昭和四十四年に『かくれ里』を、昭和四十七年に『近江山河抄』を「芸術新潮」に連載した白洲正子は、昭和四十九年一月から『十一面観音巡礼』を一年半連載する。
紀行文のようでもあるが、昨今はやりの「食」「宿」などへの雑文的言及は厳しく排して、十一面観音に集中している。
《私の経験からいっても、十一面観音は、必ず山に近いところ、もしくは山岳信仰と関係のある寺に祀ってあり、あまり方々でお目にかかるので、自然に興味を覚えるようになった。何より驚くのはその数の多いことと、美しい作が沢山あることで、興味というより不思議に感じたのがはじまりである。が、そんなことはいくらいってみた所で仕方がない。学者なら学問の方から近づくことも出来ようし、坊さんなら信仰に感得する所もあるに違いない。が、素人の私はどうすればいいのか。とにかく手さぐりで歩いて、なるべく多くの十一面観音に会ってみる以外に道はない。巡礼というのも大げさで、歩いている中に何かつかめるかも知れないし、つかめなくても元々である》と呟いたり、《何度か「おこもり」もしてみた。が、何もつかめないのは依然として同じことである。だから魅力もあるというもので、わかってしまったら私は書かないであろう》と宣言してもいる。
白洲は、初期の『能」に関する文章から彼岸と此岸の「境界」、世阿弥「修羅物」の中有(ちゅうう)にさまよう幽霊の重要性に着眼しているが、そこには折口信夫「まれびと」概念への共鳴もあっただろう。晩年の『両性具有の美』でも日本の文化、芸能における中間的表現を多面的に紹介し、「中間領域」の「美」に囚われ、時間という軸においては「過渡期」に終生魅力を感じ続けた。
それはこの『十一面観音巡礼』においても明かである。『十一面観音巡礼』を読みながら、「境界/中間領域/過渡期」といったテーマに関する白洲正子の言葉の見出しをつけながら読んでみよう。くだくだしい説明は不要だ、白洲正子の文章が十全に語っているのだから。
1.「聖林寺から観音寺へ」
1-1.手さぐり
《はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均整を失はない、快いリズムを投げかけてゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。(中略)
案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが座っていた。「これが本尊だから、お参りください」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけて下さった。さしこんでくるほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味えない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。
観音様は本尊の隣の部屋に、お厨子(ずし)ともいえない程の、粗末な板がこいの中に入っておられた。その為に膝から下は見えず、和辻さんが賛美した天衣の裾もかくれている。が、そんなことは少しの妨げにもならなかった。私が呪縛されたように動かずにいるのを見て、住職は後の縁側の戸を開けて下さった。
くずれかけた縁へ出てみると、後側からは全身が拝めた。私はおそるおそる天衣の裾にさわってみて、天平時代の乾漆の触感を確かめてみた。それは私の手に暖く伝わり、心の底まで深く浸透した。とても鑑賞するなどという余裕はなく、手さぐりで触れてみただけである。それが十一面観音とのはじめての出会いであった。(中略)そうして四十年の年月が流れた。》
1-2.動き出そうとする気配/人間と仏の中間/過渡期の存在/爛熟と頽廃のきざし/女躰でありながら、精神はあくまでも男/悪神は善神に転じ
《新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする。前には気がつかなかった落剝が目立つのも、あながち年月のせいではないだろう。いくら 鑑賞が先に立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。またそうでなくては、正しい意味の鑑賞も出来ないのではないか。
だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。後世になると、歴然とした動きが現れて来るが、ここには未だそうしたものはなく、かすかに動き出そうとする気配がうかがわれる。その気配が何ともいえず新鮮である。蕾の蓮華で象徴されるように、観世音菩薩は、衆生済度のため修行中の身で、完全に仏の境地には到達していない、いわば人間と仏との中間にいる。そういう意味では過渡期の存在ともいえるが、この仏像が生れた天平時代は、歴史的にいっても律令国家が一応完成し、次の散りかかろうとする危機もはらんでいた。そういう時期に出現したのが十一面観音である。だから単に新鮮というのは当らない。そこには爛熟と頽廃のきざしも現れており、泥中から咲き出た蓮のように、それらの色に染みながら、なおかつ初々しいのがこの観音の魅力といえる。一つには、乾漆という材質のためもあると思うが、どこか脆いようでいて、シンは強く緊張している、女躰でありながら、精神はあくまでも男である。その両面をかねているのが、この観音ばかりでなく、一般十一面観音の特徴といえるかも知れない。
もともと十一面観音には、そうなるべき素質と過去があった。後藤大用氏の『観世音菩薩の研究』によると、生れは十一荒神と呼ばれるバラモン教の山の神で、ひと度怒る時は、霹靂(へきれき)の矢をもって、人畜を殺害し、草木を滅ぼすという恐ろしい荒神であった。そういう威力を持つものを遠ざける為に、供養を行なったのがはじまりで、次第に悪神は善神に転じて行った。しまいにはシバ神とも結びついて、多くの名称を得るに至ったが、十一面の上に、千眼を有し、二臂(ひ)、四臂、八臂など、様々の形象で現わされた。日本古来の考え方からすれば、荒御魂(あらみたま)を和(にぎ)御魂に変じたのが、十一面観音ということになり、そういう点で理解しやすかったのかもしれない。印度から中国を経て日本へ渡ったのは、六世紀の終りごろで、現存するものでは、那智発掘の金銅十一面観音(白鳳時代)がもっとも古いとされている。》
1-3.甘美なロマンティシズムと、流れるようなリズム感/品定めでない
《聖林寺の観音と、いつも比較されるのは、山城の観音寺の本尊である。正しくは息長山普賢寺といい、京都府綴喜(つづき)郡田辺にある。(中略)
庭前の紅葉と、池水の反射をうけて、ゆらゆらと浮び出た十一面観音は、私が想像したよりはるかに美しく、神々しいお姿であった。といって、写真がぜんぜん間違っていたわけでもない。宝瓶を持つ手は後補なのか、ぎこちなく、胸から腰へかけてのふくらみも、天衣の線も、硬い感じを与える。が、学者によっては、聖林寺の観音より優れていると見る人々は多い。落剝が少く、彫りがしっかりしているからだが、素人の私には、まさしくその長所が欠点として映る。ひと口にいえば、頽廃の気がいささかもないのが、甘美なロマンティシズムと、流れるようなリズム感から遠ざけている。それはたとえば力強い支那陶器と、やわらかい志野や織部を比較するようなもので、殆んど意味のないことだろう。私はそんなことがいいたい為に巡礼をしているのではない。では何の為に、と聞かれると返答に困るが、少くとも十一面観音の品定めでないことは確かである。》
1-4.御霊/記憶/外来人/祟り
《観音堂に向って左側に、ささやかな地主神社が建っている。元は東北の山中にあったそうで、御霊神社とも呼ばれ、祭神は継体天皇である。東北といえば、筒城の宮のあったあたりで継体天皇を祀ったのはわかるが、「御霊」と呼ばれたことは不思議である。越前から出たこの天皇には、不可解な点が多く、河内の樟葉から山城の筒城、同じく山城の弟国(乙訓)へと、落着くひまもなく遷都し、大和へ入るのに二十年近くかかっている。のみならず、『日本書記』には、『百済本記』をひき、「日本(やまと)の天皇及び太子(ひつぎのみこ)・皇子、俱に崩薨(かむさ)りましぬ」という記事をのせており、その頃朝廷内に重大な事件がおこったことを暗示している。(中略)
御霊信仰が発生したのは大分後のことだが、筒城の宮跡に天皇の御霊を祀ったのは、当時の記憶が残っていたのではあるまいか。『書記』がかくそうとした事件の真相を、土地の人々は知っていたに違いない。まして、ここは大和に近く、外来人の根拠地でもある。彼らにとっても、忘れることの出来ない痛恨事であったろう。そういう記憶は長く尾をひくもので、百済人の子孫である良弁が、天皇一族の鎮魂の為に、十一面観音を祀ったのは、あり得ることだと私は思う。木津川は、この頃でもよく氾濫するが、古代の人々はその度に、天皇の怒りを思い出し、祟りを畏れたのではあるまいか。》
2.「幻の寺」
2-1.法華寺/歩み出そうとする気配/遍歴することによって衆生を救う
《久しぶりにお目にかかる十一面観音(筆者註:奈良の法華寺)は、やはりすばらしい彫刻であった。観光が盛んになって以来、方々で写真に接するが、どれもこれも気に入らない。太りすぎて、寸づまりに写るからである。しかいには、それがほんとうのような気がして来て、写真の力というのは恐ろしいものだと思う。
「皆さんそう仰しゃいます。実物をごらんになって、びっくりなさいます」
と尼さんもいわれるが、しょせんレンズは肉眼とは違う。発達すればする程、よけいなものまで写してしまうに違いない。たしかにこの観音は太り肉ではあるが、ほのかな光の元で見る時は、嫋々(じょうじょう)とした感じで、右手の親指でそっと天衣の裾をつまみ、やや腰をひねって歩み出そうとする気配は、水の上を逍遥するといった風情である。
近江の石道寺(いしどうじ)の十一面さんも、右足の親指をちょっとそらせており、それが大変媚かしく見えると、私は前に書いたことがあるが、気がついてみると、この観音も爪先をそらせている。それだけのことで、全体の調子に動きを与え、遍歴することによって衆生を救うという、観音の本願が表現されている。蓮の葉巻の光背は後補と聞くが、やや凝りすぎのきらいがある。写真にとると、よけいうるさい。肉眼で見たような写真がないかと思って、入江泰吉氏にうかがってみると、この観音様はお厨子の中に入っている為、撮影するのがむつかしく、ライトを使うとどうしても強く写ってしまうというお話であった。まともに見るのも憚かられるように造られたものを、写真にとるのがそもそも無理な注文なので、巧く行かないのは当り前のことかも知れない。》
3.「木津川にそって」
3-1.水の信仰
《伊賀の山中に発する木津川は、南山城の渓谷を縫いつつ西へ流れる。笠置、加茂を経て平野に出ると、景色は一変し、ゆるやかな大河となって、北上する。その川筋には、点々と、十一面観音が祀られている。それは時に天平時代の名作であったり(観音寺)、藤原初期の秘仏であったり(観菩薩寺)、路傍の石仏だったりする。漠然とそういうことには気づいていたが、今度歩いてみて、それらの寺が互いに関聯すること、水の信仰と密接に結びついていること、特に東大寺の造営に大きな役割を果した事実を知ることができた。》
3-2.海住山寺/密教的な重苦しさ/山岳修行者/生みの苦しみ
《山門(筆者註:海住山寺)から少し登ると、左手の方に、美しい五重塔が見えて来る。この前来た時は修理中だったが、朱の色もしっとりと落ついて、松林を背景に瀟洒な姿を現している。塔と文殊堂の間に本堂が建ち、十一面観音はその中に安置してある。良観時代のしっかりした彫刻で、どことなく天平の残り香がただよっているように見える。が、何事か一心に思いつめた表情で、はれぼったい眼で凝視する姿は、密教的とでもいうのだろうか、やや重苦しい印象をうける。肩をはっている為に、首が落ちこんでいるのも、窮屈である。別にこの本尊にかぎるわけではない、有名な室生寺の十一面観音でも、山間に祀られている仏像には、みな共通の特徴がある。カゼにのって、虚空から舞い降りたような軽快さは失せ、かわりに大地に根をはった力強さが現れる。聖林寺の甘美な詩も、法華寺の官能的な魅惑も、もはやここにはない。美術史の上では、どう分類するのか知らないが、おそらく官寺の仏師ではなく、山岳修行者のたぐいが造ったものに相違ない。といって、素人の作とは思えず、まったく別の系統の仏師がいたとしか考えられない。それは単に時代や技術の差だけではなく、発想の仕方が根本的に違う。こういうことを言葉で言い現すのはむつかしいが、しいて言うなら、その暗く鬱々とした表情に、私は「生みの苦しみ」といったようなものを感じる。》
3-3.お水取
《天平勝宝三年(七五一)、良弁僧正の高弟、実忠和尚は、千手窟に籠って、都卒の内陣に遊び、聖衆が集まって、十一面観音悔過(げか)法を修するのを見たという。都卒天というのは、弥勒菩薩の浄土で、実忠は夢さめて後、その修法を拡めようとしたが、肝心の本尊がない。そこで直ちに難波津におもむき、西海に向って祈っていると、その満願の日に、身の丈七寸の十一面観音が、閼伽(あか)器に乗って浮いて来た。「銅(アカガネ)ノ像ニテ暖カナルコト人ノ膚ノ如クナリ」と、『元享釈記』は伝えている。翌天平勝宝四年二月一日、東大寺の羂索院に、この像を安置し、十一面悔過の修法を行なった。これが東大寺の修二会(しゅにえ)、すなわち「お水取」のはじまりである。
今のその霊像は「小観音(こかんのん)」と称して、二月堂に祀ってある。二月堂にはもう一つ本尊があり、この方は「大観音(おおかんのん)」と呼ばれるが、両方とも絶対の秘仏なので、見た人はいない。が、難波の海で、七寸の銅(あかがね)の像を得たというのは、外国から将来された金銅仏が、そういう説話となって伝わったのであろう。》
3-4.土俗の信仰と混交/官能的で娼婦的な性格
《古代の仏教は、土俗の信仰と、実に様々な形で入交っている。中国の観音は、女媧や玉女と混交し、陰陽を司る女神となった。「暖カナツコト人ノ膚の如クナリ」という二月堂の本尊は、もともと大変官能的な仏なのである。男女の別などある筈のない菩薩が、時に妖しいまでに蠱惑(こわく)的な姿に造られたのは、そういう過去を持っている為に他ならない。平安朝の白拍子や遊女が、観音とか千手、熊野などという名前を持ち、下って徳川時代の太夫の道中が、來迎のお練りに見立てられたのも、皆そのような伝統による。観音が与える現世利益、あえていうならその娼婦的な性格が、どれ程民衆をひきつけたことか。民衆ばかりでなく、信仰は強ければ強い程、生身の観世音の魅惑には、抵抗することができなかったであろう。美しい吉祥天を恋した僧が、夢の中で交わる話、性空上人が、室の津の遊女に、普賢菩薩を感得した話など、いずれも広大無辺な仏の智慧を語る逸話だと思う。
山間に祀られている十一面観音が、出来不出来は別として、一様に重苦しい姿でいるのは、そういう所からぬけ出そうとする、創造の苦しみを現しているのではなかったろうか。》
4.「水神の里」
4-1.室生寺/呪術的な暗さ/中国文化の影響をいかにして骨肉化するか/醒めることの苦悩と緊張
《室生寺をおとずれたのは、二月の半ばであった。凍てついた河原に、ときどき風花が舞うような夕暮で、境内には人影もなかった。「女人高野」の碑をすぎて、山門に入ると、道は自然に右へ折れ、ゆるやかな石段の上に金堂の屋根が見えて来る。この寺はせまい山地を実にたくみに利用して造られているが、登るにつれてなだらかな屋根の線が、次第に現れて行く景色は、いつ眺めても美しい。春は石楠花(しゃくなげ)の甘い香りがただよい、秋は燃えるが如き紅葉に彩られる。が、おまいりするなら寒い季節がいい。心身ともにひきしまった気分になる。
金堂は西側の扉から入るようになっており、入った所に十一面観音が立っていられた。お堂の中は暗くて、殆んど何も見えないが、ほのかな斜光の中に、観音様だけが浮び上り、思いなしか今日はことさら尊く見える。多くの十一面観音の中でも、この仏像は特に有名で、翻波(ほんぱ)式と呼ばれる衣文の彫りも、彩色も、貞観時代の特徴をよく止めている。が、私にいわせればやはり山間の仏で、平野の観音の安らぎはない。両眼をよせ気味に、一点を凝視する表情には、多分に呪術的な暗さがあり、まったく動きのない姿は窮屈な感じさえする。平安初期の精神とは、正しくこういうものであったに違いない。長年にわたって受けついだ中国文化の影響を、いかにして骨肉化するか、桓武天皇が平安京に遷都し、弘法大師が高野山に籠り、伝教大師が叡山を開いたのも、一にそのことにかかっていた。こういう仏像を眺めていると、彼等の祈りの声が聞こえて来るような気がする。甘美な天平の夢は醒める時が来た。醒めることの苦悩と、緊張を、この観音は身をもって示していると思う。》
4-2.龍神信仰
《金堂へ登る右手の木立の中に、ささやかな鎮守社が建っている。人は気がつかずにすぎて行くが、これこそ室生の寺の前身で、その方角を東へ遡った室生川のほとりに、「龍穴神社」が鎮座している。昔は車も通わぬ山道だったが、今は舗装になっていて、寺の門前から川にそって登ると、五、六分で行ける。が、この神社も後に造られたもので、ほんとうの「龍穴」は、更にその奥の谷間にある。今度行ってみて驚いたのは、ここにも道がついていたことで、急な坂を登った所に、「龍穴」と書いた立札があり、そこで車を捨て、崖を下ると河原へ出る。河原には清らかな水が流れており、向う岸の切立った岩のさけ目に祠があって、注連縄(しめなわ)がはりめぐらしてある。みるからに龍が住んでいそうな恐ろしげな洞窟で、室生の山の奥の院といった感じがする。
光仁天皇の宝亀年間、皇太子(後の桓武天皇)の病気平癒の為、ここで祈祷が行われた。》
5.「白山比咩の幻像」
5-1.白山信仰
《白山は越前、加賀、美濃の三国にまたがる霊山で、養老年間に、泰澄大師によって開かれた。泰澄は白鳳十一年(六八三)六月、越前麻生津(あそうづ)に誕生したが、夏であるのに、その日は白雪が積ったという。幼い頃から「神異の童」と呼ばれ、不思議な霊力を持つ少年であったが、十四歳の時、越智山にこもって、十一面観音を念じ、みずから髪を剃って比丘となった。麻生津も、越智山も、福井県の西側にあり、そこからは白山の全景がくまなく見渡される。(中略)泰澄は三年の間白山にこもり、修行をつんで「越の大徳」と呼ばれ、元正天皇が病になられた時は、祈祷のために平城京に招かれた。まだ東大寺ができる以前のことで、十一面観音の信仰は、彼にはじまるといっても過言ではあるまい。太古から崇拝された神の山は、仏教の衣裳によって荘厳され、その信仰は日本全国に拡まって行った。東北地方で有名な「おシラ様」は、場所によっては「シラヤマ様」と呼ばれていると、柳田国男氏は書いていられるが、祭りの時に「シラヤマ」という作り物をしつらえ、氏子がその中にこもるという話も読んだことがある(原初的思考―宮田登)。》
5-2.本地垂迹
《ここ(筆者註:横蔵寺)から北へ遡ると、越前の境の能郷白山へ達するが、そこにも「権現山」と称する神山があり、白山信仰はそれらの峯伝いに、山岳仏教の聖達によって拡められたのであろう。日本の信仰は、山と川によって発展したといっても過言ではない。十一面観音は、たしかに仏教の仏には違いないが、ある時は白山比咩、またある時は天照大神、場合によっては悪魔にも龍神にも、山川草木にまで成りかねない。そういう意味では、八百万の神々の再来、もしくは集約されたものと見ることも出来よう。
本地垂迹という思想は美しい。が、完成するまでには、少くとも二、三百年の年月がかかっている。はたして私達は。昔の人々が神仏を習合したように、外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。》
6.「湖北の旅」
6-1.渡岸寺/見ることによって受ける感動と仏を感得する喜び
《早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。
土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本堂を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を妨げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。
お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では、とかく本尊を飾りたてたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚えるようになった。正直いって、私が見た中には、きれいに整っているだけで、生気のない観音様が何体かあった。頭上の十一面だけとっても、申しわけのようにのっけているものは少くない。そういうものは省いたので、取材した中の十分の一も書けなかった。昔、亀井勝一郎氏は、信仰と鑑賞の問題について論じられ、信仰のないものが仏像を美術品のように扱うのは間違っているといわれた。それは確かに正論である。が、昔の人のような心を持てといわれても、私達には無理なので、鑑賞する以外に仏へ近づく道はない。多くの仏像を見、信仰の姿に接している間に、私は次第にそう思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや、違ってはならないのだ、と信ずるに至った。それにつけても、昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。》
6-2.まだ人間の悩みから完全に脱してはいない/悪の表現の方に重きをおいた/天地の中間にあって、衆生を済度する/自分の眼で見たもの/一人の方法、一人の完成/ものを造るとは、ものを知ること
《それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当たり前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。十一面というのは、慈悲相、瞋怒(しんど)相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来相を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。
渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐ろしい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。してみると、十一面観音は、いわば天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのを見ると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。》
6-3. 鶏足寺(けいそくじ)から石道寺(いしどうじ)へ/遊び足
《渡岸寺から高時川を遡って行くと、古橋という集落の高台に、与志漏(よしろ)神社が建っている。その裏手に新しい収蔵庫があって、もと己高(こたかみ)山にあった鶏足寺(けいそくじ)の仏像が集っている。己高(こたかみ)閣とも呼ばれ、収蔵庫が本堂のようになっているが、本尊は平安初期の十一面観音で、渡岸寺の観音とはまた別の趣がある。いかにも田舎の仏らしく、おっとりした風貌で、ほのかな彩色が残っているのが美しい。(中略)
己高山は古くから信仰された神山で、渡岸寺と同じく、泰澄大師が開き、伝教大師が再興したと伝える。湖北の古い寺は、どこでも同じような伝承を持っているが、それは近江に浸透していた白山信仰が、叡山に吸収されて行ったことを示していると思う。鶏足寺の神像でも、十一面観音(白山)と猿(日吉)が入交っており、湖北は両者の接点であったことがよくわかる。地形的にいっても、山伝いに行ける白山の方が、湖水をへだてた比叡山より、身近に感じられたのではないか。養老年間に、越前から大和へ上った泰澄は、湖北から、湖南の岩間寺、宇治田原の金胎寺へ、点々と足跡を遺している。(中略)
鶏足寺から石道寺(いしどうじ)へ、雑木林の中を縫って行く小道には、湖北らしいしっとりとした趣がある。左手には、雪を頂いた己高山がそびえ、落葉を踏んで行くと、やがてその麓の山あいに、石道(いしみち)の集落が見えて来る。お堂はそこから少し登った岡の上の、桜並木の奥にあり、ここにも平安時代の可憐な十一面観音が、村の人々に守られて鎮まっている。
「一木造りの等身大の藤原彫刻は、まことに古様で、美しい。微笑をふくんだお顔もさることながら、ゆるやかに流れる朱(あけ)の裳裾の下から、ほんの少し右の親指をそらし気味に、一歩踏み出そうとする足の動きには魅力がある。法華寺や室生寺の十一面観音も、同じように足指をそらせているが、多くの人々の心をとらえるのは、あの爪先の微妙な表現にあるのではないか」
と、『近江山河抄』の中に私は書いているが、今度気がつくと、鶏足寺の観音も、足の親指をそらせており、当時の彫刻家が、十一面観音の「遊び足」の表現に、それぞれ苦心したことが窺える。その動きは、やがて来迎の思想を生む源泉となった。次第に絵画が彫刻にとって変り、二十五菩薩来迎の図や、山越の弥陀や観音の上に、自由に表現されて行く。こんなに数多く造られた十一面観音が、平安時代を最後に、突然衰微するのは、彫刻をはみ出すものがあったに違いない。厳密にいえば、それは奈良時代から、二百年足らずの間で、仏教が日本人のものとなる為に、大きな役割をはたしたといえよう。》
「あとがき」にこうある。
《十一面観音の巡礼を、私にすすめて下さったのは、仏教学者の真鍋俊照氏であった。旅は好きだし、歩くことにも未だいくらか自信はあるので、私はとびついたが、ほんとうは誰かにそう言って貰うことを期待していたのかも知れない。というのは、私にとって、十一面観音は、昔からもっとも魅力のある存在であったが、恐ろしくて、近づけない気がしていたからである。巡礼ならどんな無智なものにでも出来る。信仰の有無も問わないという。真鍋さんは、たぶんそういうことを考えた上で、私にすすめて下さったのであろう。
手ぶらで歩けるということは、私の気持をほぐし、その上好きな観音様にお目にかかるということが、楽しみになった。が、はじめてみると、中々そうは行かない。回を重ねるにしたがい、はじめの予感が当っていたことを、思い知らされる始末となった。私は薄氷を踏む思いで、巡礼を続けたが、変化自在な観世音に眩惑され、結果として、知れば知るほど、理解を拒絶するものであることをさとるだけであった。
私の巡礼は、最後に聖林寺へ還るところで終っているが、再び拝む天平の十一面観音は、はるかに遠く高いところから、「それみたことか」というように見えた。私は、そういうものが、観音の慈悲だと信じた。もともと理解しようとしたのが間違いだったのである。もろもろの十一面観音が放つ、目くるめくような多彩な光は、一つの白光に還元し、私の肉体を貫く。そして、私は思う。見れば目がつぶれると信じた昔の人々の方が、はるかに観音の身近に参じていたのだと。》
(了)
*****引用または参考文献*****
*『別冊太陽 白洲正子 十一面観音の旅[京都・近江・若狭・信州・美濃篇]』(平凡社)