演劇批評 「近松『鑓の権三重帷子』の姦通」

 「近松『鑓の権三重帷子』の姦通」

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 水上勉近松物語の女たち』は、近松門左衛門の世話浄瑠璃のうち、心中物として「お初―『曾根崎心中』」、「おさん―『心中天の網島』」、「梅川-『冥途の飛脚』」、「お梅―『心中万年草』」を、姦通物として「おさゐ―『鑓の権三重帷子』」、「お種―『堀川波鼓』」、「おさん―『大経師昔暦』」を、事件物として「お吉―『女殺油地獄』を扱っている。

 薄幸の女性を主人公に名品を書き続けた小説家水上の経験と洞察から成り立つ本だが、単なる感想批評ではなく、先行の近松研究を踏まえたうえでの考察となっている。とりわけ、近松姦通物における姦通のありかた、近松姦通物は意志なき姦通である、さらに推し進めて実際の姦通はなかった、と断定しがちな学者や劇評家の読み方、感じ方に対する反論となっていて、水上は誰もが認める稀代の女人経験の持主であっただけに信をおきたくなる。

 近松姦通物には三つの日本がある。参勤交代で夫が勤める江戸の(ほとんど空白、空虚である)、中国山脈の裏側で日本海辺の山陰の、京の都のそれだ。

 山陰の隠微なイメージは、遙か遠く江戸への夫の参勤交代で孤閨中の淋しい妻の姦通を補強する。『堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)』(上演1707年)は因幡国鳥取藩、『鑓(やり)の権三重帷子(ごんんざかさねかたびら)』(上演1717年)は出雲国松江藩という、どちらも山陰の小藩が事の起こりだ。『堀川波鼓』のおさんは謡曲『松風』を聴くうちに松の木を夫と見たてて走り寄り、『鑓の権三重帷子』の権三は月毛の駿馬を海辺で走らせるといった日本海の浜辺の寄せては引く波のイメージから物語は語られる。『大経師昔暦(だいきょうしむかしごよみ)』(上演1715年)は京都烏丸ではじまるが、姦通が発覚した二人は逃げまどい、最後に山陰への街道筋の奥丹波栢原(かやはら)で捕まる。茂兵衛は在所の丹波栢原から丹後国宮津天橋立へと日本海へ抜ける逃避行を企てる。ことさら山陰という地が選ばれたのには、近松が越前福井の生れらしいということも関係するだろう。

 花の都の京都で妻敵討ちは死を成就する。『堀川波鼓』は京都堀川、『鑓の権三重帷子』は京都伏見京橋でケリがつき、『大経師昔暦』は京都の刑場粟田口へ二人が引っ立てられて幕を迎える。

 三大姦通物の「山陰―京都」という空間的構造は、水上小説のヒロインの多くが、作家の出身地丹後などの日本海に面した過疎地の出であるうえに、水上が若き修行僧として過ごした京都で女の生と性を営む、という構造に似ていて、なおさら地の霊のような説得感を持つ。

 

 意志なき姦通であったのか、実際に姦通はあったのか、不義密通に関する相反する意見を知ったうえで、近松が両義的で、曖昧な書き方をしたのはどうしたわけなのかを考察したい。白か黒かの不毛ともいえる判定よりも、白でもあり黒でもあることの意味を探りたいのだ。

 

 近松姦通物は、『堀川波鼓』、『大経師昔暦』、『鑓の権三重帷子』の順に書かれ、上演されているが、それら姦通物の集大成ともいえる『鑓の権三重帷子』を検討する。水上も「おさゐ―『鑓の権三重帷子』」で総括的に論じた。『鑓の権三重帷子』をよく知らない向きもあろうから、これも水上勉から紹介しておく。

《おさゐは、『鑓(やり)の権三(ごんざ)重帷子(かさねかたびら)』の主人公である。物語の概要を紹介してみる。出雲松江藩の表小姓笹野権三は、身なりも身ぶりも目につく藩内きっての美男子。同藩家臣川側(かわづら)伴之丞(ばんのじょう)の妹お雪と末を契っている。権三と伴之丞は茶道を浅香(あさか)市之進に習っていて、師匠が主君の江戸詰に随行して留守中、二人のうちの一人が殿中饗応の真(しん)の台子(だいす)を勤めることになる。権三は伴之丞に先がけて伝授方を市之進の妻おさゐに懇願する。おさゐはこの機会に娘の菊を貰ってくれと権三に頼み、権三も、お雪のことは捨てて、これを承諾してしまう。立身出世のためである。ところが、これと入れちがいに、おさゐのところへお雪の乳母が権三とお雪の事情をうちあけにきて、あろうことかおさゐに仲人を頼むのである。悲劇はまだここではおきない。その夜深更に、数寄屋へおさゐを訪ねてきた権三は、伝授の巻物をみせてもらうことになるが、昼間乳母からお雪との仲をきいて、心おだやかでなかったおさゐが嫉妬のありたけをみせるので、庭先へほうり出した帯を、これも色仕掛けでおさゐから伝授の巻物を奪いとろうと忍びこんでいた伴之丞に拾われ、不義の証拠よばわりされて、申し訳もたたず、中庭の枳殻(きこく)垣(がき)をくぐりぬけて、あてもなく逃げてゆく。やがて帰国した市之進は、一人息子を他家にあずけ、二人の娘はこれをおさゐの諸道具もろとも舅の岩木忠太兵衛方へ送りつけ、自身は妻敵討(めがたきう)ちの旅に出る暇乞いにこの岩木家を訪れ、たまたま、伴之丞の首を討って立帰った、おさゐの弟甚平を同道して出発する。二人は、伏見京橋の上でめぐりあった姦夫姦婦に斬りかかり、権三とおさゐは市之進の刃に討たれて死ぬ。》

 補足すれば、ラシーヌと違って、近松は登場人物の年齢、容姿について具体的である。「母は三十七の酉。父(とヽ)様は一廻り上の酉で四十九。これ十二違うても見事わが身達のやうな子を持った。権三様は一廻り下の酉で廿五。そなたは酉で十三。十二の違はちやうどよい似合比(ごろ)。」 容色についても、「おさゐはさすが茶人の妻。物好(ものずき)も能く気も伊達に三人の子の親でも。華奢細骨(きゃしゃほねぼそ)の生附(うまれつき)風(ふう)偲ばしくゆかしくの。三十七とは見えざりし。」のように、「華奢細骨」と具象的だ。

 

水上勉説>

 水上は劇の姦通について、通論、世評を引用しておいて疑問を呈し、反論する、という形式を重ねる。

《「姦通を人間的欲求に根ざす行為として書きえなかったことからくるねじれは、この作品にもまた、あらわれざるをえなかった。それは第一に、不義者になろうと決意するその瞬間を境目に、世界を二つに切断し、その境目を発端として、下之巻の方が、悲劇として統一的な世界をもつというような結果になっていた。むろん近松は、権三・おさゐの悲劇を忘却しないし、まがりなりにも、権三・おさゐの悲劇に統一し完結させる。」

とは広末保氏の見解である(『近松序説』)。果して、近松は、「人間的欲求に根ざす行為として書きえなかった」ろうか、というのが素朴な疑問だ。こうして見てきたごとく、物語は、未通の姦通といえば語弊が生じそうだが、心理的には、もう通じあい、肉体的にも通じようとする直前に、邪魔者が入った。しかも、邪魔者は、物的証拠を摑んで、「不義密通見とどけたり」と大声でよばわった。証拠品は、女の解いた帯だ。もはや、これはどう弁解しても、未通は立たぬ。そのため、二人は心ならずも(・・・・・)落ちのびるのだが、これはあくまでも二人のたてまえである。落ちのびれば、さらに姦通は可能となる。そこで、もう一つたてまえを加える。すなわち、こういう目にあったのだから、ちゃんと不義密通を完了し、つかのまでも、妻よ、夫よとよびかわす仲にならねば、妻敵討ちにくるであろう夫への義理がたたぬ、というのである。何とかにも三分の理であるか。

 厄介なことは、この男女関係の端緒は、おさゐの計画性ある用意で偶発している。おさゐは夫の留守に、娘に対し、お前が婿にせねば自分が情夫(いろ)にしたいぐらいのいい男だ、などと浮ついている。それほど、当人が権三に執心をみせていた。したがって、経過にねじくれはない。おさゐの心理は一と筋通って、あくまで奔放である。人間的欲求に根ざす行為であればこそ、ねじくれるのが現実というものである。物語の行間はおさゐの業心(ごうしん)が躍動していて、妖しくつたわるばかりである。素朴な疑問といったのは、ここのところで、むしろ私は、『堀川波鼓』で、はやばやと自害してしまうお種より、屈折し屈折し、おろかな事々のめぐりにひきずられ、情欲の流れに浮くおさゐに、ふかい情感を味わう。道行だけでいえば、『曾根崎心中』のあの名調子はない。簡略すぎるが、それなのに、おさゐの業(ごう)は匂めくのだ。

 もっとも、学者のなかには、おさゐ、権三は未通のまま討たれたとする人もいる。私はむろん、こんなことは信じていない。》

 

 次いで「意志なき姦通」説について水上は次のように反駁する。

《「武士の妻、三人の子の母でありながら、少しも水々しさを失わない極めて人間的な女おさい、それに当時第一の美男と俗謡にもうたわれた笹野権三。けれどもその姦通は決して意志的なものではなく(・・・・・・・・・・)、おさいのもつ(・・・・・・)激しい女の性情と、敵役によって掘られたおとし穴とが、不幸な姦通の事実を作りあげてしまうのである。そしておさいは、良人市之進の名誉と、彼に対する愛情の故に、権三とともに偶然の事故を、自分の運命として背負っていくのである。武家社会における非人間的なモラル、その中に身を滅ぼしていくおさい。そしてそのことからおこる良人や両親の不幸。憎むべき敵役が、門出の血祭にあげられても、それだけで事件は片付かない。それはもはや善玉・悪玉の、単純な争いではなくて、社会の奥底に根ざす生ある人間の不幸なのである」(傍点水上)

と河竹氏(筆者註:河竹繁俊)は解釈しておられる。九分どおり氏に賛成しながら、気にかかるのは、果して、おさゐ権三の姦通は意志的でなかっただろうか。「激しい性情」をもったおさゐが、「敵役によって掘られたおとし穴」で、「不幸な姦通の事実を作りあげてしまう」という解釈は、なるほど、劇の表面にあらわれているところの流れではあるが、不幸な姦通の事実がつくりあげられてしまう最大の原因は、「敵役によって掘られたおとし穴」よりおさゐの激しい性情にある。いったい、娘の前でさえ、「あんたが婿にしなければ、母がとってみせる」とまで浮ついてみせたほどの色男を、深夜、夫の留守によびこみ、数寄屋の部屋で、真の台子の巻物を見せて、ふたりきりの息づまる時間をもち、胸のうずき如何ともしがたくなった。おさゐは、はや、貞淑な、武家妻でもなく、子らの母でもなかったのである。その証拠に、権三の契ったお雪をもちだし、嫉妬ぶかく帯をほどかせた。その上、自分も帯をといて投げた。狂態は激しい性情の度をすぎて女の野性がみえる。》

《「ほんに市之進殿といふ男を持たねば、人出に渡す権三様ぢやないわいの」

「エヽ思案する程妬しい、大抵の男を可愛い娘に添はせうか、わが身が連添ふ心にて吟味に吟味、思込うだ稀男なればこそ、大事の娘に添はするもの悋気せずにおかうか」

「エヽ腹が立つ妬しい、悋気者とも法界ともいひたかいへ、伝授も瓢箪もなんのせう、台子も茶壺も糸瓜(へちま)の皮」

「アヽ/\帯に名残惜しいか、不承ながら此の帯なされ、一念の蛇と成つて、腰に巻付き離れぬ」

「是非もない、もはや此の二人は生きても死んでも廃つた身、……後指をさゝれては、御奉公は愚、人に面は合されまい、とても死ぬべき命なり、只今二人が間男と、いふ不義者に成極(なりきわ)めて……」

「跡に我々名を清めては、市之進は妻敵を討ち誤り、二度の恥といふもの、不承ながら今爰(ここ)で女房ぢや夫ぢやと、一言いうて下され」

 心理の屈折をとおして一と筋通ってみえるものは、権三と契りたいとする意志ではないか。契りたいといってしまえば露骨すぎようけれども、かりにおさゐの芯をさがすとすれば、それしかない。ただ終末で、京橋上へひきだされ、夫の手にかかる直前に、

「なうなつかしや」

と声ひきしぼる。これがおさゐの真実だろう。われわれは、女心の無明を、憎むべきものとするも、美しいとするも自由である。近松は、そんな野暮なことを私たちに求めていない。》

 

武智鉄二説>

 水上が、《権三とおさゐは潔白だったとは、武智鉄二氏の意見だが、潔白、不潔白、未通、姦通の如何は劇の中心に据えられていない。そんなことは、分類学者にまかせればよい。》と揶揄した武智鉄二の『鑓の権三重帷子』論にも公平を期すため当っておく。

『曾根崎心中』などの近松劇を、改変前の原典に立ち返って、古典的教養と読みで復活上演させた武智の劇評は、水上の指摘通りではなく、手袋を裏返すように反転している。これは姦通物ではない、としたうえで、二人は未通だった、という二重の捻れだ。

近松巣林子(筆者註:巣林子は近松門左衛門の号)の名作『鑓の権三重帷子』は『大経師昔暦』『堀川波の鼓』とともに、いわゆる姦通物の代表作に数えられているが、同時にこの三作品は姦通物なるがゆえに名作の取扱いを受けているような節も見受けられる。なるほど姦通は封建制度化の人間の一つの抵抗として現われるであろうが、それを扱ったがゆえに名作とは言い得ない。芸術はこのような素材のゆえにのみ価値があるのではなくて、真実への観照の深さのゆえに価値があるのである。(中略)

 ところで、『鑓の権三』について言いたいのは、これが決して世間で考えられているように姦通物ではないということであり、同時にまたそれがこの作品の価値を毫も傷つけるものではないということである。これはむしろ前述の“義理そのものを主題として扱っている”底の作品なのである。数年前大阪歌舞伎座で、近松研究の某老大家がこの作品を脚色して上演したことがあったが、そこでは明白な姦通物として取り扱われていた。古典がこのように成立時代の社会的基盤を無視して改変されることは、無意味でもあり危険ですらある。》

《本題に入って、二人の主人公、権三とさゐとは関係していない。さゐが娘の婿と定めた権三の不行跡を聞いて腹を立て、帯をほどいて投げ出すようなことになったところを敵役の伴之丞に見つけられ、何とも言い訳の立てようがないところにまで追いこまれたとき、さゐは権三に自分の間男になってくれと頼むのである。そうでないと自分の夫は人に後ろ指を差され、奉公できぬ身となり、といってまた自分が潔白を証明すれば夫は軽率の汚名を被ることになる。夫を失業させぬため、また三人の子のため、つまりは封建的生活のよりどころとなっている「家」のため、不義者として夫一之進に女敵を討たせてくれ、とたのむのである。「思はぬ難に名を流し命を果すお前もいとしいはいとしいが、三人の子をなした二十年のなじみには、わしやかえぬぞ」と主張するのである。そうして「エヽいまいましい」と呪い嘆きつつ不義者の汚名に甘んじる二人なのである。》

 武智は、姦通物ではないから、好色劇化は好ましくない、義理そのものである「家」のために、が主題であるとしたうえで、道行後の姦通の有無についても考察を続ける。

《しかし不義者にもせよ、いったん夫婦となったからは、やはり関係が生じたと考える方が自然ではないか、という疑問が当然発せられるであろう。さゐは前から権三を好いていた、そのような言動はしばしば現われている。娘に「そなただいやなら母が男に持つぞや、ほんに一之進殿という男を持たずば、人手に渡す権三様じやないわいの」と言ったり、権三とお雪との関係を疑っては「思えば悋気も因果か病か」というほどに病的に嫉妬したりするのは普通ではない、というのである。しかしこれは作者も断っているように「時の座興の深戯れ」であって、決してさゐは意識の上で権三を愛しているのではない。というのはもちろん潜在意識では愛しているという意味である。しかしその恋情はあくまで心理の深層部へ抑圧されてしまっているもので、現実に破綻が生じ、二人が不義者の状況に押しこめられたときには、むしろ反動的に夫への義理でわざと不義者になるのだという意識が強く働いて、深層心理における愛情はそのためかえって深く抑圧されるのである。権三ももちろん西鶴の義理物語的な心境から同意するので、二人の間に関係が生じる余地はまったくない。これが武士の意地である。身が潔白であったればこそ、さゐは敵討に来た夫一之進に「のうなつかしや」と言って、かけ寄ることができるのである。過去の研究ではこの重大な発言の心理的要因がまったく看過されていたようである。》

 武智は「潜在意識」と「抑圧」を持ちだしたが、『摂州合邦辻』で義理の息子俊徳丸に横恋慕する玉手御前に対して、フロイト的観点から、表向きは建前の恋とされているが、無意識的な恋心を俊徳丸に抱いていた、と解説したのに通じる。だが、「のうなつかしや」とだけ簡潔に発したおさゐの心理は、身が潔白だったからと看るか、女の無明の闇と看るか、武智と水上の見たては天地ほどに違う。

 ここで武智は、これまた論争の多い『女殺油地獄』の「不義」について言及する。

近松を偉大に見せかけようという贔負心からか、不義に対する近代人の見栄からか、一般に近松研究家はこの姦通の問題に敏感でありすぎる。『女殺油地獄』で与兵衛にお吉が前にも不義とうたがわれたから金を貸すことはできぬというので、のっぴきならず金の要る与兵衛が「では不義になったつもりででも貸して下さい」と押していう意味で「不義になって貸し下され」と言えば、それを大変なことのように騒ぐ。それから後で与兵衛の長い述懐があったりするのだから、全体的な作劇上の構成を見透せばすぐわかることなのに、いつもの鈍感に似合わず敏感症を発揮する。この権三の場合も同様である。さゐの留守居のひとり寝のもだえから、深戯れの形で潜在意識が表面へ出るまでの境遇設定のうまさ、親の言葉でやむなく真の台子の伝授をするが、さゐは権三にむしゃくしゃしているという構成の巧みさこそ褒められるべきなのである。》

 いかにも武智らしく、単刀直入、物怖じしない辛辣さである。

《道行に「かわす枕が思わくも、影恥かしや野辺の草」とあるので、「かわす枕」だから関係があると速断する人もあろうが、これは「恥かしや」を読み落としたもので、恥かしいからかわす枕もかわさぬのである。道行の付味風の修辞にまどわされてはならぬ。現にその直後、権三は「そなたは人の女郎花、おれが口から女房とは、身のはじ(・・)かえでいたずらに、染めぬ浮名(・・・・・)」とはっきり二人の関係のないことを言っている。

 抑圧された女の恋情の悲劇、抑圧するもの(・・)への怒り、それをこそ大近松はさゐを通じて描いたのであった。》

 さすがに近松の古典的な復活に尽力し、八代目坂東三津五郎との対談形式による芸道の古典的名作『芸十夜』を遺した武智の説も説得力がある。

 いったい幾度もの泥沼の女経験によって女の性を知り尽くした苦労人の水上と、深い博識と心理分析による世間常識にとらわれない古典的読みの武智と、どちらの説が正しいのか判断に悩むところだが、この相反する見解は明治期からすでにあったことなのだ。

 

坪内逍遥島村抱月近松の研究』>

 近松世話浄瑠璃の多くは、書かれてすぐに上演されたものの(逆に、上演されるために書かれたというべきか)、人気がなかったからかその時だけの上演で、ずっと途絶えていたのが、明治二十年代になって、シェイクスピアをはじめとする西洋演劇に目を開かされた坪内逍遥らの「近松研究会」による近代性の発見から再演の運びとなっている。たとえばこの『鑓の権三重帷子』や『女殺油地獄』がそうだし、あの『曾根崎心中』ですらご多聞にもれない。坪内逍遥らによる『近松の研究』の栄えある第一回となった「『鑓の権三重帷子』研究」(明治二十九年十月)の「性格」という項を読めば、水上と武智の相反する見解に相当する意見が当時からあったとわかる。ここでは引用しないが、概ね、坪内逍遥水上勉とほぼ同意見、島村抱月武智鉄二寄りである。

 続く「意匠」という項を読むと、抱月が図らずも核心的なことに言及し、逍遥が同意している。図らずも、というのは、近代意識による否定的な意味で二人は捉えているからだ。

 抱月曰、

《此の篇を読みて何人も先ず感ずるは、おさゐの性行の黒白明ならず、延いて脚色に不自然の廉見ゆる事なり、現に道行の章二三行中にすら、「姉とも云はゞ岩枕、かはす枕が思はくも影耻かしや云々」といふかとすれば「身のはぢもみぢ徒に染めぬ浮名の云々」といひて、既に枕かはせるが如く又さにもあらぬが如き(但し上掲の語は二者共にいづれとも解せらる)書きぶり、貶して解すれば作者みづからの胸底に、汚れたるおさゐと無垢なるおさゐと二人ありて、知らず/\交見せしには非ずやとも思はる、勿論、実際世間には、事の外見の善悪如何やうにも解せらるゝ例多かれば、単に此故のみをもて作者を難ずるは浅見なるべけれど、今の場合は之と異なり、人物事件の成るがまゝにおのづと無標榜なるにあらずして、作者の作意至らず、其が地の文にまで曖昧の色あらはれたるものと奈何にせん、(中略)おさゐの性行或は心の上にて、或は行の上にて、或時は不義者の如く、或時は貞女の如く、終りまで此の二面並存して、調和せりとも見えざればなり、自然に出づる所行は、たとひ一見矛盾の観あるも人をして其の仔細に察すれば、通篇の矛盾といふもの、概ねおさゐが言(及び地の文意)と行(及び事の迹)との矛盾といふを得べし》

《斯く無垢のおさゐの勝てる場合と、不義のおさゐの勝てる場合との両端の外、更に二面等分に触接せる場合は、則ち水と油とを強ひて一器に盛りたらんが如く、相和せずして不自然の破綻を遺す、数寄屋にての帯の事、又は二人駆け落ちと決心する際の事の如き、其の著き例なり、或は之れを解して、嫉妬、顛倒の為に常識を欠けるに因るとせんか、無常識の人物には不相応なる分別くさき口実の其の事に伴へる、愈々不自然ならずや、或は本心不義を行ひながら、表面に潔白を装へるものとせんか、さまで巧むものゝ所為としては、如何に元禄時代の女なればとて、浅薄、むしろ馬鹿げたる計策の多き、此れも不自然ならずや、或はまた、口実も本心、所行も本心にして、何とはなしに無意識の底より出づる所行を、意識上飽くまでも真面目に、是認し弁解せるものとせんか、此には幾多の心理的問題簇り起こるべしと雖も、不意の欲望が彼れの如き大変事の際にすら尚殊勝らしき分疎を作為して其の目的を達せんとすとは、第一うなづき難きことならずや、

以上の理由によりて、われは本篇の脚色を不自然なりと断然とす、》

 対して、逍遥曰、

《抱月氏が非難いとつまびらかなりといふべし、此作に不自然の嫌ひあるは否みがたし、》と同意し、

《巣林子が作はいつも性(〇)(筆者註:性格、性行の意で、セックスではない)を主とせずして情(〇)を主とす、故に之れを性より見れば、矛盾撞着の廉(かど)多く之を筋より見れば、不自然(アンチナチュラル)、非論理(イルロジカル)の点多し、抱月(◎◎)氏の説の如し、》と続けて、いかにも明晰な逍遥らしい。

 ここで重要なのは、どちらが正しいかではなく、そのような矛盾する見解がもたれること、二面性にこそ、近松姦通物の真骨頂があることだ。近松は何も、虚と実の皮膜にばかり創意工夫したのではなく、虚と虚、実と実の皮膜の、二元論ではないところに真理を見いだしていた。それを抱月と逍遥は、明治近代が摂取した西洋リアリズム精神で分析したわけだが、「不自然(アンチナチュラル)」、「非論理(イルロジカル)」と図らずも核心を指摘した真の意味を、我々は現代世界の哲学的視点で捉えなおすことができる。おさゐはわれらの同時代人なのだ。

 

シェイクスピアラカン近松

 坪内逍遥近松門左衛門シェイクスピアとを比較して以来なのか、「近松は日本のシェイクスピア」と言われるが、ずらした意味合いで二人の作品を見て行きたい。

 

 スラヴォイ・ジジェクは『斜めから見る』で、《『リチャード二世』は、シェイクスピアが間違いなくラカンを読んでいたことを証明している。というのも、この劇の根底にあるのは王のヒステリー化という問題である。》として、ラカン理論を語った。

 ジジェクの言葉をパスティーシュすれば、《『鑓の権三(ごんざ)重帷子(かさねかたびら)』は、近松が間違いなくラカンを読んでいたことを証明している。というのも、この劇の根底にあるのはおさゐのヒステリー化という問題である。》と言えはしまいか。

 

 現在の歌舞伎台本や文楽人形浄瑠璃)床本は少なからず改変されているから、近松の原典に立ち帰って、水上の要約のはじめ、《権三と伴之丞は茶道を浅香(あさか)市之進に習っていて、師匠が主君の江戸詰に随行して留守中、二人のうちの一人が殿中饗応の真(しん)の台子(だいす)を勤めることになる。権三は伴之丞に先がけて伝授方を市之進の妻おさゐに懇願する。おさゐはこの機会に娘の菊を貰ってくれと権三に頼み、権三も、お雪のことは捨てて、これを承諾してしまう。立身出世のためである。ところが、これと入れちがいに、おさゐのところへお雪の乳母が権三とお雪の事情をうちあけにきて、あろうことかおさゐに仲人を頼むのである。》の、《おさゐはこの機会に娘の菊を貰ってくれと権三に頼み、権三も、お雪のことは捨てて、これを承諾してしまう。》というところから読む。

 

<反復>

 権三はおさゐの実父岩木忠太兵衛を訪ねて来たものの、あいにく留守であり、上方の名酒一樽(そん)と幼い子たちへのお慰みお見廻の物を置いて帰ろうとするが、おさゐが会うというので、権三は伝授口伝の許しを願う。

 ここからは「交換」「贈与」に関する、家と婚姻制度と伝授に関する文化人類学ないし社会学的儀式を縦糸に、横糸としておさゐの内面と権三の現世出世欲とが計算高く、交錯して織りこまれ、さすがの近松である。

「さても/\御執心御奇特(きどく)なお心入れ。此の伝授は一子相伝にて我が子の外へは伝えられず。遁(のが)れぬ弟子は親子の契約有っての上。絵図巻物も渡す事。それに付き対手(ついで)がましい近比(ちかごろ)麁相(そそう)な。藪から棒と申さうか寝耳に水と申さうか。思召も如何なれど。折がな/\と兼々(かねがね)心に籠(こ)めし故申出して見まする。姉娘のお菊を。此方(こな)様へ進ぜたいと常々私が望(のぞみ)。今も今とてお噂申せし折柄。かう申せばどうやら台子(だいす)の伝授と換々(かへ/\゛)にするやうで。娘の威も落ち大事の伝授の詮(せん)もなし。それはそれ。是は是の談合で。菊をそなたへ進ずれば聟は子の相伝。 市之進聞かれて満足第一私が恋聟(むこ)。押出してよい女房といふには限(かぎり)のないこと。先ず大抵目鼻揃うた秘蔵娘。添はする殿御は此方様除けて外にない。 なんと合点して下さんすかと。いへども恥しげにさし俯いて返事せず。サアどうでござんすぞ。ハテなんの是が恥しい。さては娘がお気に入らぬの。ムヽ頭振らしゃんすはいやでもない。エヽ知れた。とうから外に約束が有るさうな。さうぢゃ/\主(ぬし)有る花は是非がない。あったら男に恋がさめたと立退けば。アヽ是は迷惑。誰とも我ら約束なし。木石(ぼくせき)ならぬ若い者。当座の色は各別極めしことはゆめ/\なし。師匠の聟と申せば聞えもよし。娘御お菊殿。私妻(さい)に急度(きつと)申受けませう。ハアウ忝(かたじけな)いお嬉しい。サア望叶うた。お侍の詞底を押すは如何ながら。媒(なかうど)なしの縁組證拠(しょうこ)のため。ちょっと御誓言聞きましたい。御念入れは尤も。二度(たび)具足を肩にかけず。市之進殿の差料(さしりよう)に刻まれ。骸(かばね)を往還に曝す法もあれと。いはせも果てずアヽもうよござんす勿体ない。 今日は吉日今宵台子の伝授の書。印可(いんか)の巻物渡しましょそれお供の衆(しゅ)戻せよ。先ず娘には会わせませぬ。私に似たらば定めて悋気深(ぶか)う。脇へ心散さず一筋に頼みます。悪性があったらば此の姑が悋気の腰押し。お持たせの名酒お前と私が此の樽に。かう手をかければ契約の盃した心。橋がなければ渡りがない。台子が縁の橋渡し此の樽も橋渡し。橋にて祝ふ鵲(かささぎ)の身も紅に染むるとも。世にうたはるゝ端ならん。」

 近松の巧みさは、「娘御お菊殿。私妻(さい)に急度(きつと)申受けませう」が後の「権三が女房」に、「市之進殿の差料(さしりよう)に刻まれ。骸(かばね)を往還に曝す法もあれと。」が後の市之進による妻敵討ちの権三の死骸に、「私に似たらば定めて悋気深(ぶか)う。脇へ心散さず一筋に頼みます。悪性があったらば此の姑が悋気の腰押し。」が後に権三とお雪との契りを知っての悋気に、「お持たせの名酒お前と私が此の樽に。かう手をかければ契約の盃した心。橋がなければ渡りがない。台子が縁の橋渡し此の樽も橋渡し。」が未通の姦夫姦婦となって茨垣から樽をくぐることで外界へと逃走するさまに、「橋にて祝ふ鵲(かささぎ)の身も紅に染むるとも。世にうたはるゝ端ならん。」が伏見京橋の上で血に染まって死に、唄いはやされるというように、それぞれ対応していることだ。

 これらはさりげない「一度目」であったが、「二度目」として繰りかえし現れたとき、にわかに「謎」としての意味を生成し、「欲望」を賦活する。

 ついで伴之丞妹お雪の乳母が玄関に現われ、おさゐに密かに話したいことがあると品ない調子で申し立てる。権三は顔色を変え、見つけられては迷惑、抜けて帰りたいとうろ/\眼(まなこ)になるや、おさゐは、

「ハテ伴之丞の侍畜生(ちくしょう)その妹の乳母(うば)。何の気遣(きづかひ)侍畜生の因縁(いんえん)聞いて下さんせ。主有る私に執心かけ度々の状文(ぶみ)。夫有る身を踏(ふみ)附にする不義者。御用人衆(しゅ)まで訴へ。恥かゝせてと思ひしが侍一人廃(すた)るといひ。 市之進殿帰られては生死(いきしに)の有ることと。中使(なかづかひ)の下女に暇やったれば。兄の不義の使に妹の乳母が来たさうな。直に会ふも口惜しい。留守をつかうて奥から様子を立聞きせう。」

 おさゐが半道敵(はんどうがたき)である伴之丞の不義な企みを唐突に権三へ吹き込んだことは、「不義」という行為への二人の心理的な枷を低くも高くも動かしたに違いないか、あるいは少なくとも「不義」という言葉を意識下に呼び起したことだろう。

 

 そうしておさゐは、権三とお雪がすでに一夜の枕を交わしていて、お雪の乳母が仲人を頼みに来たと『源氏物語』風に立聞きする。帰って来た実父岩木忠太兵衛からは、諸芸の心掛け頼もしい権三ゆえ隠密に秘伝残さず伝授されたいと後押しされる。「夜もしん/\と更けにけり。」で、縁先のおさゐの心は揺れ動くのだが、その内面描写、意識の流れは、近松の近代性の由縁と言える。

「エヽ思案する程妬(ねたま)しい。大抵の男を可愛い娘に添はせうか。我が身が連添ふ心にて吟味に吟味。思込(こ)うだ稀(まれ)男なればこそ。大事の娘に添はするものの悋気せずにおかうか。昼の婆(ばゝ)めが吐(ぬ)かし面(づら)お雪様と権三様と内證(ないしよう)しゃんと締めて有る。エヽ腹が立つ妬しい。悋気者とも法界ともいひたかいへ。伝授も瓢箪(へうたん)もなんのせう。台子も茶釜も糸瓜(へちま)の皮。エヽ恨(うらめ)しい腹立やと。身を縁桁に打付けてこぼす。涙の袖雫しぼる。 茶巾の如くなり。オウアヽ思へば悋気も因果か病か。是程悋気深うては。我が男を手放して海山隔ててよう置くぞ。能く/\お主(しゅう)は怖いもの皆心の気遣(きづい)から。姑が聟の悋気とは悪名(あくみょう)の種。さらりと思ひ忘れうと。払へども猶胸焦(くが)す。涙は癖と成りにけり。」

 ここで「我が男を手放して海山隔ててよう置くぞ。能く/\お主(しゅう)は怖いもの皆心の気遣(きづい)から。」とは遠い江戸の地へ夫をやっているのを我慢しているのは殿様の言い付けだと思うからこそで、武智が言及した「封建的生活のよりどころとなっている「家」のため」という社会的な問題に繋がる。おさゐは、「姑が聟の悋気とは悪名(あくみょう)の種。さらりと思ひ忘れうと。」自覚はしても、「払へども猶胸焦(くが)す。」性なのである。

 そこへ、

「契約なれば笹野権三。供をも具せず静に門を叩く音。内にも答へず走出で誰ぢゃ。笹野とばかりに明くる戸を。入るより早くはたと締めすぐに数寄屋へ/\と。手燭片手に伝授の箱。二人忍びし有様は人の疑ひあるべしと。我が身に見えぬ障子一重。明けて数寄屋に入りにけり。」

おさゐは「人の疑ひあるべしと。我が身に見えぬ」状態になって、「障子一重。明けて数寄屋に入りにけり。」とは、何か象徴的なルール、見えない力に突き動かされている。

 

 ちょうど伴之丞が、色仕掛けでおさゐをたらしこんで、かねてからの思いを果したうえに、伝授の巻物をしてやろうと、明樽(あきだる)を茨に突っ込んで抜穴道を作り、侍持の波介と庭へ忍びこんでくる。数寄屋の障子に映る影を見て、伴之丞は不義、姦通と決めつける。逃走と死の外界空間と、数寄屋という閉ざされた奥の間を繋ぐ庭に帯が投げつけられることで事態は急変し、中間地帯である庭は悲劇的な事件の場となる。

「庭に出づれば数寄屋の内に燈火(ともしび)の。影は障子に男と女忍びあふ夜のさゝめごと。頷(うなづき)合うて顔と顔寄せてしっぽり濡(ぬれ)の露(つゆ)。寝て仕廻(しま)うたかまだ寝ぬか。しみ/\゛うまい花盛。伴之丞も気は上づり。」

 

<ヒステリー化/他者の欲望>

 数寄屋でおさゐの二度目の悋気が暴発する場面。

「権三が声にて。ハア誰ぞ庭へ来たさうな。ハテ昼さへ人の来ぬ所夜更けて誰が来るものぞ。イヽヤ。今まで鳴いた蛙がひっしゃりと鳴止んだ。アヽ蛙も少し休まいでは。きょろ/\せずと先ず巻物ども読ましゃんせ。あれ又ひっしり鳴止んだ。どうでも誰ぞ有るは定。ちょっと吟味と刀追取り出でんとす これ遣らぬ。三方は高塀北は茨垣。犬猫も潜らぬに人の来る筈がない。独(ひとり)しての気遣さてはお前と私。かうしてゐるを妬む女子が。喚(わめ)きに来る其の覚えがござんすの。是は迷惑さやうの覚え微塵もない。いや有るいやある。媒(なこど)が口を添へればつい埒の明くやうに。内證しゃんと締めて有る。エヽ/\/\女の身のはかなさは。うはべばかりに目がくれて。胸の中を知らなんだとわっとばかりの。腹立涙。これ宵からくら/\燃返るを、姑が婿の悋気と。浮名がいやさに笑顔つくって。堪袋ふっつりと緒が切れた。是見よがしの其の帯は定紋の三つ引と裏菊と。小じたゝるい引並(ひんならべ)誰が縫うた。誰がやった。噛みちぎってのけうと飛びかゝり むしゃぶり付く。ハテ此の帯には様子が有る。オヽ様子がなうては。様子といふが妬しい互に泣くやら叩くやら。帯ぐる/\と引解きたゝみかけて殴り。打ち エヽいやらし手が汚れたと。手繰って庭にひらりと投げ。拾へといはぬばかりなり。思ひの闇ぞ詮方なき。二人の影はばら/\髪如何にしても此の様。帯解いてもゐられずと庭に出でんとする所を。アヽ/\帯に名残惜しいか。不承ながら此の帯なされ。一念の蛇と成って腰に巻付き離れぬと引解いて投出す。権三あまりにむっとして二重(ふたへ)廻(まはり)の女帯。いたしたことござらぬと。同じく庭に投出す。 すかさず拾ひ伴之丞声を立て。市之進女房笹野権三不義の密通数寄屋の床人。二人が帯を證拠。岩本忠太兵衛に知らするといひ捨て抜けて出づる声。南無三宝伴之丞弓矢八幡逃さじと。刀引抜き障子蹴破り飛んで出で。灯籠の火の影薄く。捜し廻れば波介がうろたへ廻るを しっかと捕へ。伴之丞は何とした。私を捨てて出られた。エせめておのれを冥途の供と。肝のたばねをぐい/\/\。刳ればぎゃっとばかりにて 二刀にぞ止りける。」

 おさゐは、権三に娘お菊を嫁がす姑という立場に、知らず疑問を抱いている。水上発言の、《心理の屈折をとおして一と筋通ってみえるものは、権三と契りたいとする意志ではないか。契りたいといってしまえば露骨すぎようけれども、かりにおさゐの芯をさがすとすれば、それしかない。》は、次のようなことを言う。

 ジジェク(以下、ジジェクラカンはこう読め!』から引用) 《ヒステリーは、主体が自分の象徴的アイデンティティに疑問を抱いたとき、あるいはそれに居心地の悪さを感じたときに起きる。「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」 『リチャード二世』はヒステリー化をめぐるシェイクスピアの至高の作品である(対照的に『ハムレット』は強迫神経症をめぐる至高の作品だ)。王が、自分が王であることに対してしだいに疑問を膨らませていく、というのがこの劇のテーマだ。私を王たらしめているのは何か。「王」という象徴的称号が取り去られたとき、私の何が残るのか。

  私には名がない。称号もない。

  洗礼のときに与えられた名前もない。

  それも奪われてしまった。なんと悲しいことか。[第四幕第一場]》

 権三は大人で小父様のようだから、いや/\と頭(かぶり)振る娘お菊に、おさゐは、「そなたがいやなら母が男に持つぞや。ほんに市之進殿といふ男を持たねば。人手に渡す権三様ぢゃないわいのと。」と言うのは、「子を寵愛のあひだてなく、時の座興の深戯(ふかざれ)も過去の 悪世の縁ならめ」だとはいえ、「お雪―権三―お菊」、「市之進―おさゐ―伴之丞」、「お菊―権三―おさゐ」、「伴之丞―おさゐ―権三」の欲望の三角形は、まるで廻れば独りでに願いがかなうマニ車のように、相手を変えつつ、結末に向って廻りつづける。

 

 おさゐは、松江藩茶道役浅香市之進という「武士の妻」で、主君の江戸詰に同行して孤閨を守っている。水上の言う、《人間的欲求に根ざす行為であればこそ、ねじくれるのが現実というものである。物語の行間はおさゐの業心(ごうしん)が躍動していて、妖しくつたわるばかりである。素朴な疑問といったのは、ここのところで、むしろ私は、『堀川波鼓』で、はやばやと自害してしまうお種より、屈折し屈折し、おろかな事々のめぐりにひきずられ、情欲の流れに浮くおさゐに、ふかい情感を味わう。道行だけでいえば、『曾根崎心中』のあの名調子はない。簡略すぎるが、それなのに、おさゐの業(ごう)は匂めくのだ。》とは、次のようなことだ。

 ジジェク 《ヒステリー患者にとって一番の問題は、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを、いかに区別するかである。このことはわれわれをラカンのもうひとつの公式、「人間の欲望は他者の欲望である」へと導く。ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。アウグスティヌスがよく承知していたように、羨望と怨恨とが人間の欲望の本質的構成要素である。ラカンがしばしば引用した『告白』の一節を思い出してみよう。アウグスティヌスはそこで、母親の乳房を吸っている弟に嫉妬している幼児を描いている。

  私自身、幼時が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。

  青い顔をして、きつい目つきで乳兄弟を睨みつけていました。[『告白』第一巻第七章]》

「エヽ思案する程妬(ねたま)しい。大抵の男を可愛い娘に添はせうか。我が身が連添ふ心にて吟味に吟味。思込(こ)うだ稀(まれ)男なればこそ。大事の娘に添はするものの悋気せずにおかうか。」と「悋気し姑が聟の悋気とは悪名(あくみょう)の種。さらりと思ひ忘れうと。払へども猶胸焦(くが)す。」と昼間は意識的には抑圧したものの、夜も更ければ、「独(ひとり)しての気遣さてはお前と私。かうしてゐるを妬む女子が。喚(わめ)きに来る其の覚えがござんすの。是は迷惑さやうの覚え微塵もない。いや有るいやある。媒(なこど)が口を添へればつい埒の明くやうに。内證しゃんと締めて有る。エヽ/\/\女の身のはかなさは。うはべばかりに目がくれて。胸の中を知らなんだとわっとばかりの。腹立涙。これ宵からくら/\燃返るを、姑が婿の悋気と。浮名がいやさに笑顔つくって。堪袋ふっつりと緒が切れた。是見よがしの其の帯は定紋の三つ引と裏菊と。小じたゝるい引並(ひんならべ)誰が縫うた。誰がやった。」という「二度目」が襲って来る。締めた「定紋の三つ引と裏菊と」の男帯が、謎と意味づけを発火させ、羨望と怨恨とが、おさゐを燃えあがらせる。

 

 権三は、

「すぐに逆手に取直し左手の小脇に突込む所を。おさゐ縋って こりゃどうぞ。不義者は伴之丞。身に曇ないお前が何の誤り死なうとは。アヽ愚な。二人が帯を證拠に取られ。寝乱髪の此のざま。誰に何と言訳せん。もう侍が廃ったこなたも人畜(にんちく)の身と成った。エヽ/\ 無念やと泣きければ。さてはお前も私も人間外れの畜生に成ったか。いかなる仏罰三宝の冥加には盡(つき)果てた。浅ましい身に成果てたか。はあっとばかりにどうと臥し消入る。やうに歎きしが。エヽ是非もない。もはや此の二人は生きても死んでも廃った身。東(あづま)にござる市之進殿女房を盗まれたと。後指をさゝれては。御奉公は愚(おろか)。人に面(おもて)は 合されまい。とても死ぬべき命なり只今二人が間男と。いふ不義者に成極めて。市之進殿に討たれて男の一分(ぶん)。立てて進ぜて下されたら。なう忝(かたじけな)からうと 又臥(ふし)沈むばかりなり。いやこれ不義者にならず此の儘で討たれても。市之進殿の一分立ち。死後に我々曇ない名をすゝげば。二人も共に一分立つ。いかにしても間男に成極まるは口惜(を)しい。オヽいとしや口惜しいは尤もなれど。跡に我々名を清めては。市之進は妻敵を討ち誤り。二度の恥といふもの。不承ながら今爰(ここ)で女房ぢゃ夫ぢゃと。一言いうて下されば思はぬ難に名を流し。命を果すお前もいとしいはいとしいが。三人の子をなした。廿年の馴染には。わしゃ替へぬぞと わっとばかり歎き。くづほれ見えければ。権三も無念の男泣。五臓六腑を吐出し鉄(くろがね)の熱湯が。咽を通る苦しみより主の有る女房を。我が女房といふ苦患(くげん)百倍千倍無念ながら。かうなり下った武運の盡是非がない。権三が女房。お前は夫。エヽ/\/\忌々しいと縋合ひ 泣くより。外のことぞなき。」

 ここで、「只今二人が間男と。いふ不義者に成極めて。」とは、『女殺油地獄』の与兵衛がお吉に押して言う「では不義になったつもりででも貸して下さい」と似た心情だ。近代人武智は、こと姦通劇に関しては何故か潔癖で、反って水上は本能的に核心をついている。武智は「不義」「姦通」に対する敏感症を戒めたが、しかし武智の近代的理解によるフロイト深層心理のそのさきに、水上が覗き見た深い井戸のごときラカン思想がある。他者の欲望が、観客の欲望が、「我が男を手放して海山隔ててよう置くぞ。能く/\お主(しゅう)は怖いもの皆心の気遣(きづい)から。」と義理を抑圧してきたおさゐに、「不義者に成極めて。」と言わせる。

 おさゐは今や「他者の欲望」を欲望している。

 ジジェク 《「人間の欲望は<他者>の欲望である」という公式にはもうひとつの意味がある。主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉えるかぎりにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように。他者は謎に満ちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。》

 

 おさゐは、「武士の妻」という名に恥じぬよう、進んで「不義者」になるという幻想に身を投げる。夫に「妻敵討ち」という大義名分を与えようとする。それは、父岩木忠太兵衛から、諸芸の心掛け頼もしい権三ゆえ隠密に秘伝残さず伝授されたいとの言に顕著な、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いへの、おさゐの答えに違いない。

 ジジェク 《幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているのは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話を通して、息子の父親にメッセージを送る。子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのか、は理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんなに単純な幻想でも、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。》

 権三とおさゐが外界へ逃走した後の「下之巻」になるや、おさゐの幻想に応えるかのように、おさゐの「父親、母親、兄弟、姉妹」、さらには長男虎次郎まで、一族郎党、家が、義理が、封建制度が、「妻敵討ち」へと突き進む。

 

<斜めから見る>

「不承ながら今爰(ここ)で女房ぢゃ夫ぢゃと。一言いうて下されば思はぬ難に名を流し。」と権三に頼みこむおさゐはいったい何を欲していたのか。決して到達できないシジフォスの神話のような欲望に向って、「汝何を欲するか」。

 おさゐは、ラカンが<対象a>と呼んだもの、不可解な「何か」に縋る。水上が指摘した《おさゐという女の二面性、三面性、どこに芯があるやらわからぬ、たとえていえば、マシマロみたいな、やわらかくて核のない、女心ののたうつ無明の深さ》は、<対象a>の比喩ではないのか。

 ジジェク 《ここで忘れてはならないのは、対象aは欲望の原因であり、欲望の対象とは違うということである。欲望の対象は、たんに欲望される対象のことであるが、欲望の原因は、対象の中にあるなんらかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する。それはわれわれがふつう気づかない細部とか癖で、われわれは時としてそれを障害として捉え、この障害があるにもかかわらずその対象を欲望しているのだと誤解することがある。》

 

「ハテ 此の帯には様子が有る。オヽ様子がなうては。様子といふが妬しい互に泣くやら叩くやら。帯ぐる/\と引解きたゝみかけて殴り。打ち エヽいやらし手が汚れたと。手繰って庭にひらりと投げ。拾へといはぬばかりなり。思ひの闇ぞ詮方なき。二人の影はばら/\髪如何にしても此の様。帯解いてもゐられずと庭に出でんとする所を。アヽ/\帯に名残惜しいか。不承ながら此の帯なされ。一念の蛇と成って腰に巻付き離れぬと引解いて投出す。権三あまりにむっとして二重(ふたへ)廻(まはり)の女帯。いたしたことござらぬと。同じく庭に投出す。」の原因となった、「是見よがしの其の帯は定紋の三つ引と裏菊」の権三の帯と、「不承ながら此の帯なされ。一念の蛇と成って腰に巻付き離れぬと引解いて投出す。」二重(ふたへ)廻(まはり)の女帯とが、女の一念の蛇を怖れる蛙の鳴き声に過敏となっている男という巧みな喩とともに、欲望を象徴している。

 ジジェク 《この欲望の対象=原因の状態は、歪像(アナモルフォーシス)と同じ状態である。絵のある部分が、正面から見ると意味のない染みにしか見えないのに、見る場所を変えて斜めから見ると、見覚えのある物の輪郭が見えてくる。それが歪像だ。だがラカンの言わんとしていることはもっと過激だ。すなわち、欲望の対象=原因は、正面から見るとまったく見えず、斜めから見たときにはじめて何かの形が見えてくる。文学におけるその最も美しい例は、シェイクスピアの『リチャード二世』の中で、戦に出陣する不運な王を心配している女王を慰めようとする、家来ブッシーのセリフの中にある。

 悲しみは、ひとつの実体が二十の影をもっています。

 それは影にすぎないのに、悲しみそのもののように見えます。

 というのも、悲しみの眼は涙に曇っているため、

 ひとつの物がいくつもの物体に分かれて見えるのです。

 正面から見るとただの混沌しか見えないのに、

 斜めから見るとはっきりと形が見えてくる、

 そんな魔法の鏡のように、お妃さまも

 国王陛下のご出陣を斜めからご覧になっているので、

 実際には存在しない、悲しみの幻影を見てしまわれるのです。[第二幕第二場]

 これが<対象a>だ。それは物質としてのまとまりをもたない実体であり、それ自身は「ただの混沌」であって、主体の欲望と恐怖によって斜めにされた視点から見たときにはじめて明確な形をとる。「実際には存在しない幻影」として。<対象a>は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。絵画史における最も有名な歪像の例であるホルバインの『大使たち』の主題が死であったことを思い出そう。絵の下のほう、虚飾にみちた人物たちの間に長く延びている、染みのようなものを脇のほうから見ると、頭蓋骨が見えてくる。(中略)

 すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、それは、王冠を譲り渡せというヘンリーの要求に対して、要するに「私はそれをする『私』を知らない」と答えるときのリチャードの立場に他ならない。

  ヘンリー・ボリングブルック 王冠譲渡に同意されるのですね。

  王リチャード2世 ああ、いや。ない、いやある。私はもはや無にすぎぬ。

  だから「ない」はない。あなたに譲ることにしよう。

  さあ、よく見るがいい。私が私でなくなるさまを。

  私の頭から、この重い冠をとって、さしあげよう。

  私の手から、この厄介な錫杖をとって、さしあげよう。[第四幕第一場]》

 

 おさゐの立場も似ている。「只今二人が間男と。いふ不義者に成極めて。市之進殿に討たれて男の一分(ぶん)。立てて進ぜて下されたら。なう忝(かたじけな)からうと 又臥(ふし)沈むばかりなり。」、「オヽいとしや口惜しいは尤もなれど。跡に我々名を清めては。市之進は妻敵を討ち誤り。二度の恥といふもの。不承ながら今爰(ここ)で女房ぢゃ夫ぢゃと。一言いうて下されば。」と、「武士の妻」の座から追われる混沌の現実なのに、斜めから見て「妻敵討ち」という形を出現させてしまう。

 ここで、おさゐの混乱は、リチャード2世の混乱した返答、《ああ、いや。ない、いやある。》のようで、「不承ながら今爰(ここ)で女房ぢゃ夫ぢゃと。一言いうて下されば」と言ったさきから、「思はぬ難に名を流し。命を果すお前もいとしいはいとしいが。三人の子をなした。廿年の馴染には。わしゃ替へぬぞと わっとばかり歎き。くづほれ見えければ。」と戻り、そしてまた「お前は夫。エヽ/\/\忌々しいと縋合ひ 泣くより。外のことぞなき。」だったが、しかし最後におさゐは、アンティゴネーのように欲望を貫徹し、見事に「妻敵討ち」される。

「ヤ市之進程の仁(じん)。誰(た)が助太刀を討つものぞと橋の中へ突出せば。なうなつかしやと寄る所を片手なぐりに腰の番(つがひ)。くゎらりずんと切下げられ あっとばかりに臥したりける。帯引掴(ひつつか)で頬(つら)引上げ。見れば子供の不便(ふびん)さと憎し憎しの恨の涙。胸に浮(うか)むを打払ひずんど切下げ取って引伏(ひつぷ)せ。肝先(きもさき)踏(ふま)へぐっと刺(さ)いたる我が切先。右の跟(きびす)を跖(あなうら)かけずっぱと切れども覚えばこそ。」

 市之進の残虐なまでの容赦なさを、目と音で描く近松の醒めた視線こそ、斜めから見る眼だ。 

 近松は、黒白明らかではなく、不自然(アンチナチュラル)、非論理(イルロジカル)である混沌を表面上は舞台正面に見させておいて、深層で観客を「斜めから見る」ことへ導く。少なくともその欲望の表現において、「近松は日本のシェイクスピアである。」 

                                    (了)

           *****引用または参考文献*****

*『日本古典文学大系49 近松浄瑠璃集 上』重友毅校注(岩波書店)(引用は新字に変換)

水上勉近松物語の女たち』(中公文庫)

*『武智鉄二全集 定本 武智歌舞伎②歌舞伎Ⅱ』(「鑓の権三について」所収)(三一書房

*『近松の研究』坪内逍遥、(春陽堂)(国立国会図書館デジタルコレクション)(引用は新字に変換)

*廣末保『増補 近松序説』(未来社

河竹繁俊近松門左衛門人物叢書)』(吉川弘文館

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』鈴木晶訳(紀伊國屋書店

スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』鈴木晶青土社

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(文春文庫)

*ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄、喜志哲雄訳(白水社

ロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章みすず書房

*諏訪春雄『近松世話浄瑠璃の研究』(笠間書院

*『文楽公演床本 鑓の権三重帷子』(国立劇場、平成21年2月)