文学批評 『花柳小説名作選』を読む(2)――徳田秋声『戦時風景』

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徳田秋声『戦時風景』>

 

《或る印刷工場迹の千何百坪かの赭土の原ツぱ――長いあひだ重い印刷機やモオタアの下敷になつていたお蔭で、一茎の草だも生えてゐない其のぼかぼかした赭い粉土(こなつち)は、昼間は南の風に煽られ、濠々と一丈ばかりも舞ひあがつて北の方へと吹き靡き、周囲の芸者屋や待合、又は反対側のアパアトや住宅の部屋のなかまで舞ひこむのだつたが、その沙塵を浴びながら汗みずくになつてゐた界隈の野球チイムや、ボール投げ、自転車乗りの少年達も散らばつてしまつて、東側の崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅の部屋のなかに、電燈がつく頃になると、きまつて幾つかの縁台が持ち出されて、白いパアパを着た年増、浴衣がけの若い妓、居周(ゐまは)りの若い人達の姿が、この殺風景な原の宵闇に透かされるのであつた。

 原つぱの南のはづれに、すしと焼鳥の屋台が二つ並んで見え、角に公衆電話が露出(むきだ)しに立ってゐる。風がそこからそよそよと吹いて来ると、焼鳥の匂ひと赭土に残つてゐる昼間の光熱とが、仄かに鼻に伝はつて来る。

「わたしは此の焼鳥の匂ひが大嫌ひさ。」

 縁台の傍にお行儀よくしやがんでゐる種次といふ六十幾つかの老妓が呟いた。この女は無論明治の末に創(はじ)まつたこの花柳界の草分け時分に、既に好い年増であつたに違ひない。今は気むずかしい家(や)の此の老妓をかける出先きも希だし、若い妓は怖(こは)がつて呼びもしないし、偶にかかつて来ても気の向かない座敷は「厭だよ、行かないよ」とぴたぴた断るのだ。

 縁台には芸者屋の姐さんと、その旦那らしい五十年輩の小(こ)でつぷりした浴衣がけの男とが腰かけてゐた。隅の方の柳の木の蔭で、若い芸者を二人とお酌を一人、それに待合の女中、近所の子供を多勢集めてきやつきやつといふ騒ぎのなかで、頻りに花火をあげてゐる、黒い洋服の若いお客がゐた。花火が引切(ひつきり)なし柳の木の下からしゆしゆと火玉を飛ばしてゐた。

 濡れたアスハルトの広い道路を、時々自動車が辷つて来て、入口の植込のあたりで客を吐き出して行く。空車も間断なく入つて来る。箱をかついで自動車に乗つたのやら、徒歩のやらの箱屋も影絵のやうに往つたり来たりしてゐる。三味線をひいて騒いでゐる明るい二階も浮きあがつて見えるのであつた。

「今日は少し動いてゐるね。」

 旦那らしい男が呟くと、

「さうね、大したこともなささうよ。奥さんや子供さんを避暑に遣つた人とか、避暑を遠慮した人がぽつぽつ入つて来るから、霜枯にしては少し好いくらゐのものよ、姐さんおかけなさい。」

「有難う。私はこの方が勝手ですよ。縁台はお尻の骨が痛くてね。時に戦争は何うなりますかね。」

「拡がりさうだね。」

「この辺でも随分行きましたよ。あすこの蕎麦屋さんに通りの自転車屋さん床屋さん。東タクシイでも若い人が二人も召集されて、自動車も二台御用なんですつて。あの現役のクリイニングの不良も、この春満州から帰つたばかりなのに、先月あたりから頓と姿を見せませんよ。」

「私は朝から晩まで新聞と睨みつこしてるんだけれど、年のせいか日露戦争の時なんかとちがつて、心配で心配でたまらないんですよ。何だか恁(か)うやつて長生きしてるのも済まないやうな気がして、お座敷でもかかったら、耳糞ほどの玉代でも献金しようと思つてゐるんだが、何しろ税金持出しの此の節ではね。」

日露戦争の時は何んなでしたの。」

「私はあのちよつと前まで、吉原にゐましたがね、日露戦争の時分は足を洗つて青山にゐましたよ、あの辺は軍人さんが多うござんすから、毎晩寝られないくらゐ近所がごつた返してゐたもんですよ。なかなか芸者をあげて遊ぶどころぢやない、世間はひつそり鳴りを鎮めてゐたもんですよ。後の騒ぎが又大変でしたよ。方々で交番の焼打が初まりましてね。」

「あの時分から世のなかががらりと変つた。吉原が火が消えたやうに寂れて、ちやうど――団菊が死んだりして歌舞伎の危機が来た。大概の古いものが影が薄くなつちやつたんだ。花柳界は何んなだつたかね。」

「今のやうなことはありませんね。何しろ当節は髪を洋髪にして、歌謡曲なんか踊るんですからね。芸者の値打が下りましたね。でも姐さん、それは時勢だから仕方がありませんよと言ひますけれど、私にや何が何だか薩張りわからない。第一昔しは春の出の帯を柳にしめられるなんて芸者は、一つ土地に十人とはゐなかつたもんですよ。今ぢや芸者の作法も何もあつたもんぢやない、猫も杓子も柳で反つくりかへつてゐる。私なんかは気はずかしくて到頭帯を垂らさない芸者で終りましたがね。お湯へ行くたつてさうです。今の妓供(こども)たちのお行儀のわるいこと。姐さんにお尻をむけて平気で流しを取つてゐる。昔しだつたら、何だ小汚ないおけつを出しやがつて、お前なんざ溝の外へ出てろと鉄火(てつか)な姐さんに呶鳴りつけられたもんですよ。」

「それに出先きが威張るやうになつて来ましたね。」

「さうですよ。芸者そつち退けてサアビスする達者な女中さんがゐるんですから。売りものだからたとへ何んな妓にしろ花をもたすのが真実ですからね。この間も或るお座敷でお客さまが、何だ彼奴は売らないんだと言ふ振れ込みなのに、聞いて見ればざらに売るんだと言ふぢやないかと言ふから、いいえ、それは違ひなせう、お客さまは言ふことを素直に聞くと、誰方(どなた)もさういふ風に気をおまわしになりますけれど、何うしてあの妓はそんなんぢやありませんから、安心していらつしやいつてね、何うせ芸者はその場きりのもんだから、それでお客が安心したか何うか知らないけれど、お茶を濁しておいたのさ。私はまたぐぢやぐぢやしたことが大嫌ひでね、少し悪党でもいいから、それかと言つて真実の悪(わる)でも困るけれど、歯切れのいいのが好きさ。」

 そこへ千人針をもつた仕込みらしい少女が二人組み合つてやつて来た。出てゐた時分から芸名春代姐さんが赤い糸を結ぶと、今度は種次が針をもつた。

「下町には大した千人針がありますね。羽二重や小浜のちやんちやん児に、大勝利だの万歳だのと、千人針の赤糸で縫ひ取るんですよ。」

「男の千人針もありますよ。」春代の旦那が言つた。

「そんなのあるか知ら。」

「その代り男のは黒糸なんだ。看護婦が締めるんだろ。」

「姐さんの子息さん生きてゐたら、矢張り出たでせうね。」

「そう、あれは震災の二年前でしたから。」

 工兵に取られて、除隊間際に肺をわづらひ、衛戍病院を出てから、種次の姉の青山の家で新らしく造つた離れの病室に一年ばかり寝てゐた果に死んでしまつた彼女の子息のことである。

「お座敷へ知らせが来たから、駈けつけて行くともう駄目。勝ちやん勝ちやんつて、余り私が呼ぶもんだから、煩くて行くところへ行けないから止してといつたきり……。でも安心さ。この年になつちや迚(とて)も。」

 そこへ又千人針が来た。そして其の縫つたところへ、通りがかりの土地の長唄の若師匠巳之吉が、ふらりと寄つて来た。

「何だ姐さん此処にゐるのか。今ちよつとお宅へ寄つて来た。当分お稽古はお休みだ。僕は今夜名古屋へ立つんだ。義兄が招集されたんで、後の整理をしに。」

 名古屋の姉の家は、曾つて巳之吉が小説好きの少年であつた頃働いてゐた本屋であつた。

「巳之さんは。」

「僕はまだ。足留くつてるから、直ぐ帰るけれど、千人針も二つ出来ましたよ。」》

 

・世情をにぎわせた山田順子とのスキャンダルと、プロレタリア文学興隆に押されての不振から数年ぶりに、昭和八年の『町の踊り場』で復活した秋声は、順子ものの総決算としての長編小説『仮装人物』(昭和十年七月~十三年八月)連載にかかるが、同時期に短篇小説『勲章』(昭和十年十月)、『のらもの』(昭和十二年三月)などで市井の男女の姿を描き出した。『戦時風景』(昭和十二年九月)もそのひとつである。

・山の手の花街ということでは白山であろうか。のちに官憲、情報局の干渉圧力により中断を余儀なくされた『縮図』(昭和十六年)の女主人公のモデル小林政子が白山で営む置屋での見聞に拠るのだろう。いずれにしろ、下町とは違った「赭土の原ツぱ」「崖の上に重なり合つてゐる其方此方の住宅」といった的確な情景描写から入って、登場人物をじわりと紹介してゆき、秋声がよく見た歌舞伎で言えば花道の出がうまい。

・秋声は読まれなくなったばかりか、批評も少ない。徳田秋声のガイド本に、柄谷行人中上健次古井由吉といった現代文学の担い手たちが言及、あるいは精読して自作品の参考とした、などとあっても、彼らがまとまった批評を残しているわけではない。数少ない研究者はどうしても自分の対象は擁護し、持ち上げたがるから、夏目漱石小林秀雄の批評に対しても、当時は逆の評価があったとか、読みが足りない、などと一蹴してしまいがちだ。

夏目漱石の『あらくれ評』(大正四年)は手厳しい。

《「あらくれ」は何処をつかまえても嘘らしくない。此(この)嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だろうと思うが、世の中は苦しいとか、穢(けがら)わしいとか――穢わしいでは当らないかも知れない。女学生などの用いる言葉に「随分ね」と云うのがある。私はその言葉をここに借用するが、つまり世の中は随分なものだというような意味で、何処から何処まで嘘がない。(中略)

 どうも徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思わせられるが、只それだけで、有難味が出ない。読んだ後で、感激を受けとるとか、高尚な向上の道に向わせられるとか、何か或る慰藉(いしゃ)を与えられるとか、悲しい中に一種のレリーフを感ずるとか、只(ただ)の圧迫でなく、圧迫に対する反動を感ずるような、悲しみに対する喜びというような心持を得させられない。「人生とは成る程こんなだろうと思います。あなたはよく人生を観察し得て、描写し尽しましたね。その点に於てあなたの物は極度まで行って要る。これより先に、誰が書いても書く事は出来ますまい。」こうは云えるが、然し只それ丈(だ)けである。つまり「御尤もです」で止っていて、それ以上に踏み出さない。

 況(ま)して、人生が果してそこに尽きて居るだろうか、という疑いが起る。読んで見ると、一応は尽きて居るように思われながら、どうもそれ丈けでは済まないような気もする。ここに一つの不満がある。徳田氏のように、嘘一点も無いように書いて居ても、何処かに物足りない処が出て来るのは、此為(このため)である。(中略)

 つまり徳田氏の作物は現実其儘(そのまま)を書いて居るが、其裏にフィロソフィーがない。尤も現実其物がフィロソフィーなら、それまでであるが、眼の前に見せられた材料を圧搾する時は、こう云うフィロソフィーになるという様な点は認める事が出来ぬ。フィロソフィーが無ければ小説ではないと云うのではない。又徳田氏自身はそう云うフィロソフィーを嫌って要るのかも知れないが、そう云うアイデアが氏の作物には欠けて要る事は事実である。初めから或るアイデアがあって、それに当て嵌めて行くような書き方では、不自然の物となろうが、事実其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に帰着して行くと云うようなものが、所謂深さのある作物であると考える。徳田氏にはこれがない。》

小林秀雄は、『仮装人物』の刊行直後に新聞書評で正直な感想を述べているが、明晰な批評というよりも詩的なレトリックを駆使する小林らしい言回しの正鵠であろう。

《この小説の読後感は、誠に複雑なものであつた。ひねくれた、しつこい、暗い後味が残つたかと思ふと、同時にそれは意外に淡泊な、楽天的な心を語つてゐる様にも思はれた。(中略)小説といふものの結論を語つてゐる、と言つた様な断乎としたものを感ずるかと思へば、又そこからどんな小説でも飛び出しさうな不得要領な地盤を見た、といふ風にも思はれた。(中略)ここに、恐らく作者の実際の経験を其儘扱つたこの奇妙なる恋愛小説の急所といふ様な部分を、批評家根性を出して見附けようとしてもなかなか見附からない。あらゆる処で、ひょうたん鯰である。》

たしかに、漱石小林秀雄川端康成の批評は今でも通用し、的を得ている。近い将来、徳田秋声の名前は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の傑作映画『あらくれ』だけで残るのかもしれない。しかし、この『戦時風景』のような短編小説は、彼らの批評から離れたところにあるのかもしれない。》

 秋声は地味だとか言う前に、とらえどころがない「ひょうたん鯰」なのだ。そのうえでやっかいなのは、どこか魅力があって、駄作、凡作ではないことだが、批評の言葉にしがたく、感想批評、人生観披露になりがちだ。

川端康成の『日本の文学 徳田秋声1』(中央公論社)解説も的確だが、では読者を呼び寄せるものかというとなかなか難しい。

《私はこの「解説」を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」と、よく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽に読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった。だいたい、私は自分が作品の解説を書けるとは思っていないし、ここでも秋声作品の解説を書こうとは考えていないのだが、解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。(中略)私は「あらくれ」のところどころの三、四行や一頁をくりかえし読んで、いろいろの発見があった。秋声のすぐれた自然描写、季節描写なども、その一つである。広津和郎の「徳田秋声論」に、「縮図」の文章を批評して、「一体が簡潔な秋声の文章もここに至って極度に簡潔になり、短い言葉の間に複雑な味を凝縮させながら、表現の裏側から作者の心の含蓄をにじませている技巧の完成は、彼が五十年の修練の末にたどりついたものであることを思わせる。」とあるが、「縮図」(昭和六十年)より三十年ほど前の「足迹」、「黴」、「燗」などにさかのぼっても、そのような秋声の文章はすでに見える。》

・さっそく秋声の特徴、オノマトペ類が頻出する。「ぼかぼか」「そよそよ」「ぴたぴた」「きやつきやつ」「しゆしゆ」「ぐじやぐじや」。ときに主語がさだかでなく、文脈が捩れる酩酊した文体に、庶民的で温かい愛情のリズムを与える。

 

《今年二十二になつた巳之吉は、土地の師匠巳子蔵の愛弟子であつたが、また其の内縁関係の朗子の若い愛人でもあつた。

 ちやうど去年の春頃のことだつたが、師匠がしばらく足踏みもしなくなつた芸者屋横丁の、彼がこの土地の稽古を引受けることになつてから、もう五六年ものあひだ住み馴れた家に、代稽古を委かせきりにされてゐた巳之吉は、朗子と五つになる子供と三人きりで、侘しく暮してゐるやうなことが多かつた。それといふのも師匠と朗子とのなかが兎角しつくり行かなかつたからで、朗子の養父であつた、今は故人の謳ひ手の大家米蔵贔屓(ひき)もあつたが、歌舞伎の大舞台で若手の腕達者といはれただけに、芸の魅力だけでも、芸事に凝つてゐる姐さん達に、多くのフアンのあつたことも当然で、近頃俗謡で売り出した人気ものの小峰といふ九州産れのモダアン芸者の熱情が、今まで噂の立つた幾人かの女を超えて、放埓な彼の心を悉皆蠱惑してしまつたところで、彼の足がぴつたり家へ向かなくなつてしまつた。見番の稽古にだけは約束どおり通つて来たが、それも小峰の傭ひつけのハイヤで、稽古がすむと、又その車で赤坂へ帰つて行くのだつた。

 或る晩も巳之吉は、小峰と巳子蔵師匠と三人で、末広でビフテイキを御馳走になつてから、少し銀座をぶらついてゐたが、さいやつて二人に附き合つてゐても、留守してゐる朗子や子供のことが気にかかつた。師匠の三味線の弾き方は、感がいいとか音が冴えてゐるとかいふよりも、近代人らしい撥剌味を多分にもつてゐるにしても、もとが古い芸人型の、芸だけで叩きあげた人なので、飲むことと女道楽にかけたは人に退けを取らなかつたけれど、朗子とちがつて映画とか、小説とかいふものには趣味もなかつたし、雑誌一つ読むといふやうなこともなかつた。それに比べるともともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。しかし彼女に愛をもてなかつた養母の方に、跡を継がせたいやうな身内もあつて、朗子は家に居すわる訳にもいかなかつたし、片づくにしても我儘な相手の撰択は許されなかつた。為片なし巳子蔵との同棲生活が初まつた訳だつたが、一年たつても二年たつても許す気にはねらなかつた。

 一緒になりたてに、養父は浜町の方に家を一軒もたせてくれた。下町はちやうど震災後の復興に忙しい頃で、金座通りもほぼ出来あがつて、清洲橋の工事も完成してゐた。朗子は芝居もさう好きではなかつたけれど、子供の時分からの習慣で、新らしい歌舞伎座明治座へも、お義理で見物に行つたが、それよりも映画やレヴイユの方へ気持が注がれがちだつたが、巳子蔵とは話が合はないので、人身御供にでもあがつたやうな気持で、寂しい孤独の世界に兎角閉ぢ籠りがちであつた。

 暫らくすると今の土地へ引越すことになつた。亡くなつた春代の母が巳子蔵系統の或る師匠の名取りだつたところから、この土地で四五人お弟子が出来、ちやうど定まつた師匠もなかつたので、やがて見番の稽古を引き受けることになつた。

 朗子はお花やお茶も心得てゐて、静かな暮しが好きだつたが、長唄の家に育つて来たので、朝から晩まで聴き飽きるほど聴かされるお稽古もおしまひになつて、巳子蔵が芝居へ出かけて行つて、そのまま遅くまで帰つてこない晩などには、二階の部屋でそつと音締を合すこともあつた。或る時は外へお稽古にも通つてゐた。そしてそこへ長唄の稽古に来てゐる或る大学生とのあひだに恋愛の発生したのも、つひ三年前のことであつた。学生の手触りは彼女に取つては全く新らしい世界であつた。裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた。

 逢つてゐると、馴れ馴れしい口も利きえない二人のあひだに、手紙の遣り取りの初まつたのは、ちやうど朗子が妊娠してゐたころのことで、同じ長唄の世界での出来事であるだけに、噂はこの土地の人の耳へも伝はつて、その子供の主が誰であるかが問題になつたこともあつたが、二人の関係はそこまで進んでゐた訳ではなかつた。厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。秋晴れの或る朗かな日だつたが、二人一緒に師匠の家を出ると、しばらく静かな其の辺のブルヂヨウア町を散歩した果に、円タクを呼んで時のはづみで、新様式の武蔵野館へ行つたが、帰る頃になると雨が降り出して、彼女は四谷の屋敷町まで送つて行くと、何か牾かしい気持で別れたきり、その車で家へ帰つて来た。師匠はまだ芝居から帰つてゐなかつた。

 暫く手紙の往来がつづいたが、ちやうど学校を出る次ぎの年の四月、彼から最後の手紙を受け取つた。地方へ赴任するとばかりで、任地も書いてなかつた。そして其れきりであつた。

 巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》

 

・秋声『戦時風景』は芸の師匠の女と弟子ができてしまう。六世藤間勘十郎藤間紫と三世市川猿之助(二世猿翁)との人口に膾炙した話とは次元も格も違うが、よくある道具立てではある。

・《裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつてゐる青年としては、珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた》、《厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか分明(はつきり)した考へを彼から得たくらゐの程度だつた。》、《巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カレニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。》というように、結婚の不幸を訴え、トルストイアンナ・カレーニナ」を読む朗子と、その打明け話を聞く巳之吉がいて、といった設定は昔紅葉門下だった名残りか。

古井由吉は、秋声の明治末年ごろの作品『新世帯』『足迒』『黴』を批評した「世帯の行方」で、小林秀雄の「ひょうたん鯰」という「取りとめのなさ」をもう少しだけ言葉に置き換えているのではないか。

《とにかく男女の日常の苦と、とりわけその取りとめのなさを描いては右に出る者もいないのではないかと思わせる作家である。取りとめのなさについては、男女のことばかりでなく、都会へ流出した人間たちの、勤勉な生活欲の底に時として、活力の飽和点あたりの境で微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いものを感じさせる。》としたが、この『戦時風景』にあからさまな「苦」はないものの、「取りとめのなさ」と、《微妙にあらわれる倦怠、頽廃と逸脱への傾斜を、人の形姿やら会話やらに描き出して、ほとんど色気に近いもの》が底辺に流れている。

・秋声と言えば、時間の扱いである。中村眞一郎は『この百年の小説』の中で、

《『仮装人物』は長い恋愛が終り、主人公が相手の女性に対して、うとましさしか感じなくなった状態から書き始めている。 彼は「すっかり巷(ちまた)の女になりきってしまって、悪くぶくぶくしている彼女の体」を抱いて、ダンスをしている。そして「心の皺(しわ)のなかの埃(ほこり)まぶれの甘い夢や苦い汁の古滓(ふるかす)」について「苦笑」しながら、回想に耽(ふけ)りはじめる。 この、幻滅から出発している、というところが、やはり自然主義を一生奉じていた作家らしいわけであるが、しかし物語は極く短いその幻滅的導入から、忽ち「文字どおり胸の時めくようなある一夜」の記憶へ逆転して行くのである。 この逆転、時間の遡行(そこう)は、この小説の特徴であり、しかも、遡行した時間の記憶のなかにまた別の時間が插入されるという極めて複雑な構成である。しかも、時間から時間への移り行きは専ら、主人公の回想の展開に従っている。 と、こう説明すると、読者はそれではまるでプルーストじゃないか、と問いたくなるだろう。  作者秋声は、主人公がこの恋愛によって感覚が解放された時、新鮮な気分で西欧の二十世紀文学に共感する眼を見開かされたと述べていて、現にプルーストの名もあがっているのである。 私は恐らく秋声はプルーストに触発されて、自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになったものと推定している。》と述べているが、《自分の経験をこのように微細に展開すること、しかもそれを専ら内面的に分析して行くようになった》ことはそうかもしれないが、時間の遡行については、松本徹が、《秋聲の作品の独自性として、最も顕著なのは、時間の扱ひやうである。野口冨士男は「時間の倒叙」と呼ぶが、単に順序を転倒させるだけでなく、じつにさまざまなふうに錯綜させてをり、それが本格的におこなはれたのは、『足迒』が初めてである。そして、直接的には、以上にみた圧縮した記述への必要から出てきたと考へられるのである。》と指摘したように、記述の必要性と、秋声の生理的な習性から来たのではないか。しかし、野口冨士男が『德田秋聲傳』で論じているように、《過去から現在にさかのぼつていく「倒叙」の手法は、ともすれば平板におちいりやすい日常の身辺的な素材を取扱つても不思議な立体感を構成している点において、独特の効果を発揮している》

・『戦時風景』のこの段落でも、《ちやうど去年の春頃のことだつたが》はわかりやすい過去への遡行だが、《もともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたところから、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に染まなかつた。》は、読み手に意識させることなく、切れ目なく過去へ遡っている。

・「その晩」「その月」「其の頃」「その年」「その翌日」「その後」といったように、徳田文学は「その」から成る。

 時間の「その」ばかりでなく、「そこで」「そこへ」も多い。

 

《巳之吉は、其の頃朗子の影が、いつとはなしに胸に巣喰つて来るのを感じてゐた。

 子供の正也はもう三つになつてゐた。朗子は愛してもゐない巳子蔵とのあひだに出来た子供が、何うしてさう憎くもないのかと、時にはうとましさうに幼ない其の顔を見ることもあつたが、それは其の子供が疎ましいといふよりも、子供の愛に縛られなければならなくなつた自身が疎ましいのであつた。子供の或る部分、たとへば目だの鼻だの、手足や指のすんなりしたところは自分に肖てゐたが、何うかした瞬間に父親の面影がまざまざと出てくることがあつた。幸ひにそれで世間の誤解も釈け、いつも身近にゐる巳之吉にもわかつて貰へるやうな気もするのだつた。正也は日増しに可愛くなつて入つた。そして巳之吉にばかり附きまとつた。父のゐないのが何か寂しいやうに思はれて、巳子蔵の還つて来ることを願つたが、時とすると連れていらつしやいと小峰にいはれて、巳之吉が自動車で連れ出して行くこともあつた。

 或るレコオド会社の専属であり、地方の招聘にも応じて行くほかに、お座敷も忙しいので、収入も多かつた。抱えには此のところはづれがちで、商売にはならなかつたし、巳子蔵のために旦那も失敗(しくじ)つてしまつたけれど、彼を貢(みつ)ぐくらゐに事欠くやうなことはなかつた。大々した体には女盛りの血が漲り、幅のある声は流行家の唄い手の誰にも負けを取らず、派手派手しい扮装をして舞台に立つときは、誰も花柳界の女とは思はないくらゐ新鮮味があつた。それはちやうど現代風の奔放さをもつてゐる巳子蔵の三味線と、一脈相通ずるものでなければならなかつた。彼女は巳子蔵も自覚したらしく、給銀をあげる要求を会社に持ち出して見たがそれは早速には容れられず、双方の折合ひがつかないので当分出場しないことにしてゐた。しかし愛弟子の巳之吉の叔父に、座附の有力な下方(したかた)もゐるので、いつかは折合ひのつく時が来るのに違ひなかつた。

 その晩巳之吉は、小峰が買つてくれた熊の仔の玩具などを角袖の外套のポケツトに入れて家へ帰つて来たが、正也はもう寝てゐて、朗子だけが玄関に近い茶の間で雑誌を読んでゐた。巳之吉は奥へ行つて、中腰になつて子供の寝顔を見てゐたが、熊の仔を枕元におくと、師匠に附き合つた酒の気の熱つてゐる頬を両手で撫ぜながら、長火鉢の傍へ来て坐つた。

 石を敷き詰めた細い芸者屋横丁に、急ぎ足の下駄の音や格子戸の鈴の音が時々耳につく。

「酔つちやつた。見せつけられちやつたもんだから……。」

 薩摩絣のお対の著物の袂から、バツトとスヱヒロのマツチを取り出した。

「この頃飲めるの。」

「む、少しは。何うして赤ん坊が産れるんだつてお師匠さんに聞いて、笑われちやつた。仲のわるい夫婦でも子供くらゐ産れるつてさうですか。」

「何うですかね。貴方(あんた)まるで子供のやうね。」

「ああ、さう/\お茶菓子を買つて来たんだ。お茶をいれませう。」

 巳之吉は立つて、熊の仔と別のポケツトに入れ忘れた筑紫の菓子の包みを開きにかかつた。

「但しこれは僕。」

 彼は朗子と長火鉢の傍の差し向かひなどは、ひどく気のひけたものだつたが、今夜は不思議にも寧ろそれが自然のやうな感じだつた。

 銅壺の湯で、お茶を煎(い)れながら、皮包みの牛皮を自分もつまみ、朗子にも勧めた。

「どうも御親切さま。」

 若いにしては、この頃めきめき腕があがり、咽喉も去年から見ると吹き切れて来て、少し早熟かと思ふくらゐだつたが、ふはふはした見かけよりも頼もしいところもあると思はれた。

「しかし年取つた女の人の恋愛は凄いところがありますね。」

「小峰さん?」

 朗子は顔を赤くした。

「貴方も妙なことに興味をもつて来たのね。」

「己の極道は真似(まね)るなと、お師匠さん言ひますけれど、僕はあんな風に無軌道にはなれませんね。」

「さうね、勝之助さんといふ人が、昔し大変な女喰ひで、今でいへば色魔だわ。女から女を渡りあるいて搾つたものなの。その果てに酷いことになつちまつたんです。詰り肺病なのね。何うせ悪い病気もあつたでせうけれど、ス悉皆り衰弱してしまつて、頭があがらなくなつたところを、最後の女に置いてき堀喰つちやつたの。それで段梯子の三段目からのめずり落ちて血を吐いて死んぢやつたの。」

「陰惨ですね。」

「家の師匠のは、そんな大時代(おほじだい)な質の悪いのと違ふの。ただ浮気つぽいのね。でも喰い止まるでせうよ、今度で。」

「さうか知ら。」

「また何か初まつた。」

「さあ。」

 巳之吉は首を傾げた。

「あんたの彼女はあれつ限り?」

「二度ばかり手紙来たけれど……あんな小便くさいの止せつて、家のお師匠さんも口が悪いからな。しかし此の頃は僕も少し目が肥えて来たから。」

「さうお。」

 子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

 

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。しかし二人の秘密が曝露しかけて来たのは、師匠の巳子蔵が土地の招聘に応じた小峰と一緒に、彼女の故郷の博多へ旅をして、帰りに別府で五日も遊んでゐた間のことあつた。

 朗子は人目を避けて、この土地の人の行かない、少し遠いところの洗場へ行くやうにしてゐたが、しかしそこにも世間の目はあつた。

 その月も、機織場(はたば)の多い上州の方へ、巳之吉は三日がかりで出張したが、その時分には、朗子の普通でない体のことが方々で問題にされてゐたが、その主が、漸と今年徴兵検査を受けたばかりの巳之吉であるのか、それとも前に浮名の立つた大学生であるのか、又は思ひも寄らないところに、誰も気づかない恋人が出来たのか、誰にも確かなことはわからなかつたが、巳之吉らしいとは、誰も一応は考へるのだつた。

 その中でも長唄色草会の連中が、殊にこの事件に興味を寄せたし、口も煩かつた。巳子蔵を中心にした名取りの七人組の組織してゐるのが、色草会であつた。取りわけ春代、千代次、元枝、恋香なぞと云ふ、この土地では嫡々の姐さんたちが、何かといふと巳子蔵のまはりに不断集まる連中だけに、師匠の一大事とばかりに騒ぎ出した。彼女たちのなかには真実か偽か、師匠に据ゑ膳をして嬉れしがつてゐるのもあるといふ噂だつたが、これも明白(はつき)りわからなかつた。地獄よりも恐ろしい此の少女虐待の世界にも、そんな風が吹いてゐるのだつた。

 或る日も色草会の連中が、デパアトの演芸場で催すことになつてゐる、各花街の演芸会のことで見番に寄り合つてゐると、相変らず其の話が出た。そこへ種次姐さんも抱への事があつてやつて来たので、

「姐さん何う思ひます。見て見ない振してゐていいもんですか。」

「私や知らないよ。人様のお腹のふくれたことまで、気にしちやゐられないよ。」

 種次は膠なく言うふのだつた。

 その後で、年上の春代と千代次が、巳之吉の留守を目がけて朗子のところへ押し寄せて、彼女をびくりとさせた。朗子は奥の間で、爪弾きで何か弾いてゐた。

「あら珍らしいわね。」

「暑いぢやありませんか。貴女達こそお揃ひで……。」

「さうね、偶にはお寄りしようと思ひながら、つい其の何だか変梃りんで。」

「お師匠さんからお便りあります?」

 千代次も怳(とぼ)けて聞いた。

「いいえ、ちつともないんですよ。」

 朗子は彼女達の目の前で立ちあがるのも厭で、お茶をいれずに其処に居据つてゐた。

「巳之さんもゐないんでお寂しいでせう。坊やは。」

「仕込さんが可愛がるもんで、お隣へばつかり行つてるんですよ。」

「朗子さんも家に燻つてばかりゐないで、何処か一日涼しい処へ遊びに行かうぢやありませんか。」

 さすがに気がひけて、二人とも言ひそびれてしまつたが、そのうちに春代が坐り直して言ひだした。

「変なこと伺ふやうですけれど、朗子さん此の頃軀が変なんぢやありません? 皆さう言つて心配してますわ。」

「私達不断からお宅のお師匠さんに御懇意に願つてゐるでせう、見て見ぬ振て訳に行かないんですわ。外の事と違つて、是許りは世間の口が煩いでせう。後はまた何とかお取做役(とりなしやく)を勤めますから、私達だけに真実のこと打明けて頂けませんか知ら。」

 朗子は足を崩して俛(うつむ)いたきりでゐたが、

「ご心配かけて済みません。」

「いいえ、実は私達の出る幕ぢやないんだと、さうも思つて見たんですけれど、そうぢやないな、朗子さんのことだから、相談する人がなくて困つてゐるんぢやないかな。さうだとすると、遠慮なしにお話していただけるのは、矢張り私達より外にないでせう。厭に詰問するやうで悪いけれど、相手は一体誰ですの。」

「ちょいと巳之さんだと云ふ噂だけれど、真実ですの。」

 千代次は低声で言つた。

「巳之吉さんだとすれば、無理のないところもあるやうだわね。」

「誰にしたつて、これはかかり易い係締だわ。」

 暫く言葉が途絶えて、風鈴が気うとい音を立ててゐた。朗子が肯定も否定もしないで、ただじつと成り行きに委せきりの肝をすゑてゐるらしいので、泥を吐かせようと意気込んで来た二人も、その上しち醇きは言へなかつた。その上幼い時からの環境に痛めつけられて来て、女の意地といったやうなものの、朗子にあることも解つてゐた。》

 

・《子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も聞えて来た。

(一行空け)

 翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、襷掛けでせつせと入口の格子戸を拭いてゐた。

 密(ひそ)やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。》

という抑制された表現には、秋声の核心がある。

野口冨士男は『徳田秋聲ノート』に収めた「徳田秋聲の文学」を次のように結んでいる。

池大雅は、どこに墨を置くかというより、空白をどう活かすかに意をそそいだといわれるが、秋聲の作品にはそれに通じるものがある。『徳田秋聲伝』に、私は彼が<手をぬかずに省略を心がけた>作家だという意味のことを記したが、書いていない部分がくっきり書かれているというような作風で、その典型的な一例を、私は『あらくれ』の第五十三回の終りから第五十四回のはじめにかけての部分に見いだす。引用は避けるが、山の宿<浜屋>の主人とお島が通じる部分で、通じたことは一字も出て来ない。が、翌朝お島が浴室へ<湯をぬくために、冷い三和土(たゝき)へおりて行った>ところの描写には描写にないものがある。現在の作家は男女がホテルへ行ってからの行動に関して事実ベッタリの書き方をするが、秋聲なら<二人はホテルへ行った。翌朝……>というふうに表現するに違いない。秋聲作品は暗示的で、あの暗示がいかにも的確である。彼の場合の<あるがまま>とは、いわゆる糞リアリズムではない。無用な一切を切り棄てた、簡潔な文学なのである。<素人受けのしない文学>といわれるゆえんも、その辺にある。》

・しかし、『仮装人物』は唯一と言ってよい例外だ。古井由吉は『仮装人物』文庫本解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」で、《これは第三章の、郊外のホテルの或る一夜の、翌日のくだりである。赤い花片に似た唇とある、黒いダイヤのような目とある、悩ましい媚とある。これを秋声の文学の、一時の堕落か衰弱と見る人もあるだろう。また、このような言葉を敢えて多用することによってしか、老境に入った男性の、若い女性の魅力に掻き起された恋情のせつなさは表わされない、と得心する人もいるだろう。むろん、この作品のどこからどこまで、このような表現に覆われているわけでもない。秋声特有の強靭な客観がこの作品においても、その下地をなしている。しかしこの種の表現を除外してしまったら、「仮装人物」は「仮装人物」ではなくなるだろうこともたしかである。》

古井由吉は続ける。《やがて作品は主人公が行為の美醜を、超えるというふうでもなく、その弁別から抜け出してしまうように読者には感じられる境にまで至る。あまりのこと、と読者はさすがにあきれながら、作品の中へもうひとつ惹きこまれるところである。(中略)

――それでなくとも、幻惑の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。

 これは作中の随所に見られる表白であり、したがってこの箇所を引用するのもほとんど任意に近くなるが、この空虚感を私は作品の底流とも見る。しかし空虚感だけだは、作品を支えあげるものにはならない。この空虚感を汲み尽そうとする情熱、これがこの作品に生命を吹きこんでいるもの、と私は感じる。そしてまたこの情熱こそ、「黴」と「仮装人物」をひとすじにつなぐものだ、と考えている。

 もうひとつ言い添えれば、秋声の老年期には「町の踊り場」および「死に親しむ」という、超私小説とも呼ぶべき名短篇があり、そこにはいま言った空虚感がひとまず汲み尽されて、それともはや馴親しんだ生命の様子が描かれているが、じつは「仮装人物」の執筆のほうがそれよりも後にあたるのだ。空虚感の支配をおそらくもうひとつ超えた境地から、過去を照らし、しかもその文章を当時の空虚感と惑乱の色に十分に染めたというのは、見事な作家の業ではないか。》

 ここで、『戦時風景』もその老年期の作品の一つであって、超私小説とは違う領域だが、同じ空虚感が、しかも空虚感を汲み尽そうとする静かな情熱とともにあって、それこそが「ひょうたん鯰」の魅力の正体ではないのか。

 

《まだ其の頃は検査前の巳之吉が、朗子の分娩ときいて、あわてて滝の川の産院へ駈けつけたのは、その年の十二月、クリスマスの二三日前の午後であつた。

 離縁になつた朗子は、滝の川の産みの母の手元へ引き取られて、そこで身軽になる日を待つてゐたが、何か肩身の狭い思ひで、折々訪れて来る巳之吉が待たれるのだった。

「お産は何時?」

 巳之吉は来る度に催促するやうにきいてゐたが、自分が映画劇の主人公にでも成つたやうな感じがしてゐるものらしく、朗子は可笑しかつた。来る度に彼は何か彼か買つて来た。チヨコレイトとか、ソフトビスケツトだとか、又は綺麗な映画雑誌に季節の花など。

 産院で赤ん坊を見たときには、彼はちょつと見ただけで「何だこんなものか」と言つた風だつたが、見てゐるうちに奇蹟に打たれたやうに、父にまで飛躍した自身に驚きの目を睜り、大人の矜りを感じた。男性らしい強い愛情が朗子へ湧いた。赤子は朗子のベツドから離れた小さいベツドのうへに寝かされてあつた。

「目あかないね。」

「さうお、今にあくわよ。浮世の風に当つたばかりですもの。」

「額の広いとこ己に似てゐるね。厭んなつちやふな。」

 朗子は力なげに微笑んだ。

「お師匠さん己達に結婚させると言つてるよ。」

「お気の毒みたやうね。こんなおばあさんと。」

「ううん、そんな積りぢやないよ。」

 そこへ看護婦が入つて来て、何か赤ん坊の手当をしてゐた。

 巳子蔵は朗子を離縁する一方、愛弟子の巳之吉とも一応子弟の縁を切つたのであつたが、下方(したかた)の叔父がお詫びを入れてくれたので、形式的に巳之吉に謝罪(あやま)らせて、元通り一切の代稽古を任せることになつた。

 その翌日も、出稽古を二軒も断りにあるいて、産院を訪れた。朗子は一日のことで、滅切り顔色が好くなり、水々した目にも力が出てゐたが、赤ん坊もむづむづ口を動かしたり、目を明いたりした。巳之吉は傍へ椅子をもつて行つて不思議さうにぎつと見てゐた。

「面白いもんだね。正ちやんもこんなだつた?」

「あの時は別に気もつかなかつたわ。」

「いや、世間ぢやね、この赤ん坊を己の子ぢやないなんて言つてるんだよ。春代さんなんかもね、押(おつ)つけられたんぢやないなんて言つてるんだよ。」

四谷怪談の子助ぢやあるまいし、そんな事言はれても黙つてる法はないでせう。あの人達の師匠へお諛(へつら)ひよ。」

「それあさうだ。しかし変なことを聞いたよ。己は何んにもしらなかつたけれど。」

「何よ。言つてごらんなさい。」

「ううん何でもないよ。」

 巳之吉は打消したが、ちよつと口を辷らせてしまつた。

「朗子さん病院で初めて許したんだつて、さう。」

「誰がそんな事言つたのよ。」

「ちよつと耳にしたの。」

「それあさうだわ。結婚して四月目かに師匠が痔の手術で入院してゐた時、この機会とばかりに、皆んなで否応なしに私に附添はしたものなの。」

 朗子はその時のことを思い出して、顔を赧らめてゐた。

「でもあの人は私なんか何うだつて可いんですもの。」

「いや、さうぢやない。師匠は小峰さんをほんたうに愛してるか何うだか解んない、正ちやんの実のお母さんとしての朗子さんが、何と言つても師匠の頭脳に刻まれてゐるんだね。」

「何うして?」

「今に僕に結婚させると言つてゐながら、自分では小峰さんと結婚する気があるのやらないのやら。小峰さんに催促されると、もう一年も経つて世間の噂が静まつてからなんて言つてゐるんだもの。」

「じらしてゐるのよ、故意(わざつ)と。」

「さうかしら。でもね、師匠の心理では、小峰さんの人気のあるのも、余り好い気持はしてゐないらしいんだ、殊にこの頃芝居へも出ないでせう。酒を飲んでゐても何だか寂しさうだよ。」

「私と関係ないことだわ。」

「いやさうぢやない。小峰さんに惹著けられれば惹著けられるほど、貴女を思ひ出すらしいんだ。」

「気持は好くないでせう。それは解るけれど……。」

 朗子が疲れるので、巳之吉はやがて病室を出た。

 

 姉の店の整理もそこそこに、名古屋から大急ぎで帰つて来た巳之吉のために、色草会の連中に五六人のお弟子も交つて、或る夜土地の料亭で送別の宴が開かれてから、兵営生活の三ヶ月もすぎて、彼は浅草にある家(うち)の、町内の人達に送られて、東京駅から戦地へと立つて行つた。色草会の連中に取りまかれて、師匠も来てゐた。

 巳之吉は何が何だか解らずに、プラツトホームの群衆の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラツトホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。

 列車に乗つてからも、窓の下に集まつて来る人の顔が、誰が誰やら見分けもつかなかつた。ふとみると、春代や千代次の立つてゐる蔭で、目の下に朗子と師匠と顔を寄せて、何か話してゐるのに気をひかれた。俛(うつむ)いた朗子は時々ハンケチで目の縁を拭いてゐた。巳之吉は一時に神経が蘇つて来るのを感じた。瞬間微笑を浮べた巳子蔵の目と目が直(ぴつた)り合つた。

「今も朗子に言つてるんだが、補充の己に召集令が来ないで、第二乙のお前が一足先きに立つことになるなんて。しかし心配することはない。己が招集されるまでは朗子のことは時々面倒見るよ。お前も帝国軍人だ、心を残さずしつかり遣つてくれ。いづれ戦場でお目にかかる時もあるだらうよ。」

「はつ。」

 兵士らしく巳之吉は頭を下げた。

「先づそれまでは……去らば/\でせう。」

 春代が傍から混ぜかへした。

 後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。

「☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓。」

 巳之吉は顔の筋肉の痙攣するのを感じた。

 やがて列車が動き出した。》

 

・『名人選』巻末の対談で、丸谷才一が、川端康成の「童謡」について、戦前の検閲制度をくらますことにかけては、まさに天才的、なかなかの芸人、と讃えたあとを受けた野口冨士男は、

野口 みんなそれをやっているんですね。徳田秋声の「戦時風景」で、最後のページに十六字分、☓☓になっている。ぼくはこれ、徳田一穂(筆者註:秋声の長男)さんに聞いたんですが、「戦争に行かない奴は暢気(のんき)でゐやがる」という巳之吉のモノローグらしい。それだと十六字でぴったり合う。山手の花柳界の生活がよく出ていますね。

丸谷 野口さんに教えていただいて入れることができた作品なんですが、たいへん感心しました。これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。

野口 花柳小説には、遊びの面を書くのと、花柳界の人間の生活者としての面を書くのと、二種類あると思うんですが、これは生活者のほうですね。

丸谷 具体的に名前を挙げていえば、荷風の書く花柳小説と、秋声の書く花柳小説。

野口 荷風にも「風邪ごこち」とか例外はありますけれども、それは二人の、はっきりした違いでしょうね。》

・丸谷が「対談」のなかで、大岡昇平『黒髪』を『名作選』に入れた理由を、《一人の女の流転の姿を描く……いわば女を中心とした一種の教養小説というのかな、逆の教養小説みたいな感じ。そういう小説のひとつの典型だと思うからです。(中略)花柳小説の書き方には、一人の女の生きゆく姿を、春夏秋冬の移り変りみたいなものとしてとらえ、そこにあわれをおぼえ人生を見る……というところがありますが、そういう感じを現代において、一番くっきりと代表しているのが、この「黒髪」じゃないかと思ったんです。》と語るのを受けて、

野口 生島遼一さんによると、ヨーロッパの小説には女の流転を書いたものが多いけれども、日本では案外ないんだそうですね。もちろん西鶴の一代女とかいろいろあることはあるんでしょうけれど、そういうところで秋声を……秋声っていうのはほとんど流転小説ですから、生島さんは買っていますね。》

・丸谷の言う《これだけの短かさのなかに、いろいろな人間の運命の移り変りが、うまく書かれている。》のとおり、春代、巳之吉、朗子、巳子蔵、小峰といった登場人物の人生の移り変りが過不足なく書かれていて、だから最後の別れの場面も、思わせぶりな描写によって、朗子と巳子蔵はどうにでもなりそうな運命が待っていると思わせる。

・秋声の反戦思想、ファシズム嫌悪ということでは、「徳田秋声論」を書いた広津和郎江藤淳との対談「徳田秋声を語る」で披露した逸話がある。

《「広津 秋声のおもしろいのは、これも「群像」に書いていますけれどもね。昭和十一年、斎藤内閣のときに、警保局長だった松本学が文学統制に乗り出したんです。(中略)斎藤首相に話をしたら、それは結構な話だというんで、作家たちを呼んだわけです。そうして「この集まりを私設の文芸院という名にしたいと思います。元来国家がもっと文学のためにつくさなければならないのですが日本では文学に対して政治家があまりに冷淡でした。それで、いま国家のそういう方向への機運を促進するために、私設文芸院を作りたいのです」と言ったときに、徳田さんがいきなり、「日本の文学は庶民から生まれ、庶民の手で育った。いままで為政者に保護されたことはないし、いまさら保護されるなんていわれたって、そんなもの信用できないし、気持ちが悪い」それに「日本の政府がいま文字の保護に出てくるほどの暇があるはずはない、そんなことは信じない」と間髪を入れずそういうように言ったんで、松本学はこれはなかなか文字の統制なんて出来るものではないと、方向転換したわけです。名も文芸院はやめて、文芸懇話会という当らず障らずの名にして、意味もない会合を続けることになりましたが、そのうちその会で、どっからもってきたのか、金があるので「文芸懇話会」という雑誌を作ろうということになった。そのとき島崎藤村がおだやかに、「松本さん、お台所のほうはどうぞあなたがおやりください、しかし編集のほうは私どもがやりますから」と一本釘をさした。これは内務省御用雑誌にされないためです。こういう急所急所でびしっと言うべきことを言う点で、やっぱり明治文壇の藤村・秋声はえらいと、のとき感じたんです。」》

 漱石のような書斎の人ではなく、生涯、市井・庶民の人秋声らしいではないか。

・さきに野口が言及したフランス文学者生島遼一の「秋声小論」には、日本の「女の一生」、「女の運命」についての指摘ばかりでなく、秋声への顕彰がある。

三好達治君が話していたことだが、川端康成が秋声を訪ねて行ったら、秋声はちょうど晩年の愛人である婦人の家で、肩をぬいで膏薬をはらしていたところで、その様子を見て「らくになってるな、と思った」と川端さんが語っていたそうだ。面目がよく出ている。作品のほうにも、晩年のもなかなか気の張りを落とさず書いてはあるが、そういう、らくになった人柄がどこかあらわれている。(中略)この人の女の書き方は自然主義系統の人の中で、一番やわらか味があり、上手である。川端康成さんは「仮装人物」の女の肉体はみずみずしい、とほめていた。紅葉の門下であって文学の質では異端者ということになっているが、女を描くことの柔軟なうまみという点では紅葉たちとのつながりを私は感じてならない。文学の技法は硯友社より新しいが、そういうところにつながりを感じる。

 人間に愛情をもっていた人の作品は残るという気がする。もしくは憎悪でもいい。甘く見えても、またいろいろ糊塗してあっても、そういう愛情のない人の作品は結局忘れられるにちがいない。秋声は愛情をもっていた人だ。客観描写主義のdiscipline(修業)と日本人的なストイシズムでそういうものをおさえおさえし、あるいは一脈の気の弱さで躊躇しながらも、――結局は愛情に生き、愛情のためならすべてを描いて行くような一図なものを胸底にもっていた人だったろう。短篇で「蒼白い月」とか「或売笑婦の話」などというのはほうぼうの選集におさめてあって、きっと作者の気にいっていたものだろうが、ああいう作品には大作とちがっていま言ったような愛情がごく自然に流れている感じで私も好きだ。》

 なるほど『戦時風景』も「らく(・・)になった」ころの短篇であり、「愛情をもっていた」人の作品の一つ、「愛情がごく自然に流れている感じで」私も好きだ。

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『花柳小説名作選』(徳田秋声『戦時風景』所収)(集英社文庫

野口冨士男徳田秋聲ノート』(中央大学出版部)

野口冨士男徳田秋聲傳』(筑摩書房

野口冨士男徳田秋聲の文学』(筑摩書房

徳田秋声『新世帯・黴』(古井由吉解説「世帯の行方」所収)(福武書店文芸選書)

徳田秋声『仮装人物』(古井由吉解説「空虚感を汲み尽そうとする情熱」所収)(講談社文芸文庫

*『現代日本文學大系15 徳田秋聲集』(夏目漱石「『あらくれ』評」、広津和郎徳田秋声論」所収)(筑摩書房

*『日本の文学 徳田秋声1』(川端康成解説所収)(中央公論社

*『日本の文学 徳田秋声2』(江藤淳解説、広津和郎江藤淳対談「徳田秋声を語る」所収)(中央公論社

中村眞一郎『この百年の小説』(新潮社)

*『寺田透評論Ⅰ』(思潮社

*松本徹『徳田秋聲』(笠間書院

紅野謙介・大木志門編『21世紀日本文学ガイドブック6 徳田秋聲』(ひつじ書房

生島遼一『朝日選書 日本の小説』(「秋声小論」所収)(朝日新聞社