文学批評 二人の万菊 ――吉田修一『国宝』と三島由紀夫『女方』

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 三島由紀夫女方』(昭和22年、1957年)と吉田修一『国宝』(平成30年、2018年)は歌舞伎の世界を描いた小説で、前者は短篇、後者は長編であり、どちらにも主役、脇役の違いこそあれ、名女形の「万菊(まんぎく)」が登場する。前者の万菊の芸名は「佐野川万菊」で、あきらかに成駒屋の六世中村歌右衛門がモデルだ。後者もモデルは同じく歌右衛門、三島作品を十分に意識しての「小野川万菊」であろう。

 劇評家渡辺保の『国宝』書評「歌舞伎と小説のあいだ」には、女形についての問題提起、本質の考察がある。そこから三島と吉田の両作品を読み比べると、歌舞伎と女形に関する二人の理解度の差、渡辺の考察の意味合いがはっきりしてくる。

(だがその前に、「女方」なのか「女形」なのか、表記の混乱を解いておきたい。渡辺保『歌舞伎のことば』によれば、《今は女形と書くが、古くは女方と書く。この「方(かた)」は立方(たちかた)(踊り手)、地方(ぢかた)(伴奏者)、囃子(はやし)方(鼓や太鼓、笛の演奏者)、あるいは道化方(三枚目の役者)の「方」と同じで、その部署を担当する者という意味である。すなわち女方といえば、女性の役を担当する役者という意味になる。それがいつ頃から女形になったのかはよくわかっていない。しかしどうしてそうなったのかは興味深い。女形の歴史のなかで「方」(機能)から「形」(フォーム)への変化があったに違いないからである》とあり、戸板康二も同様である。三島が「女形」ではなく「女方」を使用した理由はわからないが、ここでは、一般表記としては「女形」を用い、引用文の表記が「女方」の場合はそれに従うこととする。)

 

 

吉田修一『国宝』>

 

渡辺保『国宝』書評――「歌舞伎と小説のあいだ」>

《ストーリー・テラーの名手吉田修一の長編小説である。さすがによく出来ていて、次から次へ読者の興味を惹く事件が展開する。》、《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》

 ここまではあらすじ紹介と頌であるが、《しかしそう思って読みながら私はかすかな違和感をもった。》と、歌舞伎劇評家の感想は転回する。

《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。

 まあそれは小説だからと思いながら通り過ぎて、二度目に違和感を感じたのは、万菊とならぶ名女形姉川鶴若が借金からどんな役にでも出たいといって「先代萩」の腰元に出るところである。》 

かりにも万菊の政岡に八汐を勤めたほどの人が、いくら金に困ったとはいえ、腰元に出るというのは、役者には格も身分もあるのでおかしい、無理である(本当のところは渡辺の記憶違いで、腰元ではなく台詞のある侍女、澄(すみ)の江で出たのだが、たとえ侍女でも渡辺の指摘は変わらないであろう)。

 それでも、そんなことは枝葉末葉だと思っていたが、このかすかな違和感が実はもっと大事なことに繋がっていることに気づいた時にはもうラストシーンであった。

《花井半二郎は今や功成り名遂げて、歌舞伎界を背負って立つ名女形になっている。その半二郎が歌舞伎座の舞台で得意の「阿古屋」を演じる。その幕切れ。阿古屋をはじめ舞台の役者全員がきまった瞬間、半二郎が突然舞台から客席の通路へ降り、後方の扉に向かう。慌てて案内係が扉を開けると絢爛豪華な阿古屋の遊女姿のまま、歌舞伎座のロビーを横切り、正面玄関を出て劇場の外へ出る。歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。

 こう書くと半二郎は自分を失ったのではないかと思われるだろう。そうではない。その前から彼は自分を見つめているなにかを感じていて、そのなにかに惹かれて外へ出たのである。本来虚構である女形が現実を越えた瞬間なのである。

 ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。そしてこの奇想天外なラスト・シーンこそ、この長編小説を締めくくるにふさわしい凄惨な迫力を持っている。

そのことに感心しつつ、これは小説だから認められることであって実は女形の名人たちが達する心境とは違うという思いがした。》

ここからは「女形」論である。「女形」(歌右衛門雀右衛門芝翫玉三郎など)について、「型」について、長きにわたって幾つもの著作を現わして来た著者の到達地からの批評である。

《どう違うのか。女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。

 この違いを理解するには、小野川万菊と、半二郎の親友でありライバルでもあった五代目花井百虎の二人の女形の最後の姿を見ればいい。

 万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ街で人知れず孤独死した。白虎は病気で足を失いながら壮絶な最期の舞台を演じる。万菊は老いて全てを捨てて自由になった。しかしその自由は普通の老人の自由であり、白虎は身体を失って身体を超えることが出来なかった。この二人の獲得し、あるいは獲得しようとした自由さは現実的でありだれにも分かる。それに比べれば半二郎は最後まで舞台を捨てず身体を失うこともなかったが、現実の街に消えて行った。この自由さも二人の自由さと同じく現実的で分りやすい。しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 この《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》こそが肝であって、詳しくは後述とするが、吉田『国宝』と三島『女方』の差異は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくく書けているかに極まるからだ。

 渡辺は続ける。

《ラスト・シーンで晴海通りを自動車のライトに照らされながら歩く花井半二郎の姿を読みながら、ヤクザの世界からここまで生きて来た人間すなわち立花喜久雄の顔はよく見える。しかし女形花井半二郎の顔が私には見えなかった。なぜだろうか。おそらく江戸時代から女形役者が営々と築き上げて来た女形の、芸によって自由になるというあの自由と半二郎の自由が微妙に違うからだろう。しかしその女形本来の方法論に従えば半二郎は晴海通りへ出ることは出来ない。折角この小説のラスト・シーンにふさわしい幕切れが不可能になる。それでは物語としては完結しない。むずかしいところである。

 むろん私の抱いた違和感は、歌舞伎を愛してきた私個人の感想に過ぎない。それを別にすれば「国宝」上下二巻は長編小説としてその展開のスピード感、その人間描写の的確さにおいて、読者を引きつける魅力をもった力作だろう。》

 

<関容子『歌右衛門合せ鏡』>

 万菊に焦点をあてたい。

《万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ外で人知れず孤独死した。》という結末は、ドラマティックに奇を衒いすぎではないかという疑問を別にすれば、小説のなかの万菊は、あたかもそこに歌右衛門がいるかのように、こそばゆいほど特徴をとらえて活写され、また女形についての解説にもなっているので、順を追ってみてゆきたい。

 

 その前に、現実の歌右衛門の死の様子は、関容子『歌右衛門合せ鏡』の「雪月花」から窺い知ることができる。平成十三年、世田谷の閑静な住宅街岡本町の屋敷での穏やかな臨終で、引用するのは「情景」という言葉がぴったりの見事なエッセイのはじめの部分にすぎない。

歌右衛門の命日は三月三十一日。

 夜七時のニュースでいつもより早い満開の桜に、突然季節が後戻りして雪が降りしきるという、絵空事のような光景をテレビが映し出し、うっとりと見とれていたら、続いてすぐに「二十世紀を代表する名優の死」が報じられてびっくりした。

 あとで伺った有紀子さん(筆者註:養子の長男梅玉(ばいぎょく)夫人)の話だと、その日も成駒屋はいつものようにベッドの中で邦楽のテープに聴き入っていた。退院後、初めのうちは興行中の歌舞伎のビデオを観てあれこれ駄目出しをしていたが、だんだんとそれが大儀になり、観れば苛立(いらだ)って病状が悪くなる。有紀子さんは考えて、「昔のお父様のビデオだけ」をかけることにしてみたら、だいぶ状態が落着いた。

 臨終の日、朝からうつらうつらとしながらも、『道成寺』や『将門(まさかど)』や『茨木』のテープに耳を傾けて、なぜ清元の『隅田川』がかからないのか、と成駒屋は思ったかもしれない。あたしが一番好きなのを知ってるくせに……。しかしお念仏を唱える子供の甲高い声があまりに悲しいので、わざとはずしたのだった。

 夕方になり、ちょうど『関扉』のテープを流し始めて、〽墨染の立ち姿……と常磐津が語るころ、雪が降り出し、そのとき、容態が急変する。

 歌舞伎座では、四月興行に出る『頼朝の死』の舞台稽古の最中だった。頼家役の梅玉さんに知らせはあったが、もちろん帰るわけには行かない。その序幕で役の終る成駒屋古参の弟子、歌江さんをかげに呼び、

「化粧道具、持ってる?」

 と、小声で訊いた。役者が化粧道具を持たないはずはないが……歌江さんは思って、すぐにハッとする。成駒屋がかねがね、

「いいかい、あたしの死化粧は歌江にね」

 と言い遺していることは察しがついていた。あ、いよいよその日が来たのだと思い、素踊りのときに使うパンケーキ類の入った化粧ポーチを小脇に、師匠の家に急いだ。

 成駒屋はこのお弟子の化粧の技術に信頼を寄せていた。歌舞伎のときは従来の顔のし方だが、素踊りや舞台挨拶、新派やモダンな新作ものに出演するときはいつも、

「ねえ、顔はどうしたらいいんだい?」

 と相談した。肌色のパンケーキを選び、役柄によっては付け睫毛をしたり、そこに金粉をあしらったりするのを、成駒屋がとても面白がってくれたという。

 歌江さんが岡本町に着く。

「あ、歌江さん。お父様、歌江さんですよ。歌江さんが来ましたよ」

有紀子さんの声が届いたのか、ベッドの横の血圧を示す計器の数字がパパパパッと六十ぐらいまで上昇したが、そのうちだんだんと下っていって、それがお別れだった。

 しばらくみんな別室に出されたが、また呼び入れられて遺体の着換えをしたのは、有紀子さんと、梅玉夫妻の長女なぎささん、それに歌江さんの三人だけだった。黒紋付を着せ、羽織袴はその上からそっと掛けるだけにした。

 病床に五年もいたというのに不思議なほど面やつれしていない、きれいな肌だ、そう思いながら歌江さんは心をこめてパンケーキを塗り、きわ墨で眉を引いた。きわ墨というのは、和紙に卵黄を塗り、乾いたらこれをローソクの火であぶり、その油煙から出る煤を別の和紙に移し取る。これで眉を引くと自然に描ける。最後に口紅を薄くさす。そこに昔の成駒屋がよみがえった。

 弔問の客が次々と集り始めるころ、雪はとっくにやんで、月が輝いていた。

 対面した客たちが成駒屋の顔の美しさに息を呑んで感嘆し、口々に讃えていた。》

 全てを捨てて自由になる、とはドヤ外で人知れず死ぬといった「事件」ではなく、舞台から降りた女形歌右衛門のゆるやかな死に臨む精神の自由さに近いのではないか。

 

<「第四章 大阪二段目」>

 さて吉田『国宝』に戻ると、万菊の初登場は「第四章 大阪二段目」、京都南座の楽屋で丹波屋の二代目花井半二郎が息子俊介と部屋子(へやご)候補の喜久雄の二人を万菊に挨拶に行かせる場面で、すぐに(歌右衛門が一番好きだったという)清元『隅田川』の班女(はんにょ)の前(まえ)に世界が転回してしまう二人がいる。

《万菊の物言いも物腰も柔らかすぎて、喜久雄はちょっと拍子抜けで、遊園地の化け物屋敷に入ったとたん、一斉に電気がついたような感じでございます。

 ただ、次の瞬間、ちらっと向けられた万菊の視線に、喜久雄はいきなり射抜かれます。どう説明すればよいのか、その目だけが笑っておらず、更に申しますと、半二郎と俊介の角度からは笑っているように見えるのに、なぜか喜久雄の位置からだけは、その色が違って見えるのでございます。お

 背筋がゾクッといたしまして、喜久雄は目を逸らします。逸らした先では、奇妙なほど長い万菊の手指が薄い太腿のうえでぴったりと揃っておりまして、今にも蛇のように動き出し、こちらへ這(は)ってきそうであります。(中略)

 そうこうしているうちに、昔からの贔屓(ひいき)だという小説家が万菊の楽屋へ挨拶にまいりまして、「では、そろそろ」と立ち上がった半二郎に、喜久雄もついて出ようといたしますと、

「喜久雄さんでしたっけ? ちょっと」

 と、万菊が喜久雄だけを呼び止めます。

 恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」

 ますます混乱する喜久雄ですが、運よく件(くだん)の小説家が現れましたので、これ幸いとばかりに罠(わな)から解放された獣の子の如く慌てて俊介を追うのでございます。(中略)

 もの悲しい清元の三味線が、青く染まった夕暮れの隅田川に流れます。

〽 実に人の親の 心は闇にあらねども

  子を思う道に迷うとは

 広い劇場のなか、どこかにぽっかりと穴が空いているようで、今にもそこから何かが出てきそうな、そんな無気味さで客席全体が震え上がりそうになったまさにそのとき、まるで人魂(ひとだま)のように、我が子を探し狂女となった小野川万菊が、花道に現れるのでございます。

 班女の前はそろりそろりと花道を舞台へ向かいます。その姿、その色、その陰影、まるでこの世のものとは思われず、円山応挙(まるやまおうきょ)が描いた幽霊がそこに現れたかと思うほどのおどろおどろしさでございます。

 気がつけば、喜久雄はその怪奇な世界に引き摺(ず)り込まれておりまして、現実とも夢とも違う、なにやら生ぬるく湿った場所に一人立たされているようでありまして、それはまた他の客たちも同じこと、誰もが万菊を見つめる亡霊の一人となっているのでございます。

「こんなもん、女ちゃうわ。化け物(もん)や」

 あまりに強烈な体験に喜久雄の心は拒否反応を示すのですが、次第にその化け物がもの悲しい女に見えてまいります。

「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」

 喜久雄が万菊の魔力を断ち切るように、隣の俊介に目を向けますと、やはり何かに憑(つ)かれたように舞台を凝視しております。

「……こんなもん、ただの化け物やで」

 何かから逃れるように笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。

「たしかに化け物や。そやけど美しい化け物やで」と。

 実はこの日、二人が目の当たりにした小野川万菊の姿が、のちの二人の人生を大きく狂わせていくことになるのでございますが、当然このときはまだ、二人ともそれを知る由もございません。》

 

 ここで、《恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」》の万菊の忠告と、《「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」》という「美しい女形と美しくない女形」は、「女形論」の中心命題である。

 この万菊の言葉は、俊介と喜久雄が中堅どころとなった下巻「第十二章 反魂香(はんごんこう)」の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』「奥庭狐火(おくにわきつねび)の場」の人形振りの稽古で反復される。

《「人形振りに関しては、喜久雄さんのほうが一枚も二枚も上手ですよ」

 稽古中、わざとなのか無意識なのか、万菊は喜久雄の名前をよく出します。

「……あの喜久雄さんってのはね、言ってみりゃ、いい意味でも悪い意味でも、本人が文楽の人形みたいな人ですからね。ある意味、このお役には打ってつけなんですよ。でもね、ずっと綺麗な顔のままってのは悲劇ですよ。考えてごらんなさいな、晴れやかな舞台が終わって薄暗い物置の隅に投げ置かれたって、綺麗な顔のまんまなんですからね。なんでも笑い飛ばせばいいって今の世のなかで、そりゃ、ますます悲劇でしょうよ」》

 

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)で、歌右衛門と三島は女形の美しさについて迷うことなく一致している。

《「歌右衛門  女の人に近ければ近い程、私は魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近付こうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの。」

三島  勿論、そう。戦後の若い女形の間違いというのは、そこから来ていると思うんだ。ああいうところから、歌舞伎というものを間違える原因が出て来る。劇評家がそういうものを褒めたということは、いけないことだ。」》

 

 美しい女形と美しくない女形。女と女形

折口信夫全集 かぶき讃』に収録されている『役者の一生』(昭和17年)は、四世沢村源之助の一生を振り返りながらの女形論ともいえるものだが、さきの『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』における「女と女形」の二人と同一見解が述べられている。

女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さという事もあろうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かった。岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。(中略)

 この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧、恥じてよい美しさである。(中略)

 要は、芸によって美しく見えるということが、平凡でも肝腎なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思わせるということに対しては、条件をつけて考えねばならぬと思う。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違った男である。そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである。それだからこそ、松蔦のような女形では、そぐわないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れていたからよいけれど、あれがもっと前だったら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかったであろう。

 東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になった。亡くなった(筆者註:5世)歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになって化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂わば邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があったからでもあるが、それを又人々が喜んだのだった。思えば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのように、素に持っていた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持って居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作ったので、一つは晩年体も次第に利かなくなったことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になった。だから歌右衛門という役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思う。梅幸も美しい女形であって、その唯一つの欠点は下唇の突き出ている事だけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあったのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。こうして美しい東京の女形は、女優にだんだん近いものになってしまった。

 だが大阪には今に、きたない女形がいる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といっても今の中村梅玉であろう。(中略)

 これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又歌舞妓芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろに芝居を作ってしまうようなところがある。》

 

 いみじくも折口信夫が指摘したように女形は、「現実の女であってはならない」「一種の記号のようなもの」「幻想のようなもの」であることを慧眼なロラン・バルトも見抜いた。

 バルト『記号の国(表徴の帝国)』の文楽についての論考はよく知られるところだが、女形についても短いながら本質をついた批評を残している。それはバルトが、学生時代にギリシャ演劇グループで活動し、長じてはブレヒト劇を論じ、かの『ラシーヌ論』で歴史に残る論争を引き起こした劇評家でもあったことから来たものに違いない。

『記号の国』の女形の写真のキャプションにはこうある。

《東洋の女装男優は、「女性」を模倣するのではなく、記号化する。》

「書かれた顔」という章では、次のように書いている。

《歌舞伎の女形は(女性の役は男性によって演じられる)、女装した少年が微妙なニュアンスや、真実らしい外観や、犠牲をはらっての偽装などを駆使して演じるのではない。女形とは純然たるシニフィアンであり、その下にあるもの(・・・・・・・・)(真実)は秘されておらず(用心ぶかく隠されているのではなく)、ひそかに示されているのでもない(西欧の女装男優が、豊満な胸のブロンド女に扮しても、その下品な手や大きな足によって、女性ホルモンによる胸ではないことをかならず露見させてしまうようなときに、実体の男性的な特徴にたいして道化的な目くばせがなされるのだが)。真実はただ不在化されている(・・・・・・・・)のである。俳優は、その顔において女性をよそおっているのではなく、まねているのでもなく、ただ女性を意味しているだけだ。マラルメの言ったように、もしエクリチュールが「観念の身ぶり」から生みだされるのだとすれば、日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない。だから、五〇歳の男優(非常に高名で尊敬されている)が、恋をしておどおどしている若い女の役を演じるのを見ても、まったく驚くことではなくなる。つまり、目だった(・・・・)ことではないのである(西欧では信じられないことだ。女装男優それ自体がすでに、よく思われておらず、あまり許容されてもおらず、まったく反良識的な存在となっているからである)。なぜなら歌舞伎においては、女らしさとおなじように若さも、その真実を必死で追いもとめるべき自然な本質ではないのだった。規範の洗練やその正確さ――生体の類型(若い女性の現実の身体を思わせるもの)を模倣しつづけることにはいっさいかかわりない――は、女性的な現実すべてをシニフィアンの微妙な回折のなかに吸収して消し去ってしまうという効果――正しい結果――をもたらしている。「女性」は、意味されているが表現されておらず、ひとつの観念になっている(ひとつの性質ではない)。そのようなものとして、「女性」は、分類の戯れのなかへと、そして純然たる差異という真実のなかへと帰着してゆく。西欧の女装男優はひとりの女性であろうとしているが、東洋の女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない。》

 ここには、「女形とは純然たるシニフィアン」であり、「日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない」、「女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない」といった「記号の国」日本らしい「女形」に悦び、愛した、バルトの姿が見てとれる。

 

<「第十章 怪猫(かいびょう)」>

 次の万菊の登場は「第十章 怪猫(かいびょう)」。喜久雄という《部屋子の弟子に三代目半二郎の名跡まで盗られて、失意のまま見世物小屋の芸人にまで落ちた元丹波屋の若旦那》俊介の復活劇を企む興行会社三友の社員竹野に同行しての、別府近郊の芝居小屋の場となる。

《幕が開き、小さな舞台で早速始まったのは、先日竹野が三朝温泉の小屋で見た『有馬の猫騒動』で、猫の飼主であるお藤の方をいじめる老女岩波たちの田舎芝居を見る万菊の顔が、みるみる苦痛に歪(ゆが)んでまいります。

 しばしご辛抱を、と祈るような竹野の思いとは裏腹に、この田舎芝居に酔客たちからの「千両役者! 後家殺し!」のふざけたかけ声。思わず竹野、「うるさい」と怒鳴りそうな気持ちを必死に抑えます。

 それでも稚拙な立ち回りが終わりますと、万菊も落ち着いてきまして、扇子で顔を扇(あお)ぎながら舞台を静かに見つめております。

 そしていよいよ、のちに化け猫と化す召使お仲が舞台に現れたときでございます。緩みきっていた客席の空気が、前回と同じようにまたピンと張り、小屋のなかの時間だけが止まったのでございます。(中略)

 テケテン、テケテン、テケテン。

 舞台では主人がなぶり殺しにした老女岩波への復讐が始まります。床をのたうち回る老女岩波を操る化け猫。しかしそこには踊りの基礎がなければできない、しっかりとした所作があるのでございます。

 舞台をみつめる万菊の大きな手が、化け猫の舞をなぞるように動き出したのはそのときで、まるで万菊までが何かに憑かれたように、客席で手をふり、首を傾(かし)げ、ときに周囲を睨み、一心不乱に踊っているのでございます。

 舞台の俊介、そして客席の万菊。この二人の共演に気づいているのは自分だけ、そう思った瞬間、竹野の体には寒気がするほどの鳥肌が立つのでございます。

 客たちの意識を根こそぎさらっていくような迫力の芝居が終わり、幕がおりた直後であります。静まり返っていた客席に、とつぜん火がついたような拍手。たった今、自分が目にしたものを理解できず、誰もがその場でさまよっているのでございます。

 鳴り止(や)まぬ拍手のなか、竹野は万菊の元へ駆け寄りまして外へと連れ出しますと、どうでしたかと問うのも無粋極まりなく、黙ってその顔を見つめれば、万菊も黙って頷(うなず)きます。

「楽屋へまいりましょう」

 まだ小屋のなかで鳴り響いている拍手が、古い温泉街の路地に漏れております。

 裏口に回って声をかけますと、楽屋なら奥です、と一座の若い衆が案内してくれます。廊下の壁にずらりと並んでおりますのは、この地を訪れた人気ストリッパーたちの写真でございます。

 廊下の奥、土間の先に小上がりがありまして、数人の役者たちがこちらに背を向けて鏡台に向かっております。

 その一人、汗だくの背中を裸電球に照らされているのが紛れもない俊介で、

「すいません」

 声をかけた竹野に振り向いた途端、その目が万菊の姿を捉えたのでございます。

 その俊介の目は、万菊ではなく、その先にいる誰かを見ているようでありました。そしてとても長い沈黙が伸びたのでございます。

 まず口を開いたのは万菊でした。

「このあたしが丹波屋のお兄さんに代わって、まずは礼を言わせてもらいますよ。ほんとにあなた、生きててくれてありがとう」

 小上がりにそっと揃えらえた万菊の指を、俊介はじっと見つめております。

「……今の舞台、しっかり見せてもらいましたよ。……あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」

 一瞬、俊介の視線が揺れます。

「……でも、それでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」

 これほど熱のこもった万菊の震えた声を、竹野は初めて聞いたのでございます。》

 

 かくして俊介は明治座の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の中老尾上(おのえ)に抜擢され、万菊が脇に回った岩藤(いわふじ)で復帰することになる。

しばらく経って俊介が喜久雄のいる劇場を訪ねてきたのは、上の稽古場で万菊に直接稽古をつけてもらう約束があるとのことで、直接稽古をつけてもらえる俊介を羨んでいる自分に気づく。

《喜久雄が足音を忍ばせるように廊下を進めば、地方(じかた)の三味線が奏でているのは『娘道成寺(むすめどうじょうじ)』、遠い昔、この演目を俊介と演じ、喝采を浴びたころのことが鮮明に浮かんでまいります。

「ちょっとあなた、そう動かすから粗く見えるんですよ。いいかい、こうやってチョン、こう回ってチョン。ほら、見てごらんなさいな。踊っているあいだ、あなたの袖口(そでぐち)は落ちて腕が丸見えだけど、あたしの袖口は手首に吸いついてるみたいだろ」

 再び地方の三味線が鳴りまして、万菊の指導通りに踊る俊介の袖口が今度はしっかりと手首に吸いつきます。

「……いいかい、これだって技術じゃあないんですよ。若い娘になりきってれば、二の腕を晒すなんて恥ずかしくってできゃしないんだからね。踊っててそうなるってことは、そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」》

 歌右衛門が実際に「そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」と指導したかどうかはわからないが、『娘道成寺』に関する歌右衛門の「一人の女」というよく知られた言葉、解釈がある。

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』、関容子『歌右衛門 合せ鏡』などに記述があるが、後者から引用しよう。

歌右衛門 合せ鏡』の「芝居の話 役々のこと」のなかで、『道成寺』の話になった。道成寺の後見の逸話、引き抜きについて、成駒屋型の後(のち)ジテの鐘入りの般若隈の難しさ、「いわゆる妖怪変化じゃなくて、女が嫉妬するとこういう顔になりますよ、ということを表わしているわけなのよね。どこまでも一人の女の物語として、ずうっと通して踊るわけですよね」を受けて、

成駒屋が「一人の女」ということを強調しているのにはわけがあった。先ごろ渡辺保さんとの対談(「歌舞伎」)で、〽恋の手習い……以下のクドキの文句が、娘、遊女、人妻と三人の女になっている、という佐々醒雪の説の話が出て、

「そりゃあ、学者が歌詞を解釈してあれこれ考えるのはいいんだけれども、踊るほうの心持はあくまでも一人の娘、でなけりゃあ踊れません。何しろ、あなた、娘道成寺なんだからね、って渡辺さんに申しましたのよ」

 ということだった。

 醒雪は、〽誓紙さへ偽りか……と誓紙をかわすのは遊女、〽ふっつり悋気せまいぞ……とたしなむ……のは人妻、という解釈をしているのだが、

「娘だってあなた、遊女の真似っこして、誓紙交わしっこしたりするかもしれないし、別に女房じゃなくたって焼餅くらい焼くんだからね」》

 すぐ続いて、渡辺保の『国宝』書評の《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。》と似たような逸話が出てくる。

成駒屋玉三郎に『先代萩』の政岡を教えることになり、それを聞いた勘九郎(筆者註:18代目勘三郎勘九郎時代)さんが、「俺、八汐に出ても政岡を教えるところに一緒に行ってみたいな」と呟いたことを、ある日成駒屋にそっと話してみると、

「そんなずるっこしいこと考えちゃいけないよぅ」

 と厳しく言われた。そのまま引き退っては勘九郎さんのためによくないと思い、そうでしょうか、もし私が女優だったら、尊敬する大女優がお稽古をつけるところを群衆の一人にでも志願して見ていたいという気になると思います、勘九郎さんは、純粋な気持だと思います……と、口答えをした。

 すると成駒屋は「フーン」と笑って、

「たしかあの子は『先代萩』のあとで『娘道成寺』を踊るんじゃなかった? 花子の前に悪人の八汐で出ちゃあ御見物の感じがよくないから、そのうち政岡をちゃんと教えてあげるよ」

 と言ってくださったのだが、役者はその役がつかなければ教わりに行くことができないものだから、ついにその機会はなかった。》

 

<「第十章 悪の華」>

「第十章 悪の華」で、復帰する俊介(芸名花井半弥)が小野川万菊と共に『二人道成寺(ににんどうじょうじ)』を舞う明治座初日。万菊が出て行ったばかりの花道の出入り口である鳥屋(とや)へ向かった喜久雄は、舞台を一望できる覗き窓に顔を寄せた。

《〽 しどけなり振り アア、恥ずかしや

 〽 さりとては さりとては

 鳴り止(や)まぬ万菊への拍手のなか、花道には同じく白拍子花子に扮した俊介を載せたセリが浮き上がってきたところ、丹波屋本流の登場を十年も待ちわびた人々の拍手とかけ声が、万菊へのそれを超えて響きます。

〽 恋をする身は 浜辺の千鳥

 夜毎夜毎に 袖絞(そでしぼ)る しょんがえ

 万菊と並び立った俊介の美しさ、扇子をくわえるそのしどけなさ、また広げた懐紙を手鏡に見立てて髪を整えるその色香、何もかもが、十年前に同じ演目で共演した俊介とは明らかに違っております。(中略)

 その上、共演しているのは稀代(きたい)の立女形(たておんながた)の小野川万菊、若い俊介を自由に躍らせているように見えて、肝心の見せ場では、わざと調子を崩すような動きを見せて、客たちの視線をすべて自分のほうに向けます。

 またその少し崩した型の美しいこと、悩ましいこと。

 それを目の当たりにした俊介の動きにもさすがに焦りが見え隠れ、しかしその焦りを、可憐な嫉妬を抱く乙女のような指先の震えに変えてみせるのでございますから見事。》

 

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』には、渡辺が『国宝』で違和感を抱いた大事なこと、《女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。》についてさらに理解を届ける文章が吉田千秋の舞台写真とともにある。

白拍子花子(しらびょうしはなこ) 京鹿子娘二人道成寺(きょうがのこむすめににんどうじょうじ)」の項の「黒の振袖」では無意識、無心について。

《花道の暗闇に歌右衛門の花子の姿がうかんでいる。三枚ともに「道行」のなかでは有名なポーズ。右が「あじな娘と」、中が「笑わば笑え」。左が「田の面(も)に落つる雁の声」である。

 こうしてみると黒地に金銀色糸の枝垂れ桜に霞の縫取り(刺繍)の衣裳が歌右衛門に実によく似合っているのがわかる。

 本来「道行」は、のちの乱拍子と同じ赤の振袖で踊るのが本当である。「道行」を黒地に変わり模様(散り桜と花駒と二通り)の振袖にしたのは六代目菊五郎らしい。梅幸は散り桜であった。

 歌右衛門も私の見た限り二回、赤で踊っている。一度は、昭和二十五年(一九五〇)年六月の東劇ではじめて「道行」を踊ったとき、もう一度は昭和三十年六月新橋演舞場歌舞伎座梅幸と競演になったとき。この二回の赤は、古風で、目の醒めるような美しさであった。まるで江戸の娘を描いた錦絵を見るような、はなやかさであった。

 それから幾星霜。この写真を見ると、この黒地を歌右衛門が自分のものにしていることがわかる。姿がうき立っているのは、一つは歌右衛門が振袖の模様を、散り桜から赤と同じ枝垂れ桜に霞の模様にした工夫による。しかしもう一つは歌右衛門が大きく成熟して、芸がかわり、衣裳をおのれの身体の一部にしたからである。

 しかも、よく見ると三枚ともスーッと自然にきまっていて、身体のどこにも力が入っていない。それでいて見る者に強い印象を与える。

 昔の写真と比べれば一目瞭然としているが、昔は力が入っていて、こんなに軽くない。形を気にしている意識が露骨に出ていて、形そのもののためにきまっている。ところが、この三枚は、いずれもフワッときまっていて透明無比、きまりであることさえも忘れる。無心に踊っていて、それが自然にいい形になる。形をきめるのでなく、おのずから形になる。無意識のうちに形ができて五分のスキもなく「絵」になっている。

 この無心が歌右衛門最後の「娘道成寺」の心境だった。》

 そして「玉手御前(たまてごぜん) 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の項の「芸の風格」では、《一つの濃密な世界を作って現実を越えた》、行き着くところまで行き着いた余裕、自然さ、自由について。

《今にも降りかかる、大輪の牡丹の艶やかさである。

 円熟した歌右衛門晩年の玉手御前の魅力が、この一枚の写真に余すところなく写っている。艶やかな丸髷、目の鋭さ、小さな口もとの色気、ちぎられた襦袢の赤い疋田(ひった)の片袖、不安定に傾けた体と左手、右手の頭巾に添う指先の繊細さ。そういうものが全て一つに溶け合って、その情感、その持ち味、そしてなによりもその芸の風格が見事である。

 しかし、よく見ると目もとの鋭さに表れているように、彼女は闘っているのがわかる。父合邦とも母おとくとも、いや息子俊徳丸への恋を非難する世間全体と闘っている。この画面にあふれる身体の緊張感はそこから生まれる。しかし闘っているのは玉手御前だけではない。歌右衛門もまた闘っている。女形という特異な仕事に対する社会の無理解、老いてなお若い女を演じることへの社会の無理解。歌右衛門は自分の存在を賭けて闘っている。その闘いのために歌右衛門は、いま、身を起そうとしているのだ。

 しかしこの円熟した美しさにはもう一つ、正反対の意味もある。すなわち行き着くところまで行き着いた余裕。指先も、左手も、ほとんど無意識に動いている。その無意識な姿に玉手という女の全てが語り尽くされている。玉手ばかりではない。歌右衛門の全てが語られている。しとやかで、艶やかで、しかもどこか鋭く、孤独になにかに向っている。大名の奥方の気品、匂うような気高さと、全く正反対なはしたないほどのエロティシズム。真っ盛りでありながら、いまにも崩れそうなものが滲んでいる。極彩色の大胆さとおさえた地味な色彩、繊細さと力強さ、人工と自然。そういう正反対なものが渾然一体となって、ここにある。

 そういうことがおこるのは、これがどこまでも人工的な技巧を重ねたつくりものでありながら、その一方でつくっても決して出来ぬものに到達しているからである。

 歌右衛門は人生最後の瞬間にその自然さに到達した。ここには邪恋に狂い、社会と闘う姿とはまるで関係のない女の、艶やかな内面の味がある。私がそういうものを見たのは、歌右衛門の最晩年だった。すなわちこの写真のときと、この後半年後に演じた京都南座の顔見世のときだけだった。

 そこには物語からも、歌右衛門の人生からもはなれて、一人の女がいて、幸せな光明に包まれている。芸に風格が出来たのである。

 風格はつくって出来るものではない。おのずから成る。風格とはそういうものだろう。》

 

<「第十六章 巨星墜つ」>

 ドヤ街の安旅館での人知れぬ死の不自然な描写については、最後の数ヵ月ほどに交流のあった者から伝わってきた「ここにゃ美しいもんが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ」などという声など、《こればかりは本人が誰にも語らずに亡くなっているため、藪のなかなのでございます》と言訳されても、これまでの万菊の言動や振舞いからは、番町の高級マンションで風呂にも入らなくなった万菊がゴミのなかで暮していたとか、狐につままれたようである。もちろん、奇怪な死を迎えた歌舞伎役者は空襲、殺人事件、自死など幾人もいるが、『歌右衛門合せ鏡』に描かれた歌右衛門の最後の情景こそが、万菊にもふさわしい。あえて言えば、「第十九章 錦鯉」で《今日の舞台での縄に繋がれた雪姫の姿など、それがそのまま水槽の錦鯉となった喜久雄にも重なって、ならばこそ「できることなら、ここから逃がしてやりたい」という雪姫への思いは、知らず知らずのうちに喜久雄本人へも向けられていたのかもしれません》とばかりに見るも忍びなく、竹野を「ありゃ、正気の人間の目じゃねえよ……。なあ、いつから……」と驚かせた三代目半二郎こと喜久雄ならば「いつまでも舞台に立っていてえんだよ。幕を下ろさないでほしいんだ」とは言ったものの、まだわかろうというものだが……。

 

 渡辺は《しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》と評したが、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》という点において、吉田『国宝』は新聞連載ということもあってか、読者に分かりやすくしようと作為している。

 一方、次に見てゆく三島『女方』は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくいままに書けている。登場する万菊は最初から最後まで、《その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》 そこに吉田とは比べようのない、三島の幼いころから骨身に染みついた歌舞伎理解と文学的深さを感じずにはいられない。

 

 しかし、『国宝』は「本作を読みおえたとき、小説を読了したのではなく、通し狂言の序幕から大切りまでを見終えたような気分になったのは、私ばかりではあるまい。歌舞伎の情熱と絢爛は、小説として再成されたのである」(「中央公論文芸賞浅田次郎選評)という悦びにおいては三島『女方』の辛気臭さとは比べものにならない。

 また「多くの役者の印象を撹拌して、いかにもそれらしい俳優を次々と作り出した」(同前)には、二代目中村鴈治郎、二代目中村扇雀、(ほぼ盲目となった)十三代目仁左衛門、六代目中村歌右衛門、(映画帰りの)中村雀右衛門中村富十郎坂東玉三郎尾上菊五郎劇団、(両足切断した)澤村田之助などあれこれ思い浮かぶから歌舞伎好きには堪らない。

 とりわけ、いわゆる「芸道物」として魅力的だ。

 渡辺が指摘した《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》に加えて、喜久雄だけでなく俊介との「それぞれ魅力的な二人」「どこにでもいそうで、どこにもいない歌舞伎役者」(「中央公論文芸賞林真理子選評)の主役を作りあげることで物語の色彩豊かな絹糸を撚りあげた。

さらには、はじめ喜久雄の幼馴染の同棲相手でありながら、失踪する俊介を支えて梨園の妻となった春江も、「「芸道物化」の鍵となるのは女性である」(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』「第5章 芸道物考」)からには忘れてはならず、「第二十章 国宝」で、錦鯉みたいな喜久雄に言及した竹野に、「竹野さん、何を今さらやわ。この世界に何年おんの? うちはな、もう体の芯から役者の女房やわ。旦那が光熱やろうと、両足失おうと、……たとえ気ぃふれたとしても、その背中、泣きながらでも押して舞台に立たせます。ひどい話や。ひどい女房や。せやけど、それでも役者には舞台で拍手浴びてほしいねん」と気丈な言葉で応えた春江だった。

 そこには溝口健二監督の芸道物の傑作『残菊物語』の世界がある。現に、吉田自身が(「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)次のように答えている。

《――それにしても、どうして歌舞伎を描こうと思ったんでしょう。

吉田 最初のきっかけは、仲のいい映画監督と歌舞伎の話になったことでした。数年後に朝日でまた連載をやることになっていて『悪人』からちょうど10年ぶりの作品になるから、何かスケールの大きいものを描きたいというのがあって、まったく自分が知らないところに飛び込んで、これまでとは違うものを描きたいとなんとなく思っていたところに、歌舞伎っていうのがピタッとハマったんですよね。決定打になったのは、それからしばらくして溝口健二の『残菊物語』を観たんです。『残菊物語』は、『国宝』の俊介と同じで、一度は落ちぶれた歌舞伎役者が旅回りをして復活する話なんですけど、その時に踊って見せるのが『積恋雪関扉』で「スゴイ!」と思って、あれでヤラれちゃいましたね。花魁かんざしをいっぱいつけた墨染が、くっくっくっと首を人形みたいに動かして踊るのを観た時に、何だろう、これはと惹きつけられた。その時の自分は歌舞伎がどういうものかもわからない今以上のド素人だったけれど、一流の踊りっていうのは、こういうものかと思わせるものがあったんです。だから入り口は、実は映画でした。

――それで『国宝』でも、喜久雄が初めて登場するシーンに『積恋雪関扉』を選んだんですね。侠客たちの新年会の席で墨染を堂々と演じてのける14歳の美少年。不世出の女形の片鱗を感じさせる印象的な場面です。

吉田 そうですね。あれはもう、本当に『残菊物語』が自分が歌舞伎に感銘を受けたスタートだったからそうしたんですけど、作家としても、あそこで生まれて初めて歌舞伎の舞台というものを描写するわけですよ。そのプレッシャーたるや相当なもので、どうすれば歌舞伎っぽく見えるのかって本当に何度も描き直しをしました。》

 

 

 

三島由紀夫女方』>

 

<「幻滅と嫉妬と破滅」/「美とナルシシスムと悪」>

《雪はコンクリートの暗い塀を背に、見えるか見えぬかといふほどふつてゐて、二三の雪片が樂屋口の三和土(たたき)の上に舞つた。

「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。

「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」

 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。

 見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。

 しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。》

 

女方』の末尾である。この場面は『女方』第一章と照応するだろう。

《「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。と、舞臺の奥で、「三國一の聟取り済ました。シャンシャンシャン。お目出たう存じまする」といふ官女たちの聲がする。床(ゆか)の浄瑠璃が「お三輪はきつと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。

 ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞臺と、きらびやかな金殿(きんでん)の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る數千の觀客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。それはあきらかに万菊の肉體から發してゐる力だが、同時に万菊の肉體を超えてゐる力でもある。彼のしなやかさ、たをやかさ、優雅、繊細、その他もろもろの女性的な諸力を具へた舞臺姿から、かうしたとき、増山は、暗い泉のやうなものの迸(ほとばし)るのを感じる。それが何であるかはわからない。舞臺俳優の魅力の最後のものであるあの不可思議な惡、人をまどはし一瞬の美の中へ溺れさせるあの優美な惡、それがその泉の正體だと増山は思ふことがある。しかしさう名付けても、それだけでは何も説き明かされない。

 お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。

「奧は豊かに音樂の、調子も秋の哀れなり」

 お三輪が自分の破局へむかつて進んでゆくあの足取には、同じやうに戦慄的なものがあつた。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。そこでは苦悩と歡喜とが豪奢な西陣織の、暗い金絲の表と、明るい絲のあつまる裏面とのやうに、表裏をなしてゐたのである。》

 

 両者に共鳴する「幻滅と嫉妬と破滅」は、「美とナルシシスムと悪」という三つの要素の複合体と表裏を織りなす三島文学のエッセンスに違いない。

 

 昭和24年に『中村芝翫(しかん)論』を書きあげていた二十四歳の三島由紀夫(大正14年(1925年)1月14日生まれの三島由紀夫は、「昭和」とともに歩んだ人だった。なぜなら、翌大正15年は12月25日をもって昭和元年となり、正月を迎えるとすぐに昭和2年になったから、昭和の年数を数えること、それは三島の年齢を数えることに等しかった、少なくとも昭和45年までは)が、はじめて成駒屋本人に逢ったのは、昭和26年4月六世中村歌右衛門襲名の半年後の11月と遅かった。

 

<六世中村歌右衛門三島由紀夫対談>

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)というのがあって、三島の短編小説『女方』の複雑な感情の理解となる。

《 「お軽の扮装で初対面」

司会 先生の歌右衛門贔屓(びいき)というのは、有名ですけれども、いつ頃から。

三島 とにかく楽屋に伺うようになる前が随分長いんですよ。それで僕が芝居を初めて観たというのは、中学に入った十三の年なんです。羽左衛門(うざえもん)と六代目(菊五郎)の「忠臣蔵」の時。小学校の間は、芝居を観ると教育に悪いというので、観せてくれなかった。それで初めは俳優さんの名前もよく知らないし、歌右衛門さんのことも、余り印象に残っていないのですが、その後、例えば「鏡獅子」の“胡蝶”に梅幸さんと一緒に出ていらしたのなどは、拝見しているわけですよ。それでだんだん贔屓が出来て、いろいろ踊りの役なんかで、きれいだなと思っていた。いつから本当にファンになったのかしらね。やっぱり戦争が済んだ後の、東劇の「千本」(義経千本桜)の道行(みちゆき)かもしれないな。

歌右衛門 高麗屋さんの時ですか。

三島 そうそう、高麗屋さんの忠信(ただのぶ)でね。他には「寺子屋」とか、吉右衛門の「佐倉宗五郎」が出たでしょう、あの時の道行は一番決定的でしょうね。時代が転換して、本当に新らしい時代になって、みんなが華やかなものに憧れていた時に、パッと出たという感じがしたのが、あの道行の静(しずか)でしょうね。それからはもっぱら成駒屋さんを観に行くというふうにしていて、僕は初めは楽屋には絶対行かない、といっていたのですよ。舞台のイメージだけでね。そのうちにある時「文芸」という雑誌が「成駒屋さんに会ってくれ」「それなら扮装したところでお目に掛かりましょう」といって、道行のお軽の紫の矢絣(やがすり)着て、かつら付けたところに行って、歌右衛門さんと握手したかなんかだったな。

司会 いつ頃ですか。

三島 襲名してからですね。「新歌右衛門丈と会う」ということだったから……。それまで盛んにワイワイ観ていたのが、三越劇場時代です。それからだんだん親しくしてもらって、「地獄変」なんか書いたでしょう。「鰯売(いわしうり)」とかね。僕としてはあくまでファンの気持でというのが建前で、楽屋に行っても、ためにするために楽屋に行きたいとは思わないな。いわゆる劇作家としてでなく、全くファンの気持で部屋にも行かしてもらったし、友達にもしてもらう、将来もその気持で付合いたいのです。

司会 先生はやっぱり舞台のイメージを壊したくないという……。

三島 そういう気持だったのですがね。というより、歌舞伎の楽屋というものに、世間の人が持つような恐怖心があったから。つまりどういう不思議なところか、どういう特殊なところか、とても恐いような気がしていたのです。成駒屋さんに限って、そういうイメージが裏切られるということはなかった、と思っていますがね。僕が「中村芝翫(しかん)論」を書いたのは、なんという雑誌だったかな、今は勿論ない雑誌だけれども、あんたの芝翫時代でしたね。》

 

 中村歌右衛門は大正6年(1917年)1月20日生まれなので、三島の八歳年上であるにも関わらず、この昭和33年の対談時には、三島が歌右衛門を「あんた」と呼ぶ関係になっている(歌右衛門が三島を「先生」と呼んでいるのは歌舞伎台本を書き、演出していたからであろう)。

「お軽の扮装で初対面」のあと、小説『女方』の演出の場面を連想させる「大時代な本読み」があり、「鏡花作品は楽しみ」「武智鉄二の仕事」「愛着は「大内実記」に」、そして女形の魅力について二人の意見が一致する「女と女形」があって、「飽くまでファンの立場」と対談は続く。

 出会いをお膳立てした「文芸」に発表した短文『新歌右衛門丈のこと』(「文芸」昭和27年1月)を読むことができる。

《日ごろさしもの鉄面皮の僕が、歌右衛門丈の前に出て初対面の挨拶をすると、体は固く、言葉は自在を欠くやうに思はれた。僕は丈の年来のひいきであり、時花(はやり)言葉でいふと、一辺倒のファンである。今まで何度か人に丈の楽屋へ誘はれたことがあるが、その舞台上の幻影がほんのわずかでも崩れるのがおそろしさに、つい対面の折を逸して来た。今度は扮装のままといふことだつたので、やうやく丈を訪ねる勇気が出たのである。

 さう言ふと、ばかに勿体(もつたい)ぶつてゐるやうにきこえるが、僕は丈の雪姫や八重垣姫や墨染を、この世ならぬ美、歌舞伎の妖精(えうせい)だと考へつゞけてゐたかつたのである。

 逢つてみる。決して幻影は崩れない。

 それから五日たつた。却(かへ)つて幻影は鞏固(きようこ)になり、正確になつた。僕があの短かい逢瀬のあひだ、失礼ながら丈の内部に想像したものは、今は滅びた壮大な感情のかずかず、婦徳や嫉妬や犠牲や懊悩や怨恨の、今の世に見られない壮麗な悲劇的情熱のかずかずであつた。》

 どこにでもいる世間のファンの気持が汲みとれるが、にも拘らず三島は「決して幻影は崩れない」と「壮麗な悲劇的情熱」の二つともを卑俗に否定した複雑な感情を題材に『女方』を仕立てあげたというわけだ。

 

 三島の『女方』執筆前後の、歌右衛門をめぐる歌舞伎関連を年譜で整理すれば、芝翫歌右衛門)論を発表後、楽屋で初対面、その後は松竹の依頼を受けて歌右衛門に当てたいくつかの歌舞伎を書き、演出もし、舞台上演している。

中村芝翫論』(昭和24年、「季刊 劇場」)。

『新歌右衛門のこと』(昭和26年4月、「六世中村歌右衛門襲名 歌舞伎座プログラム」)。

歌舞伎座楽屋で初対面(昭和26年11月、「忠臣蔵 道行」お軽の扮装のままの歌右衛門と)

地獄変』(昭和28年12月、歌舞伎座)。

『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(昭和29年11月、歌舞伎座)。

『熊野(ゆや)』(昭和30年2月、歌舞伎座)。

『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじつき)』(昭和30年11月、歌舞伎座)。

小説『女方』(昭和32年1月、「世界」)。

『むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)』(昭和33年11月、歌舞伎座)。

豪華本写真集『六世中村歌右衛門三島由紀夫編、『六世中村歌右衛門序説』所収(昭和34年9月、講談社)。

四世鶴屋南北作『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)』の復活台本監修(昭和34年11月、歌舞伎座)、歌右衛門の桜姫。

 最後の歌舞伎作品『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(昭和44年11月、国立劇場)は歌右衛門のためではなかった。

 

<小説『女方』>

女方』は、「世界」昭和32年1月の初出で、翌昭和33年に、『橋づくし』『施餓鬼舟』『急停車』『博覧』『十九歳』『女方』『貴顕』の六編からなる短編集『橋づくし』として刊行された。

「あとがき」には、三島らしく韜晦の滲む注文がある。《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する。》 

 昭和43年の文庫自選短編集『花ざかりの森・憂国』では、著者「解題」として、《『女方』に扱った役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位》とアイロニカルなコメントを残している。別の文庫自選短編集『真夏の死』に収められた『貴顕』については、《歴然たるモデルがあり、作中に明示しているように、私の少年時代の思い出のモデルを、できるかぎり抽象化して、ウォルター・ペイターのイマジナリイ・ポートレイトの技法に倣って、描き出そうとした短編である》としているが、『女方』については「役者」のモデルについての言及はない。

 いったい、「役者」のモデルが六世中村歌右衛門であることがあからさまな『女方』はどういう作品なのだろうか。歌右衛門を想定して歌舞伎台本を書いていた三島が、いくら小説という文芸作品のなかとはいえ、揶揄したとしか思えない『女方』を発表した。しかし、それを歌右衛門が怒ったという徴候が、いくつかの対談(三島、歌右衛門、演劇人によるさまざまな対談)にあたっても見当たらないばかりか、そもそも『女方』という小説などどこにも存在しない幻であるかのように誰の口の端にも上らない。

 ここで、小説『女方』の筋立てを、なるべく原文を引用する形でみてゆく。というのは、『女方』の文体そのものが女形万菊の存在そのもの、肌触りだからである。

 そして、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 

(一)増山は佐野川万菊の藝に傾倒してゐる。國文科の學生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞臺に魅せられたからである。高等學校の時分から増山は歌舞伎の虜(とりこ)になつた。佐野川万菊は今の世にめづらしい眞女方(まをんながた)である。花やかではあるが、陰濕であり、あらゆる線が繊細をきはめてゐる。力も、權勢も、忍耐も、膽力も、智勇も、強い抵抗も、女性的表現といふ一つの關門を通さずしては決して表現しない人である。ただやみくもに女を眞似ることで得られるものではない。たとへば「金閣寺」の雪姫などは、佐野川屋の當り役で、増山は一ト月興行に十日も通つた記憶があるが、何度重ねて見ても彼の陶酔はさめなかつた。佐野川屋の舞臺には、たしかに魔的な瞬間があつた。その美しい目はよく利いたので、花道から本舞臺を見込んだり、本舞臺から花道を見込んだり、あるひは「道成寺」でキッと鐘を見上げたりするときの目には、目づかひ一つで觀衆の全部に、情景が一變したかのやうな幻覺を起させることがよくあつた。「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。

 

(二)増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた。しかし幻滅はなかなか訪れなかつた。舞臺の万菊に魅せられたのは、増山は男であるから、あくまで女性美に魅せられたのであることはまちがひない。が、この魅惑が、樂屋の姿をまざまざと見たのちも崩れないといふのはふしぎである。それは、それ自體としてグロテスクであるかもしれない。が、増山の感じた魅惑の正體、いはば魅惑の實質はそこにはなく、從つてそこでもつて彼の感じた魅惑が崩壊する危険はなかつた。舞臺の女方の役のほてりが、同じ假構の延長である日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えてゆく汀のやうな時、その時、もし万菊の日常が男であつたら、汀は斷絶して、夢と現實とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになつたであらう。假構の日常が假構の舞臺を支へてゐる。それこそ女方といふものだと増山は考へた。女方こそ、夢と現實との不倫の交はりから生れた子なのである。

 

(三)万菊が人にものをたのむときの、尤もそれは機嫌のよいときのことであるが、鏡臺から身を斜(はす)にふりむいて、につこりして軽く頭を下げるときの、何とも云へぬ色氣のある目もとは、この人のためなら犬馬(けんば)の勞をとりたいとまで、増山に思はせる瞬間があつた。さういふと万菊自身も、自分の權威を忘れず、とるべき一定の距離を忘れてゐないながらも、明瞭に自分の色氣を意識してゐた。これが女なら、女の全身の上に色氣の潤んだ目もとが加はるわけであるが、女方の色氣といふものは、或る瞬間の一點の仄(ほの)めきだけが、それだけ獨立して、女をひらめかせるものであつた。万菊は軽く會釋(ゑしやく)をして、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のはうへ斜(はす)かひにふりむいて、につこりしながら、もう一度會釋をした。目尻に刷いた紅(べに)があでやかに見えた。増山が自分を好いてゐることを、万菊はよく承知してゐると増山は感じた。

 

(四)増山の属する劇團は、十一月、十二月、正月と、同じ劇場に居据ることになり、正月興行の演目が、早くから取沙汰された。その中に或る新劇作家の新作がとりあげられることになり、この作家は若さに似合はぬ見識家で、いろいろな條件を出し、増山は作家と俳優との間のみならず、劇場関係の重役との間をも、複雜な折衝を通じてつないでゆくことで多忙を極めた。劇作家の出した條件の一つに、彼の信頼してゐる新劇の或る若い有能な演出家に、演出を擔當させるといふ一條があり、重役もそれを呑んだ。新作は「とりかへばや物語」を典據にした平安朝物で現代語の脚本であつたが、重役はこの新作については奧役(おくやく)に委ねることをしないで、若い増山に一任すると言つた。演出家の川崎は定刻に遅れた。年若な俳優の多い新劇畑で育つたものは、素顔で並ぶと堂々たる貫禄の年輩の俳優ばかりの歌舞伎役者に、馴染んでゆくのが容易ではない。事實、打合せ會に並んだ大名題(おほなだい)の役者たちは、無言の、慇懃な態度で、どことはなしに川崎に對する軽侮の氣持を漂はせてゐた。万菊は、矜(ほこ)りを秘めてつつましく控へ、侮る様子がさらになかつた。

 

(五)抜き稽古がはじまつてみると、果して川崎は、西洋人が紛れ込んで來たやうなものであることが、みんなにわかつてしまつた。川崎は歌舞伎のかの字も知らなかつた。そばで増山が歌舞伎の術語の一つ一つを説明してやらなければならない。かういふことから、川崎は大そう増山をたよりにするやうになつた。十二月興行の千秋樂のあくる日から、いよいよ顔を揃へた立稽古がはじまつた。川崎と俳優たちの間にはしばしば火花が散つた。「ここは、どうも、立上れないところですがね」「何とかして立上つて下さい」 苦笑ひをしながら、川崎の顔は、みるみる矜(ほこ)りを傷つけられて蒼ざめてくる。「立上れつて仰言つたつて無理ですな。かういふところは、じつと肚に蓄(た)めて物を言ふところですから」 そこまで言はれると、川崎は、はげしい焦躁をあらはして、黙つてしまふ。しかし万菊のときはちがつてゐた。川崎が坐れと言へば坐り、立てと言へば立つた。水の流れるやうに、川崎の言葉に從つた。万菊が、いかに氣の入(はひ)つてゐる役だとはいへ、いつもの稽古のときと可成ちがふのを増山は感じた。右手の壁ぎはに万菊が端坐してゐる。目がいかにも和(な)いで、やはらかな視線が、川崎のはうへ向いて動かうともしない。……増山は軽い戦慄を感じ、入らうとしてゐた稽古場に入りかねた。

 

(六)「さうでせうか。川崎さんがあんまりやりにくさうでお氣の毒だわ。××屋さんも△△屋さんも、すこしかさにかかつた言ひ方をなさるもんだから、私、ひやひやして。……おわかりでせう。私、自分でかうしたいと思ふところも、川崎さんの仰言るとほりにして、私一人でも、川崎さんがなさりいいやうに、と思つてゐるのよ。だつて他の方々に、私から申上げるわけに行かないし、ふだんやかましい私が大人しくしてゐれば、他の方々も氣がつくだらうと思ひます。さうでもして、川崎さんを庇つてあげなければ、折角ああして、一生けんめいやつていらつしやるのに、ねえ」 増山は何の感情の波立ちもなしに、万菊のこの言葉をきいてゐた。万菊自身が、自分の戀をしてゐることに氣づいてゐないのかもしれなかつた。彼はあまりにも壮大な感情に馴らされてゐた。そして増山はといへば、万菊の中に結ぼほれた或る思ひは、いかにも万菊にふさはしくないやうに思はれた。舞臺稽古の前日になると、川崎の焦躁は、傍目(はため)にもいたいたしかつた。稽古がすむ。待ちかねてゐたやうに、増山を酒に誘ふ。「どうしてです。あの人のどこがいいんです。僕は稽古中に、ごてて言ふことをきかなかつたり、いやに威嚇的に出たり、サボタージュをしたりする役者には、あんまり腹も立たないけれど、万菊さんは一體何です。あの人が一等僕を冷笑的に見てゐる。腹の底から非妥協的で、僕のことを物知らずの小僧ッ子だと決めてかかつてゐる。そりやああの人は、何から何まで僕の言ふとほりに動いてくれる。僕の言ふとほりになるのはあの人一人だ。それが又、腹が立つてたまらないんだ。『さうか。お前がさうしたいんならさうしてやらう。しかし舞臺には一切私は責任はもてないぞ』とあの人は無言のうちに、しよつちゆう僕に宣言してるやうなもんだ。あれ以上のサボタージュは考へられんよ。僕はあの人が一等腹黒いと思ふんだ」増山は呆れてきいてゐたが、この青年に今眞相を打明けることは憚られた。 

     

(七)年が明けて、曲りなりにも、初芝居の初日はあいた。万菊は戀をしてゐた。その戀はまづ、目ざとい弟子たちの間で囁かれた。たびたび樂屋へ出入りをしてゐる増山にも、これは逸早(いちはや)くわかつたことだが、やがて蝶になるべきものが繭の中へこもるやうに、万菊は自分の戀の中へこもつてゐた。彼一人の樂屋は、いはばその戀の繭である。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞臺を豊かにしてゆくだらうが、万菊はさうではない。万菊が戀をする! その途端に、雪姫やお三輪や雛衣(ひなぎぬ)の戀が、彼の身にふりかかつてくるのである。それを思ふと、さすがに増山も只ならぬ思ひがした。増山が高等學校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞臺の万菊が官能を氷の炎にとぢこめ、いつも身一つで成就してゐたあの壮大な感情、……それを今万菊は目(ま)のあたり、彼の日常生活のうちに育(はぐく)んでゐるのである。そこまではいい、しかし、その對象は、才能こそ幾分あるかもしれないが、事(こと)歌舞伎に関しては目に一丁字もない、若い平凡な風采の演出家にすぎない。

  

(八)「とりかへばや物語」の世評はよかつた。正月も七日のことである。増山は万菊の樂屋に呼ばれた。「……今夜ハネたら、御一緒にお食事をしたいんですけど、あなたから御都合を伺つていただけない? 二人きりで、いろいろお話したいつて」「はあ」「わるいわね。あなたにこんな用事をおねがひして」「いや……いいんです」 そのとき万菊の目はぴたりと動きを止(や)めて、ひそかに増山の顔色を窺つてゐるのがわかつた。増山の動搖を期待して、たのしんでゐるやうに感じられた。「ぢやあ、さう申し傳へてまゐりますから」 と増山はすぐ立上つた。川崎は花やかな廊下に似合はぬ身装(みなり)をしてゐた。増山は彼を廊下の片隅へ連れて行つて、万菊の意向を傳へた。「今さら何の用があるんだらう。食事なんてをかしいな。今夜は暇だから、全然都合はいいけど」「何か芝居の話だらう」「チェッ、芝居の話か。もう澤山だな」 川崎は、やつてきて、外套のポケットに両手をつつこんだまま、ぶつきらぼうな挨拶をした。「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。

 

<『中村芝翫論』と『六世中村歌右衛門序説』>

 三島は、祖母と母の影響によって、十三の年から歌舞伎を見はじめ、「丸本をもって行って、役者の型を舞台を見つめながら鉛筆だけうごかして、メモした」(「僕の『地獄変』」)劇評ノートは、のちに『芝居日記』として刊行されているが、作家としてデヴューするや、戸板康二を通じて歌舞伎に関する評論を発表する機会を得、昭和24年に『中村芝翫論』を「季刊 劇場」に発表した。

 現在でも揺るぐことなき六世中村歌右衛門論である『中村芝翫(しかん)論』の美学は、昭和26年に芝翫が六世中村歌右衛門を襲名したさいの歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』においても、あるいは昭和34年に三島が編者となって世に出した『六世中村歌右衛門』写真集の巻頭を飾る『六世中村歌右衛門序説』においてさえもまったく変化していない。すぐに、昭和32年の小説『女方』の雪姫、お三輪の劇評にほぼそのまま使われていることに気づく。

中村芝翫論』の核となる文章はこうだ。

中村芝翫の美は一種の危機感にあるのであろう。

 金閣寺の雪姫が後手に縛(ばく)されたまま深く身を反らす。ほとんどその身が折れはしないかと思われるまで、戦慄的な徐(ゆる)やかさで、ますます深く身を反らす。その胸へ桜が繚乱と散りかかる。

 妹背山(いもせやま)のお三輪がいじめの官女たちにいじめられる。裾(すそ)を乱し、身もだえし、息も絶えんばかりに見える。そのたおやかさが、今にも崩(くず)折(お)れそうな迫力を押しだす。 かごつるべの見染めで八ツ橋が花道へかかる。八文字(はちもんじ)を踏みはじめる合図に、男衆の肩で右手を立てて、本舞台を見込んで嫣然(えんぜん)とする。踏み出す足に華麗な衣裳がグラグラと揺れる。

 こうした刹那(せつな)刹那に、芝翫のたぐいなく優柔な肉体から、ある悲劇的な光線が放たれる。それが舞台全体に、むせぶようなトレモロを漲(みなぎ)らす。妖気に似ている。墨染や滝夜叉が適(かな)うのは当然である。》

芝翫のお三輪や墨染や滝夜叉には、たおやかな悪意が内にこもって、その優柔な肉を力強く支えている。人はそれを陰性という。しかしただの陰性にこのような力はない。彼の演技の中心は、人間の理性をも麻痺させるような力強い・執拗な感性の復讐にあるように思える。》

 

 歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』でも次のように踏襲されている。

《今度の歌右衛門の特徴というべきは、あの迸(ほとばし)るような冷たい情熱であろう。芝翫の舞台を見ていると、冷静な知力や計算のもつ冷たさではなくて、情熱それ自身の持つ冷たさが満溢(まんいつ)している。道成寺のごとき蛇身の鱗(うろこ)の冷たさがありありと感じられ、氷結した火事を見るような壮観である。芝翫の動くところ、どこにも冷たい焔がもえあがり、その焔は氷のように手を灼(や)くだろうと思われる。》

 

『六世中村歌右衛門』写真集の『六世中村歌右衛門序説』では、前記『新歌右衛門のこと』全体をまるごと引用しているうえに、歌右衛門と楽屋で逢い、歌舞伎台本を書き、時代な本読みをはじめ、嫌気を起させた演出の苦労(三島歌舞伎についての文献にあたれば、いくつものエピソードが見つかる)も踏まえての、三島らしい逆説の形而上的論理を展開している。このナルシシスム論こそが、小説『女方』を読み解くうえでの重要なキーである。

 さきに渡辺保が、《歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。(中略)ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。》に相当する白昼夢のような文章がある。

《かりに私が、昼間の銀座街頭を散策して、現代の雑多な現象に目を奪われ、人もなげな様子で腕を組んで歩く若い男女や、目つきの鋭い与太者の群や、春画売りや、昼日中からそれらしい素振りを見せる街娼や、さては家族連れで舶来の洋品を商う店に立寄る有名な実業家や、政治家や、これらの織りなす人出を縫って歩き、新聞社の玄関に発着する夥(おびただ)しい自動車の窓に、緊張した記者やカメラマンの横顔を瞥見(べっけん)しつつ、ようやく劇場の前に達して、外光に馴れた目を一旦場内の薄闇に涵し、むこうにひろがる光りかがやく舞台の上に、たとえばそれが「娘道成寺(むすめどうじょうじ)」の一幕ででもあって、ただひとり踊り抜く歌右衛門の姿を突然見たとする。このとき私の感じるのは、時代からとりのこされた一人の古典的な俳優の姿ではなくて、むしろ今しがたまで耳目を占めてきた雑然たる現代の午(ひる)さがりの光景を、ここに昼の只中の夜(・・・・・・)があって、その夜の中心部で、一人の美しい俳優が、一種の呪術のごときものを施しつつ、引き絞って一点に収斂(しゅうれん)させている姿である。》を受けて、

《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである。

 もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである。》

 さらに三島は表現を変えて称揚した。

《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。》

 

アポロンディオニュソス

 三島作品のほとんど、『仮面の告白』『愛の渇き』『金閣寺』『午後の曳航』『春の雪』『暁の寺』などは、『女方』と同じ構造の下にある。折口やバルトが女形に見抜いた「幻想のようなもの」「シニフィアン」「記号」(対象は、あるときは同性の同級生、あるときは若い園丁、あるときは金閣、あるときは母の恋人、あるときは宮家と婚約した幼なじみ、あるときはタイの姫君、そしてあるときは女形)には、決して到達できない、いや到達してはならない「絶対」であるという構造。妄想によって強化された「幻想(幻影)」に焦がれる悲劇の構造は、空無の、虚無の「絶対」への愛恋でもある(天皇も同じ位置づけ)。不可能な幻想への欲望ゆえに、ついに幻滅し、嫉妬し、はては死という破滅にむかう、美とナルシシスムと悪の三位一体。「幻滅と嫉妬と破滅」とは、なにも三島の病理的なものではなく、ギリシャ悲劇、ラシーヌ劇、歌舞伎にみられる、古典的であるからこそ現代的でもある病理、深層心理に裏打ちされたもので、それゆえに歌右衛門は魅力的であったし、同じく三島文学もまた魅力的なのである。

 さきに引用したように、三島は『六世中村歌右衛門序説』に、《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである》と書いたが、それこそが『女方』において、《増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた》という増山への三島の仮託だったろう。

 しかし本心では三島は、増山ではなく万菊(歌右衛門)に、つまりは「俳優」(女形)を、自身を意味する「作家」に置き換えたいと欲望していたのではないか。すると、「私はかねて作家という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、作家というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら作家のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである」と欲望したが、鏡の映像は、美とはほど遠い貧弱な肉体をもった自分そのものであることに絶望しつづけたのではないか。

 三島は歌右衛門のような、《もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである》という存在には、いくら肉体美を得ようとも「鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではない」存在には、舞台で演じる女方とは違って、作家はなりえないのだった。

 女形歌右衛門は不敗であったが、作家三島は、《『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた》のように、幻影のはてで「幻滅と嫉妬と破滅」すること、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」(遺作『豊饒の海 天人五衰』末尾)ことで必敗なのであり、むしろ必敗の美学の芸術家として生きたのだった。

「あとがき」の、《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する》とは、ときに正直すぎる人三島が真正直に心中を吐露したものだろう。

 ニーチェは『悲劇の誕生』で、芸術は、夢の世界としてのアポロン的なものと、陶酔の世界としてのディオニソス的なものの対立を軸として発展してきて、しかもアポロン的なものディオニュソス的なものとの二重性に結びついているということを指摘した。早くからニーチェに心酔し、理解していた明晰な三島は、アポロン的なものディオニソス的なものを軸として、しかも二重性を忘れることなく、たくみに仮面の裏表を操る芸術家として数々の作品を世に出してきたが、幼いころから自己の暴力的で血の滴るディオニソス性の不足をはっきりと感じていた。衰退せる近代人としてのアポロン的な夢みる三島は、自分もまた、歌右衛門のようなディオニソス的な陶酔の悲劇の主人公であることを望んだが、ついぞかなわなかった。『女方』は万菊こと歌右衛門を揶揄した小説ではなく、増山であり川崎である三島自身を揶揄した小説なのだ。

 しかしそれでも、《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである》との頌は、そのまま作家三島由紀夫にあてはめることができよう。

「一人の作家の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく作家の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの作品の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて作家は、一時代の個性になり、魂になる。私は三島由紀夫にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。」

 

 昭和45年(1970年)の三島没から四半世紀以上、歌右衛門は三島が嫌悪した老いを、『女方』に描かれた「役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位」をもって生き抜いた。容色が大事な女形ゆえになおさら、忍び寄る老いの醜と孤独に闘い、内面と外面の拮抗によって芸は円熟し、醜の美とでもいった奇蹟を生んだ。「美とナルシシスムと悪」に、老いと孤独と醜を加えて、七十九歳の最後の舞台、平成8年(1996年)8月の舞踊『関寺小町』まで歌右衛門は、『女方』に描かれた「女性的なディオニュソス」として陶酔を観客に与え続けたと知る時、三島が『女方』の万菊に、晩年の孤高の残光に揺らめく「夢と現實との不倫の交はりから生れた」女形歌右衛門の未来の幻影までも織り込んでいたことに気づかされる。

                                 (了)

 

           ****参考または引用文献****

吉田修一『国宝 (上・下)』(朝日新聞出版)

*『新潮 2018年12月号』(渡辺保書評「歌舞伎と小説のあいだ――『国宝(上・下)』吉田修一」所収)(新潮社)

*『婦人公論 2019年10月23日号』(「令和元年「中央公論文芸賞」受賞作『国宝』選評 浅田次郎鹿島茂林真理子村山由佳」所収)(中央公論社

三島由紀夫女方』(日本ペンクラブ 電子文藝館、講談社「日本現代文学全集」)

*『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)

戸板康二三島由紀夫対談『歌右衛門の美しさ』(劇評別冊「六世 中村歌右衛門」昭和26年4月)

*木谷真紀子『三島由紀夫と歌舞伎』翰林書房

*『三島由紀夫研究⑨ 三島由紀夫と歌舞伎』松本徹ほか(鼎書房)

*『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)

三島由紀夫自選短編集『花ざかりの森・憂国』(『女方』所収)(新潮文庫

三島由紀夫自選短編集『真夏の死』(『貴顕』所収)(新潮文庫

中村歌右衛門『「三島歌舞伎」の世界』聞き手 織田紘二(『芝居日記』所収、新潮社)

*『折口信夫全集22 かぶき讃(芸能史2)』(中央公論社

ロラン・バルトロラン・バルト著作集7 記号の国』石川美子訳(みすず書房

ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳(岩波文庫

渡辺保女形の運命』(岩波現代文庫

渡辺保歌右衛門伝説』(新潮社)

渡辺保(文)、渡辺文雄(写真)『歌右衛門 名残の花』(マガジンハウス)

渡辺保『歌舞伎のことば』(大修館書店)

渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社)

*関容子『歌右衛門合せ鏡』(文藝春秋

*「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)

木下千花溝口健二論  映画の美学と政治学』(「芸道物考」所収)(法政大学出版局