文学批評 「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

  「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

 

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 須賀敦子は、『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)の五冊を生前に出版している。数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』『供述によるとペレイラは』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳したが、その前の一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版していた。さらに遡れば一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』『アッシジでのこと』などを執筆していた。

 作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集の詳細な年譜などによれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年には『アルザスの曲りくねった道』を構想しはじめ、翌一九九六年四月にアンゲロプロス監督映画『ユリシーズの瞳』を観てすぐにアルザス取材を編集者鈴木力に相談、五月には「私にとってはじめての虚構の人たちをつくることに、怖さと愉しみが半々で、なんとなく浮き立っています」と鈴木宛ての手紙に認める。六月、『ミセス』に『旅のあいまに6 Z――』として、創作ノートの女主人公「オディール・シュレベール」をなぞるような「オディール・ゼラー」について、素描のような乾いた文章を発表。九月にアルザスを編集者鈴木力と歩き回り、十月には序章を書き始めた。しかし十一月に癌の告知を受け、年明け一九九七年一月に入院となって体調すぐれず、七月、草稿三十枚ほどを鈴木に手渡す。一九九八年二月、見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったが、三月二十日に帰天。享年六十九歳。ついに小説『アルザスの曲りくねった道』を書き終えること叶わず、創作ノート1~7と未定稿約四十枚が残された。

 須賀の書かれなかった小説については、全集やムック本で解説されている。全集では第三巻(『ユルスナールの靴』『時のかけらたち』『地図のない旅』『エッセイ/1993~1969(「古いハスのタネ」収録)』)の堀江敏幸解説「夕暮の陸橋で」、第八巻(『書簡』『『聖心の使徒』所収エッセイほか』『荒野の師父らのことば抄』『ノート・未定稿(遺稿『アルザスの曲りくねった道』収録)』『年譜』)の松山巌解説「すべてが恩寵なら、あらゆる時代は、恩寵の時なのです」、他には湯川豊須賀敦子を読む』の「第六章 信仰と文学の間」、『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』の鈴木力「一九九六年九月、最後の旅」、池澤夏樹アルザスに着くまでの道」などがある。

 

アルザスの曲りくねった道』がどのような作品を目指していたかは、創作ノートからおおよそ窺える。

ノート1[太字は手書きで挿入された部分]

 アルザスのまがりくねった道

 アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に漠然と着想を得たものです。旅、人間が生きるということ。(アンゲロプロスの他の映画も、もういちど、見なおしてみるつもりです)

 Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。

「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。

 Zの肉体的特徴。性格。きれいな少女ではなかった。三人、年齢のはなれた姉がいた。一九一〇年代に少女であったということ。宗教的背景。土地の。家族の。

 (1909年生まれ。)→1920年に一一歳/黒ブチの眼鏡、白髪まじりのボッブ/スカートにブラウス/あるいはとっくりえりのセーターにカーディガン/パンプス? 猫背

 それを書いてゆく「わたし」。反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス。

 彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」。アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい。タブッキの『ペレイラが供述したこと』

 それから彼女が修道女として送られたリヨンという都市、フランスのなかでの特異な歴史、絹をとおしての日本とのつながりがあってもいい、ローヌとソーヌ川の話、どこの山から、どういう平野を通って、どこの海に流れこむかということを書く。

 彼女の戦争時代のこと。「わたし」の戦争時代。

 戦後、日本に派遣された話。

「わたし」の戦後。

 日本という国について、それから日本から見たフランス。

 第一次世界大戦から、第二次世界大戦にかけて、さらにその後のカトリックについて。

 私が現実に知っていた彼女とはずらせて、たとえば、シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく。内面の彼女と、外面の彼女のずれ。

 彼女の読書。大学は出ていない。バカローレアだけ。とくに、ペギー。

 そこから、ムニエやエスプリの運動など。「わたし」がアッシジで出会ったダニエル。

 シモーヌ・ヴェイユの博学はないけれど、それから、たとえばユダヤ人に対する偏見などもあるのだが、Zはすこしずつ、日本に来たことで文化の相違などについて理解してゆく。

 そして、さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる。リヨン。

[欄外の手書きメモ]

 ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー

歴史の背景をいくつかの本(たとえば、Flandreへの道とか――Claude Simon)から抜く

 負ける戦争の側から

 修道女たちが誰に(修練期に)指導されたかで、ほとんど生き方が変るということ。

 ほんとうはフランスのカトリシズムに惹かれるのだけれど、それはフランス人のためのものだということが(やや?)はっきりしている。フランスの若い人たちが腕を組んで足をひらいて、ミサにあずかっている姿勢を美しいと思うのだが――》

 ノート2、3、4にはヴェトナム(パリ大学で勉強していた頃、フランス植民地だったヴェトナム出身の女性が多くいた(『旅のあいまに』の『インセン In-seng』、『遠い朝の本たち』の『星と地球のあいだで』とエッセイ『マドモアゼル・ヴェ』に登場する聖心大学初級フランス語教師マドモアゼル・V(ヴィ)はサイゴンから来た人だった、『ヴェネツィアの宿』の『カラが咲く庭』にはヴェトナムのダラットの修道院にいたマリイ・ノエル院長と、精神の病気だったヴェトナム人修道女テレーズとのローマでの出会いが語られている)の記述。

 ノート4には、次の重要な言説がある。

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》

 ノート5、6はZ=オディールのプロフィール確認、7は聖女オディール伝説について。

シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」の二つの「芯」を胸に留めておきたい。

 残された「未定稿」は、序章のさらに序といったところで、あくまでも備忘録的なスケッチにすぎず、須賀らしい文体の香りをまだ纏っていない。

 

 須賀が『ヴェネツィアの宿』を他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるに違いない。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と発言したぐらいにすぎない。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験だった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意すべきである。

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

 ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』という一九七八年十月のコレージュ・ド・フランス講演録がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。

《『失われた時』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。》

 プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時を求めて』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 そして、バルトはプルーストから<私>のことへ移ろうとする。

《私がプルーストの作品・生涯から、小説(・・)と評論(・・)との矛盾を解消しうる――ともかくプルーストにはそれを解消することができた――新たな論理というテーマを取り出したのは、このテーマが私個人に関わるものだからです。なぜか? それをこれから説明したい。ですから、これからの話は<私>のことです。<私>とは、ここでは重く解されねばなりません。それは、一般読者の滅菌された代理人ではなく(代理とはすべて毒にも薬にもならぬ滅菌化だ)、良きにつけ悪しきにつけ何人とも置き換えることのできない者にほかならない。内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っているのです。》

 

 一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語った『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』では、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外に行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違うが、『明るい部屋』の写真をとおしてのバルトの母との思い出は、旅のむこうの声をとおしての須賀の母との思い出と通じあうものがある。バルト『明るい部屋』の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。》

 

「私」と「母」以外に「固有名詞」をもった人物(川端風の『白い方丈』の竹野夫人、モラヴィア風の『レーニ街の家』のカロラ、グイード、キアラ)が登場することから、須賀の『ヴェネツィアの宿』は「短編小説集」と呼ばれても違和感がないだろう。

なかでも『カティアが歩いた道』は、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語だが、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われていて、のちに『ユルスナールの靴』『トリエステの坂道』の空間と時間を、「靴」と「道」に託した文章に続いて、『アルザスの曲りくねった道』に流れこむ精神がみてとれる。『アルザスの曲りくねった道』の大河的全体像を想像するために、『カティアが歩いた道』に類似形を見ておくことは可能だろう。

 キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、「オディール・シュレベール」と多重映像化するカティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。なによりもここには、すでに小説のエクリチュールが、前半は自己省察的な明晰な文体で、後半は川端小説のような美しくも切ない抒情をともなって存在している。

 

 パリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、部屋のルームメイトはめまぐるしく替ったが、ドイツのアーヘン(ドイツ最西部で、ベルギー・オランダの境界に位置し、フランスとの境に位置するアルザス=ロレーヌと文化的、歴史的複合性は似ている)から来た「カティア・ミュラー」は子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだった。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。

 道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 松山巌による年表(『須賀敦子全集 第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れないのが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという虚構の名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、とさえ思われてくる。もはや、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、虚構の人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実、時系列の正確性を詮索、探究することは意味がない。

 

 再度ロラン・バルトだが、遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』で、小説的な嘘について書いている。

《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 しかし須賀敦子は、愛する父や母や知人を「小説的な嘘」をまじえて書くことによって、「愛するものについて語りそこなう」ことはなかった。『アルザスの曲りくねった道』の創作ノートには、なるほど「わたし」が頻出する。さきに引用したノート1だけでも、「彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く」「それを書いてゆく「わたし」」「反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス」「彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」」「「わたし」の戦争時代」「「わたし」の戦後」「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」。しかし、ここでの須賀の「わたし」は自伝的なそれとは違うし、「私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージ」とも違うだろう。

 

 バルトは『長いあいだ、私は早くから寝た』でダンテを語ってから、<私>のことに戻ってくる。

《ダンテは(またも有名な冒頭、またしても決定的典拠ですが)その作品[『神曲』]をワレラガ(・・・・)人生ノ道(・・・・)ノ半バニシテ(・・・・・・)……」と書き始めています。一三〇〇年、ダンテは三十五歳でした(彼はその二十一年後に死去)。私はそれよりはるかに歳をとっていますし、私に残されている余生が生涯の半分になるということはもはや決してありますまい。そもそも「われわれの生涯の半ば」というのが算術上の地点でないことは明らかで、私がこうしてお話している時に、どうして私の人生の全体の長さを知って、それを二等分することなどできましょう? むしろこれは、意味上の地点であり、おそらくは遅きに失するのでしょうが、新たな意味づけへの呼びかけ、変身の欲求が――人生を変えたい、過去を絶って新たに創始したい、ダンテが偉大な先導者ウェルギリウスの導きで暗キ森(・・・)のなかへと入ったように、入門者として指導に服したいという欲求が(私にとって、少なくともこの講演のあいだ、先導者はプルースト)――不意に私の人生に生じる瞬間のことをいうのでしょう。年齢とは、肝に銘ずべきことながら――肝に銘じるべきだというのも、それほどまでに誰しも他人の年齢に無関心でいるからで――年代的与件、ひと続きの歳月であるというのはごく部分的なことにすぎません。実際にはさまざまな年齢の区分、仕切りがあって、われわれはいわば人生を水門から水門へと経巡っていき、その航路の何個所かには、いくつか閾、段差、衝撃がある。年齢とは、漸進的なものではなく、突然変化するものなのです。それゆえ自分の年齢を見つめることは、その年齢がかなりの年配である場合、[“まだまだお若いじゃありませんか”といった]好意的な抗議をひきおこすはずの愛嬌などではなく、むしろ自発的な責務であって、この年齢にあって奮い立たせようという現実の力は何なのか、と問うべきなのです。そんな問が最近になって突然現われ、それがために私には現在が「私の人生の道の半ば」に当たる気がするのです。》

(あまり知られていないが、須賀はダンテ『神曲』の講読会を数年続け、人知れず翻訳も試みていた。)

《なぜ今がそうなのか?

「残された日が数えられる」、緩やかとはいえ不可逆な秒読みが始まる、そんな時間がやって来る(それこそ意識の問題だ)。自分が(・・・)死を免れないことは知っていた(・・・・・)(聞く耳をもった時から皆にそう言われてきた)が、突然、自分がそうなのだと感じる(・・・)(これは決して自然な感情ではない、自然なのは自分が死ぬことはないと思い込んでいることで、そこからあれほど多くの軽率な事故が起きている)。この明々白々たることが、それが身に滲みて体験された途端に、辺りの様相を一変させてしまう。何としても自分の仕事にひと区切りつけなければならないのだが、その仕切りの輪郭は、不確かとはいえ、もう出来上がっている(・・・・・・・・・・)ことが分かっていて(ここが新たな意識)、最後の仕切りなのだ。いやむしろ、仕切りは出来上がっていて、もはや<仕切りの外>はないというわけで、自分がそこに入れこもうとしている仕事がいわば厳粛なものに思えてくる。死に脅かされていた(あるいは、そう信じていた)病身のプルーストさながら、われわれは『サント=ブーブに反対する』のなかに概略引用されている聖ヨハネの言葉を見出すことになるのです――「まだ光のあるうちに仕事をせよ」と。

 それにまた(前のと同じ時期ながら)、自分のしてきたこと、仕事、著述が、同じことの繰返しとなる運命に思える時期がやって来る。何たること、相も変らず死ぬまで、私はさまざまな<主題>について論文を書き、講義や講演をしていくのか、その主題がほんの僅かに変わるだけで!(この<について>というのが私はいやなのです)。こんなことを感じるのは残酷なもので、私にはあらゆる新たなもの(・・・・・)、さらに言えば(・・)冒険(私は<突如として起こる>こと)への権利喪失を宣せられるに等しいからです。私の未来が、死に至るまで、まるで同じものをつなげた<ひと続きの列>に見えてくる。》

(バルトは当時六十二歳、二年後の一九八〇年三月に交通事故による不慮の死を遂げた。)

《最後に、ある事件(もはや単なる意識ではない)に遭遇することもあり、それが少しづつ堆積した土砂のような仕事に目印をつけ、切り込みを入れ、分節化し、そして私が「人生の半ば」と呼んだあの突然の変身、様相の一大転換を決定づけることになる。(中略)プルーストにとっての「人生の半ば」とは、生活の変革、新たな作品の創始がなされたのは更に数年後のことにすぎないとしても、間違いなく母親の死(一九〇五年)だった。残酷な喪、唯一の、何ものにも還元できないものとしての喪、私にはそれがプルーストの語っていた「個人の頂き」を形成しうるものに思えるのです。遅まきながら、このような喪が私には人生の半ばになることでしょう。おそらく「人生の半ば」とは、死がもはや単に恐ろしいというのではなく、現実であるということを発見する瞬間以外の何ものでもないのです。》

(バルトの母は、この講演の一年前、一九七七年十月に亡くなっている。)

《こうして辿ってくると、突然つぎのような明白な事実を思い知らされます。一方で、私にはもはやいくつもの人生を試みる時間がない。私の最後の人生、新たな人生(五十一歳にして二十歳の娘と結婚し、博物誌の新たな著作を書かんとしていたミシュレが言ったのは「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」)を選ばなくてはならない。他方で私は、同じことの繰返しによる仕事の磨滅と喪失とによって立ち至らされているこの闇の状態(中世神学でいう修道士の鬱(・)状態)を選ばなくてはならない。ところで私には、ものを書く人間、書くことを選んだ者にとって、新たな書き方の実践を発見する以外に<新たな生>はありえないと思えるのです。教養、理論、哲学、方法論、信条を変えることは、華々しく見えるが、実際にはごくありふれたことで、そうするのは息をするようなもので、熱中し、熱が冷め、また再び熱中するだけで、知性が世間の驚嘆を気にかけるかぎり、理知的改心は知性の衝動そのものにほかならない。しかし、新たな形式を探求し、発見し、実践すること、これこそは私がその決定的要因を挙げた新生(・・)に見合うものだと、私は考えるのです。》

 

 バルトは、自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望みを語ったあと、トルストイ戦争と平和』とプルースト失われた時を求めて』のある挿話を読み返すという読書体験と、それによる教訓の話をする。

《この、私の道半ばにして、この私という個人の頂きにあって、二つのテキストを再読する機会がありました(実は、あまりにしばしば読み返すために何時のことだったか申し上げられないのですが)。ひとつは、残念ながらもはや書かれることはないほどの大小説、トルストイの『戦争と平和』を読み返したこと。ここでは作品についてではなく、ある深い感動のことをお話しします。この感動が私にとって頂点に達したのは、ボルコンスキイ老公爵の死に際して、彼が娘のマリヤにかける最後の言葉のところ、愛の弁舌(駄弁)を振うこともなく愛し合っていたこの二人の胸を死の間際になって引き裂く愛情の迸りのところです。二つ目は『失われた時』のある挿話を読み返した(ことでこの作品がここで出てくるのは、この講演の冒頭とは全く別の次元のことで、私が今ここで自分を一体化させようというのは話者(・・)の方にであって、作家にではない)、それは祖母の死の条りです。これはすみずみまでも純粋な物語である。私が言いたいのは、ここでは苦痛が(『失われた時』の他の挿話と異なり)何ら註釈の対象とならず、永遠の距離を生む、到来する死の残忍さが、間接的な事象や出来事(シャンゼリゼのあずま屋への立ち寄りや、フランソワーズの振う櫛の下で揺れる哀れな頭)を通してのみ語られているだけに、苦痛がここでは純粋であるということです。》

須賀敦子の場合は、シモーヌ・ヴェイユ体験、ダンテ『神曲』の講読会、『ユルスナールの靴』に結実したユルスナールの読書(『ハドリアヌス帝の回想』における「霊性の闇」「老い」、『黒の過程』の「異端者」「求道者」「放浪者」)、戦火のバルカン半島が舞台のアンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に「自分さがし」「ヨーロッパ」「地つづき」「共通言語へのひりつくような渇き」を観たことだったに違いない。)

《この二つの読書体験、それらがいつも私の内に掻き立ててくれる感動から、私は二つの教訓をひき出した。まず確認したのは、これらの挿話を私が<真実の瞬間>として受けとっていることであり(そうとしか言いようがない)、突然、文学が(ほかでもない文学が)身を切られるような別離の悲哀、ある<叫び>と、完全に重なり合うのです。愛する者から遠く離れて、思い出なり予測なりで、別離を味わっている読者の肉体に、じかに、超越的なものが触れるわけで、まさにいかなる悪魔(ルユシフエール)が愛と死とを同時(・・)に創り出したのかと問いたくなる。この<真実>の瞬間は<レアリスム>とは何の関係もない(そもそも真実の瞬間など、どんな小説理論のなかにも見当たらない)。(中略) 第二の教訓、私が小説とのあの熱っぽい接触からひき出した第二の勇気と言うべきもの、それは書くべき作品が(こう言うのも、私が自分のことを<書きたいと思っている者>と見なしているからだが)、ある感情をそうとは述べずに(・・・・・・・・)積極的に提示するのを認めるべきだということです。》

小説が持つ能力を――情愛あふれる、愛する力を――発展させ、果たしてもらいたい三つの任務を説明した後でバルトは、《ニーチェ流の類型学からすれば、小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではないのです》と述べ、《そしてここでまた私は、最後になりますが、方法論に行き当たるのです。私が実際、もはや何かについて(・・・・)語る者の立場ではなく、何かをつくる(・・・)者の立場に身を置く――生産物を研究するのではなく、生産そのものを担いたい。言述についての言述は廃棄したい。世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる》と言う。

 バルトの「世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる」に、須賀の言葉「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」が、「小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではない」という信頼で重なりあう。

 

 ここで、創作ノートの「シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」を思い起こしたい。

 一九七〇年ごろのシモーヌ・ヴェイユ体験について書かれた『本に読まれて』の『世界をよこにつなげる思想』(初出はヴェイユ『カイエ4』月報(一九九二年))にはこんな文章がある。

《一九七二年に出版された筑摩叢書の、リースというイギリス人の書いた『シモーヌ・ヴェーユ』(山崎庸一郎訳)は、刊行年からみて、私が夫の死後イタリアから帰って、もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。ポスト・イットなどという、糊のついた便利なしおりがまだ市販されていなくて、じぶんで細く切った白い紙に、要点やら感想を書きいれたのが、降伏の旗のようにあちこちにはさんである。「多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、また神の愛する多くのものがそのそとにあります。わたしが愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。最近の二十の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります」

『神をまちのぞむ』からのこの引用は、このしるしをつけた二十年まえから今日にいたるまで、そしておそらくは私の生のつづくかぎり、ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。》

 

 アッシジと言えばヴェイユ『神をまちのぞむ』の有名な一節を思い起こすのが、ヴェイユを知る者なら自然だろう。ユダヤ人迫害を激化するナチス・ドイツ支配下のフランスを逃れたいという両親の嘆願を受入れ、アメリカへ渡る前に、ヴェイユ自ら「霊的自叙伝」と呼んだ、ペラン神父への長い手紙の一節にこうある、《一九三七年には、アッシジで素晴らしい二日間を過しました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀のロマネスクの小聖堂に、その類のない清純な素晴しさの中に、ひとりでおりましたとき、そこは聖フランチェスコがたびたびお祈りしたところですが、わたくしは何か自分よりも強いものに強いられて、生まれてはじめてひざまずきました。》

 しかし、ヴェイユは丘を降りて行き、最後まで洗礼を受けず、教会の入口にとどまって、聖職者となることを拒んだ。

 一九五七年に須賀が『聖心(みこころ)の使徒』に掲載した『アッシジでのこと』には、若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな若い文体ではあるけれども、熱く素直に語られている。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

 サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(中略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

 庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。》

 須賀は恥らいから秘すかのようにヴェイユのことに触れない。一行空けて、後半が待っている。

《丘を降りて汽車にのってからも、あれから三年たった今も、私には、あの時の時分のおどろきがわすれられない。(中略)夏休みも半ばをすぎ、パリに帰る日が近づいたある夕方、私は、カムパアナ家の人たちと、おわかれにアッシジの丘をのぼった。四月の雨の日の訪問からかぞえて八度目であった。私への名残りを惜しむかれらにくらべて、しかし、私の心は、もっと複雑だった。アッシジの町の後にそびえる、ロッカ・マジョオレの城跡のくずれかかった石の間を跳んで歩きながら、私は、ほんとうはどうすればいいのかわからないと思っていた。(中略)星が野が、町がこたえた。私たちのフランチェスコも、丘を降りて行った。だれでも一度は丘を降りなければならない。おまえのいのちは、この夏、ウムブリアの野にうまれた。うまれたばかりだから、わたしたちは大切にそだてた。しかし、もういいだろう。おまえにも丘をおりる時がきたのだ、と。月が登りはじめた。ひえびえとした九月の夜風が、荒れた城跡を白く吹きぬけて行った。もうあれから三年になる。あれ以来、まだ私はアッシジをたずねていない。私が丘を降りてからのはなしを、かれらは風のたよりにきいているかもしれない。そして、ひょっとしたら、いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ。》

 一九五七年の「いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ」は須賀の内部の深くにタネとして宿りつづける。実際、須賀はその後も何度かアッシジを訪ねている。創作ノートに「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」と記された一九六〇年三月のアッシジ行きは、(二年後に結婚する)ペッピーノ・リッカ宛書簡(岡本太郎訳、『須賀敦子全集 八巻』)で読むことができる。当時の須賀の人柄、自己省察、自覚、さまざまな思い、関心、感受性、悩み、苦しみ、愛の対象を見出せるので、長くなるが引用する(偶然にもダンテについて研究していたダニエルについては『コルシア書店の仲間たち』にも時系列に差異はあるものの「共同体」について語り合った場面がある)。須賀ははじめから「二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていた」のであり、それをどう乗り越えるかが長年の宿題だった。

 

三月八日 ローマ

 親愛なるペッピーノ、

 お手紙ありがとう、アッシジで受けとりました。

 さて、それではアッシジの滞在記です。私は三月二日、火曜日の夜に着きました。前に(たしか)あなたにお話ししたように、この町に行こうと決めた理由の一つは、シャルル・ド・フーコー神父の友愛会の精神についてさらに知り、理解を深めたかったからでした。そして「イエスの小さい姉妹の友愛会」があることを知っていたので、できれば彼女たちに会いたかったのです。(中略)

 夕食のテーブルで私は若いフランス人女性のダニエルと知り合ったのですが、彼女はパリの高等師範学校の学生で、ダニエル―神父の友だちで、今は「神曲」におけるダンテの愛の概念についての論文を書くためにローマに滞在中なのです。私たちはすぐに話はじめました。ああペッピーノ、私が心を開いて話のできるフランス人に出会うのはそうそうあることではないこと、おわかりでしょう。ひどい返事をしたり、いいかげんなことをたくさんいってしまうことがよくあるのですが、それも、彼らの、ある種の優越感に支えられた過度の好奇心に苛立たされるからなのです。でもダニエルとはまるでそんなことはありませんでした。夕食のあいだじゅう打ちとけて話ができたのです。私たちはおやすみのあいさつをいって、私はこの思いがけない出会いにうれしくなっていました。

 ダニエルにとってアッシジに来るのははじめてでした。そこで翌日私は案内役を買ってでたのです。私たちは一緒にサン・ダミアーノ教会に向かいました。小さい姉妹会のことをいってみますと、彼女も直接会ったことはなく、訪ねてみたいということでした。二人でなら思い切ってやってみられるかもしれません。

 大切なペッピーノ、ここで、アッシジに発つ数日前に起きた不思議な体験のことをお話ししたいと思います。体験、と私は呼んでいるものの、実際はただの夢なのですけれど。

 あたりはもうすっかり春です。どの丘も鮮やかな緑におおわれていて、桃の甘い花はまるでうれしさのあまり泣いているかのようです。私はひとり満ち足りた思いで歩いていました。

 すると突然、丘の上のひどく貧しい小屋が目に入りました。その脇には鶏小屋がありました。

 私はたずねました――あそこには誰が住んでいるかしら? 声が答えました――小さい兄弟たちだよ。

 私にはまるでショックのようなものでした。土の匂いを、鶏小屋や、桃の花や、草の匂いと一緒に感じたような気がします。そしてそういった一切が、彼らの生活の素朴さ、質素さのイメージであり、その根源的なかたちであるかのように私には思えたのです。それと同時に彼らの貧しさと、私の傲慢さを、私の自分自身の粉のような乏しさにもかかわらず、常にあらゆるものを批判しようとしてきた、どうしようもなく尊大な態度をはっきりと思い知ったのです。

 それでもこの自覚は不愉快なものではありませんでした。むしろ私はうれしく感じていました。こうしたことをすっかり理解することができてうれしかったのです。私は泣きだしました。苦い涙ではなかったことをよく覚えています。まるで胸を張って泣いているようでした。この、アッシジの平野を流れる小川のひとつのように。そしてあまりにもひどく泣いたおかげで目が覚めてしまいました。

 姉妹たちのもとでの冒険にもどりましょう。私たちは一時間ばかりいたように思います。時間を無駄にさせてしまってとても恥ずかしく感じていました。でも同時にすっかり魅了されてしまっていて、いとまを告げられずにいたのです。

 昼食の時間に間に合うように急いで道を上ってゆかなければなりませんでした。歩きながらダニエルはいいました。

 ねえ、あなたも彼女たちみたいになってみたいという気にならなかった? あんな純粋な生活を送ってみたいって?

 ええ、たしかに。でもね、小さい姉妹会の生活をそのまま送るというのは私のするべきこととは少しちがうように思うの。彼女たちの精神性は私になにか決定的なものをもたらしているのはたしかなのだけれど、私が生きるべき世界は彼女たちのとは少しちがうように思えるのよ。ダニエル、あなたはどう?

 私もよ。(中略)

 ダニエルは間違いなく、今までに私が会った若い女性の中でも、もっとも聡明な一人です。彼女の論理の明快さ、考える筋道の厳格さには本当に感心させられましたし、しかもとても気持ちの良い人なのです。それに私は彼女のうちに、あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思いがあることに気づきました。私はローマに帰って来ましたが、数日のうちには彼女ももどってくるはずです。私たちはできるだけ会って、一緒に勉強をしようと約束しました。あなたもいつか彼女に会って、多くのことを理解できるように手を貸せるのではないでしょうか。(中略)

 大切なペッピーノ、私に良きアッシジ滞在を願ってくれた、心から感謝します。たしかに、たくさん人に会ったりせずに、もっとゆっくり過ごすつもりでした。でもごらんのとおりまったくちがう結果になりました。でも、本質的なことは、私が再度、自分の毎日の歩みの方向を確認できたということなのです(ダニエルには、やっと生きはじめたように思う、といいました……)。(後略)

 またのお便りお待ちしています。あなたの、               敦子》 

 

 そして四十年後、アッシジという場所ではないが、より文化、宗教、戦争、ネーション=ステートが混淆したアルザスという「はざま」の地に、「あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思い」で、「自分の毎日の歩みの方向を確認できた」成熟を芯に、白いハスの花を咲かせるために帰って来た。

 

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》の「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」とは、須賀が翻訳したイタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』で、カルヴィーノが、ダンテ『神曲』の「地獄篇」に登場するウゴリーノを論じたボルヘスの文章を次のように論じたことから来る。

《現実の時間や歴史の時間のなかで、いくつかの選択肢のまえに立たされたとき、人は、そのひとつを選び、他の可能性を排除して、これを失う。だが、希望や忘却の時間に類似する芸術の曖昧な時間においては、そんなことはない。そういった時間のなかにいるハムレットは、精神が正常であると同時に狂人でもある。飢餓の搭に幽閉されたウゴリーノは、愛する息子たちの遺骸を食し、同時に食さない。揺れうごくこの不確かさ、この不安が、ウゴリーノの本質なのである。そこで、ふたつの可能な苦悩にさいなまれるウゴリーノを、ダンテは夢に描き、これからの何世代もが夢みるのだ。》

 雑誌「新潮」一九九六年一月号にぽつんと掲載された『古いハスのタネ』は、ダンテから十九世紀英国詩人ホプキンズへと、「宗教と文学」の関係をヴェイユ『カイエ』を思わす断章で並置してゆく、須賀には稀な難しい文章だ。

 ダンテについては、《ダンテの『神曲』は、巨大な天幕のようにキリスト教が<普遍的な宗教>として、西欧人の思想と生活のすべてを蔽(おお)っていた時代に書かれた、西欧中世を代表する文学(・・)作品だ。作者は、人間とはどういうものか、なにを追究して生きるか、というテーマを、比類ない力づよさ、写実性をもって描きあげる。だが、ダンテがあまりなんでもないふうに宗教の話をするので、後世の読者は、いや、学者さえも、おもわず文学と現実、詩と宗教をとりちがえて混同することがある》から始まる。

《枠組はどっぷり中世的、キリスト教的であっても、知識の分化が行なわれなかった時代に生きたダンテが、なによりも野心をあおられ、興味をそそられたのは、百科辞典的な知識の集成を物語に織りこむことだった。同時に、人間そのものを、また人間の知識や欲望を根底でささえているエネルギーについての話を、物語誌としてどのようにまとめ、どのような詩形式に表現すればよいか、といった巨視的な意図に、彼は支えられていた。

                      *

 ダンテが、彼の分身を最後には神の実在に沈潜させるというかたちでこの作品を結んでいるのも、知識の総合性を重んじた中世らしい発想だ。断片性を価値としてみとめる慣習は、近代になって生れた。

 それでも、あの有名な神秘の薔薇の白光に照らされ、歌にみちた<神によみせられるものたち>の幸福は、人類がかつて想像しえた、最高の歓喜の表現であることに変りはない。》

 須賀は、さきのウゴリーノの逸話を、トスカーナ育ちの友人が幼い頃、老農夫から語って聞かされた話として織りこみ、《現在の私たちが詩と呼び、宗教と呼ぶものが、ダンテの時代とは比べられぬほど、部分的で断片的であることに、私たちは気づく》、《一見、キリスト教にすべてが括られていたようなイタリアの中世に書かれたのではあっても、『神曲』は、すでに言葉の世界が、それとは別の山として、ひとり歩きをはじめたことを物語っている》という、自分の現在の思いに引きつけた重要な断章の後に、以下の一節と内心の吐露で結ぶ。

《『神曲』の地獄篇第二十六歌で、旅人ダンテはオデュッセウスに出会う。ダンテのオデュッセウスは、私たちの知っているホメロスの、ついには息子や妻のもとに帰りついてほっとするイサカの英雄ではなくて、道に迷ったまま、<老いて気も萎えた>オデュッセウスで、彼と彼の仲間たちを乗せた船はとうとう、<世界の果て>と中世人が信じていた、ジブラルタルの岩にさしかかる。(中略)

 それにしても、人間に許される以上を知ろうとした罪、その冒険に仲間を誘いこんだ罪で、地獄の最下層に閉じ込められているオデュッセウスと、宗教のみちびきとは別々に、太陽の光が射さない詩の世界にさまよい出たダンテとの相似性は見逃せない。ジブラルタルの岩の向こう側こそが、ダンテの文学がはじまる場であるように、私には思える。

                      *

 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。》

 

 そして唐突に、吉行淳之介の短編小説『樹々は緑か』が紹介される。

《数日まえ、吉行淳之介の『樹々は緑か』を学生たちと教室で読んだ。あまり知られていない短編で、こんなふうに始まっている。

<陸橋の上で、伊木一郎は立止って、眼下に拡がっている日暮の街に眼を向けた>

 なんてやわらかな始まりだろう、疲れていたのだろうか。夕方の授業で、三十人ほどの学生がいて、そのなかの、五、六人はいつもいっしょうけんめい聴いていて、それがかえって私を不安にする。聞かれても、聞かれなくても、教師は不安だ。

 さて、伊木は三十三歳で、夜間高校の教師をしている。たぶん下町を見下ろすらしいその橋のうえで、彼は自分の気持を測っている。街を覆う靄のなかに、とても降りて行けない気分か、それともちょっと勇ましく降りて行ける気分か。私も、しじゅう、ふたつのあいだを揺れている。行けばいいのか、行かないほうが彼にとって無事で済むのか。(中略)

 小説がその先、どういう展開になったのか、鮮明な記憶はない。なんとなく終ってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈絡もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。

 これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独――それはとりもなおさず生の孤独なのだが――に、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。

 もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。》

 

 創作ノートに「アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい」と、[欄外の手書きメモ]「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」がある。

「先年のストラスブール文学者会議」とは、一九九三年の、アルザスストラスブールで「世界の叫び」という題の下に開催されたシンポジウムで、ジャン=リュック・ナンシースーザン・ソンタグジャック・デリダサルマン・ラシュディらが参加している。

「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」とは、一九九七年二月三日朝日新聞夕刊の文化面、「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」のインタビュー記事「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」のことだ。須賀は、「ストラスブール文学者会議」の司会者だったアルザス育ちのジャン=リュック・ナンシー(スロラスブール大学教授)の声に、かねてからの「文学と宗教」への関心に加えて、戦争、希望、現実、神の不在に感応し、歴史的十字路であったアルザスを舞台に、「断片」を超えて「人間の尊厳」の下で総合的に書かれるべき、自らの小説の姿を野心的にだぶらせたのだろう。

《――科学文明への期待で幕を開けた二十世紀は、実際には戦争と強制収容所の世紀でした。民族紛争や貧困の問題も残されたままで、未来に希望が見えない状況があります。

「今世紀は破壊的で恐ろしい時代でした。教訓は、破壊や悲劇が未来のユートピアをめざすイデオロギーや、社会問題を解決しようとする計画によって起きたことでした。夢は破局に終わり、いまではだれも未来を信じなくなっています。その結果、私たちは二十世紀を幸福な時代として懐かしむことも、二十一世紀を夢見ることもできない状況におかれています。過去も未来も失ってしまった二重の喪失感があるのです」

――それが現在の人類の危機につながっているのですか。

「ヨーロッパでは、ローマ帝国が滅亡した時にも、ひとびとに大きな喪失感がありました。振り返ってみると、それは大きな歴史の一つの過程にすぎなかったのです。古い世界の秩序が崩れようとしているという意味では、現在も危機の時代といえますが、それは次の新しい世界が生まれる過程でもあるのです」

――新しい世界に希望を描くことはできますか。

「私は楽観主義者だとは思っていません。しかし、人類の将来については希望をもっています。人間が二十世紀の歴史から何も学ばなかったはずはないからです。ボスニアの戦争は確かにひどいものでした。しかし、民族浄化の危険に気づくことができたのは歴史に学んでいたからです。責任の追及は十分とはいえないが、ナチのホロコーストが見過ごされた時とは違っていたのです」(中略)

――現実の世界では、民族や宗教の違いをめぐる争いや暴力的な混乱が続いています。

「大きな時代の変化への恐れから、自分たちだけの狭い世界に戻ろうとする動きがあるのは確かです。平等や博愛といった言葉が中身のない空疎なものになっていることにも見られるように、危険な動きに対抗する思想がないという問題もあります。しかし、たとえば、民族にとらわれない開かれた歴史教育をめざす動きはフランスでも広がっています。二十一世紀の世界は開かれた方向に向かうと私は確信しています」

――新しい生きた思想や哲学が生まれないことには、知識人も責任があるのではないですか。

「もちろん責任はありますが、特権的な知識人が真理を教えるという時代は、間違った夢を信じた二十世紀の知識人とともに終わってしまったのです。新しい思想は、ひとがともに生きている現実に目を向ける中から生まれるはずです。それは知識人だけの役割ではないのです」

――新しい思想や哲学が生まれる可能性はあるのでしょうか。

「二十世紀の一番大きな出来事は、神が本当に死んだことだと私は思っています。神の死は十九世紀に宣告されていたけれど、影は残っていました。人間を超えた絶対的な神の不在は、人間の存在も変えてしまうのかもしれません。フロイトは人間は生まれていくものだと言っていますが、人間に代わる何かは、すでに生まれているのかもしれません」》

 

 プルーストには「決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです」とバルトは考察した。

須賀は、『アルザスの曲りくねった道』を書き始めることを念頭に、鈴木力への手紙に「ながいこと私のたゆたい・試行錯誤に、たぶんあきれながらもおつきあい下さりここまで待って下さったことについては、力さんをはじめ新潮社の方たちのご寛容に感謝の気持でいっぱいです。」と書き送った。

「文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」と言い、「教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える」と言う。

 バルトの「書きたいという欲求(・・・・・・・・・)」「内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っている」と同じく、右足にダンテ、左足にヴェイユという「歩き靴」を履いた須賀は、秘めた「生の孤独」のうちに時の天命が熟すのをずっと待ち、「さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる」。

「揺れ動く不確かさ」「思いの揺れ」「たゆたい・試行錯誤」を肯定的にとらえた須賀の白いハスの花『アルザスの曲りくねった道』は、ダンテの「神秘の薔薇の白光」と同じ輝きを放って「ジブラルタルの岩の向こう側」を照らすはずだった。

                          (了)

            *****参考または引用文献*****

*『須賀敦子全集 全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

湯川豊篇『新しい須賀敦子』(集英社

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』(新潮社)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

松山巌須賀敦子の方へ』(新潮社)

イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳(みすず書房

シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳(春秋社)

リチャード・リース『シモーヌ・ヴェーユ』山崎庸一郎訳(筑摩書房

*『朝日新聞 夕刊、一九九七年二月三日』(「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」)