文学批評 「一葉『にごりえ』の多声(ポリフォニー)と永遠の秘密」

 「一葉『にごりえ』の多声(ポリフォニー)と永遠の秘密」

 

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 樋口一葉にごりえ』は幾たびも読みかえしうる傑作であることは間違いないが、「読めば読むほどわからなくなる」(井上ひさし樋口一葉に聞く』文春文庫)というのも正直な感想だろう。

 まずはいちおう、『にごりえ』のあらましを紹介しておく。八章からなる。

(一)本郷区丸山福山町(現文京区西片)らしき新開地の銘酒屋菊の井のお力は器量よしの売れっ子、一枚看板だ。

(二)さる雨の日、呼び込んだ山高帽子の気前の良い三十男結城朝之助に、素性を根掘り葉掘り聞かれる。お力はのらりくらりと答えないが、次第に馴染みとなってゆく。

(三)布団屋だった源七はお力に入れあげて没落し、いまでは八百屋の裏の長屋で貧窮のうちに暮らしているが、今でも下座敷にやってきて、などと陰気くさい話を結城に打ち明ける。

(四)源七はお力を忘れかねて、働く気力も食欲も乏しい。女房のお初は内職に精を出し、四つばかりの太吉を育てながら源七に愚痴をこぼしつつ尻を叩く日々である。

(五)盆の七月十六日がやってくる。お力は酔客の求めに応じて「我戀は細谷川(ほそたにがは)の丸木橋わたるにや怕し渡らねば」と謳ひかけると、ふいに飛び出して横町の闇を彷徨い歩く。

(六)お力は結城に、祖父、父と続く不幸、小さいころお使いの米を溝泥に落としてしまったこと、気違いの遺伝などを語りだす。その夜は結城を帰さない。

(七)太吉が「かすていら」をもらって帰ってくるが、お力からと知って夫婦は言い争いとなる。勢いで源七はお初を離縁し、お初は太吉と風呂敷ひとつで出てゆく。

(八)魂祭(たままつ)り過ぎて町を出てゆく棺が二つ。一つは菊の井から出る籠、一つはさし担ぎ。噂によれば、お寺の裏山で二人立ばなしをしていたので得心づくだとか、女が切られたのは後袈裟だから逃げるところを遣られたに違いないとか、布団屋だった男は美事な切腹だったとか、諸説乱れて取りとめない。恨みは長く、人魂(ひとだま)か何かが寺の山を筋引いて光り飛ぶのを見た者があるという。

 

 <奇蹟の「小説的な嘘」>

 さて、一葉の「雅俗折衷文体」がもっとも高みに達した第五章を断続的になるが読んでみよう。

 

《誰れ白鬼とは名をつけし、無間地獄(むげんぢごく)のそこはかとなく景色づくり、何處にからくりのあるとも見えねど、逆さ落して血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる聲も蛇くふ雉子(きゞす)と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打(てうち)/\あわゝの可愛げに、紙幣(さつ)と菓子との二つ取りにはおこしをお呉れと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に眞からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やの辰さんが事を、昨日も川田やが店でおちやつぴいのお六めと惡戲(ふざけ)まわして、見たくもない往來へまで擔ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡で末が遂げられやうか、(中略)私が息子の與太郎は今日の休みに御主人から暇が出て何處へ行つて何んな事して遊ばうとも定めし人が羨しかろ、父(とゝ)さんは呑ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母は此樣な身になつて恥かしい紅白粉、よし居處が分つたとて彼の子は逢ひに來ても呉れまじ、去年向島(むかふじま)の花見の時女房づくりして丸髷に結つて朋輩と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これ/\と聲をかけしにさへ私の若く成しに呆れて、お母さんでござりますかと驚きし樣子、(中略)菊の井のお力とても惡魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此處の流れに落こんで嘘のありたけ串戲に其日を送つて、情は吉野紙(よしのがみ)の薄物に、螢の光ぴつかりとする斗、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他處目(よそめ)も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたゝまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を投ふして忍び音の憂き涕、(中略)力ちやんは何うした心意氣を聞かせないか、やつた/\と責められるに、お名はさゝねど此坐の中にと普通(ついツとほり)の嬉しがらせを言つて、やんや/\と喜ばれる中から、我戀は細谷川(ほそたにがは)の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸失禮をします、御免なさいよとて三味線を置いて立つに、何處へゆく何處へゆく、逃げてはならないと坐中の騷ぐに照(てー)ちやん高さん少し頼むよ、直き歸るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ。(後略)》

 

 読みながらなのか、声に耳を澄ましながらなのか、うねるように湧きあがってくる問いは一つや二つではない。たとえわかりやすい答えが誰かから授けられたようとも、疑問ばかりが意識をとめどなく濁らせる。女主人公「お力」をそのように決めつけてよいものか、とかえって不安が渦を巻く。

 それは『一葉日記』の、すっきりとして当たり障りのない、スキャンダルやゴシップを巧みに回避した優等生の紋切型日記の対極にあるもので、混濁したなにものかがそこにあるはずだ。

 ロラン・バルトは、遺作『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(ロラン・バルト『テクストの出口』沢崎浩平訳、みすず書房)に、次のように書き残している。

 スタンダールは、《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語ってはいたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもあって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)要するに、「旅日記」と『パルムの僧院』との間で生じたこと――そこを通りすぎたもの――はエクリチュールです。エクリチュールとは何でしょうか。長い入門儀式の後に得られると思われる一つの力です。愛の想像物(イマジネール)の不毛な不動性を打ち破り、愛の体験に象徴的な一般性を与える力です。スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――、彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 一葉もまた、「小説的な嘘」によって、体験に象徴的な一般性を与えたのに違いない。『一葉日記』の明治二十五年二月四日の「雪の日」と小説『雪の日』を読み比べてみれば、『紫式部日記』と『源氏物語』と同じような関係性に気づき、かつ「小説的な嘘」の素晴らしさに感嘆するだろう。

 そのうえ、わずか二十四歳で世を去った一葉の場合は、スタンダールのような二十年後の事後作用という時間的余裕も、長い入門儀式もなく、日記とほぼ同時進行で小説を書きあげてしまった。いわゆる「奇蹟の十四か月」は、同時性によって書かれた「奇蹟の「小説的な嘘」」でもあったのだ。

 では、一葉小説のわからなさと魅力はどこから来るのだろうか。

 

 <『源氏物語』からの声>

 一葉が『源氏物語』や西鶴に親しみ、文学的素養の礎だったのはよく知られるところだ。日記からわかるように、北村季吟『湖月抄』によって『源氏物語』を読み、中島歌子の歌塾「萩(はぎ)の舎(や)」で代講さえ務めている。

 西鶴からは、雅文だけでは盛り込めない市井の様々な情報、活気ある人の噂、下世話な事件の表現をいきいきと記録する文体とリズム感を学んだはずで、それが坪内逍遥の、地の文は雅文体、詞は俗文体という「雅俗折衷文体」に昇華したのだろう。

にごりえ』、『たけくらべ』には、『源氏物語』の「若紫」、「橋姫」、「浮舟」とのインターテクスチャー的関連が見てとれるし、源泉の『竹取物語』との照応さえ読み取り可能だろう。しかし、そこに見てとれる物語の構造や、文学的細部の類似、引用の比較ではなく、もっとも根本的なのは、『源氏物語』から多声的(ポリフォニック)なエクリチュールを触覚的、聴覚的に身につけたことではないだろうか。

 たとえば「帚木(ははきぎ)」の、名高い「雨夜の品定め」の場面をみれば、紫式部エクリチュールの多声的(ポリフォニック)な手法がわかろうというものだ。

 大野晋丸谷才一『光る源氏の物語』(中央公論社)の「帚木」「空蝉」「夕顔」に関する二人の対談から引用する。

《丸谷 (前略)そうこうするうちに話は女性論になって、頭中将が中の階級にいい女がいるという話をするんですね、そこへ左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞がやってくる。左馬頭がその三階級論を受けて、中くらいのところの女、つまり受領階級の娘たちがよろしいという話をする。左馬頭と藤式部丞というのは中の位、受領(ずりょう)階級の男なわけですね。

大野 左馬頭はそうだけど、藤式部丞なんていうのは丞ですからまだ下です。だけども、結局、受領までしかのぼれないような男ですよね。そういう男たちが四人も集っていろいろな女談義を始めた。仕えている女房の立場としては「いと聞き憎きこと多かり」で、全く聞きづらいことを男どもは平気でいろいろなことを言っている、ということで四人の会話を書き始めるわけです。(後略)》

「雨夜の品定め」の四人の会話について、野口武彦は『『源氏物語』を江戸から読む』(講談社学芸文庫)の『「語り」の多声法――萩原広道の「構造」主義源氏学をめぐって』で、こう論じている。(ちなみに、一葉が大切に読んだ北村季吟『湖月抄』は、萩原広道『源氏物語評釈』の師本居宣長源氏物語玉の小櫛』以前の江戸前期の木版版。)

《物語にあっては、語り手の声は遍在する。あたかも音楽用語でいう持続低音(バッソ・オステイナート)のように、それはそれ自身をたえずひびかせながら、その上に独自の声部を重層させる、すなわち、「語り」の多声法である。語り手の地声の中から現われ出て、場面の前景からあらたに声を発しはじめるこれらの作中人物たちは、特にこの「雨夜の品定め」の場面では、たんなる作中人物にとどまらず、劇化された語り手(・・・・・・・・)とでもいうべき機能を分担している。「語り」の内部に「語り」が、声のうちに声が重層するこの話法構造の深度が、同時にまた、読者が語り手になかだちされて作中人物との間にある遠近法のうちに導入される、その間合いの取り方であることを、ゆめゆめ亡失してはならないのである。奇妙な言い方になるが、『源氏物語』の読者は、読むことをいつも耳を澄ましていることと考えてかからなければならない。》

 これこそ、「「語り」の内部に「語り」が、声のうちに声が重層」し、「読者が語り手になかだちされて作中人物との間にある遠近法のうちに導入される」という、『にごりえ』の多声(ポリフォニー)であって、「『にごりえ』の読者は、読むことをいつも耳を澄ましていることと考えてかからなければならない」と言い直したいくらいである。

 さらに『源氏物語』、「宇治十帖」の「宿木」と「浮舟」において、中の君や浮舟のもとに忍び寄る匂宮の所業を女房たちが、実事ありなしについていろいろ噂話をしたり、薫と匂宮のどちらになびくべきかあけすけに評したりする様子などは、『にごりえ』最終第八章の噂話だけから結末を仕立てた小説作法を連想させるし、それ以前に、第七章の源七一家離散と、第八章の二つの棺のあいだの物語の大いなる余白と暗示こそは『源氏物語』からの影響に他なるまい。

 

《魂祭(たままつ)り過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕(かご)にて一つはさし擔ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな證人もござります、女も逆上(のぼせ)て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の歸りに男に逢ふたれば、流石¥疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花(しにばな)、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、彼の子には結構な旦那がついた筈、取にがしては殘念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂(ひとだま)か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ。》

  

<『罪と罰』からの声>

 多声(ポリフォニー)といえば、その提唱者ミハイル・バフチンの『ドストエフスキー詩学』(望月哲男/鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫)にあたってみよう。

《それぞれが独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくことといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。》

 内田魯庵(不知庵)が英訳本から翻訳することで明治二十五年から二十六年にかけて出版したドストエフスキー罪と罰』(原著前半部のみに相当)の話を一葉は、「文学界」の仲間から聞いていたことだろう。実際、『罪と罰』論を書いた戸川秋骨が一葉に『罪と罰』を貸したと雑誌に書いているばかりか、貸与以前にすでに読んでいたふしさえある。

 もしも一葉が、明治二十八年の『にごりえ』執筆以前に魯庵訳『罪と罰』を読み終えていたのならば、そこから得たものは、ラスコーリニコフがセンナヤ広場周辺を離人症のようになって彷徨する場面が、『にごりえ』第五章でお力が横町の闇を彷徨する場面の解離症的な描写とそっくりであるという状況の類縁性ではあるまい。明確に意識していたかいなかったかはともかく、一葉が残したものは、ドストエフスキーポリフォニー的な小説構造、「それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆく」エクリチュールと心理の重層性だったのではないか。

 そしてまた、バフチンの次の記述は、『にごりえ』の女主人公の、完全な説明の不可能性、内的非完結性と共通してはいないだろうか。

《モノローグ的な構想においては主人公は閉じられており、はっきりとした意味上の輪郭で囲まれている。彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり現実の人間として決定された自己イメージの枠内で行われるのである。彼は自分自身であることをやめることができない。つまり自分の性格やタイプや気質の境界を逸脱すれば、必ずや彼に関する作者のモノローグ的な構想を破壊してしまうのである。そのような形象は主人公の意識に対して客観的な立場にある作者の世界の中で作りだされる。作者独自の視点と決定的な定義の機能を備えたこのような世界が成立するためには、確固たる外部の立場、確固たる作者の視野が存在することが前提とされる。主人公の自意識はそこでは内部から突き破ることの不可能な作者の意識という鞘(さや)、彼を規定し描写する作者の意識の鞘に収められ、そのうえで外部世界の確固たる基盤の上に置かれているのである。

 ドストエフスキーはこうしたすべてのモノローグ的な前提を拒否している。モノローグ的な作者が、作品とその中に描かれた世界に最終的な統一性を与える目的で、自分のために留保していたすべてのものを、ドストエフスキーは自らの主人公に譲り渡し、それをそっくり彼の自意識としたのである。》

『一葉日記』の主人公はモノローグ的であったが、『にごりえ』の女主人公はモノローグ的なものを拒否していて、そこにこそお力の一枚岩ではない不思議な魅力がある。

 

 <「雅俗折衷文体」の声>

 一葉は和文脈による文語体の最後の光であり、明治二十九年の死後、ほぼ十年ほどで「雅俗折衷文体」は消え去って、言文一致の口語文体一色になってしまう。

 声や視点や作者と主体の関係性だけでなく、文体そのものがひと続きの切れめのない多声(ポリフォニー)であって、映画でいえばワンカットの長回しで撮影されたアレクサンドル・ソクーロフエルミタージュ幻想』のような息の長い、滑らかな流れと遠近の揺らめきのうちに、交錯するすべてがワルツの輪舞のように渦巻き、融けあう。

 第一章の冒頭部分、読点がとめどなく連なって、はじめて句点があらわれるまでの一節は、おもに会話の言葉だから、今なら鍵カッコ「 」で分離、判別されるところだが、「内心の声」とともに地の文に混ざりあっている。しかも主語が不明なうえに、『源氏物語』のような尊敬語、謙譲語を使い分けての上下関係から主体が推定される高度な文化もなく、唐突に雅と俗が転調するから、慣れないうちは誰の言葉なのか、会話なのか、地の文なのか摑みにくいが、いったん波に乗れば五・七音は、よい意味で眠りを誘うように心地よい。

 あえて、おおよその主体ごとに分かち書きしてみれば、

 

《おい木村さん信(しん)さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉(ふたば)やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯(ぶう)なら歸りに屹度(きつと)よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯しながら後刻(のち)に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾(しきゐ)をまたぎながら一人言をいへば、》

 

 と語ったのは、次に続く文章に至ってようやく高ちゃん(お高)と間接的に知れる日本語の文法構造で、

 

《高ちやん大分御述懷だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭(やけぼつくひ)と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪(まじなひ)でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、》

 

 とその高ちゃんに声をかけたのは、道行く客か複数の朋輩なのかとさえ思える俗文のリズム感で、、

 

《力ちやんと違つて私しには技倆(うで)が無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私しのやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前(みせさき)へ腰をかけて駒下駄のうしろでとん/\と土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛(ひきまゆげ)に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、》

 

 とお高が反応して、女主人公の力ちゃん(お力)の話題をあげると、すぐに地の文はお高の外見のなまなましい実況に転移し、

 

《お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髮の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸(ゑり)もと計の白粉も榮えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳(ち)のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱ/\長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形(おほがた)の裕衣に引かけ帶は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の處に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり、》

 

 といきなりお力の説明となり、

 

《お高といへるは洋銀の簪(かんざし)で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻(さつき)の手紙お出しかといふ、》

 

 とまたお高に戻って、お力に話しかけるが、

 

《はあと氣のない返事をして、どうで來るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つて居るに、》

 

 とお力が応じ、

 

《大底におしよ卷紙二尋(ひろ)も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出來る物かな、そして彼の人は赤坂以來(から)の馴染ではないか、少しやそつとの紛雜(いざ)があろうとも縁切れになつて溜る物か、お前の出かた一つで何うでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば》

 

 とお高が意見することで、お力のいわくが晒されて、こちらの想像力を刺激し、

 

《御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうも彼んな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、》

 

 とお力が気風の良さを見せつけるように言い返せば、

 

《あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我まゝが通るから豪勢さ、此身になつては仕方がないと團扇(うちは)を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。》

 

 とお高がやりとりを締めて、最後は「夕ぐれの店先にぎはひぬ」の西鶴的ともいえる乾いた地の文で句点となる。

 こんな調子で、切れめなく主体が入れかわり、地の文と会話が交錯する多声(ポリフォニック)の文体のうちに、知らず情緒が醸しだされ、主人公のありさまが染みこんでくる。ここからしばらく地の文となり、

 

《店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り鹽景氣よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる處も見ゆ、勝手元には七輪を煽(あふ)ぐ音折々に騷がしく、女主(あるじ)が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理(ことわり)、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客樣は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商賣がらを心得て口取り燒肴とあつらへに來る田舍ものもあらざりき、お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌(きりやう)の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際(つきあつ)ては存の外(ほか)やさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何處となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近來まれの拾ひもの、あの娘(こ)のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜いとて軒並びの羨み種(ぐさ)になりぬ。》

 

 と銘酒屋のリアルな描写、雇い雇われの最下層社会、世相(日清戦争(明治二十七、八年))観察に続いて、「誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近來まれの拾ひもの、あの娘(こ)のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜い」と河竹黙阿弥(明治二十六年没)ばりの口当たりの良い口舌で謳われ、

 

《お高は往來(ゆきゝ)の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて氣にしても居まいけれど、私は身につまされて源さんの事が思はれる、夫は今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違をが子があろがさ、ねへ左樣ではないか、お内儀さんがあるといつて別れられる物かね、構ふ事はない呼出してお遣り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顏を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦め物で別口へかゝるのだがお前のは其れとは違ふ、了簡一つでは今のお内儀さんに三下(みくだ)り半をも遣られるのだけれど、お前は氣位が高いから源さんと一處(ひとつ)にならうとは思ふまい、夫だもの猶の事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが來るだろうから彼の子僧に使ひやさんを爲せるが宜い、何の人お孃樣ではあるまいし御遠慮計(ばかり)申(まをし)てなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけない兎も角手紙をやつて御覽、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管(きせる)掃除に餘念のなきか俯向たるまゝ物いはず。》

 

 とお高の口から、お力と訳(わけ)ありの源さん(源七)の境遇が忠告つきで語られると、

 

《やがて雁首を奇麗に拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら氣をつけてお呉れ店先で言はれると人聞きが惡いではないか、菊の井のお力は土方の手傳ひを情夫(まぶ)に持つなどゝ考違(かんちが)へをされてもならない、夫は昔しの夢がたりさ、何の今は忘れて仕舞て源とも七とも思ひ出されぬ、もう其話しは止め/\といひながら立あがる時表を通る兵兒帶の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相變らず豪傑の聲かゝり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、忽ち廊下にばた/\といふ足おと、姉さんお銚子と聲をかければ、お肴は何をと答ふ、三味(さみ)の音(ね)景氣よく聞えて亂舞の足音これよりぞ聞え初(そめ)ぬ。》

 

 とお力に移って、これもまた名文句の「氣をつけてお呉れ店先で言はれると人聞きが惡いではないか、菊の井のお力は土方の手傳ひを情夫(まぶ)に持つなどゝ考違(かんちが)へをされてもならない」と啖呵を切る。源七は切れた男とここでは思わせるから、さきの第三章で、結城に追及されての「お医者様でも草津の湯でも」の言とどちらが本心なのかわからない謎のままに、また地の文の「三味(さみ)の音(ね)景氣よく聞えて亂舞の足音これよりぞ聞え初(そめ)ぬ」で芝居気たっぷりに幕が引かれる。

  

<混濁の声>

 第五章が多声(ポリフォニー)の見せ場なのは、本論冒頭でみたとおりだ。身の不幸を嘆く二人の女の声が地の文に溶け込みながら綿々と尾を引き、一人めは染物屋の辰という馴染みを持つ酌婦の声「あんな浮いた了簡で末が遂げられやうか」であり、二人めは興太郎という孝行息子を持つ酌婦の声「何うぞ夫れまで何なりと堅氣の事をして一人で世渡りをして居て下され」が響きあって、お力の内面に混濁して流れこむ。

 これら多声(ポリフォニー)の混淆のにごりはなんだろうか。

 そもそも『にごりえ』の題名は『新古今和歌集』「恋歌一」の、よみ人しらず「濁り江のすまむことこそかたからめいかでほのかに影を見せまし」に由来すると言われている。「江」は「浦に差し入りたる所」。「疎き恋」五首のうちの一つで、「すむ」には「澄む」と「住む」が掛けられている。あなたと住む(結婚する)ことは難しいとしても、少しでよいから逢いたいものだ、という意で、男が贈った歌のようだが、小説の筋に沿ったものではある。濁りを前にして、諦観しているような、しかし希望を失っていないような、不思議な揺蕩(たゆた)いは、お力のもの、というよりも一葉文学の特徴である。

 ここから第五章の、《我戀は細谷川(ほそたにがは)の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸失禮をします、御免なさいよとて三味線を置いて立つに、何處へゆく何處へゆく、逃げてはならないと坐中の騷ぐに照(てー)ちやん高さん少し頼むよ、直き歸るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ》以降の、『罪と罰』のラスコーリニコフの彷徨と比較されもする文章を引用する。お力の心の内の声と地の文が混濁しているのがわかる。一葉文学において、「混濁」「にごり」は負の意味を背負わない。清き水よりも魅力的でさえある。意識的な「雅俗折衷文体」の音律と混ざりあう濁りの渦によって意識の流れが読者をどこかへと連れ去って行く。どこかへ、ゆえに、人は一葉文学を読むとき、宇治(憂(う)し)に身を投げた浮舟のごとく、せつなくもある種の生の力強さを失わない言葉の水の流れに身をまかせている。

 

《お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺(からてんぢく)の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處ともなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞(しまう)、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずか其樣な事も思ふまい、思ふたとて何うなる物ぞ、此樣な身で此樣な業體(げふてい)で、此樣な宿世(すくせ)で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦勞する丈間違ひであろ、あゝ陰氣らしい何だとて此樣な處に立つて居るのか、何しに此樣な處へ出て來たのか、馬鹿らしい氣違じみた、我身ながら分らぬ、もう/\皈(かへ)りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を氣まぎらしにとぶら/\歩るけば、行かよふ人の顏小さく/\摺れ違ふ人の顏さへも遙とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ聲は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の聲は、人の聲、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも氣のまぎれる物なく、人立(ひとだち)おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷(ひど)く逆上(のぼせ)て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。》

 

「お力は一散に家を出て」から、いきなりお力の内面の声が、あたかも「ノリつつ醒め、醒めつつノル」人形浄瑠璃文楽の、義太夫狂言語りと三味線の音に掻き立てられて物狂う清姫人形みたいに、「あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか」と、驚くほどなまで俗な声で横町のモノクロームの闇を彷徨い、「もう/\皈(かへ)りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を氣まぎらしにとぶら/\歩るけば、行かよふ人の顏小さく/\」のように、「/\」と反復された擬音もどきに導かれるのか、導くのか、あげくの果て、「唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷(ひど)く逆上(のぼせ)て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。」と、芭蕉の孤独を思わせさえする雅文体の地の文に戻って、結城朝之助という、男を書くのが上手くはない聞き出し役の声によって、現実世界に戻される。

 しかし、「渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處ともなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞(しまう)、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう」に、近代明治の底辺から自我を切り開く一葉女史の自立精神、フェミニズムを見てとるのは、お気楽で狭量な読みではなかろうか。

 

 <文芸的記憶の声>

にごりえ』の題名が『新古今和歌集』恋歌のよみ人しらず「濁り江のすまむことこそ」と重層化するように、その多声(ポリフォニー)は、小説の今を生きる人の声だけではなく、過去の歴史的な文学や、芸能の記憶からも聞こえてくる。

 中島歌子の歌塾「萩の舎」で和歌を学び、教えたからには、藤原俊成の「六百番歌合」における有名な判詞「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」は知っていただろう。明治の上流階級令嬢がたしなんだ古典文学はもちろんのこと、吉原に隣接する龍泉寺に荒物屋・駄菓子屋を開業したこと、生涯最後の引越し先の新開地、本郷丸山福山町に住むことで、最下層の民衆的なお座敷芸も見聞きもした。結城朝之助は、漱石文学にしばしば登場する中流知識人ともいえる。上から下までの垂直な階級社会が分け隔てなく一葉の小説の中の多声(ポリフォニー)となっている。

「細谷川の丸木橋」の歌、「濁り江」の歌、「通小町」の話などは、疎い恋の逢瀬と、終章の悲劇を予兆してはいるが、インターテクスチャー的なあからさまな表徴を見せつけてはいない。けれども、もしかしたらあのことの象徴ではないか、あれと懸ってはいまいか、あの情景を醸しだすためか、と連想させる文芸的古層の記憶の声がある。

 順にみてゆこう。

 第一章、お高の、「昔しは花よの言ひなし可笑しく」は、都々逸「馬鹿にしゃんすな昔は花よ、鶯なかせたこともある」から。

 第二章、結城に素性を問われたお力の、「いふたら貴君(あなた)びつくりなさりましよ天下を望む大伴(おほとも)の黒主(くろぬし)とは私が事とていよ/\笑ふに」は、常磐津および歌舞伎舞踊『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』(通称『関(せき)の扉(と)』)の関兵衛こと大伴黒主の台詞で、天下を狙う人物である。

「お力帽子を手にして後から追ひすがり、嘘か誠か九十九夜の辛棒をなさりませ」は、深草少将が小野小町のもとへ百夜(ももよ)通い続けると約束したその九十九夜めに死んだ伝説で、謡曲『通小町(かよいこまち)』から。

 第三章、結城から源七について問われてお力が答える、「御本尊を拜みたいな俳優(やくしや)で行つたら誰れの處だといへば、見たら吃驚でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ」は、最終章の「美事な切腹」とあいまって歌舞伎荒事役者の影があるようでもある。

第五章、「寄つてお出でよと甘へる聲も蛇くふ雉子(きゞす)と恐ろしくなりぬ」は、芭蕉「蛇食ふと聞けば恐ろし雉子の声」からで、其角「美しき顔かく雉子の蹴爪かな」に対する返しである。

「七月十六日の夜は何處の店にも客人入込みて都々(どゞ)一端歌(はうた)の景氣よく菊の井の下座敷にはお店者(たなもの)五六人寄集まりて調子の外れし紀伊の國、自まんも恐ろしき胴間聲に霞の衣衣紋坂と氣取るもあり」の「紀伊の國」は、端唄で、「さて東国にいたりては 玉姫稲荷が 三囲(みめぐり)へ 狐の嫁入り お荷物を 担へは 強力(ごうりき)稲荷さま 頼めば田町の袖摺も さしづめ今宵は待ち女郎 仲人は真前(まっさき) 真黒九郎助(まっくろくろすけ)稲荷につまされて 子まで生(な)したる信太妻(しのだづま)」と、吉原周辺の数々の稲荷を歌ったもので人気だった。

「霞の衣衣紋坂」は清元「北州千歳寿」からで、北州とは吉原のこと。

「我戀は細谷川(ほそたにがは)の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが」は端唄の「我が恋は細谷川の丸木橋、わたるにゃ怖し渡らねば、おもふお方に逢わりゃせぬ」からだが、歌の源を一葉ならば知らないはずがない。『平家物語』巻九「小宰相(こざいしょう)身投じる事」の有名な逸話、平通盛から美人の小宰相への文に書かれた「わが恋はほそ谷川の丸木橋ふみかへされて濡るる袖かな」からであって、上句は序詞であるが、はかなげで、「ふみかえされて」に「文返す」と「踏み返す」が掛けられている。この歌に対して女院みづから返事を書かれた「ただたのめほそ谷川の丸木橋ふみかえしては落ちざらめやは」(「落つ」は受け入れる、なびく、の意)によって、通盛は女院から小宰相を賜わって大切にしたが、哀れ小宰相は、一の谷の沖に身を投じることになった。

 さらには、『新古今和歌集』時代の代表的な題材だった宇治の女の面影、「橋姫」についての絶唱藤原定家「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」や、後鳥羽院「橋ひめのかたしき衣さくしろに待つ夜むなしきうぢの曙」や、『源氏物語』「総角」の匂宮「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」などを諳んじていたに違いなく、「宇治(憂し)」「七夕」「恋愛神話」「待つ女」「嫉妬に狂う女」「上皇と遊女(最上層と最下層)」といった結びつきも知っていたと考えるのが自然ではないか。

 

<永遠の秘密>

 なぜ『にごりえ』は読めば読むほどわからなくなるのか。それは、一葉がそのように書いたからである。

源氏物語』から多声(ポリフォニー)からなる「多義性」と、あえて書かないことによる「余白」の「小説的嘘」を血肉としていた。そのうえ、ドストエフスキー罪と罰』からも多声(ポリフォニー)からなる「多義性」と、モノローグ的な小説とは違った説明の不可能性と内的非完結性を感覚的に学んでいたかもしれない。それらを基盤とすれば、薄っぺらな、わかりやすい小説、完全に説明がつく主人公や物語を書くはずがない。

 かつて、『たけくらべ』の最終章で、女主人公「美登里」が豹変したのは「初潮」を迎えたからか、「初店(はつみせ)(水揚げ)」だったからなのかが議論されたが、一葉は「余白」をもって、そのように書いたに違いなく、「謎」は「謎」として永遠に残る。

にごりえ』の謎を思いつくまま列挙してみよう。問いの答えをだすつもりはないし、もとより答えなどあるまい。

1.「丸木橋を渡る」行為は何を意味しているのか。

2.お力が一散に家を出て、「横町の闇」を彷徨するのはなぜか。「お力何處へ行く」なのか。

3.祖父が四角な字(漢字)を読んだことと「親ゆづり」の「気違い」とはどう関係するのか。

4.どぶ板の上で転んだはずみに買ってきた米を溝泥の中にざらざらこぼしてしまうことの表象はなにか。

5.お力は、なぜ太吉に「かすていら」を買い与えたのか。

6.七月十六日、盂蘭盆で何を意味させたいのか。

7.素性を聞きだす役目だけに登場したような、うすっぺらな結城朝之助とは何者なのか。

8.結城はお力に、「お前は出世を望むな」となぜ突然言い放ったのか。

9.太吉は、なぜ水菓子屋(果物屋)で桃を買っていたのか。

10.お力が殺された最終第八章の噂話はどれが正しいのか。

11.源七は「色の黒い背の高い不動さまの名代」とされたが、何かの象徴なのか。

12.そもそもお力は源七にまだ恋していたのか否か。

13.「菊の井のお力を通してゆかう」とはどういう展望なのか。

 まだまだ一葉が泥の中にざらざらとこぼした謎は際限がないだろう。

どこまでも『にごりえ』は、多声(ポリフォニー)と永遠の秘密の闇夜、すむことなき影のみみせる「濁り江」なのである。

                                    (了)

   ***引用または参考文献***

 *『日本現代文學全集10 樋口一葉集』(講談社

井上ひさし樋口一葉に聞く』(文春文庫)

ロラン・バルト『テクストの出口』沢崎浩平訳(みすず書房

大野晋丸谷才一『光る源氏の物語』(中央公論社

野口武彦『『源氏物語』を江戸から読む』(講談社学芸文庫)

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男/鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫