文学批評/オペラ批評) シラー『マリア・ストゥアルト』/ドニゼッティ『マリア・ストゥアルダ』/ツヴァイク『メリー・スチュアート』 ――「王の二つの身体」をめぐって

 

 

 

 シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト(“Maria Stuart”ドイツ語)』からドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ(“Maria Stuarda”イタリア語)』へ、脱落するもの、それはエリザベス(エリザベッタ、エリーザベット)女王がメリー・スチュアート(マリア・ストゥアルト、マリア・ストゥアルダ)の死刑宣告書へ署名することの怖れ、逡巡と処刑直後の女王の保身である。ツヴァイクの評伝『メリー・スチュアート(原作は”Maria Stuart”ドイツ語だが、日本語翻訳表記に従う)』からシラー『マリア・ストゥアルト』へ、脱落するもの、それはメリーの全生涯と、その死後の息子ジェームズ6世(イングランド王としてジェームズ1世)のイングランド王位継承のエピソードである。

 

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』>

 1542年生まれのメリー・スチュアートは、スコットランド王、父ジェームズ5世の死により、生後6日にしてスコットランド女王として即位した。1548年フランス王太子フランソア2世と婚約して、フランスで養育され、1558年に結婚しフランス王妃となる。1561年フランソワ2世の病死後に帰国、1565年ダンリー卿と再婚したが、別居状態で夫は殺される。1567年夫殺しの容疑者ボズウェル伯と夫の死後3ヶ月で再々婚したが、スコットランドの政争で夫殺害首謀者として疑われて国内諸侯の反乱にあい、王位をダンリーとの子ジェームズ6世に譲る。1568年、単身イングランドに逃亡して、いとこ(正確にはエリザベス女王の父ヘンリー8世の姉マーガレットがメアリーの祖母)のエリザベスに保護を求めた。彼女の滞在は新教であるイングランド国教会(エリザベスの父ヘンリー8世アン・ブーリンとの再婚のために創生した)に烈しく反目するカトリック勢力側によるエリザベス廃位の陰謀を引き起こすことから幽閉される。1586年にはバビングトン陰謀事件が起こり、文通からメリーの陰謀参加が疑われ、1587年断首刑に処せられる。 

 ドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ』は、シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト』(1800年ワイマールの劇場で初演)のメリーの最後の三日間という設定を基に、1835年ミラノ・スカラ座で初演されている。

 

19年間におよぶメリー幽閉を経て、エリザベスの腹心セシル卿はメリーの処刑を提案する。戯曲とオペラでは、史実においては生涯一度として相まみえなかったエリザベスとメリーの二人の女王の対決シーンを、三角関係のフィクションの下でハイライトへ導く。エリザベスは恋人のレスター伯爵ロベルト・ダドリーがメリーを愛していると気づき、嫉妬に燃える。メリーを救いたいロベルトは、エリザベスにメリーとの面会を提案、エリザベスはメリーが幽閉されているフォザリング城を訪れる。ロベルトの勧めに従って許しを請うメリーがエリザベスに向って「私を跡継ぎに」と口走ると、エリザベスはメリーを、男たちを惑わせる「夫殺し」と断罪する。逆上したメリーはエリザベスを「私生児」(ヘンリー8世の2番目の妻となったアン・ブーリンはエリザベスを出産するものの、男子の王位継承者が欲しいヘンリー8世はアンの女官ジェーンと3度目の結婚をするため、アンに不貞の濡れ衣を着せ、国王との婚姻は無効と宣言されて処刑される(この逸話を基にしたオペラがドニゼッティアンナ・ボレーナ』))と罵ってしまう。メリーの処刑を躊躇うエリザベス(躊躇いは、オペラではほとんど感じられないほど小さい)だが、ロベルトがなおもメリーを擁護するので嫉妬にかきたてら、セシル卿が差し出す死刑執行書に署名する。牢獄のメリーは夫殺しを黙認した罪を懺悔するが、反逆には加わっていないと語る。メリーは威厳をもって断頭台へ向い、差し出した首に処刑人の斧が振り下げられようとするところで幕が降りる。

 シラー『マリア・ストゥアルト』では、第五幕第十場の末尾でレスター伯が断頭を聴覚的に認識する描写のあとに、第十一場~十四場、終結の場が続く。メリーを処刑した罪を避ける政治的老獪さ(死刑宣告書に署名はしたが、執行すると指示しない曖昧性と自己弁護の発信)が表現されているのだが、オペラではドラマチックな幕切れにそぐわないゆえカットされたのであろう。

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十二章エリザベス対エリザベス 一五八六年八月――一五八七年二月>

 ツヴァイクメリー・スチュアート』はヒトラー政権成立後の1934年、イングランドへ一時亡命中のロンドンで、たまたまメリー・スチュアートの歴史的記録を読んだツヴァイクが興味を覚えて1935年に書き上げたものだ。

メリー・スチュアート』から、エリザベスの死刑宣告書署名に対する怖れ、逡巡を引用する。

《ついに目的はかなえられた。メリー・スチュアートはわな(・・)にかかった。彼女は「同意」(consent)を与え、自分を有罪にしてしまった。いまやエリザベスは、ほんとうになにも気にする必要はなくなった。彼女にかわって、裁判所が決定し行動するのである。二十五年間の戦いは終り、エリザベスは勝利をえた。ロンドンの通りで、どよめき熱狂しながら、自分たちの女王が殺害の危険からのがれたことや、新教の形成の勝利を祝っている民衆のように、彼女は、こおどりして喜んでもよかったであろう。しかし、すべて、ことが成就したときには、つねに、にが味がひそかにまざっているものである。うちかかることができるいまとなって、エリザベスの手はふるえる。無思慮な女を没落へ誘いこむことは、無抵抗にわな(・・)にかかった女を殺すよりも、いく千倍も容易だった。もしエリザベスがその厄介な囚人を強引に片づけたいと思ったならば、目立たない方法でそれをやる可能性が、とうに百回ほども与えられていた。すでに十五年前に、議会は、斬首の斧でもってメリー・スチュアートへの最後の警告とすべし、と要求したことがあったし、ジョン・ノックス(筆者註:スコットランド新教会の宗教的狂信牧師)は、その臨終の床からなおもエリザベスに、「もしあなたが根を絶たないならば、枝はふたたび芽をつけるでしょう。しかもそれは、想像しうる以上に早く起るでしょう」と切願している。だが、いつでも彼女は、「蒼鷹(あおたか)にねらわれ、助けを求めて逃げてきた鳥を、殺すことはできません」と返答してきた。だがいまは、めぐみかもしくは死か、そのどちらかを選ぶしかもはやないのである。彼女はその選択のまえに、つまり、いつもはわきへおしやられているが、やはり延期することはできない決定のまえに、追いつめられて立っている。エリザベスはその決定のことを思うと身がふるえる。彼女は、自分の判決がどんなにそら恐ろしい、そしてほとんど見わたすこともできないほどの厄介ごとを含んでいるのかを、知っているのである。今日のわれわれには、あの決定の重大性、革命性を、もはやほとんど感じとれない。それは、当時世界のあらゆる正当な位階制度にショックを与えた決定であった。というのも、神聖な女王を手斧の下に押しつけるということは、とりもなおさず、君主といえども裁かれうる、処刑されうる人間であり、けっして不可侵のものではないことを、これまで隷属してきたヨーロッパの民衆に示すことであって――従って、エリザベスの決意には、ひとりの人間のではなく、ひとつの理念の問題がかかっている。かつて王侯の首が断頭台の上に落ちたことがあるという、先例となる決定は、この世のすべての王に、いく百年にわたって警告として働きかけるにちがいない。スチュアートの孫のチャールズ一世の処刑(筆者註:ピューリタン革命による1649年の処刑)は、この例を引きあいに出すことなしには処刑されなかったし、ルイ十六世とマリー・アントワネットもまた、チャールズ一世の運命なしには処刑されなかったであろう。その将来を見とおす眼力と強い人間的な責任感とをそなえたエリザベスは、自分の決定のとり消しがたさをいくぶん予感する。彼女は、ためらい、尻ごみし、動揺し、ひきのばし、延期する。そしてふたたび、今度はまえより熱情的に、彼女のうちに理性の感情に対する抗争、エリザベス対エリザベスの闘争がはじまる。》

 

《ふしぎにも、そしてすべての予期に反して、この十年間の戦いの最後の日に、二人の役割は転倒してしまった。すなわち、メリーは、死刑の判決を受けて以来、自分に安心と自信とを感じているのである。死の書類を受けとったとき、彼女の心臓は、それに署名しなければならなかったエリザベスの手ほどにはふるえない。メリー・スチュアートの、自分が死ぬことについての不安は、エリザベスの、彼女を殺すことについての不安より少いのである。(中略)

 そしてフォーザリンゲーにおける有罪を宣告された女性の、この落ち着いた威厳にみちた平静さに対して、きわめて大きくコントラストをなす姿がある。それは、ロンドンにおけるエリザベスの不安、はなはだしい神経過敏であり、あらあらしい、怒りっぽい、とほうにくれた姿である。メリー・スチュアートは決然としており、エリザベスは、はじめて自分の決断と格闘する。彼女は、メリー・スチュアートを完全に自分の手中におさめたいまほど、その敵対者のために苦しんだことはなかった。エリザベスはこの数週間眠れなくなってしまい、いく日も不機嫌な沈黙を固執しているので、死刑判決に署名すべきか、それを執行させるべきかという、このたったひとつの、たえがたい想念に、彼女が心をわずらわされているということが、いつでも感じられる。(中略)

 理性の声に従うべきか、人間性の声に従うべきかという、エリザベス対エリザベスのこの内面の闘争は、三ヵ月、四ヵ月、そして五ヵ月と、ほとんど半年ものあいだ続く。それゆえに、このような神経のたえがたい過度の緊張にあっては、決断がある日突然爆発したようにくだされることは、しごく当然のことだといえる。》

《一五八七年二月一日水曜日、書記官長デーヴィソンは――ウォールシンガム(筆者註:警務長官)は、この日幸いにも、あるいは賢明にも病気になっている――グリニジの庭で、突然ハワード提督から、ただちに女王のもとにおもむいて、メリー・スチュアートの死刑判決に署名をしてもらうようにと要求される。デーヴィソンは、セシル自身の手で作成された書類を持ってきて、同時にそれを他の一連の書類とともに女王にさしだす。だが、奇妙なことに、大女優であるエリザベスは、突然、それに署名することに全然熱心でないかのようなふりをする。(中略)彼女は大急ぎで次から次へと署名してゆく。言うまでもなくそのなかにはメリー・スチュアートの死刑判決書もはいっている。察するところ彼女は、あたかも自分がなげやりな気持でやったために、なにも知らずにほかの書類に署名しているうちに、死刑の書類にも署名してしまったかのようにふるまうことを、はじめからもくろんでいたのである。(中略)善良なデーヴィソンはだんだん不愉快になってくる。彼がはっきりと感じるのは、女王は行為したくせに、それについてなんらの関係も持ちたがらないということである。(中略)エリザベスは、自分の道徳的威信を保つために、メリー・スチュアートの処刑を招来したのは、あたかも自分であるかのようなふうの外見を避けようとしているのだということである。女王は、アリバイを手に入れるために、実行された事実によって世界の眼のまえで「びっくり」させられたがっているのである。従ってこの喜劇に共演し、うわべは女王の意志に反するかのようなふうをして、ほんとうに女王の望んでおられることを遂行するのが、女王の臣下たるものの義務となるのである。》

 

<シラー『マリア・ストゥアルト』 第四幕第八場~十一場>

 その第四幕第八場~十一場が、前記のエリザベス(エリーザベット)とデーヴィソン(デヴィズン)との遣り取りに相当する。

(第八場)《エリーザベット (思い決しかねて悶えつつ)これ、そなた達、いま私の聞いているのが、果して、全国民、全世界の真の声であるかどうかを、私に告げてくれる者はいないだろうか。ああ、私が心から恐れているのは、もし私がいま多数の希望に従った暁に、今度は全く違った声が起ってくるのではなかろうかということです――その上、いま無理矢理に私を駆りたてて事を行わせようとしているその同じ声が、事の終ったのちには、かえって私を非難しやしないかと心配なのです。》

 

(第十一場)《エリーザベット ――署名せよとのことであった。だからそれをしたのです。一枚の紙だけで事が決定するわけでなく、署名が人を殺すものでもありません。

(中略)

デヴィズン この死刑の宣告書はいかが取計らえばよろしいのですか。 

エリーザベット ――その署名が物を言います。

デヴィズン では即刻、執行せよとの仰せでございまするか。

エリーザベット (ためらいつつ)そうはいいません、考えただけでも身震いがする。

デヴィズン これを私がお預かりしておればよろしいのですか。

エリーザベット (速やかに)危険を覚悟してね。その結果はそなたが、責任を持つのです。

デヴィズン 私が? 真平御免です!――女王様、どうぞ御心のあるところを仰しゃって下さいまし。

エリーザベット (じれったそうに)私は、この不吉な問題がもう人の記憶にのぼらなくなって、結局、永久に問題とする必要のなくなることを望んでいるのです。》

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十三章「わが終りにわが始めあり」 一五八七年二月八日>

《En ma fin est mon commencement(わが終りにわが始めあり)、その当時はまだ完全には理解のいかないこの言葉(筆者註:メリーの死ののち、息子ジェームズ六世がエリザベス女王の後のイングランド王ジェームズ一世としてスチュアート朝を継ぎ、その後のハノーヴァー朝(ジェームズ一世の外孫ゾフィーの息子ジョージ一世から)、ウィンザー朝と現代に到るまでメリーの血筋が続く)を、メリー・スチュアートは数年前に、刺繡細工のなかに縫いこんだことがあった。いま彼女の予感は真実となる。彼女が悲劇的な死をとげてはじめて彼女の名声の始まりがあるのであり、死だけが後世の人たちの眼のまえで彼女の青春の負い目を消しさり、彼女のあやまちを浄めるであろう。》

 この後に続く、処刑へと向かうメリーの叙述は、戯曲やオペラにもよく表現されていて、そこには英雄的な態度がある。

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十四章エピローグ 一五八七年――一六〇三年

 エリザベスの自己保身の部分を引用する。

《知らないふりを装っているひとに、そのひとの「愛する妹」(dear sister)の処刑を報告する憂うつな仕事は、セシルの肩にふりかかってくる。その仕事は彼には愉快な気持のするものではない。二十年来、これに似たような機会に、この定評ある助言者の頭上には、いろんな雷が落ちてきたものである。かんかんに怒ったほんとうの雷だとか、政略的に装われた雷だとかが。今度もまた、処刑完了を公式に知らせるために、女王の接見室へはいって行くまえに、冷静で、まじめなこの男は、内心特別の沈着さで武装する。だが、そこで突然はじまった場面は、前例のないものである。エリザベスは叫ぶ。なんですって? 私の知らないうちに、私のはっきりした命令もなく、あなたがたがあえてあえてメリー・スチュアートを処刑したというのですか? 考えられないことです! 合点のいかないことです! 外国の敵がイングランドの地に踏みこんでもこないかぎり、自分はけっしてこんな残酷な処置をもくろんだりはしなかったでしょうに。私の勢望、私の名誉は、この不誠実な、陰険な行いによって、全世界の眼前でどうしようもないほど汚されてしまいました。ああ、私のかわいそうな妹、あの人はひどい誤解、卑劣な、恥しらずな行為のために犠牲となったのです! エリザベスはすすりあげ、絶叫し、そして狂ったもののように床をふみ鳴らす。》

 

《おそらくエリザベス自身は、メリー・スチュアートの処刑はけっして命令によるものでもなく、自分がそれを欲したこともないと内外に声明し断言したとき、自分は自分自身を正しいと感じていたのであろうと思われる。なぜならば、その行為を欲しなかったなかばの意志は、ほんとうに彼女のうちにあったからで、そこでこの欲しなかったということの記憶が、いまや、彼女が陰険にも欲していた行為に自分自身関係していた事実を、しだいに押しのけてしまうのである。》

 

<シラー『マリア・ストゥアルト』 第五幕終結の場>

 最後の第五幕終結の場が、エリザベス(エリーザベット)とセシル(バーリ)の接見に相当する。

終結の場)《バーリ (女王の前に片膝を屈して)陛下のご万歳をお寿ぎ申上げます。そしてこの島国のあらゆる仇敵が、あのストゥアルト様の如く果てまするように!

    (シュルーズベリ、面を蔽い、デヴィズンは絶望の状を示して手を擦り合わせる)

エリーザベット 一寸ききますが、そなたは死刑の宣告文を私の手から、受取って行ったのですか。

バーリ いいえ、女王様、私はあれをデヴィズンから受取ました。

エリーザベット デヴィズンはそれを、私の名代としてそなたに渡したのですか。

バーリ いいえ! 別にそれは――

エリーザベット なのにそなたは私の意向を確めもせずに、慌てて刑の執行をしてしまったのですね。あの判決は正当であって、世の非難をうける道理はありません。けれども、私の慈悲の心を勝手に阻むというのは、そなたとしてあるまじき仕業です。――その罪によって、そなたは以後目通りを禁じます!

    (デヴィズンにむかい)

与えられた権利を無法にも踏み越えて、神聖な委託物を勝手に行使したそなたは、もっと厳しい法の裁きを待たねばなりません。誰かこの男を塔へ引立ててお出で! 私は死刑に当る罪として告発したらいいと思います。》

 

ツヴァイクメリー・スチュアート』 第二十四章エピローグ 一五八七年――一六〇三年>

《道徳と政治とは、別の道を歩むものである。それゆえに、ひとつの事柄をヒューマニズムの観点から評価するか、それとも政治的利益の観点から評価するかに応じて、つねにそれをまったく異った平面から判断していることになる。道徳的には、メリー・スチュアートの処刑は、どうしても許すことのできない行為であることにかわりない。あらゆる国際法に反して、平和状態のただなかにあって隣国の女王を逮捕し、ひそかにわな(・・)をかけて、卑劣なやりかたで彼女の手にそのわな(・・)をはめたのである。だが同様に、国家政治的観点から見れば、メリー・スチュアートを片づけることがイングランドにとって正当な処置であったことは否定できない。なぜならば政治においては――残念ながら!――処置をとるさいに決定的なものとして働くのは、正義ではなく、結果だからである。そしてメリー・スチュアートの処刑にあっては、結果が政治的意味において、あとから殺人を是認するのである。というのも、その結果がイングランドとその女王にもたらすものは、不安ではなく平安だからである。セシルとウォールシンガムとは、現実的な勢力関係を正しく見積っていたのである。》

 

 スコットランド王ジェームズ六世について。

メリー・スチュアートのむすこ(・・・)に対しては、もちろん、つらい忍耐の試練がなおあとあとのためにとっておかれた。つまり彼は夢みていたように一足飛びにはイングランドの王座には登れないし、彼が望んでいたようには、そんな早急に、彼の売り物である忍耐強さにたいする代金を支払ってはもらえないのである。名誉欲の強い彼にはきわめてつらい苦しみであるが、彼は待たなければならない。待ちに待たなければならない。十五年間、それは彼の母がエリザベスに監禁されていたのとほとんど同じくらいの長い期間であるが、彼はついに老女王の冷えた手から王笏が落ちるまで、エディンバラですることもなくぼんやりと待ちに待つのである。(中略)三十七年まえ、メルヴィル卿がエディンバラからロンドンへ、メリー・スチュアートがむすこ(・・・)を生んだことをエリザベスに知らせるために飛ばしたときとまったく同じ烈しさで、いま別の使者がエディンバラの彼女のむすこ(・・・)のところへ、エリザベスの死が彼に第二の王冠を授けるということを彼に知らせるために飛び帰える。というのは、スコットランドのジェームズ六世は、このときようやく同時にイングランド王、つまりジェームズ一世となったからである。メリー・スチュアートのむすこ(・・・)において二つの王冠は永遠にひとつのものとなり、いく世代にもわたる不幸な戦いは終った。歴史はしばしば暗い、曲りくねった道を歩むが、しかし、つねに最後には歴史の意味は実現されるものであり、結局はいつも必然なことがらがその権利を強行するのである。》

 

《ジェームズ一世は、その母の遺体を、それが除け者のように孤独に埋葬されていたピータバロの墓地から移して、盛大に松明の光をかかげて列代の王の納骨堂、ウェストミンスター寺院に納める。メリー・スチュアートの肖像が石に刻まれて安置され、エリザベスの肖像も石に刻まれて彼女の像の近くに置かれる。いまや昔の不和は永遠におさまったのであり、もはや一方が他方に対して権利や席次を争うこともない。そして生涯互いに敵をもって避けあい、互いに相まみえることをしなかった二人ではあるが、いまようやく姉妹のように隣り合って並んで、同じ不死の聖なる眠りのうちにやすらっている。(完)》

 

カントーロヴィッチ『王の二つの身体』>

 エリザベス女王のメリー処刑への怖れ、逡巡と自己保身は、カントーロヴィチ『王の二つの身体』をもとに考察できる。ここでは、「王の二つの身体」という概念を、カントーロヴィチの著書によって解説した大澤真幸『<世界史>の哲学 近世篇』でみてゆく。

 

《西洋の王権は、中世から近世にかけて、独特の政治神学を形成してきた。王は、二つの身体をもつとする教説である。二つの身体とは、自然的身体と政治的身体だ。自然的身体とは、普通の人間の肉体のことであり、苦しんだり、病んだり、死んだりすることもある。つまり、これは、経験の担い手となる身体だ。政治的身体は、不死の持続する身体である。

 今、国王二体論を西洋の王権が作り上げたと述べたが、これを、十分に完成させ、永続的で一般的な法思想に浸透させたのは、イングランドだけである。しかし、イングランドの水準の完成度にまでは至らなかったとしても、他のヨーロッパの諸王権も、同じ方向を目指していた。つまり、首尾一貫性や体系性の程度は、まちまちだが、ヨーロッパの多くの王権で、近世の初期までには、王の内に二つの身体が宿っているとする見解をもつに至ったのである。

 この教説に関して最も成熟した考察を展開したイングランドの法学者にとって、最も重要な先駆者にあたるのが、十四世紀のイタリアの法学者バルドゥスである。バルドゥスは、王の中に個人的人格(≒自然的身体)と威厳Dignity(≒政治的身体)という二つのものが共存するという事実を指摘し、そして、「威厳」は、ある種の知性上の存在で、物体的な様態ではなく、神秘的な仕方で永遠に存続する何かである、と論じている。加えて、彼は、次のように書いている。

  「王の人格〔自然的身体〕は、知性によって捉えられるもう一つ別の公的な人格〔威厳、政治的身体〕の機関であり道具である。」

  「行為を主として惹き起こすのは、叡智的かつ公的な人格(すなわち威厳(・・))である。なぜならば、道具の力よりも、行為ないし主体の力へと注意は向けられるからである。」》

 

《国王二体論が、政治的・法的な現場でどのように働くのか。まず具体例を見ておこう。カントーロヴィチはイングランド女王エリザベス一世(在位一五五八―一六〇三年)の統治下に集大成されたエドマンド・プラウドン判例集から次のようなケースを引用している。それは、ランカスター家の王たち(貴族たち)が私有財産として所有していたランカスター公領をめぐる訴訟である。訴訟は、エリザベス女王治下の四年目に起こされた。裁判では、先王のエドワード六世とランカスター家との間に結ばれた契約の有効性が争われた。エドワード六世は、ランカスター公領内の土地を、ランカスター家に貸していた。難しい問題は、賃貸していた期間、エドワード六世が未成年だったことにある。ランカスター家側は、賃貸契約は法的に無効だ、と主張した。つまり、領地は、王から借りているのではなく、自分たちのものなのだ、と。

王座(クラウン)の法律家たちは、集まって議論したが、全員一致で、ランカスター家の言い分を斥けた。その論拠が重要である。王がまさに王としての資格で遂行したことは、王が未成年であるという理由によっては無効にはならない、なぜならば、王は自らのうちに自然的身体と政治的身体をもつからだ……そのように説明される。幼少だったのは、エドワード六世の自然的身体である。しかし、賃貸契約を結んでいるのは、彼の政治的身体の方だ。政治的身体に関しては、幼少であるとか、逆に老齢であるとか、といったことは意味をなさない。

 このケースでもよく示されているように、自然的身体と政治的身体は対等ではない。政治的身体の方が優越した身体である。通常は、二つの身体は統合されている。たとえば、エドワード六世が統治しているとき、彼自身の自然的身体とは独立したところに政治的身体があるわけではない。しかし、一方の身体が他方の身体から分離することもある。どんなときか。王が死んだときである。だが、このときも政治的身体の方は死ぬことはない。「王の死Death of the King」という語は、本来、意味をなさない。それゆえ、王の死に対しては、そしてそのときにのみ、”Demise”が使われる。(中略)”Demise”の文字通りの意味は、「分離して置くこと」「引き離して別のところに移すこと」となる。王の死に際して、政治的身体が一つの自然的身体から離れ、別の自然的身体へと運ばれるからだ。》

 

カントーロヴィッチの見るところ、シェイクスピアの戯曲は、国王二体論を正確に踏まえている。とりわけ、『リチャード二世』は、国王二体論の解説、「王の二つの身体」の悲劇と言ってもよいほどの作品になっている。一五九五年頃に書かれたと推定されているこの戯曲は、一応、現実のリチャード二世(プランタジネット朝イングランド王、在位一三七七―九九年)の生涯をモデルにしてはいる。しかし、われわれの目的にとっては、リチャード二世が実際にどうであったということにこだわらない方がよい。シェイクスピアがこれをどのように作品化したか、ということだけが、ここでは重要である。

『リチャード二世』の主題は、リチャード二世からヘンリー四世(ボリングブルック)への王の交代である。リチャード二世は愚かで、卑しい人物として描かれている。彼は、理不尽な理由で、従兄弟のヘンリー・ボリングブルックをイングランドから追放した。その後、リチャード二世は、ボリングブルックの財産を不当に没収したり、貴族から言いがかりのような事由で罰金を徴収したり、民衆に重税を課したりしたため、完全に人望を失ってしまう。そのため、ボリングブルックが財産の返還を求めてイングランドに帰還したときには、ほとんどの貴族がボリングブルックの側についた。結局、イングランドはボリングブルックに制覇され、リチャード二世は、王位をボリングブルックに譲渡せざるをえなくなる。ウェストミンスター寺院で、王冠がリチャード二世からボリングブルックへ譲られ、ボリングブルックがヘンリー四世として即位した。リチャード二世は、ポンフレット城に幽閉され、最後に、ヘンリー四世の部下の騎士エクストンに殺される。われわれが注目すべきことは、次第に劣勢になっていく中でリチャード二世に生ずる変化、つまり王位を奪われつつある王の身体が被る変容である。

 ボリングブルックの反逆の報せを受けたときには、リチャード二世は、未だ強気である。彼は、こう語る。

  荒海の水を傾けつくしても、神の塗りたもうた聖油を/王たるこの身から洗い落とすことはできぬ、/まして世のつねの人間どもの吐くことばごときで/神の選びたもうたその代理人を廃位させることはできぬ。/わが黄金の王冠にこしゃくにも刃向かわんとして/ボリングブルック〔ヘンリー四世〕がかき集めた兵士一人にたいし、/神は選びたもうたリチャード二世のために天使お一人を/お送りくださるだろう。天使たちが戦ってくださるのだ、/弱い人間は敗れるほかない、天はつねに正義の味方なのだ。

この台詞が表現しているのは、リチャード二世自身による自分の身体の自己崇高化である。ここで、彼は、自分自身の政治的身体を指し示しているのである。たとえば「神の選びたもうたその代理人」は、政治的身体の言い換えである。彼は、自分を助けるための天使の軍隊が派遣されるとまで確信している。

しかし、戦況が苦しいことが次第に明らかになってくる。するとリチャード二世は、家臣たちにたとえば次のように語るようになる。そこで表現されているのは、痛々しい自己憐憫である。

 さあ、みんなこの大地にすわってくれ、そして/王たちの死の悲しい物語をしようではないか、/退位させられた王、戦争で虐殺された王、/自分が退位させたものの亡霊にとりつかれた王、/妻に毒殺された王、眠っていて暗殺された王の物語を。/みんな殺されたのだ、なにしろ、死すべき人間にすぎぬ/王のこめかみをとりまいているうつろな王冠のなかでは、/死神という道化師めが支配権を握っており、/王の威光をばかにし、王の栄華をあざ笑っておるのだ。

 ここでまず、リチャード二世は、王の自然的身体について語っている。王もまた「死すべき人間」である、と。さらに次のように言うことで、リチャード二世は、自分自身をその自然的身体の中に加えている。

  おまえたちはこれまでおれを見まちがえていたらしい、/おれもおまえたち同様、パンを食って生き、飢えを感じ、/悲しみを味わい、友を求めておる。そのような欲望の/臣下であるおれが、どうして王などと言えようか?

 このように、『リチャード二世』は、王の身体の急激な変質について語っているのである。政治的身体が優位にあった状態から、自然的身体へと一元化している状態への、ほとんど瞬時と言ってよいような、短時間の変質である。

 王冠が、リチャード二世からボリングブルックへと移される場面では、リチャード二世は、独特の論法で自分自身を告発する。

  だが、いくら塩からい水が目を曇らせても、/ここに謀反人どもの群れがいることだけは見えておる。/いや、目を転じて自分を見れば、この私自身、/ほかのものと同じく謀反人だということがわかる、/なにしろ私は、栄華を極めて王のからだから/……

 ここで、自然的身体としての王は、政治的身体としての王(栄華を極めた王のからだ)にとって謀反人だという認識が示されている。カントーロヴィチは、ここに、一六四九年(筆者註:ピューリタン革命でチャールズ一世(メリー・スチュアートの孫)が処刑された)の予告を、つまり王Kingに王Kingを対立させる(筆者註:ピューリタンのスローガン的な叫びは「王Kingを護るために王Kingと闘う」)告発の予告を見ている。もっとも、この段階では、別の人物(ボリングブルック)があらためて王Kingとして指定されることになるのであって、ピューリタン革命の逆説(筆者註:結局、王政そのものを否定し、共和制に移行した)へと至る徹底性はまだ見られない。

 政治的身体を喪失していくリチャード二世の悲劇と狂気は、このすぐ後、「威厳を失った王の顔を見たい」として、鏡を要求する場面でピークに達する。鏡を求めるときには、リチャード二世は、その言葉とは裏腹に、まだ一抹の期待をもっている、と解釈すべきだろう。鏡を覗き込んだとき、そこに映っている自分の顔に、なお威厳の痕跡が認められるのではないか、という期待を、である。だが、実際には、鏡の中の顔に、威厳の欠片も認められない。だから、リチャード二世は憤慨して、鏡を叩き割らざるをえなくなるのだ。》

 

《もちろん、王が殺されることはよくある。リチャード二世も殺された。しかし、たとえ殺害の目標がダメな王だとしても、殺害者の側には、一般に非常な躊躇がある。ハムレットは、叔父であり王でもあるクローディアスを殺すにあたって、どうしてあれほど迷い、ためらったのか? ハムレットは、その気になれば、いつでも簡単にクローディアスを殺せたはずなのに、なかなか踏み切ることができない。どうしてなのか?

 それは、政治的身体が自然的身体との間にもつ両義的な関係のゆえであろう。政治的身体は、まさに身体であることによって、自然的身体のうちにある。しかし、同時に、自然的身体に還元できない、それ以上のものでもある。とすれば、「それ」に正確に命中するように、一撃を加えることなど、できるのだろうか。王殺しが非常に困難で、必要な場合でも人がなかなかそれに踏み切れないのは、このような不安のためである。》

 シェイクスピアマクベス』でダンカン王を殺して、スコットランド王になったマクベスの不安にも「王の二つの身体」の影がある。

 

《『リチャード二世』のボリングブロックは、ハムレット以上に憶病である。彼が、ヘンリー四世として真の王になるためには、幽閉した先王のリチャード二世を速やかに殺さなくてはならない。しかし、彼にはそれができない。この逡巡を乗り越えるために、ボリングブロックは、最後に策を弄する。それが、この戯曲の整合性を壊しているのではないか、としばしば批判されてきた結末につながる。ボリングブロックは、臣下の一人、騎士のエクストンに、謎をかけるような仕方で、つまり間接的な言い回しで、リチャード二世の殺害を命令する。ボリングブルックの真意を読み取ったエクストンは、当然、リチャード二世を殺した。ボリングブルックはエクストンを賞賛しただろうか。察しよく、最もめんどうな仕事をしたエクストンにボリングブルックは報いたか。違う。まったく逆である。ボリングブルックは、エクストンを、命令なしに勝手にリチャード二世を殺害したとして、つまり反逆者として処罰したのだ。(中略)

 だが、ボリングブルックにとって、リチャード二世は、一方では、殺したい、殺さなくてはならない他者だが、他方では、どうしても殺すことができない他者、攻撃しようにも肝心な部分をどうしても逸してしまう他者である。この二律背反に近い極端な両義性だけが、可能な関係だったのである。なぜそうなのかと言えば、それード二世暗殺は、この両義性を否定するがゆえに、ボリングブルックにとっては裏切りにあたるのだ。エクストンを呪った後、ボリングブルックが突然、聖地に向かう十字軍に参加すると宣言して、芝居は終わる。エクストンの「裏切り」がもたらした「罪」を贖うためには、新王は聖地――つまりはキリストが殺され復活したエルサレム――に行かなくてはならないからだ。》

 このあたりは、シラー『マリア・スチュアルト』の第四幕第十一場および第五幕第十四場、終結の場や、ツヴァイクメリー・スチュアート』の「第二十二章エリザベス対エリザベス」「第二十四章エピローグ」のエリザベスの挙動そのままではないか。

 

 カントーロヴィチは次のように書いている。

《『リチャード二世』は、常に政治劇と考えられてきた。廃位の場面は、一五九五年の初演以降、何回も上演されていたにもかかわらず、エリザベス女王が死去するまで活字にされることがなく、あるいは活字にすることが許可されなかった。史劇は一般的にイングランドの人々の間で人気があり、特にアマルダ〔スペイン無敵艦隊〕の壊滅に引き続く時代においてそうであった。しかし、『リチャード二世』に対する人々の関心は、尋常なものではなかった。これは他の理由もあるが、特にエリザベスとエセックス伯(筆者註:二代エセックス伯(ロバート・デヴロー)は、母レティスと初代エセックス伯(ウォルター・デヴロー)との息子だが、母の再婚相手(継父)はドニゼッティマリア・ストゥアルダ』に登場するレスター伯(ロベルト・ダドリー)だった。彼の後援で宮廷デビュー、ハンサムな容貌でエリザベス女王の寵愛を受けるが、アイルランド反乱鎮圧失敗後に反目し、反逆罪で斬首(ドニゼッティ「女王三部作」の掉尾を飾る『ロベルト・デヴェリュー』となる)との争いが、シェイクスピアの時代の人々にとって、リチャードとボリングブルックの争いのように映ったからである。一六〇一年、――結局は不首尾に終わった――女王に対する反乱の前日に、エセックス伯が、自分の支持者とロンドン市民の前で『リチャード二世』をグローブ座で特別に上演することを命じた事実は、よく知られている。エセックス伯に対する裁判の過程で、この上演の事実が王座の裁判官――このなかには、当時の二人の偉大な法律家、クックとベイコンがいた――によって少しばかり立ち入って議論されたが、彼らは、この劇の上演が現状への暗示を意図したものであることに気づかないはずはなかった。また、エリザベスがこの悲劇に対し、きわめて強い嫌悪の念を抱いていたことも、同様によく知られている。エセックス伯に対する刑執行の当日、彼女は、「この悲劇が街なかや建物のなかで四十回も上演されてきた」と苦情を述べ、自らを劇の主人公と同一視するあまり、「私がリチャード二世なのだ。おわかりにならぬか」と叫んだほどである。

『リチャード二世』は政治劇であり続けた。それは、一六八〇年代の、チャールズ二世(筆者註:ピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世の子で、王政復古によって一六六〇年チャールズ二世として即位)の治下において上演禁止となった。その理由は、この劇がおそらくあまりにも露骨にイングランド革命史のごく最近の出来事を、すなわち、当時聖公会祈祷書で記念すべき日とされた「祝福された国王チャールズ一世殉教の日」を例証するものと考えられていたからである。王政復古は、このような事実や、これに類似の他の事実を記憶から抹殺しようとし、したがって、キリストの荷姿たる殉教王の概念と同時に、王の二つの身体の暴力的な分離という、きわめて不愉快な概念をもテーマにしたこの劇を好まなかったのである。》

 

 エリザベスによるメリー・スチュアート処刑(1587年)もまた、シェイクスピア『リチャード二世』(1595年初演)が映し出した「王の二つの身体」の反復された映像であり、後にシラー『マリア・ストゥアルト』/ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』/ツヴァイクメリー・スチュアート』へと「王の二つの身体」のテーマが、合わせ鏡のように多重映像化されているのは明らかである。

                              (了)

      *****引用または参考文献*****

ツヴァイクメリー・スチュアート』(『ツヴァイク全集18』)古見日嘉訳(みすず書房

*シラー『マリア・ストゥアルト』相良守峯訳(岩波文庫

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』ディドナート、デン・ヒーヴァー、ポレンザーニ他、ベニーニ指揮、マクヴィカー演出(メトロポリタン歌劇場、2013年)

https://www.operaonvideo.com/maria-stuarda-met-2013-didonato-van-den-heever-polenzani/

ドニゼッティマリア・ストゥアルダ』デヴィ―ア、アントナッチ、メーリ他、フォグリアーニ指揮、ピッツィ演出(ミラノ・スカラ座、2008年)

https://www.operaonvideo.com/maria-stuarda-milan-2008-devia-antonacci-meli/

*E・H・カントーロヴィッチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』小林公訳(ちくま学芸文庫

大澤真幸『<世界史>の哲学 近世篇』(講談社

シェイクスピア『リチャード二世』小田島雄志訳(白水uブックス

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書