文学批評 川上未映子『夏物語』を斜めから読む(ノート) ――「カントとニーチェのあいだ」をジョイスのように

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ジェイムズ・ジョイス

 川上未映子ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』についてたびたび語っている。

ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は私の中で定点的な作品として存在していて。あれって一晩の話じゃない? 一晩で見た長いんだか短いんだかよくわからない夢の、めくるめくお話だというラインはあるんだけれど、まあ、ほとんどストーリーを追えないですよね。ずっとそのときそのときのきらめきみたいなものだけが連続していて、意味が追えなくて。私たちが知ってる「読む」という行為そのものをまず脱臼させられるじゃない? しかもとても長くて。私はあれが詩だなと思うんですよね。それにずっとすごく強く惹かれていたから、自分にとっての「詩」もそれを読んだときにしかあらわれない、二度と同じ影を落とさないレースの模様であるべき、みたいな、そういう気持ちがあったんですよね。つまり伝聞できない、要約できない、聞いたときにしかあらわれないものが、言葉による詩だと思ってた。(中略)私は詩を書くんだ、詩をやるんだ、と若い頃に思っていたときは、言葉と言葉がぶつかったときに出てくるナンセンスさとかを、物質や模様と捉えて「詩」が理解できると思ってたの。つまりさっき言った『フィネガンズ・ウェイク』的なものが詩の表現の極北だと思ってたんですよね。ときどき意味が見えたり、でも見失ったり、それこそが言語化できないもののエッセンスだ、みたいな。意味がとれるような思いみたいなものは、どのように形容されてもそんなにポエジーとしてレアなものじゃなくて。

 ウィトゲンシュタインが文意とか文脈が成立してないときっていうのは、それは問題にすらならないって言うんだけど、それは問題じゃなくても、意味がとれない文章が並んでるってこと自体が、わたしにとってはすごい体験だったんです。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、穂村弘「ロングインタビュー べつの仕方で」)

 あるいは、

《私はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が好きなんです。読むというか、目に入ってくる感触が一回一回顔の違う花火みたいで。ただ小説の場合、言葉のエッジが立ちすぎると内容を相殺してしまう恐れもあるのかもしれないと感じる瞬間もあって。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、多和田葉子「からだ・ことば・はざま」)

 あるいは、

《「例えば『フィネガンス・ウェイク』では言葉そのものに興奮させられたんですよね。光を見るような言葉の体験をしたというか。もちろん原文で読めるべくもないんだけれども、柳瀬尚紀さんの訳を読んでいると、原文で読んでもきっと感受するものは同じに違いないって信じられる瞬間がいっぱいあるんです。『ユリシーズ』の「ペネロペイア」もたまらなく好きですね。まったく隔たる作品だけれども、あの現在と想起がまみれて言葉に紡がれていく感じが『たけくらべ』と同質なんですよね、自分にとっては。私にとっては詩の体験というのは、やっぱりああいうものを読んだ時にあるのかもしれません。小説や物語の中に詩を発見してきたのかもしれない。散文の中に詩がいつも潜んでいて、それが光って見えてくる感じなのかな。」》(WEB本の雑誌「作家の読書道」)

 

 川上未映子『夏物語』はAID(非配偶者間人工授精)をめぐる生殖倫理、「出産」がテーマの一つであるからには、産む「母」とは何かという問いかけにばかり目が行きがちだが、本人が産むわけではない「父」の存在とは何なのかも隠れたテーマとなっている。

 ジョイスにおける「出産と父のテーマ」について、E・R・クルチウスの批評「ジェイムズ・ジョイスと彼の『ユリシーズ』」がある。

《ある挿話(第十四)全体は産院を舞台として、「産科学および法医学の最重要問題」に関する詳細な議論を導き出している。生殖と受胎とは医学的法学的に、しかしまた医キュニコス派的(medicynisch)神学的にも、取り扱われる。「パルトゥラとペルトゥンダにかけて(ペル・デアム・パルトウラム・エト・ペルトウンダム)!」

 出産のテーマは、『ユリシーズ』の、いや、ジョイスの思考世界全体のあらゆる基本モティーフが交差する幾何学的な点であると言ってよい。

 この点から父・息子・問題の複合体(コンプレツクス)が展開してゆく。そこにはまた性的両極性の問題――男性的原理と女性的原理との関係――が多様に編み込まれている。

 この第二のテーマは、午前に劇場の広告を見たときにはじめてブルームの意識にのぼる。「今夜の『リア王』公演。ミセス・ブラウンドン・パーマー。あの役に扮した彼女をもういちど見たい。昨夜は彼女が『ハムレット』をやった。男役。ハムレットは、じつは女だったのかもしれない」。女優によって演じられたハムレット。彼は女だったのかもしれない。百九十ページでわれわれはシェイクスピアのある注釈者がおなじ仮説を立てていることを知るのだが、ブルームはおそらくそれをまったく知らずに、この疑問をいだく。こうして両性具有のモティーフが導入される。男性と女性との両極性はあるいは絶対的なものではないのではなかろうか? 男性が同時に女性であることはできないのだろうか? 子供を産むことは? 男性でありながら妊娠するという文学的モティーフが浮びあがる。スティーヴンが言う、「ボッカチオのカランドリーノは、みずから妊娠したと想いこんだ最初にして最後の男です」。自然の内部ではそれは不可能なことである。しかし、「ハムレットが予言したように天国の節約がおこなわれ、栄光を授けられた男、半陰半陽の天使がおのれ自身の妻となり、結婚はもはや存在しないということならまた別ですがね」。シニックなマリガンはスティーヴンのこの言葉を把えて、諷刺劇「各人がそれぞれの妻」の構想を描いてみせるが、のちに彼自身その体軀の肥満のために医師ディクソンにからかわれ、そは「前立腺嚢(まえだちのいずみのふくろ)のうちなる、あるは男の子宮のうちなる、卵子懐胎(たまごのはらみ)の兆」を示すものかとたずねられる。

 第十五挿話のグロテスク模様のなかで、ブルームは「新しき女性的男性の好見本」とされる。彼は叫ぶ、「ああ、早く赤ちゃんを産みたいわ」、そして看護婦ミセス・ソーントンの手を籍りて、「どれもきれいな、貴金属のような顔立」の男子八人を産みおとす。のちに、娼家の女将ベラ・コウエンが無頼漢ベロに変身するにつれて、彼は娼婦になる。この二つの変身はブルームに潜在しているマゾヒズムフェティシズム的な性倒錯の幻覚的現実化として説明できる。これは彼の思春期の体験、とくに女役としての行動から形成されたものである。

 これがレオポルド・ブルームの瑣小な倫理的欠陥である。しかし根本的には彼は善良な愛すべき人間である。彼は老婦人、盲人、乞食、動物に親切である。そして彼には強い家庭感情がある。憂愁に満されて彼はしばしば自殺した可哀想なパパを思い起す。また生後十一日で死んだ息子、小さなルーディーを悼む。彼はいまや彼の種族の最後の人間である。「息子はない(ノウ・サン)」。

 ブルームには息子がなく――スティーヴンには父親がない。彼の肉体上の父サイモン・ディーダラスはたしかにまだ生きてはいるのだが、スティーヴンは父親と妹たちとから訣別してしまった。彼は肉体上の父親一般を否定している。父親なるものは精神的生殖としてだけ意味がある。「意識的に子供を産むという意味での父親なるものは、人間には知られていない。それは唯一なる父から唯一なる子への神秘的な遺産であり、使徒の相続なのです」。(中略)

 確立されているあらゆる秩序の相対化、これがおそらくジョイスの作品を考察する際のもっとも包括的な思想的パースペクティヴである。時間と空間、顕勢的なものと潜勢的なもの、個性、性、生、死の相対化。この観照形式によってはじめてジョイスは、生なきものが語り、死者ないしその場に居合わせないものたちが出現し、動物的形象と人間と、男性形態と女性形態とがたがいに移行しあう、あの第十五挿話のヴァルプルギスの夜を形成しえたのであった。そしてまた象徴的技法とパロディとは、いや、結局はユリシーズの構成全体が一つの審美的相対主義の上に成り立っているのである。》

 

 ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』に先立って『ユリシーズ』を書き、それに先立って『若い芸術家の肖像』を、さらに先立って『ダブリナーズ(ダブリン市民)』を書いたが、デビューしたのは抒情詩人としてであった。

『夏物語』の第一部は、『乳と卵』をリメイクしたものだが、小説を書こうとして書けないでいる夏子の姿は、『若い芸術家の肖像』のスティーヴンに通じるところがある。

《「緑子、夏は、小説書いてるねんで」

 巻子が空になった缶の腹をへこませながら言った。すると緑子は顔をさっとこちらにむけ、あきらかに関心をもったようにまぶたをぴくりとひきあげた。巻子はまたいらんことを、と思うのと同時にわたしは、いやいやいやいや、と巻子の言葉に言葉をかぶせた。

「書いてない書いてない」

「なんでや、書いてるやんか」

「いや、書いてるけど書いてない、というより、書けてないっていうか」

「なんでや、がんばってるやないの」巻子は唇を少し尖(とが)らせ、どこか誇らしげな表情をして緑子のほうをみて言った。「緑子、夏はすごいんやで」

「や、すごない」わたしは少し苛だちを感じて言った。「すごいわけないやん。書いてるのはまだ、なんていうの、趣味やのに」

 そういうもんかなあ、と巻子は首をかしげて笑ってみせた。巻子にとっては何の問題もない普通の話をしただけなのに、それにたいして言いかたが少し強くなってしまったかもしれないと思った。そして、それと同時にわたしは自分で使った趣味という言葉に後味の悪さのようなものを感じていた。傷ついたと言ってもいいかもしれなかった。

 たしかに自分の書いているものが小説といえるのかどうかも覚束(おぼつか)ない。それは本当だった。でもそれと同時に自分は、やっぱり小説を書いているのだという気持ちもあった。それは強い気持ちだった。はたからみれば何の意味もないことかもしれない。いつまでやっても誰にも何の意味ももたらさない行為なのかもしれない。でも、わたしだけはわたしのやっていることに、その言葉を使うべきじゃなかったのではないだろうか。とりかえしのつかないことを口にしてしまったような気持ちになった。

 小説を書くのは楽しい。いや、楽しいというのとは違う。そんな話じゃないと思う。これが自分の一生の仕事なんだと思っている。わたしにはこれしかないのだと強く思う気持ちがある。もし自分に物を書く才能というものがないのだとしても、誰にも求められることがないのだとしても、そう思うことをわたしはどうしてもやめることができないでいる。

 運と努力と才能が、ときとして見わけがつかないものであることもわかっている。それに結局のところ――この何でもないちっぽけな自分がただ生きて死んでいくだけの出来事にすぎないのだから、小説を書こうが書くまいが、認められようが認められまいが、本当のところは(・・・・・・・)何も大したことではないのだということもわかっている。こんなに無数に本が存在する世界にたった一冊、たった一冊――自分の署名のついた本を差しだすことがたとえできなくても、それは悲しむことでも悔しく思うことでもないのだと。それはわかっているつもりなのだ。

 でも、そこでいつも、巻子と緑子の顔が浮かんでくる。洗濯物がぐちゃぐちゃに積みあがったアパートの部屋、いつか巻子が背負っていたものなのか緑子のものなのか、あるいはわたしのものだったのか、色あせた合皮の赤いランドセルに入った無数の横皺が浮かんでくる。暗い玄関に湿気をたっぷり吸いこんでくたくたになった運動靴、コミばあの顔、一緒に掛け算を覚えたこと、米がなくてコミばあと巻子と母と四人で小麦粉と水をこねて団子を作ってそれをぐらぐら茹でたこと――何が楽しかったのか、それらを大笑いしながら食べたときのことが頭に浮かんでくるのだ。西瓜の種のちらばった新聞紙がにじんでいるのだ。コミばあのビル掃除について行った夏の日のことを、みんなで小さなビニル袋につめた内職の試供品のシャンプーのにおいを、ひんやりした青い影の温度を、いつまでも帰ってこない母を不安に思ったことを、そして工場の制服を着た母が笑顔で帰ってきたときの、あの気持ちを思いだしてしまうのだ。こんなふうにつぎつぎにやってくるものと、わたしが小説を書きたいと思うことにどんな関係があるのかはわからない。わたしが書きたいと思う小説とわたしのこうした感傷は遠くにあるもののはずなのに、もう駄目かもしれない、わたしには文章なんて書けないのだと思うとき、いつも頭に浮かんでくるのだ。もしかしたら、こんなことを思いだすようなわたしだからいつまでたっても駄目なのかもしれない。わからない。でも、そのわからなさよりも、コミばあもいなくなって、母もいなくなって、巻子と緑子のふたりを残して東京までやってきたわたしが十年たっても何も結果を出せないでいること、ふたりの暮らしをちっとも楽にさせてやれないことを思うと、どうしようもなく胸が痛む。そんな自分が恥ずかしいし情けないし、本当のことを言えば、怖くて、どうしていいのかがわからなくなる。》

 ジョイス『若い芸術家の肖像』末尾のスティーヴンの若き高揚感、有名なフレーズ(「ようこそ、おお。人生よ! ぼくは出かけよう、現実の経験と百万回も出会い、ぼくの族(やから)のまだ創(つく)られていない意識を、ぼくの魂の鍛冶場(かじば)で鍛えるために」)は、『夏物語』の第一部末尾の精神的惨めさとは落差がある。

『若い芸術家の肖像』では、

四月二十六日 母は買ったばかりのぼくの中古の服を直している。ぼくが故国や友人から離れて一人きりの生活で、人間の心とはどういうものか、それは何を感じるものかを学んでほしいと祈っているそうだ。アーメン。そうなりますように。ようこそ、おお。人生よ! ぼくは出かけよう、現実の経験と百万回も出会い、ぼくの族(やから)のまだ創(つく)られていない意識を、ぼくの魂の鍛冶場(かじば)で鍛えるために。

四月二十七日 古代の父よ、古代の芸術家よ、永遠に力を与えたまえ。》

 対して、『夏物語』第一部は次のように終わる。

《わたしは風呂場に行って服を脱ぎ、パンツについたナプキンを剥がしてじっとみた。血はほとんどついてなかった。ティッシュにくるんでからゴミ箱に捨て、新しいナプキンの包装をとってパンツの股のところに装着してすぐに穿けるようにした。それをバスタオルのうえに置き、浴室に入って熱い湯を浴びた。

 傘を思いきりひらいたように、湯は無数の穴からいっせいに飛びだし、冷たくなった足の先がじんじんと鳴るように痛んだ。肩が内側から破れるようにしびれて、太股と両腕に大きな粒の鳥肌がたった。熱い湯はわたしの皮膚を打ち、温め、浴室の小さな空間とわたしとの境目を少しずつ溶かしていった。その白さが見えるほど湯気がたちこめても、目のまえの鏡には曇らない施しがされているので、ここではいつでも自分の体が見えるのだった。

 わたしは背筋を伸ばして、顎を引き、まっすぐに立った。少し動いて、顔以外のすべてを鏡に映してみた。瞬きせずにじっと見た。

 真んなかには、胸があった。巻子のものとそれほど変わらないちょっとした膨らみがふたつそこにあって、さきには茶色く粒だった乳首があった。低い腰は鈍くまるく、へそのまわりにはそれを囲むように肉がつき、横に何本もゆるい線が入り、渦を巻いていた。あけたことのない小さな窓から入ってくる夏の夕方の光と蛍光灯の光がかすかに交差するなかで、どこから来てどこに行くのかわからないこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、いつまでもそこに浮かんでいるようだった。》

 しかし、『ユリシーズ』に再登場したスティーヴンも、『夏物語』第二部の夏子も、いまだ作家の卵にすぎない設定は同じだ。

 

 岸政彦が論考「川上未映子にゆうたりたい」で、『夏物語』の「笑橋(しょうばし)」(京橋)について言及しているが、それはジョイスの「ダブリン」に匹敵するだろう。

《『夏物語』のなかに出てくる「笑橋(しょうばし)」という街は、架空の街だが、そのモデルのひとつは間違いなくこの京橋だろう。

 この街は、梅田やミナミほど有名ではなく、鶴橋や釜ヶ崎ほどの「濃さ」もなく、大阪人の感覚でいえば十三(じゅうそう)に近い、でも十三よりははるかに大きな、貧しい、柄の悪い、過酷な街で、そこでは私たち男は多少の金さえあれば楽しく遊ぶことができるが、『夏物語』ではこの街で働いていたノゾミと杏(あん)という二人の少女の物語が語られる。それはとても、この街が何によって成り立っているかをよくあらわす凄惨な物語である。この街は、そういう街なのだ。(中略)川上未映子にとっての大阪、あるいは京橋というものは、一方で女たちが殴られ、搾取される街であると同時に、確かに子ども時代の思い出や、母や姉に対する深い愛情と結びついている。(中略)『夏物語』の前半と『乳と卵』のはじめのバージョンとを比較して気づくのは、「笑橋」という大阪の場末の街の描写が、格段に増えていることだ。『乳と卵』を書き直すときに、これほど街の物語をたくさん入れたのは、理由のないことではないだろう。書く、ということが、自分に対する落とし前であるなら、笑橋という街をこれほど丹念に丁寧に豊かに書くということは、川上未映子の表現において、この街での経験がいかに大切なものだったかということを表している。》

 とはいえ、ジョイス『ダブリナーズ』はダブリン市民の描写だったし、『若い芸術家の肖像』も『ユリシーズ』もダブリンのすべてであったから、川上がジョイスの遡行に学んだだけとも言える。

 

 ジョイスといえば「言語」および「文体」だが、川上もはじめからそうだったのは言うまでもない。

 川上未映子による村上春樹へのインタビュー『みみずくは黄昏に飛びたつ』はさまざまな示唆にとむ。

 ジョイスに言及した部分がある。

川上 あと、今度のご本(筆者註:村上春樹『職業としての小説家』)でも触れておられたキャビネットの話、イメージとしても素晴らしいですね。村上さんの中に、たくさんキャビネットがあるんだと。

村上 そう、自分の中に大きなキャビネットがあって、そこに抽斗(ひきだし)がいっぱいあるんですよ。

川上 それに関連して引いていらっしゃる、ジョイスの「イマジネーションとは記憶のことだ」という言葉も興味深いです。意識したものも意識しなかったものも、塊(かたまり)ずつ、それぞれキャビネットにどんどん入っていく。そこで肝心なのは、書く人も書かない人も、実はキャビネットをちゃんと持ってるということだと思うんです。

村上 みんな持ってますよ、けっこういっぱい。》

 

村上 僕にとっては文体がほとんどいちばん重要だと思うんだけど、日本のいわゆる「純文学」においては、文体というのは三番目、四番目ぐらいに来るみたいです。だいたいはテーマ第一主義で、まずテーマが云々が取り上げられ、それからいろんなたとえば心理描写とか人格設定とか、そういう観念的なものが評価され、文体というのはもっとあとの問題になる。でもそうじゃなくて、文体が自在に動き回れないでは、何も出てこないだろうというのが僕の考え方です。》

川上 やっぱりわたしなんかも文体でしたよね。『乳(ちち)と卵(らん)』という小説にかんしても文体のことしか言われないぐらいの感じだった。

村上 あれ、文体のことしか言うことないよ。

川上 (笑)

村上 もちろんそれはいい意味で言ってるんです。『乳と卵』って、はっきり言って文体がすべての小説だと僕は思う。そしてそれは素晴らしい達成だと思う。そんなこと普通の人にはまずできないから。》

 村上は「文体は心の窓である(Style is an index of the mind.)」という英語の言葉を紹介したうえで、サリンジャーの文体の力、変化に感嘆してから、

村上 サリンジャーはさておき、『乳と卵』の話に戻すと、あの文体はもう封印したんだ。なんだかもったいないような気がするけど。

川上 作品に必要があれば、また使うかもしれないです。さっきの理由とはべつに、初期のあいだはいろいろチャレンジしてみようという気持ちもあったので……で、その次が『ヘブン』という小説だったのです。

村上 うん。あそこでまったく違う文体になった。

川上 『ヘブン』は三作目の小説ですが、意識していたのは村上さんの三作目、『羊をめぐる冒険』なんですよね。内容ということではなくて、そのあり方というか。ストラクチャーが導入されて、村上さんはこの作品で大きく飛躍されました。わたしも絶対に三作目で――もちろん『羊』とまでは言わないですけれど、村上さんが変わったようにわたしも変わらなければいけない、というオブセッションがありました。村上さんとデビューの歳も同じだったりするので。》

 

 リアリズムの文体による『ヘブン』を経て、『夏物語』第一部は『乳と卵』の文体に、「わたし」の正体が書き込まれることで、長編小説向けに切れ目のない重層的で濃密な文体が調整されたとはいえ、ともかく戻ってきた。

 例えば、大阪弁の自虐的なかけ合いの悲喜劇がある。

《巻子の胸にまつわる悩みというか問題というか探求心は、大きさだけではなく、色も重要な要素だったのだ。それがいつごろなのかはわからないけれど、わたしは風呂あがりに冷蔵庫からふたつの薬品を指先にとって乳首に塗り、激痛と痒みにもだえながら耐えている巻子を想像してみた。いまや高校生でも整形手術をする時代なのだから、乳首が燃えるくらいなんでもないことだという見方があるのもわかるけど、しかし巻子である。なぜ巻子がいまさらそんなことをしなければならないのか。

 もちろんわたしだって、自分の胸について悩みというか、思うところがないわけではない。いや、正確に言うと、思ったことがないわけではない(・・・・・・・・・・・・・・)。(中略)

 巻子はどうなんやろう。豊胸手術をして胸を大きくしたい、乳首の色を薄くしたいのは、いったいなんでなんやろう。そんなことを考えてみたが、しかしとくに理由があるわけではないんだろう。人がきれいさを求めることに理由なんて要らないのだから。

 きれいさとは、良さ。良さとは、幸せにつながるもの。幸せにはさまざまな定義があるだろうけれど、生きている人間はみんな、意識的にせよ無意識にせよ、自分にとっての、何かしらの幸せを求めている。どうしようもなく死にたい人でさえ、死という幸せを求めている。自分というものを中断したいという幸せを求めている。幸せとはそれ以上を分けて考えることのできない、人間の最小にして最大の動機にして答えなのだから、「幸せになりたい」という気持ちそのものが理由なのだと思う。でもわからない。もしかしたら何かもっと、巻子には幸せなんていう漠然としたものじゃなくて、何か具体的な理由があるのかもしれない。(中略)

 それから巻子はゆっくりと湯船に浸かりなおし、わたしたちはさっきとおなじように前方を見ることもなく眺めていたが、心の目に焼きついて離れないのは、もちろん巻子の胸である。巻子の胸、そして乳首が、ざばあっと湯のなかからいきなり現れたその様子が、なぜかネッシーとか大艦隊などが水底からその巨体を浮かびあがらせるようなイメージかつスローモーションで、何度でも再生されるのだった。

 蚊にさされた程度の膨らみしかない胸のうえにくっついた、何かの操縦パーツにもみえるような立体的な、縦にも横にも立派な乳首。横に倒したタイヤというか。あるいはいちばん濃い鉛筆で――いちばん濃いのって10Bやっけ、それで力まかせにぐりぐりと塗りつぶした直径約三センチの丸というか。とにかく、濃かった。想像以上のその色の濃さに――美しさやきれいさや幸せの話とはべつに、少々薄くしてもいいのかもしれないとわたしは思った。

「黒いやん。わたしの黒くて巨大やん。知ってるよ。わたしのがきれいでないってことは」

「や、感じかたって人によるし、それにそんな、白人ちゃうんやし。色ついててあたりまえやし」

わたしは、乳首とか色とかどうでもいいやん、そもそも興味とかないし、というような雰囲気でもって言ってみたけれど、巻子はそんなわたしの気遣いをまるっと消し去るようなため息をついた。

「わたしも、まあ、子ども産むまではゆうてもここまでじゃなかった」巻子は言った。「そんな変わらんと言われるかもしれんけど、きれいとかじゃなかったけど、でも正直、ここまでやなかった。これみてや。これはないよ。オレオかっていう話やん。お菓子のな。クッキーのな。でもな、オレオやったらまだましや。これもうあれとおなじやで、アメリッカンチェリーな、あのすんごい色、ただの黒やなくて赤がまじったすごい黒な、んでな、アメチェ色やったらまだええけどな、ほんまはな、画面の色や、液晶テレビのな、電源落としたあとの、液晶テレビの画面の色なんや。こないだ電器屋でみて、この色なんか知ってるな、どっかでみたことあると思ったらそれや。わたしの乳首や。

 んで大きさもな、なんていうん、乳首だけで余裕でペットボトルの口くらいになってさ、先生に『これ赤ちゃんの口入るかなあ』って真剣に言われたし、そんなんあんた、いままで何万個も乳首みてきた乳首のエキスパートがそう言うんやで。んで胸はぺったんこ。金魚すくいの半分だけ水入ったビニルの袋あるやろ。ふにゃふにゃの感じわかるか。あれやで。いまのこれ。そらな、子ども産んでも変わらん人も、もとに戻る人も、そらいろいろおるよ。でもとにかくわたしは、これになってしもたんや」》

 

<『たけくらべ』>

 ジョイスユリシーズ』がホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしたように、『乳と卵』は、従って『夏物語』第一部は、神話的方法とまではいかなくとも説話として、樋口一葉たけくらべ』を意識している。

川上 19歳の時に松浦理英子さんによる樋口一葉たけくらべ』の現代語訳を読んだことは本当に大事な出来事です。河出書房から出ている本ですね。10代の半ばに原文を読もうとした時は読めなかったんです。でも松浦さんが現代語訳してくれたことで『たけくらべ』に再会できました。私は思い出信奉者で懐古趣味があって、過去と現在の境目が見えないようなものに快感と快楽をおぼえるんですが、そういうものと『たけくらべ』の世界がすごく似ていたんです。カメラが一定の場所にないところも面白かったですね。時空の行き来や場所の移動の感じが、私の頭の中の運動とすごく似ていた。美登利の側から書かれていると思ったら急に美登利を見ている側にカメラが移ったりするんです。三人称というほど区画整理がされていなくて、それは目から飲み込むような読書体験でした。物語も人間はひとところにいられないんだと思わせるもの悲しさがあって。また松浦理英子さんの訳文が素晴らしくて、句読点の位置も原文のままで変えていないんです。そこがすごくありがたかった。小説をまがりなりにも書いてみようと思ったのは、こういう喜びがあると教えてもらったからです。読者に終わらずに一歩踏み込めたのは、理英子さんのおかげですね。理英子さんと対談する機会があって、それをお伝えできて時は本当に嬉しかった。だって、お風呂に入って、お湯が冷たくなるまで読んでいましたから、いつもいつも。だから単行本はボロボロなんです。》(『WEB本の雑誌 作家の読書道』)

川上 ところで『乳と卵』は、構図そのものも『たけくらべ』に負っている部分が大きいんです。男性を頂点にした社会のヒエラルキーの中に、女性を頂点とした吉原というヒエラルキー入れ子状に存在していて、その周辺の路地裏にはまだそこに組み入れられていないモラトリアムな子どもたちの世界がある。三者それぞれの世界が拮抗している図が人生そのものに見えたし、とても美しいと思えたんです。創作物の中で何か正しい状態があるとすれば、今のところ、拮抗状態のような気がします。何らかの答えがあるのではなくて、緊張状態の中にどちらでも振れるような場所へ行ける可能性がかすかに見えるんじゃないか、と。それは書きことばにしかなかなかできないことだと思います。それで、『乳と卵』では、母親の巻子と、子どもの緑子、そしてその中間にある語り手の夏子の世界を対置させてみました。登場人物の名前も緑子は美登利、巻子は大巻と『たけくらべ』から借りてきて、夏子は一葉の本名からとりました。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、松浦理英子「性の呪縛を越えて」)

 

 そういえば、『夏物語』第一部(および『乳と卵』)で、夏子のアパートがあった「三ノ輪」は「たけくらべ」の舞台、吉原の最寄り駅だ。

《アパートの最寄り駅である三ノ輪駅に着いたのは、午後二時を少しまわった頃。途中でひとり二百十円の立ち食いそばを食べ、すべてを塗り潰していくような勢いで蝉が鳴き叫ぶなか、わたしたちは駅から十分ほどの道を歩きつづけた。》

 そして、緑子のノートに登場する純ちゃんは、『たけくらべ』の信如(しんにょ)と同じく、お寺の跡継ぎである。

《◯ 学校で休み時間、みんなで将来なんになるとか、そういう話になった。これになる、とか、なんかをはっきり決めてる子はおらんみたいで、わたしも何もない。ユリユリに、みんながあんためっちゃ可愛いねんからアイドルになったらええやん、みたいなことゆうて、えー、みたいなやりとり。

 帰り、純ちゃんに将来なにして稼ぐん、ときいてみたら、寺つぐ、と言った。純ちゃんちはお寺さんで、おじいちゃんとかおっちゃんとか、お坊さんスタイルでバイクに乗って坊さんマントみたいなやつをはためかせて走ってんのよう見かける。まえにお坊さんの仕事って何すんのってきいたら、葬式、法事でお経よむんやでとのこと。わたしはまだ誰の葬式にも法事にも出たことがない。どうやってなんの、ってきいたら、高校卒業したらそういう合宿みたいなんいって、こもって、修行みたいなんするねんて。女の人でもなれるん、てきいたら、なれるってこと。(後略) 緑子》

 

<リアリズムと非リアリズム>

『夏物語』で、川上は「リアリズム」に拘った。対談やインタビューの場で、たびたびリアリズムと力説した。

《この小説には色々な人が出てきますが、男性読者から男性の影が薄いと、たまに言われることがあります。でも、それは今までとは違う、その読者に馴染みのない書かれかたをしているだけのことであって、女性の一人称小説で現在を書けば、男性はこのように見えるし動いているというリアリズムです。》(イベント「川上未映子『夏物語』―ジェンダーと翻訳―」)

《「この本を読んで特に感じたのは、登場人物の女性たちのたくましさでした。彼女たちは、弱さや傷を抱えていても、エネルギーがすごくありますよね。逆に、男性はあまりパワフルに描かれていないように感じました」

川上 そう感じていただけたのは、この小説が女性の一人称を採用して書かれていることが関係すると思います。この小説はリアリズム小説で、現代日本社会を生きる女性の登場人物の視点で男性が描かれています。なので、構造上の必然なんですよ。

 この小説について、ある男性読者から「男性のことがほとんど書かれていない」と言われたことがあるのですが、それは「男性にいい役が与えられていないじゃないか」ということだと思います。気持ちはわかりますが、リアリズム小説なので、しょうがないですよね(笑)。その意味で、私はこの小説で、男性についてはしっかり書いたつもりでいます。》(「fiat magazine CIAO!」2021.1.8)

《生殖倫理とかディストピアって、寓話とかSFの力を使ってしか書けない部分があるじゃないですか。ジャンルの形式だけが見せることのできる景色があって、思考実験だけが可能にするリアリティって確実にあるとは思うんだけど、私は今回、このテーマを小説に選んだからには、絶対に現実から離れずに、三十八歳の女の人が一人で子どもを産むときにどういうふうな手順を踏んで何にぶち当たっていくかということを、地に足をつけたままいかなきゃいけないっていうオブセッションがあったんだよね。つまり「リアリズム」でいくんだっていう、そういう決心があって。部分的にも、寓話的なほうに振ったりするのは構造上はできるんだけど、今回の物語を書くときに、それはやるべきじゃないなと思ったんですよね。(中略)

 でもなんか、自分に対しては、やっぱり身銭を切りつづけたい、みたいな気持ちがあるのかもしれない。書くときに、ぜったいに経費では落としたくないみたいな(笑)。(中略)

 でもこの身銭を切りたい感というのは不思議なものだよね。今後どうなっていくのかなと自分でも思うけれど。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、穂村弘「ロングインタビュー べつの仕方で」)

 

「でもこの身銭を切りたい感というのは不思議なものだよね。今後どうなっていくのかなと自分でも思うけれど」という「私(わたくし)小説」(川上はエッセイやインタビューであけすけに生い立ちを吐露しているから、虚実の薄膜があるにしても)の「父の不在」と「男性原理」の感傷的で忌まわしいリアリズムをあげれば、

《わたしたちはもともと父親と母親と四人で、小さなビルの三階部分に住んでいた。六畳と四畳がひとつづきになった小さな部屋。一階には居酒屋が入っていた。数分も歩けば海が見える港町。鉛のような黒い波のかたまりが、激しい音をたてながら灰色の波止場にぶつかって崩れるのをいつまでも見つめていた。どこにいても潮の湿り気と荒々しい波の気配を感じる町は、夜になると酔っ払って騒ぐ男たちでいっぱいになった。道ばたで、建物の陰で、誰かがうずくまっているのをよく見かけた。怒鳴り声も殴りあいも茶飯事で、放り投げられた自転車が目のまえに落ちてきたこともある。そこらじゅうで野良犬がたくさんの仔犬を産み、その仔犬たちが大きくなってまたあちこちに野良犬を産んだ。でもそこに住んでいたのは数年のことで、わたしが小学校にあがった頃に父親の行方がわからなくなり、そこからわたしたち三人は祖母の住んでいた府営団地に転がりこんで、一緒に暮らすことになった。

 たった七年足らずしか一緒に暮らさなかった父親は、子どもながらに背が小さいとわかる、まるで小学生のような体躯をした小男だった。

 働かず、朝も夜も関係なく寝て暮らし、コミばあは――わたしたちの母方の祖母は、娘に苦労ばかりさせる父親のことを憎み、陰でもぐらと呼んでいた。父親は、黄ばんだランニングとパッチ姿で部屋の奥の万年床に寝転んで、明けても暮れてもテレビを見ていた。枕もとには灰皿代わりの空き缶と週刊誌が積まれ、部屋にはいつも煙草の煙が充満していた。姿勢を変えるのが億劫で、こちらを見るときには手鏡を使うくらいの面倒臭がりだった。機嫌がいいと冗談を言うこともあるけれど、基本的に口数は少なく、一緒に遊んだり、どこかへ連れていってもらったりした記憶はまるでない。寝ているときやテレビを見ているとき、何でもないときでも機嫌が悪くなるととつぜん怒鳴り、たまに酒を飲むと癇癪を起こして母親を殴ることがあった。それが始まると理由をつけて巻子やわたしのことも叩いたので、わたしたちはみんなその小さな父親のことを心の底から怖がっていた。

 ある日、学校から帰ると父親がいなかった。

 洗濯物が山と積まれ、いつもと何も変わらない狭くて暗い部屋なのに、父がいないというだけで、そこにある何もかもが違ってみえた。わたしは息をひとつ飲んでから、部屋の真んなかに移動した。そして声を出してみた。最初は喉の調子を確認するみたいな小さな声を、そしてつぎは意味のわからない言葉をお腹の底から思いきり出してみた。誰もいない。何も言わない。それからめちゃくちゃに体を動かしてみた。何も考えず好きに手足を動かせば動かすほど体が軽くなり、そしてどこか奥のほうから力がこみあげてくるような感覚がした。テレビのうえに積もった埃や、流しのなかにそのままになっている汚れた食器。シールが貼られたみずやの戸や、身長が刻まれている柱の木目。いつも目にしているそんなものたちが、まるで魔法の粉をふりかけられでもしたようにきらきらと輝いてみえた。

 でもわたしはすぐに憂鬱になった。こんなのはたった一瞬だけのことで、またすぐにおなじ毎日が始まることがわかりきっていたからだ。父親は珍しく何か用事があって外に出ているだけで、すぐに帰ってくる。わたしはランドセルを置き、いつものように部屋の隅っこに座ってため息をついた。

 でも、父親は帰ってこなかった。つぎの日も、そのまたつぎの日も父は帰ってこなかった。しばらくすると数人の男が訪ねてくるようになり、そのたびに母親が追い返した。居留守を使った翌朝には、玄関先に煙草の吸い殻が散らばっていることもあった。そんなことを何度かくりかえし、父親が帰ってこなくなって一ヶ月ほどがたったある日——母親は敷きっぱなしにしていた父親の布団を丸ごと部屋から引きずりだして、点火装置が壊れてから一度も使っていなかった風呂場に力任せに押しこんだ。その黴くさく狭い空間で、汗や脂や煙草の臭いの染みついた父の布団は、驚くほど黄ばんでみえた。母は布団をじっと見つめたあと、そこにものすごい飛び蹴りを一発蹴りこんだ。そしてさらに一ヶ月が過ぎたある真夜中に、わたしと巻子は「起きや起きや」と暗がりでもせっぱつまった表情をしているのがわかる母親にゆり起こされてタクシーに乗せられ、そのまま家を逃げだしたのだ。

 どうして逃げなければならなかったのか、そんな真夜中にいったいどこにむかっているのか、意味も理由もわからなかった。ずいぶん時間がたったあとでそれとなく母親に水をむけたこともあったけれど、父の話をすることがどこかタブーのようになっていたこともあり、けっきょく母の口からはっきりした答えを聞くことはできなかった。あの夜は訳のわからないまま一晩じゅう暗闇をどこまでも走ったような気がしたけれど、着いたのはおなじ市内の端と端の、電車でゆけば一時間もかからない距離にある、大好きなコミばあの家だった。

 タクシーのなかでは酔って気分が悪くなり、中身を空けた母親の化粧ポーチのなかに吐いてしまった。胃のなかからはたいしたものは出てこず、酸っぱさと一緒になって垂れてくる唾液を手でぬぐい、母親に背中をさすられながら、わたしはずっとランドセルのことを考えていた。火曜日の時間割にあわせた教科書。ノート。シール。いちばん下に入れた自由帳には、何日かをかけて描いてきて昨日の夜やっと完成したお城の絵が挟んである。脇に入れたハーモニカ。横にぶらさげた給食袋。好きな鉛筆やマジックや匂い玉や消しゴムの入った、まだ新しかった筆箱。ラメのキャップ。わたしはランドセルが好きだった。夜眠るときは枕もとに置き、歩くときは肩紐をしっかりとにぎりしめ、どんなときも大切にしていた。わたしはランドセルを、身につけることのできる自分だけの部屋のように思っていたのだ。(中略)

 そんなふうに夜逃げ同然で転がりこんでそのまま始まったコミばあとの四人の生活は、しかし長くはつづかなかった。わたしが十五歳のときにコミばあが死に、母はその二年まえ、わたしが十三歳のときに死んでしまった。

 突然ふたりきりになったわたしたちは、仏壇の奥に見つけたコミばあの八万円をお守りとして、そこから働き倒して生きてきた。わたしには母に乳がんが見つかった中学校の初め頃から、コミばあが後を追うように肺腺がんで死んでしまった高校生時代にかけての記憶があんまりない。働くのに忙しすぎたのだ。》

 

 リアリズム技法に戻ると、

村上春樹さんは偶然を必然にできる数少ない作家の一人で、わりと初期から寓話的なモチーフや設定を使用していましたよね。そのまま、その手法で書きつづけることもできたのに、最後までリアリズムで書けなきゃだめなんだということで『ノルウェイの森』を書いた。『ノルウェイの森』は、全部リアリズムで作られた唯一の長編という意味で、とても重要だと思います。不思議なことが起きて、世界全体が比喩であるというモチーフというか世界設定はその後の作品でもずっとくりかえされるけれど、四十歳を前にして、デビュー十年目のあのタイミングでいったん『ノルウェイの森』を書けたか書けなかったか、というのは本当に大きなことだと思う。作家にとっても、読者にとっても。長期的に書くことを考える人の選択だと思います。そういうところを信頼しますね。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、穂村弘「ロングインタビュー べつの仕方で」)

 ふたたび川上未映子による村上春樹へのインタビュー『みみずくは黄昏に飛びたつ』から。

村上 うん、あのね、もう一度確認しておくと、僕の文章というのは、基本的にリアリズムなんです。でも、物語は基本的に非リアリズムです。だから、そういう分離が最初から前提としてどん(・・)とあります。リアリズムの文体をしっかりと使って、非リアルな物語を展開したいというのが僕の狙(ねら)いだから。何度も繰り返すようだけれど、『ノルウェイの森』という作品で、僕は最初から最後まで、リアリズム文体でリアリズムの話を書くという個人的実験をやったわけです。で、「ああ、大丈夫、これでもう書ける」と思ったから、あとがすごくやりやすくなった。リアリズムの文章でリアリズムの長編を一冊書けたら、それもベストセラーが書けたら、もう怖いものなしです(笑)。あとは好きにやりゃいい。

 で、これでもう何でも好きなこと書けるんだと思って、そこからしばらくして『ねじまき鳥クロニクル』を書き出したわけだけど、ある程度の精度を持つリアリズム文体の上に、物語の「ぶっ飛び性」を重ねると、ものすごく面白い効果が出るんだということが、そこであらためてわかったんです。》

村上 『ノルウェイの森』は僕としては意欲的に、いつもとは違うことをやってやろうと思って書いたんだけど、「文学的後退だった」とか、そういうふうにいろいろ言われましたね。

川上 「文学的後退」って便利な言葉だな(笑)。》

村上 学ぶということからすると、チーヴァーの翻訳(筆者註:ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』村上春樹訳(新潮社))が一番学べたかもしれないね。

川上 具体的に、どんなところが?

村上 リアリズムの部分と非リアリズムのミクスチャーというか、絡(から)み合いが非常に面白いんだ。

川上 でも、リアリズムと非リアリズムのミクスチャーという点では、春樹さんの創作の特徴で、極まっていると思うんですけど。それでもチーヴァーから学ぶところがある?

村上 僕の絡め方とチーヴァーの絡め方というのはけっこう違います。だから訳していて面白かったんじゃないかな。》

 

 つまり、川上はジョイスフィネガンズ・ウェイク』の非リアリズム的な詩、小説への応用から出発し、三作目の『ヘブン』でリアリズム文体を取り入れることで、ジョイスの文学的経歴(『若い芸術家の肖像』や『ダブリナーズ』のリアリズムに向かって)を遡行した。そして、『ユリシーズ』の「リアリズムと非リアリズムのミクスチャー」を『夏物語』で実現したが、決して「文学的後退」ではないだろう。

 

 ジョイスユリシーズ』の最終章「ペネロペイア」の「現在と想起がまみれて言葉に紡がれてゆく」(川上談)の『夏物語』版の「リアリズムと非リアリズムのミクスチャー」をあげれば、

《閉じたまぶたの裏で、色や模様が浮かんでは混じりあって消える。それが何度もくりかえされる。消毒液の匂いが均質に漂っている、誰もいない廊下を進む。病室のドアをそっと押してなかを覗くと、ベッドにあおむけになったノゾミがいる。包帯に巻かれているせいで、どんな顔をしているのかはわからない。十四歳。十四歳の頃。わたしが初めて履歴書を書いた年だ。近所の適当な公立高校の名前を書いて、薬局の使い尽くされて穴のあいた試供品の口紅を塗って、工場へゆき、朝から晩まで小さな電池の漏電を調べていた。紫の液体が指先につくとそれは深くしみこんで、いつまでも真っ青なままだった。洗っても洗っても色がとれないのは洗い場の流しにいつも積みあがっている灰皿だ。煙草の煙、いつまでも頭のなかで反響するマイクのエコー、ビールケースを外に出して、母が手をのばしてうえの鍵、しゃがんで下の鍵を締める。歩いて帰った夜の道、電柱の陰で、自動販売機の裏で、卑猥な言葉を投げかけてにやにや笑う男たち、黒くなった口のまわり、ズボンの汚れたすそ、ふらふらと伸びてくる手。わたしは急ぎ足でビルの階段をあがる。

 そのうち、いつか誰かと話した言葉と、そうでない言葉の見分けがつかなくなってゆく。夢でみた景色と記憶がゆるやかに編みこまれ、どこまでが本当のものなのかが(・・・・・・・・・)わからなくなっていく。いくつもの裸を包む細かな霧にはほんまは音があるんとちゃうか。高い壁、男湯と女湯を仕切る高い壁、銭湯のカコーンという鹿威しの音が響いている。湯船に浸かるたくさんの女たちの裸がこちらを見ている。たくさんの乳首がいっせいにこっちを見る。湯気がこもり、わたしは足の裏を揉んでいる。かかとはいつも皮がささくれだっていて、剥いても剥いてもきれいにはならない。おかんの足はいつも粉をふいていて真っ白で、爪は茶色に変色していた。コミばあが泡立てた石鹸をつけた手でわたしの足の指のあいだを洗ってくれる。湯を沸かすときのレバーのちょっとした角度がだいじ、コツがいるねん、かちかちかち、それからぼんっとガスのつく音、コミばあの裸、体じゅうに飛び散った血豆を数える。これなに? 血豆。これつぶしたらどうなるん? ここから血がぜんぶふきだして、コミばあの血がぜんぶ出て、コミばあ死んでしまうのん? あのときコミばあは、なんて答えてくれたっけ。なあコミばあ、もっと血豆を守らなあかんのとちゃうんのん、つぶれんように、血がふきだせへんように、なあコミばあ死んだらわたしどうしたらええん、なあコミばあ、死なんとって、死なんとって。コミばあ、ずっとずっとそばにおって。そんなん言いな、一緒にこれ食べよう、お腹へったら何もできひん、巻子がいっつももって帰ってくる焼肉弁当は甘い肉、たれのついた茶色いご飯。なあ巻ちゃん、さっき浮浪者みたいな人おったやん、さっきじゃなくてもいろんなところにおるやんか、家ない人、ホームレスの人、どこにも帰るところがなくなった人。わたしいつもおとんちゃうかなってどきっとするねん。なあ巻ちゃん、あそこにおる人、あそこでぼろぼろになってうずくまってる人がおとんやったら巻ちゃんどうする、家つれて帰ってお風呂入れたる? やっぱりそうする? つれて帰って、何か食べさせて、それから何しゃべったらええんやろう。なあ巻ちゃん、九ちゃん泣いてくれたよな、おかんの葬式に顔くしゃくしゃにしてきてくれて、二千円もって九ちゃん来たなあ、夏の暑い日、九ちゃんぼろぼろ泣いてくれた。コミばあ、高架下でよう叫んでたん覚えてる? わたしの手もって、巻ちゃんの手もって、電車ががあって走ってうるさくなるタイミングでコミばあ叫んでた、電車、明日になったら緑子つれて電車にのって、ゆれて、巻ちゃん帰ってくるまでどっかいこかな、せっかくやし、緑子の髪の毛ちゃんとくくって、電車座って、髪の毛多いなあ、指がどんどん入っていって森みたい、わたしみたい、なんであんた鞄もってないの、さっきまで隣に座ってたんはお父さんとお母さんやなかったん、なあ、あんたは昔、電車で会った子よな、なんでそんな笑ってるん、昔じゃない……ああそう……これって今日の朝のこと……そうか今日の朝のこと……ふうん、なんかめっさ昔みたい……新聞のちらしに……家の広告、間取りのちらし、あれにいっぱい窓を描いて、ちっちゃい四角、好きな窓……おかんの窓、巻ちゃんの窓、コミばあの窓、みんなにひとつずつ好きなときにあけられる窓を、描こう、描いたら、光が入って風が入って、そんなふうにわたしは眠った。》

 

 また、銭湯での、二人連れの女の挿話は、『ユリシーズ』のブルームの女装趣味、両性具有も連想させる。

《そんなことをぼんやり考えていると、入り口がひらいて湯気が動き、二人連れの女が入ってきた――と思ったのだが、ひと目みて、どうも直感的に何かがおかしい。ひとりはいわゆる「女性の体」をした、二十代くらいの若い女性なのだけど、もうひとりのほうが、どう見ても、これが男性なのである。(中略)

 彼らは生物学的には女性だけれど、自認する性が男性だから、それに従って男性っぽいかっこうをし、男性のホストとして接客をする。異性愛者であれば、男性として女性と恋愛もする。たとえばおなじ大阪であっても、価格設定もホステスのレベルも段違いに高い北新地なんかの本格的なクラブになると、手術で胸を取り、男性ホルモンを投与しつづけて声を低くし、髭を濃くし、性器にいたるまでの特徴をすっかり変える人がいる、というのは聞いたことがあった。けれど笑橋のおなべバーでは金銭的な問題もあるのか、そこまで本格的に乗りだしている人はいなかった。(中略)

 意識が男性であり、いわゆる異性愛者であるのなら、たとえ本人にまったく興味がなくとも、わたしらの体は刈りあげにとっては異性のものである。いわゆる普通の男が女湯に入ってくるのと、いったい何が違うのか。わたしは顎までを湯に浸けて、目を細めて刈りあげをじっとみた。最初のじりじりは、いまや明確な苛(いら)だちに変わっていた。それに異性愛的なカップルとして、混浴でもない女湯にこうしてふたりで堂々と入っているのも、やっぱりおかしいではないか。

 このことを目のまえの刈りあげに言うべきか言わんべきか、わたしはしばらく考えた。なにしろ繊細な問題ではあるし、どういう展開になるにせよ面倒な話であることには違いない。そんなことをわざわざ自分からもちかけるなんて普通に考えて馬鹿げている。でもわたしには昔からどうもこういうところが少しだけあって――それは「なんでこういうことになっているのか」と不思議に思ってしまったら最後、どうにも気になってしょうがなくなり、黙っていられなくなるということがあるのだ。もちろん頻繁に起きることでもないし、人間関係などにおいてはほとんど気にならない。そこには何か傾向のようなものがあるのかもしれない。小学生のときは、イベント帰りの新興宗教の信者の団体と電車で乗りあわせ、真実と神の存在を笑顔で説いてくる彼らと激しい口論になったし(もちろん最後は微笑みとともに憐(あわ)れまれた)、高校生のときは広場で右翼団体の演説を最初から最後まで聞き、矛盾点をしつこく質問していたらスカウトされるというようなこともあった。もしいま、刈りあげと話をするならどんな感じになるだろう――わたしはひきつづき鼻の下まで湯に浸かりながら頭のなかでシミュレーションをしてみた。

 ――いきなりすみません、あの、さっきからめっさ気になってるんですけど、あなたは男性ですよね?

 ――は? あんだら殺すぞ。

 ちゃうちゃう。ここは大阪ではないし、体格がよく鋭い目をしている男がみんなこんなふうな対応をするというわけではない。これはわたしの先入観にして偏見だ。それにわたしの切りだしかたも良くなかったような気がする。であれば刈りあげにどんなふうに話しかければ失礼がなく、わたしが抱いた疑問を伝えられ、また知りたいことにいい感じで迫ることができるだろうか。

 わたしは木の板と棒で火を起こす人みたいに意識を前頭葉の一点に集中させて高速でこすりあげ、そこにうっすらと煙がのぼってくるのを待った。とりあえず刈りあげは、わりと気のいい好青年キャラクターに設定し、こう訊けばこう返事がきてそれにたいしてはこう突っこんで返しにはこう、というような架空の対話を頭のなかで広げてみようとしたとき、刈りあげがちらちらとこちらの様子をうかがっていることに気がついた。

 こっちが気にしているはずなのに、なんであっちが。じろじろと見ていたことがしゃくに障ってわたしこのあとしばかれるんやろか、などと考えながらわたしも刈りあげにちらちらと目をやっていると、刈りあげの視線とはべつの何かが刈りあげのなかに潜んでいて、その何かにじっと見つめられているような、どこか奇妙な感覚がしはじめた。不安とも焦りともつかないようなものがわたしをまっすぐに見ているような。金髪が刈りあげにむかって何か冗談を言い、それにたいして笑ったその横顔を見たときに――もしかしてこの子、ヤマグちゃうのん、と頭のなかで声がした。

 ヤマグ。山口――下の名前は何やった、そうや千佳(ちか)、山口千佳。ヤマグ。ヤマグは小学校の同級生。かなり仲良くしていた時期もある。いつもグループの二番手にいるような女の子。ヤマグ。運河の橋の手前で母親が小さなケーキ屋をやっていて、みんなで遊びに行くと、たまにおやつをもらえることがあった。ドアをあけると甘い匂いがいっせいに広がる。わたしたちは大人がいなくなるのを見計らって調理場でこっそり遊ぶこともあった。銀色の泡立て器やいろんなケーキの型やへら(・・)なんかが積みあがり、大きなボウルにはいつも白や薄い黄色のとろりとしたものが波うっていた。いつだったかふたりきりになったとき、秘密だというように目を細めたヤマグが人さし指ですくったそれを、わたしは舐めたことがある。髪はいつもショートにしていて、六年のときには腕ずもう大会ですべての生徒に勝ちぬいて一位になったこともあるヤマグ。眉が濃くて彫りが深く、笑ったときにぐんと近づく鼻と上唇の距離が目に浮かぶ。

『あんたこんなとこで何してん』とわたしが笑うと、久しぶり、というようにヤマグは肩の筋肉を盛りあげる。その肌色をみた瞬間――カスタードクリームの匂いのようなものがぷうんと広がり、わたしたちはふたりでボウルのなかを覗きこんでいる。どれくらいやわらかいのか、どんな感触がするものなのか、見ているだけではわからないそのかたち(・・・)のなかに、ゆっくり沈んでいったヤマグの指。あのときわたしの舌のぜんぶに広がって、何度も味わったあれがやってくる。ヤマグは黙ってわたしを見つめている。『なあ、あんた男になったんかいな。うちらぜんぜん知らなんだ』と言ってみても返事はなく、腕に力を入れてこぶをつくるだけ。するとその膨らみは、ちぎってまるめたパンのたねみたいにぽこぽこと腕からこぼれおち、それらはみるみる小さな人になって増えつづけ、水面を走り、タイルを滑り、人々の裸を遊具にして声をあげてはしゃぎはじめる。肝心のヤマグは何をしてるのかと思えば鉄棒に体操服のすそを巻きつけて、いつまでも終わらない逆あがりをつづけている。

 わたしは湯船で遊んでいるこぶ(・・)のひとりの首をつまみあげ、くすぐりながら、ここはあんたらの場所やないやろと注意する。けれどこぶたちは《おんなはおらん》と楽しそうに笑い声をあげて身をよじり、それを歌うようにくりかえすだけで気にもしない。するといつのまにかあちこちに散らばっていたこぶたちがわたしのまわりに集まって円になり、そのなかのひとりが天井にむかって指をさす。いっせいに見あげるそこには林間学校の夜空が広がっていて、こんなんみるんはじめてや、無数にひしめく星々の瞬(またた)きにむかってわたしたちは目をみひらいて叫び声をあげている。ひとりが手にもったスコップで土をすくう。学校に住んでいたみんなのクロが死んだのだ。穴を掘って底に寝かせたクロは毛も体もかちかちになって、土がかけられるたびに遠くへ、どこかへ、運ばれてゆく。わたしたちは泣きつづける。とまらないしゃっくりがいつまでも涙をくみあげる。太陽が反射する踊り場で誰かが冗談を言う。ものまねをする、思いだす、わたしたちは体のぜんぶを使って笑いつづける。とれかけた名札、消えかかる黒板の文字。《だいじなことに》、こぶのひとりがわたしに言う。《おとこもおんなもほかもおらん》。こぶたちの顔はよく見るとみんなどこかで見たことのあるような懐かしいものばかりなのだけれど、でもここからでは光の加減でちゃんとは見えない。もっと目を、つよく凝らそうとしたときに、ふと名前を呼ばれた気がして顔をあげると巻子が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。刈りあげと金髪は、いつのまにかいなくなっていた。さっきまでまばらになっていた客の数は増え、湯船や洗い場をめいめいに動くいくつもの裸が見えた。》

 

<「父の不在」>

 ゴンドラに乗った二人が、空へとしだいに近づく。一度目は緑子と夏子とで、二度目は夢の中で夏子と父とで、三度目は夏子と逢沢潤とで、「父の不在」を軸にして永遠の輪廻のように。

 一方、ゴンドラからの情景描写は、川上の次の言葉を反映しているだろう。

《セリフでも、議論でも、エピソードでもなくて、情景描写がやっぱり私の仕事なんだなと思いました。」》

《「『夏物語』は、窓から扉に向かう話ですよね。ゴンドラは、窓と扉が同時にある世界で唯一の場所なんです。」》(『文学界』2019年8月号、鴻巣友季子川上未映子 真夏の出来事 インタビュー」)

《「こっち」じゃなくて、もっと「あっち」に従事せよ、みたいな、そういった感覚が自然に出てきた。

 だから『夏物語』では、私の仕事のひとつは情景描写だと思ったの。観覧車から見えたところの風景とか。それは会話でも対話でも、思いでもなくて、時間の流れとか、色とか、一回性を感じるんだけど言葉にできないときのイメージが張りつく感じ。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、穂村弘「ロングインタビュー べつの仕方で」穂村弘

 

 一度目は緑子と夏子とで。

《「けっこう遊んだなあ」とわたしは言った。緑子はわたしのほうを見て、同意するように肯いた。鼻の頭と頬の高い部分が日に焼けてうっすらと赤みを帯びて、そこに夕暮れの青っぽさがふりかかっていた。それを見ていると、ずっと昔――わたしが子どもだったとき、こうしておなじように観覧車に乗って街を見下ろしたことがあるような気がした。青い夕暮れが広がってゆく空を、ゆっくりと昇っていったことがあるような気がした。巻子はそばにおったんやっけ。あれは母が連れてきてくれたんやったっけ。コミばあは? 乗りものに乗ったわたしに手をふる母の顔や、コミばあの皺の寄った手を思いだそうとしても、それがいったい記憶のどこにあるのか――探せば探すほどだんだんあいまいになってゆくような気がした。上空で小さな鳥が弧を描き、それからどこかへ消えていった。はるか遠くにそびえるビルが白く煙ってみえた。子どものわたしは誰と、だんだん青くなっていく空や街をこんなふうに眺めたんやっけ。思いだそうとするうちに、わたしは自分の記憶にだんだん自信がもてなくなっていった。そんなことはなかったのかもしれないな、とわたしは思った。ただ匂いや色や気持ちなんかの似た部分が重なってこんなふうに感じているだけで、遠い昔に誰かと空や街が青くなっていくのをこんなふうにみたことなんて、本当にはなかったのかもしれない。(中略)

「わたしがあれ何歳やったかな、幼稚園くらいかな、コミばあんとこに行くまえ。海の近くに住んでたとき。幼稚園でな、遠足あってん。葡萄狩り。緑子、葡萄狩りとかしたことある?」

 緑子は首をふった。

「葡萄狩り」わたしは笑った。「覚えてるかぎり、幼稚園で楽しみにしてたことなんかいっこもないのに、なんでかわたし、その葡萄狩りだけすっごい楽しみにしててな、もう何日もまえから楽しみにしてて、そわそわしてて、自分でしおりみたいなん勝手に作ったりしてん。あれなんやったんやろなって思うくらい、ほんまに指おり数えるって感じで、楽しみにしてた葡萄狩りがあってん。

 でもな、行かれへんかってん。その遠足に行くにはべつにお金が必要で、それがなかったんやな。いま思ったら数百円とかそんなんやと思うけどな。んで朝起きたらおかんが『今日は休みやで』って言うねんな。なんでって訊きたかったけどそんなん訊かれへんやんか。お金ないのに決まってるから。それに朝は基本的におとんが寝てるから、わたしも巻ちゃんもめっさ静かにしてなあかんかってん。ラーメンも、音とかたてんと食べなあかんかってんで。

 うんわかった、家おるわな、って言うてもうたらもう、あとからあとから涙が出てきて。自分でもびっくりするくらいに悲しくて、涙が止まらへんねん。泣き声だしたらあかんから部屋のはしっこでタオル噛んでずうっと泣いてな。(中略)

 んで昼まえになって、おかんが仕事に行って、おとんも珍しくどっかに出ていって、タオル噛んだままずっとすみっこでまるまって泣いててんな。巻ちゃんはあのとき何歳やったかなあ、あんときは困らせたな。巻ちゃんなんとかわたしに元気ださせよ思ってくれてんねんけど、わたしずっと泣きっぱなしでな。

 ほんなら巻ちゃんが、『夏子ちょっと目つむっとき』って言うねんな。『ええって言うまで、あけたらあかんで』言うて。んでわたし三角座りして膝んとこに目つけたまま、泣いててん。ほんで何分くらいたったんかな、巻ちゃんが横に来てな、『そのまま、目つむったまま、こっち来てみ』ってゆうて、わたしの手にぎって、立たせて、んで三歩くらい動いてから『ええよ』って言うて。

 それで目をあけたらな、タンスのひきだしとか、棚の取手のとことか、電気のかさんとことか、洗濯もんのロープとかな、いろんなとこに——靴下とかタオルとか、ティッシュとかおかんのパンツとか、もうそのへんにあるもんなんでもかんでも、ありったけのもんを挟んだりひっかけたりして、いまからふたりで葡萄狩りやでって言うねん。夏子、これぜんぶ葡萄やから、ふたりで葡萄狩りしようって。んでわたしを抱っこして、高くあげて、ほれとりやとりや、ゆうて。ひとつ、ふたつ、ゆうて。

 わたし巻ちゃんに抱っこしてもらって、手のばして靴下とって、パンツとって、ぜんぶとって、穴だらけのざるもってきてそれを籠にして、そこに入れていってん。まだあるで、こっちも、そっちも、ゆうて、わたしを一生懸命抱っこして、巻ちゃんわたしに葡萄狩りさせてくれてん。うれしいやら悲しいやらで、そやけどいっこいっことっていってな――食べられる葡萄じゃなかったし、粒つぶでもなかったけど、これがわたしの葡萄狩りの思い出」

 緑子は黙ったまま、窓の外をみていた。知らないあいだにわたしたちを乗せたゴンドラはいちばん高いところを過ぎ、少しずつ高くなってゆくビル群にも、どんどん近づいてくる地上にも、無数の光が瞬いていた。

「なんでこんな話、緑子にしたんやろな」わたしは笑いながら首をふった。少しして、緑子はペンをにぎった。

〈ぶどう色やから〉

 緑子は一面が薄むらさきに染まった窓の外を示してわたしの目を見、それからまたすぐに窓のほうに顔をむけた。懐かしいほうへ、まだ見ぬほうへ広がってゆく空には、指のはらであとをつけていったような雲のきれはしが散らばっていた。その隙間からはかすかな光がこぼれ、むらさきの、うす紅の、濃い青の濃淡を、やさしくふちどっていた。目をこらせば遥か上空で吹いている風がみえ、手を伸ばせば、世界を包んでいる膜にそっとふれることができそうだった。二度と再現することのできないメロディのように、空は色を映していた。

「ほんまやな、葡萄の粒んなかおるみたい」とわたしは笑った。》

 

 二度目は夢の中で夏子と父とで。

《夢のなかで、わたしは電車にゆられていた。

 どこを走っているのかはわからない。人はそんなに多くなく、太股の裏が座席の布地の毛羽(けば)だちでちくちくする。わたしはキュロットパンツを穿いていて、手には何ももっていない。真っ黒に焼けた腕をじっとみる。腕を曲げると肘の内側にできる皺は、もっともっと黒くみえる。水色のタンクトップは少し大きい。かがんだり、腕をあげたりすると最近出てきた胸が脇からみえるかもしれないと思って、でもそんなことを気にする自分が変なんじゃないかとそんなことを考えている。

 駅に着くたびに人々が乗り降りをくりかえし、電車には少しずつ人が増えてくる。わたしの目のまえに、ひとりの女の人が座る。目の下の皮膚がたるみ、頬にうっすらと影ができている。もうそんなに若くはない女性だ。わたしとおなじような真っ黒で硬そうな髪を耳にかけて、ときどき首をひねって後ろの窓の景色をみている。それは、巻子と緑子を迎えにいく途中のわたしだ。三十歳のわたしは隣の人に自分の体がふれないように肩をすぼめ、くたびれたトートバッグのうえに両手を乗せてじっといる。窮屈に折り曲げられた膝は大きくて、その丸さはよく知ってるもののような気がしてしまう。そうだ、それはコミばあからやってきたものだ。目のまえに座ったわたしは、いつかの写真のなかで笑っている、コミばあと本当によく似ているのだった。

 電車の扉がひらいて父が入ってくる。灰色の作業着を着た父はわたしの隣に座ってもうすぐ着くと小さな声で言う。今日はふたりで出かける日なのだ。巻子と母は家にいて、今日はわたしと父のふたりだけで出かける日なのだ。どこにいくのかきこうとしてきけず、わたしは黙ったまま、父の隣に座っている。人がたくさん入ってくる。膝と膝のあいだにも、男の人たちの脚が入りこんでくる。車両のなかで人々はどんどん増えつづけ、ひとりひとりの体が少しずつ膨らみはじめているようだ。駅に着く。父はわたしを抱きあげて、肩に乗せる。わたしより数センチ高いだけの身長しかない父が、わたしを肩に乗せて立ちあがる。わたしは初めて父にさわる。ひしめきあう大きな人たちのあいだを、父は少しずつまえに進んでゆく。わたしの手首をしっかりにぎり、低く小さな肩にわたしを乗せて、わたしたちには決して気づくことのない人々のあいだを、一歩一歩進んでいく。押し返されて、立ち止まり、足を踏まれ、それからまた、まえに進んでゆく。扉が閉まる。誰かが笑って手をふっている。父はわたしを肩に乗せたまま、やってきたゴンドラにそっと飛び乗る。だんだん青くなってゆく空にむかって、ゴンドラは音もなく上昇しつづける。遠ざかってゆく地上の人々や、木々や、ぽつぽつと灯り始めた光が薄暮にきらめいている。わたしは父の肩に乗って、そのひとつひとつを、瞬きもせずに見つめている。》

 

 三度目は夏子と逢沢潤とで。

《ゴンドラはゆっくりと上昇しつづけた。高度があがるにつれて海は色と大きさを変えてゆき、水平線がかすかな一本のラインのように光っていた。霞んだ空のどこか高いところを、黒い鳥がまっすぐに飛んでいくのがみえた。遠くに見える工場の煙突から白い煙が立ちのぼっていた。

「いろんなものが見えますね」逢沢さんが言った。「昔、何度も父と観覧車に乗ったことがあります」

「お父さんと?」(中略)

「夏目さんに会って、気づいたことがあります」逢沢さんは言った。「僕はこれまで自分の本当の父親を探していたけれど、会わなければいけないと、自分自身の半分がどこからきたものなのか、それを知らなければならないと思っていたけれど」

「うん」

「自分がこんなふうなのは、それが叶わないからだと思っていたんだけれど」

「うん」

「もちろん、それは嘘ではないんだけれど、ずっと悔やんでいたのは、父に――僕を育ててくれた父に、僕の父はあなたなんだと、そう言えなかったことが」

 わたしは逢沢さんの顔を見た。

「父が生きているあいだに本当のことを知って、そのうえで、それでも僕は父に、僕の父はあなたなんだと――僕は父に、そう言いたかったんです」

 逢沢さんはそう言うと、わたしに背をむけるように窓の外に顔をやった。さっきまで薄くかかっていた雲は風に流され、ばら色のやわらかな明るみが、まるで濡れた布のうえににじむインクのようにひろがっていった。その光はわたしたちの乗るゴンドラにも届いて、逢沢さんの髪の輪郭を、かすかに震えながらふちどっていた。わたしは逢沢さんの隣に移動して、肩にそっと手をあてた。その背中は大きく、肩はとても広かったけれど、初めて逢沢さんにふれたその手のひらの奥にはまだ子どもの逢沢さんがいて、小さな子どもの逢沢さんがいて――わたしはその肩にふれているような、そんな気持ちになった。》

 

 トルストイアンナ・カレーニナ』の轢死した線路番あるいは列車の暖炉たきの、外套にくるまった不吉な老人の暗いイメージに似た父の幻影が、三軒茶屋の路地の喫煙スペースに現れる。

《しゃがんでいたのは男だった。小学生かと思うくらいの小さな体で、もう何ヶ月も何年も洗っていないだろう灰色の髪は脂と埃(ほこり)でぎとぎとに固まっていた。そしてこれいじょう汚れようのないくらいに汚れた作業着に、おなじくらいに汚れた子どもが学校で履くような上履きを履いて背中を丸め、男は地面にむかって何かをぎゅぎゅうと押しつけているのだった。わたしはさらに近づいて男が何をしているのかを見た。男が押しつけているのは煙草の吸い殻だった。(中略)

 どれくらいの時間、男を見ていたのかわからない。二分とかそんなだったかもしれない。ふと男が顔をあげてゆっくりとふりかえり、わたしのほうを見た。そして目があった。顔は服や髪とおなじくらいに汚れ、頬は痩せて削られたような陰をつくり、まぶたは洞窟みたいに落ち窪んでいた。口がうっすらとひらいて、ふぞろいな前歯が見えた。夏子、と呼ばれた気がした。夏子、思わず後ずさった。男はふたつの小さな黒い目でわたしをじっと見つめていた。わたしも男から目をそらすことができなかった。夏子、と男はふたたび小さな声でわたしを呼んだ。思いだそうにも記憶のどこにも残っていなかったはずのその声は、一瞬でわたしを過去に引きもどした。潮の匂い。防波堤の石。暗い呼吸のように盛りあがって、砕けつづける硬い波。ビルの狭い階段。錆びついた郵便受け。枕のまわりに積みあげられた週刊誌、洗濯物の山。酔っ払いたちの怒鳴り声。おかんは、と男はさらに小さくかすれた声で言った。わたしはもう一歩後ろに下がった。おかんは、男はまた小さな声でわたしに尋ねた。死んだよもう、とわたしは絞りだすようにして言った。男はわたしが言っていることがうまく理解できないようだった。(中略)わたしはただ黙って男を見ていることしかできなかった。なのに、どういうわけかわたしの手には男の服をつかんで後ろに引き倒した感触がしっかり残っていた。泣きながら何度も肩を殴り、胸を突き飛ばした感覚がたしかに残っていた。いつのまにか固く握りしめていた拳をゆるめることもできなかった。そんなことをしたかったわけじゃない、この目のまえの男にわたしは何もしていない—―わたしは自分にそう言い聞かせて何度も首をふった。するとまた男の口が薄くひらきかけた。注意深く目をこらすと、何で助けらなんだ、という声が聴こえた。それはさっきに増して弱々しく、わたしの立っているところまでは届きそうもないような萎びた小さな声なのに、まるですぐ耳元で呟かれているみたいにわたしの頭のなかで生々しく響くのだった。おかん、なんで助けたらなんだ。男はくりかえした。なんで助けへんかったんか、なんで助けへんのか。男の言葉はわたしのなかで変容し、枝わかれし、男の目のまわりが黒くにじみはじめるのがわかった。その液体は何本もの黒い筋になって頬を垂れ、それはやがて致命的なしみ(・・)のように顔全体に広がっていった。そのとき――急に左側から強い光に照らされて、何かを強くひっかくような甲高い金属音がした。はっとして顔をあげると自転車がぶつかるすれすれのところに止まっており、乗っていた女性は目を丸くして、危ないですよ、と半ば怒鳴るように言い残して去っていった。すぐに視線を戻すと、その小さな男はこちらに背を向けたまま、さっきとおなじ作業をくりまえしているのだった。すぐそばではいくつもの白い煙が浮かびあがり、何人かがさっきとおなじように喫煙しているのがみえた。》

 

入れ子

 川上の精神世界、強迫観念のようなものとして「入れ子」がある。

福岡伸一 もう一つ鮮烈だったのは、歯科医の診察台があたかも巨大な舌で、治療室全体が口の中のように見えてくるイメージです。診察台の上に乗る患者の口の中と入れ子状になっているわけですね。川上さんは実際に歯科助手として働いたことがあるそうですが、その時に思いついたんですか?

川上 ええ。あれ、ほんとうに舌みたいなんですよね。それと私、昔からマトリョーシカ人形みたいな入れ子状のものを見るとなぜか気になるんです。澁澤龍彦の『胡桃の中の世界』に、少女が手に持っているココアの箱に、同じようにココアの箱を持った少女が描かれて……という話が出てきますが、世界を見る時にそういう入れ子状のイメージで見てしまうところがあるんです。ほら、人間だって男と女がいて、それぞれの体の中に精子卵子があるのも入れ子状と言えなくありませんし。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、福岡伸一「生物と文学のあいだ」)

 

卵子」という「入れ子」。緑子のノートから。

《◯ 卵子についてこれから書きます。今日しったこと。卵子精子とくっついて受精卵というのになって、くっつかないままのは、無精卵というのらしい。ここまでは知ってた。受精は、子宮のなかでそうなるんではなくて、卵管という管みたいな部分でふたつがくっついて、受精卵になったものが子宮にやってきて、着床というのをするらしい。

 しかしここがわからない。どの本を読んでも絵をみても、卵巣から卵子がとびだすときの手みたいなかたちをしてる卵管に、どうやって入るのかがわからない。卵巣から卵子がぽんと出る、と書いているけれど、どうやって。あいだにある空間はどうなってるの。なんでよそにこぼれたりせんのかなぞ。

 それから、どう考えてよいのかわからないこと。まず、受精をして、その受精卵が女になるんですよって決まったときには、まだ生まれてもない女の赤ちゃんの卵巣のなかには(そのときに卵巣がもうあるなんてこわい)、卵子のもと、みたいなのが七百万個もあって、このときがいちばん多いのらしい。

 それからその卵子のもとはどんどん減ってって、生まれた時点で百万個とかになってて、新しく増えたりはもうぜったいにせんのらしい。それからもずっとずっと減ってって、わたしらぐらいの年になって生理がきたときには三十万個くらいになって、ほいでそのなかのほんのちょびっとだけがちゃんと成長して、その、増えるにつながる、あの受精というものができる、妊娠できる卵になるのらしい。これはすごくこわいこと、おそろしいことで、生まれるまえからわたしのなかにも、人を生むもとがあるということ。大量にあったということ。生まれるまえから生むをもってる。ほんで、これは本のなかに書いてあるだけのことではなくて、このわたしの、このお腹のなかにじっさいほんまに、いま、起こってることであること。生まれるまえの生まれるもんが、生まれるまえのなかにあって、かきむしりたい、むさくさにぶち破りたい気持ちになる。なんやねんなこれは。   緑子》

 

 第二部の受精「卵子」へのリエゾンとしての、第一部のクライマックス「卵」騒動。ここには「言語」(「言葉」、「真実(ほんま)」、「コミュニケーション不能」)問題が露呈している。そして、「緑子-巻子」関係は、「川上未映子-母」関係が、記憶として投影されている。『夏物語』の「物語」とは、時間の下で贈与されたものに他ならない。

《ああ、いま現在、巻子も緑子も、言葉が足りん。わたしは思った。そして、こんな近くでふたりのやりとりを見ているわたしにだってもちろん言葉は足りず、言葉が足りん、足りん、足りんと頭のなかでくりかえすだけで、言えることが何もない。何にも言えることがない。台所が暗い。うっすらと生ゴミの臭いがする。そんなどうでもいいことをつなげながら、わたしは緑子の顔をじっと見ていた。奥歯を噛みしめているのか頬にうっすらと筋肉のすじが浮かび、張りつめた表情で、どこでもない一点を凝視している。巻子は目に手をあてたままうつむいて、辛そうな声を漏らしている。そんなふたりを見ているうちに――何を思ったのか、知らないうちに壁のスイッチに手がのび、わたしはほとんど無意識のうちに、台所の電気をつけていた。

 ぱちんという音がして、何回かの瞬きのあとに蛍光灯が完全についてしまうと、台所で身を寄せあうようにして立っているわたしたちの姿がはっきりみえた。

 見慣れたどころか、ほとんど体の第一部になっているはずの台所はどこか白々しく、いっそう古びてみえた。白くて平板な蛍光灯の光が隅々までを浮かびあがらせるなかで、巻子は真っ赤になった目を細めた。緑子は自分の太股ににぎりこぶしをぎゅっと押しつけたまま、巻子の首のあたりをじっと見つめていた。そして、はっと音がするほど大きく息を吸ったかと思うとつぎの瞬間――巻子にむかって、声を発した。お母さん、と緑子は言った。文字通りの、お母さん、という音と意味の塊を緑子は口から出した。わたしはその声にふりかえった。

 お母さん、と緑子はふたたび大きくはっきりした声で、すぐそばにいる巻子を呼んだ。巻子も驚いた顔で緑子をみた。ぎゅっとにぎられた緑子の両手はかすかに震え、外部から少しの力でも加わろうものならぱちんと弾けて、そのまま崩れてしまいそうなほどに張りつめているのが伝わってきた。

「お母さんは、」緑子は絞りだすように言った。

「ほんまのことをゆうてや」

 緑子はそれだけを言うのがやっとの様子で、小さく肩を上下させている。薄く開いた唇が、かすかに震えている。何かを押しとどめようとして唾を飲みくだす音が聞こえる。体のなかでぱんぱんに膨らんでいる緊張を、どうやって逃せばいいのかがわからないのだ。そして緑子はもう一度、ほんまのことゆうて、とほとんど消え入りそうな声で言った。その声が巻子に届くが早いか、はっ、と大きく息を吐く音がし、そのあと巻子は大声で笑いだした。

「ちょ、ははは、あんたいややわ何ゆうてんの、何よいったいほんまのことて」

 巻子は緑子にむかって笑ってみせ、大げさに首をふってみせた。

「聞いた夏子? びっくりするわあ、ほんまのことって。いや意味わからん、ちょ、あんた翻訳したってえな」

 喉の奥から無理やり声をひっぱりあげるようにして、巻子は笑いつづけた。自分の不安と人の訴えをこんなふうにごまかす巻子はあかん、ここは笑いこける場面ではない。正解ではない――わたしはそう思ったけれど、口には出さなかった。緑子は巻子の笑い声のなかで、うつむいたまま黙っている。上下する肩の幅が大きくなってきたので、このまま泣くのだろうとわたしは思った。しかし緑子は急に顔をあげると、捨てるために流し台に置いてあった卵のパックを――それこそ目にも止まらぬ素早さでこじあけた。そして卵を右手ににぎると、それを大きくふりあげた。

 あ、ぶつける、と思った瞬間、緑子の目からぶわりと涙が飛びだして――それはまるで漫画のこまに描かれる涙のように本当にぶわりと噴きだして、卵をもった右手を自分の頭に叩きつけた。

 ぐしゃわ、という聞き慣れない音とともに、黄身が飛び散り、すでに叩きつけた手のひらを緑子はさらに何度もこするように叩きつけ、卵は髪のなかで泡だった。割れた殻がところどころに突き刺さり、耳の穴に入りこんだ黄身が垂れ、なすりつけるように手のひらで額を押しまわし、緑子はぼたぼたと涙を流しながら卵をもう一個、手にとった。なんで、と吐くように言い、手術なんか、とつづけながらさっきとおなじように叩きつけ、白身と黄身が混じりあうようにして緑子の額を垂れていった。ぬぐいもせず、構いもせず、緑子はさらに卵を手にとり、わたしを産んで、そうなったんやったらしゃあないでしょう、痛い思いまでしてお母さんはなんで、と巻子にむかって小さく叫ぶと、さらに激しく卵を叩きつけた。

 あたしはお母さんが、心配やけど、わからへん、し、ゆわれへん、し、お母さんはだいじ、でもお母さんみたいになりたくない、そうじゃない、と緑子は息を飲み、はやくお金とか、わたしだってあげたい、お母さんに、あげたい、ちゃんとできるように、そやかって、わたしはこわい、いろんなことがわからへん、目がいたい、目えがくるしい、なんで大きならなあかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちがうんか、みんながみんな生まれてこなんだら、何もないねんから、何もないねんから――泣き叫びながら今度は両手で卵をつかんで、それを同時に叩きつけた。殻がそこらじゅうに散らばって、ティーシャツの襟首にはどろりとした白身がひっかかり、真っ黄色の塊が肩や胸にくっついた。緑子は立ったまま、わたしがこれまでに聞いたことのある人の泣き声のなかで最大の声を出して泣いていた。

 巻子は一歩も動かずに、すぐ隣で背中を丸めて、嗚咽まじりに泣いている緑子を見ていた。そして我に返ったようにいきなり、緑子っ、と声を出すと、卵にまみれた緑子の肩をつかんだ。しかし緑子がいやいやと激しく肩をゆするので手が離れ、両手を宙にあげたまま、動けなくなった。白や黄色に固まりながら濡れながら泣いている緑子にふれることも近寄ることもできない巻子は、肩で小さく息をしながらまっすぐに緑子を見つめていた。そしてパックから卵をひとつ手にとると、それを自分の頭にぶっつけた。しかし角度の問題か、卵は割れずに床にころりと転がり、巻子はあわててそれを追った。そして四つん這いになってしゃがみこみ、静止したままの卵をめがけて額をぶつけて殻を割り、そのままぐりぐりと押しつけた。黄身と殻のくっついた顔で巻子は立ちあがって緑子のそばへゆき、さらに卵を手にとって、それを額にぶっつけた。緑子は涙を流しながら目をみひらいて、それを見た。そして緑子ももう一個を手にとると、こめかみに大きく叩きつけた。卵の中身がずるんと落ち、殻も落ち、巻子は今度は両手で卵をにぎり、ワンツー、のリズムで左右にぶつけ、卵まみれの顔でわたしをふりかえり、もう卵はないの、と訊いた。いや、冷蔵庫にあるけども、と答えると、巻子はドアをあけて卵を取りだし、つぎつぎに頭で割っていった。ふたりの頭は次第に白くなり、どちらかの足の裏で殻の砕けるぱしぱしという乾いた音がした。床には黄身と透明に膨らんだ白身とが水たまりのようになっていた。

「緑子、ほんまのことってなに」

 すべての卵が割られ、ひとしきりの沈黙のあとで、かすれた声で巻子は言った。

「緑子、ほんまのことってなに、緑子が知りたい、ほんまのことって、なに」

 体をぎゅっと縮めたまま泣く緑子に、巻子は静かに訊いた。緑子はしかし首をふるだけで、言葉にならない。卵はどろりと垂れながら、ふたりの髪や肌や服のうえで固まりはじめていた。緑子は泣き止むことができないまま、ほんまのこと、と小さな声を絞りだすのが精一杯のようだった。巻子は首をふり、体を震わせて泣きつづける緑子に小さな声で話しかけた。

「緑子、緑子、なあ、ほんまのことって、ほんまのことって、あると思うでしょ、みんなほんまのことってあると思うでしょ、ぜったいにものごとには、なんかほんまのことがあるって、みんなそう思うでしょ、でもな緑子、ほんまのことなんてな、ないこともあるんやで、なんもないこともあるんやで」

 それから巻子はつづけて何かを言ったのだけれど、その声はわたしには届かなかった。緑子は顔をあげて、そうじゃない、そうじゃない、と首をふり、いろんなことが、いろんなことが、いろんなことが、と三回つづけて言うと、台所の床に崩れるように突っ伏した。緑子は声をあげて泣きつづけた。巻子は手で指で緑子の頭についた卵をぬぐって、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度も耳にかけてやった。ずいぶん長いあいだ、巻子は黙ったまま緑子の背中をさすりつづけた。》

 ところで、「それから巻子はつづけて何かを言ったのだけれど、その声はわたしには届かなかった。」の「何か」とはいったい何だったのだろう。

 

<「隠されたこと」と「加えられたこと」>

隠されたこと」にこそ真実がある、と言えるのだろうか。

 いったい巻子は「豊胸手術」をしたのか?

『乳と卵』のライト・モティーフだった巻子の豊胸手術は、『夏物語』第二部ではまったく語られない(書評の誰も話題にしない)。結局、巻子が豊胸手術をしたのか否かを読者は知る由がない。そもそも第二部では「乳」という語が慎重に避けられ、「卵」の生殖、出産にテーマは集中してしまう。

 フィナーレの夏子の出産の場面でさえ、母体の「乳」の変化は語られず、「乳」ではなく「胸」だ。

《しばらくして、赤ん坊が胸のうえにやってきた。信じられないほど小さな体をした赤ん坊が、胸のうえにやってきた。》

 

『乳と卵』にあって、『夏物語』で隠されたことに、「緑子の父の話」がある。

『乳と卵』では、夏子と巻子で銭湯に行って、ミルク風呂に浸かり、さんざん乳房と乳首の話をしたあと、

《それからしばらくふたりは黙って湯に浸かり、サウナに移り、そこで巻子は珍しく別れた緑子の父親の話をした。

「あの人がゆうたことで今でも覚えてて、今でも訳のわからんことがあるねんな。あたしまるまま覚えてるねんけどな、あたし記憶してもうてるねんけどな、あたしと一緒になる前からあの女おって、ずっとおって、おりっぱなしで、最初からあっち戻るてわかってて、ほんならなんであたしと子どもを作ったかってことあたし訊いたわけ、わかってるやんそんなこと、本人やねんからさ、東京に戻るてわかってるやん、自分の情況とか相手のこととか気持ちとかさ。ほんならあの人な、なんてゆうたと思う、これあんたにゆうたっけ、前にゆうたっけ、あの人な、云うで、『子どもが出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕(はら)むということは人為ではないよ』ってな、嘘くさい標準語でな、このままをゆうてん。あんたこれの意味わかる? あたし訳わからんくて今もわからんくてさあ、何をゆうてんのかがわからんのよ、んでそっからあんたも知ってのとおりになって、んであんときに、あたし生れて初めて鼻血が出てんなあ。(以下略)」》

『夏物語』第一部ではこの部分がごっそり削除されている。『夏物語』第二部の「生殖」、「父」の問題に直結する逸話なのに、あえて隠されたのは、かえって直結しすぎるからなのか。

 

 また『乳と卵』では、泥酔して帰宅した巻子が、「緑子の父」すなわち「巻子の元夫」に会ってきたと酔いにまかせて呟くが、『夏物語』では夏子がそう推測するに過ぎず、曖昧にされている。

 さらに、『夏物語』の「笑橋(しょうばし)」は、『乳と卵』でははっきり「京橋」と書かれていた。同じように、『乳と卵』で緑子が「ロボコン」について書き、『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』でシルバニアファミリーの「暖炉」をめぐる逸話に登場する「イズミヤ」は、『夏物語』で「ミズノヤ」に変換されてしまった。

 不明なところは多々ある。

 

 逆に「加えられたこと」には意味があるのだろう。

「コミばあ」について書き加えられた感傷と無償の愛情の時間と空間は、「わたし」のこれまでの人生、社会の厚みと広がりを増した。

『乳と卵』には出てこなかった「ビーズクッション」が、『乳と卵』のリメイクである『夏物語』の第一部にも、新たな第二部にも頻出する。これほど言及されるのはリアリズムを補強するためだけとは思い難い。ほとんどは本来の安楽のためにすぎず、ときどきは追想や夢へのスイッチとなってはいるが、その可塑的小道具が担った意味は不明である。

「ビーズクッション」の出番をいくつかあげれば、第一部の三ノ輪では、

《生き返ったわあ、と言いながら巻子は大きく後ろにのけぞり、わたしは部屋の隅にあったビーズクッションを渡してやった。》

《緑子のほうをみると、部屋のはしっこにあったビーズクッションにもたれて、さっきとおなじようにペンをもち、膝をささえにしてノートを広げている。》

《緑子はビーズクッションのうえでノートをにぎりしめ、体を丸めたまま眠ってしまったようだった。》

《家に着くと、急に眠気がやってきた。歩いているときは息をするだけで皮膚も肺も熱でいっぱいになって、すぐにでも水を浴びたいと思うのに、冷房をつけて五分もすれば汗はみるみるうちに乾いてしまって、まるでなにごともなかったかのように消えてしまう。ビーズクッションには巻子のつけたへこみがそのまま残っていた。緑子が座っていたすみっこには文庫本が何冊か、そのままになっていた。わたしは本を拾って本棚にしまい、昨晩、巻子がしていたのとおなじように、ビーズクッションを抱えるようにうつぶせた。卵にまみれた巻子と緑子。床を何度も何度も三人で拭いて、山のようになったぐしゃぐしゃのキッチンペーパー。いつまでも手をふっていた緑子。笑った巻子。小さくなっていったふたりの後ろ姿。まぶたが一秒ごとに重くなり、手足が少しずつ熱くなっていった。額のずっと奥のほうで、意識の切れはしがひらひらと漂っているのをあてもなく見つめているうちに、わたしは眠ってしまっていた。》

 第二部の三軒茶屋では、

《カーテンもビーズクッションもちゃぶ台も食器もマットも、三ノ輪で使っていたものはほとんどそのままもってきたし、小さなアパートの二階部分で間取りも似たようなものだから(家賃は二万円も高くなっての、六万五千円)、あまり違いを感じないのかもしれなかった。》

《電話を切って部屋にもどると――誰もいないのだから当たりまえなのだけれども、いくつかの小さな本の山、その隣の資料の入った小さなダンボール、ビーズクッションの位置とへこみ、机のうえの目薬、まっすぐに垂れさがっているカーテン、飛び出たティッシュペーパーの形に至るまで、ここからみえる全部がちょっとの変化もなくおなじままなことに気がついて、ため息が漏れた。》

《部屋に帰ってビーズクッションに寝転ぶと、ひどい頭痛がした。目を閉じると暗闇のなかでかたちのない波が何度もやってきた。》

 

<カントとニーチェ

 川上は『作家の読書道』でカント、ニーチェ体験について語っている。

川上 中学生時代、最初は変わらず主に教科書を読んでいました。谷川俊太郎さんの詩を読んで、こういうものがあるのかと見ていましたね。ただ、本というものは身近にあるんだけれども、すごく遠いものに感じていました。それを誰かが書いているとはなかなか思えなかった。自分の世界のことっていう感じがしなかったんです。自覚的に本を読むようになったのは中学3年生くらいからです。自然と読むようになってきて、それで高校生になって図書室に行った時に、『カント入門』みたいな本があったんです。ぱらぱらと読んでみた時に、理解はできないんだけれども絶対に私が知りたいことがここに書いてあるんだっていう直観がありました。あ、見つけた、と思いました。目の前のコップは本当に存在するのか、なんで人間は1とか2とか3とかいう概念がわかるのか、世界中の全員が死んでも世界はまだあると言えるのか……そういったことがいっぱい書いてあった。それで哲学っていうものがあることを知ったんですよね。そこから一生懸命、誰かが噛み砕いて説明してくれているカントやニーチェをまずたくさん読みました。並行して、ふつうのお話ではない、文学というものがあるらしいということがわかってくるんです。いてもたってもいられないような不安が文学と結びつけてくれた感じです。図書室に行って怒濤のように読み始めました。》(WEB本の雑誌「作家の読書道」)

川上 十年前に永井先生と私の小説『ヘブン』について、「ニーチェニーチェを超えた問い」という対談をしました。ニーチェや、たとえば『ヘヴン』の百瀬が言っていることって、やっぱり人間的な道徳的なレベル、つまり「この世の中をうまくやっていくための話」じゃないですか。ニーチェが問題にした善悪については、私たちが作っている文化の側面だけで話ができるように思うんです。加害者である百瀬は自分の行っている行為、つまり悪について「すべてはたまたま」だと言います。加害すること、つまり「悪」に理由などないんですね。ただ、私はカントの定言命法の何も言ってなさがずっと気になっているんです。私たちは正しいことをせよ、行うことは正しいことになっている、というあれらの物言いに、「悪の無意味さ」以上のものを感じるんですよ。つまり、カントの提唱する正しさや善さみたいなものの、この世で悪だと思われているものを越えた底なしの空虚さ、ゆえの、圧倒的な強さというか……私はこの十年、それについてずっと考えています。それを念頭に、出産というもの、私たちの文化以前に存在の前提になっている出産、命について考えたときに……やはり、こうして現に存在してしまっている私たちには決して見えない、言えない、善悪をめぐる決定的な何かがあるんじゃないかと思ってしまう。》(「特別対談 川上未映子永井均 反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」)

川上 カントの道徳律のあの「標準っぽさ」「何も言ってなさ」にはそういう怖さがあるんですね。構造がそのまま動機でありえる。》

川上 こういう小説書きたいですよね、ニーチェのパワーでカントの枠組みを。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、永井均ニーチェと、ニーチェを超えた問い」)

 川上未映子「春の耳の記憶」から、

《3月は Andras SchiffのBeethovenのピアノソナタ30・31・32番をひたすら聴いていた。そこではすべてが完全で透明でありながら完全にカラフルであるという不思議な状態が起きる。人間存在をがんがんに揺さぶるBeethovenがAndras Schiffの音色を帯びることによって離陸し、形而上でも形而下でもない──まるでカントとニーチェのあいだのような特殊な場所に連れ出してくれる。彼の演奏はそれが善きものであれそうでないものであれ、人類と未知のものの関係を想起させる特別なものだ。》(川上未映子Blog2020.05.13)

 

 川上は「境目」、「境界」について、いつも考えている。それは「カントとニーチェのあいだ(境目)」に違いない。

福岡 川上さんは、境目に対してちょっと病的なこだわりがあるわけですね。そこをサラッと通り過ぎちゃう人と、ダメな人がいて、すごくこだわってしまうというのはものを考えていく上で大事な資質だと思いますよ。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、福岡伸一「生物と文学のあいだ」)

 松浦理英子との対話では、

川上 『葬儀の日』を読み返すたびに、震えるような感動を覚える箇所があります。

<川の右岸と左岸は水によって隔てられている。同時に水を共有し水を媒介として繋がっている。あるいは水によって統合されている。(中略)

「二つの岸はお互いを欲しているのか。」

 だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。そして、そのことから、ある問題が生じます。二つの岸がついに手を取り合った時、川は潰れてしまってもはや川ではない。岸はもう岸ではない。二つの岸であった物は自分がいったい何者なのかわからなくなってしまう。それで苛々するんです、進むべきか渋滞し続けるべきか。いずれにせよ甲斐のないことではないのか、とも。

「川とは何です?」

 私たちもそれを知りたいのです。>

 小説の中の「泣き屋」と「笑い屋」の関係を説明しているように読める一節ですが、「右岸」と「左岸」にはあらゆるものが代入できるのではないでしょうか。男と女、自己と他者、主観と客観……。(中略)

 世の中にはさまざまな両岸関係があるけれど、そのどちらかに真実を求めるのではなく、また無視を決め込んであきらめるのでもなく、決定を下すのでもなく、間に流れる絶対的な「川」を見極めたい――、「私たちもそれを知りたいのです」とあるかないのかわからないものへ向かう姿勢そのものに打たれました。(中略)私の問題もことばを変えればこの川が何であるのか、ということになるのかも知れません。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、松浦理英子「性の呪縛を越えて」)

 多和田葉子(『ゴットハルト鉄道』の著者)との対話で、

川上 私の思考の癖として、身体と頭のふたつに分けたくない気持ち、形而上、形而下と分けるのではなく、その真ん中の混ぜ混ぜになった形而中(・・・)を私たちはどうやっても生きているんじゃないかという思いがあるんですね。(中略)

 そうしたなかで『ゴットハルト鉄道』は、身体がこちら側だとしたら、その外の世界、境界線の向こう側にあるもののなかに、どんどん身体性を発見し、更新していく。その手腕がとても鮮やかだと思いました。

 私は逆に、身体のなかの細部に外界を発見し、更新していく傾向があるので、方向性は違うんですが、『ゴットハルト鉄道』の境界上で何かを見極めようとすることの発露に、ものすごい頼もしさを感じました。》(『六つの星星 川上未映子対話集』、多和田葉子「からだ・ことば・はざま」)

 

 ハイデッガーニーチェ』からいくつか引用するが、これらは川上の形而上学的希求、文学に求める根幹、気分と合致しているだろう。

《「抽象的思惟は――多くの人々には大変な苦労であるが――私にとっては、好日には祝祭であり陶酔である」。》

《《考察の絶頂》に立って《もっとも重たい思想》を思索するとき、ニーチェは存在を、力への意志を、永遠なる回帰として思索しているのである。これは、きわめて広くかつ本質的な意味では、どういうことなのか。永遠――止住する今としてではなく、果てしなく流転する今の連続としてでもなく、それ自身の中へ打ちかえしてくる今としての永遠――、これこそ、隠された時間の本質でなくて何であろうか。存在――力への意志――を永遠回帰として思惟し、哲学のもっとも重たい思想を思惟するとは、存在を時間として思惟するということである。》

ニーチェが自分の生活に対して行なう(・・・・・・・・・・・・・・・・・)回顧や情況観察は(・・・・・・・・)、あくまでも自分の課題へ(・・・・・・・・・・・)むかう将来的展望である(・・・・・・・・・・・)。この課題そのものが彼にとって本来的な現実なのである。自分自身への関心も、身内の人々への関係も、彼が近づこうとする未見の人々への関係も、すべてこの現実の中で脈動している。》

 

 以下の書評の数々は、どれも「カントとニーチェのあいだ(境目)」、「形而上でも形而下でもなく」をめぐって論じられているのではないか。

 亀山郁夫は『夏物語』を「「欠落(欠損)」と「補償(回復)」」という観点から読み解いたが、そこには「意識の病」があるという。

《『夏物語』のテーマを、あえて抽象的に一括りにすれば、身体的な「欠落」の意識とその補償の願望、より直接的には、「乳房」と「子ども」の回復という問題である。「欠損」は、川上がつねに意識しているテーマの一つであり、たとえば『ヘブン』の愛読者なら、仲間たちからいじめぬかれる「斜視」の主人公をたちどころに思い浮かべるだろう。》

《与えられるべきものを与えられていないという、根源的な不満の解消の要求。それは作家川上が根源的に抱えている意識の病(・・・・)である。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、亀山郁夫「存在の根源に達するということ――川上未映子の原点と現在」」)

 岸政彦は「「傷(痛み)」と「わたし(存在)」」の問題を見てとっている。

《傷がまずはじめに存在し、そしてそのまわりに、自己や内面というものがつくられる。川上未映子の場合、その中心にあったのが、おそらく『イン歯ー』で書かれた「わたし」という問題なのだろう。(中略)

 しかし川上未映子は、驚くべきことに、いちばん中心にある「わたし」という個人の実存的な問題から身を引き剥がし、人びとの人生の語りに耳を傾け、生きているということそのものについての、より普遍的な作品を書こうとした。抽象的な理論や、技巧的な文体実験や、激しい生々しさの表現によって突如この世界に現れた川上未映子は、しかしさらにその枠を超えて、おそらくは三作目の『ヘブン』あたりから意図的に、より深い「人生」というものに向かったのである。

 その中心に、「わたしであること」という、解決困難な、根源的な存在の問題を保ったままで、そして、持って生まれた強烈な嫌悪感や憧れや好きという気持ちを手放すこともなく、人生、対話、他者、理解という、普遍的な物語を書こうとした。川上未映子は、自分のなかに存在した「わたし」という問題、大阪での経験、女であること、そういうものたちをなにひとつ捨てないまま、その化け物のような感受性と才能を制御し、飼い慣らすことに成功したのである。》(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』、岸政彦「川上未映子にゆうたりたい」)

『夏物語』の前年に書かれた『ウィステリアと三人の女たち』への松浦寿輝の書評は、ほとんど『夏物語』について語っているようだ。「「空虚」―「贈与」―「終末(死)」」の三角形から『夏物語』の「再生(出産・生殖)」を演繹することは容易に違いない。そして、なぜ「男たち」ではなく「女たち」なのかの問題もまたここにあった。

《まず、自己は空虚であり何によっても充填されずただひたすら終末を待つほかはないという生の常態がある。ただし、その無力感を束の間癒やしてくれるかのごときファンタスムが偶発的に出来することはあり、それこそ贈与という出来事にほかならない。自己の欠落部分が贈与されるのだ。自己はその自己を他者から贈与されることによってしか自己たりえないという逆説。

 しかもそのとき主体は世界から贈られた自己を拒むことも、世界に向かって投げ返すこともできない。贈与は拒絶不可能であり、主体は徹底した「被投性」の中に在る。のみならずまた、この贈与は実は主体に円満な自己同一性を充填してくれる恩寵ではなく、むしろ空虚をいちだんと深甚化させ、同一性に亀裂を入れさえする呪いのごときものであることがただちに露わとなる。空虚はたんに質を変え次元を変え、より深刻な空虚となって回帰してくるばかりだ。ではやはり、いずれ必ず訪れる終末(死)という救済に望みを託すほかはないのか。だが、贈与を受け取ることで終末もまたその意味に変質をこうむり、それは事実上もうすでに、今ここに、うっすらした絶望としてたなびき、主体の生を稀薄に侵している裏切りのユートピアにほかならないことが明らかになる。

 川上未映子の創り出した四つの物語は、ひとことで言えば、この過程――贈与を通じての空虚と終末の変質の過程を、簡潔ながらリズミカルな筆致で跡づけてゆくハイデッガー的な実存寓話とでも言うべきものだ。読者の意識を意外に快く乗せるその簡潔なリズムは、なまなましい身体性を介していたるところで負の官能の不吉なはなやぎをまとい、そこに川上氏の小説に固有の艶(あで)やかなニヒリズムが開花する。》

《四短編を経めぐって本の終末(・・)まで一応至り着いたが、残された問題のうちもっとも重要なのは、いったいなぜ「女」なのかという問いだろう。百八十ページに満たないこの薄い本のなかにはたくさんの女たちが登場する。というより、男たちの影が異様なまでに薄い。傍役としてちらほら見え隠れするのは、「汚い顔、たるんだ腹の皮膚、下劣な笑い声、俗物。死ね」と吐き棄てられる事務所の社長だの(「彼女と彼女の記憶について」)、「見た感じはなんでもないようなふうをしているけれど、でもちょっとした表情や目の動かしかたや、口調のはしばしに隠しきれない下品さが漂っている背の低い男」と描写される母親の再婚相手だの(「シャンデリア」)、碌でもない手合いばかりだ。(中略)

 川上氏個人の思いはどうか知らないが、少なくとも本書のテクストそれ自体は、「男たち」とはことごとく、死(終末)を隠蔽しそれへの不安を疎外したハイデッガー的意味での「頽落」のうちに自足し自閉していると語っているかのようだ。「ダス・マン」とはやはり「男」だということか。彼らはなべてみずから贈与を行なう能力も、それを世界から受け取る能力も欠いている(受精可能な精子を妻に贈与できない表題作の夫……)。》(『新潮』2018年5月号、書評『ウィステリアと三人の女たち』「艶やかなニヒリズム」)

 

『夏物語』が本格的な展開をみせるのは、新たに書き起こされた第二部からで、川上は、

《「文学の魅力は、あたりまえと思っていることの根幹を揺さぶることができるところ。生まれることもそのひとつ。今回、生殖倫理について書こうと思ったときに、『乳と卵』の12歳の女の子を思い浮かべました。彼女は小さな反出生主義者。生まれたら幸せにもなる権利はあるけど、生まれなければ悲しみも苦しみもない。そうしたら生まれてこない方がいいのでは? という直感を持っているんです。その彼女の直感が、今回のAID(非配偶者間人工授精)をめぐる生殖倫理のモチベーションに繫がったんですよね。だから別の物語ではなく、3人の人生を書くことにしました」

「語り直しを含めてさらに大きな物語にした理由はいくつもありますが、世代がめぐるということも描きたかった。女性の人生は身体の変化を軸にしています。だから38歳の主人公に、突然〝子どもがほしい〞と言わせたくなかった。12歳から20歳になった緑子の変化も物語のなかで同時に走らせたかったし、彼女らがどんなふうに過去を生きてきたかも描きたかった」》と語っている。(「honto+インタビュー」)

 しかし第二部では、3人の人生とはいっても、巻子は豊胸手術をしたのかもしれずに相変わらずの生活であるし、大学生になった緑子は気が抜けるほどに恋人と幸せそうにしているだけだし、夏子の人生(セックスせずに、子どもが欲しい)に集中しているといって過言ではない。

 表現された「反出生主義者」、「AID(非配偶者間人工授精)」というテーマについては、上野千鶴子の書評(「女たちの「処女生殖」の夢 父の不在と母の過剰」)やいくつかの論考(『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』(亀山郁夫、岸政彦、斎藤環椹木野衣)、および川上と永井均との対談(「反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」)があり、さまざまな場で川上が答えている。

 それらについて何らかを生半可に、言葉少なに語ることは、ジョイス『若い芸術家の肖像』の神学論争を正面からとりあげるのと同じほどに、理解が及ぶところではないので、本稿では留保したい。

 ハイデッガーが『ニーチェ』で語っているではないか。

《伝達の乏しさは、実は沈黙とおなじことである。これこそ本当の黙秘なのである。なぜなら、まったく沈黙している人は、かえって自分の沈黙を洩らす結果になるが、被い隠す伝達で言葉少なに語る人こそは、実は自分が沈黙しているということをも黙秘することになるからである。》

                            (了)                                    

        *****引用または参考文献*****

川上未映子『夏物語』(文藝春秋

川上未映子『乳と卵』(文藝春秋

川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』(講談社

川上未映子『ヘブン』(講談社

川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』(新潮社)

川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(講談社文庫)

川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(青土社

川上未映子『六つの星星 川上未映子対話集』(福岡伸一斎藤環松浦理英子、多和田洋子穂村弘永井均との対話)(文藝春秋

川上未映子『きみは赤ちゃん』(文藝春秋

*『文藝別冊 川上未映子 ことばのたましいを追い求めて』(亀山郁夫「存在の根源に達するということ――川上未映子の原点と現在」、岸政彦「川上未映子にゆうたりたい」、斎藤環入れ子問題、あるいは新しい「ことばの社会」」、椹木野衣「ゴンドラは運ぶ 生殖と繁殖を乗せて」、等の論考、穂村弘のロングインタビュー、他)(河出書房新社

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳(河出書房、世界文学全集 Ⅱ―13)

ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳(新潮社)

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳(新潮社)

ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク柳瀬尚紀訳(河出書房新社

丸谷才一編『現代作家論 ジェイムズ・ジョイス』(E.R.クルチウス「ジェイムズ・ジョイスと彼の『ユリシーズ』、他」(早川書房

*『丸谷才一全集 第十一巻』(「Ⅰ ジェイムズ・ジョイス」)(新潮社)

川上未映子村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』(新潮文庫

*『群像 2018年6月号』(松永美穂『ウィステリアと三人の女たち』書評「記憶の箱が開くとき」)(講談社

*『新潮 2018年5月号』(松浦寿輝『ウィステリアと三人の女たち』書評「艶やかなニヒリズム」)(新潮社)

*『波 2018年5月号』(蓮實重彦『ウィステリアと三人の女たち』書評「素晴らしきものへの敬意」)(新潮社)

*『文藝 2019年秋季号』(上野千鶴子『夏物語』書評「女たちの「処女生殖」の夢 父の不在と母の過剰」)(河出書房新社

*『文学界 2019年8月号』(「特別対談 川上未映子永井均 反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」、鴻巣友季子インタビュー、他)(文藝春秋

*『WEB本の雑誌 作家の読書道』(第142回川上未映子)(博報堂

*イベント「川上未映子『夏物語』―ジェンダーと翻訳―」

*「fiat magazine CIAO!」2021.1.8

マルティン・ハイデッガーニーチェ』細谷貞雄監訳(平凡社ライブラリー