オペラ批評/文学批評 ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』とプルースト『スワンの恋』

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 ヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ “LA TRAVIATA”(「道を踏み外した女」)』(日本では原作小説『椿姫(原題”LA DAME AUX CAMELIAS”(椿を持つ女)』がオペラでも通称され『椿姫』)を観賞するとき、理解しようとして理解しきれない私と、こんなメロドラマなのに感動している私が共存していることに気づく。あたかも、理解しようとするな、感ずればよい、それこそが音楽の力だ、と言いたいかのように。

 理解しづらいことはいくつかある。たとえば、同じ「裏社交界ドゥミ・モンド)」(デュマ・フィスの風俗喜劇の題名でもある)の「クルティザン」とか「ココット」と称され、「高級娼婦」「粋筋の女」と日本語訳される『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタを、プルースト失われた時を求めて』の同類オデットと比較してみよう。

 アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』(1848年)とその戯曲(1852年)、オペラ『ラ・トラヴィアータ』(1853年)は1850年ごろを描いた作品であり、『失われた時を求めて』の『スワンの恋』(1913年)の時代設定が1880年前後と、たかだか30年ほどしか違わないのに、後者ではスワンに社会的批判があったにしろ、ともかくもオデットは貴族階級へと成り上がり、前者ではメロドラマ的悲劇に終わる。この差異をどう理解すべきだろう。

 1897年にプルーストルネサンス座で戯曲『椿姫』を観劇し、友人ピエール・ラヴァレによれば、主役を演じるラ・デューズに感激して、サラ・ベルナールよりも賛美したそうだが、ヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』を観たという記録は、プルーストに関して何でも載っているフィリップ・ミシェル=チリエ『事典 プルースト博物館』にもジャン=イヴ・タディエ『評伝 プルースト』にも見出せない。ただし1894年にパリオペラ座初演のフランス語版ヴェルディオテロ』は観ていて、他にワーグナーワルキューレ』『パルジファル』『トリスタンとイゾルデ』『タンホイザー』、ロッシーニウィリアム・テル』、マスネ『ウェルテル』、ドビュッシーペレアスとメリザンド』(テアトロフォン)、モーツァルトドン・ジョヴァンニ』、ムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』なども観ている。

 音楽批評家アッティラ・チャンパイは『名作オペラブックス ヴェルディ 椿姫』で《マルセル・プルースト Marcel Proustはかつて、デュマが椿姫に与えられなかった様式をヴェルディが彼女に与えたと言った》と記しているが、出典不明であり、いったいその「様式」とは何を意味するのか理解できない。ちなみにプルーストは、1912年、カブールのグランド・ホテルから、音楽家の親友レーナルド・アーン宛書簡で、《もっとも偉大な天才たちは自分の気に入ったものを愛し、彼らが悪いと判断するもの、晩年になって気に入ったとしても、そうしたものを罵るのに何のためらいも見せなかったではないか。》とラ・フォンテーヌ、ポワロ―、ロッシーニコルネイユ北斎、メリメなどをあげたうえで、《ヴェルディのような間抜け(ヴイユ・コン)や二流の作家(名前は浮かぶけれど、後難を恐れて、あえて言わない)だけが、自分の好きでないものの気を悪くさせるのを恐れて、遠ざかるのだ》と書き残している(『プルースト全集17、書簡』)。

 デュマ・フィス関連では、『スワンの恋』は冒頭からデュマ・フィスの風俗喜劇『裏社交界』に基づいて、《クレシー夫人というほとんど裏社交界の女と言ってもよく》と表現され、戯曲『フランシヨン』に登場する「日本のサラダ」が揶揄されている。

 

 

 プルーストスワンの恋』を読みながらヴェルディラ・トラヴィアータ』を連想する、あるいは『ラ・トラヴィアータ』を観賞しながら、まるでプルーストの評論「サント=ブーヴに反論して」ではないけれど、「『ラ・トラヴィアータ』」に反論して」とも言いたくなるパロディーのような『スワンの恋』を想う。その交互作用によって見えてくるものがあるだろう。

ラ・トラヴィアータ』はビゼーカルメン』と並んで世界中で最も頻繁に上演される演目であり続けている。『カルメン』もまた、ニーチェが称揚したとはいえ、似たようなメロドラマ・オペラだが、ビゼーの息子ジャック・ビゼープルーストが(同性愛的に)懇意であり、ビゼー亡き後、妻ジュヌヴィエーヴは資産家エミール・ストロースと再婚してストロース夫人となり、プルーストは彼女をモデルにゲルマント公爵夫人を造形したとも言われている。

 

 ともかくもヴェルディラ・トラヴィアータ』を観賞しながら、プルーストスワンの恋』と比較してみよう。

 

<第一幕>

 

<「前奏曲」と「ヴァントゥイユのソナタ」>

ラ・トラヴィアータ』の前奏曲は、短い音楽ながらもヴィオレッタの「病死」を暗示する悲しくも美しい抒情的旋律ではじまる。これは第三幕の前奏曲にも調を変えて現われる。弦がロ短調ピアニッシモを奏で、和声進行ののち、ホ長調アダージョの主部では弦の合奏が展開されるが、この主題は第二幕末尾でヴィオレッタが歌う「愛」の旋律による。次いでクラリネットファゴット、チェロにヴァイオリンの装飾が加わって、華やかな「高級娼婦」の生活を表わす旋律が登場するが、低音ではチェロがヴィオレッタの愛の旋律を奏でている。「病死」→「愛」→「高級娼婦」→「愛」→「病死」とつむがれ、ヴィオレッタの命のように儚く消えてゆく。

 

 すでに前奏曲に『ラ・トラヴィアータ』の「病死」「愛」「高級娼婦」という三つのテーマが揃っている。

 指揮者リッカルド・ムーティが語っていることは、同じことをソプラノの声の質を通じて表現したものだ。

《実際、『ラ・トラヴィアータ』は三つの異なる性格の声を持つソプラノが理想的である。第一幕はソプラノ・レッジーロ、第二幕と第三幕はソプラノ・リリコかもしくはスピントが望ましい。そのため、一人の歌手で全曲を完璧に歌うことは不可能なのである。ヴィオレッタ役を歌うには三つの異なる人間性を表現できなければならない。第一幕では道をふみはずした女性、つまり売春婦を、第二幕では純真に恋する女性を、そして第三幕では死を目前にして、恋人アルフレードの将来を祝福して真の愛を全うする女性を演じなければならない。売春婦、恋する女、聖女と三人の人間性は三つの異なる声で表現されなければならないのである。》

 しかし前奏曲の段階では、観客はまだ三位一体とも称すべきテーマについて不分明であるが、舞台進行に伴って再登場する反復の旋律で引き出される無意識的回想は、『スワンの恋』の「ヴァントゥイユのソナタの小楽節」をめぐる音楽のドラマと似ている。違いといえば、絵画が空間の芸術でキャンバスに固定されるのに対して、音楽は時間の芸術で、演奏された音はつぎつぎと消えてゆくが、オペラは音楽による時間の芸術であるとともに、舞台上の空間に絵画的に繰り広げられる視覚の記憶も同時に作用するということだろう。

 

 スワンがオデットも同席していたヴェルデュラン夫人邸のサロンをはじめて訪問したときのこと。

(以下、吉川一義訳『失われた時を求めて』の『スワンの恋』による。)

《さてピアニストが弾き終えると、スワンは、そこに居合わせただれよりもピアニストに親切なことばをかけた。それはこういうわけである。

 その前の年、スワンはある夜会で、ピアノとヴァイオリンで演奏された曲を聴いたことがあった。最初は、楽器から出る音の物質的特徴しか味わえなかった。ところがそれが大きな喜びとなったのは、ヴァイオリンの、か細いけれど持久力のある密度の高い主導的な小さな線の下から、突然ピアノのパートが、さざ波の音のように湧きあがり、さまざまな形のそれでいて分割できない平面となってぶつかりあうのを見たときで、それはまるで月の光に魅せられ半音下げられて揺れうごく薄紫(モーヴ)色の波を想わせた。しかしその過程でスワンは、自分を喜ばせてくれるものの輪郭がはっきり識別できず、それを名づけることもできなかった。それにいきなり魅了され、通りすがりにわが心をかつてなく大きく開いてくれた楽節なのかハーモニーなのか――スワン自身にはわからない――、判然としないものを取り上げようとしただけである。夕べの湿った空気にただようバラのある種の香りに、われわれの鼻孔をふくらませる特性があるのと同じである。こんなに不分明な印象を受けたのは、スワンがこの音楽を知らなかったからかもしれない。しかしその印象は、ただひとつ純粋に音楽的といえる印象にほかならず、拡がりをもたない、隅から隅まで独創的で、ほかのいかなる次元の印象にも還元できないものだった。この種の印象は、いっとき、いわば無実体(シネ・マテリア)のものとなる。そのとき聞こえる音は、高低や長短によって、たしかにわれわれの眼前でさまざまな大きさの表面を占めてアラベスクを描き、われわれに拡がりとか、繊細さとか、安定とか、気まぐれとかを感じさせてくれる。しかしこのような感覚がわれわれの心のなかで充分に形成される前に、その音は消え失せ、つぎの音や同時に出た音がすでに呼び覚ましている感覚のなかに呑みこまれてしまう。しかもこの印象は、流動感あふれる「ぼかし効果」によって、ときおりそこからかすかに現れ出てはすぐに沈んで消えてゆくモチーフをつつみ隠す。それを知るにはそれがもたらす特殊な喜びによるほかのない、描き出すことも想い出すことも名づけることも不可能な、言いようのないモチーフなのだ。とはいえ記憶が、まるで揺れうごく波間に堅固な土台を築こうと精を出す大工のように、われわれのためにはかない楽節の複製を作成してくれ、そのおかげでわれわれはそれをつぎの楽節と比べたり、区別したりできる。たとえばスワンの覚えた甘美な感覚が消え去っても、たちどころに記憶がそのおおまかな仮の複製を作成してくれ、曲が進行しているあいだもそれに目を凝らしており、同じ印象がいきなり戻ってきても、もはや捉えられないものではなくなっている。スワンはその音域、対称をなす集合体、書記法、表現効果などを想いえがいた。目の前にあるのは、もはや純粋な音楽ではなく、どちらかというと素描であり、建築であり、思考であり、つまるところ音楽を想い出させてくれるものである。いまやスワンは、ひとつの楽節がしばしばのあいだ音の波のうえに立ちのぼるのをはっきり見わけることができた。その楽節は、やがて特殊な官能の悦びをもたらしてくれた。スワンがそれを聞くまでは想いも寄らなかった、その楽節しか教えてくれない悦びで、経験したことのない恋心をそれにたいして覚えたのである。(中略)

 ところがヴェルデュラン夫人宅で若いピアニストが演奏をはじめて数分もたたないころ、突然、二小節にわたって高音がつづいたあと、スワンには近づいてくるものが見えた。この長くつづく響きの下、孵化(ふか)の秘密を覆いかくすべく張りめぐらされた音の帳(とばり)から逃れ出てきたかのように、ひそかにざわめきつつ分割されてあらわれたのは、空気のように軽やかで香しい、スワンの愛するあの楽節だった。》

 

スワンの恋』の冒頭、ヴェルデュラン夫人邸で演奏された「ヴァントゥイユのソナタの小楽節」が恋の誕生の前奏曲だったとすれば、物語の最後、サン=トゥーヴェルト公爵夫人邸での小楽節は恋の告別ともいうべき記憶の旋律だった。

 スワンは、サン=トゥーヴェルト公爵夫人邸で演奏がはじまり、演目が終わるまで帰るわけにゆかずに、オデットが不在の場所に閉じこめられてしまうと悟っていると、

《が、突然、オデットが入ってきたような気がした。この出現は胸が引き裂かれるほどの痛みをひきおこし、思わずスワンは胸に手をやった。ヴァイオリンが高音域に駆けあがったかと思うと、なにかを待っている気配の待機がつづいて高音が持続する。お待ちかねの対象が近づいてくるのを早くも認めて心が昂ぶり、その到着まではなんとかもちこたえ、息絶える前に迎えるべくしばらくは最後の力をふり絞って閉まろうとするドアを押さえておき、それが通る道を開けておこうとしている感じである。事態を察したスワンが「これはヴァントゥイユのソナタの小楽節だ、聴かないでおこう!」と思う間もなく、オデットが自分に惚れていたころの想い出が、この日まで心の奥底に見えないまま埋もれていた想い出が、愛し合っていたときの光が突然また射してきたと錯覚したのか、目を覚まして大急ぎで意識上に浮かびあがり、スワンの現在の不遇に同情することもなく、忘れていた幸福の反復句を狂ったように歌い出したのである。》

 

<「心ときめく女」と「好みでもない女」>

ラ・トラヴィアータ』では「乾杯の歌」につづいてヴィオレッタは青ざめ、ふらついてしまい、心配して寄り添ったアルフレードヴィオレッタがバンダの演奏を背景に、二重唱、対話をつづける。

 ヴィオレッタに「ずい分前から私を愛して下さっていたの?」と聞かれたアルフレードは、アンダンティーノで歌い出し、情熱的に高揚するが、この愛の旋律は第一幕最後のヴィオレッタのアリア、第三幕でヴィオレッタが手紙を読む場面、そしてヴィオレッタが死ぬ直前にも調を変えて登場する。

(以下、永竹由幸訳『新潮オペラCDブック ヴェルディ[椿姫]』による。)

アルフレード  ええ、そうです、もう1年も前から。ある幸せで軽やかな日に、貴女のお姿が突然心を打ったのです。そのときめき以来ずっと その恋を胸に秘め。その恋に心をときめかしてすごしてきたのです。宇宙全体が、神秘的に、誇らしげに、苦しみと快感をこの心に送ってくるのです。》

 

 これは田舎(プロヴァンス地方)出の初心で純情な青年が美しい娼婦に一目惚れするという恋愛メロドラマの典型だが、社交界の名士をパトロンに持つ粋筋の女オデットへのスワンの恋は、これでもかというほどにステレオタイプ、ドクサに逆らい、反論しているのだ。

 そもそもスワンはユダヤブルジョワジーに属する株式仲買人の息子で、遊び相手は社交界の貴婦人、女工、料理番女中、粋筋の女、いかがわしい身分の女であったりという、健康で豊満なバラ色の肉体を目の前にするだけで官能が目覚める中年にさしかかった独身男だが、フェルメールを研究する絵画通でもあって、ディレッタントな芸術趣味と教養をもつパリ社交界の花形だった。

《ところがある日のこと劇場で、昔の友人のひとりからオデット・ド・クレシ―に紹介され、うっとりするほどの美人だがもしかしたらものにできるかもしれないと聞かされたときは――友人は、引き合わせたのは破格の好意だと想わせようと、実際より高嶺の花として紹介した――、それまでの女とは異なり、たしかに美人とはいえ自分の関心を惹かないし、なんら欲望をそそらないばかりか、むしろ生理的嫌悪さえ覚えた。どんな男にも、それぞれに異なるとはいえその手の女がいるもので、要するに官能が要求するのとは正反対の女だったのである。スワンの気をそそるには、女の横顔は彫りがあまりにも深く、傷つきやすそうな肌をしており、頬骨は高く突き出し、目鼻立ちには疲れが見えた。目は美しいが、大きすぎて自分自身の重みで垂れさがり、そのせいか顔のほかの部分までやつれて見え、いつも顔色が悪いのか、機嫌がよくないのかと思えてしまう。》

 そんなオデットだが、ボッティチェリの描いた女性にそっくりだと気づいたとたんに惚れるというスワンの倒錯的芸術趣味を表象している。

《その日スワンは、オデットの家に向かいつつ、会うときのいつもの流儀で、あらかじめその容姿を想いうかべた。オデットの顔に美しさを認めるためには、たいてい黄土色にやつれ、ときに赤い小さな斑点の見える頬のなかで、バラ色のみずみずしい頬骨のところに限って頭に浮かべる必要があり、まるで理想は到達しがたく、手にはいる幸福はつまらないと想い知らされたみたいに、スワンをひどく悲しませた。見たいという版画を持って来てやったところ、オデットはすこし加減がよくないからと言いつつ、モーブ色のクレープ・デシンの化粧着すがたで、豪華な刺繡をほどこした布をコートのように羽織り、それを胸元にかき合わせてスワンを迎えた。オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬にそって垂らし、楽に身をかがめるように、すこし踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて無愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂フレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。(中略)これから先スワンは、女のそばにいるときでも女のすがたを想いうかべるだけのときでも、つねにフレスコ画の断片を見出そうとした。スワンがこのフィレンツェ派の傑作にこだわったのは、オデットのうちにたしかにそれが再発見されたからにほかならないが、逆にこの類似がオデットにも美しさを授け、ますます貴重な女にしたのである。》

 

<「椿」と「カトレア」>

 オペラ『ラ・トラヴィアータ』に「椿」という言葉は出てこない。もちろん小説『椿姫(原題は「椿を持つ女」”LA DAME AUX CAMELIAS”)』と戯曲では、オペラのヴィオレッタに相当するマルグリット・ゴーティエが観劇する桟敷には必ず椿の花束があって、月の二十五日のあいだは白で、あとの五日は紅だった(娼婦商売に関わる月経を暗示するとも言われる)とか、この椿の花が萎れたらお目にかかりましょう、という表現があるが、オペラでは『ラ・トラヴィアータ ”LA TRAVIATA”』と題名が変更されたこともあってか、抽象的な「花(fiore)」と変化している。

ヴィオレッタ  まじめな恋なんてだめよ…約束してくださる?

アルフレード  分りました…それでは失礼します…(と行きかける)

ヴィオレッタ  そこまで思いつめていらしたの? (胸から花を取って)この花(fiore)を差し上げるわ。

アルフレード  どうしてですか?

ヴィオレッタ  また返しにきてもらうため…

アルフレード  (戻って来て)いつですか?

ヴィオレッタ  その花がしおれたら。

アルフレード  なんですって! 明日ですか…

ヴィオレッタ  そうね、明日でいいわ。

アルフレード  (喜んでその花を受け取り)私は幸せです!

ヴィオレッタ  まだ私を愛してくれると言ってくれますか?

アルフレード  (立ち去ろうとしながら)ああ、どれほど貴女を愛しているか!…私は幸せです。》

 

ラ・トラヴィアータ』で「椿(花)」による誘いの主体は女ヴィオレッタで男アルフレードは受け身だが、『スワンの恋』では「カトレア」をだしにして男スワンが誘惑し、ついには女オデットをものにすると、いつしか「カトレアをする」という二人の性的合言葉となる(カトレアの形状は女性性器を暗示してもいるだろうから、椿もカトレアも性的隠喩を匂わせている)。スワンがオデットの馬車に乗り込んでの有名な「カトレア」の場面は、

《オデットはカトレアの花束を手にしていたが、スワンが見ると、レースのスカーフで覆った髪にも、同じラン科の花を白鳥の羽飾りにつけて挿していた。マンティーラ(筆者註:型と腕を覆うショール)の下には、ふわりとした黒いビロードをまとっているが、それを斜めにからげたところから、白い畝織(うねお)りのスカートの裾がのぞいている。また、同じく白い畝織りの切り替え部分(ヨーク)が、デコルテの胴衣の胸あきのところに見えていて、そこにもべつのカトレアの花が挿しこんである。スワンに驚かされたときの怯えからオデットがようやく立ち直りかけたとき、障害物でもあったのか、馬が横に飛びのいた。ふたりの身体は勢いよく横にずれ、オデットは叫び声をあげ、動悸は速まり息もできなくなった。

「なんでもありませんよ、怖がらないで」と、スワンは言った。

 そしてオデットの肩に手をまわすと、しっかりと引き寄せて言った。

「くれぐれも私に話しかけないように。返事は合図だけになさって、これ以上、息が切れないようにしてください。揺れた拍子に胴衣(コルサージュ)のお花がずれてしまいました、まっすぐに直しても構わないでしょうか。なくされるといけませんから、すこし奥まで挿しておきましょう。」

 オデットは、男がこれほど慇懃(いんぎん)にふるまってくれるのに慣れていなかったので、にっこりして答えた。

「いいえ、ちっとも構いませんわ。」

 しかしスワンは、その返答に気後れしたのか、このような口実を設けたときに嘘をついたのではないことを装うためもあったのか、あるいは嘘をついたのではないとすでに信じこんでいたのか、こう声を高めた。

「いや、いけません、くれぐれもお話にならないように。また息が切れますよ。身ぶりで充分私にはお答えがわかりますから。ほんとうにお嫌じゃありませんか。ほら、なにかすこし……どうやら花粉がお肌にこぼれたようですね。手で拭いてもよろしいでしょうか。強すぎて、痛くないですか。すこしくすぐったいかもしれませんね。でも、ドレスのビロードに触って、しわくちゃにしてはいけませんから。しっかり挿しておく必要があったんです、落ちてしまうところでしたから。こうして、すこし挿しこんでおけば……。ほんとうのところ、お嫌じゃありませんね。ほんとうに匂いのない花なのか、嗅いでみてもいいでしょうか。一度も嗅いだことがないのです。構わないでしょうか。ほんとの気持をおっしゃってください。」

 オデットは、にっこりして、かるく肩をすくめた。「おばかさんね、嬉しいことぐらいわかるでしょ」と言わんばかりである。

 スワンはもう片方の手をもちあげ、オデットの頬に沿わせた。相手はスワンをじっと見つめたが、そのけだるく重々しい表情は、フィレンツェ派の画家(筆者註:ボッティチェリのこと)が描き、スワンがオデットとの類似を認めた女性に特有の表情だった。(中略)

 しかしスワンはオデットにたいして非常に憶病で、その夜、カトレアを直す仕草から始めてついにオデットをものにできたからというので、その機嫌をそこねるのを危惧したのか、あとから嘘をついたように思われるのを怖れたのか、これより過大な要求を口にする勇気がなかったのか(これなら最初のときにオデットが怒らなかったのでくり返すことができると)、つづく日々にも同じ口実を用いた。(中略)そんなわけで、しばらくのあいだは最初の夜にたどった順序が変わらず、まず指と唇でオデットの胸に触れるのをきっかけに、毎回、スワンの愛撫は始まった。そして、ずっとのちに、カトレアを直すこと(ないし直すまねごとの儀式)がずいぶん前から廃れていても、「カトレアをする」という暗喩は、ふたりが肉体所有の行為――といっても、そもそもなにも所有しないのだが――を言いあらわそうとするとき、カトレアとは無関係に用いる単なる用語となって、このしきたりが忘れ去られたあとも、それを記念するものとしてふたりのことばづかいのなかに残ったのである。》

 

<「高級娼婦」>

ラ・トラヴィアータ』は、ヴィオレッタが属する裏社交界の「高級娼婦」性は極力抑制された表現となっている。小説や戯曲では、蓮っ葉な言い回しや、入れ代わり立ち代わり男たちとの丁々発止なやりとりが続いたかと思うと、高級娼婦たちが利用したグラン・ブールヴァ―ルのレストラン群(『スワンの恋』でも、スワンのオデット追跡劇の場所となる「メゾン・ドレ(メゾン・ドール)」「カフェ・アングレ」等)が描写されるが、オペラでは視覚上はパーティーに男爵がパトロン的に登場するぐらいだ。かわって、ヴィオレッタの歌詞で聴覚表現されるのだが、アルフレードから恋心を打ち明けられての葛藤と自暴自棄的享楽が綯い交ぜとなって絡み合い、劇的内容と感情表現の一致によるドラマ性に成功している(「ああ、そはかの人か」「花より花へ」)。

ヴィオレッタ  私が差し上げられるのは友情だけですわ。私は恋するなんて知らないの、ましてやそんなに崇高な愛に苦しむなんてこともないのよ。私は放縦で自由な女、他の女性をお探しになるべきよ。》

ヴィオレッタ  不思議だわ(È strano)!…不思議だわ!…あの方の言葉が心に刻みこまれてしまったわ! まじめな恋なんて私にはやっかいなことになるかしら? とまどっている私の心よ、どうする気なの? 誰もお前に火をつけたものはない…愛する人に愛されるという、私の知らなかった喜び!…この単なる快楽を追う私の生活のためにその喜びを無視できるかしら?》

ヴィオレッタ  馬鹿げたことよ(Follie)!…それは儚い夢!…私はこのパリと呼ばれている人のごみごみといる砂漠の中で独り捨てられた哀れな女なのよ。何の希望が持てて?…何をすればいいのよ? 楽しむことよ。官能のうずの中に快楽を求めて、死んでいくの。快楽から快楽に身をまかせていく私はいつも自由の身でなければならないの。私は人生を快楽の小径をすり抜けるように生きたいの。夜が明けてから、日が沈むまで一日中私の思いは新しい快楽を追い求めパーティーの中で楽しみにふけっているのよ。》

 

スワンの恋』のオデットはといえば、最後まで改心することもなく、病死することもない。

《ある日、スワンは匿名の手紙を受けとった。そこにはオデットにはかつて大勢の愛人がいただけでなく(名前も何人か挙げられていて、そのなかにフォルシュヴィルとブレオーテ氏と画家の名があった)、何人もの女を愛人にしたこともあり、売春宿にもあちこち出入りしていたと書いてあった。》というばかりか、スワンと一緒になってからも噂は絶えず、しかし次第に社交界に台頭し、スワンの死後は嫉妬対象だった噂のフォルシュヴィル伯爵と再婚し、『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』ではゲルマント公爵の愛人になっている。

 

 小説『椿姫』では、「ファム・ファタル(運命の女)」の原型ともいえるプレヴォー『マノン・レスコー』が重要な役割を果たすが、『ラ・トラヴィアータ』では、額縁小説的要素を取っ払うと同時に、散漫さの排除として影も形もない。一方、プルースト失われた時を求めて』の『消え去ったアルベルチーヌ』(スワンとオデットの恋の反復、変奏としての、語り手とアルベルチーヌの恋)では、ジュール・マスネ(レーナルド・ハーンの師)作『マノン』の調べを耳にした語り手は、アルベルチーヌが自分をマノンと同じように「わたしの心がただひとり愛した人」と考えてみるものの、すぐにそんな「甘い気分に身をゆだねる気にはなれなかった」と思い直すことになる。

 

<第二幕>

 

<「認識」と「承認」>

 ロラン・バルトは『神話作用』のなかで、『椿姫』の神話を読み解いている(小説ないし戯曲が対象だが、オペラについても通用する)。

《世界のどこかで、まだ「椿姫」を演じている(それに少し前パリで演じていた)。この成功は、多分まだ続いている恋愛の神話に注意を引かずにはいない。なぜなら、主人たちの階級の前でのマルグリット・ゴオチェの疎外は、これほど階級化された世界における今日の小市民階級の女性たちの疎外と、基本的には変らないからである。

 さて、実際には、「椿姫」の中心的神話は、恋愛ではなく認識である。マルグリットは認識してもらうために愛しているのだ。そしてこの意味では彼女の情熱(パッション)(感情的意味ではなく語源的意味[苦しみ]だ)は、全面的に他者からやって来る。アルマン(筆者註:オペラのアルフレード)はといえば(これは収税長官の息子だ)、彼は、本質主義的教養から受け継いだ、プルーストの分析にまで延長される、古典的、ブルジョワ的恋愛を表明している。それは分離的な恋愛で、獲物を持ち去る所有者の恋愛である。時々しか外界を認識せず、世界が盗みをしようとしてばかりいるかのように、常に欲求不満の感情(嫉妬、けんか、誤解、不安、遠ざかり、気分の動揺、等)の中にいる内面化された恋愛である。マルグリットの恋愛は全くの反対だ。マルグリットはまず、アルマンによって認められた(・・・・・)と感じて、感動した。そしてそれ以後彼女にとって情熱とはこの認識への恒久的な懇願に外ならない。デュヴァル(筆者註:オペラのジェルモン)氏に対して承知した、アルマンを諦めるという犠牲が、何ら道徳的のものではない(言っていることに反して)のは、それ故である。その犠牲は実存的なものだ。(中略)アルマンは恋愛の本質と永遠性の中に生きている。マルグリットは自分の疎外の意識の中に生きている。彼女は自分の中でしか生きていないのだ。彼女は自分を知っている。そして、ある意味では、高等娼婦であろうと(・・・・)欲するのだ。彼女自身の適合の行動もまた、完全に、認識の行動である。時に自分自身についての伝説を極端に引き受け、高等娼婦の生活の古典的な渦巻きの中に飛び込む(自分が吹聴して自己確認する男色家に似ている)。(中略)つまり、彼女は現実を疎外として見ているのだ。だが彼女はこの認識を純然たる屈従の行動によって延長するのだ。主人たちが期待している通りの人物を演じるかと思うと、この主人たちの世界自体に本来内在的な価値(・・)に達しようと努力するのだ。(中略)マルグリット・ゴオチェ、その結核とその美しいせりふによって<感動的>なマルグリットは、観客全体にまつわりつき、その盲目性を伝達する。嘲弄的に愚劣だったなら、彼女は小市民たちの目を開いたであろう。名文句を吐いて気高く、一言でいえば<まじめ>なので、小市民たちを眠り込ませるばかりなのだ。》

 

失われた時を求めて』の冒頭、第一編『スワン家のほうへ』の第一部『コンブレー』(時系列的には第二部『スワンの恋』のあと)では、スワンはオデットと結婚していて、ジルベルトという名の娘がいる。ここにスワンに対する語り手の家族の評が出てくる。「高級娼婦」とのブルジョワジーの結婚に伴う「承認」というテーマは、スワンのユダヤ性、大衆心理、貴族心理の分析、時代変化によって複雑に揺れ動いている。

『コンブレー』で、スワンの訪問を受ける語り手の祖母、大叔母、父母たちは、

《スワンの交際にかんする家族のこの意見は、その後のスワンの結婚で正しさが立証されたように思われた。なにしろ相手が、最下層の粋筋の女(ココット)といっても差し支えのない女で、そもそもスワンは一度も私たちに紹介しようとせず、しだいに回数が減ってきたがわが家への訪問時にもあいかわらずひとりだったから、そんな女の素性からして――そこで女を拾ってきたのだと想像して――実態は知らないものの、スワンがふだんつきあっている階層がどんなものか見当がつくと考えたのである。》

『スワン家のほうへ』の第三部『土地の名-名』は1890年ごろで、すでにオデットはスワンと結婚しているが、ブローニュの森のアカシア通り(高級娼婦たちのお披露目の空間、場でもあって、『椿姫』のモデルとされるマリー・デュプレシも散策した)を散歩する貴婦人として登場する。

《その婦人たちは全員が既婚というわけではないが、ふつうスワン夫人と並んで名前が挙がるのは、たいてい婦人たちの源氏名だった。新しい名前がついている場合でも、それはお忍びのすがたで、その婦人のことを話題にする人は元の源氏名を言って相手に話を通じさせるのだ。(中略)その奥にゆったりスワン夫人がくつろいでいたのである。いまやブロンドにグレーのひと房のまじる髪の毛には、たいていスミレの花をあしらったヘアバンドを巻いて下に長いベールを垂らし、手にはモーブ色の日傘をもち、口元にはあいまいな微笑みを浮かべている。その微笑みは、私には女王陛下の厚情にしか見えないが、とりわけ粋筋の女(ココット)の媚をふくんだ挑発があらわれており、そんな微笑みを挨拶する人たちに振りまくのだ。(中略)散歩の足をなかば止めて、こんなことを言う人たちもいる。

「あれ、だれだか、わかります? スワン夫人ですよ! と言ったんじゃわかりませんか? オデット・ド・クレシ―と言えば?」

「オデット・ド・クレシ―だって? いや、私も、そうではないかと思ってたんだ、あの悲しそうな目は……。でも、もう若くはないはずだ! 想い出したよ、あれと寝たのがマク=マオン元帥の辞任の日だったのを。」

「そんなこと、あの女に想い出させたりしないほうがいいですよ。なにせ今じゃあ、スワン夫人なんだから。ジョッキー・クラブの会員で、プリンス・オブ・ウェールズの友人の奥さまなんだから。それにしても、今でもいい女だねえ。」》

 また、第二編『花咲く乙女たちのかげに』の第一部『スワン夫人をめぐって』(『スワンの恋』の十数年後)には結婚のいきさつが書かれている。ここには、普通の意味での恋愛を越えて、時間の経緯に従って変化する無数の自我のあらわれ、時間のなかの心理学による恋愛と結婚がある。

《オデットは最終的にスワンが結婚してくれるとは思っていなかった。申し分なく立派なある男性が最近その愛人と結婚したらしいという話をしてスワンにかまをかけても、そのたびに相手は冷淡な沈黙を守るばかりだった。面と向かって「それじゃあ、あなたすてきだとか立派だとか思わないも? 自分のために若い身空を捧げてくれた女性のために、あの人がしたことは」と問いかけても、スワンはすげなく「それが悪いなんて言ってないさ、それぞれ好きずきだから」と答えるのが関の山である。オデットは、腹を立てたときにスワンが放ったことばどおり、自分はいずれ完全に捨てられるだろうと思い詰めることもあった。しばらく前にさる女性彫刻家から「男からはどんなことをされたって不思議じゃないわ、だって粗野なんだもの」と聞かされていたからである。この悲観的格言の奥深さに打たれたオデットは、それをみずからの格言としてなにかにつけ口にしたが、そのときの沈んだ顔はこう言っているようだった、「結局なにがおこっても不思議じゃない、運のないときはこんなものよ。」 結果として、これまでのオデットの人生を導いてきた「惚れている男にはなにをしても構わない、ばかなんだから」という楽観的格言、しかも「怖がることはないわ、あの男にはなにひとつ壊したりできないんだから」と言わんばかりの目配せで顔にあらわされた楽観的格言からは、霊験あらたかな効力がすっかり消え失せていた。(中略)ほとんどの人はこの結婚に驚いたが、そのこと自体がむしろ驚きである。恋愛という現象が純粋に主観的な性質のものであることを理解している人はたしかにほとんどいない。恋愛をつくり出すのは、世間では同じ名で通用していて大部分の構成要素が本人から抽出される人物であるとはいえ、その本人に新たにつけ加わったべつの人物だということが理解できないからである。(中略)ところで引退や病気や宗教上の改心と同じで、長年にわたる愛人関係も、以前に想い描いていたイメージは新しいイメージに置き換えられる。スワンは、オデットとの結婚を機に社交上の野心を捨て去ったのではなく、オデットのおかげでずっと前にそのような野心から、宗教的な語を使えば解脱(げだつ)していたのだ。かりに解脱していなかったとしても、そもそもスワンはその結婚で株を上げたにちがいない。あらゆる結婚のなかで名誉を捨てた結婚が一般にいちばん立派だと誉(ほ)めそやされるのは、純粋に内輪の幸福のために、多かれ少なかれ人がうらやむ地位を犠牲にするからである。》

 

<「時」>

 嫉妬を「時の病い」として心理分析した『スワンの恋』をはじめ、『失われた時を求めて』のライト・モティーフは「時」だが、『ラ・トラヴィアータ』のテーマのひとつも「時」に違いない。

 オペラ作劇的な「時」の圧縮処理は第二幕に顕著だ。

ラ・トラヴィアータ』は、小説と戯曲の『椿姫』から登場人物の削減によってメロドラマ・オペラの純粋化を見事に図っていて、オペラを見た後で小説や戯曲を読むと登場人物の多さがわずらわしく感じられるのだが、舞台上の時間処理においても、余計な逸話(たとえば、戯曲第二幕はヴィオレッタの短いモノローグを除いてそっくり削除)はことごとく雲散霧消している(それでいて、重要な部分はほぼそのまま活かすヴェルディと台本作家ピア―ヴェの確かな目利き)。

 まず第一幕「乾杯の歌」の後、ヴィオレッタとアルフレードの二重唱だけで、くだくだとした小説と違ってヴィオレッタは瞬間的に恋にときめく。

第二幕の第一場から第二場にかけては極端なまでに時間の圧縮処理がなされ、ところどころに戯曲の台詞の残滓が放置されているが、先を急ぐドラマティックなスピード感で気にとまらない。第一場の最後でジェルモンが「プロヴァンスの海と陸」を歌ってアルフレードを説得していると、アルフレードヴィオレッタが置き忘れたフローラからの手紙(「今夜」の舞踏会への招待状)をテーブルに見つけ、彼女はパーティーに行ったんだ、こんな仕打ちには復讐してやるぞ、と急いで出てゆき、ジェルモンは、待ちなさい、と後を追って幕が下りる。次に幕が開くと、第二場のフローラ邸のパーティーで、フローラが「ヴィオレッタとアルフレードも招いているのよ」と語る(観客は先の手紙を想う)と、侯爵が「最新のニュースを知らないのかい? ヴィオレッタとジェルモンは別れたんだよ」「彼女はここに男爵と来ますよ」答える(この台詞設定は小説、戯曲と同じであるけれども、戯曲では「一か月前に別れた」と語られるのに対して、オペラでは、フローラから「今夜」の招待状を受けとった日にヴィオレッタは家を出て行き、当夜の舞踏会なのだから、侯爵の発言は時間経過的に奇妙である)。アルフレードが現われ、次にヴィオレッタが男爵を同伴して登場する。これは、その日ヴィオレッタがアンニーナに持たせた(アンニーナは宛先を見て驚く)手紙が男爵宛であったと解するならば、急とはいえ成立しないでもない。そして最後にアルフレードの後を追って出たジェルモンも到来し、醜態を見せる息子をいさめる、というわけで、第二幕はわずか一日の出来事として展開され、時間の超圧縮技法によって観客は息つく間もなきめくるめく体験に居合わす。

 フローラ邸での第二場のはじめに、「ジプシーの音楽」と「闘牛士の合唱」がインテルメッツォ風に挟まれるが、バレーを重視したフランス・オペラの風習に従っただけでなく、ジプシーたちは未来の出来事を予言し、闘牛士たちは牛をしとめて娘の愛をかち得た、と合唱することで「未来の時間」と「愛の獲得」をも暗示しているのではないか。

 

 ところで、第二場の最後に息子をいさめる父ジェルモンは立派そうだが、第一場のヴィオレッタへの説得において、美しい旋律と裏腹に老獪な口調で、女の美に関する「時」の残酷さを一般論に真実が宿るかのように利用して、男の「愛」の普遍性に疑いをはさみ、「神の祝福」「天使」「啓示」という宗教的語彙(ヴェルディキリスト教色を弱めているものの)も散りばめながら、自己「犠牲」(これもまた宗教的である)を強いてゆく。この時、過去に「道を踏み外した女」の現在、未来を認識しているヴィオレッタは言葉少なに頷くばかりだ。

ジェルモン  犠牲が非常に大きいことは分っている、だが心を静めて聴いてください…貴女はまだ若いし美しい…時がたてば…

ヴィオレッタ  ああ、もうそれ以上言わないで…分りましたわ…でもそんなこと私には不可能よ…私は彼だけを愛していきたいのですか。

ジェルモン  そうでしょうが…でも男というものはとかく気の変わりやすいものですよ…

ヴィオレッタ  ああ神よ!

ジェルモン  時がたって美貌があせていったその日には、すぐに厭きがくるものなのです…そうしたらどうしますか?…よく考えて下さい…どんなに優しい愛情だって貴女には何の慰めにもならなくなってしまうのですよ! 二人の絆が神の祝福を受けていないのですからね。

ヴィオレッタ  本当にそうですわ!

ジェルモン  ああ、ですから、貴女を魅惑しているそんな夢は霧散させて下さい…そして私の娘の救いの天使になってやって下さい…ヴィオレッタ、お願いだ、よく考えてください、まだ間に合うのだから。この様な言葉は、ねえ、お嬢さん、神が親に啓示を与えているのですよ。

ヴィオレッタ  (一度堕落した…哀れな女には、もう一度浮び上がるという…希望はないのだわ! たとえ神様がお許し下さり…祝福してくれたとしても人間社会は彼女を…許しはしないのだわ)》

 

 父ジェルモンが去ると、アルフレードが現れてヴィオレッタと語り合う。そしてヴィオレッタが理由を告げずに去ってゆくと、今度はまたアルフレードのもとにジェルモンが現れる、というように、三人が同時に顔をあわせるということを許さない「時空間のすれ違い」技法によってドラマ性を増している。管弦楽トレモロとともに去ってゆくヴィオレッタの愛の告白の旋律と死を自覚した歌詞を観客は記憶に残しているからこそ、第二場でのヴィオレッタの縁切りの言葉がより強く心に響く。

ヴィオレッタ  泣きたかったの…でももう静まったわ…(懸命にこらえて)ねえ見た? 笑ってるでしょう…見たの? もう落ち着いているでしょう…貴方に微笑みかけているでしょ。私はあっちに行ってあの花の間で、いつまでも貴方のお側にいるわ。アルフレード愛してね。私が貴方を愛しているくらい愛してね! さようなら! (と庭の方に駆けて行く)

 

<「縁切りもの」と「娼婦にして聖女」>

ラ・トラヴィアータ』はいわゆる「縁切りもの」だが、歌舞伎のそれとは決定的な違いがある。相思相愛の男女なのに、突然女(遊女や芸者)の方から愛想をつかし、縁切りの言葉を放つ。真意ではなく男の窮地を救うなり望みを果たすための心ならずもの愛想づかしだが、底意を見抜けぬ男は逆上し、時に妖刀の力もあいまって女ばかりか大勢を殺傷してしまう。主演目には、『五大力恋緘』『伊勢音頭恋寝刃』『御所五郎蔵』『籠釣瓶花街酔醒』『盟三五大切』『江戸育お祭佐七』『縮屋新助』などがある。愛想づかしの悪態、その屈辱に耐えるやりとりが見せ場だが、男は真相を知ることなく、女殺しという無差別な立ち回りの動的バロックの死がある。一方、『ラ・トラヴィアータ』は、男が真実を知るものの、女には病いによるロマンティックで静的な死が訪れる。

 

ラ・トラヴィアータ』の第二幕第二場、父ジェルモンの説得でアルフレードのもとを離れるヴィオレッタを、復讐と嫉妬から後を追ったアルフレードは、ヴィオレッタが招待されたフローラのパーティーにあらわれ、男爵(ドゥフール)を賭けで打ち負かす。アルフレードの身の危険を感じて去るよう忠告するヴィオレッタにアルフレードは詰問し、ヴィオレッタはジェルモンとの約束を守ろうと、心ならずも縁切りの言葉を発してしまう。

ヴィオレッタ  お願い、ここから出て行って、すぐに。

アルフレード  出て行こう、だがその前に君は何処までも僕について来ると誓いなさい…

ヴィオレッタ  それは、絶対にだめよ。

アルフレード  絶対にだめだと!…

ヴィオレッタ  入ってちょうだい、可哀そうな人。貴方を不名誉にした女の名なんて忘れて。行って…私をこの場で捨ててちょうだい…私は貴方から別れると…誓わされてしまったのですか…

アルフレード  誰がそんなことが出来るんだ?

ヴィオレッタ  その権利を完全に持っている人よ。

アルフレード  それはドゥフールか?…

ヴィオレッタ  (精いっぱい無理をして)ええ。

アルフレード  それで奴を愛しているのか?

ヴィオレッタ  それは…愛してるわ…

アルフレード  (怒って扉の方に行き叫ぶ)皆僕のところに来てくれ。》

 そして、アルフレードは会衆の前でヴィオレッタに、金銭の女とばかり札束を投げつける。

 

 ヴィオレッタは「娼婦にして聖女」である。「マグダラのマリア」の「娼婦にして聖女」というイメージが作られてゆく文献的、歴史的過程は岡田温司マグダラのマリア』などに詳しい。典礼や聖歌の完成者として知られ、教会国家の基礎を築いた教皇大グレゴリウス(在位590~604年)によって、「罪深い女」=「マルタの姉妹ベタニアのマリア」=「マグダラのマリア」という解釈、加工がなされたが、彼女には悔い改めによって神の救済が開かれている。その後、さまざまな要素、伝説が合流、複合して「マグダラのマリア」は「娼婦」としての前歴を着せられ、悔い改めた娼婦としてのイメージが定着してゆく。美貌と官能性という肉の罪に汚れていたマグダラのマリアですら、悔悛と苦行を経て、聖霊に充たされた至上の魂へと変貌を遂げることができると、十三世紀以降のフランチェスコドミニコ修道会の説教師は説いて回った。贖罪を実行することでマグダラのように昇天することもできる、と修道女や悔悟娼婦たち、さらにはルネサンス期の高級娼婦たちの模範となった。このうえなく美しくて、しかも涙にくれるマグダラのマリアバロック期の両義性、多義性への嗜好が、マグダラのマリアに内在している聖と俗、経験と官能、精神性と肉体性、神秘的禁欲と感覚の悦びのイメージは定着した。そこには、苦痛を通して美を透かし見せよ、というサドマゾヒスムさえある。

 日本でも、近松心中物や水上勉越前竹人形』『五番町夕霧楼』の「娼婦にして聖女」という永遠性を帯びた哀しみが人気を博す。

 けれども『スワンの恋』のオデットは、縁切りなどしないし、聖女にもならない(オデットのモデルの一人と言われ、プルーストが盟友レーナルド・アーンとの手紙の取り持ち役をしたこともあるリアーヌ・ド・プージィは、高級娼婦として生き、最後はルーマニアのワラキア公ゲオルゲ・ギカと結婚してプリンセス・ギカに成り上がったが、若い頃に産んだ息子が第一次大戦で戦死してから、先天性疾患児の養護に献身した)。

 

<第三幕>

 

ラ・トラヴィアータ』は第一幕前奏曲の旋律から「病死」がテーマの一つで、すぐにヴィオレッタの《私はいつでも快楽に身をまかせていたいのよ、快楽という薬が私の苦痛を和らげてくれるんですもの。》が続いた。

 ムーティは、《『ラ・トラヴィアータ』は死を描いた作品であり、幕が開いたときからヴィオレッタは病に冒されている。そのために、人を愛することを避けているのだ。それまで、ワインや宴会や戯れの愛や歓びに生きてきたのは死に対する恐怖を忘れるためであり、恋愛は失望でしかないと意識している。なぜなら将来がないからだ。

ラ・トラヴィアータ』には第一幕と第三幕の始めに前奏曲があるが、特に第三幕のそれはもの悲しく、雨で朽ちた落ち葉に包まれた墓場の臭いがする。音楽が直接、悲劇を物語っているのだ。まるで急速に破滅に向かって行くような感じである。

 ヴェルディはまさに天才である。たったいくつかの音で、ある世界を創り出してしまう。ある状況を表わすのに何ページにもわたる壮大な交響楽にする必要はない。場面はヴィオレッタの零落した状況で始まる。すぐに一時的な繋留部分があるが、この繋留部分も不安と悪夢の意味合いを込めて演奏されるべきである。何が起ころうとしているのか? するとトリルが聞こえる。ヴェルディはこれを熱狂的に生きる喜びとして表現するが、抑制に欠けるトリルは、まるで光り輝いて燃え尽きてしまう前兆のようだ。この音楽の中に幽霊のように個々の登場人物が現れ、饗宴の酔いしれた空気の中で動いている。これらの登場人物は、それぞれが生きている環境の奴隷であり、そこから逃げ出そうとしているのだ。

 この退廃的な状況の中で愛が生まれる。ここで生まれた愛はある意味では聖なる花である。なぜなら、死がすぐそこにあることが分かっていながら、自分を捧げようとするからだ。》と解説した。

 

<「病死」と「メロドラマ」>

 スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』は結核と癌を比較して論じたものである。『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタに起きたこと、纏った隠喩は、ソンタグの指摘そのままである。

結核は時間の病気である。結核は生をせきたて、際立たせ、霊化する。英語でもフランス語でも、肺病は「疾駆する」と言われる。癌の方は歩くというよりも、段階を経てゆく。そして、とどのつまり、「終局を迎える」のだ。(中略)結核は貧困と零落ゆえの――乏しい衣料、痩せた体、暖房のない部屋、ひどい衛生設備、栄養不足の食物などが原因の――病気とされることが多い。貧困といっても、『ボエーム生活の情景』(筆者註:プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の原作)に出てくる結核の女ミミの屋根裏部屋の貧困ぶりほどひどくないこともある。『椿姫』のマルグリット・ゴーティエなど贅沢な暮しをする結核患者であるが、ただ、内面的には浮浪の女であった。これとは対照的に、癌は中流生活のうむ病気で、豊かさや過剰と結びつく病気である。(中略)結核患者は環境を変えることで病状が好転する――いや、治るとされる。結核は湿潤性で、湿っぽいじめじめした都会の病気であるとする考え方があった。(中略)ここ百年以上に亙って、死にひとつの意味を与える方便としては結核は大モテで――まさしく人を霊化する、繊細な病気であった。十九世紀文学には、殊に若い人が結核によって苦しまず、怖がらず、美しく死んでゆく描写が多い。『アンクル・トムの小屋』のエヴァお嬢さん、『ドンビー父子商会』のドンビーの息子ポール、『ニコラス・ニックルビー』のスマイクなど(筆者註:近代日本文学でも、泉鏡花婦系図』のお蔦、徳富蘆花『不如帰』の浪子などがいて、「縁切り」(ここでは封建制度の下で女が離縁の憂きめにあう)とセットになっている)。》

結核の場合、外にあらわれる熱は内なる燃焼の目印とされた。結核患者とは情熱に、肉体の崩壊につながる情熱に「焼き尽くされた」人とされたのである。結核の隠喩はまず愛を描くのに利用された――「病める」愛とか、「焼き尽くす」情熱といったイメージがそれであるが、これはロマン主義運動の始まるずっと前のことである。それがロマン主義以降になると、このイメージが逆転して、結核の方が恋の病いのひとつの形と考えられるに到る。(中略)結核による死を描くときには感情の限りない昇華にアクセントをおくのが普通であるが、結核もちの高級娼婦の姿が頻出するところから察するに、結核は患者をセクシーにするとも考えられたらしい。(中略)結核は常習的に霊化され、その恐怖は感傷性の度をますのである。結核は『レ・ミゼラブル』の若い娼婦ファンタンのように堕落した者には、救済としての死を、セルマ・ラーゲルレーフの『幻の馬車』のヒロインのように立派な女性には犠牲としての死をもたらした。》

「高級娼婦」「パリを離れて」「情熱的な愛」「結核死」「聖女」というのはソンタグが指摘した隠喩の言説に合っている。オデットは病気になどならない、結核を患わない、死なずにゲルマント公爵の愛人として最終巻『見出された時』に登場する(スワンは癌で死に、語り手が愛したアルベルチーヌは事故死する)。

 ここで舞台裏での、謝肉祭を祝う市民たちのバッカス的な活気に満ちた合唱(バッカナーレ)は季節を示すためと同時に、ヴィオレッタが迎える死に対するパラレルワールド的な時空間を喚起するだろう。

 

 デュマ・フィスの小説『椿姫』では、アルフレードもジェルモンもヴィオレッタの死の場面に同席していない。アルフレードヴィオレッタの死の後に、入手した手記で死の際の様子を知るばかりである(ヴィオレッタと父ジェルモンとのいきさつさえも)。ついで、戯曲『椿姫』ではアルフレードを駆けつけさせるが、父は登場させない。そして、『ラ・トラヴィアータ』では、アルフレードに続いて父ジェルモンも到来させた(新派『婦系図』でも、早瀬主税(ちから)と愛人お蔦を別れさせた主税の師酒井俊蔵が最後にお蔦を許し、最終幕『めの惣の二階座敷』では小説と違って、いまわの際のお蔦の枕元に主税を駆けつけさせて涙を絞るのと同じ構造)。

 ヴェルディのオペラは『ナブッコ』『ルイーザ・ミラー』『リゴレット』『シモン・ボッカネグラ』などに顕著なように「父と娘」の父性愛がテーマの一つ(『ドン・カルロ』『シチリアの晩鐘』に見る強権的な父と息子の確執もまた)であるが、『ラ・トラヴィアータ』も義理的立場の父と娘の関係(そして父と息子の葛藤)のテーマと見なすことが可能で、三人の時空間を一緒にすることで愁嘆場のメロドラマは完成する。逆に言えば、ヴェルディのオペラには「母」が不在であって、『ラ・トラヴィアータ』でも「母」という語は一言も登場しない。

 フロイトは性愛理論の『男性における対象選択のある特殊な型について』で、男性の「娼婦型女性への愛」において、愛する女を道徳的退廃から「救済」しようとする願望がみられるが、父親を介して母親に娼婦と結び付いた存在を想い描き、そんな母親を救済したいと願う、と論じている。

 プルースト失われた時を求めて』でも、語り手の母親に対する愛憎と、母の死に対するサドマゾヒズム的感情は重要なテーマとなっていた。

ジェルモン  約束は守ります…私の娘としてこの胸に抱きしめに来た、健気な娘よ…》

 続いてアルフレードに、

ヴィオレッタ  この私の過ぎし日の肖像画を受けとってちょうだい。貴方をこれほど愛していた女がいたことを思い出してね。もし年頃の清らかなお嬢さんが貴方に心を捧げ…貴方のお嫁さんになるなら…この肖像画を渡して、この人は天使たちの間で僕と君のために祈ってくれている人だよと伝えてね。》

 ヴィオレッタは、ジェルモンとの約束(「私の娘の救いの天使になってやって下さい」)を果たすとともに、すでに「聖女」として天上世界から、愛するアルフレードの記憶の中の「承認」に生き続けようとしている。

 

 プルーストは『失われた時を求めて』で語り手のラシーヌ体験を主題的に扱っているが、1888年から1903年にかけて流行していたオペレッタ、ヴォードヴィル、風俗劇を、主目的が社交の場であったにしても、かなり観ていることが書簡集からうかがえる。『椿姫』もその一つで、他に当時メロドラマとして成功した『羊の足』『ジゴレット』について、「かなり出来が悪い」「うんざりした」との否定的感想を残している。それでも、プルーストはメロドラマにサディスムを、美徳、迫害、犠牲、贖罪の演劇性、儀式性を観ていた、と言えよう。

『スワン家のほうへⅠ』の『コンブレー』で、コンブレーの町はずれのモンジュヴァンで、語り手の少年がかいま見るヴァントゥイユ嬢とその女友達とのレスビアン場面で、《娘だけを生き甲斐にしてきた父親の肖像写真に、当の娘が女友だちをそそのかしてつばを吐かせるといった場面が見られるのは、ほんとうの田舎家のランプのもとではなく、むしろブールヴァ―ルの大衆劇場のフットライトに照らし出された舞台上のことである。人生においてメロドラマの美学に根拠を与えてくれるのは、サディスムぐらいしかない。》と「メロドラマ」という概念を軽蔑的に用い、ここからサディスム論を展開してゆくのだが、そのサドマゾヒスト性は『失われた時を求めて』に通底するものだろう。

 吉川一義は『『失われた時を求めて』への招待』の「第9章 サドマゾヒズムから文学創造へ」のなかで、《スワンが嫉妬に苦しむのは、すでに見たように「間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけ」であると語り手は断言する。スワンは、「オデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつ」のおかげで、「女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるように」なり、「そうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させる」。語り手によれば、「スワンの嫉妬心は、どんな敵でもためらうほどの渾身の力で打撃を食らわせ、かつて経験したことのない残酷な苦痛を味わわせたのに、それでもまだ苦しみようが足りないとみて、さらに深い傷を負わせよう」とする。わが身にみずから苦しみを与えるこのスワンこそ、明白なサドマゾヒストでなくてなんであろう。》

 そういう意味では、第二幕から第三幕に到るアルフレードもまたサドマゾヒストなのかもしれない。小さな災いによって大きな災いをしらっとドラマ化する身勝手なジェルモンは言うに及ばず。

 メロドラマ性を強化して「泣けるオペラ」を作った『ラ・トラヴィアータ』の作曲家ヴェルディと台本作家ピア―ヴェもまたサドマゾヒストであろう。しかし、それは吉川の次の補完の意味においてである。

プルーストは、芸術や小説の創作に必要不可欠なものは苦痛であるから、芸術家たる者はみずからに苦痛を与えることに歓びを見出すサドマゾヒストたらざるをえない、と考えていたのではなかろうか。特殊な性愛に見えるサドマゾヒズムは、『失われた時を求めて』の中心主題である文学創造と密接に結びついているのだ。その証拠に、プルーストは『見出された時』でこう言う、「芸術家とは、意地の悪い人間であるというよりも、むしろ不幸な人間なのだ。[…]侮辱を受けたことによる怨恨や捨てられた苦痛は、そんな目に遭わなければけっして知る機会のない秘境であり、その発見は、人間としてはどれほど辛いことであろうと、芸術家としては貴重なものになる」。

『見出された時』の有名な文言、「作品は、掘抜き井戸のようなもので、苦痛が心を深く穿てば穿つほど、ますます高く湧きあがる」という命題も、このような文脈で理解すべきだろう。》

 

 18世紀の「慈悲とハッピー・エンドのオペラ」(ヘンデルモーツァルト)を経て、直情的な19世紀の「破滅のオペラ」(ヒロインの歌姫(デーヴァ)が、焼身の『ノルマ』『神々の黄昏』、断頭台の『アンナ・ボレーナ』『マリア・ストゥアルダ』、刺殺の『カルメン』『リゴレット』、絞殺の『オテロ』、自殺の『マダム・バタフライ』『トスカ』、狂死の『ルチア』、結核死の『ラ・ボエーム』)を代表する『ラ・トラヴィアータ』は幕を下ろす。

ヴィオレッタ  (再び生気を得て)不思議だわ!…

全員  どうした!

ヴィオレッタ  急に苦しみがなくなったの。いつもとは違う活力が…体内によみがえってくるの! ああ! 生きかえるのだわ…うれし…い! (長椅子の中に倒れる)

 

スワンの恋』(1913年)と同時代のオペラ、作曲リヒャルト・シュトラウス、台本ホフマンスタールの『バラの騎士』(1911年)は、19世紀オペラに反論するかのように、最後に男女が結ばれるなり、破滅するなりに逆らって、元帥夫人と若いオクタヴィアンの男女の後朝(きぬぎぬ)からはじまり、最後は『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』で時間の刻印を思い知るように、思索的かつ自省的な元帥夫人はオクタヴィアンから手を引き、もっと若い女性に愛人を譲り渡す。メロドラマでも聖女でも病死でも破滅でも直情でもなく、和解のようでいて苦い、20世紀オペラのはじまりと同時に終焉、長いお別れ、であったのかもしれないが……同じように、恋愛心理における「無数の自我」を多重映像化で描き、20世紀文学を開いた『失われた時を求めて』の『スワンの恋』も、愛死から遠く、苦く、巻を閉じる。

《しかし目が覚めて一時間がたち、短く刈った髪が汽車のなかで乱れないよう床屋にあれこれ指示をしているとき、スワンはふたたび夢のことを考えた。すると、ごく身近に感じられて目に浮かんだのは、オデットの青白い顔であり、あまりにも痩せこけた頬であり、やつれた目鼻立ちであり、隈のできた目であり――情愛がつぎつぎと生じてそのあいだはずっとオデットを愛していたからこそ、この最初の第一印象を長いこと忘れていたのだ、――要するにはじめてふたりが結ばれて以降もはや注意しなくなっていた特徴ばかりだった。おそらくスワンが眠っているあいだに、記憶はこのはじまりにさかのぼり、そのときの正確な印象を探し出してきたのである。そこでスワンはもはや不幸ではなくなり、同時に自分の道徳的水準が低下したときにたちまち間歇的に頭をもたげる野卑な口調で、心中でこう言い放った。「いやはや、自分の人生を何年も台なしにしてしまった。死のうとまで思いつめ、かつてないほどの大恋愛をしてしまった。気にも入らなければ、俺の好みでもない女だというのに!」》

                                    (了)

       *****引用または参考文献*****

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス ヴェルディ 椿姫』海老沢敏、名雲淳子訳(音楽之友社

*監修永竹由幸『新潮オペラCDブック ヴェルディ[椿姫]』(オペラ対訳・解説 永竹由幸)(新潮社)

*高崎保男『ヴェルディ 全オペラ解説②』(音楽之友社

*長木誠司『オペラ 愛の壊れるとき』(音楽之友社

アレクサンドル・デュマ・フィス『椿姫』新庄嘉章訳(新潮社)

マルセル・プルースト失われた時を求めて』(『1スワン家の方へⅠ(『コンブレー』)』、『2スワン家の方へⅡ(『スワンの恋』)』、『3花咲く乙女たちのかげにⅠ(『スワン夫人をめぐって』)』、他)吉川一義訳(岩波文庫

吉川一義編著『プルーストスワンの恋」を読む』(白水社

吉川一義『『失われた時を求めて』への招待』(岩波新書

鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて 「スワン家の方へ」精読』(PHP研究所

*『プルースト全集16,17,18(書簡1,2,3)』岩崎力他訳(筑摩書房

*フィリップ・ミシェル=チリエ『事典 プルースト博物館』湯沢英彦中野知律横山裕人訳(筑摩書房

*ジャン=イヴ・タディエ『評伝 プルースト吉川一義訳(筑摩書房

*工藤庸子『プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか』(中公新書

*中尾裕紀子『プルーストとメロドラマ ――ヴァントゥイユ嬢のサディズムの場面をめぐって――』(「仏文研究(1998)、29」)(京都大学

岡田温司マグダラのマリア ――エロスとアガペーの聖女』(中公新書

*『それぞれの『失われた時を求めて』 立教大学公開セミナー「新訳でプルーストを読破する」』(第2回『スワン家の方へⅡ』工藤庸子)(WEB岩波「たねをまく」)

スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』富山太佳夫訳(みすず書房

リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ、イタリアの心 ヴェルディを語る』田口道子訳(音楽之友社

ロラン・バルト『神話作用』篠沢秀夫訳(現代思潮社

フロイトフロイト全集11』(「男性における対象選択のある特殊な型について」)高田珠樹訳(岩波書店

ジュリア・クリステヴァプルースト 感じられるとき』中野知律訳(筑摩書房

*ジャン・シャロン『高級娼婦リアーヌ・ド・プージィ』小早川捷子訳(作品社)

*ミシュリーヌ・ブーデ『よみがえる椿姫』中山眞彦訳(白水社

*加藤浩子『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』(平凡社新書

*香原斗志『連載55 イタリア・オペラの楽しみ:「ラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタはなぜ「うれしいわ!」と言って死んだのか』(毎日新聞2019/2/13 )

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社

岡田温司『オペラの終焉 リヒャルト・シュトラウスと<バラの騎士>の夢』(ちくま学芸文庫)