オペラ批評 ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』とホルバイン『大使たち』――「切れた絃」と「歪んだ髑髏」

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 2011年4月、ウィーン国立歌劇場初演となるドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』は、各国に生中継された。ソプラノ、アンナ・ネトレプコにとってタイトル・ロールのデビューであり、メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ演じる侍女ジョヴァンナ・セイモーとの、人気、美貌、実力を兼ね備えた歌姫(ディーヴァ)たちの共演だった。

 この1830年初演のオペラはドニゼッティ出世作だったにも関わらず、その後ほとんど上演されなくなっていた(ウィーン歌劇場もMETも2011年が初演)のを、1957年4月にミラノ、スカラ座でのルキノ・ヴィスコンティ演出によるマリア・カラス初演で再び脚光を浴びるようになり(カラスはベルカントの技術と演技力によって、同じくドニゼッティの『ランメルモールのルチア』やベッリーニ『ノルマ』などの復活に貢献した)、その後レイラ・ジェンチェル、モンセラート・カバリェ、レナータ・スコットエディタ・グルベローヴァ、マリエラ・デヴィーアなどによる「ドニゼッティルネサンス」が興隆して今日に至る。

 半年後の2011年9月、ニューヨーク、メトロポリタンオペラ(MET)の2011~2012年シーズン・オープニングを飾ったのも『アンナ・ボレーナ』だった。ウィーンで評判だったネトレプコとガランチャによる再演予定だったが、ガランチャが第二子懐妊のため降板、エカテリーナ・グバノヴァがジョヴァンナを演じている。

 このとき、メトロポリタンオペラとメトロポリタン美術館とが、” Anna Bolena & Hans Holbein:MET MEETS MET”と銘うって、『アンナ・ボレーナ』をテーマとしたレクチャーを開催している。メトロポリタン美術館のキュレーター、アインズワースがハンス・ホルバイン(一時期、ヘンリー8世の宮廷画家だった)の肖像画を基に、ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリン(イタリア語名アンナ・ボレーナ、以下同)、その侍女で3番目の王妃となるジェーン・シーモア(ジョヴァンナ・セイモー)、ヘンリー8世(エンリーコ)らが登場する16世紀イングランドテューダー朝の歴史的背景を解説したあと、本プロダクションの衣裳担当ティラマーニがホルバインの肖像画、スケッチ、デッサンから素材の質感など細部にこだわって作り上げた舞台衣裳のレクチャーだった。

 しかし、フランス王フランソワ1世がヘンリー8世とアン・ブーリンとの再婚を容認すると伝えるとともに、宗教改革を穏便にするようイギリスの教会を説得するために派遣したフランス大使をホルバインが描いた『大使たち』への言及はなかったようだ。

 

ドニゼッティテューダー朝(女王)三部作』>

 傍系にも関わらず、不当に悪名高いリチャード3世から権力を奪取して薔薇戦争終結させたヘンリー7世(在位1485~1509年)に始まるテューダー朝は、イギリス・ルネサンスに相当する。国内外の政治権力闘争に宗教改革が錯綜し、王冠後継者を切望する王の結婚と離婚、世継ぎ生産機械としての王妃のすげかえ、愛憎の色恋、女王の誕生、側近・寵臣たちの権力闘争と失脚のドラマ、が幾多の残虐非業の死とともに生起したが、文化的に遅れていた二流の島国が世界に冠たる大英帝国へと飛翔する大変換の時代でもあった。

 ヘンリー8世(在位1509~1547年)は、早逝した兄アーサーの妃としてスペイン王室から嫁いでいたキャサリン・オブ・アラゴンを、父ヘンリー7世の命で王妃として迎えた。だがキャサリン男児を産まないと、フランス宮廷から帰国してキャサリンの侍女になっていたアン・ブーリンを寵愛し、キャサリンと離婚して王妃にしようとした。ここで理解しておかなくてはならない日本との違いが三つある。一つめは、愛人、側室の子である庶子に王位継承権はなく、あくまでも正式の「妻」が産んだ嫡子でなくては後継者になれないことだ。現にアンの姉(妹説もあり)メアリー・ブーリンはヘンリーの愛人として男子と女子を生んでいた(小説・映画『ブーリン家の姉妹』)が継承権はなかった。アンは妻となれない限りは愛人としての肉体関係をも拒んで、かえって王を焦らしたとされる。二つめは、カトリック信者にとって「離婚」は容易なことではなく、ましてカトリック教徒イギリス王の離婚をローマ教皇が簡単に許すはずはなかった(兄嫁だったキャサリンとは「婚姻無効」だったという申し出を教皇にしたのだが、かつて父ヘンリー7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免取消を要請した)。三つめは、王位継承権は男に限られてはおらず、女(及び女系)にも可能なことである(しかしヘンリー8世は、まだ権力基盤が確固としていなかったテューダー朝の安定のために男の世継ぎを望んでいた)。

 ローマ教皇が離婚を許さないと、アンと密かに結婚(1533年)し、教皇に破門されるや国家ごとローマ・カトリック教会から離脱して、イギリス国教会が成立する(1534年)。

 ところが再婚したアンは、のちのエリザベス女王を産んだ(1533年)もの、その後は流産、死産つづきで(魔術のせいともされ、のちにアンの罪状の一つとされた)、ヘンリー8世の心は、「反復」するかのようにアンの侍女ジェーン・シーモアに移ってしまう。1536年、アンは五人の男との不貞(兄(弟説もあり)のジョージ・ブーリンも含まれる)という濡れ衣を着せられて断頭台に送られる(映画『1000日のアン』)。

 3番目の妻となったシーモア王太子エドワードを出産するが産褥死、ヘンリー8世はさらに3人の妻を迎えた。5番目の妻キャサリン・ハワードはアンの従妹だったが、やはり姦通罪で処刑されている。

 ヘンリー8世(晩年の肥満した肖像画のイメージと、6度妻を娶った好色性、残虐さのみ言いたてられるが、若いころは長身で非常にハンサムであり、エラスムスが聡明で活発な精神を持ち、万能な天才である、と称賛したように、ルネサンス国王としての内政・外交の統治能力は高かったという評価もある)の後継者となったエドワード6世(在位1547~1553年)はわずか15歳で病没してしまい、最初の妻キャサリンが産んだ王女がメアリー1世(1553~1558年)となる。メアリー1世はカトリック教徒であり続け、プロテスタント化が進んでいたイングランドカトリックに引き戻した(プロテスタントへの苛酷な弾圧から「ブラディ(血まみれ)メアリー」(真っ赤なトマトジュース・ベースのカクテル名でもある)と呼称される)が、在位5年で病没し、アン・ブーリンが産んだ王女がエリザベス1世(在位1558~1603年)となる。王冠は過去の愛憎を嘲笑うかのように「斜め交差」で引き継がれていった。ヘンリー8世によるローマ・カトリック教会からの離脱によって、これまでのようにカトリック国フランス、スペインから王家の血縁を求めることが好ましくなくなり、プロテスタント系の神聖ローマ帝国、ドイツから迎えることで、のちのハノーヴァー朝、そして血統的にはほとんどドイツ系といえる現在のウィンザー朝に連なっていったという意味でも一つの変曲点だった。

 

 イタリアの作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(1797~1848年)には、この時代を描いた「テューダー朝(女王)三部作」と呼ばれるオペラがある。『アンナ・ボレーナ』、『マリア・ストゥアルダ』、『ロベルト・デヴェリュー』がそれで、根幹となるのはエリザベス女王の一生(3歳時に姦通罪で処刑された母アン・ブーリン王妃、ライバルのスコットランド女王メアリー・スチュアートへの死刑執行、処女王エリザベスの寵臣とのメロドラマ)である。

 

 以下、METのHPの”Synopsis”と、加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』の「あらすじ」から(適宜変更しつつ)引用する。

 

<『アンナ・ボレーナ』>

 原作:イッポリート・ピンデモンテ『エンリーコ8世、またはアンナ・ボレーナ』及びアレッサンドロ・ペポリ『アンナ・ボレーナ

 台本:フェリーチェ・ロマーニ

 初演:1830年12月26日、ミラノ、カルカーノ劇場

 イングランド、1536年。政治的および宗教的激変の10年ののち、ヘンリー8世(イタリア語名エンリーコ、以下同)は最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンを除くことに成功し、女王として長年の愛人、アン・ブーリンアンナ・ボレーナ)を戴冠した。 しかし、アンは王女エリザベス(エリザベッタ)の誕生後、流産、死産を繰り返し、男子の王位後継者を産むことができないでいた。

第一幕

 1536年、イングランドウィンザー城。宮廷の人々が国王夫妻の噂話をしている。エンリーコ(ヘンリー8世)の心が他の女に移って、アンナ(アン)王妃への愛情が薄れているらしい。王妃の信頼厚い女官(侍女)ジョヴァンナ・セイモー(ジェーン・シーモア)が入ってくる。続いて王妃が現れ、悩みがあることをジョヴァンナに打ち明ける。王妃は皆を元気づけようと、小姓(宮廷楽士)のスメトン(実在の人物マーク・スミートン)に歌わせる。その歌詞は、幸せな想い出に彩られた初恋を思い出させた。それはヘンリーと結婚するために諦めたペルシーとの恋だった。

  実は、ジョヴァンナこそが王の新しい愛人だった。彼女は王妃を裏切っているという良心の呵責にさいなまれ、一人寝室で悶々としていた。そこへ王が現れて情熱的に愛を語り、結婚と栄誉を約束する。ジョヴァンナは、王がアンナ王妃を陥れようとしていることを知って動揺するが、今さら後戻りできないところまで来てしまっていることに気づく。

 アンナ王妃の兄(弟説もあり)ロシュフォール卿(ロッチフォード、実名ジョージ・ブーリン)がウィンザー公園でばったりリッカルド・ペルシー卿(リチャード・パーシー)に会って驚く。彼はアンナの昔の恋人で、エンリーコ王に追放を解かれて戻ったばかりだった。アンナの苦悩を噂に聞いていたペルシーは、ロシュフォールに彼女の様子を尋ねるが、ロシュフォールは答えをはぐらかす。ペルシーは、アンナと別れて以来、つらい人生を歩んできたことを打ち明ける。王の狩りの一行がやって来る。アンナ王妃と女官たちも到着する。王は王妃を冷たい態度で迎え、ペルシーに向かって、恩赦の礼なら王妃に述べよと言う。実は、王は王妃に罠を仕掛けるためにペルシーを呼び戻したのだった。そして再会の挨拶を交わす二人の気持ちが揺れる様子を観察して、残忍な楽しみに浸った。王は二人を見張るよう部下のエルヴィに命じる。

 王妃に恋をしている小姓のスメトンは、以前に盗んだ彼女の小さな肖像画を王妃の居室に戻しに来た。アンナ王妃が兄ロシュフォールと共にやって来たので、スメトンは姿を隠す。兄のたっての願いとあって、王妃はペルシーに会うことを承諾してしまう。ペルシーが現れて、今でも愛していると告白する。アンナは自分が王に憎まれていることは認めるものの、毅然とした態度でペルシーの求愛を拒み、彼の愛情を受けるにふさわしい女性を見つけてほしいと懇願する。それなら自殺すると言ってペルシーが剣を抜いたところへ、突然、王が現れる。スメトンが出てきて姿を現し王妃の身の潔白を訴えるが、隠し持っていた王妃の肖像画をうっかり落としてしまうと、王はここぞとばかりに奪い取る。王はそれこそ王妃とスメトンの不倫の証拠ではないかと言い立てる。アンナ、ペルシー、スメトンは逮捕される。 

第二幕

 アンナ王妃はロンドン塔に幽閉されている。ジョヴァンナが訪ねて来て、王が再婚できるようにすれば、処刑は免れられると言う。そのためには、ペルシーを愛していることを認め、自分が罪を犯したと認めればよいと勧める。しかし、王妃は彼女の意見を退け、自分の後釜に座ろうとしている女に対する憎しみを露わにする。ジョヴァンナが、自分がその愛人であることを明かすと、王妃はショックを受けて彼女を拒絶するが、ジョヴァンナの必死の訴えを聞き入れ、責められるべきは王であると言って彼女を許す。

 スメトンは、王妃の愛人だと証言すれば王妃の命を救える、と信じ込まされて、虚偽の自白をするが、かえって王妃を窮地に追い込む結果となる。アンナ王妃とペルシー卿が裁判の場に引き出される。王妃は「死ぬ覚悟はできているが、裁判にかけられる屈辱を与えないでほしい」と王に懇願する。さらに王と対峙したペルシーは、王妃になる前、アンナはもともと自分の妻だったと主張する。王はその言葉を信じないが、それなら王妃の座には、もっとふさわしい女が就くだろうと勝ち誇る。ペルシーとアンナは連れて行かれる。ジョヴァンナが王妃の命乞いをするが、王は耳を貸さない。裁判の判決が出た。国王夫妻の婚姻は解消され、アンナならびに共犯者は死刑に処されることになった。

 アンナ王妃は錯乱状態に陥っている。彼女の意識は嫁いだ日に戻って、少女時代のペルシーへの想いを語る。共に処刑されるペルシー、ロシュフォール、スメトンが連れて来られる。スメトンは自分のせいで王妃が死ぬことになったことを悔いる。エンリーコ王が新しい王妃ジョヴァンナを迎えることを知らせる鐘と大砲の音が響くと、アンナはふと正気を取り戻す。そして王と新王妃に対する激しい言葉を口にしながら処刑場へ向かう。》

 

<『マリア・ストゥアルダ』>

 原作:フリードリヒ・シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト』

 台本:ジュゼッペ・バルダーリ

 初演:1835年12月30日、ミラノ、スカラ座

あらすじ

《一六世紀末のイングランド。亡命してきたスコットランド女王マリア・ストゥアルダメアリー・スチュアート)は、イングランド女王エリザベッタ(エリザベス)により、フォザリンゲイ城に幽閉されていた。母国で政争に敗れたマリアは、父のいとこにあたるエリザベッタの庇護を求めてイングランドに渡ったのだが、エリザベッタにしてみれば、イングランドの王位継承権を持ち、宗教上もプロテスタントの自分と対立しているカトリックを信奉しているマリアは危険な存在だった。さらに悪いことには、かつての寵臣レイチェステル(レスター)伯はいまやマリアに恋いこがれており、彼女を助け出そうと、エリザベッタにマリアとの会見を提案する。

 エリザベッタの訪問を知らせるためフォザリンゲイ城を訪れたレスター伯は、マリアとの再会を喜ぶが、マリアは不吉な予感にとらわれる。続いて現れたエリザベッタは、あからさまにマリアを見下すので、自制していたマリアも怒りを爆発させ、エリザベッタを「私生児」と罵る。憤激したエリザベッタは復讐を決意し、側近のセシル卿の勧めもあってマリアの死刑執行令状に署名。マリアの命乞いをするレスターに、嫉妬をつのらせるエリザベッタは、恋人の処刑に立ち会うようレスターに命じる。マリアはエリザベッタを許すと告げ、処刑台に向かうのだった。》

 

<『ロベルト・デヴェリュー』>

 原作:フランソワ・アンスロの戯曲『英国のエリザベッタ』

 台本:サルヴァトーレ・カマラーノ

 初演:1837年10月28日、ナポリ、サン・カルロ歌劇場

あらすじ

《一六世紀末のロンドン。女王エリザベッタ(エリザベス)は、アイルランドの反乱を平定するために恋人のロベルト・デヴェリュー(ロバート・デヴルー)を派遣したが、ロベルトは命令に反して和睦を結び、反逆罪に問われていた。エリザベッタはロベルトを救おうと彼と面会し、万一の場合の身の安全を保障する指輪を与えるが、彼の心が自分から離れていることに気づいて嫉妬する。

 果たしてロベルトにはサラという恋人がいた。しかし彼女は、ロベルトのアイルランド戦役中に、女王の命令でロベルトの友人でもあるノッティンガム公爵に嫁いでいた。人目を忍んで再会したサラとロベルトはもう会わないことを誓うが、ロベルトは愛の証に女王から贈られた指輪をサラに渡し、サラは愛の告白を刺繍したハンカチをロベルトに贈る。

 議会はロベルトに、反逆罪で死刑を言い渡した。逮捕されたロベルトの持ち物からサラのハンカチが発見され、嫉妬のあまり逆上したエリザベッタは死刑執行令状に署名する。ロベルトの助命を願い出たノッティンガム公爵も妻の心を知って衝撃を受け、妻が女王のもとへロベルトの助命を乞いに行くのを妨げる。絶望し、処刑台へ曳かれていくロベルト。

 苦悶するエリザベッタのところに、指輪を手にしたサラが現れた。エリザベッタは処刑を中止させようとするが時すでに遅く、処刑を告げる大砲の音が聞こえる。狂乱するエリザベッタは、苦悶の果てに、メアリー・スチュアートの息子のジャコモ(ジェームズ)に王座を譲ることを宣言する。》

 

<ホルバイン『大使たち』>

 以下、ホルバイン『大使たち』を所蔵するロンドン、ナショナル・ギャラリーHPの紹介文を補記する。

 

 ハンス・ホルバインは1497~8年の冬にドイツ南部のアウクスブルクで生まれ、父であるハンス・ホルバイン(父)から手ほどきを受けた。1519年にバーゼルの芸術家ギルドのメンバーになり、多くの旅をして、ルツェルン、北イタリア、フランスに足跡を残している。板絵だけでなく、木版画フレスコ画も制作した。デューラーが究めた科学的遠近法を習得し、文化都市バーゼルの富裕な市民をパトロンとして、宗教画や肖像画を手がけていた。しかしプロテスタントによる聖像破壊運動が激しくなると教会からの注文がなくなり、バーゼル市民で『痴愚神礼讃』を著したエラスムスの紹介でイギリスに渡り、『ユートピア』の著者で人文主義者のトマス・モアの知遇をえて、肖像画家として成功するが、さまざまな分野の熟練したアーティストとして、ジュエリーや金属細工もデザインしている。

 イギリスで2つの期間(1526~28年と1532~43年)を過ごし、テューダー宮廷の貴族たちを描いた。有名なヘンリー8世の肖像画や『大使たち』は2度目の時期にあたる。大法官(総理大臣に相当)トマス・モアはヘンリー8世の離婚問題に反対したため斬首刑となってしまう(映画『わが命つきるとも』)が、1536年、国王の側近トマス・クロムウェルが宮廷画家に取り立て、欧州各国の宮廷に派遣して妃候補の肖像画を描かせた。王はドイツのユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アン・オブ・グレーブスを、肖像画の美しさから花嫁に迎えたが、実際に到着したアンが肖像画とあまりに違うので激怒した。1540年1月に行われたこの結婚は6ヵ月で離婚(王との実際の床入りがなかったことが婚姻無効の離婚理由となりえた)となり、クロムウェルは保守派との確執もあって失脚、斬首のうえ、トマス・モア同様にロンドン橋に首が晒された。不興を買ったホルバインは追放となり、1543年にロンドンのペストで亡くなった。

 

『大使たち』

 16世紀の最も熟練した肖像画家ホルバインによる2人の肖像画は、描かれた人物たちの富と地位を誇示するだけではない。それはヨーロッパの宗教的激変の時に描かれた。ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を教皇が無効にしないため、王はローマ・カトリック教会と訣別した。絵の中央、テーブルの上のさまざまなオブジェクトは、政治情勢の複雑さをほのめかしている。絵の具によるさまざまなテクスチャは、ホルバインの卓越した技術の見せどころでもある。

 ホルバインは署名の下に日付を記入したので、1533年に取り組んでいたと知ることができる。当時のアーティストは絵に署名しなかったが、ここでの署名は彼がこの作品を特に誇りに思っていたことを示唆している。

 肖像画が描かれたのと同じ年に、ヘンリー8世は2番目の妻となるアン・ブーリンと結婚した。王はローマ教皇の権力を回避し、イングランド国教会をローマから独立したものに確立して、国教会の長ともなった(「上告禁止法」、「首長令(国王至上法)」)。

 しかし、フランス国王フランソワ1世にとっては、カトリック・ヨーロッパの宗教的および政治的関係の崩壊は心配の種だった。左の人物は、その状況についてフランソワ1世に報告することを任された大使ジャン・ド・ダントヴィル (Jean de Dinteville)で、最も信頼できる廷臣の1人である彼は、フランソワ1世の代理で結婚式に出席している。これは彼のイギリスへの2回目の外交使節であり、さらに3回イギリスを訪れて君主間でメッセージを伝えた。右の人物は彼の親友であるラヴァールの司教、ジョルジュ・ド・セルヴ (Georges de Selve)で、彼もまた外交使節団の一員だった。 4年前、彼は神聖ローマ皇帝カール5世がカトリックプロテスタントを和解させようとしたシュパイアーの国会に出席している。描かれたとき、ダントヴィルの剣の鞘のラテン語の碑文と、セルヴが寄りかかっている本の側面から、それぞれ29歳と25歳であることが見てとれる。

 ダントヴィルは、6月のアン・ブーリン戴冠式と、9月の娘エリザベスの誕生のためにロンドンに滞在する必要があった(フランソワ1世はエリザベスのゴッドファーザーだった)。残された通信記録は、ダントヴィルが長期の滞在に不満だったことを明らかにしているが、この肖像画はセルヴとの友情とイギリスでの任務を記念している。

 ルネサンス肖像画には、楽器、硬貨、本、花などのオブジェクトが含まれていることが多く、趣味、知性、文化、婚姻状況、宗教的情熱をほのめかして、描かれた人物の描写を豊かにした。これらのオブジェクトは、16世紀半ばのヨーロッパの宗教的および政治的混乱に関する視覚的な表象として解釈されてきたが、音楽、数学、地理学、天文学のいずれかに関係し、これら4つの学科は、中世の大学で「四学」 (quadrivium) を構成するもので、2人の高度な教養、知性を表現するために描かれたものと考えられる。

 一番上の棚には、時間、高度、星やその他の天体の位置を測定するために使用される機器が表示されている。左端には天球儀があり、星や惑星の位置を表示している。各面に文字盤が付いた多面的な箱のようなオブジェクトは、多面体文字盤と呼ばれ、日時計の一種である。このようなオブジェクトは、ヘンリー8世付きの王室天文官ニコラス・クラッツァーによって作成された(クラッツァーが多面体の文字盤を作成していることを示すホルバインの肖像画は、パリのルーブル美術館にある)。技術的な機器類は非常に貴重であり、数学と科学に対する人物たちの理解力を示している。

 下の棚は主に音楽に捧げられている。リュートの11本の絃のうち、1本が切れている。リュートの隣りにフルートのセットがある。「音楽をよくしない限り教養ある人士とは、少なくともフランス人とは見なされなかった」ことを思えば、楽器が画面中央に鎮座しているのも不思議はない。ホルバイン(あるいはダントヴィル)がなぜ絃の1本を切らせたか、の最も一般的な見方は「被造物の沈黙(即ち死)を象徴する」というものであろう。あるいは切れた1本の絃は「あらゆる音階が響き止む、という意味での死」を象徴するばかりでなく、同時に政治的な象徴をも含むものであるという説もある。1本の絃でも切れた時は、その1本のために(ちょうど音楽がそうであるように)外交というものは台なしになってしまう、という象徴だともされる。

 左端には、地球儀が置かれており、その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung” (1527年)である。

 右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)で、讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒パラフレーズが一字一句克明に写されている。「Mensch willtu leben seliglich und bei Gottheit bliben ewiglich,sollte du halten die Zehn Gebot die uns gebent unser Gott(我らの主が与え給うた十の戒めを守るならば、我らは幸多く生き、永遠に神の御許にとどまるであろう)」。(3年後に、アンが十戒のひとつの「姦淫するなかれ」を破ったとして生を絶たれたことを想えば、アイロニカルな予言となっている。)

 ホルバインの信じられないほどの技術的スキルも見ることができる。ダントヴィルのピンクのサテン・チュニックの光沢はまばゆいばかりで、その滑らかさは彼の黒いマントの裏地にある濃厚で密度の高いオオヤマネコの毛皮と対照的である。ホルバインは、その周縁に一本一本の毛を描き、贅沢で柔らかな質感を与えている。ダントヴィルの短剣の鞘からぶら下がっている金のタッセルは、金メッキ技術を使用して作成された。彼は個々の紐を茶色がかった色で塗り、油媒染剤(接着剤のように機能する粘着性の物質)の層で覆い、次に金を固定した。

 ルネサンス肖像画は、人生の弱さ、または「Memento mori」(死を忘るな)を思い出させるためにしばしば依頼された。2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされる。男の足の間に浮かんでいるように見える歪んだ細長いオブジェクトは、右下隅から絵を見上げた場合にのみ正しく見ることができて、その形は大きな髑髏(頭蓋骨)であることがわかる。これはanamorphos(歪像(アナモルフォーシス))と呼ばれる効果で、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにあるヘンリーの息子エドワード6世の珍しい肖像画にも見られる。画の左上に同じように隠されているのは、緑のダマスク織のカーテンに固定された十字架の磔刑像で、キリストの犠牲、人類の贖罪を通じての救いの普遍的な希望を表現しているのかもしれない。

 

<「髑髏」>

「髑髏(頭蓋骨)」に関する千足伸行「ホルバインの《大使たち》」の解説(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))を紹介する。

《むしろより妥当と思われるのはこれを古くからあるモットー「Memento mori」(死を忘るな)、あるいは「Vanitas」(生の空しさ)を造型化した一連の作品の中で、イコノグラフィックな意味での傍系のひとつと見ることである。もしこの頭蓋骨が現在のようなanamorphoseとしてでなく、正常な形で他の様々な静物的なモチーフと同列に描かれていたとしたらこれは明らかにやがて17世紀のオランダ静物画で盛行を見ることになるいわゆるVanitas Still-lifeの系列に属するものと言える。一般論として、当時のドイツ人に限らずひろく「ルネサンス人は生そのものの中にVanitas的な観念を浸透させていた」が、特に北ヨーロッパではHans BaldungやDürer、N.M.Deutschなどが死を擬人化することにより、生の空しさないしは死の勝利という観念をその芸術の前面におし出している。このような芸術的風土に加えてすでにのべたようにホルバイン自身も《死の舞踏》をテーマとした従来の数ある絵画や彫刻の中でも「ある意味では最も完璧な表現」と言われる木版の連作をバーゼル時代に手がけている(ただしここでも従来の聖書的、キリスト教的死生観にもとづいた《死の舞踏》とは異なった、ホルバイン一流の世俗性と、風刺的、警世的傾向の勝った表現が目立っている)。Waetzoldtによればホルバインの死に対する態度は《偶者の船》(Das Narrenschiff)におけるSebastian Brant、あるいは《偶神礼賛》におけるエラスムスのそれに近かったということであるが、たしかにホルバインは死そのものを直接的に描くというより死を通じて何かを語ろうとするかのようである。彼は(少くとも《死の舞踏》で見る限り)いわば死を自己の人生観、社会観あるいは宗教観を語り伝えるスポークスマンとしている。《大使達》における「死」の精神にしても、(たとえばバーゼルにある1521年の《墓の中のキリスト》のような)恐怖や苦痛、終局などの観念と結びついた凄惨な死の形相を伝えることにあるのではなく、むしろ上述の《死の舞踏》の延長線上にあるようである。しかもこのVanitas的イメージ、奇嬌な頭蓋骨を中にして立つダントヴィル、セルヴの両名は当時それぞれ29歳と25歳、人生の春ともいうべき時期にあった。青春、あるいは美、力、豊かさなどのイメ一ジと死のイメージとの際立ったコントラスト、これはいわばVanitas的なイコノグラフィーの常識である。(中略)ここには他のこの種の作品には見られない何かユニークな象徴性がひそんでいるのではないだろうか。これについて思い出されるのはD.Piperの次のような言葉である。「それ(問題の頭蓋骨)はあたかも(絵を見る)我々と(絵の中の)二人の人物の間にさしかけられて(・・・・・・・)(suspended)いるかのようである。」死は常に我々に「さしかけられて」ありながら我々はこれを直視しえない、あるいはすることを忘れている、という事実をこの一見しただけではにわかには識別し難い頭蓋骨は語っていないだろうか。すべてがホルバイン特有の明晰で客観的な描写を得、それぞれがいわば自己の世界、自己の空間に定着している中にあって、この謎のような頭蓋骨のみは絵の中の世界からも、絵の外の世界からも浮き立ったもうひとつの世界に漂っているかのようである。このようなanamorphose的な表現を与えられてこそ、この頭蓋骨は「正常な」頭蓋骨のもつ「静物」的な物質性をはなれ、非物質化されたひとつの象徴的存在、「死を忘るな」(Memento mori)の象徴的、暗喩的な表象にまで高められてはいないだろうか。ここに注文主ダントヴィル、当時ロンドンの気候が体に合わず、病み勝ちで、「かつていた大使の中でも最も憂欝な」とみずからを語ったダントヴィルの指示がどの程度まで入っていたか、あるいはここではすべてがホルバインの創意だったのかこれらについては客観的には知る由もない。ただここで思い出したいのはダントヴィルの帽子の内べりにつけられた小さな頭蓋骨のバッヂである。「死を忘るな」あるいは「生の空しさ」とはおそらくこの「憂欝な」貴族外交官のモットーであったに違いない。こうした観点に立てば、二人の間の台架の上の日時計も単に学術用の日時計という以上に世の無常、移ろい易さという象微性をおびてくるように思われる(周知のようにこうした場合普通は日時計よりも砂時計が好んで用いられる。ホルバインの《死の舞踏》でもこれはいわば「死」のアトリビュートのようにしばしば現われる)。こうした見方をさらに発展させれば、画面の中の地球儀は地上の(政治的)権力を、天球儀は天上(=神)、すなわち教会の権力の象徴ともとれる(これには政治家ダントヴィルと高僧セルヴへの含みもあったかも知れない。またこれら天球儀と地球儀、そして死あるいは無常の象徴としての頭蓋骨が構図的に見てほぼ同一垂直線上にある、ということもこの際注意したい)。》

 

<「狂乱の場(Mad scene)」>

アンナ・ボレーナ』(1830年)には、聖書の解釈をめぐってヘンリーと議論さえできた知的なアン・ブーリンと、ルネサンス王ヘンリー8世(作曲し、リュートも弾きこなした)が担っていた政治的、宗教的、人文芸術的な要素はほとんどなく、わずかにリュート演奏の場面に、のちのエリザベス女王の宮廷で音楽が花開いた萌芽を見てとれるくらいだ。そこにあるのは、本作が初演された1830年頃のフランス7月革命、イタリア統一運動(リソルジメント)のロマン派的な「死と愛」「死へのあこがれ」という芳香の兆しである(わずか数年後ではあるが、『ランメルモールのルチア』(1835年)のルチアの「狂乱の場」、『ロベルト・デヴェリュー』(1837年)のエリザベス女王の狂乱ではロマン派色がより強くなる)。

アンナ・ボレーナ』のロマン派的な香り、いわゆる「狂乱の場」に戻ろう。ここで、スメトンの「arpa」(イタリア語でハープ)という歌詞が登場するが、舞台演出ではテューダー朝当時に流行した(その後、急激に廃れ、ハープに代わっていった)ルネサンスリュートをスメトンに弾かせるように、時代考証的には「リュート」の意と了解してよいだろう(英語字幕も「lute」)。

 

第二幕第3場:ロンドン塔

 衛兵たちに付き添われたペルシーとロシュフォール卿。王の部下エルヴィが、国王は寛大にも2人を助命すると告げる。しかし、アンナが処刑されると知ったペルシーは、「罪のない彼女が死んで、罪ある私が生きる事を望むほど私が卑劣な男だと思っているのか!」と叫び、赦免を拒否する。ペルシーは、君は生きるのだ、とロシュフォールにすすめるが、ロシュフォールも死を選び、2人は兵士たちに囲まれ退場する。

 アンナが閉じ込められた牢獄で侍女たちはアンナが錯乱してしまったと嘆いている。

 獄中からアンナが現れ、深い物思いにふける。侍女たちが周りを取り囲むと、錯乱のうちに過去を想い、歌う(「あなたたち泣いているの?」Piangete voi? と「優しかったあの場所に連れて行って」Al dolce guidami)。

 人々が嘆き悲しんでいると、エルヴィと廷臣たちがやってくる。アンナは正気を取り戻し、「何というときに私は錯乱から覚め正気に戻ったの!」と嘆く。

 牢獄から、ロシュフォール、ペルシー、スメトンが連行されてくる。

 スメトンは、国王の甘言に乗せられて、不埒な欲望の虚偽告白をしてしまった私を呪ってください、と打ちあけると、アンナは、

「スメトン!…こちらにいらっしゃい… 立ちなさい、何してるの? ハープの調弦はしないの? 一体誰がその絃を切ってしまったの?」

と語りかけ、また幻想の世界に入ってゆく。

「深く暗い響きが 断ち切られた呻き声のように…響いてくるわ…消え去る命のつぶやき…それは私の傷ついた心、天に最後の祈りを強く求める私の心の…みなさん、聞こえるでしょ…」

「天よ、私の長い苦悩に 最期の休息を与えください、 そして、この最期の鼓動が せめて希望に結びつきますように!」

 遠くの方から何発かの号砲と鐘の音が聞こえてくることで次第に正気に戻ったアンナは、ジョヴァンナの戴冠の祝宴、民衆の歓迎の騒ぎと知ると、

「黙りなさい…止めなさい! これからです!ああ!今からです!罪を成就する アンナの血は、これから流されるのです!」

「邪悪な夫婦よ、最初で最後の復讐は 今この恐ろしい瞬間に成就される事はない… 口を開けて私を待つ墓場に  唇に許しを携えて降りてゆくのです… 慈悲深い神の御前で、和の心が 寛大で恵み深い気持ちを持てるように…」(「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniqua」)と歌いながら、処刑に向かう(幕)。

 

 MET公演のインタビューでネトレプコは、「狂乱の場」のアンナは本当には狂ってはいないと思って歌っている、と語っている。最後の歌詞は、再婚する王エンリーコと侍女ジョヴァンナを「邪悪な夫婦」と呪いつつも、しかし神の前で寛大な気持を持てるように許すかのごとき言葉で処刑へ向かうが、音楽は罪を成就するアンナが流すだろう血の燃える憤怒と自尊心で力動し、ドニゼッティ音楽は心はやる四重唱、五重唱ばかりでなくアリアもまた凄みがあると教える。2009年のMETでネトレプコが演じたドニゼッティランメルモールのルチア』の「狂乱の場」のルチアは、よりロマン派色が強く出て、完全に物狂いとなっているが、『アンナ・ボレーナ』のアンナが自身を処刑台の死へと追い詰めてゆくのは、「狂乱」というよりも、誇り高さと、自分はこのように生きてきたのだ、というルネサンスの女の知的でいきいきとした勇気によって、音楽が言葉を裏切って錯乱にみせるのであり、中世から近世へと向かう変曲点そのものだった女の自我が漲り、「死への欲動」ではあっても「狂乱の場」と名づけるのは誤りに違いない。

 

<ホルバインの予言性>

 アン・ブーリンの死の3年前に描かれたホルバインの『大使たち』は、『アンナ・ボレーナ』の最後のアンナ(アン)の死を表象している。それはリュートの「切れた絃」による生の断絶と不調和、「歪んだ髑髏」による死への欲動に象徴されている。

 ジャック・ラカン(『精神分析の四基本概念』)によると、『大使たち』(『使節たち』)に描かれた奇妙なモノは、絵を鑑賞し終えてから振り返ったとき視ることのできるもので、

《先回「虚栄vanitas」との共鳴や繋がりを指摘したこの絵(タブロー)、着飾り凍りついたように立ちつくす二人の人物の間に、当時の見方からすれば、技芸と科学の虚栄を思い出させるあらゆる物を配したこの魅惑的な絵(タブロー)、この絵(タブロー)の秘密が示されるのは、この絵(タブロー)から少し離れてもう一度振り返ったときだからです。そのとき、この浮かんでいる不思議な対象が何を意味しているかが解ります。この対象は髑髏という形で我われ自身の無を映し出すのです。》

 

 スラヴォイ・ジジェクは『ラカンはこう読め』で、『大使たち』の歪像(アナモルフォーシス)(anamorphose)に関連して論じる。

《この欲望の対象=原因の状態は、歪像(アナモルフォーシス)と同じ状態である。絵のある部分が、正面から見ると意味のない染みにしか見えないのに、見る場所を変えて斜めから見ると、見覚えのある物の輪郭が見えてくる。それが歪像だ。だがラカンの言わんとしていることはもっと過激だ。すなわち、欲望の対象=原因は、正面から見るとまったく見えず、斜めから見たときにはじめて何かの形が見えてくる。文学におけるその最も美しい例は、シェイクスピアの『リチャード二世』の中で、戦に出陣する不運な王を心配している女王を慰めようとする、家来ブッシーのセリフの中にある。

 

  悲しみは、ひとつの実体が二十の影をもっています。

  それは影にすぎないのに、悲しみそのもののように見えます。

  というのも、悲しみの眼は涙に曇っているため、

  ひとつの物がいくつもの物体に分かれて見えるのです。

  正面から見るとただの混沌しか見えないのに、

  斜めから見るとはっきりと形が見えてくる、

  そんな魔法の鏡のように、お妃さまも

  国王陛下のご出陣を斜めからご覧になっているので、

  実際には存在しない、悲しみの幻影を見てしまわれるのです。[第二幕第二場]

 

 これが<対象a>だ。それは物質としてのまとまりをもたない実体であり、それ自身は「ただの混沌」であって、主体の欲望と恐怖によって斜めにされた視点から見たときにはじめて明確な形をとる。「実際には存在しない幻影」として。<対象a>は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。絵画史における最も有名な歪像の例であるホルバインの『大使たち』の主題が死であったことを思い出そう。絵の下のほう、虚飾にみちた人物たちの間に長く延びている、染みのようなものを脇のほうから見ると、頭蓋骨が見えてくる。ブッシーの慰めの言葉は、後のほうのリチャードの独白と並べて読むことができる。リチャードはそこで、王冠の真ん中の空洞には<死神>がいるという。その<死神>は隠れた主人=道化で、それがわれわれに王を演じさせ、われわれの威厳を楽しみ、最後にはわれわれの膨れあがった体を針で刺して、われわれを無にしてしまう。

 

  死すべきひとりの人間にすぎない

  王のこめかみを取り巻いている中空の王冠の中では

  死神という道化師が支配権を握り、

  王の威厳を馬鹿にし、王の栄華を嘲笑っているのだ。

  束の間の時を与えて、一幕の芝居を演じさせる。

  王として君臨し、畏れられ、睨むだけで人を殺し、

  城壁のように命を守っているこの肉体が、

  難攻不落の金属の壁であるかのように思い込み、

  むなしいうぬぼれに膨れあがっていると、

  さんざんいい気分にさせておいた死神は、小さな針でその城壁に穴を開け、

  王よ、さらば、というしだいだ。[第三幕第二場]

 

 ふつうは以下のように言われる。すなわち、リチャードは、「王の二つの身体」(筆者註:「自然的身体」と「政治的身体」。「自然的身体」は普通の肉体のことで、衰え、過ちも犯す。「政治的身体」は不可視の抽象的身体で、愚行も失敗も犯さず、政体の持続性や威厳を代表する)の区別を受け入れること、そして王のカリスマを奪われたただの人間として生きることが、どうしてもできないでいるのだ、と。しかしこの劇の教訓は、この作業が、ごく簡単なように見えるが、じつは究極的には実行不可能だということである。簡単にいえば、リチャードは自分が王であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づきはじめる。しかし、この実体のない幽霊を追い払った後に、生身のわれわれという単純な現実が残るわけではない。つまり、カリスマの歪像と実体のある現実とを単純に対置することはできない。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、それは、王冠を譲り渡せというヘンリー(筆者註:のちのヘンリー4世)の要求に対して、要するに「私はそれをする『私』を知らない」と答えるときのリチャードの立場に他ならない。

 

  ヘンリー・ボリングブルック 王冠譲渡に同意されるのですね。

  王リチャード2世 ああ、いや。ない、いやある。私はもはや無にすぎぬ。

  だから「ない」はない。あなたに譲ることにしよう。

  さあ、よく見るがいい。私が私でなくなるさまを。

  私の頭から、この重い冠をとって、さしあげよう。

  私の手から、この厄介な錫杖をとって、さしあげよう。[第四幕第一場] 》

 

 1533年、ホルバインは『大使たち』を描きあげ、3年後の1536年のアンの斬首を「切れた絃」と「歪んだ髑髏」(そして左上に隠された「キリストの磔刑図」も)で予言した。

 300年後の1830年、ドニゼッティは『アンナ・ボレーナ』で予言を音楽と言葉で舞台化した。

 アンナは自分が王妃であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づいていた。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王妃の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王妃の王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、王冠を譲り渡せというヘンリー8世の要求に対して、「私はそれをする『私』を知らない」と答えた「王の二つの身体」のリチャード2世とは違っている。

 2011年、ウィーン歌劇場のプロダクション(演出エリック・ジェノヴェーズ)でネトレプコは、「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniquaの最後のハイを歌い終えながら黒髪をかきあげ、背を向けて段を上り、観客に頭を向けてあおむけに横たわると、自ら血を象徴するかのような赤いショールを首から頭にふわりと被せる。と、幼いエリザベス王女が奥から歩み寄り、上から斧の刃のような黒い扉がゆっくりと首のあたりに下りてきて幕となる。METのプロダクション(演出デイヴィッド・マクヴィカー)では、アンナが黒髪を巻いて力強い襟首を晒し、舞台奥で頭(こうべ)を垂らすというよりも、ぐいと差し出す。と、舞台上部に剣を持った処刑人の姿が現れて、赤い横断幕が舞うようにひらりと垂れ落ちる。

 アンナは、「私はそれをする『私』を知っていた」。

                                                                              (了)

         *****引用または参考文献*****

*『対訳 アンナ・ボレーナ』河原廣之訳(おぺら読本出版)

*『Donizetti: Anna Bolena [Blu-ray] 』Anna Netrebko、Elīna Garanča (Deutsche Grammophon)

*『Donizetti: Anna Bolena [HD] 』Anna Netrebko、Ekaterina Gubanova (MET)

*「METライブビューイング 《アンナ・ボレーナ》 インタビュー」

https://www.youtube.com/watch?v=Cj9anDe3doo

*Synopsis:Anna Bolena, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/anna-bolena

*Synopsis:Maria Stuarda, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/maria-stuarda

*Synopsis:Roberto Devereux, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/roberto-devereux

*”The Ambassadors” , Hans Holbein the Younger, ”The National Gallary” HP

https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/hans-holbein-the-younger-the-ambassadors

千足伸行「ホルバインの《大使たち》」(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))

*海津忠雄『ホルバインの生涯』(慶應大学出版会)

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

*香原斗志「これぞ究極の愛憎物語! 劇的すぎる英国王室の史話はオペラで楽しめる」(GQ)

https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200910-elisabeth

*グリエルモ・バルブラン、ブルーノ・ザノリーニ『ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品』高橋和恵訳(東成学園昭和音楽大学

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』小出浩之他訳(岩波書店

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め』鈴木晶訳(紀伊國屋書店

*フィリッパ・グレゴリー『ブーリン家の姉妹(上)(下)』加藤洋子訳(集英社文庫

石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』(中公新書

石井美樹子『薔薇の王朝 王妃たちの英国を旅する』(知恵の森文庫)

石井美樹子『図説 エリザベス1世』(ふくろうの本、河出書房新社

*指昭博編『ヘンリ8世の迷宮 イギリスのルネサンス君主』(昭和堂

*キャロリー・エリクソン『アン・ブリンの生涯』加藤弘和訳(芸立出版)

*ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール(上)(下)』宇佐川晶子訳(早川書房

*ヒラリー・マンテル『罪人を召し出せ』宇佐川晶子訳(早川書房

*エルンスト・H・カントローヴィチ『王の二つの身体』小林公訳(平凡社

大澤真幸『<世界史>の哲学 近世編』(講談社