文学批評 「かの子バロック」

  「かの子バロック

 

f:id:akiya-takashi:20190201180813j:plain f:id:akiya-takashi:20190201180844j:plain


 岡本かの子の短編小説『金魚撩乱』(昭和十二年)にこんな文章がある。

《当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺激に対して、極(きわ)めて遅い反応を示した。復一の家へ小さいバケツを提げて一人で金魚を買いに来た帰りに、犬の子にでも逐(お)いかけられるような場合には、あわてる割にはか(・・)のゆかない体の動作をして、だが、逃げ出すとなると必要以上の安全な距離までも逃げて行って、そこで落付いてから、また今更のように恐怖の感情を眼の色に迸らした。その無技巧の丸い眼と、特殊の動作とから、復一の養い親の宗十郎は、大事なお得意の令嬢だから大きな声ではいえないがと断って、「まるで金魚の蘭鋳(らんちゆう)だ」と笑った。》

 あきらかにヒロイン真佐子はかの子の私性を揺らめかせている。芸術に殉じたかの子は垢臭い私小説を書かなかったが、どの小説のヒロインもかの子の容貌を美の方向へ大きく振幅させてあらわれる。

《深く蒼味がかつた真佐子の尻下りの大きい眼に当惑以外の敵意も反抗も、少しも見えなかった。涙の出るまで真佐子は刺し込まれる言葉の刺尖(とげさき)の苦痛を魂に浸み込ましているという瞳の据え方だった。》 やがて真珠色の涙が下瞼から涌き、歳にしては大柄な背中が声もなく波打った。《そのうち復一の内部から融かすものがあって、おやと思ったときはいつか復一は自分から皮膚感覚の囲みを解いていて、真佐子の雰囲気の圏内へ漂い寄るのを楽しむようになっていた》という魔性の力で人をひきつけたかの子。                       

 おそらくは『金魚撩乱』のつぎの一節ほど毀誉褒貶の激しかった文章はそうないだろう。《……見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に捺乱として白紗よりもより膜性の、幾十筋の嫉がなよなよと縫(もつ)れつ縫(もつ)れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指(おゆゆび)と人差指で大幅に一囲みして形容する白牡丹(ぼたん)ほどもあろうか。それが一つの金魚であった。その白牡丹のような白紗の鰭(ひれ)には更に菫(すみれ)、丹(に)、藤、薄青等の色斑があり、更に墨色古金色等の斑点も交って万華鏡のような絢爛、波瀾を重畳(ちようじよう)させつつ嬌艶に豪華にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。復一の胸は張り膨らまって、本の根、岩角にも肉体をこすりつけたいような、現実と非現実の間のよれよれの内情のショックに堪え切れないほどになった。》

 文学の目利きたちはこぞって嫌悪をしめしたあとで、どうにも感嘆してしまう。

 石川淳は『岡本かの子』にこう論じた。《ふつうならどうも、挨拶にこまるしろものである。しかし、これを他のどんな表現に置きかへて、より切実なることをうるか。初等技術批評を尻眼にかけて、何といつても、この一節は精彩溌刺たる文章に相違ない(中略)末段に及び、その集中の度合が作者の生命の呼吸と合併するに至つた。(中略)岡本女史は心を女人の歌よりおこして情熱と調子との流儀をもつて小説の世界に切りこんで来て、ともかくも前掲のやうな奇怪なる文章にものをいはせてゐる。》

 丸谷才一は文学全集『宇野千代岡本かの子』の解説に《どこがどう気にくわないと、いちいち指摘するのは礼を失するだろう》とためらったうえで、《もちろんわたしはこの文章に一種の力があることを認めない者ではない》として、《しかし力を見せるためには何もこれほど大仰にどなりちらす必要はあるまいと、わたしは顔をしかめるのである》と頌を書くべき解説者の立場から当惑している。

 この「力」について渋澤龍彦は『岡本かの子 あるいは女のナルシシズム』で的確な命名をした。かの子のナルシシズムを論じる渋澤はヒロインの童女のような生命力と、旧家の一族意識に伴う度しがたい貴族主義について言及してから次のように結んだ。《かの子の小説は、枯淡をもってよしとする日本文学の風土にはめずらしく、その女性特有のナルシシズムの豊麗潤沢をもって塗りたくり描きなぐった、装飾過剰のバロック的文体によって成立した文学と見立ててもよく、むしろ私などは、そうした谷崎潤一郎の系統をひく彼女の方にこそ、今日に読み返されるべき真価を認めたい。ナルシシズム、生命力崇拝、デカダンス、貴族主義、――これが岡本かの子の切りひらいた、修辞学的には危く均衡を保っているようにしか見えない、バロック的な文体の小説世界を支えている四本の柱なのである。》

バロック」という形容詞こそ、かの子が日本近代文学にもたらした裂け目に違いない。実は『金魚撩乱』の作中人物たちはバロックについて語っている。真佐子から復一への返信に、《「この頃はお友達の詩人の藤村女子に来て貰って、バロック時代の服飾の研究を始めた」とか「日本のバロック時代の天才彫刻家左甚五郎作の眠り猫を見に日光へ藤村女史と行きました。とても、可愛らしい」とか。いよいよ彼女は現実を遊離する徴候を歴然と示して来た。復一はそのバロック時代なるものを知らないので、試験所の図書室で百科辞典を調べて見た。それは欧洲文芸復興期の人性主義(ヒューマニズム)が自然性からだんだん剥離(はくり)して人間業(わざ)だけが昇華を遂げ、哀れな人工だけの絢爛(けんらん)が造花のように咲き乱れた十七世紀の時代様式らしい。そしてふと考え合せてみると、復一がぽつぽつ調べかけている金魚史の上では、初めて日本へ金魚が輸入され愛玩され始めた元和あたりがちょうどそれに当っている。すると金魚というものはバロック時代的産物で、とにも角にも、彼女と金魚とは切っても切れない縁があるのか。》

 いささか乱暴に三段論法を適用してしまえば、岡本かの子バロックとは切っても切れない縁がある、ということになる。ここに述べられたバロックの定義はいかにも月並みだが、昭和十二年(1927年)のバロック論としてはしかたのないものであろう。

 ここまでかの子の短歌から遠く離れて『金魚撩乱』を紹介したのは「バロック」という形容詞に導かれてかの子の短歌を論じたかったからだ。一人かの子の登場によってバロックは短歌空間に放射され、『わが最終歌集』でも切実な縁切り宣言によってさえも歌から退場できなかったバロックのうねりは、かの子の死後、戦後歌壇の十年余りの閉塞期間をへて、かの子が愛した多摩川のようにとうとうと流れだすだろう。

 あまり性急にならずにふたたび『金魚撩乱』の別な一節を引用しておきたい。

《復一が、おやと思うとたんに少女の袂の中から出た拳がぱっと開いて、復一はたちまち桜の花びらの狼藉(ろうぜき)を満面に冠(かぶ)った。少し飛び退って、「こうすればいいの!」少女はきくきく笑いながら逃げ去った。復一は急いで眼口を閉じたつもりだったが、牡丹桜の花びらのうすら冷たい幾片かは口の中へ入ってしまった。けっけと唾を絞って吐き出したが、最後の一ひらだけは上顎の奥に貼りついて顎裏のぴよぴよする柔いところと一重になって仕舞って、舌尖で扱(しご)いても指先きを突き込んでも除かれなかった。》

 かの子の文学、かの子の歌は、いわゆる良識ある人々にとっては、その生き様もあいまって、上顎に貼りついた桜の一ひらのように生理的に吐き出さずにはいられぬものだろう。しかしたとえ吐き出しても、《どことも知れない手の届きかねる心の中に貼りついた苦しい花片はいつまでも取り除くことは出来なくなった》という存在自体の悲しみの痕を読む者に残す。そしてこの美しくも哀しい桜のエピソードは、「バロック短歌」の魁にして頂点たる、あの桜百首を思い出させずにはいられない。

 これから、かの子の歌について時系列的に振り返ってゆく。

 十七歳のかの子が『明星』に発表(明治三十九年)した《そぎたまふ髪を螺釦(らでん)にぬりこめて壁にや侍らむ我はたよらん》《糸に似る雨ふり花はじめやかに薫(くん)ずる日にぞ逢ひ見そめにける》などは「晶子亜流」と片付けられるのが常だが、しかしのちのバロックの光と闇の種火に気づくべきである。

 第一歌集『かろきねたみ』(大正元年)については、斎藤茂吉の『アララギ』誌上での評論(大正二年二月)をみてみよう。《われわれは女性の音声をなつかしいと思ふ、而して彼の清明な音声をば女といふ性から取り離しては聴き得ない。音声ばかりではない、西鶴がいつた様な腰つきにえもいはれぬばかりではない。ふわりと流れて来る全体のにほひ、彼の『ヰタ、フエミナ』が快いのである。(中略)僕は一体女とはどういふものかなどいふ事は考へた事は無い。行きあたりばつたりであるが矢張りなつかしい場合にはおのづからなつかしいのである。》 『赤光』発刊直前にしてすでに大家のおもむきさえ漂わせた、いかにも茂吉らしい目的語の欠落による多様な意味の渦巻く物言い、閨房での女の声に惹かれる性向を包み隠しもしないのに、吉祥天女への憧れのようなものさえ輝かせた、本人はくそまじめな文章のあとで、のちに釈超空(折口信夫)によるアララギ女歌抑圧批判があったことを思いおこせば、拍子抜けするほどの賛辞(しかし女性歌人を入院患者でもみるような視線も交じって)があらわれる。

《かろきねたみの歌は芸術品として小さい平凡なものであるとならば、僕も賛成する。しかし又歌を流れて居る或一種のにほひがある。それは堀部安兵衛や業平朝臣のにほひではない。其一種のにほひを僕はなつかしいと思ふ。この頃の晶子女子の歌にもさういふ所が出て来て居る。》 ついで茂吉は《前髪も帯の結びも低くしてゆふべの街をしのび来にけり》、《ともすればかろきねたみのきざし来る日かな悲しくものなど縫ハム》、《春の夜の暗の手ざはりぼとぼとと黒びろふどのごとき手ざはり》など好みの叙情歌九首を引用したあと、《この様な歌は皆なつかしい歌である。なほもつと作者さながらの音声なりにほひなりが滲み出たならばまだまだよいと思ふ。然し其は六つかしい事である。短歌は短いのだから、個性が一つの動詞や何かには表はし得ない。無車氏の難問題はエヂプスでも解けまい。アララギの同人には此頃は不思議に数人の女人が居る。その女人にこの歌双子一冊をすすめる。》

 茂吉の「なつかしい」に母性的なものを嗅ぎとるか性愛的なそれを嗅ぎとるか、おそらくはそれらの混合物だが、「或一種のにほひ」に執着する茂吉は、のちにむせるように開花するかの子桜百首のにおいを、そうして短歌連作にもあきたらなくなる小説への希求を感じとっていたのだろう。当然ながら茂吉は人口に膾炙している《力など望まで弱く美しく生れしまゝの男にてあれ》や《人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらばま奪られむ》の生身の真情流露を採らない(が、茂吉と言う人間は、バロックと重なりあう混沌の人であった)。

 第二歌集『愛のなやみ』(大正七年)には玉石の玉が見当たらないと誰もが口をそろえて言う。しかし次のような歌には第三歌集『欲身』のバロックの緞帳を開く、いささかマニエリスティックな技巧が見てとれよう。《別れ来て冷えし苺のくれなゐをすゝる夜ふけのともしびのもと》、《なにげなく咬(かみ)たる爪に口紅の薄くつきけりうら淋しけれ》。 その拾遺の踊り場にはすでに官能の螺旋が舞っている。《なやましくうらはづかしくなつかしくみごもれる身に若葉かほりぬ》、《博多帯緋(ひ)ぢり(・・)の紐よきりきりと我がみだらなる肉を負けかし》。

 結局、生涯に四千首以上もの歌を作ったかの子にとって、短歌とは一体何であったのか。かの子の歌の評価は、昭和二十八年になされた亀井勝一郎の『岡本かの子――小説とその和歌の位置――』に今もって規定されていまいか。《岡本かの子のすべての文学的業績と宗教的業績の中で、その和歌は最も劣つたものであると私は思つてゐます。歌集を私は繰り返し読んでみたのですが、感心した歌は、まづ、殆んどなかつたと云つていゝ。女史は生前、自分は三つの瘤をもつた酪駐だといつてをりますが、三つの瘤といふのは歌と仏教と小説です。この三つの瘤をもつた酪舵として人生の砂漠を歩いてゆくといふ意味です。現在、振り返つてみますと、結局小説が一番優れてをり、小説家としての岡本かの子の面が最も興味深いのであります。和歌はむしろそれを助成するための小さな瘤であつたやうに思はれてなりません。或は余計な瘤と云つてもいゝほどです。》

 たしかに小説が一番であるのを認めるのにやぶさかではないが、「余計な瘤」とはあまりではないか。しかし、亀井の慧眼はかの子の文学の特質を《何よりもまづ美の使徒、日本的エピキュリアン》とよんで谷崎文学の系譜とし、《処女性(・・・)と母性(・・)と魔性(・・)》、《自己の性を川に託してあらはさうとする》とかの子の肝を摑んだ。ついで亀井の筆はエロスとタナトスという方面に進み、《時に力をいれた歌もありますが、情熱をすこしでも、出さうとすると、女史の歌は臭味を発します。小説にも時々みうけられる極彩色の演劇性です》と、バロックという名こそ出さないが、地母神のようなかの子の混沌を否定的ながらも見抜いた。《この演劇性――劇的要素を意識して磨いて行つたら、或は独自の歌境を開いたかもしれませんが、さうなる前に女史は戯曲をかきました。更に小説へと進んだわけで、歌人としてはつひに最も小さな存在であつた》とは歌集『欲身』の可能性とその後の流れを思ってのことだったろう。

『浴身』の歌をみてゆく前にバロックとは何かを振りかえっておきたい。

 十九世紀、およびかの子の生きた時代には、「バロック的」という形容詞は、ある種の嗜好の堕落として用いられていた。 エウヘーニオ・ドールス『バロック論』(神吉敬三訳)は、バロックを「歴史様式」から解き放ち「文化様式」として人間性に本質的な「常数」であるとした画期的な名著だ。ドールスによるバロックの本質は「汎神論とダイナミズム」であり、バロックの形態は「多極性と連続性」とされた。かの子にあてはめてみれば「汎神論とダイナミズム」は仏教へののめりこみと吉本隆明が『岡本かの子――華麗なる文学世界』で分析したカメラワークでいう接写や高速度写真による描写である。「多極性と連続性」は、プルーストの文章における楕円形に膨張し渦巻きを形成してゆく文体のそれであり(かの子の文体はより力に身をまかせるふしだらさだ)、桜百首の同じ作者のものとは思えないほど異なった作風の混在と、生命の滞りのない川の流れへの好みや表現におけるリフレインの多用である。なによりもドールスは《バロック精神とは、通俗的な表現でわかりやすくいえば、自分が何をしたいのかわからないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ》としたが、これこそかの子の魂の本質であった。

 ワイリー・サイファー『ルネサンス様式の四段階』(河村錠一郎訳)は歴史主義のもとながらバロックの構造を提示する。絵画におけるカラヴァッジオルーベンスグレコ、彫刻・建築におけるベルニー二をイメージすればわかりやすいだろう。「肉体による解決」――バロック形式は肉感性を持っていて、素材を贅沢に積み重ねる結果、物質を膨張する力に転化する。「エネルギーによる解決」――動く物量、想像力の駆使。「空間による解決」――まず初めに開塞、 つづいて空間への拡張あるいは膨張という技法であり、この初めの閉塞がなければ距離、開放、そして勝利という幻影を獲得できない。「高度による解決」――天上的な高みへ押し上げる魂の、あるいは肉体の高揚ないし霊的浮揚。「光による解決」――光と闇に浸す、色の音響。「バロックからキッチュヘ」――理性(ロゴス)によってではなく感情(パトス)によって世界に立ち向かうとこぎれいさと感傷主義へ堕する。

 ここまで述べてきたバロックの特徴を胸に、『浴身』におさめられた桜百首を読んでゆこう。作られた大正十三年の刻印から、万葉調の写生歌、茂吉風を思わす歌が意外と多いのだが、ここで掬い上げたのは、主情的なあられもない情念にあふれ、想像力の駆使による華やかさと、蔦の蔓の連続性をもつたリフレインのフーガによっていのちと滅びを畳み掛けてくるバロック短歌の数々である。「重く沈むフォルム」と「飛翔するフォルム」のオペラはかの子が眼も耳もよかったことを証明している。

 衆知のように桜百首は『中央公論』の編集長にして名伯楽(前々年にもう一人のバロックの女宇野千代を世に押し出している)瀧田樗蔭の求めにより一週間の期限で作り上げた百三十八首からなる。蘭鋳のようにぐず(・・)なかの子には神がかり的な集中を強いることで法悦の歌が詠まれるに違いないと睨んでの求めであった。

 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

 さくら花咲きに咲きたり緒立(もろだ)ちの粽欄春光(しゆろのしゆんくわう)にかがやくかたヘ

 ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ

 しんしんと桜花(さくら)かこめる夜の家突(とつ)としてぴあの鳴りいでにけり

 咲きこもる桜花(はな)ふところゆ一ひらの白刃(しらは)こぼれて夢さめにけり

 わが持てる提灯の炎(ひ)はとどかずて桜はただに闇(やみ)に真白(ましろ)し

 糸桜(いちざくら)ほそき腕(かひな)がひしひしとわが真額(まひたへ)をむちうちにけり

 わが家(いへ)の遠つ代にひとり美しき娘ありしとふ雨夜(あまよ)夜ざくら

 ミケロアンゼロの憂鬱(いううつ)はわれを去らずけり桜花(さくら)の陰影(かげ)は疲れてぞ見ゆれ

 山川(やまかは)のどよみの音のすさまじきどよみの傍(そば)の一本桜(ひともとざくら)

 この丘に桜散る夜(よ)なり黒玉(ぬばたま)の海に白帆(しらほ)はなに夢むらむ

 政信(まさのぶ)の遊女の袖に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん

 地を撲(う)ちて大輪つばき折折に落つるすなはち散り積むさくら

 急阪(きうはん)のいただき昏(くら)し濠濠(まうまう)と桜のふぶき吹きとざしたり

 狂人(きちがひ)のわれが見にける十年(ととせ)まへの真赤(まつか)きさくら真黒(まつくろ)きさくら

 ねむれねむれ子よ汝(な)が母がきちがひのむかし怖(おそ)れし桜花(はな)あらぬ春

 桜百首以外の『欲身』におけるバロック秀歌をあげる。

 春ふかき日の午後の新床くわつぜんと大輪牡丹割れてけるかも

 風もなきにざつくりと牡丹くづれたりざつくりくづるる時の来(きた)りて

 ここで「牡丹」はかの子が己に擬した花である。牡丹の花びらの襞(ひだ)は宇野邦一が『裸のモナドヘ』で、ジル・ドゥルーズの『襞(ひだ)――ライプニッツバロック』を紹介した《理性の統御を離脱して曲線がはてしなくうねり、無限にひだを増殖してゆく》バロックのそれだ。《理性はだから無数のひだに浸透していく光でなくてはならない。分裂し、散乱していく世界の悲惨に対して、秩序と原理を再構築しなくてはならないが、このような要請のなかで、原理そのものがある過剰さを帯びてくる》というドゥルーズによるバロックの定式は、バロックのもうひとつの特徴でもある冷静な観察眼による写実とアレゴリーとしての超越性との二重世界である。『欲身』のページをめくってもめくってもこれでもかこれでもかととめどなくあらわれる桜百首は《世界の悲惨に、原理の過剰によって答える》ことであった。                 

 ついで生前最後の歌集『わが最終歌集』(昭和四年)とその拾遺から二つだけあげておく。《大鶴(おおつる)が白光(はくくわう)の羽を搏(う)つなべに梅の梢の花うち慄(ふる)ふ》、《うつし世を夢幻(ゆめまぼろし)とおもへども百合あかあかと咲きにけるかな》。

 一言でいえば、桜百首のバロック的演劇性は「運動と流れさるものへのイマージュ」というバロックの特徴を体現するかのような、ひとところにとどまっていられないかの子の「いのち」のエネルギーが戯曲や小説の方面に飛翔していったことと、短歌という表現形式に対するかの子の意識もあってふたたび満開となることはなかった。

 かの子は大正八年三十歳のとき、処女小説『かやの生立』を発表している。次兄晶川の影響や、その友人だった谷崎潤一郎への畏怖もあって小説は十代のころからの「初恋」であり、小説で認められたいという強い意志をずっと持ちつづけていた。昭和十一年『鶴は病みき』で初恋は実り、そこからは迸るように十二年『母子叙情』『金魚撩乱』『川』『花は勁し』、 十三年『老妓抄』などで「えらくなる」願いも成就したのに、翌十四年二月に四十九歳で永眠してしまった。本格的な小説家としての活動は三、四年のことにすぎない。

『わが最終歌集』で歌神に白(まう)すとして《あなたはわたくしに十二の歳より今日まで歌をお与へなされた。(中略)わたくしのみに於てあなたの恩寵(おんちよう)に酬(むく)ゆる途は今日あなたとお訣れする事であらねばならぬ。あなたとお訣れして次の形式にわたくしを盛る事こそあなたへ対するわたくしの適確なスケジュールの履行と思へてならなくなつた》と自己劇化して訣別宣言したにもかかわらず、死ぬまで「薪(まき)尽きずして焔をあげ続け」た業としての短歌と、「次の形式にわたくしを盛る」と自己陶酔のうちに献杯された小説とを円地文子の評論『かの子変相』を読みながら考えたい。

 円地らしい同性への小意地の悪さ、芯の冷たい視線がなぶるようになすりつけられた批評は、しかしかの子文学の生理を女の眼力と嗅覚で暴く。《表現は誇大であり日本語のよいリズムを持つてゐて美しいと言へば充分美しいが、その美しさは清朝の陶器やロココ様式の建築に通じる必要以上の美の累積で、幻惑はされても、いつまでも醒めないゆめではない。贅肉で出来上つた肉体のやうな、異形な嫌悪感がつきまとふのである。》 「ロココ様式」と言っているが、円地がねぶるように味わった特性は「バロック様式」と言い換えてよいだろう。俳諧趣味の淡白な日本人にバロック的な熱量は嫌悪感を与えてしまうのかといえば、では歌舞伎、浄瑠璃はどうなのかと問いたい。たとえば『夏祭浪花鑑』の長町裏の段の惨劇、近松半二『妹背山婦女庭訓』で雛鳥の首が吉野川を下ってゆく場面などは日本人のバロック好みの血であろう。相撲力士のグロテスクもバロックに違いあるまい。豊満な吉祥天も好きだし鬼子母神だって好きである。宝塚も日光東照宮も友禅縮緬の振袖もそれである。

 かの子の三つの瘤のうちの一つ、仏教についても円地の眼光は鋭い。《むしろ仏教を自分流につくりかへる教祖的なミステシズムの方がかの子には濃かつたのではないか。その意味でかの子は真言密教に一番近い人だ。かの子はミステシズムの薄明の中に印を結んで異様な美の世界を拓いて見せる女行者であつた。》  なるほどかの子という存在はマンダラであり、女空海とでもいいたくなるミステシズム(神秘性)の宇宙とタントラの性夢を孕んでいた。

《かの子は多摩川の川畔に幾世代つゞいて来た豪家の最後の一人に生れて、語るべくして語らない憾みを多く置残して死んだ彩しい家霊の言葉を代弁する巫女であつた。》 かの子の自我を膨張させた語りにはたしかに巫女のシャーマン性のような夢をゆさぶる陶酔のさざ波があった。

 かの子にとって多くの歌は、《短歌は私によりプライヴェートなものである。もっと自然発生であり即時即所に於ける分秘的なものである。》(かの子『私の態度――女流歌人の進むべき道』)とともに、《この小詩形中に自分を盛ることが、まるで両の瞳を鼻の根に睨め寄せるような切なさがあり、生理的にも毒と知って》(かの子『歌と小説と宗教と』)も阿片のように止められない。あるいは小説という赤子を次々と身ごもるための子宮壁の滋養分の流れだし、すなわちかの子が歌を作りはじめたのと同じ十二歳の年に訪れた月経のような自然の巡りであったのかもしれない。また、おそらくは、現在という時間を切り取った歌の雨は、かの子の背負った《未来へと伸び古代へとつらなる歴史の感覚》(丸谷才一)によって、『万葉集』に歌われた多摩川のように鬱勃たるロマンの川となって母性の海へと注いでいったのに違いない。

 ところで、釈超空、生方たつゑ、四賀光子らによる『戦後歌壇を語る』という対談(昭和二十五年)があり、かの子の短歌に対する無念が伝わってくる。

《釈  戦後の歌はもう少し乱れてもいゝと思ふのですが、却つて固くなつてゐるのは不思議だ。(中略)もつとロマンティックで大胆で、従来の型を破つたデタラメでいゝと思ふ。私も何かと落着かず盲動してゐるのです。その意味で女流歌人に期待してゐます。(笑声)とにかく歌を救うということを考へずにちゞんでゐるのです。》

 アララギからはじまって歌壇全般が女の人も抑えてしまったと自論を述べてから、こう断言する。

《釈  岡本かの子などでも小説をみると、こんな立派なんかと思ふが、歌でやはり抑へられて不十分です。

生方 岡本さんほどの人が歌壇にゐたらやつぱり小説に入つて行つて歌は余技的になると思ひますね。

四賀 その岡本さん自身は歌の方でも認められたかつたのです。随分と認められたいと思つてさびしがられたものです。》

 最後に、かの子の死後一平が編纂した歌集『歌日記』(昭和十五年)におさめられた歌、形式美をもつ傑作短編『老妓抄』の末尾に置かれたあの歌を引いて本論の終わりとしたい。なぜならこの歌には小説にしか書けないものがあったのと同じほどに短歌でしか表現しえない「いのち」の音声がにおうからだ。《丹花(たんか)を口にて銜(ふく)みて巷を行けば、畢竟(ひつきよう)、惧(おそ)れはあらじ》(『花は勁し』)の気概(「丹花(たんか)」は「短歌(たんか)」でもある)を持った芸術餓鬼(がき)かの子の「いのち」への恋の桜花(はな)吹雪こそがバロックだった。

 年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

                       (了)