「文楽の男の手」
文楽の男の手を知っていますか。
五月の東京三宅坂、国立劇場でのことです。若草色の市松単衣を着た私は楽屋を横目で見ながら狭い廊下を進みました。先を歩いていた知人の人形遣いは、女の人形をひょいと手に取るとすたすたと舞台袖に向かいます。
船底と呼ばれる舞台には、近松作『冥途の飛脚』の大道具がすでにセットされていました。
知人は『冥途の飛脚』の遊女梅川役の吉田簑助師匠のお弟子さんです。観劇のついでに人形を抱きに行きませんかと誘ってくれた男友達が知り合いだったのです。
首(かしら)を肩板(かたいた)からいとも簡単にはずし、頸骨のような胴串(どぐし)を慣れた手つきで握ります。
「これはうなずきの糸と呼ばれていて、三味線の二の糸と同じ絹糸でできているんですよ。こうして薬指と小指、場合によって掌で受けて、この引栓(ひきせん)を中指と人差し指で操るんです。」
中指で引栓を動かすと遊女の首がうなずき、人差し指で糸を押さえたり弛めたりすると一瞬で血が通いました。手首を捩りながら操作すると、首は左右にいやいやをしながら面(おもて)の光と影で情をおびてきます。そしてまた肩板に首をすべらすと、着物の重みだけで人形はすっくと立ちあがりました。今度は女の背の割れ目に左手を挿し入れ、中で指を動かしてみせたのです。と、遊女は生きているようになまめいた動きで誘ってくるのです。
持たせてもらいましたが、どうにもガクガクした動きにしかならないので情けなくなりました。仕方ありません。文楽の人形は三人遣いで、「足十年、左十年」の修行を経て、ようやく首と右手を操る主遣いになれるのですから。
お礼を言って舞台をあとにするとき、吉田玉男師匠の楽屋をお友達が見つけました。それからどうやって玉男師匠の楽屋に上がり込み、握手までしたのかは思い出そうとしてももう浮かんでこないのです。菅丞相らしき人形が立てかけてあったこと、老眼鏡をかけた師匠が座布団を勧めてくれたこと、一生懸命に私が今ここにいる理由を、師匠のファンであることを、これから『冥途の飛脚」を見ることなど、師匠にとってはどうでもよいことを精一杯しゃべってから、記念に写真を撮らせていただきました。
汗ばむ手で玉男師匠に握手しますと、なんと柔らかな手でしょう。おもしろいやつだなと思ってくれたのか機嫌良くにこにこしはじめましたので、感極まって両手で握手しますと、師匠も長いしなやかな両手で握りかえしてきてくれたのです。重いものでは十数キロにもなる立役を支える左手もごつごつしていません。でももうすぐ上演時間です。私たちは忙しなく畳に頭をつけて、劇場正面に向かったのでした。
ぼーっとしているうちに、拍子木の音で目が覚め『淡路町の段』の語りがはじまりました。しばらくすると、「籠の鳥なる、梅川に焦がれて通ふ廓雀(さとすずめ)、忠兵衛はとぼとぼ……」と玉男師匠が忠兵衛を遣って登場しました。
はじめての私でさえ師匠のすごさはわかりました。無駄な動きのない稠密な技とでもいうのでしょうか。ギクシャクした硬さがないのはもちろん、わざとらしい力みも荒っぽさもなくて、だらしない男に端正も品格も不似合いでしょうから、洗練とか繊細と言った方がよいのかもしれません。内面を解釈しつくした所作が、卓越した抑制の技量でにじみ出てくるのがわかり震えました。それがあの人間国宝の手から生み出されるのですもの。
『封印切りの段』は簑助師匠の梅川で華やぎます。簑助師匠の梅川は着物の襟も胸もともざっくりと見世女郎らしく男の目を引くようにふくらみ、色ある女の肩は両肩遣いといわれる艶っぽさです。きわどい肩の傾きと首の自在な捩れは、これ以上押し進めれば現(うつつ)ではなくなる瀬戸際で踏みとどまります。一方の忠兵衛は玉男師匠の抑制を裏切るかのように梅川の限りない愛しみゆえかえって冥途へと一目散に錐もみしてゆくのです。
ふと見れば、忠兵衛の右手が梅川の膝もとをそれはそれはやさしく撫でています。その瞬間、私は膝もとに玉男師匠の触れるか触れぬかのあたたかな手を感じたのです。
その夜、興奮で眠れないままデジタル・カメラの写真を自分で印刷しました。友達が撮ってくれた玉男師匠との一枚目は行儀よく前を向いて座った写真。二枚目は右手で握手しているもので、だいぶ師匠の顔が和らいでいます。そして三枚目はすっかりうちとけて二人して両手で握手している写真でした。私は真っ赤で、師匠は眼鏡がずれ落ちそうに笑っています。玉男師匠の右手が、その日着ていた若草色の単衣の膝もとに忠兵衛の右手と同じように置かれている写真などないのでした。
けれども私は信じています。あのとき菅丞相を操る文楽の男の柔かな手が縮緬地の女の膝もとを永遠のように愛しんでいたことを。
(了)