文学批評/オペラ批評 『マクベス』と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の「二枚舌」(資料メモ) 

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 シェイクスピアマクベス』は「二枚舌」の観点から読み解くことが出来る(残念ながら、ヴェルディによるオペラ『マクベス』には「二枚舌」の台詞で有名な「門番」の場面はないが、「二枚舌」はなにも門番の場面ばかりではなく、意味的には、「魔女」の言説をはじめ、至るところに散りばめられている)。

 シェイクスピア自身の生き方もまた、カトリシズムに関して「二枚舌」であったかもしれない。

 ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』もまた「二枚舌」として解釈しうる。

 ショスタコーヴィチの生涯全体が、スターリン体制下およびスターリン死後に共産党員となってからさえも、「二枚舌」のもとにあった。

 ここにおいて、「二枚舌」は必ずしも「悪」「嘘つき」の側に一方的に立つものではない。「二枚舌」でなければ、表現することはおろか、生き延びることさえ困難な、苛酷な政治体制、統治があった。

 下記の資料(引用文)で理解できるだろう。 

 

シェイクスピアの「二枚舌」――『マクベス』>

 

<玉泉八州男「シェイクスピアとカトリシズム」から>

《それ以上に問題なのは、この文書(筆者註:父親(John)の署名になる六葉綴りのパンフレット、信仰遺言書)がたとえ贋作だったとしても、それでSh.(筆者註:「Shakespeareシェイクスピア」の略)家はカトリックでなかったと結論づけるわけにはいかないという点にある。まず父親。彼は一五九二年九月二五日に「負債に対する法的措置の執行を恐れて教会に現われなかった」九名の国教忌避者(recusants)の中に名を連ねている。そして、「法的措置」云々は、彼らカトリック教徒の礼拝不参加のありふれた口実の一つであった。母メアリーは、一一七八年の土地台帳作成以前に遡るアーデン一族の一員。一五八三年愚かな女婿による女王暗殺事件(サマーヴィル事件)発覚のため、遠縁に当たるであろうパーク・ホールのアーデン家当主とサマーヴィルの首は、Sh. が出奔した当時も、ロンドン橋の上に曝されていた(Sh. の父ジョンが屋根の梁の間に信仰遺言書を隠したのも、この事件で迫害の波が及ぶのを恐れての措置と、従来は考えられてきた)。娘のスザンナも一六〇六年春復活祭の聖餐をうけなかった二一名のリストに登場する。彼の文法学校の先生たちもカトリックだった(1571−74, Simon Hunt ; 75−79, Thomas Jenkins ; 80−81, John Cottam)。そして彼自身については、死後五〇年以上経過した一七世紀末に、オックスフォード大学コーパス・クリスティ学寮つきの牧師デイヴィス(R. Davies)が、覚え書に彼はカトリックとして死んだ(He dyed a papist)と記している。そういう訳で、今日の時点では父のみならずSh. もカトリックだったと考える方が説得力があるばかりか、作品の理解もますように思われる。以下はその見地に立った、Sh. への一つのアプローチである。》

《まず一人の劇作家を扱うのに、どうして宗教的立場をそんなに重視せねばならないのか、といった素朴な疑問から入るとしよう。今日のわれわれ、とくに日本人にとって、宗教は個人的信条でしかないのだが、Sh. 当時それは公的行動全体に及ぶ大問題であった。しかも、信仰の領土帰属主義(cujus regio, ejus religio)が一般的な中で、英国国教会以外を信奉することは、多大の勇気を要し、犠牲を伴った。一六〇五年一一月五日の火薬陰謀事件の発覚がきっかけでカトリック弾圧が頂点に達するとはいえ、エリザベス朝からすでに亡命中のスコットランド女王メアリを担いでの再カトリック化計画との絡みで、臣従の誓い(the Oath of Allegiance)を行い、国教会流の礼拝をうけることが公的生活を営む最低の前提だった。不履行者は当時の文法学校教師の年収に当たる二〇ポンドを毎月科料として支払わねばならない。それを恐れて、日曜礼拝に形だけ参列する「教会カトリック(Church Papist)」が出現する所以だろう。》

《纏めていえば、「非国民」の身を終始自覚し、ユグノーや娼婦の間に身を潜め、他人との関わりをできる限り避けて非人情を貫き、蓄財に専念する。これが二五年に及ぶ Sh. のロンドンでの(単身赴任?)生活の基本だったのではあるまいか。彼はよく「温厚なシェイクスピア(gentle Sh.)」といわれるが、それは非人情を隠す愛想のよさの仮面がいつしかくっついて離れない直面(ひためん)に変わったせいだったかもしれない。

  傍観者に終始し、コミットしない、こうした生き方は、何ごとも深追いしない作劇術に繋がってゆく。キーツJohn Keats)は、Sh. が「ことをなす人間(a Man of Achievement)」らしく「消極的能力(Negative Capability)」を大量にもっていたと評したが、「不確定、神秘、疑惑の状態、つまり曖昧なままにすべてを留める能力」こそ、カトリック的生き方の芸術的昇華といってよいだろう。》

《しかも、この曖昧さはカトリック的心情の昇華に留まらず、カトリック的処世術の演劇的利用ととれる時すらある。中でも顕著なのは、二枚舌(equivocation)と呼ばれる詭弁術。古来あったこの言語表現が積極的に悪用されるようになったのは、イギリスではカトリック詮議が本格化した一五八〇年代サウスウェルの取調べからといわれている。どういうものか、一、二例をあげると、‘Are you a priest?’ と問われると、‘No, I am not.’ その心は‘not an Apollo’s priest at Delphos’ の意。‘Have you ever been beyond the seas?’ に対しては‘I have never been beyond the Indian seas’ と、これまた見当外れな答えをする。これが世間的に有名になったのは、火薬陰謀事件発覚後のイエズス会の大立者ガーネット(Henry Garnet)の詮議を巡って、当局が一六〇六年三月裁判終了後、五月までにその模様をパンフレットにして全土に配り、反イエズス会キャンペーンを実施してからのことだ。

  この当局の動きにSh. も呼応した。事件直後に書かれたであろう『マクベス(Macbeth)』(1606)の「門番の場」に早速地獄堕ちの「二枚舌」を登場させる。それだけではない。バーナムの森(Great Birnam wood)がダンシネインの丘(Duncinane hill)めがけて進軍してこなければ、滅びることはないと「第三の幻影」に予言させ、「女の腹から生まれた者に負けるはずがない」と「第二の幻影」に いわせておいて(IV. i)、枝をかざし(て森とみせかけ)た兵士を進軍させ、帝王切開で生まれたマクダフ(Macduff)と戦わせてマクベスを滅ぼす。つまり、筋の展開にも巧みに二枚舌を絡ませている。

 だが、二枚舌は『マクベス』が有名とはいえ、実はそこがSh. における初出ではない。OED が悪しき意味での用例の初出年とする一五九九年前後に書かれた『ハムレット』の五幕一場墓掘りの場のハムレットと墓掘りのかけ合いにすでに現われていた。》

《それを確認した後で『マクベス』に改めて眼を向けた時に気付くのは、二枚舌というカトリック的処世術への距離の置き方だ。『マクベス』は、曖昧さに賭けてことに及んだものの、王国の未来の支配者が誰なのか判然としない状態に耐えきれず、はっきりした見通しをえようとして魔女の二枚舌にひっかかって敗北してゆく男の悲劇。魔女が「不透明さそのものの具現化(the embodiment of the principle of opacity)」であり、二枚舌が曖昧さというカトリック的処世術を極限化したものなら、見方によっては劇自体がカトリックの自縄自縛の物語といった趣をもつ。ガーネットは裁判で二枚舌と虚偽の相違を力説したといわれるが、劇では「二枚舌」は虚偽で地獄堕ちに値するという(カトリックらしからぬ)論理が当然の前提になっている。》

《Sh. は、己れの志操と関わりなく、国王一座の座付作家としての義務の念から「安心を売る集団的儀式(a collective ritual of reassurance)」を執り行っているのだろうか。九死に一生をえた国王ジェイムズの無事を、バンクォーの子孫たるその家系の繁栄と重ねて寿ぐ「追従の劇(a piece of flattery)」をものする絶好の機会と捉えて。それとも、事件関係者一三人中六人がストラットフォードという(当局からみれば)ミッドランドの 「死角」 周辺の出身者であり、ケイツビーをはじめ Sh. と面識のあった人物がいたとすれば、火の粉がふりかからぬよう必死に防いでいただけなのか。何しろ、『マクベス』執筆の年の春聖餐を受けなかった国教忌避者たる娘を、「新教徒としての信任状」が必要と察知すれば、翌七年「非の打ちどころのない新教徒」と妻せる父親だ。あるいは、世紀の変わり目頃から、新教徒への道を歩み始めていたのだろうか。

  この最後の点との絡みを的確に捉えるのは難しいが、父ジョンが死ぬ一六〇一年頃から演劇人Sh. にも変化が訪れていた。「二枚舌」は「あるのにないふりをすること(dissimulation)」で、バーナムの森が動く「ないのにあるふりをすること(simulation)」とは厳密にいえば違うが、両者を纏めて「ふり(counterfeit)」と捉えれば、その語は一六世紀の末までは肯定的な文脈を残していた。》

《問題劇から晩年の悲劇で新教徒への道を歩み始めていたようにみえて、最晩年の最晩年のロマンス劇では奇跡や神の出現がみられるカトリック的世界へ再び回帰してゆく。要するに、徹頭徹尾「二重意識」「消極的能力」の持主だったということだ。そして、見方によっては、そこにこそ彼の劇作家として最大の存在事由があったといえなくはない。》

  

<ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のショイクスピア』から>

《一六〇六年の春にシェイクスピアの『マクベス』の初演(訳者(河合祥一郎)註:『マクベス』の初演は不詳であり、これは推定。記録に残る『マクベス』上演は、一六一一年に医者サイモン・フォーマンが観劇を記録したもの)を観た観客は、劇の核となる場面、すなわちすべての元凶となるダンカン王殺しの場を見られなかったことに驚いたかもしれない。殺人の現場を演じないというのは異例の判断である。観客もそれを見たいと思っていただろうし、シェイクスピアのそれまでの悲劇では見せていたのだから。(中略)

 ダンカン王が舞台裏で殺された直後、殺害の場がなかった埋め合わせに、シェイクスピア作品のなかで最も場違いな場面がやってくる。あまりにも変わった場面なので、サミュエル・テイラー・コールリッジら初期の批評家たちは、「大衆を喜ばせるために誰かほかの人が書いたのではないか」と疑ったほどだ。二日酔いで、くだらぬことをよくしゃべる門番が、城の門を叩く音を聞いて訪問客を迎え入れる自分の仕事を果たそうと、ゆっくりと音に反応する。この役は恐らく初演時に、劇団の賢い喜劇役者ロバート・アーミンが演じて評判をとったのだろう。アーミンのためにシェイクスピアはつい最近『リア王』の道化役を書いたばかりだ。門を叩く音は、門番の登場前から始まる。最初にそれを聞くのはマクベスだ。「何だ、あの音は? どうしちまったんだ、俺は、ちょっとした音にもびくつくのか?」(第二幕第二場六一~六二行)とマクベスは言う。ちょうどマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人が舞台裏の寝室で眠っている護衛たちにダンカンの血をなすりつけているときだ。戻ってきたマクベス夫人も、音を聞いて夫に言う。「南の門を叩く音が。お部屋に戻りましょ」(第二幕第二場六〇~七〇行)。音は執拗に再び聞こえて、夫婦は急ぎ退場する。

 門番の場をシェイクスピアが書いたかどうかをコールリッジが問題視した数年後、トマス・ドゥ・クィンシーが「『マクベス』の城門のノックについて」という見事な論文で、この場面を擁護した。「別の世界が入りこんできており、人を殺したマクベス夫妻は人間界の外へ、人間的目的や人間的欲望の領域外へ連れ出された。夫妻は姿も変わり、マクベス夫人は女でなくなり(・・・・・・)、マクベスは自分が女から生まれたことを忘れ、二人とも悪魔さながらのイメージである。悪魔の世界が忽然と現れたのだ」と、ドゥ・クィンシーは論じる(訳者註:ドゥ・クィンシーの論の要点は、「極度の緊張状態や偉大なる人物の死などに伴う厳粛な沈黙が破れるとき、中断された生命が蘇り、血が通い出して日常性が戻って来る、それこそが沈黙を破る門を叩く音の効果なのだ」というもの。(中略)シャピロはドゥ・クィンシーの論旨を汲まず、地獄の門番という「見立て」によって悪魔的なるものが表象されるとしている)。シェイクスピアは悪魔的なものに安易な説明をつけず、マクベス夫妻がこれから経験し、スコットランドに味わわせることを生き地獄としてイメージさせている。そのために、門番に自らを「地獄の門番」(第二幕第三場二行)と想像させるのだ。中世イングランドにあった今ではほとんど忘れかけられた聖史劇のお決まりの登場人物である。そんな発想をすることで、この劇の最も実際的な場面において、地獄を呼び出すという行為を見せてくれているのである。シェイクスピアは、『リア王』でもそうしたように、悪魔を出すとどうしても強くなってしまう道徳色を回避しつつ、超自然なるものを呼び起こしている。(中略)

 門番は次に、地獄にまた誰かやってきたと想像する。名前のない「二枚舌野郎」だ。「ドン、ドン。誰だ、悪魔の名にかけて答えろ。いよっ、こいつだな、言い逃れをする野郎は。こうも誓えば、ああも誓う、神様のためなんて言って謀叛を犯しやがって、神様には二枚舌は通用しなかったわけだ。おう、入れ、二枚舌野郎」(第二幕第三場七~一一行)。まるでシェイクスピアは、その春流行っていたジョーク――つまり、謀叛人のガーネットが「処刑台で二枚舌を使うだろう」というジョーク――を聞き及んでいたかのようだ。それをさらにひとひねりして、イエズス会士が二枚舌を使ってうまいこと天国へ行こうとして失敗し、とうとう地獄にやってきてしまったかのように観客に想像させたのである。

 関連は、そればかりではない。門番は、最後に登場したマクダフに対して、なぜ門を開けるのにこんなに時間がかかったのかを二枚舌を使い続けながら説明する。「はっ。二番鳥が鳴くまで飲んでおりました。酒は、三つのことを惹き起こしなすんで」(第二幕第三場二三~二四行)。マクダフが挑発に乗って、「何だ、その、酒が惹き起こす三つのことっていうのは?」と尋ねると、門番は答える。

    はい、鼻が赤くなること、眠ること、それに小便であります。女とやりたいっ

て気にもさせますが、萎えさせもします。欲望を刺激しながら実行はできないようにする。それゆえ、大酒は、色事に二枚舌を使うと言えます。その気にさせて、だめにする。むらむらさせて、ふにゃっとさせる。突っ張っといて、がっかりさせる。立たせておいて、立たなくさせる。結論としまして、二枚舌で眠らせ、よう、この嘘つき野郎、よう、よう、と用を足して、しゃーっと出て行きます。(第二幕第三場二七~三五行)

 好色、飲酒、二枚舌についての冗談は、さらに、二枚舌を使うガーネットの深酒と有名な女遊びへの当てこすりとなっている(ソールズベリー伯でさえ、このことでガーネットをからかわずにいられなかった)。(中略)

 この劇における最も重大な曖昧表現は、マクベスとバンクォーが最初に魔女たち――実は「魔女」とは一度も呼ばれておらず、「この世のものでない姉妹(運命の三姉妹)(Weird or Weyard Sisters)」とのみ言及されているのだが――と出会う場面で起こる。最初の魔女がマクベスを「グラームズの領主」と呼び、二人目が「コーダーの領主」と呼びかけ、三人目が「やがて王となるお方」と呼ぶ。それからバンクォーに「王を生みはするが、ご自身は王にはならぬお方」と言う(第一幕第三場四九~六七行)。どれも嘘ではないが、重要な情報を告げていないという点で二枚舌になっている。つまり、王になるためには王を殺さねばならないと告げていないし、バンクォーには、生きて予言の成就を見ることはないと告げていない。二枚舌のせいで、『マクベス』の対話を理解するのは精神的に疲れることになる。観客は――二枚舌を使うイエズス会士と話をする役人同様に――言葉どおりの意味なのか、そうでないなら、心理保留によって隠されていることは何なのかを理解しようと努めなければならない。しかし、二枚舌を使って言葉にされなかったものがあるとすれば何なのか、決してわかることはない。「きれいは汚い……」(第一幕第一場一一行)という一見矛盾する表現の意味がはっきりするのは、「嘘の外面を見抜きさえすれば」という条件をクリアしてその答えが得られたときのみなのだ。

 二枚舌(曖昧表現)はこの劇の至るところにある。マクベスが妻に手紙を書くとき、バンクォーの末裔が王となるという予言は言わずにいる。ダンカンの護衛たちを殺したことの言い訳をするときも、二枚舌を使っている。「誰がじっとしていられよう、愛する心があるのなら、そしてその心に愛を示す勇気があるのなら?」(第二幕第三場一一八~二〇行)(訳者註:表の意味は「ダンカン王を愛する心があるなら、その王を殺した犯人を目の前にして誰がじっとしていられよう」であるが、マクベスが心の中で言っているのは「妻を愛する心があるなら、決行するしかない」という意味だと解釈される。)。心理保留がマクベスの第二の天性となっているのだ。マクベスは、バンクォーとフリーアンスを殺すために放った二人組の殺し屋たちに、三人目が加わることをわざと言わない。そして、夫人がマクベスに「何のこと?」と尋ねるときも、「かわいいおまえは知らずともよい」(第三幕第二場四八行)と言う。破滅するバンクォーが、神こそが人の心を読むことができ、隠された陰謀を暴くことができると言って、心理保留が実は虚偽にすぎないことを鋭く指摘しているのは皮肉である。

   私としては、大いなる神の御手にわが身をゆだね、

   そこから、隠された陰謀を暴き、

   謀叛の悪意と戦うつもりだ。 (第二幕第三場一三二~三四行)

 二枚舌を使うのがマクベスの習慣になればなるほど、マクベスは魔女から更なる保証を求めようとし、魔女たちはマクベスの希望につけ込み、なおも二枚舌を重ねて、悪霊を呼び出す。悪霊は「女から生まれた者にマクベスは倒せぬ」のだから「大胆に血を流せ、憶するな」と命じ、「広大なバーナムの森が」ダンシネーンの丘に向かってくるまではマクベスは決して滅びぬと告げる(第四幕第一場七九~八一、九三行)。バーナムの森から切り取られた枝をかざして軍隊がダンシネーンの丘を目指すのを信じがたい思いで見守るマクベスは、「真実のように嘘をつく悪魔の二枚舌」(第五幕第五場四三~四四行)の破壊的な結果を身にしみて知るのである。最後に、マクダフが女から生まれていない――帝王切開だったので、「母の腹から月足らずで引きずり出された」(第五幕第八場一六行)――と知ると、マクベスはついに二枚舌にやられたと考える。

   あの嘘つきの悪魔など、もう信じまい。

   二重の意味で翻弄し、

   耳に入れた約束の言葉は守りながら、

   その期待を裏切りやがる。 (第五幕第八場一九~二二行)

 観客はマクベスとともに絶望のどん底へ突き落される。地上の地獄だ。「もう日の光を見るのはうんざりだ。この世の秩序など崩壊してしまえ」(第五幕第五場四九~五〇行)と、マクベスは言う。シェイクスピアにおけるたいていの悲劇の主人公と違って、マクベスには死に際の悟りの台詞はない。最後に聴く内省の弁は、今引用した、二枚舌の働きについてようやく得た洞察の言葉である。

 二枚舌はマクベス夫人をも破滅させる。自分がダンカン殺しに関与したことを忘れようとし、また夫が関与したことも忘れようとして、夫人は二枚舌に熟達する。マクベスがバンクォーの亡霊を見て怯える宴会の場がよい例だ。夫人は、客たちに飄々と二枚舌を使ってこう言う。

   主人はよくこうなるのです。

   若い頃からそうでした。どうぞ、座ったまま。

   発作は一時的なもの。すぐにまた

   よくなります。 (第三幕第四場五三~五六行)

「よくなります」の「よい(well)」は、このあと劇の最後まで二十回ほど繰り返されるが、「よい」とは何がよいのか曖昧な表現だ。口にしたことと、二枚舌を使って言わずにおいたことの違いを完璧に例示するかのように、正気を失った夢遊病マクベス夫人は、あからさまに言えない「隠され、知らぬふりをされているもの」を書きつけ、それを読み直さずにはいられない。「ベッドから起きられて、ナイトガウンをお羽織りになり、戸棚の鍵を開け、紙を取り出し、折り畳み、何か書きつけ、読んでから封をし、またベッドにお戻りになりますが、そのあいだじゅうずっとお眠りになったままなのです」(第五幕第一場四~七行)と侍女は報告する。》

ハムレットが二枚舌のことを政治色なしで言及できた時代は終わっていた。一六〇六年初頭までに、二枚舌がいったん根付いてしまうと、「あっというまに、信念も真実も信用もなくなる」という恐怖はあまりにも現実的なものとなっていた。

 マクベスにおけるシェイクスピアの最も強烈な洞察は、そのような悪弊の広まった状況では――中世スコットランドであろうが、ジェイムズ朝のロンドンであろうが――悪のみならず善もまた二枚舌を使うと見抜いていることだ。故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンのみならずロンドンでも、火薬陰謀事件のあとでは疑いの文化が根付き、もはや元には戻らなかった。『マクベス』の後半では、最も尊敬されるべき人物たちでさえ、誓っておいて嘘をつき、道徳を地に落としている。たとえば、気高く見えるマクダフは、スコットランドから逃げ、家族を置き去りにしてしまう。妻が息子に、父親のマクダフは「誓いをたてて、嘘をつく」「謀叛人」でると話す場面をどのように解釈したらよいのだろうか。(中略)

 マクダフ自身もやがて二枚舌の犠牲となる。口の重いロス卿が、マクダフの妻子が殺されたことを伝えなければならなくなって、意味深い「安らか」という語を――騙すつもりではないのだが――曖昧に使うのである。(中略)

 十一月五日に実際に破壊的攻撃があったわけではないものの、人の心が破壊され、取り返しのつかぬことになったのだ。その変化が『マクベス』に反映されている。一気呵成に書き上げようという勢いがあったことを考えれば、終わり方がすっきりしないのも説明がつく。慌ただしく体制が回復されるものの、どうも頼りなくしっかりしていない。現代の演出家のほとんどが、演劇でも映画でも、エンディングに手を入れたくなるのもしかたがない。二枚舌を封じ込めて、すっきりさせるために悪の根源は悪魔にあるとしてしまうのは、クックやダヴのような悪魔使いと発想と変わらない。マクダフが最後にマクベスの斬られた首を高く掲げて登場すると――再び舞台裏でのスコットランド王殺害であり、観客はそれを目にせず、想像するだけとなるわけだが――そうなると、多くの未回答の答えから観客の気は逸れてしまう。謀叛人の二枚舌野郎の首が一旦、棒の先に掲げられたら、悪はやっつけられたということなのか。「この死んだ人殺しと悪魔のようなその妃」(第五幕第八場七十行)とけなせばよいだけなのか。もしバンクォーが、フリーアンスの血筋によって代々の王の父となるのであれば、どうして『マクベス』はマルカムが王位に就いたところで終わるのか。バンクォーの末裔がマクベスに代わってダンカン王の系譜を受け継ぎ、スコットランド王ジョイムズにまで至るまで、どんなさらなる流血があり、悪魔的な力が介入するのか。》

(オペラ、ヴェルディマクベス』には「門番」による「二枚舌野郎」の場面はない)

 

 ショスタコーヴィチの「二枚舌」――『ムツェンスク郡のマクベス夫人』>

 

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」と『ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』から>

《一九三〇年代のソビエトに澎湃(ほうはい)と湧き起こった文化革命を見まもるショスタコーヴィチの真意をさぐるうえで最大の鍵となるのは、彼が何よりも革命の子であり、革命の理念を引き受けるという素朴な信念から作曲家としてのスタートを切っている事実である。

 一九二六年にモスクワ音楽院に提出されたデヴュー作交響曲第一番は、抒情、アイロニー、暴力という、おもに三つの要素からなる彼の音楽の特質を浮きぼりにする、ある意味で原型的ともいうべき作品へみごとな仕上りをみせた。十月革命からほぼ十年、ネップ(新経済政策)下でのリベラルな気分を反映して、溢れるばかりの才気に満ちたその音楽には余分なおごりはいささかもなく、前衛かアカデミズムか、アイロニーか悲劇か、といった硬直した問いも、作品全体が放つ抒情的な煌めきのなかに渾然と溶け合っている。(中略)

 しかし、一九三〇年代が明けると、ショスタコーヴィチはもはや安閑とおのれの想像力に浸り、作曲に没頭することはできなかった。結婚その他、私生活面での大きな変化はさておき、当局による監視の目がたえず彼の身辺につきまとっていたからである。そうした抑圧的な状況を切りぬける手だては、この時代のすぐれた芸術家に共有された「二枚舌」(ないし「イソップの言語」)を徹底して鍛えあげることにしかなかった。作品の内部にみずからの真意をしまいこむ作業、簡単にいうなら、建前と本音の巧みな使い分けである。ショスタコーヴィチの直弟子で作曲家のウスペンスキーは、そうした「サバイバル」の手法をめぐって、「一歩後退二歩前進」という表現を用いている。この表現は一面でたしかに、スターリン時代のソビエト楽壇を生きぬいたショスタコーヴィチのみごとな処世術を言い当てている、かりに、ソビエト権力への譲歩や屈服を「後退」と決めつけるとしたら、それは大きな誤りであり、「後退」が果たして作曲家の不幸であったのか、というと必ずしもそうとは言いきれない。

 たとえば、一九三六年一月にスターリンによって「荒唐無稽(スンブール)」の一言が浴びせられるや、ショスタコーヴィチは、たちまちにして古典主義的な明晰さに回帰し、みずからの「本心」や「意図」を、その、高度にインターテクスチュアルな彩りのなかにしまいこんだ。他方、ショスタコーヴィチがお手のものとした、鮮烈かつ暴力的な音作りは、戦争、ファシズムの音楽的メタファーにいともたやすく転化させられ、検閲当局がお望みとあれば、同じイントネーションとリズムを用いて、底なしに楽天的な音楽を書くこともできた。ショスタコーヴィチにとって「後退」と呼ばれるモメントは、あるいは、自分を駆りたて、追いつめる原動力としても不可欠のものであったのである。(中略)

 だが、ショスタコーヴィチの音楽とは、むしろ「前進」も「後退」も含めたトータルとして理解すべき何かなのであり、「前進」のみに彼の音楽のポジティブな側面を聞きとるやり方は、全体主義下において芸術家が強いられた役割や、政治権力との相関性のなかではじめて意味をもつソビエト芸術の本来的特質をむしろ一方的にねじ曲げるものでしかない。ショスタコーヴィチ音楽の特質を考える際には、当然のことながら、スターリン主義という「所与」の条件を忘れてはならない。しかも彼が、プロ・ソビエト的な音楽を、たんなる「禊ぎ」として受け入れただけでなく、彼自身がそこに「蕩尽」の役割を担わせていたのであれば、なおさらのことである。早くして革命の洗礼を受けたショスタコーヴィチは、はじめから革命との、権力との、スターリン主義との対話をバネに作曲に励み、時には権力の要請に喜んで手を貸したこともある。全体主義の強大な抑圧のもとに生きる芸術家にとって、ベートーヴェンマーラー風の自己劇化の完遂は羨みの的となった。もとより、集団主義を国家イデオロギーの根幹にすえるソビエト権力が、芸術家のみに許される、そうした甘い特権を許容するはずもなかった。なぜならスターリン主義が芸術家に求めていたのは、あくまで、スターリンと同じ夢を見る力だったからである。》

 

 ここからは、亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』を引く。

ショスタコーヴィチがオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に着手したのは、一九三〇年十月のことで、時期的にはバレエ『黄金時代』の初演とほぼ重なっている。完成が一九三二年十二月であるから、約二年の歳月をかけたことになる。》

《舞台は、モスクワ郊外の富裕な商家イズマイロフ家。イズマイロフ家に嫁いで五年目になるカテリーナは、義理の父ボリスと夫ジノーヴィーとの生活に疲れ、辛い日々を送る。そんなある日、製粉所の堤防が壊れたため、夫のジノーヴィーが泊りがけで外出する。その夜、イズマイロフ家に新たに下男に入ったセルゲイがカテリーナの寝室を訪ね、二人は関係をもつ。だが、その事実はまもなく義理の父ボリスに知られるところとなり、事実の露顕を恐れたカテリーナはボリスを殺鼠剤入のキノコ料理で殺害する。その後も、カテリーナの寝室で逢瀬を楽しむ二人だが、カテリーナはボリスの亡霊に苦しめられ、狂気のきざしを示す。帰宅したジノーヴィーは、二人の不義の現場を押さえ、カテリーナに鞭打ちを浴びせるが、そのジノーヴィーをセルゲイが殺害する。やがて二人は結婚式を挙げるが、披露宴の最中、酔っ払って納屋に入りこんだ百姓がジノーヴィーの死体を発見し、警察に通報、二人は逮捕される。二人は、シベリア送りとなるが、すべてを失ったカテリーナにとってはいまや護送集団のなかで会ったセルゲイがすべてだった。だが、そのセルゲイは、同じ集団のなかの女囚人ソネートカに気を移していた。絶望し、復讐心にかられたカテリーナは、湖をわたる船の上からソネートカともども身投げする……。

 以上がオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のおおよその筋だが、レスコフの原作とはいくつかディテールが異なっている。オペラの台本の執筆にあって、上演上の制約からいくつか変更が行なわれたと見るべきだろう。そもそもこのオペラのもつ扇情的な性格からして、とうてい子どもを舞台に載せるわけにはいかなかった。

 レスコフ原作のオペラ作曲へと向かったショスタコーヴィチは、当初、「女性に関する」ソヴィエト版『ニーベルングの指輪』を書きたいという意図を周囲にもらしている。ただしそれがどこまで本意であったかはわからず、たんなる口実にすぎなかった可能性もある。》

《『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演は、一九三四年一月二十二日に、レニングラード・マールイ歌劇場で行われ、モスクワでは二日遅れて、ボリショイ劇場支部にあたるモスクワ劇場で初演された(モスクワ初演では、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではなく『カテリーナ・イズマイロワ』のタイトルが採用された)。レニングラード初演の指揮をとったサモスードは、「一時代を築くオペラ」と絶賛し、これに類するオペラは、チャイコフスキーの『スペードの女王』を措いて他にない、とまで明言した(サモスードの念頭には、一九三五年に同じレニングラード・マールイ劇場が初演したメイエルホリドによる演出のオペラがあった)。

 ネミローヴィチ・ダンチェンコの演出によるモスクワ初演は、ショスタコーヴィチの解釈よりむしろレスコフの原作を優先させ、これを完全にリアルな悲劇として描くことをめざすもので、ひとりカテリーナへの上茶的な肩入れを避け、シェークスピアの「マクベス夫人」により近く、強烈な自我と個性を発散する女性像を浮かび上がらせることをねらいとしていたという。(中略)

 レニングラード、モスクワとも初演後の反響は上々だった。ショスタコーヴィチの親しい友人で、大の音楽通で知られた赤軍将校トゥハチェフスキー、モスクワ芸術座の創設者である演出家のスタニスラフスキー、作曲界の大御所ミャスコフスキーらもこぞって賞賛している。》

《一九三六年一月二十八日、共産党の機関紙『プラウダ』に発表された小さな論文が、ショスタコーヴィチを恐怖に陥れた。記事の見出しは「音楽ならざる荒唐無稽」となっており、当時、世界的に人気のあったオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を徹底して批判する論文だった。批判の内容は大きく三つの点に絞られている。一に、その極左的な荒唐無稽(形式主義)、二に、「俗悪な」自然主義、そして三に、物語のモラルである。検閲当局のみならずスターリン自身の意志がそこに働いていることは、スターリンの語り口をまねた悪意ある文体そのものから容易にうかがい知ることができた。(中略)

 スターリンと二人の政治局員ジダーノフとミコヤンの二人がモスクワ劇場を訪ねたのは、正確に、一九三六年一月二十六日のことである。ソレルチンスキー宛の手紙によると、その夜、ショスタコーヴィチは、四幕が終った時点でカーテンコールを受け、舞台で拍手に応えたが、その時すでに、スターリンら一党の姿はなかったという。(中略)

プラウダ』批判は、音楽そのものの成り立ちから、芝居そのもののモラルにいたるほぼ全面否定に近いものであった。では、その批判の意図はどこにあったのか。初演以来、レニングラードですでに八十三回、モスクワで九十七回の公演を重ね、いまや世界の名だたるオペラハウスが次々とレパートリーに加えようとしていたソヴィエト・オペラの傑作に対して……。》

《思うに、一九三六年一月時点における上演禁止という事態は、ある意味で一つの長いプロセスの結果だったと見ることができる。ショスタコーヴィチは、すべての男性主人公たち、セルゲイ、ボリス、ジノーヴィーに、富農ならざる抑圧者の影を見ることで、このオペラを富農撲滅のスローガンに集約される農村集団化の流れに全面的にリンクさせられるとの読みを抱いていたのかもしれない。またこのオペラが、その、あからさまに性的な内容にもかかわらず広く聴衆に受け入れられ、圧倒的人気を博した背景には、そうした主題面での安心感があったと見られる。と同時に、そうした共通の理解があったからこそ、当局もまたショスタコーヴィチの書法上の独走を大目に見てきた一面もあったのではないか。この時期、そもそもカテリーナがオペラのヒロインとして許容されていたのは、彼女が、旧体制の破壊者、ナロードニキの革命家ソフィア・ペロフスカヤにもなぞらえられる存在であったからである。

 事実、「史的唯物論の原則」にのっとったテロリズムは、一九三四年十二月一日のキーロフ暗殺事件までは、それなりに容認され、公的な承認を得ることができた。しかし、この暗殺事件以後、状況はがらりと一変する。かりにこの事件が、スターリン自身による陰謀ではなかったと仮定するにせよ、キーロフ事件によって現実化した個人的テロルは容赦なく断罪されなくてはならなかった。つまりこのオペラは、キーロフ事件以後の複雑に込み入った政治状況のなかで、ことによると個人的なテロルへの容認、あるいはその正当化と見られる恐れがあったということである。キーロフ事件を演出したスターリンは、おそらくその「演出者」として事件の行方を特別の関心をもって注視しつづけていたにちがいない。そしてその結論の一つに、すべてトロツキー一派に帰せられるべき個人的なテロルに対する弾圧があった。端的に言うなら、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』におけるカテリーナ(=ショスタコーヴィチ)は、いずれ、「トロツキスト」の汚名をこうむる可能性があったということである。》

《翻って、モスクワ劇場でこのオペラを観たスターリンの内心はどのようなものであったろうか。スターリン自身の立場に限りなく寄り添い、その内面に錨を落としていく時に、にわかに湧き起こってくる疑問についてここで率直に述べておこう。怒り心頭に発したスターリンが「スンブール(荒唐無稽)」と声を荒げた場面とは、たとえば、マクドナルドが指摘する第三幕七場の警察署(スターリンは警察署長を自分に対するパロディと感じたとマクドナルドはいう)でもなければ、第四幕九場の流刑囚のシーンでもなく、カテリーナによる義父殺し、さらには夫殺しでもなかったのではないか。ましてや、文字通り、「荒唐無稽」な「ポルノフォニー」でもなかったろう。親族殺人を扱った文学や演劇が、しばしば猟奇性を帯びるのは、無意識のタブーの縛りが大きいだけ、人々の意識下の思考や願望に強く働きかける作用をもつからである。

 スターリン自身の内面に親族殺人のモチーフが持ちうる影響力の強さを考えてみる。このオペラの初演におよそ一年半先だつ三二年十一月(十月革命十五周年のその日)に、スターリンは妻のナジェージダ・アリルーエワをピストル自殺で失っている。当時からこの事件については、スターリンが妻を銃殺したとの噂が広く巷間で囁かれていた。そればかりか、「毒殺」の噂は、一口話その他を介して革命の父レーニン(一九二四年)、軍事人民委員フルンゼ(一九二五年)、高名な精神病理学者ベフテーレフ(一九二七年)らの死とも関連づけられて人口に膾炙していた。

 映画や文学に対する関心の強さとはうらはらに、音楽に対するスターリンの知識はきわめて限られたものであった。舞台上のさまざまな約束事に縛られ、リアルな物語としてはなかなか感情移入しにくいオペラのジャンルが、スターリンの嗜好に合うものではなかったことは確かであり、たとえそれが大ヒット中の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』であっても例外にはならなかったろう。このオペラがどれほど扇情的で「俗悪」なテーマを扱っているとはいえ、スターリンみずから率先して形式主義批判のキャンペーンの口火を切るほどの大きな口実を与えたはずはない。音楽的手法のレベルで言えば、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』よりも前作『鼻』のほうがはるかに先を行っていた。

 スターリンがこのオペラに驚愕したのは、むしろオペラをめぐる周縁的な事実、つまり、レニングラードの市民がこれほどまでこのオペラに熱狂しているという事実そのものではなかったろうか。ひょっとすると彼らの熱狂のうちに、スターリンはみずからの「過去」に対する不信を見てとったのではないか。さらにいうなら、義父「毒殺」のモチーフは、スターリンのなかで、党内の尊属殺人ともいうべきキーロフ暗殺への連想をいやおうなく呼び招くものとなったのではないか。それは、たとえば、ハムレットの「劇中劇」にも似た役割を帯びて……。そう、そこに現出したのはまさに、クローディアス=スターリンの同一化というまれなる事態であったのだ。》

 

 ここで「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」に戻る。

スターリン権力による大テロルが猖獗をきわめる一九三七年、「荒唐無稽」批判によって窮地に立たされたショスタコーヴィチは、みすからのサバイバルを賭けて、当局の批判に答える義務があった。スターリンとしては、パステルナークが『イズヴェスチャ』紙(一九三六年一月)に発表した壮大なスターリン讃歌に匹敵する音楽を、あるいは、交響曲第二番、第三番に類する合唱つきの「党カンタータ」を期待することができた。他方、シュヴァルツが言うように、ショスタコーヴィチにかりに本気で譲歩する覚悟があったら、標題交響曲ないし歌入りの交響曲を書くことで、党への忠誠を示す方法も考えられたはずである。しかし、ショスタコーヴィチは、純粋な管弦楽曲、歌詞ぬきの交響曲で批判に応えることになった。そしてそこにはおそらく次の二つの理由があったと考えられる。

 一、当局ないしスターリンに対するあからさまな礼賛となることを避け(礼賛は、「二枚舌」ないし党へのへつらいの嫌疑を招く)、できれば、控えめなかたちでその忠誠心を呈示したかった。そうするほうが、スターリンの意に添うだろうとの読みがあった。

 二、歌詞を添えないことで、交響曲の内部に、さまざまな秘密の仕掛けを設けることができる。外部からの批判なり解釈なりに対してどのような対応も可能となる。》

《一九三七年一一月二一日、交響曲第五番の初演が終わり、フィルハーモニー大ホールのステージで必死に汗をぬぐうショスタコーヴィチは、みずからの「二枚舌」が見破られなかったことを喜んでいたのか。それとも、その汗は、「社会的要求」に応えることができたという安堵感の現われだったのか。

 交響曲第五番とは、社会主義リアリズムの音楽、あるいは勝利の音楽ではなく、スターリン権力のもつ悲劇性を、肯定と否定に揺れるアンビバレントな意識のなかで体現した音楽、あるいは、スターリン権力をめぐる、一種のメタ音楽だったといえるかもしれない。そして、逆説を恐れずにいうなら、そのアンビバレントこそ、この音楽のドラマを最高の明晰さに変えたものの正体でもあったにちがいない。いずれにせよ、この交響曲におけるショスタコーヴィチの意図とは、時代の悲劇性をスターリンと共有することにあった。だが、実際にこの曲の初演に接したレニングラードの聴衆はちがった。この音楽のただならぬ、「途方もない」響きに耳を傾けながら、彼らは、その音楽がはらむあまりに危険な意味を口にすることができなかった。彼らは、われらがショスタコーヴィチの行く末をひたすら案じ、トゥハチェフスキー(筆者註:親しかった赤軍元帥だが粛清死)の運命に思いを馳せていた。と同時に、音楽本来のディオニソス的な力に身をまかせ、一切の権力の抑圧からの解放をそこに感じていたのである。タラスキンによれば、一九三七年一一月二一日のフィルハーモニー大ホールに現出したのは、まぎれもなく一つの独立した「世論」だったということである。であるなら、この交響曲こそは、本来的な意味での、スターリン批判たりえたかもしれない。それゆえ、政治権力が集中するモスクワでの初演について、これを危険視する声があったのも不思議ではない。だが、権力側にしても、この交響曲のもつ力を、形式主義的、ブルジョワ的、悲観的として指弾するわけにはいかなかった。ショスタコーヴィチの反抗を反抗として認知することは、当局の威厳を根本から揺るがすものとなりかねなかったからだ。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に「荒唐無稽」の断を下したあと、ショスタコーヴィチに改めて批判の矢を浴びせ、つめ腹を切らせることは、むしろ当局の文化政策にとってこの上ない屈辱となるはずだった。しかも聴衆(初演は党関係者を集めて行われた)がこの交響曲に感じた素朴なシンパシーと当局(ないし権力)の理解のズレをこれ以上に意識させることは、むしろ当局みずからの見識を疑わせる恐れもあった。だから、この音楽のもつ光明とカタルシスの部分(シンバルによる昇華)にのみ注意を向けることが自らのメンツを保つ唯一のよすがとなったのではないか。第四楽章コーダに登場する三度の転調を、当局は、不幸中の幸いとみなし、その部分にすべての政治的な意味づけを集約させることで、事態の解決を図ろうとしたのだ。そのパッセージは、たしかに、国家の威光に対する讃歌のような響きがある。だが、ショスタコーヴィチはむろん権力の一方的な勝利など許すつもりはなかった。むしろ、権力それ自身が、おのれの安泰のために、この曖昧さのなかに、いうなれば、「公共の嘘」(タラスキン)のなかに自己避難を試みたのである。当局いやモスクワはみずからの権威保持のためにその危険性に目をつぶらざるをえなかった。ショスタコーヴィチの真の勝利はそこにあった。その勝利とは、限りない曖昧さのなかに一切の真意を隠しこむ一種の完全犯罪にも似るものであった。

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』から>

 

ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は、こうした性行為の写実的、音楽的描写においてさらに過激な方向に一歩踏み出している。この描写に関連して、ここでは『マクベス夫人』を『トリスタン』および『ばらの騎士』と比較してみるのもおもしろいだろう。ワーグナーにおいて顕著なのは、内的な緊張の発生と、それに対するオーガズム的な解決である(第二幕の終結部ではオペラ史上もっとも衝撃的な中断性交が起こり、それに対しフィナーレではオーガズム的な解決がもたらされる)。ショスタコーヴィチの『マクベス夫人』における特筆すべき、もっとも有名な要素は、第三場における、好色のかぎりをつくしたカテリーナとセルゲイの性的なやりとりをオーケストラによって生き生きと描写した部分である。つまりそれは、性行為特有のあえぎ声や激しい動きを「外面的」にミッキーマウス化すること(アニメのように、体の動きと音楽を正確に一致させること)であり、そこには、オーガズムのあとの、あのぐったりした感じを滑稽まじりに表現するトロンボーンの滑音も含まれる。『ばらの騎士』の、オーケストラによる短いプレリュード――これは歓喜に満ちあふれたセックスの場面の表現であり、突き上げるような動きの模倣、絶頂の瞬間をまねたホルンの歓声、快感に浸りきった余韻をともなっている――は、中間的な位置にある。つまりそれは、なまの性的な情念が気取ったロココ様式に包まれたかたちで噴出したものであり、その意味では、半分想像的で半分現実的というオペラの様態自体に即したものなのである。》

《『ばらの騎士』からショスタコーヴィチの『マクベス夫人』への移行は、洗練された貴族的な礼儀作法から粗野な現実への移行である。粗野な現実とは、われわれが悲しくも現実のことのなりゆきを知る場所であり、また人々が互いに打ちのめし合い、毒殺し合う――そして性交する――場所でもある。(中略)『マクベス夫人』における性行為の、オーケストラによる描写を聴く者は、同志スターリンの意見に同意したい誘惑に駆られる。このシーンに激怒しボリショイ劇場をあとにしたスターリンは、これが最善策と考えたのか、一九三六年一月二八日の『プラウダ』紙上に「音楽の代わりの荒唐無稽」という匿名の記事を載せるように命令した。この記事がいうように、「音楽は、ラブシーンをできるかぎり自然に表現するために、がやがや騒ぎ、はやし立て、息を切らし、あえぎ声をあげる」。プロコフィエフにいたっては、ショスタコーヴィチの『マクベス』の音楽を、アイロニーをこめてこう評した。それはモノフォニーからポリフォニーへの進歩における中間段階、つまり「ポルノフォニー」である、と。(中略)

 ショスタコーヴィチが、カテリーナによる二件の殺人を家父長制の圧力に苦しむ犠牲者のおこした正当な行為として救済していることは、実際のところ、見た目以上に不吉な側面をもっている。この正当化のために不可欠なのは、つまりこの殺人を納得のいくものにする唯一の方法は、犠牲者の品位を落とすこと、犠牲者を非人間的な存在にすることである(彼女の舅は好色な悪党として描かれ、一方その息子は、明確な人格造形を与えられていない無力な虚弱者である。後者の人格造形を省いたのは意図的である。というのも、彼のことを入念に描いたりすれば、殺人シーンで彼に対する同情が生まれかねないからだ)。これを補うかたちで、カテリーナにはいかなる倫理的なあいまいさも与えられていない(彼女が殺人を犯すとき、そこにはいささかの内面的葛藤もないし、殺人のあとにも良心の呵責は示されていない)。彼女は、家父長制の圧力に抗って個人の自由と尊厳を求める人物として描かれているわけではない。むしろ彼女は、性的な情念にすっかり身を任せた女、その情念を満たすうえで邪魔になるものはすべて容赦なく叩きつぶす覚悟をもった女として描かれている。この意味では、彼女もまた非人間化されているのだ。その結果、逆説的ではあるが、このオペラにおける唯一の人間的な要素は、集団的な要素、つまり最終章に「おける流刑者の、二つの哀歌を含めた合唱である。さらに、このオペラの歴史的文脈、クラーク[富農]に対する容赦ない粛清が行なわれた時期を強調したタラスキンは正しい。殺害される父とその息子は、クラークの二つの典型ではないのか。スターリンによって上演禁止令が出される前の、オペラの公演が大成功をおさめた最初の二年間において、公衆は、オペラの暴力的な内容がクラーク解体の暴力と共鳴しているということを読みとらずにすんだのではないか。したがって、このオペラが、残忍な反クラーク運動を正当化する機能をもった、とてつもなく不穏なスターリン的(・・・・・・)作品であったという事実に。だからタラスキンはこう結論する。『マクベス夫人』は「根本的に非人間的な芸術作品」である、と。「上演禁止にあたいするオペラがひとつあるとすれば、それはこの作品である。この作品の実際の上演禁止令が、実に不愉快な誤った理由から出されたという事実によっても、この評価は変わることはない」。(中略)彼の『マクベス夫人』が同じ理由から――つまり、セクシュアリティが率直に描かれているという理由だけでなく、この率直な描写は、クラーク的、家父長的な圧政者の殺害をあからさまに支持することと同様に、公的には否認されねばならないという理由からも――上演禁止処分を受けたのだとしたら、どうだろうか。このことは、『マクベス夫人』はクラークの大量殺戮、(スターリンの言葉でいえば)クラークという「階級の根絶」を正当化しているというタラスキンの批判がなぜ的はずれであるかを教えてくれる。そのオペラがもつ、あからさまな暴力的側面は、公的な場にあっては否認されねばならなかったのであり、それゆえに、その直接的な表現は容認されなかったのである。セックスと暴力の赤裸々な描写は、一枚のコインの表と裏だったのである。

 政治的テロに関するこのポイントこそ、レーニン主義スターリン主義を分かつギャップが位置づけられる場所である。》

                             (了)

       *****引用また参考文献*****

*玉泉八州男『北のヴィーナス イギリス中世・ルネサンス文学管見』(「シェイクスピアとカトリシズム」所収)(研究社)

*ジェイムズ・シャピロ『『リア王』の時代 一六〇六年のシェイクスピア河合祥一郎訳(白水社

*アントニア・フレイザー『信仰とテロリズム 1605年火薬陰謀事件』加藤弘和訳(慶應義塾大学出版会)

亀山郁夫『磔のロシア スターリンと芸術家たち』(「テロルと二枚舌 ――ショスタコーヴィチの闘い」所収)(岩波現代文庫

亀山郁夫ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光』(岩波書店

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(青土社