文学批評 村上春樹『海辺のカフカ』のカラマーゾフ的ポリフォニー

 

 

 村上春樹スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」に書いている。

《もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』である。》

 

 さて、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の終盤39章に『カラマーゾフの兄弟』への言及がある。

《「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールには口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。

「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」

「もう一度読むといいよ。あの本にはいろいろなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」

 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。

「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」

「だから人生を限定するの?」

「かもしれない」と私は言った。》

《私は目を閉じて『カラマーゾフの兄弟』の三兄弟の名前を思い出してみた。ミーチャ、イヴァン、アリョーシャ、それに腹違いのスメルジャコフ。『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の名前を全部言える人間がいったい世間に何人いるだろう?》

《太陽がフロント・グラスから射(さ)しこんで、私を光の中に包んでいた。目を閉じるとその光が私の瞼(まぶた)をあたためているのが感じられた。(中略)宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。》

 

  村上は2008年にスペイン誌のインタビューで、《十四歳か十五歳のときは一晩中、ロシアの古典を読んで過ごしました。今でも『戦争と平和』をむさぼり読んだときの幸福感を覚えています。今までに『カラマーゾフの兄弟』は四回読みました》と答え、ロシアの読者からの質問に、《僕は、自分の小説の最終的な目標を、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においています。そこには、小説が持つすべての要素が詰め込まれています。そしてそれは、ひとつに統一された見事な宇宙を形成しています。僕はそのようなかたちをとった、現代における「総合小説」のようなものを書きたいと考えています。それはずいぶん難しいことかもしれないけれど》と応じてはいるものの、『カラマーゾフの兄弟』が村上の小説に具体的にどのような影響を与えたのかは曖昧なままだ。

 チャンドラーやフィッツジェラルドについては繰り返し語っている(文章のリズム、比喩、リアリティー、都市小説、”seek and Find”などであり、チャンドラー『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」には《小説というものを書き始めるにあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった(なにしろ彼は名にしおう名文家だから、学ぶべきことは実に数多くある)。しかし僕が彼から学んだ本当に大事なことは、むしろ目に見えない部分である。緻密な仮説ディテイルの注意深い集積を通して、世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識な確かさである》と書いている)のと比べてほとんど何も語っていない。

 あるとしても、《この前、久し振りにドストエフスキーの『悪霊』を読み返してみたんです。いやぁ、やっぱりいいですねぇ。小説としては、そんなに完全な小説ではないというか、『カラマーゾフの兄弟』に比べれば、構成としてはいくぶん落ちる小説だと思うんですが、読んでいて、この振り回され方というのはやはりすさまじいものだなと思いました》といった遠まわしの表現にすぎないからだろう。

 

<現実と非現実の境界/悪と暗闇>

 村上は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の「『海辺のカフカ』を中心に」((初出:『文學界』2003年4月号)でこんなことを語っている。

《『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、「精神的総合風景」とでもいうべきものから抜き取ってしまった。》

《僕の場合は、物語のダイナミズムというよりは、むしろそういう現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。たとえば『海辺のカフカ』にもギリシャ神話とかオイディプスの問題が出てくるんだけど、もちろん西洋文化というのは、一つが『聖書』、一つが古代ギリシャというのが二つの大きな源流になっていて、とにかくギリシャ世界においては異界とこの世界というふうに分かれているんですが、日本の場合は自然にすっと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけれど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと転換させないと向こう側の世界に行けない。》

《たとえば、『海辺のカフカ』における悪というものは、やはり、地下二階(筆者註:村上は「『海辺のカフカ』を中心に」で比喩を用いて説明する、《人間の存在というのは、二階建ての家だと僕は思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。(中略)その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(中略)その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。(中略)いわゆる日本の近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんど地下一階でやっているんです、僕の考え方とすれば》)の部分。彼が父親から遺伝子として血として引き継いできた地下二階の部分、これは引き継ぐものだと僕は思うんですよ。多かれ少なかれ子どもというのは親からそういうものを引き継いでいくものです。呪いであれ祝福であれ、それはもう血の中に入っているものだし、それは古代にまで遡(さかのぼ)っていけるものだというふうに僕は考えているわけです。(中略)そこには古代の闇みたいなものがあり、そこで人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうものは綿々と続いているものだと思うんです。(中略)根源的な記憶として。カフカ君が引き継いでいるのもそれなんです。それを引き継ぎたくなくても、彼には選べないんです。それが僕はこの話のいちばん深い暗い部分だというふうに思うんです。》

《だから僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダーズみたいなものは実在するんだということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出て来るんだ、ということ。それこそタンジブル(筆者註:蝕知できる、手触り感がある)なものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について書くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。》

 

 村上春樹はかつて河合隼雄にこんな質問を向けたことがある。

《村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。

河合 どういう超自然性ですか?

村上 つまり怨霊とか…

河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。

村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?

河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。》

 

<「seek and Find」>

ユリイカ チャンドラー特集 1982年7月号』「川本三郎村上春樹 対話R・チャンドラーあるいは都市小説について」で、

《村上 僕の場合はチャンドラーの方法論というのを、まあ変な言葉だけど、いわゆる純文学の土壌に持ち込みたいというのが最初にあるわけです。どうすりゃ持ち込めるかっていうところで、ずっと模索して来たという感じですね。

川本 チャンドラーの方法論というと、何かいきなり大きな話になっちゃうけど。

村上 早すぎますか? (笑)僕は、チャンドラーのひとつのテーマというのは、英語で言うと「seek and Find 」という「探し求めて、探し出す」という……。でもfindした時にはseekすべきものは変質しているというようなことがテーマだと思うんです。それが仮に、ミステリーという形態をとったにすぎないんじゃないかという風に捉えちゃうわけですね。僕の場合も、どうしても「seek and Find」というように行っちゃうんです。『1973年のピンボール』の場合もそうだったし、今度書いたのはもっとそうなんです。そういう意味で、チャンドラーのやってたことを、ハードボイルドとは別の形で、自分なりに持ち込みたいというのがテーマなんです。》

 

海辺のカフカ』もまた「seek and Find」に違いなく、17章、《「背反性といえばね」と大島さんは思いだしたように言う。「最初に君に会ったときから、僕はこう感じているんだ。君はなにかを強く求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとしているって。君にはそう思わせるところがある」

「求めるって、どんなものを?」

 大島さんは首を振る。バックミラーに向かって顔をしかめる。「さあ、どんなものだろう。僕にはわからない。ただの印象をただの印象として述べているだけだ」

 僕は黙っている。

「経験的なことを言うなら、人が何かを強く求めるとき、それはまずやってこない。人がなにかを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。もちろんこれは一般論に過ぎないわけだけれどね」》

 

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』>

 バフチンは『ドストエフスキー詩学』の「結語」で、《ドストエフスキーは、ヨーロッパの芸術的な散文の発展における《対話路線》を継承しながらも、小説というジャンルに新しいバリエーションを一つ追加したのである。それがポリフォニー小説であり、本論考ではその斬新な特性を明らかにしようとしたのだった。ポリフォニー小説の創造は、小説という芸術的散文の発展、つまり小説という軌道上におけるあらゆるジャンルの発展にとってのみならず、人類の芸術的思考全般の発展にとっても、大いなる前進の一歩であったとみなすことができよう。すなわちこれは、小説というジャンルの枠を超えた、ある特殊なポリフォニー的芸術思考そのものとして論ずることのできる問題だと思われるのである。そうした思考こそが、ノローグ的な立場からは芸術的に捉えることが不可能な人間の諸側面、とりわけ思考する人間の意識とその対話的存在圏を把握することができるのである》とした。

 

ポリフォニー

ドストエフスキー詩学』の「第一章 ドストエフスキーポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」で、《それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。したがって主人公の言葉の役割は、通常の意味の性格造形や筋の運びのためのプラグマチックな機能に尽きるものではないし、また(バイロンの作品におけるように)作者自身のイデオロギー的な立場を代弁しているわけでもない。主人公の意識は、もう一つの、他者の意識として提示されているのだが、同時にそれは物象化され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。この意味でドストエフスキーの主人公の形象は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。》

 

「第二章 ドストエフスキーの創作における主人公および主人公に対する作者の位置」では、《主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、一定の確固たる社会的タイプや個人的性格のしるしを持った、社会の一現象としてでもなければ、《彼は何者か?》という問いに全体として答えることのできるような、一義的で客観的な特徴から形成された、一定の人物像としてでもない。主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、世界と自分自身に対する特別の視点としてであり、人間が自身と周囲の現実に対して持つ意味と価値の立場としてである。ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界が何であるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである。

 これは主人公の捉え方としてはきわめて重要かつ本質的な特殊性である。視点としての主人公、世界と自分に対する視線としての主人公という存在は、それを解明し芸術的に性格づけるためには、まったく特殊な方法を必要とする。つまりそこで解明し性格づけるべきものは、主人公という一定の存在、彼の確固たる形象ではなく、彼の意識および自意識の総決算、つまりは自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な言葉なのである。》

 

<イデエ>

ドストエフスキー詩学』の「第三章 ドストエフスキーのイデエ」で、《ドストエフスキーにおいて人間が自らの《物質性》を克服して《人間の内なる人間》となるためには、まず純粋な完結し得ないイデエの領域に参入して、いわば私心のないイデエの人間になることが前提となるとも言えるからである。ドストエフスキーの主導的人物、つまり大きな対話に参加する主人公たちは、すべてそうした人間なのである。

 その意味ではゾシマ長老がイワン・カラマーゾフの人格に与えた定義が、主導的人物の全員に当てはまる。ゾシマの定義はもちろん教会関係者の言葉で、つまり自らがそこで生きているキリスト教イデエの領域の概念で語られているのだが。これに関してゾシマとイワンとの間で交わされる、いかにもドストエフスキーらしい、互いの心に染み透る対話の断片を引用しよう。

「するとあなたは、魂の不死に対する人々の信仰の念が涸渇するとそのような結果に至るのだと、本気で信じていられるのですか?」

不意にゾシマはイワン・フョードロヴィッチに尋ねた。

 「はい、私はそう確信しています。もし不死がなければ、善もありません。」

 「もしそう信じておられるなら、あなたは幸いな方です。いや大変に不幸な方かもしれない。」

 「なぜ不幸だと?」

  イワン・フョードロヴィッチはにっこりと笑った。

 「なぜなら恐らくあなたご自身が、自らの魂の不死も、それから教会や教会問題についてお書きになったことさえも、信じておられないからです。」

 「多分おっしゃる通りでしょう!……しかしそれでも私はまったくの冗談のつもりで申したのでは……」

  突然イワン・フョードロヴィッチは急速に顔を赤らめ、奇妙な調子で告白した。

 「まったくの冗談のつもりでおっしゃったのでないことはその通りでしょう。その思想はまだあなたの心の中で解決がついておらず、心を苦しめているのです。しかし苦しんでいる人間も、時に自分の絶望を気晴らしの種にしたくなるものです。あるいはそれも絶望のなせる業かもしれません。いまのところあなたは絶望に身を任せて、雑誌に論文を書いたり世間で議論をしたりして気晴らしをしている。ただし自分の議論を自分でも信じておられず、心の痛みを隠しながら秘かにほくそ笑んでいる……この問題はまだあなたの内で解決されていません。そしてそこにこそあなたの大きな悲哀があるのです。なぜならそれは解決を求めてやまないからです……

 「でもそれが私の内で解決されることがあり得るでしょうか? 肯定の方向に解決されることが?」

  イワン・フョートロヴィッチは相変わらずいわく言いがたい笑みを浮かべて長老を 見つめながら、奇妙な口調で質問を続けた。

 「もし肯定の方向に解決されないとしたら、決して否定の方向にも解決されません。そうしたご自分の心の特徴はご自身で知っておられるでしょう。そこにこそあなたの心の苦悩のすべてがあるのです。しかしそのような苦悩を苦しむことのできる高き心を授かったことに対して、造物主に感謝されるがよい。『高きものに心を馳せ、高きものを求めよ。我らが住処(すみか)は天井にあればなり。』どうか神のお恵みにより、あなたがまだ地上におられるうちに心の解決があなたを訪れますように、そして神があなたの行く手を祝福されますように!」[『カラマーゾフの兄弟』第一部第二編第六章]

 これと同様な定義を、もっと世俗的な言葉で、アリョーシャがラキーチンとの会話において、イワンに対して与えている。

 「ああミーシャ、彼(イワン――バフチン)の魂は荒れ狂っている。理性がとらわれているのだ。彼の内には大きな、未解決の思想がある。イワンは百万の金よりも、思想の解決を必要とするような大きな人間なのだ。」[同、第一部第二編第七章]》

 

海辺のカフカ』でも、カフカ少年と大島さんの心に染み透る対話は、イデエをめぐって、高きものに心を馳せ、高きものを求めてなされている。ベートーヴェンの「大公トリオ」に目覚めてゆく肉体労働者の星野青年も、《「ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」と言う大島さんの兄でサーファーのサダさんも。

 

<「冒険小説」>

海辺のカフカ』は、15歳の主人公による「冒険小説」であり、またドストエフスキーがときに揶揄されもした「探偵小説」でもある。

ドストエフスキー詩学』の「第四章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」で、《だが何のためにドストエフスキーは冒険小説的世界を必要としたのだろうか? それは彼の芸術的構想の中でどのような機能を担っているのか?

 この問いへの答えとして、グロスマンは冒険小説的プロットの三つの基本機能を挙げている。第一に、冒険小説的世界の導入によって、読む者を魅了する話の面白みが生まれ、哲学理論や様々な人物像や複数の人間関係が一つの小説の中に詰め込まれた迷宮世界をたどってゆく読者の苦労が軽減される。第二に、ドストエフスキーはフェリエトン(筆者註:世相風刺)小説の中に「乞食が幸運に恵まれたり、捨子が救われたりといった珍しい話の背後に常に感じられる、虐げられ辱められた人間たちへの同情の火花」を見出した。最後に、そこにはドストエフスキーの創作の「根源的な特徴」が現れている。それはすなわち「例外的なものをきわめて日常的なものの真っただ中に放り込み、ロマン主義原理に則って、崇高なものとグロテスクなものを一つに結びつけ、日常の現実的な人物像や現象に目立たぬように手を加えて、ほとんど幻想的なものに変えてしまおうとする意志」である。(中略)

 グロスマンが指摘した機能は副次的なものであって、本質的なもの、重要なものはそこにはない。(中略)

 冒険小説のプロットは、ドストエフスキーにおいては深淵で先鋭な問題提起性と結びついている。それどころかそれはそっくりイデエに奉仕する使命を持っているのである。プロットが人物を例外的な状況に置き、彼の内面を開示し挑発して、異常で思いがけないシチュエーションの中で彼を他の人物たちと出会わせ、衝突させる。それはみなイデエおよびイデエの人間、すなわち《人間の内なる人間》を試練にかけることを目的としているのである。そのおかげで冒険小説が、一見それとは無縁な告白や伝記その他のジャンルと、結びつき得るのだ。》

 

<カーニバル>

ドストエフスキー詩学』の訳者望月哲男による「解説」を引用すれば、《バフチンは、ドストエフスキー文学のジャンル上の源を求めて、はるか文学史の古代まで遡ってゆく。バフチンはここで小説一般のジャンル的な源泉の一つとして、叙事詩、弁論術と並んで、「カーニバル文学」というカテゴリーを設定している。それはカーニバル的世界の諸特徴――異質な人間同士の無遠慮な接触、常軌を逸した振舞い、蘇りを促す笑いやパロディーなどの要素――を反映したジャンルである。カーニバル文学は、古代における《ソクラテスの対話》《メニッポスの風刺》といった「真面目な笑話」として生まれ、中世の世俗文学や宗教文学に受け継がれ、ルネッサンス期のエラスムスラブレー、セルヴァンテスなどにおいて自在に展開された。そして近代のヴォルテールディドロ、スターン、ホフマンなどにもその反響が見られる。この系列に文学においては、聖と俗、真面目さと不真面目さ、高級な文体と卑俗な文体といった諸レベルでの混交を通じて社会の規範が相対化されると同時に、様々な極限状況の中で思想が試みられる。》

ドストエフスキー詩学』の「第四章 ドストエフスキーの作品のジャンルおよびプロット構成の諸特徴」で、《彼の創作世界に生息するものはすべて、自らの対立物との境界線上に立っているのである。愛は憎悪との境界線上に生息し、憎悪を知り、理解しているのであり、一方憎悪は愛との境界線上に生息し、同じように愛を理解しているのである(ヴェルシーロフの愛憎、カテリーナ・イワーノヴナのドミートリー・カラマーゾフに対する愛がそうであり、ある程度はイワンのカテリーナ・イワーノヴナへの愛やドミートリーのグルーシェンカへの愛もそうである)。また信仰は無神論との境界線上に生息して、無神論の中に映る自分の姿を見、無神論を理解するのであり、一方無神論は信仰との境界線上に生息し、信仰を理解するのである。崇高や高潔は、堕落や卑劣との境界線上に生息している(ドミートリー・カラマーゾフ)。生に対する愛は自己消滅の欲望に隣接している(キリーロフ)。純粋無垢と賢知は背徳と肉欲を理解しているのである(アリョーシャ・カラマーゾフ)。》

 

 村上は「『海辺のカフカ』を中心に」で、《異界に生きてるものです。ジョニー・ウォーカーカーネル・サンダーズも、やはり同じで、暗闇の中から現れる「演者」なんです。》、《あのカーネル・サンダーズとジョニー・ウォーカーという二つのアイコンがなかったらあの物語はうまく進まなかっただろうなあと思います。》と語っているが、彼らはカーニヴァルの一員であろう。

 

 バフチンは、《カーニバル的世界感覚はまた、「哲学に遊女のけばけばしい衣装をまとわせる」ことも可能にしたのだった。》と述べたが、『海辺のカフカ』28章、《カーネル・サンダーズは路地を抜け、信号を無視して大きな通りを渡り、またしばらく歩いた。それから橋を渡り、神社の中に入っていった。(中略)15分後に女が現れた。カーネル・サンダーズが言ったとり、素晴らしい体つきの美人だった。(中略)風呂の中で彼の身体をきれいに洗い、舐(な)めまわし、それから見たことも聞いたこともないような超弩級(どきゅう)の芸術的なフェラチオをした。星野青年は何も考える余裕もなく射精してしまった。(中略) 

「でも気持ちよかったよ」

「どれくらい?

「過去のことも未来のことも考えられないくらい」

「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ』」

 青年は顔をあげ、口を半分あけて、女の顔を見た。「それ、何?」

「アンリ・ベルグソン」と彼女は亀頭に唇をつけ、精液の残りを舐めてとりながら言った。「うっひふほひおふ」

「よく聞こえない」

「『物質と記憶』。読んだことないの?」

「ないと思う」と星野青年は少し考えてから言った。(中略)

ヘーゲルはおすすめよね。ちっと古いけど、ちゃんちゃかちゃん、オールディーズ、バット・グディーズ」

「いいね」

「『<私>は関連の内容であるのと同時に、関連することそのものでもある』」

「ふうん」

ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけでなはなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの・それが自己意識」

「ぜんぜんわからないな」

「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ、ホシノちゃん。私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。ホシノちゃんが自己で、私が客体。私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。行為的に。簡単に言えば」

「まだよくわからないけど、なんか励まされてる気がする」

「それがポイントだよ」と女は言った。》

 

<「そそのかし」/「分身」/田村カフカ(カラスと呼ばれる少年)≒イワン・カラマーゾフ(悪魔)/ナカタさん≒スメルジャコフ>

ドストエフスキー詩学』の「第五章 ドストエフスキーの言葉」で、《悪魔はイワン・カラマーゾフの耳にイワン自身の言葉を叫び立てながら、法廷で自白しようという彼の決心に愚弄嘲笑的な解説を加え、彼の秘中の秘である思想を他者の調子で反復するのである。(中略)ここではとりあえず、その対話のすぐ後にイワンが興奮しながらアリョーシャに語る叙述を引用することにしよう。(中略)

 「確かにそうだが、あいつは腹黒いんだ。あいつは図々しい奴なんだよ、アリョーシャ」とイワンは、悔しさに身を震わせながら呟いた。「だが、あいつはこの僕を中傷したんだ、あれやこれやと中傷したんだ。面と向かってこの僕に言いがかりをつけやがったんだ。『おお、お前は美徳の偉業を成し遂げるつもりなんだろう、父親を殺したんです、下男が自分にそそのかされて父親を殺したんですって宣言するつもりなんだろう』……」[『カラマーゾフの兄弟』第四部第十一編第一〇章](中略)

 しかしもちろん、このイワンの自意識の完全な対話化は、ドストエフスキーにおいてはいつでもそうであるようにして、主人公の意識と発話の中に忍び込んでゆくのである。すなわちそれは、あるときはモノローグ的な自信に満ちた発話の中の休止があるべきではない場所での休止の形で、またあるときはフレーズの腰を折る他者のアクセントの形で、またあるときは自らの異常に高揚し誇張された調子かあるいはヒステリックな調子の形で、等々といった具合に忍び込んでゆくのである。(中略)

 他者の声によってアクセントを変えられた主人公自身の言葉が彼の耳にささやかれ、その結果一つの言葉、一つの発話の中で様々な方向性を持った言葉と声がきわめて独特な形で絡み合い、一つの意識の中で二つの意識が切り結ぶという現象は、その形式、程度、イデオロギー傾向の差はあれ、ドストエフスキーの作品すべてに固有の現象である。》

《イワン・カラマーゾフはまだ全面的にドミートリーの有罪を信じている。しかし心の奥底では、まだ自分自身からほとんど隠したままで、自分自身の罪について自問している。彼の心の中の内的闘争は、極度に緊張した性格を帯びている。これから引用するアリョーシャとの対話がやりとりされるのは、まさしくそういう瞬間においてである。

 アリョーシャはドミートリーの有罪を断固否定する。

 「お前の考えでは、いったい誰が殺したんだい?」何だか冷ややかな様子でイワンは尋ねたが、その語調には何か横柄な感じが響いていた。

 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」アリョーシャは静かに、心に染み透るような声で言った。

 「誰なんだい? あの頭のいかれた白痴の癲癇(てんかん)持ちだっていう作り話のことかい? スメルジャコーフの話のことかい?」

  アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。

 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」彼の口から力のない声が漏れた。彼は息が詰まりそうだった。

 「だから誰さ、誰なんだ?」もはやほとんど凶暴な声でイワンは叫んだ。堪忍袋の緒が突然ぷつりと切れてしまった。

 「僕が知ってるのはたった一つです」相変わらずささやくようにして言った。「父さんを殺したのはあなたじゃないってことです。」

 「『あなたじゃない(・・・・・・・)』だって! あなたじゃないとはどういうことなんだ?」イワンは棒のように立ち尽くしてしまった。

 「父さんを殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃないんです!」アリョーシャはきっぱりと繰り返した。三十秒ほど沈黙が続いた。

 「そうさ、俺自身だって、自分じゃないことぐらい知ってるさ、熱に浮かされてでもいるのか?」青ざめた、歪んだ薄笑いを浮かべて、イワンは言った。彼の目はまるでアリョーシャに吸い込まれてしまったかのようだった。二人はまた街灯の近くに立っていた。

 「いいえ、イワン、あなた自身が何度か自分に言ったんですよ、あなたが殺したんだってね。」

 「俺がいつ言った?……俺はモスクワにいたんだぞ……俺がいつ言ったというんだ?」イワンはすっかり途方に暮れて呟いた。(後略)[『カラマーゾフの兄弟』第四部第一一編第五章]》

 

ドストエフスキー詩学』の「第五章 ドストエフスキーの言葉」には、ドストエフスキー『分身』への言及がある。《ドストエフスキーは『分身』を《告白》として(もちろん、個人的な意味の告白ではなく)つまり自意識の枠内で生起する出来事の描写として考えていた。『分身』――それはドストエフスキーの創作における最初の劇化された告白なのである。》、そして《イワンの内的発話と交錯し合うアリョーシャの言葉は、イワンの言葉と思想をこれまた反復する悪魔の言葉と比較してみる必要がある。(中略)悪魔はイワンのように話しもするが、また同時にイワンのアクセントを悪意的に誇張し、歪めてしまう《他者》としても話すのである。「お前は俺だ、俺自身なんだ、ただ面(つら)が違うだけなんだ」[『カラマーゾフの兄弟』、第四部第一一編第九章]――イワンは悪魔にそう言っている。》

 

海辺のカフカ』にも「カラスとよばれる少年」がカフカ少年の「分身」のように現れる。33章でカフカ少年は佐伯さんに、《「はぐれたカラスとおなじです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカとはチェコ語でカラスのことです」》と話す。11章でさくらさんに、《「頭がかっとすると、まるでヒューズが飛んじゃったみたいになる。誰かが僕の頭の中のスイッチを押して、考えるより先に身体が動いていってしまう。そこにいるのは僕だけど、僕じゃない」》と、27章では大島さんに《「でもときどき自分の中にもうひとりべつの誰かがいるみたいな感じになる。そして気がついたときには、僕は誰かを傷つけてしまっている」》と告白する。

 そして、46章と47章に挟まれて、「カラスと呼ばれる少年」がジョニー・ウォーカーを襲い、両目を執拗に攻撃して穴の様にからっぽにして、舌を引きずりだす。

 

海辺のカフカ』21章、《「おとといの新聞だよ。君が山の中にいるあいだに出た記事だ。それを読んで、そこにある田村浩一というのは、ひょっとして君のお父さんじゃないかと思った。考えてみればいろんな状況がぴたりと合っているからね。ほんとうは昨日見せるべきだったんだろうけれど、君がまずここに落ちついてからのほうがいいと思ったんだ」

 僕はうなずく。僕はまだ目を押えている。大島さんは机の前の回転椅子(いす)に座り、足を組み、こちらを見ている。なにも言わない。

「僕が殺したわけじゃない」

「もちろんわかっているよ」と大島さんは言う。「君はその日、夕方までこの図書館にいて本を読んでいた。それから東京に帰ってお父さんを殺して、その足でまた高松に戻ってくるのは、どうみても時間的に不可能だ」

 でも僕にはそれほど確信がもてない。父が殺されたのは、頭の中で計算してみると、ちょうど僕のシャツにべったりと血がついていた日なのだ。(中略)

「ねえ大島さん、父親が何年も前から僕に予言していたことがあるんだ」

「予言?」

「このことはまだほかの誰にも話したことがないんだ。正直に話しても、たぶん誰も信じてはくれないと思ったから」

 大島さんはなにも言わずに黙っている。でもその沈黙は僕を励ましてくれる。

 僕は言う。「予言というよりは、呪(のろ)いに近いかもしれないな。父は何度も何度も、それを繰りかえし僕に聞かせた。まるで僕の意識に鑿(のみ)でその一字一字を刻みこむみたいにね」

 僕は深く息を吸いこむ。そして僕がこれから口にしなくてはならないものごとをもう一度確認する。もちろん確認するまでもなく、それはそこにある。それはいつだってそこにある。でも僕はその重みをもう一度測ってみなくてはならない。

 僕は言う。「お前はいつかその手で父親を殺し(・・・・・・・・・・・・・・・)、いつか母親と交わることになる(・・・・・・・・・・・・・・)って」

 それをいったん口に出してしまうと、あらためてかたちある言葉にしてしまうと、僕の心の中に大きな空洞のような感覚が生まれる。その架空の空洞の中で、僕の心臓は金属的な、うつろな音をたてている。大島さんは表情を変えずに、長いあいだ僕の顔を見ている。

「君はいつか君の手でお父さんを殺し、いつかお母さんと交わることになる――そうお父さんが言ったわけだね」

 僕は何度かうなずく。

「それはオイディプス王が受けた予言とまったく同じだ。そのことはもちろん君にはわかっているんだろうね?」

 僕はうなずく。「でもそれだけじゃない。もうひとつおまけがある。僕には6歳年上の姉もいるんだけど、その姉ともいつか交わることになるだろうと父は言った」

「君のお父さんはそれを君に向かって予言したんだね?」

そうだよ。でもそのとき僕はまだ小学生で、交わる(・・・)という言葉の意味もわからなかった。それが理解できたのは何年もあとのことだった」(中略)

 大島さんは言う。「君のお父さんの作品をこれまで何度か実際に見たことがある。才能のある優れた彫刻家だった。オリジナルで、挑戦的で、おもねるところがなく、力強い。彼の造っているものはまちがいなく本物だった」

「そうかもしれない。でもね、大島さん。そういうものをひっぱりだしてきたあとの残りかすを、毒のようなものを、父はまわりにまきちらし、ぶっつけなくちゃならなかったんだ。父は自分のまわりにいる人間をすべて汚して、損なっていた。父が求めてそうしていたのかどうか、僕は知らない。ただそうしないわけにはいかなかったということなのかもしれない。もともとそういうふうにつくられていたということなのかもしれない。でもどっちにしても父はそういう意味では、とくべつななにか(・・・)と結びついていたんじゃないかと思うんだ。僕の言いたいことはわかる?」

「わかると思う」と大島さんは言う。「そのなにか(・・・)はおそらく、善とか悪とかいう峻別を超えたものなんだろう。力の源泉と言えばいいのかもしれない」

「そして僕はその遺伝子を半分受け継いでいる。母が僕を置いて出ていったのも、そのせいかもしれない。不吉な源泉から生まれたものとして、汚れたもの、損なわれたものとして僕を切り捨てたんじゃないのかな」(中略)

 僕は黙って自分の手を広げ、それを眺める。夜の深い闇の中で、真っ黒な不吉な血にまみれていたその両手を。

「正直なところ僕にはそれほど確信が持てないんだ」と僕は言う。

 僕は大島さんにすべてをうちあける。その夜、図書館からの帰りに何時間か意識をうしなって、神社の森の中で目を覚ましたとき、僕のシャツにはべっとりと誰かの血がついていたこと。その血を神社の洗面所で洗い流したこと。数時間分の記憶がまったく消えてしまっていること。話が長くなるので、その夜にさくらの部屋に泊まったところは省く。大島さんはときどき質問し、細かい事実を確認し、頭の中に入れていく。でもそれについての意見は口にしない。

「その血を僕がどこでつけてきたのか、それが誰の血なのか、まったくわからない。僕にはなにも思いだせない」と僕は言う。「でもね、メタファーとかそんなんじゃなく、僕がこの手でじっさいに父を殺したのかもしれない。そんな気がするんだ。たしかに僕はその日東京には戻らなかった。大島さんが言うようにずっと高松にいた。それはたしかだよ。でも『夢の中で責任が始まる』、そうだね?」

「イェーツの詩だ」と大島さんは言う。

 僕は言う、「僕は夢をとおして父を殺したかもしれない。とくべつな夢の回路みたいなのをとおって、父を殺しにいったのかもしれない」》

 

海辺のカフカ』14章、《ジョニー・ウォーカーはくすくすと笑った。「人が人ではなくなる」と彼は繰り返した。「君が君ではなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ。『ああ、おれの心のなかを、さそりが一杯はいずりまわる!』、これもまたマクベスの台詞だな」

 ナカタさんは無言で椅子から立ち上がった。誰にも、ナカタさん自身にさえ、その行動を止めることはできなかった。彼は大きな足取りで前に進み、机の上に置いてあったナイフのひとつを、迷うことなくつかんだ。ステーキナイフのような形をした大型のナイフだった。ナカタさんはその木製の柄を握りしめ、刃の部分をジョニー・ウォーカーの胸に根もと近くまで、躊躇なく突き立てた。》

 

海辺のカフカ』42章、《「わかっています。いろんなものをあるべきかたち(・・・・・・・)に戻すためですね」

 ナカタさんはうなずいた。「そのとおりです」

「あなたにはその資格がある」

「ナカタには資格ということがよくわかりません。しかし、サエキさん、いずれにせよそれは選びようのないことでありました。実を申しますと、ナカタは中野区でひとりのひとを殺しもしました。ナカタはひとを殺したくはありませんでした。しかしジョニー・ウォーカーさんに導かれて、ナカタはそこにいたはずの15歳の少年のかわりに、ひとりのひとを殺したのであります。ナカタはそれを引き受けないわけにはいかなかったのであります」》

 

<「復活」/田村カフカ≒アリョーシャ・カラマーゾフ

カラマーゾフの兄弟』第三部第七編第四章「ガリラヤのカナ」の最後に美しい場面がある。

《アリョーシャ(筆者註:卒業まで一年を残して中退し、三等車で故郷に戻っていた)は三十秒ほど、棺を、棺のなかでマントに覆われ、動かずにまっすぐ身を横たえている亡骸(筆者註:ゾシマ長老)を見つめた。胸に聖像をいだき、頭部にはギリシャ十字架のついた頭巾が被せられていた。アリョーシャはさっきその人の声を耳にしたばかりで、その声がまだ耳元で鳴りひびいていた。彼はなおも耳を傾け、声がひびくのを待っていた……が、いきなり身を翻すと、そのまま彼はふっと庵室を出て行った。(中略)

 微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた……アリョーシャは立ったまま、星空を眺めていたが、ふいに、なぎ倒されたように大地に倒れこんだ。(中略)

 そう、彼は、歓びにわれを忘れて泣いていたのだ。天蓋から彼にむかってささやく「自分のそうした有頂天を恥じてはいなかった」これらすべての、数限りない神の世界から伸びる糸が、彼の魂のなかでひとつに結びあい、「異界と触れ合うことで」魂全体が震えていたのだった。(中略)

 彼は、地面に倒れたときにはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。歓びの瞬間に、彼はふいにそのことを意識し、感じとったのだ。そしてアリョーシャはその後、生涯にわたってこの瞬間を、けっして忘れることができなかった。「あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりとした信念をこめて、話したものだった……。

 三日後、アリョーシャは修道院を出たが、それは、今は亡き長老が命じた「俗世で生きるがよい」との言葉にも適(かな)っていた。》

 

 それに似た心象風景がある、メタファーのような。

海辺のカフカ』47章、《「さよなら、田村カフカくん」と佐伯さんは言う。「もとの場所に戻って、そして生きつづけなさい」

「佐伯さん」と僕は言う。

「なあに?」

「僕には生きるということの意味がよくわからないんだ」

 彼女は僕の身体から手を離す。そして僕の顔を見あげる。手を伸ばして、僕の唇に指をつける。

わけには

 彼女は去っていく。ドアを開け、振り向かずに外に出る。そしてドアを閉める。僕は窓辺に立ち、彼女の後姿を見おくる。(中略)

 眠っていた蜂が目を覚まし、僕のまわりをしばらく飛びまわる。そしてやがて思いだしたように、開いた窓から外に出ていく。太陽は照りつづけている。僕は食卓に戻り、椅子に腰掛ける。テーブルの上の彼女のカップには、まだ少しハーブ茶が残っている。僕はカップには手を触れず、そのままにしておく。そのカップは、やがて失われるはずの記憶の隠喩(いんゆ)のように見える。》

 

 続くソリッドな情景としての『海辺のカフカ』最終49章、《「君はこれからどうするつもりなんだい?」と大島さんは質問する。

「東京に戻ろうと思います」と僕は言う。

「東京に戻ってどうする?」

「まず警察に行って、これまでの事情を説明します。そうしないとこれから先ずっと警察から逃げまわることになるから。そしてたぶん学校に戻ることになると思います。戻りたくはないけれど、なんといっても中学校は義務教育だから、戻らないわけにはいかないと思う。あと何ヵ月か我慢すれば卒業できるだろうし、いったん卒業してしまえば、あとは好きなようにできる」

「なるほど」と大島さんは言う。目を細めて僕の顔を見る。「たしかにそれがいちばんいいかもしれない」

「そうしてもかまわないような気が、だんだんしてきたんです」

「逃げまわっていての、どこにも行けない」

「たぶん」と僕は言う。

「君は成長したみたいだ」と彼は言う。》

 

                              (了)

      *****引用または参照文献*****

村上春樹海辺のカフカ』(新潮文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也訳(新潮文庫

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男・鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳(中央公論新社

レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ村上春樹訳(早川書房

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(『文學界』2003年4月号「『海辺のカフカ』を中心に」聞き手湯川豊・小山鉄郎、他所収)(文藝春秋社)

村上春樹河合隼雄村上春樹河合隼雄に会いにいく』(岩波書店

*『文學界1985年8月号』(川本三郎との対談「「物語」のための冒険」)(文藝春秋社)

*『ユリイカ チャンドラー特集 1982年7月号』「川本三郎村上春樹 対話R・チャンドラーあるいは都市小説について」(青土社

*ドストエフスキー『分身』江川卓訳(『ドストエフスキー全集1に所収』(新潮社)