

解剖学、神経学医でもあった作家ゲオルク・ビューヒナー(1813~1837)は、宮廷顧問官クラールス博士による二度の精神鑑定のすえに公開処刑されたクリスティアン・ヴォイツェックによる殺人事件に関心を持ち、断章『ヴォイツェックWoyzeck』を残して早世した。1914年5月4日、作曲家アルバン・ベルク(1885~1935)はビューヒナー戯曲『ヴォイツェックWoyzeck』のウィーン初演を観て、オペラ『ヴォツェックWozzeck』の台本と作曲にとりかかった。
<「年譜」(『名作オペラブックス ベルク ヴォツェック』より抜粋、加筆修正)>
《1780 1月3日、ヨハン・クリスティアン・ヴォイツェック、ライプツィヒでかつら製造師〔一説に理髪師〕の息子として生れる。
1813 10月17日、ゲオルク・ビューヒナー、ゴッデラウ(ヘッセン大公領ダルムシュタット近郊)で生れる。
1821 <ヴォイツェック事件>、ライプツィヒで起きる。すなわち、6月21日、ヴォイツェックは<失業、飢え、あらゆる種類の屈辱、憎しみと嫉妬>の混じりあった状態の中で、愛人ヨハンナ・クリスティアーネ・ヴォーストを刺し殺す。彼は逮捕されたが、かねてから<妄想観念>にとりつかれていたとするかつての家主の証言により、裁判医による精神鑑定が行なわれた。その結果、殺人の原因は嫉妬によるもので、完全な責任能力の範囲内にあり、したがって刑事責任は問われるべきであるとの結論が出された(宮廷顧問官クラールスによる第1次診断書、9月20日提出)。10月11日、第1審判決、<斬首刑>。12月3日、弁護人の控訴。
1822 2月29日、第2審も死刑判決を支持。死刑を懲役刑に減刑してほしいとのヴォツェックの2通の恩赦誓願書はこの年内に却下。10月10日、被告が教戒師に、犯行の何年も前から幻聴に襲われたり幽霊を見たりしたとうちあけたところから、ヴォイツェックの精神状態に関する再度の法医学鑑定がクラールスに依願される。10月28日、ザクセン地方裁判所はヴォイツェックの再度の精神鑑定は行なわなくてよいとの判断を下す。死刑執行は11月13日と定められた。
しかし11月5日、私的な告発がなされ、信頼に値するひとりの証人が「被告は事実、精神錯乱が認められるような行動をときどきとっていた」との供述を行なう。――11月10日、判決の執行は延期され、再度の精神鑑定と診断書の作成をクラールスに委任。
1823 1月と2月、宮廷顧問官クラールスとヴォイツェックとの間で再度の話しあいが持たれる。2月28日、クラールスは第2次診断書を提出。そこでは、やはりヴォイツェックの責任能力が認められる。けれども、この事件の複雑さや<異例の難解さ>も指摘され、それゆえクラールスはライプツィヒ大学医学部に反論鑑定を求める。しかし裁判所はそれを不必要と判断。
1824 ヴォイツェックの弁護人のはたらきかけにより、また顧問医クラールスの熱心な要請もあって、医学部の所見が得られる。しかしそれはクラールスの診断をただ支持する結論にすぎなかった(4月17日)。7月12日、判決執行の命令が下される。処刑は8月27日、ライプツィヒのマルクト広場で公開で行なわれる。しかし<ヴォイツェック事件>は法医学者たちの間で議論され続ける。
1836 秋、ゲオルク・ビューヒナーは、<ヴォイツェック>事件に基づいて構想した劇(断片的な場面集)の執筆をはじめる(筆者註:ビューヒナーは、父エルンスト・ビューヒナー医学博士が『国家医事雑誌』の予約購読者だったことから、掲載されたクラールスの鑑定書を見たのであろう)。もちろんそれは彼にとって、まずなによりも社会批判的な関心によるものであり、法医学的な関心に基づいたものではなかった。したがってビューヒナーにとっては、社会的な抑圧と、さらには<疎外という深刻な体験>の犠牲者としてのヴォイツェックの言葉を示すことが重要なのである。
1837 2月19日、ゲオルク・ビューヒナー、チューリッヒで死去(享年23歳)。(筆者註:チューリッヒ大学比較解剖学講師として赴任していたチューリッヒ市内シュタインガッセの下宿の隣家には、59年後の1916年2月21日から翌年4月24日まで、レーニンが住んだ)。劇《ヴォイツェック》はさまざまな異稿が断章のまま残された。
1850 ルートビィヒ・ビューヒナーが兄の著作全集を編集するが、《ヴォイツェック》断章集は収集しなかった。<判読困難>である上、わずかに読める部分も、文脈がつながらなかったという。
1879 カール・エミール・フランツォースが《ヴォイツェック》自筆稿を化学処理によって解読し、彼の編集した<ビューヒナー全集>に収録。しかし彼の編集方法は――主人公ヴォイツェックWoyzeckの名前を<ヴォツェックWozzeck>と誤読したばかりでなく――文献学的には受け入れられない恣意的なもので、つまり(残された)原典に忠実ではなく、自由なドラトゥルギーに基づいて組み換えたものである。彼は断章集をもとに一種の<上演用版>を編み出したのである。場面の配列は、もっぱら美的・人間的観点にしたがってとられている。
1885 アルバン・ベルクが2月9日、ウィーンで誕生。
1913 11月8日、ビューヒナーの《ヴォイツェック》断章集が、ミュンヘン王宮レジデンツ劇場で、アルベルト・シュタインリュックの主演により世界初演される(《ヴォツェック》のタイトルのまま)。
1914 5月4日、王宮劇場レジデンツビューネにおける《ヴォイツェック》断章集のウィーン初演(《ヴォツェック》のタイトルのまま)にアルバン・ベルクが臨席。作品と、またとりわけ主演アルベルト・シュタインリュックの衝撃的な演技がこの文学的素養の高い作曲家に感銘を与え、彼はこのビューヒナーの断章集を基に、前代未聞の<雰囲気内容>(ベルク)を持つ(表現主義の)オペラを作ろうと即座に決意したほどである。後に第2幕第2場となる<街路の場>の最初のスケッチは、この時期に着手された。
1915 春、ベルクは台本の改定を行なう。彼はその2年前に出版されたインゼル版を使っていたが、カール・エミール・フランツォースの版とそれを引き継いだパウル・ランダウの版(1909)に依拠していた。第3幕第3場<居酒屋の場>の主要主題とスケッチの最初の稿が、この年の夏までに成立したことがあきらかである。台本改訂と作曲のスケッチの作業は、8月16日、ベルクの戦争への応召(ウィーン陸軍省でも勤務)をもって、2年間中断される。この繊細な作曲家は、上官たちの侮辱的なふるまいに常にさらされ、なすすべもなくそれに甘んじなければならなかった。つまり兵士ヴォイツェックの体験を、彼はいわば己が肉体で体験したのである(後年ベルクが語っているように、このことからオペラ《ヴォツェック》は全く自伝的な性格を負っている)。
1917 この年の初め、ベルクはオペラ《ヴォツェック》のプランを完全に放棄してしまおうとする。アルノルト・シェーンブルク――ベルクの師――がこの素材を批判したからである。「オペラというものは兵士ではなく天使を相手にすべきである」。しばらくの間、ベルクは《ファウスト》に作曲しようと考えたり、シェーンベルクの非常に尊敬していたストリンドベリの劇作の中から適当な題材を探したりする。しかし夏季休暇は再び《ヴォツェック》の仕事に向かうが、秋にはまたも軍隊勤務のため中断。
1918 夏に7週間の休暇をとり、《ヴォツェック》のスケッチを進める。友人であり同僚でもあるアントン・ウェーベルンに宛てての8月19日付の手紙の中で、彼は作曲の状況を報告。
1919~1922 台本改訂、作曲、総譜作成。
1923~1924 オペラ《ヴォツェック》初演に向けて、その一部《ヴォツェックからの断章》を初演。
1925 12月14日、ベルリン歌劇場で《ヴォツェック》初演。エーリヒ・クライバー(ベルリン歌劇場総監督)(筆者註:カルロス・クライバーの父)指揮。
1935 12月24日、ベルク敗血症のため死去(享年50歳)。(筆者註:1928年、フランク・ヴェーデキントの戯曲に基づくオペラ『ルル』の作曲に取りかかっていたが、未完。)》
<ウルリヒ・ディベリウス「構築の統一性――形態の多様性」より>
《歴史上の人物ヨハン・クリスティアン・ヴォイツェックの生活環境をかいま見るにはわずかの情報で十分である。1780年ライプツィヒに生れ、8歳のときに母を失い、13歳で父を失った。その死の年に、父がやっていたのと同じかつら屋の手仕事を教わりはじめた。2番目の師のところで、奇遇なめぐりあわせによって、既婚の継娘ヨハンナ・クリスティアーナ・ヴォーストと知りあった。彼女は25年後には気楽な未亡人となって、彼の愛人に、殺人の犠牲者になったのである。そのうちに、ナポレオンの時代がヨーロッパの栄枯盛衰をいたるところで不安定にし、雇用されるチャンスがまれになったので、あちらへこちらへさまよう者も、理髪師、召使、あるいはほかのゆきずりの仕事へと職を転々と変える者も、ちまたにはあふれていた。そしてこのように不安定を強いられているときにあって最も安定した一時期、12年間の兵役生活は、鑑定官クラールスの証言にしたがえば、ヨーロッパの不安を写している。「10週間の旅ののち、1806年のイエナ会戦のあとでオランダ、メクレンブルクのグラボウへ行き、それから1807年4月7日シュトラールズントでスウェーデンの捕虜となり、ストックホルムまで連れていかれた。スウェーデンではスウェーデン軍についてフィンランド出兵に従軍、グスタフ4世が退位のあとその連隊をシュトラールズントへ移したとき、フランス軍により武装解除された。ロシア出兵のあと脱走してメクレンブルクへ、また再びスウェーデンへ、そしてついにはスウェーデン領ポメラニア地方の譲渡ののち、プロイセンの兵営につき、1818年には退役した。
さまざまな国々と連隊を経たこの不穏な兵役のカメレオン的旅の間に、シュトラールズントで、ヴォイツェックと<ヴィーンベルギン>との間に絆が結ばれた。ふたりの間に子供ができて、彼らは結婚したがっていたが、外的な状況のおかげでだめになった。彼は脱走してスウェーデン軍に戻った。彼女がほかの男と寝たと聞いたにもかかわらず、彼はその後再び彼女とくらした。しかしここから「彼の心的状態の変化」がはじまる。半時間で「彼から思考力が消え」て「ある個人に対する恨み」が出てくる。その恨みは殻に閉じこもることと「おとなしくなること」を越えると、「あらゆる人間一般に対する」敵意へと変る。それゆえ彼は「彼女から手を引き」、「そのためしばしば野外へ」走りださねばならない。こうして彼は「フリーメーソンの不吉な幻覚」を見るようになり、これが「彼の犯罪事件と関係」してくるのである。失望させられた愛、嫉妬、彼に支えと安全を提供するかにみえた女によって拒絶されたゆえに、あらゆる人に対して冷酷になること、こうしたことと同じ経過が、軍生活のあとライプツィヒでのヴォーストとの再会のときにくり返された。彼女は隠さなかったが、「彼女と交際があった」、ほかの誰か、民兵と関係を結んだのだ。ヴォイツェックは彼女の素行をうかがい、彼女をおどし、暴力をふるい、長年やめていた酒をしばしばあおるようになり、疑い深くけんか好きになり、放心状態になったり、幻聴幻覚があったりする。――秘密結社としておびやかす<フリーメーソン>という固定観念でつじつまをあわせるようなことを見聞きする――そして、ヴォースティンがほかのやつと踊っているというある種の白昼夢を信じて、「ヴァイオリンとコントラバス」をとって「もっとやれ、もっとやれという言葉をそれに合せて」、彼女の不実と拒絶に対する怒りで彼は「もはや耐えられない状態へ」と陥るほどで、飽くことのないあいびきの後の彼女に会い、送っていくつもりでひそかに彼女のあとをつけたとき、「何をしたかの意識もなく刺してしまった」。
この鑑定官の意見を読んでいるうちに、研究対象となった人物像に関する医学的神経学的な興味――のちにこれは、《頭蓋神経について》という題で彼のチューリッヒでの試験的講演となった――は、ビュヒナーの中で、社会的事件についての関心へと変っていった。犯行の前に、犯行の際に、あるいは犯行のあとで、責任能力がなかったわけでもないということを状況から証明することは、ビュヒナーがこの仕事を続ける上での材料を析出することになる。すると学問的に信頼していた唯物論を宮廷顧問官クラールスがきらっていたという事実だけが残る。彼は、<尋問されたこと>による精神的異常、抑圧、感情のうっ屈はすべて、一般的な心気症(ヒポコンドリー)と同様にすぐに強い充血化傾向、うっ血・血液循環の一時的な無秩序である可能性があると考えている。学問上の<同業者>の、ねじけた、凝り固まった実証主義に対する怒りは、ビュヒナー自身のギーセン大学での経験、とくに《ヴォイツェック》場面集の<医者>のモデルとなった、おかしな考えにふけっている解剖学者兼心理学者ヴィルブラントとの経験と相乗効果を持つ。<医者>登場部の痛烈な皮肉の中に、(これと対をなす効果を与えるものとして、見世物小屋の<口上役>と<哲学的ロバ>の登場する歳の市のふたつの場面があるが、ベルグは両者とも完全にカットした)陽気な部分も多く挿入されている。これによってビュヒナーの《ヴォイツェック》の性格のパラノイア的な面も同時に前面におし出されてくる。それは表現方法の異常さ、寓話好きの傾向、おりにふれて絵画的な幻想をおぼろげに想起するところなどに表れている。
フリーメーソン妄想や、想像上の「もっとやれ」――これは酒場の場面の「続けろ」に変るが――においてと同様、パラノイア的な面においても、ビュヒナーが資料となった鑑定書に依存しているのはあきらかである。》
<エリーアス・カネッティ「ゲオルク・ビューヒナー賞の受賞に寄せて」(1972年ビューヒナー賞受賞講演)より>
「ゲオルク・ビューヒナー賞」の受賞対象は、「現代ドイツの文化生活を形成するにあたり、重要な貢献を果たした作家」と定められ、受賞者には、エーリヒ・ケストナー、パウル・ツェラン、ハンス・エーリヒ・ノサック、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー、インゲボルグ・バッハマン、ギュンター・グラス、ハインリッヒ・ベル、ゴーロ・マン、エリーアス・カネッティ、ペーター・ハントケ、ハイナー・ミュラー、等が名前を連ねる。
カネッティ(1905~1994)は、ブルガリア生れのスペイン系ユダヤ人(セファルディム)。代表作に『眩暈』、『群衆と権力』、『マラケシュの声―ある旅のあとの断想』など、ドイツ語で発表。1981年ノーベル文学賞受賞。
《それは史実のヴォイツェクです。愛人を殺してから公開処刑に付されるまで、三年を越える月日がありました。むろんこの事件のことをビューヒナーは、殺人者ヴォイツェクに関する宮廷顧問官クラールスの鑑定書を通じて知っていました。
獄中の友の訃報や、抑圧されたり勝ち誇ったりしていた故郷の人々の強烈な思い出と並び、『ヴォイツェク』の構想には、容易には思いつけないような要素が流れ込んでいました。それは哲学です。
ビューヒナーの持つ全面性の一つを成すのは、彼が歯ぎしりしながら哲学に立ち向かった事実です。哲学への素質を彼は生来備えています。(中略)彼は哲学に取り組みながら、その虜になったり、現実を毫も犠牲に供することがないのです。哲学が最も取るに足らない存在であるヴォイツェクのうちに働いているとき、彼はそれを真剣に受けとめます。そして、自分はヴォイツェクより偉いと感じている者を相手にするとき、彼は哲学を馬鹿にするのです。
歳の市の呼び込みの称する猿のように「人類の最下層」である兵士ヴォイツェクは、いろいろな声や命令に駆り立てられ、自由に走り回る囚われの人です。囚われの身となるようあらかじめ定められ、囚人の食事しか与えられず、いつも同じエンドウ豆を食わされ、ドクターによって獣に貶(おとし)められているのです。そのドクターは彼に向かって言い放ちます。「ヴォイツェク、人間は自由だ、人間の内面で個性は自由と化して光り輝くのだ」。こう語るときドクターが考えているのは、ヴォイツェクが小便を堪えられるはずだということだけのことなのです。ドクターの言う自由とは、自分の人間的本姓をいかに悪用されても服従する自由であり、エンドウ豆の食事に対して支払われる三グロッシェン欲しさから、奴隷になる自由なのです。そして、わたしたちはドクターの口から発せられる「ヴォイツェク、またいつもの哲学か」という台詞を聞いて呆れはてます。ドクターが現わす敬意は、調教された馬に対して見世物小屋の主人が表明する敬意と同じようなものです。この敬意はすでに次の台詞で「錯乱」へと矮小化され、さらに次の台詞で学問的に厳密化され、「局部性精神錯乱」とされるのです。ただしお手当の割り増し付きで。
しかし隊長(筆者註:大尉)は、実に善良なこの人間は、万事があまりにも順調だというだけのことで、自分を善人だと思っているこの人間は、膨大な時間や永遠のことを考えるあまり、剃刀のように素早く動くものすべてを恐れ、ヴォイツェクを次のように非難します。「おまえは考え過ぎる。そいつは体に良くない。おまえときたらいつも何かにけしかけられたような顔つきだ」
哲学者たちの個々の教義とビューヒナーとの関わりは、もう一つ別の、もっと隠微な形で『ヴォイツェク』の造形を規定しています。わたしが考えているのは、重要な登場人物たちの正面からの呈示と、彼らが自己をさらし者にする行為と呼べるようなものです。
登場人物たちが己れ以外のすべてのものを排除するあの自信、言葉の選択にまで及ぶ攻撃的な我執、現実の世界では乱暴に憎々しげに拳を振り回しているくせに、当の世界を平然と無視してかかる態度、これらはすべて哲学者たちの無礼な自己主張に通じる面があります。これらの登場人物はすでに最初の台詞から、己れをむき出しにします。ドクターも隊長も、なおのこと鼓手長も、自分の人柄を触れ回る役として登場します。あざ笑い、あるいは嫉みながら、彼らは境界線を引きます。それは彼らが自分より劣るものと見なし、下位の者として彼らに仕えるために存在する、蔑まれた同じ一人の被造物を閉め出す境界線なのです。
ヴォイツェクはこの三人全員の犠牲者です。ドクターや隊長の習い覚えた哲学に対抗する、本当の思考を彼は備えています。彼の哲学は具体的で、不安と痛みと直観に結ばれています。彼は考えるとき、怖がっています。彼をけしかける声は、ぶら下げられた自分の上着を目にする隊長の感傷より、ドクターの行なうエンドウ豆の不滅の実験より、もっとリアルです。彼らとは対照的にヴォイツェクは正面から提示されてはいません。初めから終わりまで彼は生々しく、しばしば予想外の反応から構成されます。常に外界に晒されているため、彼はいつも目覚めており、覚醒状態で彼が見出す言葉は、まだ無垢の状態にある言葉です。それは磨(す)り潰されたり、濫用された言葉ではありません。それは硬貨や武器や貯蔵品ではなく、たった今生まれたかのような言葉なのです。彼が意味の掴めないまま言葉を借用しているときさえ、言葉は彼の内部で己れの道を歩みます。フリーメーソンの団員が彼の足元の地面を空洞にします。「音でわかるだろう? この下はすっかり空っぽだ。フリーメーソンの仕業なんだ!」
『ヴォイツェク』では、なんと多くの人間に世界が分割されていることでしょう!(中略)ビューヒナーは、『ヴォイツェク』によって完璧な文学の革命に成功しました。それは取るに足らない存在の発見です。この発見は憐憫を前提としていますが、この憐憫が隠されており、言葉に出されず沈黙している場合に限って、取るに足らない存在は損なわれずに済むのです。自分の共感を誇示し、憐憫を込めて取るに足らない存在をこれ見よがしに取りざたする作家は、それを汚し破壊するのです。ヴォイツェクは他者の声や言葉によって追い立てられますが、作者は彼の存在をいじくり回したりしませんでした。取るに足らない存在に対して控えめな姿勢を守ったという点で、今日までビューヒナーに比肩しうる作家は皆無です。
ビューヒナーは生の最後の段階で、高熱による幻覚に震える数日を経験しています。幻覚の中身や性格はほんのわずかしか、しかもおおまかな形でしか知られていません。それはカロリーネ・シュルツの手記の中で、彼女の言葉によって伝えられています。そこにはこう記されています。
「(二月)十四日……八時頃またうわ言。周囲がそれは幻覚だと説明したあとでは必ず、彼がよく自分の見た幻想のことを語り、それに自分で判断を下すのは、奇妙だった。繰り返し襲いかかる幻覚は、警察に身柄が引き渡されたと思い込むというものであった」
「十五日……意識があるときには、彼は重たげに語った。ところがうわ言を言い出すやいなや、きわめて流暢に話した。彼はわたしにある話を筋道たてて語り聞かせた。昨日のうちに郊外へ連れていかれた様子や、その前に市の立つ広場で演説した様子を」
「十六日……病人は何度も部屋から出たがった。投獄されると思い込んでいたからだ。あるいはすでに監獄にいると思い、脱出を図ろうとしたのだった」
これらの幻覚を元の表現のまま見聞きできたら、ヴォイツェクをごく身近に感じることでしょう。哀しみと愛によって和らげられ、省略され、迫害される恐怖が抜け落ちているこの報告にさえ、ヴォイツェク的なものが感じられるのです。十九日に世を去るときもなお、ビューヒナーはヴォイツェクを自分の内に抱えていたのです。》
<ハイナー・ミュラー「傷口ヴォイツェク」(1985年ビューヒナー賞受賞講演)より>
ハイナー・ミュラー(1929~1995)は、東ドイツ出身の劇作家、演出家。代表作に『ハムレットマシーン』。
《いまもなおヴォイツェクは隊長の髭を剃り、処方されたエンドウ豆を食べては、鬱屈とした愛で情婦マリーを苦しめ、あの町の住人は国家となり、幽霊に包囲される。狙撃兵ルンゲ(訳注:1919年1月、上官の命令でローザ・ルクセンブルクを撲殺した一兵卒)はヴォイツェクの血なま臭い弟、ローザ・ルクセンブルクの殺害者どもに操られたプロレタリア。ヴォイツェクの牢獄の名はスターリングラード、殺された女がクリームヒルトの仮面を付けて迫りよる。マリーの墓標はママイの丘(訳注:スターリングラードの戦役の記念碑が立つヴォルゴグラード市の丘)、彼女のドイツの記念碑は壁、ベルリンの壁は革命の装甲車となり、政治へと凝固した。警官の肩に口を押し当てると、警官はさっさと彼を連行した(訳注:カフカの短篇小説『兄弟殺し』の一節)――カフカはヴォイツェクがこうして舞台を去るのを見た。兄弟殺しのあと、最後の嫌悪感を懸命にかみ殺す(訳注:同上)姿を。あるいは医者が添い寝する病人(訳注:カフカの短篇小説『村医者』の一節)となるのを。ヴォイツェクの傷は炭坑(やま)のような口を開け、ウジ虫がのたうつ(訳注:同上)。(中略)ヴォイツェクの空腹も爆弾で満たされるようになってから、もはや革命の梃子ではないのかもしれない。そのあいだに民間の鼓手長たちは惑星を荒らし、旅行業者の戦場に、緊急時の走路に変え、補充兵フランツ・ヨ―ハン(ママ)・クリストーフ(ママ)・ヴァイツェクが懲らしめの鞭になる木を切り出す折り、ダルムシュタットの空に見た火の玉の流れを、目にすることはできない。ヴァンゼーに葬られたドイツ文学のもう一人の捨て子(訳注:ハインリヒ・フォン・クライストを指す)の、遅れてきた花嫁、プロイセンの娘、ウルリーケ・マインホーフ(筆者註:ドイツ赤軍の創設者・指導者で、獄中死)は、市民世界の最後のドラマのヒロイン、武装して石灰の穴から出てきた若い同志の再来、マリーの血の首飾りを付けた、ヴォイツェクの妹。》
ベンヤミンとアドルノは一九二五年一二月二二日のオペラ『ヴォツェック』のベルリン公演(一二月一五日の初演後の最初の公演)を、一緒に観た。アドルノの師ベルクは、一九三五年一二月二四日に逝去した。
《ぼくが昨日アルバン・ベルクの訃報を聞いて、きみの傷心に深く思いをいたしたことを、まずいっておきた。
きみが知っているとおり、かれの作品は、それを除けばぼくにはいささか遠い分野でもぼくらの会話に、ほかの諸分野でも会話と同じ密度を与える場となる唯一のものだった。とりわけ『ヴォツェック』公演のあとでの会話は、君の記憶にも残っていよう。》
《(アドルノはベンヤミンとの会話の印象を踏まえて、ベルクあての二五年一二月二七日付の手紙(未発表)のなかに、こう記している。「ベンヤミンはあなたにとって、私よりも信頼性のおける証人でしょうが――蛇足ながらかれは、あなたの音楽が問題としているものを、どんな音楽家よりもよく悟っていました――そのベンヤミンの見解は、私のと同じでした。」)》
ところが、この思わせぶりな「会話」の具体的な内容は、二人の往復書簡にありがちなことなのだが、はっきりとはわからない。音楽に縁遠かったベンヤミンは、関心を抱いてはいたもののベルクについての批評を残していないので、(のちの手紙(下記、一九三七年八月二一日付)の断章を含めて)ニュアンスを推測するしかない。
《ぼくはこちらに着いてすぐ、きみの『ベルク』の読書に取りかかった。ぼくの決定的なベルク体験を語ることが、お陰で容易になっている。あのベルリンでの一夕に『ヴォツェック』がぼくをとりこにした圧倒的な印象は、ぼくには意識されなかったが精細に名ざしうる状態、一種の狼狽した状態の信号だったのだ、というぼくの予感が、きみのお陰で明瞭になったわけなのだ。
きみの研究を貫いている諸モティーフのうちでは、伝統へのベルクの関与というモティーフが、ぼくにはことに捉えやすい。なかでも、きみがマーラー解釈に繋げて論じているところでは。シェーンベルクの弟子のいわば名もない技法上の作業が、一九世紀の伝統を、巨匠の名において引退に導くとともに、その伝統にそれ自体の挽歌を歌わせている、というきみの基本構想は、ぼくを大いに納得させる。ちょうどベルクの音楽自体が、その音楽への媒介的な通路をいっさいもたなかったぼくにする、十分に説得力をもったように。》
<アドルノ『アルバン・ベルク』より、「<真の人間性(ヒューマニズム)>のオペラ」>
《敗者との、社会の重圧にひしがれる存在との同一化は、ベルクの代表作たる二つのグランド・オペラの、そのテクストの選択を左右することになる。おのれにくわえられる不正を馴致されざる自然にぶちまけて、最愛の者を殺害する、虐げられた偏執狂の兵士ヴォツェックにまつわるビューヒナーの戯曲と、その無力な全能に男たちの社会が結託して復讐するにいたる、美しく魅惑的な自然児ルルの物語を、サーカスに仮託したヴェーデキントの悲劇とを、ベルクがとりあげたのは、ちょうどカール・クラウスが人間味あふれるいにしえの言葉を引用しつつ、そうした言語を屠り去った非人間性の猖獗にたちむかったのと、おなじ精神によってであった。『ヴォツェック』について、作劇法上、いわば一秒たりとも息もつかせぬ、極度に緊張した構成から必然的に生じてくる、その舞台効果が賞賛されるのは、理由のないことではない。しかし、その構成的―歌劇的力量が、通常は構成によってあまりにもたやすく消去されてしまうきらいのある、苦悩的人間性の表現に結びつくことがなければ、この効果とてもおぼつかないであろう。音楽が種々のあらたな性格類型のうちによく自己を具体化しうるか否か、にその存在理由のすべてがかかっている今日、『ヴォツェック』のこうした要素は、最大限のアクチュアリティを獲得する。そこでは、マリーの部屋に、マーラーまがいのトリオをともなって、行進曲が、軍楽が、闖入してくる。しかし、この耳障りなマーチは、あたかも陋屋の曇った窓ガラスをとおして知覚されるかのように、反転して、夢さながらに疎外された内面性の混色に浸されてしまっている。かくして無頼に響きわたる舞台音楽は、軍楽が集合体のなかへひきずりこむ者たちにふるうところの暴力の、その古態型へと化していく。あるいは、第二幕の交響的主要部として、ながながと紡ぎだされてくるスケルツォが、すなわちレントラー(筆者註:3/4拍子の南ドイツの民族舞踊)とワルツを含む、しかし足どりもおぼつかなげに何か底知れぬ悲哀をたたえた居酒屋の音楽がある。『ヴォツェック』における共感の力は、オペラがおそらくかつて聴きとったためしがないほどに、放恣である。ちょうどヴァーグナーならば、劇中人物の顕彰を音楽によってでっちあげるべきところで、ベルクにあっては、ひたすら彼らにたいする同情のみが先にたつかのように。この居酒屋の場面が、民族音楽の古色蒼然たる類型の変質であり歪曲であるからには、おのずから連想されてくるストラヴィンスキーと比較してみれば、これほどベルクの独自の面目をまのあたりにすることができるのも稀有である。ベルクの作品には、冷酷さからくる侮蔑的な諧謔、陰険などは、影も形もない。そうした舞踏の歓びが虚妄であり、楽しむ者は欺かれているのだ、という認識は、まさに死にいたる真剣さと一種の多層性とをつくりだす、そして、この多層性は、あらゆる外的事象を内なるものの比喩に転化させつつ、その際に、たがいに疎外された者たちの謎のように捩れた内面世界それ自体、呪われた外なる生のうつし絵にすぎぬことを、片時も忘れてはいない。それにつづくのは、眠れる兵士たちの合唱である。鼾や呻き声までが作曲されて、自由なき者たちにとっては、眠りもまた醜怪なものとなりはてていることの象徴に仕立てあげられる。無言のうちに姿形をとりはじめるのは、兵営につめこまれている者たちに強制集団化を定め、課するところの何ものかである。そして、第三幕の緞帳が音もなくひきあげられるや、ゆらめき消えかかる、絶望的なまでに慰藉にみちたマリーの蝋燭が、また彼女の子供の不吉にもやわらかな眠りが、音楽にならぬわけがあろうか。『ヴォツェック』、それは、あらたに獲得したかずかずの手法を、つとにあやしげな代物になりはてていたグランド・オペラに適用してみせた、その手の離れ業を意味するものではなく、真のヒューマニズムに立脚する音楽の最初のモデルなのである。》
<アドルノ『アルバン・ベルク』より、「『ヴォツェック』の性格規定のために」>
《『ヴォツェック』のように、音楽作品のもとめるものが、みずから依拠するところの文学作品のそれに匹敵する、そうした場合には、両者の関係についての反省熟考は、必須のことといえよう。そのような文学には、音楽は、あるいは余計なもの、文学固有の奥深い内実の、文学を文学としてなりたたしめる所以の、その単なる反復、と映るかもしれない。ベルクの推敲に推敲をかさねたオペラが、ビューヒナーのことさらに草稿にとどまっている断片と、そもそもどう関係するのか、さらには、両者が省筆の美学にしたがいつつ、何を拾い、とりあつめているのか、それを把握するためには、この戯曲と作曲とのあいだには、まる一世紀の時間がよこたわっていることに、まず思いいたらなければならないであろう。ベルクの手になる作曲は、それ自体、忘却の数十年の間に、ビューヒナーの名において次第に熟しきたったものにほかならない。ところがその作品を搏つ音楽は、何やらひそかなポレミックな相貌をそなえている。音楽は、こう語るのである、おまえたちが忘じはてたもの、おまえたちが一度たりとも見聞すらしなかったもの、それは、私自身そうであるように、かくも疎々しく、かくも真実で、かくも人間的なのだ、そして、それをおまえたちの眼前にさしだしてみせながら、実は、私は、こちらのいまひとつべつのものを讃めたたえているのだ、と。オペラ『ヴォツェック』は、そこで歴史がともに思量されもする、歴史の検証、校正である。音楽の近代が書物の近代をきわだたせる。それは、まさに、その書物が老いたまま、晴れの日が不当に留保されているがゆえである。ビューヒナーが、凌辱され、錯乱し、そして人であればこそ人でなしと化していく、あらゆる人格をこえた容体としての兵士ヴォツェックに、正義を回復せしめたように、ベルクの作曲は、この戯曲のために、義をもとめるのである。作曲の営為が、そのテクスチュアのなかで、いうならば画龍点睛を思案するときの、熱情的なまでの細心さは、ビューヒナーにおいて、ひらかれたものがいかに形をなし、未完のものがいかに完結しているかを、如実に明らかにする。それこそ作曲の役目であって、心理的な背景の、すなわち気分や印象のよくなしうるところではないことは、戯曲の手からこぼれおちたものを明るみにだす段ともなれば、作曲は、そうした一切合切を等閑に付すわけにはいかない、という事情をもってしても、やはりかわりはない。ホーフマンスタールは、かつて、『薔薇の騎士』のテクストについて、こう述べたことがある。喜歌劇にふさわしい喜劇とは、人々のなかにではない、人々のあいだにある、そうしたたぐいの音楽にかなう喜劇である、と。そのことは、シュトラウスよりも、ベルクのオペラにより正確にあてはまる、すなわちそれは、テクストの一種の行間翻訳なのである。それは、人間の感情を、何の変哲もなく解釈していくのではない、それがみずから回復しようと努めるのは、百年の歳月がビューヒナーの舞台においてなしとげたこと、すなわち、一個のリアリスティックな草案を、内にはらむ秘密によって軋みやまぬ、そうした何ものかへと変様させることであり、そのなかで、言葉のひとつひとつの空隙が、内実の剰余を保証してもいくのである。この内実の剰余を、この空隙をあらわにすること――そのためにこそ、『ヴォツェック』における音楽は存在する。
(中略)
『ヴォツェック』において、自由な無調による音楽言語が、はじめてひとつの戯曲作品のなかで、長時間にわたって語られたのである。調性の欠落は、関連を確固としてうちたてるべき他の手法を、それだけ一層精力的に発展させることを強いた。しかしながら、それはウィーン擬古典主義の伝統から、前代未聞の仕方で、そっくりそのまま舞台に移植された、動機―主題労作の手法でもある。それを明らかならしめることが、今回マーラー風の判然たる作曲法の課題である。ひとは、こうした構造をあまりに安易に考えて、『ヴォツェック』に使用されている絶対音楽のかの有名な諸形式と混同したりもした。こうした諸形式は、なるほどかなり広大な平面上に時間の流れを組織することを保証するものではあるが、しかし、それ自体として感知される必要はないし、また感知されるべきでもなく、たとえば後年のまぎれもない十二音楽曲における音列にも似て、いわば不可視なのである。諸形式の関連は、といえば、どこまでもヴァーグナー風楽劇風の特徴をもつ、一連の造形的な主導動機によって強化される。たとえば、第二幕の街路の場面における三重フーガは、これらの動機のうちのもっとも重要な三つ、すなわち大尉の動機と、医者の動機と、そして、ヴォツェックの寄辺なさを表現する、手探りですすむ三連符とを結びつける。しかし、それにもかかわらず、こうしたすべてよりもはるかに重要なのは、音楽の内的な組成であり、組織である。『ヴォツェック』が書かれたころ、数多くの作曲家たち、なかでもストラヴィンスキーとヒンデミットは、オペラ音楽のあらたな自律性をもとめて、さまざまに腐心していた。彼らは、詩語にたいする隷従から、音楽を解放しようとしたのである。『ヴォツェック』においても、音楽は、オペラ内部での独立を期して、あらたな要求を掲げる。しかし、ベルクの手法は、新古典派とは正反対に、テクストに思うさま沈潜していく手法である。『ヴォツェック』の作曲が、内面の発展史の、ひとつのたいそう豊饒な。幾重にも分節された軌跡をえがいていく、それは、あくまでも魂の内部空間に揺曳するかぎりにおいて、表現主義的といいうる。作曲は、劇的な感動をひとつのこらず、さながら忘我のていで、模写する。まさしくそうしてこそ、その間に、ただ偉大な音楽のみが、ちょうどブラームスやシェーンブルクの器楽楽章がなしたえたように、それは、みずからの内部で区分され、分節され、変化しつつ、展開されていくのである。そうした尽きることのない、たえず自己を更新していく発展のうちに、おのれの自律性を獲得していく作曲に比して、舞台から縁を切り、ほしいままに突っ走る、あの手のオペラ音楽は、まさにそのために、単調さと退屈さに脅かされる破目になる。言葉に対立するのではなく、生かしつつ言葉にしたがうことによって、音楽の自律に到達する、おそらくそれこそが、『ヴォツェック』の総譜のはらむ、もっとも意味深い逆説である。オーケストラは、演劇をその枝葉末節にいたるまでともに遂行し、かくて交響楽とならねばならぬ、とするヴァーグナーの要請は、『ヴォツェック』によって実現される。そして、そのことは、ついには、楽劇における無形式の様相を払拭するまでになる。第二幕は、フォルムのあらゆる緊張、あらゆる完結をもってすれば、文字どおり一個の交響曲でありながら、事情に疎い聴衆には、交響曲などと思いもつかせぬほどに、刻一刻、オペラでもありうるのである。
ほかでもない今日、『ヴォツェック』がオペラであり、そう自称してもいることに、注意を喚起しておくのは、無駄ではなかろう。(中略)この音楽は主題的である。それは、どの場面でも、造形的な動機ないし主題を提示しつつ、変更をくわえて、それらに物語を割り振っている。音楽のほうにしても、主題的に、とくに音楽的な性格が前面にでて、問題なくみわけられるように、演奏されることをのぞむのである。さまざまな主題とその身の上に想いをいたさなければならぬ、それが、第二幕の装身具の場面の、ソナタさながら、極小の動機から派生してきた主題であれ、最初の居酒屋の場面のスケルツォの主題であれ、はたまた、マリーが聖書をひもとく場面の、伝説を物語る調性と、唐突に噴出する無調とから、大胆にモンタージュされた変奏主題の変化であれ、響きによる幻想にもかかわらず、たとえば、マリーの死のあと、張り裂けんばかりにクレッシェンドしていくロ音や、ヴォツェックが溺れ死ぬときの水の波紋のような、耳目を驚かせるオーケストラの効果にもかかわらず――つねに響きは、二次的なものであり、純粋に音楽的―主題的な出来事によってつくりだされた、その結果にすぎない。
たとえば、伝統的なオペラにおける旋律同様、こうしたことどもに注意の眼をむけるならば、他はすべておのずから明らかとなる。なかんずく、いかにもベルク的な音調が。すなわち、原野の場面のガラスさながら呪縛された不安、その場の背景をなす激烈でもあれば陰鬱でもある行進曲、子守歌、抑圧されつつも歌いはじめる自然のエコー、さらには、最初の居酒屋の場面の何ともいえず憂鬱なレントラー、ヴォツェックが時間にさしむける底知れぬ問い、兵舎での不幸な眠り、等々。女中たちや兵士たちのそこなわれたあわれな幸福を表現する通俗音楽は、独特の物象と化した疎しさのうちに聴きとられ、作曲しつくされる、それも、けっしてストラヴィンスキー流の嘲弄をこめてではなく、かぎりない哀憐の表現にまで押し殺して。その際、作曲構成の手法が、演劇的な幻想の域をでて、はるかに拡大されていて、三十年後に実現することが多々、先取されもするのである、たとえば、のちにミュジック・セリエル(筆者註:セリー音楽、音列主義)において再発見されることになる、主題的―変奏的な技法のなかにリズムをとりこむ手法など。第二の居酒屋の場面の最初の数小節における、ピアノによる急速かつ粗暴なボルカは、そのあとその場を掠め過ぎていくすべての物事の、リズム上のモデルである。この作品は、かくも完璧であればこそ、気前よくくれてやるものを受取るにふさわしい心構え以外の何も、聴衆にもとめはしない。聴衆は、人間がもっとも困窮している場で、あからさまに人間をさがしもとめる、ひとつの愛にたいして、かりにもたじろぐことがあってはならないのである。》
<フーコー「汚辱に塗れた人々の生」より>
ふたたび、『ヴォツェック』の始まりの人、汚辱に塗れたヨハン・クリスティアン・ヴォイツェックに戻ろう。
《束の間の生、偶然書物や公文書に遭遇した人生。生の或る例証(・・)exampla、しかしそれらは――学者たちが読書の中で収集したものと異なり――省察を促す教訓であるよりも、ほとんど一瞬にしてその力を失ってしまう瞬時の効果をそなえた例証群である。そのありようを素描するのに、私は《ヌーヴェル》という言葉でよしとすべきかもしれない、その言葉が指し示す二つの含みにおいてである。すなわち、語りの瞬時性、そしてそこに報告されている出来事の現実性。何故と言って、それらのテクストの中に語られているものの凝縮性はそうしたものであって、それらを貫いている強度が、それを語る言葉の閃光に由来するのか、或いはそこに圧縮されている真実の暴力性に由来するのか判断し難いのである。》
《私が望んだのは、つねに実在する者に関わることだった。つまり、場所と日付を付与し得ること、もはや何も語らない氏名の背後、大体において誤認や虚偽、不当、誇張となりがちなそれらの敏速な語群の背後に、ともあれ確実にそれらの語群が示しているものの背後に、生き、死んでいった者たち、苦悩や悪意、嫉妬、怒号が存在したこと。それ故私は、空想や文学となりうるものを一切排除した。空想や文学が発明しえた如何なる暗黒の主人公も私には、本書に現れる激怒や醜聞、惨めさに塗れた者たち、靴屋や脱走兵、装身具の女行商人たち、公証人、浮浪憎といった者たちほどに緊迫した強度を感じさせない。そしてそれは、おそらく、彼らが実在したことを私たちが知っているという事実のみに由来するのだ。同じく私は、メモワールや思い出、点景素描であるような文章もすべて排除した、それらは、現実を描いてはいても、現実との間にまなざし、記憶や好奇心、あるいは楽しみといった距離を保っているからである。》
《読者がここに読まれるだろうものは、ポートレートの束ではない。それらは罠であり、武器であり、叫びであり、身振りであり、態度表明であり、策略であり、陰謀なのであり言葉はその道具となっている。現実の人生はこうしたいくつかの文の中に《演じられ》ていた。それらの人生がそこに造形されていると言いたいのではなくて、実際上、彼らの自由、不幸、しばしば彼らの死、彼らの運命が、少なくとも一部分が、決定されてしまっていると言いたいのだ。それらのディスクールは現実として彼らの人生と交差している。彼らの人生は事実上その言葉の中で脅かされ、その言葉の中に消え去っているのである。
私はまた登場人物たちが世に埋もれた者であることを望んだ。彼らが如何なるきらめきによっても前もって素地を与えられていない者たちであり、確立し認められた如何なる偉大さ――血統、財産、聖性、英雄性、或いは才能といった偉大さを一切付与されていない者たちであること。彼らの不幸、パッション、その愛や憎悪の中に、ふつうなら語るに値すると判断されるものと照らし合わすと、ぱっとしないありきたりのものが存在すること。とはいえ、それらの生は或る種の熾烈さに貫かれていること。彼らに生彩を添えるのが、悪意、卑劣さ、下劣さ、頑迷さ、不運における暴力、エネルギー、過剰であり、そうしたものが彼らの周囲の目には、その周囲の凡庸さに応じて、彼らに一種の恐るべき、あるいは哀れをさそう偉大さを付与していること。》
《それらの粒子の何ものかが私たちに届くためには、しかし、少なくともほんの一瞬、それらを輝かせる光の束がやって来なければならなかった。別の場所からやって来る光。それがなければ、彼らは夜の中に潜み続けていることが出来たろうし、おそらくつねにその中にとどまっていることが彼らの定めでもあったはずの夜から彼らを引き離す光、つまりは権力という光との遭遇である。権力との衝突がなければ、おそらくそれらの束の間の軌跡を呼び起す如何なる言葉も書かれることはなかったに違いない。》
《その時、その重々しく、逸脱した文の中に、支離滅裂な言葉のかたわらに剝き出しで不器用で耳障りな表現が吹き出してくる。すなわち、義務的で儀式的な言語に、苛立ち、怒り、激怒、パッション、怨恨、叛乱が絡まり着くのである。野生の震えと強度が、固苦しいディスクールの規則を転覆させ、彼ら自身の語り方とともに陽の光の中に現れる。》
《その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能で気まぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象でであり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現われるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかなかろう。》
《長い間、西欧社会では、日々の生は途方もないこと(ファビュリュー)に貫かれ変形される限りにおいてのみ、ディスクールに到達することが出来た。日常の生は、英雄性や武勲、思いがけない冒険、神意の顕現や恩寵、或いは異例の大罪といったものによってそれ自身の外へと引き出されなければならなかった。要するに、あり得難いものに触れた徴がなければならなかった。その場合においてのみ、語るに値するものとされたのである。日常の生を手に触れがたいところにおくものによって、それは教訓と例証として機能することを許された。物語はそれが日常的なものに発して語られれば語られるほど、それが語る教訓は魅力的なものとなり説得的なものとなる訳である。かくして《寓話的例証》の戯れにおいて、物語られることが本当のことであるか嘘であるかはどうでもよいことであり、それが寓話の本性なのである。そして、そこにおいて仮に誰かが凡庸な現実をそのままに語ろうとする場合があっても、それはただ滑稽さの効果を狙ってだけのことだった。その通りのままに語っただけだとただ笑いを呼び起こしたのである。
十七世紀以降西欧は、そうした途方もなさ(ファビュリュー)が追放された無名の生を巡るまったく別の《寓話》の誕生を見ることになった。あり得難きものや滑稽さは、日常的な生を語るにあたっての条件であることを止める。あり得そうもないことどもを歌い上げることを責務とする言葉の技術ではなくて、可視化されぬもの――可視化できぬかされてはならないとされて来たものを可視化すること、それを責務とする言葉の技術が誕生するのである。現実のもっとも下層なるもの、もっとも軽微なるものを語ること。《微細なるもの》、自らを語ることのないもの、如何なる栄光にも値しないもの、すなわち《汚辱の生》を語ることを強いる装置が配置され、そこに新たな命令がかたちづくられて、それが、西欧における文学的ディスクールの内在的倫理と呼ぶことも出来ようものを構築して行くことになる。その儀式的機能はわずかずつ消えて行くだろう。力や恩寵や英雄性や強度の明々白々な光輝、それをくっきりと示すという語りの責務は後退して行く。感知するにもっとも難きもの、もっとも隠匿され、語り示すにもっとも容易ならざるもの、遂には、もっとも禁じられもっとも汚辱に満ちたことどもを探査していくことがその責務となって行く。実存のもっとも闇に包まれた場所、もっとも日常的な部分を(時にそこに運命の厳粛な形象を見い出そうとするかのように)渉猟せよという一種の厳命、それが十七世紀以降の文学の傾斜の線を素描して行き、以降それが言葉の近代的な意味での文学を形成していくことになるものである。》
《日常的生をその下層に向けて探査することに集中し、その限界を超え、隠匿された秘密を容赦なく或いは巧妙に暴き出し、規則やコードをずらし、明かし得ぬものを語らせることに熱中しながら、文学は自ら法の外に出て行こうとし、或いは少なくとも、自らに醜聞と侵犯或いは反抗を引き受けようとするだろう。すなわち、他の如何なる形式の言語活動にもまして、文学は《汚辱》のディスクールであり続ける。すなわち、もっとも語り難きもの――もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも呵責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。ずいぶん前から、精神分析と文学とが互いに投げかけ合ってきた魅惑は、その点において意味深いことである。》
《パラノイア(・・・・・)(la paranoïa)という疾患単位は、さまざまな運命をこうむったにもかかわらず、おおよそ以下のような古典的な諸特性に対応している。すなわち、a その主題が誇大観念から迫害観念にまでわたる知的妄想(un délire intellectuel)、b 殺人におよぶことが非常に頻繁な攻撃的反応、c 慢性の経過。
この精神病の構造についてはこれまで二つの考え方が対立してきた。すなわち、一方はそれを病的な《体質(constitution)》の発展、つまり性格の先天的欠陥の発展とみなすのに対して、他方はそれの要素的諸現象を知覚の一時的な障害のなかに指摘し、これらの障害を正常な解釈との外見的な類似のゆえに解釈的(interprétative)と呼ぶ。妄想はここではこれらの体験を説明するための患者の合理的な努力として、また犯罪行為はその動機が妄想的確信によって与えられる熱情的な反応としてみなされる。(中略)
殺人において解消される攻撃衝動は、したがって、精神病の基礎となる感情として現われる。(中略)この衝動は、それ自身、社会的相関性を刻印されている。すなわち、それはいつも犯罪の志向性を、ほとんどつねに報復の志向性を、しばしば処罰の意味を、つまり社会的理想に由来する制裁の意味をふくんでいる。最後に、時としてそれは道徳性の完全な行為と一体化し、贖罪(自罰)の射程をそなえている。》
(了)
*****引用または参考文献*****
*アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス26 ベルク ヴォツェック』(ウルリヒ・ディベリウス「構築の統一性――形態の多様性」、ハンス・マイヤー「ビュヒナーの《ヴォイツェック》――事実と劇詩」、エルンスト・ヒルマ―「オペラ《ヴォツェック》の台本改訂から初演まで」、アルバン・バルク「《ヴォツェック》のための講演」、ディートマル・ホラント「ぐるぐると、変な形をして――あの意味が読めたら!」、「年譜」、他所収)(音楽之友社)(一部改訳した)
*『ゲオルク・ビューヒナー全集全一巻』手塚富雄、千田是也、岩淵達治監修(「ヴォイツェック」内垣啓一訳、パウル・ツェラン「子午線」飯吉光夫訳、他所収)(河出書房新社)
*ビューヒナー『ヴォイツェック ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳(岩波文庫)
*ヴェルター・ベンヤミン/テーオドール・W・アドルノ著、ヘンリー・ローニツ編『ベンヤミン アドルノ往復書簡Ⅰ928-1940』野村修訳(晶文社)
*T・W・アドルノ『アルバン・ベルク 極微なる移行の巨匠』平野嘉彦訳(法政大学出版局)
*ヴィリー・ライヒ『アルバン・ベルク 伝統と革新の嵐を生きた作曲家』武田明倫訳(音楽之友社)
*ミシェル・フーコー「汚辱に塗れた人々の生」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅵ Ⅰ976-1977 セクシュアリテ 真理』に所収)丹生谷貴志訳(筑摩書房)
*河原俊雄『殺人者の言葉から始まった文学 G・ビューヒナー研究』(鳥影社)
*ヴィリー・ライヒ『アルバン・ベルク 伝統と革新の嵐を生きた作曲家』武田明倫訳(音楽之友社)
*ジャック・ラカン「パラノイア性犯罪の動機 パパン姉妹の犯罪」関忠盛、宮本忠雄訳(『現代思想 臨時増刊 総特集=ラカン』1981年)に所収)(青土社)
*エルンスト・ブロッホ『この時代の遺産』池田浩士訳(ちくま学芸文庫)
*長木誠司「ベルク 歌劇<ヴォツェック>作品7(演奏会方式) 作曲の経緯/あらすじ/曲目解説」(「読売日本交響楽団 月刊オーケストラ 2025年3月号」に掲載)https://yomikyo.or.jp/pdf/book/orchestra202503_01.pdf
*谷口廣治監訳『照らし出された戦後ドイツ ゲオルク・ビューヒナー賞記念講演集(1051~1999)』(エリーアス・カネッティ「ゲオルク・ビューヒナー賞の受賞に寄せて」葉柳和則訳、ハイナー・ミュラー「傷口ヴォイツェク」谷口廣治訳、他所収)(人文書院)
*小学館DVD BOOK『魅惑のオペラ29 ベルク ヴォツェック ベルリン歌劇場』(小学館)