』ーと
軽井沢でのハイ・ティーの晩に照り渡る月の光を白い服に集めて、マリア・カラスの好きな春絵に嫌みを言われながら、よう子は歌を歌ったことがあった。それは「桜の園」の章で、雅之の父雅雄と京大で知りあいだった老紳士白河が、もう二十年以上も前のことになるけれど、「この辺りの言い伝えで娘が一人きりで長いこと月に照らされていると物に憑かれるというのがあるそうですが、あのときのよう子ちゃんはまさに何かに憑かれたようでしたな」と回想するコロラトゥーラの「ルチア」――ドニゼッティ作のオペラ『ランメルモールのルチア』のヒロインで、城主の妹ルチアは兄と敵対関係にあるエドガルドと恋仲だったのに引き裂かれて別人と政略結婚させられる、が婚礼の夜ルチアは夫を殺したあと狂い死にし、エドガルドも後を追う――を歌う姿だった。
「二十年以上も前のこと」という場面はこうだ。
《あるハイ・ティーの晩、よう子ちゃん、何か歌ったら、とゆう子ちゃんが勧めてよう子ちゃんが歌うことになり、ほかのお客様はしんみりと聴いていらっしゃるのに春絵さん一人苦笑いを浮かべ続け、歌が終わって拍手があったとたん、さあて、お口直しにカラスを掛けましょうか、と婉然と微笑んでみなさんを見回されたこともありました。春絵さんの耳にはよう子ちゃんの歌は耐えがたいものだったのかもしれませんが、その底意地の悪さに雅之ちゃんは藤椅子から立ち上がり、みなさんの見ている中を、よう子ちゃんの側へと歩いて慰めに行きました。幸いよう子ちゃんは歌い終わってぼうっとしていて春絵さんの言葉が聞こえた風もなく、照り渡る月光を白い服に集めているだけでした。》
この逸話に象徴されるように、『本格小説』の白い服をまとって月の光を浴びたよう子も、悲恋の果ての死を迎える。言うまでもなく、女性名「ルチア」の語源はラテン語のlux(「光り」)であるが、シシリア島のシラクサで殉教した目(視覚)の守護聖人ルチアのイメージも背負っている。
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の第六挿話「ハーデス」は、ホメロス『オデュッセイア』で、死者の国(ハーデス)に出向く場面を下敷きとした、主人公ブルームが友人ディグナムの葬儀に列席する話だが、その一節に「ルチア」への言及がある。
若いころオペラ歌手を目指し(ジョイス『ダブリン市民』、『若い藝術家の肖像』に痕跡を見出せる)、同郷のテノール歌手に入れあげた時期もある、耳のよいジョイスの一人娘の名は「ルチア」だった。不幸にも統合失調症を病んでしまった娘を思いながら、悪い目で『ランモルメールのルチア』を観劇することもあったという。
《ミスタ・ブルームは恰幅(かっぷく)のいい親切な管理人のうしろで体を動かした。カットのいいフロックコート。たぶん、次に死ぬのは誰かとみんな瀬ぶみしている。とにかく長い休息なんだ。何も感じなくなる。感じるのは瞬間だけ。ひどく不愉快な気持だろう。はじめはとても信じられない。きっと人ちがいだよ、おれじゃない。向いの家で聞いてごらん。待ってくれ、おれは生きていたい。おれはまだ。それから薄暗い臨終の部屋。みんな光をほしがる。自分のまわりでささやく声。神父様を呼びましょうか? それから右往左往。一生のあいだずっと隠して来た錯乱のすべて。断末魔のあがき。その眠りは自然な眠りではない。下瞼(まぶた)を押してごらん。せりあがっている彼の鼻、とがっている彼の顎(あご)、そしてくぼんでいる彼の足の裏、黄いろ。枕を抜きとり床の上におろしてやれ、もう審判はくだったんだ。あの「罪びとの死」という絵、悪魔が彼に女を見せつけている。シャツを着た瀕死の男は女が抱きたくてたまらない。「ルチア」の最後の幕。「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」バン!絶命。ついに死んだ。しばらくはみんなが君の話をして、それから忘れてしまう。彼のために祈ることを忘れるな。お祈りのなかで彼の名をとなえてくれ。パーネルでさえ。「蔦の日(アイヴイ・デイ)」も消えようとしている。それからみんながあとを追う、一人ずつ順に穴のなかに落ちる。》
オペラ『ランメルモールのルチア』の中に、「もう二度とお前を見ることはないのだろうか?」と同一の歌詞はないが、最後の幕でルチアの死を知らされて自死するエドガルドの、ルチアを想う絶唱は似たような心境だった。
「ルチア」には悲しい死の匂いがある。
フローベール『ボヴァリー夫人』第二部の最終十五章、シャルルとエンマのボヴァリー夫妻はルーアンに出向いて、オペラ『ランメルモールのリュシー』(イタリア・オペラ『ランメルモールのルチア』のフランス版。以下『リュシー』と略す)を観劇する。期せずして、かつてのプラトニックな恋人レオンと再会する本章は、章をまたぐ第三部一章の大聖堂見物、辻馬車での姦通の橋渡しとなる重要な場面だが、ほとんど取り上げられない。
エンマはこれを機に非業の死へと雪崩れてゆくのだが、『ボヴァリー夫人』の『リュシー』が表象するものには、第三幕終盤の、二人の死の場面の前に劇場外へ出てしまうだけに、かえってフローベールならではの皮肉と美しさが「隠すことで現われる」とばかり、意味ありげに絡まっているにも関わらず。
たとえば、『フローベール全集』(筑摩書房)の『別巻 フローベール研究』は、プルースト、デュ・ボス、チボーデ、ジャン=ピエール・リシャール、ジョルジュ・プーレ、ジャン・ルーセ、サルトル、エドマンド・ウィルソン、リチャード・パーマー・ブラックマーらの「フローベール論」「『ボヴァリー夫人』論」が収められているが、『リュシー』についてわずかながら言及しているのは、ブラックマーだけであるが、その論考もさしたることはない。
蓮實重彦は、『別巻 フローベール研究』の「フローベールと文学の変貌――解説にかえて――」で、発刊された一九六八年当時のフローベール研究の見通しの良いレジメと、プーレ、リシャールの研究を契機とする今後の方向性を明示した。その後の研究も踏まえて、二〇一四年に八百ページからなる『『ボヴァリー夫人』論』を刊行したが、オペラ『リュシー』の内容そのものには踏み込んでいない。とはいえ、主題論的批評の面白さがある。
蓮實がなぜか無視しているウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』の「『ボヴァリー夫人』論」はナボコフらしく、フローベールの文学芸術の標本学的研究(ナボコフは鱗翅類の収集研究家でもあった)となっていて、『リュシー』観劇の場面をフローベールの「対位法的手法」の一例として分析しているが、「農業共進会」の場面での手法説明に比べて理解しにくい。
もっとも文字数を割いているのは、これも蓮實の書誌に登場しないのだが、トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテ・フロベール』だろう。思い込み解釈で首をかしげるところがあるけれども、教えられるところは多い。
<オペラ『ランメルモールのリュシー』概要>
ドニゼッティが一八三五年に作曲した『ランメルモールのルチア』は、イタリアの検閲を避けてパリに移住した彼によって、一八三九年にフランス語に改作され、『ランメルモールのリュシー』と呼ばれている。言語ばかりでなく、登場人物(フランス名だけでなく、侍女アリーサの不在や、部下ノルマンノに代わって従者レイモンドの存在など)や場面設定にもかなりの改変を凝らした。
スコットランドのランメルモール地方、リュシー(イタリア版:ルチア)とエドガール(同前:エドガルド)は恋人同士だが、両家は敵対関係にある。リュシーは兄アンリ・アシュトン(同前:エンリーコ)の陰謀によって、アルチュール(同前:アルトゥーロ)と政略結婚をさせられる。フランスから帰国して、結婚誓約書にリュシーの署名を見たエドガールは激怒する。アルチュールとの結婚式の夜、リュシーはアルチュールを殺し、狂乱する。やがてエドガールはリュシーの死を知り、後を追って自死する。舞台背景に満月が皎々(こうこう)と照り、月下に悲劇が繰り広げられることが多い。
第一幕
農夫や貴族が猟の歌を合唱している。アンリ・アシュトンは敵対関係にあるエドガールから一家を救うために妹リュシーをアルチュールと政略結婚させたいものの、彼女が拒んでいると語る。従者ジルベールはリュシーがエドガールと恋に落ち、密会を重ねているとアシュトンに告げ、二人を見た農民たちの合唱によって事実と知り、激怒する。
リュシーが哀切なアリアを歌い終わると、エドガールが現れてフランスに行くことになったと告げる。二人は抱き合い、結婚を誓ってエンゲージ・リングを交換し、別れを告げる。
第二幕
ジルベールは主人アシュトンに、贋のエンゲージ・リングによってリュシーあざむく悪だくみをさずける。アルチュールとの結婚を拒むリュシーに、アシュトンは贋のリングを見せ、一家を滅亡から救うためにアルチュールと結婚するよう強要する。
結婚の祝宴にアルチュールが迎えられ、人々は彼をたたえて合唱する。リュシーは、結婚の誓約書に無理やり署名させられてしまう。そこにエドガールが乱入し、エドガール、リュシー、アシュトン、アルチュール、ジルベール、レイモンド(同前ライモンド、ルチアの教育係・牧師)による「六重唱」となる。エドガールはリュシーの署名を見せられて激怒し、混乱のうちに幕となる。
第三幕
アシュトンとエドガールは夜明け前に墓地で決闘すると約束する。アシュトンの城では、結婚の祝宴が続き、リュシーはアルチュールとの初夜へ向かう。
レイモンドが現れ、リュシーがアルチュールを刺し殺したと告げる。白い衣装を血まみれにして、正気を失ったリュシーによる「狂乱の場」となり、エドガールとの結婚の幻想を歌う。リュシーは天国でエドガールと再会することを夢見て倒れる。
エドガールは、先祖の墓の前で絶望の歌を歌っている。人々が現れ、リュシーが死に瀕していると歌う。やがて死を告げる鐘が鳴り、レイモンドがリュシーは死んだと伝えると、エドガールは剣を胸に刺して後を追う。
<『ボヴァリー夫人』――「月の光」と「死の場面」>
『ボヴァリー夫人』には「月の光」が二十箇所以上出てくるという。『リュシー』との関連性をフローベールはことさらに言及しない注意深さだが、エンマが月の光の下にいた場面の情緒性、ロマン派的ステレオタイプな描写を見てみれば、観劇の場面でのエンマの感情の流れは、フローベールが巧みになぞったアイロニーとわかる。
新婚の時期、エンマは夫シャルルの恋心をかきたてようとしたが、空しかった。
《一方、エンマはエンマで、自分が有効と信じている処方に従って恋を感じようとした。庭で月光のもと、そらんじているかぎりの情熱的な詩句を口ずさみ、溜息(ためいき)まじりに憂わしげなアダジオを夫に歌って聞かせた。しかしエンマはそのあと、すぐにまたもとの木阿弥(もくあみ)の冷静な自分に帰ったし、シャルルのほうも、いっこうに恋心をかきたてられたようにも、胸をおどらすようにも見えなかった。》
「農業共進会」におけるロドルフの口説きの場面では、ロドルフが「月の光」を語ってエンマの心をとらえる。
《そしてふたりは田舎のつまらなさ、そのつまらなさのなかに窒息しそうな生活、はかなく消えて行く夢について語った。
「こうして私はたとえようもなく悲しい気持に引き込まれてゆくのです……」
「あなたが!」と彼女は驚いて言った。「とても陽気なお方とばかり存じておりましたのに」
「ええ、うわべはそうでしょう。私は世間にあっては、茶化した笑いの仮面をかぶるすべを心得ていますから。しかし月の光に照らされた墓地をながめたりすると、あそこにああして眠っている人たちのところへ行ったほうがどんなによいかと、そのたびごとに思うのです……」》
ロドルフとの姦通生活が何ヵ月かたったころ、月ばかりか、『リュシー』でも重要な役割を果たした「指輪」の逸話も登場した。
《それに彼女は近頃ひどい感傷家になってきた。小さな肖像画を交換しなければならないと言い、髪の毛を一束切って取りかわしもした。そして今度は永遠に渝(かわ)らぬ恋のしるしに、指輪を、それも本式の結婚指輪をほしいと言い出した。何かというと夕べの鐘だの、「大自然の叫び声」だのについて語り、また自分の母親やロドルフの母親の話をした。ロドルフが二十年も前に母親を亡くしたと言うと、エンマはしきりに同情する一方、まるで捨て子にでも言い聞かすような甘ったるい言葉で彼をなぐさめた。ときには月をながめて、
「あなたのお母さまはわたしの母といっしょに月の世界にいらっしゃって、きっとふたりしてわたしたちの恋を喜んでいてくださいますわ」などと言いいさえした。
しかしエンマは文句なく美しかった! 彼はこんなに生(き)一本な女を情婦に持ったことはなかった!》
やがてエンマはロドルフに駈け落ちを迫るようになり、ロドルフは延期に延期を重ねたあげく、厄介払いする段取りを決めての最後の逢い引きの場面は月夜だった。
《「なんてかわいい人だ!」彼はエンマを両腕に抱きしめて言った。
「ほんとう?」と彼女はあだっぽく笑いながら、「わたしが好き? そんなら誓って!」
「好きかって! 好きかって! それどころかしんから惚れぬいているよ!」
月はまん丸く赤みがかって、牧場(まきば)の果ての地平すれすれに浮かんでいた。見る見る月はのぼってゆく。ポプラの枝の向こうにかかると、枝は穴のあいた黒いカーテンのようにところどころ月のおもてを隠した。やがて月は皎々(こうこう)と輝き出て、もはや何ひとつさえぎるもののない大空を照らす。そのとき月は歩みをゆるめ、川波の上へ大きな影を落とすと、影はたちまち無数の星となって散った。そしてその銀色のほの明かりは、きらめく鱗(うろこ)におおわれた無頭の水(みず)蛇(へび)のように川底まで身をよじらせて突き入るかと見え、あるいはまた、熔(と)けたダイヤモンドの雫(しずく)がたらたらととめどなく伝い落ちる巨大な枝つき燭台(しょくだい)をも思わせた。静かな夜がふたりのまわりに広がっていた。》
ルーアンでレオンとすごした至福の三日間は、エンマの真の蜜月だった。夕方には小舟をやとって、川中の島へ食事に出かけた。
《やがて月が出た。すると、ふたりは申し合わせたように美辞麗句をならべ、月はなんと物悲しく詩趣に満ちていることでしょうと言った。エンマは歌さえうたいだした。
かの宵を思いいでずや、われ君と漕(こ)ぎ…… (ラマルチーヌ『みずうみ』)
彼女のなだらかな、かそけき歌声は波の上に消え、ときに急テンポに高まる節まわしが風に吹き流されるのを、レオンは鳥が身のまわりに羽ばたき過ぎる音のように聞いた。
彼女は舟の屋形の板によりかかって、レオンと向き合っていた。窓の鎧戸が開いているその一つから、月の光がさし込んでいた。黒いドレスの裾襞(すそひだ)は扇形にひろがって、彼女をいっそうすんなりと背高く見せていた。彼女は姿勢正しく、手を合わせ、じっと空をあおいでいた。ときどき彼女の姿は岸辺の柳の影にすっぽり隠れて見えなくなる、と思うとたちまち幻のように月光をあびて現われるのだった。》
オペラ『リュシー』で、リュシーの「死の場面」は舞台にあがらない。従って、リュシーの死体を見ることはない。しかしフローベールは死にゆくエンマばかりでなく、遺体をも、医者だった父のような冷徹な目で解剖学的に描く。
《エンマは舌の上に何かひどく重いものでものせているように、しょっちゅうぱくぱく口をあけては、苦しさに堪えて、ゆるやかに頭を左右に動かしていた。(中略)エンマはまもなく血を吐いた。唇はますます引きつった。手足は痙攣(けいれん)し、全身は褐色の斑点(はんてん)におおわれ、脈は張りつめた糸のように、今にも切れようとするハープの絃のように、指の下をかすめた。(中略)たちまち胸がせわしくあえぎはじめた。舌がだらりと口の外へたれた。目の玉はたえずぎろぎろ動きながらも、消えてゆく二つのランプの丸ほや(・・)のように光が失せていった。魂が肉体を離れようとしてあばれているように、肋骨(ろっこつ)がおそろしいほどの息づかいでゆさぶられる。(中略)痙攣がエンマをベッドの上に打ち倒した。みんなは枕(まくら)べにつめ寄った。彼女はすでにこときれていた。》
シャルルは、エンマの亡骸(なきがら)を、結婚式のリュシーのように飾りたてたかったのだろうか。
《シャルルは診察室にこもって、ペンを取り、しばらく嗚咽(おえつ)にむせんでから、次のようにしたためた。
[婚礼の衣裳を着せて埋葬してください。白靴をはかせ、花かずらをかぶせること。髪は両肩をゆたかにおおうようにする。棺は三重とする。柏(かしわ)と、マホガニーと、鉛とで。小生は取り乱すまじきゆえ、何もおっしゃってはくださるまじく。棺の覆(おお)いは緑色のビロードをたっぷりと願います。小生の望むところは以上、なにとぞそのとおりにおはからい願います。]
これを読んだ薬剤師と司祭は、ボヴァリーの小説じみた着想にあきれ返った。薬剤師はすぐに出向いて、
「このビロードはいくらなんでもあんまり大げさじゃないでしょうか。費用の点からも、こりゃちょっと……」
「わたしの家内の葬式ですよ!」とシャルルは叫んだ。「いらぬお世話だ! あなたはあれを愛していないからわからない! お帰り下さい!」》
フローベールは亡骸の描写も容赦ない。
《エンマは頭を右肩寄りにかしげていた。口は開き、その口もとは顔の下部に暗い穴のような影をつくっている。両手の親指はてのひらのほうへ折れ曲がっている。睫毛(まつげ)は白い粉(こ)を吹いたように見え、瞳(ひとみ)はまるで蜘蛛(くも)の巣におおわれたように、薄絹まいた、ねばねばした、青白いものの下に消え入ろうとしていた。》
二日目の通夜。空には星かげがちらほら、しめやかな夜だった。死に化粧を施されたエンマはシャルルの指示したとおり花嫁姿で横たわっている。書かれてはいないが、あたかもリュシーのように。
《月光のように白々と光る繻子のドレスには木目模様がきらきらとふるえていた。エンマはその下にかくれていた。シャルルは、エンマが彼女自身の外へのがれ出て、周囲の事物のなかへ、しじまのなかへ、闇のなかへ、吹きわたる風のなかへ、ゆらめきのぼるしっとりした香煙のなかへ、いずこともなく溶け込んでゆくような気がした。》
恋人だったロドルフもレオンも自死する気配などまったくなく、ぬけぬけと生きつづけている。一方、シャルルは彼らしく暢気な死を迎える。そこにあるのは、ロマンティシズムの「紋切り型」を裏切るフローベールの作為であろう。
エンマ亡き後、シャルルはひたすらエンマに思いを馳せ、ぜいたくな趣味やロマンティシズムまで模倣する。娘ベルトへの愛に執着し、夏になると、夕方、娘を連れて墓参りをするようになった。
ぱったり出会ったロドルフに「運命のいたずらです!」と、生涯を通じてただの一度の名台詞を語った彼は、
《翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨(そけい)の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音をたてている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。
七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。
父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。
「お父さま、いらっしゃいな!」
そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。彼は地面に倒れた。死んでいた。》
記憶力のよい読者ならば「青葉棚の下のベンチ」に思い当たるはずだが、エンマがレオン、ロドルフと逢引した場所に他ならない。
<トニー・タナーによる『ボヴァリー夫人』論――「姦通の文学」>
トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテ・フロベール』から。
『リュシー』はあまりにシンプルでストレートすぎると評されもしようが、《オペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物》、《もってまわって入り組んだ筋》と表現しているところから、タナーはこのオペラを見ていないのではないか、筋もよく理解していないのではないか、と疑いたくもなるが、批評自体は優れた分析、論考となっている。
《劇場でエンマは演し物に対して実にさまざまな反応を示している。それは彼女が単に幻想に身を委ね、音楽に身をまかせたといった問題ではなく、彼女が終わりを待たずに劇場を出たのも、必ずしもレオンの予期せぬ出現のせいばかりではなさそうだ。ある意味で、エンマは、彼女の感情生活のすべてを、そこで要約的に再体験しているのだと言える。まず劇場に入るときの彼女の喜びと興奮は「子供のよう」と描写されているし、オペラが始まると彼女は「娘時代の思い出の小説の国」に浸り、ラガルディーが現われて彼女を誘惑して後は、シャルルとの結婚、レオンへの思い、ロドルフとの姦通などを通じて体験したあらゆる感情や欲望や幻想の中を、再びかけめぐり始めるように見える。エンマの「ああ」という叫び声が、最初の場面の終わりの楽音に「溶け込んだ」ように――原語の”se confondit”は言うまでもなく終始エンマにつきまとう語である――すべての彼女の感情は、互いに入り乱れ、混ざり合い「溶け合って」消えていくかのようである。特に彼女は結婚式の日を思い出し、何故もっと抵抗しなかったかと悔やむのだが、彼女の回想には、いささか奇妙な言葉遣いが見られる。初々(ういうい)しい美しさがまだまだ自分のものだったあの頃、結婚生活のけがれ(soilure)も、邪恋の幻滅も味わい知らぬあの青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託すことができていたとしたら……」(第二部第十五章)。”soilure”(「けがれ」)とは不純や汚染を意味する語で、汚染恐怖が根強く残る未開社会の多くでは、姦通こそが「けがれ」の源泉で、共同体を危険に導くものとされている(従って姦夫や姦婦の接触や眼差しは病気を招くと考えられている)。けがれとは「所定の場所にない、場違いなもの」のことだとするウィリアム・ジェイムズの説に従えば、姦通を犯した者が「けがらわしい」のは、彼(や彼女)が社会的に認められた範疇を踏み越えて禁じられた境域に踏み入ったからであり、いわば違うベッドにもぐり込んで、「場違いな」人間と成り果てたせいであろう。従って通常の考え方では、結婚によって「けがれる」のは不可能で、むしろ結婚に「幻滅」(”disillusionment”)を味わうというのなら、理解もできるし可能でもあるということになろう。いわばエンマは言葉を並べ違えているのであって、用語と属性を混乱させ始めていると言ってもよい。この「けがれ」と「幻滅」というレッテルの言及しうる体験領域の転倒ないしは「転移」は、エンマの思考過程そのものが「混ぜ物をした=姦通的な」(”adulterous”)ものになりつつあることを示していよう。結婚と姦通を距てる壁を乗り越えることと、両者の区別を見失うことはまったく別のことで、後者の方がはるかに不穏な事態であることは言うまでもあるまい。その不穏さが「強い心」(”cœur solide”)の持ち主と結ばれていたら、という彼女の空しく絶望的な望みの苦々しさを倍化することになる。彼女は身も心も分裂し崩壊する過程になすすべもなく巻き込まれていく一方で、必死にありえないような「堅さ、強さ」に憧れているのである。後にも彼女は同じ思いを抱き続けている――「もしもこの世のどこかに、強く美しい人がいてくれたなら……」(第三部第六章)。彼女がこのような思いに悩むのも、彼女には結婚相手が「零」に思われ、愛人たちにも同様の不足と実体の欠如を見出さずにいられなかったからである(サルトル風の用語を使えば、エンマは、生活と体験の「無」が生み出した「存在」の夢に焦がれ続けた、ということになろう――ここでは抽象的な言葉遣いが、かえって彼女の窮境をよく象徴しうるように思う)。
オペラを眺めやりながら、エンマは曖昧ゆえに必然的に満足させられえぬ欲望と不可分の幻滅を経験する。この上ない幸福感など、「すべての欲望(désir)を絶望(désespoir)に追いやるべく生み出された、一種の虚構に違いない」と彼女は決めつけ始めるのだが、ここで再び言葉どうしの混融が起こるように見える。文字づらがそうであるように(dés[espo]ir)、「欲望」が「絶望」をはらんでいるのである。これは決して無意味な指摘ではなく、差異の境界線がぼやけてくるにつれて、堅固な安定した意味(「存在」と呼んでもよい)は確実に見失われていく。エンマがここで目撃しているのが、欲望と絶望のもつれ合いだとすれば、後に彼女が体験するのは、もはや両者が識別不可能にまでいたった事態であろう。それは、われわれ読者も読みのレベルで追体験させられる、きわめて厄介な状況である。エンマは、一時しのぎの策として、「自分の苦悩の再現」とまで思えたオペラを、「ただごてごて飾りたてた虚仮(こけ)おどしのでたらめ」だと思い込もうとする。しかし屈辱の恋人(ラガルディー)が再び現われると、エンマはその「人物の与える幻想」(”illusion du personage”)に惹きつけられざるをえない。”personage”という語は、英語でもそうだが「高位の人物」または一般に「人物」を指す。従って、ある意味でエンマは、現実の「人物」――堅くて、強い――の面前にいるとの「幻想」にとらわれたのだと言ってもよいだろう。エドガール・ラガルディーはフローベールによって、「驚くべき香具師(やし)根性」の持ち主と描写されており、「床屋」とも「闘牛士」とも見えたという体軀をもつこの男は、ルール―と同じように、遠くはあのシャルルの帽子に起源をもつ、雑種的寄せ集めの産物の一人と見なせよう。しかし、そのような人物がエンマに、いかにも生き生きとした現実の「人物」であるかのような印象を与えたという逆説を、あまり強調しすぎるのは愚かしいことであろう――そのような詐術こそ劇場の得意とするところだろうし、フローベールはそれほど陳腐な技巧を弄したりなどしない。エンマは決してだまされているのではない。ただ混乱しているのである――それもあらゆる基準点を見失いかけているため、彼女が自分で思っている以上に、である。彼女がしばしば、自分の居場所を見失いかけること自体は、さして重要ではない。むしろこの手の劇場は、その種の時間的・空間的混乱を観客に体験させることを本領とするのだから。はるかに重要なのは、彼女が自分が何である(・・・・)のか、更には自分を取り巻く事態がどうなっているのか、もはや理解できなくなりつつあることであろう。彼女の体験が肉体的、感情的である場合ですら、彼女のかかえた窮境は存在論的価値をもつのである。実際彼女は、「結び目をほどかれて」(“dénouée”)いるのだ(この語とそれが意味する状況については、後に触れよう)。
続けてエンマに降りかかっている事態を検討する前に、舞台で何が起こっているのか理解できずにいるシャルルに、しばらく同情の眼を注いでみよう。フローベールが、書き写している断片的で一貫性のない舞台風景からは、われわれ読者とて、ごく大雑把な物語の筋を拾い上げることすらできまい。無論それはオペラの物語そのものが支離滅裂で、音楽とあちこちから寄せ集めた感傷的な仕草や台詞を盛り込んだかなりでたらめな代物であったためであろう。しかしそのことは逆に、にもかかわらずエンマはそれを理解し、所詮はごた混ぜ品にすぎぬはずの演し物の中に、物語のみならず、意味をもった関係と状況を見出したつもりになっていたという事実の方に、改めてわれわれの注意を引きつける。このオペラはどうやら『ラマムアの花嫁』に基づくもので、エンマは、ウォルター・スコットのこの作品を読んだ記憶をたどりながら、物語の筋を補っている――「忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかった」――しかし彼女が覚えている筋も、霧の中から(またしても頭の中の霧である)聞えてくるスコットランドの風笛の音にかき消えていく。つまり、風景や衣装や音楽が入り乱れるオペラの断片的情景を語るフローベールの筆法は、エンマの見たまま感じたままをなぞっているとわかるのだが、何故か彼女はその混乱の中に秩序だった意味をもつ体験を拾い出していたということになる。いわばフローベールが描き出しているのは、エンマ自身の意識の断片化・無秩序化の姿に他ならなかったのかもしれない。対照的にシャルルは、階級、役柄、状況などを判断する力がなく、主人と恋人を混同し、情熱と虐待を取り違えている。言葉を換えれば、彼は何でも文字どおりにしか理解できない人物で、この舞台に展開されている、ほとんど馬鹿げたと言えるほどもってまわって入り組んだ筋には、もはやついて行けなかったものと見える。彼は正直者とも愚か者とも呼べようが、いずれにしても、「回りくどさ」や「遠回しの表現」は彼のよく対処しうるところではなかった。「規則」(”les règles”)を重んじ、それに従うのを事として、「曲りくねった=逸脱」(”les tournures”)はまったく解しかねた男である以上、”les tournures”のかたまりとも言うべき劇場が、彼の受け容れるところとなろうはずもなかったのである。ある意味で、彼は決して劇場の中に「踏み込んで」はいないのであって、劇場外で通用する「規則」を何とかそこに適用しようと努めているにすぎない。彼は自ら言うとおり「はっきりさせたい性分」なのだが、この芝居に、「はっきりさせられる」ものなど見出しようもない。同じ意味で、エンマの方は決して劇場から「立ち去って」はいないのだと言えよう。彼女が第三幕の途中で外に出ようとするとき、すでに彼女の意識は、最後の段階とも言うべき完全な「劇場化」の段階を迎えていたからである。一人の客の声が「第三幕が始まりかけているので」静かに、という合図を彼らに送るとき、そこに込められたアイロニーは幾重にも重なり、ほとんど存在論的性質をおびている。「第三幕」とはオペラの第三幕であるばかりか、第三の男と過ごすエンマの人生の第三段階をも指そうし、まさに「始まりかけている」小説そのものの「第三部」をも予告している――つまり「第三幕」の中で物理的、劇場的、語彙的領域が、混合し融合しているのである。こうしてエンマは、遂にそこを「立ち去る」ことのない「幕=行為」(”acte”)の中に踏み込んでいく。》
第三幕の途中で帰ってしまうので、エンマも、そして読者も、『リュシー』の結末がどうなったのかを知りえない。しかし、これはフローベールの策略なのだ。
フローベール『ボヴァリー夫人』の第二部から第三部へ跨いで、エンマとレオンとの逢引を描くフローベールが「隠すことと現われること」のイリュージョン技法を駆使しているとジジェクは論じる(『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲル・イデオロギー批判』)。
エンマはルーアンでオペラ『ランメルモールのリュシー』を夫妻で観劇したさい、旧知のレオンと偶然出会う。翌々日には大聖堂で逢引し、馬車に乗るよう促された。
《恋人たち二人が馬車に乗り込み、御者にただ街中を走り回るように命じたあと、われわれは馬車の完全にとざされたカーテンの背後で何が起こっているのかを聞かされることはない。後のヌーヴォー・ロマンを思い起こさせるディテールへのこだわりをもって、フローベールは馬車が当てもなくさまよう周囲の都市の様子をただひたすら描写していく。舗装された通り、教会のアーチ、等々――ただひとつの短いセンテンスだけが、ほんの一瞬、カーテンから突き出した何もつけていない手に言及するだけである。この場面は、「公式」の機能としてはセクシュアリティを隠すはずの言葉が、実際には、その秘密の出現=現われを生み出すという、あるいは、フーコーのテーゼがそれへの批判として目論まれて当の精神分析の用語を用いるなら、「抑圧された」内容は抑圧の効果であるという、『性の歴史』第一巻におけるフーコーのテーゼをあたかも図解するかのようにできている。作家のまなざしが、どうでもよい退屈な建築のディテールに限定されればされるほど、われわれ読者は責め苛まれ、馬車の閉ざされたカーテンの背後の空間で何が起こっているのかを知りたいという熱望に駆られる。『ボヴァリー夫人』をめぐる裁判で、この作品の猥褻性の一例としてまさにこのパッセージを引いたとき、検事はこの罠に掛かってしまった。フローベールの弁護士にとって、舗装した道や古い家の中性的な描写にはいささかも猥褻なところはないことを指摘するのは容易なことであった。いかなる猥褻性も、カーテンの背後の「本当の[現実の]ものreal thing」に取り憑かれた読者(この場合は検事)の想像力にその存在をすべて負っている。今日われわれには、フローベールのこの方法がきわだって映画的(・・・)に思えるのは、たぶん偶然ではないだろう。それはあたかも、映画理論が「視野外hors-champ」と呼ぶもの、まさにそれ自身の不在において見られうるもののエコノミーを組織するものである。視野に対する外在性を利用しているかのようなのだ。》
『リュシー』第三幕のラストで、リュシーが狂乱の果てに死んでしまい、それを知ってエドガールも自死する場面をここで露わに表現しては、死に方が違うとはいえ、エンマが砒素を飲んで自死し、ほどなくしてシャルルもベンチで眠るように死んでしまう事態との共通性が見えすぎてしまう。
それは、ナボコフが『ボヴァリー夫人』論の「農業共進会」の場面で、やがてエンマに訪れる「恐ろしき結末」、「皮肉と悲哀を美しくからまり」あわせた意味深長な仕掛けとは逆に、あからさまにしてしまうがゆえに、隠すこと、つまりは最後まで見ずに劇場から出てしまうことを選んだのに違いない。
ナボコフは次のように書いている。(下記で、オメーは薬剤師・薬屋、ブーランジェとはロドルフ・ブーランジェ)
《共進会がはじまるところで、人物たちを組み合わせるに当って、フローベールは、金貸しで呉服商のルールーとエンマに関して、特に意味深長なことをやってのけている。それより少し前、ルールーがエンマにいろいろと奉仕すると申し入れた際――着る物とか、必要とあれば、お金も――彼は妙に宿屋の真向いにあるカフェの主人、テリエの病気のことを気にしていた、そのことが思い出されよう。さて、宿屋の女将がまんざら満足でなくもない調子で、お向いのカフェが閉店になると、オメーに話す。ルールーがカフェの主人の健康が次第にそこなわれていることに気づき、いまこそ貸した金をごっそり取りもどす潮時だと、腹をきめていたことは明白だ、それで哀れなテリエは、とうとう破産してしまったのである。「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、オメーが叫ぶ。この男はいかなる場合にも通用する適切な表現を心得ていると、フローベールは皮肉に注している。が、この皮肉の背後には、なにかがある。というのは、オメーが「なんたる恐ろしき結末ぞや!」と、いつもの愚かで、誇張した、大仰な言いかたで叫んだ、ちょうどそのとき、女将は広場の向うを指さして、こういっているからだ、「あれ、あそこに、ルールーが歩いてくわよ、ボヴァリーの奥さんに挨拶してる。奥さんはブーランジェさんと腕なんか組んでるよ」。この構造的な一行の美しさは、カフェの主人を破産させたルールーが、ここで主題的にエンマと結びつけられているところにある。彼女がやがて滅びるのは、なにも情夫たちのためばかりでなく、ルールーのためでもあるからだ――まことに、エンマの死は「恐ろしき結末ぞや」ということになるだろう。皮肉と悲哀がフローベールの小説にあっては、美しくからまり合っている。》
《『ボヴァリー夫人』には、鼻孔から体内に取りこもうとしているものが文字通り「塵埃」の香りにほかならぬことで、豊かな意味を帯びる段落が存在している。それは、第二部の十五章のことであり、病みあがりのエンマがルーアンへオペラ観劇に出かける挿話に見られるものだ。すでに高価な切符を予約している彼女は、「あまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれ」(Ⅱ部-15章:『ボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)P365)、夫をうながして港のあたりの散策でじっくり時間を潰してから劇場に足を踏み入れる。
玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。(同前)
注目すべきは、正面入口を通って二階席へ向かうエンマの存在がたちまち触覚と嗅覚に還元され、劇場という建築空間も、階段、廊下、通路、桟敷の扉など、もっぱらそれにふさわしい細部としてしか感知されなくなっており、かたわらにつきそっているはずの夫さえ姿を消しているかにみえることだ。しかも、通路で彼女の感じやすい鼻孔が吸いこむのは、ほかならぬ「ほこりっぽいにおい」なのである。その「ほこりっぽい」«pousiéreuse»という形容詞の女性形は、草稿のある段階で余白に書きこまれたものであり、ある時期まではたんに「通路のにおい」とのみ書かれていたにすぎない。また、その後は削除されることになるが、「通路のほこりっぽいにおい」と同格の長い名詞句が余白に書きそえられているので、その加筆部分をひとまず訳しておくなら、「それは、彼女には、官能的な繊細さと理想的な逸楽にみちた美しく詩的で、この世ならぬ世界のとらえがたい香華と思われた」(Brouillons,vol.4,folio 269v)となるだが、ここでの主題論的な読み方からすれば、「ほこりっぽい」という形容詞にそれだけの意味がこめられていることぐらいは、『ボヴァリー夫人』における「塵埃」をめぐる体験の官能性からして、誰もがすでに察知していたはずである。
この二階の桟敷席での塵埃体験と農業共進会の場面における村役場の二階での塵埃体験の類似を指摘するのはいかにもたやすいことだ。いずれにおいても、エンマが一段と高い位置に身を置いているのは誰の目にも明らかだからである。すでにポマードの匂いで現在と過去とを混同し始めていた彼女は、その居場所から、砂塵を捲きたてて丘を下ってくる乗合馬車を認め、その砂ぼこりがレオンの記憶をよび醒ましていたのだが、あたかもそのことに対応するかのように、「ほこりっぽいにおい」に導かれて坐ったこの桟敷席には、シャルルが偶然に出会ったレオンその人が幕間に姿を見せるだろう。さりげなさを装って舞台に見入る彼女は、彼の「なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて」(Ⅱ-15:366)おののくしかなく、もはや楽しみにしていたオペラを見続けることなどできはしない。
だが、さらに興味深いのは、「土ぼこり」と「ほこりっぽい」という語彙的な類縁性が二つの引用文を関係づけていることにもまして、それとはまったく異なる語彙がこの二つの挿話に刻みつけられているという点である。それは、瞳や鼻孔によって感知しうる外界の対象としての塵埃を感知しつつあるエンマの姿勢を示す動詞にほかならない。「土ぼこり」の渦を彼方に認めたり、「ほこりっぽいにおい」を胸いっぱいに吸いこむ瞬間に、「椅子の背にそり返りながら瞼を細めたそのとき」«Mais,dans ce geste qu’elle fit en se cambrant sur sa chaise»(Bovary246)と、「すいと(・・・)背を延ばした」«elle se cambra la taille»(Bovery340)のように翻訳では異なる日本語の動詞があてられているが、彼女はいずれにおいても「身をのけぞらせる」«se cambrer»という同じ動作を演じている。村役場の二階の窓辺と劇場の「二階指定席」の桟敷にただ坐っているだけではなく、いずれにあっても、エンマは充足感から思わず背をのばして椅子に坐りなおすのである。そして、その動作を示す「身をのけぞらせる」という動詞が、この二つの挿話において、「塵埃」という名詞、あるいは「ほこりっぽい」という形容詞と強い吸引力によって接しあっている。したがって、この二つの挿話の類似は、物語の状況やその背景の空間的な形態にとどまらず、そこに配置された語彙の水準にまで及んでいるという点をここで強調しておきたい。》
《第二部を閉ざすことになる十五章のボヴァリー夫妻のオペラ鑑賞は、すでに見た「主題論」的な意義深い細部の「反復」によって、この作品の「説話論」的な構造の一貫性を証明しているかに見える。だが、その一貫性は、これから検討してみるように、語りの大きな変化を誘発するものとはいいがたい。すでに指摘したことだが、物語を異なる領域へと移行させるものは、返すあてもないまま二枚の約束手形に「署名」することでシャルルが債務者となるという変化にほかならず、第三部は、その身振りのはらむ「署名」の価値下落をエンマがほとんど無意識に「反復」することで、ボヴァリーという名前の「信用」の失墜があからさまになる過程として語られることになるからだ。債務者夫妻のルーアンへの観劇旅行は、それを加速させる最初の機会にほかならない。
だが、エンマはいうにおよばず、読者にとってさえ充分に意識されずにいるのは、そこに機能している「反復」のメカニズムがかえって変化の不在をきわだたせ、語られている目の前の現実を操作しているものをいくぶん視界から遠ざけ、事態の推移を見えにくくさせているからである。実際、トストからヨンヴィルへの移住がエンマの「神経の不具合」の治療に必要な「転地」でもあったように、ここでの「移動」――それは、ほんの数日のものでしかないが――もまた、「この気晴らしが妻の健康によいにちがいない」(Ⅱ-14:353)と信じるシャルルの医学的な判断によって実現された一種の「転地」にほかならない。彼にそう決心させたのは、「大芸術家」としてあれこれ噂のたえない「ラガルディーが歌うのは一日きり」(同前)なのでそれを見逃す手はないというオメーの言葉なのだから、第一部の終わりでシャルルとの書簡の交換によってボヴァリー夫妻をヨンヴィルへと呼びよせた薬剤師が、第二部の終わりでも二人をルーアンへと送り出すことに深くかかわっており、そこにまぎれもなく「反復」が演じられている。さらに、パリに行っていたはずのレオンとオペラ座で偶然に出会い、夫の説得にしたがってルーアンに残るエンマが、いまはその都市の法律事務所で書記として働いているこの若者に身を任せるという事態の推移も、「呼吸困難」に陥りがちな彼女を乗馬につれだそうというロドルフの提案にシャルルが医師として賛同したことで、二人が恋人同士になるというすでに見た構図の絵に描いたような「反復」にほかならない。
ここで見落としてならないのは、シャルルが、ほとんど反復脅迫に身をさらしているかのように、自分にとっては不利に作用する状況を妻への医学的な配慮によって引きよせていながら、その自覚が彼にはまったくないということだ。「今度にかぎってシャルルはゆずらなかった」(同前)という一行にこめられている夫の頑固さが回復期のエンマにオペラ見物の小旅行に同意させたように、彼女が夫とともにヨンヴィルには帰らず、レオンとともに二日も余分にルーアンに滞在することになるのは「お前は日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったら、ためらうことはない」(Ⅱ―15:368)という夫の一言なのだ。それは、ロドルフの用意した馬に乗って森へと出かけることを彼女に説得した「何よりも問題は健康だ! おまえはどうかしているよ!」(Ⅱ-9:248)という言葉の遙かな谺のように響く。》
《これ(筆者註:「農業共進会」の場面)とほとんど同じ状況がシャルルの存在の希薄化をいちじるしく助長しているのは、「つめかけた観衆は正面玄関の左右、壁ぎわの柵のあいだに列をつくって待っていた」(Ⅱ-15:355)というルーアンでのオペラ観劇の場面である。農業共進会に押し寄せる「群衆」のように、ここでは不特定多数の「観衆」があたりにあふれかえっているので、「ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた」(Ⅱ-15:356)といういかにもぎこちない姿勢で劇場へと急ぐシャルルの中には、すでに未知の空間に触れるときに体験するだろう彼の精神と肉体の異様な硬直ぶりが予告されている。実際、「玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった」(同前)と書かれてから、予約しておいた桟敷席にすわって「公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした」(同前)彼女のかたわらに腰をおろしているはずの夫への言及は、ぴたりと途絶えてしまう。天井からおりてくるシャンデリアが燦然と輝き、管楽器の高まりとともに幕がするするとあがると、いきなり「娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなか」(Ⅱ-15:357)へとつれさられるエンマのかたわらで、シャルルは「こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔」(Ⅱ-15:360)になって「話の筋がどうにもわからない」(同前)と口にして、「静かにしてらっしゃい!」(同前)とたしなめられるところなど、ヴォビエサールでの二人のやりとりを想起させる。ここでも、シャルルは、オペラの上演にまつわるさまざまな規則には通じておらず、しかも、幕間には、廊下にあふれた群衆に足をとられ、両手に持った飲み物をさるご婦人の正装のドレスにひっかけ、「孔雀(くじゃく)のような叫び声」(Ⅱ-15:364)まであげさせてしまう始末だから、彼の理解力のみならず、運動神経までが目に見えて低下しているといわざるをえない。その直後に、偶然にであったレオンが桟敷にたずねてくるので、シャルルの存在感はますます低下するしかない。》
<ナボコフと蓮實重彦による『ボヴァリー夫人』論――「交響曲」>
第二部十五章の、《その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。》という「六重唱」こそ、フローベールの目論む「交響曲」に相当するだろう。
ナボコフは「『ボヴァリー夫人』論」でそれを、《あたかも、芽生えた恋を祝うかのように、フローベールは一切の人物を市場に集め、文体の実演を披露して見せる。これこそ、この章のめざしている真の意図である。恋人同士、ロドルフ(贋の情熱の象徴)とエンマ(その犠牲)が、オメー(やがてエンマがそれ故に命を絶つことになる毒素の贋の保管者)と、ルールー(これはエンマを砒素の壺にと駆ることになる経済的破滅と恥辱の代表)とにつながれ、それからそこにはシャルル(結婚生活の慰め)もいるのだ。》として、時系列的に説明してゆく。
《共進会の場面では、平行挿入ないし対位法的手法(・・・・・・・・・・・・・)がふたたび用いられている。ロドルフは腰掛けを三脚みつけてきて、それをつないでベンチにすると、エンマと一緒に役場のバルコニーに陣どって、演壇の上の見せ物を見物し、演説を聞き、そして戯れの恋の会話にうつつをぬかす。厳密には、二人はまだ恋人ではない。対位法の第一展開で、顧問官が比喩をめったやたらと混ぜ合わせ、まったくの言葉の自働機械と化して、自己矛盾を冒しながら演説する。(中略)第一段階では、ロドルフとエンマの会話が、盛りだくさんな役人の雄弁と交替に現れる。(中略)フローベール、およそ考えられうる限りの新聞体および政治演説の月並な常套句を収集している。が、大事なことは、役人の演説が陳腐な「新聞体(ジャーナリーズ)」なら、ロドルフとエンマのあいだにかわされるロマンティックな会話は、陳腐な「恋物語調(ロマンティーズ)」であるということだ。この場面の美しさは、善と悪とがたがいにせめぎ合っているというのではなく、一種の悪が別種の悪とたがいに混じり合っているところにある。フローベール自身いっていたように、まことに彼は色の上に色を重ねて描いているのだ。第二の展開は、顧問官リューヴァンが腰をおろし、ついでドロレーズ氏が立ちあがって演説するところからはじまる。(中略)やがて第三の展開がはじまると、直接の引用が再開し、演壇から風に乗ってただよってくる賞品授与の叫びの断片が、なんの注釈も描写もなしに矢つぎ早やに交互に現れる。(中略)第四の展開はここからはじまる、二人はようやく黙り、いまや特賞が与えられようとしている演壇から、言葉がふんだんに注釈をともなって聞こえてくる。(中略)このように見事な対位法的な章をしめくくる圧巻は、オメーがルーアンの新聞に寄稿した、この見せ物と祝宴に関する記事である。(中略)ある意味では、かの双子の姉妹とも言うべき産業と芸術とは、豚飼いと艶にやさしき恋人同士とを一種道化茶番風に統合する象徴となっているといえよう。これは素晴らしい一章だ。ジェイムズ・ジョイスに多大な影響を与えたのも、この章である。表面的にはいろいろと新規な工夫がこらされているにもかかわらず、ジョイスがフローベールよりも一歩先にすすんだとは、わたしには考えられない。》と絶賛した。
蓮實重彦は『『ボヴァリー夫人』論』の「Ⅳ 小説と物語」で、「同時多発」という主題を掲げ、ナボコフと似たような部分を取りあげながら、「交響曲の効果」を説明する。
《では、「書くこと」と「語る」こととは、作品にいかなる齟齬をもたらすのか。それを明らかにするには、一八五三年十月十二日付けのルイーズ・コレ宛の手紙で「交響曲の効果が仮にも一冊の本のなかに移されたということがあるとすれば、この場面がまさにそれになりましょう」(フローベール全集九 P212)とフローベール自身が書いている「農業共進会」の場面がどのように書かれたかを、やや詳しく見てみなければならない。「全体が一緒になって怒号する体のものでなくてはならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」(同書 213)という第二部の八章のこの場面については、それを仕上げることの困難を彼は何度もルイーズにもらしているが、ここで問題としてみたいのは、その「交響曲の効果」そのものの評価ではない。そうではなく、フローベールが何をもって「交響曲の効果」と呼んでいるのか、また彼がそれをどのように「書いた」かを詳しく見ておかねばならないのである。》と前置きして具体的説明に入る。
《そこで、まず指摘しておかねばならぬのは、確かに「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞えてこなければなりません」(同前)といわれているが、文学的なものであれ非文学的なものであれ、散文の言説がおさまらざるをえない文字言語の線上の秩序は、語らるべき事態の同時多発性を言語で同時多発的に表象することなどできはしないという事実にほかならない。「牝牛の鳴き声、愛の溜息、役人の演説が同時に聞え」ると書くことはできても、それはあくまでも単声的な言表の連鎖にすぎず、あらゆる音声が「同時」に聞こえる「交響曲の効果」はそこに皆無だからである。また、「交響曲の効果」なるものを、できごとの同時多発性を比喩的に喚起するような言表行為と理解するとしても、「書く」ことで言語の諸単位はあくまで単声的な線上性におさまるしかなく、そこに「書く」ことと「語る」ことの齟齬がいやおうもなく露呈される。題材の同時性を比喩的に処理するにしても、多声的な印象を捏造する「語り」の技法的な介入は不可欠であり、しかも、それを象徴する言語は、あくまで線状の秩序におさまるしかないからである。
「農業共進会」の場面を書き進めることの厄介さについて、フローベールはルイーズ・コレ宛の書簡でしばしば言及している。たとえば、一八五三年七月十五日付けの書簡で、彼はすでに述べたことがらを別の表現でこう書き記している。
今晩、農事共進会の大場面の全体をざっと書いて見ました。これは大したものになりますよ。三十頁にはなりそうです。この田舎町の行事とその細部を通して(ここでは、作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回ります)、一人の婦人と彼女を口説いている紳士の対話を最前列でずっと追っていかなければなりません。更に、中心部には、県参事官の荘重なる演説を置き、一番終いに(すべてが終ったところで)、薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます。並大抵のことじゃないと分るでしょう。(全集九 178)
(中略)
いま引用したルイーズ宛の手紙には「交響曲の効果」という言葉は使われていないが、語るべきことがらの同時多発的な推移が問題となっているのはいうまでもない。「最前面」には「一人の婦人と彼女を口説いている(・・・・・・)紳士の対話」とあるから、村役場の二階に位置どるエンマとロドルフの人目を避けたきわどい会話がそれにあたり、「中心部」には「県参事官の荘重なる演説」とあるから、来賓代理のリューヴァン氏の演説がそれにあたるといえる。ここでの「最前面」と「中心部」とは、おそらく同時的な事態として構想されているのだろうが、さらに「作品中のすべての(・・・・)副次的人物が現れ、喋り、動き回」るという同時的事態が、「交響曲の効果」をさらに高めることになるのだろう。そこに描きだされようとしているのは、階級や職業はいうまでもなく、意識や趣味、あるいは利害関係さえ共有することのない者たちが、一日かぎりの共存を演じてみせるといういかにもフィクションめいた混沌ともいうべきものなのである。
(中略)
あらゆるものが無方向に揺れているかにみえるこの祝祭空間にも、かろうじて中心らしきものがかたちづくられる。それは、「銀の縫い取りをした短い燕尾服の紳士が馬車から降り」(Ⅱ-8:220)たち、村長のチュヴァッシュ氏に向かって「知事閣下はお見えにならないとつげ、自分は県参事官であると名乗って、二、三弁解の言葉をつく加え」(同前)てから演壇に立つときにほかならない。「いつのまにかその参事官がリューヴァンという名であることが知れていたので、群衆のなかをその名前が口々に言い伝えられてい」(Ⅱ-8:222)くと語られているからだ。そのとき、ロドルフは、人目を避けてすでにボヴァリー夫人を村役場の二階の「会議室」に誘いこんでおり、「国王の胸像の下にある楕円形のテーブルのまわりからスツールを三脚取ってきて、それを窓の一つの近くにならべ、ふたりは肩を寄せて腰をかけ」(同前)る。こうして彼の誘惑の言葉と女の抵抗の仕草とが参事官の演説と同時に進行することになるのだが、すでに述べたように、並行的に推移する二つの事態を言語で同時に表象することはできないので、ここでの同時性も断片化された交互性によって置き換えられざるをえない。すなわち、同時に口にされている参事官の言葉の断片とエンマとロドルフの睦言の断片とが、交互に何度かくり返し描かれることになる。
「でも幸福ってあるものでしょうか」とエンマはきいた。
「ええ、幸福はいつかはめぐりあえるものです」と彼は答えた。
《諸般の趨勢よりして諸君は了解されたでありましょう》と参事官はいった。《農業家および地方労務者たる諸君(後略)》(Ⅱ-8:225)
読まれる通り、同時的な事象を「語る」ことはかろうじてできる。だが、その同時的な事象を同時的なものとして「書く」ことはできず、そこに交互性という秩序を導入せざるをえない。同時性のこうした交互的な表象は、リューヴァン氏の演説が終わり、品評会の審査委員長であるドロズレー氏の挨拶が間接話法で伝えられ、さらに賞金の授与式が始まっても維持されることになる。実際、壇上の審査委員長の声と窓辺でささやき合う男女の声とが、ほとんど媒介なしに交互に描かれている。参事官の演説と男女の睦言とはこれまで一行あきで継起していたが、いまや、二人の台詞と表彰式で口にされる儀式的な発言とはいっさい余白なしに交互に配置され、交響曲の終幕に向けてそのリズムを早めている。
「私たちはなぜ知りあったのでしょう。(中略)それはきっと、先は一つに合流するときまった二つの川のように、はじめは互いに遠くはなれていても、私たちの身におのずとそなわった特殊な傾斜がふたりを互いのほうへと導いてくれたにちがいありません」
こう言って彼はエンマの手を握った。エンマは手を引っ込めなかった。
《総じて耕作成績良好なる者!》と委員長が叫んだ。
「げんに今日私がお宅へ伺ったときも……」
《カンカンポワ村のビゼー君》
「こうしてごいっしょにいられるなどと夢にも思ったでしょうか」
《賞金七十フラン!》
「心弱くもあきらめて帰ろうと幾度思ったことか。それがけっきょく、あなたのお供をして、おそばに残ることとなったのです」
《肥料賞》
(中略)
《豚類。ルエリッセ、キュランブール両君、「同格として(エクス・エクオ)」賞金六十フラン!》
ロドルフはエンマの手を握りしめていた。エンマの手は熱っぽく、生け捕られた雉鳩(きじばと)が飛び立とうとするようにふるえていた。(Ⅱ-8:233~235)
エンマが握られていた手の指を思わず動かすと、それを承諾のしるしと受けとめたふりを装うロドルフは、「おお、ありがとう! あなたは拒まない! わかっていただけた!」(Ⅱ-8:235)と声を高める。それへのエンマの応答はいっさい語られておらず、不意に捲き起こる一陣の風が内部と外部を通底せしめるばかりだ。
窓から風が吹き込んで、テーブル掛けに皺(しわ)をよせた。そして下の広場では、百姓女たちの大きな布帽が、白い蝶の羽がひらめくようにさっと一度にひるがえった。(同前)》
ルイーズ・コレ宛書簡の、《薬屋が哲学的、詩的、進歩的なる達者な文章で行事の経過を報告した新聞記事を据えます》の薬屋オメーによる新聞記事は、《夜に入っては絢爛(けんらん)昼をあざむく花火が突如として天空を照らし、万華鏡をさし覗くがごとく、またオペラの舞台を眼前に見るがごとく、一瞬われらが渺(びょう)たる小村も『千一夜物語』の夢の世界のただなかに運びさられたかの感があった》と、「オペラ」という語を比喩的に使っている。しかもエンマとロドルフの近づきのアイロニカルな、かつオメーの堂々たる俗物性の一例として、《ちなみに当日の和気藹々(あいあい)たる会合を紊乱(びんらん)するがごとき不祥事(ふしょうじ)の発生をも見なかったことを付記しよう》が添えられて。
ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』から。
《フローベールには、対位法的手法(・・・・・・)と呼んでさしつかえない特殊な方法がある。それは二つないしそれ以上の会話なり思考の流れを、平行して挿入したり、からませたりする方法のことだ。》
《エンマが青い霞に包まれたロマンティックな夢の世界にともに駈け落ちしようと期待した矢先に捨てられる、ロドルフとの情事の終りにつづいて、二つの関連した場面が、フローベール得意の対位法的構造で描かれる。最初の場面は、歌劇ルチア・ディ・ラメルモールの上演の晩で、そこでエンマはパリからもどってきたレオンに再会する。粋な青年たちが手袋をはめた掌を、つややかなステッキの握りに当てて、劇場の平土間席を気取って歩いているのが見える。とかくするうちに、いろいろな楽器が騒がしく演奏前の調律をしはじめる。
この場面の第一展開で、エンマはテノール歌手の美しい旋律の嘆きに酔う。今は遠く過ぎ去ったロドルフへの恋を思い出したからだ。シャルルは味気ないことを口だししては、彼女の音楽的な気分を害する。シャルルにはこの歌劇は馬鹿げた身振りのごたまぜにしか見えない、が、エンマは原作をフランス語訳で読んでいたので、筋がよく理解できる。第二の展開で、彼女は舞台のルチアの運命のあとを追い、ひるがえって自分自身の運命に思いをはせる。エンマは舞台の娘と一心同体となり、テナー歌手と同じような男なら、誰でもいい、愛されてみたいと思う。だが、第三の展開で、役どころが逆転する。いまや有難くない邪魔を入れるのは、歌劇のほう、歌のほうだ。これこそ本物といえるのは、レオンとの会話のほうで、シャルルはやっと楽しい気分になりかけてきた、その矢先に彼はカフェに連れ出されてしまう。第四に、日曜日にまた来て見そこねた終幕をご覧になったらと、レオンがエンマにいう。まことに図式的な等式がここに成立している――エンマにとって、最初、歌劇は現実と等しかった。歌手は初めロドルフ自身だった。ついで歌手ラガルディー自身、ありうべき恋人となる、それからありうべき恋人はレオンとなり、ついにはレオンは現実と等しくなり、エンマは歌劇に興味を失い、劇場の熱気を避けようと、レオンとともにカフェに避難する次第である。》
<ブラックマーによる『ボヴァリー夫人』論――「香具師(やし)」>
リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」から。
《エンマのほんとうの堕落が始まるのは、シャルルに連れられて『ルチア』のラガルディーを聴きに行くときである。そのとき彼女は装いを新たにしたおのれの青春を読むのだ。このオペラ――いかなる感情も挫折することなく、あらゆるものが多様な形で満たされる、あの遠くて近い因襲芸術――を観ているとき、彼女は、幸福の高みがじつは「一切の情慾を絶望の淵に陥らせるために考え出された嘘いつわり」であったことを知る。「彼女は今では、芸術によって誇張された情熱のくだらない正体を知っていた。」 しかし、彼女がこのことを知るにいたった方法も、またその結果も、ラガルディーも「驚くべき香具師(やし)気質(かたぎ)」を通じてであるという、彼女独特の奇妙な流儀においてである。それは逆立ちしたボヴァリスムだ。彼女が欲望の幻にあてた一瞬の照明が、どうしたわけか逆の選択を可能にしたのだ。つまり、彼女は歌劇役者の役柄のほうを棄て、かわりに役者のほうを取っている――役者であることの香具師(やし)的役割を取っているのである。たしかにラガルディーは測り知れない愛にあふれている。その愛はエンマの本性にひそんでいる香具師(やし)のようであった。だからこそ彼女は、レオンがまるで貴族のように手を差し延べながら姿をあらわしたとき、ラガルディーへの思慕をレオンその人に向けることができたのである。エンマは、レオンがいまや演技をすることができるということ、また、演技することがいまや彼女自身に残された唯一のことであるということを、直ちに見てとる。それが人生に残されたことである。彼女の大きな魅力は、これまではその純真さ(それは堕落させられる可能性がある)にあったのに、いまや、彼女が自分自身のなかから喚起することのできる幻の偶像(それはひとを堕落させる力をもっている)となる。しかし、それは役割を逆転させることではない。エンマがロドルフを演じようとしているのではない。むしろ彼女自身の役割を、真実なものから背徳的なものへと拡げようとしているのだ。かくて私たちは、ロドルフを俟たずに、エンマ・ボヴァリーの衣装をはぎとる。》
付記
<『ボヴァリー夫人』――「第二部 十五章」>
《つめかけた観客は正面玄関の左右、壁ぎわの柵(さく)のあいだに列をつくって待っていた。近くの町かどごとに、ばかでかいポスターが貼(は)られ、「『ランメルモールのリュシー』……ラガルディー……オペラ」などの同じ文句が珍妙な字体で書かれてあった。よい天気で、暑かった。汗は人々のカールさせた髪の毛のなかを流れ、手に手に取りだされたハンカチは、赤くほてった額をぬぐっていた。しめった川風が、ときどきむっと(・・・)吹きつけて、酒場の入口に張ったズックの日よけテントの縁(へり)をかすかにそよがせた。しかし、もっと川岸寄りのほうへ行くと、ひんやりした風が肌(はだ)に涼しく、同時にグリースや革や油のにおいがした。それは、暗い大倉庫が立ちならび、人夫が樽(たる)をころがしているシャレット通りから来る臭気だった。
エンマはあまり早くから桟敷にはいって笑われるのをおそれて、入場する前に河港のあたりをひとまわり散歩したいと言った。するとボヴァリーはまたえらく用心して、ズボンのポケットのなかで切符をしっかり握りしめ、おまけに握ったその手を下腹に押し当てた。
玄関へはいったとたんにエンマの胸はたかなった。自分は「二階指定席」への階段をのぼって行くのに、一般群衆は別の廊下から右手のほうへわれがちにと突進する、そのさまを見て思わず得意の笑いがこみあげてきた。布張りのどっしりしたドアを指で押すのも、たあいなくうれしかった。通路のほこりっぽいにおいも胸いっぱい吸い込んだ。そして自分の桟敷にすわったときには、公爵夫人のように場慣れした様子で、すいと(・・・)背を延ばした。
場内は満員になりはじめた。ケースからオペラ・グラスを取りだす者、遠くから見つけ合って会釈(えしゃく)をかわしているのは劇場(こや)の常連でもあろう。彼らは芸術のうちに商売の憂さをはらしに来ながらも「取引き」を忘れず、またしても木綿や標準酒精や藍(インデイゴ)染料の話をしている。老人の顔も見える。みな無表情で、もの静かに、髪も顔も白っぽく、鉛の蒸気でいぶした銀メダルのようだった。若いハイカラ連中はチョッキの胸もとに桃色や薄緑色のネクタイをひけらかしながら、「平土間」を闊歩(かっぽ)していた。そしてボヴァリー夫人は、彼らが黄色い革手袋をぴったりはめた手を、細身のステッキの金の握りにそえている伊達(だて)姿を、二階からあかずながめ入った。
やがてオーケストラ席のろうそくがともった。シャンデリアが天井からさがってきて、ガラスの切子面が燦然(さんぜん)とかがやくと、思いがけないはなやかさが場内にみなぎった。そこへ楽士たちが相次いではいって来た。最初は、調子を合わせる諸楽器の騒音が長々とひびく――チェロはうなり、ヴァイオリンはきしり、トランペットはかん高く叫び、フリュートやフラジオレットはぴよぴよ鳴いた。しかし舞台に拍子木の音が三つ聞こえると、ティンパニの連打がはじまり、金管群はいっせいに咆哮(ほうこう)し、幕がするするとあがって、一つの景色が現われた。
それは、森のなかの四つ辻(つじ)で、左手には柏(かしわ)の木陰に泉が見える。碁盤縞(ごばんじま)のマントを肩にかけた農夫や貴族が猟の歌を合唱している。突然、一人の士官が現われ、両腕を高々と差し上げて悪魔に祈りをささげる。また別の男が出て来る。ふたりが退場すると、猟人たちはまた歌い出す。
エンマは娘時代の思い出の小説の国へ、ウォルター・スコットの世界のまっただなかに帰った。立ちこめる霧のかなたに、ヒースの荒野にこだまするスコットランドの風笛の音が聞こえてくるようだ。それに、忘れもしない小説の筋だったから、脚本の運びもよくわかる。彼女は一句一句劇の展開をあとづけていった。しかし胸によみがえるとらえがたい思いのかずかずは、音楽の突風にたちまち吹き散らされた。彼女はメロディーに揺られるままに身を任せ、まるでヴァイオリンの弓が彼女の神経をじかにこすってでもいるかのように全身をわななかせた。さまざまな衣裳や舞台装置や登場人物、人が歩くと揺れる書き割りの立ち木、ビロードの帽子、マントや剣など、すべてこれらの空想の所産は、この世ならぬ雰囲気のなかに音楽の快い調べに乗って動き、エンマは目がいくつあっても足りない思いだった。が、今やひとりの若い女が進み出ると、緑衣の従者に財布を投げ与えた。舞台はこの女ひとりになった。すると、わき出る泉のささやきのような、また小鳥のさえずりのようなフリュートの弱奏が聞こえて、リュシーは荘重にト長調のカヴァチオを歌いはじめた。彼女は恋を訴え、翼をもとめた。エンマも同じ思いにひたった。憂き世をのがれて、抱擁の別世界へと飛び去りたかった。と、そこへ突然、今夜のエドガール役でしかもその名もエドガール・ラガルディーが現われた。
彼は、生来情熱的な南仏人の顔に一面大理石のような冷厳のおもむきをそえるあのまばゆいばかりの色白さを持っていた。そのたくましい体軀(たいく)を褐色の胴衣にぴっちりと包み、鞘(さや)に彫金をほどこした短剣を左の腿(もも)の上につって、彼は白い歯を見せながら悩ましげに視線をさまよわせていた。噂によれば、彼はもとビアリッツの海岸でランチの修理工をしていたのだが、たまたまある晩彼の歌声を聞いたポーランドのさる公爵夫人が彼にすっかり血道を上げ、彼のために身代限りまでした。しかるに彼はこの女をあっさりおっぽって、ほかの女たちをつぎつぎに追ったという。この艶聞(えんぶん)は彼の芸術家としての評判を高めこそすれ傷つけはしなかった。おまけに、処世の術にたけたこの旅役者は、自分の肉体的魅力と多情多感な心ばせとを謳(うた)った詩的な文句をたくみに広告文のなかに織り込む用意をつねに忘れなかった。美声に加えて堂々たる押し出し、知性よりはむしろ熱っぽさ、しめやかな抒情よりはむしろ表現のどぎつさを看板とすることなどが、床屋ないしは闘牛士めいたこの男の驚くべき香具師(やし)根性を、このうえなく引き立ておおせていた。
彼は初手から観客を熱狂させた。リュシーをかきいだくかと思えば、歩み去り、また取って返す。絶望の極とおぼしく、怒りの叫びをあげたが、やがてそれは惻々(そくそく)と胸をうつ憂いのうめきと変わった。そしてその歌声はむせび泣きと口づけに満ちて、彼のあらわな喉をもれた。エンマは桟敷(さじき)席のビロードに爪を立てながら、身を乗り出して彼を見ようとした。吹きすさぶ暴風雨(あらし)をついてかすかに聞こえる難船者の叫びのように、コントラバスの伴奏に乗ってなよなよと歌いつづけられる愁訴の声を、エンマは胸いっぱいに受けとめた。エンマは過日自分がそのために危く死にかけた陶酔と苦悩のすべてをそこに認めた。リュシーの歌声は自分の心の反響としか、そして心奪うこの幻影は自分の生活の一部としか思えなかった。しかし、エドガールのような激情をこめて愛してくれた人はまだひとりもない。最後の夜、月光のもとで「じゃ、明日(あした)、明日ね!……」と言いかわしたときも、あの人はエドガールのように泣いてはくれなかった。喝采(かっさい)の声がどっと場内をゆるがせた。幕切れの終曲(ストレツタ)全部が繰りかえされ、恋人同士はふたたび彼らの墓の花や、誓いや、流謫(るたく)や、宿命や、希望について語り合った。そしてふたりがいよいよ最後の別れを告げたとき、エンマは思わず「ああ」と鋭く叫んだが、それは楽の音(ね)の最後のふるえに溶け込んで消えた。
「どうしてあの貴族はあの女をいじめてばかりいるのかね」とボヴァリーがきいた。
「ちがいますよ、あれがリュシーの恋人なんです」とエンマは答えた。
「妙だな、あの男は女の家族に復讐(ふくしゅう)するんだっていきまいていたし、さっき出て来たもうひとりの男は『私はリュシーを愛している。リュシーも私を愛していると思う』と言っていた。それにあとのほうの男は女の父親と親しげに腕を組んで立ち去ったじゃないか。あれがたしかに父親なんだろう、帽子に雄鶏の羽根をつけていたあのはえない小男が?」
エンマがいろいろと説明してやったにもかかわらず、従者のジルベールがその憎むべき悪だくみを主人アシュトンにさずける掛け合いの叙唱(レシタテイーヴオ)がはじまったとき、シャルルは、リュシーをあざむく贋(にせ)のエンゲージ・リングを見て、それはてっきりエドガールがリュシーに贈る恋のかたみだと思い込んだ。もっともシャルルは――こう音楽がやかましくちゃあ台詞(せりふ)の邪魔にばかりなって――話の筋がどうにもわからないのだと白状した。
「わからないならわからないでいいじゃありませんか。静かにしてらっしゃい!」とエンマは言った。
シャルルは妻の肩に身を寄せて、「いや、おれはわからないじゃあすませられない性分でね」。
「しいっ! 黙って!」と彼女は眉(まゆ)をひそめて言った。
髪にオレンジの花かずらをつけ、ドレスの白繻子(しろじゆす)よりもなお蒼白(そうはく)な顔色のリュシーが、侍女たちにささえられるようにして進み出た。エンマは自分の結婚式の日を思い出した。あの田舎の麦畑のなかの小道を、皆といっしょに教会へと歩いて行った自分の姿が目に浮んできた。どうしてあのときリュシーと同じように反抗し、哀願しなかったのだろう。それどころか自分は奈落(ならく)の底へ落ち込もうとしているとも知らず、ただ喜んでいたのだった……ああ! 初々(ういうい)しい美しさがまだ自分のものだったあのころ、結婚生活のけがれも、邪恋の幻滅も味わい知らぬ青春の日に、もしもだれか大きな強い心を持った人の手に自分の一生を託することができたとしたら、そのときこそ貞操も愛情も快楽も義務もおのずと分かちがたく溶け合って、その幸福の絶頂からついに一歩も降り立つことはなかったろうに。しかしそうした幸福も、ことによったら、人間のすべての欲望が現実ではとうていかなえられないがゆえにこそ編み出された嘘(うそ)なのではなかろうか。彼女は今では情熱のみなしさを、そしてその本来むなしい情熱を芸術がいかに針小棒大に描き出すかを知っていた。そこでエンマは舞台の感動にひき込まれないようにつとめながら、ついさっきまで自分の苦悩を如実に再現したかとも思われたこのオペラを、なんのことはない、ただごてごて飾りたてたこけおどしのでたらめとのみ見ようとした。だから彼女は、やがて舞台の奥からビロードの帳(とばり)を押しわけて黒マントの男が現われたときでさえ、ひそかにさげすむような憐(あわ)れみの微笑を浮かべたのだった。
その男のかぶっているスペイン風の鍔(つば)の広い帽子は、ふと彼が身ぶりをするはずみに下へ落ちた。それを合図に器楽合奏も歌手たちもいっせいに六重唱にはいった。火をふかんばかりに怒ったエドガールはひときわ朗々たる声で他を圧した。アシュトンは無気味な低音で彼に決闘をいどんだ。リュシーはかん高い哀訴の声をあげ、アルチュールはひとり離れたところに立ってバリトンをひびかせ、牧師のバス・バリトンはパイプ・オルガンのようにうなった。すると今度は女声合唱が牧師の言葉を反復して美しく歌いつづける。彼らはみな一列にならんで身ぶりをしていた。なかば開いた彼らの口から、憤怒や、復讐や、嫉妬(しっと)や、恐怖や、憐憫(れんびん)や、驚愕(きょうがく)が同時にほとばしり出た。屈辱の恋人エドガールは抜き身の剣を振りまわす。と、レースの襟飾りは胸が動くにつれて激しく上下した。踝(くるぶし)のところがふくらんだ柔らかい長靴の金めっきした拍車を舞台の床(ゆか)に鳴らしながら、彼は大股(おおまた)に歩きまわった。この男がこんなにもたっぷりとありあまる愛の思いを観客の上にばらまいているところを見ると、さだめし彼の胸のなかには無限の愛のたくわえがあるにちがいないとエンマは考えた。こうしてこの役の与える詩的な情緒にひき入れられるにつれて、先刻のオペラなど子どもだましだといった気分もいつしか消えた。そして役柄によって夢をそそられた彼女は、やがて役を演ずる俳優その人の上にまで思いをはせ、彼の日ごろの生活を想像してみようとした。それは世間周知の非凡なすばらしい生活である。だが彼女だってその同じ生活を、もし運命が許しさえしたら逃れたかもしれないのだ。自分はあの人と知り合い、愛し合ったかもしれないのだ! あの人と手に手をたずさえてヨーロッパじゅうの国々を、都から都へと旅しつづけ、あの人の疲れも誇りもともに分かち合、あの人に投げられる花を拾い、あの人の舞台衣裳を手ずから刺繍(ししゅう)することもできたかもしれないのだ。そして夜ごと劇場の桟敷(さじき)の奥、金色の仕切り格子に身を寄せて、自分だけのために歌ってくれるあの人の魂の声に恍惚(こうこつ)と聞きほれたかもしれないのだ。あの人はきっと歌いながらも舞台から自分のほうを見つめてくれるだろう。そこまで空想したとき、狂気に似た思いが彼女をとらえた。今、げんにあの人は私を見つめているではないか! そうだ、まちがいない! 彼女は駆け出して行って彼の腕に身を投げ、恋愛そのものの権化(ごんげ)のような力強い彼の胸のなかにかくまってもらいたかった。そして言いたかった、叫びたかった、「わたしをさらってちょうだい、連れて逃げてちょうだい、さあ行きましょう! わたしの燃える思いも、遠いあこがれもみんなあなたにささげます、みんなあなたのものです!」と。
幕がおりた。
石油ランプのにおいが人いきれに交じっていた。扇子の風が空気をいっそう息づまるようにしていた。エンマは外へ出ようとしたが、廊下もいっぱいの人波だった。胸をしめつけるような動悸がして、エンマはまた椅子にくずおれた。シャルルは、彼女が卒倒するのではないかとうろたえて、アーモンド水を買いに食堂へ走った。
席へもどるのが大骨折りだった。コップを両手でささげ持っているので、張った両肘が一歩ごとに人にぶつかった。あげくのはては袖の短いドレスを着たルーアン女の肩へ、コップの中身を半分以上ぶちまけてしまった。女は冷たい水が腰へ流れ込むので、殺されでもしたかのように、孔雀(くじゃく)のような叫び声をあげた。亭主の紡績工場主はこの粗忽(そこつ)者にむかっ腹を立て、細君が桜色タフタのみごとなドレスについたしみをハンカチでふいているあいだじゅう、損害賠償だの、費用だの、弁償だのといった言葉をぶつくさつぶやいていた。やっとのことで妻のそばへたどりつくと、シャルルははあはあ言いながら、
「いやはや、行ったきりで帰れないかと思ったよ! えらい人混みだ!……たいへんなもんだ!……」
そして彼はつけ加えた。
「階上(うえ)でだれに会ったと思う? レオン君だよ!」
「レオンさん?」
「そうなんだ。すぐにおまえに挨拶に来るって言ってた」
その言葉が終わらないうちに、ヨンヴィルの元書記が桟敷(さじき)へはいって来た。
レオンは貴族のような鷹揚(おうよう)さで手を差しのべた。ボヴァリー夫人はとっさに気をのまれたかたちで、思わず手を出した。この人の手を握るのはあの春の夕暮れ以来のことだ。言葉が雨にぬれていたあの宵(よい)、ふたりは窓べに立って別れをかわしたのだった。だがエンマはすぐに場所柄をわきまえ、こうした追憶のぬるま湯にひたそうとする心をひと思いに振り払い、急(せ)きこんでどもりがちな言葉を口にのぼせはじめた。
「まあ、お久しぶり……でも、どうして! あなたがここに?」
「しいっ!」と平土間から声があがった。第三幕がはじまりかけているのだった。
「では、ルーアンに今おすまいですの?」
「ええ」
「いつから?」
「出てゆけ! 出てゆけ!」
皆が彼らのほうをふり向いた。ふたりは黙った。
しかしそれ以後もうオペラは彼女の耳にはいらなかった。結婚式に招かれた客たちの合唱も、アシュトンとその従者の場も、ニ長調の大二重唱も、まるで楽器の音はかすれ、人物も後退したかのように、すべては彼女にとって遠い世界へと移行した。彼女は薬剤師の家でのトランプや、乳母の家への散歩を、また青葉棚の下の読書、炉ばたの差し向かいなど、あんなにもしめやかに、つつましくもまた優しく、細々とつづいたあの哀れな恋を、そのくせ今まで忘れてしまっていたあの恋のすべてを思い出した。この人はなぜふたたび姿を現したのだろう? どういうまわり合わせでこの人はこうしてまた自分の生活のなかに立ち返って来たのだろう? そのレオンは桟敷の仕切りに肩をもたせながら、彼女の後ろに立っていた。ときどき、なま暖かい鼻息が髪の毛にかかるのを感じて彼女はおののいた。
「いかがです、おもしろいですか」とレオンはきいたが、エンマの顔の間近までかがみ込んだので、口ひげの先が彼女の頬にふれた。
エンマはつまらなそうに答えた。
「いいえ、たいして」
するとレオンは、劇場を出て、どこかへ氷菓子を食べに行こうと誘った。
「いや、まだまだ! もっと見てゆきましょう!」とボヴァリーは言った。「あの女、髪を振りみだしたところを見ると、いよいよこれからが見せ場らしい」
しかし狂乱の場はエンマにはつまらなく、プリマドンナは演技過剰に思われた。
「あんまり絶叫しすぎるわ」と彼女はシャルルのほうを向いて言った。シャルルはここぞとばかり聞き耳を立てている。
「うむ……そういえば……多少そうかな」正直楽しい気持と、妻への気がねとにはさまれて、シャルルはどっちつかずに答えた。
やがてレオンは溜息をついて、
「いや、こう暑くっちゃあ……」
「たまりませんわ! ほんとうに」
「おまえ、気分がよくないのかい」とボヴァリーがきいた。
「ええ、息がつまりそうよ、出ましょう」
レオンは長いレースの肩掛けを、慣れた手つきで彼女にかけてやった。そして三人は連れだって、河港にのぞんだコーヒー店のガラス張りの前、外店(テラス)の席に腰をおろした。
最初はエンマの病気の話が出た。しかしエンマは、そんな話はレオンさんにはご退屈よと言って、何度かシャルルをさえぎった。それからレオンが、パリとノルマンディーとでは事務のやり方もしぜんちがうので、こちらのやり方に習熟する目的でルーアンへやって来た、ある大きな事務所に二年計画で勤めているのだとふたりに語った。ついでベルトのことや、オメー一家のこと、ルフランソワの女将(おかみ)のことをたずねた。が、エンマもレオンも、夫のいる前ではそれ以上何も話すことがなかったから、やがて話はとだえた。
オペラがはねた帰りの人たちが「おお麗(うるわ)しの天使、リュシー」と、低声(こごえ)に口ずさみ、また大声にわめきたてながら歩道を通って行く。するとレオンは趣味人を気どって、音楽論をはじめた。タンブリーニもルビーニもペルシアーニもグリージーも見たが、そこへゆくとラガルディーなんぞはただやたらと大げさなだけで比較にならないと言った。
「お言葉だが」とシャルルはラム酒入りのシャーベットをなめなめ異議をとなえて、
「ラガルディーは幕切れの場では文句なしにすばらしいという評判ですよ。終わりまで見ないで出たのはなんとしても心残りだ。やっとこれからというところだったのに」
「なに近々またやるそうですよ」と書記は答えた。
しかしシャルルは、自分たちは明日はもう帰る予定だと言った。そして妻のほうを振りかえって、
「それとも、おまえだけ残ることにするか」とつけ加えた。
そういう意外な風向きとなったので、レオン青年はひそかな望みをとげる好機いたれりとばかり、とっさに前言をひるがえして終幕のラガルディーを絶賛しはじめた。いや、なんというか、たいしたものだ、崇高のきわみだ! するとシャルルは手もなくあおられて、
「おまえは日曜に帰ればいい。ぜひ、そうしなさい! 少しでも体にいいと思ったらためらうことはない」
いつのまにか、あたりのテーブルが空(から)になっていた。ボーイがそっと来て、彼らのそばに立った。シャルルはそれと悟って財布を取り出した。すると書記はシャルルの腕をおさえて勘定を払ったばかりか、ぬかりなく銀貨を二枚テーブルの大理石の上に投げ出した。
「これは困る、いたまったく済まん、あなたに払っていただいたりしちゃ……」とシャルルはもごもご言った。
相手は、何をおっしゃると言いたげな気さくな身ぶりをして、帽子を手に取ると、
「では明日の晩、六時に」
シャルルは自分のほうは予定があるからと重ねて断わった。が、家内が残るのはべつに……
「ええ、でも……わたしどうしようかしら……」とエンマは口ごもったが、顔は意味ありげに笑っていた。
「じゃ、まあとっくり考えるさ。明日になりゃ決心がつくだろう。ことわざにもいうとおり、一晩おいて思案せよだ……」
それから、いっしょに歩いているレオンに向かって、
「これからはまたお近くになったんだから、たまには夕食でもやりに来てください」
書記は、ヨンヴィルへは事務所の用事で行くついでもあることだし、近いうちにかならず参上しますと約束した。そして彼らは、大聖堂の鐘が十一時半を打つのを聞きながら、サン=テルブラン通りの前で別れた。》
(了)
*****引用または参考文献*****
(引用文中の「フロベール」表記は、「フローベール」に統一した)
*ギュスターブ・フローベール『ボヴァリー夫人』山田𣝣(じゃく)訳(河出書房文庫)
*『フローベール全集 別巻 フローベール研究』(リチャード・パーマー・ブラックマー「ところを得ぬ美 フローベールの『ボヴァリー夫人』」土岐恒二訳、他所収)蓮實重彦他訳(筑摩書房)
*『フローベール全集 九 書簡2』山田𣝣(じゃく)訳(筑摩書房)
*ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳(TBSブリタニカ)
*トニー・タナー『姦通の文学 契約と違犯 ルソー・ゲーテ・フロベール』高橋和久、御輿哲也訳(朝日出版社)
*工藤庸子『近代ヨーロッパ宗教文化論 姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』(東京大学出版会)
*M・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴 フローベールと『ボヴァリー夫人』』工藤庸子訳(筑摩書房)
*ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子 1,2,3,4』平井啓之、鈴木道彦、海老坂武訳(人文書院)
*スラヴォイ・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留 カント・ヘーゲル・イデオロギー批判』酒井隆史、田崎英明訳(太田出版)
*ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳(河出書房)