《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》
こう主張するナボコフ『ロシア文学講義』の『アンナ・カレーニナ』論(ナボコフは、「アンナ・カレーニナ」表記は誤りで、「アンナ・カレーニン」であると強く主張しているが、ここでは、ナボコフの文章からの引用では「アンナ・カレーニン」のママとし、地の文では一般的な「アンナ・カレーニナ」を用いる)は、文学に対する態度の基本的な指南書でもある。
国語義務教育と受験国語で、作品の「あらすじ」を書け、「作者の言いたいことは何か」を述べよ、に洗脳されてしまった私たちは、ナボコフの忠告に耳を傾け、コペルニクス的転回によって、『アンナ・カレーニナ』を読みなおさねばならない。とりわけ、思想性と神秘的宗教性ゆえに疎んじられがちなリョーヴィンと、健気なキティとの「リョーヴィン―キティ」エピソード(ナボコフは「銀河」と形容した)を幸福な気分に照らされながら仰ぎ見よう。
ナボコフによれば、
《伯爵レオ(ロシア語でレフ、またはリョフ)・トルストイ(一八二八~一九一〇)は、休息を知らぬ頑健な男で、生涯にわたって自分の官能的な気質と極端に傷つきやすい良心との間で引き裂かれていた。彼のなかの放蕩者が都会の肉欲の喜びを求めるのと同じ程度に情熱的に、彼のなかの禁欲主義者は静かな田園の道を歩もうとしたが、欲望はともすれば道を踏み誤らせるのだった。
青年時代に、この放蕩者は更生の機会をつかんだ。その後、一八六二年に結婚してから、トルストイは家庭生活に暫くの平安を見出し、財産のぬかりない管理と――ヴォルガ地方に豊かな土地を持っていた――自分の最良の執筆とに二股をかけた。巨大な『戦争と平和』(一八六九)や不滅の『アンナ・カレーニン』を生み出したのは、この六〇年代と七〇年代前半のことである。更に七〇年代末以後、四十歳を越してから、彼の良心が勝利をおさめた。倫理が美学や個性を圧倒し、そのあげくには、妻の幸福や、平和な家庭生活や、高度の文学的成果などをいけにえとして、彼が道徳的必然性と考えたものに捧げることとなる。道徳的必然性とはすなわち、合理的なキリスト教道徳に従って生きること――個人主義的な芸術の色鮮やかな冒険ではなくて、人類一般の簡素な厳しい生活である。》
ナボコフは、《私は偉大な作家たちの尊敬すべき生涯をいじくりまわすのは嫌いだし、それらの生活を垣根ごしに覗き見するのも嫌いだ。いわゆる「人間的良心」というやつの俗悪さも嫌いだし、時の回廊から聞えるスカートの衣擦れや忍び笑いも嫌いなのだ。どんな伝記作者も私の私生活の片鱗すら捉えることはできないだろう》と断っている。
どこかの図書館で「ロシア文学」の書架を眺めれば、ドストエフスキー関連に比べて、トルストイ関連は十分の一もあるかどうかで、しかもその内容は、「伝記」と「人生論」ばかりというところに、トルストイの読まれ方の偏りがある。
ナボコフは講義冒頭から、トルストイを擁護しながら、断言する。
《イデオロギーの毒は、つまり、いかさま改革者が発明した術語を使うならば、「メッセージ」は、前世紀(筆者註:19世紀)の中葉からロシアの小説に影響を与え始め、今世紀(筆者註:20世紀)の中葉に至ってそれを殺した。一目見た限りでは、トルストイの小説はその教義にひどく侵されているように見えるかもしれない。だが、実のところ、トルストイのイデオロギーはたいそう穏やかで、漠然としていて、現実政治から遠く、一方、トルストイの芸術は非常に強力で、猛烈に輝かしく、独創的かつ普遍的であるから、お説教をたやすく乗り越えてしまう。長い目で見るなら、思想家としてのトルストイが関心を抱いたのは生と死の問題であった。とどのつまり、どんな芸術家もこの問題を扱うことを避けるわけにはいかない。》
ナボコフは続ける。
《けれども、これだけは言っておかなければならない。人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐れみ――虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別な毒々しいキリスト信仰は、彼がその教義から遙かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せず――その動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。》
《多くの人は矛盾した感情を抱いてトルストイに接する。人はトルストイのなかの芸術家を愛するが、同じ人間のなかの説教者にはひどく退屈するのである。しかしそれと同時に、芸術家トルストイから説教者トルストイを分離することはむずかしい――どちらも同じゆったりとした深い声、どちらも同じ、たくさんの幻影あるいは想念を担う頑健な肩なのだから。人はできることなら、トルストイの草履(サンダル)がけの足の下の名誉ある説教台を蹴とばして、数ガロンのインク、何千枚もの原稿用紙と一緒に、彼を石の小屋か無人島に――アンナの白いうなじにかかるカールした黒い髪を観察するトルストイの邪魔になるような、倫理的・教育的なことどもから遠く離れた場所に、閉じこめてしまいたいと思う。だが、それはできない相談なのだ。トルストイは均質であり、単一の存在であって、片や、美しい黒土を、白い肌を、青い雲を、緑の野を、紫色の雷雲を満足げに眺める男と、片や、小説は罪深いものであり、芸術は不道徳なものであるという意見をあくまで主張する男、この両者のあいだに、殊に晩年において繰りひろげられた戦いは、やはり同一人物の内部での戦いなのである。事物を描く場合であろうと、説教をする場合であろうと、トルストイはあらゆる障害を押し切って、真理に到達しようと奮闘した。》
ナボコフは、戦争や結婚生活や、作者の倫理的・宗教的見解について、《生まじめな作者が噛んで含めるように説明する重苦しい時間》は、トルストイの魔力が消え失せ、《私たちのすぐそばに座って、私たちの生活に参加していた親しい人物たちは別の部屋に連れて行かれて》しまい、《アンナやキティの感情や動機のもつ永遠のスリルはない》と認めてはいる。
小説『アンナ・カレーニナ』の映画やドラマ、あるいはバレエでは、「ヴロンスキー―アンナ」エピソードのドラマチックな姦通の悲劇にだけ集中し、トルストイの良心の分身ともいえるリョーヴィンの説教臭さに関わりたくないゆえに、「リョーヴィン―キティ」エピソードの幸福な結婚への道は画にならないとばかりに省略してしまいがちだが、ナボコフはその安易で単純な潔さを戒めてはいないか。
「ヴロンスキー―アンナ」エピソードと「リョーヴィン―キティ」エピソードは、『アンナ・カレーニナ』という偉大なロマネスク建築の重厚な屋根を支える左右の太い梁であり、左右から均等にもたれあう力こそが神の天空のような天井を支えているのだ。
ナボコフはアンナを次のように紹介する。
《世界文学において最も魅力的な女主人公の一人、アンナは、若く、美しく、基本的に善良な、そして基本的に破滅を運命づけられた女性である。非常に若かった頃、善意の伯母の口ききで、すばらしい経歴をもつ将来有望な役人と結婚したアンナは、ペテルブルクの社交界でも最も活気のある交際範囲のなかで、満足した生活を送っている。小さな息子を熱愛し、二十歳年上の夫を尊敬し、もちまえの生き生きとした楽観的な性質で、生活のもたらす表面的な楽しみのすべてを味わっている。
モスクワへ旅行したときに出逢ったヴロンスキーに、アンナは激しい恋をする。この恋は彼女のまわりのすべてを変えてしまう。見るもののすべてが違った光のなかで見える。ペテルブルクの鉄道駅での有名な場面では、モスクワから帰って来る彼女を迎えに来たカレーニンを見て、その巨大で不恰好な耳の大きさやかたちにアンナは突然気がつく。それまで夫を批判的に見たことがなかったから、その耳にも気づかなかったのである。》
ナボコフの「註釈」によると、キティの目に映るアンナは、《肉の引き締った頸筋と真珠[ジ(・)ェームチュク]の首飾りも魅惑的なら……生気[オジ(・)ヴレーニエ]にあふれた美しい顔も魅惑的だったが、その魅惑にはどことなく残酷[ジ(・)ェストーコエ]で、恐ろしい[ウジ(・)ャースノエ]ところがあった。この「ジ」の繰返し(音声学的にはpleasureのsと一致する)――アンナの美しさの不吉な、蜂のようにぶんぶん唸る特質》とは、いかにも『Lolita』(“Lolita,light of my life,fire of my loins.My sin,my soul.Lo-Lee-ta:the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap,at three,on the teeth.”にみるlとtの愛らしい響き)の作者らしい言語との戯れに違いない。
《ちょっと見たところ、アンナは夫以外の男と恋に落ちたから社会によって罰せられた、というふうに見えるかもしれない。そのような「道徳」はもちろん全く「非道徳」的であり、ついでに言うなら全く非芸術的である。なぜなら同じ社会の上流夫人たちは好きなだけ、但しこっそりと、黒いヴェールをかぶって情事を楽しんでいたからである(エンマがロドルフと遠乗りをするときの青いヴェールを、レオンとルーアンで媾曳(あいびき)をするときの黒いヴェールを思い出してみるといい)。だが率直で不幸なアンナは、このたぐいの偽りのヴェールを身につけない。社会の掟は仮初であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。ここでトルストイが伝えようとする本当の教訓の要点が明らかになる。すなわち、愛がもっぱら肉体的愛であるということはあり得ない。なぜならその場合、愛は利己的であり、利己的であることによって、愛は何かを創造する代りに破壊するのだ。従って、そのような愛は罪深い。そしてこの要点を芸術的にできるだけ明瞭に示すため、トルストイは驚くべき形象の流れのなかで、二つの愛を描き分け、生き生きとしたコントラストをつけて並べてみせた。片方にはヴロンスキー―アンナの肉体的愛(官能性豊かな、しかし不吉で、精神的に不毛な情緒のただなかでの戦い)、他方には、リョーヴィン―キティの(トルストイの用語によるなら)真正のキリスト教的愛。ここにも豊かな官能性はあるが、それは責任とやさしさと真実と家族の喜びという純粋な雰囲気のなかで、バランスがとれ、調和している。》
「ヴロンスキー―アンナ」エピソードについてはたくさん書かれてきたから、ここでは「リョーヴィン―キティ」エピソードの魅力をとりあげたい。
《トルストイのこの小説は八つの「編」から成り、どの編も平均して三十の章から成る。いずれも四ページ前後の短い章である。作家は主な仕事として二つの線を――リョーヴィン―キティの線と、ヴロンスキー―アンナの線を追うが、二次的、中間的な第三の線、すなわちオブロンスキー―ドリーの線がある。これはさまざまな方法によって二つの主要な線を結びつけるための線であるから、この小説の構造のなかでは独特な役割を演じる。(中略)
この小説に描かれた事件の始まりは一八七二年二月であり、終りは一八七六年七月――全部で四年半という時間の流れである。小説の舞台はモスクワからペテルブルクへ移り、四つの田舎の領地を転々とする。(中略)
八つの編の最初の編の主要主題は、オブロンスキーの家の揉めごと(そこから小説がはじまる)であり、第二主題は、キティ―リョーヴィン―ヴロンスキーの三角関係である。
この二つの主題、二つの拡大されたテーマ――オブロンスキーの浮気と、ヴロンスキーへののぼせ上りがアンナのために断ち切られたときのキティの傷心と――は、悲劇的なヴロンスキー―アンナの主題への序奏である。ヴロンスキー―アンナの主題は、オブロンスキー―ドリーの揉めごとやキティの傷心のようには滑らかには解決されないだろう。ドリーが五人の子供たちのために気紛れな夫を間もなく赦してしまうのは、彼女が夫を愛しているからであり、またトルストイが、子供をもつ夫と妻は神の掟によって永遠に結ばれていると考えるからである。キティは、ヴロンスキーに失恋してから二年後にリョーヴィンと結婚し、トルストイの考える完璧な結婚生活を始める。だが、十ヵ月の説得ののちにヴロンスキーの情夫となったアンナは、自分の家庭生活の崩壊に直面し、物語の始まりから四年経って自殺するのである。》
この講義で最も重要な言葉は、リョーヴィンの信仰誕生の場面で、ふと目にした青い甲虫の動きに目を凝らしてのものだろう。その場面は後述するが、
《作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》
ならば、《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》に従って、ナボコフが引用した形象の妙を順に見てゆこう。
この考え方の対極にあるのが、ナボコフが教訓的メッセージと嫌ったトーマス・マンは、『アンナ・カレーニナ論』で、作品の周りを、リョーヴィンの批判的精神、良心と異端的頑固さ、モラル、肉体的なもの、ルソー主義、思想の動き、民衆の教育、十九世紀の科学とイデー、人生の意義、神、真理、善の問題、といった概念の衛星で周回し続ける。
<「マフに落ちた細い霜の針」>
第一編第九章のスケートの場面は詩的比喩の宝庫だ。(この講義でナボコフが引用する文章は、この小説のガーネット訳にナボコフが手を加えたものであり、教室での朗読に適するよう、多少省略したり、言い換えたりしてある――編者。なお、ナボコフはガーネット訳をきわめて貧弱だとし、ところどころで誤りを指摘、訂正している。[ ]はナボコフの註記)。
《[リョーヴィンは]小道をスケート場へ向って歩きながら、自分に言い聞かせるのだった。《興奮してはいけない、落着いていなければ。何をそわそわしているんだ。どうしたというんだ。黙れ、この馬鹿者め》と、自分の心に向って叫んだ。そして落着こうとすればするほど、ますます息苦しくなってきた。だれか知人が向うからやって来て声をかけたが、リョーヴィンはそれが誰なのか見分けすらつかなかった。橇滑りの山に近づくと、橇を上げ下ろしする鎖ががらがら鳴り、滑り落ちる手橇の音がかしましく、陽気な人声が響きかわした。更に何歩か歩くと目の前にスケート場がひらけ、滑っている人びとの中に、すぐ彼女の姿が認められた。
心臓をしめつける歓喜と恐怖の思いから、彼女がそこにいることはすぐ知れたのである。彼女は一人の婦人と話を交しながら、スケート場の向う端に立っていた。その身なりにも、姿勢にも、どこといって少しも変ったところはなかった。しかしリョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった……》
《キティの従兄(いとこ)のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンという恰好で、スケート靴のままベンチに腰を下ろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけると大声で呼びかけた。
「よう、ロシア一のスケーター! いつ来たんです。すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」
「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の前でそんなに大胆かつ無造作な態度をとるニコライにびっくりしながらも、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わなかった。太陽が近づいて来るのが感じられた。(中略)彼女の滑り方は全く危なげであった。彼女は紐でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンの方を向いて、彼の姿を認めると、自分の臆病を恥じるような笑みを見せた。カーブが終ると、弾力のある片足で一蹴りして、まっすぐに従兄の方へ滑りこんで来た。そして従兄(いとこ)の手につかまると、笑顔でリョーヴィンに会釈した。彼女はリョーヴィンが思っていた以上に美しかった……だが、予期せぬことのようにいつも彼を驚かすのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情だった……
「もうずっと前から来ていらして?」キティは彼に手を差しのべながら言った。「あら、すみません」と付け足したのは、マフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したのだった[トルストイは作中人物を鋭く監視する。作中人物を喋らせ、動かすが、その言葉や行動は、作者が作った世界のなかでそれ自体の反応を生み出す。このことがお分りだろうか。よろしい]。
「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもお上手ですね」
キティは注意深く彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。
「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめたかわいい手で、マフに落ちた細い霜の針を払いおとしながら、キティは言った[再びトルストイの冷徹な目]。
「ええ、昔はずいぶん夢中になって滑ったものでした。なんとか完璧を期そうと思いましてね」
「あなたは何事も夢中になってなさるのね」キティは微笑しながら言った。「お滑りになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをおつけになって。ご一緒に滑りましょうよ」
《一緒に滑る? そんなことがあっていいものだろうか》リョーヴィンはキティの顔を眺めながら思った。
「すぐ、はいて来ます」彼は言った。
そしてスケートをつけに行った。》
この「マフに落ちた細い霜の針」こそ、ナボコフが重視した形象の「細部」である。ナボコフは「注釈ノート」(第一編しかないが、全編に渡って残して欲しかった)に、「(40)スケート場」の註釈に続いて、次の註釈を加えた。
《(41)雪の重みで巻毛のような枝をすべて垂らしている庭園の白樺の老樹は、新しい荘重な袈裟で飾り立てられたように見えた。
すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる(筆者註:《太陽が近づいて来るのが感じられた》、《リョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった》)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落すだろう。
リョーヴィンが求婚の最初の段階でこの象徴的な白樺の老樹を意識したことは、この小説の最後の部分で激しい夏の嵐に悩まされる別の白樺の林(それについて最初に語るのは兄のニコライである)と比較してみれば、たいそう興味深い。》
<「白い腕が透いて見えるレースの袖」>
アンナのレースは印象的だった。
舞踏会の場面、《アンナは、キティがあれほど望んでいた紫の衣装ではなく、胸を大きくあけた黒いビロードの衣装をつけ、古い象牙のように磨きあげられた豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、きゃしゃな、丸みをおびた腕をあらわにしていた。この衣装はすべてベニス・レースで縁取りがしてあった。その頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、黒リボンのベルトの上にもとめてあって、白いレースのあいだからのぞいていた。》
夜汽車の席についてイギリス小説のページを切っても、《ほかならぬ自分自身が生きて行きたい思いでいっぱいだった》アンナは身が入らない。ヴォロゴヴァ駅で停車した汽車から、脱いだばかりのケープとプラトーク(ショール)を身につけて吹雪のプラットホームに出る。そこでアンナはあとを追って乗車していたヴロンスキーから《心の中で願いながらも、理性で恐れていたまさにそのことを》聞くが、このプラトークはきっと白いカシミア・レースだったろう。
駆け落ちから首都に戻って、劇場に出かけたアンナは《パリで仕立てた、ビロードをあしらった、明るい色の胸あきのひろい、絹の衣装を着て、高価な白いレースの髪飾りをつけていたが、それは顔をくっきり浮きださせて、そのきわだった美貌を、さらに効果的にしていた。》 遅れて入ったヴロンスキーは桟敷を見まわす。《それはレースで縁どられた、日のさめるほど美しい、傲然とほほえんでいる顔であった。》 けれども偽善的な社交界は人目につく女にさらし者の気持を味わわせるのだった。
最後の一日のジョイスに先立つ「意識の流れ」にも一瞬レースが点減する。アンナはプラットホームを歩きながら、自分に苦しみを強いる何ものかにたいして語りかける。
《小間使いふうの二人の女が振り返ってアンナを眺め、その衣装について何やら声高に品定めをした。「本物よ」と、二人はアンナが身につけていたレースのことを言った。》
ささいなものと普遍的なもの、精神的愛情と肉体的情熱のあいだを往き来する本物の女。と、貨物列車が入って来た。手首から赤い手提を外すのに手間取るアンナ。膝をつく。《ここはどこ? 私は何をしている? なんのために?》
ローマン・ヤコブソンが、「トルストイはアンナの自殺を描こうとして、主に、その手提について書いている」と換喩的方法の例としてあげたアンナの赤い手提の描写は、細部の力による喚起力を示している。
《細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である》と語った。
ナボコフは、 一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提に注目する。片方が破れた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。
《アンナの赤い手提は、トルストイがすでに第一篇第二十八章で描写している。「玩具のような」「ごく小さな」と形容されたその手提は、しかし次第に大きくなる。ペテルブルクへ帰る日、モスクワのドリーの家を出ようとして、アンナは奇妙な涙の発作におそわれ、上気した顔を小さな手提に押しあてる。このとき手提に入れたのは、ナイトキャップや、バチストのハンカチなどである。この赤い手提を再び開くのは鉄道の車輛に落ち着いてからで、そのときは小さな枕や、イギリスの小説や、そのページを切るためのペーパーナイフなどを取り出し、そのあと、赤い手提はかたわらでうたたねする女中の手に預けられる。四年半後に(一八七六年五月)アンナが汽車に跳びこんで命を絶つとき、この手提は彼女が最後に投げ捨てる品物であり、そのときは手首から外そうとして少し手間どるほどの大きさである。》
ナボコフは、アンナだけでは不公平とばかりに、第一編第二十二章の舞踏会のために着飾ったキティのレースについてこそ言及しなかったが(代わって引用すれば、《その化粧をはじめ髪の結い方や、その他さまざまな舞踏会のしたくは、キティにとってひじょうな努力と苦心のたまものだったにもかかわらず、今彼女がばら色の衣裳に細かい網目のチュール・レースを重ね、おおらかな気どりのない態度で舞踏会へはいって行くのを見ると、こうしたリボンの花飾りや、レースや、さまざまなしたくのはしばしにいたるまで、なにもかも、本人や家人たちにとっては少しも苦心を要するものではなく、彼女は初めからこの高い髪型を結い、二枚の葉のついたばらをさし、チュール織りのレースをまとってこの世に生れでたのではないかと思われるほどだった》)、トルストイらしいグルメな場面のキティのレースを嬉しそうに訳しなおした。
《さて、リョーヴィンがキティに振られてから二年経ち、ここはオブロンスキーが手配した夕食会の席である。まず、つるつる滑る茸(きのこ)についての短い一節を訳し直してみよう。
「熊をお撃ちになったんですって?」キティは、つるつる滑って言うことを聞かぬ茸をフォークで突き刺そうと、一所懸命試みながら、白い腕が透いて見えるレースの袖を震わせて訊ねた[偉大な作家の輝かしい視線は、作家に生きる力を与えられた人形たちのしぐさを、いつも注意深く追うのである]。「お宅の近くにはほんとに熊がいますの?」魅力的な小さな頭を半ば彼の方へ向けて、にこやかに言い足した。(第四編、第九章)》
次に、食事後の有名なチョークの場面を引用してから、コメントを残している。
《この場面はどうも少しやりすぎである。もちろん愛は奇蹟を生み出し、心と心のあいだの深淵に橋を架け、かずかずの優しいテレパシーを実現するとはいえ――これほど詳細にわたる心の読み取りは、ロシア語の原文においれさえ大して説得力をもつものではない。それにしても、この二人のしぐさは魅力的であり、この場面の雰囲気は芸術の立場から見て真実である。》
そう、「芸術の立場から見て真実である」ことが大切なのだ。
<「イヤリングをはずして」>
キティのお産の場面は作品の偉大な章のひとつで、さりげない「細部」描写の見事さに感嘆せずにはいられない。
《トルストイは自然な生活を信奉していた。自然――又の名は神――の掟として、人間の牝はお産のとき、例えば豚や鯨よりも大きな苦痛を味わわなければならない。従ってその苦痛を軽減することにトルストイは断然反対だった。(中略)
少量の阿片(それも大して役に立たなかったのだが(筆者註:アンナは情緒不安定のため、最後の方では日常的に阿片(モルヒネ)を使用していた))以外には、当時、出産の苦痛をやわらげるための、いかなる麻酔剤も使用されていなかった。時は一八七五年であり、全世界の女性は二千年前と同じやり方で子供を産んでいたのである。トルストイのテーマはここでは二重になっていて、一つは自然のドラマの美しさということ、もう一つはリョーヴィンの目から見た同じドラマの神秘と恐怖ということである。入院だの、麻酔だのといった現代的出産風景は、この偉大な第七編第十五章の成立を不可能にしただろうし、自然な苦痛をやわらげることはキリスト教徒としてのトルストイの目には間違いと映るに相違ない。キティはもちろん自宅でお産をし、リョーヴィンはその間、家のなかをうろうろ歩きまわる。
もう遅い時刻なのか、まだ早いのか、彼には見当がつかなかった。ろうそくはもうすっかり燃えつきていた。……リョーヴィンは腰を下ろし、医者の話を聞いていた……とつぜん、なんとも形容のしがたい叫び声が起った。その叫び声はあまりにも恐ろしかったので、リョーヴィンは飛びあがることもできず、じっと息を殺したまま、おびえたような、もの問いたげなまなざしで医者の顔を見た。医者は小首をかしげて、聞き耳を立て、これでよしというような微笑を浮べた。何もかもあまりに異常だったので、リョーヴィンはもう何事にも驚かなかった……彼は爪先立ちして寝室へ駆けて行き、産婆[エリザヴェータ]とキティの母親のうしろをまわって、枕許の自分に決められた場所に立った。叫び声は静まったが、今度はなにやら様子が変っていた。何が変化したのか、彼は見もしなければ、分りもせず、見たいとも分りたいとも思わなかった……汗ばんだ頬や額に乱れた髪がねばりついて、腫れぼったい、疲れきったキティの顔は、夫の方へ向けられ、彼の視線を探していた。持ちあげた両手は、彼の手を求めていた。汗ばんだ両手で、キティは夫の冷たい手をつかむと、それを自分の顔に押しあて始めた。
「行っちゃいや、ねえ、行っちゃいや! 私こわくないわ、そう、こわくなんかないわ! ママ、イヤリングをはずして。じゃまだから……」[これらのイヤリング、ハンカチ、手袋についた霜の針など、この小説の初めから終りまでにキティがもてあそぶ小さな品々の目録を作ること]。それからキティは突然、夫を自分のそばから押しのけた。
「だめ、ああ、たまらない! 死にそうだわ、死にそうだわ!」キティは叫んだ。
リョーヴィンは頭をかかえて、部屋の外へ走り出した。
「大丈夫、なんでもないわよ、何もかもうまくいってるわ!」ドリーがうしろから声をかけた[ドリー自身はこれを七回も経験したのだ]。
しかし、みんながなんと言おうとも、彼は今こそもう何もかもお終いだと思った。彼は戸口の柱に頭をもたせかけ、隣の部屋に突っ立ったまま、今までついぞ聞いたこともないような叫びと咆哮を聞いていた。そして、これはかつてキティであったものが叫んでいるのだということも知っていた。もうとうに彼は赤ん坊などどうでもよくなっていた。いや、今ではその赤ん坊を憎んでいた。それどころか、もう妻の命さえどうでもよかった。ただこの恐ろしい苦痛が終ってくれることだけを願っていた。
「先生! これは一体どうしたんです。ねえ、どうしたんです。ああ、たまらない!」出てきた医者の手をつかんで、リョーヴィンは言った。
「もう終りですよ」医者は言った。医者の顔つきは非常に真剣だったので、リョーヴィンは終り(・・)という言葉を、死ぬという意味にとった[もちろん医者の言葉は、「もうじきすむ」という意味である]。
ここから、この自然現象の美しさを強調する部分が始まる。ついでながら注目していただきたいのは、文学的フィクションの全歴史を一つの発展過程として見るとき、それは次第に生命のより深い層へとメスを入れて行く作業だったということである。例えば紀元前九世紀のホメロス、あるいは紀元後十七世紀のセルバンテスが、このようにすばらしい分娩の細部を描くということは全く考えられない。問題は、ある種の出来事や感情が何らかの道徳や美学に適合するかどうか、ということではないのだ。私が言いたいのは、芸術家も科学者と同じように、芸術や科学の発展過程のなかにあって、つねに探究をつづけ、先行者と比べて、より多くを理解し、より鋭く明るい目でいっそう奥まで見通すということである。それこそが芸術の成果なのだ。》
<「燭台に灯る小さな炎」>
『アンナ・カレーニナ』は生と死の大河であるからには、「出産小説」でもある(対称的に、リョーヴィンの兄ニコライの敬虔な臨終場面がある、そしてもちろんアンナの死も)。
まず、ふたりの死んだ子供を数えれば七人の子持ちのオブロンスキーの妻ドリーが、夫の浮気騒動(和解させようと、オブロンスキーの妹アンナがペテルブルクからモスクワに汽車でやってきたのが、物語の始まりだった)の二ヶ月後に出産する(第二編第二章)が、その様子は、《先日やっと産褥(さんじょく)を離れたばかりなのに(冬の終りに女の子を生んだのである)》だけと極めてあっさりしている。
次いで、アンナがヴロンスキーとの子供を出産する(第四編十七章)が、出産の場面こそないものの、主治医に、産褥熱で百のうち九十九までは助からない、と言われるほど重篤となる場面のドラマを、ナボコフはカレーニンの人物像の一端として簡単に紹介している。《アンナがヴロンスキーの子供を産んだあと、ひどく具合が悪くなって、臥せっているその枕許で、差し迫った彼女の死を覚悟した(そうはならないのだが)カレーニンは、ヴロンスキーを赦すと言い、真のキリスト教徒の卑下と寛容の気持をこめて彼と握手する。あとではいつもの冷ややかで不愉快な人格に戻るのだが、このときばかりは差し迫った死がこの場を照らし出し、アンナは無意識のうちにヴロンスキーとこの男を同じように愛していると思う。どちらもアレクセイという名の二人の男は、二人とも愛する配偶者として彼女の夢のなかで共存するのである。》
そして、キティの出産の臨場感ある描写だ。
《我を忘れて、リョーヴィンは寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは産婆の顔だった。その顔は前よりもっと気むずかしく、きびしい表情を浮べていた。キティの顔はそこにはなかった。さっきまでキティの顔があった場所では、見るも恐ろしい何か別のものが切迫した表情を浮べ、すさまじい音を発していた[いよいよ美の局面の始まりである]。心臓が今にも張り裂けるような気がして、リョーヴィンはベッドの木枠に顔を押しあて、突っ伏した。恐ろしい叫び声はやまなかった。それはますます恐ろしくなっていったが、やがて恐怖の頂点に達したかのように、突然ぴたりとやんだ。リョーヴィンは自分の耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声は確かに静まり、静かなざわめきと、衣ずれの音と、あわただしい息づかいが聞えた。それから、とぎれがちではあるが、生き生きとした、優しい幸福そうなキティの声が、静かに「すんだわ」と言った。
彼は顔をあげた。異様に美しい、おだやかな顔をした妻が、両手をぐったりと掛けぶとんの上に投げ出して、無言のまま彼を見つめ、ほほえもうとして、ほほえめずにいた。
と、急にリョーヴィンは、この二十二時間を過してきた精神的な、恐ろしい、この世ならぬ世界から、たちまち元の住みなれた世界へ、しかし、今や新しい耐えがたいほどの幸福の光に輝いている世界へ、舞い戻ってきたような気がした。張りつめていた絃はすっかり断ち切られた、思いもかけなかった喜びの呻きと涙が猛烈な力で彼の身内にわき起り、その全身を震わせた……彼はベッドの前にひざまずいて、握りしめた妻の手を唇に引き寄せ、幾度となくそれに接吻した。するとその手はかすかに指を動かして、夫の接吻に答えるのだった。[この章全体はすばらしい形象の連鎖である。わずかな比喩表現があるとしても、それは直接的な描写に溶けこんでいる。さて、このあとは直喩による最終弁論といったところだろうか]。そのあいだもベッドの裾の方では、産婆の器用な手の中で、ちょうど燭台にともる小さな炎のように、一個の人間の生命が揺れ動いていた。それはこれまで全く存在していなかったものであるが、これからは……生きつづけ、自分に似た人間を産み出すだろう。(第七編、第十五章)
のちにアンナの自殺の章で、彼女の死に関連して炎のイメージを私たちは見るだろう。死とは魂の解放(分娩)である。従って、子供の出産と魂の出産(死)とは、同じ神秘と恐怖と美の言葉によって表現される。この点でキティのお産とアンナの死とが結びつくのである。》
ここでナボコフはアンナの自殺とキティの出産という、死と生を、炎のイメージで照応させている。こういった照応は、先に述べたスケート場の「白樺」に関する註釈や、後に出てくる森の「雷」による樫の梢の変形と競馬でのフルフルの背骨の変形との比較要請に、繊細な芸術家としての食指が動いている。
<「青い甲虫」>
《次に、リョーヴィンにおける信仰の誕生を、信仰誕生の苦痛を見てみよう。
リョーヴィンは自分の思いに、というよりむしろ、それまで一度も味わったことのない精神的状態に耳をすましながら、広い道を大股で歩いていた。
[その前に一人の百姓との会話があり、その百姓が別の百姓について、あいつは自分の腹を肥やすことばかり考えていると言い、人は自分の腹のためではなく、真理のために、神のために、自分の魂のために生きなければいけないと言ったのである]。
《果しておれはすべての解決を見出したのだろうか、おれの悩みはもう終ってしまっただろうか》と、埃っぽい街道を歩きながらリョーヴィンは考えた……興奮のあまり息が切れ、歩きつづける気力がなくなったので、街道をそれて森へ入り、やまならしの木陰の、まだ刈られていない草の上に腰を下ろした。汗ばんだ頭から帽子をとり、片肘をついて、瑞々しい大きな葉をひろげている森の草の上に身を横たえた[ガーネット夫人はこの草を偏平足で踏みつけてしまった。「羽毛のように軽い草」ではない]。《そうだ、頭をはっきりさせて、よく考えてみなければ》と彼は考えながら、目の前のまだ人に踏まれていない草をじっと見つめ、かもじ草の茎をのぼって行く途中で、エゾボウフウの葉に行手をさえぎられている青い甲虫の運動に目を凝らした。《初めから順序立てて考えよう》[自分の精神状態について]彼は心のなかで呟き、小さな甲虫の邪魔にならぬようエゾボウフウの葉をとりのけ、甲虫が先へ進めるように別の葉を折り曲げてやった。《おれを喜ばせるものは何か。おれは何を発見したか》……《おれはただ自分でも知っていたことをはっきり認識しただけなのだ……おれは虚偽から解放されて、ほんとうの主人を見出したのだ》。(第八編、第十二章)
しかし、私たちが注目しなければならないものは、そのような思想(・・)ではない。何はともあれ銘記すべきは、文学作品とは思想(・・)のパターンではなくて形象(・・)のパターンであるということなのだ。作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》
虫ということでは、第四編第五章で「蛾」が飛び交う。ナボコフ研究家でもある若島正が、『知のたのしみ 学のよろこび』という大学生向けの本のなかの、「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」で紹介している。
《ここは離婚を決意したカレーニンが、ペテルブルグにある有名な弁護士(名前は与えられていない――ここも巧みなところで、つまり弁護士はカレーニンにとってあくまで「弁護士」でしかないのである)の事務所に相談にやってくる場面だ。したがって、この章はカレーニンの視点で始まる。待合室は客で満杯で、自分から見れば身分下の人間たちとこうして恥ずかしい相談事のために同室しているのが、カレーニンのいらだちをつのらせる。(中略)
そのとき、読者にとってはまったく予期しないことが起こる。突然、部屋の中に蛾が飛ぶのだ。
「どうぞお掛け下さい」弁護士は書類が積まれた書物机のそばにある肘掛椅子を指さして、机の後ろに陣取ると、短い指に白い柔毛がはえている小さな両手をもみ合わせて、首を傾げた。しかし彼が落ち着く間もなく、一匹の蛾が机の上に飛んできた。弁護士は、思ってもみないすばやさで、両手で蛾をつかまえてから、また前の姿勢に戻った。
(中略)この時点から、カレーニンと弁護士との力関係が微妙に変化する。そしてそれと同時に、視点もカレーニンから弁護士へと微妙に移動する。カレーニンの目から見る限り、離婚をめぐるごたごたは悲劇でしかないが、弁護士の目から見ればむしろ喜劇である。そこでこの第四部第五章は、トルストイにしては珍しく、彼の喜劇的才能を充分に発揮する方向へ進んでいく。その喜劇的な舞台まわしを務めるのが、この章で部屋の中をなんと三度も飛ぶことになる蛾なのだ。
愉快でたまらないという表情を見せると依頼人が感情を害するかと思い、弁護士はカレーニンの足に視線を落とし、鼻先に飛んできた蛾を見て、つかまえようと手を出しかけたが、カレーニンの身分に対する遠慮から思いとどまった。
(中略)
「料金は値切りませんからとあの女に言っておけ!」と彼は言って、またカレーニンに戻った。
ふたたび席に着く前に、彼はこっそり蛾をつかまえた。「この分じゃ、夏までにはおれのビロードもだいなしになるぞ!」と彼は眉をしかめながら考えた。
(中略)
弁護士はうやうやしくお辞儀をしながら依頼人を送り出し、一人きりになると、愉快な気分にひたった。そしてひどく上機嫌になったおかげで、主義に反して、値切ろうとしたご婦人に料金をまけてやったし、蛾をつかまえるのもあきらめた。今度の冬になったら、シゴーニンのところみたいに、家具をフラシ天に張りかえようとついに決心したのである。
われわれ読者はカレーニンの視点に立ってこの弁護士事務所に入っていったのだが、知らないうちに、出ていくときには、これで家具の張り替えができるとすっかりご満悦の弁護士の視点に立っている。これが蛾の効果だ。》
そして若島はこう締めくくった。《小説を語るときには、細部を具体的に語ること。その心がけは、わたしがつねづね実践しようとしているもので、その意味では、神の存在に始まって世の中のほとんどすべての観念を信じない、リョーヴィンに似たわたしにとって、それが唯一信じられる生きた<思想>だと言えるのかもしれない。
たとえ『アンナ・カレーニナ』のあらすじをすっかり忘れてしまったとしても、私は弁護士事務所の部屋の中を飛んでいた蛾のことをけっして忘れはしないだろう。そして、たとえその記憶だけを墓の中へ持っていったとしても、『アンナ・カレーニナ』が偉大な小説だったという思いは消えはしないだろう。》
<「雷」>
《いよいよ私たちはリョーヴィンの物語の最終部分――リョーヴィンの最終的な回心――にさしかかったが、ここでも形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。
リョーヴィンの領地で、客をまじえた家族一同が遠足に出掛ける。やがて帰りの時刻になる。
キティの父親と、リョーヴィンの異父兄セルゲイは、荷馬車に乗って、帰ってしまった。残りの人たちは足を速めて、徒歩で家路に向った。
しかし雨雲は白くなったり黒くなったりしながら見る間に頭上に迫って来たので、雨にならぬうちに家まで帰り着くには、もっと足を速めなければならなかった。煤をまぜた煙のようにまっ黒な低く垂れこめた先頭の雲は、恐ろしい速さで空を走っていた。家まであと二百歩ばかりのところで、一陣の風がまき起り、今にも驟雨が来そうな気配になった。
子供たちはこわさと嬉しさがまじりあった叫び声をあげながら、先に立って駆け出した。ドリーは足にまといつくスカートと苦闘しながら、子供たちからいっときも目を放さずに、もう歩くというより駆け出していた。男たちは帽子を抑えながら大股に歩いていた。一行がやっと入口の階段のところまで来たとき、いきなり大粒の雨が鉄樋の端にあたって飛び散った。子供たちと、それにつづいて大人たちは、にぎやかな話し声を響かせながら、屋根びさしの下へ駆けこんだ。
「キティは?」頭巾や膝掛けなどを持って玄関の控え室で一行を出迎えた家政婦に、リョーヴィンは訊ねた。
「ご一緒だとばかり思っておりましたが」と老婆は答えた。
「じゃ、ミーチャは?」
「きっと森でございましょう、婆やと一緒に」
リョーヴィンは膝掛けをひったくると、森めざして駆け出した。
このわずかな間に、雨雲は完全に太陽を呑みこみ、あたりは日蝕のように暗くなった。風はあくまで己れを主張するかのように、執拗にリョーヴィンを立ち止まらせ[アンナの夜汽車の場面と同じ、風についての情緒的思いこみ。だが直接的な形象はまもなく比喩に変化するだろう]、菩提樹の葉や花をひきちぎり、白樺の枝を醜く異様なまでにあらわにし、アカシヤも、草花も、ごぼうも、雑草も、木々の梢も、何もかも一様に一方へ押し倒そうとした。庭で働いていた女中たちは金切声をあげながら、下男部屋のひさしの下へ逃げこんだ、降りそそぐ豪雨の白い帷(とばり)は、はやくも遠くの森と近くの畑の半分を覆って、見る見るうちにキティのいる森へと迫った。細かい雫に砕け散る雨の湿気が、大気の中に感じられた。
頭をかがめ、頭巾をむしりとろうとする風と戦いながら[情緒的思い込みはまだつづいている]、リョーヴィンは走りつづけて森に近づき、樫の大木の蔭に何か白いものを認めたと思った。その瞬間、不意にあたりがぱっと明るくなって、地面が燃えあがり、頭上で空の丸天井が音を立てて裂けたかと思われた。一瞬くらまされた目をあけて、リョーヴィンはぞっとした。自分と森とを隔てている厚い雨の帷を透して、まっさきに見えたのは、森の中央の馴染み深い樫の青々とした梢だが、その位置が奇妙に変ってしまっているのである[競馬場で、障害物を跳び越えた馬が背骨を折ったとき、ヴロンスキーが「自分の姿勢が崩れた」と感じる、あの場面と比較せよ]。(第二編、第二十章)
《雷にやられたのかな》リョーヴィンが思う暇もなく、樫の梢はみるみる落下の速度を速めながら、ほかの木立の蔭に隠れた。と、ほかの木々に倒れかかる巨木のめりめりという轟音が耳に達した。
稲妻と、雷鳴と、冷水を一瞬身に浴びたような感じは、リョーヴィンの中で恐怖という一つの印象に溶け合った。
「ああ神さま! あれたちの上に落ちませんように!」彼は口走った。
すでに倒れてしまった樫の木の下敷きに妻子がならないようにという願いが、どんなに無意味なものかということはすぐ気づいたが、リョーヴィンはこの無意味な祈りのほかになすべきことを知らず、もう一度その言葉を称えた。……
森の向う端にある古い菩提樹の木蔭から、妻子はリョーヴィンを呼んでいた。黒っぽい服(それはさきまで薄い色の服だった)を着た二つの人影が、何かの上にかがみこむようにしていた。それがキティと婆やだった。リョーヴィンが二人のそばへ走り寄ったときには、雨はすでに小降りになり、空は明るくなり始めていた。婆やの服は裾だけが濡れずにいたが、キティの服はずぶ濡れで、ぴったりと体にはりついていた。雨はもうやんだのに、二人はまだ雷が落ちたときと同じ姿勢で、緑色の幌をかぶせた乳母車の上にかがみこむように立ちすくんでいた。
「生きているんだね? 無事なんだね? ああ、よかった!」と彼は言い、水の入った、脱げそうになる靴で、水たまりの中をぴちゃぴちゃと駆け寄った……[彼は妻に腹を立てる]。二人は赤ん坊の濡れたおしめを集めた[雨に濡れたのか? その点ははっきりしない。神の怒りを思わせる豪雨が可愛い赤ん坊の濡れたおしめへと変形されてしまったことに注意せよ。自然の力は家庭生活の力に屈伏した。情緒的思いこみは幸福な家族の微笑みに席をゆずった]。(第八編、第十七章)》
ナボコフはトルストイの「時間」の扱いの素晴らしさを繰りかえし顕彰した(そればかりか実際の時間的データさえも解説して見せる)が、この場面のリョーヴィンは、下記の《トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる》のとおり、美しく巧みな自然描写と雷の下で、はっきりと目の前を、私の時間、時計に合わせて早すぎも遅すぎもなく、動きまわっているではないか。
《この作家が発見したことの一つで、不思議にも従来批評家たちが決して気づかなかったことがある。その発見というのは――トルストイはもちろん自分の発見を意識しなかったのだが――私たちの時の概念と非常に快適かつ正確に一致する生活描写の方法ということである。私の知る限りでは、トルストイは自分の時計を読者たちの無数の時計に合せた唯一の作家なのだ。(中略)トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる。(中略)してみれば年輩のロシア人たちが夜お茶を飲みながら、トルストイの作中人物のことをまるで実在の人物のように語るのも、もっともなことであろう。トルストイの主人公たちは、彼らにしてみれば、自分たちの友人に似ている人物であり、あたかも本当にキティやアンナと踊ったことがあるかのように、あるいは例の舞踏会でナターシャと出会ったかのように、あるいは行きつけのレストランでオブロンスキーと食事をしたかのように、はっきりと目の前に見える人物たちなのである。》
何より心に留めおくべきなのは、そこに一緒にいるかのように幸せな気分が醸し出されることであろう。
トルストイは、《他の作家たちのように遠くを通りすぎるのではなく、いつも私たちに歩調を合わせてくれる》のであり、《このことに関連して興味深いのは、トルストイが絶えず自分の個性を意識し、絶えず作中人物の生活に踏みこみ、絶えず読者に語りかけるにもかかわらず、彼の最高傑作のなかの何章かでは、作者の姿が見えなくなっているということである。つまりフロベールがあれほど激しく作家に要求した理想的に冷静な作者のあり方――決して姿を見せず、この世界の神のごとく遍在すること――に到達しているのである(筆者註:『アンナ・カレーニナ』はフロベール『ボヴァリー夫人』の二十年後に書かれた)。こうして私たちはしばしば、トルストイの小説が独りでに書かれているような感じを味わう。》
その感じを味わってほしい。
<「銀河」>
続いてナボコフは、キティが赤ん坊にお湯を使わせる場面(第八編第十八章)と、リョーヴィンが子供部屋を出て、一人きりになると、テラスに立ち止まって、暗い空を眺めながら思索するラストシーン(第八編第十九章)を引用する。
ここに一ヵ所だけあげれば、
《リョーヴィンは、庭の菩提樹から規則正しく落ちる雫の音に耳を傾けながら、馴染み深い三角形の星座と、そのまんなかを通っている銀河とその多くの支流を眺めていた。[ここで一つの喜ばしい比喩が現れる。愛と洞察力に満ちた比喩である]。稲妻がひらめくたびに、銀河ばかりか、明るい星までが見えなくなるが、稲妻が消えると、まるで狙い誤たぬ手に投げ返されでもしたように、また元の場所に現れるのだった[この喜ばしい比喩がお分りだろうか]。(中略)
「あら、まだいらっしゃらなかったの」同じテラスを通って客間へ行こうとしていたキティの声が不意に耳に入った。「どうなさったの、何かいやなことでも?」キティは星明りで夫の顔をじっとのぞきこみながら言った。
しかしそのとき稲妻が再び星の光を隠し、彼を照らさなかったら、キティは夫の顔をはっきり見分けることはできなかっただろう。稲妻の光で夫の表情を見きわめ、それが幸福そうな静かな表情であることを見てとると、キティはにっこり笑った[これがさきほど注目した喜ばしい比喩の実用的な後続効果である]。》
ナボコフは、またしても神秘性と宗教性に接近する小説末尾の、《しかし今やおれの生活は、全生活は、おれにどんなことが起ろうと、それとは一切無関係に、生活の一分一分が、以前のように無意味でないばかりか、疑う余地なき善の意義をもっているのだ。おれにはその善の意義を生活に与える力があるのだ!》まで引用してから、
《こうして小説は終るが、この神秘的な調子はトルストイが創った作中人物の、というよりもむしろ、トルストイ自身の日記の一節のように私には見える。リョーヴィン―キティの家庭生活の物語は、この作品の背景であり、この作品のいわば銀河なのである。》と締めくくる。
プルーストが「銀河」の「星や空」について言及している。短い「トルストイ」論のはじめで、《いまやバルザックがトルストイの上に持ち上げられている。沙汰の限りだ。(中略)バルザックはやっとのことで大作家の印象を与えている、トルストイにあってはすべてがごく自然に大きい、山羊のかたわらの象の糞のように。》とバルザックを揶揄した後で、
《『アンナ・カレーニナ』の穫り入れ、狩猟、スケート等の大きな情景は、専用の大きな表面のようなものであり、残余に間隔をあけ、さらに広大な印象をもたらしている。ウロンスキイの二つの会話にはさまれた夏じゅう、見渡すかぎり刈りこまなければならない緑の牧草地であるかのようだ。この宇宙のなかの別のものを、もっとも個別的な諸情景を、競馬に出場する騎手の感情を(おお!、わが美女、わが美女)、窓ぎわの賭博マニアの感情を、野営地のにぎやかさを、狩猟好きの小地主の生活のにぎやかさを、ドイツの都会にいてロシヤの領主の結構な生活について語っている老シチェルバーツキイ公爵のにぎやかさを(遅く起床する、水のほとりの章、等)、『戦争と平和』における貴族の浪費家(ナターシャの兄)のにぎやかさを、老ボルコンスキー公爵のにぎやかさを、人々はこもごもに賞翫することになる。この作品は観察のではなく知的構築の作品である。観察によって決まったそれぞれの特徴は、小説家が明らかにしたひとつの法則、合理的もしくは非合理的法則の外装、証拠、実例にすぎない。力強さと生動感の印象は、まさしく、それが観察されたものではなく、それぞれのしぐさ、ことば、行為はひとつの法則の意味であるがゆえに、人びとは多数の法則のただ中に活動していると感じていることに由来しているのである。(中略)無尽蔵と見えるかような創造のなかで、ともかくトルストイは同じことを繰り返し、ごくわずかなテーマだけを、手を変え品を変え、別な小説のなかでは同じ形で、自家薬篭中のものにしたかに見える。レーヴィンがひとつの定点として注目している星や空は、ピエールが見た彗星、アンドレイ公爵の青い大空といくぶんかは同じものである。》
そして記憶の作家プルーストは投げかける。《しかし、それにもまして、はじめはウロンスキイのために遠ざけられ、のちにキティーによって愛されたレーヴィンは、ピエールの兄のためにアンドレイ公爵から離れるものの、また元のさやに納まるナターシャを彷彿とさせる。馬車に乗って過ぎてゆくキティーと戦線の車中のナターシャにとって、同一の思い出が「ポーズを取って」いたのではあるまいか。》
プルーストもまた『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見ていたのだった。
(了)
*****引用または参照文献*****
*ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフのロシア文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫)
*ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫)
*『世界文学大系37 トルストイ』(トーマス・マン『アンナ・カレーニナ論』大山定一訳所収)(筑摩書房)
*トルストイ『アンナ・カレーニナ』望月哲男訳・解説(光文社古典新訳文庫)
*京都大学文学部編『知のたのしみ 学のよろこび』(若島正「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」所収)(岩波書店)
*若島正「霜の針、蝋燭のしみ――『アンナ・カレーニナ』を読みなおす」(Chukyo English literature (25), 1-16, 2005-03-1)
*『ロシア・フォルマリズム文学論集1』(ローマン・ヤコブソン「芸術におけるリアリズムについて」北岡誠司訳所収)(せりか書房)