文学批評/オペラ批評 シェイクスピア『オセロー』からヴェルディ『オテロ」へ――穢れ(アブジェクト)の忌避/浄化

 

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『オセロー』から『オテロ』へ、脱落するもの、それは穢れ(アブジェクト)である。かわって強化されたもの、それはロマンティシズムである。穢れ、おぞましさは、忌避/浄化される。

 

 作曲家ヴェルディと台本(リブレット)作者ボーイトの共作によるオペラ『オテロ』(1887年初演ミラノ・スカラ座)において、シェイクスピア『オセロー』(1604年初演ロンドン)の第一幕が省略され、その第二幕からオペラの幕が開くことに穢れの脱落が顕著に表れている。

(以下、『オセロー』、「オセロー」表記はシェイクスピアの戯曲と主人公を、『オテロ』、「オテロ」はヴェルディのオペラとタイトル・ロールを指す。オセロ/オセロー、シェイクスピアシェークスピア、イアーゴー/イアーゴ/イヤーゴー/ヤーゴ、デズデモーナ/デズデーモナなど表記に揺れがあるが、統一せず引用原典のままとした。)

                        

 加藤浩子は『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』の「第十四章 シェイクスピアが開いた新しい道――晩期作品」で、《《オテッロ》および《フォルスタッフ》。アッリッゴ・ボーイトという優秀な台本作者を得て、生涯の目標だったシェイクスピア作品のオペラ化を《マクベス》以来四十年ぶりに実現。劇と音楽が徹底的に連動したドラマティックなオペラを創り、イタリア・オペラのひとつの頂点を築いた》とし、『オテロ』は、《かつてヴェルディがオペラ化を考えた『リア王』に比べれば短く、シンプルで、オペラ化しやすい題材でもあった。オペラ化に当たってヴェルディとボーイトは、内容や登場人物をさらに切り詰めて簡潔にし、人物に関しては象徴化に近いことまでしている。五幕で構成されている原作の第一幕はカットされ、重要人物のひとりだったデスデーモナの父ブラバンショーも削られた。さらに作者たちは、「天使」のようなデスデーモナ、「悪魔」のようなヤーゴを強調するために性格的なソロを書き加えている(ヤーゴの<クレード>と、デスデーモナの<アヴェ・マリア>)。それゆえ、本作が、ヴェルディが口にしていた「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところだろう》と書いている。

 また島田雅彦は『オペラ・シンドローム』の「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」で、《私はロッシーニ的な、スーパーフラットに登場人物が書き割りされる能天気な作品にも魅力を感じます。でも、やはり陰影の濃い人物像が表現されるロマンチックな作品、とりわけ『オテロ』に心が躍ります。それは、たんに複雑な物語だからよいという理由からではありません。シェイクスピアの原作は言葉の洪水であり、その言葉数の多さによって、複雑な人間の心理を観客に伝達しました。音響効果も照明効果もなかったころの芝居ですから、それは当然です。しかし、オペラでは、言葉を八割がた削り、そのぶんの描写は音楽が請け負ってきた。つまり、オペラの構造の柱となるのは物語だとしても、そこに音楽的リアリティが十分に組み合わされなければ、物語は伝わらないのです。

 たとえば第一幕のラストで、夫婦の愛が高らかに歌われつつも、どこか不安が観客の胸に募ってくるのは、セリフとはべつのニュアンスが音楽を通して伝わってくるからに他なりません。あるいは、イアーゴが巧みな口車を弄(ろう)しても、音楽がそれを嘘だと告げている。物語の流れや、個々のキャラクターも、音楽の起伏がシミュレーションしていくのです。そうした、矛盾しあうダブル、トリプルのメッセージを発信できること。これがオペラのメリットであり、最大の魅力です。それを改めて気づかせてくれたのが、『オテロ』という作品なのです》と書いた。

 加藤と島田の意見には賛成だが、オペラ化によってシェイクスピア劇のかなりの部分が削ぎ落とされてしまったのもまた事実で、の最も象徴的な「穢れ」の忌避と浄化を考察してゆきたい。

 

 ここで、穢れ、おぞましさというアブジェクト(abject)は、クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』の、《おぞましきものに化するのは、清潔とか健康の欠如ではない。同一性、体系、秩序を攪乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両義的なもの、混ぜ合わせである。言い換えれば、良心にあふれた裏切者や嘘つきや犯罪者、人助けだと言い張る破廉恥な強姦者や殺人者……。およそどんな犯罪でも、法の脆さを目立たせるので、アブジェクトとなる。だが計画的な犯罪、狡猾な殺人、偽善に満ちた復讐はなおさら法の脆さを人前に晒すために、より一層アブジェクトである》、《おぞましきもの(アブジェクト)は倒錯[頽廃]と類縁関係をもっており、私が抱くおぞましさ(アブジェクション)の感情には超自我に根差している。アブジェクトは倒錯的[頽廃的]だ。なぜならそれは禁止や法則や掟に見切りをつけることも引き受けることもせずに、その向きを変え、道を誤らせ、堕落させるからである》にはイアーゴーの姿が重ね合わさるが、それだけではすまない。

 

<『オセロー』第一幕の削除>

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕は三場からなる。場所はヴェニス

 ヴェニス公国に仕える北アフリカ出身のムーア人傭兵将軍オセローは、元老院議員ブラバンショーの娘デズデモーナと愛し合い、ひそかに結婚する。オセロの旗手を務めるイアーゴーは、オセローが自分を差し置いてキャシオーを副官にしたことや、妻エミーリアを寝取った噂があることなどからオセローに恨みを持っていた。イアーゴーはデズデモーナに片思いを寄せていたロダリーゴーをそそのかし、一緒にブラバンショーの自宅に来て押し寄せ、露骨で卑猥な言葉で告げ口する。

 おりしもトルコ海軍が、ヴェニス公国領のキプロス(サイプラス)島を侵略したとの知らせを受けて、ヴェニス元老院では議員たちが深夜の会議を開いていた。ブラバンショーは、オセローを連れてその場に駆けつけ、娘のデズデモーナをたぶらかしたオセローの罪を裁いてくれるよう申し出る。トルコ軍に対抗するにはオセローの指揮を必要とするヴェニスの支配階級はオセローを断罪することをためらう。魔法によって娘を惑わしたに違いないと非難するブラバンショーに対して、オセローは歴戦の冒険譚を語ることでデズデモーナの愛を得たと雄弁に語り、イアーゴーに連れて来られたデズデモーナも、オセローへの愛を証言すると、フラバンショーも諦め、結婚を認めるしかなかった。

 キプロス島行きを命じられたオセローに、デズデモーナも同行を願い、ヴェニス大公たちも戦地への妻の同伴を認めた。ロダリーゴーは失望するが、人種、年齢(オセローは四十歳近く、デズデモーナは恐らく十代)、出自、育ちも違う二人が続くはずがない、とイアーゴーに説得されてキプロス島へ向かう。

 

『オセロー』第一幕をオペラでカットした意味あいには次のようなもの考察がある。

 シュテファン・クンツェ「英雄の没落」から。

《たとえば、イアーゴーの側からすれば、身をもって味わわねばならなかった冷遇(オテロが自分の女房を寝とったのではないか、という疑いは払拭されることがなかった)、オテロの側からすれば、デズデモーナを誘惑しかどわかしたがために背負いこむことになった罪、はてまたデズデモーナの側からは、父親ブラバンショ―を欺いたこと、つまりは彼女の不幸な頑固さ、これらがその動機となる。シェークスピアは、何といっても、以上の動機や人間関係をくり広げるために、ヴェネツィアを背景とする第1幕をまるごと必要としたのだ。芝居において重要でありながら、オペラにおいてはまったく表に出てこない動機は、オテロアウトサイダーであった、ということである。オテロはその膚の色ゆえに蔑視される成上り者であり、結果として彼は不信に傾く。そのうえ、オテロとデズデモーナは、すでにその年齢の差からして不釣合な組合せなのである(第2幕、四重唱を見よ)。これらすべては、オペラでは副次的な意味しかもっていない。ボーイトとヴェルディが、シェークスピアの第1幕を削除したのも、偶然のことではないのだ。オペラは、シェークスピアの第2幕から始まる。残ったのは、結局のところ、イアーゴーのずる賢く悪魔的な態度と、オテロの破滅である。オテロ、あるいはデズデモーナの測ることのできる罪は――今上に挙げたモティーフはすべていっしょに響き合っているにもかかわらず――まじめにとりあげられず、イアーゴーの筋の通った動機もまたしかりである。》

 

 エドガー・イステル「ヴェルディシェークスピアの《オテロ》」(1917年)から。

《前史が簡単であればあるほど、導入部が短ければ短いほど、ひとつの題材が音楽的(・・・)表現にとって価値あるものとなるのだ。そしてまたここにひとつ、シェークスピアの作品は五幕だが、第1幕以外はいずれの幕も不可欠である、という事情が加わってくる。じっさいこの第1幕のさまざまな事件が切り離されてみると、五幕物のオペラにだんだん耐えられなくなっているわれわれの感性にとっては、この幕を削除することの絶対的必要性が既定のものとなってしまう――もちろん、導入部のきわめて重要なポイントを取り出し、つづく幕のうちへとうまくそれらを有機的に編み入れてゆくことがその前提である。これを成しとげうるのは作劇法を踏まえた第一級の劇作品であるだろうが、ボーイトはじっさいにそれをやってのけたのだ。ボーイトはハンスリックに一度こう語ったという(《音楽写生帳》)。「自分の頭とヴェルディの頭を悩まして、オペラを長くすることなしに、シェークスピアのこの第1幕をどうやって救済すべきかを考えた」(原註:ヴェルディは1889年3月11日、ロンドンにいるボーイトにあてて次のような手紙を書き送った。このオペラを作った者たちはシェークスピアの祖国において、第1幕を削除したことで避難されるでしょう。(筆者註:ロンドン初演は1889年7月4日、リュケイオス劇場))。(中略)

 第1幕を削除した結果、公爵、ブラバンショー、グラシアーノ、そして二人の議員が消えてしまった。これらのうちシェークスピアにおいてあとでふたたび現れるのはグラシアーノだけであるが、ボーイトは、シェークスピアにおいてヴェネツィアの使者として重要な役割を演じるロドヴィーコとこのグラシアーノをじつに効果的に一体化する。(中略)こうして、ボーイトの台本においては、オテロの結婚の前史や家族の反対(これはすでにジラルディの話(筆者註:種本になった1565年ヴェニス刊のジラルディ・チンティオ『百話集』)で述べられていた)について、デズデモーナがオテロを愛したのはその冒険譚のゆえであり、逆にオテロは同情ゆえにデズデモーナを愛するようになったということしか知らされないことになる。つまり<罪>、父親に対してデズデモーナが背負いこんだ<罪>、そしてイアーゴの復讐の根拠のうちでひとつの役割を果すことになる<罪>(筆者註:妻エミーリアがオテロと同衾したとの噂を指すであろう)もまた完全に省かれている。デズデモーナはシェークスピアにおけるよりもさらに汚れなき者として現れ、真の天使となり、この天使に対置させられるのがイアーゴに現れる人間の姿をした悪魔(たとえばたんに悪魔的人間というのでなく)なのである。このようにしてボーイトはまたイアーゴをも無傷のままに救い出し、シェークスピアにあるいくぶんか安っぽい仕返しは放棄する。悲劇の登場人物の性格はそのままに保たれているが、エミーリアだけは例外で、上品になって現れてくる。》

 

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕には喜劇的要素(ロマンティック・コメディ)があり、若い恋人たちに叩き起こされる老父といったコメディア・デラルテの伝統や、ミハイル・バフチンラブレー的祝祭(カルニバル)、「グロテスク」が溢れ返っているから、削除によって他にもイアーゴーのスカトロジー、猥褻さが薄まっている。

 

<『シェイクスピアはわれらの同時代人』>

 ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』の「『オセロー』の二つの逆説」は鋭い指摘が多く、とくに戯曲にあってオペラに欠落するものをみれば、ヴェルディのオペラがいかに「穢れ」を忌避/浄化させたかがわかる。

 ただし、コットの『オセロー』論はシェイクスピアの演劇論であり、オペラに対する理解、関心は心もとない。また、デズデモーナのハンカチに対する探究が欠落している。ハンカチに関しては後述するとして、オペラ理解の不十分さは次のような記述から推定される。

 コットは、《オペラの第二幕では、キプロスの島民たちのコーラスがデズデモーナをたたえて歌う。また第三幕のフィナーレにはバレーの踊り手たちを含む全登場人物が現われる。シェイクスピアの全作品の中で、『オセロー』は大がかりな上演に最も適していた。この嫉妬深い東洋人についてのバレー付きオペラは、しだいに歴史的スペクタクルとして上演されるようになり、舞台上のヴェニスは《ほんもののように》されるのであった。》と書いているが、第三幕のバレー場面は、1894年のパリ・オペラ座でのフランス語初演のために、バレー付のグランド・オペラを好むフランスの観客のためにヴェルディが作曲して特別に加えたもので、今でもまずは上演、演出されない。また、オペラでは戯曲第一幕のヴェニスの場面は上演されないので、ボーイトが拘った舞台上の場所の一致、キプロス島の場面だけである。

 

 ヤン・コットの論考は次の文章で始まる。

《『オセロー』という劇にはわれわれ現代人にとって不快なところがたくさんある。》

 これこそが、シェイクスピア『オセロー』の本質である。正しくは『ヴェニスムーア人オセローの悲劇(The Tragedie of Othello,the Moore of Venice)』との題名を持つこの劇は、白/黒、男/女、上/下、規範/逸脱、キリスト教/回教(ムーア人、トルコ)、淑女/娼婦、貴族階級/軍人、異性愛/同性愛、内部/外部といった、現代まで続く歴史的で普遍的な二項対立の不快さに満ちている。

 ただし「不快」という感想は月並でもある。漱石は「作物の批評」で、《オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。(今はその理由を説明する余地がないから略す)もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合(そうごう)と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際(てぎわ)がある。読者はそれを見ればいい。》と言っている。

 問題は、「不快」「不愉快」を、戯曲からオペラを作るにあたって、いかに処理したのかであり、そこに逆説的に「不快」の回避の本質が透けてくる。

 

《この舞台の上では『ハムレット』や『リア王』の場合のように、世界の関節が外れ、混沌が戻り、自然の秩序そのものがおびやかされるのである。》

 オペラでは関節が嵌められ、混沌はなく、自然の秩序が乱れることはない。そうでなければ、物語の流れをたやすく理解して心地良く音楽に身を委ねることがかなわない。

 

<イアーゴーの注釈/獣性/ひきがえる/蝿>

《イアーゴーは批評家たちにとってはいつも最も厄介な存在であった。ロマン派の批評家たちにとっては、彼は要するに悪の天才なのであった。だがメフィストフェレスといえども、その行動には理由がなければならない。とりわけ劇場ではそうだ。イアーゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。イアーゴーはまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。この点についてコールリッジの「無動機の悪意についての動機捜し」という言葉は急所を突いている。妨げられた野望、自分の妻についての嫉妬、デズデモーナについての嫉妬。あらゆる男や女についての嫉妬、――こんなふうに彼の憎悪はたえずそれをふくらませる餌にうえており、けっして満たされることがない。(中略)

 悪魔的なイアーゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。》

 台本作者ボーイトは「《オテロ》登場人物の注釈」を書きとめていて、中でもイアーゴーとデズデモーナに関する注釈が興味深い。イアーゴーについて、《この邪悪な力を演じようと取り組む出演者がつい陥りやすい、ひどい間違い、いちばん安易な思い違いは、イアーゴを人間の形をした悪魔と想定し、メフィストファレス的な仮面をつけさせ、サタンの目付きをさせてしまうことだ。そのような演者は、シェークスピアもこのオペラも、どちらも理解していないということを立証しているようなものだ。イアーゴの言葉はどれもひとりの人間から――不逞のやからではあるが、ともかくひとりの人間から――発せられるのだ》と演者に注意を与えているにも関わらず、彼が造形したオペラのイアーゴーはマキャベリ主義者でもユダでもなく「悪魔」に昇華している。また、デズデモーナへの注釈で、《決して色目を使わぬこと、胴体と腕を使った身振りをしないこと、大股でそっくり返って歩かないこと、いわゆる<効果(うけ) Wirkungen>を追い求めないこと》と書いているが、こちらは台本の目論見どおりに、聖母マリアから天使になるよう指示している。

 

《オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉といっしょに崩壊してゆく。というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。それは、イアーゴーのものだ。イアーゴーの台詞の意味論的世界において際立っているのは、物や動物の名で嫌悪や恐怖や不快感を起こすものが、挑発的な言葉や重要な手がかりになる言葉として使われていることである。イアーゴーの台詞には、にかわ、餌、網、毒、薬、浣腸、ピッチや硫黄、悪疫といったものが出てくる。(中略)

 これよりもさらに際立っているのは、イアーゴーの台詞に現われる獣性への言及だ。たとえば、弱く無力な動物(「身投げだと! そいつは猫や盲の子犬に任せておきな!」(第一幕第三場)、愚かさや醜さの象徴ないし寓話としての動物(めんどり、ひひ)、肉欲や好色の象徴として(「……山羊のように好色で、猿のように淫乱で、さかりのついた狼のように催していて」(第三幕第三場)といった例がある。(中略)

 今やオセローは、女郎買いや繁殖、火や硫黄、紐、ナイフ、毒といったことをあげて、のべつ幕なしにわめくことになる。彼はイアーゴーと同じように獣性に関する言葉を使うのだ。(中略)彼はイアーゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。それはあたかも、彼自身が猿や山羊や雑種犬やさかりのついた雌犬などのイメージをほんの片時もふり切ることができないかのようだ。「……おれを山羊ととりかえる」と彼はいう。(第三幕第三場) 威儀を正してロドヴィーコを迎えている時でさえ、彼は自らをおさえることができない――「サイプラスへようこそ。山羊や猿同然だ!」(第四幕第一場)(中略)

リア王』には虎やはげたかのようや猪のように堂々たる猛獣が現われる。『オセロー』に現われるのは爬虫類や昆虫だ。この悲劇の事件は、少なくとも激情で時を計るかぎり、長い二夜の間に起こる。主要人物たちがしだいに奥深く吸い込まれてゆくこの劇の内的風景は――すなわち、彼らの夢や性的固定観念や恐怖の中に現われる風景は――闇の風景なのである。太陽も星も月も見えぬ大地、蜘蛛やとかげや蛙がたくさんいる土牢――そういう風景である。

    ……おれはいっそひきがえるになって、土牢の湿気を吸って生きていたい。(第三幕第三場)

 さらにまた――

    その泉、おれの命の流れを豊かにするもからすもただその泉のまま、そこから投げ出されてしまうのか、それともそこを汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまりにしておくのか。(第四幕第二場)》

 好色な女性を表現するのに、「膣に張り付くひきがえる」「膣に食らいつくひきがえる」といった好色、色欲を暗示する図像がある。オペラにこのような人間を貶める不快感、嫌悪感に満ちた身の毛もよだつおぞましい比喩表現の歌詞はなく、清潔に漂白されている。

                                                                         

《   こちとらの網は小さいが、生捕りにするのはキャシオーという大きな蝿さ。(第二幕第一場)

 これはこの悲劇の中でいちばん意味深長なイメージである。蝿と蜘蛛、蜘蛛と蝿。キャシオーもロダリーゴもオセローも、イアーゴーにとってはみな蠅である。大小の差はあっても要するに蝿だ。白いデズデモーナもまた、黒い蝿になってしまうのである。オセローはイアーゴーのもっている固定観念をすべて引き継ぐのである。

   デズデモーナ 私の貞潔はおわかりでしょうね。

   オセロー ああ、わかっている、屠殺場の蝿さながら、卵を生んだらたちまちはらむ、そんな貞潔ぶりだ。(第四幕第二場)》

 

「蝿」について、河合祥一郎は『新訳 オセロー』の「訳者あとがき」で「穢れ」に絡めて解説している。

《オセローは、デズデモーナを「美しい本」「純白の紙」などと形容する一方で、彼女が犯したとされる罪の穢れを蛙や蝿を引き合いに出して糾弾する。そのとき「夏の屠畜場の蝿」という表現が出てくるが、これに対しても注釈が必要だろう。肉食の歴史の長いイングランドにおいて、食肉の小売販売をする「肉屋」(butcher)という語には「動物を屠(ほふ)る者」の意味もあった。肉を売るものは自ら食肉解体作業を行っていたのである。特別な設備などはなく、戸外で行うために、特に夏場は蝿が群がった。その蝿に対する嫌悪感を表明しているのである。

 当時の衛生事情は劣悪であった。下水設備も整備されておらず、排便にはおまるが用いられ、その中身の処分もいい加減で、家の外にまき散らすことすらあったという。ロンドンの街には蝿やネズミや蚤(のみ)が繁殖し、ペストが蔓延して、膨大な数のロンドン市民がばたばたと倒れていた。「穢れ」に対する恐怖や憎悪は、命に関わるものとして今日より遙かに切実であったことは想像に難くない。

 白いデズデモーナの美しさは外見だけのもので、なかは穢れて腐っているのだと思い込んだオセローの心のなかに、当時の悪臭を放つ穢れの強烈なイメージが入り込むのである。》

 

<穢れたデズデモーナ>

《彼女は登場する前からすでに人々の話題になっている。彼女は黒人と駆け落ちしたと皆が叫んでいる。ここですでにこの女のイメージは動物的なエロティシズムの世界において示されているのである――

    ……年とった黒い雄羊が、お宅の白い雌羊の上に乗っかってますぜ。(第一幕第一場)

『オセロー』の導入部は荒々しいものである。イアーゴーとロダリーゴーはブラバンシオーを怒らせようとしている。だがこれだけでは、動物の比喩があれほどしつこく使われることは説明できない。こういう比喩は明らかに意図して使われているのだ。オセローとデズデモーナが結ばれるのは、最初から動物の交尾として表現される。

    ……お宅ではお嬢さんにアフリカ産の馬を乗っからせるんですな。お孫さんにはいななくやつ、親類縁者には駿馬や子馬がほしいんですな。(第一幕第一場)

 オセローは黒く、デズデモーナは白い。ヴィクトル・ユゴーは、先に引用した一節の中で、黒と白、昼と夜の対照のもつ象徴性について書いていた。だがシェイクスピアはロマン派の詩人たちよりも具体的であった――もっと物質的であり肉体的であった。『オセロー』に現われる肉体は苦しめられるだけでなく、互いに惹きつけ合いもするのである。

    ……お宅のお嬢さんとムーアとが、背中の二つある獣になってるところだ。(第一幕第一場)

 白と黒と二つの背中をもった獣というイメージは、性行為の表現としては、およそ荒々しく激しいものである。だが同時にここには現代的なエロティシズムの雰囲気が漂っている。すなわち純粋な動物性への憧れや、性的タブーの打破や、あらゆる変態行為への執着がこの劇にもある。そしてこういう特徴をもつ現代的エロティシズムの世界が、これほどしばしば黒と白の関係を軸にしているのは当然である。》

 差別問題はオペラでも「回教徒」「ムーア人」という台詞が単発的な単語として語られはするが、「野蛮人の分厚い唇」(第一幕第一場)という台詞以外はあからさまな侮蔑、肉体性に乏しく、まして交尾する動物の比喩などない(せいぜいが、第二幕第五場のオテロ「とぐろを巻きつつ、蛇は私にからみついている」と、第三幕第五場のイアーゴ「こは蜘蛛の巣、そこにお前の心は落ちては嘆き、捕われては死ぬる」だがありふれた比喩に過ぎない)。

 また、ヴェルディが「父と娘」というテーマに拘ったのは有名で、『シモン・ボッカネグラ』『リゴレット』『ルイーザ・ミラー』、そして『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』(フィナーレで、今際の際のヴィオレッタに恋人アルフレードの父ジェルモンが「娘のあなたを胸に抱くために来たのです」と約束を果たす)に容易に見てとれるが、ヴェルディはオペラ『オテロ』ではデズデモーナの父ブラバンショーを抹消することで、見事なまでに「父と娘」のテーマを消した(斜め裏返しに見ると、シェイクスピア劇にもオペラにも「母の不在」が顕著だ)。

 

《ハイネは、デズデモーナが湿った手をしているという点を気にしていた。彼は、湿った手をした女は多情だとイアーゴーが考えたのはおそらくある程度正しかったのだと思って、悲しくなったことがあると書いている。(中略)

 デズデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっているが、一方、男という男は――イアーゴーもキャシオーもロダリーゴーも――デズデモーナのとりこになっているのである。彼らはこの女が発散させる官能的雰囲気の中にとどまっているのだ。

   (イアーゴー)……あの女が飲む葡萄酒といえども、要するにただの葡萄酒でできているだけさ。もしあれが祝福された女なら、ムーアになど惚れるわけがないよ。……キャシオーの手のひらをいじくりまわしてたのを見なかったのかい。……二人とも唇を近づけてたから、息と息とが抱き合うほどだったぜ。(第二幕第一場)》

 戯曲『オセロー』では、デズデモーナの湿った手は、オセローがデズデモーナに、ハンカチはどこにやった、母親がエジプトの女から貰ったもので魔法が織り込んである、と告げる直前に現われる(第三幕第四場)。

デズデモーナ 御気分はよろしくて?

オセロー 大丈夫だ。(傍白)心を偽るのは、こうもつらいものか! デズデモーナ、おまえは?

デズデモーナ 元気でしてよ。

オセロー 手を。掌(てのひら)が湿っているな。

デズデモーナ まだ若いのですもの、それに憂いも知りませんし。

オセロー 気前がよく、ものにこだわらぬ気質を現しているのだ、温い、温くて、そして湿っている。この様子では、人を遠ざけて内に籠(こも)り、精進潔斎、断食苦行、ひたすら神の御前に祈り勤めねばなるまい。それ、ここに年若い多情の悪魔がひそんでいる、そいつが往々謀叛を起すのだ。いい手をしている。人見知りをしない手だ。》

 穢れを感じさせない表現だからか、オペラ『オテロ』でもデズデモーナの湿った手が、同じ状況設定で登場する。

デズデーモナ 気が晴れていらっしゃいますの、私の心の気高き夫よ。

オテロ ありがとう、妻よ、お前の象牙のように白い手をお寄こし。

しっとりとしたあたたかさが甘美な美しさを滲ませているね。

デズデーモナ この女はまだ苦しみの跡も、歳の轍(わだち)も知らないのですわ。

オテロ だが、ここには無分別なおとなしい悪魔が巣くうているのだ、

そいつが愛らしい象牙のような小さな爪を輝かしているのだ。

やさしい態度で祈ったり、敬虔な情熱を示したりしながら……》(第三幕第二場)

 ハンカチに関して後に詳述するが、女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出すことをデズデモーナの不貞にからめて仄めかしている。

 

「湿った手」のように、表層的には穢れを感じさせず、ドラマ上はひとつのクライマックスである(観客の覗き見、盗み聞き欲望を満足される)ことからオペラでも残った場面として、オセローがイアーゴーの手引きで、キャシオーがハンカチを持っているという不貞の確証を得る第三幕第四/五場(劇では第四幕第一場)がある。

 イステルの解説を引用すれば、《最初は大きな声でデズデモーナのことを、次に小声でビアンカ(筆者註:キャシーの愛人で娼婦。劇ではこの場面に登場するが、オペラでは会話の話題にのぼるだけで顔を見せない処理が施されているから、煩くはならない代わりに、デズデモーナがオセローから罵られた「娼婦」問題の不徹底さともなる)のことを話すというイアーゴの策略も同じである。ハンカチの話はしかしシェークスピアよりもはるかにうまく構想されている。ビアンカのことは完全に覗き、ハンカチの模様を写しとるという小説的モティーフも同様に省かれる。イアーゴはこっそりとカッシオのところにハンカチを置いておき、カッシオは何も知らずにそれをイアーゴに見せる。イアーゴは様子をうかがうオテロの眼に当然はいるような位置にハンカチをもちあげる。オテロはこっそりと近づき、柱の陰からごく間近に見て、それが自分の与えたハンカチであることを確信する。元大尉のカッシオが新しい恋人を手に入れることについてイアーゴが口にする戯れ言葉、そしてカッシオのうわついた笑い、それらがオテロの怒りをさらに増す。》

 しかし、覗き見、窃視は観客にとっても心地良い穢れなだけで、穢れが窃視と緊密なことは、いみじくもクリステヴァが指摘している。《恐怖症はしばしば窃視症へと脱線してゆく。窃視症は対象関係の構成にとって構造的に不可欠であり、対象がアブジェクトの方向へ揺れ動いてゆくたびに現われる。それが真の意味の倒錯となるのは、主体/客体の不安定さを象徴化する作業に失敗した場合に限られる。窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である。》

 なお、この場面には、オセローが窃視、盗聴から「不貞」「証拠」の記号を次々と綴じてゆく、臨場感に満ちたラカンの「クッションの綴じ目」的な面白さがある。つまりクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によってただのつまらぬ会話が「不貞の証拠」に再構造化される。偶発的な痕跡を意味づけながら、特定の意味(ここでは「不貞」「証拠」)で構造化しなおすのである(筆者註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。クッションの綴じ目は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。ここでは、現実はイアーゴとカッシオの戯れ言葉、うわついた笑い、ボタンは不貞、証拠)。

 

<「かつてアレッポで」>

《オセローはデズデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。彼はデズデモーナを殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。その結果、善悪の結着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである、もはやオセローは口の中でものをいうような煮え切らないことはしない。彼は必死になって人生の――彼の人生の――意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

    それからまたこのこともお伝えを、かつてアレッポで、ターバンを巻いたトルコ人が、不当にもヴェニスの市民に手をかけ、御政体を悪しざまに申しました時、私はこの外道の犬めののど首をつかみ、打ちすえてやったのです――これ、こんなふうに(第五幕第二場)》

『オセロー』原文をもう少し遡ってみよう。

オセロー ……ただどうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずしえ愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。それ、話にもあること、無知なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴(しずく)ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、潸然(さんぜん)と涙を流していたと、そう書いていただきたい――それからもう一言、いつであったか、アレッポの町で、ターバンを巻いたトルコの不頼漢が、ヴェニス人に暴行を働き、この国に悪罵の限りを尽しているのを見かけたことがあるが、そのとき、この手で、その外道の犬(circumcised dog)の咽喉(のど)もとを引きつかみ、こうして刺し殺してやったと。(みずからを刺す)》(circumcised dog :ユダヤ人と回教徒のトルコ人は「割礼(circumcision)」を受けるので、ここではトルコ人を割礼を受けた「外道の犬」と呼んだ)

 この一節は『オテロ』では完全に欠落している。オセローの自己の意義付、物語化、当時の政治・宗教的正義感、偏見、「割礼された犬」であるトルコ/ユダヤ/ムーア(さらにはインディアン)という「他者」の排除。最後に、本来は偏見によって排除される「他者」のはずなのに内部に変質、混合したオセローは、混濁した自分を刺すことで、己に割礼を施す。メビウスの輪のように捩れたオセローに、観客は己も捩れた意識も持主、存在ではないかと思い当たる。婚礼の衣裳のシーツが、黒人の割礼の血によって苺のような赤い血で染まり、白人の女の経帷子となる、という「不快さ」。

 T・S・エリオットはこの台詞を引用して、《私には、オセロがこの台詞で自分を元気付けよう(・・・・・・)としているのだとしか思えない。彼は現実から逃れたいので、この時はもうデズデモナのことは忘れて自分のことだけを考えているのである。人間の美徳の中で、謙譲ということが一番達し難いものなのであり、自分のことをよく思いたいという欲望ぐらい、根強いものはない。それでオセロは、倫理的ではなくて美的(・・)な態度を取り、その時の環境に基いて芝居をすることで自分を悲壮な人物に仕立てているのである》と論じたが、「かつてアレッポで……」と語り自刃するオセローの姿には、クリステヴァの、《アブジェクト[唾棄すべき、おぞましきもの]が主体を要請すると同時に粉砕もするのが事実なら、主体が自己の外に自分を認知しようとする空しい試みに疲れはて、自分自身のうちに不可能性を発見する場合に、言い換えれば、主体が自分自身アブジェクト以外ではありえぬ(・・・・)のを発見して、不可能性とは自分の存在(そんざい)そのものであるのを悟る場合に、アブジェクトは最高度に経験されることが分かる。自己のアブジェクション[棄却行為、おぞましさ]とは、主体のある経験、つまり彼の対象がことごとく、彼の固有な存在の基礎となっている発端の喪失にしか根拠を置いていないことが主体に暴露されるような、そういった経験の最高の形態なのであろう》が重なる。

 八割がた削られたシェイクスピアの台詞の複雑さには、ナボコフの短編小説『いつかアレッポで』(『かつてアレッポで』)の多重に錯綜した味わい、という文学の核心があったが、オペラでは多層化を嫌い夾雑物に過ぎないと削除された。

 

<デズデモーナの白いハンカチ>

 十七世紀の終りに、イギリスの批評家トマス・ライマーが『悲劇管見』(1693年)で、《この劇の教訓は確かに非常にためになるものである。第一にこれは、あらゆる良家の子女に対して、両親の許しもえずに黒人のもとへ走ったりするとどんなことになるか、警告を与えるものである。第二にこれは世の良妻すべてに対して、ハンカチによく気をつけるようにという注意を発している。第三にこれは世の夫たちに、悲劇を生むような嫉妬をいだく前に、科学的な証拠をつかめと教えている。……だが悲劇的な部分は、味も香もない血なまぐさい笑劇以外の何ものでもない》と揶揄し、「ハンカチの悲劇(the Tragedy of the Handkerchief)」と一笑に付したのはよく知られている。

 

 まず、デズデモーナのハンカチが、シェイクスピア『オセロー』でどのように登場するかを見ておく。

イアーゴー ……ただお伺いしておきたいことが一つ、お気づきにならなかったでしょうか、苺の模様のあるハンカチーフ(a handkerchief Spotted with strawberries)をよく奥様がお使いになっているのを?

オセロー それなら、おれがやったやつだ、初めての贈物がそれだった。

イアーゴー  そこまではぞんじません。ただそのハンカチーフが――あれは確かに奥様のものに違いありません――実はそれで、きょうキャシオーが髯(ひげ)を拭いているのを見たのです。》(第三幕第三場)

 

(以下は、石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」論による(引用に際しては適宜、簡略化した)。)

聖母マリアと処女王エリザベス>

 そもそも、白いハンカチの象徴するものは何だったのか。

ルネサンス期のフランドルの絵画「受胎告知」のなかに、錫製のケトルや手洗い盆の横に、リネンのタオルが描きこまれている作品がある(例・祭壇画「受胎告知」の中央、一四二五~一四三〇年、ロベルト・カンピン作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵/三翼の祭壇画「犠牲の子羊」の左翼背後の「受胎告知」。一四三二年、ヴァン・エイク作、ゲント、サン・パヴィオン大聖堂蔵)。

「受胎告知」のなかの真白なリネンのタオルは、水差しやケトルの水で手を清めたあと、手を拭くための日用品であるが、罪なくして子をみごもり、罪なくして子を出産した聖母マリアの処女性、純潔を象徴している。出産後、聖母マリアは、生まれたばかりの赤子を白いリネンでくるみ、授乳する。さらに、ふっくらとした幼児に成長したイエスを抱き授乳する聖母マリアの膝にしばしば白いリネンが広げられている。(例・「聖母子の肖像を描くルカ」、一四五〇年頃、ロヒール・ヴァン・ウェイデン作、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵/「聖ヨセフのいる聖家族」、一五一三年頃、ヨース・ヴァン・クレーヴ作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)。聖母の処女性と純潔を象徴する白いリネンは、赤子を包む布となり、授乳のときの布になり、十字架にかけられた命を断たれたイエスの遺骸を包む聖骸布となる。白い布で覆われたマリアの膝は、白い布で覆われた祭壇にほかならず、ここには、ミサの聖体拝領が暗示されているという。》

 

エリザベス女王の側近たちが誇らしげに見せびらかす白いハンカチはエリザベス女王のエンブレムのようだ。詩人たちが処女王を賛美する恋愛詩を書いて女王に捧げたように、画家が聖母マリアのシンボルを女王の肖像画に描きこみ女王への崇敬の念を表わしたように、女王の臣下たちは白いハンカチを持つ自分の肖像画を描かせて処女王を賛美し、女王への忠誠を誓っているのであろう。エリザベスは年齢を経るごとに、結婚から遠ざかるほどに、真珠やサファイヤや不死鳥やペリカンや太陽といった聖母マリアのシンボルを自分の肖像画にちりばめ、ヴァージン・クイーン、処女王としてのイメージを強めてゆく。女王の肖像画のなかで、女王に添えられたモノ、女王が手にするモノは女王のシンボルである。(中略)プロテスタントの信仰を国教としたイギリスから聖母像は姿を消したが、エリザベス女王は聖母の象徴を肖像画に描き込ませ、聖母像の喪失で空虚になった人民の心のなかに、聖母マリアの成り代わりとして入りこみ、かつて聖母が信者に熱愛されたように、国民の敬愛を集めようとした。(中略)聖母マリアのシンボルはエリザベス女王のなかで生き続けており、貴族たちのみならず、民衆もまた、白いハンカチが処女王エリザベスを象徴していることを知っていたのだ。このイメージ作戦は成功し、処女王の伝説が広く宣伝され、統治のための最高の策となった。》

《ハンカチは一五三〇年頃にはじめてイギリスにおめみえし、エリザベス女王の時代に大流行した。ハンカチは結婚や婚約に際して、しばしば男性から女性に贈られた。(中略)エリザベス女王時代のハンカチは入念に織り上げられた生地に繊細な刺繍がほどこされ、ときには真珠などの宝石が縫い込まれた高級品である。ロンドンのヴィクトリア・アルバート博物館には、一六〇〇年頃の、縁が絹糸で刺繍され、その縁がさらに銀糸のボビン・レースで縁どりされた白いリネンのハンカチが所蔵されている。》

 

<漏れやすい女性の身体>

《ハンカチには処女性や清らかさと反対の意味も含まれていた。ハンカチは身体から出る汗、鼻汁、血液などをぬぐう機能を持つ。女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出す。「女性の身体は液体が漏れやすく」、したがって女性は信頼できないとする社会通念がまかりとおり、女性はさまざまな恥ずべき液体を身体から漏らし、女性はそれを制御できない、そのために一族の家系や地位や名誉を傷つける危険な存在になりかねないと考えられていた。》

 デズデモーナの不貞を疑うオセローは、彼女の手を「湿っている」(miost)と表現し、そこに「年若い多情の悪魔」(a young and sweating devil)を見て、デズデモーナの身体を「漏れやすい器」へと還元し、デズデモーナは、淫らな、穢れた女性に変貌し、ついには《汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまり》と化す。

 

<異文化への興味/新婚初夜の血染めのハンカチ/「額の角」/「名誉殺人」>

シェイクスピアが生きた時代のイギリスでは、イタリアで発祥したルネサンスが遅ればせながら花開き、商業演劇の勃興と隆盛を招き、大航海の成功が異文化と外国人への興味をかきたてた。(中略)アラビア語とイタリア語で書かれたレオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』の英訳版が出版されたのは一六〇〇年だった。レオ・アフリカーヌスはムーア人ムーア人を主人公にした『オセロ』は、イギリスの異文化への興味が高揚するただなかで創作され、上演された。レオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』はシェイクスピアが読んだと思われる地誌書のひとつである。このなかで、あるアフリカ部族の結婚にまつわる風習が紹介されている。(中略)

 このなかで言及されている血痕のついたナプキンは無論、花嫁の純潔の証拠である。このような慣習は古くからの伝統で、ナプキンの代わりに、血痕のついた白いシーツを花嫁の純潔のあかしとする風習の国や地方もある。》

 オセローがデズデモーナに、「額の辺りが痛むのだ」と言い、デズデモーナがハンカチを取りだして額に当てようとすると、オセローが「そのナプキンでは小さすぎる」とハンカチを振り払い、落ちたハンカチが、侍女エミーリアが拾い上げる印象的な場面(第三幕第三場)は、『オテロ』の第二幕第四場にも生かされている。

 シェイクスピアの時代の観客は、「額の辺りが痛むのだ」(a pain upon my forehead here)に、妻を寝とられた夫の額には角がはえ、頭痛に苦しむ、を読みとった。『オセロー』第四幕第一場でも、イアーゴーがオセローに「額がお痛みになりませんか?(have you not hurt your head? )」と問うと、オセローは妻に不義をされて角が生えるという意味を持たせたと思い、「おれをからかう気か?」(Dost thou mock me?)と返す。

「寝とられ男の額の角」という概念は、地中海一帯にあった「名誉殺人」という風習と一体だ。オセローはアフリカ北西部モーリタニア出身のムーア人で、当時の文化先進国、植民国家ヴェネツィア共和国の傭兵将軍になり、キリスト教に改宗、ヨーロッパ化した。しかしイアーゴーの奸計にひっかかり、妻を疑い始めるや、ヨーロッパ化の下地から、スペインや北アフリカなどの地中海地域の原初的な部分が滲み出てくる。家族の女性の貞潔さに基づく「名誉」観念であり、「たとえ事実がなくても」妻が不貞の噂を立てられたら男は妻を殺してもいい、穢された名誉は名誉を穢した女性の血でのみ雪(そそ)がれる「名誉殺人」の風習による悲劇が発生する。

 

 河合祥一郎は「寝取られ幻想」、「男性性の喪失」でオセローとイアーゴーの行為を次のように解読しているが、さらには北ヨーロッパとは異なる地中海一帯の「名誉殺人」という概念で強化されるだろう。

シェイクスピアは、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『から騒ぎ』、『シンベリン』、『冬物語』などの他の作品においても、妻が不倫を働いたという、あらぬ疑いを抱いて苦しむ夫たちを描いている。

「寝盗られ幻想」とでも呼ぶべきこの妄想は、当時の男性中心主義的な文化に蔓延していた一種の病だった。英語で「寝盗られ亭主」のことをcuckoldと呼ぶが、これは他の鳥の巣に卵を産みつける習性のある鳥のカッコウ(cuckoo)に由来する。知らないあいだに妻に浮気をされて他の男の子供を宿しても、寝盗られ亭主は自分の子供だと思って育てることになるためだ。『から騒ぎ』第一幕第一場で、ヒアローの父親である知事レオナートは「こちらが娘さんですか」と尋ねられると、「これの母親が、わしが父親だと何度も申しておりました」と答えるが、これなども、寝盗られたかもしれない可能性を踏まえての発言である。

 どうしてエリザベス朝の夫たちは、妻に不貞を働かれるのではないかと、そこまでおびえなければならなかったのかと驚くほど、この「寝盗られ幻想」はさまざまな言説に蔓延していた。シェイクスピア以外のエリザベス朝劇作家の戯曲でも、「寝盗られ亭主」は多数描かれており、寝盗られ亭主の額には角が生えるという迷信が広く信じられていた。『お気に召すまま』のような恋愛喜劇においてさえ、結婚すれば夫は角を生やすものなどと、結婚生活が必ずしも幸せなものにならないことが揶揄されている。

 エリザベス朝時代の男性がそのような強迫観念に悩まされていた原因を推察すれば、当時の社会では男性に過度の男性性が求められていたためであろう。身分のある男性は帯剣し、いつでも剣を抜いて自らの男ぶりを証明しなければならなかった。強い男性性の発露が求められるあまり、結婚とは、妻を完全に従属させることだという発想が生まれ、自分は妻を完全に従属させ得ていないのではないかという不安からそうした幻想が生まれたと考えられる。》

《なぜイアーゴーはエミーリアを殺してしまうのか(筆者註:オペラでは殺されない)。それは、彼が口封じのために自分の女房さえ殺すことをなんとも思わない悪党にすぎないからだというのが、これまでの一般的な理解だった。あるいはまた、卑劣で残虐な悪の権化に、なぜそんなひどいことをするのかと尋ねても仕方ないとも考えられてきた。しかし、そのように「悪」というレッテルを貼ってしまっては、イアーゴーの心の内は見えない。その複雑な心理を丁寧に考えてみることにしよう。

〈正直な軍人〉と〈悪党〉という二つの仮面を持つこの男は、仮面の背後に、ひた隠しに隠してきた素顔を持っている。それは、「絶対的男性性を失った男」としての醜くも情けない顔だ。他人の目を欺く〈正直な軍人〉という仮面の背後にあるのは、確かに〈悪党〉という眼光鋭い顔であるが、それも結局のところ素顔ではなく、自分の目を欺くために我知らず着けている仮面にすぎない。彼は社会のみならず自分に対しても嘘をつき、自分の男性性は完璧だと思い込もうとしているのだ。ところが、エミーリアが自分を裏切ろうとしたとき、虚勢は足元から崩れる。「悪魔の神学」を気取る〈悪党〉なら、女房も思いどおりに操るぐらいでなければならないが、自分の女房に裏切られても仕方のない「男性性を失った男」としての素顔が露見してしまうのだ。そして、素顔をさらけ出した彼は、自分を裏切る妻を暴力によって否定しようとする。女房は夫に属するものであるという父権制の思い込みに基づいて、彼は妻の不忠に対して、発作的に、絶対的男性として振る舞う――それが、エミーリア殺害である。》

 

「男性性の喪失」は、イアーゴーだけのことではなく、自害するオセローも含めて、ヴェニス公国の有り様、とくには軍隊の同性愛的傾向が底流にあるだろう。

 イステルは、オペラでは同性愛描写が控えめになったと指摘している。

《この場(第二幕第五場)はかなり忠実にシェークスピア(第三幕第三場)に従っている。(中略)オテロが証拠を要求するので、イアーゴはカッシオの夢の話――音楽的に見てヴェルディの傑作である――を、今日われわれが礼儀と考えているものに適合するかたちで語って聞かせる(シェークスピアにおいては、いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている)。》

 持って回っているが、具体的には男世界の軍隊にありがちな「いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている」同性愛的問題をオペラは「礼儀と考えているものに適合するかたちで」忌避しているというわけだ。もっと言えば、実はイアーゴーはオセローへの同性愛的嫉妬からデズデモーナを排斥させたとの解釈もある。

 戯曲『オセロー』では、

イアーゴー ……眠っていながら、こんなことを申しました、「デズデモーナ、気をつけなければいけない、二人のことはだれにも知られないように。」そのうち、わたしの手を取り、強く握りしめて、「ああ、かわゆくてたまらぬ!」と叫んだかと思うと、いきなり強く私に接吻するではありませんか。それがまるでわたしの唇にはえている接吻を根こそぎ捥(も)ぎとろうとでもするような激しさでした。それから自分の脚をわたしの太腿の上に乗せて、深い溜息をもらし、またもや接吻です。かと思うと、急に大声をあげて、「おまえをムーアの手に委ねた運命が呪わしい!」と罵(わめ)き出す始末です。》

 オペラ『オテロ』では、

イアーゴ ……夜のことでございました。カッシオは眠り、私は彼の傍におりました。

とぎれとぎれの声が内心の喜びを伝えてくれたのです。

唇は熱っぽい夢に身をゆだねて、ゆっくり、ゆっくり動きました。

そうして言ったのです、悲しげな音調をひびかせて;

“やさしいデズデモーナ! 私たちの愛は誰にも知れておりません。

中尉深く用心を重ねましょう! 天上の恍惚がわが身すべてにあふれています”と。

やさしい夢がなおさだかならず続きました。けだるい不安をもって;

心に描く像(すがた)に口づけするかのように、彼はそれから言いました;

“あのムーア人にお前を与えた不実な運命を私は呪う”と。》

 

<苺が刺繍されたハンカチ>

シェイクスピアが種本にしたイタリアのジラルディ・チンティオの『百話集』(一五八五年)の第三巻第七話にある小品では、ムーア人が妻に贈るハンカチには「ムーア風」の装飾が施されていると記されているだけである。それを、シェイクスピアは意図的に苺の装飾に変えている。この変化は劇の意味を決定的に変える。

『イメージ・シンボル事典』によると、苺(薔薇科に属する)は、薔薇と同様に、愛の神と聖母マリアのエンブレムである。三枚の葉に白い花をつけ、熟すと赤くなる苺の実は聖母マリアのシンボルにふさわしい。白は純潔の、赤は神の愛の色だからである。苺は熟していないときは冷えて乾いているが、熟したときには汁が多くみずみずしい。キリスト教の解釈では、苺は正義のシンボル、聖母マリアはしばしば、苺が刺繍された衣服をまとって描かれた。

 オセロが「愛と記念の誓い」としてデズデモーナに贈ったハンカチは、デズデモーナの手を離れるやいなや、デズデモーナの不貞のあかしとしてイヤゴーに利用され、オセロはデズデモーナ殺害に突っ走る。ハンカチは不可思議な意味あいと魔法の力を強めながら、まるでブラックホールのように、ハンカチに関わった人たちを飲み込んでゆく。その一方で、赤い苺の刺繍のあるハンカチは、血痕のついたナプキンと同様に、デズデモーナの貞節を訴えつづける。》

 ところが、ヴェルディオテロ』では英語の「苺(strawberries)」がイタリア語の「花(fior)」に変質してしまう。

イアーゴ 時折ごらんになりまするか、

デズデモーナ様のお手に、

花のふちどりをしたヴェールよりも織物を(un tessuto trapunto a fior e più sottil d'un velo)?

オテロ それは私があれに与えたハンカチじゃ、愛のはじめてのしるしとして。

イアーゴ そのハンカチを、昨日、

(それは確かですぞ)カッシオが手にしているのを見ましたので。》(第二幕第五場)

 さらには、デズデモーナのハンカチでキャシオー(カッシオ)が髯(男性性のシンボル)を拭いている、とまでは歌われない。

 

<魔法>

 オセローは「風邪をひいたらしい、洟(はな)が出て仕方がない。ハンカチを貸してくれ」と言うが、デズデモーナはオセローから贈られたハンカチを出すことができず、今は「ここにない」と答える。

オセロー なんということだ。あのハンカチーフはおれの母親があるエジプトの女から貰ったものだ。その女は魔法使で、よく人の心を読みあてたものだが、それが母にこう言った、これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことができよう。が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気(いやけ)の影がさし、その心は次々にあだな思いを漁(あさ)り求めることになろう、と。母はそれを今はの際(きわ)におれに手渡し、ましさいわいにして妻をめとるときがきたなら、その女に与えるようにと言いのこしていったのだ。おれはそのとおりにした。大事にしてくれなければ困る、そのおのれの目のように大切に扱ってもらいたい。無くしたり、人にやってしまったりしようものなら、それこそ取返しがつかぬ、この上ない禍(わざわい)が起るのだ。

デズデモーナ 本当にそのような?

オセロー 本当なのだ。あれには魔法が織りこんである。二百年の齢(よわい)を重ねた巫女(みこ)が、神のお告げを語る恍惚夢遊(こうこつむゆう)の間に、その縫取りをしたという、それだけではない、蚕を神前に浄めて、その糸を吐かしめ、さらにそれを、特別の秘法をもって乙女の心臓より絞りとった薬液に漬けて染めあげたものだ。》(第三幕第四場)

第一幕で、デズデモーナの父ブラバンショーに、ムーアが魔法で娘をたぶらかし、結婚を強要した、とオセローは言いがかりをつけられたにも関わらず、ここでオセローは魔法の逸話を持ち出してデズデモーナを不安にさせる。

オペラでは、シェイクスピアのように鼻風邪ではなく、ふたたび持病の頭痛を口実にして、額を巻くためのハンカチを貸してくれと言う。貰ったハンカチは持ち合わせていない、とデズデモーナが答えると、

オテロ デズデモーナ、それを失くしたのなら承知せぬぞ! おい!

ある力をもった魔女が神秘な糸で織り出したもので、

そこには不思議な力をもった高い呪いがひそんでいるのだ。

注意するのだぞ! 失くしたり、あるいは人にくれたりするとひどい目に会うのだぞ!》(第三幕第二場)

 ここには、魔女は出てきても、苺模様の糸を染めた乙女の心臓の血は登場しないから、処女性を象徴するところまではいかない。

 

 以上みてきたように、ヴェルディとボーイトはシェイクスピアの穢れの不快感を浄化した。加藤浩子がヴェルディの『オテロ』について、《「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところ》と保留しつつも、ヴェルディ・オペラの魅力を一言で言いきった、《襟首を摑まれてドラマのなかに投げ込まれる快感が、初めから終わりまで驚異的な緊張感とともに続くのだ》は、穢れの削除によってこそ成り立ったとも言えよう。

 もっとも、不快感の忌避、浄化をヴェルディとボーイトに責を負わせることはできない。歴史的に宮廷文化観賞としてオペラが不快感を与えるわけがなく、不快感を躊躇わず、逆に売りもののように前面に出したオペラは、1920年代のベルク『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』まで待たねばならなかった。『オテロ』が1887年ミラノ初演であり、『ヴォツェック』が1925年ベルリン初演、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が1934年レニングラード(現ペテルスブルク)初演であったことを考えると、第一次世界大戦を挟んだ19世末から20世紀前半の文化・思想の、なんと破壊的、飛躍的であったことか

                               (了)

       *****引用または参考文献*****

シェイクスピア『オセロー』福田恆在訳(新潮文庫

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス17 ヴェルディ オテロ』(リブレット対訳、シュテファン・クンツェ「英雄の没落」、「ヴェルディとボーイトの往復書簡より 《オテロ》についての手紙」、エドガー・イステル「ヴェルディシェイクスピアオテロ》」、ボーイト「《オテロ》登場人物の注釈」等所収)大津陽子、檜山哲彦訳(音楽之友社

石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」(神奈川大学人文学会誌2007.9.24)

*八鳥吉明「服飾と身体の交錯――Othelloにおけるハンカチ再考」(名古屋大学英文学会2010.3.30)

シェイクスピア『新訳 オセロー』河合祥一郎訳(角川文庫)

*加藤浩子『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』(平凡社新書

*ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄、喜志哲雄訳(白水社

島田雅彦『オペラ・シンドローム』(「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」所収)(日本放送出版協会

*芝紘子『地中海世界の<名誉>観念』(岩波書店

河合祥一郎ハムレットは太っていた』(白水社

*本橋哲也『本当はこわいショイクスピア <性>と<植民地>の渦中へ』(講談社選書メチエ

ナボコフナボコフの一ダース』(「いつかアレッポで」所収)中西秀男訳(サンリオ文庫

*T・S・エリオット『エリオット選集2』(「シェイクスピアに対するセネカの克己主義の影響』吉田健一訳所収)(彌生書房)

吉田健一吉田健一集成1』(「シェイクスピア」所収)(新潮社)

リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ、イタリアの心ヴェルディを語る』田口道子訳(音楽之友社

*『夏目漱石全集10』(「作物の批評」所収)(ちくま文庫

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局

*フランソワ・ラロック『シェイクスピアの祝祭の時空』中村友紀訳(柊風舎)

*ジョージ・スタイナー『悲劇の死』喜志哲雄、蜂谷昭雄訳(ちくま学芸文庫

*ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアカーニヴァル バフチン以後』岩崎宗治、加藤洋介、小西章典訳(法政大学出版局

岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』(中公新書

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫