映画批評 濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』のエモーションを感じとるために(ノート)

  

 

 

 

 映画『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督の卒論は「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」であり、学生時代にレイ・カーニー編『ジョン・カサヴェテスは語る』を読みこんだと述懐している。『ジョン・カサヴェテスは語る』はカサヴェテスが自作について、さまざまな媒体で語った発言の引用から構成されている。

 それにならって、シナリオ、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の経糸に、インタビュー、濱口による映画評論や対談・鼎談、『ドライブ・マイ・カー』に対する批評の横糸を織り込み、『ドライブ・マイ・カー』について知っておくべき事柄の引用の織物(テクスチャ―)を織りあげる(引用文献名は、最後尾の「引用または参考文献」リスト番号で示す)。織物から聴こえてくる「声」、「言葉の力」、「見る」こと、なめらかなカメラの視線、演技とは何か、それらの「重ね合わせ」は、エモーションを追及し、記録した映画を深く感じとるためにいくばくか役立つだろう。

 まず濱口の二つの映画評論をみておく。一つは、蓮實重彦について語りつつも自分語り的な要素を持って、溝口健二『残菊物語』を論じている。もう一つは小津安二郎東京物語』の原節子に関して。どちらも、「映画になりたい」濱口の基本的な態度、関心を宣言している。

 

溝口健二『残菊物語』/森赫子=お徳の言葉と声のエモーション>

 濱口竜介の24蓮實重彦論「遭遇と動揺」(工藤庸子編『論集 蓮實重彦』)は、濱口の蓮實との遭遇と動揺について自分語り的要素をもって書かれている。

 まず「遭遇」。

《ついに果たした「蓮實重彦」との遭遇は、小津安二郎によってもたらされたものだ。私にとって、事態は必ずしもその逆ではない。

『監督 小津安二郎』は己の視線をカメラに漸近させ続ける著者のみが可能にした潜在的な小津作品として存在している。(中略)それは「見る」ということだ。カメラという自動機械への予め決められた敗北を生きながら、それでも「見る」ということを通じてしか映画が制作されえないというごく根本的な事実を『監督 小津安二郎』は示している。カメラが撮影現場で写し取ったものを、映写機はそのままスクリーンへと映し出す。つまりカメラと観客は同じものを見るという最早ほとんど意識さえされない事実を、何度でも生起する「できごと」へと一対の瞳が組織し直した書物、それが『監督 小津安二郎』だ。》

 ついで「動揺」。

《ここで話題にしたいのはその『国際シンポジウム 溝口健二――没後五〇年「MIZOGUCHI 2006」の記録』に収められた蓮實重彦の『残菊物語』論だ。

「言葉の力」と題されたこの『残菊物語』論を読んだ時の鈍い動揺を忘れることができない。それまでに目を通していた蓮實重彦の批評とは一読して手触りの違うものだったからだ。それこそ「蓮實的」な批評の代名詞とも言うべき映画の画面における「主題」の発見、及びその列挙的な反復とそこからの飛躍、すなわち魔術的な説得力をこの『残菊物語』論が欠いていたからだと思う。

 そこで顕揚されているのは、主演のひとり・お徳を演じる森赫子に宿った「言葉の力」である。(中略)

 当然いつも通り、論の中には溝口作品における画面の濃密な叙述が存在する。しかし、溝口が一シーン一ショットを手法として完成させたとも言えるこの作品において画面=ショットの叙述は必然的に映画における「物語の解説」というおそらくは筆者自身が最も忌むべきものへと危うく接近していく。

 この法外のアプローチは「主題論的批評」が小津安二郎に対して理想的に機能したようには、決して溝口に対しては機能し得ないということへの蓮實重彦自身の深い自覚に基づくものだろう。》

《では、溝口健二の「重ね合わせ」とは何か。それは想像し得る最もオーソドックスな方法である。現場において脚本に基づき、その立体化を図る全スタッフ・キャストの力を「凝集」することだ。そして、蓮實重彦の『残菊物語』論はまさに溝口の「重ね合わせ」を解くための現場への旅としてある。

  「そのことなら、……覚悟は決めてきております」の一行は、数ある台詞のなかで もひときわ寒々と孤立し、他との温度差をきわだたせている<脚本>。それが可能なのは、そうとひと息に口にする森赫子の緩やかな声(・)の抑揚であり<演技・録音>、すらりと伸びた彼女の首筋であり<造作・照明・撮影>、誰かを見ているとも思えぬその動かぬ横顔の思いつめた孤独なのであり<立ち上がったキャラクター=フィクション>、ここにしかないという肝心な瞬間にそうした細部を画面に結集してみせる溝口健二の演出の力(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)があったからにほかならない。(<>。傍点は引用者)

 照明・美術・衣装・メイク等々現場のあらゆる要素が反映して役者の演技ができあがる。それがフィクションという現実の空白地を出現させることがある。カメラ、そしてマイクが狙い定めるのはその出現したフィクション、それを立ち上げる「現場」そのものの記録であり、以上でも以下でもない。そして、フィクションを必ずや立ち上げるべくカメラそばを頑として動かない溝口がそのすべての不動の中心となる。》

《図像による例示さえ許されない音声それ自体の叙述は、当然どこまで言っても曖昧であり、それを同定する言葉は必然的な貧しさをまとわざるをえない。森赫子=お徳の声を描写する「凛々しさ」も「なだらかさ」も「晴れがましさ」も、どれだけ周到に選ばれたとしてもその貧しさから逃れることはできないし、そのことを彼が自覚していないわけもない。にもかかわらず、彼は「貧しさ」の側に立ちながら叙述を続ける。そのことが人をこのうえなく動揺させる。》

《小津作品を見返したときの『監督 小津安二郎』がそうであったように、『残菊物語』を見返すこと、その中のお徳の声を聞き取ることは、「言葉の力」が『残菊物語』――溝口を語る無二のテキストであることを確信させる。叙述によってシーンのすべてを漏らさず立ち上げようとする蓮實重彦の執念に、カメラ脇を陣取ってそこから動かなかったという溝口健二自身の像が重ね合わせられる。そこにはやはり「映画になりたい」という馬鹿げた欲望をきわめて厳密な手続きでもって遂行しようとする極めて愚直な男の肖像が浮かび上がるのみだ。ここでも彼は、数十年前の自身の宣言(筆者註:『表層批評宣言』)を相も変わらず実行している。

  真に機能した「方法」が人目に触れたりはせず、時空を超えた事件としてあり、いつまでも醜い「原理」や「体系」として抽象空間に残骸をさらしたりはしないということ、つまり「方法」は「批評」の前にも後にもなく、「批評」と同時的に体験されるものであって、その時にのみ積極的な価値を生きうる[…]

 これは「批評」を「制作」と置き換えてもまったく同様だろう。この『残菊物語』論を読んだ動揺が、今も私を次なる場所へと誘っている。》

 

小津安二郎東京物語』/カメラの前の原節子のエモーション>

 濱口竜介は「『東京物語』の原節子」という文章を、二〇一五年九月の原節子逝去を受けた27『ユリイカ 特集 原節子と<昭和>の風景』(2016年2月号)に寄せている。

《このような追悼文めいた文章を書く資格があるかどうかも怪しい。にも拘らず、私は書かなくてはならない。そして、書くとすれば小津安二郎監督の『東京物語』の原節子=紀子について語る、ということ以外にはあり得ない。それを見て得た驚きは、私がこの文章を書き得る極めて限定的な、しかし決定的な理由だ。そのことは今、私が映画を撮り続ける理由の一つですらある。

 私が、驚いたものは、それ自体珍しくもない。おそらく誰しもが、驚きはしないでも心を揺さぶられる『東京物語』の最終部における原節子笠智衆のやりとりだ。その中で原節子がカメラを正面にして見せる表情に、驚いた。映画作りを続けながら、今の驚きを深めている。一体、人はあのような表情をし得るものなのだろうか。いや、し得るのだ。その証拠映像が残っている。疑いようはない。

 明らかに演技をしているにも拘らず、いやもしかしたらそのことによって、ただ信じることしかできないような人がそこに映っている映像。いわゆる「人間」を描いたとか。そういうことではない。むしろ新たにここで人間が創造されており、その瞬間にカメラが間に合っている、ということ。『東京物語』の原節子は私が知る限り、このように表現し得る世界にたった一つの映像なのだ。なぜそのようなことが可能なのか。

 その問いに身を浸すならば、原節子に捧げるこの文章は、避け難く小津安二郎の方法を巡る小論にもなる。私にとっては原節子について語ることは、小津安二郎のカメラの前に立った原節子について語る以外ではあり得ない。そのようなアプローチを取るのは、間違いなく小津自身が「映画の演技」を巡る不可能性を十二分に自覚した上で、あのカメラの位置を選択したからだ。あの原節子は偶然写ったものではあり得ない。そこには明確に、小津の選択した方法がある。》

《紀子が「いいえ」の人であったように、周吉は「いやあ」の人だ。「いやあ」もまた、ここまで場を和らげるために発されてきた。その点で二人は似ている。先ほど「いいえ」は一定の距離間を前提としていると書いたが、ここで為される「いいえ」「いやあ」という気遣いの応酬は、距離を作るより、本当にわずかずつだが二者を近づけてしまう。際限ない気遣いが、互いの示す柔らかさが、それまでとは違う自分を表す素地となる。紀子は「いいえ」で覆い隠していた自身の秘密を露わにしようとする。「いいえ」が「でも」に変わる瞬間がやってくる。

①紀子「いいえ(・・・)。あたくし、そんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父さまにまでそんな風に思って頂いてたら、あたくしの方こそ却って心苦しくって」

②周吉「いやあ(・・・)、そんなこたあない」

③紀子「いいえ(・・・)、そうなんです。あたくし狡いんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」

④周吉「ええんじゃよ(・・・・・・)、忘れてくれて(・・・・・・)」

⑤紀子「でも(・・)このごろ、(目下げて)思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。あたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、一体どうなるんだろうなんて、ふっと夜中に考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で何かを待ってるんです。狡いんです」

⑥周吉「いやあ(・・・)、狡うはない」

 ④の周吉の台詞は元々台本では「いやあ、忘れてくれてええんじゃよ」となっていたが、小津の手で書き換えられて「いやあ」が削除され、周吉が紀子へぶつけるより直接的な(しかし気遣いの)台詞となっている。そのことが紀子の「でも」を引き出すための小津の最後の一矢だろう。ここにおいて紀子の感情の発露を助けることと、原節子の表現を助けることに、ほとんど違いはないはずだ。先ほどのような「世の理」を説く理知的な態度ではない。自身の、誰にも見せなかった秘部を晒そうとしている。「いいえ、今のままでいいんです」と言った紀子ではない。「でも」「このままじゃいられないような」「寂しい」「何かを待ってる」紀子が顔を出そうとしている。

東京物語』を見直して幾度目かに⑤の部分が、紀子の正面ショットではなく、一貫して周吉の背中を手前に、奥に紀子を配する形のワンショットで撮られていることに気づき、驚いたことがある。紀子が自身を晒け出していくその過程、そこにはやはり目の前の周吉=笠智衆の反応を、演技の助けとして必要とすると小津は考えたのだろうか。カット割りは、現在映像で確認できる通りに台本に書き込まれている。ただ、シナリオ上の指示は(目下げて)とあるだけだが、映像上の紀子=原節子は一度顔を上げて、笠を見る。笠もその時は原の動きと呼応するように顔を原の方に向ける。二人は見つめ合い、最後の「ずるいんです」で原はまた顔を下げる。声にはそれまでにない激しい抑揚が具わるが、それを大げさなものとは感じられない。

 原の演技はできあがった。しかし、まだ映画は完成ではない。小津はここでかつての自分が言った通りに映画劇が「現実そのものよりもつと完全な、そしてもつと納得のできるやうなものであらうとする努力」を自ら実践する。原の正面にカメラを据えるのだ。それがいかに過酷なことであろうと、それをしなくてはならない。果たして、原はカメラに向かって、面を上げる。その瞳には涙が輝いている。

  紀子「いいえ、狡いんです。(目に涙)そういうことお母さまには申し上げられな かったんです」

  周吉「ええんじゃよ。それで。やっぱりあんはええ人じゃよ、正直で」

  紀子「(目下げ)とんでもない」

 誰しもがここで「とんでもない」と目を反らす紀子=原節子を記憶している。シナリオ上の(目下げ)の指示以上の瞬発力を持って彼女が目を反らすのは、「とんでもない」が「いいえ」を否定とし得ない彼女が咄嗟に選び取る否定と拒絶の言葉だからであり、結果選ばれたその強い言葉は誰も見たことのなかったその首筋を浮き立てるほどの勢いを彼女に与えた。原がカメラから目を反らすのは、その瞬間、紀子=原が自身の最も柔らかな秘部を晒すことの限界と、映画が映画であることの臨界が同時に訪れるからだ。どれだけ優しい義父も、どんな観客もその先を目にすることは許されてはいない。

 ただ、ここに及んで個人的な感慨を、誤解を恐れず述べるならば、私はその紀子=原節子の表情を見たときに「まるで自分のよう」に感じたのだ。他者から見たら笑って肯定し得る程度の「秘密」であることを理解しつつ、それを決して差し出せないこと、そのことが尚更恥ずかしく、しかしそれを勇気をもって差し出そうとして起こるすべての仕種の中に、年齢・性別・生きた時代・あらゆるプロフィールの違いを超えて、私は自分自身のうちに在る最も高貴な一片を見せてもらったような、その存在を教えてもらったような気がするのだ。それは今も私の中の他者としてある。ごく勝手に思うのは、この映像を、この紀子=原節子を見た人には誰でもそれが起こるのではないか、ということだ。「あらゆる人の中の私」をこの瞬間、原節子は垣間見せてくれているのではないか。

 小津は最後に、もうひと足掻きしてみせる。目を逸らした紀子を前にして、周吉は立ち上がり、亡妻の形見の時計を紀子に渡す。ここで、小津の撮影台本には周吉の一言が書き加えられている。「なあ 貰うてやっておくれ」。映画の中で、この一言は紀子の表情に乗せて響く画面外の音としてある。ここまで示したすべてのやり取りの中で発話者が映らないのはこの瞬間だけだ。この小津にとってはずいぶん例外的な音声を聞き取って、原の表情は震える。そして面を下げ、泣き顔を見られないように顔を両手で完全に覆ってしまう。しかし「貰うてやっておくれ」がもたらす猶予の間だけ観客は、台詞の響きに呼応して瞳の涙が揺れるのを見つめることを許されている。我々は束の間、しかし確かにそれを見る。何度でも見ることができる。

 どうすれば映画は、このような瞳を収め得るのか。結局、どこまでもわからない。笠はカメラが自身に向いていないときも、カメラ脇で自身の台詞を原に実際に与えただろうか。そうして原が、この遊戯じみた撮影の中で演じることを励ましたろうか。わからない。それについて述べた資料は見つけられなかった。ただひとつ言えるのは、カメラの脇には常に小津がいたであろう、ということだ。この日のためにあらゆる準備をした小津がいる。小津が見ている。そのことが原をどれだけ励ましたか、計ることはできない。》

 

 さて、本線の『ドライブ・マイ・カー』に戻ろう。

 

<ファーストシーン>

 32「シナリオ『ドライブ・マイ・カー』」(『シナリオ 2021年11月号』)から。

1 家福のマンション・夫婦の寝室(早朝)

薄明の外光が徐々に入り込んでくる寝室。女が裸の上半身を起こし、フレームインしてくる。

ダブルベッドの上に座る女の肩のラインを、薄明かりが白く浮かび上がらせる。逆光で女の表情や乳房は確認できない。女は家福の妻、音(45)だ。音が口を開く。

音 「彼女は時々、」

家福「うん」

音 「山賀の家へ空き巣に入るようになるの」

家福「山賀?」

音 「彼女の初恋の相手の名前。同じ高校の同級生。でも山賀は彼女の想いを知らない。彼女も知られたくないから、それで構わない。でも、山賀のことは知りたい。自分のことは何も知られずに、彼のことは全部知りたいの」

  ベッドに横たわり、頬杖をついて女を見つめる家福(45)

家福「それで空き巣に入る」

音 「そう。山賀が授業に出てるとき、彼女は体調が悪いと言って早退する。山賀は一人っ子で、父親はサラリーマン。母親は学校の先生。家に誰もいないこともクラスメイトから聞いて知ってる」

家福「どうやって中に入る? 普通の女子高生が」

音 「彼女は当たりをつけてた通り、玄関脇にある植木鉢の下を探る。そこに鍵がある」

家福「(笑う)不用心だな……」

(後略)》

 

11-1木下千花「やつめうなぎ的思考」より。

濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』は、やわらかく青みがかった大きな窓を背景に、ぬらりと身を起こしたまま語る女の黒いシルエットで始まる。女は言う。「続き、気になる?」

 本作が村上春樹の同名作品ばかりではなく、短編集『女のいない男たち』(文春文庫、2016年)にいっしょに納められた他の短編からも想を得ていることを知っている者なら、すぐに思い当たるはずだ。「ああ、「シェエラザード」だ」と。シェエラザードは、同名の短編小説において、ある秘密組織の「ハウス」に滞在している語り手の男性の元に1、家事と性的サーヴィスを提供するため週に2回ほどやってくる30代の主婦であるが、性行為のあと、あたかも『千夜一夜物語』の美妃のように面白い話を語って聞かせるのだ。

 しかし、類似はすぐに疑問を招き寄せる。なぜこの女、音(おと)(霧島れいか)は、ベッドの上に半身を起こして語っているのか。夫であり、この映画の主人公である家福悠介(西島秀俊)が裸身をベッドに横たえて耳を傾けているさまが、すぐにミディアムクロースアップで続くというのに。Postcoitusの寝物語というものは、親密なけだるさに身を任せて水平姿勢で行うものであり、「シェエラザード」でもそうなっているではないか。なお、ここで問うているのは、「原作」や現実世界における慣習との当然ありうべき些末な差異ではなく、身体と演出をめぐる主題系である。取り急ぎこう答えることで本論を語り起こそう——だって、音はやつめうなぎだから。》

 

11-2坂本安美「音という旅」より。

《夜が明けようとしている時間帯だろうか、大きな窓の外には水に滲んだインクのように濃い青色がぼんやりと空を染め、その下に広がる街がうっすらと見えてくる。形を帯びようとしている世界を背後に、黒いシルエットが私たちの目の前に現れる。音(霧島れいか)、それが女の名前であり、影絵のように動くそのほっそりとした身体からは低い声が響いてくる。彼女と共にベッドにいる男、夫の悠介(西島秀俊)は、微睡みながらもその声が語る「恋する空き巣の少女」の物語に聞き入っている。人間関係の深淵なる部分、「親密さ」を映画でとらえるという、現在の日本映画においては稀有な試みを続けている濱口竜介の最新作『ドライブ・マイ・カー』は、一組の男女のまさにもっとも親密で、秘められた場面、セックスの後のベッドでの会話から始まる。》

 

11-3ティエリー・ジュス「喪に服し、エロティシズムに満ちた長い精神の旅」より。

《『ドライブ・マイ・カー』はかなり長いプロローグで幕を開け、ここで喪と心を揺さぶるエロティシズムが刻まれた精神的な冒険の基盤を築いてみせる。それは、淀みなく素晴らしい最初のシーンで表現される。セックスの後のベッドにほとんどささやくような声が響き渡る場面に観客は浮遊させられるだろう。そこから、濱口はゆっくりとわれわれを驚きに満ちた迷宮に誘う。》

 

12「対談 濱口竜介×野崎歓 異界へと誘う、声と沈黙 <映画『ドライブ・マイ・カー』をめぐって>」より。

野崎歓:まず、うかがいたいと思うのは冒頭の場面についてです。試写で観ていて、周りの人たちも息をのむ感じがありました。女性の裸体が映るけれども、背後から撮られていて、かつ逆光でもあり顔が見えない。霧島れいかさん演じる家福音という女性が夫婦でのセックスの後、寝室で夫に向かって不思議な物語を語り出すのですが、あそこで決定的に何かが刻印された感じがしました。あのシーンはいつ生まれたのでしょう?

濱口:冒頭部分はプロットの段階ですでに書き込んでいました。短篇「ドライブ・マイ・カー」を映画化するうえでの様々な変更について、まずは原作者である村上春樹さんに許諾を取らなければいけない。頻繁にやり取りするのは難しいので、「映画化するうえでこういうことをやりたい」というのをできるだけ最初に村上さんに提示しなければいけない。

 話をどう膨らませていくか、まず短篇集『女のいない男たち』を繰り返し読むところから始めました。そして短篇「ドライブ・マイ・カー」以外に、同書に入っている短篇「シェエラザード」「木野」を新たに取り入れようと決めました。「シェエラザード」のほうは、短篇「ドライブ・マイ・カー」にはない主人公の妻の描写を足す必要性から、そして主人公の家福悠介(西島秀俊)が最終的にどこへ向かっていくのかと考えたときに、「木野」の要素を加えようと思いついた。家福は具体的にどういう仕事をしているのかというと、原作に「ワーニャ伯父さん」の話が出てきますから、ならば彼はこの戯曲の演出をしているんだと考えていきました。

 ただ、妻がセックスの後に物語を語りだすという、「シェエラザード」を基にした設定は、映画の途中で突然出てきたらすごく奇妙なわけです。そこでまずこの状況を当然のこととするようなリアリティの地平を最初に設定する必要性があります。実際この映画は――というより村上春樹さんの小説自体がと言ってもいいのですが――リアリズムではあるけれども、気がついたら現実から浮遊して別の世界へ行ってしまうようなところがある。それを成立させるため、この映画のリアリズムの基準がどのへんにあるのかを設定しなければいけない。冒頭は「こういう映画で、ここから始めます」という、観客への宣言なんです。(中略)

野崎:冒頭のシーンがどうしてここまでインパクトがあるのか、それはある種の乖離を含んでいるからです。女性の声が聞こえてくるけれども、我々はまだ彼女の顔もちゃんと見ていないので、聞こえてくる声と今見ている女性の姿が一致しているのかどうかよくわからない。しかも声が語る内容が「彼女」という三人称なので、物語と寝室の中の現実がどう結びついているのかもわからない。何か危うさを経験させられるんです。そこで存在感を放つのは「声」です。この女性がその後どうなるかまでは我々は予測できないけれども、何かがズレているという印象は強く受ける。まるで巫女のように、彼女の謎の声の力が魅惑的に働いています。》

 

21「特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家) 映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって」より。

三宅唱:映画をどんな場面から始めるのか、重要だと思うんです。『ドライブ・マイ・カー』のファーストシーンはシナリオ通りですか? なぜあの場面から映画を始めたんでしょう。

濱口:シナリオ通りだし、そもそもプロット通り。基本的に映画の始まりって、観客にとってのリアリティの水準をどこに設定するかにおいて重要だと思っています。この映画の家福夫婦には昼と夜の生活があって、昼は普通に妻の家福音(おと)(霧島れいか)は脚本家として、夫の家福悠介(西島秀俊)は俳優として生活しているんだけど、夜になると二人はセックスし、そのあとで妻の音がトランス状態に入って物語を話し出すという設定がある。これを昼から始めると夜の場面で「おいおい、どういうことだ」となると思うんですけど、夜の場面から始めると、観客にとってその場面がこの映画のリアリティの基準というか「そういうものだ」という受け止め方になるのではないかと。普通の流れでは受け入れづらい要素を、ある種の映像の強度とともに最初に示すことで、観客にまずそれを受け入れてもらうことから始められる、逆にそうしないとこの話を進めるのが難しくなるということはすごく考えていました。(中略)

三浦哲哉:「これ何?」「これ誰?」ってなって、1時間後に初めてわかるみたいな。そういう息の長さを受け入れることを観客に期待している。この映画の冒頭も同様に大胆で過激な入り方ですよね。

濱口:ありがとうございます。実際のところ、こういう「わからなさ」を含んだ語りは『悲情城市』や『牯嶺街少年殺人事件』(1991)をイメージしてたりもしたので、ご指摘嬉しいです。ただ、こういう始め方が可能になるのは最後の方の展開との兼ね合いもやっぱりあるんですよ。

三宅:最後とは?

濱口:プロットを書いた時点で、最後の雪山の場面、家福が妻を思っていろいろな言葉が溢れてくるところまで、最後のセリフもプロットにはほとんどそのまま書いてあって、その段階で、喪失から再生へ、という非常にベタというか「王道」の語り方が見えた。観客も最終的には理解でき、もしかしたら共感もできる題材を扱っているんだなと。それがわかっていたからこそ、逆にここで負荷もかけられた。最終的には観客に報いるものにできるから大丈夫だと。だから実際に撮影する段階でも、けっこう語りの無理は効くはずだと思いながら前半は作っていた感じです。》

 

<音楽/音のエモーション>

6「石橋英子×濱口竜介、映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽を語る」より。

《最初に石橋さんと音楽についてお話しをした時は、「風景みたいな音楽を」とお願いしたと思います。映画のなかに流れる空気と同化しているような音楽を、と。そうお話しをしたのは、まだ映画の形も見えてない頃でした。》

《音楽の方向性についてやりとりしていくなかで、終盤、「もう少しだけエモーションを感じられるものにならないか」とお願いしたんです。石橋さんの音楽に、映像と観客とを結びつける役割を担ってもらいたかった。》

《出来上がったエンディングテーマに、石橋さんは今までになくエモーショナルなメロディを入れたと思うんですけど、それがまったくトゥ・マッチではないというか、ほんとにこの映画にふさわしい、すごく微妙なラインを行くもので、本当に感激しました。すごく大変だったろうなと思いましたけど。》

 

30「『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」より。

《──アンビエント的な音もあれば、エンディングテーマのようなメロディアスな楽曲もあります。特にエンディングテーマは余韻を損ねず、映画と程よい距離感を保っています。具体的なオーダーは出されましたか?

濱口:映画音楽に関しては、いちばん初めに「風景みたいな」「人間的な感情とは遠くにあるイメージで」とオーダーしました。それは撮影前のことで、そういうオーダーが石橋さんにも合っていると思ったんですが。ただいざ撮ってみるとその要素は映像が十分に持っていると気づきました。それで、より一般的な映画音楽に近い形の「映画と観客を一層感情的につないでくれるような音楽を」とオーダー変更しました。バンド編成の楽曲はそれに基づいてつくっていただいています。先ほど、西島さんの演技に関して「嘘じゃないエモーションを探りつつ、進んでいく」とお話ししましたが、エンディングテーマから受けた印象もすごくそれに近くて、開かれたメロディを持っているけれど、過剰にセンチメンタルやエモーショナルではない。石橋さんはもともと極端にメロディアスな音楽には抵抗をお持ちだったかとも思います。でも、上がってきたラッシュを見ていただいた際に「この映画自体、音楽のよう」と言ってもらえました。短い感想でしたが、熱が感じられて「石橋さんが感じた、その感覚を使ってエンディングテーマをつくってください」とお願いしました。結果としてエンディングテーマはみさきの表情とも響き合って、終わりというよりは始まりを感じさせるものになってくれたと思います。》

 

43「【単独インタビュー】『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督が拡張させた音と演技の可能性」より。

《──この作品に関してはどのようにサウンドデザインを考えられたのですか?

濱口:野村みきさんという、フランスで音を学んできた方に、音に関しては基本的に統括していただきました(※クレジットではリレコーディング・ミキサー)。日本だと、伝統ということなのか、台詞(声)、音楽、効果音の担当者それぞれがフェーダーのつまみを持っていると聞きます。よく聞くのは、自分の音を聴きたい、聴かせたいと思うのか、音を上げ合う傾向があると。ある種の競争関係があるんですけど、本作では野村さんが音全体をトータルに判断して、僕に提示してくれます。

──日本で映画を観る場合の理想的なサウンドデザインとは?

濱口:一般的な日本映画の場合、多少、行き当たりばったりの音響設計になっていることが多い気がします。音楽をべったり貼ったりとか、環境音を付けておけば良いだろう的な。声を聞かせるのと、ノイズを聞かせるのを同時にやるわけですが、どっちもちゃんと聞こえるというにサウンド設計しておくことが大事なことですね。

先ほど少し、カメラが捉える体のサインの話をしましたが、基本的に体に起きていることは、カメラはフレームの範囲内に関しては全部捉えてしまいます。それは拡大すれば、当然より良く見えるし、撮影現場では思いもよらなかったことも見えてしまいます。だから、どんな大きなスクリーンで観られても問題がないように、現場でやることを、ひたすらちゃんとやるようにしています。限界まで、よく見ようとすること。音も同じことで、大音量ではごまかせずに聞き取られてしまうことが多くあります。なので、できるだけ何度も聞き返しながら、細かい部分まで聞こえてくるように努力しています。》

 

44「濱口竜介監督インタビュー!『ドライブ・マイ・カー』の“サウンド”に込めた狙いと“特別な”村上春樹作品への想い」より。

《――監督は今までも音にこだわりがあったと思いますが、『ドライブ・マイ・カー』では特にそれが感じられました。

濱口:基本的には、車のサーブ(SAAB)のエンジン音というのが基本の音になっていて。あれを聴いているのがすごく気持ちいい、というのがあったので、その音がベースになっています。また、いくつかの場所を移動していく中で、東京と広島で鳴っている音が違うし、広島の音も都市部と島では違う。そして後半、別の場所に行くと無音のような空間もある、という感じですね。

――あの無音の空間がすごく印象的でしたし、いわゆるアンビエントサウンド(環境音)やルーム・トーンと言われるバーや室内の音も印象的ですね。普段はそういう音の存在は頭ではわかっていても、映画を観ながらあまり意識しないことが多いのですが、それが邪魔にならずに、なおかつ、そこにある音の存在を意識することが出来た。この音の素晴らしさが発見でした。

濱口:それは本当にありがたいですね。野村さんがやっているのも、そういうことなんです。日本ではセリフ、効果、音楽の担当者が個別に主張しつつ整音するという現場が多かったようです。3人が思い思いで“この音を聴かせたい”というのではなくて、それをミキサーの感性で総合的に音をミックスする、ということを野村さんはすごく考えていらっしゃった。その成果だと思います。もちろんセリフがすごく大事だということは前提として、その中で環境音というものがどう共存できるか、ということを配慮していただいたと思います。

――主人公の妻の名前が音(おと)というのは、やはりここに関係があるのですか?

濱口:いやあ、本当にダイレクトな名付け方というか(笑)。もちろん名付けた時に、大丈夫かなとは思ったんですが、変えられなかった。音の話であり声の話でしかあり得ない、という感覚があったからと思います。》

 

ちなみの、家福が音の不貞行為を目撃してしまうときにレコードから流れてくる音楽はモーツァルト「ロンド ニ長調 K.485」。ロンド形式とは異なる旋律を挟みながら、1つの主題を何度も繰り返す形式。

 

<家福(かふく) 音(おと)/霧島れいか

6《霧島さんの声はとても魅力的で、ずっと聴いていられるんですよ。嫌味なところがまったくないというか、“余計な意図”が感じられない。だから家福も聴いていられるんだと思うんですけど。彼女の声が流れていることで、あの車がどういう空間なのかもわかる。》

 

21《三浦哲哉:家福音のキャラクターは人間関係の要だからこの映画にとってすごく大事ですよね。彼女の描写でこけたら映画の骨格が揺らぐじゃないですか。おそらく細心の注意を払われたと思うんですが、キャストが決まってから当て書き的にどれくらい調整したんでしょうか。

濱口:ええ、細心の注意を払いました。当て書きというか、キャスティングが決まってから変えた部分はそんなに多くないんです。本読みをした結果で語尾とかは変えたりしますけど、内容に関してはほとんどそのまま。リハーサルには本読みに慣れてもらうっていう目的もあるし、家福と音の関係性を二人に理解してもらう目的もあるので、西島さんと一緒に自分たちの過去についてのテキストっていうのを作ってもらったりしました。たとえば娘が死んだあとの場面だとか、大学時代で二人が演劇サークルで出会った場面だとか、そんなにドラマティックなものではなく、ごく普通の会話を本読みして演技するっていう練習も兼ねてやってもらったんです。そうすれば二人の間で共有されるいろいろな記憶ができるんじゃないかと。

 もうひとつは『ハッピーアワー』のときに開発した「17の質問」〔映画におけるキャラクターの来歴、心情、関係性について記された脚本以外のテキストを濱口竜介監督は総称して「サブテキスト」と呼び、「17の質問」はその一つとして『ハッピーアワー』制作につながる「即興演技ワークショップ」内で発明されたもの。キャラクターに対し「幸せですか/それはなぜですか/何が大切ですか……」といった17の質問を与え、それに対しキャラクターの立場に立って答えを用意することで、その造形に深みをもたらすことを狙った手法。詳細は『カメラの前で演じること』(左右社)17-18頁を参照〕ですね。これは自分自身がシナリオを書く上でも多少助けになるんで、自分がどういうキャラクターを想定しているのかを理解するために、まず自分で書いてみる。ちゃんと見せられるものに整えてから、これを役者さんに渡して、「これは僕の考えたことなんでぜんぜん違うと思うんですけど」と伝えつつ、「ちょっとこれを自分でも考えてください」とメインキャラクターのキャストには全員やってもらってます。

 で、考えてもらうモチベーションとしてもアウトプットの場が必要で、確か霧島さんと岡田くんにはちょっとだけ互いにインタビューし合う〔役者同士が自身の配役を演じながらお互いにインタビューを行うことで配役への理解を深める、という方法も先述した「即興演技ワークショップ」内で発明されたものとのこと。その試みの厚みを高めるために、先に記したいくつかの「サブテキスト」が大きな力となったという。『カメラの前で演じること』16-17頁などを参照〕ってこともしてもらいました。ただ、それでもやっぱりこの音という女性を演じる上では難しいところは残るので、霧島さんは岡田さんとも楽屋で出会って会話をするといった場面の本読みとリハーサルをしてもらったり、そこにプラスして「たとえば二人の間にはこういうことがあったんじゃないか」という内容の書かれたサブテキストを渡してます。そういうのが演技の基盤にならないかな、と。

三浦:なるほど。音役にはカリスマ的な人物をあてたい、というのが普通の発想だと思うんですよ。理想を言えばケイト・ブランシェットのような女性がいて、みんながその人を崇拝するという感じであればわかりやすい。でもこの映画の音という人物像は、あくまで関係性で成立してるのが本当に素晴らしい。そこで伺いたいのは、岡田さんが演じる高槻との関係は、サブプロットを作る段階でどれぐらい踏み込んだのかなんです。二人が肉体関係を持っていたのかどうかが中盤の、家福と高槻の会話劇の焦点になるわけじゃないですか。これは演出の水準ではどうしていたのかなと。

濱口:岡田さんへの演出としては「高槻が音と関係を持ったかどうかはわかりません」と伝えてます。実際、家福が浮気現場を発見するシーンで、霧島さんは(岡田さん以外に)別の男性キャストとも浮気現場の場面を演じてます。「編集上どっちを使うかわかりません」と岡田さんにも伝えていまして、「関係があったかもしれないしなかったかもしれない」ということを前提にいました。先ほどお話ししたように、リハーサル段階では高槻と音は会話程度の関係性しか作っていなくて、高槻が音を素敵だなって思うぐらいのステージに留めていました。とは言ってもこういう話の展開だとやっぱり関係があったんじゃないかと岡田さんは認識してしまうと思うので、「セックスではないけれどこういうシチュエーションで音の話を聞くはあった」という内容のサブテキストを渡して、それも合理的に起こりうると伝えています。後々の話になりますけど、高槻の演技についてはテイクごとに「いまのはちょっと関係があったっぽく見える」とか「ちょっといまのはイノセント過ぎる」みたいなことを話し合っていて、最終的にはそれを編集も含めて調整しているんです。岡田くんにとっては正解がなさすぎて申し訳なかったですが、結果的に曖昧さを保ったまま、とても素晴らしく演じてくれたと思います。1度観た人の解釈の多くは高槻と音は関係があったという意見に落ち着きがちですけど、いやいや、はたしてそうでしょうか……というのは言っておきたいところです。》

 

43《──この小説には、真ん中に妻の「不在」があり、それはある意味主人公よりも大きな存在です。その大きな穴のようなものを映像化するのは、チャレンジだったのでは?映画では、霧島れいかさんが演じる妻・音を登場させていますね。

濱口:映画では、実像を出さない限り、存在をビビッドに感じることはできないので、妻の音を描くことは自然な決断でした。「不在」を表現するためには、映像においては「実在」を描くべきだと思いました。誰かに語られる物や人は、基本的に実像から離れています。誰かに語られた時点で、その人の肉体ではないわけです。一方で、実像を撮るということは、本人が(スクリーンに)登場するということ。家福が何を語ろうと、実像の方が(観客にとって)重くなります。映画において、言葉を用いた「語り」というのは相対的に弱いものであって、原作の通りに語りのみで構成すると、家福が音について語っていることがかなり突拍子もないので、本当にそうなのかという疑問が残ったでしょう。

──映画では音は、より主体性をもって登場しますが、音の人物像をどのように作り上げていったのでしょうか。

濱口:音は理解し難い存在ですが、生身の役者さんに演じていただく以上、ある程度理解の糸口がないと演技はできません。演じた霧島さんと共有したのは、二人にとって娘を亡くしたというのが決定的なターニングポイントとなって今に至っているのだろう、ということでした。原作だと家福の視点で語られた「妻」だけが出てくるのですが、実際にこの女性を見ていれば、観客が、家福が言うことに「それは違うんじゃないの?」という視点を持つこともできます。その観客の違和感のようなものが、家福の気づきとともに解消されるようなところまで話をもっていこうとしました。》

 

44《――霧島れいかさんが音を演じていますが、同じく村上春樹さん原作の『ノルウェイの森』のレイコのイメージがあるせいか、どこか村上ワールドの匂いがしますね。

濱口:音は、ぜひとも素敵な人にやってもらわねばならない役だ、と思って霧島さんにお願いしました。『ノルウェイの森』もやられていたので、それが吉と出るか凶と出るかは判断つかないところがあったんですが、霧島さんにお話をしたら「すごくやりたい」と言っていただいて。とてもリスクのある役でもあるのに。》

 

<エモーション>

30《──ラスト近くの長回しに関してもお聞かせください。実は最初に見たとき、西島さんの演技にそれまでと違う印象を受けて、少し戸惑ったんです。物語の流れからすれば違ってないとおかしいのですが、俳優が俳優を演じる「演技の二重化」とも異なる、何か独特のエモーションが宿っているように感じました。

濱口:撮影現場で感じていたことを素直に言うと「西島さん、本当に繊細にやってくれた」ということです。あの雪山の場面は、企画開発初期のプロットの段階からセリフも含めて書いていて、何というか複雑な構造を持つこの物語を「誰にでも届く」ものにしてくれるものだと感じました。プロデューサーたちが、この企画がいわゆる「商業映画」として成立すると判断するうえでの拠り所にもなっていたと思います。だからこそ、すごく危険なセリフでもあって、もっと大きく演じられてしまう可能性もありました。でも実際の演技を観ながら、僕が撮影現場で感じていたのは、西島さんが一言一言を自分にとって嘘にならないよう、それこそテキストと自分の「折り合い」をつけながら進んでいっているような感覚でした。それは家福というキャラクターにとっても必要なことだと思えた。撮影現場でも感動しましたが、先日のカンヌ映画祭で観客と一緒に観た時に改めて自分でも感動しました。何というか、西島さんがこの役を演じることを、自分自身にとってもとても重要なものとして感じてくれていたんだな、と思いました。あそこには過剰な形ではない、正確なエモーションと呼びたくなるものがあると感じています。》

 

12《野崎:雪の中でのシーンは第一のクライマックスだと思いますが、すでに我々は冒頭のベッドシーンや車の中で、あれだけすごい語りを見せられています。それが雪の中での語りとなると、今度は二人とも突っ立ったまま延々と台詞を言っている、という感じが強く出てしまう可能性がありますね。演出家としてはこの困難にどういう覚悟で臨まれたんでしょう。

濱崎:たしかに一番怖いところではありましたね。いかにも日本映画的と言うとあれですが、説明的になりかねない台詞の積み重ねで、感情的な解決まで果たして到れるか。他に何の仕掛けもなく、とにかくこれでやるしかないと。個人的には、この場面が二人にとっての舞台のように見えたらよいと思っていました。「演技」にしか見えないかも知れない。でも、これは彼らが生きるために必要な言葉なんです。

 俳優の最良の演技はまさにそういう言葉として響きます。それが起きれば、この困難も克服できると思いました。》

 

 ベタな雪山のシーンのシナリオ。トタン屋根がわずかに土から露出している小高い場所で、母にはサチという別人格があった、とみさきが語り始める。ここにも「演技」という言葉が出てくる。

32《77 北海道・みさきの家の跡地(昼)

(前略)

みさき「母が本当に精神の病だったのか、私をつなぎとめておくため演技をしていたのか、わかりません。ただ、仮 に演じていたとしても、それは心の底からのものでした。サチになることは、母にとって地獄みたいな現実を生き抜く術(すべ)だったんだと思います」

  土にタバコを差し込む。煙を出すタバコを見つめる。

みさき「地滑りが起きたあのとき、私は母が死ぬことは、つまりサチが死ぬことだと理解していました。それでも、私は動かなかった」

  みさきは立ち上がり、手をはたく。斜面を登る。

  家福が手を差し伸べる。

みさき「汚いです」

  家福はそのまま手を差し伸べる。みさきはその手を握る。家福はみさきを引き上げる。無言の二人。

  みさきは、家福の手を離さずに言う。

みさき「家福さんは、音さんのこと、音さんの、そのすべてを、本当として捉えることは難しいですか?」

  家福はみさきを見つめる。

みさき「音さんに何の謎もないんじゃないですか。ただ単にそういう人だったと思うことは難しいですか。家福さんを心から愛したことも、ほかの男性を限りなく求めたことも、何の嘘も矛盾もないように私には思えるんです。おかしいですか」

  家福は答えられない。みさきは手を解く。

みさき「ごめんなさい」

家福「僕は、正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。僕は、深く、傷ついていた。気も狂わんばかりに。でも、だから、それを見ないフリをし続けた。自分自身に耳を傾けなかった。だから僕は音を失ってしまった。永遠に。今わかった」

  みさきは家福を見つめる。

家福「僕は、音に会いたい。会ったら、怒鳴りつけたい。責め立てたい。僕に嘘をつき続けたことを。謝りたい。僕が耳を傾けなかったことを。僕が強くなかったことを。帰ってきて欲しい。生きて欲しい。もう一度だけ話がしたい。音に会いたい。でも、もう遅い。取り返しがつかないんだ。どうしようもない」

  みさきは首を振り、家福を抱きしめる。

  家福は肩を震わせる。みさきは肩に顔をつける。

  家福は顔を上げる。家福がみさきを抱きしめる。

家福「生き残った者は死んだ者のことを考え続ける。どんな形であれ。それがずっと続く。僕や君は、そうやって生きてかなくちゃいけない」

  強く抱き合う二人。

家福「生きていかなくちゃ」

  家福はみさきの背中を強くさする。

  みさきも家福を強く抱きしめる。

家福「大丈夫。僕たちはきっと、大丈夫だ」

  二人は同じ方向にそっと目をやる。》

 この最後の「生きていかなくちゃ」は、次のシーンとなる本公演舞台の最後の、ソーニャ(ユナ)の「生きていきましょう」に対応する。

 

31「『ハッピーアワー』濱口竜介監督インタビュー「エモーションを記録する」」より。

《——最近の濱口監督の作品を拝見していると、見えないものに対する興味が非常に強いように感じるんです。『親密さ』や『不気味なものの肌に触れる』にしても、タイトルだけ見てもカメラに映るものでは決してないわけです。『ハッピーアワー』で言うと、途中にいなくなってしまうある人物が他の人物たちにその後もずっと影響を与え続けます。見えなくなったものが登場人物たちを縛りつけるとさえ言ってもいいかもしれません。

濱口:この大構造が何から発想されているかというとジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』なんです。4人の親友同士の男性がいてひとりが死んでしまう。残りの3人が三日三晩遊び回るわけですけど、そのときに遊べば遊ぶほど、騒げば騒ぐほど、観客には悲しみが体感されるということが起きるような気がしました。そのとき僕は映画の中に、人生よりもずっと濃密な感情を見たような気がするんですね。僕は『ハズバンズ』というものに、もしくはすべてのカサヴェテス作品に「エモーション」を感じるわけです。そして、実のところそれを見なければきっと映画を作るという選択肢自体そもそもなかったような気がします。このエモーションというものを追求しない限り、僕には映画を作る意味というのはないんです。そうきちんと思えるようになったのは最近のことですけど。なので、答えになるかはわからないんですけれど、エモーションというのは当然見えないんだけれど、見えるもの、聞こえるものを通じて感知されるものだと思うんです。その点では、風みたいなものですね。映画の中で木や衣服が揺れたら風が見えなくても、「風が吹いてる」って思うでしょう。それは実は観客の中に吹いている。同様にエモーションが観客のうちに生まれるのも、見ているもの、聞いているものを通じてです。『ハズバンズ』みたいに設定が見え方に影響を与えることも、もちろんあります。でも、間違いなく僕は演じているベン・ギャザラやピーター・フォークを通じてエモーションを感じた。

 つまり、演者を通じてエモーションは現れる。そのためには映っている演者の身体をその次元に至らせないといけない。どうやったら常にそれが起こるかというのは未だにわからないです。それでも、演者の身体から生まれてくるようなエモーションを直に捉えたいということはずっと考えています。演者を介してエモーションが観客のうちにまで生まれるということは、他者でしかない人と人の間に「つながり」が生まれるということです。センチメンタルな言い方になりますけどそうなんだと思います。それは例えばジーナ・ローランズや『東京物語』の原節子が見せてくれたものだとも思います。それは人の人生を変えるぐらいの体験なんです。僕もまた、エモーションを直接的に撮りたい。作劇ということはもちろん重要なんだけど、究極的には風を撮るみたいにエモーションを記録したい。そういう、すごく単純な欲望があります。》

 

37「石橋英子×濱口竜介インタビュー「素晴らしい映画音楽は隠されたエモーションを引き出してくれる」より。

《濱口:音楽はやっぱり、映像以上に観客の心情と密接であり得ますよね。(ジョン・)カサヴェテス映画の音楽を手がけているボー・ハーウッドという作曲家がいて、映画におけるエモーションを音楽が全く邪魔しないんですよね。ハーウッドはカサヴェテスと一緒にサウンドデザインもやっていたらしく、ゴダールみたいに『ここだ!』ってタイミングで音楽が入ってくる。『こわれゆく女』(1974)でジーナ・ローランズが子どもをバス停で迎えるシーンでかかるのが、爽快な音なんです。それがその空間全体を表しているようでもあり、入ってくる1音で雰囲気を変えることができている。あの感じはなかなか出せないなと。ボー・ハーウッドは今に至ってもそこまで有名な音楽家ではないと思いますが、ぜひもっと再評価されてほしいです。

石橋英子:結構埋もれている映画音楽家は多いと思います。でも映画の音楽として機能している以上、それは仕方のないことだとも思います。カサヴェテスは音色、音が出てくるタイミングなど、本当にジャストですよね。

濱口:音楽がそのシーンをつくっていくようなところもあるんだけど、それが全然過剰じゃなくて、この画面からこういう感情を読み取っていいんだと翻訳してくれる。そうやって、隠されたエモーションを引き出してくれるのが素晴らしい映画音楽なのではないかと思います。単に映像とその場で撮った音響を組み合わせただけでは表現できない部分を、映画音楽に助けに来てもらうみたいな。

石橋:私は人生の中でいちばん大事な映画が『オープニング・ナイト』(1977)なんです。10代のときに観て衝撃を受けて。最後の舞台上の、カサヴェテスとジーナ・ローランズのやり取りを見て、どんなに歳をとって経験を積んでもあのようにはみ出して踏み出して生きていかなきゃいけないんだと思いました(笑)。

濱口:僕も人が生きるってこんなにもポテンシャルがあるんだ、とカサヴェテスの映画を観て理解したというか。それは本当に現実を捉えてつくられたものであり、現実の中にそういう可能性があるということだから、すごく力付けられますよね。『ドライブ・マイ・カー』でも演劇を扱っていますが、『オープニング・ナイト』は話の流れとは全然つながらない演劇を即興でやっているんですよね。舞台にも観客が入っていて、実際の客席の反応があってラストシーンとして成り立っているし、強度を持つ。何より、実際の観客の前であの即興をする勇気がすごいなと。

石橋:破綻しちゃってますもんね。

濱口:そう。でもそこで突き抜けて、ジーナ・ローランズが演じる女優の生きる力が回復したと本当に感じることができる。だから、そこへの道は遥か先だなと。自分に時間がたっぷりあるとは思ってはいけないというか。カサヴェテスが『オープニング・ナイト』を撮ったのは、自分が生まれた年だったんですよね。たぶん撮影当時カサヴェテスは47歳くらいで、僕は今年43歳なので、そこまで年齢は変わらないんですよね。》

 

43《──例えば、ジョン・カサヴェテスは感情を引き出す演出に長けていることで、彼の作品での俳優の感情表現をひとつのロールモデルという若い俳優も多いですね。濱口さんとしては、同じことをやっていると思いますか?それとも正反対のことをやっていると?

濱口:それはどちらかと言うと、アメリカ人と日本人の違いではないかと感じています。例えば、フランス人はこんな風にしゃべるし、アメリカ人はこんな風にしゃべる、あるいは身体のふるまいによって出てくるものがありますよね。僕もジョン・カサヴェテスのような感情表現に非常に憧れた時期があるし、今も実際に憧れはあります。でもそれは、日本人の極めて抑制的な身体からは普通は出てこない表現だと今は考えています。日本人にそのような感情表現を課して表現してもらったとしても、かなり無理した形にしかならないから、あまり意味がありません。まずは自分たちが使っている身体を出発点にしないと、(良い感情表現には)辿り着けないでしょう。》

 

<脚本/テキスト/サブテキスト>

7「祝・カンヌ映画祭脚本賞! 映画『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」より。

《もともと、脚本はなるべく共同で手がけたほうがいいというのが僕の考えです。複数の視点が入ったほうがいいだろうと。それでプロデューサーの山本晃久さんに相談したところ、それなら大江さんはどうか、と紹介していただきました。この作品は当初、韓国の釜山で撮る予定だったので、まずは山本さん、大江さんと僕とで釜山に行きシナリオ・ハンティングをしながら構想を練っていきました。そうして僕がプロットを書き上げ、大江さんにそれを見てもらい、その都度意見をもらいながら直していく。脚本も、基本的にそういう作業分担で進んでいきました。ただ、冒頭で妻の音が語る「やつめうなぎ」の話は、ここは他とはまったく別のものとしてあったほうがいいと思い、大江さんにまず書いていただきました。》

7《高槻という男は、決して観客にわからせてはいけない、複雑な部分がある。岡田さんにも高槻のキャラクターについては何度か話し合いましたが、結局は「わからないですよね」と言うしかない。その「わからなさ」が映画に必要なので。かといって単純に「わからないなりに演じてみましょう」とはできない。

 これは僕の他の映画でもそうなんですが、役者さんたちには、いつも脚本の他に役の背景や性格などが想像できるようなサブテキストをお渡ししています。岡田さんにも「高槻がこういうことを口にする背景にはこんなことがあったかもしれない」ということを書いたサブテキストを渡して拠り所があるようにしました。そういうふうに演技の環境をつくっていって、結果として岡田さんの演技は素晴らしかった。》

 

<会話/言葉>

7《なぜ会話劇か、ということには2つの理由があると思います。大前提として、会話を書くことで僕自身が書く物語を理解していくところがあるからです。プロットの段階では、「本当にこんな展開ありえるかな?」という思いがどこかにある。それが会話を書いていくことで「なるほど、こういうこともあるかもしれない」という気持ちに変わっていく。自分が書いているものが何なのか、会話を書くことでようやく本当に理解できるんです。

もうひとつは、自分がよく見ていた90年代くらいのある種の日本映画が、あまりにも“しゃべらなさすぎ”という感覚を自分が持っていたことです。実際は、我々はもっと会話をして生きていますよ、という思いが昔からありました。

沈黙の状態と、何かをしゃべっている状態。どっちが嘘がばれやすいかといえば、やはりしゃべっている状態です。だから役者にたくさん台詞を言わせることは、リアリズムの映画にとっては弱点にもなる。ただ、「本読み」の手法を始めてからは、その弱点を克服できるような、別種のリアリティが加わった気がしています。本読みというのは基本的に反復練習であり、それが役者の体に与えるものをこれまで探ってきました。その繰り返しのなかで、ふと役者から出てくる言葉やリアクションのリアリティに、毎回驚かされるんです。》

 

18「村上春樹の芯を食うために努力したこと 『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督」より。

《我々の日常は、ルーティンから成り立っていて基本的には閉じられている。

 閉じているから安心できるけれど、閉じることで吹きだまることはある。

 言語化できない、なんだかわからないモヤモヤを、我々は少なからず抱えています。

 他人も同様に、別のルーティンのうちに閉じた状態にあって、互いにモヤモヤを抱えている。

 そんなある人とある人が出会ったとき、偶然それが新たな扉を開くことがある。

会話が互いのモヤモヤを解消するということがありますよね。

 「話せてよかった」っていうことは単純にあります。

 会話っていうのは言葉の意味だけをやり取りするのとは違います。

 他者と話して初めて引き出される言葉があるわけですけど、その言葉を通じて自分のモヤモヤした感情の正体をつかめることがある。

 本来なら同じ場所にはいないような二人が出会ってしまうということが、この映画では繰り返されます。

 偶然を通じて、出会うはずじゃなかった人が出会って、初めてこんな自分がいたんだと発見する。

 それが家福とみさきに起きていることです。

 劇中での西島さん演じる家福と、岡田将生さん演じる高槻の会話は、より激しいものです。

 会話というよりは、お互いがお互いの秘めた感情を出し尽くすように言葉をぶつけ合う場面です。

 ここでは言葉による解放があります。

 ようやく互いに抱えていた違和感を吐き出せている場面だとも思います。

 二人の演技も素晴らしい。》

 

30《──家福と岡田の対峙が終わり、みさきがその会話を受けてあるセリフを口にします。それは観客にもそう信じさせないといけない言葉で、傍観者的な位置にいた彼女が家福の人生に介入するポイントでもあります。そこで失敗すると、たとえ劇映画でも、そのなかのリアルが破綻するわけですよね。

濱口:脚本に書いた時点では、公園のリハーサルで家福が「いま何かが起きた」と言うのと同様に、「これは本当にそう聞こえるのか」と、かなり不安になりました。でもこういうのって、やっぱり脚本を読む役者やスタッフへの宣言でもあったと思いますね。ここはそうでなきゃいかんのだ、という。ただ、原作にある高槻の言葉は、そういうことを起こし得るものだと感じてもいました。あそこは原作では、高槻の言葉が「彼のどこか深いところから出てきた。演技でないのは明らかだった」というふうに、ある種の真実の響きを持つものとして家福に解釈されています。自分も読みながらそれをまさに感じた。描写によって説明されたからではなく、高槻の言葉そのものに、既に「ろ過」されたような印象があったんだと思います。それは、村上さんが執筆時にまさにそのような境地に至って書かれたからではないかと想像します。その感覚があったので、テキストをきちんと身体化して口にするときにそれは起きるのではないか、という期待があったんだと思います。実際にあの場面での岡田くんは素晴らしい。原作の核とも言える部分を素晴らしく表現してくれました。》

 

12《濱口:家福と高槻の対話シーンは、おっしゃったように、みさきが運転席で聞いていることがとても大事でした。原作と違い、家福と高槻は、バーでは決してああいうふうには話さない。彼女が聞いていることが、あの二人にドライブをかけている部分がきっとある。また二人のあの話を聞くことによって、みさきの物語内での地位も特権的なものになってくる。そうすることで、後に行われる家福とみさきのドライブがそれまでとは何か違うものを共有しているように見える。そうなってくれたらよいなと考えていました。》

 

 車内での、家福と高槻の対話シーンのシナリオ。「異界」が出現したような。

32《66 ~サーブ・走行車内(夜)

  無言の車内。高槻が口を開く。

高槻「家福さん」

高槻「僕は空っぽなんです。僕には何もないんです。テキストが問いかけてくる。そのことは、僕が音さんのホンに感じていた気がします。それを求めて、僕はここまで来たんです。だから、音さんが僕たちを引き合わせてくれたっていうのは、やっぱり本当です。やっとわかりました」

  家福は高槻を見る。そして車窓を見る。

  口を開く。

家福「僕と音の間には」

高槻「はい」

家福「娘がいた。四歳の時に肺炎で死んだ。生きていれば二十三歳だ」

  みさきがバックミラー越しに家福をちらと見る。

家福「娘の死で、僕らの幸せな時間は終わった。音は女優を辞めた。僕はテレビの仕事をやめて、舞台に戻った。音は数年間、虚脱状態だった。それが、あるとき突然、物語を書き始めた。いや、語り始めた。音の最初の物語は……、僕とのセックスから生まれた」

  高槻、家福をじっと見つめる。

家福「セックスの直後に、音は突然語り始めた。でも翌朝、彼女の記憶はおぼろげだった。僕は全部覚えていたから、語り直した。彼女はそれを脚本にして、コンクールに送った。それが受賞して、彼女の脚本家としての第一歩となった。セックスをすると時折、『それ』は彼女に訪れた。『それ』を語って、僕に覚えさせた。次の朝、僕が語り直す。彼女はそれをメモしていく。いつしか、それが習慣になった。セックスと、彼女の物語は強くつながっていた。一見関係がないような話でも。オーガズムの端っこから話の糸を掴んで、紡いでいく。それが音の書き方だった。すべてじゃない。でも、彼女のキャリアのピンチに、『それ』はいつもやってきた。その物語は、娘の死を乗り越えるための僕たちの絆になった」

高槻「……」

家福「僕たちは相性のいい夫婦だったと思う。生きて行くのに、お互いを必要としていた。日々の暮らしも、彼女とのセックスも、とても満ち足りたものだった。少なくとも僕にとっては。でも、音には別の男がいた。

  家福は高槻を見る。

  高槻は目を逸らし、みさきをちらと見る。

家福「彼女なら、大丈夫だ」

  目が合う家福とみさき。

家福「音は別の男と寝ていた。それも一人じゃない。おそらくは彼女が脚本を書いていたドラマの俳優たちと。一つの関係はドラマの撮影が終わると終わって、次のものが始まると、また別の関係が始まった」

高槻「……証拠はあるんですか」

家福「目撃したこともある。音は自宅に彼らを連れてくることもあった」

  高槻は家福を見ている。

家福「それでも僕は、彼女の愛情を疑ったことはないんだ。疑いようがなかった。音はすごく自然に僕を愛しながら、僕を裏切っていた。僕たちは確かに、誰よりも深くつながっていた。それでも、彼女の中に僕が覗き込むことができない、どす黒い渦みたいな場所があった」

高槻「家福さんはそのことを、音さんに直接聞いたことはないんですか」

家福「僕が一番恐れていたのは音を失うことだった。僕が気づいていることを知ったら、僕たちは同じ形ではいられなかったろう」

高槻「音さんが聞いてもらいたがっていたという可能性はないですか?」

家福「……君は何か、聞いているのか? 音から」

  家福は高槻を見つめる。車内に沈黙が降りる。

  高槻が口を開く。

高槻「僕が音さんから聞いた話をしてもいいですか?」

家福「ああ」

高槻「とても不思議な物語です。女子高生が、初恋の男の家に空き巣に入るんです」

家福「その話なら……、僕も知っている。前世がヤツメウナギだった少女の話」

高槻「そうです。少女は空き巣を繰り返し、自分の『しるし』をそこに置いていきます」

家福「彼女はある日山賀の家のベッドで自慰行為をしてしまう。誰かが帰ってくる。それが誰だかわからないまま話は終わる」

高槻「いえ。……終わっていません」

  家福は高槻を見つめる。

家福「君は、この先を知ってるのか」

高槻「ええ」

家福「じゃあ、誰なんだ。階段を昇ってきたのは」

高槻「もう一人の空き巣です」

家福「もう一人の」

高槻「はい、それは山賀でも父でも、母でもありませんでした。ただの空き巣です。そして、その空き巣は半分裸の彼女を見つけて、強姦しようとします。彼女はそこにあった山賀のペンを男の左目に突き立てました。彼女は必死に抵抗し、こめかみや首筋に何度も何度も、ペンを突き立てます。気がつけば空き巣はそこに倒れていた。彼女は空き巣を殺したんです」

  家福はふと、自分の頬に触る。

高槻「返り血を浴びた彼女は、シャワーを浴びて家に帰ります。(中略)」

  家福は高槻を見る。高槻は一息つく。

高槻「僕の知っている話はここまでです。話はこれで終わっているのかもしれませんし、続いているのかもしれません。後味のいい話ではないですけど、それでも僕はこの話を伺った時に、何か大事なものを音さんから受け渡されたような気がしました」

  家福は何も言えない。高槻は家福を見る。

高槻「家福さん」

  高槻は息を吸う。

高槻「僕の知る限り、音さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて、家福さんが知っていることの百分の一にも満たないと思います。それでも僕は確信を持ってそう思います。そんな素敵な人と二〇年も一緒に暮らせたことを、家福さんは感謝しなくちゃいけない。僕は、そう思います。でもどれだけ理解し合っているはずの相手でも、どれだけ愛している相手でも、他人の心をそっくり覗き込むなんて無理です。自分が辛くなるだけです。でもそれが自分の心なら、努力次第でしっかりと覗き込むことはできるはずです。結局のところ僕らがやらなくちゃならないことは、自分の心と上手に、正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか? 本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く、まっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」

  家福は高槻を見つめ、答えない。高槻はため息をつく。車内に再び沈黙が降りる。》

 

 次のシーン67で、ホテルで高槻が降り、家福はみさきの助手席に座りなおす。

32《68 サーブ・走行車内(夜)

  家福も、みさきも黙っている。

  車内の沈黙を破って、みさきが口を開く。

みさき「嘘を言っているようには聞こえませんでした」

  家福がみさきを見る。

みさき「それが真実かどうかはわからないけど、高槻さんは自分にとって本当のことを言っていました」

  家福は答えない。

みさき「わかるんです。嘘ばかりつく人の中で育ったから。それを聞き分けないと生きていけなかった」

  家福はタバコを取り出し、みさきに示す。

みさき「いいんですか」

家福「ああ」

  家福はタバコに火を点け、みさきのくわえたタバコにも火を点ける。タバコを吸う二人。

  家福は風を当てるようにサンルーフから手を出す。

  タバコを指に挟んだ家福の掌が風を受ける。

  みさきの手もサンルーフから出てくる。

  風を受けるふたつの掌。車は街を抜けていく。》

 

 音の語りの中で、彼女が山賀のペンを突き立てたのがもう一人の空き巣の左目だったことには注意を払ってしかるべきだろう。家福が自動車事故を起こしたのは、左目の緑内障による視野の狭窄(盲点)だったからであり、その話を聞いて「家福はふと、自分の左頬に触る」のだ、意識下で何か(音を理解できない盲点)が働いて。

 家福が終わっていると思った音の物語を高槻はいつ聞いたのかという問題がある。シナリオのシーン20で、音は家福とセックスしながら、前世がヤツメウナギだったと話し、山賀の家で誰かが帰ってくるのが誰かわからないまま物語は終わってしまう。シーン21の翌日の朝、「昨日の話」「覚えてる?」と音に聞かれた家福は「ごめん、昨日のはよく覚えてない。僕もほとんど眠っていたから」と嘘をついて家を出ようとすると、音は「今晩帰ったら少し話せる?」と家福に言う。シーン22で家福は音との対峙から逃げるように車内で時間をつぶす。シーン23でようやく戻ってきた夜、音が倒れているところを発見する。したがって、高槻が話した物語の続きは、家福が出かけていた昼間(シーン22の裏)、音が高槻に(セックスしながら?)話す(しかし、「今晩帰ってきたら少し話せる?」が、もし音の告白の予兆だとすれば、心理的には腑に落ちない)時間しか存在しえない。あるいは音は、家福に話す前に、続きも含めて物語をすでに高槻に語っていて、家福にはその前半部だけを死の前日に語ったというのか。単なるシナリオの時間的な齟齬かもしれないが、物理的な時間の窮屈さ、不自然さを感じさせない力があるとだけ言っておこう。

 

<喪失と再生/村上春樹

10インタビュー「いま、「弱さ」でしか男を描けない――村上春樹原作でカンヌ脚本賞受賞の濱口竜介監督が語る」より(以下同)。

《僕もその点(筆者註:主人公の男性が「女性に去られる」という設定)は、村上作品の面白さの一つだと思っています。今回の作品でもその設定をいただきつつ、「女性に去られた男性が自分と向き合う」までをきちんと描きたいと思いました。

「女性に去られる」というのは、未だに男性の根源的な恐怖でしょう。男性にとって自分が一番信頼していた他者である女性がいなくなってしまうのは、人生が土台から揺らいでしまうことです。もちろん、女性が男性に去られる場合もありますが、どこかニュアンスが異なる気がします。今回は男性が、そこからどう抜け出して人生を立て直すか。それがこの映画の基本的な運動になります。》

《その本(筆者註:『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(「井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁をこえてつながる」ことがコミットメント(人との関わり合い)の本質))は僕も好きで20代前半の頃読んでいました。特段そのことを意識して来たわけではないのですが、原作『ドライブ・マイ・カー』の中の「どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。(中略)本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」という岡田将生さん演じる俳優の高槻の言葉は、彼自身の深いところから発せられた言葉として家福に受け取られるし、村上さんが書かれたその高槻の言葉自体が、きっとそうなんだろうという説得力を持つものでした。

 なので、そのシーンは映画の中で実現したいと思いましたし、結果的に映画の核となる部分にもなりました。》

 

32《74 道路(夜)

  口を開く家福。

家福「音が死んだ日」

みさき「はい」

家福「出掛けに彼女が、『帰ってきたら話がしたい』と言った。柔らかな口調だったけど、決意を感じた。何の用事もなかったけど、ずっと車を走らせ続けた。帰れなかった。帰ったらきっと、もう同じ僕たちではいられないんだと思った。深夜に帰ると、音が倒れていた。救急車を呼んだけど、意識はそのまま戻らなかった。もしほんの少しでも早く帰っていたら。そう考えない日はない」

みさき「……私、母を殺したんです」

  家福、みさきを見る。みさきの次の言葉を待つ。

みさき「家が地滑りに巻き込まれたとき、私もそこにいました。私だけが崩れた家から、這い出すことができました。這い出したあと、しばらく半壊した家を眺めていました。そうしていたら次の土砂が来て、家は完全に倒壊しました。母は土砂の中から遺体で発見されました。私は母が中に残っていることを知っていました。なぜ助けを呼ばなかったのか。助けに行かなかったのか、わかりません。母を憎んでいたけど、それだけではなかったので」

家福「……」

みさき「この頬の傷はその事故のときについたものです。手術をすればもっと目立たなくできると言われました。でも、消す気になりません」

家福「もしも僕が君の父親だったら」

みさき「え」

家福「君の肩を抱いて言ってやりたい。『君のせいじゃない、君は何も悪くない』って」

みさき「……」

家福「でも、言えない。君は母を殺し、僕は妻を殺した」

みさき「はい」

  サーブが走っていく。》

 

14インタビュー「濱口竜介監督が明かす『ドライブ・マイ・カー』創作の裏側、「村上春樹の長編小説の手法を参考に」」より。

長編映画にするにあたって、村上春樹さんが長編小説でやられているようなことは意識をしました。村上さんのインタビューを読むのはとても興味深くて、大いに参考にした面もあります。複数の世界が同時に走っているような感じというか。一番わかりやすいのは本作の中にも登場した演劇『ワーニャ伯父さん』です。『ドライブ・マイ・カー』の世界と『ワーニャ伯父さん』の世界、そしてもう一つ、家福の妻の音が紡ぐ物語が同時進行しています。それがお互い世界の見え方をちょっとずつ翻訳し合って、多くは語られないキャラクターの内面まで示唆する。最終的にそれが一致していく、そしてなにか希望のようなところまでたどり着くという、村上さんが長編小説でやられるような手法が、結果的にですけれど、すごく参考になったと思います。》

 

18《僕は2016年に1年間ボストンに住んでいました。ハーバード大学ライシャワー日本研究所に、文化庁の支援制度を使って行ったんです。

 そのライシャワー研究所に村上さんも在籍されていたことがあったそうで「ここが村上春樹が走った道か」と思ったりしました。

 勝手ながら、どこにいても異邦人的な感覚があるのは似ているのかもしれないと思います。

 読んでいて、どこにいたとしても埋めることができない違和感みたいなものが、おそらくあるんじゃないかと。

 村上さんの文章は、その違和感を原動力にして、他者とのつながりをすごく求めるように書かれている印象です。

 村上さんの小説はファンタジー的な要素がふんだんにあるのに、リアリズムという印象を受けるのが不思議。

 「マジックリアリズム」的と評する人もいるようですけれど、ありえないことが繰り返されるのに、「あ、あるのかも」と納得してしまう。

 それは僕自身も目指すところではあります。》

 

 村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』が収録された、4短編小説集『女のいない男たち』から、映画にアダプテーションされ、台詞となった重要なセンテンスをピック・アップする。

 

『ドライブ・マイ・カー』:

《「そのとおり」と家福は言った。「いやでも元に戻る。でも戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている。それがルールなんだ。完全に前と同じということはあり得ない」》

《かなり長いあいだ高槻は黙っていた。それから言った。

「僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて、家福さんが彼女について知っていることの百分の一にも及ばないと思いますが、それでも僕は確信をもってそう思います。そんな素敵な人と二十年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくちゃいけない。僕は心からそう考えます。でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に(・・・)他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐに見つめるしかないんです。僕はそう思います」

 高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技ではないことは明らかだった。それほどの演技ができる男ではない。》

 

『独立器官』:(言及されないが)

《「そして僕は思うのですが、僕らが死んだ人に対してできることといえば、少しでも長くその人のことを記憶しておくくらいです」》

 

『木野』:

《「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。》

 

<『ワーニャ伯父さん』>

14《(筆者註:『ワーニャ伯父さん』が置かれた理由は)原作に書かれていたからです。そして明らかにワーニャは家福と、ソーニャはみさきと対応付けられています。読んでいるうちに、それを意義深く思うようになりました。村上さんも、意識的にかはわからないけれど、その対応関係があってこの原作にこの戯曲のことを書き込んでいるように感じました。そもそも自分が『ドライブ・マイ・カー』をやりたいと思った理由は、『演じること』を取り扱っているからでした。演じるということはなんなのか、未だによくわからないんです。台詞やト書きは脚本家なり劇作家が書いたものです。つまりは役者は基本的に『言われたことをやっている』というのが演技の実態です。役者自身にはそれをやったり言ったりする内発的な理由がない。それが、本当に稀に、信じるに値する演技を目にすることがあります。ある人が、まったく違う人格として振る舞い、言葉を発するのを見て、それを信じざるを得ないような心境になる。このメカニズムって一体なんだろう、それはまだ全然わかっていない。そのメカニズムについて考えたいんだけど、それを商業映画の枠組みでやるのは難しいことです。ただ、原作自体がそれを扱っているので、おもしろい物語を作ることを試しつつ、演技のメカニズムについて考えられる。それがこの物語を選んだ最も大きな理由の一つです。》

 

15「カンヌで4冠受賞!『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介 × 三宅唱 × 三浦哲哉 鼎談」より。

《『ワーニャ伯父さん』の上演されるのも観ていたし、戯曲も読んでもいたんですが、ものすごく印象に残っている劇でもなかったんです。でも『ドライブ・マイ・カー』を読んで、家福がワーニャを演じるという前提で『ワーニャ伯父さん』を読んでみると、想像がどんどん膨らんでいって。家福がこれを演じるのはつらいだろう……という視点で読んだときに改めて、チェーホフのテキストの強度や普遍性に打たれる体験をしました。誰が思ってもおかしくないようなことがセリフになっている。みんなの根っこにそのまま届くような「すべての人の言葉」とでもいうものが、ここには書かれている、と気づきました。この映画が約3時間になった理由として、チェーホフのテキストにものすごく引っ張られたっていうのがあると思います。》

 

18《原作で主人公・家福は俳優である、そして(三浦透子演じる)みさきは運転手である、と示されているんですけど、運転手は車を運転するのでいいとして、では俳優は具体的に何をするのか。

 原作の中で、家福が「ワーニャ伯父さん」を演じると書いてあって、ここに注目しました。

 僕の前作映画『寝ても覚めても』ではチェーホフの「三人姉妹」をちょっとだけ引用しているんですけど、その頃からチェーホフには興味を持っていました。

「ワーニャ伯父さん」は観劇もしたし、原作を読んだことも多分あったんですけど、あらためて家福が演じるという仮定で読み始めたら「これは面白い」と。

 多くを語らない、家福という人の内面を示すものになると思いました。

 映画の中で、村上さんの文章をそのまま使う部分はほぼないんですけど、チェーホフの戯曲はむしろそのまま引用しました。

 「チェーホフ」のテキストの強度や場面が、この映画を違う次元に押し上げてくれました。

 最初「ワーニャ伯父さん」はディテールでしかなかったけれど、やがて本筋となって、最後のシーンにつながっていきました。

 起承転結での「結」の部分を、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が担うことになったんです。》

 

30《──劇中劇の演目であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』のテキストは、多くのシーンに使われています。これはどう振り分けたのでしょうか。テキストが「強い」ぶんだけどこにでも使える、あるいは慎重な作業が求められたのではないかと想像しました。

濱口:結局、普遍的な部分を選ぶ、ということだと思います。端的に言えば「これ、俺じゃないか、私じゃないか」と思ってしまうような場面が核になります。照明助手で来ていただいた方が、スタッフ間で話していたときに「いや、もう、(自分たち)皆ワーニャでしょ」と言ったらしくて、それはすごく納得できる気がしました。ワーニャって本当に情けない、悔やんでばかりの人間で、思っていたとしても口に出すのが憚られるようなことばかり言うし、彼自身も後でそのことを恥じたりもする。それはエレーナやソーニャもそうですが、誰もが腹の底で感じているけど口には出せていないような感覚が、あの戯曲ではあられもなく言語化されています。読んでいてそういう箇所にたどり着くたびにメモしたりすると、自然と当時のロシアの風俗に関わる部分は捨象されて、今の日本で誰かが思っていたとしてもおかしくない言葉が残る、という感じだったと思います。

 あとはメインの物語で流れている感情との関わりですかね。たとえば嫉妬であったり、苦悩であったり、その言葉が口にされることで、自身のことを語ることの少ない登場人物たちがより立体的に見えるようなものを選びました。

 最後まで悩んだのは、車のなかで響く音の声です。ここはいかようにも編集の可能性があったので、霧島さんにもすこし多め・長めに録音してもらったものを、先に言ったような立体性を目指しつつ、『ワーニャ伯父さん』の内容も少しわかるよう、補完的に配置していった、という感じです。》

 

『ワーニャ伯父さん』の台詞は、車の中で響く音の声、葬式直後の舞台、2年後の広島でのオーディション、本読み、立ち稽古、舞台稽古、本舞台で口に出される。車内と舞台の、ある場面で特定の台詞が口にされて意味を持ち、しかも反復されることで意味が深まり、映画のライトモティーフを表象する。いかに巧みに引用されているか、シナリオを追ってゆこう。

なお、原作(クレジットにあげられた4チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社古典新訳文庫))とシナリオの台詞の差は少ないが、あえて言えば簡略化の方向にある。

 

32(以下、同)《6 家福のマンション・居間(早朝)

(前略)

音 「これ」

 音がカセットテープを手に持って、家福に差し出す。

音 「『ワーニャ伯父さん』」

家福「ああ」

音 「吹き込んどいたやつ。もう要るでしょ?」

家福「ありがとう」

  二人はまたキスをする。(後略)》

シーン6ではじめて『ワーニャ伯父さん』という名前が出てくる。この時点では二人の間には仲睦まじさしか感じられない。

 

7 走行車内(午前)

  信号で止まるサーブ。家福はポケットからカセットテープを取り出す。テープを車のデッキに入れる。

  再生すると、音の声が流れてくる。

音の声「どうぞ、おひとつ。……何だか飲む気がしないな。……じゃあ、ウォッカに?

  複数の声色を微妙に使い分けて、複数人を表現しているが、過剰ではない。

  •     *     * 

  車は高速に乗っている。家福は運転しながら、無感情に自分の台詞を暗唱する。

家福「誰にも僕の気持ちはわからない。夜も眠れない。悔しさと、怒りで。むざむざ時間を無駄にした。その気になれば、僕だって、何でも手に入ったのに、この年になったら、もう無理だ

音の声「おじさん、つまんないわ。そんな話

  •     *     *

  サーブは、成田空港に近づいていく。

音の声「お前、なんだか以前の自分の信念を責めているようだね。でも悪いのは信念じゃありません。悪いのはお前自身です」》

「どうぞ、おひとつ」は『ワーニャ伯父さん』の第一幕冒頭のマリーナ(年老いた乳母)とアーストロフ(医者)の台詞であるから、これから『ワーニャ伯父さん』が始まると意識される。

次いで、家福の声と音の声が、ワーニャとソーニャに対応し、台詞の言葉は『ワーニャ伯父さん』のテーマの基調を暗示させて、観るもの、聴くものに届いて来る。これが映画の基調でもあると、すぐ後に続くシ-ン11の音の不貞シーンで感じられる、というようにサスペンスめいた展開で観客を後押しする。

 

シーン21で、音が「今晩帰ったら少し話せる?」と聞くと家福は「もちろん。何でわざわざそんなこと聞くの」と答える。

22 東京の街・走行車内(昼)

  車を走らせる家福。

  台詞を呟きながら、運転をしている。

音の声「あの人は、それで身持ちはいいのかい?

家福「そう、残念ながら

音の声「どうして、残念ながらなんだ?

家福「それは、あの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ。そこにはレトリックがふんだんにある。が、ロジックはない

  ゆっくりと、時間を稼ぐように走らせる家福。

  •     *     *

  夜になっても、家福はまだ運転をしている。

  赤信号で止まる車。

家福「……人生は失われた、もう取り返しがつかない。そんな思いが昼も夜も、悪霊みたいに取り憑いて離れない。過去は何もなく過ぎ去った。どうでもいい。しかし現在は、もっとひどい。ぼくの人生と、愛は、どうしたらいい? どうなってしまったんだ……

  クラクションが鳴らされる。

  信号は青に変わっている。車を発進させる家福。

音の声「あなたが愛だとか、恋の話をされると、私、頭がぼーっとして何をお話すれば良いのかわからなくなるの

  •     *     *

  家福のマンション駐車場。

  サーブは自動ドア前で待つ。ブザーが鳴り響く。

音の声「あー……くわばらくわばら

家福「ソーニャ、なんてつらいんだろう。この僕のつらさがお前に分かれば

音の声「仕方ないの。生きていくほかないの。ワーニャ伯父さん、生きていきましょう

  家福はポケットから目薬を取り出し、左目に差す。

  パーキングのドアが開き、サーブは中に入っていく。

音の声「長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。運命が与える試練にもじっと耐えて、安らぎがなくても、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そして最期の時がきたら大人しく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、つらかったって

  車外でブザー音が鳴り響き続ける。》

  

「身持ちはいいのかい?」「あの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ」の言葉が家福の心の中で音に向かっている。

「長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」は劇の最後の台詞であり、かつ映画の終盤、今度は本舞台で演じられる台詞でもあって、ここで一度聴かせておくことで、効果を上げるだろう。そして、劇の最後までテープを回していたことから、長い時間、家福が車を乗り回して家に帰ろうとしなかったかがそれとなくわかる。次の23のシーンで、家の中に入った家福が倒れている音を発見することで、よりドラマチックに残響してくる。

 

25 劇場(昼)

  『ワーニャ伯父さん』第一幕。ワーニャを演じる家福。アーストロフを演じるドイツ人俳優。テレーギンを演じるマレーシア人俳優が舞台上にいる。

(中略)

家福「ああ、そうとも、大いにやっかんでいるさ!

  家福、大きく息を吸い込む。台詞が出てこない。

家福「……やつの最初の細君、つまりぼくの妹だけれど、それはすばらしい、やさしい女性だった。……その妹は、やつのことを心底愛していたよ。汚れを知らない崇高な人間が天使を愛する愛し方だった。……で、やつの後妻というのが、君たちも今しがた見かけたとおり、美人で聡明な女性だ。……どうしてなんだ?

  家福は、アーストロフ役を見る。アーストロフ役は戸惑う。

アーストロフ役「(ドイツ語)あの人は、身持ちはいいのか?

家福「そう、残念ながら

アーストロフ役「(ドイツ語)どうして、『残念ながら』なんだ

家福「それはあの女の貞淑さが徹頭徹尾まやかしだからさ……

  家福は大きく息をつき、舞台袖にはけてしまう。

テレーギン役「(マレー語)ワーニャ、そんなことを言わないでおくれ、頼むよ……

  相手のいないテレーギン役は二の句が継げず、アーストロフ役と目を見合わせる。

アーストロフ役(ドイツ語)黙れ、このあばた面

テレーギン役「(マレー語)いや言わせてもらう。私は妻に逃げられた。別の男と結婚式の翌日に。私が、平凡だから

  舞台袖で、頭を抱える家福。》

 舞台でワーニャを演じることの苦しみが示される。バーでの高槻との会話で、家福は「チェーホフは、恐ろしい」「彼のテキストを口にすると、自分自身が引きずり出される」「そのことにもう、耐えられなくなってしまった。そうなると僕はもう、この役に自分を差し出すことができない」と語り、のちに逮捕された高槻の代役として家福自身が演じたらと提案されるや、「無理です」と答えることとなる。

テレーギンもまた「女のいない男たち」の一人である。

 

27 アヴァン・タイトル

  夜。部屋の電灯に照らされた音の唇が呟く。

音 「私は思うの。真実というのは、それがどんなものでも、それほど恐ろしくはないの。いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること……

  回るカセットテープ。テープの回転とサーブ900の車輪の回転がディゾルブする。車を走らせる家福。》

 ここだけ、音の声だけではなくて、暗闇の中で電灯に照らされ、幻影か回想のように音がテープに台詞を吹き込むシーンが映像化されることから、この音の言葉「いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること」の重要性が強調されている。

 

39 劇場・オーディション会場(稽古場)(午前)

  立ち上がり、見つめ合う高槻とジャニス。高槻がジャニスを指差す。

高槻「(以下、高槻は日本語)ははーん、あなたはずるい人だ

ジャニス「(以下、ジャニスは北京語)どういう意味?

高槻「ずるい人だ。百歩ゆずって、ソーニャさんが苦しまれているとして、まあ、その仮定はよしとしましょう。でも

ジャニス「何をおっしゃっているの

  高槻はジャニスの方ににじり寄る。ジャニスは後退する。

高槻「あなたはよくご存知だ、どうして私が毎日こちらに伺うのか。どうして、誰に会いたくってここにやって来るのか。あなたは魔物だ。かわいい顔した魔物だ

ジャニス「(高槻の台詞とかぶる)ケモノですって?

高槻「きれいな毛並みの、妖艶な魔物だ……。あなたのような魔物には生け贄が必要なんだ

  高槻はジャニスの顔を掴む。

ジャニス「気でも違ったの?

  ジャニスはそれを振り払う。笑う高槻。高槻はジャニスの両腕を掴む。会場の鏡に押し付ける。

高槻「ずいぶん遠慮深いんだなあ

ジャニス「私は誓って、あなたが考えてらっしゃるような人間じゃない。そんな低俗な女じゃないの。絶対に

  逃げようとするジャニス。抑え込む高槻。

高槻「誓うことなんかありません。余計な言葉はいらない。美しい人だ! このきれいな手!

  高槻はジャニスの手にキスをする。ジャニスは手を引き離す。

ジャニス「もうたくさん

高槻「(ジャニスの腰を抱き寄せ)いいですか。これは避けがたい運命です

  ジャニスにキスをする高槻。すっかり見入る家福。

  ジャニスはキスを受け入れかけて、拒む。

ジャニス「お願いです。やめてください。放してください

  高槻はジャニスを離さない。またキスをする二人。

高槻「明日、森までいらっしゃい。二時に。いいですね? いいですね? いらっしゃいますね?

ジャニス「行かせて

  高槻がもう一度キスをする。ジャニスは拒みながらも受け入れていく。家福は立ち上がる。

  パイプ椅子が倒れる。高槻とジャニスが家福を見る。

家福「そこまで。失礼。ありがとう。Thanks

  二人は会釈し、会場を出る。家福はため息をつく。》

 もちろん家福は、高槻の行為に音の記憶を呼び覚まされて動揺している。

 

44 劇場・地下駐車場(夜)

音の声「お別れに際して、老人から謹んでご忠告申し上げる。みなさん、大切なのは仕事をすることです。仕事をしなくてはなりません」》

 

50 劇場・稽古場(昼)

リュウ女が男の親友になるのには、順序がある。まずはお友だちから、次に愛人、そしてようやく親友ってわけだ

高槻「凡庸な哲学だ

家福「高槻、一度、自分のテキストに集中してみろ。ただ読むだけでいいんだ」》

 

61 トンネル

家福「どうにかしてくれ。ああ、やりきれん。僕はもう47だ。仮に60まで生きるとすると、まだ13年ある。長いなあ。その13年を、僕はどう生きればいいんだ

  トンネルを抜けるサーブ。トンネルを抜けると海が広がる。窓外の青空と海を見る家福。》

 

62 平和記念公園(昼)

  移動する俳優たち。稽古場所を探している。(中略)

  陽光のもと、野外で稽古をしている家福と俳優たち。少し離れたところでみさきも見ている。

  エレーナ(ジャニス)とソーニャ(ユナ)の場面。

ジャニス「(以下、北京語)涙ぐんだりして、どうしたの?

ユナ「(以下、手話)別に。なんでも。なんだか勝手に(涙を指す)出てきたの

(中略)

ジャニス「(ユナの頬にキスする)私、心底願っているの、あなたには幸せになってもらいたいって……。(立ち上がる)私は平凡な、添え物みたいな存在なの。音楽をやっても、夫の家でも、恋をしていても。どこにいても私は、添え物でしかない。正直に言うわね、ソーニャ

ジャニス「よくよく考えたら私、とっても不幸なの。この世には、私の幸せなんてない。……何を笑ってるの?

ユナ「あたし、幸せ。とってもとっても幸せ

  感情が高ぶってきて辺りを歩き回るジャニス。

ジャニス「……なんだかピアノでも弾きたくなってきた

  ユナは強く、ジャニスを後ろから抱きしめる。

ユナ「弾いて。聞かせて

家福「OK」

  緊張を緩めるユナとジャニス。じっと見ていた周囲の面々も姿勢を崩す。

家福「今、何かが起きていた。でも、まだそれは俳優の間で起きているだけだ。次の段階がある。観客にそれを開いていく。一切損なうことなく、それを劇場で起こす」》

 演劇法についての成果が見えた瞬間。エレーナ(ジャニス)に音の影がある。

 

78 劇場

  満員の観客、『ワーニャ伯父さん』の公演が行われる。ワーニャを演じているのは家福だ。

(中略)

ジャニス「(以下北京語)こんなの地獄よ! 私、今すぐ出て行く!

家福「ぼくだって才能もあれば、頭もある。度胸だってあるんだ。まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエ  ルにだって、ドストエフスキーにだってなれたんだ。戯言はもうたくさんだ! ああ、気が狂いそうだ。母さん、ぼくはもうダメです。ダメだ!

駒形「教授の言うとおりになさい!

  ユナは衛藤にすがりつく。

家福「母さん! ぼくはどうすりゃいいんです? いや、いい、言わなくっていい。どうすりゃいいか、いちばんぼくが分かってる。(ロイに向かって)いいか、今に思い知らせてやる!

駒形「ジャン!

  家福は勢いよく退場する。舞台袖で荒い呼吸を整える。ユンスや木村が心配そうにそれを見る。

  拳銃を手に取り、再び舞台へ出ていく家福。》

 

80 劇場

  ワーニャを演じる家福。

  ソーニャを演じるユナと向かい合う。

家福「ソーニャ、なんてつらいんだろう! このぼくのつらさがお前に分かれば!

  手話で語りかけるユナ。字幕が舞台上に示される。

ユナ「仕方がないの。生きていくほかないの

  ユナが家福の顔に両手を当て、自分の方を向かせる。

ユナ「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。運命が与える試練にもじっと耐えて、安らぎがなくても、今も、年を取ってからもほかの人のために働きましょう。そして最期の時がきたら大人しく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、つらかったって

  家福は、ユナを見て涙を流す。

ユナ「そうしたら神様はあたしたちのことを憐れんでくれるわ。そして、伯父さんとあたしは明るくて、すばらしい、夢のような生活を目にするの。あたしたちは嬉しくて、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返る。そうしてようやくあたしたち、ほっとひと息つくの! あたしたちそう信じてる、強く、心の底から信じているの…………。その時が来たらあたしたち、ゆっくり休みましょうね……

  ユナが家福を抱きしめる。

  二人は顔を観客席の側に向ける。

  二人越しの客席を、カメラは捉える。

  徐々に暗転し、客席から拍手が聞こえる。》

 

<演じること/本読み/多言語演劇>

15《「本読み」をして、大まかなことを決めたら、基本的に本番での演技は、俳優にお任せしています。なのであの場面に限らず、演技のニュアンスは基本的に、俳優自身から出てきたものなんですよ。もちろん動きや方向は、指示をしますけど感情的な面は、俳優から「たまたま」出てくるものだと考えています。結果的に「俳優からたまたま出てきたものをたまたまうまく捉えられたな」というテイクのみをつなげていきます。そういう偶然を映画のなかでどう位置づけていくか、を考えて編集していきました。》

15《役者みんな素晴らしい演技をみせてくれた、と思っているんですが、一番基盤となったのは、やっぱり西島さんがちゃんと相手役を見聞きしてくれたことだと思ってます。基本的に『ドライブ・マイ・カー』は「家福が誰かを見ている映画」なんです。俳優一人一人見せ場があって、各々その場でちゃんと爆発してくれているんだけど、その支えは「家福、と言うか西島さん本人がちゃんと見て聞いてくれていた」ってところにある。撮っていて、それはすごく幸運なキャスティングだと思いました。一方で、その西島さんが心情吐露するクライマックスでは、三浦さんがその役割を担ってくれた気がしています。》

 

19「映画『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」より。

《――劇を作っていく過程で、俳優たちの演技のグラデーションが描かれていきますよね。高槻(岡田将生)の演技が最初は上手くいっていないのがだんだん良くなってきたり、女性二人の演技でたしかに何かが起きた、という感動的な瞬間が描かれたり。俳優さんたちはこうした演じ分けをどのように行っていたんでしょうか。

濱口:演じ分けというものはないです。もちろん、そこに脚本を読んできた役者さん自身の解釈は入ると思いますが、それも「本読み」でふるい落とした上で撮影に入るので、本当に単純に、どのシーンも「一生懸命やってもらう」ということです。重要なのはカメラの置き方、映し方。演技のどこに焦点を当てるかによって見え方は全然違ってくるので、あとはこちらの撮り方によって物語に当てはめさせてもらうわけです。たとえば、カメラに背中を向けていたら、どれだけいい演技でもそういう風に見せることは難しい。それは舞台の観客にとってもそうでしょう。その感覚を利用したりしたと思います。

――すると演技自体が変わるのではなく、撮り方の違いで変化を見せるということですか。

濱口:そこはすごく複合的です。どれだけ準備したかで演技はまったく変わってきますから。たとえば公園でのジャニス(ソニア・ユアン)とユナ(パク・ユリム)のシーンはみんなでしっかり準備してやったからこそあれほど素晴らしい演技になったわけです。一方で、高槻とジャニスの演技が上手くいかない場面では、ある程度ぶっつけ本番でやる必要がありました。幸か不幸か、演技って普通にやったら上手くいかないもの。ただ、実際やったら「あれ、意外といいじゃないか」と現場ではなってしまった。少なくともわかりやすく「ひどい」演技にはならなかった。ただ、たとえこちらが思ったような演技にならなくても、「いや、もっと下手にやってくれ」とは絶対に言わないですね。役者を演じて、かつわざわざ下手に演じることは、役者さんには非常につらい体験になりますから。だから撮れたものを受け入れた、ということのほうが実際かも知れません。結果的に、その場面がそこまで良くないように見えるとしたら、後半の場面における演技の伸びが素晴らしかったからだと思います。カメラと演技の関係も後半になるほど、研ぎ澄まされていく印象がありました。》

 

21《三宅唱:楽屋で岡田将生さん演じる高槻という人物と出会うわけですが、なんで楽屋に設定されたんでしょう?

濱口:基本的に構造としてあそこしかないって考えていたんです。なぜかといえば、高槻と家福(悠介)の接点は家福の妻である音にしかないから。ああいう形で家福の仕事場に音が連れてくるっていう状況でしか基本的には会いようがないと考えていまして。とは言いつつ、基本的には楽屋というかメイクルームというのかな、たぶんそこが好きなんです。舞台を取り扱った映画は多々あって、名シーンというほどのものはパッとはあまり思いつかないけど……。

三浦哲哉:『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)(筆者註:カサヴェテス作品)とかね。

濱口:そうですね、『オープニング・ナイト』(1977)(筆者註:カサヴェテス作品)もそうだし、鏡見て付け髭をつけてるような奴らというのを、我々はいろんな映画で何度も見たような気がするじゃないですか。そんな空間が撮りたくてこの題材を選んでいるところもあるし、こういう空間がないと俳優には仕事もプライベートもないだろうと思うんですよね。あの空間で着替えたりメイクをしたり落としたりしないと、プライベートに戻れない。俳優の仕事はわかりやすくそうですけど、単純に仕事ってそうじゃないですか。ある種の準備段階や儀式がないと向かえない。単純にそういうものを撮りたかったんだと思う。後半でも同じような空間は撮りたかったけど、一番最後にちょろっと出てくるぐらい。鏡がある空間だということも含めて、メイクルームは演劇を扱っているこの映画と密接に結びついている場所なんじゃないかと考えていました。

三浦:二人の応答で気づかされたんだけど、後半で高槻が警察に捕まるときに「着替えていいですか」って言うじゃないですか。それもこことつながってますよね。》

 

43《──映画中、家福が演出しているのは「ワーニャ伯父さん」の多言語演劇です。この多言語演劇という要素を取り入れようと思ったのは、今日なトピックスでもあるダイバーシティを意識したのでしょうか?

濱口:そういう風に観てもらえもするものとは思いましたが、「多様性」ということを特に考えてはいません。多言語演劇については、もともと「演技」の視点で発想したものです。

多言語演劇においては、まず相手の言葉がわからない。ただ、本読みをやっていると、段々とこの音の後に自分はこういうことをするんだという理解ができてきます。相手の言うことを、言語によってではなく音で理解していき、また、相手がどういうニュアンスで話しているのかは、相手をよく見ていないと把握できないので、「相手を見る、聞く」ということにフォーカスができるようになる。相手の声や体といった、言葉の意味以外の要素にフォーカスすることで、おそらくより良い演技が生まれやすいと思いました。良い演技をするために一番シンプルな方法を考えたときに、思いついた方法です。》

 

<カメラ>

19《原理原則は、古典映画に倣って、カメラを一番ものごとがよく見えるところに置くことです。一番よく見えるところにカメラを置き、かつ一番よく見えるところに置き続ける。それさえちゃんとできれば、あとはもう実際にカメラの前で起こっていることを調整していけばいい。映画の現場では、基本的にそれをひたすら繰り返しているんだと思います。自分もできるだけ、カメラに近いところから見る。一番ものごとがよく見えるところである以上、悪い面も隠しようなく映ります。だから、よく見えるところから被写体が十分に魅力的に見えるところまで持っていかなくてはならない。それができたら、それを積み重ねていく。

 ただそうはいっても、じゃあ向かい合っている二人の視線をどう撮るのか、という問題は残る。特に二人が二人とも魅力的な場合、それを撮るベストなポジションとはどこなのか。どちらを見るべきなのか、編集段階まで決められないとも感じます。そういうときは申し訳ないけど、演じ直してもらい、それぞれにカメラを向けて何度も撮ることになります。

二人の役者が演技するなかで、ある相互反応みたいなものが起きたとします。その相互反応は外側から捉えればある程度は映る。ただ映画というのは、その捉えたものを常に再構成しないといけない。そのために、切り返し場面を撮ったり引きで撮ってみたりと色々な素材を用意するわけですが、じゃあいわゆる「編集素材」が十分にあればいいかというとこれがまたそうでもない。やはり一個一個の断片のなかで相互作用による「何か」が確かに記録されていなければ、編集時にどれほどがんばろうとその相互作用としての「何か」は再び立ち現れてはこない。切り取り方や編集で映画はどうとでも作れる、ということはありえない。やはりまずは現場で「何か」を起こさないといけない。それは映画を作る上で常に感じていることです。

――この映画でまさにすごい「何か」が起こっているシーンは、高槻と家福が、車の中でお互い正面を向いて喋るシーンだと思います。あそこは、それぞれ車の中に置いたカメラに向かって喋っているわけですよね。

濱口:はい、ただ一応相手役にはカメラの脇にいてもらいました。岡田くんが話しているときは、西島さんにはカメラの横のトランクみたいなところにすごく無理な体勢でいていただき、岡田くんにもその逆をやってもらいました。ただ、それ以上に大事だったのは、一度お互いに見合いながら通しで演じてもらうことです。一度は通してみないと真正面に入っても演じるのが難しくなるし、通しのテイクでOKが出ない限り真正面に置くことはありません。

――普段も、切り返しの場面を撮る際には必ず通しでまず撮るんですか。

濱口:最近の作品ではほぼそうですね。まずテスト代わりに引きで撮り、次に切り返しで、という進め方が多いです。引きで撮った場面が思いがけず一番よく撮れていた、ということもあるので、よほど危険なシーンでない限りは兎に角テストはそこそこに、いきなり本番から始めることが多いです。現場でNGを出すことも滅多にない。実際通しの演技のどこかには必ずよいところがあります。舞台公演みたいな感じです。もちろんどの公演も良し悪しはあるでしょうけど、お客さんにとっては一回きりの演技なのだからすべての公演はOKでないといけない。あらゆるテイクで、とにかく一回一回一生懸命演じてもらい、ひたすら繰り返すうち気づいたらカメラの位置が変わっている、というのが役者さんの感じ方ではないかと思います。ただ通しの演技は役者さんにとって演じやすい部分もある半面、繰り返しがあまりに多いと本当に疲れるはずなので、どこでバランスを取るかは未だに難しい問題ですね。》

 

30《──みさきが運転する車内で家福の座る位置が変化していきます。それに伴い、ふたりが似た葛藤を持つこともだんだん明らかになる。ポジションと移動のタイミングは、脚本の段階で練られていましたか?

濱口:ある程度は脚本段階で考えました。でも、それが正しいと確信するのは現場においてですかね。微妙に位置調整をすることはありましたが、基本的には最初に考えたとおりです。初めに家福が座るのは助手席の後ろで、みさきの運転の手さばきが見えるポジションです。バックミラー越しに表情も見えるけれど、監視するようなポジションでもある。次は運転席の後ろ、相手が見えない席に移ります。これは信頼の証のひとつだし、まだお互いをよく知らないふたりが居心地よくいられるためのポジションでもあります。彼らが深い話を始めるとしたら「ここしかない」と思いました。そこでのふたりは、まだお互いに見つめ合う関係性ではないし、相手を十分に認識していない。でも共に「知りたい」と思って話し始めるなら、このポジションだろう、と。それを経て助手席に移ります。タイミングとしては、家福はとっさにそこに座ってしまう。高槻(岡田将生)と距離を置きたい衝動に準じて助手席に乗り込みますが、それによってみさきとの関係が一歩進む。そこからポジションの移動はありません。だからどちらかといえば、関係からポジションが生まれるというよりも、その逆ですね。座った席から関係が生まれていきます。

先日、伊藤亜紗さん、北村匡平さんと鼎談した折に、伊藤さんがすごく腑に落ちることを言ってくださいました。「濱口さんの映画は人間関係から捉えられがちだけど違う気がする。存在があって、それが互いに影響を与え合っているのではないか」と。そして、おそらく物理的な近さはやはり、その影響力を左右するのだとも思います。車内のポジションも、距離が近くなることで存在同士の影響が強まります。また存在が与え合う影響は、言葉や実際に何かを受け渡すことでも生まれます。その影響があっちへ行ったりこっちへ行ったり、また自分のもとへ戻り帰ってくる。それは脚本を書くうえで、構築するというより「物語を見つけ出す」作業なんです。その、存在同士の影響関係を発見できれば、物語がしっかり進行すると考えています。逆に言うと、それを発見するまでは十分に進まない、というところもあります。》

 

<ロード・ムーヴィー/空間と時間>

40「濱口竜介の理知的な語り、独自の映画論に唸る。『ドライブ・マイ・カー』における“間”の解釈とは?」より。

村上春樹の原作小説と映画の「間(あいだ)」について「映画とはそもそもフィクションと現実の間にあるもの」とする。

濱口:カメラを使って映画を作る最小の単位に“ショット”があり、空間と時間を区切るものです。まず、フレーム(画角)によって空間を区切らなくてはいけない。そしてカメラの回し始めと終わりにより、時間を区切らなくてはいけない。どこからどこまでを区切るかが監督の仕事だと言ってもよいと思います。

 この作業において、現実とフィクションの間(はざま)がすでに発生します。というのは、カメラというのは人間の知覚能力より遥かに優れた光学的記録能力を持っているので、現実そのままの知覚的記録がなされます。一方で、これは現実のすべてを記録したものではなく、空間的・時間的断片としてしか捉えることができません。これは現実の映像ではなく、フレームの外側やカメラを回し始める前になにが起きているかわからないので、そこには常にフィクションの可能性があります。ショットを撮るという映画の最小単位の中に、すでにフィクションと現実が存在しています。この断片と断片を組み合わせ、現実とはまったく違うもう一つの現実みたいなものを作り上げていくのが劇映画、フィクションになります。》

40《劇中、家福(西島秀俊)とみさき(三浦透子)を乗せた赤い車は、映画の前半では安芸灘大橋を渡り、後半ではいくつかのトンネルを抜けていく。その「間」についての考察に対し、濱口監督はこう答えた。

濱口:橋は、レイヤーを一望できる場所です。一つのレイヤーがあり、もう一つのレイヤーに向かい、その先にはまたレイヤーがある。トンネルは、それが目隠しをされている状態で、どこを走っているのかわからないぶん、抽象度が高い空間になります。後半に行くにつれてトンネルの描写が増えていくのは、この映画の抽象度が上がっていくことと比例しています。空間も時間も凝縮されたものになり、昼のショットからトンネルを抜けると夜になり、晴れている空間からトンネルを抜けると雨が降っているなど、トンネルを抜けるとすでに変わってしまっているところを編集で選びました。トンネルを潜り抜けることで、キャラクターも変わっていき、それが観客にも届く変化になると思っています。》

 

43《──車の中の会話ということでいえば、イランのアッバス・キアロスタミの『そして人生はつづく』などいくつか名作が思い浮かびますが、参考にした作品などはありますか?

濱口:キアロスタミのことは、考えました。というか、キアロスタミ映画のような場面が撮れるんじゃないか、というのがこの原作を映画化のために提案した大きなモチベーションのひとつでもありました。

 撮影方法で言えば、車でのシーンの撮り方って“あるようでないような”ものなんですね。ある程度よく見えなくてもいいと考えれば、いくらでもある。ただ、よく見えるポジションは限られている。こういう画面でないと気持ちが悪いという尺度が自分の中にあるので、そう考えていたら自然とキアロスタミのカメラポジションは参考になりました。

──具体的には、どのようなカメラワークだったのですか?

濱口:できるだけツーショットを撮らない。車の中というのは独特の空間で、特にこういう4、5人乗り程度の車であれば、誰か一人を撮っても観客はみんな席の配置が理解できるという稀有な空間なんです。普通の部屋だったら、部屋全体を撮って、各人の切り返しに入らないと観客はその位置関係がわからないのですが、車の中の場合は、引きの画を撮らずとも位置関係がわかる。引きの画は、観客に安定感を与えるのですが、圧倒的な安定感は観客の想像力の働きを鈍くするものでもあります。車というのは誰もが基本的な空間の構造を理解しているからこそ不安定な空間にすることができ、引きの画を撮らずに、そこできっとこう座っているんだろうなという想像だけで進んでいくことができます。このことで観客を巻き込んでいきたかったんです。

──西島さんは最初、後部座席に座りますね。

濱口:車の中で座れる場所はすべて使わないと、画面があまりに単調になってしまいます。助手席に座るというのはある程度特別な関係だとすると、家福が助手席に座るのは後半まで延ばしたい。》

 

<ベッドシーン/浮気シーン>

20「カンヌ4冠『ドライブ・マイ・カー』の誠実さ 濱口竜介に訊く」より。

《――映画『ドライブ・マイ・カー』は、霧島れいかが演じる音(おと)と西島秀俊の演じる家福(かふく)が裸でベッドにいるシーンから幕を開けます。劇中のベッドシーンはどれも、過剰に身体を映さず、女性が受け身にばかりなっていない点が印象的でした。撮影にあたり、監督が留意された点はありますか?

濱口:役者が少しでも嫌がっていれば、身体に現れるのがどれだけ些細な兆候であってもカメラはそれを捉えます。そして、それを映画から見て取る注意深い観客も必ず出てきます。ですからまずは役者と脚本の相性をキャスティングの段階で考慮しました。霧島さんがこの役を受けてくれたのはとても幸運だったと思います。

 カメラの前で肌を見せて、映像として記録に残るということには、基本的にとても高いリスクがあります。ですから脚本には「この程度の演技や表現が必要になる役です」ということを最初から明記して、その条件を前提に役を受けてもらいました。

 ベッドシーンをきちんと撮るのはぼくにとっても初めての経験だったので、普段は描かない絵コンテを描いたり、過去の映画のワンシーンを見せたりして、「このように撮ります」とできるだけ具体的にお伝えしました。事前に着衣の状態で、動きをリハーサルもしました。役者さんに明確にイメージを持ってもらうだけでなく、これ以上の演技は必要がないのだと知ってもらい、その点では安心してもらうためです。》

――実際の撮影現場ではいかがでしたか?

濱口:「あれもこれも」と追加の要望をしないようにしました。ベッドシーンに限らず、お願いしていた前提を現場で崩さない人だと思ってもらうことは、役者さんとの信頼関係においてすごく大事なことです。

加えて、ベッドシーンは基本的にあまり人に見られたくないものだと想像できるので、撮影は各部署、できうる限り女性スタッフのみで、必要最低限の人数で行ないました。

「もし少しでも嫌だと思えば、言ってくだされば撮影を止めます」ということは、ご本人にお伝えして、全体にも共有しました。ちなみに同様のことは西島さんにもお伝えしました。男性はそういうシーンを恥ずかしがらない、というわけでもないと思ったし、ベッドシーンを演じるのがどれだけ怖いかということは、現場に行ってみないとわからないと想像したので。そういう段取りの結果、役者さんが演技に集中できるようになればと考えていました。》

 

30《今回は何よりも性描写に物語上の必然性がありました。原作を読んで、映画にそのような描写が明示的にないと信じられない話になるだろう、これはやらないといけない、と。なので「現場で俳優やスタッフに強いる緊張」は、今回は受け入れるべきと思いました。考えたのは、その緊張の負荷が俳優に偏らないように、ということでした。カメラの前に立つ人と後ろにいる人の負荷は埋めがたい差があるわけですが、せめて少しでもマシになるようにコミュニケーションは心がけました。

「愛し合うふたりのセックスにカメラが立ち会うのは不可能だ」というカサヴェテスの発言があります。僕はこれに概ね同意しているし、これからも撮る気はありません。僕はその言葉を「それに対応するカメラポジションがそもそも存在しない」とも解釈しています。三宅唱監督が『きみの鳥はうたえる』(2018)を撮ったあとにも、その問題に関して訊ねました(*注)。すると「撮れると思う。なぜなら彼らは『愛し合っているふたり』とは違うから」と答えが返ってきて、「まあ、確かに(笑)」と思ったんですが、本作ではそれに近い感覚がありましたね。家福と音(霧島れいか)は愛し合っている夫婦ではあるけれど、セックスの瞬間は──特に居間のソファで撮っている場面においては──肉体が触れていても、精神的には限りなく離れている。それなら撮れるのではないかと思いました。

*(『ユリイカ』2018年9月号 特集「濱口竜介」に「三宅唱監督への10の公開質問」として所収)》

 

43《──コロナ禍の影響で、『ドライブ・マイ・カー』の撮影が中断している時に『偶然と想像』を撮られたそうですが、同時期に撮ったことにより、それぞれの作品に影響はありましたか?

濱口:あったと思います。僕の場合、直近の長編に向けて短編という実験を行いますが、『偶然と想像』でチャレンジした細かな要素が、『ドライブ・マイ・カー』にも活かされました。

 小さなことでいうと、『偶然と想像』の第1話で車で話しているシーンがありますが、そのシーンを撮ったことで、車の中で話すシーンというのはどういうものになるのか、より理解できました。第2話では性的な場面がありますが、『ドライブ・マイ・カー』にもそれは活かされています。僕は直接的に性的な場面はそれまであまり撮ったことがなかったので、その経験は大きなものになりました。例えば俳優に対して(そのようなシーンを撮る際に)どのようにコミュニケーションをとるのが望ましいのか、ということを学びました。》

 

21《三浦:鏡といえば、その直後にある音の浮気の場面も鏡越しに撮られていました。

濱口:そうなんですよ。浮気の場面に関しては、ロケーションを見に行ったときに、どうやってこの現場を目撃するんだっていう問題があったんですが、あの家に実際に住んでいる方がまさにあの位置に鏡を立てていて、なるほど、これなら見えると思い、そのまま採用したんです。

三宅:浮気の場面、最初ってトラックインしてます?

濱口:してます。

三宅:浮気現場がちょっとずつ見えてきて、相手の男の顔はギリギリ見えないけど、二人がセックスしてることはわかる。そのカットの次は、それを見ていた西島さんの顔の正面カットじゃなくて、鏡の中の西島さんだっけ?

濱口:トラックインして、そこで一度レコードのヨリに行って、そこから抱き合う二人越しの鏡の中の西島さんの姿、そして表情のヨリがあって、もう一度西島さんの肩越しにまた鏡を撮って、そこから西島さんがフレームアウトするっていう流れ。

三宅:そうか、間にレコードカットが入るのか。

濱口:そうそう。で、ここは途中にレコードのカットを入れないとなんかね……入れなくてもいいはずなんですが、ああいう場面っていまだにどう撮ったら良いかわかんないんですよ、レコードのカットがないと居心地が悪かった。

三宅:それわかる感覚かもしれない。こういう場面ってシナリオ上はとてもわかりやすい出来事にも思えるから、簡単に撮れそうな気もするんだけど……なんて言えばいいんでしょうね。盛り上げようと思えば盛り上げられるし、そっけなくもできるんだけど、何が面白いのか、こういう場面をどこから見ればいいのか、どう段取りを組めばいいのか、映画そのものをゼロから毎回考えさせられちゃう。

濱口:セックスをしている二人は西島さんを見てないから、じゃあカメラはどこにあればいいのかと考えた結果、あのレコードのある位置がカメラの位置に近いんではないかと。この選択は本当に自分の居心地にしか理由がないんですけど。

三宅:考えに考えて、最後は自分の居心地や生理を根拠にするってことが、正しいというか、それでしかないのかもですね。最初のトラックインの直後にすぐ西島さんの顔カットにつながないのはなぜか、言葉にしてもらえますか?

濱口:それは直接性が強過ぎるってことなのかな、悪い意味でベタっていう。「妻の浮気を発見して驚いてる男」への寄りからの、妻と男の切り返しがやっぱりちょっと耐え難いというか、ワンクッション欲しくなった。

三宅:その感覚はよくわかります。それから、発見の瞬間の演技も難しいと僕は思うし、だからそれにOKをだすのもなんだか難しくて、僕はつい、発見後の行動だけを捉える方向にいくんだけれど、でも発見の瞬間が必要な場面かもなあ。悩む。

濱口:まさにそれを見てしまうっていう瞬間は、結局撮り得ないっていうことなんじゃないですかね。

三浦:西島さんへの指示はこのときどういう感じだったんですか?

濱口:ここは引きを先に撮ってるんです。東京編はロケーションの中で順撮り的に撮っているんですが、この場面もリハーサルをして妻との関係性もある程度わかってる状況で、西島さんが見ているところをまず引きで撮る。でも西島さんの寄りを撮るとき、霧島さんは目線の先にいない。基本的に役者さんがお芝居をするとき、相手にもフレームの外でも演技してもらうようにするんですが、これはさすがにそうしなかった。なので「これはさっきの記憶を使ってやってください、自分が出ていきたいと思ったタイミングで出て行ってください」ってことだけ伝えました。

三宅:よくここで正面の顔のカットを撮りましたね。

濱口:でも、編集で使わない可能性も当然あるわけですよ。ある種のベタさはやっぱりあるので。ただ、西島さんが非常に曖昧な表情をしてくれた気がしたので、これだったらいいんじゃないかと。》

 

<撮影現場/重ね合わせ>

20《言葉によって伝えられないことを、どうやったら尊重しあえるかというのはどこまでも悩ましいですが、違和感があるときに、たとえ具体的にならないとしても、できるだけそれを伝え合うということに尽きるのかなと思いました。「違和感がある」ということ自体を言葉にしたり、言葉以外の合図を出したりして。それは自分やこの現場にとっては、むしろウェルカムなことなんだということを共有することが大事だと思います。

 映画撮影の現場でも、どこかに違和感があるときには、でき得る限り、先に進まないようにする。そのようにしていかないと、撮影しても結局その違和感がどこかに映り込むことになります。それはフレーミングや編集では排除しきれないものです。だから、できる限り現場の全員が違和感を表明できる現場が望ましいと思っています。ただ、これは現場が大きくなれば当然難しい。本当にこの「NOと言える」感覚が現場の隅々まで行き渡るには、もっと時間的な余裕が必要だと感じています。》

 

21《最後に声を大にして言いたいのは、三浦さんには政治的な映画だと言っていただきましたが、実際それはそうで、こういう作品を作るには、そもそもの作り方を変えなければならない。で、作り方を変えるには、僕一人では足らなくて、それはたとえば先ほどの話にあった助監督の川井さんの現場運営やスケジュールを切ってくれた監督補の渡辺さんの仕事のおかげなんです。リハーサルの時間をきちんととるとか、どれだけ撮影の時間が詰まっていても本読みの時間は確保してもらうとか。ひいては、役者さんを尊重するとか、そういうことも含めて映画制作全体の理解が更新されなければつくれないタイプの映画なんですね。川井さんや渡辺さんの仕事は、そうした面でこの映画にものすごく根本的な力を与えてくれた。それがこの日本の映画業界でどれほど重要かというのはどれだけ強く言っても足りないぐらいだと思っています。この映画の撮影はいろいろと運が良過ぎたと言いましたけど、これをこの一本の幸運で僕自身は終わらせたくない。そのためには一人ひとりが作りながら変わっていかなくてはいけない。その変わっていく一つの実例として『ドライブ・マイ・カー』があるんだとも思っています。二人のおかげで、そういう「作り方」の面でこの映画が少なからず特異なものであるということを言う機会をもらって、それがとてもありがたく思いました。》

                                  (了)

      *****引用または参考文献(順不同)*****

1.DVD『ドライブ・マイ・カー』(ビターズ・エンド)

2.映画『ドライブ・マイ・カー』パンフレット(編集・発行:ビターズ・エンド)

3.村上春樹『女のいない男たち』(「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」「独立器官」他所収)(文春文庫)

4.チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』浦雅春訳(光文社古典新訳文庫

5.「『ドライブ・マイ・カー』で石橋英子が築く、静かなる映画音楽の革命とは」(「musit」すなくじら、Sep28.2021)

6.「石橋英子×濱口竜介、映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽を語る」(「GQ JAPAN村尾泰郎、8.30,8.31,2021)

7.「祝・カンヌ映画祭脚本賞! 映画『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」(「GQ JAPAN」月永理絵、8.18,8.19,2021)

8.「『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を徹底解説 “解釈の遅延”という発想とジャンルの横断」(「Real Sound」小野寺系、2021.9.5)

9.「濱口竜介が描いてきた“わかる”感覚の特別さ 『ドライブ・マイ・カー』を起点に紐解く」(「Real Sound」野村玲央、2021.10.2)

10.インタビュー「いま、「弱さ」でしか男を描けない――村上春樹原作でカンヌ脚本賞受賞の濱口竜介監督が語る」(「Frau」熊野雅恵、2021.8.4)

11.「NOBODY 特集『ドライブ・マイ・カー』」((11-1)木下千花「やつめうなぎ的思考」、(11-2)坂本安美「音という旅」、(11-3)ティエリー・ジュス「喪に服し、エロティシズムに満ちた長い精神の旅」)

12.「対談 濱口竜介×野崎歓 異界へと誘う、声と沈黙 <映画『ドライブ・マイ・カー』をめぐって>」濱口竜介野崎歓(『文學界2021年9月号』)(文藝春秋

13.東浩紀「多視点的な映画『ドライブ・マイ・カー』に感銘受け、希望を見た」(「AERA」2022.2.21)

14.インタビュー「濱口竜介監督が明かす『ドライブ・マイ・カー』創作の裏側、「村上春樹の長編小説の手法を参考に」」(「MOVIE WALKER PRESS」取材・文:平井伊都子、2021.8.24)

15.「カンヌで4冠受賞!『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介 × 三宅唱 × 三浦哲哉 鼎談」(「キネマ旬報 WEB」2021.8.20)

16.「『ドライブ・マイ・カー』対話の“壁”を越える、「言葉」への知的探求」(「CINEMORE」SYO,2021.8.20)

17.「西島秀俊が語る! カンヌ4冠『ドライブ・マイ・カー』の“チャレンジと驚きと喜び”に満ちた撮影現場」(「BANGER!!!」SYO,2021.8.20)

18.「村上春樹の芯を食うために努力したこと 『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督」(「CLEA」文=CLEA編集部、2021.8.14)

19.「映画『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」(「文春オンライン」月永理絵、2021.8.20)

20.「カンヌ4冠『ドライブ・マイ・カー』の誠実さ 濱口竜介に訊く」(「CINRA」井戸沼紀美、2021.8.20)

21.「特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家) 映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって」(「かみのたね」2021.9.08(フィルムアート社))

22.三浦哲哉「批評『ドライブ・マイ・カー』の奇跡的なドライブ感について」(「群像」2021年9月号(講談社))

23.沼野充義「村上―チェーホフ―濱口の三つ巴――『ドライブ・マイ・カー』の勝利」(「新潮」2021年10月号)

24.濱口竜介「遭遇と動揺」(工藤庸子編『論集 蓮實重彦』(羽鳥書店))

25.蓮實重彦『監督 小津安二郎』(筑摩書房

26.蓮實重彦「言葉の力 溝口健二監督『残菊物語』論」(蓮實重彦山根貞男編著『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』(朝日新聞社))

27.濱口竜介「『東京物語』の原節子」(『ユリイカ 特集 原節子と<昭和>の風景』2016年2月号(青土社))

28.レイ・カーニー編『ジョン・カサヴェテスは語る』遠山純生、都筑はじめ訳(ビターズ・エンド、幻冬舎

29.レイモンド・カーニー(レイ・カーニー)『カサヴェテスの写したアメリカ』梅本洋一訳(勁草書房

30.「『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー」取材・文/吉野大地、2021年8月(神戸映画資料館

31.「『ハッピーアワー』濱口竜介監督インタビュー「エモーションを記録する」」取材・構成:渡辺進也「NOBODY」)

32.「シナリオ『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介、大江崇充」(『シナリオ 2021年11月号』)(日本シナリオ作家協会

33.「Ryûsuke Hamaguchi on Drive My Car | NYFF59」(Film at Lincoln Center)

https://www.youtube.com/watch?v=-18rVXCD1f0

34.「RYUSUKE HAMAGUCHI Screen Talk | BFI London Film Festival 2021」(BFI)(https://www.youtube.com/watch?v=Lg4AfGxciz4

35.「Drive My Car Q&A (Long Version) - Ryûsuke Hamaguchi」(Backstory Magazine)(https://www.youtube.com/watch?v=1aoMRgQ295M

36.「Ryusuke Hamaguchi ('Drive My Car' writer and director) on the film's 'universal' theme of grief」(GoldDerby / Gold Derby)(https://www.youtube.com/watch?v=eX8ehGCge7Q

37.「石橋英子×濱口竜介インタビュー「素晴らしい映画音楽は隠されたエモーションを引き出してくれる」(「Numero TOKYO」2021.12.31)

38.村上春樹柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書)

39.河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫

40.「濱口竜介の理知的な語り、独自の映画論に唸る。『ドライブ・マイ・カー』における“間”の解釈とは?」(「MOVIE WALKER PRESS」2022.2.6、文/平井伊都子)

41.「卒業生インタビュー - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科 濱口竜介さん 2003年 文学部美学芸術学専修課程卒業 映画監督」(インタビュー日/ 2017.12.13 インタビュアー/ 野崎 歓、文責/ 松井 千津子)

42.「どこまでも明瞭で、だからこそ底知れない ――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』について」早川由真(

「悲劇喜劇」2021年09月号)

43.「【単独インタビュー】『ドライブ・マイ・カー』で濱口竜介監督が拡張させた音と演技の可能性」立田敦子Atsuko Tatsuta(「Fan’s Voice」2021.8.27)

44.「濱口竜介監督インタビュー!『ドライブ・マイ・カー』の“サウンド”に込めた狙いと“特別な”村上春樹作品への想い」(「BANGER!!!」 2021.08.19 、石津文子)

45.三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店

46.濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること――映画『ハッピーアワー』テキスト集成』(左右社)

47.『ユリイカ2018年9月号 特集=濱口竜介』(青土社