演劇批評 「面映ゆげなる玉手御前 ――『摂州合邦辻』の恋の闇」

 「面映ゆげなる玉手御前 ――『摂州合邦辻』の恋の闇」

 

f:id:akiya-takashi:20190201210338j:plain f:id:akiya-takashi:20190201210356j:plain



                                   

 昭和二十二年七月の東京劇場。第二部は『鈴ヶ森』、『摂州合邦辻』、『夏祭浪花鑑』。『摂州合邦辻(合邦庵室の場)』の配役は玉手御前(梅玉)、合邦道心(吉右衛門)、俊徳丸(時蔵)、浅香姫(芝翫)、母おとく(多賀之丞)。のちのちまで語られる三代目中村梅玉(ばいぎょく)の玉手だった。

 

梅玉の玉手御前を観る三人》

 七月二十八日、二十二歳の三島由紀夫(本名、平岡公威(きみたけ))は、母倭文重(しずえ)、弟千之(ちゆき)とともに観劇した。三島『芝居日記』から玉手御前に関する部分を引用すれば、当時歌舞伎に「夢中」だった三島(翌二十九日も三越劇場へ一人で、田之助『ひらかな盛衰記』、宗十郎『伊勢音頭恋寝刃』に出向き、三十日は帝劇で藤原義江の『タンホイザー』を鑑賞した)が、梅玉の玉手御前を「丸本をもって行って、役者の型を舞台を見つめながら鉛筆だけうごかして、メモした」(『僕の『地獄篇』』)らしき証左がある。

《「しんしんたる夜の道」で女房、門外のとうろう(、、、、)に灯を入れる。合邦(がつぽう)出づ。

 玉手(たまて)――黒頭巾。

「馴れし古郷(こきよう)の」で七三のところで客席の方(東)を向き、うつむき、うつむいた顔をだんだん揚幕方へむける。

(中略)

「面映(おもは)ゆげなる」――玉手、左手の甲へ右手をかさね、すり合わせながら、

「ねた間(ま)も」色気こぼるるばかり、

「思ひあまつて」――頭巾を口にくはへ、

「打ちつけに」――頭巾を両手でクル/\まはし、落して

「道を立て」――腿にキチンと手を置き、

「恋の道」――上手屋体へ目をつけ「イーイーイー」頭巾を口にあてはにかむ

(後略)》

 

 折口信夫は、このときの劇評を『合邦と新三』(『日本演劇』昭和二十二年八月)と『見ものは合邦』(『スクリーン・ステージ』昭和二十二年七月二十二日)に発表した。『合邦と新三』では、《今一役の玉手御前、わが子に半意識の恋を覚えてゐて、之を助けるのに命をかける生きがひを知つた女、さうして夫への心の贖(アガナ)ひに死を以てする女。さう言ふ解釈を以てすれば、玉手は今も正しく生きる魂を持つて来るのである。此人のは、自ら此行き方によつて居る。真女としての本格的な芸をかう言ふ機会によく見ておかう。後半は女武道として書いてあるのだが、此例でも、歌右衛間のやうな賢女鑑になるのを、一間(ヒトマ)はづして演じてゐるのがよい。》

『見ものは合邦』では、《東京劇場の七月興業のよさは「合邦辻」のよさである。これに俊徳丸を菊五郎がつきあつたら、どんなに歌舞伎復興の気運を高めることだらう。》

 さらっとそっけないようだが、『合邦と新三』には、観劇の前月六月十二日に慶応義塾歌舞伎研究会で講演した『玉手御前の恋』(原題は『玉手御前の話』)のエッセンスがある。

 

 谷崎潤一郎は、十二月の京都南座顔見世で梅玉最後の玉手御前を見た。人口に膾炙した『いわゆる痴呆の芸術』に、《全体的に見て合邦という義太夫がいかに馬鹿々々しいものであるかは、多分これを聞いたことのある人は誰でも気が付いているはずであるが、しかしいわゆる痴呆の芸術のうちでもこれなぞは最も典型的なものであるから、今試みにその馬鹿々々しさの二、三を指摘して見よう。(中略)この浄瑠璃謡曲の弱法師(よろぼし)を踏まえていることは直ちに分るが、しかしあの謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃の方には何処を捜しても見られない。同じく仏教を取り入れながら、一方が瞑想(めいそう)的な日想観を凝らすのに、一方は騒々しい百万遍を繰る。そういう相違が全般に行きわたっていて、あの弱法師の、単純で、自然で、素朴な物語から、どうしてああいう猥雑(わいざつ)で不自然で晦渋(かいじゅう)な筋を考え付いたのか不思議である。》と散々だが、最後に、《たとえば今は亡き梅玉の、京都での最後の舞台であった去年の顔見世の玉手御前のようなものは、合邦嫌いの私でさえも恍惚(こうこつ)とさせられ、長く忘れることの出来ない印象を受けたが》と「因果と白痴ではあるが、器量よしの、愛らしい娘」への感想を書き残している。

 

気は烏羽玉(うばたま)の玉手御前(たまてごぜん)

いとしんしんたる夜の道

恋の道には暗からねども、気は烏羽玉(うばたま)の玉手御前(たまてごぜん)、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ人目をも、忍びかねたる頬被り包み隠せし親里も、今は心の頼みにて馴れし故郷の門の口、立寄る

 

谷崎(以後、『いわゆる痴呆の芸術』から引用)、

《山城少掾のような第一人者の持つ技巧の力は、それ自身すでに超人的であるといえる。たとえば合邦内の段の冒頭のところなど、「しんしんたる夜の道、……」という何でもない平凡な一句に過ぎないのであるが、それが一度山城少掾の唇に上って語り出されれば、不思議にもそこにしんしんたる深夜の雰囲気が生れて来、聴き手は身自らその境地にあるかのような感を催す。》

 豊竹山城少掾(やましろしょうじょう)の、したたるような官能性、ということだろう。この出の場面と、そのすぐ後の玉手御前の「母様(かかさま)々々」の声で『摂州合邦辻』すべてが決まってしまうといっても過言ではない。玉手御前は自分が罪深いことを知っている。あるいは、玉手御前は自分が罪深いことを知らない。人は、とりわけ女人は、まして継母は世の目ゆえに、自分が罪深いことを知っていても知らなくても、「恋の道には暗からねども、気は烏羽玉(うばたま)」といったところがあるに違いない。

 六代目中村歌右衛門の出(平成元(一九八九)年五月歌舞伎座)について、渡辺保の文章がある(『歌右衛門 名残りの花』)。

《花道を出た歌右衛門は、逆七三の辺りで止まるともなく止まる。想いに沈んでいる。そして歩くともなく歩いてくる。恋の想いに沈んでいることが手に取るように観客に伝わってくる。玉手の俊徳丸への恋、禁じられた恋への深い想い。むろん反省と、しかも抑えがたい恋しさ、その葛藤に悩み抜いている。

 その想いにとらわれていると同時に、玉手は自分の歩いてきた二十年の人生を、いま振り返っている。夫のこと、かつて自分の女主人であった奥様のこと、父母のこと、そして自分自身の過ぎた青春の日々。そういう想いにとらわれて歩いてくる。

 そこはもう七三であり、その向うは本舞台であり、実家の門口である。》

 

 折口(以後、『玉手御前の恋』から引用)、

《玉手御前を女非人の様に扱ふのが、下の巻の作者の計画ではなかつたか、と言ふことである。

 今までの上演では、歌右衛門がしても、梅幸菊五郎梅玉がしても、亡くなつた雀右衛門がしても、いかにも大家の奥方が逃げて来た事にして演じてゐる。地理から言つても、河内の高安から、天王寺までは、女の足でも半日の道程で、そんなに時間がかゝる筈がないと言ふことは考へてゐるだらう。

 併し、玉手御前は頬かむりして、親の家にやつて来る。

 気は鳥羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ、人目をも忍びかねたる頬かぶり、包み隠せし親里も……

 此頬かむりは、普通の女の服装ではない。身分の低い者は、普段の生活にも頬かむりをするであらうが、まあ異例であらう。それをしてゐる女は、乞食に多い。其ばかりでなく、父の合邦が「そのざまになつてもまだ俊徳様と女夫になりたいと言ふのか」と言ふが、此も非人乞食の服装を言つてゐるのではなからうか。更に、始めにあげたくどき(、、、)の中でも、玉手自ら、「跡を慕うてかちはだし」と言ひ、次第に流転して身が落ちて行く様が示されてゐる。》

 地理的な問題がある。折口はこの芸能の地で生まれ、育ったからこういう指摘が自然と起ってくる。距離が時間意識を喚起する。河内の高安館から、その日のうちに天王寺の合邦辻まで裸足で来たはずもない。第二幕『高安館の場』『同庭先の場』での玉手追放は師走、吹雪の中で、玉手御前の父合邦が勧進坊主として天王寺門外の万代池に現れる第三幕『天王寺万代池の場』は「日想観」(春秋の彼岸会に、天王寺西門から落日を拝んで西方浄土を念ずる)の大事な日、彼岸の中日であるから、ほぼ三月が経過していると考えるのが自然だ。観客の意識の中では(といっても、第二幕が上演されることはほとんどなかったから頭の中ではということなのだが)、そして(梅玉はそうではなかったけれども)歌右衛門型ではとりわけ第二幕で家老の妻羽曳野(はびきの)(継母に対する世間の目、道徳の代表)と争ったために頭巾の用意がなく、やむなく袖をちぎって頭巾代わりにしたという設定にしているから、連想として一夜という短い時間が劇的な背景を生みだす。繰りかえすまでもないが、父母が、追放されて処刑された(だけの十分な時間があった)と思い込んでいたことからも、その日のうちであるはずもなく、「流転して身が落ちて行く」運命の時間の経過があった。

 ここでも、渡辺保を引用しておく(同前)。

《玉手は、歌右衛門の型で行くと、黒の着付けの片袖をちぎってかぶっている。

 前の幕で、家老の妻羽曳野(はびきの)と争ったために、頭巾の用意もなく、やむなく袖をちぎって頭巾がわりにしたという設定である。原作の本文にはむろん王手がなにをかぶっているかという指定はない。

 したがって片袖ではなく、普通の頭巾をかぶって出る型もある。普通の頭巾だといかにも穏やかだが、片袖だと表をちぎったあとの三枚重ねの下が見える。これが水浅黄(みずあさぎ)と緋の胴抜きなので、黒ずくめの玉手の姿に一点、あざやかな彩りをそえることになる。恋をしている若い女らしい色気が出る中「これからは色町風」に姿を変えようとしている玉手御前らしい色気である.》

 

 継母による義理の息子への邪な不義の恋ゆえに、ラシーヌ『フェードル』がよく引きあいに出される。『国立劇場 第十六回六月歌舞伎公演プログラム』(昭和43年)にあるように、「昔インドの美しい王子様枸拏羅(くなら)が母妃の邪恋のため目を失って流浪するが、ふたたび開眼するといった仏教説話が、東西大陸に流れ、欧州ではギリシア神話や「フェードル」になり、日本では謡曲「弱法師」や説経節「愛護若」になりました」といった紹介である。そのすぐあと、「「フェードル」などの西欧の愛欲悲劇、あるいは自由恋愛そのものに女性の人間主張を盛り込むといった近代的な恋愛悲劇の意図はまったくありません」という解説が自嘲して語っているのかどうかはともかくとして、『フェードル』が1667年1月に上演され、一方、菅専助、若竹笛躬(ふえみ)合作の『摂州合邦辻』が100年後の1773年に人形浄瑠璃として初演されて、更に70年後の1839年に歌舞伎に仕立て直されて初演されたとは、『フェードル』悲劇の近代性を知れば、両者の年代関係は逆のような気さえしてくる。

 フェードルにあって玉手御前にないもの、それこそがフェードルの本質であり、玉手御前の本質でもあろう。

 

 ロラン・バルト(以後、『ラシーヌ論』から引用)、

ラシーヌの《エロス》には、二通りある。第一の《エロス》は、幼少時から生活を共にした恋人たちのあいだに生まれる。(中略)

 もう一つの《恋》は、反対に、調停のない=直接的な恋だ。それは突然に生まれる。その形成はいかなる潜伏期も許さず、絶対的な事件のようにして出現する。それを表現するのは、常に、荒々しい定過去だ(あの人を見た(・・・・・・)とか、あの人はわたしの心に叶った(・・・・・・・・・・・・・)とか)。》

 フェードルの恋の始まりは、第一幕第三場「あれはアテネ、凛々しい敵のお姿を見せてくれたのは。その人を見た、見て顔赤らめ、わたしは色を失った。我を忘れたこの心に、渦巻き上がる恋しい想い」のように腹心のエノーヌへの内面の吐露として現われる。一方、玉手御前では、第一幕『住吉神社境内の場』で、「お前の母君先(せん)奥様に宮仕(みやづかへ)の私。御奉公の始から。その美しいお姿に。心迷うて明暮(あけくれ)に」と俊徳丸への直接の言葉となる。

 

 ポール・ヴァレリー(以後、『女性フェードルについて』から引用)、

《フェードルにおける狂おしい恋は、ベレニスのあのように優しい恋とはまったくの別物である。ここでは肉のみが君臨する。この至上者の声は、愛する肉体の所有を仮借なく要求し、諧調的な逸楽の無上の一致という目標のみをひたぶるに追い求める。そこで、この上もなく強烈な数々のイメージが、ひとつの生命の主(ぬし)となり、その日々と夜々を、その義務と虚言とを引裂くことになる。》

 玉手御前における恋は、この後に続く場面で、「と縋り給へば 身をすり退き」「と御膝に、身を投伏して口説き泣き」「離れじ遣らじと追ひ廻し」と俊徳丸の肉体の所有を狂おしく要求するが、癒されることのない情火というわけではない。形而上学を持たないこの恋は、官能の衝撃、快楽の成就ということからは、醒めていて、「底」を割らない。

 

「母様々々こゝ明けて」

「母様々々」と呼ぶは確かに娘の声

『ヤアわりやまだ死なぬか、殺さりやせぬか』と立上りしが心付き、振り返り見る女房の方

鉦に紛れて聞えぬは、『ヤこれ幸ひ』とそ知らぬ顔

「母様々々こゝ明けて」

と叩く戸の音

聞き咎め

「合邦殿、今こな様は何とぞ云ふてか」

「イヽヤ何とも云やせぬ、そりや空耳であろぞいの」

「イヤ空耳かは知らねども、ちらりと聞えた娘が声、ハテ合点の往かぬ」

と立上がる

「さうおつしやるは母様か、ちやつと明けて下さんせ、辻でござんす戻りました」

 

 折口、

《「摂州合邦辻」の、積み重ねられて来た先行芸能の道筋は、割りに骨を折ることなしに、辿ることが出来る。俊徳丸には、遠く能楽の「弱法師」があり、近く古浄瑠璃の「しんとく丸」がある。古浄瑠璃では名がしんとく(、、、、)丸になつてゐるが、しんとく(、、、、)と言ふ語は、天竺を意味する「身毒」と言ふ語があるから、「天竺丸」と言ふ位の意味かも知れない。「弱法師」では、古浄瑠璃を越して後の人形浄瑠璃と同じく、俊徳であるから、此名に就いての問題は、かなり昔まで、遡つて行く訣である。》

 とはいえ、その先行芸能の地層は、鎌倉時代から室町時代、つまりは西暦1200年ごろから1450年ごろまでの短い期間であって、厚い時の積層を持っているわけではないが、聖徳太子創建を起源とし、貧者、病者の救済を行っていた(四)天王寺縁起であるからには600年ごろまでは溯ることができよう。いずれにしても、道徳観念や人情の機微、宗教の力の及ぶ度合も似たような狭い時間の層からなる。現在は都市大阪となっているが、太古縄文の時代には瀬戸内海を西方から船で渡れば、大阪湾のすぐ目の前に上町台地が現れて東側の河内湾とで岬の地形をなしていた。台地に南北線上に並ぶ住吉神社天王寺の西門が海からの旅人に対座した。水が洗う台地の背後には奈良、伊勢を控えた生駒山地が屏風をなす河内は、聖徳太子の悲劇の舞台ともなって、物部氏蘇我氏が争った肥沃な土地であった。在原業平、俊徳丸伝説の舞台ともなったこの一帯は女の足で歩こうと思えば一日で歩けないこともない狭い空間といえよう。

 

 バルト、

ラシーヌには三つの地中海がある。古代ギリシア・ローマの、ユダヤの、ビザンチンのそれである。だが詩の機能としては、この三つの空間は、ただ一つの、水と砂塵と火とから成る複合体にすぎない。悲劇の偉大な場所は、海と砂漠のあいだの、絶対的な影と太陽に追いつめられた不毛の土地である。》

 一方のフェードルの地層は、「古代ギリシア・ローマの、ユダヤの、ビザンチンのそれ」であるからには、西欧・オリエントの歴史の道筋と、思想・文化の形式の網羅と言い換えてよいほどに分厚く積層された時間と、広大な地中海の東方、オリエンタルに接した「絶対的な影と太陽に追いつめられた不毛の土地」という光と影との二元から成りたっている。

 

 折口、

《合邦住家の段の前、天王寺西門の場は、乞食の集りであり、此場でも玉手は道心者で乞食の一歩手前まで行つてゐる境遇であるし、俊徳丸も盲目で癩病である。すると下の巻の二場は、非人の集りと見てよいと思ふ。それなのに、俊徳丸はあくまでも若様で、玉手はどこまでも奥方風であるが、さう言ふ歌舞妓の絵空ごとを離れて、作者の計画に沿うた性根を考へた演出を工夫してもいヽと思ふ。菊五郎の玉手が、出の所で舞台を半廻しにして、下手を拡げてして見せたが、そんな事をするよりも、旅路のやつれ(、、、)を見せる工夫の方が肝腎だ。》

 折口は自らを貴種流離と思いたかったのか貴種と流離に拘ったが、『摂州合邦辻』における俊徳丸は脇役となりはて、幸不幸、貴賤の落差が小さく、『源氏物語』や『伊勢物語』の貴族世界からは庶民、もしくはせいぜいが守護、領主、武士の地平に矮小化されて降りて来たからこそ、説経節の謂れとなって、今でも人の琴線を掻き鳴らす。

 

寝た間も忘れず恋ひ焦れ

面映ゆげなる玉手御前

「母様のお詞なれど、如何なる過去の因縁やら、俊徳様の御事は寝た間も忘れず恋ひ焦れ、思ひ余つて打ち付けに、云うても親子の道を立て、つれない返事堅いほどなほいやまさる恋の淵、いつそ沈まばどこまでも

と、後を慕うて徒歩跣(かちはだし)、芦の浦々難波潟(なにわがた)、身を尽くしたる心根を、不憫と思うて共々に、俊徳様の行方を尋ね、女夫(みようと)にして下さんすが、親のお慈悲」

と手を合はせ、拝み廻れば

母親も、今さら呆れ我が子の顔、たゞ打ち守るばかりなり

 

 バルト、

《冒頭からフェードルは、自分が罪深いことを知っている。彼女が罪ある身だということが問題なのではなく、彼女が沈黙していることが問題なのだ。そこにこそ、彼女の自由もかかっている。フェードルはこの沈黙を、三度破る。すなわち、エノーヌの前で(一幕三場)、イポリットの前で(二幕五場)、テゼーの前で(五幕七場)。この三回の沈黙の破棄は、段階的に重みを増す。その度ごとに、フェードルは、言葉の一層純粋な状態に近づく。》

 玉手御前には、言うか、言わないか、の問題など存在しない。沈黙との葛藤はなく、エノーヌのような分身存在もいないため、第一幕からいきなり恋の告白の言葉が、思わせぶりや婉曲もなく、俊徳丸へと迸る。しかも歌舞伎においては、浄瑠璃では俊徳丸がいない場面で一気にクドクのを、二つに割って、後半を演劇的効果から俊徳丸の前で演じさせるほどだ。はじめから玉手御前は死ぬことのために生きているので、言うことだけに彼女の存在意義があるからではなく、言葉に対する作者の形而上学のありなしが玉手御前に顕れる。

 

 三島が、演劇雑誌『日本演劇』と『演劇界』の編集に携わっていた戸板康二に宛てた公演直後の手紙を戸板康二三島由紀夫断簡』で読むことができる。

《一番感心したのはあの名匠の木工を見るような高貴な手でした。あそこから芝居のエッセンスがほとばしり出るような、魔術師のやうな、ふしぎな手でした。「けんもほろろに」で、膝に両手をキッパリ置くあの手の動きの見事さ、「さればいなァ」で左手をあげ俊徳を制する端正で複雑な手つき、――手といふものは、「技術」の象徴ですが、歌舞伎の美が、彼の七十余歳の手のなかに鐘の音のやうにひびいてゐるのでした。

 動きが端正な点で、梅玉の芸風は三津五郎に似てをりますね。「かちはだし」から「あしのうらうら」あたりの一糸乱れぬ人形風の動きの、古典的な完璧さ。たとえが変ですが、ラシーヌの悲劇の形式の完璧さを思ひ出させます。

 はじめの口説きが大へん結構で、「寝た間も」の色気などこぼれるばかりで、ハッとしましたし、頭巾を使っての仕草に、母性愛めいた異様な年増女の愛欲が出てゐて、面はゆいほど甘美な感じでした。

 後半も、「玉手はすっくと」で天地四方をキッと見まはすところ、写実を全く超越した、この劇の真髄ともいふべきものがつかまれてゐましたし、本復した俊徳を見て「オー」と叫ぶいまはの絶叫など、感動的でした。》

 若い三島ではあるが、のちの小説家としての傾向がすでにみえている。「手といふものは、「技術」の象徴ですが」と書く三島文学は、作家技術の見せどころを常に意識して小説を作った(歌右衛門がモデルとされる『女方』の最後の場面、「川崎の外套の背と、万菊のモジリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるように飛んだ」の情景で登場人物の心理を象徴させる技術)。また、「人形風の動きの、古典的な完璧さ」こそ、時に作為的で人形のようだと批判された(その典型例が、秀作『鏡子の家』の不評)ほどに、登場人物を操る三島の意図の現われだった。

 

 谷崎、

《足かけ五年にわたる戦争の期間のうち、大体三年間を熱海の小庵で過ごした私は、その間いつも執筆に倦むとRCAの蓄音器を鳴らしてはしょざいを紛らわしたものであったが、(中略)何分にも数が少いところから自然一つ物を繰り返し聴くようなことになったが、山城氏(当時の古靭)と清六の合邦(がっぽう)などは中でもかなりたびたび聴いた。尤も、このレコードは合邦内の段が一段揃(そろ)っていたけれども、私が好んで懸けたのは最初から四枚目の裏、「……拝み廻れば母親も、今更あきれ我が子の顔ただ打ち守るばかりなり」というところぐらいまでで、あれから先は一、二遍懸けたことはあったが、どうも辛抱が出来にくかった。しかしそういう風にして断片的に聴くと、やはりなかなか傑(すぐ)れていて、分けても私は「俊徳様のおんことは寝た間も忘れず恋いこがれ、思い余って打ちつけに、……」云々のあたりの三味線が甚だ気に入り、あすこのところは何度繰り返して聴いたか知れない。三宅周太郎氏の説だと、合邦というものは矛盾に満ちた不合理千万なものではあるが、義太夫としては節附けや何かに頗(すこぶ)る面白いところがあって捨てがたいのだそうであるが、その面白いところというのはああいうところを指すのであろうか。とにかくあすこはレコードで聴いても、清六の三味線がピーンと張り切っていて、聴いていて息が詰まるような気がするばかりでなく、三味線の手に何となくあの場の悪魔的な気分が出ているように思えるのである。あの三味線は誰が手を附けたものか、あるいはああいう手は義太夫にはいくらもあって、別に珍とするには足らないものなのかも知れないが、でもしろうとの私の耳には、あの場の玉手御前のなまめかしさと不気味さとの混交した複雑な媚態(びたい)を、あの三味線はまことに的確に表現しているように思え、昔の日本人の手でああいう風な悪魔的な美しさを持つ旋律が作られたということが、不思議に感じられるのであった。》

『摂州合邦辻』の後半は辛抱できず、前半しか聴くことに耐えなかった谷崎は、近代人スタンダールの『カストロの尼』を翻訳したこともあるくらいだから、「矛盾に満ちた不合理千万なもの」を受け容れられない。それでもなお耳の作家は、「あの場の玉手御前のなまめかしさと不気味さとの混交した複雑な媚態(びたい)を、あの三味線はまことに的確に表現しているように思え、昔の日本人の手でああいう風な悪魔的な美しさを持つ旋律が作られた」というところに、自らの悪魔主義的なところは刺激されるのだった。『細雪』のような阪神間の女たちのゴシップのあれこれを馬鹿馬鹿しくならずに何度でも繰りかえし読んで楽しむことができるのは近代性にあるのだけれども、古典歌舞伎の魅力がその近代性の乏しさに負っていることを知らなかった谷崎ではない。谷崎『幼少時代』にあるように、六歳の時に母と共に見た團十郎の『蘆屋道満大内鑑』葛の葉狐の物語や、その5年後に観た五代目菊五郎の『義経千本桜』の狐忠信といった近代的解釈から遠い物語から、自作『吉野葛』を生み出したくらいなのだから。

 やはり、《この場の王手御前を描いた作者は、何か知ら悪魔主義的なものに興味を感じて書いたものらしく推測するのであるが、前半における王手の言動が実は狂言であったということになれば、折角の悪魔的な美しさが俄然(がぜん)光輝を失って、全然無意味な、奇妙千万な厭(いや)らしいものに堕してしまう。(中略)けだしこの時分の芝居や浄瑠璃ではこういう風なサスペンスの手法を用いるのが常であるから、この場合もお客をハラハラさせて置いて最後にほっと安心させる、ということばかりに囚(とら)われて、ああでもないこうでもないと趣向をヒネクリ廻した結果、遂にこんな不自然な筋をでっち上げたのだ、と見るのが当ってはいないであろうか》という谷崎の近代的推論は正しいのだろう。しかし折口は大衆に迎合しようとした作者とともに古代、中世的な深層意識の冥界巡りをしたのだった。

 

 ヴァレリー

《本来美しいフェードル、恋をする前から美しいフェードルは、あらゆる美しい女がそうであるように、恋を打明ける瞬間に、その美のかがやかしさを極める。私はかがやかしさ(・・・・・・)と言った。なぜなら、決定的な行動の熱火が彼女の顔にかがやき、眼差しに燃え、全身に生気をみなぎらせているからである。しかしやがてこの女神のごとき面差しは変化し、悲痛な表情がいちめんにひろがる。その顔は曇り、眼は暗くなる。苦悩と魂の断絶とは、一変したぞっとするような美を、またたく間に作りあげる。鼻孔はすぼまり、顔ぜんたいがひき歪んで、復讐の女神(フェリー)のそれになってしまう……。》

 舞台にいる盲目の俊徳丸を見る観客は、俊徳丸の見えない目になりかわって、対座する玉手御前を誰よりも深く見ようとする。物理的にはもちろんのこと、心眼となって玉手の心理にまで食入り、そのためにかえって真実なのか幻想なのか悪夢なのかの境いが朧になる。

 

生けておいてはこつちもまた義理が立たぬ

父は兎角の詞なく、納戸の内より昔の一腰引つ提げ出で

「ヤイ畜生め、おのれにはまだ話さねど、もと俺が親は青砥左衛門藤綱というてナ、鎌倉の最明寺時頼公の見出しに逢ふて天下の政道を預り、武士の鑑(かがみ)と云はれた人ぢやわい。俺が代になつても親の蔭、大名の数にも入つたれど、今の相模入道殿の世になつて、侫人(ねいじん)どもに讒言(ざんげん)しられ、浪人して二十余年、世を見限つての捨て坊主、この形になつてもナ、親の譲りの廉直(れんちょく)を立て通した合邦が子に、やうも/\おのれがやうな女子(おなご)の道も、人の道も、むちやくちやな娘を持つたと思へば、無念で身節が砕けるわい。高安殿が今日まで、うぬを助けて置かつしやるご心底を推量するに、もとおのれは先奥方の腰元、後の奥方に引上げうとあつた時、たつて辞退しをつたを、心の正直懇望で無理やりに奥方形(なり)。『アヽ手をかけず奥様とも云はさずば、今この仕儀にも及ぶまい、殺さにやならぬやうになつたも、みなわが業』とお身の上を顧みて、親への義理に助けさつしやるを『アヽありがたい、恥づかしい』と思ふ心が芥子(けし)ほどでもあるなら、たとへどれほど惚れておつても、思ひ切るに切られぬといふ事はないわい。それになんぢや、そのざまになつても、まだ『俊徳様と女夫になりたい、親の慈悲に尋ねてくれ』とは、ドヽどの頬げたで吐かした、エ。あつちから義理立てゝ助けて置かしやるほど、生けておいてはこつちもまた義理が立たぬ、サ覚悟せいぶち放す」

 

 バルト、

《或る人々は、次のように主張してきた。すなわち、われわれの歴史のはるか遠い過去においては、人間たちは野蛮な遊牧集団として生きていた。それぞれの集団は、最も強力な男に屈服させられており、彼は、女・子供・財産のすべてを、区別なく所有していた。息子たちはすべてを剥奪されており、彼らが望む女たち、 つまり姉妹や母を手に入れることを、父の力か妨げていた。もし不運にも、彼らが父の嫉妬を買えば容赦なく殺されるか、去勢されるか、追放されるかした。それ故、これらの学者の説によれば、息子たちが、ついには力をあわせて父を殺し、その地位を奪うに至った。父が殺されるや、内紛が、息子たちのあいだで起きた。彼らは貪欲に、父の遺産を奪いあい、長い兄弟殺しの時期の後に、ようやく彼らは互いのあいだに、分別のある協定を樹立するに至った。すなわち、何人(なんびと)であれ、母や姉妹を手に入れようとはしないという協定である。こうして、近親相姦のタブーが、社会的に成立したのであると。》

『摂州合邦辻』の父は、玉手御前の父合邦も、俊徳丸と次郎丸の父高安殿(高安左衛門通俊(みちとし))も、このような原始遊牧民の絶対的な父としては現われない。俊徳丸と次郎丸とのあいだに世継ぎの諍いがあったとはいえ、父殺しなどありない。しかもこの父は、『住吉神社境内の場』で「病みほうけても親通俊(みちとし)」とまで貶められている。「浄瑠璃において常に現れるのは、むしろ子殺しである。それも父の嫉妬のゆえではなく、忠義の犠牲者として父の手にかかる。しかし、父合邦が「高安殿へ義理の云ひ訳」、「義理が立たぬ」というとき、合邦と高安殿に封建主従の忠義、義理の関係はないことから、娘玉手を刺したのは、「わが子でも悪人を不憫と思ふは天道へ敵対」という道である。また、この民族の精神からいえば、近親相姦のタブーは遊牧民のそれとは異なる構造から成立したこととなる。

 

 折口、

《平凡に言ふと、浄瑠璃作者の戯曲を書く態度は、類型を重ねて行く事であつた。彼等が出来る最正しい態度は、類型の上に類型を積んで行く事であつた。我々から言へば、最いけない態度であると思つてゐる事であるのに、彼等は、昔の人の書いた型の上に、自分達の書くものを、重ねて行つた。それが彼等の文章道に於ける道徳であつた。昔の型から離れようとすると、咎められたのである。かう言ふ道徳の上に立つて昔のものを書きなほして行つた。それが本道だと思つてゐた。(中略)残念な事に、江戸時代には、初期の僅かな人達数人を除いて、優れた人は少かつた。戯曲の場合、近松の発見した性格が、更に昇つて行つたり、戯曲的な仕組みが更に進められて行くと言ふ事はなかつた。むしろ、悪い方向に、つまり類型が悪く重ねられて行く方が多かつた。「大内裏大友真鳥」に就いて伝へられてゐる話によると、近松が、これが浄瑠璃のこつ(、、)だと言ひ、それを襲うた竹田出雲は、見物には知らせておいて、舞台の上の人は知らぬと言ふとりつくを悟つて、此後、さう言ふ類型を重ねて行く事になつたと言ふ。後の作者達は、皆此類型を重ねて行き、とりつくを重ねて行くうちに、精神のない、とりつくの型ばかりのものとなつて行つた。浄瑠璃から来た歌舞妓の一部には、だからやはり、かう言ふとりつくばかりで動いて行つてゐるものがある。此は類型が重ねられてゆく事の悪い場合である。併し作者が凡庸である場合には、却つて、少しづゝよくなる事もある。玉手御前の場合は、おそらく、それであつたと思はれる。》

これは谷崎が言うところの、《けだしこの時分の芝居や浄瑠璃ではこういう風なサスペンスの手法を用いるのが常であるから、この場合もお客をハラハラさせて置いて最後にほっと安心させる、ということばかりに囚(とら)われて、ああでもないこうでもないと趣向をヒネクリ廻した結果、遂にこんな不自然な筋をでっち上げたのだ、と見るのが当ってはいないであろうか》という類型のことに違いなく、マレビト折口ならではの、芸能の必ずしも論理的でも合理的でもない奥義の顕現であった。

 

 三島(『歌舞伎』芸術新潮、昭和二十五年二月)、

《悪のエネルギー  「合邦」前半の玉手(たまて)御前(ごぜん)や、「御殿」の八汐は、浄瑠璃作者が想像した性格といふよりは、人形の機巧が必要上生み出したデスペレエトな怪物であるが、それはもちろん義太夫節の怪物的性格にも懸つてゐる。しかし何といふ情熱的なエネルギッシュな怪物であらう。類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。儒教道徳やカソリック道徳の支配下においては、悪は今日よりも、もつと類型的でさうして強烈であつた。》(注:デスペレエト=死にもの狂いの、絶望的な、自暴自棄の)

 類型的であることは必ずしも否定されない。それと同じほどに、近代的であることが無条件に肯定されるわけではない。三島は『六世中村歌右衛門序説』で、六代目菊五郎の近代性について言及しているが、これは六代目贔屓だった谷崎の近代性評価に対するコインの裏側、《六代目菊五郎の近代性というべきは、実はあまり根ざしの深くない現実主義、合理主義、自然主義などの、概論風な近代性であった。教科書をよめばわかる程度の近代性である。そして菊五郎の偉大さは、実は歌舞伎の伝統的な技術を体系化した偉大さであった。菊五郎の新しさはあくまでも方法の新しさで、本質的な新しさではなかった。芝翫――新歌右衛門――の近代性は、これと反対である。彼はあえて古い方法を採用した。そして方法の旧套墨守の中から、古い方法を以てしては覆いえない新しさを、丁度き極寒を破って花ひらく紅梅のように瞥見させる点にある》のように、玉手御前の類型、非近代性もそのようなものとして捉えれば、折口が見ていたものと焦点を結ぶ。

 

十九や二十の年延(としば)いで

「モ聞きやる通りの様子なれば、どのやうに思やつても、そなたの恋は叶はぬほどにの、ふつつりと思ひ諦めて、はやう尼になつてたも、十九や二十の年延(としば)いで、器量発明優れた娘、尼になれと勧めるは、どんな心であろぞいの、助けたい/\ばつかりに花の盛りを捨てさせて、かゝれとてしも黒髪の、百筋千筋(ももすじちすじ)と撫でしもの、剃らねばならぬこの仕儀は、何の因果」

とばかりにて、縋り付いて泣きゐたる

 

 バルト、

《我々は、ラシーヌ劇の恋人たちの年齢についても容色についても、なにも知らない。フェードルは若い女であるかとか、ネロンは思春期の少年であるかとか、ベレニスは成熟した女か、ミトリダートは男としての魅力をまだ保っているか、などという問題をめぐって、周期的に論争が展開されている。》

住吉神社境内の場』で、玉手御前の年齢も容色も「年配(としぱい)は廿(はたち)の上は過ぎざりし。桃李(とうり)の姿百(もゝ)の媚(こび)。あてやかなりし御粧ひ」と語られた。同じように俊徳丸についても『住吉神社境内の場』で俊徳丸にいきなり懸想した玉手御前の「年はお前に一つか二つ。老女房がそれ程いやか」や「一目見るより戀風のぞつとする程美しき」と謡われた。抽象性の低さは、そこまで具体的に語りつくさないと納得しなかった聴衆の欲望に応えるためだったろう。母が「はたちそこらの色盛り、年寄つた左衛門様より美しいお若衆様なら惚れいでなんとするものぞ」と恨み歎いて娘の不義を女ならではの現実主義で庇ったように、聴衆にも納得させようと、役者の生身が動く歌舞伎の舞台の型、拵えの工夫で、おのずと年増の方へと雪崩れていったのだった。

 

 ヴァレリー

《フェードルは初々しい若さの女ではありえない。彼女は、真に恋のために生まれた女、まるでそのために特別に生まれたような女が、自分の持っている愛する力を、そのあらん限りの烈しさにおいて感じる年齢である。生命が充実しきってしかも満たされないことを自覚するあの時期に、フェードルはいるのである。前途には肉体の凋落と侮蔑と死灰。こうして、まばゆいばかりのこの生命は、自己の価値をくまなく感じとる。おのれの価値を知ればこそこの生命は、意識の暗がりの中で、自己の欲するものを産み出す。やがていつとはなしに、重すぎるこの財宝は、それに襲いかかって熱狂させ蕩尽してくれる、まだ誰ともつかぬひとりの強奪者のものとなるべく秘かに定められ、その強奪者は姿も現わさぬうちから、早くも、不安におののく期待とつのりゆく渇望が彼に付与するあらゆる美質で飾られてしまう。こうなると、生きた体の深奥の営みは、単に有機的組織を小きざみに維持してゆくだけにとどまらなくなる。肉体はもっと遠く、自分よりもはるか先を見る。》

 玉手御前は「十九や二十の年延(としば)い」であるが、そのような年齢として演じられることはまずない。七月の本公演の中村梅玉と川尻清譚による芸談(『国立劇場上演資料集 第二五六回歌舞伎公演 通し狂言摂州合邦辻』)をあげれば、「梅玉・本文では玉手御前の年を、「二十足らずの色盛り」とか、「十九や二十の年輩」とかしてございますが、舞台は三十歳ぐらいの心持でなければ、あの分別のある役はよう勤まりませんのと、あまり年の若い説明も気がさしますので、「十九や二十」の文句だけを抜いてもらいました。」となる。五代目中村歌右衛門も同じことを言い、見せるのではなく聴かせる浄瑠璃大夫山城少掾においてさえも、「二十歳前後らしく思われますが、それでは却って人物に無理が出来ると思いますので、大体、これも本文に拘泥せずに、私は中年がらみの女として語っております」となる。

 

これからは色町風随分派手に身を持つて

娘は飛び退き顔色変へ

「エヽ訳もない事云はしやんすな、わしや尼になること嫌ぢや/\、アイ嫌でござんす。モせつかく艶よう梳(す)き込んだこの髪が、どう酷たらしう剃られるもの。今までの屋敷風はもう置いて、これからは色町風随分派手に身を持つて、俊徳様に逢うたらば、あつちからも惚れて貰ふ気、怪我にも仮りにも尼の、坊主のと云ひ出しても下さんすな」

とけんもほろゝに寄せ付けず

 

 折口、

浄瑠璃の玉手は、根本はやはりいき(、、)なすゐ(、、)な女と言ふ事が、もとになつてゐるのであらう。つまり、見物を悦ばせる完全な理会に這入つて行く女と言ふものは、みだしなみをよくしてゐる女でなくてはいけないのである。親の前で「随分派手に身を持つて」と言ふ様な女でなくては、いけない。さう言ふ要素を持つてゐなくては、戯曲の上の女ではない。

玉手御前の性格を考へて見ても、そこまでは許される範囲であつて、それをなくして了ふと美しさの失はれる限界があつて、そこまでは書いてもいゝのである。大体、浄瑠璃の女は、あぶない所まで、女性としての特質を押しのばしてゐる。こんな女では、どんな間違ひをするだらうか、と言ふ所まで書いてゐる。そして今でも、読者や見物はさう言ふ女を認容出来る。実際にゐたら擯斥するに違ひないのに、戯曲・小説の上では、あぶない所まで行くことを認めてゐる。つまり、文学の上では、踏み止る線が、ずつと前まで進んでゐる。》

 ここは大事なところだろう。見物を悦ばせる女を、浄瑠璃の女を、戯曲・小説の女を、「でなくてはいけない」と駄目だしし、「そこまでは書いてもいゝのである」「書いてゐる」とし、「実際にゐたら擯斥するに違ひないのに」、近代精神を押し切って「あぶない所まで行くことを認めてゐる」「文学の上では、踏み止る線が、ずつと前まで進んでゐる」と言い切れるところに、折口の学問的にはもちろんのこと、彼の地で生まれ育ったゆえの古代精神から来る土着の深さで根を見抜く。

 

 バルト、

《それではなにが一体、《言葉》をこれほど恐ろしいものにしているのか。まず第一に、《言葉》は一つの行為であり、語は強い力を持つからである。しかし、特に《言葉》は、一度発したら取り返しのつかないものだからだ。いかなる言葉も、取り返す(取り消す)ことはできない。《ロゴス》に委ねられた時間は、逆戻しはきかず、時間の作り出したものは、決定的なのだ。それ故、言葉を巧みに避けることによって、人は行為を避けることができるし、ババ抜きと同じく、言葉を他人に渡すことによって、言葉の責任を他人に委ねることができる。そして、もし人が、「意志に反した錯乱」によって話し始めたならば、前言を取り消してもなんの役にも立たず、行きつくところまで行ってしまわねばならない。》

 玉手御前に言葉の恐ろしさなどない。一度発したら取り返しのつかない言葉はなく、言うべきか言わざるべきかを悩むことがないのだから、言葉の効果を確信して発している。ラシーヌ劇の主人公によくある、ここぞというときの失語症もない。言葉によって、時間は前に前にと進んでゆく。逆戻りさせたい、あの時の言葉を取り消したい、と逡巡することさえない。言葉を避けることも、言葉を他人に渡すことで、その責任を他人に委ねることもない。それほどに、『摂州合邦辻』の誰もが、言葉は恐ろしくない。そうして、最後で一気にモドリとなって玉手御前の言葉のすべてが、玉手御前を除く誰もにとって取り返しのつかないものに化ける。

 

 ヴァレリー

《フェードルにおける狂おしい恋は、ベレニスのあのように優しい恋とはまったくの別物である。ここでは肉のみが君臨する。この至上者の声は、愛する肉体の所有を仮借なく要求し、諧調的な逸楽の無上の一致という目標のみをひたぶるに追い求める。そこで、この上もなく強烈な数々のイメージが、ひとつの生命の主となり、その日々と夜々を、その義務と虚言とを引裂くことになる。絶えまなく新たに燃えあがり、しかも癒やされることのない情人は、深手と同じ力で作用する。それは疼きが疼きを呼ぶ、尽きざる疼痛の源泉である。なぜなら、深手が残っているかぎり疼痛はつのるほかないからだ。それが疼痛の法則である。その恐るべき本質ゆえに、われわれはどうしても疼痛に慣れることができないし、それは世にもいまわしい存在として絶えず新たに生まれるのである。餌食の中に腰を据えた度し難い恋もこれと同様である。》

 玉手も情念の毒液によって、みずから命を絶つ。「狂おしい恋」であったのか、「肉体の所有」を要求していたのか、玉手御前の魂も、「単なる執念の力、生贄を捕えて強烈な営みに引きずりこみ、ともに呻き、ともどもに快楽に死のうとする厳しい不抜の意志に局限される」と言ってよい。そこにこそ見物の魅力があり、だからこそ歌舞伎は馬鹿馬鹿しさと紙一重のところで、真の恋/偽りの恋、「底」を割る/割らない、のどちらともいえない曖昧なところで疼いてきたのだ。

 

苦しみ給ふと思ふほどいや増す恋の種となり

「ヘエヽ情けない母上様、館にても申すごとく同氏さへも娶(めと)らぬは君子の戒め、まして親子の仲々に恋の色のと斬程まで慕ひ給ふはお身ばかりか、宿業深き俊徳にまだ/\罪を重ねよとか、見る目いぶせきこの癩病、両眼盲てあさましき姿はお目にかゝらぬか、これでも愛想が尽きませぬか、道も恥をも知り給ヘ」

と涙と共に恨むれど

「ヲホヽヽヽヽ、愚かな事をおつしやります。そのお姿も私が業、むさいともうるさいとも何の思はう思やせぬ、自らゆゑに難病に、苦しみ給ふと思ふほどいや増す恋の種となり、一倍いとしうござんする」

「フウこの業病を母上の、業とおつしやるその仔細は」

「さればいな、去年霜月住吉で、神酒(みき)と偽り、コレこの鮑(あわび)で勧めた酒は秘方の毒酒、癩病起こる奇薬の力、中に隔てを仕掛けの銚子、私が呑んだは常の酒(ささ)、お前のお顔を醜うして、浅香姫に愛想尽かさせ、わが身の恋を叶へうため、前世の悪業消滅と、家出ありしはヲヽよい幸ひ、跡を慕ふて知らぬ道、お行方尋ぬるそのうちも君が形見とこの盃、肌身離さず抱き締めて、いつか鮑の片思ひつれないわいな」

 

 折口、

《舞台に出て来る玉手のする所をみると、確かに、妖婦毒婦と言つた面影がある。さう言ふ所が出てゐる。ともかく衒ってゐるには違ひないが、毒婦と言ふ感じが横溢してゐる。そしてそれが又、此場の、見物を誘惑する所でもある。それがなければ、みたくない。歌右衛門の玉手が、不満に思はれるのもそれだ。梅幸のはやゝそれが出てゐたが、雀右衛門の方が、その点上であつた。雀右のは、本人の持つてゐる癖から、自らさうなつて来たのだ。梅玉がすると、薯実な町女房が奉公して出世した律義な女で、しかたなしにあゝ言ふはめになつたのだと言ふ女が画かれる。

 同じ事だが、恋をしてゐて、恋の忍音を、しのびにしのんでゐる女、恋の幸苦を積んで行く事に、生き甲斐を感じてゐる女、と言ふ風にも考へられる。辛い目に遣ひ、総べての茨を、かよわい女の身で一身に背負うてゐる女、秘密にする為に、たつた一人で総べてを担うて、恋の忍苦を潔く背負うてゐる女、さう言ふ風にも解釈が出来ると思ふ。そして此場合にも、事実は恋の心を抱いてゐるとした方が、女の性格としてはあるべき事で、共方がすなほな女になると思ふ。其処から、玉手の試みた詭計が生れてゐると言ふ風に考へられる。》

 爾来、玉手御前の俊徳丸への恋は本当はどうだったのか、どう演じるべきなのかが議論されてきた。五代目中村歌右衛門芸談がある。

《しかしこの玉手御前の演(し)どころは、俊徳丸にかゝるサワリのところで、お腹(なか)で愁いていて、表面(うわべ)で十分に色気を見せるというのが性根で、それについては前にいつた三人の型を綜合(そうごう)すると、白(せりふ)のめりはりまであるから大いに徳を得たのです。それから後(あと)の本心に立ち返つてからが又難しいので、つまり末へ行く程段々難しくなつて行くように思われます。ですから、白(せりふ)廻しについても簡所々々に型があつて、「道理も法も聞く耳持たぬ」と強く言つて、直ぐ続きの「もうこの上は俊徳様」は色気でいうといつたようにこんなところが幾つもあるのです。この役で色気を見せるという事について、万事衣裳を調べた上、自分の工夫として下着は白羽二重(しろはぶたえ)に緋緞子(ひどんす)の江戸とき模様の胴抜きを用いていますが、人によつては白無地(しろむじ)にする人もありますし、又模様を付ける人もあります。けれど私は色気を見せるために赤を多くした胴抜きにしました。》(『歌舞伎』一一七号、明治四十三年四月)

 岡鬼太郎、岡村柿紅、永井荷風(初参加)、川尻清潭らによる『『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)』の比較合評(ひかくがっぴょう)』は、五代目歌右衛門による歌舞伎座上演(大正八年六月五日初日)と、六代目梅幸による帝国劇場上演(同年六月一日初日)を比較合評した記録だが、歌右衛門梅幸の演技について、ほぼ折口と同じような感想が残されている。

《柿紅。倫敦にゐる岡本さんを引きだす訳でもないが、これは院本のどれへも出て来る二重底の人物です。梅幸はそれを非常に深くしてゐて、歌右衛門の方は本心の方へ十分に性根を置いて演つてゐました。「おもはゆげ」で二人とも色気を見せてゐて、歌右衛門は「寝た間」がそのまゝで、「恋の道」で再び色気を見せるといつたやうに互ひ違ひに演つてゐますが、梅幸はずうつと色気で通してゐます。顔つきなども、色気といふよりは淫らな顔といつた方が好い位です。

(中略)

 鬼太郎。歌右衛門梅幸も共に工夫してゐますが、梅幸は世話になりすぎ、歌右衛門は色気が足りないと想ひます。二人がよく巧く考えてゐる点は、一人づゝ取り放して見て、歌右衛門歌右衛門として、梅幸梅幸として、一貫してゐて好い。一つの本から二つの演り方を見出してゐるのが面白いと思ひます。其処で、更に云えば、味があつて面白いのは梅幸ですが、全体に亘つて玉手らしいのは歌右衛間の方だと思ひます。

(中略)

 荷風梅幸は手負いになつてから、再々俊徳丸の方を指さしてゐるが、少し喧さい。義太夫を聴く味は歌右衛門の方にあるやうです。私はあゝいふところで床(ちよぼ)の好いのを聞きたいと思ひます。》

 大正八年六月の五代目歌右衛門と六代目梅幸、それに先だつ大正六年六月の明治座の三代目中村雀右衛門、九月の大阪浪花座の二代目梅玉、後の昭和三年一月の六代目尾上菊五郎による玉手御前を比較して論じた三宅周太郎の『「合邦」研究』があって、読みとれるものは多い。

《六、その後の「云うても親子の道を立て」で、梅幸は着物の褄(つま)をさすつて俊徳丸の筋目正しい心持を暗示するやり方が面白い。歌右衛門はこれがない。菊五郎はこれをその後の「つれない返事」の所でやつてゐる。この點など流石に菊五郎でよく調べてゐる。「固い程」でいかつく両手を膝について極るのは歌右衛門式だ。そして本文にない「戀の道」で菊五郎は指を揃へて前へ二本出して、自分と俊徳丸の戀情を色つぽく見せるのが面白い。大體に菊五郎は王手御前の「戀」を本當の戀として演じてゐる。これはこの方が眞である。玉手に貞女烈婦の解釋は無用でありたい。菊五郎があの現代的な芝居的によくない柄で、王手御前がなんどりと色つぽいのは、本當に戀をしてゐる女性として演じてゐるからだらう。 さう云ふ思ひ切つた親子の道を無就した女性、それでこそこの作はそのトリツクが生きて芝居としての値打を出す。》

 

玉手はすつくと立ち上り

玉手はすつくと立ち上り

「ヤア恋路の闇に迷うたわが身、道も法も聞く耳持たぬ、モウこの上は俊徳様、何処へなりとも連れ退いて、恋の一念通さでおかうか、邪魔しやつたら蹴殺す」

と飛び掛かつて俊徳の、御手を取つて引立つる

「アヽラ穢らはし」

と振り切るを

離れじ遣らじと追ひ廻し

支へる姫を踏み退け蹴退け、怒る目許は薄紅梅、逆立つ髪は青柳の姿も乱るゝ嫉妬の乱行

門には入平身に冷汗

堪へかねて駈け出る合邦、娘が髱(たぶさ)引つ掴みぐつと差込む氷の切先

 

 六代目歌右衛門によれば、《玉手は、前半はどこまでも俊徳に恋をしていると思わせるだけの、品格を保ちながらも色気がなければいけません。それが後半になりますと手負いになって物語をするので、体力的にとかく尻すぼみになりがちです。この点に気をつけることです。本行ですと、サワリを前半一度ですませるものを、歌舞伎ではそれを後半とふたつに分けてしますが、これも役者の工夫でしょう。前半は底を割ってもいけず、父合邦に対する構え、母に対してのからみのなかで、本心を気づかれないような肚(はら)がないといけません。といって、底を割らないようにして、ご見物をそっくりだますのもひとつのやり方ではあるものの、それでは芝居にコクがなくなります。そのかねあいが非常にむずかしく、と同時につとめていてまことに楽しみなお役なのです。たとえば、上を向いている時は笑顔でいても、ちょっとうつむいた時に、人には言えない内面的な苦労に耐え忍んでいる肚を見せなければなりません。サワリにしても、前半のは色気が必要で、かつ内心では父母の慈悲心をありがたいと思っていることを、底を割らずにどこかにさりげなく表す――そこにむずかしさもございます。(中略)俊徳丸への恋にもいろいろな解釈があり、こればかりはその人その人の主観によりましょう。本心から俊徳丸が好きだという説もあり、またそう思われる節もありますが、やはり俊徳丸を助けるということが一番の基本でしょう。ある時期が来たらば自分が命を投げ出しても助けようと思っているわけですが、それも強さが過剰になって表に出てはいけません。どこまでも芯(しん)の強さです。出から始まってどこまでも念頭に置くのが俊徳丸のことで、私は後添えの立場を考えて、義理のある子ということに重点を置いてつとめています。後半手負いになってからの物話になりますと、恋慕の情は全くかげをひそめ、人に貞節で、身を挺して義理の子を助けます。といっても普通の眉(まみえ)なしの烈女とは違い、単なる女武道になっては作意にもとります。肚が複雑なうえに最後も玉手が幕切れをとるのですから、 つとめていて楽しみがあり、私の好きなお役のひとつです。》(河村藤雄『六代目中村歌右衛門』、昭和六十一年)

「本心から俊徳丸が好きだという説もあり、またそう思われる節もありますが、やはり俊徳丸を助けるということが一番の基本でしょう」というところに六代目歌右衛門の近代人としての解釈をみるべきなのかどうかはあやしい。そもそもこの演目は、きれいはきたない、きたないはきれい、の魑魅魍魎の世界であり、歌右衛門もまたその世界に生きることが芸の本道と念じた人であったのだから。

 これは三島『六世中村歌右衛門序説』の、《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである》と照応する。

 

なんと疑ひは晴れましてござんすかえ

「さればのこと、典薬法眼に様子を打明け、毒酒の調合頼む折から、本復の治法委しく尋ねしに、胎内より受けたる癩病ならず、毒にて発する病なれば、寅の年寅の月寅の日寅の刻に誕生したる女の、肝の臓の生血を取り、毒酒を盛つたる器にて病人に与へる時は、即座に本復疑ひなしと、聞いた時のその嬉しさ、それで/\この盃、身に添ヘ持つて御行方、尋ね捜す心の割符、父様/\/\父様、なんと疑ひは晴れましてござんすかえ」

「ヲイヤイ/\/\/\、スリやそちが生まれ月日が妙薬に合うたゆゑ、一旦は癩病にしてお命助けまた身を捨てゝ本復ささうと、それで毒酒を進ぜたな」

「アイ」

「ヘエヽ出かした/\/\/\娘ヤイ、モヽヽヽなんにも云はぬ、勘忍してくれ/\/\、日本はさておき、唐(から)にも天竺にも、今ひとりとくらべる人もない貞女を、畜生の悪人のと、憎体口が云ふばかりか、親の手にかけ酷い最期も、コヽこの俺が愚鈍なからぢや阿呆なからぢや。赦(ゆる)してくれ」

(中略)

「サア父様、コレこの鳩尾(きゅうび)を切り裂いて、肝の臓の生血を取り、この鮑で、早う/\」

と気を入る娘

 

 折口、

《もし、もどり(、、、)にならなかつたら、どうであらう。もし、玉手がそのまゝ、俊徳の裾を握つて死んで了つたなら、どうであらうか。さう言ふ性格も面白いとは思ふ。実際大抵の批評家はそれを言つたのである。そして、歌舞伎にとらはれてゐる者だけが、それは違ふと、批評家に反対しただけだつた。併し、今になつて見ると、私にはもつと理由があると思ふ。もし、もどり(、、、)にならなかつたら、見物の心は救はれないのである。玉手は実は清らかな心だつたんだ、と安心するのである。合邦内の場で、浅香姫への嫉妬の乱行が募つて来て、もうこゝらで見物が玉手に愛想をつかさう、手をわかたうと言ふ時に、このもどりになつて、あゝ助かつた、玉手を傷つけずにすんだ、と言ふ気がして来るのである。継母の玉手が俊徳に思ひをかけて、つけまとひ、もつれかゝり、共上毒を盛つて癩病にまでしてゐる、だから此まゝだつたら或点は美しい欲望を遂げようとしてゐるが、或点はきたない欲望の女として、我々の玉手への好意が報いられずに、玉手は死んで了ふことになる。だから、もどり(、、、)になつて死んで、始めて、あゝよかつたと言ふ安心を我々は感じるのである。作者の試みたとりつくは、成程、とりつくとして終つてゐるが、玉手のとりつくは真実であつた。かう言ふ解釈が出来ると思ふ。

近代文学を読んだ人は、さう言ふ見方で性格を見ようとするので、玉手が恋愛に終始した女だつたら、と言ふ様にみるのだが、果してどつちがいゝだらう。われ/\としては、さう言ふありふれた型の女よりも、かう言ふ型の女があつてもいゝと思ふ。自由で我まゝな女の間に、かう言ふ女が介在してもよいと思ふ。たゞ、作者が凡庸な為、玉手の試みたとりつくが解けた後にも、心に滓がのこる。それは作者が下手だからだ。もし作者がうまければ、告白した後に、美しい清らかなものだけが感じられる筈だ。文章も下手だが、さすがに先へ行く程澄み切つて来て、色々の人の口をかり、澄んだ清らかな心境を抱かうと、努めてゐる。其点からみても、作者が、或は作者と同じ気持ちの呑みこめたものが、清らかな花の開いた様な解決をつけようと、試みてゐる事が訣る。悲しいけれど、明るく輝いた最後でしまひにしてゐる。勿論時代によつても違ふ。此が書かれた安永の頃には、恋愛に終始した女として死ねば、見物は救はれなかつたに違ひない。それは同時に、我々の時代でも、救はれない。いまだに我々は此解決で、明るい寂しい光りを感じるのである。》

折口の内心を吐露するような物言いは、説経節の結末がいかに荒唐無稽であったとしても、善悪を越えて怨念と仕返と残虐と方便と作為とが含まれていたとしても、「身毒丸(シントクマル)」「愛護若」を自作しなおした血によるだろう。

 

 バルト、

《フェードルにあっては、言葉は死ニ際ニ(・・・・)、積極的な機能を取り返す。彼女には死んでいく時間があり、最終的には、彼女の言語表現と彼女の死とのあいだには合致があって、両者ともに同じ尺度を持っている(ところがイポリットのほうは、その最期の一言さえも奪い去られている)。水の広がりのように、ゆるやかな死が彼女のなかに忍び込み、また、水の広がりのように、浄らかで均質な言葉が、彼女のなかから流れ出る。悲劇の時間、すなわち言葉で表わされた次元を現実の次元から引き離しているこのおぞましい時間であるが、その悲劇の時間は昇華され、自然の統一性が回復される。》

 ヴァレリー

《恋の情念の中には一種の破壊の毒液が分泌される。それは初めのうちは知覚できないくらいの、作用も漢然としたものであり、容易に消すことができる。しかし、何でもないことが重なるうちにこの毒が活気づき、突如として、あらゆる理性の力よりも、人間や神にたいするあらゆる畏敬よりも強力になることがある。

というのも、人は、愛する対象に付与しかつ求めている、自分を幸福の極みまで連れ去ってくれる能力よりも、さらに無限に大きな、自分を苦しめる能力を、無意識のうちにその愛するものに与えない限り、烈しく愛するようにはならないからである。さらに、もしある人を所有することが、別なある人の深部の生命にとって欠くべからざる条件としてのしかかってくると(これこそまさに絶対的な愛の掟にはかならないが)、命がけのものとなったこの恋は、絶望に引き裂かれた場合には、いっさいの生命を軽んじるようになる。殺人という観念が身近なものになる。自殺の観念もまもなくそこに混じってくる。それは理屈の通らないこと、つまり自然なことである。

絶望に陥った時、フェードルは殺す。殺したのちにみずから命を絶つ。》

玉手御前の幕切れは、三島由紀夫中村芝翫(しかん)論』における《歌舞伎は魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑(こわく)がなければならない。「金閣寺」や「金殿」のような狂言の怪奇な雰囲気は一種の黒弥撒(くろミサ)に他ならぬ。 清美(きれい)は醜穢(きたない)。醜穢(きたない)は清美(きれい)……  あの「マクベス」の妖巫(ウイツチ)のような価値転倒が行われる傍ら、依然としてそこには頑(かたくな)なる忠孝哲学や勧善懲悪が闊歩している。しかし忠義という思想も一つの美学に他ならず、悪人が善人に必ず滅ぼされるという定石にも、或る馴れ合いの美しい約束が感じられる。狂言作者がいかほど時の支配者に阿諛(あゆ)しようとも、歌舞伎を支える根柢の力は、愚かさと悪と禍(わざわ)い、つまり何かしら悪魔的なものである。 そこに登場する女形、わけても花やかな若女形は、甘美の中に暗い恍惚を、優婉(ゆうえん)の中に物憂い陰翳(いんえい)を匂わせねばならない。その生命の根元の力が悪でなければならない》という果てしない形而上学と知性の不在の闇である。

 玉手御前にあってフェードルにもあるもの、それは闇だが、玉手の闇はその反近代性ゆえに限りなく深い。                            (了)

  ****主な引用および参考文献****

三島由紀夫『芝居日記』(中央公論社

*『三島由紀夫全集27、28』(新潮社)

三島由紀夫写真集『六世 中村歌右衛門』より『六世中村歌右衛門序説』(講談社

*『三島由紀夫文学論集 III』より『中村芝翫論』(講談社

*『折口信夫全集22』(『合邦と新三』『見ものは合邦』『玉手御前の恋』所収)(中央公論社

*『折口信夫全集27』(『身毒丸』所収)(中央公論社

*『谷崎潤一郎随筆集』(『いわゆる痴呆の芸術』所収)(岩波書店

谷崎潤一郎『幼少時代』(岩波文庫

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章訳(みすず書房

*『ヴァレリー全集8 作家論』(『女性フェードルについて』二宮フサ訳所収)(筑摩書房

*『日本名著全集 浄瑠璃集(下)』(『摂州合邦辻』所収)(日本名著全集刊行会)

国立劇場 第一四二回文楽公演 床本集』(国立劇場事業部宣伝課)

*『国立劇場上演資料集 第二五六回歌舞伎公演 通し狂言摂州合邦辻』(平成19年)(国立劇場調査資料室)

*『国立劇場 第十六回六月歌舞伎公演プログラム』(昭和43年)(国立劇場調査資料室)

*『国立劇場 第六十四回三月歌舞伎公演プログラム』(昭和49年)(国立劇場調査資料室)

*『国立劇場 第一三一回三月歌舞伎公演プログラム』(昭和60年)(国立劇場調査資料室)

武智鉄二『定本武智歌舞伎2』(『合邦の玉手御前』所収)(三一書房

*織田紘二編著『歌舞伎オンステージ 新版歌祭文 摂州合邦辻 ひらかな盛衰記』(白水社

戸板康二等監修『名作歌舞伎全集第四巻 丸本時代物集三』より『摂州合邦辻』(東京創元新社)

戸板康二『五月のリサイタル』(『三島由紀夫断簡』所収)(三月書房)

永井荷風荷風全集28』(『『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)』の比較合評(ひかくがっぴょう)』所収)(岩波書店

三宅周太郎『歌舞伎研究』(『「合邦」研究』所収)(拓南社)

渡辺保『昭和の名人 豊竹山城少掾』(新潮社)

渡辺保歌右衛門 名残りの花』(マガジンハウス)

ラシーヌ『フェードル アンドロマック』渡辺守章訳(岩波書店