文学批評 「谷崎『細雪』の畳紙(たとう)の紐を解く」

  「谷崎『細雪』の畳紙(たとう)の紐を解く」

  

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細雪』を読むとは、畳紙(たとう)を紐(ひも)解いて、谷崎文学のすべてを目の前に繰りひろげることである。谷崎は美しい蒔岡姉妹の囀りのような会話を、俗っぽい間投詞まで聴きとろうと耳をそばだて、女たちの口唇から内奥へもぐりこんで、語りを官能で染めあげる。

 ロラン・バルト『記号の国』の日本をめぐるエクリチュールを読んでいると、これは『細雪』について書いているのではないかと思う文章があらわれる。たとえば「包み」という断章の、《箱の機能は、空間のなかで保護することではなく、時間のなかで延期してゆくことであるかのようだ。包装にこそ制作の(技巧の)仕事が注ぎこまれているのであるが、それゆえに品物のほうは存在感をうしなって、幻影になってゆく。包みから包みへとシニフィエは逃れ去り、ついにシニフィエをとらえたときには(包みのなかには、ささやかな何か(・・)がつねにあるのだから)、無意味で、つまらなくて、値打ちのないものであるように見える。》

 姉妹たちの生活、四季の移ろい、行事を描く文体といった包みの豪華さにひきかえ、政治、思想、形而上のことには無関心にみえ、物語は散漫で、ぐずぐずと引き延ばされる。それは、《お金と暇のある女たちに日常を子細にわたって描くこと、それ以外の高みも深みも要らない》(水村美苗『手紙、栞を添えて』)というジェーン・オースティンの世界の日本版といえよう。

 次の断章、「中心のない食べ物」はどうだろう。《日本の料理では、すべてがべつの装飾をまた装飾するものとなっている。その理由は、まず、食卓のうえでも大皿のうえでも、食べものは断片の集まりにすぎず、どの断片も、食べる順序によって優劣の序列をつけられているようには見えないからである。(中略)第二の理由は、この料理が――これこそが独自性なのだが――調理する時間と食べる時間とをただひとつの時間のなかで結びつけていることである。》

 蒔岡姉妹たちの誰も、数々のエピソードのどれも、中心(メイン)たりえない。まず、主人公はだれなのか。須賀敦子が『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』で論じたように、雪子の「ものがたり」と妙子の「小説」がないまぜになって進行しているとはいえ、主人公は幸子であるといってもまたおかしくはない。舞台も、京阪神と東京の二点を楕円軌道でめぐってゆく。見合いは、病いは、花見は、たちどころに消費され(贔屓の鮨屋与兵(よへい)の親爺は《二番目の鮨が置かれるまでの間に、最初の鮨を食ってしまわないと、彼は御機嫌が斜めである》し、雪子の好きな「おどり鮨」は同時性そのものだ)、繰りかえされる。

 

<衣えらびに迷う>

細雪』下巻、蛍狩への序章、大垣への雪子の見合いに、東京在の鶴子をのぞく三姉妹が向かうところで、幸子の夫貞之助が三十三の厄年になる雪子のきもの姿をしげしげと見守りながら、「若いなあ」と嘆声を発した。

《二尺に余る袖丈(そでたけ)の金紗(きんしゃ)とジョウゼットの間子織(あいのこおり)のような、単衣(ひとえ)と羅物(うすもの)の間着を着ているのが、こっくりした紫地に、思い切って大柄な籠目(かごめ)崩(くず)しのところどころに、萩と撫子(なでしこ)と、白抜きの波の模様のあるもので、彼女の持っている衣装の中でも、分けて人柄に嵌(は)まっているものであったが、これは今度のことがきまると同時に東京へ電話をかけ、わざわざ客車便で取り寄せたのであった。

「若いでっしゃろ」

と、幸子も鸚鵡(おうむ)返しに云って、

「―――雪子ちゃんの年で、あれだけ派手なもん着こなせる人はあれしませんで」》

 この長編小説は衣えらびの迷いと悦びで染めあげられている。きものの悦びとは、人前に出てからのことはもちろんのこと、きものを選び、ついで帯を、それから帯揚げ、帯締めをあわせること、いやその前に長襦袢を選びかね、半襟の色柄に悩むところからはじまっている。『細雪』のきものは、雪子のたび重なる見合いのように、選びとることの理不尽、決めることの不可能性を象徴しているが、その優柔不断の迷いの時間こそが文化というものの本質であり、女たちは迷いの悦びを生理的に知っているのだ。

 この上、中、下巻からなる長編小説は、《日支事変の起る前年、即ち昭和十一年の秋に始まり、大東亜戦争勃発の年、即ち昭和十六年の春、雪子の結婚を以て終る》(谷崎松子『倚松庵の夢』)のだが、まずその幕あけから見てゆこう。

《「こいさん、頼むわ。―――」

 鏡の中で、廊下からうしろへはいって来た妙子(たえこ)を見ると、自分で襟(えり)を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、そちらは見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ながじゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据えながら、

「雪子(ゆきこ)ちゃん下で何してる」

と、幸子(さちこ)はきいた。》

 この導入部の見事さは後述するとして、小説の最後、やっと決まった婚礼の儀式のために雪子が東京へ向かうこととなり、誂えておいた衣裳ができてくる場面はこうだ。

《小槌屋に仕立てを頼んでおいた色直しの衣裳も、同じ日に出来て届けられたが、雪子はそんなものを見ても、これが婚礼の衣裳でなかったら、と、呟(つぶや)きたくなるのであった。そういえば、昔幸子が貞之助に嫁ぐ時にも、ちっとも楽しそうな様子なんかせず、妹たちに聞かれても、嬉しいことも何ともないと云って、きょうもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆく身のそぞろ悲しき、という歌を書いて示したことがあったのを、はからずも思い浮かべていたが、下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。》

 冒頭の場面の続きだが、ピアノを聞く集りのためにめかしこもうと、顔があらかたできた幸子は「小槌(こづち)屋呉服店」と記してある畳紙(たとう)の紐(ひも)を解いて、妙子に話しかける。

《「な、こいさん、―――」

と、幸子は、引っかけてみた衣裳が気に入らないで、長襦袢の上をぱっと脱ぎすてて別な畳紙(たとう)を解きかけていたが、ひとしきり止んでいたピアノの音が階下から聞えて来たのに心付くと、また思い出したように云った。

「実はそのことで、難儀してるねん」

「そのことて、何のこと」》

 幸子の、「引っかけてみ」「ぱっと脱ぎすてて」「解きかけて」「心付くと」「思い出したように」のリズミカルな気まぐれさ、唐突な「そのこと」の一語の、相手も当然わかるはずと思いこむ女心の短絡さと可愛らしさを活写しきる文章力。「そのこと」という雪子の見合い話について会話していると当人がはいってきて、上巻第五章はまるごと帯選びとなる。

《「中姉(なかあん)ちゃん、その帯締めて行くのん」

と、姉のうしろで妙子が帯を結んでやっているのを見ると、雪子は云った。》

 これが端緒となって、「中姉(なかあん)ちゃんが息するとその袋帯がお腹のところでキュウ、キュウ、云うて鳴るねんが」の追い打ちで、女の一大事の帯えらび騒動となるのだが、谷崎は姉妹三人の性格をいきいきと書きわける。

《「そんなら、どれにしょう。―――」

 そう云うとまた箪笥(たんす)の開きをあけて、幾つかの畳紙(たとう)を引き出してはそこら辺へいっぱいに並べて解き始めたが、

「これにしなさい」

と、妙子が観世水(かんぜみず)の模様のを選び出した。

「それ、似合うやろか」

「これでええ、これでええ。―――もうこれにしとき」

 雪子と妙子とは先に着附けを終っていて、幸子だけが後れているので、妙子は子供を賺(すか)すように云いながら、またその帯を持って姉のうしろへ廻ったが、ようやく着附が出来たところで、幸子はもう一度鏡の前に坐ったかと思うと、

「あかん」

と頓狂(とんきょう)な声を出した。》

 ついには口も腰も重い雪子まで口添えしだし、

《「そんなら、あの、露芝(つゆしば)のんは」

「どうやろか、―――ちょっとあの帯捜してみて、こいさん

 三人のうちで一人洋装をしている妙子は、身軽にあちらこちらと、そこらに散らばった畳紙の中味を調べてみて、それを見つけるとまた姉のうしろへ廻った。幸子は結ばれたお太鼓の上を片手でおさえて、立ったまま二三度息をしてみて、

「今度はええらしい」

と、口に咬(くわ)えていた帯締めを取って中へ通したが、そうしてきちんと締めてしまうと、またその帯もキュウキュウ云い出した。》

 観世水とか露芝とかの模様に精しい谷崎には感心するやら、男のくせにいやらしいやら、なかでもお太鼓の上を片手でおさえて、口に咬えていた帯締めを取って中へ通すところなどは、よく観ていた、としか言いようがない。事実、松子夫人(幸子のモデル)が『倚松庵の夢』につづったように、谷崎は松子の姉妹の会話を緻密、克明にメモして、小説の美と神が宿る細部に活かしたのである。

《「何でやろ。これもやわ」

「ほんになあ、うふゝゝゝゝ」

 幸子のお腹のあたりが鳴るたびに三人がひっくり覆(かえ)って笑った。》

 しらず幸せな気分が伝播してくる。谷崎文学には笑いの場面がないという批評を読んだことがあるけれども、こと『細雪』についてならば、笑いの場面はそこかしこにある。

 そして妙子が別な帯を引っ張り出すと、幸子はこれまた微笑を禁じえないのだが、

《「あゝ忙しい。解いたり締めたり何遍もせんならん。汗掻いてしもたわ」

「阿呆(あほ)らしい、うちの方がしんどいがな」

と、妙子がうしろで膝をついて、きゅうっと締め上げながら云った。》

 中公文庫にはこの場面を描いた田村孝之介のすばらしい挿絵が添えられていて、「うしろで膝(ひざ)をついて」のほんの一行で、三人の女たちを構図化させる作家の眼の確かさを如実に示す。

《まだ鏡の前に立ってお太鼓に背負(しよ)い上げを入れさせている幸子の左の腕をとらえて》雪子が脚気(かっけ)予防のヴィタミンBの注射の針を入れると、

《「こっちも済んだで」

と、妙子が云った。

「この帯やったら、帯締めどれにしょう」

「それでええやんないか、早う、早う、―――」

「そない急からしゅう云わんといて。急かされたらなおのことかあッとしてしもて何も分らんようになるがな」》

 こうすればああなって、ああすればこうなってと頭の中がパニックとなる贅沢な悩みをこの姉妹たいは愉しんでいる。結局は妙子の「古うなって、地がくたびれてるよってに音せえへんねん」との見さだめで一件落着するのだけれども、「少し頭を働かしなさいや」の妙子の捨てぜりふによる、三人の関係性と性格描写の見事さ。

 しかしこの出立はまだ完成していない。「そのこと」の仲人口の井谷からちょうどかかってきた電話を幸子は切れず、雪子と妙子を呼んだ自動車の前で待たせている。

《そこへどたどたと足音がして、

「あ、ハンカチわすれたわ、誰か持ってきて。

ハンカチハンカチ」

と、はみ出した長襦袢の袖をそろえながら、幸子が門口(かどぐち)へ飛んで出た。

「お待ち遠さん」》

 愛しさにあふれた場面だが、《はみ出した長襦袢の袖をそろえながら》という作家の視線を見落としてはならない。いよいよ「そのこと」の当日がきて、仕度に立ちあう貞之助の姿は谷崎の化身であった。

《当日雪子は姉妹たちに手伝って貰って三時頃から拵えにかかったが、貞之助も事務所の方を早じまいにして帰って来て、化粧部屋に詰めるという張り切り方であった。貞之助は着物の柄とか、着附とか、髪かたちなどに趣味を持っていて、女たちのそういう光景を眺めることが好きなのであるが、一つにはこの連中が時間の観念を持たないことに毎度ながら懲りているので、午後六時という約束に遅れないように監督するためでもあった。》

 衣えらびに夢中な女たちに時間の観念などあるはずもなく、『細雪』は「遅延の物語」(渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』)であるが、流れゆく時間と循環がライト・モティーフであることの徴候がここにもある。

 谷崎好みは随所に顔をのぞかせ、たとえば、《そういう雪子も、見たところ淋しい顔立ちでいながら、不思議にも着物などは花やかな友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の、御殿女中式のものが似合って、東京風の渋い縞物(しまもの)などはまるきり似合わないたちであった》などは、幸田文が好んだ織によるかたいきものの対極、友禅染めによるやわらかなきものが似合う女こそが谷崎好みであることを投影したものに違いなく、桜、鯛を好むといってはばからなかった谷崎らしい、ある種俗物的な、しかし正統の肯定美学の表象である。

 関西の「おんな文化」の手に負えぬ一典型(田辺聖子による中公文庫解説)と評された雪子の性格も衣えらびにあらわれる。長姉鶴子について東京へ転居している雪子が、見合いのために、蘆屋の幸子の家に出てくる。見合いを済ませ、結局は縁談を打ち切ったあとも、四月三日の関西の遅い雛の節句を済ましたら東京へ帰るといっていたのに、もう三四日で祇園の夜桜が見頃だそうだから、ということになった。

《京都行きは九日十日の土曜日曜に定められたが、雪子はそれまでに帰るのやら帰らないのやら、例の一向にはっきりともせずにぐずぐずしていて、結局土曜日の朝になると、幸子や妙子と同じように化粧部屋へ来てこしらえを始めた。そして、顔が出来てしまうと、東京から持って来た衣裳鞄を開けて、一番底の方に入れてあった畳紙(たとう)を出して紐(ひも)を解いたが、何と、中から現れたのは、ちゃんとそのつもりで用意して来た花見の衣裳なのであった。

「何(なん)やいな、雪姉(きあん)ちゃんあの着物持って来てたのんかいな」

と、妙子は幸子のうしろへ廻ってお太鼓を結んでやりながら、雪子がちょっと出て行った隙にそう云っておかしがった。

「雪子ちゃんは黙ってて何でも自分の思うこと徹さ措かん人やわ」

と、幸子が云った。》

 言及しておかねばならないのは、『細雪』のきものがふわふわと浮ついたものばかりではないということだ。谷崎は地方風土や社会風俗、時代背景や流行観察の手がかりとして、きものを機能させている。それは幸子が雪子の見合い相手の月給、財産といった経済状態について大阪人らしい会話(谷崎『私の見た大阪及び大阪人』)を交わし、妙子の「それ、あやしいなあ、よう調べてみんことには」で、『細雪』全編に散りばめられた調べることの悲喜劇を予告したものだけれども、他にも、渡月橋の水辺で花見する朝鮮服を着た半島の婦人たちが酔って浮かれている様子や、踊りの師匠を見舞うために訪れた天下茶屋あたりの樹木の少なさの描写や、見合いの相手たちの職業にパラダイム化された思考様式のすくいとり、白系露西亜(ロシア)人カタリナ・キリレンコによばれた食事会、チェッコ問題に直面するヒットラー独逸へ戻ってゆくシュトルツ一家との交流とシュトルツ夫人からの手紙などとともに、小説に広がりと厚みを加える。上方の富裕な家では、大正の末年頃には婚礼の儀のために三枚襲ねを調える贅をつくしていて、東京渋谷に住みはじめた鶴子からの手紙の、《しかしこちらは大阪に比べると埃(ほこり)が少く空気の清潔なことは事実にて、その証拠には着物の裾(すそ)がよごれません、こちらで十日ばかりに一つ着物を着通していましたけれども、わりに汚(よご)れませんでした》とは、大阪の埃は関西の白い土のせいであり、関東ローム層の黒い土と違って、明るく派手やかな上方好みのきものの色を映えさせもすることに通じる。上方の女が東京に出てきたとき、どんな店で買い物をしたがったかは、《午後には四人で池(いけ)の端(はた)の道明(どうみよう)、日本橋三越、海苔(のり)屋の山本、尾張町の襟円(えりえん)、平野屋、西銀座の阿波屋(あわや)を廻って歩いたが》でわかるが、しかし彼女たちは「みんな東京々々と云うけど、行ってみたいとこもあらへんなあ」と歌舞伎見物に落ちついてしまうように、上方文化を背負った女たちは東京の流行になんの憧れもなく、「東京はえらい矢絣(やがすり)が流行(はや)るねんなあ。今ジャアマンベーカリーを出てから日劇の前へ来るまでに七人も着てたわ」とどこか田舎者を観察するような口調となる。文化が骨身にしみこんでいる姉妹たちが、国民総動員を叫ぶ時代の要請にさからってどんなふうにお洒落の工夫をしていたか、法事のさいの《女たちは皆、姉が黒羽二重、幸子以下の三姉妹がそれぞれ少しずつ違う紫系統の一越縮緬(ひとこしちりめん)、お春が古代紫の紬(つむぎ)、という紋服姿であった》が語っている。戦局は日ましに悪化し、国民生活を圧迫してゆくのだけれども、『細雪』最終章は世相を織りこみつつ雪子の婚礼の準備に流れこむ。

《現に雪子の色直しの衣裳なども、七・七禁令に引っかかって新たに染めることができず、小槌屋(こづちや)に頼んで出物を捜させたような始末で、今月からはお米も通帳制度になったのであった。それに今年は菊五郎も来ず、花見は去年でさえ人目を憚ったくらいなので、なおさら遠慮しなければならなかった。》

 そうして、すでに引用した「きょうもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆく身のそぞろ悲しき」の、地の文にとけこんだ、うまいとはいいがたい歌が妙に胸に沁みてくる。

 

<うつす/のぞく>

 書きだしは何度読んでも素晴らしい。

《「こいさん、頼むわ。―――」

 鏡の中で、廊下からうしろへはいって来た妙子(たえこ)を見ると、自分で襟(えり)を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、そちらは見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ながじゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据えながら、

「雪子(ゆきこ)ちゃん下で何してる」

と、幸子(さちこ)はきいた。》

 鏡を出入りする妙子と幸子のまなざしと声音が、読むものを脂粉ただよう化粧部屋のただなかに立たせる。「鏡の中で」からはじまって、「見ると」「見ずに」「見据えながら」と屈折しつつ、主語「幸子は」が文の最後にあらわれるという複雑な構図なのに、まるでベラスケス『ラス・メニーナス』のような臨場感と奥行きがある。なにより人を幸せにする文章だ。すぐ次の一行、「悦(えつ)ちゃんのピアノ見たげてるらしい」の声までで、もう四人の登場人物が動きだしていて、その家族構成、性格、社会階層、住居構造までわからせる。姉妹が鏡の表(おもて)に自分の顔や人の顔を見るとき、本当は何を見ているのか。鏡の前のやりとりだから、より艶っぽくなる。

《「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、また一つあるねんで」

「そう、―――」

 姉の襟頸(えりくび)から両肩へかけて、妙子は鮮やかな刷毛目をつけてお白粉(しろい)を引いていた。決して猫背ではないのであるが、肉づきがよいので堆(うずたか)く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。》

 観音さまのように肉づきのよい皮膚は、「表層の美に憑かれた作家」(谷川渥『谷崎潤一郎 文学の皮膚』)谷崎の好みだ。

《先方の写真ないのんか》

 階下のピアノがまだ聞えているけはいなので、雪子が上って来そうもないと見た幸子は、

「その、一番上の右の小抽出(こひきだし)あけてごらん、―――」

と、紅棒(べにぼう)を取って、鏡の中の顔へ接吻しそうなおちょぼ口をした。》

 ついで、「B足らん」「脚気(かっけ)」「強力ベタキシン」等の語からなる病気恐怖テーマの前触れがあり、文庫本にして5ページにもみたない第一章は、部分が全体を映したうえで、人形浄瑠璃の段切のように唐突に切れる。

《ピアノの音が止んだと見て、妙子は写真を抽出に戻して、階段の降り口まで出て行ったが、降りずにそこから階下を覗(のぞ)いて、

「ちょっと、誰か」

と、声高(こわだか)に呼んだ、

「―――御寮人(ごりょうにん)さん注射しやはるで。―――注射器消毒しといてや」》

 少しとんで上巻第九章、翌日の見合いのために頭髪(あたま)を拵(こしら)える雪子と幸子は井谷の美容院にいる(折り畳まれるように、下巻第二十章では、二人は銀座資生堂の美容室でパアマネントをかけている)。

《待合室には幸子が一人いただけでほかには誰も聞いている者はなかったけれども、すぐ隣の室の間仕切りに垂れているカーテンが絞(しぼ)ってあって、雪子がその部屋の椅子にかけつつ頭からドライアーを被せられている姿が、鏡に反射して二人の方へまともに見えていた。井谷のつもりでは、ドライアーを被っているから当人に聞えるはずはないと思っているのらしいけれども、二人がしゃべっている様子は雪子の方にもよく見えていて、何を話しているのかしらんと、上眼づかいに、じっとこちらに瞳を据えているらしいので、幸子は唇の動き具合からでも推量されはしないであろうかとハラハラした。》

 三島由紀夫が指摘した谷崎の「けれども」調はさておき、いつも見られるばかりの雪子が、眼で、唇で、鏡を出入りするまなざしと声の絡みあいをほどいている。

 見合いの当日になると、学校帰りの悦子が鞄を応接間へ投げ出しておいて、「今日は姉ちゃんお婿さんに会うのんやてなあ」と化粧部屋に勢い込んではいって来る。幸子ははっとして、鏡の中の雪子の顔色がすぐに変ったのを看(み)てとった。女中のお春からそれを聞いたと知って雪子は、「悦ちゃん、下へ行ってらっしゃい」と鏡を視つめたままの姿勢で言うが、鏡には女の決意を確信に、想像を現実に変える力があるらしい。雪子はお春をしかりつけたかと思うと、女中に立ち聞きされ噂されることの辛さから《涙が一滴鏡の面に影を曳(ひ)きながら落ちた》というぐあいに、ほんの短い時間に彼女は万華鏡のように心模様を変化させるのだった。

 雪子の眼の縁のシミについて、心配しなくてよい、と書かれた婦人雑誌を当人に読ませ安心させたい妙子は、《雪子の顔にシミが濃く現れていた或る日、彼女がひとり化粧部屋で鏡に向っている時に》、「心配せんかてええねんで」と小声で言ってみたりする。ところが雪子は「ふん」と言っただけであったものの、「ふん」は肯定の「ふん」であって。その千年の文化を秘めた「ふん」のニュアンスを汲みとれないと『細雪』の快楽も汲みとれない。

 中巻第一章もまた鏡(と病い)からはじまる。しばしば鏡は映すというより覗きこまれる、鏡面が心の井戸であるかのように。

《幸子(さちこ)は去年黄疸(おうだん)を患(わずら)ってから、ときどき白眼(しろめ)の色を気にして鏡を覗(のぞ)き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。》

 その幸子が東京へ出たおりのこと、奥畑(おくばたけ)の啓坊(けいぼん)(五六年前、妙子と家出をして、「新聞の事件」を起した)から、妙子が写真家の板倉(もとこの男は奥畑貴金属商店の丁稚だった)とつきあっていると告げ口する手紙を受けとる。あれこれ思案したあげくに、《やがて、彼女は、歌舞伎座の方から橋を渡って河岸通りをこちらへ歩いてくる雪子の日傘が眼に留まると、徐(しず)かに座敷の中へはいって、自分の顔色を見るために、次の間の鏡台の前に坐った。そして紅の刷毛(はけ)を取って二三度頬の上を撫でたが》、という行為は、自分の顔色を見るというよりも、顔の輪郭に触れることで確かめるといったある種の所作であり、そうでもしなければ消入りそうな自分、消えないまでも血の気を失ってゆきそうな自分を見出したいからに違いなかった。

 あるとき、幸子と貞之助は夫婦して河口湖のホテルに泊り、「時間」を忘れる。そこで谷崎のまなざしの遠近法は、自意識のプリズムをとおして、現実世界を想像世界に封じこめる。《魔法瓶の外側のつやつやとしているのが凸面鏡の作用をなして、明るい室内にあるものが、微細な物まで玲瓏(れいろう)と影を落しているのであるが、それらが一つ一つ恐ろしく屈曲して映っているので、ちょうどこの部屋が無限に天井の高い大廣間のように見え、ベッドの上にいる幸子の映像は、無限に小さく、遠くの方に見えるのであった。》

 鏡を自在に出入りする女たちを書きたくて谷崎は、発表のあてもなく戦時中も『細雪』を書きついだのだった。

「美しき姉妹(おとどい)三人(みたり)居ならびて写真とらすなり錦帯橋の上」

 絵日記風の短歌(擬古典調の、子規におとしめられた香川景樹を好んだ谷崎らしい)に詠まれた「写真」は『細雪』のテーマのひとつである。谷崎の映画好きはつとに知られるところで、この小説にも東西の映画女優名があがり、姉妹に洋画を見て歩かせもするが、静止画(スティル)としての写真、時間とともにうつろう映像ではなく対象を瞬間として固着し、愛玩させる写真に、カメラ好きの善良さを装いつつ悪魔的いかがわしさが機能する。

 その端的なあらわれが雪子の胸のレントゲン写真だ。見合い相手から雪子が病身と思われたことに対して貞之助は、《胸に何の曇りもないところを写真で一目瞭然と》示したいからと、阪大でレントゲン写真を撮らせたのだった。しかしなによりもネガフィルムに雪子の乳房の下のあばら骨と肺を透かして見たかったのは、誰あろう貞之助当人だったのに違いない(暑さに、濃い紺色のジョウゼットを着た雪子の、肩甲骨(けんこうこつ)の透いている、骨細な肩や腕を見たことがあった)。

 貞之助のライカは姉妹たちのあとを追いかけ、ゆるゆると流れる時間から、はかない時間を盗みとっては、快楽の脳髄に「収める」。《まず廣沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子、という順に列(なら)んだ姿を、遍照寺(へんじょうじ)山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。(中略)以来彼女たちは、花時になるときっとこの池のほとりへ来、この桜の樹の下に立って水の面をみつめることを忘れず、かつその姿を写真に撮ることを怠らないのであった》というわけで、失われた時は、毎年の行事という形式によって多重映像化される。平安神宮の紅枝垂(べにしだれ)こそは花見の行事の象徴であって、《門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅(くれない)の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と感嘆の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。》 桜樹のつきたあたりから、《貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからライカを持って追いながら、(中略)いつも写す所では必ず写して行くのであったが、ここでも彼女たちの一行は、毎年いろいろ見知らぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人はわざわざその旨を申し入れて許可を求め、無躾(ぶしつけ)な人は無断で隙をうかがってシャッターを切った。》

 ライカはいくどとなく登場する、まるで貞之助や姉妹たちが贔屓(ひいき)にした六代目(菊五郎)のように。妙子の人形制作写真を一手に撮影している板倉が、妙子の舞姿を写しにやってくると、

《「こいさん、そのままじっとしてとくなさい。―――」

と、すぐ閾際(しきいぎわ)に膝(ひざ)を衝(つ)いてライカを向けた。そしてつづけざまに、前から、後ろから、右から、左から、等々五六枚シャッターを切った。》

 崇拝するかのように、膝を衝き、《前から、後ろから、右から、左から》、舐めまわすライカのレンズは、鏡がうつすことをこえて覗くものになったように、表層をうつすというよりも奥底を覗きこんで表層にうつしこむ道具、それもかなりいかがわしい道具となっている。

 その一ヶ月後、阪神地方は豪雨にみまわれる。最も被害甚大と伝わってくる住吉川東岸の洋裁学校に通う妙子を案じて、奥畑の啓坊が幸子を訪ねてきた。

《と、式台のところに伏せてあったパナマ帽の下から、慌てて奥畑は何か二た品を取り出すと、一つを手早くポッケットに入れた。一つは懐中電灯であったが、ポッケットに入れた方は確かにライカコンタックスに違いなく、こんな時にそんなものを持っているのをバツが悪いと感じたのであろう。》

 奥畑が行ってしまったあと、幸子は何を思ったか二階へ上って、板倉が《いろいろと姿態の注文を附けて、何枚も撮った》妙子の写真を眺めた。彼女は四枚ある「雪」の舞姿の中で、「心を遠き夜半(よわ)の鐘」のあとの合の手のところを撮ったものが一番好きであった。《結いつけない髪に結い、舊式な化粧を施しているせいで常とは変って見える顔つきに、持ち前の若々しさや潑剌(はつらつ)さが消えていて、実際の年齢にふさわしい年増美といったようなものが現れているのにも、一種の好感が持てるのであった。が、今から思うとちょうど一箇月前に、あの妹がこんな殊勝な恰好をしてこんな写真を撮ったということが、何だか偶然ではないような、不吉な豫感もするのであった。》

 この写真のプンクトゥム(突き刺すもの)は、ロラン・バルトのいう「それはかつてあった」という時間のふりかえりだけではなく、「それはいつかある」という豫感でもある。《持ち前の若々しさや潑剌(はつらつ)さが消えていて》には、のちに赤痢を病む妙子の肌の前兆が、「皮膚より深いものはない」という言葉のとおり、うつされていたのではないか。そして、《姉の婚礼の衣裳を着けた妹の姿に、何ということもなく感傷的にさせられて、泣きそうになって困ったことを覚えているが、この妹がいつかはこういう装いを凝らして嫁に行く光景を見たいと願っていたことも空(むな)しくなって、この写真の姿が最後の盛装になったのであろうか》にも、のちの妙子の、《この家に預けておいた荷物の中から、当座のものをひとりでこそこそと取り纏め、唐草(からくさ)の風呂敷包に括(くく)って》、バアテンダア三好との兵庫の方の二階借りの家へ行くことのアイロニカルな豫感がある。

 見せられることで不快を与えた写真も登場した。雪子はじじむさい野村との見合いの晩、家へ引っ張って行かれ、亡くなった奥さんや子供たちの写真を目にする。《あの人は写真を急いで隠しでもすることか、わざわざあれが飾ってある佛壇の前へ案内するとは何事だろう、あれを見ただけでも、とても女の繊細な心理などが理解できる人ではないと思う》と愛憎(あいそ)を尽かす。

細雪』で嫉妬するただ一人の人物、それは奥畑の啓坊に他ならず、彼によって板倉のライカが壊されてしまう事件は次のようにして起きた。妙子の舞の師匠の追善の会が大阪三越で催されることになり、こいさんの「雪」だけでも見たい、と貞之助は駈けつけるが、《見物人の最後列に立って、ライカを舞台の方に向けて、ファインダーに顔を押し着けている男のいるのが、板倉に紛れもなかった。貞之助ははっとして、先方から見つけられないうちに遠い隅の方へ逃げて来て、時々こっそり窺(うかが)うと、板倉は外套(がいとう)の襟を立てて顔を埋め、めったにキャメラから首を挙げないで、つづけざまに妙子を撮っている。》 と、貞之助は、舞が終ったとたんに、慌ててライカを小脇に挟んで急ぎ足に廊下へ出て行く板倉を認めたが、その後影を追うように出て行った紳士が奥畑であったと心付くと、貞之助もすぐあとから廊下へ出た。「………何でこいさんの写真撮った。………撮らんいう約束したやないか。………」と板倉を詰(なじ)った奥畑は、「そのキャメラ僕に貸せ。………」と言うと、《刑事が通行人を検(しら)べるように板倉の体を撫で廻して外套のボタンを外すと、上衣のポッケットへ手を挿し入れて、素早くライカを引っ張り出した。》 まるで情事の現場を取り押さえ、勃起したペニスを引っ張り出したかのようで、奥畑は、指先をがたがた顫わせながらレンズの部分をいっぱいに引き伸ばすと、コンクリートの床へ、カチンと、力任せに叩き着けて、後も見ずに行ってしまった。

 二三日後、妙子は《この間の舞姿を写真に撮っておきたいからもう一遍あの衣裳を貸してくれと云って、畳紙(たとう)の包を取り揃えて衣裳行李に入れ、それと鬘の箱と、あの時の傘とを自転車に積んで出掛けた》が、幸子が「きっとこいさん、あの荷物持って板倉の所(とこ)へ写しに行くねんで」としゃべりだすと雪子は「そんならあのライカ壊れたやろか」、「フィルムもあかんようになったのんで、撮り直すのんと違うやろか」と噂しあうが、あたかも色ごとの噂話のようではないか。

 

<形代(かたしろ)>

 妙子は、製作した人形が百貨店の陳列棚へ出るようになり、夙川(しゅくがわ)に仕事部屋を借りることから、多方面に発展する。幸子は、娘悦子の寝台と同じ高さに寝床を敷いて雪子を寝させるのは、雪子ちゃんの孤独を慰める玩具の役を悦子にさせているから、と夫に打ちあけるが、自己のさまざまな欲望を姉妹たちに投影し、自分の形代(かたしろ)としてたくみに操る人形遣いだったのではないか、とうがった見方もできる。雪子は、ある日、二階の欄干から庭の芝生で悦子と隣家シュトルツ氏の娘ローゼマリーが西洋人形で遊んでいるところを見おろしていると、ローゼマリーが「ベビーさん来ました、ベビーさん来ました」と言いながら、ママ役の人形のスカートの下から赤ん坊を取り出したので、西洋の子供も赤ん坊がお腹から生れることを知っているのだなと微笑(ほほえ)ましさを怺(こら)えてひっそりと見守る(この叙情的なシーンは、幸子の流産と妙子の死産の前触れでもある)。悦子は、飯(まま)事遊びをするのに、注射の針の使いふるしたのを持って来て、芯(しん)が藁(わら)で出来ている西洋人形の腕に注射したり、雪子が東京から帰ってくると知って、「姉ちゃんお節句にやって来やはった。お雛さんと一緒やわ」と無邪気にはしゃいだり、と人形を介して神経衰弱と紙一重の、真実を見抜く気味悪さを発揮する。

 それぞれが人形という対象に幻想を注ぐ女たちのなかで、雪子は自身もまた人形のような存在だった。大概な暑さにはきちんと帯を締めている雪子がどうにも辛抱しきれず洋服となったところを、どうかした拍子に見ることがあった(とは、しらじらしい)貞之助は、《濃い紺色のジョウゼットの下に肩甲骨の透いている、傷々しいほど痩せた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させる肌の色の白さを見ると、にわかに汗が引っ込むような心地もして、当人は知らぬことだけれども、端の者には確かに一種の清涼剤になる眺めだとも、思い思いした。》 そして雪子は、長姉鶴子と一緒に東京へ立ってほしいと言われて、《黙って項垂(うなだ)れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬(まり)に素足を載せながら、時々足の蹠(うら)が熱くなると毬を廻して別な所を蹈んでいた》とはまた、たくみなカメラ・アイによる見事な人形ぶりである。この透けるエロティシズムは『源氏物語』の「蜻蛉」巻の、薫大将が女一の宮の着ていた羅(うすもの)に執着したエピソードを想わせる。

 過ぎた時間がしらず積もるように、『細雪』のいくつものくりかえしのひとつとして、同じ情景が翌夏にも紡ぎだされる。《七月も二十五六日頃となると、雪子の洋服嫌いまでがとうとう我を折って、観世縒(かんぜより)で編んだ人形のような胴体にジョウゼットの服を着始めた》のだけれども、このジョウゼットという素材は、人形のようにのっぺりした身体の線を消却することでかえって想像力を刺激するのであって、裸同然のみなりのまま蜂に追われて逃げ廻った《彼女の脚気の心臓がドキドキ動悸を搏(う)っているのが、ジョウゼットの服の上から透いて見えた》という視線は、ちょうど居あわせた板倉のものなのか、作者のものなのかは「見えた」の主語がなくあいまいだが、まなざしより深い触感はない、と語ってやまない。

 この雪子の体型こそは『陰翳礼讃』における谷崎の美しい母のそれに近い。《私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺(ちゅうぐうじ)の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体美ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸(おうとつ)もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀(しり)の線、(中略)私はあれを見ると、人形の心棒を思いだすのである。事実、あの胴体は衣裳を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。》 この人形は文楽の人形をさしていて、『蓼食う虫』で文楽を視る主人公の感想に託された《元禄(げんろく)の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。(中略)昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎しみ深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない》という「永遠女性」のおもかげであった。個性的色彩を消して一層の美を見させようとした雪子なのに、個性的な妙子の恋の逃避行のせいで、無名的な雪子の名前が取り違えられるという「新聞の事件」は、だからアイロニカルに機能している。

 形代にまつわるクライマックスは妙子の出産の場面だろう。三好との死産した女の児の件りで、もっとも近代的な末娘妙子に『源氏物語』の原動力となったもののけ(・・・・)と同じ古層が働きかける呪術性、境界領域の溢れだしもまた『細雪』物語の魅力である。

《三人は次々にその赤ん坊を抱き取ってみたが、突然妙子が激しく泣き出したのにつられて、幸子も泣き、お春も泣き、三好も泣いた。まるで市松人形(いちま)のような、………と、幸子は云ったが、その蝋色(ろういろ)に透き徹った、なまめかしいまでに美しい顔を見詰めていると、板倉だの奥畑だのの恨みが取り憑(つ)いているようにも思えて、ぞっと寒気がして来るのであった。》

 さて、足フェティシズムは今さら取りあげるのも陳腐だが、『細雪』にその徴候はなさそうにみえる。けれども注意深く読みこめば、形代としての足が螺鈿のような妖しい虹色で底光りしている。

 まずは男たちが担うものからあげれば、板倉が足を切り落とすのは、かなわぬ欲望の大胆な象徴であろう。申し分ない見合い相手と思われた橋寺氏は、神戸元町のとある雑貨店で靴下を買いたいから一緒に見てくれないかと雪子を誘ったのに、彼女はモジモジして困ったような顔つきで衝(つ)っ立っているばかりなので憤然となるのだが、このささいなエピソードの小道具として、女に男の足を連想させる靴下を選ばせるところに、橋寺のありきたりな淫蕩さが臭ってくる。奥畑の啓坊は、病みあがりの妙子を見舞ったとき、片脚をすっかり縁側の閾(しきい)に載せて、まっすぐに伸ばし、新調の靴が妙子の方へよく見えるようにするのだが、この男の自意識と性格がポーズで表現されている。

 姉妹の足に移る。巻頭の「B足らん」は足の病、脚気ゆえだった。雪子の足は作家の偏執的視線に晒される。見合い相手の飲みっぷりに意を強くして、白葡萄酒に目立たぬように折々口をつけていた雪子が、《雨に濡れた足袋の端がいまだにしっとりと湿っているのが気持が悪く、酔が頭の方へばかり上って、うまい具合に陶然となって来ないのであった》の隠微に湿った触感。悦子を学校へやるために雪子が《鞐(こはぜ)も掛けずに足袋(たび)を穿(は)いたまま玄関まで送って出ると》のきらめく細部。悦子が飼っている兎の一方の耳が立たないため、《そのぷよぷよした物に手を触れるのが何となく不気味だったので、足袋を穿いている足を上げて拇(おやゆび)の股に耳の先を挟んで摘み上げた》の、微笑ましくはあっても奇妙な感覚。あまりの暑さに雪子は、《悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を蹈んでいた》の、蹈まれるゴム毬に化身したい作者の欲望。『細雪』でもっとも美しい場面は、姉妹たちの自然な仲のよさを貞之助が覗くように見てしまう情景だろう。

《ある日、夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖(ふすま)を開けると、雪子が縁側に立て膝して、妙子に足の爪を剪(き)って貰っていた。

「幸子は」

と云うと、

「中姉(なかあん)ちゃん桑山さんまで行かはりました。もうすぐ帰らはりますやろ」

と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑(くず)を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌(てのひら)の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。》

 悦子もまた、《クリーム色の毛織のソックスを穿いた可愛らしい脚》、《紅いエナメルの草履》、ペーターからの小さすぎて嵌まらなかった《上質のエナメルの靴》といった描写のまわりをうろつく。

 形代ということでは髪もまたそうである。たとえば鬘(かつら)とは、仮装のための、仮託された死からなるものなのか。愛猫を剥製にした谷崎にとって、包む表層に魂が宿っていた。

《「この鬘、あたしも時々髷(まげ)に結うて被らして貰おうと思うて、こいさんと共同で拵えてん」

「よろしかったら、雪姉(きあん)ちゃんにも貸したげるわ」

「お嫁入りの時に被りなさい」

「阿呆らしい、あたしの頭に合うかいな」

 幸子が冗談を云ったのを、雪子は機嫌のいい笑顔で受けた。そう云えば彼女の頭の鉢は、毛が豊かなので見たところでは分らないけれども、飛び抜けて容積が小さいのであった。》

 鬘のエピソードは『細雪』の最後でふたたびあらわれる。妙子が死産した《赤ん坊は髪の毛をつややかに撫でつけられ、さっきの産衣を着せられているのであったが、その髪は濃く黒く、顔の色は白く、頬が紅潮を呈していて、誰が見ても一と眼であっと嘆声を挙げたくなるような児であった》、のその黒髪に形代として魂が宿ったあと、雪子が《大阪の岡米(おかよね)に誂(あつら)えておいた鬘(かつら)が出来てきたので、彼女はちょっと合わせてみてそのまま床の間に飾っておいたが、学校から帰って来た悦子がたちまちそれを見つけ、姉ちゃんの頭は小さいなあと云いながら被って、わざわざ台所へ見せに行ったりして女中たちをおかしがらせた。》

 悦子という情緒不安定な少女を一脇役にして、姉妹たちのどうということのない会話をいつまでも聴いていたい、何度でも聴きたい、と不健康なことをも健康な文体で表現し、なめらかに水平移動するカメラワークによって、感じられる時間がここにある。

 

<おぞましさ/あふれ>

 不安症と思わせる偏執的言辞の羅列をもって、『細雪』にも病名と薬名が呪文のように唱えられている。クリスティヴァ『恐怖の権力』から引用すれば、《作家とは隠喩による表現に成功した恐怖症患者であり、これによって彼は恐怖のあまり死んでしまうことなく記号のなかに宿ることができるのである》は谷崎にもあてはまる。

 妙子と女中お春は、おぞましさを産みだしつづける。暑い季節、妙子は、《汗で肌に粘(ねば)り着いた服を、皮を剥(は)ぐように頭からすっぽり抜ぎ、ブルーマー一つの素っ裸になって洗面所へ隠れたが、しばらくすると濡れ手拭で鉢巻をし、湯上り用タオルを腰に巻いて出て来て》といったぐあいで、《ひどい時は胡坐(あぐら)を掻(か)くような形をして前をはだけさせたりする。》 赤痢で寝つくと、《どんよりと底濁りのした、たるんだ顔の皮膚は、花柳病か何かの病毒が潜んでいるような色をしていて、何となく堕落した階級の女の肌を連想させた》のだが、中村眞一郎が《プルーストをして嫉妬せしめるに足る病気の妙子の描写に、限りない美しさを感じないだろうか》(『谷崎と細雪』)とした淫蕩陰影の美さえある。表層の汚れは内部からの穢れのあらわれであるから、雪子は、《妙子が入浴した後では決して風呂に入らなかったし、幸子の肌に触れたものなら下着類なども平気で借りて着る癖に、妙子のものは借りようともしなかった。》

 一方、お春の物臭(ものぐさ)は生来で、《女中部屋の押入に汚れ物がいっぱい溜るようになって、穢(きたな)くてしようがない、(中略)中から御寮人様のブルーマーが出て来たのにはびっくりした。あの人は洗濯するのが面倒臭さに、お上のものまで穿いていたのだ、(中略)始終買い食いや摘(つま)み食(ぐ)いをするので、胃を悪くしているとみえて、息の臭いのが鼻持ちがならない》などと苦情が絶えない。悦子が猩紅熱(しょうこうねつ)に罹ったときなどは、病人が食べ残した鯛の刺身をこの時とばかり貪(むさぼ)り食べるという風で、あげくは伝染も怖がらず、《悦子の手だの足だのを掴まえて、瘡蓋を剥がしては面白がっていた。お嬢ちゃん、まあ見てごらん、こんな工合に何ぼでも剥がれますねんと云いながら、瘡蓋の端を摘まんで引き剝がすと、ずるずると皮がどこまでも捲(めく)れて行く。》

 やがて、赤痢から回復した妙子を《もう、以前の彼女が持っていた性的魅力を完全に取り返していた》とする文章は、貞之助の眼とは言い切れないないように書かれているが、おぞましさ(アブジェクション)を覗き、言葉にする谷崎は、やはりクリスティヴァの《窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である。このエクリチュールの停止は即、窃視症の倒錯化につながる》をよく認識していたからこそ、エクリチュールに人生を捧げた。

 結婚式のために夜行で上京する雪子の《下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた》で『細雪』が終るのは有名だが、豪華絢爛たる『細雪』には美と同じほどの汚穢がどろどろと垂れ流され、あふれている。

 大正期、中国エキゾチズムに惹かれた谷崎らしく、貞之助の眼に飛びこんで来た水害の景観は《水は黄色く濁った全くの泥水で、揚子江(ようすこう)のそれによく似ている。黄色い水の中に折々餡のような色をした黒いどろどろのものも交っている》と描写されるが、水害で九死に一生を得た妙子にまつわって、どろどろはあふれでる。啓坊のところで発病した妙子のところへお春が行ってみると、《昨夜からもう二三十回も下痢したそうであるが、あまり頻繁なので、起きて、椅子に摑まって、御虎子(おまる)の上へ跨(また)がったきりであった。もっともこれは、そんな恰好をしていてはよろしくない、安静に横臥して挿込便器を用いなければならぬという医師の忠告があったそうで、お春が行ってから、彼女と奥畑とで無理に説きつけて、ようよう臥かすことができたが、お春がいた間にも何回となく催した。》 お春からの待ち遠しい電話(電話もまたあれこれ不吉な事件を垂れ流す)を受けた幸子は、容態の変化が案じられ、《どんな大便をするのん、血が交(まじ)っていないのん、と云うと、少し交っているようでございます、血のほかには鼻汁のようなどろどろした白い粘(ねば)っこいものが出るばかりでございます、と云う。》 神をも怖れぬ探究心だが(谷崎は厠(かわや)をたびたび題材化している)、『源氏物語』がけしからぬ汚物で女御(にょうご)のきものの裾が汚れる桐壷の話からはじまったことを気にとめたい。

 あるときは膣や口腔からの排出となる。愛猫の鈴のお産のために獣医を呼んで陣痛促進剤を注射してもらい(医者は妙子に注射することをためらって危ないめにあわすのに、猫には簡単に注射する)、《辛うじて口もとまで出かかった胎児を、幸子と雪子で代る代る引っ張り出した。(中略)そして、二人が血腥(ちなまぐさ)い手をアルコールで消毒し、臭(におい)のついた着物を脱いで寝間着に着換え、これから寝床へはいろうとしているときであった》にみる臭覚にもうったえてくる聖俗の混沌。不意に電話のベルが鳴ったので、幸子が取ると、お春の声で、妙子が陣痛微弱で苦しんでいて独逸製の陣痛促進剤を注射してもらえずに弱っているという。手足を踠(もが)いている妙子は、《何かえたいの分らぬものを嘔吐するやらした。それは物凄(ものすご)く汚いどろどろのかたまりのようなもので、三好が看護婦から聞いたのでは、胎児の毒素が口の方へ出るのだということであったが、幸子が見ると、赤ん坊が分娩後に始めて排泄する蟹屎(かにくそ)というものに似ていた。》

 口という開口部が無意識の裂けめなのは今さらのことだが、思いかえせば『細雪』の上巻第一章で、幸子は《紅棒(べにぼう)を取って、鏡の中の顔へ接吻しそうなおちょぼ口をした》と印象づけている。とくに妙子(パロディーみたいに口唇欲動と肛門欲動の記号を垂れ流す、幼くして母を亡くした末娘)の唇は、くりかえしクローズアップされる。舞「雪」の衣装を着た妙子がちらし鮨(「中心のない食べもの」の代表)を食べる場面では、《妙子は衣装を汚(よご)さないように膝の上にナフキンをひろげて、分厚い唇の肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しづつ口腔へ送り込みながら、お春に茶飲み茶碗を持たせて、一と口食べてはお茶を啜(すす)っているのであった。》 貞之助に「こいさんそんなに食べてええのんかいな」と聞かれて、「兄さん、うち、そんなに食べてえしませんねんで。口紅に触らんように少しづつ何遍も持って行くよってに、たんと食べてるみたいに見えますねん」と言いかえして、「藝者が京紅(きょうべに)着けたら、唇を唾液(つばき)で濡らさんようにいつも気イ付けてるねんて。もの食べる時かて、唇に触らんように箸で口の真ん中へ持って行かんならんよってに、舞妓(まいこ)の自分から高野(こうや)豆腐で食べ方の稽古するねん」と教える。

 しかし、口唇という外/内が境界侵犯する開孔部に、時間がたつと浄から不浄へ変化する食物を送り込む行為は、何がしかの穢れを肉体に交らせるため、腐敗を引きおこす。幸子はビフテキを食べて黄疸になる。ロシア人との会食で生牡蠣(なまがき)におびえる。鯖の血合は妙子の肝臓に膿瘍(のうよう)を起こす。なのにこの姉妹はことあるごとに、「オリエンタルのグリル奮発しんかいな」「出し巻の玉子、どうもなってへんやろか」「それよりサンドイッチが怪しいで、この方を先に開けよう」と口を動かし続け、流れだすどろどろをおぎなおうとばかりに、血と肉を所望してやまない(板倉の大腿部が脱疽(だつそ)のために切られる手術に立ち会った妙子は「当分牛肉の鹿(か)の子(こ)のとこ―――」という比喩さえ口にする)。おとなしそうな雪子(しかし田辺聖子によれば関西の女のふてぶてしさの典型)はといえば、《切り身にしてまで蝦の肉が生きてぷるぷる顫えているのを自慢にするいわゆる「おどり鮨」なるものが、鯛にも負けないくらい好きなのではあるが、動いている間は気味が悪いので、動かなくなるのを見届けてから食べるのであった》の、けっきょくはおぞましさを口腔にとりこんでしまう現実さこそ彼女の真骨頂であった。

 

<めぐり>

 おぞましさを引きたてるかのように、白が美しい。雪子の顔のシミをかえって目立たせてしまう京風厚化粧のお白粉。家族で飲みあう白葡萄酒。切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色の鯛。白兎。白が零れる小手毬、梔子(くちなし)、白萩、さつまうさぎ、雪柳、平戸つつじ。いっこうに雪が降らないこの小説の細雪とは、これら白い散乱ではないか。たとえば次の場面には季節のめぐりと日常行事を背景にして、白と穢れの対比、移ろいがある。

《幸子(さちこ)は去年黄疸(おうだん)を患(わずら)ってから、ときどき白眼(しろめ)の色を気にして鏡を覗き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。或る日彼女は所在なさに、例年のように葭簀(よしず)張りの日覆(ひおお)いの出来たテラスの下で白樺の椅子(いす)にかけながら、夕暮近い前栽(せんざい)の初夏の景色を眺めていたが、ふと、去年夫に白眼の黄色いのを発見されたのがちょうど今頃であったことを思い出すと、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つむしり始めた。》

 住吉川と蘆屋川は氾濫し、幸子は流産したあげくにぐずぐずと出血し、雪子の見合い話はいくたびも流れ、誤った新聞記事が流布され、妙子は絞り腹になり、雪子の下痢はとうとう止まらない、というように、なにもかも流れてゆく『細雪』だが、もっとも流れてゆくのは「時間」であって、その流れゆく時間の観念において、下痢が肛門括約筋を自己統制不能におちいらせるように、姉妹たちの時間観念の括約筋も緩みきっている。『細雪』は、はじめ『三寒四温』という題名が考えられていたくらい、はてしない循環、「めぐり」の律に従っていて、無情の時の感覚は、暗黒小説(ノヴェル・ノワール)としての宇治十帖の浮舟をのみこんだ黄泉(よみ)めく不気味さを思わす。

 絵巻物としての『細雪』の雪月花は、小説の題名、雪子、舞の「雪」、毎年の欠かせない行事としての花見(年々散文化して最後はたった一行となる)、そして月の病で象徴される。『細雪』の美しいおぞましさは、母なるものに、妊娠のために内奥の子宮が準備した層が剥がれることによる経血(月のめぐり)に帰着する。陰暦のめぐりに幸福に支配されて、濃く豊かな稔りを生んでいた上巻が、ゆるゆる中巻、下巻へと流れてゆくうちに、のっぺりとして味気ない戦時の統制された禁欲の現実に日常が拡散してしまう(《菊五郎も来ず》)といった文化的悲劇がゆるみなき筆力で書きあげられている。そういった希薄さへの隠喩(メタファー)が雪子の顔のシミであった。

《雪子の左の眼の縁、―――委(くわ)しく云えば、上眼瞼(うわまぶた)の、眉毛の下のところに、ときどき微かな翳(かげ)りのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。(中略)ふっと、一週間ばかりの期間、濃く現れる期間は月の病の前後であるらしいことに心づいた。》

 と、上巻では月のめぐりに重なっていたのに、下巻ともなると、

《以前は月の病(やまい)の前後に濃くなる傾向があり、大体週期的に現れるようであったのに、近頃は全く不規則になって、どういう時に濃くなるとも薄くなるとも予測が付かず、月のものとは関係がなくなったようにさえ見える。》

 というように、めぐりの喪失へ変化してしまう。

 雪子の見合いとは、写真からはじまる品定めの行事であるが、シミは商品価値のいちじるしい低下をもたらす。『細雪』は、結婚を要(かなめ)とする家族制度における未婚女という商品の、価値とフェティシズムをめぐる徴候的読み方(見えないものを見る、見そこないを見る)の宝庫でもある。

 帝国ホテルまで出てきた幸子は、その商品価値を落とすまいと、雪子の月のめぐりまで熟知しているのがわかる。《ずっとあれから続けている注射が利いて来たのであろうか、このところいいあんばいに眼の縁の翳(かげ)りが、完全に消えたとはとはいえないけれども大分薄くなっているのであるが、多分もう月の病が近づいている頃でもあるし、汽車旅行の窶(やつ)れで冴えない顔色をしているのを見ると、こういう時にはよくあのシミが濃くなることを思い合わせて、何よりこの場合雪子を疲れさせないことが第一であると考えられた。》

 そういう幸子もまた月のめぐりの下にある。有馬(ありま)温泉で病後の療養をしているある奥さんを見舞うためにバスで六甲越えをした幸子は、《その夜寝床へはいってから、急に出血を見て苦痛を訴え始めたので、櫛田医師に来診して貰ったところ、意外にも流産らしいと云う》事態におちいってしまう(のちに、妊娠五ヶ月と診断された妙子は山越しをして有馬に雲がくれさせられる)。《このところ二度ばかり月のものを見なかったので、ひょっとしたら、という豫感がしないでもなかったのであるが、何分悦子を生んでから十年近くにもなるし》といった女性器官の豫感のハズレを書きこむ谷崎(たしかに谷崎は、河野多恵子が指摘したように、小説が人生を豫感した文学者であったけれども)は、女の裂けめからあふれだす穢れに畏怖と憧憬をないまぜにしつつ臨床学的関心を隠せない。雪子の見合い前日になっても、《まだ時々少量の出血を見、臥(ね)たり起きたりしているという程度であった》の文章を皮切りに、《貞之助は朝起きるとから、出血はまだ止まらんのか、と、第一にそれを気にしていたが、午後にも早く帰って来て、どうや、出血はと、また尋ね、(中略)幸子はそう聞かれるたびに、いくらかずつ良い方で、出るものも微量になりつつあると答えてはいたものの、実は昨日の午後あたりから何度も電話口へ立ったりして体を動かしたのが障(さわ)ったらしく、今日はかえって量が殖えているのであった。》

 なめまわすように検分し、世話を焼く身はいったいどういった存在なのか。見合いがはじまってからも、《幸子はそれから化粧室へはいって行ったきり、二十分ほど姿を隠していたが、やがて一層青い顔をして戻って来た。》 支那料理屋に移ってからも、《幸子はできるだけ何気ないようにはしていたものの、トーアホテルで一回、ここへ来てから食卓に就く前に一回検(しら)べたところでは、明らかに今夕家を出てから以後出血が殖えつつあって、急に体を動かしたことが原因であるに違いなく、それに、案じていた通り、背の高い堅い食堂の椅子に腰かけているのが工合が悪く、その不愉快を怺(こら)えるのと、粗相をしてはという心配とで、じきに気分が塞いで来るのを、どうにもしようがなかった。》

 いっしょになって粗相を心配し、化粧室にまで押しかけて行きかねないブルーな女谷崎がいる。これほどに女の出血について書きつらねた小説は女性作家のものでもみたことがあるだろうかと考えているうちに、『源氏物語』の「浮舟」がそうだったと思いあたった。その現代語訳に心血を注いだ谷崎がこの古典から吸収した最大のものは、めぐり、あふれる女の生理と、物語の終り方だったのに違いない。

                                     (了)

        ***引用または参考***

ロラン・バルト『記号の国』、石川美子訳(みすず書房

・辻邦夫・水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫

須賀敦子『作品の中の「ものがたり」と「小説」』(河出文庫

渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(新潮社)

・谷川渥『谷崎潤一郎 文学の皮膚』、現代思想、1994・12月号(青土社

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』枝川昌雄訳(法政大学出版局

中村眞一郎『谷崎と『細雪』』、中村眞一郎評論全集(河出書房新社

文学批評 「谷崎『卍』とサド」

 「谷崎『卍』とサド」

 

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 たしかに、谷崎潤一郎『卍』は批評しにくい小説である。

 たとえば、《『卍』は論じにくい小説であり、一種ぬめぬめした、まつわりついて来るような魅力にもかかわらず、これまでまともな論評を受けたことがほとんどなかった》(佐伯彰一『開かれた小説 谷崎潤一郎 IV』)というように、無視されるか、どこか紋切型な批評がなされたうえで、転換期かつ多作期ゆえに大谷崎山脈とでも名付けたい他の峯(『蓼喰う蟲』や『吉野葛』など)に筆致は移ってしまう。

 紋切型ではない言説で『卍』の本質を抉った一行があったとしても、その直感的な言葉がさらに卍巴となって論じられた様子はない。

 オーソドックスな批評が的外れというわけではなく、少し観点をずらすだけで『卍』の現代性があぶりだされてくるだろう。明快な論述で、海外文学にも詳しい伊藤整の『『谷崎潤一郎全集』解説』が、全作品を見通したうえで簡潔にまとまっているから、『卍』『私の見た大阪及び大阪人』を含む第十七巻と、『蓼喰う蟲』『饒舌録』を含む第十六巻の解説から要点を紹介しつつ、《谷崎氏が容赦なく深淵の中へ手をつつこみ、登場人物を冷酷に破滅に追ひ込んでゆく手腕》(三島由紀夫『解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)』)を味わうこととする。

 

<関西言葉/スタンダール

 第一に、《「卍」は阪神地方の知識階級の女性の日常語で書かれた小説として、特にその文体が問題になった。しかし、雑誌に掲載された第一回は標準語に近い文体であったが、第二回以後大阪言葉に改められ、単行本になるとき全体が大阪言葉で統一されたのである。関西の言葉には、一般の文章語なる口語体にない柔軟さと、微妙な陰翳の把握力とがあって、特に女性の心理描写に適切である。》

 大阪言葉のレベル、標準語を大阪言葉に直した若い秘書たちの回想記、義太夫の声への言及などの論があるが、ひとつだけあげれば野口武彦のそれであろう。

《谷崎が意識していたのはもっぱら「関西夫人の紅唇より出づる上方言葉の甘美と流麗」であったにちがいない。しかし、才能ある作家の秘密はこの聴覚的エロティシズムの背後に複合的に存在しているものをすべて洞察してしまうことにある。谷崎は同時に、大阪弁の持つかわいた即物的なユーモアを聞き落すことはなかったのである。》(『故郷としての異郷――関西移住と「古典回帰」をめぐって』)

 谷崎は『私の見た大阪及び大阪人』で書いたように、「寝物語には大阪の女が情がある」という声をもって、園子ひとりの女の体のような肉感的な語りで、錯綜した時間と空間と人間関係の物語を紡ぎ出したのだった。『私の見た大阪及び大阪人』の中で、谷崎は文章読本風の解説を施している。

《小説「卍(まんじ)」を書く時に実は始めて気が付いたのだが、大阪の言葉はそういう点が妙に粗(あら)い。最初に東京語で書いて、それを大阪語に直そうとすると、二種類の表現に対して一種類しか表現法のないことがある。(中略)東京語で「それなら」、「でございますなら」、「だといたしますなら」等々の区別をつける時にも、大阪では「それやったら」で大概済ましてしまう。そしてこの例がよく示しているように、丁寧ないい廻し、敬語法の種類が非常に少い。これはちょっと上方として意外に思うが、事実そうなのだ。東京には「遊ばせ言葉」を始めとして尊敬の程度、職業年齢階級等の複雑な変化に応ずるいい表わし方が実に豊富だ。「する」という言葉一つに対しても、「します」「なさる」「なさいます」「遊ばす」「遊ばします」「いたします」「するんです」「するのでございます」「しますんです」「いたすのでございます」「するの」「するのよ」「するわ」「するわよ」「するんだわ」「するんだわよ」「してよ」「しやがる」――まあ思い出せるだけでもこんなにあって、 一つ一つ皆幾らかずつ気分が違う。大阪語にはとてもこんなに沢山はあるまい。(中略)で、とにかくそういう風だから、大阪語には言葉と言葉との間に、此方が推量で情味を酌み取らなければならない隙間(すきま)がある。東京語のように微細な感情の陰までも痒(かゆ)い所へ手の届くようにいい尽す訳に行かない。東京のおしゃベリは何処から何処まで満遍なく撫で廻すようにしゃべるが、大阪のは言葉数が多くても、その間にポツンポツン穴があいている。言語としての機能からいえば東京語の方が無論優(まさ)っており、現代人の思想感情を表わすにはこれでなければ用が足りないであろうが、しかし隅々(すみずみ)までホジクリ返すように洗い浚(ざら)いいってしまうのは、何んとなく下品なものだ。東京語の方が余計丁寧ないい廻しを使ってかえって品悪く聞えるのは、そのためなのだ。つまり自由自在に伸びるから、言葉に使われる結果になる。ぜんたい「無言」を美徳と考える東洋にあっては、言語もその国民性に叶うように出来ているのだから、その理想に背くように発達させると、少くともその言語に備わる美点は失われてしまう。今日こんなことをいっても一般には通用しないだろうが、さすがに関西の婦人の言葉には昔ながらの日本語の持つ特長、――十のことを三つしか口へ出さないで残りは沈黙のうちに仄かにただよわせる、――あの美しさが今も伝わっているのは愉快だ。たとえば、猥談(わいだん)などをしても、上方の女はそれを品よくほのめかしていう術(すべ)を知っている。東京語だとどうしても露骨になるので良家の奥さんなどめったにそんなことを口にしないが、此方では必ずしもそうでもない。しろうとの人でも品を落さずに上手に持って廻る。それが、しろうとだけに聞いていて変に色気がある。》

 関西の言葉は女体のように肉感的ではあるけれども、「上方として意外に思うが」、「ポツンポツン穴がある」、「隅々(すみずみ)までホジクリ返すように洗い浚(ざら)いいってしまうのは、何んとなく下品」で、「十のことを三つしか口へ出さないで残りは沈黙のうちに仄かにただよわせる」という省略と余韻の特徴を谷崎は、次のような「スタンダールから得る痛切な教訓」に応用したのに違いない。

 というのは、『卍』を書いた同時期に谷崎は、内外の作品を読み漁り、スタンダール、ハーディ、キングスレー、ジョージ・ムーアなどに触手を伸ばして、スタンダールの『パルムの僧院』を五百ページからある英訳本で読み、『カストロの尼』を、中断したとはいえ英訳本から重訳している。スタンダールからは、文体、構成、人物描写、語りの工夫を学び取ろうとしたわけだが、『饒舌録』に、《筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層々畳々と積み重なり、クライマックスの上にもクライマックスが盛り上つて行くのだが、かう云ふ場合、余計な色彩や形容があると何だか譃らしく思へるのに、骨組みだけで記録して行くから、却つて現実味を覚える。小説の技巧上、譃のことをほんたうらしく書くのには、――或はほんたうのことをほんたうらしく書くのにも、――出来るだけ簡浄な枯淡な筆を用ひるに限る。此れはスタンダールから得る痛切な教訓だ》と書き残している(この教訓は『細雪』の有名な結末に最も生かされたし、水上勉越前竹人形』を女主人公が帰省する十八章以下は省略したほうがよい、と批評したのも同じことだ)。

 谷崎は『卍』単行本に添えた『卍(まんじ)緒言』中で、《此の書の内容に就きて、嘗てこれを改造誌上へ連載せし當時、二三の浮説ありしことを耳にしたり。その一は此の小説にはモデルありと云ふもの。他の一は、佛蘭西小読の翻案なりと云ふもの。尚他の一は、作者がその佛蘭西小論を讀むために、佛語に練達せる婦人の秘書を使用しつつありと云ふもの。されど噂は皆事實にあらず、此の一篇は作者が肚裡の産物にして、モデルも種本もあることなし》と書いているが、ここでいう仏蘭西(フランス)小説はスタンダールのことだ。たしかに翻案ではなく、いっけん嫋々たる園子の関西の女言葉の、隙間と省略と余韻の助けを借りて、教訓通りに、「筋も随分有り得べからざるやうな偶然事」が「層々畳々と積み重なり、クライマックスの上にもクライマックスが盛り上つて行く」さまを、「却つて現実味を覚える」さまで、《同性愛の具体的な描写が一行もないレズビアニズムの物語》(丸谷才一)として、読者の想像をほしいままにさせて描いたのだった。

 

<古典への回帰/伊勢物語

 第二に、《「卍」もまたその現実把握の方法、その表現の方法において、標準語的リアリズムから脱し、関西語を通して、古典的な表現の領域へ入ろうとする試みの一つと見ることもできる。古き日本の伝統的説話方法によって、古典的写実手法の成立する第一歩がそこに築かれているからである。》

 古典への回帰ということでは、『卍』執筆前に、大阪を訪れた芥川龍之介とともに近松心中天網島』を文楽鑑賞し、この演目について同時期の『蓼喰う蟲』におおいに書いたことから、『卍』の光子、柿内夫人園子、柿内に、小春、おさん、冶兵衛のなぞりをみる向きがあるけれども、三人とも全く異なった役回り、心理、関係であることは論じるまでもない。

 谷崎と古典といえば『源氏物語』がすぐに思い浮かぶが、本人が『「細雪」回顧』に素直に書き残している。《「細雪」には源氏物語の影響があるのではないかと云うことをよく人に聞かれるが、それは作者には判(わか)らぬことで第三者の判定に待つより仕方がない。しかし源氏は好きで若いときから読んだものではあるし、特に長年かかって現代語訳をやった後でもあるから、この小説を書きながら私の頭の中にあったことだけはたしかである。だから作者として特に源氏を模したと云うことはなくても、いろいろの点で影響を受けたと云えないことはないだろう。》

「小説を書きながら私の頭の中にあった」という意味では、谷崎の随筆『雪後庵夜話』の『「義経千本桜」の思ひ出』に、『武州公秘話』に千本桜の影響があることや、『吉野葛』に團十郎の葛の葉から糸を引いているばかりか五代目菊五郎の千本桜の芝居から一層強い影響を受けたものがあったに違いないと書いている。また『蘆刈』は『大和物語』一四八段、『伊勢物語』八十二段の惟喬親王の水無瀬宮が頭の中にあったはずで、それと同じような意味で『卍』には『伊勢物語』の影がうっすらとだがあったに違いなく、古典回帰は関西語の使用ということだけではあるまい。

伊勢物語』とは、初段『初冠(うひかうぶり)』で春日野の姉妹に懸想し、六段『芥川』で女を盗み出して暗い夜道を川のほとりまで逃げ、二十一段『世のありさま』で夫婦の心が離れてそれぞれ別の相手との関係を持つようになり、二十三段『筒井筒』で二人の女の間で迷い往き来し、八十二段『狩の使い』では夢うつつに禁忌の伊勢の斎宮と密通し再び逢うことかなわず、結局は権力に追放されてしまう不運な男の物語、古層としての「穢れ」を幾重にも纏った物語である。

 たとえば光子と綿貫が園子に着物を持って来てほしいと呼び出した旅館の名は「井筒」で、光子の家は在原業平が植えたと言い伝えられる蘆屋の「汐見桜」の近所、蘆屋川にかかる「業平橋」も登場する。持ち運んだ着物を着せて暗い道を綿貫と共に送ってゆく蘆屋は、当時は追い剥ぎや強姦もあるさみしい所で『芥川』のような罪の暗さがある。些細なことだが、夫柿内は「伊勢」の四日市へ帰る人を湊町の駅まで送って行った後に、妻園子と光子が忍びあっている旅館井筒を不意に訪れる。光子と園子「姉(ねえ)ちゃん」は幾度となく若草山に登り、生駒山の方を眺めやるが、『初冠(うひかうぶり)』の「むかし、男、うひかうぶりして、平城(なら)の京(きやう)、春日(かすが)の里にしるよしして、狩に往(い)にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから(姉妹)住みけり」と『筒井筒』の空間と重なる。『世のありさま』のように、園子は結婚してから楽しい夫婦生活を味わったことがなくて心も肉体も離れ、前の事件を起こしている。

薬を飲んで寝込む園子が、誰かと光子が通じているらしいのを夢うつつのうちに感じる「その三十一」は、『狩の使い』の「君や来(こ)し我や行きけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」「かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとはこよひ定めよ」と多重映像化する。

《私と、夫と、光子さんと、お梅どんと、四人が何処(どこ)ぞい旅に出かけて、宿屋の一と間に蚊帳(かや)吊(つ)って寝てて、六畳ぐらいの狭い座敷で、同じ蚊帳の中に、私と光子さん中に挟(はさ)んで両端に夫とお梅どん寝てる。………そんな光景が夢の場面の一つのようにぼんやり頭に残ってますねんけど、部屋の様子から考えたら、ほんまの事が夢に交り込んだのんに違いないのんで、これもあとで聞きましたのんに、夜遅うになってから私の布団隣りの部屋い引張って行きましたら、光子さん眼工覚ましなさって、「姉ちゃん、姉ちゃん」と譫言(うわごと)みたいに云いつづけて、「姉ちゃんいてへん、うちの姉ちゃん返して! 返して!」云うてポロポロ涙こぼしなさるのんで、しョことなしに又同じとこに寝さしたんやそうですさかい、それが夢では宿屋の座敷になってるのんですが、まだその外にもいろいろ不思議な夢あるのんで、これも宿屋みたいな所(とこ)に私が昼寝してましたら、傍(そば)に綿貫と、光子さん小声で内証話してて、「姉ちゃんほんまに寝てはるねんやろか」「眼エ覚ましたらいかん」云うて、ヒソヒソしゃべってるのんが切れ切れに聞えますのんを、私はうとうとしながら聞いてて、此処は一体何処やねんやろ? きっといつもの笠屋町の家に違いない、生憎(あいにく)其方(そっち)い背中向けて寝てるのんで、二人の様子見えへんけど、見えんかてもう分ってる。自分はやっぱり欺(だま)されたんや、自分にだけ薬飲まして、こんな目エに遇(あ)わしといて、その間アに光子さん綿貫呼びやはったんや、エエ、口惜(くや)しい、口惜しい、今跳び起きて二人の面皮(めんぴ)剥(は)いでやろ!と、そない思うのんですけど、起き上ろとしても体の自由利けしません。声出してやろ思て一生懸命になればなる程、舌硬張(こわば)って動けしませんし、眼工あくことすら出来しませんのんで、エエ、腹立つ、どないしてやろ思てる間アに又いつやらうとうとしてしもて、………そいでも話声まだ長いこと聞えてて、その男の方の声が、おかしいことに綿貫でのうて夫の声に変ってしもてて、………こないなとこになんで夫いるねんやろ? 夫あないに光子さんと親しいのんか知らん? 「姉ちゃん怒りやはりますやろか?」「なあに、園子かてその方が本望ですやろ」「そしたら三人仲好うして行きまひょなあ」と、―――そんな工合にポツリポツリ耳に這入ったのんが、今考えてもよう分れしませんねんけど、二人の間でほんまに話してたもんやのんか、それとも夢の中ながら想像で事実補うてたのんか、………それがあのう、………こいだけやったらみんな自分の心の迷いで根工も葉アもない幻見たんや、そんな事実あろう筈(はず)ないと打ち消してしまいますねんけど、その外にもまだ忘れることの出来ん場面覚えてますし、………それも初めは阿呆(あほ)らしい夢や思てましたのんが、薬さめて意識ハッキリして来るにつれて、外の夢だんだん消えてしまいますのんに、その場面だけ却って頭い焼き付いてて、疑う余地ないようになって来ましてん。》

 

<セックス/暗黒小説>

 第三に、《セックスがいかに強く人間を支配しているか、ということであり、また美はいかに危険な働きで人間生活を崩壊させるか、ということである。(中略)この作品では、同性愛の女性と自分の夫と三人で心中した時に、死に遅れた柿内園子という女主人公が、二人の後を追って自殺したいと思いながらも、夫と徳光光子とが死後の世界で自分を邪魔にするのではないかと考えると、その自殺もできない、という本当の絶望に追い込まれる、という風に描かれている。》

 この点については、心理的マゾヒズムに焦点をあわせた河野多惠子の批評が有名であるが、より重要なのは、マゾヒズムに対峙するサディズムの症例語源となったマル・キ・サドではなく、文学者、哲学者としてのサドに言及した丸谷才一の『卍』評である。

 丸谷才一『一双の屏風のように』は、さすがの慧眼で論点が月並みではない。といっても冒頭の、《これは調べがゆきとどいてゐないせいかもしれないが、『卍』と『蓼喰ふ蟲』とを一対の作品として見立てた谷崎潤一郎論のあることをわたしは知らない》は丸谷にしてはどうしたことか見立て違いのような気がする。というのも、知るところでは、同時期に書かれ、同じように昭和初期の関西が舞台の『蓼喰う蟲』に言及されずに『卍』だけが論じられることはほとんどないからである。おそらくは互いに言及されてはいても、しっかりと比較対照されていないと言いたかったのであろう。  

 共通点をあげたうえでの差異の見立てこそが重要である。すなわち、

《二作品の共通点のことから相違点のことへと話はおのづと移つてゆく。そして、『蓼喰ふ蟲』と『卍』とが対をなすといふ見立ては、実はこの相違点のせいでいよいよ強まるのである。二つの中編小説は、一方の静と他方の動、前者の明と後者の暗、彼の雅と此(これ)の俗といふ具合に事ごとに対蹠的で、さながら両者を合して一とすれば現実界の全貌が得られるかのごとくである。このとき一九二〇年代後半の京阪神は、もはや単なる一地方ではなくなり、もつと普遍的な一世界となつてわれわれの前にそそり立つであらう。すなはちこれを一言で言つてしまへば、家庭小説としての『蓼喰ふ蟲』と暗黒小説としての『卍』との双璧といふことにならうか。

 このうち、暗黒小説云々のほうについては、さほど異論があらうとは思へない。不能の青年の性的妄想に端を発して、有夫の女と良家の子女との同性愛、そして嘘をつくのに巧みな美貌の娘が彼女を慕う夫婦者と共に三人で心中し、あげくの果て妻が一人だけ生き残るといふグロテスクな筋立ては、冒頭と結末にあざやかに据ゑられた素人絵の観音像のせいもあらうか、いよいよ、歌舞伎に仕立てられたレチフ・ド・ラ・ブルトンヌないしサドといふ趣を見せるのだ。つまりこの「光子観音」にはどうやら泰西の聖母像の面影があるらしく、この聖なるものに対し冒瀆の限りを盡すことで、聖母はいよいよあがめられるといふ複雑な仕掛けになつてゐるらしい。(中略)

 谷崎は自分の職業のなかの反社会的な特性に注目し、それを誇張することによつて、健全な市民社会に真向から対立する背徳の物語を書いたと思はれるからである。さう考えれば『卍』は暗黒小説ふうの芸術家小説といふことになり、あの光子観音はこの世の汚辱の限りを吸ひつくして玲瓏と光り輝く芸術作品の理想を、あの『刺青』の、折りからの朝日を受けて燦爛(さんらん)と照りはえる「女の背(せなか)」とくらべて格段に成熟した形で、示したものとなるかもしれない。》

 残念ながらこれ以上の詳述は丸谷によってされなかったけれども、この言説を引き金に、三島由紀夫による谷崎論と比較することで、谷崎文学はいよいよ開かれてゆく。

 

<十八世紀フランス文学/サド>

 丸谷の《いよいよ、歌舞伎に仕立てられたレチフ・ド・ラ・ブルトンヌないしサドといふ趣を見せるのだ》が言うところの、サドに代表されるフランス十八世紀文学への論及は、短いながらも十本ほどの谷崎論を求められるままに書いた三島由紀夫が指摘したところだった。

 昭和四十年七月三十一日の毎日新聞掲載『谷崎潤一郎氏を悼む』の《「鍵」「瘋癲老人日記」こそ、中期の傑作「卍」の系列に属するもので、フランス十八世紀文学のみがこれに比肩しうる、官能を練磨することによつてのみえられる残酷無類の抽象主義であり、氏の文学のリアリズムの本質をあからさまに露呈したものであつた。それは臨床医科の人間認識であり、氏の「人間」に対する態度決定が、場合によつてはやすやすと「文学」を乗り越えるやうな、ひどく無礼千萬なものを暗示してゐた。》や、同日の朝日新聞掲載『谷崎文学の世界』の《私は「痴人の愛」が、のちに「卍」に発展し、「卍」がのちに、十八世紀フランス文学の過酷な人間認識とその抽象主義をわがものにしたかのやうな、「鍵」と「瘋癲老人日記」の制作にいたるこの系列を、谷崎文学の重要なキーと考へる。》、そして昭和四十五年の『解説(「新潮日本文学6谷崎潤一郎集」)』の《この傑作に見られる、フランス十八世紀風な「性」の一種の抽象化、性的情熱の抽象主義》があって、これらはみな同じような文脈である。

 しかし、フランス十八世文学、とりわけサドを持ちだして来るとき、「性的情熱」「性の抽象化」ばかりでなく、エクリチュールも関係してくると言わざるを得ない。

 ロラン・バルト『サド・フーリエロヨラ』(篠田浩一郎訳、みすず書房)の「はしがき」にある《サドからフーリエへ、脱落するもの、それはサディズムである。ロヨラからサドへは、神との対話である。その他の点については、同じひとつのエクリチュールなのである。すなわち、同じ、分類の楽しみであり、同じ、切り分けよう(キリスト者の身体を、犠牲者の身体を、人間の霊魂を)とする熱情、同じ、すべてを記数法の対象にしようとする強迫観念(あらゆる罪、刑罰、情念、さらには計算の誤りさえも数えあげること)、同じ、イメージの(模倣、画面、集会の)実践、同じ、社会的、エロス的、幻影的体系の縫合だ。》(篠田浩一郎訳、みすず書房)が、まず該当する。

 この「分類」「切り分け」「記数法の対象にしようとする強迫観念」「イメージの実践」「社会的、エロス的、幻影的体系の縫合」としてのエクリチュールの「固執性」の『卍』におけるあからさまな例は、園子と光子の手紙を先生に見せる「その七」、「作者註」のサド的なエクリチュールである。

《作者註、柿内未亡人がほんの一部分だと云ったところのそれらの文殻(ふみがら)は、約八寸立方ほどの縮緬(ちりめん)の帛紗(ふくさ)包みにハチ切れるくらいになっていて、帛紗の端が辛(かろ)うじて四つに結ばれていた。その小さい堅い結び目を解くのに彼女の指頭は紅(くれない)を潮(ちょう)し、そこを抓(つね)っているように見えた。やがて中から取り出された手紙の数々は、まるで千代紙のあらゆる種類がこぼれ出たかのようであった。なぜならそれらは悉(ことごと)くなまめかしい極彩色の模様のある、木版刷(もくはんず)りの封筒に入れられているのである。封筒の型は四つ折りにした婦人用のレターペーパーがやっと這入る程に小さく、その表面に四度刷り若(も)しくは五度刷りの竹久夢二風の美人画、月見草、すずらん、チューリップなどの模様が書かれてある。(後略)》、《(五月六日、柿内夫人園子より光子へ。封筒の寸法は縦四寸、横二寸三分、鴇(とき)色地に、桜ン坊とハート型の模様がある。桜ン坊はすべてで五顆(か)、黒い茎に真紅な実が附いているもの。ハート型は十箇で、二箇ずつ重なっている。上の方のは薄紫、下の方のは金色。封筒の天地にも金色のギザギザで輪郭が取ってある。(後略))》、《(五月十一日、光子より園子へ。封筒縦四寸五分。横二寸三分。オールドローズの地色の中央に幅一寸四分程の広さに碁盤目が通っていて、その中に四つ葉のクローバーを散らし、下の方に骨牌(かるた)が二枚、ハートの一とスペードの六とが重なっている。(後略))》

 

<交代性/連鎖>

 次に、『サド・フーリエロヨラ』の「サド II」の「連鎖」にある「交代性」、「連鎖」こそは、『卍』の<柿内―園子―光子―綿貫>から<園子―綿貫>、<綿貫―柿内>を経て、<園子―柿内―光子>へ転回する、とめどない交代的人間関係、慾望の連鎖に他ならず、まさに私の欲望は他者の欲望というわけだ。

《サド的人間関係(ふたりのリベルタンのあいだの)は相互的ではなく、交代的である(ラカン)。交代はたんなる順番、結合的動きだからだ。《美しい天使よ、いまはしばらくのあいだ犠牲者だが、間もなく迫害者となる……》この横すべり(認知からたんなる待機状態への)はもろもろの人間関係の非道徳性を保証するものだ(リベルタンはたがいに愛想がいいが、しかしまた殺し合いもする)。この結びつきは双数的でなく、複数的だからだ。もし生れることがあるとして、友情は取り消し可能だし、また循環する(ジュリエット、オランピア、クレアウィル、ラ・デュランヘ)だけでなく、とりわけあらゆるエロス的連結関係が一夫一婦制的定式からはずれる傾向をもっている。可能となるとたん、 一対に連鎖(・・・・・)が置き換えられる(ボローニャの修道女たちが数珠(・・)の名で実践しているもの)。連鎖の意味は、無限のエロス的言語活動を起動すること(ほかならぬ文が一個の連鎖ではなかろうか)、言表行為の鏡を砕くこと、快楽をしてその出発点に復帰せしめないようにすること、パートナーたちを分離させることによって交換を無益に増加させること、あたえる者に返さず、返さないであろう者にあたえること、原因を、根源を他のところに(・・・・・・)そらさせること、ひとりが始めた動作を他のひとりによって完結すること、である。どの連鎖もだれをも受け入れるため、飽和状態もここでは一時的なものにすぎない。ここでは何ひとつ内在的なもの、何ひとつ内的(・・)なものも生れることがないからだ。》

「その三十一」と「その三十三」から引用すれば、サド的人間関係、交代性、連鎖はあきらかだ。

《そないして暫(しばら)くたちましたら、「おい」云うて私の手工取って、「どうや、気分ええのんか? もうちょつとも頭痛いことないか? まだ起きてるねんやったら、僕話したいことあるねん」云うて、「お前、………知ってるねんやろ?………どうぞ堪忍(かんにん)してくれ、運命や思て怺(こら)えてくれ」「ああ、そんなら夢やなかってんなあ。………「堪忍してくれ、なあ、堪忍すると一と言云うてくれ」そない云われてもしくしくしくしく(・・・・・・・・)泣いてばっかりいる私を、いたわるように肩さすってくれながら、「僕かてあれ夢と思いたい. ………悪夢や思て忘れてしまいたい。………けど、僕、忘れること出来んようになってしもた。僕は始めて恋するもんの心を知った。お前があないに夢中になったのん無理ない云うこと今分った。お前は僕のことパッションないない云うたけど、僕にかてパッションあったんや。なあ、僕もお前許す代り、お前かて僕許してくれるやろ?」「あんた、そないなこと云うて復讐(ふくしゅう)する気イやねんなあ。今にあの人とグルになって、うち(・・)独りぼっち(・・・)にさそ思て、………」「馬鹿なこと云いな!  僕そんな卑劣な男やない!  今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか!」自分は今日も事務所の帰りに光子さんと会うて相談して来た。私さい承知してくれたら、あとは自分が一切引き受けて、綿貫の方もちょっとも心配ないように片附けてやる。光子さんも明日は家い来なさるやろけど、私に会うのん極まり悪がってなさって、「あんたから姉ちゃんに詫(あや)まっといて頂戴」云われて来た。と、そないに云うて、自分は綿貫みたいな不信用な男やないよって、綿貫に許したこと自分にも許してくれたらええやろ云うのんですが、そら、成る程、夫の方は人欺すようなことせんとしても、気がかりやのんは光子さんですねん。夫に云わしたら「自分は綿貫と違うよって大丈夫や」云いますねんけど、私の身イになったらその「違う」云うこと心配の種やのんで、なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさった、そんだけ今迄(いままで)より真剣になんなさるかも分れへんし、そのために私捨てなさっても、「不自然の愛より自然の愛貴い」云う立派な口実ありますし、良心の苛責(かしゃく)も少いですやろし、………もし光子さんにそんな理窟(りくつ)云われたら、夫にしたかって間違うてることしなさい云う訳に行けしませんし、ひょ(・・)ッとしたらあッちゃこッちゃ(・・・・・・・・)説き伏せられて、しまいには「光子さんと結婚さして欲し」云い出さんとも限れしません。「僕とお前とは誤まって夫婦になったのんや。性の合わんもんこないしてたらお互の不幸やさかい、別れた方がええ思う」―――と、いつぞそない云われる日イ来るのやないやろか? そしたら常時恋愛の自由口にしてながら「イヤや」云うこと出来しませんし、世間の人かて私みたいなもん離縁しられるのん当り前や思うやろ、今かいそんな行末のこと考えて、取り越し苦労したとこでしョうないようなもんの、どうも私にはきっとそないなる運命みたいな気イするのんですが、そうか云うて、今の場合」、人の頼み聴かなんだら自分も明日から光子さんの顔見られんようになるのんで、「あんた信用せえへんのやないけど、何や知らん悲しい予覚して、―――」云うてしくしくしく(・・・・・・)いつ迄でも泣いてますと、「そんな馬鹿なことあるもんか。そらみんなお前の妄想(もうそう)や。誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか」云うて、夫も泣きだして、とうとう二人で夜が明ける迄泣き通してしまいましてん。》

 ほとんど、二人でいることの病、いや、三人でいることの病、といったところとなる。

《あの健全な、非常識なとこ微塵(みじん)もなかった夫までが、いつや知らん間に魂入れ替ったように、女みたいなイヤ味云うたり邪推したりして、青オイ顔ににたにた(・・・・)笑い浮べながら光子さんの御機嫌取ったりしますのんで、そんな時の物の云い方や表情のしかたや、陰険らしい卑屈な態度じっ(・・)と見てましたら、声音(こわね)から眼つきまでとん(・・)と綿貫生き写しになってるやあれしませんか。ほんまに人間の顔云うもん心の持ちようでその通りに変って来るもんやと、つくづく思いましてんけど、それにしたかて怨霊(おんりょう)の崇り云うようなこと、先生どない思やはりますやろ? 取るに足らん迷信や思やはりますやろか? なんせ綿貫はあない執念深い男ですやさかい、蔭で私等呪てて、何ぞ恐い禁厭(まじない)でもして、夫に生霊(いきりょう)取り憑(つ)いてたかも分れしません。そんで私「あんた段々綿貫みたいになって来るわなあ」云うてやりますと、「自分でもそない思てる」云うて、「光ちゃん僕を第二の綿貫にするつもりやねん」云いますのんで、もうその時分の夫云うたら総(す)べての運命に従順になってしもてて、自分が第二の綿貫にさされること拒まんばっかりか、却ってそれ幸福に感じてるらしいて、薬飲むのんも、しまいには進んで飲まされること願うようになって来ましてん。》

 

<冒瀆/表層>

 丸谷の、《聖なるものに対し冒瀆の限りを盡すことで、聖母はいよいよあがめられるといふ複雑な仕掛けになつてゐるらしい。》と、《谷崎は自分の職業のなかの反社会的な特性に注目し、それを誇張することによつて、健全な市民社会に真向から対立する背徳の物語を書いたと思はれるからである。》

 これも、サドと同じ心理構造ではあるが、「穢れ」(アブジェクション)の問題がある。「穢れ」ということになれば、あの美しい『細雪』末尾の雪子の下痢を思いださずにはいられないが、それは谷崎文学の「表層性」「白い肌理」「女体」というテーマと関連してくるし、深層としての『伊勢物語』が古層において暗黒小説であったこととも関連してくる。

 白い肌のような表層性、女体としての谷崎小説は、1990年前後に、渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』、谷川渥『谷崎潤一郎 文学の皮膚』などで例証されているが、すでに三島由紀夫は『文学講座1 谷崎潤一郎』(1951年)と、『谷崎潤一郎論』(1962年)で鋭く指摘されている。

 前者では「女体」を、《およそ谷崎氏ほど幻影をゑがくのに拙劣な作家はない。戯曲「鷺姫」の幻影はその無数の失敗の一例である。しかし「蘆刈」のお遊さまと、「卍」のレスビアンとの間には、幻影と現実の実質的差異ではなく、同質の観念の距離があるだけなのである。いづれも百パーセントにちかい成功を収めている。「卍」のレスビアンは最短距離で眺められた女体の生理学であり、「蘆刈」のお遊さま、「細雪」の雪子は、最長距離で眺められることによってやうやく非現実性を確保しえた現実の美、現実の女体なのである。》と論じ、後者では「表面」を、《輝くやうな女の背中がある。花びらのやうな女の蹠がある。こんな明晰な対象の存在する世界で、自意識が分裂を重ねてゐる暇があるだらうか? 無雙の作者の定めた法律によつて、目に見えるものだけが美でありうるやうな世界で、精神がナルシシズム(自己陶酔)に陥つてゐる暇があるだらうか? 私が、美術史上では起りえたかもしれぬが、文学史上では起りえない事件が起つた、と冒頭に言つたのは、このやうな谷崎文学の、比類のない表面的な性質について言つたのである。あらゆる分析を無益にしてしまふこの世界では、死とエロティシズムの対決でさへ、悲劇とはならずに、法悦と幸福を成就する。そこに語られる敗北の幸福、屈辱の幸福、老残の幸福には、いつでも対象の深い「表面」へ飛び込むことのできるダイバーの決意がかがやいてゐる。それは近代の天才によつて書かれたもつとも肯定的な文学といへるであらう。》と批評した。

 たしかに『卍』にも表層への興味が隠しつつも仄見える。光子は「船場(せんば)の方にお店のある羅紗(らしゃ)問屋のお嬢様」であり、「夫婦の寝室は神聖なもんや云うさかいに」という光子に観音のポーズをさせるために園子はベッドのシーツを剥がすと、光子はゆるやかにまとう。

《それに日本画の方のモデル女は体よりも顔のきれいなのんが多いのんで、そのY子と云う人も、体はそんなに立派ではのうて、肌(はだ)なんかも荒れてまして、黒く濁ったような感じでしたから、それ見馴(みな)れた眼(め)エには、ほんまに雪と墨程の違いのように思われました。》、《うしろから光子さんに抱きついて、涙の顔を白衣の肩の上に載せて、二人して姿見のなかを覗(のぞ)き込んでいました》、《シーツの破れ目から堆(うずたか)く盛り上った肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと、いっそ残酷に引きちぎってやりとうなって、夢中で飛びついて荒々しゅうシーツ剥がしました。》

 

<動的小説/『細雪』プレテクスト>

 丸谷に戻って、《一方の静と他方の動、前者の明と後者の暗、彼の雅と此(これ)の俗といふ具合に事ごとに対蹠的で、さながら両者を合して一とすれば現実界の全貌が得られるかのごとくである。》

これも三島と読み比べれば、昭和三十七年の朝日新聞掲載の三島『谷崎潤一郎論』において、フランス十八世紀文学への論及のなかで、その本質を、一歩踏み込んだ「動的小説」という言葉でとらえている。

《そして「鍵」にはじまり「瘋癲老人日記」にいたつて高度に開花した「老い」のモチーフは、氏の文学に微妙な変化をもたらした。それはおそらくフランス十八世紀文学にしか類縁を求めえないやうな、小説の特殊な機能の獲得であつて、氏の文学は、それまでの、いはば作品全体の美的構造が状況を創造しかつ保障してゐるやうな小説(「細雪」がその極致であらう)から、作品の内部において登場人物が刻々状況を設定し創造して行かざるをえないやうな動的な小説に変つた。》

 つまりは、『蓼喰う蟲』や『細雪』のような静に対する『卍』の動的性格、暗黒小説面の指摘である。これをあえて捻って考えると、軍部の干渉によって書かれなかった『細雪』の暗黒面、動的な面を『卍』が予告しているのではないか、『卍』は幻の『細雪』のプレテクストなのではないか、という推論が導きだせる。

 谷崎には『「細雪」回顧』という随筆があって、『細雪』執筆時の苦労や楽屋話が吐露されている。はじめのほうに、中央公論に掲載されるはずの三回めの所が陸軍省報道部将校の「時局にそわぬ」によってゲラ刷りになったまま日の目を見るに至らなかったこと、その後も上巻に予定した枚数で私家版の『細雪』を出したところが取締当局を刺激して刑事の訪問を受けたことがあったと述懐されている。そうして、《こう云う謂(い)わば弾圧の中を、兎(と)に角(かく)ほそぼそと「細雪」一巻を書きつづけた次第であったが、そう云っても私は、あの吹き捲(ま)くる嵐(あらし)のような時勢に全く超然として自由に自己の天地に遊べたわけではない。そこにそこばくの掣肘(せいちゅう)や影響を受けることはやはり免れることが出来なかった。たとえば、関西の上流階級の人々の生活の実相をそのままに写そうと思えば、時として「不倫」や「不道徳」な面にも亙(わた)らぬわけに行かなかったのであるが、それを最初の構想のままにすすめることはさすがに憚(はばか)られたのであった。これは今日から考えれば、戦争という嵐に吹きこめられて徒然(いたずら)に日を送ることがなかったのであるし、今云うように頽廃(たいはい)的な面が十分に書けず、綺麗(きれい)ごとで済まさねばならぬようなところがあったにしても、それは戦争と平和の間に生れたこの小説に避け難い運命であったとも云えよう。》とある。

 完成をみた『細雪』にまったく暗黒面がなかったかといえばそのようなことはなく、とりわけ四女の妙子をめぐっては、過去の新聞の出来事や、奥畑の啓ぼんとの引き続く「不道徳」、啓ぼんと妙子による語りの虚実、啓ぼんと最後は金でけりをつける話、赤痢と薬、板倉の壊疽と肢の切断、バーテンダーとの妊娠から隠れ出産、分娩促進剤、死産の話があり、幸子には出血と流産と黄疸が、清い雪子にも月の病によるシミと女性ホルモン注射と汽車に乗ってからも止まらない下痢が、幸子の娘悦子の神経衰弱、女中お梅どん(はからずも『卍』の女中と同じ名前)の不潔さが、といった穢れ現象を意外なほどあちらこちらに関西の上流階級の実相として垣間見せてはいる。

 一方『卍』は、《作品の内部において登場人物が刻々状況を設定し創造して行かざるをえない》という「動的小説」として、光子の避妊と堕胎騒動と偽装妊娠と流産狂言、便所で「出る出る」と光子はうめき、園子は前の事件をもち、啓ぼんにそっくりな綿貫という男、綿貫と光子の虚実、新聞の三面記事にのってしまい、綿貫と金でけりをつけ、バイエルの薬で夢うつつとなり、柿内夫人の前の事件と、夫柿内と光子は「不倫」を犯す。

『卍』で登場人物四人に動的に拡散している頽廃、暗黒面は、『細雪』ではまばらな雪となって静かに降ってはいても、一面積もるほど筆を及ばすことは自重されたのに違いない。

 まさに『卍』は、幻の暗黒小説としての『細雪』プレテクスト、作品が過去現在の実生活をなぞる私小説作家ではなく、作品が未来の生活を予兆、予覚しつづけた谷崎潤一郎にふさわしい小説だった。

                                 (了)

 

文学批評 「細君下戸ならず、談話頗興あり――谷崎、荷風、羈旅の交わり」

「細君下戸ならず、談話頗興あり――谷崎、荷風、羈旅の交わり」

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 谷崎潤一郎『都わすれの記』は、昭和十九年春、《住み馴れし阪神の地を振り捨てゝ》、昭和二十一年五月に家人らを京都へ呼び寄せるまでの、熱海、ついで岡山県の津山、勝山への疎開体験をつづった長めの詞書と短歌からなる。谷崎の短歌(むしろ、あえて和歌とでも呼ぶべきか)は、「のがれ来てくらすもよしや吉井川河原のほたる橋のゆふかげ」「草枕旅寝の床にしのぶかな焼野が原のふるさとの月」の羈旅歌の反近代的なわかりやすさをみても、ひとすじなわではない。

 その詞書は『潤一郎訳 源氏物語』につうじる叙情の文体である。昭和二十年ともなれば、

《かくては此処にあらんこと危し、一日も早く作州へ逃れんと家人等の催し立つるまゝに、五月十四日旧宅を出で、姫路に一泊して翌十五日津山に至る。宕々庵は旧藩主の別業にして池に臨める御殿造りの建物なり》

 ところが、《岡山姫路明石などの焼き払はるゝに随ひ》《われらもまた一層安全なる地を選ばんには如かじとて、更に西の方十里ばかりなる眞庭郡勝山町へ移ることゝはなりぬ》といった、疎開というよりは旅を思わすあわただしさだった。

《勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしき嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすじ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、(中略)あゝわれ齢六十路におよびてかゝる辺陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし》

 光源氏の須磨・明石に貴種流離を、人生の一時期における少しばかり長い旅と名付けてよければ、この谷崎の津山・勝山への少し長い旅を谷崎自身が嘆きつつも興じていたところが深層にはあったに違いない。

 ここで、食糧事情はどのようであったかといえば、谷崎夫人松子の『蘆辺の夢』でうかがい知ることが出来る。

《戦争中疎開しました津山(岡山県)の生活が私共の一番たべものに苦労しましたときで、たいへんみじめなおもいを致しましたが、お昼に忘れられないことがあります。あるとき私共の様子を4みかねた知り合いが卵二個を恵んで下さり、それをお客の昼食に料理して差し上げたところ、あとで勝手なことをしたと、結婚してはじめてといっていいほど叱られ「食物のうらみは恐いぞ」と脅す始末でした。そんな様子でしたから津山を逃げ出して、もっと奥の勝山へ移りましたが、勝山はまだものに恵まれておりまして、谷崎はいつも買いものかごをさげて自分で買い出しに行ったものです》

 目に浮かぶようではないか(それにしても松子夫人の筆力は谷崎と張り合い、導くようで凄みがある)。

 衆知のとおり谷崎は、昭和十九年七月に『細雪』上巻を私家限定版二百部として永井荷風をはじめとする知己に領ったものの、当局から警告を受ける。当時の谷崎は発表のあてもなく『細雪』中巻および下巻を日々書きついでいた。その執筆ペースは、谷崎の『疎開日記』によれば、日に一枚から二枚、まれに三枚といったところらしい。残された日記や手紙から推定するに、おそらく下巻五十枚ほどを勝山で書きあげたようだが、その地で谷崎は荷風を迎えることとなる。

 終戦を目前にした昭和二十八年八月十三日からの谷崎『疎開日記』でその様子を見てゆこう。長くなるが、十三日と十四日は割愛しうる一行とてない。

《八月十三日、晴

 本日より田舎の盂蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第今明日にも来訪すべしとの事なり。ついで午後一時過頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思つた程窶れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員ニ付夜は赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され二階にて渡邉氏も共に夜更くるまで話す。荷風氏小説原稿ひとりごと一巻踊子上下二巻来訪者上下二巻を出して予に託す》

 嬉しくさせる一文ではないか。ここに《荷風氏小説原稿ひとりごと一巻》とあるのは、のちに下巻を書き加えて『問はず語り』と改題したものであろう。

《八月十四日、晴

 朝荷風氏と街を散歩す。氏は出来得れば勝山へ移りたき様子なり。但し岡山は三日に一度ぐらゐは食料の配給ありとの事にてその点勝山は条件甚だ悪し。予は率直に、部屋と燃料とは確かにお引受けすべけれども食料の点責任を負い難き旨を答ふ。結局食料買入れの道を開きたる上にて荷風氏を招く事にきめる。本日此の土地にて牛肉一貫(二〇〇円)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。今日は盆にて昼は強飯をたき豆腐の吸物にて荷風氏も招く。夜酒二升入手す。依って夜も荷風氏を招きスキ焼を供す。又吉井勇氏に寄せ書のハガキを送る。本日大阪尼崎方面空襲にて新型爆弾を使ひたりとの風説あり。今夜も九時半頃迄二階にて荷風先生と語る》

 断末魔のごとき世情であったのに、定家『明月記』の「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」を思わすスキ焼の一夜がもたれたのはよく知られたところだ。

 牛肉一貫(三・七五キログラム)をまとめて買うところがいかにも大谷崎らしいのだが、二百円という金銭が今のいくらに相当するかは、合理的なしまり屋荷風の『断腸亭日乗』昭和二十年の記録が参考になる。《部屋代 金参拾八円也、電燈料 金八拾参銭也、(中略)新聞代 金参円也》といった物価が細かにメモされていて、およそ千倍もすれば七十年後の価格相当であろうか。しかしこれが衣に関わることだと、《靴(ゴム底白布製)一足 金百円也、同(赤皮半靴) 同 金二百円也、ワイシャツ 金二百円也、薄地夏用Tシャツ 金二百円也》であり、百倍でも高級品と化してしまう。さらに食ともなれば《鶏卵一個 二円、胡麻油 一合 金拾五円》などとあって比例計算は破綻をきたす。いずれにしろ牛肉一貫二百円は壮年の勤め人の月給を超える額であったというから高嶺の花には違いなく、そもそも衣食住のうちの食については手に入れることそのものが困難な時代だった。

《八月十五日、晴

(前略)荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放送あらせらるとの噂をきゝ、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきゝ奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほゞ聞き取り得、予は帰宅し二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り(後略)》

 ここで、谷崎と荷風の関係を振りかえっておく。帰朝後、『歓楽』『すみだ川』『冷笑』などを矢継早に発表し、森鴎外上田敏の推薦を受けて慶応義塾大学文学部教授となった荷風は、明治四十四年十一月号の『三田文学』誌上に、『谷崎潤一郎氏の作品』という一文を寄せ、『刺青』『少年』などを発表したばかりの新進作家谷崎への賛辞の声を惜しまなかった。ここに谷崎は華々しくデヴューしたと言ってもよかろう。《明治時代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかった、或は手を下さうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である》と激賞し、作家の顕著な三つの特徴として、第一に《肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄》、第二に《全く都会的たる事》、第三に《文章の完全なる事》をあげた。のちに谷崎は『青春物語』に《雑誌を開けて持っている両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫えるのを如何ともすることが出来なかった》とそのときの興奮を書いている。

 それから二十年後の昭和六年、すでに『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼食う虫』などで大家となっていた谷崎は、『「つゆのあとさき」を読む』という批評を『改造』十一月号に発表した。硯友社に代表される明治中葉の文学、その後の自然主義への言及に端を発し、『つゆのあとさき』をして、《この小説は近頃珍しくも純客観的描写を以て一貫された、何の目的も何の主張もそれ自身のうちに含んでいない冷めたい写実的作品》と分析したうえで、《荷風氏は昔から色彩の豊富な作家であったが、老来その筆が枯淡になっても、なおなまめかしい女主人公の言動や、東京という大都会の街上における四季の風物を叙するに方(あた)っては、自然主義の作家に見られない感覚の優雅さがある》と荷風の本質を見抜く批評の確かな目を知ることができる。

 また、《自然主義といい、写実主義といい、今では既に時勢おくれの言葉であるが、私はこういう作品を読むと、昔ながらの東洋風な純客観的の物語、――絵巻物式の書きかたも、使いように依ってはいつの時代にも応用の道があることを感ずる》という一節は、自身の『源氏物語』への思いいれをへて、昭和十七年に『細雪』の稿を起こすこととなる構想の太いうねりを引き寄せる。

 ところで『「つゆのあとさき」を読む』のなかほどには、荷風との交際について語った部分がある。《ここでちょっと私交上のことをいわしてもらうのだが、私は実は、近年信書の往復はしているけれども、従来殆ど荷風氏とは親しく交際したことがない。それというのが、青年の頃、自分の最も敬慕するこの先輩が思いがけなくも自分の書いた物をいち早く認めて下すって、『三田(みた)文学』の誌上で過分な賛辞を賜わったために、はにかみや(、、、、、)の私はかえってこの人に近づきにくくされたのであった。そこへ持って来て荷風氏の方も余り友人を作るのを好まれない風が見えた。まあそんな訳で、最近にお目に懸(かか)ったのが既に八、九年も前であるから、私は、氏の生活ぶりについて何も知るところがないのである。》

 二人だけで会うことも徒党を組むことも馴れあうこともなかったからこそ心から理解しつづけられた、と言えるだろう。そんな都会的関係の二人が親しく語りあい、交遊した三日間が昭和二十年の八月十三日、十四日、十五日だった。

 あえてこれ以外の語らいの日を探しだせば、昭和十九年三月四日に谷崎が麻布の荷風宅、偏奇館を訪問したことだろう。谷崎『疎開日記』にはその時の荷風の《侘しい遣る瀬ない独身男の哀れさ》が身に沁むように書きだされているものの、羨む気持ちがなかったわけでもない(谷崎は荷風の生活態度にあこがれつつも、自分の性向や対女性への態度にあった結婚生活を松子と築くことを選んだ)。

 化物屋敷のごとく荒れた偏奇館を訪れた谷崎はもんぺを台所で脱ぎ、《階下の洋間にウスベリを敷きたる一室に請ぜられる、永井氏も本日は糸織か八端らしき縞物を着角帯をしめたる風情、若かりし頃の俤あり、(さうしてゐると荷風氏は実に若く、嘗て代地に住み茶や歌澤のけいこに通ひし頃と余り違わざる感じなり)壁に千考の絶句を氏自ら扇面に揮毫したるもの二葉ピンにて止めてある外にはこれと云ふ装飾もなし、室内には小さき用簞笥、小机、手あぶり二個、「冬」と記した紙片の貼ってある支那靴一個等々あり、荷風氏は茛入のカマスより刻みをつまみ出して吸ひつゝ語る、予は全集編の事ニ付種々質問す》

 対する荷風断腸亭日乗』は簡潔だ。《三月初四。晴。正午谷崎君来り訪はる。其女の嫁して渋谷に住めるを空襲の危難あれば熱海の寓居につれ行かんとする途次なりと言ふ。余去冬上野鶯渓の酒樓に相見し時余が全集及遺稿の仕末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるゝところあり》

 それからちょうど一年後の昭和二十年三月九日、空襲で偏奇館を焼け出された荷風は流浪の身となる。六月、荷風は《ヴェルレヌの選集》や《仏蘭西訳本トルストイのアンナカレニン》やゾラ、ユイスマンを読みつつ、《海波洋々マラルメが『牧神の午後』の一詩を思起せしむ》明石をへて岡山市に着いた。《帆船自動船輻湊す、往年見たりし仏国ソーン河畔の光景を想ひ起さしむ、絵の道知りたらば写生したき心地もせらるゝ景色なり》との幸福感もつかのま、岡山市でも罹災し、九死に一生をえるはめだった。

 そうして七月九日、意気消沈の荷風は谷崎に、《当地にてハ紙筆ハ勿論端書も品切なかなか手に入らず困却致居リ》と書簡を送る。谷崎は十二日、二十一日とまめに返信し、荷も発送した。『断腸亭日乗』によれば、

《七月廿七日、晴、午前岡山駅に赴き谷崎君より送られし小包を受取る、帰り来りて聞き見るに、鋏、小刀、印肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり、感涙禁じがたし、晩間理髪、》

 そしていよいよ『断腸亭日乗』の人口に膾炙した八月十三、十四、十五日にたどりつく。十三日については荷風勝山到着後を、十四日は午後の様子を、そして十五日は一字一句ゆるがせにできないので長くなるが全文引用する。

《八月十三日、(中略)午後一時半頃勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ、駅を去ること僅に二三町ばかりなり、戦前は料理屋なりしと云、離れ屋の二階二間を書斎となし階下には親戚の家族も多く頗雑沓の様子なり、初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり、佃煮むすびを馳走せらる、一浴して後谷崎君に導かれ三軒先なる赤岩といふ旅舎に至る、(中略)やがて夕飯を喫す、白米は谷崎君方より届けしものと云ふ、膳に豆腐汁、町の川にて取りしと云ふ小魚三尾、胡瓜もみあり、目下容易には口にしがたき珍味なり、食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る、帰り来って寝に就く、岡山の如く蛙声を聞かず、蚊も蚤も少し、》

 荷風にとって久々の歓楽のひとときとなったが、さすがに谷崎夫人松子を女として観察することもおこたらなかった。

《八月十四日、晴、朝七時谷崎君来り東進して町を歩む、(中略)正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。余谷崎君の勧むるがまゝ岡山を去りこの地に移るべき心なりしが広島岡山等の市街続々焦土と化するに及び人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず。他郷の罹災民は殆食を得るに苦しむ由、事情既にかくの如くなるを以て長く谷崎氏の厄介にもなり難し、依て明朝岡山にかへらむと停車場に赴き駅員に乗車券のことを問ふ、明朝五時に来らざれば獲ること難かるべしと言ふ、依て亦其事を谷崎氏に通知し余が旅宿に戻りて午睡を試む、燈刻谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ、急ぎ小野旅館に至るに日本酒も亦あたゝめられたり、細君下戸ならず、談話頗興あり、九時過辞して客舎にかへる、深更警報をきゝしが起きず、》

 残る手紙によれば、荷風のほうから勝山行きを希望したのに、谷崎に華を持たせた、というより荷風のダンディズムゆえに谷崎の勧めと作為されていて、ここに作家の日記の創作の跡がある。虚実皮膜の間(あいだ)の芸術である。

《八月十五日、陰り手風涼し、宿屋の朝飯鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る、鉄道乗車分は谷崎君の手にて既に訳もなく贖い置かれたるを見る、雑談する中汽車の時刻迫り来る、再開を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る、新見の駅に至る間墜([ママ])道多し、駅毎に応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る、されど車中甚しく雑沓せず、涼風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遙に忍び易し、新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜惜く能はず、食後うとうと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、

[欄外墨書]正午戦争停止》

《恰も好し》 これほどに荷風らしい言葉はない。たったこれだけの感想しか書きつけなかったことから、荷風はすでに気力を喪失していたなどと考えるのは野暮だ。《染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ》ほどの反権力、反骨の精神があろうか。

 ところで、松子夫人は荷風が訪ね来たことを『蘆辺の夢』に書き残している。

《この勝山に、岡山に疎開中の荷風先生がはるばるお訪ね下さって、お帰りの車中で私が差し上げたおにぎりのお昼をよろこんで下さったことは、先生の「罹災日録」にも出ておりますし、そのことは「あさめし ひるめし ばんめし」の二号にも紹介されておりました。それが昭和二十年八月十五日という、あの終戦の日の正午だったことも感慨深いことです。》

 ここにある「罹災日記」とは『断腸亭日乗』の当該部分であり、《欣喜惜く能はず》に荷風の心情が凝縮されている。

 それにしても谷崎は東京の人間には珍しく、よほど牛肉が好きだった。戦後の昭和二十年暮れから翌二十一年春までの谷崎日録『越冬記』にも、正月六日《六時本田夫人来り牛肉スキヤキにて一同と夕飯を共にす。食後地唄をきく》、正月三十一日、津山の闇市見物に行き《牛肉(百目三十五円、勝山のと比べて素晴らしきロース肉なり)等を買ふ》とある。そして三月十六日、京都に転居する下準備に京の旅館喜志元に泊り、翌十七日には錦市場イースト、ユバなどを買い求め、南座でひらがな盛衰記、近松原作天網嶋紙治内の場と大和屋の場の二幕を見物して《夜は肉スキ焼なり》とくる。(いったいに谷崎は穢れに対する禁忌の念にとぼしく、『細雪』中巻で板倉が大腿部を切断する場面では手術をのぞき見た四女妙子に、「当分牛肉の鹿(か)の子(こ)のとこ」と言わせた。)

 さて、すでに文豪としての地位を確立していた谷崎にしてみれば、荷風への本心は、自分を文壇に送り出してくれたことへの感謝と文学的尊敬を基底としつつも、すでに慈しみや憐れみの情に近いものがあり、それは川口松太郎への手紙にあからさまだ。《さう云へば貴君のおきらひな荷風先生ハ偶然にも岡山へ疎開され始終文通いたし居り近々此方へ来遊さるゝ筈に御座候何でも東京を三度焼け出され岡山へ来て又一度焼かれ、現在ハ同市の郊外に菅原明郎([ママ])氏夫婦と二階借りをして居られ候昨日の来翰にハ痢病にて臥床中全快迄にハ一二週間かゝると有之貴君に云はせれバ御説も可有之候へ共六十七歳の高齢にて流離艱難せらるゝハ御気の毒之至りに御座候》

 荷風に戻る、終戦の日以降の荷風に。

 八月十六日からの荷風は、葡萄、鰻を味わいながら岡山市にとどまったあと、同月三十一日葡萄液に喝を医しながら品川をへて代々木に着いたが、訪ねさきが熱海に転居と知って、翌日その地へ彷徨する惨めさであった。

 ところで荷風は『ひとりごと』(のちに改題して『問はず語り』)一巻を勝山で谷崎に託した。『断腸亭日乗』によれば、その上巻は昭和十九年十月二十九日に浄写されている。続編は翌日起稿され、早くも同年十一月十三日には《小説ひとりこど([ママ])正続とも校訂浄写》、昭和二十年一月十三日には《旧稿続ひりごと([ママ])後半改竄》の記述がある。

《問はずがたり序》に書かれたとおり、《小説不問語(とはずがたり)。初はひとりごとと題せしが後に改めしなり。昭和十九年秋の半頃より麻布の家に在りて筆とりはじめその年の暮れむとすることほひに終りぬ。あくる年の冬熱海にさすらひける頃後半を改竄(かいざん)して増補するところあり。初て完結の物語となすことを得たり》の《あくる年の冬》とは昭和二十年末にあたるから、ここには昭和二十年六月から八月にかけての岡山体験がはっきりと影を落としている。

『問はずがたり』下巻八は荷風にしてはあまりに手離しに甘い情緒からなり、かえって痛々しい。

《僕は今岡山県吉備(きび)郡□□町に残っている祖先の家に余生を送っている。五十年前に僕の生れたところである。

 昭和二十年八月十五日の正午、僕はこの家の畠の秋茄子(あきなす)を摘みながら日軍降伏の事をラヂオによって聞知ったのだ。

 僕の生涯は既に東京の画室を去る間際に於て、早く終局を告げていた。新しい生涯に入ることを、僕はもう望んでいない。僕は昨日となった昔の夢を思返して、曾て「問はずがたり」と題したメモワールをつくって見たことがあった。こゝにそが最終の一章を書き足して置こう。》

 上巻には『問はずがたり』といえばきまって引きあいにだされる、同居人辰子の娘雪江と女中松子の女同士の戯れを主人公が節穴から覗き見る場面があって、いかにも視る人荷風ならではの女の生態をとらえた巧みな文章であった。ところが下巻八からは羈旅体験に情が刺激されてロマンティシズムが溺々と流れだす。谷崎が『「つゆのあとさき」を読む』で評した、《「あめりか物語」「ふらんす物語」等における作者は、しばしば詠嘆し、しばしば賛美し、しばしば興奮し、主観を憚(はばか)らず流露させている点において、むしろ詩人的であった》という、旅行記の形式を借りたロマンティシズムは若き日の荷風の魂を震わせたものだった。

《西の方総社(そうじゃ)と呼ばれる町をさして、極めて速力の鈍い旧式の支線列車は、岡山の町を出るが否や備前備中二国にひろがる明い沃野(よくや)の唯中に僕の身を運んで行く。今更言うまでもなく、旅行好きの人は一ノ宮、高松、吉備津(きびつ)などゝいう町や村の散在している松の多い丘陵の風景の、いかに明媚(めいび)であるかを知っているだろう。》

 勝山で谷崎と夫人松子にあい、《年の頃三十四五歟、痩立の美人なり》と記憶にとどめた八月十三日の夜道の官能が匂いをともなって浮きあがる。

《或夜、僕は町や村の家毎に戸外で焚くさゝやかな火影が池や溝渠の水を彩(いろ)どり、何処ともなく線香の匀の漂いわたるのに、一月おくれの盂蘭盆(うらぼん)の来たことに心づいた。平和の福音が伝えられて、軍閥の没落したことを知ったのは、其翌々日の真昼時であった。》

 そして『問はずがたり』はこう終わる。

《松の深林、乾いた石逕(いしみち)、おとなしい臆病な山羊………。画家セザーヌと詩人ジャムとが愛したプロワンス州ばかりが好い国とも限るまい。隠な日があたるところはどこへ行っても好い国だろう。》

 いささか好々爺風肌ざわりだが、かえりみればプロワンス(プロヴァンス)とは、三十数年前の若き荷風の『ふらんす物語』におけるライト・モティーフに他ならなかった。『ふらんす物語』の《遠くアルプ山の一脈を望む乾燥したプロヴァンス州の広い平野の真中をば、ローンの大河は岸の柳を根から揺(ゆす)るように凄(すさま)じい速さで流れている。幾世紀前の遺跡とも知れぬ古い寂しい石垣が急流の中程で崩れたまま突立(つった)っているが、その対岸の近い丘陵の上には、暗澹(あんたん)たる褐色して、古城の塔と観楼(ものみ)までが、昔のままの形を保ちつつ聳えている。汽車は目の下を流れるローンの急流よりも早くなった》には、『問はずがたり』と同じ官能の多重映像がきらめいている。

 谷崎を訪問した荷風が、谷崎文学の要(かなめ)である恋愛関係における第三の存在として松子夫人に機能しえなかったことに、老いた荷風の性の淋しさがあったとはいえ、日本文学史上まれにみる二人の文学者の至福の時間がもたれ、互いに様々な形式で書き残してくれた。女房文学者谷崎と隠者文学者荷風の、羈旅の交わりの座の文学でもあり、そこにはやはり発表のあてなく『細雪』を書きつぐ谷崎と松子夫人による、牛肉と白米による歓待があった。《細君下戸ならず、談話頗興あり》

                                  (了)

 

(作品引用にさいして、原則として小説は現代仮名づかいとし、日記・書簡・文語文は旧仮名づかいのままとした。漢字は理由がないかぎり新字体に改めた)

文学批評 「かの子バロック」

  「かの子バロック

 

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 岡本かの子の短編小説『金魚撩乱』(昭和十二年)にこんな文章がある。

《当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺激に対して、極(きわ)めて遅い反応を示した。復一の家へ小さいバケツを提げて一人で金魚を買いに来た帰りに、犬の子にでも逐(お)いかけられるような場合には、あわてる割にはか(・・)のゆかない体の動作をして、だが、逃げ出すとなると必要以上の安全な距離までも逃げて行って、そこで落付いてから、また今更のように恐怖の感情を眼の色に迸らした。その無技巧の丸い眼と、特殊の動作とから、復一の養い親の宗十郎は、大事なお得意の令嬢だから大きな声ではいえないがと断って、「まるで金魚の蘭鋳(らんちゆう)だ」と笑った。》

 あきらかにヒロイン真佐子はかの子の私性を揺らめかせている。芸術に殉じたかの子は垢臭い私小説を書かなかったが、どの小説のヒロインもかの子の容貌を美の方向へ大きく振幅させてあらわれる。

《深く蒼味がかつた真佐子の尻下りの大きい眼に当惑以外の敵意も反抗も、少しも見えなかった。涙の出るまで真佐子は刺し込まれる言葉の刺尖(とげさき)の苦痛を魂に浸み込ましているという瞳の据え方だった。》 やがて真珠色の涙が下瞼から涌き、歳にしては大柄な背中が声もなく波打った。《そのうち復一の内部から融かすものがあって、おやと思ったときはいつか復一は自分から皮膚感覚の囲みを解いていて、真佐子の雰囲気の圏内へ漂い寄るのを楽しむようになっていた》という魔性の力で人をひきつけたかの子。                       

 おそらくは『金魚撩乱』のつぎの一節ほど毀誉褒貶の激しかった文章はそうないだろう。《……見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に捺乱として白紗よりもより膜性の、幾十筋の嫉がなよなよと縫(もつ)れつ縫(もつ)れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指(おゆゆび)と人差指で大幅に一囲みして形容する白牡丹(ぼたん)ほどもあろうか。それが一つの金魚であった。その白牡丹のような白紗の鰭(ひれ)には更に菫(すみれ)、丹(に)、藤、薄青等の色斑があり、更に墨色古金色等の斑点も交って万華鏡のような絢爛、波瀾を重畳(ちようじよう)させつつ嬌艶に豪華にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。復一の胸は張り膨らまって、本の根、岩角にも肉体をこすりつけたいような、現実と非現実の間のよれよれの内情のショックに堪え切れないほどになった。》

 文学の目利きたちはこぞって嫌悪をしめしたあとで、どうにも感嘆してしまう。

 石川淳は『岡本かの子』にこう論じた。《ふつうならどうも、挨拶にこまるしろものである。しかし、これを他のどんな表現に置きかへて、より切実なることをうるか。初等技術批評を尻眼にかけて、何といつても、この一節は精彩溌刺たる文章に相違ない(中略)末段に及び、その集中の度合が作者の生命の呼吸と合併するに至つた。(中略)岡本女史は心を女人の歌よりおこして情熱と調子との流儀をもつて小説の世界に切りこんで来て、ともかくも前掲のやうな奇怪なる文章にものをいはせてゐる。》

 丸谷才一は文学全集『宇野千代岡本かの子』の解説に《どこがどう気にくわないと、いちいち指摘するのは礼を失するだろう》とためらったうえで、《もちろんわたしはこの文章に一種の力があることを認めない者ではない》として、《しかし力を見せるためには何もこれほど大仰にどなりちらす必要はあるまいと、わたしは顔をしかめるのである》と頌を書くべき解説者の立場から当惑している。

 この「力」について渋澤龍彦は『岡本かの子 あるいは女のナルシシズム』で的確な命名をした。かの子のナルシシズムを論じる渋澤はヒロインの童女のような生命力と、旧家の一族意識に伴う度しがたい貴族主義について言及してから次のように結んだ。《かの子の小説は、枯淡をもってよしとする日本文学の風土にはめずらしく、その女性特有のナルシシズムの豊麗潤沢をもって塗りたくり描きなぐった、装飾過剰のバロック的文体によって成立した文学と見立ててもよく、むしろ私などは、そうした谷崎潤一郎の系統をひく彼女の方にこそ、今日に読み返されるべき真価を認めたい。ナルシシズム、生命力崇拝、デカダンス、貴族主義、――これが岡本かの子の切りひらいた、修辞学的には危く均衡を保っているようにしか見えない、バロック的な文体の小説世界を支えている四本の柱なのである。》

バロック」という形容詞こそ、かの子が日本近代文学にもたらした裂け目に違いない。実は『金魚撩乱』の作中人物たちはバロックについて語っている。真佐子から復一への返信に、《「この頃はお友達の詩人の藤村女子に来て貰って、バロック時代の服飾の研究を始めた」とか「日本のバロック時代の天才彫刻家左甚五郎作の眠り猫を見に日光へ藤村女史と行きました。とても、可愛らしい」とか。いよいよ彼女は現実を遊離する徴候を歴然と示して来た。復一はそのバロック時代なるものを知らないので、試験所の図書室で百科辞典を調べて見た。それは欧洲文芸復興期の人性主義(ヒューマニズム)が自然性からだんだん剥離(はくり)して人間業(わざ)だけが昇華を遂げ、哀れな人工だけの絢爛(けんらん)が造花のように咲き乱れた十七世紀の時代様式らしい。そしてふと考え合せてみると、復一がぽつぽつ調べかけている金魚史の上では、初めて日本へ金魚が輸入され愛玩され始めた元和あたりがちょうどそれに当っている。すると金魚というものはバロック時代的産物で、とにも角にも、彼女と金魚とは切っても切れない縁があるのか。》

 いささか乱暴に三段論法を適用してしまえば、岡本かの子バロックとは切っても切れない縁がある、ということになる。ここに述べられたバロックの定義はいかにも月並みだが、昭和十二年(1927年)のバロック論としてはしかたのないものであろう。

 ここまでかの子の短歌から遠く離れて『金魚撩乱』を紹介したのは「バロック」という形容詞に導かれてかの子の短歌を論じたかったからだ。一人かの子の登場によってバロックは短歌空間に放射され、『わが最終歌集』でも切実な縁切り宣言によってさえも歌から退場できなかったバロックのうねりは、かの子の死後、戦後歌壇の十年余りの閉塞期間をへて、かの子が愛した多摩川のようにとうとうと流れだすだろう。

 あまり性急にならずにふたたび『金魚撩乱』の別な一節を引用しておきたい。

《復一が、おやと思うとたんに少女の袂の中から出た拳がぱっと開いて、復一はたちまち桜の花びらの狼藉(ろうぜき)を満面に冠(かぶ)った。少し飛び退って、「こうすればいいの!」少女はきくきく笑いながら逃げ去った。復一は急いで眼口を閉じたつもりだったが、牡丹桜の花びらのうすら冷たい幾片かは口の中へ入ってしまった。けっけと唾を絞って吐き出したが、最後の一ひらだけは上顎の奥に貼りついて顎裏のぴよぴよする柔いところと一重になって仕舞って、舌尖で扱(しご)いても指先きを突き込んでも除かれなかった。》

 かの子の文学、かの子の歌は、いわゆる良識ある人々にとっては、その生き様もあいまって、上顎に貼りついた桜の一ひらのように生理的に吐き出さずにはいられぬものだろう。しかしたとえ吐き出しても、《どことも知れない手の届きかねる心の中に貼りついた苦しい花片はいつまでも取り除くことは出来なくなった》という存在自体の悲しみの痕を読む者に残す。そしてこの美しくも哀しい桜のエピソードは、「バロック短歌」の魁にして頂点たる、あの桜百首を思い出させずにはいられない。

 これから、かの子の歌について時系列的に振り返ってゆく。

 十七歳のかの子が『明星』に発表(明治三十九年)した《そぎたまふ髪を螺釦(らでん)にぬりこめて壁にや侍らむ我はたよらん》《糸に似る雨ふり花はじめやかに薫(くん)ずる日にぞ逢ひ見そめにける》などは「晶子亜流」と片付けられるのが常だが、しかしのちのバロックの光と闇の種火に気づくべきである。

 第一歌集『かろきねたみ』(大正元年)については、斎藤茂吉の『アララギ』誌上での評論(大正二年二月)をみてみよう。《われわれは女性の音声をなつかしいと思ふ、而して彼の清明な音声をば女といふ性から取り離しては聴き得ない。音声ばかりではない、西鶴がいつた様な腰つきにえもいはれぬばかりではない。ふわりと流れて来る全体のにほひ、彼の『ヰタ、フエミナ』が快いのである。(中略)僕は一体女とはどういふものかなどいふ事は考へた事は無い。行きあたりばつたりであるが矢張りなつかしい場合にはおのづからなつかしいのである。》 『赤光』発刊直前にしてすでに大家のおもむきさえ漂わせた、いかにも茂吉らしい目的語の欠落による多様な意味の渦巻く物言い、閨房での女の声に惹かれる性向を包み隠しもしないのに、吉祥天女への憧れのようなものさえ輝かせた、本人はくそまじめな文章のあとで、のちに釈超空(折口信夫)によるアララギ女歌抑圧批判があったことを思いおこせば、拍子抜けするほどの賛辞(しかし女性歌人を入院患者でもみるような視線も交じって)があらわれる。

《かろきねたみの歌は芸術品として小さい平凡なものであるとならば、僕も賛成する。しかし又歌を流れて居る或一種のにほひがある。それは堀部安兵衛や業平朝臣のにほひではない。其一種のにほひを僕はなつかしいと思ふ。この頃の晶子女子の歌にもさういふ所が出て来て居る。》 ついで茂吉は《前髪も帯の結びも低くしてゆふべの街をしのび来にけり》、《ともすればかろきねたみのきざし来る日かな悲しくものなど縫ハム》、《春の夜の暗の手ざはりぼとぼとと黒びろふどのごとき手ざはり》など好みの叙情歌九首を引用したあと、《この様な歌は皆なつかしい歌である。なほもつと作者さながらの音声なりにほひなりが滲み出たならばまだまだよいと思ふ。然し其は六つかしい事である。短歌は短いのだから、個性が一つの動詞や何かには表はし得ない。無車氏の難問題はエヂプスでも解けまい。アララギの同人には此頃は不思議に数人の女人が居る。その女人にこの歌双子一冊をすすめる。》

 茂吉の「なつかしい」に母性的なものを嗅ぎとるか性愛的なそれを嗅ぎとるか、おそらくはそれらの混合物だが、「或一種のにほひ」に執着する茂吉は、のちにむせるように開花するかの子桜百首のにおいを、そうして短歌連作にもあきたらなくなる小説への希求を感じとっていたのだろう。当然ながら茂吉は人口に膾炙している《力など望まで弱く美しく生れしまゝの男にてあれ》や《人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらばま奪られむ》の生身の真情流露を採らない(が、茂吉と言う人間は、バロックと重なりあう混沌の人であった)。

 第二歌集『愛のなやみ』(大正七年)には玉石の玉が見当たらないと誰もが口をそろえて言う。しかし次のような歌には第三歌集『欲身』のバロックの緞帳を開く、いささかマニエリスティックな技巧が見てとれよう。《別れ来て冷えし苺のくれなゐをすゝる夜ふけのともしびのもと》、《なにげなく咬(かみ)たる爪に口紅の薄くつきけりうら淋しけれ》。 その拾遺の踊り場にはすでに官能の螺旋が舞っている。《なやましくうらはづかしくなつかしくみごもれる身に若葉かほりぬ》、《博多帯緋(ひ)ぢり(・・)の紐よきりきりと我がみだらなる肉を負けかし》。

 結局、生涯に四千首以上もの歌を作ったかの子にとって、短歌とは一体何であったのか。かの子の歌の評価は、昭和二十八年になされた亀井勝一郎の『岡本かの子――小説とその和歌の位置――』に今もって規定されていまいか。《岡本かの子のすべての文学的業績と宗教的業績の中で、その和歌は最も劣つたものであると私は思つてゐます。歌集を私は繰り返し読んでみたのですが、感心した歌は、まづ、殆んどなかつたと云つていゝ。女史は生前、自分は三つの瘤をもつた酪駐だといつてをりますが、三つの瘤といふのは歌と仏教と小説です。この三つの瘤をもつた酪舵として人生の砂漠を歩いてゆくといふ意味です。現在、振り返つてみますと、結局小説が一番優れてをり、小説家としての岡本かの子の面が最も興味深いのであります。和歌はむしろそれを助成するための小さな瘤であつたやうに思はれてなりません。或は余計な瘤と云つてもいゝほどです。》

 たしかに小説が一番であるのを認めるのにやぶさかではないが、「余計な瘤」とはあまりではないか。しかし、亀井の慧眼はかの子の文学の特質を《何よりもまづ美の使徒、日本的エピキュリアン》とよんで谷崎文学の系譜とし、《処女性(・・・)と母性(・・)と魔性(・・)》、《自己の性を川に託してあらはさうとする》とかの子の肝を摑んだ。ついで亀井の筆はエロスとタナトスという方面に進み、《時に力をいれた歌もありますが、情熱をすこしでも、出さうとすると、女史の歌は臭味を発します。小説にも時々みうけられる極彩色の演劇性です》と、バロックという名こそ出さないが、地母神のようなかの子の混沌を否定的ながらも見抜いた。《この演劇性――劇的要素を意識して磨いて行つたら、或は独自の歌境を開いたかもしれませんが、さうなる前に女史は戯曲をかきました。更に小説へと進んだわけで、歌人としてはつひに最も小さな存在であつた》とは歌集『欲身』の可能性とその後の流れを思ってのことだったろう。

『浴身』の歌をみてゆく前にバロックとは何かを振りかえっておきたい。

 十九世紀、およびかの子の生きた時代には、「バロック的」という形容詞は、ある種の嗜好の堕落として用いられていた。 エウヘーニオ・ドールス『バロック論』(神吉敬三訳)は、バロックを「歴史様式」から解き放ち「文化様式」として人間性に本質的な「常数」であるとした画期的な名著だ。ドールスによるバロックの本質は「汎神論とダイナミズム」であり、バロックの形態は「多極性と連続性」とされた。かの子にあてはめてみれば「汎神論とダイナミズム」は仏教へののめりこみと吉本隆明が『岡本かの子――華麗なる文学世界』で分析したカメラワークでいう接写や高速度写真による描写である。「多極性と連続性」は、プルーストの文章における楕円形に膨張し渦巻きを形成してゆく文体のそれであり(かの子の文体はより力に身をまかせるふしだらさだ)、桜百首の同じ作者のものとは思えないほど異なった作風の混在と、生命の滞りのない川の流れへの好みや表現におけるリフレインの多用である。なによりもドールスは《バロック精神とは、通俗的な表現でわかりやすくいえば、自分が何をしたいのかわからないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ》としたが、これこそかの子の魂の本質であった。

 ワイリー・サイファー『ルネサンス様式の四段階』(河村錠一郎訳)は歴史主義のもとながらバロックの構造を提示する。絵画におけるカラヴァッジオルーベンスグレコ、彫刻・建築におけるベルニー二をイメージすればわかりやすいだろう。「肉体による解決」――バロック形式は肉感性を持っていて、素材を贅沢に積み重ねる結果、物質を膨張する力に転化する。「エネルギーによる解決」――動く物量、想像力の駆使。「空間による解決」――まず初めに開塞、 つづいて空間への拡張あるいは膨張という技法であり、この初めの閉塞がなければ距離、開放、そして勝利という幻影を獲得できない。「高度による解決」――天上的な高みへ押し上げる魂の、あるいは肉体の高揚ないし霊的浮揚。「光による解決」――光と闇に浸す、色の音響。「バロックからキッチュヘ」――理性(ロゴス)によってではなく感情(パトス)によって世界に立ち向かうとこぎれいさと感傷主義へ堕する。

 ここまで述べてきたバロックの特徴を胸に、『浴身』におさめられた桜百首を読んでゆこう。作られた大正十三年の刻印から、万葉調の写生歌、茂吉風を思わす歌が意外と多いのだが、ここで掬い上げたのは、主情的なあられもない情念にあふれ、想像力の駆使による華やかさと、蔦の蔓の連続性をもつたリフレインのフーガによっていのちと滅びを畳み掛けてくるバロック短歌の数々である。「重く沈むフォルム」と「飛翔するフォルム」のオペラはかの子が眼も耳もよかったことを証明している。

 衆知のように桜百首は『中央公論』の編集長にして名伯楽(前々年にもう一人のバロックの女宇野千代を世に押し出している)瀧田樗蔭の求めにより一週間の期限で作り上げた百三十八首からなる。蘭鋳のようにぐず(・・)なかの子には神がかり的な集中を強いることで法悦の歌が詠まれるに違いないと睨んでの求めであった。

 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

 さくら花咲きに咲きたり緒立(もろだ)ちの粽欄春光(しゆろのしゆんくわう)にかがやくかたヘ

 ひえびえと咲きたわみたる桜花(はな)のしたひえびえとせまる肉体の感じ

 しんしんと桜花(さくら)かこめる夜の家突(とつ)としてぴあの鳴りいでにけり

 咲きこもる桜花(はな)ふところゆ一ひらの白刃(しらは)こぼれて夢さめにけり

 わが持てる提灯の炎(ひ)はとどかずて桜はただに闇(やみ)に真白(ましろ)し

 糸桜(いちざくら)ほそき腕(かひな)がひしひしとわが真額(まひたへ)をむちうちにけり

 わが家(いへ)の遠つ代にひとり美しき娘ありしとふ雨夜(あまよ)夜ざくら

 ミケロアンゼロの憂鬱(いううつ)はわれを去らずけり桜花(さくら)の陰影(かげ)は疲れてぞ見ゆれ

 山川(やまかは)のどよみの音のすさまじきどよみの傍(そば)の一本桜(ひともとざくら)

 この丘に桜散る夜(よ)なり黒玉(ぬばたま)の海に白帆(しらほ)はなに夢むらむ

 政信(まさのぶ)の遊女の袖に散るさくらいかなる風にかつ散りにけん

 地を撲(う)ちて大輪つばき折折に落つるすなはち散り積むさくら

 急阪(きうはん)のいただき昏(くら)し濠濠(まうまう)と桜のふぶき吹きとざしたり

 狂人(きちがひ)のわれが見にける十年(ととせ)まへの真赤(まつか)きさくら真黒(まつくろ)きさくら

 ねむれねむれ子よ汝(な)が母がきちがひのむかし怖(おそ)れし桜花(はな)あらぬ春

 桜百首以外の『欲身』におけるバロック秀歌をあげる。

 春ふかき日の午後の新床くわつぜんと大輪牡丹割れてけるかも

 風もなきにざつくりと牡丹くづれたりざつくりくづるる時の来(きた)りて

 ここで「牡丹」はかの子が己に擬した花である。牡丹の花びらの襞(ひだ)は宇野邦一が『裸のモナドヘ』で、ジル・ドゥルーズの『襞(ひだ)――ライプニッツバロック』を紹介した《理性の統御を離脱して曲線がはてしなくうねり、無限にひだを増殖してゆく》バロックのそれだ。《理性はだから無数のひだに浸透していく光でなくてはならない。分裂し、散乱していく世界の悲惨に対して、秩序と原理を再構築しなくてはならないが、このような要請のなかで、原理そのものがある過剰さを帯びてくる》というドゥルーズによるバロックの定式は、バロックのもうひとつの特徴でもある冷静な観察眼による写実とアレゴリーとしての超越性との二重世界である。『欲身』のページをめくってもめくってもこれでもかこれでもかととめどなくあらわれる桜百首は《世界の悲惨に、原理の過剰によって答える》ことであった。                 

 ついで生前最後の歌集『わが最終歌集』(昭和四年)とその拾遺から二つだけあげておく。《大鶴(おおつる)が白光(はくくわう)の羽を搏(う)つなべに梅の梢の花うち慄(ふる)ふ》、《うつし世を夢幻(ゆめまぼろし)とおもへども百合あかあかと咲きにけるかな》。

 一言でいえば、桜百首のバロック的演劇性は「運動と流れさるものへのイマージュ」というバロックの特徴を体現するかのような、ひとところにとどまっていられないかの子の「いのち」のエネルギーが戯曲や小説の方面に飛翔していったことと、短歌という表現形式に対するかの子の意識もあってふたたび満開となることはなかった。

 かの子は大正八年三十歳のとき、処女小説『かやの生立』を発表している。次兄晶川の影響や、その友人だった谷崎潤一郎への畏怖もあって小説は十代のころからの「初恋」であり、小説で認められたいという強い意志をずっと持ちつづけていた。昭和十一年『鶴は病みき』で初恋は実り、そこからは迸るように十二年『母子叙情』『金魚撩乱』『川』『花は勁し』、 十三年『老妓抄』などで「えらくなる」願いも成就したのに、翌十四年二月に四十九歳で永眠してしまった。本格的な小説家としての活動は三、四年のことにすぎない。

『わが最終歌集』で歌神に白(まう)すとして《あなたはわたくしに十二の歳より今日まで歌をお与へなされた。(中略)わたくしのみに於てあなたの恩寵(おんちよう)に酬(むく)ゆる途は今日あなたとお訣れする事であらねばならぬ。あなたとお訣れして次の形式にわたくしを盛る事こそあなたへ対するわたくしの適確なスケジュールの履行と思へてならなくなつた》と自己劇化して訣別宣言したにもかかわらず、死ぬまで「薪(まき)尽きずして焔をあげ続け」た業としての短歌と、「次の形式にわたくしを盛る」と自己陶酔のうちに献杯された小説とを円地文子の評論『かの子変相』を読みながら考えたい。

 円地らしい同性への小意地の悪さ、芯の冷たい視線がなぶるようになすりつけられた批評は、しかしかの子文学の生理を女の眼力と嗅覚で暴く。《表現は誇大であり日本語のよいリズムを持つてゐて美しいと言へば充分美しいが、その美しさは清朝の陶器やロココ様式の建築に通じる必要以上の美の累積で、幻惑はされても、いつまでも醒めないゆめではない。贅肉で出来上つた肉体のやうな、異形な嫌悪感がつきまとふのである。》 「ロココ様式」と言っているが、円地がねぶるように味わった特性は「バロック様式」と言い換えてよいだろう。俳諧趣味の淡白な日本人にバロック的な熱量は嫌悪感を与えてしまうのかといえば、では歌舞伎、浄瑠璃はどうなのかと問いたい。たとえば『夏祭浪花鑑』の長町裏の段の惨劇、近松半二『妹背山婦女庭訓』で雛鳥の首が吉野川を下ってゆく場面などは日本人のバロック好みの血であろう。相撲力士のグロテスクもバロックに違いあるまい。豊満な吉祥天も好きだし鬼子母神だって好きである。宝塚も日光東照宮も友禅縮緬の振袖もそれである。

 かの子の三つの瘤のうちの一つ、仏教についても円地の眼光は鋭い。《むしろ仏教を自分流につくりかへる教祖的なミステシズムの方がかの子には濃かつたのではないか。その意味でかの子は真言密教に一番近い人だ。かの子はミステシズムの薄明の中に印を結んで異様な美の世界を拓いて見せる女行者であつた。》  なるほどかの子という存在はマンダラであり、女空海とでもいいたくなるミステシズム(神秘性)の宇宙とタントラの性夢を孕んでいた。

《かの子は多摩川の川畔に幾世代つゞいて来た豪家の最後の一人に生れて、語るべくして語らない憾みを多く置残して死んだ彩しい家霊の言葉を代弁する巫女であつた。》 かの子の自我を膨張させた語りにはたしかに巫女のシャーマン性のような夢をゆさぶる陶酔のさざ波があった。

 かの子にとって多くの歌は、《短歌は私によりプライヴェートなものである。もっと自然発生であり即時即所に於ける分秘的なものである。》(かの子『私の態度――女流歌人の進むべき道』)とともに、《この小詩形中に自分を盛ることが、まるで両の瞳を鼻の根に睨め寄せるような切なさがあり、生理的にも毒と知って》(かの子『歌と小説と宗教と』)も阿片のように止められない。あるいは小説という赤子を次々と身ごもるための子宮壁の滋養分の流れだし、すなわちかの子が歌を作りはじめたのと同じ十二歳の年に訪れた月経のような自然の巡りであったのかもしれない。また、おそらくは、現在という時間を切り取った歌の雨は、かの子の背負った《未来へと伸び古代へとつらなる歴史の感覚》(丸谷才一)によって、『万葉集』に歌われた多摩川のように鬱勃たるロマンの川となって母性の海へと注いでいったのに違いない。

 ところで、釈超空、生方たつゑ、四賀光子らによる『戦後歌壇を語る』という対談(昭和二十五年)があり、かの子の短歌に対する無念が伝わってくる。

《釈  戦後の歌はもう少し乱れてもいゝと思ふのですが、却つて固くなつてゐるのは不思議だ。(中略)もつとロマンティックで大胆で、従来の型を破つたデタラメでいゝと思ふ。私も何かと落着かず盲動してゐるのです。その意味で女流歌人に期待してゐます。(笑声)とにかく歌を救うということを考へずにちゞんでゐるのです。》

 アララギからはじまって歌壇全般が女の人も抑えてしまったと自論を述べてから、こう断言する。

《釈  岡本かの子などでも小説をみると、こんな立派なんかと思ふが、歌でやはり抑へられて不十分です。

生方 岡本さんほどの人が歌壇にゐたらやつぱり小説に入つて行つて歌は余技的になると思ひますね。

四賀 その岡本さん自身は歌の方でも認められたかつたのです。随分と認められたいと思つてさびしがられたものです。》

 最後に、かの子の死後一平が編纂した歌集『歌日記』(昭和十五年)におさめられた歌、形式美をもつ傑作短編『老妓抄』の末尾に置かれたあの歌を引いて本論の終わりとしたい。なぜならこの歌には小説にしか書けないものがあったのと同じほどに短歌でしか表現しえない「いのち」の音声がにおうからだ。《丹花(たんか)を口にて銜(ふく)みて巷を行けば、畢竟(ひつきよう)、惧(おそ)れはあらじ》(『花は勁し』)の気概(「丹花(たんか)」は「短歌(たんか)」でもある)を持った芸術餓鬼(がき)かの子の「いのち」への恋の桜花(はな)吹雪こそがバロックだった。

 年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

                       (了)      

 

 

文学批評 「見ることと触れること  ――白秋『桐の花』から『熱ばむ菊』へ」

 「見ることと触れること  ――白秋『桐の花』から『熱ばむ菊』へ」

 

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 二一世紀に入って祇園圓山公園の枝垂桜はいよいよ魂を奪う姿でそこに在る。たっぷりと花房をつけ鏡獅子のように重く揺らぐ桜ならば京洛にいくらでもあるだろう。けれども祇園の枝垂桜は他にかえがたい。心騒がせる。薄幸の舞妓が根もとに埋められ、その滋養で生きているとの噂は真実と思えてくる。見る私を見ているのだ。ほかの桜は見られているだけなのに、この桜の見下ろす視線は私の内面に触れてきて絡みあう。

 それと同じように『桐の花』(大正二年)、『雲母集(きららしゅう)』(大正四年)の北原白秋は、現実の華やぐ桜を見る人にすぎなかったのに、昭和十七年に死去する際の『黒檜(くろひ)』(昭和十五年)、『牡丹(ぼたん)の木(ぼく)』(昭和十八年、死後出版)では祇園圓山の枝垂桜のような凄みをもって存在(リアリティ)に触れてくる。

 

<茂吉/白秋>

 塚本邦夫は『茂吉秀歌』で白秋について、いくどとなく言及している。まず『茂吉秀歌『赤光』百首』の人口に膾炙した歌がこれだ。白秋は『桐の花』からである。

  めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀(かみそり)研人(とぎ)は過ぎ行きにけり                  (茂吉)

  ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき                    (白秋)

 斉藤茂吉『赤光』(大正二年)の歌が白秋の《たとえ本歌取であつたとしても、いささかこだはる要はあるまい。問題なく茂吉の歌の方が傑(すぐ)れてゐる》という塚本の判にまず異論はないだろう。巷間伝わるとおり、そして新古今や定家に関する塚本の評論同様に、『茂吉秀歌』は塚本美学による変奏、照射として功罪なかばだが、さすがその読みは俊成なみに老練だ。

 このとき、白秋はものを見ているだけなのに、茂吉はものに見られている。茂吉を読む私は、ものに見られた茂吉が見た眼でものに見られる。「剃刀研人(かみそりとぎ)」と「剃刀」という生物と静物の差異や、茂吉が苦心した「ひつそりと」の一語ばかりでなく、「過ぎ行きにけり」の感じられる時間に不意に襲われる。

つづく歌でも本歌と目された白秋は負となる。

 たたかひは上海(しゃんはい)に起り居(ゐ)たりけり鳳仙花紅(あか)く散りゐたりけり                 (茂吉)

 薄らかに紅(あか)くかよわし鳳仙花人力車(じんりき)の輪にちるはいそがし                  (白秋)

《茂吉の歌はこの度も明らかに、本歌を超えてゐる。比較するのも無慙と思はれるまでに本歌は繊弱でくだくだしい。》 どちらも同じ「紅(あか)く」があるのに、茂吉の細部の方が鋭い。そのうえ茂吉のふたつの「ゐたりけり」が作為を感じさせつつも読む私に傷痕を残す。

  現身(うつしみ)のわが血脈(けちみやく)のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ                  (茂吉)

 この歌は白秋詩集『水墨集』(大正十二年)の「雪後」に合わされる。

安らかな雪の明りではないか、

ようも晴れた蒼穹である。

ほう、なんといふかはいらしさだ。

あの白い綿帽子をいただいた一つ一つの墓石は。

 ここでも塚本は手厳しい。《南国生れの彼にとつて、雪は、たとへば歳時の中の珍しい眺めであつた。北国生れの茂吉には天然現象を越えて、それは抗しがたい宿命であり、一種の魔に等しいものではなかつたらうか。雪が人間を小半歳(こはんとし)窖(あなぐら)のやうな棲家に閉ぢこめ、あるひは命を奪ふ事実を、その目で確め、肌で熟知した者でなかつたら、懺悔の心の湧くことも、血脈の細る思ひとなることも、十分には理解できまい。》 ここでは両者の特徴が、白秋の「珍しい眺め」、茂吉の「肌で熟知した」といった言葉で指摘されている。たとえば、『赤光』「おひろ」の「しんしんと雪降りし夜にその指のあな冷(つめ)たよと言ひて寄りしか」などにも、茂吉の体質的な触覚の上位性はあきらかである。

 茂吉「南蛮(なんばん)のをとこかなしと抱かれしをだまきの花むらさきのよる」をとりあげ、白秋『邪宗門』(明治四十二年)の光彩陸離(りくり)たる言語感覚は茂吉の比ではないとか、「蠶(こ)の室(へや)に放ちしほたるあかねさす晝(ひる)なりければ首は赤しも」はジギタリスの花にとまった蛍という白秋の臭覚に及ばぬところであると白秋を誉めてみたところで、《白秋のきらきらしい歌を新古今の四季や恋にさりげなく鏤(ちりば)めてみたいとは、一度も思つたことはない》の一言で無に帰してしまう。

 しかし、茂吉を万葉の人とするのと対をなし、のちの『多摩綱領』で新幽玄、余情の新古今調を顕彰した白秋を新古今の人と規定したがる風に逆らっての、塚本の見事な切断に違いない。

『茂吉秀歌『あらたま』百首』になると、塚本の論調はやわらぐ。

 茂吉『あらたま』(大正十年)の、

  ありがたや玉蜀黍(たうきび)の實(み)のもろもろもみな紅毛(こうもう)をいただきにけり                 (茂吉)

  な騒(さや)ぎそ此の郊外(かうぐわい)に眞日(まひ)落(お)ちて山羊(やぎ)は土堀(つちほり)り臥(ふ)しにけるかも                 

などは、いずれも仏典、仏教的雰囲気が濃厚で「さんげの心」に満ちているが、同時期の白秋『雲母集』にもまたこれらと呼応した、

 森羅万象(ものなべて)寝しづみ紅(あか)きもろこしの房のみ動く醒めにけらしも                  (白秋)

 豚小屋に呻(うめ)きころがる豚のかずいつくしきかもみな生けりけり

があるとして、《茂吉より官能的で鋭く、かつ明快だ、優劣の問題ではない。短歌そのものの性格と体質の差であつた》と塚本は持をとった。

 うつつなるわらべ専念(せんねん)あそぶこゑ巌(いは)の陰(かげ)よりのびあがり見(み)つ                  (茂吉)

 一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ                     (白秋)

に代表される歌は、茂吉に『梁塵秘抄』恋慕が深まり、白秋もまたそれにのめりこんでいったいった時期のもので、どちらも秀歌とは言いがたい。のちにライヴァル意識があらわれて先陣争いが茂吉『童馬漫語』に載り、白秋の歌誌『多摩』創刊(昭和十年)によって反目しあうことになるなど嘘のような湘南の光りと暖気に包まれた親交のひとときの産物であった。

梁塵秘抄』をめぐる塚本の文章を紹介しておく。《白秋はストレートに「ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光(こんじきくわう)のさす心地する」と感動を表明し、歌は勿論、散文詩の方にも、淡く濃く薫染(くんぜん)を示す。和歌はかつて十二世紀末から十三世紀初頭、すなはち新古今成立の前に、いちじるしく今様や連歌の影響を受けた。人によつてはこれを和歌黄金律の崩壊、唯一詩形、国風の瀕死(ひんし)の様の直接原因と目するが、むしろ、発想技法爛熟(らんじゅく)の極に達した王朝和歌の、その息づまるやうな飽和状態は、歌謡調を招き入れることによつて蘇(よみがへ)つたのではあるまいか》とは、狭義の近代写実に抗した白秋へのオマージュとなっていよう。

 

<ストゥディウム/プンクトゥム

 たしかに茂吉の歌は私を「刺してくる」のに、初期白秋の歌には乏しい。「刺してくる」感覚とは、ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』における「プンクトゥム」だったのではないか。

 副題のとおり、写真の何に関心をひかれるのか探しあぐねていたバルトは、ラテン語の「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を見出す。規則の第一の要素ストゥディウムは、ある広がり、一般的関心による。第二の要素

プンクトゥムはストゥディウムを破壊(または分断)し、場をかき乱しにやって来る。《ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(・・・・・・)(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

 バルトは、アメリカの黒人一家の妹(または娘)のベルト付きの靴や、小さな男の子の歯並びの悪い歯に、無作法に引きつけられた。ある種の「細部」は写真を見る人を突き刺す。ストゥディウムは文化的な関心があり、つねにコード化されているが、プンクトゥムは不意打ちとしてやってくる。

 さらに死んだ母の写真について考えをめぐらすバルトは、細部とは別のプンクトゥム(別の《傷痕(スティグマ)》)も見出す。《それは=かつて=あった》という時間のプンクトゥムだ。

 サルトルは写実の「完全イメージ性」に対して、小説に熱中すれば心的イメージは生じないという小説読者の「稀少イメージ性」を指摘したが、言葉で表徴化する詩歌はづなのだろう。メルロ=ポンティは《散文的なものが、すでに語られ見られ意識されているもの、もろもろの客体の世界としてできあがったかたちでわれわれの眼の前にあるものの、扱いなれたなじみの秩序のがわに立つのにたいして、詩的なものはこうした秩序の破壊を意味する》と書いた。いわば散文はストゥディウムであり、詩歌はプンクトゥムであることを別な表現で語ったのではないのか。

茂吉『赤光』の細部「剃刀研人(かみそりとぎ)」「紅(あか)く」の不意打ちと時間の傷痕(スティグマ)「ゐたりけり」には世界にひびを入れるプンクトゥムがあって、写真の「完全イメージ性」により近い。初期白秋にはそれらが欠如している。

 

<近代/東洋精神>

 白秋を論じる時、きまって中野重治斉藤茂吉ノオト』(昭和十七年)の白秋に関する一章が持ちだされてくる。辛気くさいが避けてとおるわけにもゆくまい。

 中野は、ひとまず『桐の花』を代表する歌として、「いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの散りはてぬれば五月(さつき)はきたる」、「百舌啼けば紺の腹掛け新しきわかき大工も涙ながしぬ」、「「廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける」、をあげ、『雲母集(きららしゅう)』からは「煌煌と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも」、「大鴉一羽渚に黙(もだ)ふかしうしろにうごく漣の列」、「麗らかやこなたへこなたへかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず」が代表できるとしたうえで、この間のうつりゆきについてつぎのような説明は果たして穏当であろうかどうか、と問う。

『桐の花』から一転して『雲母集(きららしゅう)』にはゴッホの「狂気に燃ゆる樹」やゴオガン、ゴッホたちの「単純素朴にして強烈なる画境」が見出されるという岡山巌と吉田精一の説明を紹介したあと、中野はこう反論する。《ほそぼそとしたものから太々としたものへのうつりゆき、かはたれ時のうすら明りといったものから昼間の太陽光といったものへの転向は、たしかにこのような変化として見られる性質のものである。しかしこのうつりゆきが、ファン・ホッホを引き合いに出して説明されるべきものかどうかとなれば一応疑いなきを得ない。》 『雲母集(きららしゅう)』における光明は、東京が曇り日でも小笠原は陽が照っているということで、『桐の花』の舞台転換にすぎないとした。

《『桐の花』における白秋は『赤光』における茂吉よりも遙かに近代的でない》というドグマティスト中野の宣告は、「ファン・ホッホ的」な狂気や苦悩、きまじめな青年の懊悩を近代的な態度とするのならば、初期白秋の本質をとらえている。

 中野は白秋の「見ること」の深度を追いつめる。《眼は対象に面せず、そのまわりを、しばしばそれを意識しながらただようのにとどまる。対象をさがし、さがしあて、その上にしかと停まるという眼の機能は初手から拒否され、むしろそれは、怖れられ避けられているといえる。そこで眼は、本来の機能を回避しつつ歌としてあらわれ出るため、とめ度のない饒舌で身を装わねばならぬのである。》

 白秋は「平面的な羅列」の言葉として理解していただけであるとは、すでに『アララギ』(大正二年、四月号)誌上で木下杢太郎らが指摘していたことだった。《白秋は、どうしても、物をそのものとして示すことができない、彼はそれに堪えない。彼には、気分、風情、けはいが先だってくるのである》とはつまり、白秋の眼が《物の存在にではなく存在の気はいに、この気はいの感得にたいするいわず語らずのなれ合いにもっぱら頼っている》ということで、存在(リアリティ)へのアプローチに近代的な辛苦がなかったという中野の糾弾だった。

 そうだろう。あの姦通事件の収監でさえ、「身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅(あか)きダリヤよ」と『仮名手本忠臣蔵』七段目、おかるに手紙を読まれた由良之助の台詞「南無三、身の上の大事とこそはなりにけり」をふまえて朗らかな金(きん)と赤の好きな人、アイロニカルなロマンティストなのである。

 ヒヤシンスだの、ハーモニカだのから、すずめだの、かきつばただのへの変化は《雰囲気としての薄手な物質的西洋文化へのもたれ込みから、同じく雰囲気としての薄手な物質的日本文明もたれ込みへの推移に過ぎない。雰囲気をぬけての実質への近づきがない》という批判は、中野の「近代的」の定義の是非はともかくとして(それは「近代の超克」問題を内包しているのだが)、中村眞一郎が「てれくさい」と口にした、《私達の精神に何らの犠牲を要求しない》、《抵抗が驚く程欠けている》、快くとも近代的自意識を恥じいらせる心理と通底している。

 ところで折口信夫は『まれ男のこと立て』(昭和二年)で白秋を、《あて(・・)――上品――で、なまめい(・・・・)――はいから――て、さうして一部いろごのみ(・・・・・)の味ひを備へた姿を文章の上に作る事の出来る人は、この人をおいてさうさうはあるまい》としたものの、『歌の円寂する時 続編』(昭和二年)では寂しさと悔しさを滲ませ、『雀の卵』(大正十年)の時期の白秋が内面へ深まってゆく人とはならなかったことを古代人まで引きあいにだしながらねちねちと皮肉った。《白秋兄は、孤独・寂寥・悲痛に徴する新しい生活を展き相に見えた。だが、其朗らかな無拘泥の素質が、急に感謝の心境を導いた。苦患の後、静かな我として茲に在る。此が開放の為の力杖であつた。浄土に達する為の煉獄であつた。かう考えることが、他力の存在を感ぜしめないでは置かなかつた。梁塵秘抄の「讃歌」や、芭蕉の作品は、白秋さんの開発する筈の論理を逸れさせた。さうして悔しくも、東洋精神の類型に異訳させて了うた》、と。

 

<悪/母>

 寺田透三好達治萩原朔太郎蒲原有明に言及しながら白秋の詩集『邪宗門』と『思ひ出』(明治四十四年)を論じた。三好に、ひたすら横すべりにすべっていて平面上をうろついている、と酷評された白秋は、寺田からも《そこに朔太郎の内面的な繊細さはなく、言葉というよりもむしろ文字が幅をきかせて、あざとい輪郭と光度をもつイメージが眼をちかちかさせるということは本当だろう》と言われてしまう。さすがに「皮膚よりも深いものはない」と語ったヴァレリーの研究者らしく寺田は、白秋が表層から内面へと深化していったかに関心をもった。

 ついで寺田は、『カイエ』のヴァレリーがちらちらと淡い炎を揺らめかせていたもの、誰もがうすうす感じとっていた白秋のあるものへ近づいてゆく。《何かかれのうちには、かれが十分に現実化せずに終った恐怖を催させるもの、なんなら悪と言ってもいいものへの共感があったのではなかろうか。『思ひ出』には、死に近い乳母のあまりに深い情を恐れる幼児だった自分を喚起した作品もあるし、それを一例として、幼児のかれを取巻く、かれには諒解できなかった男女の肉のほてり、疼きが、何か味わい深い悪のように匂わせている作品もいくつかある。》

 寺田はまず、視覚的経験の描写として『邪宗門』中の、赤子が水に落ちたのに何事もなかったかのような眼を紹介し、金魚を殺す童謡に及んだあと、艶冶な五感の詩「おかる勘平」――「顫へてゐた男の内股(うちもゝ)と吸わせた脣と」が風俗壊乱であるとして、同人誌『屋上庭園』は発禁、廃刊(明治四十三年)――を不条理な肉的思考、詩による性への関心の表明だったとする。これはまた、視覚の人白秋が、初期の詩においては触覚の人でもあったことの証左に違いない。

「おかる勘平」から少しだけ引用しておく。

  やはらかな肌ざわりが五月ごろの外光のやうだつた、

  紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、

  抱擁(だきし)められた時、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、

白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた。

顫へてゐた男の内股(うちもゝ)と吸わせた脣と、

別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、

『桐の花』の序文「桐の花とカステラ」からもニ、三みておく。いたるところ触感が散文となっている。「ばさばさして手さはりの渋いカステラ」、「一寸触つても指に付いてくる六月の棕櫚の花粉」、「うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる」、「じつと握りしめた指さきの微細な触感に」。

 ところが、この触感が短歌にはまったくといってよいほど表現されないのだ。「桐の花とカステラ」にあるように、歌は古い小さい緑玉(エメロウド)で、水晶の函に入れて秘蔵され、古い一弦琴のように薄青い陰影のなかにたてかけられて、静かに眺め入るべきもの(・・・・・・・・)とされたのか。一方、詩集『思ひ出』は触感に満ち溢れている。「夜」には「誰だか頸(くび)すじに触(さは)るやうな」というぬるぬるしたフレーズがあるし、「母」には「片手もて乳房圧し」、「肌さはりやはらかに」、「母の乳を吸ふごとに」の肉感がある。

『わが生ひ立ち』などによれば、名高い造り酒屋の長男白秋は商家裏方として忙しい母シケとほとんど肌の触れあいを持てなかったが、乳母シカ(二歳の白秋のチブスが伝染り、身熱で焦げるように死んだ)に溺愛され、家で働く女達に囲まれて育ったという。

「接吻」には「臭(にほひ)のふかき女きて/身体(からだ)も熱(あつ)くすりよりぬ」、「汗ばみし手はまた強く/つと抱き上げて接吻(くちつ)けぬ」ともある――白秋と同じく思想性の欠如を指摘される谷崎潤一郎は『春琴抄』、『盲目物語』に代表される触覚の人、さらには口唇の人であったが、『母を恋ふる記』、『幼少時代』にみる母の乳房との距離と白秋のそれとを比較してみるのもおもしろかろう。

 他に「糸車にせよ」「瓜紅」にせよ詩に触感は無数にあるが、『桐の花』の歌には放埓の遊蕩や春を待つ間の人妻があらわれはしても、「雪の夜の紅(あか)きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ」とじれったく、なんらかの抑制が働いて「触れる」は封印されてしまった。

 

<見ること/観ること>

 マラルメの研究者菅野昭正による『詩学創造』の「見つつ観ざりき――北原白秋論」は、「肉」というキーワードからはじまる。

  肉隠(こも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観(み)きとつたへよ                (『牡丹の木(ぼく)』)

《牡丹の内側へ眼で参入しようとする》この一首の魅力は失明の危機にさらされ、《もののかたちを確実に捉えられなくなった病んだ肉眼を、それでも牡丹の奥へ向けようとする白秋の姿勢の悲壮さだけに、動かされているのでないことは最初から感じとれた》と菅野は言う。

《「肉隠るふかき牡丹……」の三十一文字のなかには、なによりもまず花の内側に隠れている見えない宇宙を探り、それを掘りおこそうとする眼の動きが感じられる。詩人の眼の前に置かれている牡丹の花は、ただ知覚できる表面のかたちで眼を楽しませてくれるから珍重されるのではなく、あでやかにかがようその外形の背後に、花の生命を圧縮したもうひとつの幻視のかたちを見通させてくれるからこそ、詩人の眼をひきつけるのだ。このとき、詩人を誘っているのは牡丹の本質である。その誘いにうながされて、本質を《観る視線》が動きだすときに詩が発生する。》

「観る視線」から生成しはじめた後期白秋の詩学は、実と虚がもつれあうような、現(うつつ)と夢が溶けあうような生前最後の歌集『黒檜』にも認めることができる。

  黒き檜(き)の沈静にして現(うつ)しけき、花をさまりて後(のち)にこそ観め

 これは「観る視線」の喜びの詩でもあると菅野の筆は進む。散文的な「見る視線」(ストゥディウム)から詩歌の「観る視線」(プンクトゥム)が分離されて、ものの内側へ奥深く届いていると言えないか。

  か黝(ぐろ)葉(ば)にしずみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき

《自然な肉眼の働きにしたがって、特別な努力なしに、眼の前の対象を捉える「見る」こと。それにたいして、対象の奥深い隠された姿にまで視線をとどかせ、日常的な「見る」作用では捉えられない内密な実相を捉える「観ること」》の、いわば「実相観入」は、小林秀雄『私の人生観』にある《観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道してゐる》といった、西行芭蕉、はては宮本武蔵の古典的日本精神に向かいがちである。けれども、村野四郎による《そのイメージは、しかと人間の内奥に密着して、これを剥がそうとすれば、内まで一緒に剥がれてくるていのものである》との「黒き檜(き)」一連への批評文は、あたかもリルケ『マルテの手記』におけるノートル・ダム・デ・シャンの街角で女が両手から顔を上げると顔面のうつろな裏側が手のなかに残っているのを見ることができたというそれではないのか。若きリルケ本人を思わす主人公は《僕は見る目ができかけている》とくりかえし、《なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる》と内省したが、それは「観る眼」のことではなかったのか。

『水墨集』序文「芸術の円光」の詩論は、いかにも白秋らしく拡散する文体となってしまっている。それを菅野は《外界の或る対象が詩人の《見る視線》に捉えられた、というよりむしろ、視線に飛びこんできたその瞬間に、詩人のなかに誘発された感情・情緒が、そこでは歌われているからである。対象(イメージ)がまず先にあって、そのあとに感情・情緒がやってくるのではなく、それは白秋のなかで同時にそれぞれの場を占めるのだ》と天才の一挙性に感嘆するが、しかし《《見る視線》は、そこではもっぱら外部の世界にむかってするどく感応するのに忙しくて、内部の世界にたいしては、持続する執拗な視線がそそがれた形跡はあまり見当たらない》との定説に落ちつく。

 溢れでる言葉は、せせらぎとなってものの本質を洗いだすことなく、表面で戯れる。それを、まじめな近代精神の欠如と、まじめな人々は言いたてた。やがて白秋は、ゆるやかでおおらかな「見る視線」の運動リズム、『梁塵秘抄』の歌謡の韻律を経て、「軽快な流動性に富む」七五律から「緩徐な」五七律へうつっていった、と菅野はその言語情調を指摘して論をとじた(これはおそらくは、馬場あき子の白秋律論に拠るところだろう)。

『黒檜』の「観る視線」の実際にあたってみよう。当時白秋は『短歌の書』所収の「薄命に座す」(昭和十三年、口述)にあるとおり、《年少の頃から読書と観照と詩作との酷使した私の眼である。而も私のこの眼は私の肉体感覚のうちで最も豊富に光度と色彩と形象とを吸収し、鋭く磨きに磨き上げて来た最も大事なものであり、全く私の精神の窗であった》という視力をほとんど失う危機にあった。

『黒檜』冒頭の章は「熱ばむ菊」で、巻頭歌は、

  照る月の冷(ひえ)えさだかなるあかり戸に眼は凝(こ)らしつつ盲(し)ひてゆくなり

「照る月の冷(ひえ)」をさだかに感じている。見えるはずのものが「冷(ひえ)」という触感に深まって沁みこんでゆく。封印されていた触感が失明寸前の薄明状態で解かれたのである。

  視力とぼし掌(て)にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ

 掌と花弁が、触れるもの触れられるものとして出会い、熱というエネルギーを含みあう。

  目の盲(し)ひて幽かに坐(ま)しし仏像(みすがた)に日なか風ありて触(さや)りつつありき

 失明の名僧鑑真和上の像を思ってとある。もともと離れたものから風で運ばれる匂いに敏感な、距離の人(・・・・)白秋がここに来て直に接触しようとしている。

  物の文(ふみ)繁(しじ)にし思へばかいさぐる我が指頭(ゆびさき)に眼はのるごとし

 光が皮膚に形成したしみが視神経へと変異、進化していったというベルグソン『創造的進化』を思いださせる。平面をとめどなく横すべりした「見る視線」はついに内面へと垂直に碇をおろす「触れる視線」となった。

 

<触れること/触れられること>

 小林秀雄ベルグソンを念頭に「哲学者は詩人たり得るか」と語ったが、逆に、「詩人は哲学者たり得るか」と問うことは不遜であろうか。メルロ=ポンティがその著書のなかでくりかえし引用したフッサールの言葉は、《まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自身の意味の純粋な表現へともたらさねばならない》というものだった。またメルロ=ポンティは『知覚の現象学』序文に《哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である》と述べ、《現象学バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品と同じように不断の辛苦である》と結んだ。

 なにも『雲母集(きららしゆう)』にみられる、

大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも

薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも

のようないかにもそれらしく、かえってうさんくさい歌のことを指しているのではない。昭和十年から十二年の作品集『橡(つるばみ)』(昭和十八年、死後出版)にある、

  黄の蕊(しべ)を花心に醸(かも)す春うつつ牡丹揺れ合へり百重(ももへ)花瓣(はなびら)

プルースト的多重感覚から死の際までつづく歌群を思ってである。

 鷲田清一は『メルロ=ポンティ 可逆性』で次のように解説している。《伝統的な認識論や真理論において、《視覚》は対象から距離をおいた感覚であり、それゆえに対象の様態や知覚状況から影響を受けることが相対的にすくないという理由で、諸感覚資料のなかでももっとも信頼を得てきたこと、その意味で、多くの場合、認識が《視覚》のモデルで語られ、真理が《光》のメタファーで語られてきたことは、あらためて指摘するまでもないだろう。》 共感覚(シネステジー)の人、若き白秋が「おかる勘平」における触感の忌避の身代わりとして、その高級感ゆえ歌に選びとった感覚こそがまさに「光」だった。

 晩年、メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』にこう残している。《見えるものはすべて触れられうる物のなかから切り取られるのだし、触覚的存在はすべてなんらかの仕方で可視性へと約束されており、そして触れられうるものと触れるものとのあいだにだけでなく、触れられうるものとそれに象嵌(ぞうがん)された見えるものとのあいだにも蚕食と跨(また)ぎ越しがある。……触れられるものと見えるものとのあいだには、たがいに二重の交叉した帰属の関係がある。》

 もはや白秋は見るだけの人ではない。薄明の果てで歌の封印切りがなされ、「見る――見られる」と「触れる――触れられる」の詩歌の言葉が絡みあう人となった。メルロ=ポンティの《身体は世界の前にまっすぐに立っており、世界はわたしの身体の前にまっすぐに立っていて、両者のあいだにあるのは、抱擁の関係である。そして、これら垂直な二つの存在のあいだにあるのは境界ではなく、接触面なのである》とは、『黒檜』の藤浪の歌に、誰にも問題にならなかった歌が一つあります、という『新秋歌話』(昭和十五年)自作解説に重なる。

  触りよき空にしだるる藤浪の下重りつつとどめたる房

《ピタッと止めてゐる。一番尖端の重みを歌つたのであります。その重みを藤だと思つてはいけません。その千鈞の重さが、何が故にその藤浪の尖端に集つてゐるかといふと、これはその藤の木を通し、土を通し、その下の鉢を通し、鉢に接触してゐる畳を通し、床を通し、それが宇宙のみちみちしたものに繋がつてゐるのでありますから、そこを我々は感得しなければならない。これは写生であるけれども、単なる写生とは思つてをりませぬ。その重みは本当に手で触れなければ分らない。手で触れるといふことは、感覚の移動があつて、自分の目が見えなくなると、指先がものを見るやうになる。決して指が触つて見ただけではない。既にその感覚が目から指の先に移つて行く。》

 晩年のそれらが、ついに世界と絆を結びあった白秋の、現実(リアリティ)から存在(リアリティ)を探りだす不断の辛苦の作品でなくて何であろう。

                                    (了)

    ***本文記載以外の主な引用または参考***

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

メルロ=ポンティ『知覚の現象学竹内芳郎(同前)

メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』滝浦静雄他訳(同前)

リルケ『マルテの手記』望月市恵訳(岩波書店

文学批評 「大岡昇平『黒髪』から溢れだすもの」

  「大岡昇平『黒髪』から溢れだすもの」

 

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《久子が南禅寺裏のその家に移ったのは、終戦後二年目の秋であった。戦争中ずっと世話になっていた或る政治評論家が、追放に引っかかった。前から自分が重荷なのはわかっていたことだった。別れてあげたいと思っていたところへ、到頭それを男の方から切り出させるのに成功して間もなく、砂糖の闇などをやっている今の男と偶然知り合った。その持家の留守番がわりに、住むことになったのである。

 家は南禅寺の北門を出て半町ばかり西へ、溝に沿って行ったところにある。低い建仁寺垣に囲まれた平屋は、もと西陣の織屋の隠居の妾宅だったということである。そんな年寄りの趣味らしく、茶室めいた造りの離れの四畳半に、彼女は少しくすぐったいような気持で、男を迎えるのである。

 この辺一帯は南禅寺の東を山沿いに北行する疏水から引いた水に、縦横に貫かれている。家の前の溝にも、常に豊かな水が、急に流れている。附近に多い富裕の家では、大抵水を庭に取り入れて、泉水の趣向を凝らしている。久子が寝る四畳半は、隣のそういう屋敷の一つに接しているから、絶え間のない水の音を枕の下に聞きながら、久子は眠り落ちるのである。

 種島久子は関西では、ちょっと有名な女である。彼女の十五年の愛の手帳には、京阪神地方の名を知られた画家、文士、大学教授、新聞記者が網羅されていた。七つの時父を失った彼女が、母の再縁先の山陰の町の、陰気な乾物問屋にいたたまれず、下京で小さな旅館を経営している叔母を頼って、家出して来たのは、十八の春だった。しかし自由に気儘に暮して行きたいという、当時のいわゆる「尖端娘」の一人であった彼女にとって、京都駅から吐き出される行商人を相手にするその旅館は、気持のいい住居ではなかった。そしてその頃京都のやはり尖端的な若者達によって組織された或る新劇団に、女優を志願したのが、彼女の恋愛の放浪の始まりであった。》

 大岡昇平『黒髪』の書き出しである。この簡潔で叙事的な文体を一応頭に入れたうえで、まず大岡のスタンダール論を読んでゆきたい。

 

<『愛するものについてうまく語れない』――スタンダールと私>

 大岡の数多いスタンダール論考、エッセイの、おそらくは最後の文章に、『愛するものについてうまく語れない――スタンダールと私(1)』がある。初出は『海燕』新年特大号(一九八九年一月一日、福武書店)(大岡昇平全集20 紀行・評論VII所収)で、文末に「(隔月または二ヶ月おきに発表します。著者)」とあるものの、著者急逝(一九八八年十二月二十五日)のため、(1)だけで未完となった。

『愛するものについてうまく語れない』という題名を目にすれば、ロラン・バルトスタンダールに関する有名な文章を思い浮かべるだろうが、まさにそのとおりで、翻訳者、批評家として出発した大岡は、終生、海外の最新のスタンダール研究、文学理論(昔で言えばジャック・リヴィエールなど)、思想関係(ドゥルーズプルーストシーニュ』、ジェラール・ジュネットラカン『エクリ』、など)への渉猟を怠らなかったから、ロラン・バルトについても例外ではない。奇しくも、バルトの『人はいつも愛するものについてうまく語れない』は、大岡急逝のほぼ十年前の一九八〇年の冬、バルトが事故で急死した時に、タイプ・ライターにセットされていた文章で、三月にミラノで開催される「国際スタンダール学会」で特別講演をするための清書原稿だった。

 大岡の文章を引用しながら、論旨を追ってみる。

《バルトの主旨はスタンダールが愛する「イタリア」についてどうどもりながら語っているかを、美しく指摘しているのだが、いま私にとって、それは問題ではない。愛するものについてうまく語れない――これは、私にとって、スタンダールその人について実感されることである。》

 六十歳になったら、予定の主題を書きつくし、まとまった「スタンダールの生涯と作品」に取りかかろうと思っていたが、テーマが次々と割り込んで来て、八十歳になって、書きはじめることになってしまった、と嘆いたあとで、

《昭和入口の昭和二年の谷崎潤一郎の時評的雑文『饒舌録』(二月―十二月)は、当時の文学の神様、志賀直哉芥川龍之介に逆って、筋の豊富な小説が面白いといって、いわゆる大衆小説の味方をした。中里介山大菩薩峠』を持ち上げた最も早い論文であった。海外小説では『パルムの僧院』と『カストロの尼』をあげた。

「小説の技巧上、嘘のことをほんたうらしく書くには――或いはほんたうのことをほんたうらしく書くのにも、――出来るだけ簡浄((ママ))な、枯淡な筆を用ゐるに限る。此れはスタンダールから得る痛切な教訓だ」(中央公論社版全集二十巻、一九六六、八一頁)。

 谷崎はモンクリッフの英訳を読んだのであった。

「『カストロの尼』のラスト『ウゴオネは、さうして戻つて来て、彼はエレナの死んでゐるのを発見した、匕首が彼女の心臓にあつた。』と纔(わず)か一行半で結んでいるところなど、支那の古典、例へば史記の文章の感じがある」

 日本の近代文学では源氏、近松以来の情緒纏綿、紆余曲折に富んだ文章と共に、一字一義の漢文または漢文脈の趣味が、戦前まであったことに注意すべきである。森鷗外永井荷風芥川龍之介、戦争末期の中島敦に到る。》

 そうして大岡は、自身の一九三三年の『パルム』の衝撃に到るまでの文学的経歴を『パルム』に即して語ったことがないので、《この感動と愛着が、私個人の内的事情と密着したものであることはわかっている。そこで、「スタンダールと私」という図々しい題で書きだしたわけだが」と続ける。

 一九二七年(昭和二年)にフランス語をはじめた大岡は、小林秀雄中原中也を識り、つまりはボードレーヌ、ランボーの冒険を知り、アンドレ・ジッド、ジャック・リヴィエールのNRFの衒学的モダニズムの影響下にあった。ヴァレリープルーストアポリネールコクトージョイス。大岡は新しい小説を夢み、京大の卒業(一九三二年)に当って論文にはジッド『贋金つかい』を選んだ。

《ジッドは「『贋金つかい』の日記」に書いている。

スタンダールでは、一つの句(フラーズ)が次の句を呼び出すということはない。句が前の句から生れることもない。各々の句は垂直にperpendiculairement事実または観念に対している。――シュアレスは見事にスタンダールについて語っている。これ以上うまくはやれない。」

 一九一九年八月十六日、彼は目標の純粋小説を書きあぐんでいた。しかしなぜスタンダールの句の垂直性なのか。これは魅力的な文章だが、『贋金つかい』制作と何の関係があるのか。

 垂直性と言う言葉は、セザンヌのタッチで日本人に人気があった。日本画には、例えば菱田春草の「落葉」のような垂直性を感じさせる作品がある。これも日本人の趣味に合う。

 リヴィエールが「セザンヌ」の垂直性について短文を書き、「降り切ってそこに配置された」と書いた。これはverticalite でジッドほど数学的でないけれど。文章やイメージに垂直性があるとはいずれにしても比喩である。》

 大岡にとっての『パルム』の衝撃は、《それはただ感動的で面白い小説であるだけではなく、『ユリシーズ』『失われた時を求めて』の小説の解体の問題に新しい視点を提供するものと私には映った。この即興の連続形式、物語が次々と現われ、統一がないようで、いわば一種の詩とでもいうほかない統一を持っている小説、垂直な文体で綴られた詩的小説――しかも五十三日で口述されたという伝説自体、価値を形成したのであった。》

 その魅力と感動の理由は、桑原武夫が教えてくれた「ジレッチとの格闘の「簡潔」な描写」、河上徹太郎のいう「ファブリスの無垢の系列」、冒険小説と見る小論を発表したこと、戦争中の暗い時期にあっての政治的平衡感覚、「物を食わす女」という母性など、論文を読み漁って謎を解けそうになるいくつかの機会があったものの、《私は依然『パルム』の感度を自ら納得できなかったが(中略)今日まで私の動揺している『パルム』の観念について語りながら、順挙するのが適当だろう》、と連載2回目以降に意欲を見せた。

『饒舌論』について大岡は別に、『「饒舌論」とスタンダール』を『谷崎潤一郎全集 第十巻』月報10(一九八二年 中央公論社)に発表しているから、こちらからも少し補っておく。芥川が「スタンダールの諸作に漲った詩的精神」と応答したことの種本に言及したあとで、

《ところで種本主義は芥川だけではなく、谷崎にもあった。「饒舌録」のスタンダール賛の中の、

「……元来スタンダールと云ふ人はわざと乾燥な、要約的な書き方をする人で、それが(中略)却つて緊張味を帯び、異常な成功を収めてゐる」「筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層々累々と積み重なり、(中略)かう云ふ場合、余計な色彩や形容があると何だか譃らしく思へるのに、骨組みだけで記録して行くから、却つて現実味を覚える」》

 大岡の急逝によって、2回目以降は書かれず、垂直性についての詳述や他の観念にどのようなものがあったかの順挙を目にすることはかなわなくなったが、少なくとも『パルムの僧院』の文体、「垂直性」から大岡が多くを学んだことは確かである。

 対談集『水 土地 空間 大岡昇平対談集』(河出書房新社、一九七九年)で、「小説を訳して小説を勉強なすったということはないわけですね」と丸谷才一に聞かれた大岡は、思い出しつつ、こんなふうに答えている。

《大岡 いや、バルザックの『スタンダール論』はほとんど『パルムの僧院』の要約ですから、全部ではないが、スタンダールのテキストもずいぶんやった。やはり『パルムの僧院』を翻訳したんで、僕の文章は出来上がったと思っていますよ。それはよけいなことを書かないということですね。ファブリスがワーテルローの戦場に向かって夜歩いていくところで、ある書き込みに、エクタン・ラ・シランス「静寂を聴きながら」とある。それは結局採用してないんですがね。それに註をつけて、「当時はこう書かなければ読者は読んでくれなかったものだ」と書いてる。静かなら音はなにもないわけだろう。静かさを聴くことはあり得ない。僕もだいたいその心得でやってきているつもりです。(後略)僕はあんまりたとえを使わないわけです。文学の魅力の源は隠喩にある、これはプルーストの論文にあって、なるほどそうだと思っていましたがね。

丸谷 でも、大岡さんの比喩の使い方が大変立派なものであるということは、僕が『文章読本』のなかで例文を引いて……。

大岡 いや、あれは例外で、昔の象徴派的表現のつもりだったけど。隠喩じゃないんですね。必ず「ように」と言ってる、とあなたに指摘されて、感慨無量だったな。(後略)》

「あれは例外」という『野火』があるにしても、スタンダールパルムの僧院』から学んだ文体で大岡は小説を書いてきた、もちろん『黒髪』もそうだった。

 その例は、冒頭の引用文を読むだけで一目瞭然だが、一つだけあげておく。

《朝日が画室の入口にさし込む頃、画家は漸く筆をおき、部屋の隅においてあるベッドにもぐり込む習慣であるが、或る朝、久子に着物を脱いでそばへ横になれとすすめた。彼女がためらっていると、彼はその痩せた体から、よくそんな声が出ると、びっくりするような人声で「ばか」と呶鳴った。その声を聞くと、彼女は昔死んだ父親に叱られた時のように、体がすくんでしまい、彼の言葉に従った。彼が彼女に月々くれる小遣いは、当時として法外な二百円という金額であった。その朝、彼が彼女の体に行ったのは、甚だ奇怪なことであった。

 半年経った。時々画家のところへ画集などを借りに来る、京大の美学研究室の若い助手が久子に求婚した。》

『黒髪』も入った『来宮心中』(集英社文庫)の解説で、水上勉が、《まことに、男にとっては寝てみたい魅力を失わぬいい女なのである。この女の魅力のひき出し方は絶妙といっていい》として上記の文章を引用して、《そういう女である》と、わかる人はわかるだろうとばかりに示したが、ここでは「甚だ奇怪なことであった」とだけ書き、再び言及するときも、「日本画家が彼女の体に何をしたかもぶちまけた」、「画家が前に彼女の体にしたことを思い出して、彼女はぞっとした」とだけで、それがいったい何だったのか「よけいなことは書かない」を実践した。

 

近松秋江『黒髪』論考>

 昭和三十六年に『黒髪』という題名で小説を書いた大岡は、その十四年前に『近松秋江『黒髪』』という論考を書いている。論じたうえで、あえて同じ題名で小説を書いたからには、なんらかの意志、思い入れが働いている、とみるのが素直だろう。

 復員後、妻の疎開先の田舎町(明石から一つ先の大久保という小さな町)の貸本屋には、春陽堂版「明治大正文学全集」がほぼ揃っていて、《私はその貸本で初めて近松秋江の『黒髪』を読み、これが大正時代の傑作の一つであったことを了解すると共に、年少から文学に親しんで来た私が、どうして今までかかる作品を読まずにいられなかったのかといぶかった》とはじまり、創元選書版『黒髪』に寄せられた谷崎潤一郎宇野浩二の文章によって、この作品が異常な尊敬をもって遇せられていることを知り、《私も遅まきながら自分の感銘を語って見ようという気になった》、《『黒髪』は作品自体十分批評に堪える完璧さを具えているのである》と前置きがあってから論考に入るのだが、「自分の感銘」とはいっても称賛しているわけではなく、秋江文学の本質、小説『黒髪』の本質が、犀利に批評されている。

《いかにもここには普通人がいうを恥とする女への執着が臆面もなく語られてはいるが、一方作者は絶えず自己の痴愚を正当化しようとして事実を強いているばかりか、その痴愚の一点を除いては、自分をよくもののわかった非の打ちどころのない人物と見せたがっているのである。彼の告白が屢ゝ人に嗤われるのは、そこに描かれた痴愚が滑稽なためではなく、こういう作者の自己弁解がおかしいからである。》

《『黒髪』は「私」という近松秋江その人にほかならぬ主人公が、四年越しに惚れている女に京都へ来たところから始まっている》と、ひととおり『黒髪』の筋を追いつつ、批評は続く。

《しかし秋江の痴愚は決して「自然的に発生」したものではなく、彼が意志して求めたものである。惚れた女を思い切れないで愚行を演じる男の痴情は、一般に感情の「強さ」に起因すると解され勝ちであるが、実は感情にはこうした永続する人間の行為を支える力はないものである。少くとも意志が加わって、人間にその感情を保持することを命じ、絶えずそれを更新しない限りは。(中略)恋愛におけるこうした頭脳の干渉が見掛け以上に強いものであることは、あらゆる大恋愛の経験者が知っている。》

大岡は小説的魅力がどこにあるのか、京女の心の奥底もまた焙りだしてみせた。

《しかしこういう割り切れない主人公の態度にも拘らず、『黒髪』冒頭の情緒纏綿たる描写は惻々として人に迫る現実性を持っていて、この四十を過ぎた恋男が、細々した気苦労を荷ったあまり強壮ではない体軀を曳いて、うら悲しい京都の町を蹌踉と行く様が眼に浮かぶ様である。女の冷い態度もよく描けていて、彼が薦める食物を食べなかったり、執拗に同じ返事を繰返したり、また打って変って笑って彼を迎えたりする、相手をなめ切った女の態度が、何の説明もなく描き流されながら、その底にある娼婦の冷たさが自然に読者の胸に伝わって来る。》

「物静かな娼婦」と、封建的日本の最も平凡な理想型である「物静かな女」は、わが花柳界の兎角混同するところであり、それが一般的な共感を呼ぶのは普遍的な型に対する憧憬が現われているからであるとか、「愚人の煩悩」を描くと自称する秋江が、あまり自分を愚かとは思っていないのは確かである、などと、スタンダリアンとしての「ロマンチック・レアリスト」は、当然文明批評家でもあり、死を覚悟したフィリピンから復員した社会批評家でもあり、犀利なモラリストでもあるから、手厳しい。

 やがて破局が来て、田舎に女を追って行くという秋江のお家芸の一つがあって、一種叙事詩的なテンポがあり、男らしい簡潔な単純さに達して、何の変哲もない山の中の冬景色と、懊悩を下げてその中を行く「私」の姿が生々と描き出され、錯乱を錯乱として表すための立派な意識的な技巧が『黒髪』の基調をなしていて、むしろ「私」以外の人物はすべて、幻想的に取扱われているといってもいい位なのである、とはさすがの慧眼であるが、大岡こそ意識的な技巧をもって十四年後の自作『黒髪』に生かしたのに違いない。

 ところで、辻原登が批評的エッセイ『私の『黒髪』遍歴』、『大岡昇平の涙の水源』、およびそれらを小説仕立てにした『黒髪』で、大岡の『黒髪』と『近松秋江『黒髪』』を題材としている。

 大岡の論考の、《例えばこの場合秋江が女に惚れているのは疑いないが、彼は女の気持について全然思いやりがない。自分の容貌、才智、身分、金等、要するに娼婦にとって(或いは恋愛一般にあっても)男性の魅力をなす全体について少しも反省していない。一途に自分が真心こめて惚れているから、女も自分に惚れずにはいられない筈だと考えたがるのであるが、これほど自分勝手な、不自然な考えはないのである。そして彼がこうして平気で自分の一方的な感情を主張できるのも、要するに心の底では相手を色を稼業とする女と馬鹿にしているからである以上、相手が彼を数ある金蔓の一つとして扱っても、別に不服をいう筋はないはずである。(中略)しかもなお彼がここでひたすら自己の真心に訴え、女の不実を怨むをのみこととしているとすれば、それは明らかに自己の下心と、身の到らないところを知っている「自己」を欺いていることになる》から、辻原は大岡の理智的な決意を推定する。

《ここに僕は昇平のふたつの決意を読みとる。一、色を稼業とする女を馬鹿にしない視点から、いつか小説を書く。二、秋江に限らず「私小説」における「自己を欺く」一人称の「私」との戦い。

 この論考(昭和二十二年十一月)からちょうど十四年後の昭和三十六年十月、昇平は「黒髪」を発表する。小説の場合は秋江と同じ京都。秋江の「黒髪」で「私」が追いかける女は祇園の芸妓だった。昇平の「黒髪」のヒロインももちろん身を売る女。しかし、昇平はここで先に挙げたひそかな二つの決意を実行する。色を売る女を馬鹿にしない視点からヒロイン久子を描くこと。自己を欺く一人称「私」でなく、つまり、読者に対して隠したいところは語り手・書き手たる「私」の背中で隠すやり方、秋江の欺瞞の方法でなく、「私」の霧を払って、三人称で、ヒロインの身に寄り添いつつ、広い眺望の中にヒロインを生々と開示する方法を採用すること。》

 辻原の言うとおりで、大岡は『黒髪』の久子を、色を稼業とする女を馬鹿にしない視点から書き、自己を欺く一人称「私」でなく三人称で、ヒロインを生々と開示する方法を採用した。

 愛らしい久子の矜持を示すのと対照的に、まるで秋江の「私」を纏ったような男たちが醜態を露わにする情景が、谷崎のいう「筋も随分有り得べからざるやうな偶然事が、層々累々と積み重なり」ながら交錯する。

《下京の叔母の家へ帰ると、母と叔母は無論たいして金のない政治評論家より、插絵画家が好きで、柏木と別れろと言った。そこに甲子園のダンス教師が、約束を破って下京の家へ押しかけて来る。日本画家も来る。柏木の友人の歴史学者も来て、「きみみたいなひどい女はない。柏木の将来のためを思って、身を引いてくれ」などと言う。久子が不意に死んでしまおう、と思ったのはその時である。

 彼女がそう思ったのは、結局二人の五十すぎた女を背負い込まされる将来が面倒になったからだが、少し柏木が気の毒になったからでもある。彼を愛しているかどうか、白分にも分らなかったが、とにかく彼女が気の毒だと思った男は、柏木がはじめてだった。その後終戦まで、彼を離れないだけの理由はあったのである。

 死んでしまおうと思ったのは、ずっと前、母親に叱られて、山陰の町の白い河原を歩き廻って以来、この時がはじめてだったが、ダンスホールにいる間に、客の医学生から、或る種の毒薬を手に入れていたのは、ただの好奇心からだけではなかったかも知れない。自分を汚すよろこび、自分をこわすよろこびは、家出した時から、ずっと続いていたとも言える。

 或る秋の夜更け、彼女の持っている中で、一番いいスーツを着て、奥の蒲団部屋で、それを嚥んだ。三時間後、便所に起きた母親が呻き声を聞きつけた。体をやぶかれるような苦しみに堪えながら、彼女は母が胸にのしかかって、「あて残して、ひとり先行って、どないするつもりぞい」と言うのを聞き、どうしても死んでしまいたい、決して生き返りたくない、と思った。そんな言葉を聞きながら、死んで行かねばならぬ自分を哀れんだが、急の知らせを受けた柏木の世話で駆けつけた医者は、不幸にして名医であった。彼は彼女の腎臓に傷をつけ、そこに集っていた毒を抽出するという面倒な手術を手際よくやってのけた.あとで、この医者も彼女の愛の名簿に載る光栄に浴したが、彼がある晩彼女の腰の二つの傷痕を撫ぜながら、「この傷のお蔭で、僕は博士になり、いま世に又とない宝を手に入れることが出来たんや」と言ったので、そのまま部屋から追い出してしまった。》

 あるいは、後に大岡が自伝的小説『少年』で、母が芸妓上りと知って書いた、《私の小説に出て来る女性は、必ず複数の男と性的交渉を持たねばならず、しかも決して男を愛してはならない。性的経験から無疵で出て来なければならないのである》がエコーのように木霊しつつ、

《久子を知るまでは、謹直な学者肌の人間だったから、一度溺れ出すときりがないのだという人もあった。感情の傾斜に脆いのだとも言われたが、久子の知ってるところでは、彼は決してわれを忘れる人ではなかった。結局彼女を愛しているというよりは、彼女を得るため越えなければならなかった障害、そういう状況から来る感情の昂りから自ら困難を求めたと思える節がある。「あんたはあたし自身より、むつかしさの方が好きなんやわ 」と或る日彼女は言った。柏木は少しいやな顔をして、返事をしなかったが、彼の愛撫に自己陶酔めいたところがあるのを彼女は知っていた。しかしそれだから彼が彼女に溺れていないということはやはり言えない。

 彼は自分が痴情のとりこになっていることを知っていたが、それを表に出さなかったにすぎない。彼女がそれほど自分を愛していないのは知っていたが、同時に彼女が誰にも本気で惚れるたちの女でないことも知っていたから、嫉妬しなかった。彼は最初彼女を弄んだ日本画家のために、普通男の胸で女の感じる快楽を感じなくなったのだ、と思っていた。従って男の幸福を自分の幸福とすること、いわゆる情が移るということが、彼女にはないのだと思っていた。

 彼女の抱擁のとめどのなさは、そこにさして快楽を感じないからであった。彼女は恋の囁きでも声を変えなかった。それは彼女が自分に忠実で、男を欺す気はないからだ、とあくまで彼女に溺れていた柏木は考えた。》

 あるいは、女の心の綾、凄まじさをみせる女でもある。

《朝、木戸に紙片が插んであるので、読んでみると学生の筆で、すまない、責任を取る。あなたを愛している、駆落してくれと書いてあった。その日の午後、村井が来て、学生は彼の河原町の出張所に来て、彼女を譲ってくれ、承知しなければ、彼の違法行為を警察に知らせると言ったという。彼は警察にはとっくに渡りをつけてある、笑わせるなと言って、用心棒に突き出させてしまったが、こう不始末が重なっては、いっしょにいるわけには行かない。二、三日中にアパートの部屋を世話するから、ここを出て行って貰いたいと言い、札束をおいて帰って行った。

久子は最初から村井とはこんな別れ方をするような気がしていたが、それがあんまり早く実現してしまったのがおかしかった。ぼんやりしていると、学生が泣きじゃくりながら飛び込んで来たので、彼女は大声で隣の奥さんを呼んだ。そして奥さんが開けた木戸からなお泣き続ける学生を送り出し、二、三日中に引越すから御安心下さい、と言った。》

 

<ロマネスク>

「二、三日中に引越すから御安心下さい、と言った」久子は外へ出て、疏水に沿って歩きだす。

大岡昇平集5』(岩波書店、一九八二年)には、『黒髪』の他に、『花影』、『来宮心中』、『逆杉』、『沼津』などが収められ、「作者の言葉」もある。

《私の主な仕事は戦争にありますが、一方に『武蔵野夫人』から始まる男女関係を扱った系列があります。それらは中編『花影』を中心とする諸作品、また説話の書き直し、推理小説などを含む、ロマネスクの世界であり、それは戦争もの間にまじって交替の形で書かれて来ました。一巻に集めてみると、女部屋の匂いのようなものを感じます。しかし私にはこういうものを書きたいという衝動は、常にありました。その理由を知るためには分析をしてみる必要があるらしいので、そんな作業を評論の方でしたことがあります。しかし真の理由はいわゆる自伝、意図、「あとがき」など部分ではなく、これらの作品のテクストのそのものの中にあるかもしれないとも思います。》

 ここで、丸谷才一が『水のある風景 大岡昇平』で批評したバシュラールを参考にしての、「水のイメージ」、「母」、「オフィーリア」、「うつろいやすさ」、「水源を求める恋人たち」、「髪」をテーマに『黒髪』をテクスト読解しても特につけ加えることはない(ちなみに、大岡自身も『小説家 夏目漱石』の『水・椿・オフィーリア』や『明暗』に関する批評で丸谷と同じテーマをもって漱石を論じている)。

 それよりも、たしかに大岡は『黒髪』を、スタンダールパルムの僧院』から学んだ叙事的で簡潔な垂直性の文体で書き進めてきたが、最後の場面でテクストから溢れだしてしまっている。また、大岡は『黒髪』の久子に、自己を欺く一人称「私」でなく三人称で、ヒロインを生々と開示する方法を採用したが、これも最後に溢れだしている。

 ここまで引用してきた垂直な文体で綴られた詩的小説が、最後の場面で水平に変化する、あたかも《隧道から出た水が、扇を拡げたように拡がって、渦巻いている。開放された水は一斉に速度をゆるめ、渦巻きつつ、立ち直って、ゆるやかに下の方の出口に収斂されて行く》かのように。

 また、三人称が、一人称の「私」とまではいかなくとも、久子の心理が、心理小説的に探究されすぎることなく、あわあわと織りまぜられて、すべてが幻想のように読者とともに歩む。

 もともと大岡文学には常に、何人かの批評家によって語られてきたように、「女人救済」、「女人往生」、「鎮魂」、「無垢」への希求があった。『少年』の時期から聖書を読んだことの他には本人の口からほとんど語られなかったが、宗教的なもの、聖母マリアおよびマグダラのマリアへの密かな思慕があったに違いない。それら、スタンダールの「ロマンチック・レアリスム」の浄瑠璃版ともいうべきロマネスクが、「こういうものを書きたいという衝動」で愛すべき久子にのり移る。しかも、明晰な意識のもとで。

『黒髪』の小説の時間は、プルーストのそれのように円環構造となって、冒頭の時間に戻った。少し長くなるが、力強い最後まで引用する。

《あたりが静かになった。それではもうこの床下に水の流れる家ともお別れかと思うと、急にこの家がいとおしくなった。片づけものを始めようと思ったが、なんとなく億劫である。お茶を入れ直して、奥の四畳半に坐っていると、秋だというのに、水音はなおも高まる気配である。彼女はせき立てられるように、立ち上った。鏡の前で軽く顔を直し、普段着のまま外へ出た。

 家の前の溝にも、今日は水嵩が増していた。上の疏水の放水の都合らしく、澄んだ水が溝のふちに溢れるばかりいっぱいになって、音を立てて走り去る。彼女は引越してから、まだ行ったことのない、疏水に沿う道まで上ってみようと思った。

 道は南禅寺の塀に沿った道と交り、それを越してから、急に狭い坂道となる。溝の水音が一際高くやかましく耳について来る。片側は近所の寺の経営する新制高校で、放課後の校庭に十七、八の生徒が、バレーボールをしていた。

 それは彼女が山陰の町の母の家を出て来た年頃だった。そのころ彼女は養父の冷たい目と母のエゴイズムに反抗するのに精一杯だった。自分の過去にこんな呑気な時がなかったのを、いまさらのように思い出した。

 十月の終りで校庭を取り巻く木々は、すべて紅葉していた。上るにつれて、傾いた秋の陽に的礫(てきれき)と光る京都の屋根の眺めが拡がって来る。遠く西山が陰になって、青く霞んだ輪郭を連ねている。

 坂を上り切ったところは、南禅寺の裏山を隧道で貫いて来た水が、一間ほどの水路にひしめき合い、ゆるやかにカーヴして流れて行く。その水の早い動きを見ていると、久子はいつの間にか自分が興奮しているのに気がついた。村井と別れたってこわいことがあるもんか、と改めて力んだ気持になった。

 小さい時、死のうと思って山陰の町の河原を一人でうろついた時も、こんな気がした。丸い玉のようなものが、胸元からこみ上げて来るような気がする。いつか柏木に書いてやったように、鏡の前に坐って、髪をすいている時も、そんな気がした。伸ばした黒髪はそれから切っていない。彼女はそれを無造作に引っつめて、うしろに束ねてある。

 彼女はふとこの水に随いて行ってみようと思った。この疏水が、京都盆地の水流の方向と逆に山際に沿って銀閣寺まで北流し、迂回して北白川から上賀茂一帯の田畠をうるおしているのを知っていた。

 水に沿った道を、水の流れに送られるように歩いて行く。水はどんどん彼女を追い越して行くので、前に歩きながら、後ずさりしているような錯覚に囚われる。》

 水上勉は「声をあげて読んでみたいような、風景と心理のからまった音楽である」と解説したが、黙って首肯くことのほかに何ができよう。

 《その水が渦まいて、再び隧道に落ち込む上は若王寺の墓地である。小径を登って、段々になった墓の間を抜けながら、彼女はあれから母や叔母の墓に参ったことがなかったのを思い出した。すまないと思うよりは、自分がそのうちこんな石の下に入ってしまっても、だれにも来てほしくないという考えが先に来た。骨を四国の父方の寺に入れて貫えるかどうかさえたしかではない。県庁の役人をしている伯父とはずっと音信不通になっている。自分の死を知らせてやる者は誰もいない。しかしこうして天地の間にぶら下ったような気持で、生きて行く自分にはそれで沢山だ。いつでも自殺してみせると、彼女は三十二になっても、十歳の時の山陰の小さな町の古い家の押入に隠れ、泣きじゃくった時の気持を持ち続けているのである。

 墓地を越えて、再び疏水の面に降りると、そこは隧道から出た水が、扇を拡げたように拡がって、渦巻いている。開放された水は一斉に速度をゆるめ、渦巻きつつ、立ち直って、ゆるやかに下の方の出口に収斂されて行く。

 岸の崖の雑木が、あたりが明るくなるほど紅葉して、水面に影を映している。落葉がまばらに水面に浮かび、動く水の速度を示して、艦隊のように移って行く。オナガのような長い尾をつけた鳥が一羽降りて、尾を水につけ、飛び去った。

 久子は大きく吐息をした。静かに涙が溢れて来た。なんのための涙か、わからなかった。不意に豊かな髪が解けて、肩にかかった。彼女は髪も涙もほどけるに任せて、歩き続けた。

 閘門を出ると水路はずっと広くなる。水の流れはゆるくなる。下から斜に上って来た広い道が、流れに沿い出す。

 対岸が崖になって迫り、形のいい岩が露出して、造園されたような整然たる風景を形づくったところがある。流れに小橋を渡して、真竹の中にちんまりした屋根門がのぞいている家がある。左の方には、低い吉田山が迫り、真如堂の塔が、針のように、森から突き出している。》

 地誌的な風景描写は大岡の得意とするところで、これも『パルムの僧院』のコモ湖をめぐる魅惑的な自然描写から学んだことだ。

《彼女は歩き続ける。一人の小柄な僧形の人が、彼女がその道で会ったはじめての人間であった。眼を伏せたまますれ違って行ったその人が、彼女と同じ性であることに、彼女は気が付いた。

 疏水を渡すやや広い橋があり、粗末な山門があった。尼僧はそこから出て来たものらしかった。

 静かな境内に久子は足速に入って行った。本堂の右手の庫裡の玄関にかかると、そこにも僧形の人がいた。彼女は式台に膝をつき、黒髪を床板に垂らして、おじぎをしながら、

「尼さんになるのは、どうしたらいいんでしょうか」と訊いた。》

 

 夢みるような風景と心理描写の美しさは、同じ時期に書かれた『花影』の次の名文と、やはり愛すべきヒロインで最後に自死してしまう銀座の女葉子とに、せつなく響きあっている。

《目前の風景とはなんの関係のない、吉野の桜の映像が不意に浮んだのは、なぜだったろうか。三年前の春、京都大阪へ講演旅行をした帰りに、奈良で待ち合せて、寺を見て廻り、翌日吉野まで足を延した。

 それが葉子のいっしょの、たった一度の旅行らしい旅行だった。中の千本が満開な頃で、大勢の酔客も気にならぬくらい美しかった。奥の西行庵まで行って、降りて来た時は、風が落ち、夕闇が迫っていた。花見客の散った後の閑散な山上の道は、花の匂いでむせるようだった。

「吉野へ行ったってことは、行かなかったよりいヽわ」

と、葉子はいったことがある。自分を忘れることはあっても、吉野は忘れないであろう。

 二人で吉野に籠ることは出来なかったし、桜の下で死ぬ風流を、持ち合せていなかった。花の下に立って見上げると、空の青が透いて見えるような薄い脆い花弁である。

 日は高く、風は曖かく、地上に花の影が重って、揺れていた。

 もし葉子が徒花なら、花そのものでないまでも、花影(かえい)を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。》

『黒髪』から溢れだすもの、それは大岡のロマネスクだった。

                                    (了)

文学批評 「三島由紀夫『暁の寺』論(試論) ―― 覚めつ夢みつ」

  「三島由紀夫暁の寺』論(試論) ―― 覚めつ夢みつ」

  

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 三島由紀夫豊饒の海』、その第三巻『暁の寺』は二部構成形式がとられている。全四巻のうち、第三巻だけがそのような形式であり、第二巻と第三巻のあいだで物語を転ずればよさそうなものを、あえてこの第三巻のほぼなかば、戦前・戦後、空白の7年間をはさみ、一双の屏風のように折り畳まれている。

 他の三島作品でも、このような二部構成はまずみかけない。戯曲、歌舞伎に三幕物などの多幕物があったにせよ、それは因果を積み重ねてゆくためであって、『暁の寺』のような、あきらかな切断とは違っている。

 しかし、二部にわかれた『暁の寺』ではあるが、はじめから終わりまで、いくつかのライト・モティーフが三島得意の二項対立的に、そしてそれらがある種の逆説として、蝮のように絡みあっている。

 たとえば「水と火」、またたとえば「白と赤」、「蛇と孔雀」、「黒い仔山羊と白い聖牛」、「暁と夕暮」、「神聖と汚穢」、「見るものと見られるもの」、「時間と空間」、「アポロンディオニュソス」、「聡子と慶子」、「月と太陽」、「肉体と認識」、「認識と不可能性」、あるいは「「隅田川」と「松風」」、「戦前と戦後」などである。

暁の寺』へは、第一巻『春の雪』、第二巻『奔馬』から、夢日記、登場人物、転生が流れ込み、逆に最終巻『天人五衰』への流出、予兆、種蒔きがあるわけだが、なるべくは『暁の寺』のみに集中する。

 そのうえ、第十三章から十九章までの「輪廻」と「唯識論」の、多くの読者の物語への陶酔を拒む難解な論述は、ここがなくとも小説の中で本多の感官を借りて言及されているがゆえに、つまらぬ解説となって興を削がないために深入りしない。

 

 小説の書きだしは、結びとともに、三島が細心の注意を払った芸の見せどころとしたから、どの作品をとっても技芸的であることが鼻につくほどに巧みだ。『暁の寺』も例外ではなく、「だった」、「いた」、「かった」、「た」、とあえて「た」を連ね、短い文章を少しずつ長くすることで、時間と空間を超えて読者を一足飛びに南国タイの過剰な色彩とモンスーンの湿度のただなかにワープさせてしまう。

 

《バンコックは雨季だった。空気はいつも軽い雨滴を含んでいた。強い日ざしの中に、しばしば雨滴が舞っていた。しかし空のどこかには必ず青空が覗(のぞ)かれ、雲はともすると日のまわりに厚く、雲の外周の空は燦爛(さんらん)とかがやいていた。驟雨(しゅうう)の来る前の空の深い予兆にみちた灰黒色は凄(すご)かった。その暗示を孕(はら)んだ黒は、いちめんの緑のところどころに椰子(やし)の木を点綴(てんてつ)した低い町並を覆(おお)うた。》

 

<水と火>

 

『春の雪』は、松枝侯爵邸の池の周囲を松枝清顕、本多繁邦、綾倉聡子が歩む場面から物語が動きだして、滝口の黒い犬の屍、月修寺御門跡による、元暁が髑髏の中に溜った水を飲んだというお話から展開し、水の結晶の雪、鎌倉の海が書割りとなったように、『暁の寺』もまた水からはじまって、四大の一つの火といくども会話する。

 まず、「水」にちなむところからはじめる。

 冒頭の水の文章は、この小説が水の運河をニューロンのように張り巡らせていることをそれとなく教える。ゆえに水はただの水ではない。

 

《海抜二米(メートル)に満たない町の交通は、すべて運河にたよっている。運河と云(い)っても、道を築くために土盛りをすれば、掘ったところがすなわち川になる。家を建てるために土盛りをすれば池ができる。そうしてできた池はおのずから川に通じ、かくていわゆる運河は四通八達して、すべてがあの水の母、ここの人たちの肌の色と等しく茶褐色に日に照り映えるメナム河に通じていた。》

 

 昭和十六年、本多はバンコックのオリエンタル・ホテルの、メナム河(現在ではチャオプラヤー河と呼ばれる)の眺望の美しい一室を五井(いつい)物産の手配で与えられていた。

 

《朝の暑気はすでに懲(こ)りずまに部屋を犯していた。汗に濡(ぬ)れた寝床を見捨てて、水を浴びるときにはじめて感じる肌の朝(あした)は、本多にはめずらしい官能的な体験だった。一旦理智(りち)をとおすことなしには、決して外界に接しない性質(たち)の本多にとって、ここではすべてが肌をとおして感じられ、自分の肌が、熱帯植物のけばけばしい緑や、合歓(ねむ)の真紅の花や、寺を彩(いろど)る金(きん)の華飾や、突然の青い稲妻などによって、時あって染められることによって、はじめて何ものかに接するという体験ほど、めずらしいものはなかった。あたたかな驟雨(しゅうう)。ぬるい水浴。外界は色彩のゆたかな流体であり、ひねもすこの流体の風呂に浸(つか)っているようなものだ。日本にいる本多にどうしてそんなことが考えられよう。》

 

 のちに、「本多が恋をするとは、つらつらわが身をかえりみても、異例なばかりでなく、滑稽(こっけい)なことだった」と言及される「本多の恋」は、バンコックの水に触発されたからに違いない。

 このように『暁の寺』は全編、「予感」「予兆」であり、それらが「時間」のなかでいかに裏切られていったかが二部構成の要、手袋の表裏なのである。これは、『豊饒の海』全四巻全体の縮図でもある。

「こんな姫の姿をしているけれども、実は私は日本人だ」と叫んだ七歳になられたばかりの幼い月光姫(ジン・ジャン姫)に招かれて遊びに行ったバンパイン離宮は、本多にとって忘れがたい地名になった。

 舟での道中、遠景に瞳を凝らして動きもしない姫は、小さな桃色の潤んだ舌で、本多が献上した指環の真珠を一心に舐めている。

 

《水に臨む石階が、水嵩(みずかさ)の増すにつれて犯されて、その階(きざはし)の末は池の澱(よど)みの底に隠れて見えず、水中に見える段は白い大理石が水苔(みずごけ)の緑に染まり、藻(も)さえまつわって、こまかい銀の水泡(みなわ)に覆われている。そこへ月光姫は足を手をつっこみたがって、何度も女官に制せられる。言葉はわからぬが、その水泡を指環と同じ真珠だと思って、採りたくて地団駄を踏んでいるらしかった。》

 

 水泡を指輪と同じ真珠だと思って、採りたいのに採ることができない、とはこの小説を象徴してはいないか。

 暑くなった姫は、本多がどこにもいないかの如く振舞う二人の女官が掲げる美しい更紗(さらさ)の布を対岸の人目を隠す帳(とばり)にして、裸になって水に入った。

 

《姫はなかなか静かではなかった。更紗を透かす日光の縞斑(しまふ)のなかで、たえず本多のほうへ笑いかけながら、そのやや大きすぎる子供らしいお腹(なか)を庇(かば)いもせず、女官に水をかけて叱(しか)られては、水をはね返して逃げた。水は決して清冽(せいれつ)ではなく、姫の肌の色と同じ黄ばんで褐色をしていたが、その澱(よど)んで重く見える川水も、飛沫(ひまつ)になって更紗を透かす光点を浴びるときは、澄み切った滴(しずく)を散らした。》

 

 この水浴の場面は、第二部で本多の別荘のプールの場面と合わせ鏡をなす。

 本多は海路で、年に一度のドュルガの祭礼で賑わうカルカッタへ入る。むしあつい雨の午後、カリガート寺院で、聖水を注がれた黒い子山羊の首に半月刀が振り下ろされるさまを見とどける。

 ついでカルカッタから丸一日かけて汽車でベナレスへ向かう。

 ベナレスこそが水の聖地なのだ。祈りを以て心を清め、水を以て潔めるヒンズーの儀礼がそこにあった。

 

《ベナレスは、聖地のなかの聖地であり、ヒンズー教徒たちのエルサレムである。シヴァ神の御座所(おましどころ)なる雪山(せつせん)ヒマラヤの、雪解水(ゆきげみず)を享(う)けて流れるガンジスが、絶妙な三日月形をえがいて彎曲(わんきょく)するところ、その西岸に古名ヴァラナシ、すなわちベナレスの町がある。》

 

 戦時中、本多は余暇を専ら輪廻転生の研究に充てた。第十三章から十九章までが本多なりの理解の説明となるが、十七章でタイの小乗仏教に関するところで、「水」がいかに「心」と「意識」をひたひたと浸しているか、それらが「時間」の水路となっているかが、タイの風景と姫の姿を借りて述べられている。

 

《タイの幼い王女の心に何が起っていたかを考えると、それだけに本多には、よく納得が行くように思われた。

 雨季ごとにあらゆる川は氾濫(はんらん)し、道と川筋、川筋と田の境界はたちまち失(う)せ、道が川になり、川が道になるバンコック。あそこでは幼な心にも、夢の出水(でみず)が起って現(うつつ)を犯し、来世や過去世がその堤を破って、この世を水びたしにしてしまうことが、めずらしくないに相違ない。しかも氾濫に涵(ひた)された田からは稲の青々とした葉先がのぞかれ、もとの川水も田水もおなじ太陽を浴び、おなじ積乱雲を映している。

 そのように、月光姫の心には、自分も意識しない来世や過去世の出水(でみず)が起って、一望、雨後の月をあきらかに映すひろい水域に、ところどころ島のように残る現世の証跡のほうを、却(かえ)って信じがたく思わせていたのかもしれない。堤はすでに潰(つい)え、境はすでに破れた。あとは自在に過去世が語ったのである。》

 

 プルースト失われた時を求めて』で、ヴェニスが無意識的記憶と主人公の恋に重要な役割を果たしたように、「――バンコックが東洋のヴェニスと呼ばれるのは、結構も規模も比較にならぬこの二つの都市の、外見上の対比に拠(よ)ったものではあるまい。それは一つには無数の運河による水上交通と、二つにはいずれも寺院の数が多いからである。バンコックの寺の数は七百あった」という対比で、この小説が、三島にとっての『失われた時を求めて』であったことをほのめかしている。

 

 第二部となる。

 タイ訪問から十一年後の昭和二十七年春のこと。五十八歳になった本多は、御殿場二ノ岡に富士を望む別荘を持つ。なぜ本多がそれだけの財を得たかの説明は、三島が常に、近代精神をアイロニカルに裁きつつ、歴史・社会・経済小説家でもあったかを示しているけれども、そのような全体を書いた作品は不評で、三島は常々嘆いた。

 日本へ留学で来たジン・ジャンに新橋演舞場昼の部の切符を送った本多は、「加賀見山」の長局の段を一人で聴き、「堀川」がはじまる長い幕間に庭に出た。この付近の地理は三島の名作短編『橋づくし』の舞台でもあるが、今では日本橋の真上に高速道路を掛けたのと同じ発想で川は埋め立てられ、首都高速環状線と化して水はなく、川風は渡って来ない。

 

《この劇場の風情(ふぜい)は、庭が川に臨み、夏は川風に涼むことができる点にあった。川はしかし澱(よど)んで、ゆるやかに達磨(だるま)船(せん)と芥(あくた)を流した。本多は、空襲で罹災(りさい)した屍(しかばね)を数多く泛(うか)べるほどに、工場の煙は絶えて、異様に澄んでいた戦争中の東京の川と、そこに映っていた異様に青い末期(まつご)の青空とを、今もありありと思い起すことができた。それに比べればこの汚れた川面(かわづら)こそ繁栄のしるしなのであった。》

 

 出世作仮面の告白』に汚穢屋への幼い憧れを吐露し、歌舞伎に、くさやみたいな味を嗅ぎとり、戯曲『弱法師(よろぼし)』でこの世のおわりのはずだった戦争の阿鼻叫喚、焼けて川にぎっしり浮く人間を俊徳に語らせた三島は、汚穢(アブジェクシオン)の美に生来ひきつけられていたけれど、それは悲劇ゆえの魅力であり、ベナレスで見た活気は、ギリシア好きな三島、自邸にキッチュなまでのアポロン像を作った三島の、明晰なアポロン的解釈を拒むもの、ディオニュソスの蠱惑だったろう。

 第一部と二部のあいだのすっぽり抜け落ちた時間(昭和二十年五月の山の手空襲の一週間後の、渋谷の高台の旧松枝邸への訪問を別として)の記憶は、富士の裾野に作らせている本多の別荘のプールにも映る。

 

《未完成のプールは、どんなに夥(おびただ)しい人骨を投げ入れてもなお余りそうな巨大な墓穴に見えてきた。見えてきたのではなくて、はじめからそうとしか見えようがなかった。この底へ次々と投げ落せば、骨(こつ)は水を跳ねちらかして、静まって、それまで火に乾き切っていたのが、みるみる水を含んで、艶(つや)やかにふくらみそうな感じがする。昔なら寿蔵(じゅぞう)を立ててもおかしくない年齢の本多が、事もあろうに、プールを作りかけているのだ。青い水の充溢(じゅういつ)の中で、衰えてたるんだ肉を泛(うか)ばせようという残酷な試み。》

 

 別荘からジン・ジャンが失踪した朝、本多は前夜、ジン・ジャンの処女を奪おうとして失敗した克己と二人で手分けして探すことになった。

 

《まずテラスへ出て、雨のたまったプールのなかを覗(のぞ)いた。青空を映すプールに、もしやジン・ジャンの体が横たわっていはせぬかと本多は戦慄(せんりつ)を以(もつ)て考え、この現実の世界から非現実の世界へやすやすと踏み込めるほど、今、境のガラスが粉々に砕けたという感じを持った。この朝、この世には何でもありえた、死も殺人も自殺も世界の破滅ですら。見渡すかぎり明るいみずみずしい風光の裡に。》

 

 四大のもう一つの火は、ベナレスの水を抜きには語れない。誕生にすでに寄り添う死、死はまた生へと回帰する。舟はすでにダサシュワメド・ガートを過ぎ、「寡婦の家」の下を通った。焼場のガートはすぐ北に。千の交接体位をあがめる愛染(あいぜん)の寺の黄金の尖塔は焼場のすぐ上に。舟のかたわらに浮いつ沈みつして、流れてゆく布包みが、正に幼児の屍(しかばね)に他ならぬことを知った。「何とはなしに腕時計を見た。五時四十分である。」 本多はゆくてにマニカルニカ・ガートの葬いの火を見た。

 

《しかしまだ舟とガートのあいだには、満々たる土色の水があった。暮れかかる水面には、夥(おびただ)しい献花、(カルカッタで見た朱(あか)いジャワの花もあった)、香料などが芥(あくた)になって漂い流れ、葬りの火の高い焔(ほのお)は逆しまに歴々と映っていた。》

 

 水に濡れた鏡という表層に映るものが、もし灯りであるならば、それこそは宇宙と生の秘密であると、三島はおのれの誕生の瞬間から知っていて、『仮面の告白』で自慢したのではないか。

 

《子らのあとを痩せた犬が追い、又、火に遠い片隅の階段が暗く没した水の中からは、突然、牛追いのけたたましい叫びに追い上げられて、沐浴の水牛どものつややかな逞しい黒い背が、次々と躍り上がって来たりした。階段をよろめき昇るに従って、それらの水牛の黒く濡れた肌には、葬りの火が鏡面のように映った。》

 

 火は生きものであり、浄と忌の果である。

 

《焔は時には概(おおむ)ね白煙に包まれ、煙のあいだから火の舌をひらめかせた。寺の露台へ吹きあげられる白煙が、暗い堂内に生物(いきもの)のように逆巻いていた。(略)

 六時だった。いつのまにか、焔は四、五ヶ所から上っていた。煙は悉く寺院のほうへ吹き寄せられるので、舟の本多の鼻には異臭は届かなかった。ただすべてが見えていた。》

 

「ただすべてが見えていた。」 見る人、本多。第三巻でついに主人公となった(三島が主人公としてしまった)本多は、見る人、三島の分身なのか。

 ここにおいてもまだ、理智の人、本多は「時間」から自由になることができない。というよりも、数えられる「時間」、むしろ「時刻」と言うべきか、がないと不安なのだ、ということを作者は暗に示そうとしたのか。

 火は残余を水に、土に戻す。そのとき、輪廻転生における「時間」はどういう意味をもつのか。

 

《ずっと右方に、焼かれた灰を蒐(あつ)めて、川水の浸すに委(まか)せている場所があった。肉体が頑(かたく)なに守っていた個性は消え、人みなの灰はまぜ合わされ、聖なるガンジスの水に融けて、四大(しだい)と灝気(こうき)へと環(かえ)るのであった。積まれた灰の下部は水に浸されるより先に、すでにあたりの湿った土と見分けがたくなっているにちがいない。ヒンズー教徒は墓を造らない。本多はゆくりなくも青山墓地へ清顕の墓参に行ったとき、この墓石の下には確実に清顕がいないと感じたときの、あの戦慄(せんりつ)を思い起した。》

 

 昭和二十年五月の、B29による山の手空襲の一週間後のこと、本多は訴訟依頼人の渋谷松濤の邸まで来た。その高台の裾から駅までの間は、ところどころに焼ビルを残した焼趾だった。インドで見たもの、経験したものは本多にずっとつきまとう。

 

《火葬場の匂いに近く、しかももっと日常的な、たとえば厨房(ちゅうぼう)や焚火(たきび)の匂いもまじり、又、ひどく機械的化学的な、薬品工場の匂いを加味したような、この焼趾の匂いに本多ははや馴(な)れている。幸い本郷の本多の家はまだ罹災(りさい)せずにいたのだけれども。

 頭上の夜空を錐(きり)で揉(も)むような爆弾の落下してくる金属音に引きつづき、爆発音があたりをとよもし、焼夷弾(しょういだん)が火を放つと、夜は必ず、人声とも思えぬ、一せいに囃(はや)し立てる嬌声(きょうせい)のようなものが空の一角にきこえた。それが阿鼻叫喚というものだと、本多はあとから心づいた。》

 

 やはり火は地獄の門である。プルースト失われた時を求めて』の、第一次世界大戦の爆撃下のパリの町をさまよい歩くシャルリュス男爵のようなソドムの欲望の姿はここにないが、しかしのちに、外苑の森の覗き行為というより隠微な行動と重なりあう。

「火事よ! 火事」と叫んでいるのは女の声で、本多と妻梨枝が手を携えてドアの外へ出、階段を噎せながら駈け下りてテラスへ出てプールを見ると、向う側から慶子がジン・ジャンを擁して叫んでいる。火は今西と椿原夫人の部屋からだった。火事は刻々に変容していた。火の煩瑣な装飾が、一瞬バンコックの大理石寺院の幻を与えた。

 

《外(そと)へあらわれた火が、蛇のようにすばやく馳(は)せのぼって煙の中へ身を隠すさま、黒い密集した煙から、突然、糜爛(びらん)した焔の顔があらわれるさま、……すべては迅速無類の働らきによって、火が火と手を携え、煙が煙と結んで、一つの頂点へのぼりつめようとしていた。》

 

 さっきから、この情景をどこかで見たことがあるという考えにとらわれていた。それこそはベナレスだった。

 

《本多は肩や袖にふりかかる火の粉を払い、プールの水面は燃え尽きた木片や、藻(も)のように蝟集(いしゅう)した灰におおわれていた。しかし火の輝やきは、すべてを射貫いて、マニカルニカ・ガートの焔の浄化は、この小さな限られた水域、ジン・ジャンが水を浴びるために造られた神聖なプールに逆しまに映っていた。ガンジスに映っていたあの葬(ほうむ)りの火とどこが違ったろう。ここでも亦(また)、火は薪と、それから焼くのに難儀な、おそらく火中に何度か身を反らし、腕をもたげたりした、もはや苦痛はないのに肉がただ苦しみの形をなぞり反復して滅びに抗(はむか)う、二つの屍(しかばね)から作られたのである。それは夕闇(ゆうやみ)に浮んだガートのあの鮮明な火と、正確に同質の火であった。すべては迅速に四大(しだい)へ還(かえ)りつつあった。煙は高く天空を充(み)たしていた。》

 

 三島が『金閣寺』を書いたのは昭和31年、インド政府の招待を受けてのインド取材旅行は昭和42年のことだから、金閣寺を燃やす禅僧に「生きようと私は思った」とさせる火はベナレス体験とは異質の火だったが、昭和43年作『暁の寺』の富士の裾野の火にはベナレスの火のなまなましい感覚が反映している。

 

<白と赤>

 

「たおやめぶり」の『春の雪』は藤色、「ますらをぶり」の『奔馬』は黒、『暁の寺』は赤、『天人五衰』は群青。単行本の装丁の色である。『春の雪』は白も似つかわしいが、高貴な藤色を選んだのだろう。『暁の寺』の赤もふくめて、的確な選択だった。

暁の寺』は、とりわけ第一部の南国描写において、さながら色彩の乱舞だが、全体を通せば白から赤への移行といえる。もともと三島は白の高貴さ、澄明な美が好きなのは『春の雪』を読めば、たとえば女の襟足の描写ひとつとってもすぐにわかる。

暁の寺』も、まずは白の高貴さ、冷厳さからはじまり、虹色、薔薇色、孔雀色といった色彩の氾濫のうちに、鮮やかな赤が点される。

 当今のラーマ八世の第一摂生アチット・アパート殿下がバンコックの大理石寺院へ参詣する場面から物語ははじまる。あたかも歌舞伎丸本物の舞台、『義経千本桜』、『摂州合邦辻』、『仮名手本忠臣蔵』、『菅原伝授手習鑑』を、にぎにぎしく寺社の門前からはじめる演出のように。

 

《本堂前面の印度大理石の白い円柱と、これを護る一対の大理石の獅子と、ヨーロッパ風の低い石欄とは、同じ大理石の壁面と共に、西日をまばゆく反射していた。しかし、それはただおびただしい金と朱の華文を引立たせるための、純白の画布にすぎなかった。》

 

「たとえば、ワット・ポー。」で、きらびやかな色彩の饒舌が三島の美文をもってはじまる。

 

《その烈日、その空の青。しかし本堂の廻廊の巨大な白い円柱は、白象の肢(あし)のように汚れている。

 塔はこまかい陶片を以(もっ)て飾られ、その釉(うわぐすり)は日をなめらかに反射する。紫の大塔は、瑠璃(るり)いろのモザイクの階を刻み、夥(おびただ)しい花々を描いた数しれぬ陶片が、紫紺地に黄、朱、白の花弁を連ね、陶器のペルシア絨毯(じゅうたん)を巻いて空高く立てたようだ。

 又そのかたわらには緑地の塔。日光の鉄槌(てっつい)が押し潰(つぶ)し、すりへらしたかのような石畳の上を、桃いろに黒い斑(ふ)の乳房を重たげに垂らした孕み犬がよろめいてゆく。》

 

 とめどない色彩に興奮させられたかのように、「桃いろに黒い斑(ふ)の乳房を重たげに垂らした孕み犬」のような脳髄を持つ本多が行動する。朝早く、舟を雇って対岸へゆき、暁の寺を訪れた。

 

《近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿(しなざら)を隈(くま)なく鏤(ちりば)めているのが知られた。いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は紫紺であった。嵌(は)め込まれた数知れぬ皿は花を象(かたど)り、あるいは黄の小皿を花心として、そのまわりに皿の花弁がひらいていた。あるいは薄紫の盃(さかずき)を伏せた花心に、錦手(にしきで)の皿の花弁を配したのが、空高くつづいていた。葉は悉く瓦(かわら)であった。そして頂きからは白象たちの鼻が四方へ垂れていた。》

 

 さながら色彩の花園で、無数の皿は精神活動の証左ではないのか。

 第二巻『奔馬』の、「ずっと南だ。ずっと暑い。……南の国の薔薇の光の中で。……」という、死の三日前の酔った飯沼勲の譫言(たわごと)の顕現かと思わせる迷宮。

 

《薔薇宮はそれ自体が自分の小さな頑(かたく)なな夢のなかに閉じこもったかのようだった。翼楼も展開部もない一つの小筥(こばこ)のような建築の印象がこれを強めた。一階はどれが入口かわからぬほど多くの仏蘭西(フランス)窓(まど)に囲まれていたが、その一つ一つが薔薇の木彫(もくちょう)を施した腰板の上部に、黄、青、紺の亀甲の色(いろ)硝子(ガラス)の小窓を塡(は)め込んでいた。庭に面した仏蘭西窓は、悉(ことごと)く半びらきにひらいていた。》

 

 薔薇宮とは何であるのか。どれが入口かわからぬほど多くの仏蘭西窓をもつ薔薇宮とは。

 赤と白は浄化の極地、ベナレスのマニカルニカ・ガートで、本多の目に飛び込む。そうして、赤と白は墨色と化す。

 

《シヴァとサティの祠(ほこら)の横のゆるい勾配(こうばい)の階段に、赤い布におおわれた屍が、ガンジスの水にひたされたのち、火葬の順番を待って、凭(もた)せかけてある。人形(ひとがた)なりに屍を包んだその布が、赤いときは女のしるしである。白いときは男のしるしである。これを薪に載せて火を放つ際、牛酪(バタ)と香料を投げ込む仕事ののこっている親族たちが、剃髪の僧と共に、天幕の下で待っている。(略)

 屍は次々と火に委(ゆだ)ねられていた。縛(いまし)めの縄は焼き切れ、赤や白の屍衣(しえ)は焦(こ)げ失(う)せて、突然、黒い腕がもたげられたり、屍体が寝返りを打つかのように、火中に身を反らしたりするのが眺められた。先に焼かれたものから、黒い灰墨の色があらわになった。ものの煮えこぼれるような音が水面(みなも)を伝わった。焼けにくいのは頭蓋(ずがい)であった。》

 

 頭蓋からなる理智の人、「本多の心を、水晶のような純粋な戦慄で撃った」白が現れる。

 

《火のそばへ来ても愕(おどろ)かぬ聖牛は、やがて隠亡の竹竿に追われて、焔の彼方(かなた)、寺院の暗い柱廊の前に佇(たたず)んでいた。柱廊の奥は闇であったから、聖牛の白は、神々(こうごう)しく、崇高な知恵に溢(あふ)れてみえた。焔の影がゆらめき映るその白い腹自体が、ヒマラヤの雪が月かげを浴びたかのようだった。(略)

 そのときだった。聖牛は、人を焼く煙をとおして、おぼろげに、その白い厳かな顔をこちらへ向けた。たしかに本多のほうへ向けたのである。》

 

 白い聖牛がこちらを向く、という現象で三島は何を言いあらわしたかったのか。輪廻の象徴とは思いがたい。理智の人をみつめる犯しがたき厳かで冷徹な白は、荘厳な肉との、獣における無垢の綜合で、あらゆる虚無の向うからすべての不可能性を知らしめる。

 昭和二十年六月の光の下、渋谷の旧松枝侯爵邸に足をのばした本多は、広漠たる焼趾にのこる庭石に腰かけている人の藤紫のモンペの背を見る。

 

《女は顔を斜めにあげた。顔を見て、本多は怖(おそ)れた。黒い髪が鬘(かつら)であることは、不自然な生え際(ぎわ)の浮み具合からすぐにわかり、両眼の窪(くぼ)みも皺(しわ)も深く埋(うず)もれるほどに塗り籠(こ)められた白粉(おしろい)から、宮廷風な、上唇を山型に下唇をぼかして塗った口紅の臙脂(えんじ)が鮮やかに咲き出ている。その言語を絶した老いの底に、蓼科(たでしな)の顔があった。(略)

 さるにても蓼科の老いは凄(すさ)まじかった! その濃い白粉で隠されている肌には、老いの苔(こけ)が全身にはびこり、しかもこまかい非人間的な理智(りち)は、死者の懐ろで時を刻みつづける懐中時計のように、なお小まめに働いているのが感じられた。》

 

 白は、老いの無常にもあからさまで、冷たい死としての白でもある。

 本多は、別荘の芝生を横切って西端の涼亭(ちん)から、夜明けの富士を見るのを、何よりのたのしみにしていた。

創作ノートに「富士(・・)をレスビアニズムの象徴とし」、「富士信仰と女性神の信仰」とあるが、本文でも、「竹取物語」の先行テクストとされる都良香(みやこのよしか)の「富士山の記」を読んだ本多は、「貞観(ぢやうぐわん)十七年十一月五日に、吏民旧(ふる)きに仍(よ)りて祭を致す。日午(ひる)に加へて天甚だ美(よ)く晴る。仰ぎて山の峯(みね)を観(み)るに、白衣の美女二人有り、山の巓(いただき)の上に双(なら)び舞ふ。巓を去ること一尺余(ひとさかあまり)、土人(くにひと)共に見きと、古老伝へて云(い)ふ」という件りに、むかし読んだ幽かな記憶を思いだす。

これに加えるに、「浅間神社の祭神が木花開耶姫(このはなさくやひめ)という女神である」ことが心をしきりに誘った。「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」は火中出産の話から浅間神社の火の神であるとともに富士山本山浅間神社においては噴火を鎮めるための水の神でもあるという二重性をおび、かつ安産の神でもあって、それがジン・ジャンの水着姿を見た梨枝の「まあ、あの体なら、ずいぶん沢山子供が生めそうだこと」の皮肉につながっているだろう。

 

《富士は黎明(れいめい)の紅に染っていた。その薔薇(ばら)輝石(きせき)にかがやく山頂は、まだ夢中の幻を見ているかのように、寝起きの彼の瞳(ひとみ)に宿った。それは端正な伽藍(がらん)の屋根、日本の暁の寺のすがただった。(略)

六時二十分、すでに曙(あけぼの)の色を払い落とした富士は、三分の二を雪に包まれた鋭敏な美しさで、青空を刳(く)り抜いていた。明晰(めいせき)すぎるほどに明晰によく見えた。(略)

 この富士がすべての気象に影響し、すべての感情を支配していた、それはそこにのしかかり存在している清澄(せいちょう)な白い問題性そのものだった。》

 

 三島によくある、もってまわったような「白い問題性」とは何か。

 夜の外苑でむつみあう白い裸の下半身、ピンポン玉のように白い男の尻、槇子のうつむいた項のかつて若い勲が惹かれた香わしい白、それらの隠微な白は純潔、明晰からは遠く、あたかも富士についての次の文章のような眩暈である。『松風』、『羽衣』をも思い起させるような。

 

《富士は冷静的確でありながら、ほかならぬその正確な白さと冷たさとで、あらゆる幻想をゆるしていた。冷たさの果てにも眩暈(めまい)があるのだ、理智(りち)の果てにも眩暈があるように、富士は端正な形であるがあまりに、あいまいな情念でもあるような、ひとつのふしぎな極であり、又、境界であった。その堺(さかい)に二人の白衣の美女が舞っていたということは、ありえないことではない。》

 

<神聖と汚濊>

 

 たとえば、愛らしい挿話に装われているが、本質を露呈するバンパイン離宮でのあるエピソード。

姫は笑った。笑うとき、姫は必ず本多の顔を見上げていた。零れ落ちる神聖。

 

《姫の一言で、急に女官たちがざわめき立ち、姫を取り囲んで、旋(つむ)じ風(かぜ)がころがるように、本多を置き去りにして行ったのがおどろかされたが、目ざす小館を見て、本多にも納得が行った。姫は尿意を催したのである。

 姫の尿意! これが本多に、痛切な可愛らしさの印象を与えた。子供を持たぬ本多には、自分にもし幼ない娘があったら、こうもあろうかと想像されることがみな概念的で、こんな突然の尿意のように、肉の愛らしさが鼻先をよぎって飛ぶことははじめてだった。彼はできることなら自分が手を貸して、姫の滑らかな褐色の腿(もも)を内から支えて、さしてあげたいとさえ私(ひそ)かに思った。》

 

 ここには『仮面の告白』の汚穢屋へのあこがれと同質のものがある。

また、ジン・ジャンの肉に囚われた一瞬でもあって、ジン・ジャンの尿意の記憶は、第二部で、夢など見ないような本多の夢となってあらわれる。

 本多は午後ベナレスに着くと、長い汽車旅行の疲れにもめげず、すぐ案内人の手配をたのんだ。

 

《さるにてもベナレスは神聖が極まると共に汚穢(おわい)も極まった町だった。日がわずかに軒端(のきば)に射(さ)し込む細径(ほそみち)の両側には、揚物や菓子を売る店、星占い師の家、穀物粉を秤売(はかりう)りする店などが立並び、悪臭と湿気と病気が充ちていた。ここを通りすぎて川に臨む石畳の広場へ出ると、全国から巡礼に来て、死を待つあいだ乞食(こじき)をしている癩者(らいしゃ)の群が、両側に列をなしてうずくまっていた。たくさんの鳩(はと)。午後五時の灼熱(しゃくねつ)の空。乞食の前のブリキの缶には数枚の銅貨が底に貼(は)りついているだけで、片目は赤くつぶれた癩者は、指を失った手を、剪定(せんてい)されたあとの桑の木のように夕空へさしのべていた。》

 

 三島が『近代能楽集』にとりあげた『弱法師(よろぼし)』の盲目の癩者、俊徳丸が現実世界にいた。俊徳丸は別な姿でもう一度、薔薇色と白の神々しさで登場する。舟はガーツの一つ、ケダール・ガートの前へ近づきつつあった。本多の目は、大階段の中央に下り立って、水垢離に臨もうとしている薔薇いろに輝く雄偉な老人に惹きつけられた。夕光のなかにみずみずしい白桃色の肌を、まわりから隔絶した気高さで示していた。「かがやく白桃の皮膚は一そう崇高に眺められた。彼は白癩(びゃくらい)だったのである。」 白は神聖の象徴であるが、穢れの極北ともなる。

 

《すべてが浮遊していた。というのは、多くのもっとも露(あら)わな、もっとも醜い、人間の肉の実相が、その排泄物(はいせつぶつ)、その悪臭、その病菌、その屍毒(しどく)も共々に、天日のもとにさらされ、並の現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯(じゅうたん)だった。》

 

「それは神聖さの、信じられないほどの椀飯(おうばん)振舞なのであった。」

 

《マニカルニカ・ガートこそは、浄化の極点、印度風にすべて公然とあからさまな、露天の焼場なのであった。しかもベナレスで神聖で清浄とされるものに共有な、嘔吐(おうと)を催おすような忌(いま)わしさに充(み)ちていた。そこがこの世の果てであることに疑いはなかった。》

 

「四大へ還るための浄化の緩慢、それに逆らう人間の肉の、死んだあとにもなおのこる無用の芳醇(ほうじゅん)」

 

《インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦につながっていた! 本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、究極のものを見てしまった以上、それから二度と癒(い)やされないだろうと感じられた。あたかもベナレス全体が神聖な癩(らい)にかかっていて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に犯されたかのように。》

 

 そうして、あの白い聖牛がこちらを向いて、水晶のような純粋な戦慄で心を撃った。

 戦時中、本多は余暇を専ら輪廻転生の研究に充てた。「新刊書がおいおいつまらないものばかりになってゆくにつれて、戦時中の古本屋の埃(ほこり)にまみれた豪奢(ごうしゃ)は募って来た」とは、三島の実体験でもあったのだろう、そのまま第二部の戦後の空虚を予見している。

 本多は、西洋の輪廻転生についても多くを学んだが、紀元前五世紀のイオニアの哲学者ピュタゴラスの説は、先行するオルペウス教団の秘教の影響を受けていて、さらに、それはディオニュソス信仰の末裔なのである。ディオニュソスといえば、ギリシア好きだった三島が多大な影響を受けたニーチェ悲劇の誕生』のアポロンとの比較のそれである。

 

ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩(いんとう)と生肉啖(くら)いと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須(ひっす)な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明(ちょうめい)をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシアの野の豊饒(ほうじょう)を、あたかも天日を暗くする蝗(いなご)の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖(くら)い尽したときのすさまじさを、本多はどうしても自分の印度体験と比べて想(おも)い見ずにはいられなかった。》

 

 本多は小用を催して夢からさめた。ふいに断ち切られた夢の断片が笹くれ立っている。本多が夢を見るとは。

 

《そのとき立宴の天幕の中から、かがやかしい悲愴な喇叭の調べが起った。足下の地が割れて、金色の衣裳の月光姫が、金色の孔雀の翼に乗ってあらわれた。喝采する人々の頭上を、孔雀は鈴を鳴らすような羽音で飛びめぐった。

 金の孔雀の胴にまたがった月光姫の、光る褐色の腿の附根がまぶしく仰がれた。さるほどに月光姫は、ふり仰ぐ人々の頭上へ、香りの高い小水の驟雨をふらした。》

 

 あのバンパインの幼い姫の尿意の、現実の時間を飛び越えての再現が本多の夢の中で醸成された。厠を探しにホテルに入った本多は、どの部屋のベッドにも必ず柩(ひつぎ)が載せてあるのを見た、尿意をこらえかねて、「その柩の中へ小水をしようとしたが、神聖を犯す怖(おそ)ろしさに出来なかった。」 そこで目がさめたのだが、こんな夢をフロイト的にどう解釈するかには深入りしないとして、疑いようのない幸福感があったのである。

 

《その燦然たる幸福感を、もう一度、つづきの夢のなかで味わいたいものだと彼は念じた。あそこには、誰憚(はばか)るもののない喜びの、輝やかしい無垢(むく)が横溢(おういつ)していた。その喜びこそ現実だった。よし夢にすぎぬとも、本多の人生の、決して繰り返されぬ一定の時間を占領した喜びを、現実と考えなくて何が現実だろう。》

 

「現実と考えなくて何が現実だろう」にこそ逆説的に、『暁の寺』、ひいては『豊饒の海』のライト・モティーフがある。

 

<蛇と孔雀>

 

 はじめから蛇は、ラストシーンの予兆として、いかにも思わせぶりに幾度も顔を出す、エデンの園の耳打ちする蛇のように具体的に。一方、孔雀は思念の象徴として、ゆるやかに歩み寄ってくる。

 最初は、白い大理石寺院の造形における無機質の蛇だったものが、そのうち生きものとなって滑りはじめる、登場人物たちの視覚にあからさまに。

 

《ポインテッド・アーチ形の窓々は、内側の紅殻(べんから)をのぞかせながら、その窓を包んで燃え上る煩瑣(はんさ)な金色(こんじき)の焔に囲まれていた。前面(ファサード)の白い円柱も、柱頭飾から突然金色(こんじき)燦然(さんぜん)とした聖蛇(ナーガ)の蟠踞(ばんきょ)する装飾に包まれ、幾重にも累々(るいるい)と懸る朱い支那瓦(しなかわら)の反屋根(そりやね)は、鎌首(かまくび)をもたげた金色の蛇の列に縁取られ、越屋根(こしやね)のおのおのの尖端(せんたん)には、あたかも天へ蹴上(けあ)げる女靴の鋭い踵(かかと)のように、金いろの神経質な蛇の鴟尾(しび)が、競って青空へ跳ね上っていた。》

 

 幼いジン・ジャン姫の話をきいた夜おそく、本多はホテルで、三十年前の清顕の夢日記を取り出した。夢のなかの孔雀の白い糞。

 

《そうだ。本多の記憶どおり清顕は、シャムの王子たちを邸(やしき)に迎えてしばらく後、シャムの色鮮やかな夢を見て、これを記憶している。

 清顕は「高い尖(とが)った、宝石をいっぱい鏤(ちりば)めた金の冠を戴(いただ)いて」、廃園を控えた宮居の立派な椅子に掛けている。

 それで見ると、夢に、清顕はシャムの王族になっているのである。

 梁(うつばり)には夥(おびただしい)しい孔雀(くじゃく)がとまっていて白い糞(ふん)を落し、清顕は王子がはめていたエメラルドの指環(ゆびわ)を、わが指にはめている。

 そのエメラルドの中に、「小さな愛らしい女の顔」が泛んでいる。》

 

 ジン・ジャンの謁見の場、薔薇宮のいたるところに薔薇模様は欄干、シャンデリア、絨毯に執拗に繰り返されていた。微風が北向きの窓から通ってきた。

 

《たまたまそこへ目が行ったとき、突然、黒い影が窓枠にとびついたのを感じて本多は慄然(りつぜん)とした。するとそれは緑いろの孔雀(くじゃく)であった。孔雀は窓枠にとまって、緑金にかがやくなよやかな頸(くび)を伸ばした。羽冠が影絵をなして、権高(けんだか)な顱頂(ろちょう)に、微細な扇のようにひらいた。

 

 貢物の真珠の小筥が第三、第二の女官の手を経、第一の女官の手で検(あら)ためられて姫の手に届いた。「愛らしい褐色の指はジャスミンの花輪を冷淡に捨て」、真珠を取り上げて熱心に見入った。子供らしい些(いささ)か乱れた白い歯並びが洩れた。安堵した本多だが、のちに自身がジャスミンの花輪のようにあしらわれるのも知らずに見つくす。

 

《指輪が筥に蔵(しま)われて第一の女官に預けられた。姫がはじめてはっきりした怜悧(れいり)な声で物を言われた。そのお言葉は三人の女官の唇を、緑蛇が合歓(ねむ)の枝から枝へ見えがくれに伝わって来るように渡った末、最後に菱川の通訳によって、本多の耳に到着した。姫は「ありがとう」と言われたのである。》

 

 ことさらに蛇のイメージが使われる。

 本多が輪廻転生(りんねてんしょう)の語にはじめて触れたのは、三十年前、清顕の家で月修寺門跡(もんぜき)の法話聴聞してのち、フランス訳の「マヌの法典」を繙(ひもと)いたときのことだった。「マヌの法典」が告げる輪廻の法(ダルマ)は、

 

《畜生に転生する罪は精細に規定され、バラモンの殺害者は、犬、豚、驢馬(ろば)、駱駝(らくだ)、牛、山羊(やぎ)、羊、鹿(しか)、鳥の胎に入り、バラモンの金を盗んだバラモンは、千回、蜘蛛(くも)、蛇、蜥蜴(とかげ)および水棲(すいせい)動物の胎に入り、(中略)野菜を盗む者は孔雀(くじゃく)となり、(中略)果実を盗む者は猿になるのだった。》

 

 松枝侯爵邸の跡地で偶然出逢った九十五歳の蓼科に卵を二つ頒けてやると、蓼科は無邪気な喜びと感謝をあらわし、石のへりで卵を割ると、夕空へひろげた口から、しらじらと光る総入歯の歯列のあいだへ流し込んだ。お返しとして、手提げ袋の中から一冊の和綴の本を本多の手へ委ねた。「大金色(だいこんじき)孔雀明王経(くじゃくみょうおうきょう)」だった。この女性神は、かつて本多がカルカッタで参詣したカリガート寺院の血なまぐさいカーリー女神の像こそ、孔雀明王の原型なのだった。

 

《もともと孔雀明王経は、蛇毒を防ぎ、あるいは蛇に咬(か)まれてもたちまちこれを癒(い)やす呪文を、仏陀が説いたという事になっている。》

 

「創作ノート」にも書かれた伏線である。

 

《本多がしたその孔雀明王経の話に、慶子は甚だ興味を示した。

「蛇に咬(か)まれたとき利(き)くんですって? それはぜひ教えていただきたいわ。御殿場の庭にはよく蛇が出るんですもの」

「陀羅尼(だらに)のはじめのところを一寸(ちょっと)おぼえていますがね。

怛儞也他(たどやた)壱底(いつち)蜜(みつ)底底里(ちちり)蜜(みつ)底底里(ちちり)弭里(びり)蜜底(みつち)

というんです」

「チリビリビンの歌みたいだわ」

と慶子は笑った。》

 

 別荘。

 

《そうだ。きのうは涼亭のそばで蛇を殺した。二尺ほどの縞蛇(しまへび)だったが、きょうの客をおびやかすような事態を防ぐために、石でその頭を打って殺した。この小さな殺戮(さつりく)が、きのうは終日、本多を充実させていた。心の中に、青黒い鋼(はがね)の発条(バネ)が、死に逆らう蛇ののたうちまわる油照りする体の残像として形づくられた。自分にも何かが殺せた、と感じることが暗鬱(あんうつ)な活力を養った。》

 

 大正時代の弁護士夫人で、芸者上りの欣々女史は、美貌と驕奢(きょうしゃ)を以てきこえたが、良人の死後、もはや奢侈の叶わぬことをはかなんで自殺したのだったが、芝刈機を携えて遠ざかる運転手の松戸に妻の梨枝が叫んだ。

 

《「欣々女史は蛇を可愛がっていて、いつもハンドバッグの中に生きた小蛇を入れていたというじゃありませんか。ああ、忘れていた。きのうあなたは蛇を殺したと言っておいででしたね。宮様がおいでの間に、蛇でも出たら大へんだわ。松戸さん、蛇を見つけたら、必ず始末して下さいよ。但(ただ)し決して私の目に触れないようにね」》

 

 叫ぶ妻の咽喉元の老いに、戦時中に渋谷の焼趾で会った蓼科と、蓼科がくれた孔雀明王経を思い起し、蛇に咬まれたときに唱える呪文を梨枝に教えるが、梨枝は興味の片鱗も示さなかった。

 一方、孔雀に乗ったジン・ジャンの世界にこそ、『暁の寺』で三島がもっとも言いたかったことがある。

 

《飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは叶わぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗って飛翔する世界は、もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり、瑕瑾(かきん)になり、一つの極微の歯車の故障になって、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を取り換えたらどうだろうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、すなわち本多の死に他ならない。》

 

「共有する世界から除去すること、すなわち本多の死」。

消防自動車が別荘に到着したときには、火はもはや衰えていた。

 

《ほかに落着くところとてなかったので、皆はおのずから涼亭に集まった。そこで出た話は、ジン・ジャンがたどたどしく、さっき火をのがれてここへ来たとき、芝生から一匹の蛇があらわれて、その茶色の鱗(うろこ)に遠い火の照りを油のように泛ばせながら、非常な速さで逃げて行った、と語ったことである。》

 

 蛇の鱗に泛ぶ火は、ベナレスでの「水牛の黒く濡れた肌には、葬りの火が鏡面のように映った」と同じではないか。これらの表層に泛ぶ映像は本多の心と認識の何だったのか。

 最終四十五章。一息に時間は昭和四十二年に飛ぶ。本多は、たまたま東京の米国大使館に招かれて、バンコックのアメリカ文化センター長をしていた米人の夫人で、三十をすぎたタイのプリンセスに会った。昭和二十七年の御殿場の火事のあと間もなく帰国したジン・ジャンはその後、消息を絶っていたが、思いがけなく十五年後に、米国人の妻になって東京に戻って来たと、その瞬間本多は信じた。

 本多は薔薇いろのタイ絹の服を着た夫人に近寄って、漸く二人で話す機会を得た。ジン・ジャンを知っているか、と本多は尋ねた。「知っているどころか、私の双生児(ふたご)の妹ですわ。もう亡(な)くなりましたけれど」と夫人は晴れやかに英語で答えた。どうして亡くなったのか、何時(いつ)、と本多は性急に訊いた。夫人の語るところはこうだった。バンコックの邸で、花々に囲まれて暮らしていたが、「二十歳になった春に、ジン・ジャンは突然死んだ。」

 

《侍女の話では、ジン・ジャンは一人で庭へ出ていた。真紅に煙る花をつけた鳳凰木(ほうおうぼく)の樹下にいた。誰も庭にはいなかった筈(はず)なのに、そのあたりから、ジン・ジャンの笑う声がきこえた。遠くこれを聴いた侍女は、姫が一人で笑っているのをおかしく思った。それは澄んだ幼ならしい笑い声で、青い日ざかりの空の下に弾(はじ)けた。笑いが止(や)んで、やや間があって、鋭い悲鳴に変った。侍女が駈(か)けつけたとき、ジン・ジャンはコブラに腿(もも)を咬(か)まれて倒れていた。

 医師が来るまでに一時間かかった。その間にみるみる筋肉の弛緩(しかん)や運動失調があらわれ、睡気(ねむけ)と複視を訴えた。延髄麻痺(まひ)や流涎(りゅうせん)が起り、呼吸はゆるく、脈は不整で迅(はや)くなった。医師が着いたのは、すでにジン・ジャンが最後の痙攣(けいれん)を起して息絶えたあとであった。

 第三巻 おわり》

 

 こうして本多が共有する世界から除去されるのではなく、ジン・ジャンが除去され、孔雀はついにあらわれず、第三巻は「庭」の情景のあとに終わる。最終巻の月修寺の「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……」と同じ、何もない時間。

 

<時間と幻>

 

暁の寺』は「時間」をめぐる物語でもある。それは輪廻転生を扱っているからというばかりではない。

 バンコックからバンパインへの舟路に、ジン・ジャン姫が、遠景に瞳を凝らしていた。

 

《……本多にはそのとき、幼ない姫の見ているものが何ものか即座にわかった。

 姫は時間と空間とを同時に見ていた。すなわち、彼方(かなた)の驟雨の下の空間は、本来ここから見える由(よし)もない未来か過去かに属していた。身を現在の晴れた空間に置きながら、雨の世界を明瞭に見ていることは、異なる時間の共存でもあり、異なる空間の共存でもあって、雨雲が時間のずれを、はるかな距離が空間のずれを垣間見せていた。いわば姫はこの世界の裂け目を凝視していたのである。》

 

 バンパイン離宮での時間は、水を隠喩としたプルースト的な時間の形而上学である。

 老女官はみな、英語は片言しか話せず、タイ語を音楽のように耳で楽しむ時間が流れる。

 

《……すべてが言葉の通じないところで、しかも意志の疎通(そつう)をことさら試みなかったところで、起った出来事というものは、それを記憶に移せば、何ら手を加えるまでもなく、そのまま美しい小さな絵の連鎖になって、いくつかの同じ寸法の、金(きん)の煩(わずら)わしい装飾を施した額縁に納まるものだ。そこで流れた時間はひたすら一瞬の絵心のために結ぼおれ、快活な時間の粒子が、ひときわ泡立って踊動するかと見れば、それはたとえば、水の底深く下りてゆく石段の真珠へ、さしのべた姫の手の幼ないふくらみ、しかもその指、その掌(てのひら)の清潔で細緻(さいち)な皺(しわ)、頬にふりかかった断髪のいさぎよい漆黒、その鬱(うつ)したほどに長い睫(まつげ)、黒地に施した螺鈿(らでん)のように黒い小さな額にきらめく池水の波紋の反映などの、刹那(せつな)の絵すがたを形づくるためにひた(・・)と静まるのだ。時間も泡立ち、蜂(はち)の唸(うな)りに充(み)ちた日ざかりの苑(その)の空気も、そぞろ歩く一行の感情も泡立っていた。珊瑚(さんご)のような時間の美しい精髄があらわになった。そうだ。そのとき姫の幼時の曇りない幸福と、その幸福の背後に連なる一連の前世の苦悩や流血は、あたかも旅中に見た遠い密林の晴雨のように、一つになっていたのだった。》

 

 プルーストのようなめくるめく文体。

 幻、時間の不連続性、断絶、不在。覚めつ夢みつ。最終巻巻末の、すべてが夢、何もないことではないのか、という壮大な否定がここに映っている。

 ベナレス、牡山羊の犠牲壇に傘もささぬ一人の女が来て、ガンジスの水の聖水を柱に注ぎ、韓紅いの小さなジャワの花を散らして一心に祈っている。額の祝福の朱点が、彼女自身の犠牲の血のように一点鮮やかに見える。

 

《本多は魂のゆらめきを、一種の恍惚(こうこつ)と云いがたい忌(いま)わしさとのまじり合った感情を味わった。その感情の注射するところ、まわりの情景がおぼろになって、祈っている女の姿だけが緻密に映る。不気味なほどに緻密に映る。もうこれ以上細部の明瞭(めいりょう)さ、その含んでいる忌わしさに耐えきれぬと感じたときに、突然女の姿はそこになかった。彼は今まで幻を見ていたのかと疑ったが、そうではなかった。立去った女のうしろ姿は、開け放った裏門の粗い鉄の唐草模様の彼方(かなた)に見られたからである。祈っていた女と、立去った女との間に、どうしてもつながらない断絶があるのだった。》

 

 幻はアジャンタの洞窟寺院でも出現する。第一の窟は礼拝堂(チャイティア)である。天井や四壁を埋めるフレスコの半裸の女たち。一見、アジャンタの場面は小説にとって余計な、冗長の部分であるようだが、実は、アジャンタの洞窟こそが記憶の窟(いわや)、非在の遺跡、幻の象徴なのだ。

 

《すべてが本多に、バンコックの月光姫の成人した面影を偲(しの)ばせた。稚(おさ)ない姫とちがうのは、これら画像の女の熟れた肉体で、乳房はいずれも今にも裂けそうな柘榴の球体に色づいている。(中略)

 ――第一の洞窟(どうくつ)を出ると、烈(はげ)しく銅鑼(どら)を打ち鳴らすような熱帯の日光が、今しがた見たものをたちまち幻に還元し、人はあたかも昼のまどろみに覚めつ夢みつしながら、一つ一つ、心の忘れられた古い記憶の窟(いわや)を歴訪するような心地にさせられるのだった。(中略)

 何もないことのほうが、却って幻を自在に描かせた。(中略)

 色彩の皆無が、本多の心を寛(くつ)ろがせた。仔細(しさい)に見れば、石卓の小さな凹(くぼ)みにむかしの紅殻(べんから)の色が消えがてに残ってはいたけれども。

 そこに今まで誰かがいて立ち去った?

 誰がいたのだろうか?

 石窟の冷気のなかに一人でいて、本多は周囲に迫る闇が、一せいに囁(ささや)きかけて来るような心地がした。何の飾りも色彩もないこの非在が、おそらく印度へ来てはじめて、或(あ)るあらたかな存在の感情をよびさましたのだ。衰え、死滅し、何もなくなったということほど、ありありと新鮮な存在の兆を肌に味わわせるものはなかった。》

 

 真珠湾攻撃のニュースで沸き立つ日の昼休み、本多は食後の散歩に出て、自然に二重橋前の広場を目ざしていた。ひろい歩道は人に溢れていた。二重橋の前に群れ集る人の日の丸の手旗、その万歳の喚声。三島が『春の雪』をあの日露戦争の弔いの写真ではじめたのは、映る心象、時間を、幻を、読者の深層に澱ませたかったからに違いない。

 

《そのとき本多の目に、冬日に照らされたひろい玉砂利の空間が、突然広漠たる荒野に見えてきた。三十年も前に清顕に見せてもらった日露戦役写真集の、あの「得利寺(とくりじ)附近の戦死者の弔祭」の写真がありありと記憶に泛(うか)び、目前の風景と重なり合い、果てはそれを占めるにいたった。あれは戦いの果て、これは戦(いくさ)のはじめであった。それは不吉な幻だった。(中略)

 これがあの写真の背景であった。そして画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見え、何千という兵隊がこれを取り囲んでうなだれていたのである。

 本多の目はこの幻を歴然と見た。ふたたび万歳の声と、目に鮮やかな日の丸の手旗の波がよみがえって来た。そのことは、しかし、いいしれぬ悲傷に充(み)ちた感銘を本多の心に残した。》

 

「時」を知ること。

「時」を知るとは、『豊饒の海』においては、三つの黒子(ほくろ)が時の継続の証、幻の象徴として機能する。ジン・ジャンの黒子は、本多の目に現れたり、現れなかったりする。そして、現われる時は決まってジン・ジャンがエロスに身を委ねるとき、あるいは本多がジン・ジャンの姿態にエロスを求めるとき・・・

 占領下の荒廃した帝国ホテルで、食後ジン・ジャンがパウダー・ルームへ行くと、本多はかつてバンパインで幼ない姫が女官たちに囲まれて、小用に立った時のことを思い出し、それにつれて、褐色の川で、水浴をする姫の裸の姿を想起した。その脇腹にあるべき三つの黒子に目を凝らしたのだった。

 

《姫が手をあげるときがあった。平たい小さな胸の左の脇(わき)、ふだんは腕に隠されているところへ、思わず本多は目をやった。その左の脇腹に、あるべき筈の三つの黒子(ほくろ)はなかった。あるいは淡い黒子が、褐色の肌色に紛れているのではないかと思って、瞳(ひとみ)が疲れるほどに、機を捕えてはそこへ視線を凝らしたのであったが……。》

 

まるで、ナボコフ『ロリータ』での、ロリータとロリータの母との比較のような、息の長い文体による時間を超えた、舐めるような視線の螺旋、美文による海との照応(コレスポンダンス)。

 

《本多の願っていることは、実に単純で、愛と名付けるのは却(かえ)って不自然だったに違いない。今の姫の一糸纏(まと)わぬ裸をすみずみまで眺め、あの小さな平たい胸が今はいかに色づいて、巣からのぞく巣鳥のように頭をもたげ、桃いろの乳首が不服そうに尖(とが)り、褐色の腋(わき)が折り畳んだほのかな影を含み、腕の内側に敏感な洲(す)のような部分が露(あら)われ、未明の光りのなかですでにすべての成熟の用意ができあがったところを点検して、幼ない姫の肉体との比較に心をおののかせたい、というだけのことなのだ。腹が無染(むぜん)の柔らかさで漂う央に、小さな環礁(かんしょう)のように鎮(しず)まる臍(へそ)。護門神ヤスカの代りをつとめる深い毛に護(まも)られて、かつてはただきまじめな固い沈黙であったものが、たえまのない潤(うる)んだ微笑にまで変ったもの。美しい足の指が一本一本ひらき、腿(もも)が光り、成長した脚がすらりと伸びて、生命の踊りの規律と夢を一心に支えるありさま、それをひとつひとつ嘗(かつ)ての幼ない姿と照合してみたかったのだ。それは「時」を知ることだ。「時」が何を作り、何を熟れさせたかを知ることだ。その丹念な照合の末、左の脇腹の黒子が依然として見当らなければ、本多はきっと最終的に彼女に恋するだろう。恋を妨げるのは転生(てんしょう)であり、情熱を遮るのは輪廻(りんね)だからだ。……》

 

 最期の部分には、三島独特の逆説の論理、道徳があって、にわかには真意を理解しがたい。

 覗き穴のおぼろな丸い額縁のなかで、克己がジン・ジャンの手の上へ手を重ねた。

 

《本棚に身を寄せて、今度は気配だけで探ろうとした。闇が想像力を野放しにし、想像のほうがはるかに論理的に、一つ一つの階梯(かいてい)を昇って行った。ジン・ジャンの脱衣はすでにはじまり、慄然たる裸をひらいていた。そして微笑と共に左手をあげたとき、左の脇腹(わきばら)に、この悩ましい熱帯の夜空のような肉体のしるしの星、あの三つの連なった黒子(ほくろ)が現われた。本多にとっては、不可能のしるしが。……本多は目を覆(おお)うた。星の幻は闇の中で忽(たちま)ち砕けた。》

 

「……本多は目を覆うた。星の幻は闇の中で忽(たちま)ち砕けた」とはいったいどういうことなのか。

 慶子が「そろそろ泳ぎましょうか」と言うと、「ええ」とジン・ジャンはふりむいて微笑した。本多はこの言葉を待っていたのだ。水着への、境界への、フェティッシュなまでの凝視。

 

《そのときジン・ジャンは、白い海水帽を一旦卓に置くと、両手をあげて黒い美しい髪をたくし上げた。そのすばやい、むしろぞんざいな動きの間に、丁度都合のよい位置にいた本多は、左の腋(わき)の下方を注視した。水着の上半分はあたかもエプロンのような形をしており、胸あての上方に首をめぐる紐通しが、背へ廻った左右両端にこれを享(う)ける紐通しがついていたが、胸あては胸乳(むなぢ)の麓(ふもと)をあらわに見せるほど刳(く)りが大きく、脇(わき)を隠すのはただ、その胸あての両端が細まって紐通しにいたる帯の部分だけである。従って腋の下方は常でも見えるのに、両手をあげると帯がやや引上げられるから、今まで見えなかった部分も隈(くま)なく見える。本多はそこの肌も他所(よそ)と何ら変りがなく、緊密な肌の連続に何一つ翳(かげ)りも継目もなく、日を受けても自若として、黒子(ほくろ)の一つの薄い痕跡(こんせき)さえ見つからないことをつぶさに確かめた。本多の心には喜悦が湧(わ)いた。》

 

 覗き穴から見える仄明りの下の、慶子とジン・ジャンとの蝮の絡みあい。このレスビアンの描写は、中村眞一郎『恋の泉』末尾と双璧をなす。

 

《ジン・ジャンの美しい黒い乳房は汗にしとど濡れていた。右の乳房は慶子の体に押しつぶされて形を歪(ゆが)め、健やかに息づいている左の乳房は、慶子の腹を撫でつづける左腕に、ゆたかに擁されていた。そのたえず揺れる肉の円墳(えんぷん)の上に乳首はまどろみ、汗が、この赤土の新しい円墳に明るい雨の光沢を添えた。

 このときジン・ジャンは、慶子の腿が自由な動きに委(ゆだ)ねられているのを嫉妬(しっと)してか、その腿をもわがものにしようとして、左腕を高くあげて慶子の腿をつかむと、自分の顔の上へ、もう息をしなくてもすむように、しっかりと宛(あて)がった。慶子の白い威ある腿がジン・ジャンの顔を完全に覆(おお)うた。

 ジン・ジャンの腋(わき)はあらわになった。左の乳首よりさらに左方、今まで腕に隠されていたところに、夕映えの残光を含んで暮れかかる空のような褐色の肌に、昴(すばる)を思わせる三つのきわめて小さな黒子が歴々(れきれき)とあらわれていた。》

 

<認識と不可能性>

 

 理(ことわり)と本多の恋と認識の果て。解釈を拒む、「記憶もなければ何もないところ」。これらが、縒り合された糸となって、マニ車のような苧環から繰りだされる。

 

《病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死(ひんし)の者も、ここでは等しく黄金(こがね)の喜悦に充ちあふれているのは理(ことわり)である。蠅も蛆(うじ)も喜悦にまみれて肥(ふと)り、印度人特有の厳粛な、曰(いわ)くありげな人々の表情に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔(けいけん)さが漲(みなぎ)っているのも理である。本多はどうやって自分の理智(りち)を、この烈(はげ)しい夕陽、この悪臭、この微(かす)かな瘴気(しょうき)のような川風のなかへ融(と)け込ませることができるかと疑った。どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦(かね)の音(ね)、物乞(ものご)いの声、病人の呻吟(しんぎん)などが緻密(ちみつ)に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没してゆくことができるどうかか疑わしい。本多はともすると、自分の理智が、彼一人が懐(ふとこ)ろに秘めた匕首(あいくち)の刃のように、この完全な織物を引裂くのではないかと怖(おそ)れた。

 要はそれを捨てることだった。》

 

 ベナレスのマニカルニカ・ガートで究極のものを見た晩、本多は寝酒の力を借りて眠った。夢にさまざまな事象があらわれた。すべての観念、すべての神々が、力をあわせて巨大な輪廻の環の把手をまわしていた。

「インドの人はそれを知っているのではないか、という怖れが、夢の中まで本多を訪れた省察だった。」

 

《夢のあいまいさ奇怪さにもまして、現(うつつ)に見たものは、もっとしたたかな、もっとはげしく解釈を拒んでいる謎(なぞ)であった。その事実の熱さのほうが、目がさめてみると、身心にはっきりと残っていた。彼は熱病にかかったように感じた。》

 

 心の中が鏡のように映る。

 帝国ホテルで、「ジン・ジャンの指に濃緑のエメラルドの指環がはめられたとき、本多はその遠い深い声とこの少女の肉とが、はじめてしっくりと融け合う瞬間を見た心地がした。」

 

《「君は子供のころ、私のよく知っていた日本の青年の、生れ変りだと主張している。本当の故郷は日本だ、早く日本へ帰りたい、と言って、みんなを困らせていた。その日本へ来て、この指環を指にはめたのは、君にとっても一つの巨(おお)きな環を閉じることになるんだよ」

「さあ、わかりません」とジン・ジャンは何の感動もなしに答えた。(中略)

「日本へ来たのは、お父さんに日本の学校がいいと教えられて、留学に来ただけです。……もしかするとね。私、このごろ考えるのです。小さいころの私は、鏡のような子供で、人の心のなかにあるものを全部映すことができて、それを口に出して言っていたのではないか、思うのです。あなたが何か考える、するとそれがみんあ私の心に映る、そんな具合だった、思うのです。どうでしょうか」》

 

 これは、『豊饒の海』全巻末尾の、いまや月修院門跡となった聡子の言葉、「それも心々(こころごころ)ですさかい」と同じことではないのか。「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」の果て、「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」とすれば、本多が転生を望んでいた、というのもあながちありえないことではない。「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」という、認識の極北。

 

《この年になって、はじめて彼の奥深いところで、変身の欲望が目ざめていた。あれほど自分の視点を変えずに他人の転生(てんしょう)を眺めて来た本多は、自分の転身の不可能性についてさして思い悩むこともなかったのに、いよいよ年齢がその最終の光りで、平板な生涯の野を一望のうちにしらじらと照らし出す時期が来てみると、不可能の確定が、却(かえ)って可能の幻をそそり立てた。》

 

 本多の恋が認識に関わっている。

 

《その日も亦(また)、ジン・ジャンの不在を梃(てこ)にして、ジン・ジャンを想(おも)う日になった。本多は曾(かつ)て知らなかった少年期の初々(ういうい)しい恋心に似たものが、五十八歳のわが身に滲透(しんとう)してくるのに愕然(がくぜん)とした。

 本多が恋をするとは、つらつらわが身をかえりみても、異例なばかりでなく、滑稽(こっけい)なことだった。恋とはどういう人間がするべきものかということを、松枝清顕のかたわらにいて、本多はよく知ったのだった。》

 

 もっとも重要な文章が次にあらわれる。薔薇のコンポートのような、認識の爪。慾望の不可能性。

 

《ジン・ジャンの場合、この花弁の肉の厚いシャム薔薇(ばら)を神秘化する作業は、御殿場の一夜でほぼ完成した。それはジン・ジャンを、決して手の届かぬ、(そもそも彼の手の長さと認識の長さとは同じ寸法だったから)、決して認識の届かぬところへ遠ざける作業だった。見ることによって得られる快楽も、見ることのできない領域が前提になっていなければならない。インドのあのような体験から、この世の果てを見てしまったと感じた本多は、認識の爪(つめ)がとどかぬ領域へ獲物を遠ざけることによって、日だまりに横たわり、樹脂のこびりついた毛を舐(ねぶ)っている。怠惰な獣の嗜慾(しよく)をわがものにしようと思ったのである。そのような怠惰な獣の姿にわが身をなぞらえようとしたとき、本多はわが身を神になぞらえようとしていたのではなかったか?

 自分の肉の欲望が認識慾と全く並行し重なり合うということは、実に耐えがたい事態であったから、その二つを引き離さぬことには、恋の生れる余地はないことを本多はよく知っていた。からみ合った一双の醜い巨樹の間(はざま)に、どうして一茎の薔薇が芽生えよう。恋はそのふてぶてしい気根を垂らしたどちらの樹(き)にも、寄生蘭(きせいらん)のように花ひらくべきではなかった。おぞましい認識慾にも、五十八歳の腐臭を帯びた肉慾にも。……ジン・ジャンは彼の認識慾の彼方(かなた)に位し、又、慾望の不可能性にのみ関わることが必要だったのである。(中略)

 むかし清顕が絶対の不可能性にこそ魅せられて不倫を犯したのと反対に、本多は犯さぬために不可能をしつらえていた。なぜなら彼が犯せば、美はもうこの世の中に存在する余地がなくなるからだった。》

 

 三島作品の構造はつねにこれである。『仮面の告白』、『愛の渇き』、『金閣寺』、『女方』、『サド侯爵夫人』、『弱法師』……。清顕型と本多型、それぞれの不可能性、逆説のドラマ。

 

《……現実のジン・ジャンは、しかし、本多の見るかぎりのジン・ジャンである。美しい黒い髪を持ち、いつも微笑をうかべ、約束はつねにあやふやな、そうかと思えばひどく決然とした、感情の所在の不透明な少女である。しかし見るかぎりのジン・ジャンが凡(すべ)てではないことは明らかであり、見えないジン・ジャンに焦(こ)がれている本多にとっては、恋は未知に関わっており、当然ながら、認識は既知に関わっている。認識をますます推進させ、未知を認識によって却掠(ごうりゃく)して、既知の部分をふやして行けば、それで恋が叶うかというと、そうは行かない。本多の恋は、認識の爪(つめ)のなるたけ届かない遠方へ、ますますジン・ジャンを遠ざけようとするからである。》

 

 見たいという欲望につながる。しかし、見ることで完結しないことを本多は知っていたし、本多をついに主人公に格上げした三島ははじめからわかっていた。

 

<見ることと見られること>

 

 本多が覗き穴から、隣のゲスト・ルームのトゥイン・ベッドを覗くと、遠いほうのベッドに、槙子は白っぽい寝間着で座っていた。槙子が見下ろしているのは、薄明のなかにうごめいているベッドの人影、椿原夫人の腿に青白く痩せた今西の腿がまつわりつく姿だった。椿原夫人は謡曲隅田川』の、息子を亡くした哀しみから逃れることができない母であり、ここにある白は、たおやめぶり、というよりも、すがれた肉の衰弱した世界で、三島も愛読したトーマス・マンの『魔の山』の人間喜劇を想起させる。

 

《槙子はその白銀に光る白髪をたゆたわせ、自若として見下ろしていた。性こそちがえ、槙子が自分と全く同じ人種に属するのを本多は覚(さと)った。》

 

 見るという認識の手段の多重映像。見ると見られるの交互性。

 本多は誘惑者の資格を徹底的に欠いていた。

 

《一つの宇宙の中に自足しているジン・ジャン、それ自体が一つの宇宙であるジン・ジャンは、あくまでも本多と隔絶していなければならない。彼女はともすると一種の光学的存在であり、肉体の虹(にじ)なのであった。顔は赤、首筋は橙(だいだい)いろ、胸は黄、腹は緑、太腿(ふともも)は青、脛(はぎ)は藍(あい)、足の指は菫(すみれ)いろ、そして顔の上部には見えない紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融(と)け入っている。死の空へ架ける虹。知らないということが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈(はず)だ。すなわち「死」に。》

 

 五月の公園の夜。林の外周の自動車路のヘッド・ライトが、針葉樹林を神殿の列柱のように見せ、草生(くさふ)の上を走るときの戦慄。見るだけで決して見られぬ存在、という不可逆性。

 

《その中に一瞬うかぶ、まくれた下着の白の、ほとんど残虐(ざんぎゃく)なほどの神聖な美しさ。たった一度、その光芒が、ほのかに目をあいた女の顔の上をまともに擦過したことがある。なぜ目をあいていたのが見えたのか。一滴の光りの反射が瞳(ひとみ)に落ちるのが見えたからには、たしかに女は、半眼ながら、目をひらいていたのにちがいない。それは存在の闇を一気に引き剝(は)がした凄愴(せいそう)な瞬間だったから、見える筈のないものまで見えてしまったのだ。

 恋人たちの戦慄と戦慄を等しくし、その鼓動と鼓動を等しくし、同じ不安を頒(わか)ち合い、これほどの同一化の果てに、しかも見るだけで決して見られぬ存在にとどまること。その静かな作業の執行者は、あちこちの木蔭(こかげ)や草むらに蟋蟀(こおろぎ)のように隠れていた。本多も、無名のその一人だった。》

 

 見ることの形而上学

 

《そこでジン・ジャンの、人に知られぬ裸の姿を見たいという本多の欲望は、認識と恋との矛盾に両足をかけた不可能な欲望になった。なぜなら、見ることはすでに認識の領域であり、たとえジン・ジャンに気付かれていなくても、あの書棚の奥の光りの穴からジン・ジャンを覗(のぞ)くときには、すでにその瞬間から、ジン・ジャンは本多の認識の作った世界の住人になるであろう。彼の目が見た途端に汚染されるジン・ジャンの世界には、決して本当に本多の見たいものは現前しない。恋は叶えられないのである。もし見なければ又、恋は永久に到達不可能だった。》

 

 死に至る覗き。見ることの怖ろしさ。

 

《覗く者が、いつか、覗くという行為の根源の抹殺によってしか、光明に触れえぬことを認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。》

 

<聡子と慶子>

 

 橋本治は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の「第一章『豊饒の海』論」の、「三 『暁の寺』のジン・ジャン――あるいは、「書き割り」としての他者」で、『暁の寺』のジン・ジャンに関する部分には種本がある、インスパイアされたと公言している『浜松中納言物語』とは別の種本で、四世鶴屋南北による『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』がそれであると言っている。『桜姫東文章』の、「清玄は本多茂邦、桜姫はジン・ジャン、そして旧華族の令嬢であると思しい久松慶子が釣鐘権助に相当する」としている。

 ちなみに『桜姫東文章』のあらすじは、橋本治も書き表しているが、ここでは国立劇場監修による『歌舞伎公演記録集』から引用する。

 

長谷寺の僧清玄(せいげん)と相承院の稚児白菊丸は心中を決意するが、清玄は死に遅れてしまう。(江の島稚児ヶ淵の場)

 それから十七年。吉田家の息女桜姫はお家騒動で父と弟を失い、家宝の都鳥の一巻を盗まれる。生まれつき左手が開かないために入間悪五郎(あくごろう)との婚約も解消され、世をはかなんだ姫は、出家しようと長谷寺の高僧清玄を訪ねる。清玄が祈祷を行うと不思議にも左手は開き、中から白菊丸の持っていた香箱が現れる。それを見た清玄は、桜姫が死んだ白菊丸の生まれ変わりであることを知る。 一方、釣鐘(つりがね)権助(ごんすけ)に命じて都鳥の一巻を盗ませ姫の父を殺害させた悪五郎は、吉田家の横領を企てる。(新清水の場)

 桜姫が剃髪の支度をしていると、悪五郎の使者として権助が現れる。姫は権助の彫物を見て、かつて自分を犯した男であると気付き、密かに子を産み落としたこと、権助が忘れられずに自分も同じ彫物をしたことを告げ、再び関係を持つ。そこへ悪五郎が踏み込み、不義を咎める。姫の落とした香箱を証拠に相手は清玄だと誤解されるが、白菊丸への罪障の念から、清玄はあえて濡れ衣を着て寺を追われる。(桜谷草庵の場)

 不義の罪で身分を奪われた桜姫と清玄のもとに、里子に出していた桜姫の赤子が戻される。白菊丸の面影に迷った清玄が姫に言い寄るところへ悪五郎らが現れ、争ううちに赤子は清玄の手に渡る。(稲瀬川の場)

 赤子を抱いて桜姫の行方を尋ねる清玄は、さまよう姫と三囲(みめぐり)の堤ですれ違う。(三囲の場)

 同じく不義の罪で寺を追われた残月(ざんげつ)と局(つぼね)長浦の住む本所の庵室で病身の清玄は養われるが、金包みを持っていると誤解されて二人に殺されてしまう。そこへ桜姫と権助が来合わせる。権助は、姫を回説こうとする残月の不義を言い立てて庵室を奪い取った上、姫を女郎にするために出掛けてゆく。その留守中に、落雷によって蘇生した清玄は再び姫に迫るが、争ううちに誤って死んでしまう。(岩淵庵室の場)

 権助は、金目当てに町内の捨て子の世話を引受ける。そこへ、枕元に清玄の幽霊がつきまとうというので、小塚原の女郎屋から桜姫が戻されてくる。権助の留守中に現れた清玄の幽霊は、捨て子が実は権助と姫の子であり、清玄と権助が兄弟であると告げる。そして酔った権助の言葉から、彼こそが父と弟の仇であることが分かり、桜姫は権助と赤子を殺す。(山の宿町権助住居の場)

 桜姫は捕手に追われるが、家臣に助けられ、都鳥の一巻も戻って吉田家は再興する。(三社祭の場)」

 

 橋本治らしい着想で、頷けるところもある。つけ加えれば、桜姫の腕の彫物は、清顕の三つの黒子に相当するともいえよう。久松慶子は、釣鐘権助が桜姫を犯したように、ジン・ジャン姫をたぶらかし、肉をもてあそんではいるけれども、慶子と本多の関係は悪くないのだから、その見立てにはやや無理がある。本多の好意はジン・ジャンに裏切られ、邪険にされるというところは確かにそうだとはいえるが、驕慢な女性の思わせぶりにのせられつつも、終のところで邪険にされる失恋構造は三島作品における一つの型でもあって、『仮面の告白』の主人公の初恋、アフェアーもそれだった(伝記的に言えば、三島自身も似た経験をしている)。

 それよりも、久松慶子が綾倉聡子の生まれ変わりという設定はありうる。もちろん、聡子は死んではいないから転生ではないが、『春の雪』以来、『奔馬』でも逢おうとしてとどまり、『暁の寺』でも逢うことを避け、本多の眼の前から四十年も消えてしまっている以上は、たとえ、互いの年齢があわなくとも、本多の意識の中で生れ変りのような位置づけを与えられている。

「創作ノート」を典拠にして、作者の意図を決めつけるのは誤りのもとだが、少なくとも、そのような思考、発想を、一時は抱いたということ、最終的に作品に顕れたにしても顕れなかったにしても、顕れ方によっても、それぞれ意味は生じる。三島が残した「創作ノート」には次のような記事が見てとれる。

「聡子とそっくり同じ顔の女に惚れる。レスビアニズム。(中略)本多は、尼の聡子に会はせぬやう配慮する」

「姫日本へやつてくる。聡子or第三巻の女とよく似た女とLesbian Love」

「聡子にそつくりな女性の出現。月光姫これに惚れる。(中略)月光姫と聡子そつくりの女のベッドシーンを見てしまひ、黒子の出現を見る」

 清顕と聡子の性愛を、ジン・ジャン(清顕の転生)と慶子(聡子そのものであることも初期に検討はしたが、とらなかった)のレスビアニズムという形式で覗き見た本多にとって、慶子は聡子でなければならなかった。

 一見、慶子と聡子は似ていないようでいて、作者の深層心理に忠実に、細部において顕現する瞬間がある。

暁の寺』はジン・ジャンの肉の物語でもあって、最終巻『天人五衰』の終わりで、慶子は「松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、飯沼(いいぬま)勲(いさお)は使命に、ジン・ジャンは肉につかまれていました」と言うが、慶子もまた肉の女だった。

『春の雪』の聡子は、霞町の下宿で「ようやく、白い曙の一線のようにみえそめた聡子の腿に、清顕の体が近づいたときに、聡子の手が、やさしく下りてきてそれを支えた」り、鎌倉由比ヶ浜で「清顕の小さな固い乳首が、自分の乳首に触れて、なぶり合って、ついには自分の乳首を、乳房の豊溢(ほういつ)の中へ押しつぶすのを」感じたりといった官能にまみれる時間があったにしても、聡子が肉を感じさせる場面は少なく、「肉体の外(はず)れ、肉体の端(はな)で起っている」ように遠かった。

 では、『暁の寺』に聡子はどうあらわれるか。第一部の終わり、第二十一、二十二章のエピソード、

 昭和二十年六月、本多が渋谷の松枝邸趾で、九十五歳になった蓼科を見つけ、その口から綾倉家の様子をたずねる、

 

《「聡子さんには会われますか?」

 と思わず本多は胸のときめきを覚えて訊いた。

「はい。その後両三度お目にかかりました。伺いますと、それはそれは御親切にして下さいまして、この私のような者に、今夜はお寺に泊ってゆけ、などと、それはそれはおやさしく……」(中略)

「聡子さんはお元気なのですね」

 と本多は重ねて問うた。

「お達者でいらっしゃいますとも。それに何と申しましょうか、ますます澄み切ったお美しさで、この世の濁りを払ったお美しさが、お年を召してから、却って冴えていらしたようでございますよ。ぜひ一度お訪ねなさいまし。さぞ懐しく思し召すでございましょう」

 本多は率然と、鎌倉からの帰途の自動車に聡子とただ二人同車した、あの深夜のドライブを思い出した。

 ……それは「他人の女」であった。しかもあのとき、無礼なほどに聡子は女だった。(中略)

突然、疎(まば)らな残雪の央(なか)の古井戸のような二つの目に、瞳(ひとみ)が流れ、すばやく一閃(せん)の媚(こ)びが走った。

「本多さんもお姫様にが思し召しがおありになったのでしょう。わかっておりましたよ」》

 

 第二部は、慶子からはじまる。時こそ七年間が過ぎているが、読者の脳裏には、第一部末尾の聡子への追憶の残像がある。

 

《「みごとな檜林(ひのきばやし)をお造りになったのね。以前はこのへんは木一本立っていない荒地だったのに」

 と本多の新らしい隣人は言った。

 久松(ひさまつ)慶子(けいこ)は堂々たる婦人だった。

 五十歳に垂(なんな)んとしていたけれども、整形美容をしたという噂(うわさ)のあるその顔に、些(いささ)かはりつめすぎ光沢のよすぎる若さを持していた。》

 

 この吉田茂にもマッカーサー元帥にもぞんざいな口をきける、アメリカ占領軍の若い将校を情人にしている、一生遊び暮した女は、何の象徴なのか。

 慶子を招じ入れて、本多は薪に火をつけようとするが、『金閣寺』の禅僧のようには火をつけられない。

 

《「お手つだいするわ」

 と慶子は堂々と腰をかがめた。永いこと、固い唇の間にはほんのすこし舌尖(したさき)を挟(さしはさ)んで、本多の不器用を眺めていた末に、そう言ったのである。彼女の胸は、本多のあげた目の先に、無極限のひろがりを以(もっ)て見えた。ウェイストをくびらせたスーツの仕立のために、タイト・スカートの腰の青磁いろは、巨(おお)きな李朝(りちょう)の壺(つぼ)のように充溢(じゅういつ)していた。》

 

 慶子がどんなに聡子と違ってみえても、あるいは違う人物造形のようにみえても、何気ない細部に同じ肉は顕れる。『春の雪』の、清顕に先立って山道をゆき、目ざとく咲残りの竜胆(りんどう)を見つけて摘む場面、「平気で腰をかがめて摘むので、聡子の水いろの着物の裾(すそ)は、その細身の躰に似合わぬ豊かな腰の稔(みの)りを示した。清顕は、自分の透明な孤独な頭に、水を掻(か)き立てて湧(わ)き起る水底(みなそこ)の砂のような細濁(ささにご)りがさすのをいやに思った」の腰と同じである。そのうえ、性格的にも次の描写を読めば似ているばかりか、三島作品の一つの型としての女の強さ。

 

《慶子はきわめて親切で知的でもあったが、或るやさしさの欠如が目立った。文学美術音楽の話をさせても、よしんば哲学の話をさせても、香水や頸飾(くびかざり)の話をするのと同じように、女らしい贅沢(ぜいたく)や逸楽の味をこめて語り、決して芸術も哲学もむきだしの形を露(あら)わさぬながら、知識はゆたかで、甚だしい疎密(そみつ)はあったが、部分的にはずいぶん透徹していた。

 明治大正の上流夫人が、固苦しい貞女気取か、とんでもないはねかえりの、どちらかに偏していたことを思うと、慶子の中庸を得ていることはおどろくほどであった。しかし彼女を妻にした男の苦難は察しがついた。決して苛酷(かこく)なわけでもないのに、何か微妙なことについて容赦しないという気構えが、つねに感じられたからである。》

 

 橋本治が、清玄が桜姫に邪険にされるようだと言う、三島の手馴れで、エメラルドの指環を見上げる窓から投げ返された本多は、慶子を訪れる。指環を慶子からジン・ジャンに反(かえ)してほしい、とお願いに。

 

《「私はジン・ジャンに恋しているんだと思いますよ」

「まあ」

 と慶子は、嘘(うそ)ばかり、という目色で華やかに笑った。

 慶子がその次に言った言葉には、一種決然たるものがあった。

「わかったわ。今のあなたには、何かぞっとするほど莫迦(ばか)らしいことをなさる必要があるわけね。たとえば」とムームーの裾を軽くもちあげた。》

 

「たとえば、私のこの足の甲に接吻(せっぷん)でもしてごらんになったら?」と慶子は言い、さきの願いをきいてくれる交換条件としてなら、と本多はうずくまって、思い切って、絨毯の上にひれ伏した。

 

《そうして見る慶子のサンダルは、尊い祭具さながら、力を入れて踏みしめている五本の指の真紅の爪の上へ、なだれかかっている褐色や茶や白い乾果がおごそかに、やや筋張った神経質な足の甲を守っていた。(中略)足の甲に接吻してから目をあげると、光りはすべて、ハイビスカスの花々を透かした暗い緋色(ひいろ)になり、そこに二本の白い美しい柱がほのかな静脈の斑(ふ)を見せてそそり立ち、はるかの天空に、小さな真黒な太陽が、黒い光芒(こうぼう)をふり乱して懸っていた。》

 

 インドのカーリー女神のような、あるいは孔雀明王のような女への、マゾヒスティックな欲望。

 本多はジン・ジャンに恋することで、清顕に恋していたのかもしれず、また聡子に恋することで、慶子に恋していたのかもしれない。そして、清顕と聡子と二人ながらに恋することで、ジン・ジャンと慶子と二人ながらを恋し、結ばれることを願っていたのかもしれず、それゆえに心の覗き穴にそれを見た。プルーストゴモラの愛を、ヴァントゥイユ嬢やアルベルチーヌのようなレスビアニズムを。決して達成されえない愛は、三島にとっての天皇もまたそうだったともいえよう。そのような覚めつ夢みつの不可能性こそが三島作品の泉だった。

                      (了)