文学批評 「細君下戸ならず、談話頗興あり――谷崎、荷風、羈旅の交わり」

「細君下戸ならず、談話頗興あり――谷崎、荷風、羈旅の交わり」

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 谷崎潤一郎『都わすれの記』は、昭和十九年春、《住み馴れし阪神の地を振り捨てゝ》、昭和二十一年五月に家人らを京都へ呼び寄せるまでの、熱海、ついで岡山県の津山、勝山への疎開体験をつづった長めの詞書と短歌からなる。谷崎の短歌(むしろ、あえて和歌とでも呼ぶべきか)は、「のがれ来てくらすもよしや吉井川河原のほたる橋のゆふかげ」「草枕旅寝の床にしのぶかな焼野が原のふるさとの月」の羈旅歌の反近代的なわかりやすさをみても、ひとすじなわではない。

 その詞書は『潤一郎訳 源氏物語』につうじる叙情の文体である。昭和二十年ともなれば、

《かくては此処にあらんこと危し、一日も早く作州へ逃れんと家人等の催し立つるまゝに、五月十四日旧宅を出で、姫路に一泊して翌十五日津山に至る。宕々庵は旧藩主の別業にして池に臨める御殿造りの建物なり》

 ところが、《岡山姫路明石などの焼き払はるゝに随ひ》《われらもまた一層安全なる地を選ばんには如かじとて、更に西の方十里ばかりなる眞庭郡勝山町へ移ることゝはなりぬ》といった、疎開というよりは旅を思わすあわただしさだった。

《勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしき嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすじ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、(中略)あゝわれ齢六十路におよびてかゝる辺陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし》

 光源氏の須磨・明石に貴種流離を、人生の一時期における少しばかり長い旅と名付けてよければ、この谷崎の津山・勝山への少し長い旅を谷崎自身が嘆きつつも興じていたところが深層にはあったに違いない。

 ここで、食糧事情はどのようであったかといえば、谷崎夫人松子の『蘆辺の夢』でうかがい知ることが出来る。

《戦争中疎開しました津山(岡山県)の生活が私共の一番たべものに苦労しましたときで、たいへんみじめなおもいを致しましたが、お昼に忘れられないことがあります。あるとき私共の様子を4みかねた知り合いが卵二個を恵んで下さり、それをお客の昼食に料理して差し上げたところ、あとで勝手なことをしたと、結婚してはじめてといっていいほど叱られ「食物のうらみは恐いぞ」と脅す始末でした。そんな様子でしたから津山を逃げ出して、もっと奥の勝山へ移りましたが、勝山はまだものに恵まれておりまして、谷崎はいつも買いものかごをさげて自分で買い出しに行ったものです》

 目に浮かぶようではないか(それにしても松子夫人の筆力は谷崎と張り合い、導くようで凄みがある)。

 衆知のとおり谷崎は、昭和十九年七月に『細雪』上巻を私家限定版二百部として永井荷風をはじめとする知己に領ったものの、当局から警告を受ける。当時の谷崎は発表のあてもなく『細雪』中巻および下巻を日々書きついでいた。その執筆ペースは、谷崎の『疎開日記』によれば、日に一枚から二枚、まれに三枚といったところらしい。残された日記や手紙から推定するに、おそらく下巻五十枚ほどを勝山で書きあげたようだが、その地で谷崎は荷風を迎えることとなる。

 終戦を目前にした昭和二十八年八月十三日からの谷崎『疎開日記』でその様子を見てゆこう。長くなるが、十三日と十四日は割愛しうる一行とてない。

《八月十三日、晴

 本日より田舎の盂蘭盆なり。午前中永井氏より来書、切符入手次第今明日にも来訪すべしとの事なり。ついで午後一時過頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思つた程窶れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員ニ付夜は赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され二階にて渡邉氏も共に夜更くるまで話す。荷風氏小説原稿ひとりごと一巻踊子上下二巻来訪者上下二巻を出して予に託す》

 嬉しくさせる一文ではないか。ここに《荷風氏小説原稿ひとりごと一巻》とあるのは、のちに下巻を書き加えて『問はず語り』と改題したものであろう。

《八月十四日、晴

 朝荷風氏と街を散歩す。氏は出来得れば勝山へ移りたき様子なり。但し岡山は三日に一度ぐらゐは食料の配給ありとの事にてその点勝山は条件甚だ悪し。予は率直に、部屋と燃料とは確かにお引受けすべけれども食料の点責任を負い難き旨を答ふ。結局食料買入れの道を開きたる上にて荷風氏を招く事にきめる。本日此の土地にて牛肉一貫(二〇〇円)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。今日は盆にて昼は強飯をたき豆腐の吸物にて荷風氏も招く。夜酒二升入手す。依って夜も荷風氏を招きスキ焼を供す。又吉井勇氏に寄せ書のハガキを送る。本日大阪尼崎方面空襲にて新型爆弾を使ひたりとの風説あり。今夜も九時半頃迄二階にて荷風先生と語る》

 断末魔のごとき世情であったのに、定家『明月記』の「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」を思わすスキ焼の一夜がもたれたのはよく知られたところだ。

 牛肉一貫(三・七五キログラム)をまとめて買うところがいかにも大谷崎らしいのだが、二百円という金銭が今のいくらに相当するかは、合理的なしまり屋荷風の『断腸亭日乗』昭和二十年の記録が参考になる。《部屋代 金参拾八円也、電燈料 金八拾参銭也、(中略)新聞代 金参円也》といった物価が細かにメモされていて、およそ千倍もすれば七十年後の価格相当であろうか。しかしこれが衣に関わることだと、《靴(ゴム底白布製)一足 金百円也、同(赤皮半靴) 同 金二百円也、ワイシャツ 金二百円也、薄地夏用Tシャツ 金二百円也》であり、百倍でも高級品と化してしまう。さらに食ともなれば《鶏卵一個 二円、胡麻油 一合 金拾五円》などとあって比例計算は破綻をきたす。いずれにしろ牛肉一貫二百円は壮年の勤め人の月給を超える額であったというから高嶺の花には違いなく、そもそも衣食住のうちの食については手に入れることそのものが困難な時代だった。

《八月十五日、晴

(前略)荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放送あらせらるとの噂をきゝ、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきゝ奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほゞ聞き取り得、予は帰宅し二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り(後略)》

 ここで、谷崎と荷風の関係を振りかえっておく。帰朝後、『歓楽』『すみだ川』『冷笑』などを矢継早に発表し、森鴎外上田敏の推薦を受けて慶応義塾大学文学部教授となった荷風は、明治四十四年十一月号の『三田文学』誌上に、『谷崎潤一郎氏の作品』という一文を寄せ、『刺青』『少年』などを発表したばかりの新進作家谷崎への賛辞の声を惜しまなかった。ここに谷崎は華々しくデヴューしたと言ってもよかろう。《明治時代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかった、或は手を下さうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である》と激賞し、作家の顕著な三つの特徴として、第一に《肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄》、第二に《全く都会的たる事》、第三に《文章の完全なる事》をあげた。のちに谷崎は『青春物語』に《雑誌を開けて持っている両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫えるのを如何ともすることが出来なかった》とそのときの興奮を書いている。

 それから二十年後の昭和六年、すでに『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼食う虫』などで大家となっていた谷崎は、『「つゆのあとさき」を読む』という批評を『改造』十一月号に発表した。硯友社に代表される明治中葉の文学、その後の自然主義への言及に端を発し、『つゆのあとさき』をして、《この小説は近頃珍しくも純客観的描写を以て一貫された、何の目的も何の主張もそれ自身のうちに含んでいない冷めたい写実的作品》と分析したうえで、《荷風氏は昔から色彩の豊富な作家であったが、老来その筆が枯淡になっても、なおなまめかしい女主人公の言動や、東京という大都会の街上における四季の風物を叙するに方(あた)っては、自然主義の作家に見られない感覚の優雅さがある》と荷風の本質を見抜く批評の確かな目を知ることができる。

 また、《自然主義といい、写実主義といい、今では既に時勢おくれの言葉であるが、私はこういう作品を読むと、昔ながらの東洋風な純客観的の物語、――絵巻物式の書きかたも、使いように依ってはいつの時代にも応用の道があることを感ずる》という一節は、自身の『源氏物語』への思いいれをへて、昭和十七年に『細雪』の稿を起こすこととなる構想の太いうねりを引き寄せる。

 ところで『「つゆのあとさき」を読む』のなかほどには、荷風との交際について語った部分がある。《ここでちょっと私交上のことをいわしてもらうのだが、私は実は、近年信書の往復はしているけれども、従来殆ど荷風氏とは親しく交際したことがない。それというのが、青年の頃、自分の最も敬慕するこの先輩が思いがけなくも自分の書いた物をいち早く認めて下すって、『三田(みた)文学』の誌上で過分な賛辞を賜わったために、はにかみや(、、、、、)の私はかえってこの人に近づきにくくされたのであった。そこへ持って来て荷風氏の方も余り友人を作るのを好まれない風が見えた。まあそんな訳で、最近にお目に懸(かか)ったのが既に八、九年も前であるから、私は、氏の生活ぶりについて何も知るところがないのである。》

 二人だけで会うことも徒党を組むことも馴れあうこともなかったからこそ心から理解しつづけられた、と言えるだろう。そんな都会的関係の二人が親しく語りあい、交遊した三日間が昭和二十年の八月十三日、十四日、十五日だった。

 あえてこれ以外の語らいの日を探しだせば、昭和十九年三月四日に谷崎が麻布の荷風宅、偏奇館を訪問したことだろう。谷崎『疎開日記』にはその時の荷風の《侘しい遣る瀬ない独身男の哀れさ》が身に沁むように書きだされているものの、羨む気持ちがなかったわけでもない(谷崎は荷風の生活態度にあこがれつつも、自分の性向や対女性への態度にあった結婚生活を松子と築くことを選んだ)。

 化物屋敷のごとく荒れた偏奇館を訪れた谷崎はもんぺを台所で脱ぎ、《階下の洋間にウスベリを敷きたる一室に請ぜられる、永井氏も本日は糸織か八端らしき縞物を着角帯をしめたる風情、若かりし頃の俤あり、(さうしてゐると荷風氏は実に若く、嘗て代地に住み茶や歌澤のけいこに通ひし頃と余り違わざる感じなり)壁に千考の絶句を氏自ら扇面に揮毫したるもの二葉ピンにて止めてある外にはこれと云ふ装飾もなし、室内には小さき用簞笥、小机、手あぶり二個、「冬」と記した紙片の貼ってある支那靴一個等々あり、荷風氏は茛入のカマスより刻みをつまみ出して吸ひつゝ語る、予は全集編の事ニ付種々質問す》

 対する荷風断腸亭日乗』は簡潔だ。《三月初四。晴。正午谷崎君来り訪はる。其女の嫁して渋谷に住めるを空襲の危難あれば熱海の寓居につれ行かんとする途次なりと言ふ。余去冬上野鶯渓の酒樓に相見し時余が全集及遺稿の仕末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるゝところあり》

 それからちょうど一年後の昭和二十年三月九日、空襲で偏奇館を焼け出された荷風は流浪の身となる。六月、荷風は《ヴェルレヌの選集》や《仏蘭西訳本トルストイのアンナカレニン》やゾラ、ユイスマンを読みつつ、《海波洋々マラルメが『牧神の午後』の一詩を思起せしむ》明石をへて岡山市に着いた。《帆船自動船輻湊す、往年見たりし仏国ソーン河畔の光景を想ひ起さしむ、絵の道知りたらば写生したき心地もせらるゝ景色なり》との幸福感もつかのま、岡山市でも罹災し、九死に一生をえるはめだった。

 そうして七月九日、意気消沈の荷風は谷崎に、《当地にてハ紙筆ハ勿論端書も品切なかなか手に入らず困却致居リ》と書簡を送る。谷崎は十二日、二十一日とまめに返信し、荷も発送した。『断腸亭日乗』によれば、

《七月廿七日、晴、午前岡山駅に赴き谷崎君より送られし小包を受取る、帰り来りて聞き見るに、鋏、小刀、印肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、其他あり、感涙禁じがたし、晩間理髪、》

 そしていよいよ『断腸亭日乗』の人口に膾炙した八月十三、十四、十五日にたどりつく。十三日については荷風勝山到着後を、十四日は午後の様子を、そして十五日は一字一句ゆるがせにできないので長くなるが全文引用する。

《八月十三日、(中略)午後一時半頃勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ、駅を去ること僅に二三町ばかりなり、戦前は料理屋なりしと云、離れ屋の二階二間を書斎となし階下には親戚の家族も多く頗雑沓の様子なり、初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり、佃煮むすびを馳走せらる、一浴して後谷崎君に導かれ三軒先なる赤岩といふ旅舎に至る、(中略)やがて夕飯を喫す、白米は谷崎君方より届けしものと云ふ、膳に豆腐汁、町の川にて取りしと云ふ小魚三尾、胡瓜もみあり、目下容易には口にしがたき珍味なり、食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る、帰り来って寝に就く、岡山の如く蛙声を聞かず、蚊も蚤も少し、》

 荷風にとって久々の歓楽のひとときとなったが、さすがに谷崎夫人松子を女として観察することもおこたらなかった。

《八月十四日、晴、朝七時谷崎君来り東進して町を歩む、(中略)正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。余谷崎君の勧むるがまゝ岡山を去りこの地に移るべき心なりしが広島岡山等の市街続々焦土と化するに及び人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず。他郷の罹災民は殆食を得るに苦しむ由、事情既にかくの如くなるを以て長く谷崎氏の厄介にもなり難し、依て明朝岡山にかへらむと停車場に赴き駅員に乗車券のことを問ふ、明朝五時に来らざれば獲ること難かるべしと言ふ、依て亦其事を谷崎氏に通知し余が旅宿に戻りて午睡を試む、燈刻谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ、急ぎ小野旅館に至るに日本酒も亦あたゝめられたり、細君下戸ならず、談話頗興あり、九時過辞して客舎にかへる、深更警報をきゝしが起きず、》

 残る手紙によれば、荷風のほうから勝山行きを希望したのに、谷崎に華を持たせた、というより荷風のダンディズムゆえに谷崎の勧めと作為されていて、ここに作家の日記の創作の跡がある。虚実皮膜の間(あいだ)の芸術である。

《八月十五日、陰り手風涼し、宿屋の朝飯鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る、鉄道乗車分は谷崎君の手にて既に訳もなく贖い置かれたるを見る、雑談する中汽車の時刻迫り来る、再開を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る、新見の駅に至る間墜([ママ])道多し、駅毎に応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る、されど車中甚しく雑沓せず、涼風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遙に忍び易し、新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜惜く能はず、食後うとうと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、

[欄外墨書]正午戦争停止》

《恰も好し》 これほどに荷風らしい言葉はない。たったこれだけの感想しか書きつけなかったことから、荷風はすでに気力を喪失していたなどと考えるのは野暮だ。《染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ》ほどの反権力、反骨の精神があろうか。

 ところで、松子夫人は荷風が訪ね来たことを『蘆辺の夢』に書き残している。

《この勝山に、岡山に疎開中の荷風先生がはるばるお訪ね下さって、お帰りの車中で私が差し上げたおにぎりのお昼をよろこんで下さったことは、先生の「罹災日録」にも出ておりますし、そのことは「あさめし ひるめし ばんめし」の二号にも紹介されておりました。それが昭和二十年八月十五日という、あの終戦の日の正午だったことも感慨深いことです。》

 ここにある「罹災日記」とは『断腸亭日乗』の当該部分であり、《欣喜惜く能はず》に荷風の心情が凝縮されている。

 それにしても谷崎は東京の人間には珍しく、よほど牛肉が好きだった。戦後の昭和二十年暮れから翌二十一年春までの谷崎日録『越冬記』にも、正月六日《六時本田夫人来り牛肉スキヤキにて一同と夕飯を共にす。食後地唄をきく》、正月三十一日、津山の闇市見物に行き《牛肉(百目三十五円、勝山のと比べて素晴らしきロース肉なり)等を買ふ》とある。そして三月十六日、京都に転居する下準備に京の旅館喜志元に泊り、翌十七日には錦市場イースト、ユバなどを買い求め、南座でひらがな盛衰記、近松原作天網嶋紙治内の場と大和屋の場の二幕を見物して《夜は肉スキ焼なり》とくる。(いったいに谷崎は穢れに対する禁忌の念にとぼしく、『細雪』中巻で板倉が大腿部を切断する場面では手術をのぞき見た四女妙子に、「当分牛肉の鹿(か)の子(こ)のとこ」と言わせた。)

 さて、すでに文豪としての地位を確立していた谷崎にしてみれば、荷風への本心は、自分を文壇に送り出してくれたことへの感謝と文学的尊敬を基底としつつも、すでに慈しみや憐れみの情に近いものがあり、それは川口松太郎への手紙にあからさまだ。《さう云へば貴君のおきらひな荷風先生ハ偶然にも岡山へ疎開され始終文通いたし居り近々此方へ来遊さるゝ筈に御座候何でも東京を三度焼け出され岡山へ来て又一度焼かれ、現在ハ同市の郊外に菅原明郎([ママ])氏夫婦と二階借りをして居られ候昨日の来翰にハ痢病にて臥床中全快迄にハ一二週間かゝると有之貴君に云はせれバ御説も可有之候へ共六十七歳の高齢にて流離艱難せらるゝハ御気の毒之至りに御座候》

 荷風に戻る、終戦の日以降の荷風に。

 八月十六日からの荷風は、葡萄、鰻を味わいながら岡山市にとどまったあと、同月三十一日葡萄液に喝を医しながら品川をへて代々木に着いたが、訪ねさきが熱海に転居と知って、翌日その地へ彷徨する惨めさであった。

 ところで荷風は『ひとりごと』(のちに改題して『問はず語り』)一巻を勝山で谷崎に託した。『断腸亭日乗』によれば、その上巻は昭和十九年十月二十九日に浄写されている。続編は翌日起稿され、早くも同年十一月十三日には《小説ひとりこど([ママ])正続とも校訂浄写》、昭和二十年一月十三日には《旧稿続ひりごと([ママ])後半改竄》の記述がある。

《問はずがたり序》に書かれたとおり、《小説不問語(とはずがたり)。初はひとりごとと題せしが後に改めしなり。昭和十九年秋の半頃より麻布の家に在りて筆とりはじめその年の暮れむとすることほひに終りぬ。あくる年の冬熱海にさすらひける頃後半を改竄(かいざん)して増補するところあり。初て完結の物語となすことを得たり》の《あくる年の冬》とは昭和二十年末にあたるから、ここには昭和二十年六月から八月にかけての岡山体験がはっきりと影を落としている。

『問はずがたり』下巻八は荷風にしてはあまりに手離しに甘い情緒からなり、かえって痛々しい。

《僕は今岡山県吉備(きび)郡□□町に残っている祖先の家に余生を送っている。五十年前に僕の生れたところである。

 昭和二十年八月十五日の正午、僕はこの家の畠の秋茄子(あきなす)を摘みながら日軍降伏の事をラヂオによって聞知ったのだ。

 僕の生涯は既に東京の画室を去る間際に於て、早く終局を告げていた。新しい生涯に入ることを、僕はもう望んでいない。僕は昨日となった昔の夢を思返して、曾て「問はずがたり」と題したメモワールをつくって見たことがあった。こゝにそが最終の一章を書き足して置こう。》

 上巻には『問はずがたり』といえばきまって引きあいにだされる、同居人辰子の娘雪江と女中松子の女同士の戯れを主人公が節穴から覗き見る場面があって、いかにも視る人荷風ならではの女の生態をとらえた巧みな文章であった。ところが下巻八からは羈旅体験に情が刺激されてロマンティシズムが溺々と流れだす。谷崎が『「つゆのあとさき」を読む』で評した、《「あめりか物語」「ふらんす物語」等における作者は、しばしば詠嘆し、しばしば賛美し、しばしば興奮し、主観を憚(はばか)らず流露させている点において、むしろ詩人的であった》という、旅行記の形式を借りたロマンティシズムは若き日の荷風の魂を震わせたものだった。

《西の方総社(そうじゃ)と呼ばれる町をさして、極めて速力の鈍い旧式の支線列車は、岡山の町を出るが否や備前備中二国にひろがる明い沃野(よくや)の唯中に僕の身を運んで行く。今更言うまでもなく、旅行好きの人は一ノ宮、高松、吉備津(きびつ)などゝいう町や村の散在している松の多い丘陵の風景の、いかに明媚(めいび)であるかを知っているだろう。》

 勝山で谷崎と夫人松子にあい、《年の頃三十四五歟、痩立の美人なり》と記憶にとどめた八月十三日の夜道の官能が匂いをともなって浮きあがる。

《或夜、僕は町や村の家毎に戸外で焚くさゝやかな火影が池や溝渠の水を彩(いろ)どり、何処ともなく線香の匀の漂いわたるのに、一月おくれの盂蘭盆(うらぼん)の来たことに心づいた。平和の福音が伝えられて、軍閥の没落したことを知ったのは、其翌々日の真昼時であった。》

 そして『問はずがたり』はこう終わる。

《松の深林、乾いた石逕(いしみち)、おとなしい臆病な山羊………。画家セザーヌと詩人ジャムとが愛したプロワンス州ばかりが好い国とも限るまい。隠な日があたるところはどこへ行っても好い国だろう。》

 いささか好々爺風肌ざわりだが、かえりみればプロワンス(プロヴァンス)とは、三十数年前の若き荷風の『ふらんす物語』におけるライト・モティーフに他ならなかった。『ふらんす物語』の《遠くアルプ山の一脈を望む乾燥したプロヴァンス州の広い平野の真中をば、ローンの大河は岸の柳を根から揺(ゆす)るように凄(すさま)じい速さで流れている。幾世紀前の遺跡とも知れぬ古い寂しい石垣が急流の中程で崩れたまま突立(つった)っているが、その対岸の近い丘陵の上には、暗澹(あんたん)たる褐色して、古城の塔と観楼(ものみ)までが、昔のままの形を保ちつつ聳えている。汽車は目の下を流れるローンの急流よりも早くなった》には、『問はずがたり』と同じ官能の多重映像がきらめいている。

 谷崎を訪問した荷風が、谷崎文学の要(かなめ)である恋愛関係における第三の存在として松子夫人に機能しえなかったことに、老いた荷風の性の淋しさがあったとはいえ、日本文学史上まれにみる二人の文学者の至福の時間がもたれ、互いに様々な形式で書き残してくれた。女房文学者谷崎と隠者文学者荷風の、羈旅の交わりの座の文学でもあり、そこにはやはり発表のあてなく『細雪』を書きつぐ谷崎と松子夫人による、牛肉と白米による歓待があった。《細君下戸ならず、談話頗興あり》

                                  (了)

 

(作品引用にさいして、原則として小説は現代仮名づかいとし、日記・書簡・文語文は旧仮名づかいのままとした。漢字は理由がないかぎり新字体に改めた)