文学批評 ナボコフ『フィアルタの春』を読む――細部と記憶の螺旋

 

 

                                       

 ナボコフ自身もっともお気に入りの短篇小説だという『フィアルタの春』は、ロシア語で書かれた(1936)(のちに自ら英訳(1956))最後の小説だが、比較的初期の作品ながら、すでにナボコフ作品の特徴、秘密の種をほぼすべて持ち合わせている。

 

 ナボコフ『賜物』の第3章で主人公フョードルは家庭教師先に向かう途中で、自分の「思考の多面性」という能力を発揮できない現状を嘆く。

《だって、ぼくには自分の言葉があって、それを使えばどんなものでも――ブヨだって、マンモスだって、千種類の雲だって――創り出すことができるのに。一万人、十万人、いや、それどころか、ひょっとしたら百万人のうち、自分一人にしか教えられないこの上なく神秘的で精妙なこと、それを教えられたらいいのに。例えば、思考の多面性について。それはこういうことだ。君はある人間を見つめると、その人間の姿が中まで水晶を通すようにくっきりと見えてしまう、まるで自分で息を吹き込んで作ったガラス製品みたいに。ところがそれと同時に、この澄みきった境地をまったく邪魔することなく、どうでもいいような細部に気がつくのだ――例えば、電話の受話器の影がちょっと押しつぶされた巨大な蟻に似ているとか。そして(このすべては同時に起こるのだが)、第三の思考が頭をもたげ始める。それはロシアの小さな駅でのよく晴れた夕べの思い出だったりする。つまり、誰かと会話をしているとき、外面では自分自身の言葉の一つ一つ、内面では相手の言葉の一つ一つを捉えてその周りを駆けまわっているのに、その会話とは合理的な関係が一切ないことを何やら、ふと思い出してしまうということだ。》

 

 若島正が「ナボコフの多層思考――短篇「フィアルタの春」を読む」で、『賜物』に書かれた「多層思考」(=「思考の多面性」)について論考していて、この部分の重要性指摘の慧眼は眼を見張るものがある。《第一は、今目にしている人物のレベル、第二は今ふと気がつく物の細部のレベル、そして第三は過去の記憶のレベルである。》

 しかし、『フィアルタの春』のクライマックス場面への適用については残念ながら読みと詰め手を間違えているのではないか。ナボコフの言葉、「合理的な関係がいっさいない」と書いていることを鵜呑みにするわけにはいかないと、若島の論理によって深層部で照応させるのだが、どうにも心と知に響かない。ナボコフ読解に時に必要なこととはいえ、うがちすぎであろう。ここでは詳述を避けるけれども、石の温かさとニーナの肉体が持つぬくもり、雪景色の中の燃えるように熱かった首筋を照応させ、銀紙の輝き、コップの照り返し、海のきらめきと曇りがちだったのに太陽が照りだしたことを照応させて、ニーナは肉体も心も温かく、誰とでも寝る、身持ちが悪いということではなく、心の広さ、利己心のなさを表していることがこの短篇を支える論理である、と多層思考を適用させるのは無理がある。ナボコフの主義主張を誰よりもよくわかっているはずなのに(わかりすぎているからこそ、ナボコフの言葉に単純に騙されまいとするのか)、ナボコフがインタヴュー、小説、講義の中で、ウィーンの妖術師と嫌ったフロイトの夢判断・精神分析のようであり、かつまた自分の小説は二流作家トーマス・マンと違って「社会的な目的も道徳的メッセージもない」という主義にも反している。

 頭で読書をするのではなく、ぞくぞくする背筋で、多層思考におけるモザイク模様の細部と記憶の「合理的な関係がいっさいない」にも関わらず胸をときめかせ、締めつける精妙さ、芸術的な悦びを享受しながら、クライマックス場面をはじめ、いくつかの場面を精読すれば、つねにこの多層思考(思考の多面性)があり、さらには小説全体の構造が細部の喚起力と記憶の夢見による螺旋になっていることに気づくであろう。

 

『フィアルタの春』で読みとるべき「細部」とは以下のようなことだ。

ナボコフナボコフロシア文学講義』にその例が述べられている。

トルストイアンナ・カレーニナ』第一編第九章のスケートの場面は詩的比喩の宝庫だ。(この講義でナボコフが引用する文章は、この小説のガーネット訳にナボコフが手を加えたものであり、教室での朗読に適するよう、多少省略したり、言い換えたりしてある――編者。なお、ナボコフはガーネット訳をきわめて貧弱だとし、ところどころで誤りを指摘、訂正している。[ ]はナボコフの註記)。

《キティの従兄(いとこ)のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンという恰好で、スケート靴のままベンチに腰を下ろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけると大声で呼びかけた。

「よう、ロシア一のスケーター! いつ来たんです。すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」

「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の前でそんなに大胆かつ無造作な態度をとるニコライにびっくりしながらも、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わなかった。太陽が近づいて来るのが感じられた。(中略)彼女の滑り方は全く危なげであった。彼女は紐でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンの方を向いて、彼の姿を認めると、自分の臆病を恥じるような笑みを見せた。カーブが終ると、弾力のある片足で一蹴りして、まっすぐに従兄の方へ滑りこんで来た。そして従兄(いとこ)の手につかまると、笑顔でリョーヴィンに会釈した。彼女はリョーヴィンが思っていた以上に美しかった……だが、予期せぬことのようにいつも彼を驚かすのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情だった……

「もうずっと前から来ていらして?」キティは彼に手を差しのべながら言った。「あら、すみません」と付け足したのは、マフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したのだった[トルストイは作中人物を鋭く監視する。作中人物を喋らせ、動かすが、その言葉や行動は、作者が作った世界のなかでそれ自体の反応を生み出す。このことがお分りだろうか。よろしい]。

「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもお上手ですね」

キティは注意深く彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。

「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめたかわいい手で、マフに落ちた細い霜の針を払いおとしながら、キティは言った[再びトルストイの冷徹な目]。

「ええ、昔はずいぶん夢中になって滑ったものでした。なんとか完璧を期そうと思いましてね」

「あなたは何事も夢中になってなさるのね」キティは微笑しながら言った。「お滑りになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをおつけになって。ご一緒に滑りましょうよ」

《一緒に滑る? そんなことがあっていいものだろうか》リョーヴィンはキティの顔を眺めながら思った。

「すぐ、はいて来ます」彼は言った。

そしてスケートをつけに行った。》

 この「マフに落ちた細い霜の針」こそ、ナボコフが重視した形象の「細部」である。ナボコフは「注釈ノート」に、「(40)スケート場」の註釈に続いて、次の註釈を加えた。

《(41)雪の重みで巻毛のような枝をすべて垂らしている庭園の白樺の老樹は、新しい荘重な袈裟で飾り立てられたように見えた。

 すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる(筆者註:《太陽が近づいて来るのが感じられた》、《リョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった》)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落すだろう。

 リョーヴィンが求婚の最初の段階でこの象徴的な白樺の老樹を意識したことは、この小説の最後の部分で激しい夏の嵐に悩まされる別の白樺の林(それについて最初に語るのは兄のニコライである)と比較してみれば、たいそう興味深い。》

 ローマン・ヤコブソンが、「トルストイはアンナの自殺を描こうとして、主に、その手提について書いている」と換喩的方法の例としてあげたアンナの赤い手提の描写は、「細部」の力による喚起力を示している。

《細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である》。

 ナボコフは、一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提に注目する。片方が破れた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。

《アンナの赤い手提は、トルストイがすでに第一篇第二十八章で描写している。「玩具のような」「ごく小さな」と形容されたその手提は、しかし次第に大きくなる。ペテルブルクへ帰る日、モスクワのドリーの家を出ようとして、アンナは奇妙な涙の発作におそわれ、上気した顔を小さな手提に押しあてる。このとき手提に入れたのは、ナイトキャップや、バチストのハンカチなどである。この赤い手提を再び開くのは鉄道の車輛に落ち着いてからで、そのときは小さな枕や、イギリスの小説や、そのページを切るためのペーパーナイフなどを取り出し、そのあと、赤い手提はかたわらでうたたねする女中の手に預けられる。四年半後に(一八七六年五月)アンナが汽車に跳びこんで命を絶つとき、この手提は彼女が最後に投げ捨てる品物であり、そのときは手首から外そうとして少し手間どるほどの大きさである。》

 ナボコフはこういった細部を読むことにこそ小説の愉楽があるとしたが、『フィアルタの春』には「細部」が髪飾りのように散りばめられていることに注意しながら読み進めよう。

 

 ついで、「螺旋」とは、ナボコフ『初恋』(自伝的小説『記憶よ、語れ』に組み込まれた)の末尾の、細部(『ロリータ』の萌芽)と記憶の溶けていく螺旋イメージを連想するのがよい。

《私たちが帰途の旅を続ける途中で一日だけ滞在したときには、もうコレットはパリに戻っていて、そこの小鹿公園で、冷たい青空の下、私はコレットと最後の再開をした(きっと双方の家庭教師が気をきかしてくれたのだろう)。彼女はフープとそれを廻す短い棒を持っていて、身につけているなにもかもが秋物で、パリっ子らしい、都会の女の子ふうのとてもお洒落で似合う服装だった。彼女が女家庭教師から受け取って弟の手の中にすべりこませたお別れの贈り物は、砂糖をまぶしたアーモンドの小箱で、それは私のためにだけくれたはずだったが、たちまち彼女は離れていき、きらめくフープを突っつきながら光と影の中を抜け、私が立っているそばにある枯葉がつまった噴水のまわりをくるくるくるくると廻った。その枯葉は私の記憶の中では彼女がつけていた靴と手袋の革と混じりあっていて、そこにたしか、彼女の衣裳のどこかに(もしかするとスコットランド帽についているリボンか、それともストッキングの模様か)、ガラスのおはじきに封じこめられた虹色の螺旋をそのとき連想させたものがあったのを憶えている。私は今でもその虹のかけらを手に持っているような気がして、それをどこにぴったりはめこんだらいいのかわからないでいるうちに、コレットはフープと一緒にさらに速く私のまわりを走り、環状になった低い塀の交差アーチ形が砂利道に投げかける細い影の中にとうとう溶けていってしまう。》

 

 螺旋ということでは、『賜物』第1章に登場する、鏡と樹影をめぐる主人公の視線と思考の螺旋的な動きとその文体がナボコフの特徴である。

《角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ――それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだ。》

 

 少し脱線するようではあるが、ナボコフにおける「鏡」「ガラス」「影」「窓」は同じようなテーマ群にある。

 ナボコフの短篇小説にもあった(はず)という、主人公の樹影の記憶を題材に丸谷才一は『樹影譚』を書いた。そのナボコフの短篇の実在性に関して村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』で推論し、三浦雅士は『出生の秘密』でとりあげた。対してナボコフの樹影にまつわる小説としては『ベンドシニスター』に半分ほど似たような記述があると秋草俊一郎が指摘した、《それはあたかも、ある土地に生えている樫の樹(以下、固体樹Tと呼ぼう)が、その樹独特の影を、緑と褐色の地面に投げかけているところを見かけた人物が、自宅の庭に、おそろしく手の込んだ装置を組み立てはじめるようなものだ。その装置は、ちょうど、翻訳者の霊感や言語が原作者の霊感や言語とは違うように、それ自体としては特定のいかなる樹とも似てはいないが、さまざまな部品や、照明効果、そよ風を発生させるエンジンといったものの精妙な組合せによって、完成の暁には、固体樹Tの影とまったく同じ影を投げかけるようになる――もとの樹と同じ輪郭が同じように変化し、同じ二つ、あるいはひとつの斑点が、一日の同じ時刻、同じ場所にちらちらと揺れるのだ。》

 自作品の翻訳者(母語ロシア語から亡命したアメリカの英語へ)でもあったナボコフならではの翻訳論、技法論ともいえるもので、記憶を呼び起こすトラウマ的な樹影(たしかに『ベンドシニスター』の冒頭と末尾にも樹影(そして水溜りに映る影)のイメージがでてくるが、過去・記憶への円環的な技法の梃とはなっていない)とは違っているだろう。

 ついでにいえば、ナボコフ『青白い炎』の詩の第一行は『わたしは窓ガラスに映った偽りの青空に/命を絶たれた連雀の影だった。』である。

 

『フィアルタの春』を読む(以下、引用はナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収のロシア語版)沼野充義訳からとし、適宜『ナボコフの一ダース』に所収の英語版(中西秀男訳)を参照した)。

 

《フィアルタの春は曇っていて、うっとうしい。何もかもがじめじめしている。プラタナスのまだら模様の幹も、トショウの茂みも、柵も、砂利も。青みがかった家々は、やっとのことで立ち上がり、手探りで支えを捜そうとしている人たちのようだ。彼方には、その家並みをでこぼこで不揃いな縁取りにして、青白いかすかな光に照らされた聖ゲオルギー山のおぼろな輪郭が見えているのだが、その姿が絵葉書のカラー写真とこれほど似ていない季節は他にないだろう。この山の絵葉書は(ご婦人がたの帽子や、辻馬車の御者たちの若々しい姿から判断して、写真はおよそ一九一〇年頃のものではないか)、紫水晶(アメシスト)の結晶を歯のようにむきだして見せる石と貝殻が織り成す海のロココ美術の間にはさまれ、固まりついて動かなくなった回転木馬のような売り台の上で押し合いへし合いしていて、旅行者がやって来るとすかさず出迎えてくれる。空気は暖かく、焦げ臭いにおいを漂わせている。海は雨をたらふく飲んで塩気も薄れ、くすんだオリーブ色になった。波はもっそりしていて、泡立とうにも、決して泡立つことができない。

 まさにそんなある日、ぼくはまるで目そのものになったかのように開く――町の真ん中の急勾配の坂道で、いっぺんにあらゆるものを取り込みながら。絵葉書の売り台も、珊瑚でできたキリスト磔刑像を並べたショーウィンドウも、片隅が濡れて舐め取られたように壁からはがれている巡業サーカス団のポスターも、青みがかった灰色の古い歩道に落ちた、まだ未熟で黄色いオレンジの皮も。歩道のあちこちには、まるで夢を透かして浮き出てくるかのような奇妙なモザイク模様の名残が残っていた。ぼくはこの小さな町が好きだ。それは、この名前の響きのくぼ地に、あらゆる花のうちでも一番ひどく踏みしだかれてきた小さく暗い花の砂糖のように甘く湿った匂いが感じられるからだろうか、それともヤルタという響きが調子っぱずれに、しかしはっきりと聞こえるからだろうか。あるいはこの町の眠たげな春がとりわけ魂に香油を塗りこむような作用を及ぼすからなのか。わからない。》

「まるで目そのものになったかのように開く」のは主人公だけではなく、読者もまた「目」となってシネマ的な映像と色彩を甘受する、感官を刺激されて記憶の中に揺らめく細部……「プラタナスのまだら模様の幹」「青」「焦げ臭いにおい」「キリスト磔刑図」「巡業サーカス団のポスター」「夢を透かして浮き出てくるかのような奇妙なモザイク模様」「名前の響き」「小さく暗い花の砂糖のように甘く湿った匂い」「魂に香油を塗りこむような作用」……。

 

 目頭を充血させ、ちろっと舌なめずりしたイギリス人の視線の先にニーナの姿を見つけたのだった。

《彼女とはもう十五年ごしの……友達づきあいというべきか、それともロマンスなのか、正確にはなんと呼んだものかよくわからないが、ともかくそんな間柄で、この十五年の間、いつ会っても、彼女はすぐにはぼくのことがわからない、といったふうだった。今度も、ニーナはぼくのほうに半ば顔を向け、好奇心もあらわに、よくわからないけれどひょっとしたら、とでも言いたげな愛想のいい風情で、一瞬の間、じっと立っていた。その首には影をまとい、レモンのように黄色いスカーフを巻きつけている。このスカーフだけが、飼い主よりも先に知り合いを見つけた犬のように動き出し――それからニーナが急に叫び声をもらし、両手をあげ、十本の指を宙に踊らせたのだった。そして道の真ん中で、昔からの親友に会った喜びを隠さず熱烈に表しながら(別れ際にぼくのために十字を切ってくれたときと同じ優しさで)、口全体で三度、ぼくの頬にキスをし、並んで歩き始め、ぶら下がるようにぼくの腕にしがみつき、跳ねたり滑ったりしてなんとか歩調を合わせた。脛(すね)の脇にスリットの入った赤茶色の細身のスカートのせいで、歩きにくいらしい。》

  否応なく「時間」の観念が介入してくる。「十本の指を宙に踊らせた」「細身のスカート」に注意せよ。

 

「ちょっと待って、わたしをどこに連れて行こうっていうの、ヴァーセンカ[ヴァシーリイの愛称]ったら?」

《どこにって、過去にもどるんだ。きみと会ったときはいつもそうしていたように、発端から最後の付け足しまで、これまで蓄えられた筋書きのすべてを繰り返すかのように。ロシアのお伽噺で物語が新たに前に進もうとするとき、それまでに語られたことのすべてがもう一度拾い集められるように。》

 英語版で言えば、《過去へ連れ戻すんだ、過去へ連れ戻すんだ》(“Back into the past,back into the past,as I did every time I met her,repeating the whole accumulation of the plot from the very beginning up to the last increment.”)。

 

 ニーナとの記憶・回想は、発端(序幕)から最後まで、フィアルタでの「現在」を挟みながら二重螺旋となってほぼ時系列で進んでいく。実は、小説の最後まで読めばわかるのだが(途中でも、何度か呟くようにフィアルタでの時間もまた回想だと匂わされてはいて、例えば、「これが最後の出会いだとわかっていたとしても」とか「これが一生で最後の食事になるとも知らないで」など)、フィアルタでのことも「現在」ではなく、語り手はミラノ駅に立って(第三の時間)、フィアルタでのひと時を回想しているのであって、回想内・回想という額縁回想小説、つまりは三重螺旋になっている。

 記憶の中のそのときどきのニーナのコケティッシュで抒情的な細部と、ニーナへの感情、思いを、ニーナとは違って自分でどう扱っていいのかわからない主人公(語り手)の心理描写が素晴らしい。

《ニーナとの出会いの序幕はとても昔、ロシアでのこと。時代の記憶のあちこちがもう古い舞台衣装のように擦り切れてしまっているが、舞台裏から左翼運動の轟が聞こえていたことから判断すれば、きっと一九一七年のことだろう。名の日の祝いか何かで、ぼくは叔母さんのルガ近郊の屋敷に遊びに行った。澄み切った田舎の冬のことだった(屋敷に近づいたことを示す最初の印として脳裡に焼きついているのは、白い野原の真ん中にぽつんと立っている赤い納屋だ)。ぼくは貴族高等学校を卒業したばかり。ニーナには婚約者がいた。彼女はぼくと同い年で、二十世紀とも同い年の十七歳、小柄で痩せていたのに、いやそれだからこそだろうか、そのときは歳よりもかなり上にみえたし、三十二歳になったいまはその逆に歳よりもずっと若く見える。(中略)いずれにしろ、追憶の装置がきちんと働きはじめるのは、明かりに照らされた家に戻ろうと、重苦しい雪だまりの中の細い小道を一列になって歩いているところからだ。(中略)ぼくは足を滑らせたはずみに、誰かに押しつけられた電池切れの懐中電灯を落とし、手探りしたがすぐには見つけられなかった。そしてぼくが畜生といった言葉を思わず口にすると、すかさずそれを聞きつけて小声でせかせか元気に笑う声がした。何か面白いことが起こると予期するような笑いだ。そしてニーナがさっとぼくのほうを振り返った。いまニーナとは言ったけれども、そのときぼくが彼女の名前を知っていたとは思えない。そもそも知り合っていっしょに何かをしたり、話をしたりする機会など、それまでなかったのではないか……。「だあれ?」とニーナは好奇のまなざしでたずねたが、ぼくはもう彼女のすべすべした首にキスしようとしていた。襟首のあたりがまるで燃えるようなのは、キツネの毛皮のせいで熱く蒸れてしまったせいだろう。この毛皮がしつこくキスの邪魔になったのだが、そのうちに彼女のほうからぼくの肩をつかみ、いかにも素直にあっさりと自分の唇をぼくの唇に押し当てたのだった。それは敏感に反応する、仕事熱心な唇だった。(中略)それから出発のときまでぼくたちは互いに何の話をすることもなく、将来について何の約束もしなかった。いまにして思えば、そのときすでに、はるか彼方に向けて未来の十五年が動き始めていたのだけれども。》

 こういう文章を読むと、ナボコフ『アーダ』の第4章に「時間の織物」という言葉があるが、隠喩やアナロジー、穏やかな抽象概念、過去から現在への時間の織物の肌触りこそ小説の悦びであるというのが理解できる、

《僕の目的は、時間の織物に関する論考という形式を取り、そのヴェールのような実質を考察していく過程で、例証となる隠喩がゆっくりと増え、きわめてゆっくりと論理的な恋愛物語を構築していき、過去から現在へと移行し、具体的な物語として花開いて、またちょうど同じくらいにゆっくりとアナロジーを逆転させ、穏やかな抽象的観念へとふたたびほどけていくような、一種の小説を書くことだったんだ》

 

 ふいにフィアルタの春の季節に戻る。

《「最後に会ったのは、パリだったかな」と、ぼくは言った。暗い木苺色の唇をし、頬骨の張った小ぶりな彼女の顔に、お馴染みの表情の一つを呼び起そうと思ったのだ。すると案の定、彼女はつまらない冗談はよしてよ、とでも言わんばかりに、薄笑いを浮かべた。もう少し詳しく言えば、運命がぼくたちの出会いの場所に指定した(そのくせ、運命自身は姿を現したことがない)あちこちの町も、プラットホームも、階段も、そしてちょっと小道具めいた横丁も――そのすべてがすでに演じ終えられた他の人生の残り物であって、ぼくたちの運命の演技にはほとんど関係がないので、そんなことに触れることじたいほとんど悪趣味だ、とでも言わんばかりの表情をニーナはしたのだ。

 ぼくは彼女といっしょに、行き当たりばったりにアーケード街の商店の一つに入った。》

 

 ふたたび回想が挟まれる。

《ロシアを出てから最初に会ったのは、ベルリンの友だちのところだった。ぼくは結婚を控えていたころ。彼女は婚約者と別れたばかりだった。部屋に入ったとき彼女の姿を遠くから認めたぼくは、部屋にいた他の男たちに思わず目を走らせ、自分よりも彼女と親しいのは誰か、正確に見て取った。彼女はソファの端で小柄で心地よさそうな身体をZ字形に折り曲げ、両足をソファの上に載せて坐っていた。やはりソファの上、片方の踵(かかと)のすぐそばには灰皿が置かれている。そしてぼくの顔をまじまじと見つめ、ぼくの名前をじっと聞いてから、彼女は唇から植物の茎のように長いシガレット・ホルダーを離し、長く引き伸ばしながら嬉しそうに「まさか!」と叫んだ(つまり、「自分の目が信じられない」という意味だろう)。すると、ただちに皆に――そして真っ先にニーナ自身に――ぼくたちが古くからの友だちのように思えたのだった。彼女はキスしたことなどまったく覚えていなかったけれども、その代わり(やはりキスを通じて)何か琴線に触れるような大事なことがあったという漠然とした印象が残っていた。それは友情の記憶のようなものだが、肝心の友情は現実にはぼくと彼女の間には一度も存在しなかったのだ。そんなわけで、その後積み上げられていったぼくたちの関係も、もとはと言えばすべて、ありもしない架空の幸せの上に築かれたのだということになる。》

 この場面の細部は反復、変奏されるだろう、「Z字形」「踵のすぐそばには灰皿」「長いシガレット・ホルダー」「まさか!」……。「ありもしない架空の」ということでは、小説の内容も、ニーナも、ひいては小説自体がそうではないかと、見せ消ち地獄が見えて来る。

 

《一年後にぼくはウィーンに発つ弟を見送るために妻と駅にいた。列車が窓を閉め、背を向けて去り、ぼくたちがプラットホームの反対側にある出口に向かったとき、パリ行きの急行列車の前に不意にニーナの姿が見えた。彼女はバラの束の中に顔を浸し、群をなす人たちに囲まれている。それはぼくにとって腹立たしいほど見知らぬ人たちで、環をなすように立ち、まるで物見高い野次馬が路上の喧嘩や、捨て子や、怪我人を眺めるような様子で彼女を見ていた。》

 ぼくは彼女にエレーナ・コンスタンチノヴナ、つまり妻を紹介し、ニーナの結婚する相手の名前フェルディナンドが始めて出た。

《ぼくの手には見分けがつかなくなるほどくしゃくしゃになった入場券が握り締められ、頭の中では十九世紀の歌が――それにしても、いったいどうして、こんな歌が記憶のオルゴールから流れ出てくるのだろうか――執拗になり続けている。(中略)

  あなたは結婚するんですってね(オン・ディ・ク・チュ・トゥ・マリ)

  そしたらわたしが死ぬって知りながら(チュ・セ・ク・ジャン・ヴェ・ムリール)

 その声がたちまちまるで炎の雲のように、彼女の全身を吞み込んでしまうのだった。そしてこのメロディと、心を悩ます悔しさと、音楽によって呼び起された結婚と死の結びつき、そして思い出にまとわりつき、旋律の所有者であるかのような歌声そのものが、その後何時間もぼくの心を休ませてくれなかった。》

 死のイメージがうっすらとまとわりつく。

 

《さらにその一、二年ほど後、用事でパリに行ったときのこと。会わなければならない俳優の泊まっていたホテルの階段の踊り場で、ぼくとニーナは互いに示し合わせたわけでもないのに、またしてもばったり出会ってしまった。彼女は降りていこうとするところで、手に鍵を持っていた。「フェルディナンドはフェンシングをしに出かけたの」と彼女は打ち解けた調子で言い、まるで唇の動きを読むようにぼくの顔の下半分をまじまじと見つめ、一人で何やら考え込んでさっと決めたらしく(彼女は愛のためなら比類のない機転を利かせた)、踵(きびす)を返し、ぼくを連れて水色のビーバークロスの絨緞の上を、華奢なくるぶしを見せ、身体を揺らしながら進んだ。彼女の部屋のドアの前には椅子があり、その椅子の上には朝食の食べ残しを載せたトレイがあった。ナイフには蜜の跡が見え、灰色の陶製の皿には無数のパン屑が散らばっている。しかし、部屋の掃除はもう終わっていて、ぼくたちが部屋に入ったとき吹きこんだ隙間風のせいで、鋳鉄製の狭いバルコニーへの出口になっている観音開きの大きな窓が活気づいて左右にちょっと開き、その間にモスリンのカーテンの白いダリアの刺繡をあしらった縁飾りが吸い込まれた。そしてドアを閉め鍵をかけたときようやく、窓は幸せのあまりうっとりとしたような吐息とともにカーテンの襞(ひだ)を解放した。少し後でこのバルコニーに出てみると、朝の空っぽで陰気な通りはライラックのような青味を帯び、ガソリンと秋の楓の葉の匂いが漂ってきた。そう、起こったのはごく簡単なことだった。ぼくたちは昂揚のあまり何度か叫び声をあげ、少しくすくす笑っただけで、それはロマンティックな用語法には相応しくないものだったから、「不倫」などという錦の言葉を並べ立てる余地はない。その後、ニーナとの逢瀬は病的に痛ましい感覚に毒されることになるのだが、そのときぼくはまだそんなことを感じるどころではなかったから、きっとまったく陽気な顔で(ニーナのほうも陽気だったに違いない)二人でいっしょにホテルから旅行代理店か何かに行って、なくなったとかいう彼女のトランクを探し、それから、彼女の夫と当時の取り巻きが待つカフェに出かけたのだ。》

 たくみな細部としてのカーテンの効果は決定的である。このロシア語版では二人が寝たらしいと思わせるけれども、英語版ではもっとぼかされている。

 

 カフェでのニーナの夫フェルディナンドの姿(戯画化された、冒涜的でもあるキリストの「最後の晩餐」図を連想させもする)と取り巻きたちの態度と、彼への感情と関係性についての複雑な内心の、俗悪で世俗な活写もナボコフ文学のロマンティシズム一辺倒ではないリアリズムがあって、フィアルタでの現在時間に戻るや長いキャンディうぃしゃぶってフェルディナンドが歩いてくる。少し遠くのでこぼこした舗道の真ん中に銀紙が投げ捨てられている。

 と思うと、またニーナとの度重なる引き合わせ場面の引いては寄せるさざ波のような追憶となる。

 ことによったら(信頼できない)語り手による妄想、妄執という部類ではないか(例えばラストで、どこからともなく彼女の手にスミレの花束が現れるなんて)という思いが湧いて来ないでもない(ナボコフには幻想イメージ、分身、二重人格者、信頼できない語り手が出現しない小説が珍しいくらいだ)。

《それにしても、自分でもわからない。この小柄で肩幅の狭い「プーシキン好みの可愛い足をした」(これはきざで感傷的な亡命ロシア詩人の一人がぼくの前で言った言葉だ。彼はニーナにプラトニックに恋い焦がれていた何人かの男たちの一人だった)女は、ぼくにとって何だったのだろう[「プーシキン好みの可愛い足」とはプーシキン作の長篇『エヴゲニイ・オネーギン』第一章三十-三十二節を踏まえたもの。女性の「可愛い足」に対するフェティッシュな賛美があって有名な部分]。もっとわからないのは、運命はいったい何の目的で彼女とぼくを始終引き合わせていたのか、ということだ。ぼくたちにどうしろと言うのだろう。パリで顔をあわせてから彼女にはかなり長いこと会わなかったのだが、その後、家に帰ってみるとニーナがいた、なんてこともある。彼女はぼくの妻とお茶を飲み、ベルリンのタウエンツィーン通りのバーゲンで買った絹のストッキングを手にとって調べていて、ストッキングの下から婚約指輪が透けて見えていた。ある秋には、秋の木の葉と手袋とゴルフ場の景色を満載したファッション雑誌で彼女の姿を見かけた。ある年の復活祭には彩色した卵(イースターエッグ)を送ってきたし、別の年のクリスマスには雪と星の絵葉書を送ってきた。リヴィエラの海岸では、黒いサングラスをかけ粘土の素焼きのように日焼けしていたので、あやうく彼女とは気づきそこねるところだった。またあるとき、たまたま用事を頼まれて面識のない人の家に立ち寄ったとき、玄関のコート掛けにかかった外套の間に(つまり、その家には客が来ていたわけだが)彼女の毛皮外套(シューバ)を見つけたこともある。》

 ロシア人ならその詩をいくつでも暗唱できるプーシキンへのナボコフの崇敬は著作のそこかしこに見てとれる(プーシキン『エヴゲニイ・オネーギン』はナボコフによる英訳と詳細な注釈本は全4巻からなる)のだが、ここでも顔をのぞかせている。

 

 ニーナの夫フェルディナンドに対して語り手はひねた批評を加えるのだけれども、ナボコフ自身のアイロニカルな姿、影が透けて見える。そしてフェルディナンドが女性を描いた文章にはナボコフ的文体のパロディめいた「署名」がなされている。

《また別のとき、彼女は夫の本のページからぼくにうなずきかけてきた。それは端役のメイドを描いた箇所だったけれども、ニーナの面影をとどめていたのだ(それは夫の自覚的な意図には反していたのかも知れなかったが)。「彼女の顔立ちは……」とフェルディナンドは書いていた。「細心に描かれた肖像画というよりは、自然を瞬間的に写した写真だった。そのため、思い出そうとしても、容貌の特徴がばらばらにちらりと浮かぶだけで、その他には何も残らない。張り出した頬骨、そこで光を受けて浮かび上がるふっくらしたうぶ毛、琥珀色の暗がりをたたえすばやく動く目、結ばれた唇に浮かんだ親しげな笑みはいまにも熱い口づけに変りそう……」》

 

ピレネー地方を旅行したとき、ぼくは一週間ほどある邸宅に泊めてもらったが、その家の人たちはニーナの知り合いで、そのときたまたま彼女も夫といっしょに客として逗留していた。その家で過ごした最初の夜のことは決して忘れられないだろう。ぼくは待っていた。ニーナは夜中にぼくのところに忍んで来るだろう、そう確信していたのだ。ところが彼女はやって来ない。(中略)そして翌日、ヒースの茂った丘を皆で散歩したとき、昨夜は待っていたのに、とニーナに言うと、彼女は自分のうかつさを悔んで手を打ち鳴らし、すばやく目を走らせて、さかんに手ぶりをまじえて話をしているフェルディナンドとその友だちの背が充分に離れているか目測した。》

 

 いったい、ニーナとの情事は続いていたのか、愛人関係、「不倫」と呼ばれる類いだったのか、次々と回想される出会いの文章からはただ顔を合わせていただけと読めるが、しかし行間で匂わせているようでもある。それともパリのホテルでの朝の実事だけだったのか(もっともこのことさえ思わせぶりな記述だった)、語り手をどこまで信頼すべきなのか。語り手はフェルディナンドの本に対して《どうして作り話で本が書けるのか》《作り話など、何のためになるというのか》《想像力を持つなんて自分の心(・)だけにしか許さないだろう》《記憶というものは真理が投げかける夕べの長い影なのだから》と批評していたが、それらはナボコフの文学的態度へのパロディとなっていて、あらためて二人の何度かの出会いに関しての次のような内省を聞かされると愛人となって何かあったように読め、曖昧な記憶の影の中を彷徨うことになる。

《ぼくが不安になったのは、何か愛しく、優美で、またとないものがぼくの濫用のせいで空しく浪費されていたからだ。ぼくはまったく行き当たりばったりに、哀れなくらい魅惑的な小さなかけらを勝手に奪い取る一方で、ひょっとしたらそれが囁き声で約束してくれていたのかも知れない、つつましくも確かなものを全部無視していた。ぼくが不安を感じたのは、とにもかくにもニーナの生活を、つまりこの生活の嘘とうわごとを受け入れようとしていたからだ。ぼくが不安を感じたのは、混乱は別になかったのだが、それでもやはり、少なくとも自分自身の存在の抽象的な解釈の次元では、ある種の選択を迫られていたからだ――選択というのは何かと言えば、一方に、ぼくが妻や娘たちやドーベルマンの飼い犬といっしょに坐って(それから野の花を編んで作った花輪や、指輪、そして細身のステッキもある)、絵のような構図に収まる世界、つまりこの幸せで、賢明で、善良な世界があり、他方、もう一つの、何と言ったらいいか……。はたして、ニーナといっしょに暮らすことなどできるのか。ほとんど想像することもできないような、熱烈で耐えがたいほどの悲しみにあらかじめ満たされた暮らし、一瞬ごとに震えながら過去の静けさに耳を澄ますような暮らし。そんなものが可能なのだろうか。とんでもない、ばかげている! 彼女だって、いまの夫と懲役のような愛で固く結ばれているじゃないか……。ばかげている! それならニーナ、ぼくはきみをどうしたらよかったんだろう。ぼくたちの一見気楽なようでいて、実際には絶望的な出会いの繰り返しのせいで少しづつ蓄えられてきた悲しみの在庫を、いったいどこに売りさばけばいいのだろう。》

 ここにはロマンティック・アイロニーがある。

 

 フィアルタに戻り、映画のようなスピード感と、文章によるホワイトアウト/フェードイン技法をもって、クライマックスに突入する。

《フィアルタは古い町と新しい町でできている。しかし、新と旧はあちこちで互いに絡みあっていて……相争っている。》と現在に戻れば、プラタナスの木陰に胴長の黄色く巨大なコガネムシのようなイカルス社製の自動車がとまっていて、ニーナがその車でいっしょに行きましょうよ、と行けないことを知っているくせに誘う。

《磨き上げられたコガネムシの鞘翅に沿って、空と木の枝のグアッシャ画が広がっている。弾丸のような形のヘッドライトの一つの金属部分に、ぼくと彼女の姿が一瞬映し出された――映画の国の細身の通行人が二人、自動車の丸みを帯びた表面を通り過ぎていく。それから数歩進んだところで、ぼくはなぜだか後ろを振り向いた。すると、一時間半先に実際に起こることが見えたような気がしたのだ。自動車用のヘルメットをかぶったニーナとフェルディナンドとセギュールの三人がコガネムシに乗り込む。ぼくに微笑みかけ、手を振る彼らの姿は透明で、まるで幽霊のよう。彼らの身体を透かして世界の色が見えている。と、突然、自動車ががくんと動き出し、走り去り、三人の姿が小さくなっていった(そして十本の指を全部使ったニーナの最後のあいさつ)。ところが実際には、自動車はまだじっとその場に止まっていて、欠けるところのないつるつるした卵のような姿を見せていたのだ。》

 イギリス人のテーブルには鮮やかな深紅の飲み物の入った大きなコップが載っていて、テーブルクロスに楕円形の照り返しを投げかけている。

《痩せぎすの小さな手から手袋を取り、ニーナはこれが一生で最後の食事になるとも知らないで、大好物の貝を食べていた。》

 フェルディナンドが「批評」に悪態をつく。イギリス人が立ち上がり、蛾(ナボコフの好きな鱗翅類)を一匹つかまえ、器用に小箱に入れた。ポスターでたびたび登場していたサーカスが先触れを送ってよこしたらしく、遠くの方からラッパとツィターの音が聞えてきた。

 古い石の階段が気に入って、二人で登っていった。《段を上ってゆくニーナの足が作る鋭角をぼくは見つめていた――スカートの裾を引き上げながら、というのも先ほどはスカートの長さのせいで、今度は細さのせいでそうせざるを得なくなったわけだが、彼女は灰色の石段を登っていく。》

 その身体からはおなじみの温もりが漂ってきて、この前の、つまり最後から二番目になる彼女との出会いの様子を心に思い浮かべていた。パリで夜会に呼ばれたときのことで、《彼女は身体をZ字形に折り曲げてソファの端に腰をおろし、灰皿を踵の脇に置いていた。そして細長いトルコ石のシガレット・ホルダーを唇から離し、長く引き伸ばしながら嬉しそうに「まあ!」と言った。その後、一晩じゅう、ぼくは胸が張り裂けそうだった。》

《そしてある紳士が別の紳士にこんなことを言っているのを聞いた。「可笑しいことにね、みんな同じ匂いがするんですな。香水を透かして焦げたような匂いがね、瘦せこけた栗色の髪の女はみんな」。そしてよくあるように、何を指しているのかもわからない、こういった俗悪な言葉が思い出のまわりにきっちりと絡みつき、悲しみを養分にして育っていったのだ。》

 石段を登りきると、でこぼこの空き地に出た。

《ぼくたちはまるで何かに耳を傾けるかのように、その場にたたずんだ。上に立っていたニーナは微笑みながらぼくの肩に手を置き、微笑みをくずさないよう慎重にぼくにキスをした。そのとき堪えがたいほど強烈に(それとも、いまそんなふうに思えるだけだろうか)ぼくはかつて二人の間にあったことのすべてを、それこそ今回と同じような最初の口づけから、もう一度体験し直した。そして、安っぽく形式ばった親しい「きみ(トゥイ)」という呼びかけを、表現力豊かで心のこもった敬称の「あなた(ヴイ)」に替えて――というのも、世界一周を果たした船乗りがすっかり豊かになって最後に戻ってくるのが、やはりこの「あなた」なのだから――ぼくは言った「もしもぼくがあなたを愛しているとしたら?」ニーナはぼくにさっと目を向けた[ロシア語の「トゥイ」は親しい間柄で使う二人称代名詞。ここで「トゥイ」から「ヴイ」に切り替えるのは唐突で異様]。ぼくは同じ言葉を繰り返し、何かを付け加えようと思ったが……何かが蝙蝠のように彼女の顔をちらりとよぎった。すばやく、奇妙で、ほとんど醜いと言ってもいいくらいの表情だった。ニーナはいつも卑猥な言葉でも気軽に、まるで楽園にいるかのように口にしてきたのに、今回はうろたえてしまった。ぼくも気詰まりになった……。「冗談だよ、冗談」慌ててぼくは大声で言いながら、横からニーナの右胸の下あたりまで手を回して軽く抱き寄せた。どこからともなく彼女の手にはぎっしりと花の詰まった束が現れた。無欲に香りを放つ、暗い色合いの小ぶりなスミレ(フィアルカ)だった。そしてホテルへの帰路につく前に、ぼくたちは石造りの手すりの前でしばらく立ち止まったが、すべては以前と同じように絶望的だった。しかし、石は身体のように温かく、ぼくはそれまで目にしていながら理解していなかったことを突然理解したのだ。どうしてさきほど銀紙があれほどきらきら輝いていたのか、どうして海がちらちら光っていたのか。フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルディナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲ(サラマンダー)ども、幸福の龍(バシリスク)どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。》

 

 ベルリンでの二度目の出会いと最後から二番目のパリでの出会いでは、ソファで身体をZ字形に折り曲げ、踵の脇に灰皿を置いたニーナが唇から長いシガレット・ホルダーを離す。白い雪の中でのロシアでの初めての出会いと白い陽光に満たされたフィアルタでの最後の口づけ。ナボコフは円環やメビウスの輪の構造(例えば、『賜物』の書き出しは、小説のラストで主人公がこれから書くと宣言する小説の冒頭部分に相当していて、あたかもプルースト失われた時を求めて』をなぞっている)を好むが、これらの対称形に挟まれた過去は、ニーナの死によって環(輪)を閉じることなく、細部と記憶の螺旋を描きながら“Back into the past,back into the past”と唱えながら、“as I did every time I met her,repeating the whole accumulation of the plot from the very beginning up to the last increment.”とばかりに白く輝いて溶けていく。

                                   (了)

         *****引用または参考文献*****

ナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収、ロシア語版)沼野充義訳(作品社)

ナボコフ『フィアルタの春』(『ナボコフの一ダース』に所収、英語版)中西秀男訳(サンリオSF文庫

ナボコフ『賜物』(世界文学全集Ⅱ―10、ロシア語版)沼野充義訳(河出書房新社

ナボコフ『アーダ』若島正訳(早川書房

ナボコフ『初恋』(『ナボコフ短篇全集Ⅱ』に所収)若島正訳(作品社)

若島正ナボコフの多層思考――短篇「フィアルタの春」を読む」(「英語青年 特集ナボコフ生誕100年」(1999年11月)(研究社)

毛利公美「時間の壁を超えて――ナボコフ『フィアルタの春』における彼岸のテーマ」(「ロシア語ロシア文学研究」1996-10-01)(日本ロシア文学研究会)

*中田晶子「失敗する読者」(「日本ナボコフ協会 会報『KRUG』Ⅰ巻1号」(1999年9月))

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

丸谷才一『樹影譚』(文春文庫)

三浦雅士『出生の秘密』(講談社

ナボコフ『ベンドシニスター』加藤光也訳(サンリオ文庫

ナボコフ『青白い炎』富士川義之訳(岩波文庫

*秋草俊一郎『アメリカのナボコフ 塗りかえられた自画像』(「日本文学のなかのナボコフ――誤解と翻訳の伝統」所収)(慶應義塾大学出版会)

ナボコフナボコフロシア文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

*Vladimir Nabokov ”The Portable NABOKOV”(“Spring in Fialta”,”First Love”)(THE VIKING PRESS)