文学批評 「見ることと触れること  ――白秋『桐の花』から『熱ばむ菊』へ」

 「見ることと触れること  ――白秋『桐の花』から『熱ばむ菊』へ」

 

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 二一世紀に入って祇園圓山公園の枝垂桜はいよいよ魂を奪う姿でそこに在る。たっぷりと花房をつけ鏡獅子のように重く揺らぐ桜ならば京洛にいくらでもあるだろう。けれども祇園の枝垂桜は他にかえがたい。心騒がせる。薄幸の舞妓が根もとに埋められ、その滋養で生きているとの噂は真実と思えてくる。見る私を見ているのだ。ほかの桜は見られているだけなのに、この桜の見下ろす視線は私の内面に触れてきて絡みあう。

 それと同じように『桐の花』(大正二年)、『雲母集(きららしゅう)』(大正四年)の北原白秋は、現実の華やぐ桜を見る人にすぎなかったのに、昭和十七年に死去する際の『黒檜(くろひ)』(昭和十五年)、『牡丹(ぼたん)の木(ぼく)』(昭和十八年、死後出版)では祇園圓山の枝垂桜のような凄みをもって存在(リアリティ)に触れてくる。

 

<茂吉/白秋>

 塚本邦夫は『茂吉秀歌』で白秋について、いくどとなく言及している。まず『茂吉秀歌『赤光』百首』の人口に膾炙した歌がこれだ。白秋は『桐の花』からである。

  めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀(かみそり)研人(とぎ)は過ぎ行きにけり                  (茂吉)

  ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき                    (白秋)

 斉藤茂吉『赤光』(大正二年)の歌が白秋の《たとえ本歌取であつたとしても、いささかこだはる要はあるまい。問題なく茂吉の歌の方が傑(すぐ)れてゐる》という塚本の判にまず異論はないだろう。巷間伝わるとおり、そして新古今や定家に関する塚本の評論同様に、『茂吉秀歌』は塚本美学による変奏、照射として功罪なかばだが、さすがその読みは俊成なみに老練だ。

 このとき、白秋はものを見ているだけなのに、茂吉はものに見られている。茂吉を読む私は、ものに見られた茂吉が見た眼でものに見られる。「剃刀研人(かみそりとぎ)」と「剃刀」という生物と静物の差異や、茂吉が苦心した「ひつそりと」の一語ばかりでなく、「過ぎ行きにけり」の感じられる時間に不意に襲われる。

つづく歌でも本歌と目された白秋は負となる。

 たたかひは上海(しゃんはい)に起り居(ゐ)たりけり鳳仙花紅(あか)く散りゐたりけり                 (茂吉)

 薄らかに紅(あか)くかよわし鳳仙花人力車(じんりき)の輪にちるはいそがし                  (白秋)

《茂吉の歌はこの度も明らかに、本歌を超えてゐる。比較するのも無慙と思はれるまでに本歌は繊弱でくだくだしい。》 どちらも同じ「紅(あか)く」があるのに、茂吉の細部の方が鋭い。そのうえ茂吉のふたつの「ゐたりけり」が作為を感じさせつつも読む私に傷痕を残す。

  現身(うつしみ)のわが血脈(けちみやく)のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ                  (茂吉)

 この歌は白秋詩集『水墨集』(大正十二年)の「雪後」に合わされる。

安らかな雪の明りではないか、

ようも晴れた蒼穹である。

ほう、なんといふかはいらしさだ。

あの白い綿帽子をいただいた一つ一つの墓石は。

 ここでも塚本は手厳しい。《南国生れの彼にとつて、雪は、たとへば歳時の中の珍しい眺めであつた。北国生れの茂吉には天然現象を越えて、それは抗しがたい宿命であり、一種の魔に等しいものではなかつたらうか。雪が人間を小半歳(こはんとし)窖(あなぐら)のやうな棲家に閉ぢこめ、あるひは命を奪ふ事実を、その目で確め、肌で熟知した者でなかつたら、懺悔の心の湧くことも、血脈の細る思ひとなることも、十分には理解できまい。》 ここでは両者の特徴が、白秋の「珍しい眺め」、茂吉の「肌で熟知した」といった言葉で指摘されている。たとえば、『赤光』「おひろ」の「しんしんと雪降りし夜にその指のあな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか」などにも、茂吉の体質的な触覚の上位性はあきらかである。

 茂吉「南蛮(なんばん)のをとこかなしと抱かれしをだまきの花むらさきのよる」をとりあげ、白秋『邪宗門』(明治四十二年)の光彩陸離(りくり)たる言語感覚は茂吉の比ではないとか、「蠶(こ)の室(へや)に放ちしほたるあかねさす晝(ひる)なりければ首は赤しも」はジギタリスの花にとまった蛍という白秋の臭覚に及ばぬところであると白秋を誉めてみたところで、《白秋のきらきらしい歌を新古今の四季や恋にさりげなく鏤(ちりば)めてみたいとは、一度も思つたことはない》の一言で無に帰してしまう。

 しかし、茂吉を万葉の人とするのと対をなし、のちの『多摩綱領』で新幽玄、余情の新古今調を顕彰した白秋を新古今の人と規定したがる風に逆らっての、塚本の見事な切断に違いない。

『茂吉秀歌『あらたま』百首』になると、塚本の論調はやわらぐ。

 茂吉『あらたま』(大正十年)の、

  ありがたや玉蜀黍(たうきび)の實(み)のもろもろもみな紅毛(こうもう)をいただきにけり                 (茂吉)

  な騒(さや)ぎそ此の郊外(かうぐわい)に眞日(まひ)落(お)ちて山羊(やぎ)は土堀(つちほり)り臥(ふ)しにけるかも                 

などは、いずれも仏典、仏教的雰囲気が濃厚で「さんげの心」に満ちているが、同時期の白秋『雲母集』にもまたこれらと呼応した、

 森羅万象(ものなべて)寝しづみ紅(あか)きもろこしの房のみ動く醒めにけらしも                  (白秋)

 豚小屋に呻(うめ)きころがる豚のかずいつくしきかもみな生けりけり

があるとして、《茂吉より官能的で鋭く、かつ明快だ、優劣の問題ではない。短歌そのものの性格と体質の差であつた》と塚本は持をとった。

 うつつなるわらべ専念(せんねん)あそぶこゑ巌(いは)の陰(かげ)よりのびあがり見(み)つ                  (茂吉)

 一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ                     (白秋)

に代表される歌は、茂吉に『梁塵秘抄』恋慕が深まり、白秋もまたそれにのめりこんでいったいった時期のもので、どちらも秀歌とは言いがたい。のちにライヴァル意識があらわれて先陣争いが茂吉『童馬漫語』に載り、白秋の歌誌『多摩』創刊(昭和十年)によって反目しあうことになるなど嘘のような湘南の光りと暖気に包まれた親交のひとときの産物であった。

梁塵秘抄』をめぐる塚本の文章を紹介しておく。《白秋はストレートに「ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光(こんじきくわう)のさす心地する」と感動を表明し、歌は勿論、散文詩の方にも、淡く濃く薫染(くんぜん)を示す。和歌はかつて十二世紀末から十三世紀初頭、すなはち新古今成立の前に、いちじるしく今様や連歌の影響を受けた。人によつてはこれを和歌黄金律の崩壊、唯一詩形、国風の瀕死(ひんし)の様の直接原因と目するが、むしろ、発想技法爛熟(らんじゅく)の極に達した王朝和歌の、その息づまるやうな飽和状態は、歌謡調を招き入れることによつて蘇(よみがへ)つたのではあるまいか》とは、狭義の近代写実に抗した白秋へのオマージュとなっていよう。

 

<ストゥディウム/プンクトゥム

 たしかに茂吉の歌は私を「刺してくる」のに、初期白秋の歌には乏しい。「刺してくる」感覚とは、ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』における「プンクトゥム」だったのではないか。

 副題のとおり、写真の何に関心をひかれるのか探しあぐねていたバルトは、ラテン語の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を見出す。規則の第一の要素ストゥディウムは、ある広がり、一般的関心による。第二の要素

プンクトゥムはストゥディウムを破壊(または分断)し、場をかき乱しにやって来る。《ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(・・・・・・)(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

 バルトは、アメリカの黒人一家の妹(または娘)のベルト付きの靴や、小さな男の子の歯並びの悪い歯に、無作法に引きつけられた。ある種の「細部」は写真を見る人を突き刺す。ストゥディウムは文化的な関心があり、つねにコード化されているが、プンクトゥムは不意打ちとしてやってくる。

 さらに死んだ母の写真について考えをめぐらすバルトは、細部とは別のプンクトゥム(別の《傷痕(スティグマ)》)も見出す。《それは=かつて=あった》という時間のプンクトゥムだ。

 サルトルは写実の「完全イメージ性」に対して、小説に熱中すれば心的イメージは生じないという小説読者の「稀少イメージ性」を指摘したが、言葉で表徴化する詩歌はづなのだろう。メルロ=ポンティは《散文的なものが、すでに語られ見られ意識されているもの、もろもろの客体の世界としてできあがったかたちでわれわれの眼の前にあるものの、扱いなれたなじみの秩序のがわに立つのにたいして、詩的なものはこうした秩序の破壊を意味する》と書いた。いわば散文はストゥディウムであり、詩歌はプンクトゥムであることを別な表現で語ったのではないのか。

茂吉『赤光』の細部「剃刀研人(かみそりとぎ)」「紅(あか)く」の不意打ちと時間の傷痕(スティグマ)「ゐたりけり」には世界にひびを入れるプンクトゥムがあって、写真の「完全イメージ性」により近い。初期白秋にはそれらが欠如している。

 

<近代/東洋精神>

 白秋を論じる時、きまって中野重治斉藤茂吉ノオト』(昭和十七年)の白秋に関する一章が持ちだされてくる。辛気くさいが避けてとおるわけにもゆくまい。

 中野は、ひとまず『桐の花』を代表する歌として、「いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの散りはてぬれば五月(さつき)はきたる」、「百舌啼けば紺の腹掛け新しきわかき大工も涙ながしぬ」、「「廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける」、をあげ、『雲母集(きららしゅう)』からは「煌煌と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも」、「大鴉一羽渚に黙(もだ)ふかしうしろにうごく漣の列」、「麗らかやこなたへこなたへかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず」が代表できるとしたうえで、この間のうつりゆきについてつぎのような説明は果たして穏当であろうかどうか、と問う。

『桐の花』から一転して『雲母集(きららしゅう)』にはゴッホの「狂気に燃ゆる樹」やゴオガン、ゴッホたちの「単純素朴にして強烈なる画境」が見出されるという岡山巌と吉田精一の説明を紹介したあと、中野はこう反論する。《ほそぼそとしたものから太々としたものへのうつりゆき、かはたれ時のうすら明りといったものから昼間の太陽光といったものへの転向は、たしかにこのような変化として見られる性質のものである。しかしこのうつりゆきが、ファン・ホッホを引き合いに出して説明されるべきものかどうかとなれば一応疑いなきを得ない。》 『雲母集(きららしゅう)』における光明は、東京が曇り日でも小笠原は陽が照っているということで、『桐の花』の舞台転換にすぎないとした。

《『桐の花』における白秋は『赤光』における茂吉よりも遙かに近代的でない》というドグマティスト中野の宣告は、「ファン・ホッホ的」な狂気や苦悩、きまじめな青年の懊悩を近代的な態度とするのならば、初期白秋の本質をとらえている。

 中野は白秋の「見ること」の深度を追いつめる。《眼は対象に面せず、そのまわりを、しばしばそれを意識しながらただようのにとどまる。対象をさがし、さがしあて、その上にしかと停まるという眼の機能は初手から拒否され、むしろそれは、怖れられ避けられているといえる。そこで眼は、本来の機能を回避しつつ歌としてあらわれ出るため、とめ度のない饒舌で身を装わねばならぬのである。》

 白秋は「平面的な羅列」の言葉として理解していただけであるとは、すでに『アララギ』(大正二年、四月号)誌上で木下杢太郎らが指摘していたことだった。《白秋は、どうしても、物をそのものとして示すことができない、彼はそれに堪えない。彼には、気分、風情、けはいが先だってくるのである》とはつまり、白秋の眼が《物の存在にではなく存在の気はいに、この気はいの感得にたいするいわず語らずのなれ合いにもっぱら頼っている》ということで、存在(リアリティ)へのアプローチに近代的な辛苦がなかったという中野の糾弾だった。

 そうだろう。あの姦通事件の収監でさえ、「身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅(あか)きダリヤよ」と『仮名手本忠臣蔵』七段目、おかるに手紙を読まれた由良之助の台詞「南無三、身の上の大事とこそはなりにけり」をふまえて朗らかな金(きん)と赤の好きな人、アイロニカルなロマンティストなのである。

 ヒヤシンスだの、ハーモニカだのから、すずめだの、かきつばただのへの変化は《雰囲気としての薄手な物質的西洋文化へのもたれ込みから、同じく雰囲気としての薄手な物質的日本文明もたれ込みへの推移に過ぎない。雰囲気をぬけての実質への近づきがない》という批判は、中野の「近代的」の定義の是非はともかくとして(それは「近代の超克」問題を内包しているのだが)、中村眞一郎が「てれくさい」と口にした、《私達の精神に何らの犠牲を要求しない》、《抵抗が驚く程欠けている》、快くとも近代的自意識を恥じいらせる心理と通底している。

 ところで折口信夫は『まれ男のこと立て』(昭和二年)で白秋を、《あて(・・)――上品――で、なまめい(・・・・)――はいから――て、さうして一部いろごのみ(・・・・・)の味ひを備へた姿を文章の上に作る事の出来る人は、この人をおいてさうさうはあるまい》としたものの、『歌の円寂する時 続編』(昭和二年)では寂しさと悔しさを滲ませ、『雀の卵』(大正十年)の時期の白秋が内面へ深まってゆく人とはならなかったことを古代人まで引きあいにだしながらねちねちと皮肉った。《白秋兄は、孤独・寂寥・悲痛に徴する新しい生活を展き相に見えた。だが、其朗らかな無拘泥の素質が、急に感謝の心境を導いた。苦患の後、静かな我として茲に在る。此が開放の為の力杖であつた。浄土に達する為の煉獄であつた。かう考えることが、他力の存在を感ぜしめないでは置かなかつた。梁塵秘抄の「讃歌」や、芭蕉の作品は、白秋さんの開発する筈の論理を逸れさせた。さうして悔しくも、東洋精神の類型に異訳させて了うた》、と。

 

<悪/母>

 寺田透三好達治萩原朔太郎蒲原有明に言及しながら白秋の詩集『邪宗門』と『思ひ出』(明治四十四年)を論じた。三好に、ひたすら横すべりにすべっていて平面上をうろついている、と酷評された白秋は、寺田からも《そこに朔太郎の内面的な繊細さはなく、言葉というよりもむしろ文字が幅をきかせて、あざとい輪郭と光度をもつイメージが眼をちかちかさせるということは本当だろう》と言われてしまう。さすがに「皮膚よりも深いものはない」と語ったヴァレリーの研究者らしく寺田は、白秋が表層から内面へと深化していったかに関心をもった。

 ついで寺田は、『カイエ』のヴァレリーがちらちらと淡い炎を揺らめかせていたもの、誰もがうすうす感じとっていた白秋のあるものへ近づいてゆく。《何かかれのうちには、かれが十分に現実化せずに終った恐怖を催させるもの、なんなら悪と言ってもいいものへの共感があったのではなかろうか。『思ひ出』には、死に近い乳母のあまりに深い情を恐れる幼児だった自分を喚起した作品もあるし、それを一例として、幼児のかれを取巻く、かれには諒解できなかった男女の肉のほてり、疼きが、何か味わい深い悪のように匂わせている作品もいくつかある。》

 寺田はまず、視覚的経験の描写として『邪宗門』中の、赤子が水に落ちたのに何事もなかったかのような眼を紹介し、金魚を殺す童謡に及んだあと、艶冶な五感の詩「おかる勘平」――「顫へてゐた男の内股(うちもゝ)と吸わせた脣と」が風俗壊乱であるとして、同人誌『屋上庭園』は発禁、廃刊(明治四十三年)――を不条理な肉的思考、詩による性への関心の表明だったとする。これはまた、視覚の人白秋が、初期の詩においては触覚の人でもあったことの証左に違いない。

「おかる勘平」から少しだけ引用しておく。

  やはらかな肌ざわりが五月ごろの外光のやうだつた、

  紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、

  抱擁(だきし)められた時、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、

白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた。

顫へてゐた男の内股(うちもゝ)と吸わせた脣と、

別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、

『桐の花』の序文「桐の花とカステラ」からもニ、三みておく。いたるところ触感が散文となっている。「ばさばさして手さはりの渋いカステラ」、「一寸触つても指に付いてくる六月の棕櫚の花粉」、「うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる」、「じつと握りしめた指さきの微細な触感に」。

 ところが、この触感が短歌にはまったくといってよいほど表現されないのだ。「桐の花とカステラ」にあるように、歌は古い小さい緑玉(エメロウド)で、水晶の函に入れて秘蔵され、古い一弦琴のように薄青い陰影のなかにたてかけられて、静かに眺め入るべきもの(・・・・・・・・)とされたのか。一方、詩集『思ひ出』は触感に満ち溢れている。「夜」には「誰だか頸(くび)すじに触(さは)るやうな」というぬるぬるしたフレーズがあるし、「母」には「片手もて乳房圧し」、「肌さはりやはらかに」、「母の乳を吸ふごとに」の肉感がある。

『わが生ひ立ち』などによれば、名高い造り酒屋の長男白秋は商家裏方として忙しい母シケとほとんど肌の触れあいを持てなかったが、乳母シカ(二歳の白秋のチブスが伝染り、身熱で焦げるように死んだ)に溺愛され、家で働く女達に囲まれて育ったという。

「接吻」には「臭(にほひ)のふかき女きて/身体(からだ)も熱(あつ)くすりよりぬ」、「汗ばみし手はまた強く/つと抱き上げて接吻(くちつ)けぬ」ともある――白秋と同じく思想性の欠如を指摘される谷崎潤一郎は『春琴抄』、『盲目物語』に代表される触覚の人、さらには口唇の人であったが、『母を恋ふる記』、『幼少時代』にみる母の乳房との距離と白秋のそれとを比較してみるのもおもしろかろう。

 他に「糸車にせよ」「瓜紅」にせよ詩に触感は無数にあるが、『桐の花』の歌には放埓の遊蕩や春を待つ間の人妻があらわれはしても、「雪の夜の紅(あか)きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ」とじれったく、なんらかの抑制が働いて「触れる」は封印されてしまった。

 

<見ること/観ること>

 マラルメの研究者菅野昭正による『詩学創造』の「見つつ観ざりき――北原白秋論」は、「肉」というキーワードからはじまる。

  肉隠(こも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観(み)きとつたへよ                (『牡丹の木(ぼく)』)

《牡丹の内側へ眼で参入しようとする》この一首の魅力は失明の危機にさらされ、《もののかたちを確実に捉えられなくなった病んだ肉眼を、それでも牡丹の奥へ向けようとする白秋の姿勢の悲壮さだけに、動かされているのでないことは最初から感じとれた》と菅野は言う。

《「肉隠るふかき牡丹……」の三十一文字のなかには、なによりもまず花の内側に隠れている見えない宇宙を探り、それを掘りおこそうとする眼の動きが感じられる。詩人の眼の前に置かれている牡丹の花は、ただ知覚できる表面のかたちで眼を楽しませてくれるから珍重されるのではなく、あでやかにかがようその外形の背後に、花の生命を圧縮したもうひとつの幻視のかたちを見通させてくれるからこそ、詩人の眼をひきつけるのだ。このとき、詩人を誘っているのは牡丹の本質である。その誘いにうながされて、本質を《観る視線》が動きだすときに詩が発生する。》

「観る視線」から生成しはじめた後期白秋の詩学は、実と虚がもつれあうような、現(うつつ)と夢が溶けあうような生前最後の歌集『黒檜』にも認めることができる。

  黒き檜(き)の沈静にして現(うつ)しけき、花をさまりて後(のち)にこそ観め

 これは「観る視線」の喜びの詩でもあると菅野の筆は進む。散文的な「見る視線」(ストゥディウム)から詩歌の「観る視線」(プンクトゥム)が分離されて、ものの内側へ奥深く届いていると言えないか。

  か黝(ぐろ)葉(ば)にしずみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき

《自然な肉眼の働きにしたがって、特別な努力なしに、眼の前の対象を捉える「見る」こと。それにたいして、対象の奥深い隠された姿にまで視線をとどかせ、日常的な「見る」作用では捉えられない内密な実相を捉える「観ること」》の、いわば「実相観入」は、小林秀雄『私の人生観』にある《観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道してゐる》といった、西行芭蕉、はては宮本武蔵の古典的日本精神に向かいがちである。けれども、村野四郎による《そのイメージは、しかと人間の内奥に密着して、これを剥がそうとすれば、内まで一緒に剥がれてくるていのものである》との「黒き檜(き)」一連への批評文は、あたかもリルケ『マルテの手記』におけるノートル・ダム・デ・シャンの街角で女が両手から顔を上げると顔面のうつろな裏側が手のなかに残っているのを見ることができたというそれではないのか。若きリルケ本人を思わす主人公は《僕は見る目ができかけている》とくりかえし、《なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる》と内省したが、それは「観る眼」のことではなかったのか。

『水墨集』序文「芸術の円光」の詩論は、いかにも白秋らしく拡散する文体となってしまっている。それを菅野は《外界の或る対象が詩人の《見る視線》に捉えられた、というよりむしろ、視線に飛びこんできたその瞬間に、詩人のなかに誘発された感情・情緒が、そこでは歌われているからである。対象(イメージ)がまず先にあって、そのあとに感情・情緒がやってくるのではなく、それは白秋のなかで同時にそれぞれの場を占めるのだ》と天才の一挙性に感嘆するが、しかし《《見る視線》は、そこではもっぱら外部の世界にむかってするどく感応するのに忙しくて、内部の世界にたいしては、持続する執拗な視線がそそがれた形跡はあまり見当たらない》との定説に落ちつく。

 溢れでる言葉は、せせらぎとなってものの本質を洗いだすことなく、表面で戯れる。それを、まじめな近代精神の欠如と、まじめな人々は言いたてた。やがて白秋は、ゆるやかでおおらかな「見る視線」の運動リズム、『梁塵秘抄』の歌謡の韻律を経て、「軽快な流動性に富む」七五律から「緩徐な」五七律へうつっていった、と菅野はその言語情調を指摘して論をとじた(これはおそらくは、馬場あき子の白秋律論に拠るところだろう)。

『黒檜』の「観る視線」の実際にあたってみよう。当時白秋は『短歌の書』所収の「薄命に座す」(昭和十三年、口述)にあるとおり、《年少の頃から読書と観照と詩作との酷使した私の眼である。而も私のこの眼は私の肉体感覚のうちで最も豊富に光度と色彩と形象とを吸収し、鋭く磨きに磨き上げて来た最も大事なものであり、全く私の精神の窗であった》という視力をほとんど失う危機にあった。

『黒檜』冒頭の章は「熱ばむ菊」で、巻頭歌は、

  照る月の冷(ひえ)えさだかなるあかり戸に眼は凝(こ)らしつつ盲(し)ひてゆくなり

「照る月の冷(ひえ)」をさだかに感じている。見えるはずのものが「冷(ひえ)」という触感に深まって沁みこんでゆく。封印されていた触感が失明寸前の薄明状態で解かれたのである。

  視力とぼし掌(て)にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ

 掌と花弁が、触れるもの触れられるものとして出会い、熱というエネルギーを含みあう。

  目の盲(し)ひて幽かに坐(ま)しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触(さや)りつつありき

 失明の名僧鑑真和上の像を思ってとある。もともと離れたものから風で運ばれる匂いに敏感な、距離の人(・・・・)白秋がここに来て直に接触しようとしている。

  物の文(ふみ)繁(しじ)にし思へばかいさぐる我が指頭(ゆびさき)に眼はのるごとし

 光が皮膚に形成したしみが視神経へと変異、進化していったというベルグソン『創造的進化』を思いださせる。平面をとめどなく横すべりした「見る視線」はついに内面へと垂直に碇をおろす「触れる視線」となった。

 

<触れること/触れられること>

 小林秀雄ベルグソンを念頭に「哲学者は詩人たり得るか」と語ったが、逆に、「詩人は哲学者たり得るか」と問うことは不遜であろうか。メルロ=ポンティがその著書のなかでくりかえし引用したフッサールの言葉は、《まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらさねばならない》というものだった。またメルロ=ポンティは『知覚の現象学』序文に《哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である》と述べ、《現象学バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品と同じように不断の辛苦である》と結んだ。

 なにも『雲母集(きららしゆう)』にみられる、

大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも

薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも

のようないかにもそれらしく、かえってうさんくさい歌のことを指しているのではない。昭和十年から十二年の作品集『橡(つるばみ)』(昭和十八年、死後出版)にある、

  黄の蕊(しべ)を花心に醸(かも)す春うつつ牡丹揺れ合へり百重(ももへ)花瓣(はなびら)

プルースト的多重感覚から死の際までつづく歌群を思ってである。

 鷲田清一は『メルロ=ポンティ 可逆性』で次のように解説している。《伝統的な認識論や真理論において、《視覚》は対象から距離をおいた感覚であり、それゆえに対象の様態や知覚状況から影響を受けることが相対的にすくないという理由で、諸感覚資料のなかでももっとも信頼を得てきたこと、その意味で、多くの場合、認識が《視覚》のモデルで語られ、真理が《光》のメタファーで語られてきたことは、あらためて指摘するまでもないだろう。》 共感覚(シネステジー)の人、若き白秋が「おかる勘平」における触感の忌避の身代わりとして、その高級感ゆえ歌に選びとった感覚こそがまさに「光」だった。

 晩年、メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』にこう残している。《見えるものはすべて触れられうる物のなかから切り取られるのだし、触覚的存在はすべてなんらかの仕方で可視性へと約束されており、そして触れられうるものと触れるものとのあいだにだけでなく、触れられうるものとそれに象嵌(ぞうがん)された見えるものとのあいだにも蚕食と跨(また)ぎ越しがある。……触れられるものと見えるものとのあいだには、たがいに二重の交叉した帰属の関係がある。》

 もはや白秋は見るだけの人ではない。薄明の果てで歌の封印切りがなされ、「見る――見られる」と「触れる――触れられる」の詩歌の言葉が絡みあう人となった。メルロ=ポンティの《身体は世界の前にまっすぐに立っており、世界はわたしの身体の前にまっすぐに立っていて、両者のあいだにあるのは、抱擁の関係である。そして、これら垂直な二つの存在のあいだにあるのは境界ではなく、接触面なのである》とは、『黒檜』の藤浪の歌に、誰にも問題にならなかった歌が一つあります、という『新秋歌話』(昭和十五年)自作解説に重なる。

  触りよき空にしだるる藤浪の下重りつつとどめたる房

《ピタッと止めてゐる。一番尖端の重みを歌つたのであります。その重みを藤だと思つてはいけません。その千鈞の重さが、何が故にその藤浪の尖端に集つてゐるかといふと、これはその藤の木を通し、土を通し、その下の鉢を通し、鉢に接触してゐる畳を通し、床を通し、それが宇宙のみちみちしたものに繋がつてゐるのでありますから、そこを我々は感得しなければならない。これは写生であるけれども、単なる写生とは思つてをりませぬ。その重みは本当に手で触れなければ分らない。手で触れるといふことは、感覚の移動があつて、自分の目が見えなくなると、指先がものを見るやうになる。決して指が触つて見ただけではない。既にその感覚が目から指の先に移つて行く。》

 晩年のそれらが、ついに世界と絆を結びあった白秋の、現実(リアリティ)から存在(リアリティ)を探りだす不断の辛苦の作品でなくて何であろう。

                                    (了)

    ***本文記載以外の主な引用または参考***

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

メルロ=ポンティ『知覚の現象学竹内芳郎(同前)

メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』滝浦静雄他訳(同前)

リルケ『マルテの手記』望月市恵訳(岩波書店