出す暴力的な狂気を爆発させながらトリスタンは立ち上がり、負傷個所の包帯を引き裂いて、あえて自分から血をながす。なぜなら、彼はこの時、自分はいまようやく死ぬことができる、と悟るからである(ようこそ、我が血よ! 楽しく流れろ! 世界のなかに溶けてしまえ、私が彼女のもとへと急ぐあいだに)。そして、複数の感覚を融合させた最後の、特異で突発的な幻想(「なんと、私は光を聞いているのか?」)のなかで、彼はイゾルデの腕に抱かれて死んでいく。この「光を聞く」は、不可能な現実界との出会いの、もっとも純粋なかたちではないのか。要するに、対象―声がもはや(耳で)聞くことのできないものである以上、それを知覚する唯一の方法は眼を用いることであり、また逆に、視覚的対象(眼差し)を知覚する唯一の方法は、耳を用いてそれを聞くことなのである。おそらくこの一節は(オウガスト・エヴァーディングがかつて主張したように)、事実上、モダニズムの誕生を厳密にしるす場所であるといえよう。事実上、モダニズムの誕生を厳密にしるす場所であるといえよう。モダニズムは、このように異なる知覚の様態が交差し合うところからはじまる。それは、われわれが「眼で聞き」「耳で見る」ときにはじまるのだ。》(同上)

 

<愛死のおかれた位相空間

《劇の最後にくる愛死Liebestod――あるいは、ワーグナーがそう呼んだように、昇天というべきだろう、というのも、奇妙なずらしなのだが、愛死というワーグナーのつけた前奏曲の名称が、現在フィナーレの呼称として一般的に使われているからだ――は、自己消滅という永遠の至福のなかに飛び込んでゆくことを表している。これは、この時点にいたるまで繰り返し中断されてきた行為である。ここできわめて重要なのは、トリスタンとイゾルデの差異である。トリスタンは、死を迎えるにいたるまで、ヒステリー症的な神経過敏な状態にある。彼にあっては、死もまた前方への跳躍であり、それは穏やかな自己消滅や「なりゆきまかせ」ではない。そうした状態に最終的に到達できるのは、イゾルデだけであり、その意味においてまさに彼女は、トリスタンの空想なのである。したがって、イゾルデの死は、トリスタンの長い死の行程が終点をむかえる瞬間にすぎない。自己消滅へとむかう彼女の「至高の悦楽」への没入を通じて最終的に平安を得るのは、トリスタンなのである。最後の愛死の場面にあってイゾルデは、完全に男(トリスタン)の症候になっているのだ。それゆえに、イゾルデの最後の「アリア」は、第三幕(あるいはオペラ)全体の結びとして聴かれるべきであって、七分間の独立した作品として物神化すべきではない。その「アリア」は、分離されると意味を失う。なぜなら、そのときその「アリア」からは、背景、それが最終的に解決する緊張関係という背景が、失われるからである。イゾルデの愛死を独立した出来事として演出するという通常のやり方は、まったく見当違いである。そのように分離したのでは、愛死のおかれた位相空間が失われてしまう。つまり、イゾルデの最後の歌は、トリスタンの長い死の行程の終点であるという事実が失われてしまう。トリスタンは、イゾルデの幽霊を見守る純粋な眼差しに自己同一化するとき、はじめて最終的な解放を手にするのだ。》(同上)

 

<すべての悦びは永遠を欲する

《イゾルデの愛死Liebestodは、明らかに二つのパートに分かれている。最初のパートは平穏な物語であり、そこでは<他者>が呼びかけられるにしたがって、緊張関係が高まってゆく(「見えないのですか?……みなさん、彼をご覧なさい!」)。それに対して第二のパートは、イゾルデが孤独を受け入れるときからはじまる。そのとき彼女は、生きたトリスタンの微笑む姿は彼女にしかみえないことを認めている。「みなさんには感じられませんか、見えませんか? 私にしか、この奇跡にあふれた荘厳な調べは聞こえないのですか?」。(ここで注目すべきは、イゾルデがいかにトリスタンの知覚の混乱を反復しているかということである。彼女もまた、他人には見ることのできないものを聞いている)。

 イゾルデが命を奪いかねない性的な恍惚状態に没入することができるのは、こうして孤独を受け入れることによって、つまり、象徴的コミュニティから身を引き離すことによってである。これが意味するのは、第二のパートにおいてイゾルデは、ワーグナー的境遇を完全に受け入れ、トリスタンの夢の形象以外のものではなくなっている、ということである。要するに、性的な恍惚感に満ちたイゾルデの自己消滅という空想のなかで、トリスタンは、彼自身の現実の死を空想化するのである(ポネルの演出は、トリスタンがすでに彼の語りの最初のほうで、到着したイゾルデの船の幻影を見ていたという事実によっていっそう正当化される。ポネルはその幻影を反復しているにすぎないのだ)。この自己消滅へとむかうクライマックスにおいて、オーガズムによるいわゆる小さな死は、現実の「大きな」死と一致する。だから、ワーグナー的愛死Liebestodにおいて起きているのは、まさに二つの死の融合なのである。ラカン的な用語でいえば、われわれがここで扱っているのは、不可能なモノ—享楽jouissance―とその残滓、対象aとの破滅的な融合である。これは、『ツァラトゥストラ』に出てくる、永遠に享楽jouissanceを求めつづける夜の深淵をめぐるニーチェの詩「もう一度」のなかで、究極の表現を与えられている融合である(筆者註:ニーチェツァラトゥストラ』、第四・最終部「酔歌」12の「もう一度」の歌、「世界は深い、昼が考えたよりも深い。/……しかし、すべての悦びは永遠を欲する――深い、深い永遠を欲する!」)。》(同上)

                                 (了)

            *****引用または参考文献*****

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』(ジジェク「私はその夢を、見たくて見たのではない」所収)中山徹訳(青土社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス ワーグナー トリスタンとイゾルデ』(ディートマル・ホラント「「ここでは死が荒れ狂う」 ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》について」、ワーグナー「マティルデ・ヴェーゼンドンクに宛てた書簡」「《トリスタン》前奏曲についてのワーグナーの解説」「ワーグナーの<移行の技法>」「未来音楽」、ニーチェ「《トリスタンとイゾルデ》について」、トーマス・マンリヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」「ショーペンハウアーワーグナー」、エルンスト・ブロッホ「トリスタンの夜」「ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》における逆説」、カール・ダールハウストリスタンとイゾルデ」、ハンス・マイヤー「トリスタンの沈黙」、他所収)高木卓、須藤正美、尾田一正訳(音楽之友社

ニーチェ『この人を見よ』西尾幹二訳(新潮文庫

ニーチェツァラトゥストラ手塚富雄訳(中央公論社

ニーチェ悲劇の誕生手塚富雄訳(中央公論社

ニーチェ『反時代的考察』小倉志祥訳(ちくま学芸文庫

トーマス・マン『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』青木順三訳(岩波文庫

トーマス・マントーマス・マン短篇集』(「トリスタン」所収)実吉捷郎訳(岩波文庫

テオドール・アドルノヴァーグナー試論』高橋順一訳(作品社)

*カール・ダールハウスリヒャルト・ワーグナーの楽劇』好村冨士彦、小田智敏訳(音楽之友社

*ハンス・マイヤー『リヒャルト・ワーグナー』天野晶吉訳(芸術現代社

アラン・バディウワーグナー論』(附論:スラヴォイ・ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」)長原豊訳(青土社

*広瀬大介『もっときわめる! 1曲1冊シリーズ03 ワーグナー トリスタンとイゾルデ』(音楽之友社

*『決定版 三島由紀夫全集 <別巻>映画「憂国」』(新潮社)