文学批評 里見弴の花柳小説を丸谷才一と読む   ――『いろをとこ』『河豚』『妻を買う経験』

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里見弴の花柳小説を丸谷才一と読む

――『いろをとこ』『河豚』『妻を買う経験』                                     

丸谷才一編・花柳小説傑作選』(以下、『傑作選』)(講談社文芸文庫、平成二十五年=二〇一三年)は、編者丸谷才一の急逝によって生前の出版を見なかった。同じく丸谷による『花柳小説名人選 日本ペンクラブ編――丸谷才一・選』(以下、『名人選』)(集英社文庫、昭和五十年(=一九八〇))のまさしく続編と言えるものだが、「続」とならなかったのは、ひとえに出版社が違うからという理由である。『傑作選』の文庫本末尾にある出版部部長の記事によれば、『名人選』から三十年近くに時を経て、新たなる花柳小説を編んでみようということで、丸谷が候補作を挙げた。全三巻での刊行ではどうかと進言したが、「こういうのはぎゅっとまとめた方がいいんだ」と言われて、選別を進め、一巻にまとめたそうだ。ゲラを作り、順番を変え、文字遣いを直したりして、できあがってきたが、杉本秀太郎との対談を巻末に掲載するため、十一月十四日に設定された対談はかなうことなく、丸谷は十月十三日に帰らぬ人となってしまった。

 ここで、『名人選』と『傑作選』の作品を俯瞰的に頭に入れておこう。

『名人選』の目次は以下の通り。

『あぢさゐ』永井荷風、『その魚』吉行淳之介、『いろをとこ』里見弴、『童謡』川端康成、『継三味線』泉鏡花、『黒髪』大岡昇平、『戦時風景』徳田秋声、『梅龍の話』小山内薫、『四つの袖』岡鬼太郎、『雪解』永井荷風、『堀江まきの破壊』舟橋聖一、『そめちがへ』森鴎外、『なぎの葉考』野口富士男、『橋づくし』三島由紀夫、『海面』丹羽文雄、『名妓』中山義秀、『老妓抄』岡本かの子、『牡丹の客』永井荷風、<対談解説>「花柳小説とは何か」野口富士男、丸谷才一

 一方の『傑作選』は次の通り。

『娼婦の部屋』吉行淳之介、『寝台の舟』吉行淳之介、『極刑』井上ひさし、『てっせん』瀬戸内晴美、『一九二一年・梅雨 稲葉正武』島村洋子、『一九四一年・春 稲葉正武』島村洋子、『母』大岡昇平、『蜜柑』永井龍男、『甲羅類』丹羽文雄、『河豚』里見弴、『妻を買う経験』里見弴、『瑣事』志賀直哉、『山科の記憶』志賀直哉、『痴情』志賀直哉、『妾宅』永井荷風、『花火』永井荷風、『葡萄棚』永井荷風、『町の踊り場』徳田秋声、『哀れ』佐藤春夫、<解説>杉本秀太郎、「丸谷さんと『花柳小説傑作選』」講談社出版部部長原田博志。

 

 丸谷急逝のため、『傑作選』には、説明、分析、解題として読み応えのある<対談解説>が不在だ。一人杉本秀太郎が、丸谷才一がどういう了見で自分を対談相手に採ったのか、思い当たる節の二、三を、溜息まじりのように書き連ねてから、おもむろに解説に入る。『傑作選』は『名人選』と違って、梨園、芝居役者ものが二篇、京都の花柳界(仲居も含めて)を扱ったものが四編あると説明するが、丸谷がどういう真意、狙いをもって作品を選出したのか、杉本自身も測りかねている。たとえば永井龍男『蜜柑』は、しろうとの婦人の気配があって、《そうとすれば「花柳」の範囲は開け放しの野放図なものになりかねないのが訝しい》と当惑しているくらいだから、個々の作品の味わいについてまで論じるに至らない。

 思うに、『傑作選』の選には三つの不思議がある。

 一つめは、志賀直哉の『瑣事』『山科の記憶』『痴情』が三つ並んでいることだ。丸谷は、中学生のころ『網走まで』が大嫌いで、志賀『暗夜行路』をまったく評価せず、せいぜいスケッチ的短編小説作家にすぎないと言っている。たしかに国語教科書の道徳教育的側面とは正反対な、志賀の京都での遊蕩的一面を見せてはくれるが、あれほど削った一冊に三篇も、しかも素晴らしい出来とも言い難いのに、という疑問である。

 二つめは荷風について。『名人選』の『あぢさゐ』『雪解』『牡丹の客』のどれも甲乙つけがたく素晴らしいが、『傑作選』の三篇、『妾宅』『花火』『葡萄棚』は、小説というよりは社会、文明批判的な色合いが濃く、そういう作品ばかりを選んだ理由を知りたい。

 三つめは、島村洋子から二篇選んだこと。花柳界の底辺社会で発生した阿部定事件という知悉された題材をたしかな筆致で描き、作品そのものに不満はないが、他の作家が文化勲章芸術院会員レベルなのに、杉本でさえ知らなかった作家からなぜ、という素朴な疑問を拭えない。

 しかし、死人に口なし、残念である。

 

『名人選』と『傑作選』のいわれはこのくらいにして、里見弴をとりあげたい。

『いろをとこ』(『名人選』)、『河豚』『妻を買う経験』(『傑作選』)である。

 丸谷は里見を高く買い、その批評文はほとんど自己の文学的志、思想を語るかのようである。あたかも、モーリス・ブランショの「仲間ぼめ批評」のように、友人(丸谷の場合は先人)の作品の核心に、自身の問題意識から光を投げかけて思想を展開する。同じ論旨の批評、エッセイはあまたあるから、いちいちあげないが、小説では『たった一人の反乱』、『笹まくら』に代表される。

 丸谷は少なくとも四編の重要な里見論を残している。うち三篇「誰も里見弴を読まない」「ある花柳小説」「里見弴の従兄弟たち」が、丸谷死後すぐに刊行された『丸谷才一全集』全12巻(全作品ではない)の『第9巻 同時代の文学』に収録されている(残る一編は「里見弴についての小論」(『恋ごころ』講談社文芸文庫、解説))から、里見が丸谷にとって重要な作家であることを見抜いた編集委員池澤夏樹辻原登三浦雅士湯川豊)の確かな目に感謝したい。

 

 ここで少し脱線するうえに、丸谷の里見論紹介前の勇み足ともなるが、「仲間ぼめ批評」のもう一人の対象、舟橋聖一に関する丸谷の論考を紹介しておこう。舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)の丸谷才一解説「維子(つなこ)の兄」である。ここには里見論と同じキーワード、テーマがいくつも見てとれる。

《鷗外の場合の江戸末期に当るやうな、理想ないし憧れの対象としての過去の文明の型は、自然主義に対立した作家の場合は、多かれ少なかれ見られるものである。舟橋聖一の場合、それは大正文明であつた。彼は大正改元の年に八歳、昭和改元の年に二十二歳であつたが、幼少時の文明の型は彼の資質をあざやかに規定してゐるし、その文明の本質を追究することこそ彼の生涯の主題となつたやうに見受けられる。》

 ちなみに、里見弴は大正改元の年に二十四歳、昭和改元の年に三十八歳だから、まさに大正文明の人だった。

 大正十二年の永井荷風『麻布襍記(ざつき)』における《荷風の悪口雑言は、知的な女の風俗が幼稚劣悪であるため、作家はつまるところ花柳小説を書くしかない(なぜなら花柳界にだけは洗練された風俗があるから)といふ趣旨の弁明であつた。風俗小説が単なる観察と描写の結果ではなく、対象に対する愛と共感なしには創り得ないものである以上、荷風のこの見解は正しいし、また悲痛であると言はなければならない。そして、ここまではつきりものを言ふのは荷風だけにできる藝だとしても、これはおそらく孤独な文士の意見ではなく、彼の生きてゐた社会全体の、つまり大正文明の常識の反映だつたのではないか。感受性の優れた少年がこの時代に生きれば、かういふ一文明の美学を存分に吸収し、藝者を女性美の基準とみなし、さらに理想化するのは、むしろ当然のことだらう。》

《彼にはいはゆる私小説的な作風のものがかなりあるが、その手のものがほとんど最上の出来ばえを示してゐないことは、この際なかなか示唆に富んでゐるやうだ。彼は自己中心的な私小説作家ではなく、伝統に対して謙虚な、正統的な作家なのである。

 すなはち、彼にとつての過去は、単に大正時代だけにとどまるものではない。たとへば『裾野』の曜子は戦争直後の窮乏のなかに生きてゐるが、彼女の姿は伝説の篠姫をその背後におぼろに秘めてゐるし、実は背後にゐるのは篠姫だけではない。(中略)

 一応のところでは、雲の絶間姫と女鳴神だけが、篠子の姿を思ひ描くのに役立つかのやうである。しかし実を言へば、その相似をいつたん打消されてゐる雪姫、桂姫、八重垣姫、桜姫などの姿が、篠子のそれと重なるのだ。北関東への疎開者である現代の女は、かういふ歌舞伎の美女たちとの複合体となつてわれわれに迫つて来る。ここには、二十世紀ヨーロッパ文学の代表的技法の一つである神話的方法が取入れられてゐると見なしてもよからう。

 そして舟橋がかういふ新しい方法を採用することは、わたしが前に述べた、彼の文学的故郷とも言ふべき文明の型が大正時代のそれであることといささかも矛盾しない。第一に大正時代から昭和初年にかけては、ヨーロッパの新文学が激しく移入された時期だし、舟橋はその手のものを熱心に読み耽つてゐるからである。もちろん神話的方法といふやうな文学用語は、彼の知るところではなからう。しかし創造的な才能の持主が作品そのものを味読すれば、批評的に分析し論述することはできないにしても、影響を受けることは充分にあり得るはずだ。古典と現代とが交錯し合体する彼の方法に、ジョイスヴァレリートーマス・マンの方法との文学的類縁があることは、極めて明らかな話だらう。》

 ここで舟橋について指摘されたあれこれ、普遍的なものへの信頼は、まるごと里見に、大正時代にコミットした年齢からしてより自然な姿で当てはまるに違いない。面白いのは、里見も舟橋も芝居の人、歌舞伎様式に幼いころから親しんでいたということだが、歌舞伎の時空を超えた融通無碍を想えば、当然と言えば当然であろう。

 

<『いろをとこ』>

 まず丸谷「誰も里見弴を読まない」から始める。誰も読まない里見弴を読むのならば里見の全体像を摑んでおきたいし、題名こそ出ないものの、『いろをとこ』の文学的背景がはっきりと示されている。

《誰も里見弴を読まない。今日、彼は小津安二郎の映画の原作者として一般に意識されてゐるにすぎないだらう。ちようど滝沢馬琴東映映画によつて人々に親しまれてゐると同じやうに。先日ある大新聞の書評欄は彼の短編小説集の書評をかかげたけれども、彼特有の振仮名たくさんなスタイルをからかふだけで、彼の作品の魅力と本質については触れてゐなかつたやうに記憶する。誰も、さう、大新聞の書評者さへも里見弴を読まない》から始まって、

《里見弴はもともと私小説の作家ではない。もつと厳密な言ひ方をすれば、私小説的な発想ないし手法ではすぐれた作品が書けない文学者なのである。(にもかかはらず私小説の風土において仕事をしなければならなかつたことが、彼の最大の不幸であつた。)》

《里見弴は生れながらの物語作家(ストーリー・テラー)である。彼は、凡俗な都会人の生活のなかにロマネスクな世界を構築する点で、他に類を見ないほどに西欧的な作家なのだ。》としたうえで、

《彼が夏目漱石経由で学んだイギリス小説の伝統への忠実な師事を見るのである。》

《彼の方法は、その基本的な様相においては、かう考へるのがいささかも異様でないほど、市民小説への接近によつて成立してゐる。》

《しかし隠者には絶対なれない男が、私小説の傑作を書くはずはないのである。彼の才能はそのやうな退屈な才能ではなかつた。》

《里見弴はぼくにまづ、話好きでしかも話上手な隣人を連想させる。その話術の巧妙さはすでに定評のあるもので、今さら改めて言ひ立てる必要はなからう。大事なのは、彼が隣人であるからこそ、あれほどいきいきと、具体的に、ぼくたちに語りかけることができるといふ面であらう。(中略)語り手は聞き手の反応を絶えずたしかめながら、つまり相手がうなづくのを見たり、にやりと笑ひを浮べるのへこちらもにやりと応じたりしながら、話を進めてゆくのだ。かういふ説話体以上に彼の小説の方法をはつきりと示してくれるものを、ぼくは知らない。(中略)

 人々はおそらくかうした作風を、落語家のやうだとか何とか言つて責めるかもしれない。そしてまた、事実さう非難されても仕方がないやうな、卑俗さへと堕しかけてゐる瞬間にぼくたちはときどき立会はされるのだが、このことについてもぼくはかなり同情的である。つまり、里見弴は、幸福な語り手といふものの典型をぼくたちの文明のなかに求めるとき、円朝や小さんへとゆきあたるしかなかつたのではないか、責めはむしろ、話上手なサロンの紳士といふ型を完成させなかつた過去の日本文明にあるのではないかと、僕は考へるのだ。》

《この風俗小説作家の最上の武器は登場人物を型として捉へるといふ態度であった。(中略)もちろん型による人間把握を現代作家が嫌ふやうになつたのは、理由があることだ。型が崩れ、失せてしまつたからである。(中略)しかし現代日本の小説は、このやうな方法にいさぎよく見切りをつけてしまつたため、莫大な損失を招いてゐるやうにぼくは思ふ。新しい小説家は、ぼくたちが生きてゐる社会にどのやうな人間の型があるのかを発見することによつて、新しい局面を開くことが可能なはずである。その際、最も参考になる指針の一つが里見弴であることは、今さら言ふ必要もないだらう。》

 

 ここで、『名人選』の野口富士夫・丸谷才一による<対談解説>の『いろをとこ』に関する部分を見ておく。

《丸谷 里見さんの「いろをとこ」は、好短編のなかの好短編といった短かいもので、いうまでもなくここに出てくる主人公は山本五十六なんだけれども、その名前を最後まで明かさない。しかも山本五十六はこの芸者にとって、要するに旦那ではない。

野口 違いますね。

丸谷 情夫(いろ)ですね。連合艦隊司令長官が、旦那ではなく情夫であった、ということは、日本一の情夫だったんですね。

野口 戦前から戦中にかけての花柳界において、藝者とはこういうものであった……ということを示す代表的なものですよ。

丸谷 西洋の貴婦人がいろんな男をつまみ食いする。小説家と遊んだり、詩人と遊んだり、役者と遊んだりする。それに近い感じで、この芸者は連合艦隊司令長官と遊んでいたわけですね。そういうところで日本の芸者の社会的格式みたいなものを示すのに、この短編小説は逸すべからずものだと思ったんですよ。

野口 総理大臣が、待合のおかみの前では、へこへこしたりしているわけだから……。

丸谷 そういう戦前の日本の社会のいわば全体が、この眇たる短編小説に入っている。ただどうもこの連合艦隊司令長官山本五十六が、何だか少し歌舞伎の大名題みたいな感じで、真珠湾攻撃というのが、実は十二月は京都で「太功記」を出すというような(笑)、そのくらいの話になっている感じがしないでもない。あるいは山本五十六が、やはり歌舞伎の大名題みたいなところがある男だったという気もしますが……。

野口 大石内蔵助が京都の一力茶屋で遊んだときも、こんなふうだったんじゃないですか。

丸谷 そうかもしれませんね。

野口 討入りをにおわすような、におわさないような……。

丸谷 男が政治的・経済的な有用性とは違う、そういうものからいっさい切離されたところで女に接しているわけですからね。だからこういう感じになるんでしょうね。とにかくぼくは最初にこの短編小説を読んだときは、本当に驚きました。

野口 大石内蔵助ですよね、これは。》

 

『いろをとこ』から引用しだすときりがないのだけれど、会話とやりとりの説話体の艶っぽさと、泉鏡花仕込みの文飾、アイロニーで締まった地の文との、女の本質を炙りだす名人芸を、「奥の細道」藤原三代の無常を脳裡にちらつかせさえする芝居がかった幕切れまで引用しておく。ついでだが、鏡花も里見弴も芝居好きなだけでなく、親類縁者の猛反対を押し切って(あまり格の高くない)芸者と結婚した経歴を持つ(似たもう一人が久保田万太郎)。

《前夜の言ひつけを守つて、ビールと枝豆だけ先に来た。湯あがりの胸をはだけて、一本半ほどあけ、そろ/\銚子や料理も運ばれだした頃、女は、三島菊の、四十ちかい年齢(とし)にしてはあら(・・)い柄を、寧ろじみ(・・)すぎる好みのやうに着なし、白献上(けんじょう)の半幅帯の結び目に手を廻したまゝではいつて来た。

「お待ち遠様」

 したとも見えぬ化粧も匂ひやかに、ピタリと餉台のむかうに座を占めるのが、いかにもいた(・・)についたとりなしだつた。

「さつき、うちへ電話を申込んどいて貰ひましたの」

「さうか。……ビール、どうだ」

「さうね、あたしはお酒にします。おいしさうだけど、あと汗ンなるで……」

いづれにしても汗にやァなるさ」

 すましてさう言ひ、酌をしようとするのを、優しく奪ひ取つて、逆に銚子の口を向け変へながら、

「序(ついで)に、なんか、東京に御用ありませんか?」

「お前ンとこなんぞに用のあるわけはないぢやないか」(中略)

「いゝえ、慍(おこ)りやしませんけど、……どんなむづかしい問題だつて、大抵、一時間かそこら考へたら、どうなりと思案がきまるもんだと思ふわ。そんな、あんたみたいに、一ン日(ち)もふつ日(か)も考へづめに考へてたからつて……」

「下手(へた)な考へ休に似たり、か」

「そんな、下手なんてことないでせうけど、……でも、なんだか少しへんね。いつものだんまり虫と、今度は、なんとなく様子が違つててよ」

「をかしいな。どう違ふ?」

「どうつてね。……そろ/\あたしに飽きが来たんぢやァない?」

莫迦な! 嫌ひな奴と一緒に旅行なんかするもんか」

「嫌ひにならないまでも、……さうね、なんかわけがあつて、これッきりもうあたしに会はないつもりかなんかで……」

「しよっとるなァ」

「ちやかさないでよ。……それで、あんたにしては、珍しく、ふた晩もみ晩も……」

「いゝぢやないか。ふた晩み晩たんのう(・・・・)させて貰へば、願つたり叶つたりだらう。自惚るくらゐなら、そこまで自惚とれよ」

「えゝ。でも、それね、なんとなくあんたらしくなくつて、……却つて気味が悪いの」

「をかしな奴だ」

 と事もなげに笑つたが、この女の勘は壺をはづさなかつた……。

 翌日は天気が崩れ、急に秋風だつて、時をり、パラ/\と、時雨(しぐれ)模様の雨が落ちて来たりした。それでも、障子はあけはなしのまゝ、揺れ動く萩などに、瞚(まじろ)がない目を置き据ゑて、昨日(きのう)に変わらぬ男の緘黙が続いた。

 三日目の朝は早起きをし、旅装もととゝのへてから、

「あゝあ、今度こそあたし、天徳(てんとく)をしくじるわ」(中略)

 そんなことで、A駅から、上りと下りと別れたきり、ふッつりと音も沙汰もなかつた。世に聞えた人だのに、誰に訊いても、――唯一の親友・森に会つてさへも、曖昧に言葉を濁ごされた。或る財閥の当主たる旦那に暇を出されたあとも、生得の暢気(のんき)さと淫奔心(みだらごゝろ)から、かねてのいろ客・某省の何某(なにがし)とて、札つきの箒木(ほうき)のもちもの(・・・・)となつて、その日その日を面白可笑しく暮し、いつかあの男の記憶も薄れて行つた。

 ふた月半ほどすると、突然、彼(か)の人の名が、日本はおろか世界中にさへも響き亙った。根掘り、葉掘り、その後の様子を聞き知らうとの熱意も失はれてゐた折からだけに、なほさら女の驚愕(おどろき)は大きかつた。前の旦那の別荘に乗り込んで来て、大威張りで泊まつたり、旦那と一緒に飲み食ひしたりするやうな、ふてぶてしいとも、図々しいとも言ひやうのない「いろをとこ」が、庭先を歩くでもなく、昼は、禅坊主さへ退屈しさうな無言の行(ぎやう)、夜半(よなか)は、打つて変へての、雄々しくも逞しい性慾で圧倒して、未練なげに別れて行つた、あの、残暑の三日ふた晩の旅に、今更らしく、思ひあたる節(ふし)々を捜し覓(もと)めたりして、自分までが、一躍世界的の人物にでもなつたやうな、嘗て覚えのない心のときめき(・・・・)をどうすることも出来なかつた。森を介して、心入れの品々を送り届け、たまさかの短いたより(・・・)を喜び、新しい旦那に見せびらかして、痴話の種にしたりもした。(中略)

 四月、華々しい戦死を遂げた男の遺骨を捧じて還つた下役の者から、英雄の最期に適(ふさ)はしい、現場の模様を聞かされた。(中略)

 もとより遺族ではないが、特に設けられた席から、かくべつえらいとも、勝(すぐ)れてゐるとも思へなかつた人に対する、国を挙げての哀悼を目前(まのあたり)にしては、さすがの暢気屋(のんきや)も、「万感胸に迫る」といふ聞き齧(かじ)りの言葉どほり、何がなんだかわけがわからなくなつて、附添ひの者を不安にしたほど、ひた泣きに泣き崩れた。

 不見転(みずてん)あがりだとか、男誑(をとこたら)しだとか、強慾(がうよく)だとか、見栄坊だとか、傲慢だとか、あらゆる悪評を屁とも思はなかつたやうな彼の女にまで、急に好意や同情の慈雨が降り注いだ、さうされると、別人の如く優雅(しとやか)になり、控目にもなつて、未亡人じみた悲嘆の日を、ひとり静かに送りたがつた。――いつまで続くことかと、嘲り嗤(わら)ふ者もないではなかつたが……。(一行空け)

 一時は香煙を絶たなかつた西郊多磨なる墓所に、いま夏草が茂つてゐる……。》

 丸谷は「ある花柳小説」で『いろをとこ』を論じた。

《里見弴に『いろをとこ』といふわづか二十枚の短編小説がある。まことにすぐれた出来ばえのもので、傑作と呼んで差支へないが、世評は高くない、といふよりもむしろ誰も論じない。しかしどうやら作者鍾愛の一篇であるらしい。文学全集類に収める際のあつかひで、自信の程は判るやうな気がする。》

山本五十六といふ名はおしまひまで出てこないが、しかし終り近くになると、ははあ、と見当がつくやうになつてゐる。それは歌舞伎の引抜きといふやつに近い芝居がかつた仕掛けで、短編小説作法で言へば例のドンデン返しである。われわれは、残暑の温泉へ二泊三日、年増藝者を、旦那の眼を盗んで連れて来て、夜はともかく日中は女をちつとも相手にせず、ろくすつぽ口もきかずに考へごとばかりしてゐる、得体の知れない六十男とつきあつたあげく、あの男が実は山本五十六だと聞かされて息を呑むのだ。》

《しかしもうすこし仔細に見れば、これは女の眼から見た物語といふ趣向になつてゐる。かつて平野謙有島武郎の『或る女』のなかの一節を引き、男の姿が女房的視点から眺められ、矮小化・日常化されてゐることを指摘して、それをきつかけに、わが近代小説のリアリズムを批判したことがある。つまり男の偉さが見のがされてゐるといふわけだ。それはたしかに巨視的な展望として当を得てゐるだらう。が、有島の末弟の書いたこの短編小説の場合は違ふ。女は黙りこくつてばかりゐる男を持て余し、不安に思ひ、しかし相変らず惚れつづけ、そのあげく真珠湾の勝利に驚き、そしてしばらくたつと今度は男の死を知ることになるのだ。この場合、話は逆で、女の視点から男を見たのでは男の本当の姿は判らないといふことがいはば主題になつてゐるだらう。

 さうなるのは当然だ、とも言へるので、これは妻の視点からではなく藝者の視点から書かれてゐる。そこにしつらへられてゐるのは、藝者といふ、戦前の日本では唯一の社会化されてゐた女の視点だから、外界に対してせめてこの程度の視力でも持ち得た、と考へることもできよう。この女はすくなくとも、自分では測ることのできない価値がこの男にあるといふことを漠然と感知したり予感したりしてゐて、それが彼女の恋ごころに、薬味のやうに作用してゐるのだ。

 その意味で、『いろをとこ』はいかにも花柳小説の名手にふさはしい作品だし、いや、いつそ花柳小説そのものだと考へるほうが納得がゆく。女が、「田舎出(ぽつとで)の若い女中」とかはす会話、男との短いやりとり、その表情や立居振舞の描写などがどんなに上手いかは、何も今さらわたしが褒めるまでもないが、是非とも言つておかなければならないのは、女の意識のなかにおける社会のありやうが、ほとんど厭になるくらゐ精細にとらへられてゐることだ。この年増藝者にとつての男は、客いろである役者のやうなもので、しかしこの立役者が今度、上方であるいは名古屋で何を演じるかはちつとも知らされてゐない、まあ言つてみればそんな調子のものとして外界が存在し、しかもさういふ恰好の、淡くて漠然として他愛のない感じの社会のあり方が一筆がきで勢ひよく、生気にみちた筆づかひで描かれてゐる。以前の日本では、ただ花柳小説だけが社会小説だつたといふわたしの持論は、これを見てもやはり正しいやうな気がするのである。》

 

<『河豚』>

 丸谷は「里見弴についての小論」で、『河豚』をとりあげる。

《もつとも、さうは言つても、里見の作風が社交的な人あたりのよいものだと取られては困る。一皮めくれば、底流するものはずいぶん暗い、苦いものだ。このへんのことを知つてもらふには、最初期の作である『河豚』を差出せばよい。

 題にこだはつてばかりゐるやうだが、『河豚』は最初につけた『実川延童の死』のほうがよかつた。『河豚』では曲がないし花がない。まづ名前で上方の歌舞伎役者を色つぽく現前させ、その藝名のなかの「童」とおしまひの「死」とを衝突させる原題のほうが効果がきつい。つまり主題である生の花やぎと死との関係を色つぽく示す。これは例の大正文学好みの生命力をいちはやく(大正二年=一九一三)扱つた、新人の名作であらう。

 前にも言つたやうに一体に大正文学は、あれは大逆事件以後の暗い重圧への反撥ないし韜晦(とうかい)かしら、自然主義文学のマイナス方向ばかり強調する単調さへの抵抗もあつたかもしれないし、それとももつと広く、山崎正和のいはゆる「不機嫌の時代」を打ち破る策としてかもしれないが、生命力賛美がさながら時代精神のあらはれのやうになつた。「人間」といふ言葉の頻出などもその一兆候である。

 ただしおほむねの文学者の生命力とのかかはり方は素朴単純なもので、小説の場合もあまり変らず、志賀直哉『暗夜行路』前編末尾の、女の乳房に触りながらの「豊年だ! 豊年だ!」あたりが手のこんだ藝であつたらう。そこへゆくと里見初期のこの短編小説は、花形役者の若さを馬鹿ばかしい死に方で隈どることで見事な効果をあげてゐた。それを当時の読者たちは、単に絶妙の藝とだけ取つてゐたのだが、人生を見る眼光が冴えてゐなければ、藝の深さはあり得ない。(中略)

里見の作中人物たちは、花柳小説の場合でも、一連の逃亡者列伝の場合でも、市民小説の場合でも、みな魅惑に富む。さらに言へば愛嬌がある。つきあひたい気持になり、友情を感じる。この作家は小説といふ形式の核心のところをとらへてゐる。これはわが近代文学において彼が最も誇るべき長所であつた。》

 また丸谷は「里見弴についての小論」で、『縁談窶』に関する思い出とモダニズムについて語っている。その内的独白というモダニズムは、『縁談窶』の一年前、大正十三年(一九二四)の『河豚』にすでに見出せるではないか。ジョイスユリシーズ』の第十八挿話「ぺネロペイア」(一九二二)の、眠りにつくモリーの淫蕩な内的独白を、河豚中毒で死にゆく歌舞伎役者に出現させるという離れ技だ。

《『縁談窶』には思ひ出がある。

 わたしは中学生のころ里見弴の小説が好きで、それも何となく西洋の小説に学んでゐるやうな書き方が気に入つてゐて、かういう作風の人が志賀直哉と親しいのはをかしな話だと子供心に感じてゐた。何しろ当時は志賀がやたらに崇拝されてゐたからやはり気にするし、彼の『或る男、その姉の死』とか『和解』とかとりわけ『網走まで』が大嫌ひなわたしには、この二人の取合せがどうも納得ゆかなかったのである。》

 生まれ育った城下町の古本屋に里見弴「縁談窶」という題の本があったが、気に入りの作家なのに手に取ることもせず、三字目の字がいやで、読めないし、感じが悪く、いつになく辞書に当たろうともせずに、故郷の町を去ったのが昭和十八年(一九四三)。戦後もずいぶん経ってから、たしか里見没後のこと、誰かの編で出た小説集の目次の振り仮名のせいで訓(よ)みを知り、『縁談やつれ』と書いてくれればよかったのにとぶつぶつ言いながら読んで見ると、じつにおもしろかった。鎌倉住いの初老の男が踏切近くの路で、昔、放蕩者だったころ、髪結いに行った藝者が帰るのを待っていたときのことを思い出す、内的独白まじりのくだりがすばらしかった、と文庫本の二頁半にわたって『縁談窶』の該当場面を引用して見せた。

 後半を書き写せば、

《――待ってみると、五分という時間もなかなか永かった。それが、ゆくりなくも、阿野の心に、痴情の限りを尽した昔日(むかし)の思い出を喚び起して来た。……三日三晩ひと間(ま)に籠りきって、食べるものさえ碌に食べず、たまに執(と)る箸も、寝床の上に腹ン匍(ばい)のまま、というような為体(ていたらく)でいながら、その四日目の午後(ひるすぎ)、妓(おんな)が髪を結(ゆ)いに行っている間、餉(ちゃぶ)台(だい)に頬杖をついて、じッと時計のセコンドを睨めたきりで過した一時間あまり、……今、髪結(かみゆい)さんが、紐で腰にぶらさげている鋏(はさみ)で、パチリと根の元結(もとゆい)を切った。……今、あの沢山ある毛を梳かせながら、目尻を吊しあげて、薄目使いに鏡のなかを見ている。……今、前髪をとった。(中略)――さア、格子戸をあけた。……今のように一足。……今、二足。……ここまで、百歩とはあるまい……。――目に見えず、耳に聞えず、手に触れられない女の一挙一動を、寸分(すんぶん)の誤りなく思い計ろうとして、尺蠖(しやくとりむし)のようにぴッたりぴッたりと、青白い時計の指針面(ししんめん)に心を吸いつけ、伸びつ、縮みつ、じりじりと迫りよって行った一時間あまり!――今にして思えば、我ながら薄気味わるいほどだが、ひとを待つ時の歩みの遅(のろ)さが、ふと、そんなふた昔も前の、一生ひと(・・)にも話せないような記憶まで揺り醒(さま)して来たのだ。

(あの女もどうしているか……)

 陽(ひ)の翳(かげ)るように、寂(さび)しく心が暗もうとした時に、表停車場の方から踏切を、日除(ひよけ)だけに幌をかけた俥が、横切り近づいて来た。馬鹿に眼性(めしよう)のいい阿野には、片手を軽く幌の骨にかけて、すましこんで乗って来るのが、紛(まぎ)れもなく、ひと目で都留子と知れた。

(やア、来た! 来た!)》

 引用に続いて丸谷は、

《今の鎌倉駅の近くと数十年前の大阪の三業地、亡友の娘である良家の子女と昔の遊びの相手である藝者、時間、土地、階級の三要素がいい呼吸で交錯するそのあざやかさと言つたらない。わたしはつい、これはモダニズム小説だよと感嘆してゐた。

 年譜を操つてみると大正十四年(一九二五)の作品だから、ジョイスプルーストも翻訳されてゐない。いつどういふふうに仕入れた藝だらうと不思議になるが、名匠の勘は冴えてゐて、いちはやく時代の気運を察し、思ひがけない所から示唆を得、工夫したにちがひない。ぢかに学び取つたものでない半ば独創の藝であるだけふうはりとした味があるとも言へよう。

 それにもともと里見は、若年のころゴーリキの作に親しみ、あるだけの英訳に残らず目を通したといふ。ひよつとすると、原書や英訳によつてモダニズムの新風に接してゐて、それに触発されてゐたのかもしれぬ。何しろ昭和九年(一九四三)といふ早い時期、『荊棘の冠』においてジード『女の学校』の影響をあらはに、しかしじつに巧みに見せた人ゆゑ、見くびつてはいけないのである。里見は私小説的な作風であるにもかかはらず、それは素材的にさうであるだけで、技法的にはずいぶん西洋くさい作家であつた。さらに言へば昭和期の藝術家小説を参看しながら私小説といふ独特の方法を作つて行つたので、そこでは後年の狭苦しい気風は支配的でなかつた。》

 一方、『河豚』の終盤、大阪は玉庄の河豚にあたった実川延童は、民間療法なのであろうか、回復を願って生きたまま土に埋められる。その臨死体験とでもいえる精神世界を、登場人物をうまく動かしながら、目の前で見聞きしているかのように描く技量の凄み。芝居見者らしく、妙ににぎにぎしく、余韻たぷりの幕引き。

《「河豚食って、河豚にあたって、ふぐにお暇や」などと戯れていた。いつともなく、手足や脣などのギコチなさが次第に加わって来ているのも心づいてはいたが、気持はふだん(・・・)よりも却ってハッキリして快かった。こんな時なら何をしても、舞台の上のことばかりではなく、勝負ごとでも、日ごろ嗜む手細工のようなことでも、何でもうまく行きそうな気がした。

 しかし、夕方の六時頃には、延童の体はもう彼の自由にはならなかった。口も利けなかった。そとから帰ったままの黒の紋服のなりで、床の上に抱き移された。(中略)

 当時の名優海老十郎が見舞に来た頃にはもう大分に夜も更けていた。案内して来た男は途中ではた(・・)の人にせわしなく呼びかけられて、「どうぞあちらへ」と云い置いたまま。床の敷いてある部屋の襖のところから小走りに引き返して行って了った。丁度延童の体が縁先の土に埋められた時だった。華美な纈(くく)り枕を支(か)った首だけが、幾つもの色の違った灯に照らし出されて、クッキリときわだって見えた。(中略)

「もう、どないしてももど(・・)りまへんのか」

「私の考では、とても、いけそうもありません」

「なんだっか? 河豚にあたった……?」

「そうです、河豚の中毒で。誠にお気の毒なことでした」

 医者は少しも自分を弁護するようなことは云わなかった。

「フウン」と海老十郎は不機嫌に唸って、死んで行く人を咎めるように首を二三度横に動かした。

 これきりでこの二人もはた(・・)の沈黙に吸い込まれて了った。

 その自分になって、丁度眠りから覚めかけたように、延童の微な命には、再びこんなことを考えるもの(・・)が動き始めた。

 大分永いこと気を失っていたようだ。一体どうしたんだろう。(こう思って、ちょっと不安に感じた。)何んでもこれは不時の出来ごとではない。どうしてもこうならなければならなくって、こうなったのだ、何しろそれだけは慥かだ。して見ると広島以来の脳病かな? それより他にない。なんだあのくらいな脳病で……。(こう思いつくと不意に可笑しくなった。自分のまだ極く軽い脳病のために命までも気づかったことが、ちょっとでもそんな気になったことが、既に馬鹿げきった滑稽に感じられたのだ。この考えで一時に愉快になって来た。)――たしか、前にも一度こんなことがあった。(と、また考え続けた。)その時にも死ぬかと思って、あんまり馬鹿々々しいので可笑しくなって了った。そうだ、何から何まで丁度あの時とおんなじだ。(この発見は益々彼を愉快にしたので、暫くは、同じ大さのものを重ねるようにピタリピタリと合う、いつのこととも解らない或る以前の記憶をたどっていた)。そうそう、そう云えば親仁(おやじ)だってそうだ。(竹田の芝居が焼けた時の有様がマザマザと目の前に浮んで来た。)あのときの額十郎(いづつや)さんは松王と千代とを早替りで勤めていた。もう火事だ火事だと云って人が騒ぎだしているのに、親仁はすまして松王の鬘を持って額十郎さんの部屋の方へ行ったっけ。さあそのうちに奈落へ火が廻る――もうあれから九年になるなァ。(中略)

 ――どうだろう、よもや命に別状はあるまいな、それだけ一寸酒井さんに尋ねて置こうかしら。何しろあの竹田の芝居の火事だって、大変な人死(ひとじ)にだったんだから……。第一あんなに落ちつき払っていた親仁が、矢っ張り焼け死んでいるのだからな……。

 こう思いつくと、まるでそれまで思い設けなかった火の玉のような不安が、身をかわ(・・)すひまもない速さで、降りかかって来た。――口を利こうとした。しかし、かつてものを云う法を知らなかった人のように、どうしてよいのかあてすらつかなかった。その苦みの表情も、もう、蒼白い延童の顔の筋肉までは浮んで来なかった。

 一時間ほどの後に、延童の屍は掘り出されて床の上にあった。

「惜しい人だった」

 海老十郎にひと言こう云われると、小延童は今まで堪えに堪えていた涙を流した。多見蔵も来てくれた。珊瑚屋の妾の泉さんはもう公然と亡き情人の枕辺ちかくにいた。お峰、小しづ、――通夜の席にいたのは以前に関係があったと云うような、もう姐さん株の年増が多かったが、中には若い妓の目を泣き腫らしているのも混っていた。

 翌日から玉庄は永く店をとじて了った。

 明治十六年のできごとである。》 

 

 

<『妻を買う経験』>

 杉本秀太郎が個々の作品を『傑作選』で解説することはなかった、とさきに書いたが、それでも『名人選』に対して全体に調子の低いなかでは秀作の、徳田秋声、里見弴、丹羽文雄について、さすが杉本らしく文学の機微を知り尽くした文章を残している。職人的な巧さ、やや頽廃的な味わい、読むことの快楽とは、大人にとってこういうものだと、あたかも京の花街祇園の高度な悦楽のように囁く。

《この『傑作選』のうちには、『街の踊り場』の徳田秋声、『河豚』、『妻を買う経験』の里見弴、『甲羅類』の丹羽文雄、三人の名うての小説家が含まれている。不知不識のうちに「花柳小説」という観点を離れてこの三人それぞれの文章を読むうちに、私は一種畏怖の念をおぼえていた。『妻を買う経験』と『甲羅類』は極めてこみいった話の連続だが、話の折れ目、曲り目、切れ目の処理、入念執拗な、粘着的な書き振り、全体にわたっての、それぞれに等質な文章の密度の高さは、当節の作家のうちにその類を見ることのないところで、読み終えると、どっと疲れが襲ってくる。しかも、麻痺した頭に充ちてくる陶酔の名残りが、またとなく快い。秋声の『街の踊り場』は上の二作に較べればよほど短いが、タイヤの空気が抜けてハンドルは半分こわれかけている中古車にゆすられ運ばれているような不安と危険への注意力の緊張と弛緩の波が、独特の読中感覚を与えるところ、至芸なのか芸の崩壊なのか、にわかには見分け難い。》

 

 丸谷「里見弴についての小論」は『恋ごころ』(講談社文芸文庫)の解説だが、収録作品の一つ、『妻を買う経験』については素気ない。

《大正文学の主調は生命力の謳歌で、現場の心得としてはあおれがディテイルの重視をもたらした。そのせいでとはかならずしも言へないはずだが、しかし実際にはそのせいで想像力が軽んじられ、作家の実地に体験したことしか書かない気風が支配的になつた。それはよく言へば仕込みに元手をかける態度で、それが最もはなはだしいのは里見である。たとへば『大火』を読むと、吉原事情にこれだけ通じるには生半可な出費ではむづかしいと思はせられる。通常のときの吉原に詳しいから、非常の場合の吉原の大みせのいろいろな業種をこれだけいきいきと描きわけることができるだらう。筆が立つのはもちろんだが、そのことに感心する前に取材費の金額に舌を巻くのがこちらの反応になつてしまふ。

 同じことは『妻を買う経験』についても言へよう。これは金銭が眼目の話だから、現物に当ればよくわかるはずゆゑ、説明は略す。》

 しかし、続く指摘は里見の本質、ひいては文学の本質、あるいは文化的に成熟した人間の生き方をよく言いあてている。

《花柳小説の作者たちに限らず、一般に近代日本の文学者は社会に背を向けてゐたし、そして里見は、社会から脱出する者を好んで取上げながら、日本の社会とじつにうまく折合ひがついてゐた。心の底はともかく、表向きはさうであつた。本当はこれが正統的な作家の態度なので、このことは里見の小説の方法の西洋くささと深いところで関係がありさうだ。(中略)そこには出身階級に縛られずに、羇絆(きはん)を脱して生きたいといふ作者の願ひがよく見て取れて、しかしそれにもかかはらずその自分が属してゐた中流上層ないし上流を含む日本の社会がきちんと焦点が合つた感じでとらへられてゐる。さうなると帝政末期のロシア小説よりもむしろイギリス小説に近くなる。里見の反逆が幼稚に抒情的でなく大人つぽい感じなのは、主としてこのせいかもしれない。彼の作品の小説的に安定した味はここから生じる。

 そしてこの作家独特の社交的な説話性は、このへんの事情からもたらされる。》

 

 丸谷は「里見弴の従兄弟たち」をこう始める。鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史』という本で、華族の家の妾腹の子として生れた大河内光孝の話を読んで、里見弴を連想する。

《わたしはこの話を読んで、ほとんど反射的に、里見弴の流転の生涯を送る男たちをあつかつた一系列の作品を思ひ浮べた。社会的脱落者である主人公。数奇を極めた生涯。みじめではあるもののしかし何となく花やかな彩り。これらの条件に加へて、彼の冒険と愚行に迷惑しながらしかし彼に魅力を感じてゐる周囲の者や、それにこれは技法上のことだけれど、語り手の知らない余白の部分がいつぱいあつて、それがかへつて現実の広大さ、人生の謎めいた感触をうまく出してゐる効果などを付け加へるならば、まさしく里見の世界ではないかと思つたのである。》

楽天的でしかもそのくせ充分に敏感な小説家が、ゴーリキーにおける放浪者と藝術家との二重写しに共感を抱いたのは、当然のことだつた。この型の主人公でゆけば、屈託のない、寛闊な自己主張といつしよに、苦りのきいた自己批評も出せるからである。彼は一方では藝術家であることに圧倒的な優越感をいだきながら、他方、自分が属するこの種族の胡散くささを鋭く感じとつてゐたのである。その態度にはたぶんトーマス・マンと共通するものがあるはずだ。別の言ひ方をすれば、彼は浪漫主義に魅惑されてゐたが、その魅惑のされ方はずいぶん高度なもので、それと同時にロマンチック・アイロニーも知つてゐた、直感的に知つてゐた、といふことになりさうである。この皮肉な味は、大正期の藝術家崇拝には珍しいものであつた。それゆゑ里見は、いはば本能的に、幇間や泥棒やサーカスの団員くづれの画家や蕩児など、この種のいかがはしい男たちの流転の物語を、不思議な優しさで語りつづけたのだらう。そこには傍観と友情とが、それぞれの場合に応じて、じつに適当な割合でまじつてゐた。里見の作品のなかで、藝術家ではなく藝術家型の失敗者を描いたこの系列のものが概して最も出来がいいのは、かういうアイロニーの味がうまく添へてあるせいだと思はれる。》

《里見は、社会に背を向ける流浪者に自分をなぞらへながら、しかしいつも社会を意識してゐた。あるいは、社会があればこそそれからの脱落者との双方に対して憐れみの眼を向けてゐたのである。》

《里見は上流の子弟として生れながら、本来のコースをたどらず、つまり、陸海軍の将校にも、外交官にも、実業家にも、貴族院議員にもならず、身を持ち崩して小説家になつた。そのせいで彼のつきあふ範囲は、小説家、画家、俳優、藝人、藝者、女将、幇間、その他いろいろと、非常に広くなつたし、ここまでは永井荷風の場合と同じだけれど、ここからさきは大きく違つて、里見は出身階級と縁を切らなかつたので、彼の視野にはいつまでも社会の全階層が、具体的な形で存在することになつた。(中略)このことは里見の小説の世界に意外なほどの幅の広さをもたらしてゐるので、彼が近代日本文学には稀な社会批評の作家となつたのは、この条件と深い関係があるやうに思はれる。荷風の社会批評が、とかく上流への敵意と下層への親愛があらはになりがちなため、一種イデオロギー的な、あるいは感傷的な、図式性の枠のなかにあるのとは異り、里見はあらゆる階級に対して寛容であつた。もちろんそれをあきたらなく思ふ読者もゐるだらうが、しかしこれが小説の本道だと見る立場も許されなければならない。ここで言ふ社会批評とは、社会主義の正義感を援用して裁くといふ意味ではなく、風俗を回路にして社会を認識するといふ意味だからである。その点で里見の小説は、意外なくらゐイギリス小説の方法に近かつたやうに見える。》

 丸谷の批評は『妻を買う経験』の登場人物、たとえば内藤の、あるいは昌造の、《社会的脱落者である主人公。数奇を極めた生涯。みじめではあるもののしかし何となく花やかな彩り》の、どこか憎めない魅力に相応するだろう。描写力と語彙と文章の確かさ、地の文と会話の滑らかにして天性の絶妙な間(ま)。芸者おしげのモデルで、大阪の芸妓だった妻の山中まさに大阪弁をみてもらったと、悪びれることなく対談で告白している。込み入った話を巧みにほどく語り口、目の前にたしかに相手がいる会話、結婚が金銭の話になってしまうアイロニカルな場面を二、三引用したい。

《清水の四男で母方の姓を継いでいる昌造が、大阪で或る芸者と懇(ねんごろ)になって、その女と結婚しようと決心した。二人の間には子供まで出来た。それが生れる少し前に、清水の両親はさんざ反対した末に、とうとう伜の強情に折れて、諦めの意味からやっとそのことを承知した。長男の敬一は、まだ両親までその話がもち出されないズッと以前から、なんのかのと頼りにされて、始終同情者の位置に立っていたが、先方の娘が背負わされている馬鹿げて多額な借金については、弟とも相談のうえ、凡そその半額ばかりに両親には話させて置いた。併しそれでも、父親は多過ぎると言って、実際ありそうもしないものまで言い立てて貪ろうとしているのだと疑った。それの真偽を突き止めることとか、先方の母親や同胞(きょうだい)とは、親類づき合いは末(おろか)、決して出入りもさせないことに証文を取り交わして置けとか、いろいろな条件があって、大体承知はしたと言うものの、それ等の条件に欠ける点があれば、勿論すぐ取消になるような承知のし方だった。外の条件はどうにでもなるとして、昌造には勿論、敬一にもどうすることが出来ないのは、結局借金の始末だった。

「僕などはそんなことにかけたら全くの無能力者だ」

 と、謹直な敬一は笑いながら内藤に話した。「そこへ行くと君は、だいぶ苦い経験も嘗めさせられたような話だから……」

「や、どうも、とんだところで先輩扱いにされて恐縮ですな」

 聞いているうちに、内藤の心にはすぐもう計画が立った、――ような気がした。と言うのは、彼が自分自身の場合に執った総ての計画なり経過なり結果なりが、いま話で聞いた昌造の場合の上へ探照燈を注ぎかけたように、そこの総てのことを明るく眺めさせたことだった。》

《三十何年芸者で暮したわりには心持に潔癖なところの残っている、我強(がづよ)い、臆病な、猜疑(うたぐり)深い母親は、初対面の、而も自分の利益と撞着する性質の用件を帯びて来ている男を、恰も懐に匕首(あいくち)を吞んでいるほどに不気味に感じて、神経の昂った、少し青ざめた顔つきをして、油断なくジロリジロリと内藤の心に目をつけながら、大きな、間の隙(す)いた前歯をむき出して、声を立てずに、これも変な笑い方をした。

 二つ三つ世間話の後に、話題はすぐに用件に移った。

「……こっちのことはよく知りませんが、五千円という借金はちっと多いようですな」

「五千円もあれしめへんけどな」

「四千何百円、かれこれまア五千円でさアね。そんな芸者が、こっちには大勢いるんですかねえ」

「さア、どうだっしゃろな」

 と、故意(わざ)と冷淡に、「けど、わしとこではおまんね。掛値も嘘も言えしめん。そらアあんた(・・・)もよう知ってなはりまッ」

 母親は昌造の方を顎で指した。昌造はここでは常にあんた(・・・)と呼ばれていた。

「さ、そう貴方のように言っちゃ困る。掛値があるともなんとも言ってやしませんと」

「へ」

 と、苦り切っている。

「それだけの借金を背負った女は、東京じゃアそうたんとはありませんがね」

「そうだっかいな」

 黙って聞いてろイ! と言いたげに内藤は眉間に電光を走らせて、「が、それアあるものはあるでいいとしてだ、清水家の御両親は、せいぜい二千円より出されんと仰有っとるんですからね。……まアま、黙ってお聞きなさいよ。とにかく纏りそうな話にせんけれア、いくら私たち友達が仲イはいってみたところで、これア相談にもなんにもならんのだから……。いいかね。ここは一つ貴方ともご相談だが、私でいいところは私がいくらでもやってみるけれど、私じゃアいかんところもある。そこは一つ、貴方も自分の娘さんのためだ、ひと肌ぬいでくださらんとね」

「それがいきまへんね。太田の口にせ、明石の口にせ、何も商売にしてなはる金貨と違いまんね。みんなわての古い古い馴染だんね、……馴染いうたかて女子(おなご)はんだっせ、つまり昔の朋輩だんな、……それでわての気性をよう知ってくれてますよってに、長吉ッさんやったら間違いないやろ言うて、自分で稼ぎ貯めた、それこそ虎の子のようなお金を貸してくれはった、ほん義理の深アい借金だすよってな、……どない言うて貰うても、わての口から、まけ(・・)てほしいなんてよう言いまへんね」》

 里見はいつも、最後の拍子木のチョンが胸に応える。

結局、あまり要領を得ずじまいに内藤が帰京してから、《昌造は四五人の債務者を相手に、血眼になって自分の妻たるべき者の値段を極力値切り倒し》、《凱旋の将軍が捕虜を従えて来るように、値切って買い取った妻を伴って上京してきた》が、おしげは主婦となってからも《暫の間清水家に出入することを許されなかった。翌年の夏の初めに、結婚式と仲人とのない、だしぬけの披露》となった。

《――この披露の席に内藤を請待(しょうたい)することを、清水の父親が特に昌造に注意した。彼は大阪から「凱旋」した後に、内藤が彼のために凡そ費したほどの金高の札物を持って彼を訪ねたことがあったが、その時は、留守で会えなかったから(序に内藤のために、その礼物がそっくり返却されたことを記して置く)昌造は大阪で別れて以来初めてその席で彼と顔を合せるのだった。よく言えば、わりに淡泊な性分をもっている昌造は、そこに彼の父親が特別に注意を払ったほどには、もう内藤に拘ってはいなかった。客を待ち受けるために五十分ばかりも早めに料理屋へ出かけて行った彼は、そこの樹木の多い庭に近く座布団を持ち出したりして、もう、真先に内藤が来ているのを見た。――郊外の家から東京へ出る序にと、用達(ようたし)を兼ねて来たのが、その用が案外早く片づいたので、あまり早く来過ぎて失礼した、と内藤は断ったけれども、それはそうであろうとも、内藤が真先にこの席にいたことが、昌造の心に何か湯のように温いものを迸らせた。

「あの節は、いろいろ有難う御座いました。……失礼ばかり致しまして……」

 この言葉を言う時、昌造は内藤の顔を見ることが出来なかった。またもや、あの突拍子もない血が彼の頬へと衝きあげて来るのを感じた。》

 丸谷が指摘した、《これらの条件に加へて、彼の冒険と愚行に迷惑しながらしかし彼に魅力を感じてゐる周囲の者》とは、見事な幕引きに心温まり、名残り惜しむように本を閉じる読者もまたその一人である。

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

*『花柳小説名人選 日本ペンクラブ編――丸谷才一・選』(集英社文庫

*『丸谷才一編・花柳小説傑作選』(講談社文芸文庫

*『丸谷才一全集9』(「誰も里見弴を読まない」「ある花柳小説」「里見弴の従兄弟たち」所収)(文藝春秋社)

*里見弴『恋ごころ』(丸谷才一解説「里見弴についての小論」所収)(講談社文芸文庫

*里見弴『初舞台・彼岸花』(講談社文芸文庫

*里見弴『秋日和』(夏目書房

*『唇さむし――文学と芸について 里見弴対談集』(かまくら春秋社)

*『筑摩現代文学大系22 里見弴・久保田万太郎集』(筑摩書房

*『丸谷才一批評集5』(舟橋聖一『ある女の遠景』(講談社文庫)の解説「維子(つなこ)の兄」所収)(文藝春秋

*『筑摩現代文学大系49 舟橋聖一集』(筑摩書房