文学批評 丸谷才一『後鳥羽院』(ノート) ――「しかし」で転回/多層化する後鳥羽院和歌

 

 

                                        

 丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(以下、『後鳥羽院』と略)は「歌人としての後鳥羽院」「へにける年」「宮廷文化と政治と文学」からなる。第二版で、「しぐれの雲」「隠岐を夢みる」「王朝和歌とモダニズム」の三篇を追加した。

 開巻第一の「歌人としての後鳥羽院」冒頭は、「書き出し」が大事だとした丸谷の術の見せどころとなっている。すなわち、世間常識的な定説にならって否定ないし疑問を投げかけておいて、逆接の接続詞(「しかし」「ところが」)でコペルニクス的に転回し、いやおうなく読者を巻き込む。感想ではなく、具体的な論証・引用で次々と的を射ながら、同時に作者の批評姿勢・方法・態度を公開する(丸谷は《小林秀雄の文章は威勢が良くて歯切れがよくて、気持ちがいいけれど、しかし何をいっているのかがはっきりしない》(『文学のレッスン』)詩的な批評を嫌い、河上徹太郎の明晰さを擁護した)。

 ここでは、後鳥羽院藤原定家の時系列的な関係性を論じた「へにける年」と、承久の乱の文化的、政治的な意味を考察した「宮廷文化と政治と文学」については触れず、後鳥羽院の秀歌鑑賞である「歌人としての後鳥羽院」を取りあげる。

 

歌人としての後鳥羽院」の冒頭は次のとおりである。

 

<人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は

《 人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は

後鳥羽院御集』建暦二年十二月二十首御会。また、『続後撰和歌集』巻第十七雑歌中。

後鳥羽院御集』など誰も読まない。『続後撰和歌集』にいたってはさらに読まれないと言ってよかろう。それにもかかわらずこの後鳥羽院の歌がすこぶる人口に膾炙(かいしゃ)し、「ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく」よりも、「見渡せば山もと霞むみなせ川ゆふべは秋と何思ひけむ」よりも、さらに「我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」よりもよく知られているのは、ひとえに『小倉百人一首』の力である。すなわち藤原定家後鳥羽院の最高の作品としてこの一首を選んだわけだ。あるいはすくなくとも、上皇の歌としてはこの一首を選ぶようにと、息子の為家に言い残したわけだ。

 実を言うとかつてわたしはこのことに不審をいだいていた。定家が誰よりも恐れていたらしい当代の上手の、全作品を代表させるに足る歌とは思えなかったからである。もちろん『小倉百人一首』が定家の撰であることを疑い、室町以降の定家崇拝にあやかってでっちあげた伝説にすぎないとしりぞけるならば話は別だろう。しかしわたしは、いわゆる実證的研究の成果よりは長い歳月にわたる伝承のほうを重んずるし、それにどうやら最近は、この伝承のかならずしも迷妄ではないという学説がかなり有力なように見受けられる。これは、たとえ百歩ゆずっても、定家の意向が隅々まで反映していたと見るのが無難だろう。大部分は彼の手によって編まれたものを、ほんの一部分、後人の恣意によって手直しをするという事態は、当時の定家の名声から見てどうもあり得ないことのような気がする。すなわち、定家はやはりこの一首を後鳥羽院の代表作と見なしたのであろう。

 T・S・エリオットの名台詞(めいせりふ)をもじって言えば、定家と意見を異にすることは危険である。それはおそらく、ジョンソン博士と意見が分れることよりももっとあやういはずで、よほど覚悟を決めた上のことでなければならない。だが困ったことに、一応そうは認めながらもわたしは相変らずこの歌に感心しなかったのである。

 そのころのわたしの解釈は、至ってありきたりの単純なものであった。一体この歌の語句で問題なのは「をし」と「あぢきなく」くらいのもので、それとても前者は『大言海』に従って「愛(メ)ヅベシ。イツクシ。ヲカシ」と受取、後者もまた同じ辞書の言う「快カラズ思フ。ツラシ。ナサケナシ。無情」と見ればそれですむだろう。もともと難解では決してない歌なのである。しかしわたしがありきたりの解釈と言ったのはそういう語釈の問題ではなく、いわば倒幕の決意を秘めた政治的な歌として見ていたという事情にほかならない。国歌大系本の『続後撰和歌集』には、「人もをし人もうらめし」の注として、「前の人は忠良の臣を指し、後の人は鎌倉幕府の専横者を指す」とあるが、わたしも大体こういう具合に考えて内容の浅さをさげすんでいたらしい。そして、敢えて言い添えておくならば、普通はおおむねそういう性格の歌として受取られているのではないかと思う。

 ところがわたしの考えは、江戸末期の国学者、岡本况斎の『百首要解』によって打ち砕かれたのである。况斎は言う。

『源氏』、須磨、「かかる折は人わろく、うらめしき人多く、世の中はあぢきなきものかな、とのみ、よろづにつけて思(おぼ)す」とあるを用ひさせ給ひて一首となさせ給ひしなるべし。あぢきなく。心にかなはでせんすべなきをあぢきなしといへり。俗ににがにがしといふに似たりと県居翁いはれき。をしは愛の字をよめり。一首の意。せんすべきなき世を思(おぼ)しつづけ給ふにつきては、おんみづからの行く末いかがあらんと、よろづ御こころまかせ給はぬままになつかしく思(おぼ)す人もあり又うらめしく思す人もあり、と也。

 こうなれば話は違ってきて、たちまち『源氏物語』の地平が開けるわけである。『吾妻鑑』の陰鬱な日常のかわりに『源氏物語絵巻』の華麗な幻があらわれると言うほうがもっと具体的かもしれない。とにかく後鳥羽院はこのときみずからを光源氏になぞらえていた。水無瀬の離宮はまだ造営されていなかったけれども、水無瀬殿と須磨とを二重写しにすれば、そういう後鳥羽院の心意気は最も鮮かにとらえられるであろう。おそらく定家がこの歌を『小倉百人一首』に撰抄した動機としては、このような前代への思慕を喜ぶ気持が強く働いていたにちがいない。王朝の古典趣味ないし古典主義によって歌の奥行を増すことは、彼の歌学の基本だったからである。あるいは、文学の伝統を重んじることこそ彼の文学の核心にほかならないからである。

 そして王朝の風情をなつかしむ心でもう一押し押せば、幕末の国学者の言う「なつかしく思す人」とはすなわち寵妃、寵童であり、「うらめしく思す人」とは意に従わなかった女たち、少年たちということになるだろうか。「世」にはまた「男女の仲」という意もあるからだ。

 けれども光源氏の場合にも後鳥羽院の場合にも、もちろん恋愛だけに話を限ってはいけないだとう。彼らにはいずれも政治生活があったからである。と考えれば、ここの「世」には二重の意味が仕掛けられていることになるし、一首全体が恋の哀れと政治の悲しみとの双方を詠んだ、こみいった細工の歌となってあらわれるように思われる。》

 どうだろう、ここまでくれば、本書における丸谷の態度・方法をすでにほとんど言い尽くしている。すなわち、恋と政治とエロティシズムの「複雑で新鮮な味わい」の、時空を超えた多義的で多層的な鑑賞、批評である。

 

 以下、「しかし」「ところが」からの文章を引用するが、その前段部分は類推できると踏んでのことである(もちろん必要に応じて補完)。

 

<我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ>

《ところがここに『後鳥羽院御百首』に附した古注(文体から推して室町期のものと目される)があって、わたしに言わせれば一首はそう読むのが正しい。いわく。

   われこそはと云ふ肝要なり。家隆卿隠岐国へ参り、十日ばかりありて帰らんとし     給ふに、海風吹き帰りがたければ、我こそ新じま守となりて有れ共、など科なき家隆を 波風心して都へかへされぬとあそばしける。されば俄かに風しづまりて家隆卿都へ帰られしとなり。

 ただし、藤原家隆藤原定家と対照的なくらい、承久の乱以後も後鳥羽院に盡したことは事実だけれど、実を言えば彼は隠岐へは一度も行っていない。当時の旅の難儀と家隆の老齢を思えば、ただちに納得のゆくことである。つまりこの注釈の伝える挿話は後人の虚構に属するので、室町のころには和歌の功徳をたたえる説話がむやみにはやっていた。

 しかしわたしの言いたいのは、後鳥羽院が沖の海の浪風に「我こそは」と呼びかけるとき、それはみじめな流人として、しかも自分のため、哀願しているのでは決してなく、この島を守る者として、誰か他人のため、海に命令しているのだということである。その誰かとは荒天のため舟を出せずに当惑している漁師であると考えてもいいわけで、「新じま守」という言葉には、案外、つい先日まで支配していた日本の国全体の広さにくらべれば、こんな小島を司るくらいすこぶる易しいという自負がこめられているかもしれない。》

《われわれは、『増鏡』の単純な泪にまどわされて第一句の複雑なユーモアを見落としてはならないだろう。配所に生きる終身囚が寛濶に冗談を言う趣こそ、一首の最大の魅力なのである。

 ただし、単にユーモアを狙っただけのものとして見るのでは一面的になる。それは、滑稽とないまぜになっているだけにいよいよ哀切で、諧謔を弄しているだけいよいよ沈痛なアイロニーなのである。そういう風情を味わうためには、折口信夫の鑑賞が最も参考になるだろう。彼は『女房文学から隠者文学へ』のなかでこの歌に触れ、これは小野篁の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ蜑(あま)の釣り舟」、および在原行平の「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」を「創作原因」にしているものだが、「小野篁在原行平が、同情者に向つて物を言うてゐるのとは、別途に出てゐる」と述べた。

  此歌には、同情者の期待は、微かになつてゐる。此日本国第一の尊長者である事の誇りが、多少、外面的に堕して居ながら、よく出て居る。歌として、たけを思ひ、しをりを忘れた為、しらべが生活律よりも積極的になり過ぎた。さう言ふ欠点はあるにしても、新古今の技巧が行きついた達意の姿を見せてゐる。叙事脈に傾いて、稍、はら薄い感じはするが、至尊種姓らしい格(ガラ)の大きさは、十分に出てゐる。

 折口にしては珍しく、「稍」とか「感じはするが」とか、但し書きの背後にためらいがあらわなのは、おのずから一首の貫禄を示すものだが、彼の指摘する「しをり」が忘れられ「しらべ」が強すぎるという二点は、わたしの言うユーモアやアイロニーのためには不可欠の仕掛けであった。しかし「格(ガラ)の大きさ」という言葉は、「我こそは」と大きく出てそのまま一気に詠み下した筆太な勢いをとらえて見事である。さすがは釋迢空と感嘆してもよかろう。》

 

<ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく>

《『新古今』歌風についてはさまざまに形容されているが、言葉の曖昧性ないし多義性を存分に利用していることはあまり指摘されていないような気がする。だが、何も余情(よせい)妖艶の歌のみに限らず、いわゆるたけ高きさまの場合にも、この手の工夫はずいぶんなされているようだ。曖昧さが詩の特質の一つであり、しかも日本語の一特色である以上、『新古今』時代の歌人たちがこれを利用しなかったはずはないし、第一、縁語とか掛け詞とかいう和歌の基本的な技巧そのものが曖昧性を目ざしているのである。『新古今』の歌人たちはそういう伝統的な技法を極度に複雑化することに腕を競いあった。そして『新古今集』の秀歌で古来論議のかまびすしいものは、みなここのところで話がもつれたものなのである。》と前置きしたうえで、

《たとえば藤原定家の「み渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕ぐれ」について二種の解がある。第一は花も紅葉もない、すなわち春秋二季の代表的な美の欠如した、その喪失の風情を歌っていると取るものである。そして第二は、海辺の秋の夕暮の蕭条たる眺めには花も紅葉も敵すべくはないと見るものである。(中略)

 しかしわたしには、見渡せば桜も紅葉もない、海のほとりの苫葺きの小屋からの秋の夕暮れにしくものはない、桜も紅葉もこれにはかなわぬ、という二重に入り組んだこころを、この三十一文字に託したように思われてならないし、事実、一首の読後われわれの心に残る朦朧(もうろう)たる印象の総体は、強いて散文に直せばこうなるような何かなのである。そして、定家がもしこういう趣を狙い、こういう工夫をこらしていたとするならば、同種のことを同時代の歌人たち、殊に彼の好敵手である後鳥羽院が試みようとしなかったと見るのは、詩人の仕事の現場に立会おうとしない者の見方であろう。そこでこの一首はわたしにとって、「春こそ空にほのぼのときにけらし」と「天のかぐ山ほのぼのと霞たなびく」の二つを、「ほのぼのと」によって、強引にしかも巧妙に結びつけた歌と見えてくるのである。これならば三夕の歌の一つにおける定家の発明にくらべ、遥かに単純なからくりにすぎないから、後鳥羽院には楽々と詠み捨てることができたはずだ。その程度の、至ってたどりやすい曖昧性なのである。ただし実を言えば、その易しさがかえって誤解を招くもとになるのだけれども。

 折口信夫は『新古今』の歌の散文訳を評して、鶏の羽根をむしったようになると嘲ったそうである。これは詩の訳そのものの宿命という局面のほかに、もう一つ、解釈を一方にしぼり単純化するせいで、『新古今』特有の模糊たる情趣が失われることも大きいのではないか。》

 

<鶯のなけどもいまだふる雪に杉の葉しろきあふさかのやま>

古今集』の「梅が枝にきゐる鶯春かけてなけどもいまだ雪は降りつつ」の本歌どりであり、《二つをくらべることは、『古今』と『新古今』の歌風について考えるうえでずいぶん役に立ちそうな気がする》、《本歌では視覚の喜びは関心の対象となっていない。鶯と雪という取合せはもっぱら時間の相のおもしろさでとらえられ、季節はずれの事象に対する知的な配慮だけが全体を覆っている》と前提したうえで、

《ところが本歌どりのほうになると、「ふる雪に杉の葉しろき」といきなりつづく効果のせいで杉の葉のみどりと白い雪とが衝突し、その鮮やかな色彩美に驚くわれわれの脳裡において、鶯いろの春の鳥は白雪の上に姿をあらわす。その訪れ方はまことに優雅で、ここでは春鶯囀はいささかも眼の楽しみをさまたげず、むしろつつましく伴奏しているようである。(中略)こういう鮮麗な色彩への関心は後鳥羽院の好みだったし、(たとえば「此の比は花も紅葉も枝になししばしな消えそ松のしら雪」)、また『新古今』時代一般の(たとえば慈円の「もみじ葉はおのが染めたる色ぞかしよそげにおける今朝の霜かな」)そして殊に藤原定家の、得意の業であった(たとえば「ひとりぬる山どりのをのしだりをに霜おきまよふ床の月かげ」)。この流行にはおそらく舶載された宋の絵画の影響がありそうな気がする。》

 

<見渡せば山もと霞むみなせ川夕べは秋と何思ひけん>

《しかし第三に、彼が個人としてでも詩人としてでもなく、いわば帝王として見渡したという局面があった。このことを最もあらわに示すのは、建保四年二月の百首歌のおしまいの一首、

  見渡せばむらの朝けぞ霞ゆく民のかまども春に逢ふころ

である。(中略)おそらく後鳥羽院はみずからを古代の聖天子になぞらえて国見をおこない、「民のかまど」の繁栄を慶賀していたのである。そのとき「煙」が「霞」に変じ、「立ち立つ」や「にぎはひ」が「春に逢ふ」と婉曲に取りなされるのは、『万葉』や『古今』と違う『新古今』の優雅というものであったろう。

 国見という、高所から国土を見渡して賛美する農耕儀式は古代における天皇の行事であったが、それはやがて時代の移り変わりと共に政治的・呪術的な意識が薄れ、単に風景を観賞するだけの美的な性格のものに変ったらしい。(中略)もちろん一応のところ、後鳥羽院は水無瀬の離宮において春の夕景色を楽しんでいたし、そのとき『枕草子』以来の風景美論は彼の心を去来していた。しかしこのとき、そういう美的な意識の底に、自分は帝王として国見をしているのだという誇り、この眺望はすべて自分の所有するところだという満足が揺れ動いていなかったと判断するのは、むしろ困難なことのような気がする。時に国見に最もふさわしいはずの春であったし、それに上皇は自分を古代の帝王に擬することなど大好きな、芝居っ気の多い性格だったにちがいない。ゆったりとした調べの快さはもともと後鳥羽院の天性のものだが、ここでは古人をしのぶ(あるいは気取る)ことによって、それがいsっそう見事に、そして自然に発揮されることになった。しかもそのいわゆる帝王ぶりが下の句の知的な感触(「秋は夕といふは、常のことなるに、夕は秋とあるは、こよなくめづらか也」と宣長は評した)によってあざやかな

『新古今』調に旋回しながら、それでもなお上の句の鷹揚な味わいをそこなわないあたり、まことに嘆賞に値する。三句切れによって連歌さながらにまっぷたつに割れた上の句と下の句の、衝突と調和の呼吸は、疎句歌の妙趣を模範的に示すものであろう。ここにはほとんど後鳥羽院のすべてがある。》

 

<むかしたれあれなん後のかたみとて志賀の都に花をうゑけん>

 藤原良経の「むかしたれかかる桜の種をうゑてよし野を春の山となしけん」と同工異曲である。

《しかし良経が「むかし」をなつかしんで詠んだ歌は、単に自然としての太古と現在とを対比するだけの若々しくて単純な味のものなのに、ここではむしろ人事として過去と現在とがくらべられ、歴史への感慨の底に個人の悲しみがちらつくという、複雑な仕掛けになっている。配所にあって年老いてゆく上皇は、桜を植えたばかりのころの「志賀の都」と二重映しにして、かつての自分の栄華を眺めているのである。》

 

<み渡せば花の横雲たちにけりをぐらの峯の春のあけぼの>

《しかしわたしはこの歌に執着したい気持を捨てることができないし、同じ小倉の峯の春景色にしても、定家の描いたもの(筆者註:「しら雲の春はかさねてたつた山をぐらの峯に花にほふらし」)よりももっと絵画美に富んでいるように思われるのである。(中略)後鳥羽院の狙いは純粋な色彩美にあった。すなわちわれわれは、「花の横雲」の匂やかな明るさから「春のあけぼの」の薄明を経て「をぐらのみね」の晦暗に至るまでの展望を一時に楽しむことができる。しかもその晦暗は単なる暗さではなく、「小暗し」の「小(を)」によって微妙な限定をつけられ、こうして明暗の対照と調和はまことに洗練された意匠を形づくるのである。》

 

<みよしのの高ねの桜ちりにけり嵐もしろき春のあけぼの>

《しかしここで言っておかなければならないのは、それにもかかわらずこの一首が俊成(筆者註:「又やみんかたののものに桜がり花の雪ちる春の明ぼの」)の模倣ではなく、個性に根ざした自己表現の成果だということである。ちょうど定家が俊成の詠の時間性を歌った局面に留意し、それを掘り下げることで清新な頽廃の詩を創造したと同じように、後鳥羽院は俊成の和歌のドラマチックな様式美という局面に注目し、そこから出発して一種メロドラマチックな、あるいはサディスチックと呼んでもいい豊麗な壁画を描いた。》

 

<夏山の繁みにはへる青つづらくるしやうき世わが身一つに>

《しかし一首の妙味は、上の句が一応はまさしく序詞でありながら、それ以上の何かに高められていることである。夏山の繁みを苦しげに這う一本の青つづらは、ひょっとすると王朝の優雅な趣味に逆らうのではないかと案じられるほど鮮明に差出され、次にとつぜん、憂き世の苦しみを一身に引受けている男の姿が映し出される。その呼吸は映画のモンタージュ手法に似ているが、もっと直接的には、連歌の影響を受けた疎句の放れ業であろう。》

 

<野はらより露のゆかりを尋ねきてわが衣手に秋風ぞ吹く>

《しかし一首の鑑賞で最も重要なのは、第一句「野はらより」である。一体「野原」という言葉は、『源氏物語』若菜 上に、「霜枯れわたれる野原のままに、馬、車のゆき通ふ音、しげくひびきたり」とはあるものの、雅語ないし歌語という性格の乏しい言葉だったのではないかという気がする。「野」や「野辺」や「野中」にくらべてかなり格式の落ちる言葉だったのではなかろうか。『新古今』以前の七つの勅撰集のうち、この語をもってはじまる句を持つ歌が、「拾遺」の「さわらびや下にもゆらむ霜がれの野原のけぶり春めきにけり」と、『金葉』の「ゆふ露の玉かづらして女郎花野原の風にをれやふすらむ」の二首しか見当らないことは、こういう推測を多少は支えてくれるだろう。ところが『新古今』になると、この言葉ではじめる句が四首もあるのだから(たとえば源家長、「けふは又しらぬ野原に行き暮れぬいづくの山か月はいづらん」)、どうやらこの時期に言語意識が改まって、「野原」がとつぜん歌語として取入れられたものらしい。これは一つには語彙をふやしたちという欲求のあらわれだろうが、その際、藤原俊成のよって高められた『源氏物語』への尊敬が大きく作用し、若葉の巻の先程あげたくだりが恰好の言いわけとなったのではなかろうか。

 なかんづく勇ましいのは後鳥羽院で、この言葉でいきなり歌いだすという放れ業をやってのけた。これを放れ業と呼ぶのは大袈裟に聞えるかもしれないけれど、『国歌大観』、『続国歌大観』を通じて「野原」という言葉が冒頭に来るのはこの一首だけなのである。おそらく『新古今』時代の歌人たちにとって、この第一句は呆れるほど衝撃の強いものだったに相違ない。それは歌うべからざるものを歌おうとする破天荒な姿勢なのである。》

 

<橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙>

 橋姫は『新古今』時代の代表的な題材で、宇治の女を詠む流行は、たくさんの名歌を残している。たとえば、「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」藤原定家、「はしひめの袖の朝霜なほさえてかすみふきこす宇治の川風」俊成卿女、などいくらでもあげられる。

《しかし、これは発生的には古代信仰にかかわる話だから、まず民俗学のほうを一わたり調べなければなるまい》

ということで、《柳田国男によれば、「橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀ってゐた美しい女神のことで」、宇治橋に限らず、諸国の数々の橋に橋姫がいた痕跡があるし(たとえば甲斐の国玉(くだま)の大橋、近江の瀬田橋、青梅街道の淀橋、伊勢の神宮宇治橋)》というふうにあたってゆく。『新古今』時代の歌人たちは、何よりも『古今』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫」読人しらず、に魅せられたらしい。ところで、『源氏物語』の「総角(あげまき)」の「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」という匂宮の歌を介して、「宇治十帖」の世界が寄り添っていた気配がある。

 さらに丸谷は、《ここで当然、歌枕としての宇治川ということが問題になる。(中略)しかし歌枕について考える場合、地名が掛け詞や序という修辞の工夫によってさまざまの色調をおび、さまざまの観念と結びつくことを忘れてはならない。阿武隈(あぶくま)川は動詞「逢ふ」を含み、小夜(さや)の中山は「さやか」という名詞を呼び起す。同様に宇治は「憂し」という形容詞を見えがくれに示して一首の含蓄を深めるのである》と、「宇治」と「憂(う)し」との言葉の重層性に言及したあと、モダニズムの定義を展開して「七夕説話」と「橋姫」の共通点に到る。

《しかし、もう少し別種の文学的技法の問題がある。これは二十世紀のヨーロッパに広く見られる現象だが、文学者たちは写実主義から脱出する手がかりを神話に求め、主義から脱出する手がかりを神話に求め、競ってさまざまの神話を枠組としながら彼らの世界を表現した。それはパスティーシュであり、あるいはパロディであり、あるいは再解釈という形をとったけれども、この「いわゆる神話的方法を用いたなかで、詩を代表するのはヴァレリーの『若いパルク』とエリオットの『荒地』、戯曲を代表するのはジロドゥーの『アンフィトリオン38』とサルトルの『蠅』、そして小説を代表するのはジョイスの『ユリシーズ』とトーマス・マンの『ファウスト博士』ということになろうか。とにかくよりぬきの傑作がむやみに多くて選択に苦労するほどこの方法は一世を風靡したのである。

 こういう態度の根柢には、人間性は時代によって変るものではなく、古代だろうと現代だろうと本質的には同じだという認識があるにちがいない。そしてこれはわれわれのほうから見ると、単に十九世紀の歴史主義への反動となるかもしれないけれど、実は十九世紀の思考が全人類史の例外なのである。歴史主義という近代の病患に犯されぬ限り、人間は常に普遍的なものを尊んできたし、それゆえ神話はこれほど久しいあいだ、何千年の昔から人間の魂をとらえてきたのだ。二十世紀文学の神話的方法は、こういう健全な人間観を再認識し、健全な文学観を再建するための試みにすぎない。

 とすれば、わが王朝の歌人たちが一種の神話的方法を採用したのはいささかも驚くに当らない話だろう。その最も代表的なものは七夕説話で、『古今集』の歌人はたとえば織女の心になって、

  ひさかたの天の河原の渡し守きみ渡りなば梶かくしてよ

と詠み、そして『新古今集』の歌人はたとえば、表むき七夕の歌と見せかけながら、

  七夕のと渡る舟のかぢの葉にいく秋かきつ露の玉づさ

という実は恋歌を詠んだ。そしてわたしの見たところ、『新古今』歌人たちが七夕説話に次いで重んじたものは橋姫伝説にほかならない。

 当然、七夕と橋姫という二つの神話の共通点を探しだすのが必要な手つづきになるわけだが、これは至って易しい。いずれも恋愛神話であり、いずれも悲劇的な設定であると答えればそれで要は尽しているのである。》

 それから丸谷は、《しかし二つの悲恋物語をもうすこし眺めれば、第三の共通点に気がつくことになる。いずれも、いっしょに暮している男女ではなく、ときどき逢う仲だということである》と風俗的な視点も考察し、高群逸枝『日本婚姻史』の「擬制婿取婚」に目配りして、《『源氏物語』に典型的に示される王朝ふうの男女関係は、亡んでいたか、あるいはすくなくとも亡びかけていたのであろう》から《王朝ふうの自由な男女関係が衰えたことを寂しんでいたのであろう》とした。さらには、

《しかしこの男女関係の問題にからんで、もう一つ注目に価する要素がある。平安後期から娼婦の数がふえ、貴顕こぞって白拍子と遊女とを好み、なかには宮廷に出入りする者もあったという現象がそれで、当代歌壇における橋姫ばやりの最も直接的な原因としてはおそらくこれをあげるのが正しいだろう。(中略)そして後鳥羽院が娼婦たちをすこぶる愛したことは、この傾向をいよいよ助長したにちがいないのである。上皇がこの種の女を後宮に入れた例としては、亀菊のことが最も知られている》と平安後期の白拍子・遊女好みの影響にまで及び、橋の女には複合的、多層的なイメージがあって、《それはまた、凡俗な日常に生きる同時代の娼婦にさえも至高の女神の面影を見出だし、変転の諸相を隈なく探ることによって普遍的な人間を捉えるという神話的方法の精髄なのである》と論じた。

 

<駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波>

《しかし「朝日にさわぐ」はこれだけ卓抜な句でありながら誰にも模倣されなかったし(『国歌大観』所収の厖大な数の和歌のうち、この句を含むのは後鳥羽院の一首だけである)、それゆえ当然、制の詞(筆者註:中世歌学で使用を制限・禁止した語句。定家の子、為家の歌論書「詠歌(えいが)一体(いってい)」が,特定歌人が創出した個性的表現を「主ある詞」として,後人が安易に模倣・濫用するのを戒めたことに始まる)とならなかった。これはたとえば藤原定家の「雪の夕ぐれ」(「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」)がくりかえし取入れられたあげく(たとえば、永福門院の「鳥のこゑ松のあらしのおともせず山しづかなる雪のゆふぐれ」)、制の詞に指定されたという事情とほとんど好対照をなすであろう。新鮮すぎるとわたしは言ったが、おそらく後世の歌人たちはこの一句に、王朝文学の正統から逸脱した危険なもの――尚武の気風と革命(あるいは反革命)の興奮を嗅ぎあて、それゆえ「朝日にさわぐ」を盗まなかったのではないか。》

 

<袖の露もあらぬ色にぞ消えかへるうつればかはる嘆きせしまに>

《一首はわたしの見るところ五段がまえになっていて、第一にその心がわりがあり、第二に「袖の露」が「あらぬ色に」すなわち紅涙(筆者註:血の涙)になる。第三にその紅涙さえ(「も」はまずこの意味で使われる)消える(「消えかへる」は「消ゆ」を強調した語)。第四に、秋が草葉に置いた露が消え、第五に、嘆きのあまり自分の露の命もまた消え入りそうでなのである。この第四と第五の層の、草の露および露の命の存在を暗示するために「袖の露も」の「もまた」があるだろう。

 しかし、これだけこみいったことを三十一音に収めた芸もさることながら、最も嘆賞に値するのは、そのはなはだしい多肢と複雑にもかかわらず、調べがまことにおっとりとしていて、天衣無縫なことである。いわゆる帝王調の歌を詠む天皇はほかにもいるし、いわゆる『新古今』調の歌人は数多い。しかし、これだけの高度な技巧を身につけた帝王調の歌人は、日本文学史にただ一人しかいなかった。》

 

<「あとがき」>

 生前、丸谷は挨拶の名人と言われた(『挨拶はむづかしい』『挨拶はたいへんだ』というスピーチ集がある)が、この「あとがき」は見事な挨拶となっている。全文を引用するわけにはいかないが、その一端だけでも感じ取れるだろうか。

《しかし、わたしが『新古今』に熱をあげることになったのは、今となっては遠い昔のある日、何かの用で菊池さんのお宅に伺った際、書架にあった「日本歌学大系」の端本を見て、借りて帰ったのがきっかけのような気がしてならない。そのなかの『東野州聞書』に書きとめてある、

                           藤原定家

  生駒山あらしも秋の色に吹く手染の絲のよるぞ悲しき

の正徹の分析にたちまち心をとらえられたのである。それは当時わたしが、永川玲二、高松雄一小池滋、沢崎順之助、その他の同僚たちと一緒にジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を読みながら、主として彼らのおかげで発見することができた『フィネガンズ・ウェイク』解読の方法と何一つ変るところがないように感じられた。このときわたしは日本の中世文学を理解し、それと同時に西欧の二十世紀文学を理解したのではなかろうか。あるいは、明治維新以後百年の文学の歪みを知ったのではなかろうか。エリオットの言う「伝統」という概念の真の理解は、まことに奇妙なことに、あるいは当然なことに、わたしの場合「日本歌学大系」によってもたらされたのである。わたしは夢中になって中世の歌論を詠み、『新古今』を読んだ。あるいは、ジョイス=エリオットの方法によるものとしての『新古今』を読んだ。わたしがホメロス以後、ないし柿本人麿以後の文学の正統に近づくためには、ただこの態度しかなかったのである。

 そしてわたしは二重三重に恵まれていた。『新古今』の読み方について教えを乞うたとき、佐藤さんは言下に、本居宣長以降のいわゆる新注に就くことをしりぞけ、連歌師たちの注釈を読めと語ったのである。わたしは自信をもって、『フィネガンズ・ウェイク』や『荒地』をはじめとする二十世紀のイギリス文学と、『拾遺愚草』や『後鳥羽院御集』を代表とする日本中世文学との鮮明な対応という線をたどることができた。図書館の書架でたまたま手にした『後鳥羽院御百首』の室町期の古注によって、小学教科書で教わって以来、久しいあいだ疑問としていた、

                           後鳥羽院

  我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

の謎がとけたのも、このころだったような気がする。そしてこの歌にこだわることは、必然的に、折口信夫の学問へとわたしを導いて行ったし、『女房文学から隠者文学へ』というかけ値なしの傑作はわたしと『新古今』との関係をいっそう深いものにしてくれた。それは日本文学史全体のなかに後鳥羽院と定家とを据えることによって、実は彼らを世界文学のなかにまことに正しく位置づけていたのである。》

 

 こうして、一気に日本文学史と世界文学とを同じ地平で眺めることができるし、事実、無数の可逆的な視線が丸谷才一後鳥羽院』には張りめぐらされている。

 

 ここで突飛なようだが、関容子『芸づくし忠臣蔵』(文春文庫)の丸谷才一「解説」をもって締めくくりとしたい。丸谷の「解説」には、関容子の本について解説しながら自己の方法を開陳している自身の姿が見える。『忠臣蔵』を後鳥羽院和歌に、歌舞伎・日本演劇を日本文学史に置換し、大成駒に藝談を聞く構成・エピソードを「人もをし人もうらめしあぢきなく世をおもふ故にもの思ふ身は」の書き出しと比べてみるがよい。

《歌舞伎の運命に対して強い危機感をいだいてゐる人が、『忠臣蔵』をテクストにして書いた歌舞伎總論なのだ》、《関容子は『忠臣蔵』といふ好個の話柄によつて、日本演劇が生きつづけてゆく姿を具体的にとらへようとした》、《大切なのはこの志の高さと新しさである。そこにはかつての好劇家のそれとは次元を異にする歴史意識がある》、《藝談と逸話を次々に披露しながら、取捨選択によつて批評をおこなひ、さらにはもちろん『忠臣蔵』を論じ、『忠臣蔵』の生成と歴史を説いてゐます》。

《まづ歌右衛門を岡本町に訪ねて藝談を聞くところからはじまるのだが、そのとき、案内の人に成駒屋の愛犬の名を聞いて置き、通された客間でその犬がゆつくりと著者に近づいて来ると、左手を犬に伸ばして小さな声で「花子ちゃん」と呼ぶ。「犬がわずかにシッポを振り、(中略)大成駒が花のように笑っていた」。(中略)開巻第一に伝説的な名女形を持つて来て景気をつけるといふ意味でも、自分の方法を明かすといふ意味でも、この冒頭はじつにうまく行つてゐる》。

 もちろん、関容子が「文庫本のためのあとがき」で述べているように、《考えてみると、物に憑かれたように「忠臣蔵忠臣蔵」と言い暮らしてきました。どうやら丸谷才一先生の『忠臣蔵とは何か』を読んでからなおのことそうなったように思います。とりわけ、判官の非業の死を勘平がもう一度(世話物バージョンで)繰返すのだ、という指摘を読んだときの、目の前の霧がパッを晴れたような衝撃。それに導き出されて、勘平があのあばら家の中で一人浅葱の紋服に着換えるのは、判官の白装束水裃姿に重なる、既に死装束であり、美男の切腹を主題にした遁走曲なのだ、と気づいたのでした。実はここが私の自慢の箇所で、でもあの本に出会わなかったら、「とは何か」と考える態度を勉強することがなく、これは単なる芸談コレクションで終っていたかも知れません》のとおり、「とは何か」によって裏打ちされての『後鳥羽院』なのである。                                                                   (了)

         *****引用または参考文献*****

丸谷才一『日本詩人選10 後鳥羽院』(筑摩書房

*『丸谷才一全集』(新潮社)

丸谷才一後鳥羽院 第二版』(ちくま学芸文庫

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

丸谷才一『笹まくら』(新潮文庫

折口信夫折口信夫全集第一巻 古代研究(國文學篇)』(「女房文學から隠者文學へ」所収)(中公文庫)

*関容子『芸づくし忠臣蔵』(丸谷才一「解説」所収)(中公文庫)

保田與重郎後鳥羽院』(講談社