文学批評 「フーコーと鴎外 ――「知/言説」「権力」「告白」「歴史/狂気」」

 「フーコーと鴎外 ――「知/言説」「権力」「告白」「歴史/狂気」」

 

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フーコーと鴎外」について考えてみたい。

フーコーにおける鴎外」ではない。フーコーは一九七八年四月に二度目の来日を果たし、一か月近く滞在して講演、対談、インタビュー、精神病院や監獄訪問や禅寺での座禅体験などをした。数か月前から日本の文化や社会状況についてさまざまな文献を学んで来たが、講演における日本への言及は、十六、七世紀ヨーロッパのキリスト教社会で<牧人=司祭制>が国家の形成に重要な役割を果たしたことと、丸山眞男『日本政治思想史研究』を読んでの、日本の徳川幕府体制の中で儒教が果たした役割との共通点と差異について述べた程度にすぎず、鴎外を読んでいたとは思いがたい。

「鴎外におけるフーコー」でもない。鴎外は海外情報に特別に詳しかったが、一九二二年に死んだ鴎外が一九二六年に生を受けたフーコーを知る由もない。しかし鴎外の業績、軌跡は、フーコーを突き動かした「知/言説」、「権力」、「告白」、「歴史/狂気」といった現代的テーマと驚くほど重なりあう。だから「鴎外におけるフーコー」的なもの、と言うべきかもしれない。

『鴎外全集』全38巻(岩波書店)を手に取れば、木下杢太郎が森鴎外の業績を「テーベス百門の大都」と嗟嘆したのは誇張ではなかったと認識させるに十分だ。

 およそ1巻から20巻までは文学者の姿として、質と量と先進性に目を瞠らせる翻訳(『即興詩人』、『諸国物語』、ゲーテファウスト』等)と、小説(ドイツ三部作の『舞姫』から歴史小説阿部一族』等まで)、戯曲、詩歌。21巻から27巻は批評家として、審美論、文芸批評、美術評論、劇評、歌舞伎評、社会思想批評、ジャーナリズム(海外通信『椋鳥通信』)。28巻から34巻は軍医官僚として、衛生学、医事評論、戦時衛生、戦争論。35巻が日記(『独逸日記』、『小倉日記』等)、36巻から38巻が書簡、手記となっている。これらの基底には主筆、主催した「しがらみ草紙」、「めさまし草」、「衛生新誌」等による知の啓蒙活動がある。

 おそらく近代日本の表象空間において、これほどフーコーの関心と似ていた人間はほかにいないだろう。もちろん鴎外の思想的問題意識は半世紀後のフーコーに及ばず、とりわけ「権力」との関係性は、『舞姫』によるデビューから歴史小説一辺倒になった晩年を経て、有名な「遺書」で終わるまで、持続的に苦悩しながらも国家「権力/装置」そのものの軍医トップに登りつめた立ち位置から限界はあるが、むしろその差異を測ることで見えてくるものがある。

 

 フーコーは遺言で未刊行テクストの死後出版を許さなかったが、単行本以外のフランス及び外国で既刊行されたテクストを集めた『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ~Ⅹ』全10巻(蓮實重彦渡辺守章監修/小林康夫石田英敬松浦寿輝編、筑摩書房)(原著で全4巻)が没後に出版された。

 各巻の構成は次の通りとなっている。

ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』

ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー

ミシェル・フーコー思考集成III 1968-1970 歴史学/系譜学/考古学』

ミシェル・フーコー思考集成IV 1971-1973 規範/社会』

ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』

ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-1981 政治/友愛』

ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-1983 自己/統治性/快楽』

ミシェル・フーコー思考集成X 1984-1988 倫理/道徳/啓蒙』

 発表年次と、日本版に付された副題によって、フーコーの関心がどのように推移して行ったかが類推できるが、主著である『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生――監視と処罰』、『知への意志(性の歴史Ⅰ)』と並行して読めば、フーコーの初期(一九六〇年代)、中期(一九七〇年代)、後期(一九八〇年代)において、執筆当時は十分に自覚的ではなく、考察の焦点に据えてはいなかったけれども、真の関心、テーマは「権力」をめぐるものだった。

ミシェル・フーコー思考集成』の副題「狂気/精神分析/精神医学」、「文学/言語/エピステモロジー」、「歴史学/系譜学/考古学」、「規範/社会」、「権力/処罰」、「セクシュアリテ/真理」、「知/身体」、「政治/友愛」、「自己/統治性/快楽」、「倫理/道徳/啓蒙」といったフーコーの広汎なテーマの中で、「権力」ばかりでなく、「知/言説」、「告白」、「歴史/狂気」を、「啓蒙」、「事件」、「空間」へも派生しつつ考察してゆく。

 その際、フーコーについては『ミシェル・フーコー思考集成』のインタビュー、対談での発言が下手な解説書よりもわかりやすく、何よりも生の言説なので、少し長くなるが引用することで理解を共有する。鴎外については高校の国語教科書等による道徳教育的先入観、思い込みを排除しながら、両者の近親性を確認、比較検討したい。

 

 

<知/言説>

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)から。

《私は、科学史の専門家カンギレムの弟子であったので、私の問題は、一科学の誕生と発展と組織化を、その内的構造化からではなく、その支えとなった外在的・歴史的要素から出発して研究する、そういう科学史は不可能だろうかという問いでした。

 そういうわけで、私はある時期まで、科学的言説の内的分析と、その展開の外在的条件の分析との間で揺れ動いたのです。『狂気の歴史』では、精神病理学がどのように発展したか、どのようなテーマを取り上げ、どのような対象を扱い、どのような概念を用いたかを明らかにしようとすると同時に、それが行なわれた地盤というもの、すなわち<監禁>の実践、十七世紀における社会的・経済的条件の変化をも捉え返そうとした。》

 

 フーコーの経歴と問題は、鴎外がドイツ留学で学びとろうとしたコッホ細菌学、衛生学、医学統計、医療行政や、帰路に立ち寄ったイギリスの公共医療施設見学という経歴、関心(「衛生新誌」等による社会的視野の啓蒙)と重なり合う部分が多い。鴎外が学んだドイツ軍の衛生制度は、帝国主義列強に伍すことを急務とする日本陸軍にとってただちに必要不可欠な実践的知で、鴎外は実際に医者であったことから医学学術論文を残した。

 鴎外は留学先のドイツで三つの医学的研究を実習した。 第一に、ミュンヘンの衛生学者ペッテンコーファー教授の命により「ビールの利尿作用について」を研究した。ビールの利尿作用がアルコール含有量によるものであることを証明し、ドイツの「衛生学雑誌」に掲載された。第二に、「ムギナデシコ精子の毒性と解毒法について」で、ドナウ河岸で花を咲かせるムギナデシコの実は毒性が強く、家禽、家畜が食べて死ぬことが多かったが、 自らムギナデシコ入りパンを食べて障害を調べた。この実験のさなか、ルードヴィヒ二世が湖で溺死した(鴎外は湖に何度か通って、「事件」を『うたかたの記』で小説化した。王を救おうとして引きこまれて死んだ侍医の精神科医グッデンを、殉死忠臣と漢詩に詠んだ)が、『うたかたの記』のテーマの一つは「狂気」でもある。第三に、ベルリンで厳密な科学的研究を指導するコッホの下で、「下水道中の病原菌について」を研究し、論文発表している。

 

 フーコーは外在的、歴史的、社会的な要素分析の一例として、『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「社会医学の誕生」(リオ・デ・ジャネイロ国立大学での講演)で、医療化の歴史、国家医学、都市医学、労働力の医学を論じている。

《もうひとつの有名な例は、結核です。一八一二年に結核で死んだ病人の数を七百人とすると、コッホが彼の名を世間に知らしめることになる結核菌を発見した一八八二年には、わずか三百五十人が結核で死んだにすぎません。そして化学療法を取りいれた一九四五年には、死者の数は五十人の割合にまで減ります。どのようにして、そしてなぜ結核という病気はこのように鎮静化したのでしょうか。生命=史のレベルで、どのようなメカニズムが働いたのでしょうか。社会・経済的な状況の変化、人体の適応や抵抗といった現象、細菌そのものの弱体化、そしてさまざまな衛生手段や隔離手段が重要な役割を果たしたことは、疑いの余地がありません。(中略)十七世紀半ばにドイツで計画され、同じ世紀の末期と十八世紀初頭に導入された医療行政は、次のような要素から成り立っていました。》と、ドイツは国家的なレベルの罹患率の観察システム、医学の実践と知の規範化(医者の規格化)、医者の活動を監視するための行政組織、医学官僚の創設といった国家管理主義によるか国家医学とでも呼べるようなものを産み出した、とする。

 また、《新しいかたちの社会医学がイギリスで誕生します――イギリスは産業の発達を経験し、その結果、プロレタリアの形成が他の国々よりも大規模で、急速だったからです。(中略)イギリスの医学が社会医学になっているのは、主として「貧民救済法」のおかげです。(中略)この法律の条項には、貧窮者たちを医学的に管理するということが含まれているのですから、貧しい人々が扶助制度の恩恵をこうむるようになったときから、さまざまな方法で彼らを医学的に管理することが義務化されます》からは、「権力」「装置」によって、《豊かな人々はこうして、貧しい階級が生みだす疫病の犠牲になるという危険から解放されたのです。》という批評精神を見ることができる。

 

 鷗外においては、『鷗外全集』の医学・衛生学に関する20巻から24巻から、例えば「公娼廃後の策奈何」、「「公娼廃後策」の原材」、「公娼廃後策とフリイドリヒ、ザンデルと」、「性欲雑説」、「女子の衛生」といった啓蒙活動において、外在的、歴史的、社会的な要素分析としてセクシュアルなものへの関心が見てとれる。

 衛生学を学ぶということは、ドイツ、プロイセンの外在的・歴史的要素への眼差し(成果は、日本の都市衛生、陸軍糧食への具体的対策)を必須とするものだった。鴎外の場合も、内的なものと外在的なものとの揺れ動きがある。明治二十一年から二十六年までのドイツ三部作、文芸評論、海外文学翻訳紹介ばかりでなく、医学の分野における「衛生新誌」刊行による啓蒙活動、軍医学校での出世、医学博士学位取得、慶應義塾での講義といったパッションの後で、明治二十七年から四十一年までの文学活動の中断、空白、その埋め草のような審美学研究、アンデルセン『即興詩人』翻訳の諦念の日々から晩年の歴史小説へのある種の逃避に、作家と軍医総監にまで登りつめた二重生活の不機嫌な内実が見え隠れしている。

 

「啓蒙」について触れておこう。

 フーコーは、『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)で、哲学者の役割をこう述べている。

《哲学者は、<見えないもの>を見えるようにするのではなく、<見えているもの>を見えるようにする役割をもっていると思います。つまり、常に人が見ていながらその実態において見えていないもの、あるいは見損なっているものを、ちょっと視点をずらす(・・・・・・)ことによってはっきりと見えるようにする作業なのです。哲学とは、このわずかな首のひねり(・・・・・・・・・)、わずかな視点の移動(・・・・・・・・・)によって成立しているので、それは十八世紀ヨーロッパにおいて<フィロゾフ>と呼ばれた意味での<哲学者>の作業によほど近いわけです。

 ところで、現代社会において<知識人>が果たし得る役割があるとすれば、それは未来に関わる真理を予言するというようなことではもはやない。むしろ、その役割は、現在時の診断者(・・・・・・・)のそれであり、現在何が起こっているかを、しかも自分の専門領域について、分析することなのです。(中略)

 現在、たとえば医療について、性の解放について、環境問題について、一連の事件が起きている。たとえば原子力物理学者や生物学者は、それぞれの専門の立場から環境問題を分析し、かくかくの危険があると批判することができる。しかしその批判は、普遍的な良心=意識というような立場から、システマティックになされるものではないのです。

 現代社会における<知>は、その軌跡が余りにも複雑になったために、文字通りわれわれの社会の<無意識>になってしまっている。われわれはわれわれの知っていること(・・・・・・・)が何かを知らないし、われわれは<知>の作用が如何なるものかを知らないのです。その意味で、知識人の役割とは、われわれの社会に無意識のようにして君臨するこの<知>を、意識へと転換することにある、と言えると思います。》

 

 鷗外は、哲学者のシステマティックな批判には至らなかったが、一般的な啓蒙には関心があった。明治の啓蒙家として有名な西周(にしあまね)は両親の従兄であり、鴎外自身も翻訳、批評、医学の分野で知の啓蒙に努めた。その活動の一つに、一九〇九年(明治四十二年)から、第一次世界大戦を告げる一九一四年(大正三年)まで書き継がれた『椋鳥(むくどり)通信』があって、全集の1巻を占める。鴎外の新しい文体とユーモアをもって文芸誌「スバル」に連載された世界のニュースは、現在のツイッターに近く、文学、美術、演劇、音楽、オペラ、出版、政治、軍事、宮廷、科学、社会情勢、犯罪、風俗、モード、珍談奇談、女性参政権、ゴシップにまで及んでいる。『舞姫』文中の《我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。》の意が持続している。ソースはイギリスのロイター、フランスのアヴァス、ドイツのヴォルフ通信という三大通信社の新聞や雑誌が主で、一九〇四年にシベリア鉄道が開通すると二週間で情報を手にして諜報活動的タイムリーさで広報し、総登場人物は二千八百人にも及ぶという。

 いくつか引用するが、後に論じるフーコー「汚辱に塗れた人々」の収監請願承認文書と同じく物語、文学を削ぎ落とした「言表(エノンセ)」の色調がある。

《一九〇九年二月六日発

〇楽人 Felix(フェリックス・) Mendelssohn(メンデルスゾン)-(=)Bartholdy(バルトルディ) が百年目の誕生日だというので、二月三日には独逸の諸都会の楽人達がいろいろな催(もよおし)をした。この人が生まれたのは一八〇九年で、故郷はHamburg であった。Leipzig〔ライプツィヒ〕が好(すき)で、多くあそこにいる中に、千八百四十七年十一月四日にあそこで亡くなったのだ。それだからあそこの楽堂(Gewandhaus)の前に立像が据えてある。今の趣味から云えば、古臭い楽(たのしみ)であるが、まだ民心には影響している。》

《一九〇九年三月十二日発

〇二月二十二日にはCharlottenburg〔シャルロッテンブルク〕でFriedrich(フリードリヒ・) Spielhagen(シュピルハーゲン)が八十の誕生日を祝った。首相も賀客の中に見えた。〇二月二十四日には巴里の女優Irene(イレーヌ・) Muza(ミュザ)が酒精のはいっている水で髪を洗わせていて,その水に火がうつったので大火傷(おおやけど)をした。〇今年の春から夏にかけての巴里の流行色はBleu electric〔緑がかった青〕である。緑を帯びた青で,濃淡はいろいろある。伯林では青い男の帽がはやる。》

《一九一〇年四月十三日発

〇National Galery〔ナショナル・ギャラリー(ロンドン)〕に Velasquez(ベラスケス) の「鏡を持った Venus〔ヴィーナス〕」がある。この頃 Grieg(グリーク) という批評家が、その画に J. B. D. M. という落款(らっかん)があるのを見出して、ウェラスケスの壻 Juan(フアン・) Batista(バウティスタ・) del(デル・) Mazo(マソ) の署名であろうと云い出した。併しその文字と見たのは裂目であったらしい。》

 

 なお、フーコーにはカントの『啓蒙とは何か』についての重要な論考があって、『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-1988 倫理/道徳/啓蒙』の「啓蒙とは何か」で読むことができる。フーコーによれば、カントの啓蒙論は、単なる知性の開化や知識の豊かさではなく、人間が自らの理性を十二分に用いて自分自身で批判的に思考すること、であり、フーコーはカントの批判的態度から、厳格な「自己と自己の関係性」、「倫理」、「道徳」、「自己のテクノロジー」を思索の糧として見出した。知性の開化や知識の豊かさといった一般的啓蒙活動に熱心であった鴎外においても、カントの言う「批判的態度」、フーコーが思延した厳格な「自己と自己の関係性」、「倫理」、「道徳」、「自己のテクノロジー」という筋は、明治人として通っていたのではないか。

 

 次に「言説」について見てゆく。

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)から。

《私は、科学的言説の歴史を書こうとして、アングロ・サクソン系の分析哲学を研究したことがあります。その分析哲学は、<言表(エノンセ)>と<言表行為(エノンシアシオン)>について、一連の見事な分析をしていて、重要なものです。しかし問題は少し違っていた。私の問題は、どのようにして<言表>が形成されたか、どのような条件でそれが真実を語っているか、などということではなかった。私の問題は、<言表>よりはもっと大きな単位を対象とすることであり、それは不可避的に分析の厳密さにおいていささか劣ることにもなるのですが、つまり、どのようにしてある型の<言説>が形成されるのか、またどのようにして、その言説の内部に作動する一連の規則があるのか、それを知ることだった。しかもこの規則というのは、<言表(エノンセ)>がそれに従って形成されなければ、もはやその型の<言説>には属さないと見做されるほどはっきりしたものなのです。

 非常に簡単な例を取りましょう。十八世紀末まで、フランスにおいては、いかさま治療師(・・・・・・・)の言説と医者(・・)の言説とには、さしたる差はなかった。差は、うまくいくかいかないか、勉強したことがあるかないかであり、彼らの言っていること(・・・・・・・)の性質は大して違っていなかった。ところが、ある時点からは、医学的言説はある<基準>に従って構成されることになり、たちまちに、それを口にする人物が上手な医者か下手な医者かは分からぬにしても、医者なのかいかさま治療師なのかは分かってしまうようになる。彼らの語ることは同じ事柄ではなくなるし、彼らが支えを見出す因果関係も、彼らの用いる概念も同じものではなくなるのです。一つのはっきりした分割が起きたわけです。したがって、医学的言説が科学的言説として認められるためには、何について語り、どのような概念を用い、どのような理論を背景にもたねばならなかったのか、それを知るのが、『言葉と物』と『知の考古学』の時点での私の問題だったわけです。》

 

 鷗外はフーコーとは違って小説家だったから、明治近代文学を取り巻く外的状況に対して、新しい文体で作品発表する責務に燃えた。その実績を国内外の文学に通じた二人の作家兼批評家が顕彰しているので紹介する。

 吉田健一は、《鷗外は更にコッホに学ぶ為に、明治二十年四月にベルリンに行き、翌年七月留学が終って日本に向けて出発するまでここに滞在した。そして彼がこのように四年近くドイツの上下の人々と親身になって交際し、ベッテンコオフェル、コッホ等の下にドイツ語を自在に駆使して各種の研究を発表し続けたことを、例えば、文学は人間の生活を扱うものだという風な、単に一般的な立場からだけ文学の問題と結び付けて考えるのは間違っている。彼の語学の才能は、彼が論理的な頭の持主だった事から来ているのは言うまでもないが、まだ文学作品を書くのに用いられる日本語が言語として体をなしていなかった時代に、彼がドイツ語のような正確な構造を持った言語に堪能だったことは、彼が後に日本で文学の仕事を始めた時に、彼がそれまでとは違った精密な表現を日本語で試みるのに役立たなかった筈はないのである。事実、現代文学の表現に堪える日本語の文体を最初に完成したのは彼であって、ここでも彼のドイツ留学と日本の現代文学の間に直接の関係が認められる。》

 中村真一郎は、《当時、森鷗外は二本脚で、露伴は一本脚で立っていると評されたが、これは鴎外においては西洋文学と漢文学との、ふたつの教養が、その文学を支え、露伴の場合は専ら漢文学のみが、支えているということを指摘していたので、それは、鷗外の場合は「和洋折衷」の中途半端に終らずに、西洋文学も漢学も徹底していたことを意味していたし、露伴の場合は漢学一点張りで、やはり純粋な高度に達していたことに敬意を表した評言だったのである。(中略)そうした状態を、弟子の荷風は、「鴎外先生の文体(・・)は、ラテン文と漢文との粋をあつめたものである」と指摘した。(中略)この場合の「ラテン文」は必ずしも、キケロを意味するのではなく、広くヨーロッパ文学一般を指すのだろうし、特にドイツ語の文体の精華を体現して、新しく生れたばかりの、日本語の文学用語である「口語」の要素にとり入れ、一方、江戸時代からの伝統的な漢文に対する極めて高い教養水準を維持して、その文語体の長所を、やはり口語体のなかに生かそうとした、ということである。》

 あえて二つ付け加えておく。一つは、医学、衛生学の学術論文、科学的啓蒙活動にも鴎外の言説の知性、明晰性が発揮され、近代日本の科学研究の客観性、伝達理解力に繋がったこと。二つめは、文芸作品において年少の頃から親しんだ中国小説(前田愛『近代読者の成立』の「鴎外の中国小説趣味」に詳しい)、江戸人情本浄瑠璃の影響もあるということ。『舞姫』で主人公がエリスと街角で知り合う場面には、中国伝奇小説『情史類略』の風流奇縁や、鴎外が書生時代に浄瑠璃『生写(しょううつし)朝顔話』(『朝顔日記』)を漢文に訳していて、才子(駒沢=阿曾次郎)が佳人(深雪)に慕われるという夢、悲恋や、為永春水作『春色梅暦』の丹次郎と米八の出逢いに似ている。西欧文学にも公平さを保てば、鴎外が翻訳したゲーテの『ファウスト』で、ファウストがマルガレーテを街中で見染める場面が反映されているだろう。鴎外はその硬派な文体、厳格な風貌から「夢」とは無縁との先入観を抱かれがちだが、例えば『魚玄機』、『百物語り』などを読めば「夢」の人でもあったとわかる。

 

 

<権力>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「権力と知」(蓮實重彦との対談)から。

《わたしが『狂気の歴史』で実現しようとしたことは「狂気」をめぐる「知」の諸形態の分析といったものではなく、十七世紀いらい、いわゆる「理性」なるものがいかなる「権力」=力を「狂気」の上に及ぼしつづけてきたかという分析にあったことがわかります。『臨床医学の誕生』についても同じことがいえるでしょう。つまり「病気」という現象が、資本主義形成期の社会に、国家に、制度にいかなるかたちの挑戦をかたちづくりその挑戦に対して、諸「権力」がいかなる反応を行ったか――医学の制度化と病院の組織化等々――という分析がその真の主題でした。『監獄の誕生――監視と処罰』はほぼそれと同じことを監獄の制度化という点から考察したものですし、『言葉と物』の場合も、そのいささか「文学」的な表情の下で、「科学」的な諸ディスクールの中に含まれた「権力」=力の分析が行われていたといえます。すなわち、しかるべき歴史の一時期に、生命と経済と博物学をめぐる「科学」的ディスクールを口にしようとするとき、そのディスクールがいかなる「権力」的なメカニズムによって規制され、どのような規則に従属しなければならなかったかという点の標定こそがその主題だったのです。》

《「権力」と聞くと、誰もがすぐに軍隊や警察そして司法制度といったことを思いだしてしまう。昔は姦通や近親相姦が罰せられ、いまでは同性愛や強姦が罰せられている、等々といった具合に。

 ところがそうした「権力」の概念は、すべてを「国家権力」に還元してしまった結果、現実に存在している「権力」関係、たとえば一人の男性と一人の女性との間に存在しているもの、知っているもの、つまり「知」の所有者と「知」の非所有者の間に存在しているもの、両親と子供との間に存在しているものを無視したり、二次的なものと考えてしまう。しかし現実の社会には、こうした「権力」関係、力の関係が無限に存在している。そこには抗争がありミクロの戦争がある。こうしたものは普通、大いなる「国家権力」によって上から統御され、階級的支配に屈しているとされている。しかし逆に、国家という構造や階級的支配はこうした小なる「権力」関係がない限り機能しはしない。たとえば兵役の強制という一つの例をとってみても、もし各人のまわりに無数の「権力」関係がなければどうなるか。両親とか、教師とか、上役とか、知識を吹きこんだものとかに各人を関係づける力の束のようなものがなかったら、強制する側の人間はどうなってしまうか。国家なる抽象的なものが強制する兵役といった制度がこれほど隠微にしてかつ暴力的に堅持され続けてきたのは、それを強制する力が、さまざまな個体的で局部的な「権力」関係の内部に根をおろし、それを戦略的に利用してきたからです。「権力」ということばで明らかにしたかったのは、こうした関係です。》

 

 鴎外『舞姫』の主人公豊太郎にとっての「権力」も、《大臣は既に我に厚し》という国家権力体制ばかりでなく、両親の善意、上役からの期待と圧力から始まって、権力対個我の引き裂かれの原因は、相澤も含めて同輩という世間の空気、軋轢「装置」からの孤立感が『舞姫』を漂う寒々とした表徴となっている。さらに見方を変えれば、豊太郎自身は意識していないだろうが、エリスにとって豊太郎は金銭的扶養者、結婚の相手、知的なドイツ語の指導者という権力存在となってしまっている。権力はそれと自覚されることなく無数の点から出発して、不均等かつ可動的な「力のゲーム」として分析されるべきものであり、単に禁止や懲罰という一方的な「抑圧の構図」に尽きるものではなく、つねに内在して機能することを、『舞姫』は描いている。

舞姫』の「無数の権力関係」、「権力の束」の一例を引用すれば、

《余は私(ひそか)に思ふやう、我母は余を活きたる辭書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辭書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目にふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼(か)む境に入りぬ。

 官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比(ひごろ)伯林(ベルリン)の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣(ざんぶ)するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。》

《彼(筆者註:エリス)は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書(ふみ)を讀みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に關りしを包み隱しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを祕め玉へと云ひぬ。こは母の余が學資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。》

《その名を斥(さ)さんは憚あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡(しば) 芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許に報じつ。さらぬだに余が頗る學問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に傳へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を傳ふる時余に謂ひしは、御身若し即時に郷に歸らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶豫を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤も悲痛を覺えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り來て筆の運を妨ぐればなり。》

《余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれ(筆者註:相澤)は屡(しば) 驚きしが、なか/\に余を譴(せ)めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢りし時、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素(も)と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活(なりはひ)をなすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れその言(こと)のおほむねなりき。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「政治の分析哲学――西洋世界における哲学者と権力」(一九七八年四月の朝日講堂での講演)には、日本への対照がある。

《西洋世界には中世以来、必ずしも政治的・法制的でもなく、経済的でもなく、また民族支配的でもないが、しかし西洋社会に構造的に大きな作用を及ぼした権力の形があった。

 ここで問題になる権力は、宗教に由来する権力なのだ。つまり、人間が生まれてから死ぬまで、あらゆる状況で人間を導き、しかも来世での魂の救いのために現世での行動を規制するような一つの権力であり、それを私は<牧人=司祭型権力>と呼んでおこうと思う権力なのだ。

<牧人=司祭型権力>とは、語源的な意味で、<牧人=羊飼い>が、<羊の群れ>に及ぼす権力ということだ、羊飼いが己の羊の群れの一頭一頭の羊に心をくばるというこの型の権力は、ギリシア・ローマの古代社会には存在しなかったし、また、望まれもしなかったであろう。

 それは、キリスト教とともに発展してきた権力であり、キリスト教の制度化、キリスト教会内部の階層的秩序、来世や罪や救済といった信仰の総体、<牧人=羊飼い>である司祭というものの確立、すなわち羊の群れである信者に対し<牧人>としての責務を果たす存在の確立とともに形成されてきた。それは中世を通じて封建社会の発達と微妙な関係を持ちながら発展してきたが、十六世紀の宗教改革並びに反宗教改革の時期に一層強化された形において展開を見たものである。しかし、変遷はあるにしても、この<牧人=司祭型権力>は、常に次の特性を持つ権力であるという本質的な性格を奇妙なことに保ち続けていた。すなわち、すべての権力と同じく集団全体に力を及ぼしつつも、同時に、その<集団=羊の群れ>の中の<牝羊>の一頭一頭に対して、つまり集団内の個々人に対して責任を持っている。しかもその行動に拘束を加えるばかりでなく、一人一人の個人を知り、個々人の内面をはっきり見なければならない。言いかえれば、個人の<主観性>をはっきり出現させ、個人が己の意識に対して持つ関係(・・・・・・・・・・・・・・・)を構造化する必要があったという点である。<牧人=司祭型権力>の技術にとって、<良心の教導>とか<救霊>の問題が、<告解>という、自己が自己自身に対して持つ関係を、真理と義務づけられた言説という形で報告することにかかっていた、というのは極めて重要なことだ。この権力は、こうして<個人形成的>な権力であるという本質的特徴を持っているのだ。》

 ついで、フーコーは極東の日本の場合はどうなのか、という二つの指摘をする。

《ところでこの<牧人=司祭型権力>について、私は二つの指摘をしておきたい。まず第一には、キリスト教社会におけるこのような<牧人=司祭制>と、極東における儒教の作用や役割を比較してみる必要があるという点だ。この二つのものは時代的にはほぼ同じ時代に起きた。十六、七世紀にヨーロッパで<牧人=司祭制>が国家の形態の成立に重要な役割を果たしたことは知られているし、それは日本の徳川幕府の政治体制の中で儒教が果たした役割に似ているのではないか。しかし、同時にその差も測らなければならない。<牧人=司祭制>は、第一に宗教的であり、それが目指すのは、究極的には地上世界の問題ではなく、来世のことだ。しかし、儒教の役割は本質的に現世的である。また、儒教は、個人あるいは個人の属する社会的範疇のすべてに課せられるべき規則の総体を明確化することによって、社会全体の安定を目標とするが、<牧人=司祭制>は、<牧人=司祭>と<羊の群れ=信徒>との間の、個人のレベルでの厳密な服従関係(・・・・・・・・・・・・・・・)を確立しようとする。<牧人=司祭制>は、魂の教導その他の技術によって、個人形成的であるのに対し、儒教にはそのような作用はないのである。

 もちろん、この問題はもっと深くきわめる必要のある重要な問題で、そのある要素は丸山眞男氏の研究のなかに読むことができる。

 第二の指摘は、逆説的で、しかも意外なことなのだが、十九世紀以来の資本主義的工業化社会と、それに伴いそれを支えた近代的国家形態は、<牧人=司祭制>が宗教的次元で実現したこの個人形成という手続きを、このメカニズムを必要としたということだ。

 宗教制度そのものの評価が低下し、またイデオロギー的な変化が生じて、西洋世界における人間と宗教的信仰との関係は変わった。しかし同時に、この<牧人=司祭制>の技術は、非宗教的な場所で、国家の作業の内部で、確立し、変容し、普及していくのだ。このことはあまり知られていないし、また語られることも稀だ。(中略)しばしば、近代国家や近代社会は個人を知らないとか無視しているとかいわれる。しかし、よく観察して見ると、驚くべきことにそれとは正反対のことが見えてくる。近代社会ほど個人の配置に関心を抱き、個人を監視、管理、訓練、矯正の仕組みから絶対に逃れられないように取り込んでいく技術の発達した社会はないのだ。兵営、学校、工場、監獄、すべての規律・矯正の大きな仕組みは、個人を捕らえて、個人が何者であり、何ができ、また何に用いたらよいかを知り、どこに配置したらよいかを知るための仕組みなのだ。(中略)西洋世界における政治的な<個人の形成>を、それとは全く違う文化的・宗教的・政治的コンテクストで生起したことと比較してみることの重要さも納得されることだろう。たとえば日本のように、ヨーロッパとは非常に違う宗教性が長く続いた国の場合である。最大限の<個人化>を説くキリスト教とは違って、<非個人化=個人の解体>を説く仏教のもとで発展し、しかも現在では、ヨーロッパ近代の個人の形成という思想がそれと並置されている日本の場合は、このような観点の研究に寄与するところきわめて大だと考えるものである。》

 

 鴎外は、明治初年の乙女峠キリシタン殉教の地、津和野の出身であることから幼少期にキリスト教や教徒への馴染もあったことだろう。鴎外はキリスト教に対してほとんど意見を残していないが、ドイツではキリスト教を身近に感じる機会が多かったはずだ。後年の森家クリスマスの様子は家族が書き残している。西欧化圧力の強かった明治時代に内村鑑三キリスト教徒が果たした「告白」の先導性はよく知られるところで、鴎外の周囲の文学者にも影響は強かったし、現に日本の「告白」文学は彼らから始まったと言ってもよいほどである(柄谷行人日本近代文学の起源』の「告白という制度」)から、フーコーが残した日本に関する二つの指摘はもっと研究されてしかるべきものだろう。

舞姫』、『青年』、『妄想』等に見られる、権力からの疎外感、名状しがたい不安、使命への疑惑を自覚したうえでの、明治近代国家、西欧的資本主義工業化社会の形成の担い手として、権力の側(陸軍軍医総監、陸軍省医務局長)の立場でもあった鴎外の複雑さはここにあるのだが、鴎外は初期の歴史小説阿部一族』で、「権力/装置」のエピソードを生き生きと描いている。

阿部一族』から紹介すれば、

《長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近(そばちか)く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎(とが)めもありそうな失錯(しっさく)をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過(あやま)ちを償(つぐの)わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重(おも)ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖(おそ)れる念は微塵(みじん)もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望(がんもう)は、何物の障礙(しょうがい)をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。

 しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己(おのれ)は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。》

《そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその噂(うわさ)ばかりである。誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、背後(うしろ)から見たりするのがわかる。不快でたまらない。それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然(こうぜん)と項(うなじ)をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。

 二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪(ひょうたん)に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの弥一右衛門を竪(たて)から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。》

 

 

<告白>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「権力と知」は「告白」の小説への道を語る。

キリスト教は「告白」を発明したのではないにしても、文明の歴史の上できわめて特殊なかたちで体系化したわけですが、ほぼ宗教改革以後、その長い歴史の中で、「告白」はもはや贖罪の儀式という個別領域に閉じこめられたままでいることなく、あらゆる領域に向って爆発したということができましょう。それは、いわば、みずからをよりよく知るための心理的な身振りのようなものになりました。自己抑制、性格の矯正、そうしたものは、プロテスタンティスムが贖罪行為の枠外で奨励した自己意識の検証であり、自己の生命の統御手段といったものです。そこで一方ではあの多くのヴァリエーションを伴った一人称小説というものが主にプロテスタント的な諸国や、またカトリック的なフランスにも生まれたし、また他方、「告白」が重要な意味を帯びた作品、たとえば『クレーブの奥方』のような小説も生まれてくるわけです。さらには、小説の形態を借りてただ自分の身に起ったことのみを語るといったようなものも出現する。》

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」でフーコーは、告発された者たちの「日常的なものを巡るかくも誇張された演劇化は何故のものか?」と問う。

《日常的なものに対する権力の関わりとして、キリスト教世界は、その大きな部分を、告解の周囲に形成して来た。日々の世界の細片、平凡な過ち、知覚し難いほどの過誤、そしてまた思考や意図や欲望のあやしげな動揺にいたるまでを、定期的に告解の言葉の流れの中を通過させることの義務づけ。語る者が同時に語る対象となる告白の儀式。語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式、その告白への[告解僧の]註釈もまた秘密にされ続けねばならず、その後には懺悔、そして悔悛の書物以外如何なる痕跡も残さぬ告白自体も増加してゆく。語られたすべてを消去するためにすべてを語り、如何なるものも逃さぬまでに、如何にわずかの過ちまでをも途絶えることない、執拗で徹底的な呟きの中に言明し、そしてしかしそれらが語られた瞬間に消え去り、残存するもののないように義務化されたこの驚くべき強制をキリスト教的西欧世界は発明し、あらゆる者に押しつけたのだった。何世紀もの間、幾千もの人々にとって、悪徳はそれを犯した当の者によって、義務的かつ瞬時に消え去るささやきの中に告白されねばならないものだったのである。》

「告白」は、真理の産出が期待される主要な儀式の一つとして、広まり、かつ高まった、とフーコーは『知への意志(性の歴史Ⅰ)』で述べる。

《少なくとも中世以来、西洋社会は、告白というものを、そこから真理の産出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた。(中略)いずれにしろ、試練の儀式の傍らで、伝統のもつ権威によって与えられる保証というものの傍で、証言の傍で、いやそればかりではなく、観察と立証の学問的方法の傍で、告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていた。それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである。告白はその作用を遙か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、最も日常的次元から最も厳かな儀式に至るまでである。自分の犯した犯罪を告白する。宗教上の罪を告白する。自分の幼児期を告白する。自分の病いと悲惨を告白する。人は懸命に、できる限り厳密に、最も語るのが難しいことを語ろうと努める。》

 

 フーコーが言う「異常なほど告白を好む社会」の、「最も語るのが難しいことを語ろうと努める」例をルソー『告白』に見ることができる。

 ポール・ド・マンは『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』の第十二章「言い訳(『告白』)」でルソー『告白』の中心的な一節を批評的=批判的に読む。

《ルソーは、『告白』冒頭の三書[三つの章]で語られる幼年期および思春期のいくぶん恥辱的で当惑的な数々の場面から、マリオンとリボンにまつわるエピソードをとりわけ重要な感情的意味を有するもの――物語の中に戦略的に位置づけられ、独特のひけらかし[panache]によって語られた、嘘とまやかしの紛れもない原光景――として選り出している。(中略)

 このエピソード自体は一連の軽窃盗譚の一つだが、そこには一つのひねりが加わっている。トリノの貴族の家庭で使用人として雇われていたとき、ルソーは「薔薇色と銀色の小さなリボン」を盗む。窃盗が発覚したとき、彼は若い女中[マリオン]からそれをもらったと主張し、彼女に罪をなすりつけるが、そうした彼の主張には、彼女が彼を誘惑しようとしていたことをほのめかすような含みがともなっている。彼は公衆の面前で彼女と対面した際、自分の作り話を執拗に押し通し、自分に少しの害も与えなかったこの無実の少女の品行方正さを完璧なきまでに踏みにじる。しかし、彼の卑劣な非難を前にしても、彼女の崇高な善良さはたじろぎさえ見せない。「ああ、ルソーさん! 私はあなたを気立てのよい方だと思っていました。あなたは私をとても不幸になさっていますが、あなたと立場を交換したいとは思いません」。この話は二人の人間の解雇という悲惨な結末に行き着くが、ルソーはそれによって、この不運な少女の人生にその後生じたに違いない事柄について長々と――いくばくかの興味を噛みしめながら――思いをめぐらすことができるのである。

 この教訓的な物語によって最初に確認されるのは、『告白』はそもそも告白的なテクストではない、ということである。告白するとは、真実の名において罪や恥を克服することである。つまり、それは認識論的な言語使用であり、そこでは善意という倫理的価値が真偽という価値に置き換えられる。(中略)

「私はありのままに告白したつもりである。だから、私がここで大罪の卑劣さを糊塗したと思われることは決してないだろう」。しかし、すべてを語るだけでは、まだ不十分である。告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められるのだ。(中略)

 言い訳の随行もまた、第二書の結末でなされるルソーの熱心な釈明にもかかわらず(「この件について言う必要があったのはこれだけだ。もう二度とこのことを口にせずにいられますように」)、この弁解的なテクストを終結させることはできない。こう述べたルソーは、それよりおよそ一〇年ほどのちに『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で嘘の「免責」可能性について省察する際、この話をまたまるごと口にしている。弁解は明らかに彼自身の罪の鎮圧に失敗しており、彼がそれを忘却できるまでには至っていない。(中略)

 ルソーが本当に(・・・)欲していたのは、リボンでもマリオンでもない。彼が欲していたのは、現実に入手することになる人前での暴露の場面なのだ。》

 ただし、フーコーの言う「語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式」は暴露の場面と、『告白』中の「この件について言う必要があったのはこれだけだ。もう二度とこのことを口にせずにいられますように」という願いに託されたわけだが、十年後に『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で省察しなおすことで、完全な「消去」など不可能であったことを示していて、そこにルソーの人間的な魅力を見出すこともできる。

 ド・マンの考察は、鷗外の『舞姫』と、およそ二十年後に発表された『普請中』(エリスのモデルらしき女性が来日した時の面会光景)にほぼそのまま適用できるだろう。

 よく『舞姫』を、「告白」の私小説であるとか、出世のために愛を犠牲にしたとか、最後には個人よりも社会を尊重したとか、エリスへの悔恨であるとか、陸軍省での噂を封じるために先回りして(私小説性を脱した文学として)打ち明けたとか、気の進まない婚姻への当てこすりだとか、いろいろ取沙汰されるが、最新の西洋文学に通じていた鴎外は一つ理由で文学を為すほど単純ではない。鴎外の妹小金井喜美子の手記「森於菟に」を読めば、帰朝の後を追うように『舞姫』エリスのモデルとされる女性が来日し、いろいろ説得もあったらしく、快く帰国させたあとで『舞姫』を書きあげた鴎外は、その発表前に本人は不在だったが家族みんなに読んで聞かせたという。明治近代文学とその周辺に暗くじめじめした悲惨と勤勉を求めがちな読者をあざ笑うかのように、小説『舞姫』の「告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められる」悲恋ストーリーに二重に被せるように、「告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められる」露出症的な暴露の場面を作った。

 小金井喜美子の手記「森於菟に」は森一族の様子も窺えておもしろいので朗読の場面を紹介する。

《年の暮近く私が千住の家へ行つて居ます時、叔父さんが車で上野の家からかけつけて、私の居るのを見て「来て居たのか丁度よかつた」、「何があつたのですか。」心配さうな顔を見て笑ひながら「何、あの舞姫の事を今度兄さんがお書きになつたから、まつ先に皆に聞せて呉れといふお使ひに来たのですよ、お父さんは往診の御留守だつて、じやああとにしてさあさあ集まつて下さい、勧進帳もどきで読み上げるから」、何でも芝居掛りになるのはいつもの癖でした。

「石炭をはや積み果てつ中等室の卓のほとりはいと静かにて熾熱燈の光の晴れがましきもやくなし。」中音に読み初めたのを、誰も誰も熱心に聞いて居ました。だんだん進む中、読む人も情に迫つて涙声になります。聞いてゐる人達も、皆それぞれ思ふことはちがつても、記憶が新しいのと、其文章に魅せられて鼻を頻にかみました。「ああ相沢兼吉の如き良友は世に又得難かるべし、されど我が脳裡に一点の彼を憎む心は今日までも残れりけり」。読み終つた時は、誰も誰もほつと溜息をつきました。暫く沈黙の続いた後、「ほんとによく書けて居ますね」といひ出したのは私でした。お祖母様はうなづきながら、「賀古さんは何と御言ひになるだらう」、「何昨夜見えたので読んで聞せたら、己れの親分気分がよく出て居るとひどく喜んで、ぐづぐづ蔭言をいふ奴等に正面からぶつつけてやるのはいゝ気持だ。一つ祝ひ酒をご馳走にならうと又夜が更けました。

 それが春の国民之友に出て評判がよいものですから、今迄の何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした。》

 ここには、フーコーの言う「語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式」があるが、過ちをルソーが十年後に『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で省察しなおしたように、鴎外もまた二十年後に『普請中』で蒸し返すことで、消去の困難さを証明している。

 

『知への意志(性の歴史Ⅰ)』で、性は告白の特権的な題材であった、とされる。

キリスト教の悔悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであるとしたら? それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら? (告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら? すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。》

 

舞姫』は性的「告白」としても読める。しかし、自伝的な『ヰタ・セクスアリス』を手に取って、性的「告白」の綺麗事にがっかりした者は多かろう。鴎外の告白とは、表向きそういったところに留まっている。小説よりもかえって、鴎外の医学論文(「公娼廃後の策奈何」、「「公娼廃後策」の原材」、「公娼廃後策とフリイドリヒ、ザンデルと」、「性欲雑説」、「女子の衛生」)や、ルソー『告白』の鴎外による翻訳に目を向けたほうが、より鴎外のセクシュアルなものへの関心に近づく。

ルソー『告白』は明治二十四年、森鷗外がレクラムのドイツ語訳から部分翻訳した『懺悔記』として、「立憲自由新聞」に連載されたが、第1 巻の冒頭と、一七一二年から一七一九年までの一部、一七四三年の一部にすぎない。全文翻訳は、その11年後の大正元年、ルソー生誕二百年と連動して、石川戯庵訳『懺悔録』として翻訳された。鷗外がルソー“Confessions を『懺悔記』と訳したことは、その後の『告白』受容を、キリスト教的な「告白」ではなく、罪を意識して裁きを乞う仏教的「懺悔」という印象に固定したのではないか。それは「懺悔」の方が「告白」よりも日本人の耳と心に馴染み深かったゆえだろう。

 明治二十四年といえば、まさに『舞姫』などドイツ三部作を執筆、発表した時期と重なるから、『懺悔記』の影は、その作為性も含めて『舞姫』にかかるだろう。鴎外翻訳の『懺悔記』(『鴎外全集2』)は、ルソー『告白』中の性的体験に関する部分を中心に選出したもので、八歳の時のランペルシエ嬢による鞭笞(べんち)で快楽を覚えた有名な挿話と、ヴェネチアで遊んだ娼婦の片方の乳房に乳首がないのを発見して驚くといった挿話である。鴎外は『懺悔記』発表に先立つ明治二十二年に「ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス」という文章を「東京医学新誌」に「医学士 森林太郎」の名で発表していて、グラーツ大学精神及び神経病教授クラフト=エービングを参照して、井戸に水を汲みに来る若い娘たちへの露出症を論じたあと、ランペルシエ嬢による鞭笞の快美を論じ、「想フニジャン、ジャック、ルーソーハ被打兼露呈症ヲ患ヒシモノナリ」と診断している(『鴎外全集29』)。有名なリボンにまつわるエピソードにはまったく触れていないことからも、鴎外にとってのルソー『告白』は性の「懺悔」以外のものではなかったようだ。

 

 

<歴史/狂気>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」は、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘したアンソロジー企画の序文として準備されたものだ。

《これは生きられた生のアンソロジーである。数行、或いは数頁の人生、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険。束の間の生、偶然書物や公文書に遭遇した人生。生の或る例証(・・)exampla、しかしそれらは――学者たちが読書の中で収集したものと異なり――省察を促す教訓であるよりも、ほとんど一瞬にしてその力を失ってしまう瞬時の効果をそなえた例証群である。(中略)

 この着想が私にやって来たのは、そう信じているのだが、或る日、国立図書館で十八世紀が始まったばかりの頃に作成された収監請願承認文書を読んでいた時だった。とりわけそれは、次の二つの略述文書を読んでいた時だったと思う。

「マチュラン・ミラン。一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監――<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」。

「ジャン・アントワーヌ・トゥザール、一七〇一年四月二十一日ピセートル癲狂院収監――<棄教せるフランシスコ派修道僧、謀叛人、より大いなる罪科の可能性あり。男色者となり或いは出来得れば無神論者とも成り得んか――冒瀆の怪物、この者を自由のままに放置せしよりも抹消せむことを厭うことなし>」。》

《私が望んだのは、つねに実在する者に関わることだった。つまり、場所と日付を付与し得ること、もはや何も語らない氏名の背後、大体において誤認や虚偽、不当、誇張となりがちなそれらの敏速な語群の背後に、ともあれ確実にそれらの語群が示しているものの背後に、生き、死んでいった者たち、苦悩や悪意、嫉妬、怒号が存在したこと。それ故私は、空想や文学となりうるものを一切排除した。空想や文学が発明した如何なる暗黒の主人公も私には、本書に現れる激怒や醜聞、惨めさに塗れた者たち、靴屋や脱走兵、装身具の女行商人たち、公証人、浮浪僧といった者たちほどに緊迫した強度を感じさせない。(中略)

 私はまた登場人物たちが世に埋もれた者であることを望んだ。彼らが如何なるきらめきによっても前もって素地を与えられていない者たちであり、確立し認められた如何なる偉大さ――血統、財産、聖性、英雄性、或いは才能といった偉大さを一切付与されていない者たちであること。何の痕跡も残さずに消え去って行くことを運命づけられた他の無数の人々に属する者たちであること。彼らの不幸、パッション、その愛や憎悪の中に、ふつうなら語るに価すると判断されるものと照らし合わすと、ぱっとしないありきたりのものが存在すること。とはいえ、それらの生は或る種の鮮烈さに貫かれていること。》

 

 これは鷗外の『歴史其儘と歴史離れ』における、《わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
 わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ点は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは思ふ。
 友人中には、他人は「情」を以て物を取り扱ふのに、わたくしは「智」を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollinisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである。
     ――――――――――――
 わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。》を連想させる。

 

阿部一族』の実在した、しかし無名の登場人物たち。これはもう、「汚辱に塗れた人々の生」でフーコーが望んだ者たちのようである。

《五助は肩にかけた浅葱(あさぎ)の嚢(ふくろ)をおろしてその中から飯行李(めしこうり)を出した。蓋(ふた)をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。

「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司(げす)ではあるが、御扶持(ごふち)を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院(しゅううんいん)で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」

 こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。

「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。

 犬は一声(ひとこえ)鳴(な)いて尾をふった。

「よい。そんなら不便(ふびん)じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。

 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸(やしき)で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。

 もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座(あんざ)して肌(はだ)をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手(さかて)に持って、「お鷹匠衆(たかじょうしゅう)はどうなさりましたな、お犬牽(いぬひ)きは只今(ただいま)参りますぞ」と高声(たかごえ)に言って、一声快(こころ)よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後(うしろ)から首を打った。》

《柄本又七郎へは米田監物(こめだけんもつ)が承って組頭谷内蔵之允(たにくらのすけ)を使者にやって、賞詞(ほめことば)があった。親戚朋友(しんせきほうゆう)がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀(げんき)天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒(い)えて光尚に拝謁(はいえつ)した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城(ましき)小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山(やぶやま)である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを私(わたくし)に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預(えいたいおあず)けということになった。(中略)

 阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)に「事件」についての言及がある。

《私が関心を持つのは<永遠なるもの>、<動かぬもの>、外見(・・)の輝きの変化のもとに<変らずにいるもの>ではない。私が関心をもつのは<事件>です。

 ところが、<事件>というものが哲学的範疇になったことはほとんどない。ストア派の場合だけが例外だったのかもしれない。それは<事件>が彼らに論理学上の問題を提出していたからです。ここでもやはりニーチェが、初めて哲学を、「現在生起している事柄を知るのに役立つ活動」として定義したのです。言い換えれば、一連の能動的な作用(プロセシュス)が、運動が、力が、われわれを貫いているが、しかしわれわれはその実態を知らずにいる。そして哲学者と呼ばれる人間の役割は、恐らく、そのような作用や運動や力の現下の状勢を診断することだ、というわけです。(中略)

 私の書物のなかでも、私は、過去に起きたことではあるが、われわれの現在にとって重要だと思われる<事件>を捉え返そうと努めています。たとえば<狂気>の場合、西洋世界においては、ある時点で、<狂気>と<非―狂気>の分割が起きた。また別のある時点では、<犯罪>の力と、<犯罪>の提出する人間的問題とを捉える方法が出現した。これらの<事件>を、われわれはわれわれの現実において繰り返して(・・・・・)いるように思われます。私は、われわれがそのもとに生まれた時代の徴しのもとに、これらの<事件>を、つまり今なおわれわれを横切っているこれらの<事件>を捉えなおそうと企てているのです。》

 

 鴎外の歴史小説における方法論としての「事件」を『大塩平八郎』に見ることができる。そこに幸徳秋水の「大逆事件」の投影を見がちなのは、「附録」に次の見解があることにもよる。

《平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。

 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘(まゝ)に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。

 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情(ふぜい)には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮(ふる)はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。

 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望(のぞみ)を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。(中略)

 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。》

 しかし鴎外は、人間はそんなに図式的ではないということを平八郎の内面、《今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先(ま)づ恣(ほしいまゝ)に動いて、外界(げかい)の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時(いつ)でも用に立てられる左券(さけん)を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉(ゐしや)にした丈(だけ)で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘(まゝ)で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄其物が自然に捗(はかど)つて来たのだと云つても好い。己(おれ)が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此(この)終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。》と書くことや、「附録」の最後に告発者四人のその後、《近い頃のロシアの小説に、嘘(うそ)を衝(つ)かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩(ばうはい)に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々(まち/\)であつた。
 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒(ほ)むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠(かへりちゆう)と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。

 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。

 平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す

 吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の昧爽(まいさう)、西町奉行堀利堅に上書す

 吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

 河合八十次郎 平八郎の陰謀に与(くみ)し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅(せがれ)なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請(こぶしん)入(い)を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏(うるふ)四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和(ただより)の邸(やしき)で、人間らしく自殺を遂げた。》と記すことによって<事件>を捉えなおそうとしている。

 

『堺事件』という「事件」では、明治薩長政府が攘夷に変る新しい外交方針の下、諸外国との友好関係を十一人の土佐藩士の犠牲によって信頼を勝ちとり(フランス政府の要求のままに土佐藩兵二十人を処刑)、かつ内に向っては譲歩せざるところは譲歩せずに(フランス政府の助命請願によって切腹することなく生き残った十一人を士族には取り立てず)武士階級を制御できる力を証明するという外と内との両立を果たした。フランス政府の外交的な権力(二十人処刑するように命じて置いて、切腹の惨澹さを見るに堪えないと言って十一人を助命するという勝手気ままさ)と日本政府の内政的な権力のバランスという明治元年の<事件>が、鴎外が生きた時代の明治政府による大逆事件と一部恩赦に直結した現在として捉えうる。

《公使の要求は直ちに朝議の容(い)るるところとなった。土佐藩主が自らヴェニュス号に出向いて謝罪することが一つ。堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、フランス人を殺害(せつがい)した隊の兵卒二十人を、交渉文書が京都に着いた後三日以内に、右の殺害を加えた土地に於(お)いて死刑に処することが二つ。殺害せられたフランス人の家族の扶助(ふじょ)料として、土佐藩主が十五万弗(どる)を支払うことが三つである。》

《子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳(は)ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概(おおむ)ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質(ただ)した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹(さんたん)たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。》

《十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当(あたられ)、思召帰住御免(おぼしめしきじゅうごめん)之上、兵士某(なにがし)父に被仰付(おおせつけられ)、以前之年数被継遣之(いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる)」と云う申渡(もうしわたし)があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦(とくしゃ)を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰(さた)は終(つい)に無かった。》

大塩平八郎』にしろ、『堺事件』にしろ、時の権力者(『舞姫』の大臣天方伯爵のモデルだった)山縣有朋の忠実なイデオローグとしての限界だとみるのは一面的に過ぎるとしても、大岡昇平が「『堺事件』の構図」で指摘した「森鷗外における切盛と捏造」は、「史料」に対する「歴史其の儘」に徹しきれない鴎外の無意識な物語り化心理を突いてはいる。

 

「空間」について。

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)で、渡辺守章は「空間」を取りあげる。

 渡辺《<視線>、<舞台>、<劇>、<事件>といったテーマ系は、不可避的にもう一つのテーマ系、つまり<空間>のそれと結びついています。すでに『臨床医学の誕生』の序文で、「この書物では空間と言語と死が問題になるだろう。また視線もそこでは問題になるはずだ」と述べておられる。》

 フーコー《私には、<空間>がどのようにして<歴史>の一部をなしていたかを理解するのは、重要なことだと思われる。如何にして一社会が己れの空間を整理し、そこに力の関係を書き込んでいったか、という問題です。(中略)たとえば中世は、人が通常考えるのとは反対に、絶えず人間が動き廻っている時代だった。国境はなかったし、多くの人間が移動していた。僧侶、大学人、商人、時には、土地を失えば農民もまた移動した。<大旅行>は何も十六世紀になって始まったものではないのです。ところが西洋世界においては、十六、十七世紀になって、<空間>は安定し出す。それは、都市の編成、私有地の確立、監視方式の発達、道路網の拡充整備等と平行する現象であり、同時にまた、放浪者を逮捕し、貧乏人を監禁し、乞食を禁止したのです。こうして世界は固定化しますが、それは様々に異なる空間を制度として確立することによってのみ可能になった。つまり、病人、狂人、貧乏人の入るべき空間が定められ、金持の居住地、貧乏人の居住地、不健康な居住地等々が区別される。このような<空間の分化>は、われわれの歴史の一部をなすものであり、恐らく最も重要な要素の一つなのです。》

 

 鴎外は「空間」の人、「まなざし」の人である。聴覚よりも視覚を好んだのは、その『独逸日記』に毎日のような観劇はあっても、音楽会はほとんどないことからも推察できる。

舞姫』には「空間」視覚表現が頻出する。

 醒めた都市空間表現。

《余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉(ヰルヘルム)一世(いっせ)の街に臨めるに倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍(かほよ)き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多(あまた)の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑(いとま)なきも宜(うべ)なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。》

《或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄(おばしま)に干したる敷布、襦袢(はだぎ)などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太(ユダヤ)教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯(はしご)は直ちに樓(たかどの)に達し、他の梯は窖(あなぐら)住(すまい)まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。》

 エリスの家の、上、下、右、左と測量されたような「空間」配置の描写。

《余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈(ラムプ)の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて余を迎へ入れつ。戸の内は厨にて、右手(めて)の低き窗(まど)に、眞白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手(ゆんで)には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この處は所謂「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窗に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき處に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二卷と寫眞帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ價高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞(はぢ)を帶びて立てり。》

 

『青年』には鴎外が「空間」把握を科学的に見える形にした「東京方眼図」なるものが登場する。

《小泉純一は芝日蔭町(しばひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場(ていりゅうば)から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町(すだちょう)の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現(ねづごんげん)の表坂上(さかがみ)にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

 此処(ここ)は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿(たど)って来た道を鉛直に切る処(ところ)に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがいせいようづくり)である。入口(いりくち)の鴨居(かもい)の上に、木札が沢山並べて嵌(は)めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。》

「東京方眼図」とは、方眼状に区切られて符号が付いた地図で、地名索引と符合によって目的地の位置を簡単に探し出すことが可能だ。ドイツ留学中に見知ったガイドブックを参考にしたとか、地図を読む軍人の興味から来たとか言われているが、いずれにしろ江戸切り絵図の時代に、科学的な「東京方眼図」は、「現代文学の表現に堪える日本語の文体を最初に完成した」のと同じ文明、文化の切断精神に違いない。

 

「狂気」について。

 さきに見たように『うたかたの記』ではルードビッヒ二世の狂気が物語を急展開せしめたが、『舞姫』でも「狂気」が同じ役割を果たす。

《後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵(たふ)れぬ。相澤は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髮をむしり、蒲團を噛みなどし、また遽に心づきたる樣にて物を探り討(もと)めたり。母の取りて與ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を與へたるとき、探りみて顏に押しあて、涙を流して泣きぬ。

 これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、その痴(おろか)なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。

 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行(ちすぢ)の涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議(はか)りてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。

 嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」の「狂気」は、フーコーという人間の根源を示唆して意味深い。

《こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を越えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言葉(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、或る一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。》

 

 松浦寿輝は「フーコー・コレクション4 権力・監禁」で次のように解説した。

《快楽、笑い、恐怖とともにフーコーは最後にはついに一線を越え、向こう側へ出たのだと思う。唐突な言いかたになるが、それが彼に死をもたらしたのだとわたしは信じている。》

 鷗外『堺事件』にもまた、快楽、笑い、恐怖の挿話が畳みかけられてはいる。

 切腹する《二十人が暫(しばら)く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓(ざっとう)である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂(かねつきどう)には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。

「坊様達、少し退(の)いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間(なかま)には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木(しゅもく)を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋(すが)った。

「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」

「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」

 垣内と僧侶とは揉(も)み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。

「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。

「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷(や)める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。(中略)

 人々は切腹の場所を出て、序(ついで)に宝珠院(ほうじゅいん)の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶(おおがめ)が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼(は)ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。

「君と僕とは生前にも寝食を倶(とも)にしていたが、見れば瓶(かめ)も並べてある。死んでからも隣同士話が出来そうじゃ」と云った。

 土居は忽ち身を跳(おど)らせて瓶の中に這入って叫んだ。

「横田君々々々。なかなか好い工合じゃ」

 竹内が云った。

「気の早い男じゃ。そう急がんでも、じきに人が入れてくれる。早く出て来い」

 土居は瓶から出ようとするが、這入る時とは違って、瓶の縁は高し、内面はすべるので、なかなか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。》

《呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮(しずま)った。箕浦は黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に小袴(こばかま)を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。

「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。

 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に挿(さ)し込んで、大網(だいもう)を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。

 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。

「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。

 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。

 箕浦は又大声を放って、

「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。

 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。

 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。》

あたかも「快楽、笑い、恐怖とともに」鴎外もまた一線を越えそうな気配ではあったが、鴎外は物語を権力との戦い、衝突へとあえてまとめあげることなく、

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭(かしら)に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶(おおがめ)が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶(かめ)を「生運様(いきうんさま)」と云って参詣(さんけい)するものが迹(あと)を絶たない。

 十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男楠吉(くすきち)に家名を立てさせ、三等下席(かせき)に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。

 西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父克平(かつへい)が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族筧氏(かけいうじ)から養子が来た。

 小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。》といった具合に、鴎外は、この先の歴史小説で踏襲してゆく子孫という未来への、物語性よりもニヒルな客観的史実の羅列、散乱でケリをつけてしまう。

 

 丸谷才一は『美談と醜聞 森鷗外』で、鴎外は一体に美談を好むたちの小説家であったとして、『そめちがへ』、『うたかたの記』、『阿部一族』、『高瀬舟』、『伊澤蘭軒』、『澀江抽斎』がいかに美談仕立てであるか、そして美談の由来は年少のとき読みふけった中国小説が彼を支配していたからではないかと推測する。しかし鴎外が西欧小説の本格を日本に移そうと志した成果が見事に達成されている未完の作が一つあって、それは明治四十四年の『灰燼』だという。

《鷗外はこの作をつづけてゆけば恐しいことになると感じて、奇怪な新聞論の二章に韜晦(とうかい)し、中絶した、といふのは前まへから『灰燼』を推奨している中村真一郎の説ですが、あるいはさうかもしれない。中心人物は鷗外その人を思はせる文筆業者で、その青春期における愚行(何か性的なものらしい)を中年になつて回顧するといふ仕組になつてゐる。その愚行とは彼が書生として住込んでゐた家の令嬢とのことのやうである。まづ、近所の、半陰陽だといふ噂のある青年がその娘に恋着して、路上でうるさくつきまとふため、書生がこの者にやめてくれと申入れると、相手はポケットからピストルを出すが、書生は上手に威圧して約束させる。(中略)しかしこれよりも魅力的なのはこの青年の人となりで、彼は沈着冷静で大人びた秀才でありながら、分裂した人格の持主である。その病的な自我は、彼の手に負へない厄介なものなのだ。かういふ人間のとらへ方は極めて二十世紀小説的で、デュメジルあたり、さらにはドストエフスキーを連想させる。

 一方にこの新しい分裂した自我とエロチックなものへの激しい関心があり、他方には明治国家の戒律と日本近代文学の未成熟がある。面倒なことになると極つてゐると、完成したときの事態を遙かに望み見て、鷗外は身ぶるひしたのでせうか。そのとき彼は四十九歳。そして五十代の彼は、ほとんど歴史小説と伝記しか書きませんでした、死を迎へるのは六十歳の年です。》

 

 フーコーと鴎外の関心、問題意識は驚くほど重なるのだが、二人の最大の相違は、一線をついに越えたか、とどまったかにあるに違いない。一九八四年、フーコーベルリンの壁崩壊もインターネットも知ることなくこの世を去ったが、フーコーの問題はますます強度を増し、時代は「フーコーの世紀」となった。ならば、少なくとも極東の日本においては「鴎外の世紀」でもあるのだろうか。文学と医学の世界では戦闘的であったが、世間的、社会的には妥協の人であった、ということの意味も含めて。

                              (了)

            *****主な引用または参考文献*****

*『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ~Ⅹ』蓮實重彦渡辺守章監修/小林康夫石田英敬松浦寿輝編(筑摩書房

*『フーコー・コレクション1~7』小林康夫石田英敬松浦寿輝編(ちくま学芸文庫

フーコー『狂気の歴史』田村俶訳(新潮社)

フーコー臨床医学の誕生』神谷美恵子訳(みすず書房

フーコー『言葉と物』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

フーコー『知の考古学』慎改康之訳(河出文庫

フーコー『監獄の誕生』田村俶訳(新潮社)

フーコー『知への意志(性の歴史Ⅰ)』 渡辺守章訳(新潮社)

*『人と思想 フーコー今村仁司。栗原仁(清水書院

ドゥルーズフーコー宇野邦一訳(河出文庫

森鴎外『鴎外全集 全38巻』(岩波書店

森鴎外『日本現代文學全集 7 森鴎外集』(『舞姫』所収)(講談社

森鴎外『日本文学全集4 森鴎外集』(『妄想』所収)筑摩書房

森鴎外『椋鳥通信』池内紀編(岩波文庫

森鴎外『青年』(新潮文庫

森鴎外『日本の文学 3 森鴎外(二)』(『阿部一族』所収)(中央公論社

森鴎外『鴎外歴史文学集 第二巻』(『大塩平八郎』所収)(岩波書店

森鴎外阿部一族舞姫』(『堺事件』所収)(新潮文庫

森鴎外『ザ・鴎外-森鴎外全小説全一冊』(「歴史其儘と歴史離れ」所収)(第三書館)

*『柄谷行人集1 日本近代文学の起源』(岩波書店

柄谷行人『意味という病』(「歴史と自然――鴎外の歴史小説」所収)(講談社文芸文庫

柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』(「フーコーと日本」所収)(講談社学術文庫

吉田健一『東西文学論/日本の現代文学』(「森鷗外のドイツ留学」所収)(講談社文芸文庫

中村真一郎『再読日本近代文学』(集英社

山崎正和『鷗外 闘う家長』(河出書房新社
*『丸谷才一全集9』(「美談と醜聞 森鷗外」所収)(文藝春秋

大岡昇平歴史小説論』(「『堺事件』の構図」所収)(岩波同時代ライブラリー)

*小金井喜美子「森於菟に」(「文学」第4巻第6号〈特輯 鴎外研究〉昭和11年6月)(岩波書店

松本清張『両像・森鷗外』(文春文庫)

前田愛『都市空間のなかの文学』(「BERLIN1888「舞姫」」所収)(ちくま学芸文庫

前田愛『近代読者の成立』(「鴎外の中国小説趣味」所収)(岩波現代文庫

西成彦『胸さわぎの鴎外』(「性欲と石炭と植民地都市――『舞姫』再考」所収)(人文書院

*J・J・オリガス『物と眼』(「物と眼――若き鴎外の文体について」所収)(岩波書店

*ルソー『告白』桑原武夫訳(岩波文庫

*スタロバンスキー『透明と障害 ルソーの世界』山路昭訳(みすず書房

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(「言い訳(『告白』)所収」土田知則訳(岩波書店

デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』足立和浩訳(現代思潮社

松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社)

丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会

文学批評 「鴎外『雁』の涙する視線」

  「鴎外『雁』の涙する視線」

 

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<1.1 藍色>

 運命は青でひらかれてゆく。森鴎外『雁』のなかで青系の色は肯定的なはじまりの色としてあらわれる。いつでも青の語があらわれるとき、物語を読むものは恋のはじまりの予感を抱く。まず紺からはじめよう。

《紺縮(こんちぢみ)の単物(ひとえもの)に、黒繻子(くろじゅす)と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊(ほそ)い左の手に手拭(てぬぐい)やら石鹸箱(シャボンばこ)や糠袋(ぬかふくろ)やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠(かご)に入れたのを懈(だる)げに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。》

 なにほどでもないかのように青をまとった女が登場する。つづいて、

《しかし結い立ての銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)が蟬(せみ)の羽(は)のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍(やや)寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひら)たいような感じをさせるのとが目に留まった。岡田は只それだけの刹那(せつな)の知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。》

 プンクトゥム(刺すもの)の気配に恋かと思わせて、忘れたと突き放す。

《しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先の日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。》

 意味は深いところの眠りから時間を経て、突然の恋情となることがあるけれど、ここでの感情はいったい何と呼ぶべきなのか。

 そしてまた青が顔をだす。

《竪(たて)に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それを蔓(かずら)で巻いた肘掛窓(ひじかけまど)がある。その窓の障子が一尺ばかり明いていて、卵の殻を伏せた万年青(おもと)の鉢が見えている。》

 万年青は妾宅の記号でもあったという。

《そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色(ねずみいろ)の闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。》

 徐々にお玉に焦点が合わさってゆく。お玉にとってはなおのこと、あのめくるめく感情の震えを告げる青なのだ。

《お玉の家では、越して来た時掛け替えた青簾(あおすだれ)の、色の褪(さ)める隙(ひま)のないのが、肘掛窓(ひじかけまど)の竹格子の内側を、上から下まで透間(すきま)なく深く鎖(とざ)している。》

 お玉の心を激しく収斂しながら、同時におおらかに開放する青は、岡田にとってもある種の符号を秘めていて、たとえば「小青」という名前で深層心理を語る。

《同じ虞初新誌の中(うち)に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝であった。その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾(しきい)の外に待たせて置いて、徐(しず)かに脂粉の粧(よそおい)を凝(こら)すとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。》

 青は狂言回しのように物語を展開させる。たとえばある日印絆纏(しるしばんてん)を裏返しに着た男が金を無心するので、お玉は青い五十銭札を二枚渡す。このことがきっかけで隣の裁縫のお師匠さんと親しくなり、岡田の名前を教わる。お玉は一歩踏み出そうとしている自分を知ってか知らずか、檀那の留守を千載一遇ととらえて女中の梅を親もとに泊まらせようと浮き立つ。お玉は洗い物をはじめる梅が気が気でない。待つことは苦痛にして、しかし快楽であると感じつつあるお玉は梅に、髪はゆうべ結ったからそれでよい、早く着物をお着替えよ、なんにもお土産がないからこれを持ってお出、と追い出すようにせかして紙包を渡すが、その中にもまた半円の青い札がはいっていた。さらには、青大将が、二人が言葉を交すきっかけとなったのは知ってのとおりである。

 

<1.2 空宇(くうう)を見上げる>

 季節は九月から寒い時候へと移る。お玉は見上げたりしない。空宇というひろがりを感じとることは彼女の人生に存在しえないのだ。いつでもうつむいて箱火鉢という箱庭で心をいやしている。せいぜいが窓という枠に区切られた外側を覗くのが精一杯。空の彼方、海の向こうのヨーロッパまでを見上げて一夜にして実行に移す男と、恋する相手を待って坂上を見上げ、一生に一度と上気する女の交錯の場、それが無縁坂だった。お玉の囲われている妾宅が坂の上でも下でもなく、坂を降りかかった宙ぶらりんの場所に位置することの象徴性。その密かな場所は、しかし裁縫を教える為立物師(したてものし)でべちゃくちゃ盛んにしゃべる娘たちで騒がしい、という静と動の隣接。排除され隠されるべき部分と社会性という生産の場が坂という境界に設定されている。

 お玉は空宇を見上げない。かわってお玉は振りかえる。《戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停めて、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。》 だが坂という境界では決して振り返ってはならないのは神話にあきらかな禁忌の古層であった。

 

<1.3 この世ならぬもの>

 お玉にとってこの世ならぬものなどないはずだった。この世ならぬものを空想することさえ宥されていなかったのだから。けれども、それは不意にあらわれた。

《それでもお玉は毎日見るともなしに、窓の外を通る学生を見ている。そして或る日自分の胸に何物かが芽ざして来ているらしく感じて、はっと驚いた。意識の閾(しきい)の下で胎を結んで、形が出来てから、突然躍り出したような想像の塊(かたまり)に驚かされたのである。》

 この世ならぬものは無意識の領域から唐突に溢れだして混乱を引きおこす。それはお玉において一撃とでもいった恋心を目覚めさせ、もしかしたら自我というものに気づかせる、妾という身分に甘んじるためには危険な瞬間かもしれなかった。

《とうとう往来を通る学生を見ていて、あの中に若し頼もしい人がいて、自分を今の境界(きょうがい)から救ってくれるようにはなるまいかとまで考えた。そしてそう云う想像に耽(ふけ)る自分を、忽然(こつぜん)意識した時、はっと驚いたのである。》

 

<1.4 刹那(せつな)

 岡田にとっての刹那とお玉にとっての刹那は意味が違う。岡田は刹那の感覚を無意味に変換する方程式を身につけていて、たとえば銀杏返しの鬢の寂しい顔のお玉を芽に留めたその刹那、

《岡田は只それだけの刹那(せつな)の知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。》

 ところで、愛すべき初心(うぶ)なお玉を描く鴎外は漱石より女をわかっていたと言えるのかどうか。

《そしてふと自分の方から笑い掛けたが、それは気の弛んだ、抑制作用の麻痺した刹那の出来事で、おとなしい質のお玉にはこちらから恋をし掛けようと、はっきり意識して、故意にそんな事をする心はなかった。》

 ついでお玉は錯覚する。つまり恋とは錯覚からはじまるときが哀しくも甘い。

《岡田が始て帽子を取って会釈した時、お玉は胸を躍らせて、自分で自分の顔の赤くなるのを感じた。女は直感が鋭い。お玉には岡田の帽子を取ったのが発作的行為で、故意にしたのではないことが明白に知れていた。》

 女の直感は鋭くとも、岡田が故意にしなかったということがのちのちどういう結果をもたらすかまでは想像が及ばない無垢さ。二人の真摯さの質が違う。言質をとられないというずるさが行為にまであらわれる岡田にひきかえ、お玉の刹那は一瞬の悦びがすべてである。それは末造とはじめて目見えした場面でもあきらかで、高利貸しというおぞましき言葉に思い至らない。

《お玉の方では、どうせ親の貧苦を救うために自分を売るのだから、買手はどんなでも構わぬと、捨身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬(あいきょう)のある末造が、上品な、目立たぬ好みの支度をしているのを見て、捨てた命を拾ったように思って、これも刹那(せつな)の満足を覚えた。》

 

 <1.5 わたしは決めた>

 お玉は決めた。末造が千葉へ往って留守になる機会をとらえて梅を親もとへ泊まらせようと。お玉ははじめて自分から動く。天動説は恋によって地動説にかわる。

《お玉はじっと梅の顔を見て、機嫌の好い顔を一層機嫌を好くして云った。「あの、お前お内へ往きたかなくって」》

 とうとうお玉は本能のようにたくらみの一歩を踏みだす。神の眼は「僕」の名を借りる。

《家の前にはお玉が立っていた。お玉は寠(やつ)れていても美しい女であった。しかし若い健康な美人の常として、粧映(つくりばえ)もした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変っているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。》

 おそらくお玉は恋という言葉を知っていて、それゆえに本当の恋で知らず美しくなった。暗くなってからもお玉はそこに在り続けた。雁を外套の下に隠して、ふたたび戻って来た僕と岡田は坂の中程に立ってこちらを見ている女の姿を認める。

《なぜだか知らぬが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。果して僕の想像は僕を欺かなかった。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。》

 この二三軒のなんと大きな距離であったことだろう。時間ばかりか空間もまた伸び縮みするのだ。立ち続けることは少しも耐えることではない。恋する者にとってそれは悦楽の時間。

 

<1.6 ユニコーン

 クリュニー中世美術館のタピスリーに織りこまれたユニコーンといえば、リルケ『マルテの手記』の一節が思い浮かぶ。鴎外は明治42年(1909年)の時点でまだ無名に近かったリルケの戯曲を「家常茶飯」として翻訳し、ついで小説『白』(明治43年)、戯曲『白衣の夫人』(大正5年)を紹介した。それは『雁』がスバルに連載された明治44年から大正2年にオーバラップする。リルケへの関心は、リルケが師事していたロダンへの興味(明治43年にはロダンを主人公に短編『花子』を書いている)にもよるのだろうが、なによりも内と外とを往き帰しつつ内へ内へと掘り下げてゆく芸術家の象徴的でいてしかも明晰な生の歓喜と退廃の共存する言語の詩に共感したからだろう。

鴎外はそのくわだての果ての怖ろしさを岡田のごとく直感的に認識して史伝へと向かったに違いない。作品が作家を作ることは医学者鴎外にとって科学ではなかった。あくまで鴎外にとっては作家が作品を作らねばならなかった。そして、それを選んでゆくことになる。鴎外が『雁』を連載しはじめた明治44年(1911年)9月は大逆事件幸徳秋水らが処刑された半年後だった。近代日本が大きくカーブを切る変曲点だと自身感づいていたはずで、ゆえに『雁』は作家にとっての変曲点に位置している。

 

 <2.1 視線は通過したがる>

 他の多くの作家がそうであるように鴎外もまた五感のうちの視覚の作家である。同じ医学者の斉藤茂吉が視覚的であるとともに皮膚感覚としての赤の触覚を示しているのとは違い、他の感覚をあらわさない。感覚の重要性を鴎外は美学者ハルトマンの援用で承知していたが、頭で理解していることと生理的に身につけていることとは自覚していたとおり異なる。

 ここにある視線は幾何学的だ。拡散するというよりは焦点を結ぶ。視線に温度や硬度があるならばそれはダイヤモンドの冷やかさと硬さである。あるいはバカラグラスのようにたっぷりと鉛を含んだクリスタルの重さと透明さ。スピノザ的な構築の視線はレンズに屈折する光線のごとき直進性であって、螺旋を描いたりメビウスの輪となって欲情することはない。無機的な視線は蛇のように絡みあうことなく、ユークリッド幾何学として一点で交差するか永遠にすれちがうかである。多重映像やぼやけによって粘りつく官能の視線ではない。鴎外の視線は静かな抒情と理知のそれだがときに恋する女は裏切るように歪める。

 お玉のまなざしははじめあてもなく泳いでいる。作者はそれを溺れさせずに一点に焦点を合わせよう、実体を確認させようとレンズを調整してゆく。はじめはこうだった。

《無聊(ぶりょう)に苦しんでいるお玉は、その窓の内で、暁斎(ぎょうさい)や是真(ぜしん)の画のある団扇を幾つも挿した団扇挿しの下の柱にもたれて、ぼんやり往来を眺めている。》

 いつしか目的を持ちはじめ、像を求める。音が目覚めさせた。

《三時が過ぎると、学生が三四人ずつの群をなして通る、その度毎に、隣の裁縫の師匠の家で、小雀の囀(さえず)るような娘達の声が一際喧(やかま)しくなる。それに促されてお玉もどんな人が通るかと、覚えず気を附けて見ることがある。》

 焦点距離が合った映像は今度は名前を持ちたがる。まずは「あの人」という代名詞から、ついで「あの人」だけの固有名詞を。

《お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。しかし際立って立派な紅顔の美少年でありながら、自惚(うぬぼれ)らしい、気障(きざ)な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初(そ)めた。それから毎日窓から外を見ているにも、又あの人が通りはしないかと待つようになった。》

 裁縫の師匠お貞の「あなた岡田さんがお近づきですね」のひと言で、「あの人」のことだと知ったお玉は「岡田」と口の内で繰りかえした。名を知ることでもはや「あの人」の半分を手に入れたかのように。

 ついで登場人物たちの見るという所作が交錯する一節がある。「見る」という語が毎行のように主語を入れかえてはあらわれ、見たがる。見えるものを確認してやまない。

《小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」と云った。「うん、取るのは好(い)いが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」と、岡田は笑いながら云った。小僧は旨く首を抜き出して、指尖(ゆびさき)で鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」と云った。

 この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、揃(そろ)って隣の家の格子戸の内に這入った。

「さあ僕もそろそろお暇(いとま)しましょう」と云って、岡田があたりを見廻した。

 女主人はうっとりと何か物を考えているらしく見えていたが、この詞(ことば)を聞いて、岡田の方を見た。そして何か言いそうにして躊躇(ちゅうちょ)して、目を脇へそらした。それと同時に女は岡田の手に少し血の附いているのを見附けた。》

 ついに恋する女の視線は細部まで見届けるほどの顕微鏡的視力を持つにいたった。

 岡田の視線は《「さようなら」と云って、跡を見ずに坂を降りた》のように通過してしまう。お玉の視線は今では注視どころか凝視したがる。二人の視線の性質が恋することで入れ換わってしまったのだ。鴎外のポーズを裏切るように、作家の本質にありつづけたロマンティシズムと官能性が滲みでてしまう。声が出ないお玉の心は震え、視線は光を集める。

《お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足の運(はこび)を早めた。

 僕は第三者に有勝(ありがち)な無遠慮を以て、度々背中(うしろ)を振り向いて見たが、お玉の注視は頗(すこぶ)る長く継続せられていた。》

 その後ふたたび無縁坂で、瞑目するお玉の視線が涙する。

《そして彼は偶然帽を動かすらしく粧(よそお)って、帽の庇(ひさし)に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく睜(みは)った目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。》

 恋をすると思わなくては恋にならない。目に心をこめなくては恋するものにならない。恋するものの視線だけが涙する。

 

<2.2 覗くことは卑しい行為か>

 窓から覗くことの意味はすでに語りつくされているし、窓の格子に似た鳥籠の象徴性も通俗すぎるので追わない。ここでは、団扇挿しの下の柱にもたれて、肘掛窓の竹格子から、ぼんやり往来を眺めているお玉には。『一遍聖絵』などにある扇の骨のすきまから公界の場を覗き見る人物像との関連があるだろうことを指摘しておきたい。また蛇によってあけられた鳥籠の穴が、他ならぬ岡田の手で、お玉の元結(もとゆい)を使って鎖されたエピソードは幾重にもフロイト的な解釈を適用できるが、あえて立ちどまる必要もないだろう。

 ところで岡田は跡を見ずに坂を降りてしまうが、それはあまりに『金瓶梅』と違う。岡田はじゅうじゅうわかっていたはずだ、蛇退治をした日の午前中、寝転んで『金瓶梅』を読んでいて頭がぼうっとして来たのでぶらぶら出掛けて妙な事に出逢ったのだから。その『金瓶梅』の金蓮もまた簾のそばにたたずみ、往来を眺めることで西門慶に出会ったのは周知のとおりだ。『金瓶梅』の《かねてから金蓮は念入りにめかして、武大が出かけるとすぐ門口の簾のそばにたたずみ、男が帰って来そうなころおい、簾をはずして部屋に引きさがるのがつねでしたが、ある日、さもありそうなことですが、ひとりの男が簾の向うを通りかかった。昔からちょうどいいことがなければ、物語にならないと申します。夫婦の縁とて当然めぐりあいというわけ。女がちょうど掛け竿を手にして簾を掛けていると、さっと吹いて来た一陣の風に掛け竿を吹きたおされ、それが、しっかり持っていなかったものですから、まともにその男の頭巾にぶつかってしまった。》 この男こそが西門慶で、彼は跡を見ずに去ることなどなく《帰りぎわに七八ぺんも振り返って、そのまま肩をふりふり扇をかざしながら去ってゆきました》というありさまで、金蓮もまた《簾のそばに立ちつくして、男の見えなくなるまでに恋しげに見送り》といったぐあいだ。ここから両人抱き合って蛇のように舌を吸いあい、春ごころがきざすまでの時間のなんと短いことか。

『雁』の視線がいかに近代明治の抑圧の下にあるかがこれでわかる。しかしもっと言えば江戸の爛熟とて、近松の姦通物三篇にみるとおり、遊女にあらざる妻に対しては恋愛感情存在しえないパラダイムで、金蓮の自由意思との差異にあらためて驚かされる。

 

<2.3 黙っている自分に赤面する>

 お玉はたびたび赤面する。京都盆地の寒暖の差が美しい紅葉をもたらすように、黙っていることが頬を染める。音になって外気へ発せられない声の粒が赤い色素に沈潜して肌に散る。

《「あら、わたくしが掃きますわ」と云って、台所から出た梅を、「好いよ、お前は煮物を見ていておくれ、わたし用が無いからしているのだよ」と云って追い返した。そこへ丁度岡田が通り掛かって、帽を脱いで会釈をした。お玉は帚を持ったまま顔を真っ赤にして棒立に立っていたが、何も言うことが出来ずに、岡田を行き過ぎさせてしまった。》

 思考が停止する。恋の言葉を与えられていない女がいる。《檀那の前では間の悪いような風はしていても、言おうとさえ思えば、どんな事でも言われぬことは無い》のに。

《お玉は手を焼いた火箸(ひばし)をほうり出すように帚を棄てて、雪踏を脱いで急いで上がった。お玉は箱火鉢の傍(そば)へすわって、火をいじりながら思った》の「思った」は無意識に近く、《それに岡田さんにはなぜ声が掛けられなかったのだろう。あんなにお世話になったのだから、お礼を言うのは当前(あたりまえ)だ。それがきょう言われぬようでは、あの方に物を言う折は無くなってしまうかも知れない》から延々とつづく内的独白の最後、《お玉はこんな事を考えて火をいじっているうちに、鉄瓶の蓋(ふた)が跳(おど)り出したので、湯気を洩(も)らすように蓋を切った》の火は欲情の炎であり、湯気は情動でしゅうしゅういっている。

 そもそもお玉はすぐに赤面するのだった。はじめからそうだった。

《通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなって、二週間の立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。その時微白(ほのじろ)い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑(ほほえみ)の顔が華やかな笑顔になった。》

 その後も《女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛(たた)えて酌をするお玉》、《お玉はふいと自分の饒舌(しゃべ)っているのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折(はしよ)って、元の詞数の少い対話に戻ってしまう》、《お玉の顔はすぐに真っ赤になった。そして姑(しばら)く黙っている。どう言おうかと考える。細かい器械の運転が透き通って見えるようである》の初々しさ。

 恋の成就の期待から《ほんのりと赤く匀(にお)った頬のあたりをまだ微笑(ほほえみ)の影が去らずにいる》お玉は、梅を実家に戻したあと洗い物をはじめるが《取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。そしてお玉の顔は活気のある淡紅色に赫(かがや)いて、目は空(くう)を見ている》という法悦の表情である。

 

<3.1 うすうすと緑が立つ>

『雁』に登場する植物のなんとうらがなしいことか。鴎外は花日記のたぐいをつけていた人であったのに。高野槇(こうやまき)、ちゃぼ檜葉(ひば)、梧桐(あおぎり)、側栢(ひのき)といったほこりっぽい庭木があるばかりだ。

 末造がお玉と目見えする松源の床の間に生けられた一輪挿の山梔(くちなし)の花とてはかなげで、万年青(おもと)といい、青大将の下半身がばたりと落ちた麦門冬(りゆうのひげ)にせよ、寂しさばかり際立つ。「僕」の父が裏庭に作っていた女郎花(おみなえし)やら藤袴(ふじばかま)やらにしても華やかとは言いがたく、冬へと近づけばあの雁のいた池の葦は枯葉となって死霊ただようばかりとなる。

《その頃は根津に通ずる小溝(こみぞ)から、今三人の立っている汀(みぎわ)まで、一面に葦が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎(まばら)になって、只枯蓮(かれはす)の襤褸(ぼろ)のような葉、海綿のような房(ぼう)が基布(きふ)せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳(そび)えて、景物に荒涼な趣を添えている。》

 ここには芽生えがない。灰色に濁った夕(ゆうべ)の空気を透かしてお玉はあらわれ、闇にとざされる宵に希望のようなものを見送ったのだ。

 

<3.2 水音が聞こえる>

 すでに指摘されていることではあるが、鴎外には溺死への希求がある。そのイマージュは『うたかたの記』のルートヴィッヒ二世とマリイの事件、『山椒大夫』の安寿の入水、『於母影』の翻訳詩『オフェリアの歌』にみられるとおりだ。『高瀬舟』とて黄泉への流出ととれなくもない。その演繹から池の水面で死んだ雁をお玉の運命の符号と読み取ることは実直な反応ではあるが、水葬のイマージュよりも『雁』に何度かあらわれる「洗う」ことの隠喩(メタファー)にひかれる(同じように、岡田がなぜ雁に石を当てたかを道徳的に考えたがるよりも、《学科の外の本は一切読まぬ》石原という男、《そう物の哀(あわれ)を知り過ぎては困るなあ》と岡田に石を投げさせ、《女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまった》らしい《雁を肴に酒を飲む》石原とは、近代日本における何者であったのかを考えるべきであろう、鴎外がそのような男を自己に引きよせてどう思っていたかとともに)。

 お玉はまず洗い清められた湯帰りの女として男の前に立ちあらわれたことを思いだすべきだ。ついでお玉は青大将を退治した岡田に小指についた血を洗い落とすよう促す。これは《あなたの手は血で穢れ》、《あなたの指は不義で穢れ》(『イザヤ書』)と同じ古層のおぞましきもの(アブジェクシオン)を、夢みた岡田がもたらしたことで、魅かれつつも排除しようとしたのではないか。

 また、洗物ですぐに手が荒れることは、女中梅が自分よりさらに下層な階級の出であると教えて優越感を持たせたりもする。

《「なんでも手を濡らした跡をそのままにして置くのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐに好く拭いて乾かしてお置。用が片附いたら、忘れないでシャボンで手を洗うのだよ」こう云ってシャボンまで買って渡した。》

 鴎外は、《横着になると共に、次第に少しずつじだらくになる》お玉を洗いの所作だけで活写する。《末造はこのじだらくに情欲を煽られて、一層お玉に引き附けられるように感ずる》の女の変化(へんげ)の怖さで人物は深まる。

《お玉はしゃがんで金盥(かなだらい)を引き寄せながら云った。「あなたは一寸(ちょっと)あちらへ向いていて下さいましな」

「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗(きんてんぐ)に火を附けた。

「だって顔を洗わなくちゃ」

「好いじゃないか。さっさと洗え」

「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」

「むずかしいなあ。これで好いか」末造は烟(けぶり)を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。

 お玉は肌も脱がずに、只領(えり)だけくつろげて、忙がしげに顔を洗う。》

 いつのまにか檀那になじんでしまった女の手の動きが、恋の出逢いを待てなくて知らず胸の締めつけと高鳴りに妄想をたぐりよせる。

《梅をせき立てて出して置いて、お玉は甲斐甲斐(かいがい)しく襷を掛け褄を端折(はしよ)って台所に出た。そしてさも面白い事をするように、梅が洗い掛けて置いた茶碗や皿を洗い始めた。こんな為事は昔取った杵柄(きねづか)で、梅なんぞが企て及ばぬ程迅速に、しかも周密に出来る筈のお玉が、きょうは子供がおもちゃを持って遊ぶより手ぬるい洗いようをしている。》

 女は恋の観念を自ら弄んでいる。《そしてその頭の中には、極めて楽観的な写像が往来している》となって、《思い続けているうちに、小桶の湯がすっかり冷えてしまったのを、お玉はつめたいとも思わずにいた》というほど一途な女をどうして棄てられようか。

 

<3.3 ふたひらの耳が捉えるもの>

『東京方眼紙』を著した鴎外が地誌的視覚の持ち主であったのは見てきたとおりである。五感の第一といわれる視覚は別格として、聴覚について考察してみれば、訳詩にみる音感の確かさは疑うべくもないが、生理的本質において耳の作家であったかといえば首をかしげざるをえない。『雁』のなかで作家の耳が捉えた音はほんのわずかでしかないからだ。これらの音たちは時間と添い寝して記憶を呼びさます。音が記憶を覚醒する。音が過去を刻印する。

《その時末造が或る女を思い出した。それは自分が練塀町(ねりべいちよう)の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。(中略)最初末造の注意を惹(ひ)いたのは、この家に稽古(けいこ)三味線の音(ね)のすることであった。それからその三味線の音の主が、十六七の可哀(かわい)らしい娘だと云うことを知った。》

三絃の音を響かせる娘は処女だったころのお玉だった。生娘ではなくなっているのを知り、お玉を妾にしたくて松源で目見えをしたさいのこと、

《突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚御贔屓様(ごひいきさま)を」と云った。二階にしていた三味線の音が止まって、女中が手摩(てすり)に摑(つか)まって何か言っている。下では、「へい、さようなら成田屋の河内山(こうちやま)と音羽屋(おとわや)の直侍(なおざむらい)を一つ、最初は河内山」と云って、声音を使いはじめた。》

 音が氾濫していなかったあの時代、声音を書きわけることが小説家の耳であったから、この場面はよしとして、お玉の声を鈴虫の鳴くようだと感じ、妻の声が狸が物を言うようだと思う末造の心の戯画の耳は通俗といってよかろう。

 印象的なのは、夜を切り裂く人わざのノイズと動物たちの鳴き声だ。

《岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云う微かな響をさせて飛んだ。僕がその後方をじっと見ていると、一羽の雁が擡げていた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。》

 だが一番聞きたい音、岡田がはじめてお玉を見たときの格子戸があく音が聞こえてこない。

 

<4.1 体内にはガラスがある>

 レンズ研磨職人でもあったスピノザを思う。レンズ・プリズムから虹の光学理論を導いたゲーテに思いをはせる。光学と幾何学はクリスタルな婚姻を結び、屈折光学という美しい物理学を構築した。『ファウスト』を翻訳した鴎外は、ゲーテスピノザを愛読していたのを知っていた。スピノザの名は自ら創刊した文学評論誌『柵(しがらみ)草子』に、お気に入りのハルトマン、レッシングの泉として湧き出ている。《わが第十九基督世紀のハルトマンが唯一論(モニスムス)に取るところあるは、それ猶レッシングが第十七基督世紀のスピノツアが唯一論に取るところありしがごときか。》

 レンズは顕微鏡にも望遠鏡にもなる。顕微鏡を発明したオランダのレーウェンフック(1632年生)は事物を見えるがままに調べ、記録するためには真摯な手、忠実な目のみが必要だと語ったが、それは鴎外のことでもあった。スピノザ(1632年生)の『エティカ』の静謐な哲学体系は、フェルメール(1632年生)の絵の技法としてのカメラ・オブスキュラの、一点の穴から円錐形となって拡がって平面に像を結んだその写像の明晰さと同一の精神にある。

 鴎外の合理的精神、つまりは独逸医学をを学んだ勤勉な精神は、『東京方眼図』のような測量士の科学精神で事物をXY軸にプロットせずにいられない。そうしておけば自己の内面に土足で踏み込まれずに表層にとどめておけるという防衛本能もあった。

『雁』には円錐の立方積の公式が唐突に持ちだされたり、雁を取りに池に入るとき「延線」という科学用語が使われたり、岡田に「Parallaxe(パララツクセ)」のような理屈だな」(「Parallaxe(パララツクセ)」とは視差のこと)と言わせたりする場面がある。レンズそのものは登場しないが「Parallaxe(パララツクセ)」を先駆けとして、『雁』という物語を二枚のレンズで見るように要求してくる。

《僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えてみると、もうその時から三十五年を経過している。物語の一半は、親しく岡田に交(まじわ)っていて見たのだが、他の一半は岡田が去った後(のち)に、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。譬(たと)えば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一(いつ)の影像として視(み)るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作ったのがこの物語である。》

 空間の混沌をレンズによって認識論的秩序に変換することはできても、時間の混沌を感覚のレンズによって秩序だてることなどできない。事物は「exact」とならず、万華鏡のなかの千万の花びらのようにくるくると廻っては形象をかえる。『雁』の冒頭文《古い話である》と、さきほどの最後の文とが二枚のレンズで焦点を合せることなく、ただの言い訳にしか聞こえてこないのと似ている。このずれこそが『雁』という小説を繰りかえし読みうるものにしている理由であって、新生の徴候の中に、私たちは見えないものを見なくてはならない。

 

<4.2 壊れるのを待つ>

 ガラスはオブジェになる。お玉は「美術品」のような壊れやすいオブジェである。道学者めいてお玉の自我の覚醒など見たがるのは田舎者というもので、とりわけ末造に対する心の変化を描いた文章を引用して力説するなどは野暮のかぎりだ。

 小説家のよく見える眼は神宿る細部に向かってプンクトゥムを穿つ。

《結い立ての銀杏返(いちょうがえ)し鬢(びん)が蟬(せみ)の羽のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍(やや)寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひら)たいような感じをさせるのが目に留まった。》

 まるでガラス細工のようではないか。そのうえ檀那になる末造は値踏みしているのか、床の間の置き物に魅入っているのか、

《ふっくりした円顔の、可哀らしい子だと思っていたに、いつの間にか細面になって体も前よりはすらりとしている。さっぱりとした銀杏返(いちょうがえ)しに結(い)って、こんな場合に人のする厚化粧なんぞはせず、殆ど素顔と云っても好(よ)い。それが想像していたとは全く趣が変っていて、しかも一層美しい。末造はその姿を目に吸い込むように見て、心の内に非常な満足を覚えた。》

 オブジェはお眼鏡(めがね)にかなったのである。江戸の粋の血をひく掘出し物は恍惚と壊れるのを待つガラスだった。

 ついで紅雀も雁も壊れるのを待ち、青大将もまたそうだった。岡田は出刃包丁を手に、

《包丁で蛇の体を腕木に押し附けるようにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。蛇の鱗(うろこ)の切れる時、硝子(がらす)を砕くような手ごたえがした。》

 そういえばお玉の父はかつて飴細工の床店を出していたそうだが、それもまたはかない工芸品である。

 ところで岡田も石原も僕も決して壊れないだろう。彼らは知っている。何が壊れやすいかを、壊れやすいものを壊れやすい場所に置いてはいけないことを。《女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。》 壊すことが恋であるのだから、岡田は恋から逃げている。彼らを裏切るようにお玉はなぜ落下して壊れなかったのだ、自ら。

 

<4.3 抱きしめます>

 五感のうちの触覚はどうだろう。それは他にもまして欠けている。言いすぎかもしれない。鴎外が性的事象に関心を寄せていたのは医学論文から容易に知れるところであるし、自身エロティックな官能を承知していたのは経歴の教えるところで、だからこそ溺れることを警戒したのだ。それは承知しているといった類いの、粋とは無縁の実直な理解でしかない。理知の人ヴァレリーが『カイエ』にエロスを書き残したのに対し、鴎外は世間と己れをあざむきつづけたか、もしくはあくまでも都会人でも地中海文明人でもなかったというまでか。

 それでも『雁』には何ヶ所かエロスが溢れだしてしまった文章がある。二つばかり引用する。ひとつは自然主義風のおぞましき肉感としての末造のお上さんお常にあらわれ、いまひとつは目の悦びが触感をともなった妾お玉のそれとして。

《丸髷の振動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落(みずおち)の辺(あたり)に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返した。

「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来る。》

《「あら、ひどい方ね」とお玉は云ったが、そのまま髪を撫で附けている。くつろげた領の下に項(うなじ)から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりした臂(ひじ)が、末造のためにはいつでも厭きない見ものである。》

 お玉を見る末造の視線、鏡で自分の顔をみつめるお玉の視線、鏡に映った末造の顔を見つけたお玉の視線、これら三つの視線からなる三角形は鏡像の悦楽の図形である。《そこで自分が黙って待っていたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思って、わざと気楽げにゆっくりした調子で話し出した。「おい急ぐには及ばないよ(後略)」》にはくつろぐ領(えり)や袖口といった開口部の駘蕩を鴎外がかつて味わったことをあかしている。

 けれど総じていえば、鴎外『我百首』の相聞歌には、すべらかでしたたるような繊細さや甘さはなく、ごつごつざわざわしたぽっと出を隠しきれていない。たとえば、「君に問ふその唇の紅はわが眉間なる皺を熨(の)す火か」、「掻い撫でば火花散るべき黒髪の縄に我身は縛られてあり」、「処女(しよぢよ)はげにきよらなるものまだ售れぬ荒物店の箒(はゝき)のごとく」では芥川龍之介に、詩人よりも何か他のものだった、と批評されても仕方あるまい。それでもお玉や『舞姫』エリスのような薄幸の女を書くときには詩が宿ったのは、作家が俗物ではなく、一級の古典的教養、文体からくるものであったろう。

 

<5.1 あの骨>

 供犠の場で骨は聖別される。腰骨、頭蓋骨、脛骨などは祭壇に捧げられる。火葬した灰のなかから遺骨を拾い上げることは神聖な行為に違いない。お玉は繰りかえし火箸で灰をいじる。灰をいじくりまわすときお玉は根源的な神話に近づく。

《お玉は火箸で灰をいじりながら、偸(ぬす)むように末造の顔を見ている。「でもいろいろと思って見ますものですから」》

 思っているうちに知らず火箸の先が動き、灰の表に文字が描かれては掻き消される。

《箱火鉢の傍に据わって、火の上に被(かぶ)さった灰を火箸で掻き落していたお玉は、「おや、何をあやまるのだい」と云って、にっこりした。》

 考えが啓示のようにやって来たのだ。梅を許して早く家に帰らせ、秘密の時を持とうと。ためらいの灰を掻き落して情熱の赤をあらわにするとき、姦通という文字が神話として炎をあげる。そして神話に従う女に罪の意識は微塵もない。

《膳を膳棚にしまって箱火鉢の所に帰って据わったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられぬと云う様子をしていた。そしてけさ梅が綺麗(きれい)に篩(ふる)った灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思うと、つと立って着物を着換えはじめた。》

《どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合(ふしあわせ)な目に逢った物怪(もつけ)の幸(さいわい)に、次第に分かって来ている》お玉の火箸を握る指さきは、すでにためらいのない覚悟の動作となって今宵の官能への期待に汗ばんでいる。鴎外は反撥を買うエリート男性の身勝手ばかりでなく、色売る女の恋心と生理さえも書けた男だった。

 

<5.2 惚れ惚れするような白さ>

 ダンテの前に白い衣装であらわれたヴェアトリーチェのように、ここぞという場面で白はお玉とともにあらわれ、作家によって書きこまれるべき隠喩(メタフア)を求める。意味の光を反射している。

《その窓の障子が一尺ばかり明いていて、卵の殻を伏せた万年青(おもと)の鉢が見えている。》

 万年青の鉢につきものな卵の殻の白のおぞましさ。檀那が昨夜勇んで飲みこんだ生卵、その生命の凝集体を包む鉱物質の殻を植物が糧とするグロテスク。

《そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色(ねずみいろ)の闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。》

 この幽かさは現(うつつ)のものではないのかもしれない。実際お玉は夢の女であって、『雁』一編が「僕」のたわごとであっても不思議ではない入れ子回想物語構造がとられている。

 お玉にとって白は大切な色であり、また彼女自身も惚れ惚れするような白の女であった。

《暫(しばら)くするとお玉は起って押入を開けて、象皮賽(ぞうひまがい)の鞄(かばん)から、自分で縫った白金巾(しろかなきん)の前掛を出して腰に結んで、深い溜息(ためいき)を衝(つ)いて台所を出た。》

 前掛の白はこの時代に当然かもしれないが、それ以上の意識でお玉は腰を覆っているだろう。

《くつろげた領の下に項(うなじ)から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりした臂(ひじ)が、末造のためにはいつまでも厭(あ)きない見ものである。》

 鴎外-荷風-谷崎の系譜といわれるのはこの感覚への眼差しと気づかせる白い肌は、『雁』の深層の図形としての三角形で、陰翳の底の白磁のごとくそこにある。もはや静謐の器ではなく、誘う白の器へと女体は変貌し、眼を誘う。

 

<5.3 甘くもなんともなくて>

 では味覚と臭覚はどうなのか。平安文学のおける食の位置に等しく、味覚の悦びに無頓着な作者がいる。とくに『雁』には偏った味覚が存在していて、雁を肴に酒を飲んだり、青魚(さば)の未醤煮が晩飯の膳に上ったりもしたが、菓子についての記述が目につく。鴎外は青魚(さば)嫌いだったらしいが、菓子好きであったかはわからない。いずれにしろ菓子は登場しても食の悦びのためではなく小道具のようである。いくつか引用するが、つねに場所の名前が付随していることに気をつけたい。

《赤門を出てから本郷(ほんごう)通りを歩いて、粟餅(あわもち)の曲擣(きよくづま)をしている店の前を通って、神田明神の境内に入る。》

《爺いさんは起って、押入からブリキの鑵(かん)を出して、菓子鉢へ玉子煎餅を盛っている。

「これは宝丹のじき裏の内で拵(こしら)えているのだ。この辺は便利の好(い)い所で、その側の横町には如燕(じよえん)の佃煮(つくだに)もある」》

《お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭(いなかまんじゆう)でも買って遣ろうか。それでは余り智慧(ちえ)が無さ過ぎる。》

《お玉はきょう機嫌の好(い)い父親の顔を見て、阿茶(あちゃ)の局(つぼね)の話を聞せて貰い、広小路に出来た大千住(おおせんじゆ)の出店で買ったと云う、一尺四方もある軽焼の馳走になった。》

 さて五感の最後に残るは臭覚だが、ここにあるのは食の臭いだけと言ってよく、闇の香からなる平安文化に大きく劣る。あの松源の床の間にあった山梔(くちなし)の花の香すら匂わない。雅などは排すべきものであった時代の精神は、料亭においてさえ生活の臭いから離れない。

《初め据わった時は少し熱いように思ったが、暫く立つと台所や便所の辺(あたり)を通って、いろいろの物の香を、微かに帯びた風が、廊下の方から折々吹いて来て、傍(そば)に女中の置いて行った、よごれた団扇(うちわ)を手に取るには及ばぬ位であった。》

 また、合力をしてくれと無遠慮に上がって来る印袢纏(しるしばんてん)を裏返して着た男は、《酒の匀(におい)が胸の悪い程するのである。》 そして、これはどうだろう。

《どんな風通しの好(い)い座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気を嗅(か)ぐ。煮肴(にざかな)に羊栖菜(ひじき)や相良麩(さがらぶ)が附けてあると、もうそろそろこの嗅覚(きゆうかく)のhallucination(アリユシナシヨン)が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至って究極の程度に達する。》

 幻覚(アリュシナション)は食に誘発されても、いわゆる「脂粉の粧(よそおい)」には動じないらしい。

 

<5.4 エクスタシーを待つ器>

 欲情の在りか、それが「箱火鉢」に違いない。おそらく箱火鉢は他の直截的な言葉に置換しうるほどに性的な意味を担っている。フロイト的解釈をテーマ批評として振りかざすことは好むところではないし、すでに教条的であろう。そもそも鳥籠に首を突っ込む蛇や、お玉の少し内廻転をさせた膝の間に寄せ掛けたこうもり傘や、差さずにしまわれているお常のそれに抑圧された性欲動の象徴を読みとることは安易であるし、夫末造が夕食に帰らなかったときお常がいつでも火鉢に鉄瓶を掛けて置くことを深読みすることも類型化をたどるだろう。それでもこの語にはお玉と女の精神構造をかたどった姿が見てとれる。

 事実関係から考察すれば、『雁』執筆当時(1911年から15年)の鴎外は1900年発刊のフロイト『夢判断』を、ドイツから性欲論の書籍をたくさん輸入していたとはいえ、当時のフロイト知名度からいったら入手していないと考えるのが自然だ(鴎外文庫にある書きこみつきのフロイトの著作は、もっとのちのものだろう)。しかしフロイトを知らなくてもフロイト的なことは書けてしまう。なによりも、「箱火鉢」の語で鴎外の文体は艶めく。

《檀那は朝までいることはない。早い時は十一時頃に帰ってしまう。又きょうは外(ほか)へ行かなくてはならぬのだが、ちょいと寄ったと云って、箱火鉢の向うに据わって、烟草を呑んで帰ることもある。》

《末造が来て箱火鉢の向うに据わった。始ての晩からお玉はいつも末造の這入(はい)って来るのを見ると、座布団を出して、箱火鉢の向うに敷く。末造はその上に胡坐(あぐら)を掻(か)いて、烟草(たばこ)を飲みながら世間話をする。お玉は手持不沙汰なように、不断自分のいる所にいて、火鉢の縁(へり)を撫(な)でたり、火箸(ひばし)をいじったりしながら、恥かしげに、詞数(ことばかず)少く受答(うけこたえ)をしている。》

《それに三四日立った頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐を掻くと、お玉はこれと云う用もないに立ち働いたり何かして、とかく落ち着かぬようになったのに、末造は段々気が附いて来た。はにかんで目を見合せぬようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩なんぞの素振には何か特別な仔細(しさい)がありそうである。

「おい、お前何か考えているね」と、末造が烟管(きせる)に烟草を詰めつつ云った。

 わざわざ片附けてあるような箱火鉢の抽斗(ひきだし)を、半分抜いて、捜すものもないのに、中を見込んでいたお玉は、「いいえ」と云って、大きい目を末造の顔に注いだ。》

 まるで、閨房の機微、男女の睦言のようではないか。

《末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これが岡田さんだったらと思う。最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。それから末造の自由になっていて、目を瞑(つぶ)って岡田の事を思うようになった。》

 これは一体何事だろう。「自由になっていて」とか「目を瞑(つぶ)って」の婉曲表現と過去形とで、作為の内実を書きこまずに想像させる表現はのちの川端康成『雪国』のエロティシズムで極限に達するものだ。

 

<5.5 ここにもある>

 いたるところに発見がある。お玉と女中梅の名前は、小説に出てきた『金瓶梅』の、金蓮といっしょに武大に買われた小娘白玉(・)蓮と、金蓮づきの女中春梅(・)に由来がありそうだし、鴎外『ヰタ・セクスアリス』で古道具屋の娘に恋するが、その屋号「秋貞」は裁縫の師匠貞(・)の名前に活きているのではないかと思える。

 いたるところに符号がある。『柵(しがらみ)草子』で評論家鴎外の百戦百勝の矛(ほこ)となったハルトマン美学とは、鴎外自身の紹介によればこうだ。《ハルトマンは理想派、実際派の別を認めず。彼は抽象を棄てゝ結象を取り、類想を卑みて個想を卑めり。(中略)美は実を離れたる映像なれば、美術に実を取らむやうなし。想の相をなすとき、実に似たることあるは、偶然のみ。個物の美、類の美より美なるは、実に近きためにあらず。実の美なることは類美の作より甚しきは、実の結象したる個物に適えること作に勝りたればなり》であって、その実戦がこの時期の小説だった。鴎外という人間、文学者は、この思想を軸に揺れ動き、ときに反動したのだった。

 偶然は符号として二度あらわれるだろう。徴候は次には症状となる。神のごとき作家が掌を小さく開いたり、大きく開いたりしている。悦楽は明晰な頭脳に制御されていて、いかに鴎外が構成や細部に目配りしていたかがわかろうというものだ。

 二度あらわれる事象を順に、(-1)、(-2)と示す。鴎外という医者のカルテは凡帳面に書かれていて、処方箋は二度の投薬までしか許可していないかよようで、それは効能と副作用を熟知していたからに違いない。

 

(1)松源(まつげん)

(1-1)岡田の散歩の道筋の一軒としてあらわれる。《それから松源(まつげん)や雁鍋のある広小路》。

(1-2)松源で末造はお玉と目見えする。

 

(2)雁

(2-1)(1-1)にみる雁鍋

(2-2)岡田の投じた石に当たって雁は酒の肴にされる。

  • (3)蕎麦屋の蓮玉庵(れんぎよくあん)

(3-1)お玉のための借家候補のひとつは《その頃名高かった蕎麦屋の蓮玉庵との真ん中位の処で》

(3-2)殺した雁を暗くなってから取りに戻るまでの時間をつぶすため、《「蓮玉へ寄って蕎麦(そば)を一杯食って行こうか」と、岡田が提案した。》 蕎麦を食いつつ岡田はヨーロッパ行きを僕に伝える。

 

(4)肴屋

(4-1)梅は坂下の肴屋で高利貸の妾に売る肴はないと言われたとお玉に告げる。

(4-2)お常は末造が妾を囲っていると訴え、末造に誰が言ったのだと聞かれると、《「魚金(うおきん)のお上さんなの」》と答える。

 

(5)蝙蝠傘

(5-1)父を初めて訪れた帰り路、《お玉は持って来た、小さい蝙蝠(こうもり)をも挿(さ)さずに歩いているのである。》

(5-2)女中が指さして教えた店の前の女は《蝙蝠傘を少し内廻転をさせた膝(ひざ)の間に寄せ掛け》ているお玉で、いつかお常に末造が横浜みやげで買ってきたのと同じ《白地に細かい弁慶縞(べんけいじま)のような形(かた)が、藍(あい)で染め出して》ある(ここでも青と白)傘だった。この件で末造夫婦はまたひともんちゃくを起こす。

 

(6)印半纏(しるしばんてん)の男

(6-1)印半纏を裏返して着た三十前後の男がお玉の家に上って来て金を無心する。

(6-2)お常と喧嘩(けんか)をして内をひょいと飛び出した末造は、印半纏を来た攫徒(すり)とぶつかりそうになる。

 

(7)天狗

(7-1)《お玉を目の球よりも大切にしていた爺いさんは、こわい顔のおまわりさんに娘を渡すのを、天狗(てんぐ)にでも撈(さら)われるように思》うが、そのおまわりさん(お玉の初婚の相手)には国に女房子供があった。

(7-2)檀那となった末造は最上級の煙草「金天狗(きんてんぐ)」を愛好する男である。

 

(8)雀斑(そばかす)

(8-1)末造はお玉に似ている芸者を見とめるが、よく見れば雀斑だらけで、やっぱりお玉の方が別品だと思い、心に愉快と満足を覚える。

(8-2)その直後、末造は飼鳥を売る店で、インコでもカナリアでもなく、紅雀(べにすずめ)をお玉に飼わせるために買い求める。

 

(9)爼(まないた)

(9-1)紅雀を買った店は爼橋(まないたばし)を渡ったところにあった。

(9-2)紅雀を口から吐こうとしない蛇に対して、《岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう蛇を爼上(そじよう)の肉の如くに両断した。》

 

(10)泥

(10-1)あの最後の夜、僕は岡田のように逃げはしない、逢って話をする、《彼女を淤泥(おでい)の中(うち)から救済する》と思う。

(10-2)絶命した雁を石原は太股(ふともも)を半分泥に汚しただけで獲ものとして引き上げた。

 

<6.1 銀色を帯びる>

 いわゆる光りものが事態を急転回させてしまう。狂言廻しのような銀色の光りもの、それは市井の食材にすぎないのにデモーニッシュである。

《店に新しそうな肴が沢山あった。梅は小鯵(こあじ)の色の好(い)いのが一山あるのに目を附けて、値を聞いて見た。すると上さんが、「お前さんは見附けない女中さんだが、どこから買いにお出(いで)だ」と云ったので、これこれの内から来たと話した。上さんは急にひどく不機嫌な顔をして、「おやそう、お前さんお気の毒だが帰ってね、そうお云い、ここの内には高利貸の妾なんぞに売る肴はないのだから」と云って、それきり横を向いて。烟草を呑んで構い附けない。》

 肴屋の上さんの口上をきれぎれに繰りかえす梅によって、お玉は自分が高利貸の妾であるとはじめて知り、《顔の色が脣(くちびる)まで蒼くなった。》

 

<6.2 狂気を孕む>

 お玉がかつて狂気を孕んだということはありえることなのか。

《近所の噂を、買物の序(ついで)に聞いて見ると、おまわりさんには国に女房も子供もあったので、それが出し抜けに尋ねて来て、大騒ぎをして、お玉は井戸へ身を投げると云って飛び出したのを、立聞をしていた隣の上さんがようよう止めたと云うことであった》というのは本当なのか。お玉の悔しさは、衝動という濃縮された時間に集中化せずに、あきらめという拡散された時間に薄まる性質のものであったけれども、それは生来のものであったのか、この事件をきっかけとしてであったのかわかるよしもない。

 しかしお玉はよりによって妾になってから恋を覚えた。隠しごとを知り、夢見ることを知る。鴎外作品の男たちが、攫徒(すり)から巧みに身をかわすように人生を選ぶのに比べて女たちは恋することに溺れる。恋するものはファナティックである。理解し、説明することは、もはや恋ではない。

《末造が帰った跡で見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買って来て、急いで梅に持たせて出した。その跡で名刺も添えず手紙も附けずに遣ったのに気が附いて、はっと思うと、夢が醒(さ)めた。》

 情が理に勝っている。虚と実の皮膜のあわいで揺らぐのが恋だ。

《折々は夢の中で岡田と一しょになる。煩わしい順序も運びもなく一しょになる。そして「ああ、嬉しい」と思うとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。はっと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮して寐(ね)られぬので、じれて泣くこともある。》

《煩わしい順序も運びもなく》とは女の心というより鴎外という男の本心の断片であろう。恋は人を涙もろくさせる。イマージュは涙でふくれあがり、素晴らしいという感情によって恋する女の瞳は月の妖しい光を帯びる。

《朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しお休みになっていらっしゃいまし」なぞと云うと、つい布団にくるまっている様になった。(中略)お玉の想像もこんな時には随分放恣(ほうし)になって来ることがある。そう云う時には目に一種の光りが生じて、酒に酔ったように瞼(まぶた)から頬に掛けて紅(くれない)が漲(みなぎ)るのである。》

 

<6.3 閉じられたその奥から>

 鴎外にとって女はひとところにいなければならない存在だ。閉じられた場所だけが女にとっての宥された空間である。

 お玉にとっての安逸の場、それは無縁坂の妾宅であり、もっと狭義には箱火鉢の前でしかなかった。散歩の距離にある父の家まで出向くことさえためらう。最後の夕べ、《女は自分の家よりは二三軒先へ出迎ていた》のその十数歩がお玉にとっての開かれだったのだ。

『普請中』の異国の女のように閉じられたところから出てきてはならない。類まれな官能性をもつ閨秀詩人魚玄機が長安から遠く山西省や江陸にまで遊んだのを知っていながらも小説『魚玄機』では長安郊外の外には出たことのない薄幸の女に仕立てあげた鴎外。

 境界部や周縁部から自己統御不能で溢れだすもの(そういったおぞましきもの(アブジエクシオン)で女はなりたっている)に鴎外は怖れをいだき、終生そこから身を遠ざける努力を惜しまなかった。

 

<6.4 金色のことば>

 銀が不吉の予兆ならば、金は通俗への変容の輝きである。

《金の事より外、何一つ考えたことのない末造》は《女房の逆上したような顔を見ながら、徐(しず)かに金天狗に火を附けた。》 その末造はお玉を《あの金縁目金(きんぶちめがね)を掛けて、べらべらした着物を着ていた人》吉田の女ということにして女房お常の追及をかわす。妾だの囲物だのとお常に焚(た)きつけた「魚金(うおきん)のお上さん」。 僕は《金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮(きんれん)に逢ったのではないかと思ったのである》が、金蓮が淫蕩な美人であったのは周知のとおりである。

 

<6.5 闇の濃い密度>

『雁』の漆黒の闇とは何か。お玉が身を投じようとした井戸の底。小僧に蛇を棄てさせた坂下のどぶ。十羽ばかりの雁が緩やかに往来している黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面(おもて)。しかし一番の闇は心の闇、関係性の闇である。男の社会的幸福感が女にとっては闇の密度をましてゆく。

源氏物語』の『夕顔』巻との類似性を、隣家のかしましさや半蔀(はじとみ)ならぬ簾のかげから浮かぶ白い顔と夕顔の白さの類比から論じる見方は興味深くはあるが、貴種が身をやつしてあらぬ女と出逢い、戯れの果てに危機に陥るといった神話的古層ゆえならば、当然道具立ても似てこよう(しかしながら岡田は光源氏と違って、夕顔としてのお玉に真の意味では「逢う」ことをしなかったし、女の死の穢れにあわてふためくこともなかった。明治のエリートは禁忌を犯しもしないちっぽけな貴種たるにすぎない)。

『夕顔』巻には、夜深く人を寝しずめて男が身もとを明かさず女のもとに通う昔話への言及があるが、それは男が夜な夜な蛇に化身して女を襲う神話とつながっていて、『雁』のあの蛇もその一種であろう。「夕顔」と『雁』は闇で通じる。

 源氏は八月十五日(仲秋の名月)の夜、夕顔の家に泊る。砧の音が聞こえ(裁縫の家を思わす)、雁の渡る声もする。抱きあげて夕顔を連れだした五条に近い院は池も水草でうずめられ凄いものであった。突然灯りが消える。女は身を震わせ、びっしょり汗をかいて意識を失っている。紙燭をつけてもっとこっちへ来い、いつもとは違うと従者に命じる若き源氏。女の体は冷えてゆく。ゴシック・ロマンとしての『夕顔』の濃い闇は、神事の多い時期に思いがけず女に死なれて身が穢れたことの怖れから、女を残してまで保身を図ったという闇であった。物の怪のために夕顔という女が死んでしまったことを怖れたのではなかった。源氏は非日常の闇で死という穢れに触れてしまい、あわてて日常の論理を振りかざして境界のあちら側から戻ったのだ。

 漆を流したような『雁』のこの世の闇、それは女には非日常の渚があったのに、男には日常しかなかったということである。けれども『雁』を。裏切った男の書としてではなく、恋する女の書として読むとき、そこには悦びが見える。たしかにお玉には天上の渚が見えたのだ。

                                (了)

         ***参考または引用***

*『雁』森鴎外新潮文庫

*『森鴎外全集』(ちくま文庫

*『森鴎外石川淳岩波文庫

*『森鴎外高橋義孝(新潮社)

*『鴎外 闘う家長』山崎正和河出書房新社

*『鴎外の坂』森まゆみ(新潮社)

*『金瓶梅』笑笑生、小野忍・千田九一訳(平凡社

*『漢詩体系15 魚玄機』(集英社

文学批評 「漱石『それから』の目覚め(読書ノート)」

 「漱石『それから』の目覚め(読書ノート)」              

 

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 夏目漱石『それから』は、主人公代助の視点と内面を基調に書かれた小説であるのは間違いのないところだが、三千代という存在をどうとらえるかで様相は大きく変って来る。

 三千代は魅力のない女だという意見を見かけるのは、女性の自立性、自己主張に乏しく、受け身に思えるからだろうが、代助の見合い相手の佐川の娘(令嬢)と比較すれば、趣味の人たる教育を他ならぬ代助から受けた、恋する人にふさわしい近代的な内面の力、心理の綾を持っていたのではないか。それからの三千代がどうなったかを漱石はあえて書かなかったから、幕切れに続く三千代の時間と空間は読者に委ねられていることも含めて、気にかかる女、であったことは間違いない。

 漱石論をひととおり読み進めると、次のような前置きからはじまる批評があった。「代助の<恋>を中心にした読み方にさからって、代助と<家>との関係を中心に読んでみたら、「それから」はどのような相貌を見せてくれるだろうか。」(石原千秋『反=家族小説としての「それから」』) 

 しかし多くの『それから』論は、意外なことにも「恋」については「姦通罪」の執筆時の法律的な位置づけの解説などをするや、月並みを避けるかのように話題は「恋」、「姦通」から離れ、他のテキスト分析、テーマ批評しやすい項目、たとえば、「百合」「鈴蘭」「香り」「落下」「心臓」「血潮」「身体感覚」「ジェンダー」「同性愛」「郵便」「新聞」「電車」「金銭」「真珠の指環」「赤と青」「母の不在」「知識人」「不安」「神経衰弱」「自然」「明治という時代」「家」などに移ってしまう。

『それから』の恋、とりわけその内面に踏み込まなかった三千代の恋は、作者があえて語りすぎなかったところではあるものの、注意深く読めば、その内面が、女の恋の自覚と誘惑が、愛の質の差が、テキストそれ自体に書きこまれているのではないか。

 十八世紀を代表するルソー、カントの「自然」「倫理」に関する普遍命題から百年後、二十世紀を迎えた明治四十二年(一九〇九年)の朝日新聞に連載された『それから』は、見合い結婚と恋愛結婚が対立した(していた)日本社会を舞台に、近代小説の核心に他ならない「男と女」の「恋愛」が、漱石が執拗に書き続けた「三角関係」という欲望の巴の回転の下で悲鳴をあげる様を小説にしたものである。

 それにしても、読めば読むほど、「~だろうか」という疑問符ばかりついてまわる作品だ。小説家があえて書いていない空白や、象徴的な記号表現への、ひとりよがりで強引な解釈、読解の欲望は、可能な限り抑制して読み進めてゆこう。漱石はさすがに一本調子な語りではなく、多声的な撚糸から小説を織りあげていて、それら撚糸をほぐさずに、芯に隠れた三千代に触れることはかなわない。明治近代文学の中では稀有なことに、精神のある人間として呼吸した女によって、致命的に自覚の遅い男が、いかに目覚めさせられてゆくか、という認識のドラマとして読むことは可能であろうか。

 

  • 二十歳位の女の半身

 

<誰か慌《あわ》ただしく門前を馳《か》けて行く足音がした時、代助《だいすけ》の頭の中には、大きな俎下駄《まないたげた》が空《くう》から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退《とおの》くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

 枕元《まくらもと》を見ると、八重の椿《つばき》が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕《ゆうべ》床の中で慥《たし》かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬《ゴムまり》を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更《ふ》けて、四隣《あたり》が静かな所為《せい》かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋《あばら》のはずれに正しく中《あた》る血の音を確かめながら眠《ねむり》に就いた。

(略)

 それから烟草《たばこ》を一本吹かしながら、五寸ばかり布団を摺《ず》り出して、畳の上の椿を取って、引っ繰り返して、鼻の先へ持って来た。口と口髭《くちひげ》と鼻の大部分が全く隠れた。烟《けむ》りは椿の弁《はなびら》と蕊《ずい》に絡《から》まって漂う程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がって風呂場へ行った。

(略)

 代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度撫《な》でながら、鏡の前にわが顔を映していた。まるで女が御白粉《おしろい》を付ける時の手付と一般であった。実際彼は必要があれば、御白粉さえ付けかねぬ程に、肉体に誇を置く人である。>

 

 小説『それから」は目覚めのシーンからはじまる。覚醒と半意識、そして眠り。プルーストフロイト漱石は知らなかったが、小説家ヘンリー・ジェームスは『黄金の盃』などを原書で読んでいて『文学論』の中で論じたり、また『明暗』の登場人物に類似性があると言われたりしているが、その兄で心理学者・哲学者、「意識の流れ』の先駆者ともいえるウィリアム・ジェームスについては英国留学中に感銘を受け、随筆『思ひ出す事』に敬愛の念を綴っている。

 題名が示すように、これは時間をめぐる小説でもある。代助の何時のまにか無意識から浮上した恋、三千代への致命的に遅くなった恋の告白は適時性の問題といえる。代助と違って、はじめから三千代は恋に気づいていた。今度こそ、代助に告白されるように、三千代は代助のもとを訪問し、あることを申し出、百合の花の香で昔を思い出させ、三千代の恋に気づかせる。小森陽一らは、三千代に策略家を発見している。

「それから」とは男女それぞれにとっていつの時点からのことなのかは多様に理解すればよいのだが、男と女の「それから」が意識の裡にあったか、半意識下であったかの違いがこの小説のアクセルとなる。

 八重の椿。落下する花。落下するイメージに囚われつづけた漱石。時間から、世間から、人生からの、死へ向かっての落下。花の落ちる音。主人公代助は音に過剰なまでに敏感だ。これらは、代助と三千代の恋の行末を暗示していて、西洋小説でいえば漱石が英国留学中に研究した『アーサー王伝説』、北欧神話『ヴァルキイル(ワルキューレ)』の筋立てに近い。

 心臓。紅。血潮。頻出する赤のイメージの魁。血潮は、この小説が、動くもの(主人公をあちこちへ向かわせる電車)、回転(三角関係という巴の回転、時計の針)で脅迫されるようにせき動かされていることの象徴である。

 椿を取って鼻の先へ持って来て、煙草の烟りを吹きかけると、弁と蕊に絡まって漂う程濃く出た、という官能的な行為と描写は、それを白い敷布の上に置くこととあいまって、漱石が恋愛における肉の臭い、行為の描写を『それから』文中で忌避宣言しているだけに興味深い。

 代助とは何者か。肌。皮膚。光沢。香油を塗り込む。黒い髪。初々しい髭。ふっくらした頬。得意な身体感覚。鏡の前にわが顔を映してみとれる。まるで女が御白粉を付ける時の手付と一緒なことにみる、代助の両性具有的な女性性。代助という主人公のアイロニカルな貴族的位置づけ(父、兄に代表される台頭してきたブルジョアへの反感)でもある。

 

<「歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。そうして端書と郵便を持って来た。端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町《じんぼうちょう》の宿屋の名と平岡常次郎《ひらおかつねじろう》という差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。

「もう来たのか、昨日着いたんだな」と独り言の様に云いながら、封書の方を取り上げると、これは親爺《おやじ》の手蹟《て》である。>

 

 郵便がこの小説をはじめら終りまで動かし続ける。まず、葉書と封書が同時に届く。小説の最後には赤い郵便ポストが狂気のようにあらわれる。葉書は三千代の夫、平岡が上京してきた知らせであり、封書は父からの呼び出しだった。

 郵便によってもたらされた二つの話が、このあと蝮のように絡みあう。忘れることはできなかったが忘れていた、とも表現しうる三千代の登場による恋愛結婚と、父の催促と嫂の肉薄による見合い結婚という対立する二つの車輪を原動力として。

 

<落椿《おちつばき》も何所《どこ》かへ掃き出されてしまった。代助は花瓶《かへい》の右手にある組み重ねの書棚の前へ行って、上に載せた重い写真帖《ちょう》を取り上げて、立ちながら、金の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。其所《そこ》には二十歳《はたち》位の女の半身がある。代助は眼を俯《ふ》せて凝《じっ》と女の顔を見詰めていた。>

 

 目覚めの小説は、追想の小説でもある。漱石プルーストを知らなくとも、『失われた時を求めて』で、話者が傾倒したジョン・ラスキンラスキンの本を読んでのヴェネチア詣で、広場の敷石によって無意識的回想がひきおこされる)は読んでいて、影響の濃い作品は『草枕』『文学論』だったが、さきのジェームスとともに、無意志的回想への関心を持ち合わせていたはずだ。

 眼を俯せて凝と女の顔を見詰めていた、に代表される凝視の最初のあらわれ。神経症を思わすまでに音、匂いに敏感であるとともに、眼の描写、凝視の小説でもあって、小説の最後では幻覚的なクライマックスを迎えるのだが、そこにいたる病理的テキストと読めないこともない。

 美しい眼を持った三千代は、百合の花と銀杏返しと真珠の指環で代助の記憶を刺激し、彼の自覚されていない恋を目覚めさせたのだった。

 

  • 君はもう奥さんを持ったろうか

 

<「細君はまだ貰《もら》わないのかい」

 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。

「妻《さい》を貰ったら、君の所へ通知位する筈《はず》じゃないか。それよりか君の」と云いかけて、ぴたりと已《や》めた。

(略)

 一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂《けいはん》地方のある支店詰になった。代助は、出立《しゅったつ》の当時、新夫婦を新橋の停車場《ステーション》に送って、愉快そうに、直《じき》帰って来給《きたま》えと平岡の手を握った。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣《うっちゃ》る様に云ったが、その眼鏡の裏には得意の色が羨《うらや》ましい位動いた。それを見た時、代助は急にこの友達を憎らしく思った。

(略)

 それでも、ある事情があって、平岡の事はまるで忘れる訳には行《ゆ》かなかった。時々思い出す。そうして今頃はどうして暮しているだろうと、色々に想像してみる事がある。然《しか》しただ思い出すだけで、別段問い合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日まで過して来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。

(略)

「子供は惜しい事をしたね」

「うん。可哀想《かわいそう》な事をした。その節は又御叮嚀《ていねい》に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好かった」

「その後はどうだい。まだ後は出来ないか」

「うん、未《ま》だにも何にも、もう駄目だろう。身体《からだ》があんまり好くないものだからね」

「こんなに動く時は子供のない方が却って便利で可いかも知れない」

「それもそうさ。一層《いっそ》君の様に一人身なら、猶《なお》の事、気楽で可いかも知れない」

「一人身になるさ」

「冗談云ってら――それよりか、妻《さい》が頻《しき》りに、君はもう奥さんを持ったろうか、未だだろうかって気にしていたぜ」>

 

 思わせぶりな言葉の断片がクレッシェンドのように度々あらわれる。「それよりか君の」と言いかけてやめる心理はどこから来て、この時点でどこまで三千代への思いは自覚されていたのか。『それから』は自覚の文学、自覚の現象学でもある。

 終局に向かって代助は嫉妬しない。恋は嫉妬に後押しされたのではないかのように、あくまで論理的考察による三千代への愛の申し出のようにみえるが、三年前の新橋の停車場《ステーション》の場面には、憎しみという嫉妬があからさまに表出されている。

忘れる訳には行かないある事情という謎かけ、その時はっと思った、の後に説明をしないという小説的技法を漱石はよく心得ていた。

 色々に想像し、然しただ思い出すだけというのは、その女を、その恋を忘却していたということであり、忘れることがなければ人は恋で死んでしまう。

 別れぎわになってようやく代助は、三千代のこと、子供のことを会話する。別れ際でなくては話せないという代助の性格、平岡との現在の人間関係の変化をみせたあとの、「未だにも何にも、もう駄目だろう。身体があんまり好くないものだからね」は、平岡と三千代の夫婦間に性生活がなくなっていることを暗示している。「こんなに動く時は子供のない方が却って便利で可いかも知れない」、「一人身になるさ」と代助は未来を予告するかのようにノー天気に言い放ったが、わかっていたのか、幼稚なのか。

「それよりか、妻が頻りに、君はもう奥さんを持ったろうか、未だだろうかって気にしていたぜ」と平岡の口から聞かせることで、代助の意識下で自然に青い炎が揺らがせるとともに、読者にもまた、まだ見ぬ三千代の姿と、このさきの物語を想像させてやまない。

 

  • 自分の拵えた因縁

 

<「佐川にそんな娘があったのかな。僕も些《ち》っとも知らなかった」

「御貰《おもらい》なさいよ」

「賛成なんですか」

「賛成ですとも。因縁つきじゃありませんか」

「先祖の拵《こし》らえた因縁よりも、まだ自分の拵えた因縁で貰う方が貰い好《い》い様だな」

「おや、そんなものがあるの」

 代助は苦笑して答えなかった。>

 

 嫂に、先祖の拵らえた因縁よりも、まだ自分の拵えた因縁で貰う方が貰い好い様だな、と仄めかし、苦笑する高等遊民の代助は、誰かに自分の恋を語りたくて仕方がない、という恋する人のモードに入りつつある。

 早くも、制度に対する自然、というテーマがあらわれる。

 連載小説で培った、次も買わせて読ませる技術で、章の末尾は浄瑠璃の「をくり」のように、閉じつつも開かれて、読者を離さない。

 

  • 少し御願があって上がったの

 

<代助は机の上の書物を伏せると立ち上がった。縁側の硝子戸《ガラスど》を細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。そうして鉢植のアマランスの赤い弁《はなびら》をふらふらと揺《うご》かした。日は大きな花の上に落ちている。代助は曲《こご》んで、花の中を覗《のぞ》き込んだ。やがて、ひょろ長い雄蕊《ゆうずい》の頂きから、花粉を取って、雌蕊《しずい》の先へ持って来て、丹念に塗り付けた。>

 

 アマランス(アマランサス)は和語でヒユ科の葉鶏頭とされるが、ここでの描写からはアマリリスのことではないかという説もある。花の中を覗き込み、ひょろ長い雄蕊の頂きから、花粉を取って、雌蕊の先へ持って来て、丹念に塗り付けた、という隠微なイメージを、代助が三千代を訪ねる直前にさりげなく持ってくる漱石の抑圧されたいやらしさ。

 

<代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であった。一度は居《お》ったには居った。が、洋服を着たまま、部屋の敷居の上に立って、何か急《せわ》しい調子で、細君を極《き》め付けていた。――案内なしに廊下を伝って、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかにそう取れた。その時平岡は一寸《ちょっと》振り向いて、やあ君かと云った。その顔にも容子《ようす》にも、少しも快よさそうな所は見えなかった。部屋の内《なか》から顔を出した細君は代助を見て、蒼白《あおじろ》い頬をぽっと赤くした。代助は何となく席に就き悪《にく》くなった。まあ這入れと申し訳に云うのを聞き流して、いや別段用じゃない。どうしているかと思って一寸来てみただけだ。出掛けるなら一所に出ようと、此方《こっち》から誘う様にして表へ出てしまった。>

 

 急しい調子で、極め付けられていた三千代は、おそらく三年ぶりに代助を見て蒼白い頬をぽっと赤くしたが、自分から表へ出てしまう代助は何から逃れようとしているのか。まだ三千代と何も起こって居ないにもかかわらず、さきを見通して罪の意識が芽生えているというのか。

 三千代の心理は、<5章>のダヌンチオによる赤/青論をあてはめたような、赤くなったり蒼くなったりする顔色の変化でしかうかがえないが、代助が出ていった後のそれからの三千代の心境の記述は、空白であるだけに読み手の想像力をいかようにも羽ばたかせる。

 

<平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、細面《ほそおもえて》に眉毛《まみえ》の判然《はっきり》映る女である。一寸見ると何所《どこ》となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似ている。帰京後は色光沢《つや》がことに可《よ》くないようだ。始めて旅宿で逢った時、代助は少し驚いた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思って、聞いてみたら、そうじゃない、始終こうなんだと云われた時は、気の毒になった。

 三千代は東京を出て一年目に産をした。生れた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、とかく具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶらぶらしていたが、どうしても、はかばかしく癒《なお》らないので、仕舞に医者に見て貰《もら》ったら、能《よ》くは分らないが、ことに依《よ》ると何とかいうむずかしい名の心臓病かも知れないと云った。もしそうだとすれば、心臓から動脈へ出る血が、少しずつ、後戻りをする難症だから、根治は覚束《おぼつか》ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来るだけ養生に手を尽した所為《せい》か、一年ばかりするうちに、好《い》い案排《あんばい》に、元気がめっきりよくなった。色光沢も殆《ほと》んど元の様に冴々《さえざえ》して見える日が多いので、当人も喜こんでいると、帰る一カ月ばかり前から、又血色が悪くなり出した。然し医者の話によると、今度のは心臓の為《ため》ではない。心臓は、それ程丈夫にもならないが、決して前よりは悪くなっていない。弁の作用に故障があるものとは、今は決して認められないという診断であった。――これは三千代が直《じか》に代助に話した所である。代助はその時三千代の顔を見て、やっぱり何か心配の為じゃないかしらと思った。

 三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼《ふたえまぶた》を持っている。眼の恰好は細長い方であるが、瞳《ひとみ》を据えて凝《じっ》と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助はこれを黒眼の働らきと判断していた。三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代のこう云う眼遣《めづかい》を見た。そうして今でも善く覚えている。三千代の顔を頭の中に浮べようとすると、顔の輪廓《りんかく》が、まだ出来上らないうちに、この黒い、湿《うる》んだ様に暈《ぼか》された眼が、ぽっと出て来る。>

 

 色白、黒髪、細面、判然とした眉毛、何所となく淋しい感じ、古版の浮世絵に似ている、とは漱石の中の江戸趣味が分ろうというもの。

 色光沢《つや》、顔色に拘り続ける代助。心臓から流れ出る血、血色、心臓の弁の不調は三千代の身体と心の不調、循環の滞りを意味する。それを三千代が直に代助に話すというのは、身体と心の不安を告知して何かを求めているととれないこともない。

 二重瞼の眼の格好は日本的に細長く、瞳を据えて凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える眼遣、その黒い、湿んだ様に暈された眼はたしかに魅力的だ。今でも善く覚えている、三千代の顔を頭の中に浮べようとすると、ぽっと出て来るという、記憶に働きかける三千代の眼こそが、それからにおける恋の目覚めの鋭利な武器であろう。これほどに眼を美しく表現した文章は日本文学にそうはないだろう。愛情にあふれた文章は、具体的な誰かの眼を思い浮かべて描いたかのようだ。

 

<廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして奇麗な手を膝《ひざ》の上に畳《かさ》ねた。下にした手にも指輪を穿《は》めている。上にした手にも指輪を穿めている。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、三年前《ぜん》結婚の御祝として代助から贈られたものである。

 三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思わず瞬《またたき》を一つした。

(略)

 代助は両手を頭の後へ持って行って、指と指を組み合せて三千代を見た。三千代はこごんで帯の間から小さな時計を出した。代助が真珠の指輪をこの女に贈ものにする時、平岡はこの時計を妻に買って遣《や》ったのである。代助は、一つ店で別々の品物を買った後、平岡と連れ立って其所《そこ》の敷居を跨《また》ぎながら互に顔を見合せて笑った事を記憶している。

(略)

「実は私《わたくし》少し御願があって上がったの」

 疳《かん》の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐその用事の何であるかを悟った。実は平岡が東京へ着いた時から、いつかこの問題に出逢う事だろうと思って、半意識《はんいしき》の下で覚悟していたのである。

「何ですか、遠慮なく仰《おっ》しゃい」

「少し御金の工面が出来なくって?」

 三千代の言葉はまるで子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬はやっぱり赤くなっている。代助は、この女にこんな気耻《きは》ずかしい思いをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思った。>

 

 上にした手の大きな真珠の指環。下にした手にも指環を穿めている。隠すような下の手の指環は誰からのものなのか語られることはないが、下であることに、いや代助からの真珠の指輪がこれ見よがしに代助に見せつけられたことに意味がある。意味を語らないことに意味があるとはいえ、ここはわかりやすすぎる。

 代助は三千代の例の眼を認めて思わず瞬を一つするとは、初心な、幼稚な代助であって、そもそもこれは代助という男の、明治と言う時代の男たちの小児性を書いた小説なのかもしれない。

 代助が真珠の指輪を贈ったその時、結婚相手の平岡は永遠不変の指環ではなく移ろう時をしるす時計を贈っている。普通は逆であるから、予兆の行事ということになる。しかもこれを奇妙に感じない当事者たち三人であったと、いささか月並みな解釈もできる。<十一章>で代助が自分を測りがたき変化を受ける人であると認識していることで、指環と時計の意味合いがよりアイロニカルとなる。

 明治の小説によくある、しかし考えるまでもなく江戸の浄瑠璃、歌舞伎もそうであったように、金銭の貸し借りが原動力となった物語でもある。

 贈与は、指環、金銭だけではないことがこのさき証明される。結婚を纏める周旋は、姦通は、贈与なのか、交換なのか、はたまた、賃貸なのか。契約はどうなのか。物なのか。

 半意識の下で覚悟していた代助は、鋭い男だから三千代との賃貸のさきのそれからも覚悟していなくてはおかしいが、漱石はじわりじわりと小説に映す。 

 金を工面するのは常に女である。金銭の授受をするのも女である。女を通して男は金を受け取る。あるいは、男には内緒で、かげから渡される。男の知らない授受はなんども行われるだろう。代助もまた父と兄に内緒に嫂から受け取り、三千代に渡るだろう。

 

  • 手拭を姉さん被りにして

 

<平岡は驚ろいた様に代助を見た。その眼が血ばしっている。二三日能《よ》く眠らない所為《せい》だと云う。三千代は仰山《ぎょうさん》なものの云い方だと云って笑った。代助は気の毒にも思ったが、又安心もした。留めるのを外へ出て、飯を食って、髪を刈って、九段の上へ一寸寄って、又帰りに新宅へ行ってみた。三千代は手拭を姉《ねえ》さん被りにして、友禅の長襦袢《ながじゅばん》をさらりと出して、襷《たすき》がけで荷物の世話を焼いていた。旅宿で世話をしてくれたと云う下女も来ている。平岡は縁側で行李《こり》の紐《ひも》を解いていたが、代助を見て、笑いながら、少し手伝わないかと云った。

(略)

 実を云うと、自分は昨夕寐つかれないで大変難義したのである。例に依《よ》って、枕《まくら》の傍へ置いた袂《たもと》時計が、大変大きな音を出す。それが気になったので、手を延ばして、時計を枕の下へ押し込んだ。けれども音は依然として頭の中へ響いて来る。その音を聞きながら、つい、うとうとする間に、凡ての外の意識は、全く暗窖《あんこう》の裡《うち》に降下した。が、ただ独り夜を縫うミシンの針だけが刻み足に頭の中を断えず通っていた事を自覚していた。ところがその音が何時かりんりんという虫の音に変って、奇麗な玄関の傍《わき》の植込《うえご》みの奥で鳴いている様になった。――代助は昨夕の夢を此所《ここ》まで辿《たど》って来て、睡眠と覚醒との間を繋《つな》ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。>

 

 平岡と三千代が引っ越しの片づけをするのを見に来た代助は、手拭を姉さん被りにして、友禅の長襦袢をさらりと出して、襷がけで荷物の世話を焼いていた三千代に刺激されたのか、帰りが遅くなる。赤坂で芸者買をして帰宅が遅くなったようだ。「学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、その尻を兄になすり付けた覚はある」という、ちょうど平岡と三千代が結婚した時期に、し過ぎた芸者買の記憶が、「夫婦」を見せつけられて蘇ったからではないのか。「肉の臭い」は書かれていないだけに、気づいてしまえば、より湿度の高いものとなる。

 帰って来てからも寝つかれない神経質な男の、睡眠と覚醒と夢をつなぐプルースト的な意識下の恋が手繰り寄せられてゆく。

 

  • 少し胡麻化していらっしゃる様よ

 

<代助は露西亜《ロシア》文学に出て来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈していた。仏蘭西《フランス》文学に出てくる不安を、有夫姦《ゆうふかん》の多いためと見ていた。ダヌンチオによって代表される以太利《イタリー》文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断していた。だから日本の文学者が、好んで不安と云う側からのみ社会を描き出すのを、舶来の唐物《とうぶつ》の様に見傚《みな》した。

(略)

 代助は門野の賞めた「煤烟」を読んでいる。今日は紅茶茶碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢《ぜいたく》の結果ああ云う悪戯《いたずら》をしても無理とは思えないが、「煤烟」の主人公に至っては、そんな余地のない程に貧しい人である。それを彼所《あすこ》まで押して行くには、全く情愛の力でなくっちゃ出来る筈《はず》のものでない。ところが、要吉という人物にも、朋子《ともこ》という女にも、誠の愛で、已《や》むなく社会の外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動かす内面の力は何であろうと考えると、代助は不審である。ああいう境遇に居て、ああ云う事を断行し得る主人公は、恐らく不安じゃあるまい。これを断行するに躊躇《ちゅうちょ》する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があって然るべき筈だ。>

 

「姦通」といわず「有夫姦」という。不安の比較文学論的な類別化とは、硬い『文学論』をもとに不人気な講義をした漱石らしい。

 森田草平は、漱石の推薦で『煤烟』を朝日新聞に連載し、文壇デビューとなった漱石一門の人である。代助が「煤烟」評で指摘した「肉の臭い」を、「誠の愛」、「内面の力」、「不安」を、他ならぬ朝日新聞の直後に連載した『それから』で作者漱石が実演してみせるというアイロニカルな姿勢は、文学から文学を作り出す態度、ある種の枠入り小説、ハイジャック小説、パロディーといえる。

 漱石は、代助を不安の人として心理小説を書いたが、三千代という女の不安は、内面に踏み込まず、顔色、心臓の具合、喉の渇き、といった生理上の身体現象でしか書かなかった。

 

<其所《そこ》へ三千代が出て来た。先達《せんだっ》てはと、軽く代助に挨拶《あいさつ》をして、手に持った赤いフランネルのくるくると巻いたのを、坐ると共に、前へ置いて、代助に見せた。

「何ですか、それは」

「赤ん坊《ぼ》の着物なの。拵えたまま、つい、まだ、解《ほど》かずにあったのを、今行李の底を見たら有ったから、出して来たんです」と云いながら、附紐《つけひも》を解いて筒袖を左右に開いた。

「こら」

「まだ、そんなものを仕舞っといたのか。早く壊して雑巾にでもしてしまえ」

 三千代は小供の着物を膝《ひざ》の上に乗せたまま、返事もせずしばらく俯向《うつむ》いて眺めていたが、

「貴方《あなた》のと同じに拵えたのよ」と云って夫の方を見た。

「これか」

 平岡は絣《かすり》の袷《あわせ》の下へ、ネルを重ねて、素肌に着ていた。

「これはもう不可《いか》ん。暑くて駄目だ」>

 

 三千代の姿を探し求めている代助。軽く挨拶する三千代。手に持った赤いフランネルのくるくると巻いたのを、坐ると共に、前へ置いて、夫平岡ではなく、代助に見せるのは三千代の無邪気さなのか。

 平岡は、三千代が死んだ子供のために拵えていた着物と同じ赤いフランネルを着ていたことを知らなかったという夫婦の関係。

 

<代助は一寸《ちょっと》息を継いだ。そうして、一寸窮屈そうに控えている三千代の方を見て、御世辞を遣った。

「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気《のんき》で宜《い》いでしょう。賛成しませんか」

「何だか厭世《えんせい》の様な呑気の様な妙なのね。私《わたし》よく分らないわ。けれども、少し胡麻化《ごまか》していらっしゃる様よ」

「へええ。何処《どこ》ん所を」

「何処ん所って、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡は股《もも》の上へ肱《ひじ》を乗せて、肱の上へ顎《あご》を載せて黙っていたが、何にも云わずに盃を代助の前に出した。代助も黙って受けた。三千代は又酌をした。>

 

 三千代は、「何だか厭世の様な呑気の様な妙なのね。私よく分らないわ。けれども、少し胡麻化していらっしゃる様よ」と応える。胡麻化しているのは三千代への思いではないか、と暗に指摘したわけでもないだろうが、本心が発露したのかもしれない。

 酌をする、窮屈そうな三千代。会話をとおした三人の関係。平岡・三千代・代助。第三者に欲せられることで恋の欲望が燃えあがるという三角関係の特徴が欠けていると早合点してはいけない。平岡が存在すること、ただそれだけで、第三者が所有していることで、代助の欲望はたらりたらりと油を注がれるのだ。

 

  • 詩や小説と同じように

 

<代助は其所へ能く遊びに行った。始めて三千代に逢《あ》った時、三千代はただ御辞儀をしただけで引込んでしまった。代助は上野の森を評して帰って来た。二返《へん》行っても、三返行っても、三千代はただ御茶を持って出るだけであった。その癖狭い家《うち》だから、隣の室《へや》にいるより外はなかった。代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がいて、自分の話を聴いているという自覚を去る訳に行《ゆ》かなかった。

 三千代と口を利《き》き出したのは、どんな機会《はずみ》であったか、今では代助の記憶に残っていない。残っていない程、瑣末《さまつ》な尋常の出来事から起ったのだろう。詩や小説に厭《あ》いた代助には、それが却《かえ》って面白かった。けれども一旦口を利き出してからは、やっぱり詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安くなってしまった。

(略)

 四人《よったり》はこの関係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云うのが、田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊っていた。この母は年に一二度ずつは上京して、子供の家に五六日《ごろくんち》寐起《ねおき》する例になっていたんだが、その時は帰る前日から熱が出だして、全く動けなくなった。それが一週間の後窒扶斯《チフス》と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為附添として一所に病院に移った。病人の経過は、一時稍《やや》佳良であったが、中途からぶり返して、とうとう死んでしまった。そればかりではない。窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、これも程なく亡《な》くなった。国にはただ父親が一人残った。

 それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かった代助とも平岡とも知り合になった。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞《いとまごい》旁《かたがた》礼を述べた。

 その年の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてその間に立ったものは代助であった。尤《もっと》も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なって貰《もら》ったのだが、身体を動かして、三千代の方を纏《まと》めたものは代助であった。>

 

 ひととおりの、菅沼、平岡、三千代、代助のいきさつの紹介である。「男・男・男・女」の四人が、一人欠けて、「男・男・女」あるいは「男・女・男」の巴となって、巴の回転は、電車のように登場人物をどこかへ運んで行ってしまう。

 三千代の兄菅沼と話しながら代助は、隣の室の三千代の存在を意識しつづけていた。三千代と口を利き出した機会は代助の記憶に残っていないが、瑣末な尋常の出来事から起ったらしい。詩や小説に厭いた代助には、それが却って面白く、口を利き出してからは、詩や小説と同じ様に、すぐ心安くなってしまった。代助も三千代も詩や小説と現実の区別がつきかねていて、それこそが気づかぬ恋だったのかもしれない。

 三千代は母と兄をほぼ同時に失い、その秋、三千代と平岡の間に立って結婚を纏めたのは代助だった。纏める行為は平岡への三千代の贈与とも言えるが、贈与ならばいったんは代助の所有でなければならないから、そうでない以上は、内心の独りよがりの、あるいは自覚しきれていない身勝手な贈与にすぎない。

 

  • 私が悪いんです

 

<平岡の玄関の沓脱《くつぬぎ》には女の穿《は》く重ね草履が脱ぎ棄ててあった。格子《こうし》を開けると、奥の方から三千代が裾《すそ》を鳴らして出て来た。その時上り口の二畳は殆んど暗かった。三千代はその暗い中に坐って挨拶《あいさつ》をした。始めは誰が来たのか、よく分らなかったらしかったが、代助の声を聞くや否や、何方《どなた》かと思ったら……と寧ろ低い声で云った。代助は判然《はっきり》見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。

 平岡は不在であった。それを聞いた時、代助は話してい易《やす》い様な、又話してい悪《にく》い様な変な気がした。けれども三千代の方は常の通り落ち付いていた。洋燈《ランプ》も点《つ》けないで、暗い室《へや》を閉《た》て切ったまま二人で坐っていた。三千代は下女も留守だと云った。自分も先刻《さっき》其所《そこ》まで用達《ようたし》に出て、今帰って夕食《ゆうめし》を済ましたばかりだと云った。やがて平岡の話が出た。

(略)

 代助は平岡の今苦しめられているのも、その起りは、性質《たち》の悪い金を借り始めたのが転々して祟《たた》っているんだと云う事を聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通っていたのだが、三千代が産後心臓が悪くなって、ぶらぶらし出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、それ程烈《はげ》しくもなかったので、三千代はただ交際《つきあい》上已《やむ》を得ないんだろうと諦《あきら》めていたが、仕舞にはそれが段々高じて、程度《ほうず》が無くなるばかりなので三千代も心配をする。すれば身体が悪くなる。なれば放蕩《ほうとう》が猶募る。不親切なんじゃない。私が悪いんですと三千代はわざわざ断わった。けれども又淋しい顔をして、せめて小供でも生きていてくれたらさぞ可《よ》かったろうと、つくづく考えた事もありましたと自白した。

 代助は経済問題の裏面に潜んでいる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方《こっち》から問うのを控えた。帰りがけに、

「そんなに弱っちゃ不可《いけ》ない。昔の様に元気に御成んなさい。そうして些《ちっ》と遊びに御出《おいで》なさい」と勇気をつけた。

「本当《ほんと》ね」と三千代は笑った。彼等は互の昔を互の顔の上に認めた。平岡はとうとう帰って来なかった。>

 

 誰が来たのか、よく分らなかったらしかったが、代助の声を聞くや否や、何方かと思ったら……と低い声で言う三千代の姿を、はっきり見えないのに常よりは美しく眺めた代助は、すでに恋の幻想(イリュージョン)の中にいるのではないか。

 平岡は不在だった。というより、平岡の不在を、意識的にしろ、無意識にしろ、望んでいたのかもしれない。

 洋燈《ランプ》も点けないで、暗い室を閉て切ったまま二人で坐っている。聞かれもしないのに、三千代は下女も留守だと言った。

 平岡の話がでるときは、つねに経済問題となり、賃貸関係に到る。

 私が悪いんです、とわざわざ断わる三千代。淋しい顔をして、せめて小供でも生きていてくれたらさぞ可かったろうと、自ら告げる女を愛しく感じないでいられようか。

 互の昔を互の顔の上に認め、代助は三千代に、三千代は代助に昔の出来事を思い出させ、そうして三千代は代助の意識下の感情を浮き上がらせるのだった。

 

<代助は鋏《はさみ》を持って縁に出た。そうしてその葉を折れ込んだ手前から、剪《き》って棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染《にじ》む様に見えて、しばらく眺めているうちに、ぽたりと縁に音がした。切口に集ったのは緑色の濃い重い汁であった。代助はその香《におい》を嗅《か》ごうと思って、乱れる葉の中に鼻を突っ込んだ。縁側の滴《したたり》はそのままにして置いた。立ち上がって、袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して、鋏の刃を拭《ふ》いている所へ、門野が平岡さんが御出ですと報《しら》せて来たのである。代助はその時平岡の事も三千代の事も、まるで頭の中に考えていなかった。只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下《もと》に動いていた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えてしまった。そうして、何だか逢いたくない様な気持がした。

(略)

 三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。それを当時に悔《くゆ》る様な薄弱な頭脳ではなかった。今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮かな名誉であった。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人《ににん》の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てて、その前に頭を下げなければならなかった。そうして平岡は、ちらりちらりと何故《なぜ》三千代を貰ったかと思うようになった。代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云う声を聞いた。>

 

 君子蘭の折れ込んだ葉を剪って棄て、乱れる葉の中に鼻を突っ込んだ代助が、その時平岡の事も三千代の事も、まるで頭の中に考えておらず、比較的世間に関係のない情調の下に動いていたというが、この情調とは何のことなのか説明はなく、言い訳のように書かれることでかえって無意識のうちに平岡、もしくは夫婦関係を剪って棄てたいという欲望を仄めかす。

 そうして平岡は、「ちらりちらりと何故三千代を貰ったかと思うようになった」と、漱石はこれまで入り込んでいなかった平岡の心情をあっさりと作者の特権で書いてしまう。ついで「代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云う声を聞いた」と追いかける。ときに漱石は、うだうだねちねち書き連ねていたかと思うと、物語の神輿を江戸っ子らしく一気に揉む。

 

  • 財産が欲しくはないか

 

<代助は次に、独立の出来るだけの財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答えた。すると、父が、では佐川の娘を貰《もら》ったら好かろうと云う条件を付けた。その財産は佐川の娘が持って来るのか、又は父がくれるのか甚だ曖昧であった。代助は少しその点に向って進んでみたが、遂《つい》に要領を得なかった。けれども、それを突き留める必要がないと考えて已めた。

 次に、一層《いっそ》洋行する気はないかと云われた。代助は好いでしょうと云って賛成した。けれども、これにも、やっぱり結婚が先決問題として出て来た。

「そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなった。>

 

 漱石は英国留学中にジェーン・オースティンの『高慢と偏見』『分別と多感』『エマ』マンスフィールド・パーク』を読んで、のちの『文学論』で『高慢と偏見』第一章を取り上げ、何気ない夫婦の会話が「夫婦の全生涯を一幅のうちに縮写し得たる」意味深いもの、写実の泰斗と絶賛した。なるほど『それから』における平岡と三千代の何気ない会話で夫婦の三年間を縮写するところに活かされている。オースティン小説の、一族で正しい結婚を探すというテーマが、父、兄、嫂によって繰り広げられる、日本風土版でもある。

 

  • 何時からこの花が御嫌になったの

 

<代助は大きな鉢へ水を張って、その中に真白な鈴蘭《すずらん》を茎ごと漬けた。簇《むら》がる細かい花が、濃い模様の縁《ふち》を隠した。鉢を動かすと、花が零《こぼ》れる。代助はそれを大きな字引の上に載せた。そうして、その傍に枕《まくら》を置いて仰向けに倒れた。黒い頭が丁度鉢の陰になって、花から出る香《におい》が、好い具合に鼻に通《かよ》った。代助はその香《におい》を嗅《か》ぎながら仮寐《うたたね》をした。>

 

 鈴蘭。英語で”lily of valley”。花の香が好きな男は仮寝によって世間から遠ざかろうとする。鈴蘭を浸した水の下に寝るのは、あたかも花を浮かべた青い水底に横たわる女、オフェーリアのようだ。

失われた時を求めて』で、コンブレーの家のてっぺんのアイリスの香るトイレで、密かな悦楽に耽る少年のごとく。

 

<「どうかしましたか」と聞いた。

 三千代は何にも答えずに室《へや》の中に這入て来た。セルの単衣《ひとえ》の下に襦袢《じゅばん》を重ねて、手に大きな白い百合《ゆり》の花を三本ばかり提げていた。その百合をいきなり洋卓《テーブル》の上に投げる様に置いて、その横にある椅子へ腰を卸した。そうして、結ったばかりの銀杏返《いちょうがえし》を、構わず、椅子の脊に押し付けて、

「ああ苦しかった」と云いながら、代助の方を見て笑った。代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。三千代は黙って洋卓の上を指した。其所には代助の食後の嗽《うがい》をする硝子《ガラス》の洋盃《コップ》があった。中に水が二口ばかり残っていた。

「奇麗なんでしょう」と三千代が聞いた。

「此奴《こいつ》は先刻《さっき》僕が飲んだんだから」と云って、洋盃を取り上げたが、躊躇《ちゅうちょ》した。代助の坐っている所から、水を棄てようとすると、障子の外に硝子戸が一枚邪魔をしている。

(略)

 三千代は例《いつも》の通り落ち付いた調子で、

「難有《ありがと》う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だったから」と答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。代助はこの大鉢の中に水を八分目程張って置いた。妻楊枝《つまようじ》位な細い茎の薄青い色が、水の中に揃《そろ》っている間から、陶器《やきもの》の模様が仄《ほの》かに浮いて見えた。

「何故《なぜ》あんなものを飲んだんですか」と代助は呆《あき》れて聞いた。

「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。

「毒でないったって、もし二日も三日も経《た》った水だったらどうするんです」

「いえ、先刻《さっき》来た時、あの傍まで顔を持って行って嗅《か》いでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、桶《おけ》から移したばかりだって、あの方が云ったんですもの。大丈夫だわ。好い香《におい》ね」

 代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者とした所で、詩を衒《てら》って、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかったからである。>

 

 手にした大きな三本の白百合を投げるように洋卓の上に置く三千代。結ったばかりの銀杏返しは、この日のためであるのだが、構わず、椅子の脊に押し付けられた。

代助の飲みかけの水を飲もうとする三千代、無意識のようにそれを躊躇し、棄てようとする代助。 

 鈴蘭を沈めた鉢の水を飲んでしまった三千代は、あたかも鈴蘭の花に化身したかのようであるばかりか、「だって毒じゃないでしょう」と手に持った洋盃を代助の前へ出して透かして見せた、とは媚薬を飲みほしてしまったイゾルデのようだ。

 代助は三千代の行為の意味を直感してしまう、だからこそ、詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出ず、前者とした所で、詩を衒って、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかったからである。すでに二人は、西洋の恋愛文学を通じて恋愛の相手を見出そうとしているのであって、<十三章>で西洋の小説の男女の情話の露骨さ、放肆さ、濃厚さを批判するにも関わらず、この情話はなかなかなものなのが漱石の危険そうでないのに危険な魅力かもしれない。

<七章>に代助が実家の欄間に描かせたヴァルキイル(ワルキューレ)の画をつくづく眺める場面がでてくるが、北欧神話ヴァルキイルでは百合と指環が重要な役割を果たしていることが隠されている。『それから』は文学ばかりでなく、絵画、歌舞伎劇とも、決して声高ではないがポリフォニックに響きあう芸術小説となっている。

 

 <「この花はどうしたんです。買て来たんですか」と聞いた。三千代は黙って首肯《うなず》いた。そうして、

「好い香《におい》でしょう」と云って、自分の鼻を、弁《はなびら》の傍《そば》まで持って来て、ふんと嗅《か》いで見せた。代助は思わず足を真直に踏ん張って、身を後の方へ反《そ》らした。

「そう傍で嗅いじゃ不可《いけ》ない」

「あら何故」

「何故って理由もないんだが、不可ない」

 代助は少し眉《まゆ》をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。

「貴方、この花、御嫌《おきらい》なの?」

(略)

「僕にくれたのか。そんなら早く活《い》けよう」と云いながら、すぐ先刻《さっき》の大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しそうになる。代助は滴《したた》る茎を又鉢から抜いた。そうして洋卓《テーブル》の引出から西洋鋏《はさみ》を出して、ぷつりぷつりと半分程の長さに剪《き》り詰めた。そうして、大きな花を、鈴蘭の簇《むら》がる上に浮かした。

「さあこれで好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代はこの不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見ていたが、突然、

「あなた、何時《いつ》からこの花が御嫌になったの」と妙な質問をかけた。

 昔し三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日何かのはずみに、長い百合を買って、代助が谷中《やなか》の家を訪ねた事があった。その時彼は三千代に危《あや》しげな花瓶《はないけ》の掃除をさして、自分で、大事そうに買って来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直って眺めさした事があった。三千代はそれを覚えていたのである。

「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらしったじゃありませんか」と云った。代助はそんな事があった様にも思って、仕方なしに苦笑した。>

 

「好い香でしょう」と自分の鼻を、弁の傍まで持って来て、ふんと嗅いで見せると、思わず足を真直に踏ん張って、身を後の方へ反らし、「そう傍で嗅いじゃ不可ない」と注意し、「あら何故」と聞かれても、「何故って理由もないんだが、不可ない」と反応した代助には、自覚していないからこその動物的な怖れがある。

 代助が百合の茎が長すぎるので、半分程の長さに剪り詰め、大きな花を、鈴蘭の簇がる上に浮かすと、三千代は突然、「あなた、何時からこの花が御嫌になったの」と質問をかける。

 三千代は、兄が生きていた時分の二人を思い出して欲しいと、百合を持参したのだった。その昔、危しげな花瓶に、長いまま活けられた百合が、いまは半分に切断されて、横たわる死体のようである。まるで記憶を葬るかのような、媚薬のような妖しいにおいを忌避するかのような、あたかも三千代という存在を葬るかのような、危しげな花瓶がイメージさせた疼きが、「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらしったじゃありませんか」と責めるような声となる。

 

<そのうち雨は益《ますます》深くなった。家を包んで遠い音が聴えた。門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めましょうかと聞いた。硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見ていた。青い木の葉が悉《ことごと》く濡れて、静かな湿り気が、硝子越に代助の頭に吹き込んで来た。世の中の浮いているものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。代助は久し振りで吾に返った心持がした。

「好《い》い雨ですね」と云った。

「些《ちっ》とも好《よ》かないわ、私《わたし》、草履を穿《は》いて来たんですもの」

 三千代は寧ろ恨めしそうに樋から洩《も》る雨点《あまだれ》を眺めた。

「帰りには車を云い付けて上げるから可《い》いでしょう。緩《ゆっく》りなさい」

 三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。まともに、代助の方を見て、

「貴方《あなた》も相変らず呑気《のんき》な事を仰《おっ》しゃるのね」と窘《たしな》めた。けれどもその眼元には笑の影が泛《うか》んでいた。

 (略)

「どうせ貴方に上げたんだから、どう使ったって、誰も何とも云う訳はないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」と代助は慰めた。そうして貴方という字をことさらに重くかつ緩く響かせた。三千代はただ、

「私、それで漸く安心したわ」と云っただけであった。

 雨が頻《しきり》なので、帰るときには約束通り車を雇った。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せようとしたら、三千代は笑って着なかった。>

 

 閉じ込められた雨の室内で恋の話をすることは『源氏物語』の『雨夜の品定め』のように妖しい物語りに人を導きがちだ。青い木の葉が悉く濡れ、世の中の浮いているものは残らず大地の上に落ちる、青と落下の世界。

「好い雨ですね」と言う男に、「些とも好かないわ、私、草履を穿いて来たんですもの」と恨めしそうに樋から洩る雨点を眺める三千代は、ずっと現実的である。男は夢みるようで、だから女は「貴方も相変らず呑気な事を仰しゃるのね」と窘めた。自覚をそれとなく促しているのに、代助は鈍感だ。

 今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、代助の心の瞳に映って、急に薄暗がりから物に襲われた様な気がするが、ここには嫉妬ではなく不安がある。はじめから代助は三千代の黒い影を欲望していて、三千代がそれに応え、欲望の三角形は不安によって形成される。

 二人だけの昼間の逢瀬のあと、セルの上に男の羽織を着せようとする代助の心理をどう理解すべきか。平岡のことをなんとも思っていないのか、なにもやましいところはないということからか。兄菅沼との同性愛感情が不意に蘇ったからという説はにわかには信じがたい。代助という外界の刺激には鋭い男の、他者意識の乏しさ、無意識の偽善が、優しくも奇妙な行為にあらわれている。

 三千代は笑って着なかった。代助が発した「貴方」という音に三千代は、代助と夫との現在の距離を確信したからに違いない。

 

<十一章> 突然三千代の姿が浮んだ

 

<実を云うと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢《あ》っていた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取った時であった。それには、第一に着京以来御世話になって難有《ありがた》いと云う礼が述べてあった。それから、――その後色々朋友《ほうゆう》や先輩の尽力を辱《かたじけの》うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣ってみたい様な気がする。然《しか》し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜《よろ》しくあるまいと思って、一応御相談をすると云う意味が後に書いてあった。代助は、その当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、そのままにして、断わりもせず今日まで放って置いた。ので、その返事を促されたのだと受取った。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ぎると云う考もあったので、翌日出向いて行って、色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念してくれる様に頼んだ。平岡はその時、僕も大方そうだろうと思っていたと云って、妙な眼をして三千代の方を見た。

 いま一遍は、愈《いよいよ》新聞の方が極まったから、一晩緩り君と飲みたい。何日《いくか》に来てくれという平岡の端書が着いた時、折悪《あし》く差支《さしつかえ》が出来たからと云って散歩の序《ついで》に断わりに寄ったのである。その時平岡は座敷の真中に引繰り返って寐ていた。昨夕《ゆうべ》どこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと云って、赤い眼をしきりに摩《こす》った。代助を見て、突然、人間はどうしても君の様に独身でなけりゃ仕事は出来ない。僕も一人なら満洲《まんしゅう》へでも亜米利加《アメリカ》へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こっそり仕事をしていた。>

 

 色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念してくれる様に頼むと、平岡はその時、僕も大方そうだろうと思っていたといって、妙な眼をして三千代の方を見た。

 人間はどうしても君の様に独身でなけりゃ仕事は出来ない、僕も一人なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと妻帯の不便を平岡が鳴らしたとき、三千代は次の間で、こっそり仕事をしていた。

 経済的、階層的に落ちて行きつつも、どうにか踏みとどまる男のステレオタイプ平岡のすさみつつある会話を、あからさまに、またはそれとなく聞かされる三千代の心境は、慣れてしまっていただろうとはいえ、雨の日の百合の「それから」の後では、いかばかりだったことか。読者の同情も買うように漱石は書いているのである。

 

幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙な事を聞いた。何故あの人は盥《たらい》で酒を飲むんだとか、何故坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであった。梅子はそれを聞くたんびに笑っていた。代助は不図二三日《にさんち》前新聞で見た、ある文学者の劇評を思い出した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋に富んでいるので、楽に見物が出来ないと書いてあった。代助はその時、役者の立場から考えて、何もそんな人に見て貰う必要はあるまいと思った。作者に云うべき小言を、役者の方へ持ってくるのは、近松の作を知るために、越路《こしじ》の浄瑠璃《じょうるり》が聴きたいと云う愚物と同じ事だと云って門野に話した。門野は依然として、そんなもんでしょうかなと云っていた。

 小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であった。そうして舞台に於《お》ける芸術の意味を、役者の手腕に就てのみ用いべきものと狭義に解釈していた。だから梅子とは大いに話が合った。時々顔を見合して、黒人《くろうと》の様な批評を加えて、互に感心していた。けれども、大体に於て、舞台にはもう厭《あき》が来ていた。幕の途中でも、双眼鏡で、彼方《あっち》を見たり、此方《こっち》を見たりしていた。双眼鏡の向う所には芸者が沢山いた。そのあるものは、先方《むこう》でも眼鏡の先を此方へ向けていた。

 代助の右隣には自分と同年輩の男が丸髷《まるまげ》に結《い》った美くしい細君を連れて来ていた。代助はその細君の横顔を見て、自分の近付のある芸者によく似ていると思った。>

 

 漱石は劇評『明治座の所感を虚子君に問れて』および『虚子君に』で、この劇評家と同じような所感を書いているので、さきの『煤烟』と同じ入れ子構造という英国風ユーモアであるが、二十世紀文学でボルヘスが完成した、評論と小説の境界の曖昧な文学をさきどりしていたともいえる。

 観劇した演目は、「盥で酒を飲む」とすれば有名な『当時今桔梗旗揚《ときはいまききょうのはたあげ》』の「馬盥《ばだらい》」の場、「何故坊さんが急に大将になれるんだ」となれば『絵本太功記』の十段目「尼ヶ崎閑居」の場(俗に言う「太十《たいじゅう》」)が思い浮かぶが、どちらも光秀の謀反を題材としたものであって、『それから』の代助もまた、父に、兄に、余の掟に謀反を起こしたのだった。

 歌舞伎座に連れて来られていた美しい細君は丸髷だった、意味ありげな銀杏返しではなかった。

 

<代助はたった一人反対の赤坂行へ這入った。

 車の中では、眠くて寐《ね》られない様な気がした。揺られながらも今夜の睡眠が苦になった。彼は大いに疲労して、白昼の凡てに、惰気を催おすにも拘《かか》わらず、知られざる何物かの興奮の為に、静かな夜を恣《ほしいまま》にする事が出来ない事がよくあった。彼の脳裏には、今日の日中に、交《かわ》る交《がわ》る痕《あと》を残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついていた。そうして、それが何の色彩であるか、何の運動であるか慥《たし》かに解《わか》らなかった。彼は眼を眠《ねむ》って、家へ帰ったら、又ウイスキーの力を借りようと覚悟した。

 彼はこの取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思い出さざるを得なかった。そうして其所にわが安住の地を見出《みいだ》した様な気がした。けれどもその安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかった。ただ、かれの心の調子全体で、それを認めただけであった。従って彼は三千代の顔や、容子《ようす》や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏《ひとまとめ》にしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したに過ぎなかった。

(略)

その真理から出立《しゅったつ》して、都会的生活を送る凡《すべ》ての男女《なんにょ》は、両性間の引力《アットラクション》に於《おい》て、悉く随縁臨機に、測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、既婚の一対《いっつい》は、双方ともに、流俗に所謂《いわゆる》不義《インフィデリチ》の念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終甞《な》めなければならない事になった。代助は、感受性の尤《もっと》も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓《げいしゃ》を選んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるか分らないではないか。普通の都会人は、より少なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝《かわ》らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。

 此所まで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮んだ。その時代助はこの論理中に、或因数《ファクター》は数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑った。けれども、その因数《ファクター》はどうしても発見する事が出来なかった。すると、自分が三千代に対する情合も、この論理によって、ただ現在的のものに過ぎなくなった。彼の頭は正《まさ》にこれを承認した。然し彼の心《ハート》は、慥かにそうだと感ずる勇気がなかった。>

 

 都会人代助は、佐川の令嬢との見合いを兼ねた歌舞伎見物のあと、電車で赤坂へ這入った。芸者買をしたらしいが、漱石らしい説明文章の空白があるから詮索するしかない。

 帰りに三千代を思い出す。結婚に関することが刺激となって、しかも歌舞伎座で右隣に見た女の横顔が「自分の近づきのある芸者によく似ている」と思ったからか、赤坂で芸者を買わずにいられなくなり、それら花やかな色調が、また淋しげな三千代の引力に戻ってしまうという、結婚・芸者・三千代という巴の回転。

 代助という明晰な男、理論家は、都会的な男女は引力(アットラクション)において、測りがたき変化を受けてしまうのだから、不義(インフィデリチ)は避け難く、不幸を始終甞めなければならなくなる。だから自分は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な芸妓を選ぶ。そして、不変の愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。

 倫理は論理であるかのように。この論理は不変であるから、導かれた倫理も不変であるかのごとくに。

 けれども三千代の姿を思い浮かべた代助は、この論理中に、ある因数(ファクター)を数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑ってみて、その因数をどうしても発見する事が出来なかった。とはいっても、モテ男、放蕩息子は浄瑠璃のなかでも、一途な女に何故かほだされることがままあるではないか。その「何故か」の因数を発見したがる代助は、あくまでも不安と分裂と混乱の人で、ある意味、病理学の対象でもある。

 ここで<十一章>は閉じるが、次の<十二章>もまた「をくり」のように始まる。「代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。」 三千代の引力は、このさき測り難き変化を二人に及ぼすことになる。

 

<十二章> 貴方には、そう見えて

 

<平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が蝙蝠《かわほり》の如《ごと》く静かに其所、此所《ここ》に動いた。粗末な板塀の隙間《すきま》から、洋燈《ランプ》の灯が往来へ映った。三千代はその光の下で新聞を読んでいた。今頃新聞を読むのかと聞いたら、二返目だと答えた。

「そんなに閑《ひま》なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移して、縁側へ半分身体《からだ》を出しながら、障子へ倚《よ》りかかった。

 平岡は居なかった。三千代は今湯から帰った所だと云って、団扇《うちわ》さえ膝《ひざ》の傍に置いていた。平生《いつも》の頬に、心持暖い色を出して、もう帰るでしょうから緩《ゆっ》くりしていらっしゃいと、茶の間へ茶を入れに立った。髪は西洋風に結《い》っていた。

 平岡は三千代の云った通りには中々帰らなかった。何時でもこんなに遅いのかと尋ねたら、笑いながら、まあそんな所でしょうと答えた。代助はその笑の中に一種の淋《さみ》しさを認めて、眼を正して、三千代の顔を凝《じっ》と見た。三千代は急に団扇を取って袖《そで》の下を煽《あお》いだ。

 代助は平岡の経済の事が気に掛った。正面から、この頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねてみた。三千代はそうですねと云って、又前の様な笑い方をした。代助がすぐ返事をしなかったものだから、

「貴方《あなた》には、そう見えて」と今度は向うから聞き直した。そうして、手に持った団扇を放り出して、湯から出たての奇麗な繊《ほそ》い指を、代助の前に広げて見せた。その指には代助の贈った指環《ゆびわ》も、他《ほか》の指環も穿《は》めていなかった。自分の記念を何時でも胸に描いていた代助には、三千代の意味がよく分った。三千代は手を引き込めると同時に、ぽっと赤い顔をした。

「仕方がないんだから、堪忍《かんにん》して頂戴《ちょうだい》」と云った。代助は憐《あわ》れな心持がした。

 代助はその夜九時頃平岡の家を辞した。辞する前、自分の紙入の中に有るものを出して、三千代に渡した。その時は、腹の中で多少の工夫を費やした。彼は先ず何気なく懐中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずに攫《つか》んで、これを上げるから御使なさいと無雑作に三千代の前へ出した。三千代は、下女を憚《はば》かる様な低い声で、

「そんな事を」と、却《かえ》って両手をぴたりと身体へ付けてしまった。代助は然《しか》し自分の手を引き込めなかった。

「指環を受取るなら、これを受取っても、同じ事でしょう。紙の指環だと思って御貰いなさい」

(略)

「大丈夫だから、御取んなさい」と確《しっか》りした低い調子で云った。三千代は顎《あご》を襟の中へ埋《うず》める様に後へ引いて、無言のまま右の手を前へ出した。紙幣はその上に落ちた。その時三千代は長い睫毛《まつげ》を二三度打ち合わした。そうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ。>

 

 新聞を読む女とは、三千代の知的レベルを共示するとともに、暇なために二遍もということで、夫平岡の帰宅が遅くて手持無沙汰なことを暗示している。

 西洋風に結った髪は三千代のどんな意思をあらわしていると表現したかったのか、読者の心になんとなく届いてくる漱石の細部にこそ真意は宿る。

 この頃は生活費には不自由はあるまいと代助が尋ねてみると、貴方には、そう見えて、と湯から出たての奇麗な繊い指を、代助の前に広げて見せたが、その指には代助の贈った指環を穿めていなかった。普通ならば、指環を外していれば、夫婦の愛情の現在を想像することになるのだが、代助が贈った指環ということで複雑になる。ならば代助外しなのかといえばそうではなく、残るは金銭の都合、質入れとなるのは代助でなくとも簡単な推量だ。三千代は手を引き込めると同時に、ぽっと赤い顔をして、「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と言う。

「指環を受取るなら、これを受取っても、同じ事でしょう。紙の指環だと思って御貰いなさい」と差し出した金の受け取りを三千代は躊躇する。「そんなに閑なんですか」もそうだが、ことさら嫌われることばかり言ったり、行ったりするところまではいかないが、イケスカナイ残酷な表現をしてしまう代助。夫に秘密に生活費を受け取ることは、いわば妾のような金銭依存になってしまうと躊躇しているのか、三千代の倫理は代助よりも自然である。贈与が交換となりかねない瞬間。

 三千代は無言のまま右の手を前へ出した。紙幣はその上に落ちた。その時三千代は長い睫毛を二三度打ち合わした。そうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ。まるで三千代の何かが陥落したかのように、拒みつつも誘う三千代の手がひらひらと舞う。

 顎を襟の中へ埋める様に後へ引いてから長い睫毛をニ三度打ち合わした、までのシネマの映像のように流れる文章のすばらしさ。

 

<すると兄が突然、

「一体どうなんだ。あの女を貰《もら》う気はないのか。好いじゃないか貰ったって。そう撰《え》り好みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄時代の色男の様で可笑しいな。凡《すべ》てあの時代の人間は男女《なんにょ》に限らず非常に窮屈な恋をした様だが、そうでもなかったのかい。――まあ、どうでも好いから、なるべく年寄を怒らせない様に遣《や》ってくれ」と云って帰った。>

 

 何だか元禄時代の色男の様で可笑しい、凡てあの時代の人間は男女に限らず非常に窮屈な恋をした様だが、という兄の言説に代助は同意見であった、というのは最終章でもう一度力説されるだろう。けれども、この先の代助の行動は、近松門左衛門『曾根崎心中』でお初が徳兵衛に道行を覚悟させたことに似て、違った道を歩むことになる。その小説構成としての布石だ。

 

<十三章> 罪のある人

 

<彼はその晩を赤坂のある待合で暮らした。其所で面白い話を聞いた。ある若くて美くしい女が、さる男と関係して、その種を宿した所が、愈《いよいよ》子を生む段になって、涙を零《こぼ》して悲しがった。後からその訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情ないからだと答えた。この女は愛を専《もっぱ》らにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲って来たのに、一種の無定《むじょう》を感じたのであった。それは無論堅気《かたぎ》の女ではなかった。代助は肉の美と、霊の愛にのみ己れを捧《ささ》げて、その他を顧みぬ女の心理状態として、この話を甚だ興味あるものと思った。

 翌日になって、代助はとうとう又三千代に逢いに行った。>

 

 佐川の令嬢が神戸へ帰るのを見送りさせられた後、家に帰っていつもの仮眠をとったものの興奮さめやらず、電車に乗って、またしても赤坂の待合で芸者買をする。

そこで聞いた話は、堅気の女のことではなかったにしても、肉の美と、霊の愛にのみ己れを捧げて、その他を顧みぬ女の心理状態として、代助に興味ある話だった。女の心理への無理解でとどまったのか、それとも理解へと進んでいったのか漱石は例によってはっきり書いていないが、翌日になって、とうとう又三千代に逢いに行ったということは、近松『冥途の飛脚』の梅川のもとに羽織落して気もそぞろで逢いに行く忠兵衛、『心中天網島』の小春のもとにふらふら引き寄せられる徳兵衛と、近代人代助の恋は、三千代が堅気の女であるということ以外に何が違おう。

 漱石は、少なくとも三度は赤坂で芸者買をさせているようだが、芸者の顔がまったく見えない。代助になじみはいなかったのか、会話は「そこで聞いた話」以外に何があったのか。漱石が花柳小説とまでゆかなくとも、花柳社会の断片すら書こうとしなかった、という物足らなさがことさらに意味を帯びてくるのだが、書かれたことは論じられても、書かれなかったことは、誰もあまり論じない。

 

<「又来ました」と云った時、三千代は濡れた手を振って、馳け込む様に勝手から上がった。同時に表へ回れと眼で合図をした。三千代は自分で沓脱《くつぬぎ》へ下りて、格子の締《しまり》を外しながら、

「無用心だから」と云った。今まで日の透《とお》る澄んだ空気の下で、手を動かしていた所為《せい》で、頬の所が熱《ほて》って見えた。それが額際へ来て何時もの様に蒼白《あおしろ》く変っている辺に、汗が少し煮染《にじ》み出した。代助は格子の外から、三千代の極めて薄手な皮膚を眺めて、戸の開くのを静かに待った。三千代は、

「御待遠さま」と云って、代助を誘《いざな》う様に、一足横へ退いた。代助は三千代とすれすれになって内へ這入《はい》った。座敷へ来て見ると、平岡の机の前に、紫の座蒲団がちゃんと据えてあった。代助はそれを見た時一寸厭な心持がした。

(略)

 三千代は水いじりで爪先《つまさき》の少しふやけた手を膝《ひざ》の上に重ねて、あまり退屈だから張物をしていた所だと云った。三千代の退屈という意味は、夫が始終外へ出ていて、単調な留守居の時間を無聊《ぶりょう》に苦しむと云う事であった。代助はわざと、

「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒涼な胸の中《うち》を代助に訴える様子もなかった。黙って、次の間へ立って行った。用箪笥《ようだんす》の環を響かして、赤い天鵞絨《ビロード》で張った小《ち》さい箱を持って出て来た。代助の前へ坐って、それを開けた。中には昔し代助の遣った指環《ゆびわ》がちゃんと這入っていた。三千代は、ただ

「可《い》いでしょう、ね」と代助に謝罪する様に云って、すぐ又立って次の間へ行った。そうして、世の中を憚《はば》かる様に、記念の指環をそこそこに用箪笥に仕舞って元の座に戻った。代助は指環に就ては何事も語らなかった。>

 

 三千代は濡れた手を振って、馳け込む様に勝手から上がり、表へ回れと眼で合図をした、自分で沓脱へ下りて、格子の締を外しながら、「無用心だから」と言う。来訪の悦びに弾むような躍動感。頬の所が熱って見えたが、額際へ来て何時もの様に蒼白く変っている辺に、汗が少し煮染み出した、という代助の微細まで観察する官能の視線を、三千代の薄手な皮膚はどう受けとめたのだろう。

 主人が留守がちだから用心のために格子の締をかけている三千代、平岡の居場所は代助の頭の中ではないはずなのに、平岡の机の前に紫の座蒲団がちゃんと据えてあって、その座布団は青と赤の混ざりあった不安な紫色だった。三角関係とは、第三者が場所を空間を占有していること、ただそれだけで許せなく感じて欲望の強度が増すと三千代は打算的なまでに知っていたとの解釈はこういったところから生じる。

 次の間へ立って、用箪笥の環を響かし、赤い天鵞絨で張った小さい箱を持って出て来て、「可いでしょう、ね」と言って、また記念の指環を用箪笥に仕舞って元の座に戻るまでの三千代の健気さ。しかし、水いじりで爪先の少しふやけた手に、ふたたび指に穿めてみせないのも、焦らしとでもいうのか。

 

<「この間の事を平岡君に話したんですか」

 三千代は低い声で、

「いいえ」と答えた。

「じゃ、未《ま》だ知らないんですか」と聞き返した。

 その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、この頃平岡はついぞ落ち付いて宅《うち》にいた事がないので、つい話しそびれて未だ知らせずにいると云う事であった。代助は固より三千代の説明を嘘《うそ》とは思わなかった。けれども、五分の閑さえあれば夫に話される事を、今日までそれなりに為てあるのは、三千代の腹の中に、何だか話し悪《にく》い或蟠《わだか》まりがあるからだと思わずにはいられなかった。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた。けれどもそれはさ程に代助の良心を螫《さ》すには至らなかった。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡もこの結果に対して明かに責《せめ》を分たなければならないと思ったからである。>

 

 法律の制裁(すでに姦通罪が頭をかすめているのか)はいざ知らず、自然の制裁(「自然」とはカントの定言命法、無条件の「~せよ」のようなものであろうか)として、平岡もこの結果に対して明かに責を分たなければならないと思ったから代助の良心は痛まなかったというのは、漱石得意の自己本位(エゴイズム)のテーマに接近する。

 平岡を悪者にし、三千代を平岡に対して罪のある人にしてしまうことで、欲望は他者の欲望の尻尾に噛みついて、三角関係の巴を激しく回転させる。

 

<夫婦の間に、代助と云う第三者が点ぜられたがために、この疎隔《そかく》が起ったとすれば、代助はこの方面に向って、もっと注意深く働らいたかも知れなかった。けれども代助は自己の悟性に訴えて、そうは信ずる事が出来なかった。彼はこの結果の一部分を三千代の病気に帰した。そうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。又その一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩《ゆうとう》に帰した。又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒《ほうらつ》から生じた経済事状に帰した。凡《すべ》てを概括した上で、平岡は貰《もら》うべからざる人を貰い、三千代は嫁ぐ可《べ》からざる人に嫁いだのだと解決した。代助は心の中《うち》で痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の為に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすが為に、平岡が妻《さい》から離れたとは、どうしても思い得なかった。>

 

 三角関係の、三つの頂点のひとつであることを否定したがる代助。三千代の心を動かしつつも、自分に都合よく状況を理解し、責任を回避しようとする態度がこのあとも何度か現われる。漱石文学に執拗にあらわれる知識人の煩悶のさまを演じる代助への好悪をリトマス試験紙のように試す。それは漱石文学への好悪を判定するものともなる。

 

<同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつつある事もまた一方では否《いな》み切れなかった。三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらく措《お》くとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着《むとんじゃく》でいる訳には行かなかった。彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は小供を亡《な》くなした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。但《ただ》し、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みる程大胆ではなかった。彼の愛はそう逆上してはいなかった。>

 

『それから』に瑕があるとすれば、「三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらく措くとしても」という「しばらく措くとしても」が、小説の最後まで永遠に来ないという罪だ。作家が無意識に書いてしまった読解不可能性なら重層的な魅力ともなろうが、これは明らかに逃げている。逃げるくらいなら、この一行は書かなければよかった。

 さきの赤坂で聞いた女の心理とは違って、代助がかように冷静なのは、三千代への愛というよりも同情なのではないかとさえ思えて来る。効果を狙って四度も繰りかえされる「ただの昔の三千代よりは気の毒に思った」の「ただの昔」とは「気の毒」とはいったいなんだろう。ドストエフスキー罪と罰』のラスコーリニコフは、はじめソーニャを「気の毒」と同情し憐憫を感じたが、のちには宗教的な愛という内面の力に押されてゆく。代助に愛の力はあったのか、宗教的な愛は。「愛」とか「恋愛」などという西洋からの概念がいかに明治の男女のそれぞれの心と身体にさまざまな影響を、軋轢をあたえていったかの物語を書こうと漱石は格闘し続けた、とも言える。

 

<三千代は又立って次の間から一封の書状を持って来た。書状は薄青い状袋へ這入《はい》っていた。北海道にいる父から三千代へ宛《あて》たものであった。三千代は状袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。

 手紙には向うの思わしくない事や、物価の高くて活計《くらし》にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出たいが都合はつくまいかと云う事や、――凡て憐《あわ》れな事ばかり書いてあった。代助は叮嚀《ていねい》に手紙を巻き返して、三千代に渡した。その時三千代は眼の中に涙を溜《た》めていた。>

 

 北海道の父からの憐れな事ばかりが書いてある手紙を自分から見せて、いったい三千代は代助に何を望んでいるのか。三千代の涙が代助の前でしばしば溢れ出るようになる、ということは関係が一段階進んだということではないか。たとえ肉体関係はなくとも、三千代の恋は精神的に代助に開かれていった、もしくは強く依存するところまで来てしまった。それが女だった。天与と自然を自在に往き来しつも、人の世の掟を前に涙に溺れる、代助にとって分りやすくも不可解な女。

 

<「貴方《あなた》は羨《うらや》ましいのね」と瞬《またた》きながら云った。代助はそれを否定する勇気に乏しかった。しばらくしてから又、

「何だって、まだ奥さんを御貰いなさらないの」と聞いた。代助はこの問にも答える事が出来なかった。

 しばらく黙然《もくねん》として三千代の顔を見ているうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞいて行って、普通よりは眼に付く程蒼白くなった。その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄《じゅんじょう》の埒《らつ》を踏み超えさせるのは、今二三分の裡《うち》にあった。代助は固《もと》よりそれより先へ進んでも、猶《なお》素知《そし》らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女《なんにょ》の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆《ほうし》で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞《せりふ》を用いる意志は毫《ごう》もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所《そこ》に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでいた。代助は辛うじて、今一歩と云う際《きわ》どい所で、踏み留まった。>

 

 ここでまた、「煤烟」を評したのと同じ比較文学というより比較文化的な感想がでてくる。漱石は『それから』のこの場面で批評のとおり実践してみせた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考え、舶来の台詞を用いる意志は毫もなく、尋常の言葉で充分用が足りたのである、という代助にして漱石の日本語論ともなるわけだが、漱石の何がそう言わしめたのだろう。

 素知らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた代助、自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄の埒を踏み超えさせる危険から、今一歩と云う際どい所で、踏み留まってしまう代助。漱石文学によくあらわれる男の型は、「羨ましい」人にすぎないと、女の口で語らせる漱石こそが際どい。

 

<彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考え得られなかった。――醗酵《はっこう》させる事の社会的危険を承知していた。天意には叶《かな》うが、人の掟《おきて》に背《そむ》く恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然《りつぜん》とした。

 彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。その時は天意に従う代りに、自己の意志に殉ずる人にならなければ済まなかった。彼はその手段として、父や嫂《あによめ》から勧められていた結婚に思い至った。そうして、この結婚を肯《うけが》う事が、凡《すべ》ての関係を新《あらた》にするものと考えた。>

 

 天意には叶うが、人の掟に背くという対立に生きる恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった、というのが、近松劇のような心中をイメージしているかは、近松の道行は「恋の手本」ではあっても、「社会的に認められ」たわけではないから疑わしい。むしろ、ヴェルキイルのような西洋悲劇をイメージしていると考えるのが妥当だろう。

 

<十四章> 残酷だわ

 

<もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで押し詰められた様な気持がなかったなら、代助は父に対して無論そう云う所置を取ったろう。けれども、代助は今相手の顔色如何《いかん》に拘《かか》わらず、手に持った賽《さい》を投げなければならなかった。上になった目が、平岡に都合が悪かろうと、父の気に入らなかろうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかった。賽を手に持つ以上は、又賽が投げられ可《べ》く作られたる以上は、賽の目を極めるものは自分以外にあろう筈《はず》はなかった。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄も嫂も平岡も、決断の地平線上には出て来なかった。>

 

 論理的なはずの男が、賽を投げるとか、天の法則とかを持ちだしてくる。持ちだしてきたうえで、「賽の目を極めるものは自分以外にあろう筈はなかった」、「最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで決めた」となる。

 ここに世人は漱石の自己本位(エゴイズム)を見て、悩みつつも積極的な自立的生き方の教則本として国民作家に祭りあげ、はたまた人生論集などを編纂して売り出す。読者の道徳感にわかりやすく届くフレーズを書いた漱石ではあったが、そんな単純なものではないのを一番わかっていたのは漱石である、と気づかないことの不幸。それは愛に気づかない代助に似ている。

 

<「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故《なぜ》もっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出《みいだ》した。その生命の裏にも表にも、慾得《よくとく》はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡《すべ》てが幸《ブリス》であった。だから凡てが美しかった。

 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然《もくねん》として、我と吾手《わがて》を眺めた。爪《つめ》の甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫《ふる》える様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁《はなびら》に着く程近く寄って、強い香を眼の眩《ま》うまで嗅《か》いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽《む》せて、失心して室《へや》の中に倒れたかった。>

       

「今日始めて自然の昔に帰るんだ」というときの「自然」とは、ルソー的な自然状態で、「純一無雑に平和な生命」、「慾得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった」ということのことなのだろうか。ここでは、カントの定言命法の意ではなさそうである。どちらにしろ、ルソー、カントという十八世紀の人間の普遍的命題に、二十世紀を迎えたばかりの百年後の漱石は今日的命題として格闘し続けたわけである。

 代助に「帰る」ような「昔」が、三千代の兄がいた時分にはあって、そこでは「自然」が支配していたとでも錯覚しているのか。男女の「自然」の感情とは、世間の掟と対立する恋愛感情だと、今日気づいたというわけでもあるまい。分裂と混乱の人代助は、雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出す。血潮が顫え、百合の香が誘い、追憶の沼に倒れかかる。もしかしたら、これまでのすべては、それからのことは夢なのだ。

 

<三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いに這入って来た。銘仙の紺絣《こんがすり》に、唐草《からくさ》模様の一重帯を締めて、この前とはまるで違った服装《なり》をしているので、一目見た代助には、新らしい感じがした。色は不断の通り好くなかったが、座敷の入口で、代助と顔を合せた時、眼も眉《まゆ》も口もぴたりと活動を中止した様に固くなった。敷居に立っている間は、足も動けなくなったとしか受取れなかった。三千代は固《もと》より手紙を見た時から、何事をか予期して来た。その予期のうちには恐れと、喜《よろこび》と、心配とがあった。車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもって漲《みなぎ》っていた。三千代の表情はそこで、はたと留まった。代助の様子は三千代にそれだけの打衝《ショック》を与える程に強烈であった。>

 

 どうしたことかここではじめて、漱石は三千代の内面心理に入り込んで、書く。「三千代は固より手紙を見た時から、何事をか予期して来た。その予期のうちには恐れと、喜と、心配とがあった。車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもって漲っていた。三千代の表情はそこで、はたと留まった。代助の様子は三千代にそれだけの打衝《ショック》を与える程に強烈であった。」

 代助の特別な様子を三千代の目を通して描きたかったのか、そのためには三千代の心の動きを説明することが必要だったのか。これがあるから、登場人物二人の間で交錯した心理が、このあとの時間をめぐる会話をリアリズムで支える。

 

<「先刻《さっき》表へ出て、あの花を買って来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随《つ》いて室の中を一回《ひとまわり》した。その後で三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。

「兄さんと貴方《あなた》と清水町にいた時分の事を思い出そうと思って、なるべく沢山買って来ました」と代助が云った。

「好《い》い香《におい》ですこと」と三千代は翻がえる様に綻《ほころ》びた大きな花弁《はなびら》を眺めていたが、それから眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。

「あの時分の事を考えると」と半分云って已《や》めた。

「覚えていますか」

「覚えていますわ」

「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返《いちょうがえ》しに結っていましたね」

「だって、東京へ来立《きたて》だったんですもの。じき已めてしまったわ」

「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」

「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」

「あの時はあんな髷《まげ》に結いたくなったんですか」

「ええ、気迷《きまぐ》れに一寸《ちょいと》結ってみたかったの」

「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」

「そう」と三千代は耻《は》ずかしそうに肯《うけが》った。

 三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞く様になってからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞《ほ》められた事があった。その時三千代は笑っていたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結わなかった。二人は今もこの事をよく記憶していた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかった。>

 

 思い出させたのは、気迷れに一寸結ってみたかったという銀杏返しの髷を結って、「百合の花を持って来」た三千代の方である。国から出て来た当時の髪型であって、代助に誉められたことがあったにも関わらず決して銀杏返しに結わなかった理由は、都会では芸者もする髪型であって、兄菅沼が三千代の性を芸者買をする代助の前で封印したのではないかという深読みもある。銀杏返しは、当時の東京の中産階級以上の女がする髪型ではなく、どちらかというと貧しい人たちがよくした髪型であるとか、夫から心が離れている女ならではの髪型と誰もが感づいた、などという市井の声もあって評判はよろしくないが、漱石好みではあったらしく、他の小説でもしばしば現われるというところに漱石の複雑さがでている。なにしろ作者漱石が謎めいた書き方をしているのだから、書いていないことをあれこれ邪推してみても正解はなく、ただ三千代がまるでヴェニスの敷石、紅茶に浸したマドレーヌのように代助に見せつけたという事実だけが確かだ。

 

<国から連れて来て、一所に家を持ったのも、妹を教育しなければならないと云う義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情合と、現在自分の傍に引き着けて置きたい欲望とからであった。彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向ってその旨《むね》を打ち明けた事があった。その時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以《もっ》てこの計画を迎えた。

 三千代が来てから後、兄と代助とは益《ますます》親しくなった。何方《どっち》が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分らなかった。兄が死んだ後で、当時を振り返ってみる毎《ごと》に、代助はこの親密の裡《うち》に一種の意味を認めない訳に行かなかった。兄は死ぬ時までそれを明言しなかった。代助も敢《あえ》て何事をも語らなかった。かくして、相互の思わくは、相互の間の秘密として葬《ほうむ》られてしまった。兄は存生《ぞんしょう》中にこの意味を私《ひそか》に三千代に洩らした事があるかどうか、其所《そこ》は代助も知らなかった。代助はただ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得ただけであった。

(略)

「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、猶しばらくは眼を相手から離さなかった。三千代は忽《たちま》ち視線を外《そ》らした。そうして、半ば独り言の様に、

「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と云った。

 三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過ぎた。>

 

 ヘンリー・ジェームスのゴシック・ロマンのような、兄と妹の近親相姦的な、菅沼と代助の同性愛のような、「一種の意味」とは「相互の間の秘密」とは「三千代に洩らした事があるか」、「約束」、「特別な感じ」とは、「違っていらしった」とは何か。禅問答のようでもある。読者はいかようにも推理できるし、推理する気もおきずに読み飛ばしてしまいたくもなる。

 兄の菅沼は、代助を「arbiter《アービター》 elegantiarum《エレガンシアルム》」(=ラテン語で趣味の審判者)と名付けて妹三千代の教育を任せていたというが、二人して同じ趣味を持つことで男女の世界がはじまるという教理があるとすれば、少なくとも教えられる三千代にとっての恋は、「アベラールとエロイーズ」のエロイーズ役としてこのとき身心に染みこんでいったのかもしれないが、ここでもまた、代助による三千代の趣味の教育の内容は書かれていないために、漱石が避けたかった性的な匂いさえしてくるではないか。

 

 <代助は黙って三千代の様子を窺《うかが》った。三千代は始めから、眼を伏せていた。代助にはその長い睫毛《まつげ》の顫《ふる》える様《さま》が能く見えた。

「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」

 代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩《あや》を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼《せま》っていた。但《ただ》、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具《おもちゃ》の詩歌に類していた。けれども、三千代は固より、こう云う意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であった。三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫える睫毛の間から、涙を頬の上に流した。

「僕はそれを貴方に承知して貰《もら》いたいのです。承知して下さい」

(略)

 三千代はその膝の上を見たまま、微《かす》かな声で、

「残酷だわ」と云った。小さい口元の肉が顫う様に動いた。

「残酷と云われても仕方がありません。その代り僕はそれだけの罰を受けています」

 三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、

「どうして」と聞いた。

「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」

「だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか」

「勝手じゃありません。貰おうと思っても、貰えないのです。それから以後、宅《うち》のものから何遍結婚を勧められたか分りません。けれども、みんな断ってしまいました。今度もまた一人断りました。その結果僕と僕の父との間がどうなるか分りません。然《しか》しどうなっても構わない、断るんです。貴方が僕に復讎《ふくしゅう》している間は断らなければならないんです」

「復讎」と三千代は云った。この二字を恐るるものの如くに眼を働かした。「私《わたくし》はこれでも、嫁に行ってから、今日まで一日も早く、貴方が御結婚なされば可《い》いと思わないで暮らした事はありません」と稍《やや》改たまった物の言い振であった。然し代助はそれに耳を貸さなかった。>

 

 漱石はなぜ恋愛の告白のクライマックスにおいてさえ、普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含ませなかったのか。簡単で素朴な、寧ろ厳粛の域に逼っていた、潔癖な文章を書かねばならなかったのか。あまりに露骨で、あまりに放肆で、かつあまりに直線的に濃厚で、尋常の言葉で充分用が足りたのであると理解した西洋の小説へのアンチ・テーゼがこれだとすれば、俗でないことで、かえって俗ではないのか。

 漱石は、ここでまた客観描写を離れて三千代の内面を少しだけ書いている。「三千代は固より、こう云う意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった、その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった、代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは「事実であった」、三千代がそれに渇いていなかったのも「事実であった」と、「事実」を力説することができるのが、作者の神がかった特権だとでも言うのか。そうして、「代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した」とは、三千代・代助の間には官能の授受はあってはならない、心だけが通い路である、と決めつけるのか。

 代助の口から、漱石が生涯にわたって格闘した言葉、「罪」と「復讎」と「懺悔」が溢れ出てくるが、これらはみな、三千代が言うように、「だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか」に違いなく、代助の思いがそこに及ばないのは、父と兄と変わらない時代的心性であると、漱石は書きたかった。

 

<「ただ、もう少し早く云って下さると」と云い掛けて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。――

「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」

「そうじゃないのよ」と三千代は力を籠《こ》めて打ち消した。「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」

 今度は代助の方が微笑した。

「それじゃ構わないでしょう」

「構わないより難有《ありがた》いわ。ただ――」

「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」

 三千代は不安らしく首肯《うなず》いた。代助はこう聞いた。――

「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」

 三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が蒼《あお》くなった。眼も口も固くなった。凡《すべ》てが苦痛の表情であった。代助は又聞いた。

「では、平岡は貴方を愛しているんですか」

 三千代はやはり俯《う》つ向いていた。代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、既にその言葉が口まで出掛った時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛も殆《ほと》んど消えていた。涙さえ大抵は乾いた。頬の色は固《もと》より蒼かったが、唇は確《しか》として、動く気色はなかった。その間から、低く重い言葉が、繋《つな》がらない様に、一字ずつ出た。

「仕様がない。覚悟を極めましょう」

 代助は背中から水を被《かぶ》った様に顫えた。社会から逐《お》い放たるべき二人の魂は、ただ二人対《むか》い合って、互を穴の明く程眺めていた。そうして、凡てに逆《さから》って、互を一所に持ち来たした力を互と怖《おそ》れ戦《おのの》いた。>

 

 すべては適時性の問題なのかもしれない。もう少しどころか、あまりにも致命的な遅れは、代助が罪と名付ける第一のものだろう。

「仕様がない。覚悟を極めましょう」と言ったのは誰なのか、私は読解に自信がない。唇は確として、動く気色はなく、その間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字ずつ出たとあるので、三千代らしいが、代助がその言葉を発し、発した自分の言葉を浴びて背中から水を被った様に顫えたかのように受け取れるし、だいいち「仕様がないわ」の女言葉ではないこと、三千代の覚悟はとっくに決っていて、覚悟を仕様がなく極めたのは、愛のない夫婦関係は無意味であるという近代的な観念に酔っている代助だ、と思うのが素直でもある。どちらの言葉かで大きく変るのに、漱石ははっきり書かずに、読者を源氏物語の読解のような迷宮に落し込む。

 

 <十五章> 何故それからいらっしゃらなかったの

 

 <三日目にも同じ事を繰り返した。が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡って、三千代の所へ来た。三千代は二人の間に何事も起らなかったかの様に、

「何故《なぜ》それからいらっしゃらなかったの」と聞いた。代助は寧ろその落ち付き払った態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据えてあった蒲団を代助の前へ押し遣《や》って、

「何でそんなに、そわそわしていらっしゃるの」と無理にその上に坐《すわ》らした。

 一時間ばかり話しているうちに、代助の頭は次第に穏やかになった。車へ乗って、当もなく乗り回すより、三十分でも好いから、早く此所《ここ》へ遊びに来れば可《よ》かったと思い出した。帰るとき代助は、

「又来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」と三千代を慰める様に云った。三千代はただ微笑しただけであった。>

 

「何故それからいらっしゃらなかったの」と「それから」を用いた三千代は二人の間に何事も起らなかったかの様に、わざと平岡の机の前に据えてあった蒲団を代助の前へ押し遣って、「何でそんなに、そわそわしていらっしゃるの」と無理にその上に坐らせた。しかし、「わざと」「無理に」という漱石の形容は三千代の心理に土足で上がり込んでいるではないか。

「又来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」と三千代を慰める代助はお目出度い人だ。そして、「三千代はただ微笑しただけであった」という三千代はそこに、対等な男女関係を前にすると幼稚になってしまう代助、その父、兄の、明治の男として無意識の偽善を嗅ぎ取ったがゆえに、言葉がなかったのではあるまいか。

 

<十六章> 死ねと仰しゃれば死ぬわ

 

<彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静に落ち着いていた。微笑《ほほえみ》と光輝《かがやき》とに満ちていた。春風はゆたかに彼女《かのおんな》の眉《まゆ》を吹いた。代助は三千代が己を挙げて自分に信頼している事を知った。その証拠を又眼《ま》のあたりに見た時、彼は愛憐《あいれん》の情と気の毒の念に堪えなかった。そうして自己を悪漢の如くに呵責《かしゃく》した。思う事は全く云いそびれてしまった。帰るとき、

「又都合して宅《うち》へ来ませんか」と云った。三千代はええと首肯《うなず》いて微笑した。代助は身を切られる程酷《つら》かった。

 代助はこの間から三千代を訪問する毎《ごと》に、不愉快ながら平岡の居ない時を択《えら》まなければならなかった。始めはそれをさ程にも思わなかったが、近頃では不愉快と云うよりも寧ろ、行《ゆ》き悪《にく》い度が日毎に強くなって来た。その上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあった。気の所為《せい》か、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる様でならなかった。然し三千代は全く知らぬ顔をしていた。少なくとも上部《うわべ》だけは平気であった。>

 

「春風はゆたかに彼女の眉を吹いた」とは漢詩をよくした漱石らしい美文であるが、外見うんぬんよりもこの状況で爽やかな三千代は気にかかる女に相違ない。魅力がない、とは言いがたい。

 代助が、不愉快ながら平岡の居ない時を択まなければならず、下女に不審を起させる恐れを持っていたのに対し、三千代は全く知らぬ顔をしていて、少なくとも上部だけは平気であった、というのは、古今東西の姦通小説の決ったパターンである。

 ただ代助の顔を見れば、見ているその間だけの嬉しさに溺れ尽すのが自然の傾向であるかの如くに思われた、というのは、ボヴァリー夫人でも、カレーニン夫人でも、チャタレー夫人でもそうだった。三千代は元来神経質の女であったのに、昨今の態度は、どうしてもこの女の手際ではないと思うと、三千代の周囲の事情が、まだそれ程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなったのだと解釈せざるを得なかった、という代助の論理は倫理といえるのだろうか。「この女の手際」とは、いったい何を代助は言いたいのか。

 

<三千代はこの暑《あつさ》を冒して前日の約を履《ふ》んだ。代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関まで飛び出した。三千代は傘をつぼめて、風呂敷包を抱えて、格子《こうし》の外に立っていた。不断着のまま宅《うち》を出たと見えて、質素な白地の浴衣《ゆかた》の袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出し掛けた所であった。代助はその姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持って来た様に感じた。われ知らず、笑いながら、

「馳落《かけおち》でもしそうな風じゃありませんか」と云った。三千代は穏かに、

「でも買物をした序《ついで》でないと上り悪《にく》いから」と真面目な答をして、代助の後に跟《つ》いて奥まで這入って来た。代助はすぐ団扇《うちわ》を出した。照り付けられた所為《せい》で三千代の頬が心持よく輝やいた。>

 

 代助の気づくことへの怖れが持ちこたえられなくなって、「運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持って来た様に感じた」と被害者意識にまで成長し、ありきたりの倫理的動揺を誤魔化すために、「馳落でもしそうな風じゃありませんか」という言葉についあらわれてしまった。

 

<「貴方はそれ程僕を信用しているんですか」

「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」

 代助は目映《まぼ》しそうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。

「僕にはそれ程信用される資格がなさそうだ」と苦笑しながら答えたが、頭の中は焙炉《ほいろ》の如く火照《ほて》っていた。然し三千代は気にも掛からなかったと見えて、何故《なぜ》とも聞き返さなかった。ただ簡単に、

「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。

(略)

「徳義上の責任じゃない、物質上の責任です」

「そんなものは欲しくないわ」

「欲しくないと云ったって、是非必要になるんです。これから先僕が貴方とどんな新らしい関係に移って行《ゆ》くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」

「解決者でも何でも、今更そんな事を気にしたって仕方がないわ」

(略)

 代助は急に三千代の手頸《てくび》を握ってそれを振る様に力を入れて云った。――

「そんな事を為《す》る気なら始めから心配をしやしない。ただ気の毒だから貴方に詫《あやま》るんです」

「詫まるなんて」と三千代は声を顫《ふる》わしながら遮《さえぎ》った。「私が源因《もと》でそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」

 三千代は声を立てて泣いた。代助は慰撫《なだ》める様に、

「じゃ我慢しますか」と聞いた。

「我慢はしません。当り前ですもの」

(略)

「これから先まだ変化がありますよ」

「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」

 代助は慄然《りつぜん》として戦《おのの》いた。

「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」と聞いた。

「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」

「漂泊――」

「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」

 代助は又ぞっとした。

「このままでは」

「このままでも構わないわ」

「平岡君は全く気が付いていない様ですか」

「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって何時《いつ》殺されたって好いんですもの」

「そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない」

「だって、放って置いたって、永く生きられる身体《からだ》じゃないじゃありませんか」

 代助は硬くなって、竦《すく》むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里《ヒステリ》の発作に襲われた様に思い切って泣いた。>

 

 三千代の言葉は、冷静な自己認識からはじまっている。

「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」、「そんなものは欲しくないわ」、「解決者でも何でも、今更そんな事を気にしたって仕方がないわ」、「私が源因でそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」、「我慢はしません。当り前ですもの」。

 自己本位(エゴイズム)の人代助はここに及んで、三角関係の巴を逆回転しかねない、意識と自然の葛藤に二人を誘いこもうとするが、三千代はすでに終局に向かっている。

「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」、「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」、「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」、「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって何時殺されたって好いんですもの」、「だって、放って置いたって、永く生きられる身体じゃないじゃありませんか」には、柄谷行人が指摘した漱石文学の特徴としての「おそれる男」と「おそれる女」というパターン、が如実にあらわれている。「この間」からは「それから」である。

 

<「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」

 平岡は茫然《ぼうぜん》として、代助の苦痛の色を眺めた。

「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶《かな》えるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。今位頭が熟していれば、まだ考え様があったのだが、惜しい事に若かったものだから、余りに自然を軽蔑《けいべつ》し過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している。僕が君に対して真《しん》に済まないと思うのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心《ぎきょうしん》だ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこの通り自然に復讎《かたき》を取られて、君の前に手を突いて詫《あや》まっている」

代助は涙を膝《ひざ》の上に零《こぼ》した。平岡の眼鏡が曇った。>

 

「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」とは滑稽ではないか。『それから』は「時間」の小説であるが、前から、後から、という通時的な意味で愛の価値を計るとは。

『それから』は、「妙な言い方だが倫理的な姦通小説である」と亀井勝一郎は評したが、そこにあるのは代助のありきたりの倫理的葛藤である。倫理的でない姦通小説などない。だが、いまだ肉体の関係に到らない、精神的にも裏切ったといえるのかあやしいそれを、あえて「姦通」「有夫姦」と呼ぶのならば、「妙な言い方だが論理的な姦通小説である」ではないか。愛情の変化(これも時間の因数(ファクター))や愛情の時期の、早い、遅い、で価値判断してみせる代助の奇妙な論理が、ありきたりの宿命に負けてゆく物語ではないのか。

 代助の論理と倫理に翻弄された三千代の側の倫理と論理を漱石はほとんど書こうとしなかったが、その内面を書かなかったからこそ、三千代はより魅力的に思えて来る権利をもった。

 

<「では云う。三千代さんをくれないか」と思い切った調子に出た。

 平岡は頭から手を離して、肱《ひじ》を棒の様に洋卓《テーブル》の上に倒した。同時に、

「うん遣ろう」と云った。そうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。

「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通りそれ程三千代を愛していなかったかも知れない。けれども悪《にく》んじゃいなかった。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方じゃない。寐ている病人を君に遣るのは厭《いや》だ。病気が癒《なお》るまで君に遣れないとすれば、それまでは僕が夫だから、夫として看護する責任がある」

(略)

「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣っても可《い》いかね」

「それは困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」

 代助は電流に感じた如く椅子《いす》の上で飛び上がった。

「あっ。解《わか》った。三千代さんの死骸《しがい》だけを僕に見せる積りなんだ。それは苛《ひど》い。それは残酷だ」

 代助は洋卓《テーブル》の縁《ふち》を回って、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊広《せびろ》の肩を抑えて、前後に揺《ゆ》りながら、

「苛い、苛い」と云った。>

 

「残酷」と言う言葉は、代助が三千代に愛を告白した時に三千代が発した言葉だったが、いま代助によって平岡に発せられた。狂ったように手足を掻くハツカネズミのように言葉は三角関係の愛憎の巴を回転させる。

 

<十七章> 焼け尽きるまで

 

<代助は守宮に気が付く毎《ごと》に厭《いや》な心持がした。その動かない姿が妙に気に掛った。彼の精神は鋭さの余りから来る迷信に陥った。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつつあると想像した。三千代は今死につつあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢いたがって、死に切れずに息を偸《ぬす》んで生きていると想像した。代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲《たた》かずにはいられなくなった。忽《たちま》ち自分は平岡のものに指さえ触れる権利がない人間だと云う事に気が付いた。>

 

 三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつつあると想像した。三千代は今死につつあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢いたがって、死に切れずに息を偸んで生きていると想像した。三千代は、三千代は、と代助の頭の中はパラノイアックに燃えあがる。

 

<「実は平岡と云う人が、こう云う手紙を御父さんの所へ宛《あて》て寄こしたんだがね。――読んでみるか」と云って、代助に渡した。代助は黙って手紙を受取って、読み始めた。兄は凝と代助の額の所を見詰めていた。

 手紙は細かい字で書いてあった。一行二行と読むうちに、読み終った分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余《あまり》になっても、まだ尽きる気色はなかった。代助の眼はちらちらした。頭が鉄の様に重かった。代助は強いても仕舞まで読み通さなければならないと考えた。総身《そうしん》が名状しがたい圧迫を受けて、腋《わき》の下から汗が流れた。漸く結末へ来た時は、手に持った手紙を巻き納める勇気もなかった。手紙は広げられたまま洋卓《テーブル》の上に横わった。

「其所《そこ》に書いてある事は本当なのかい」と兄が低い声で聞いた。代助はただ、

「本当です」と答えた。兄は打衝《ショック》を受けた人の様に一寸扇の音を留《とど》めた。しばらくは二人とも口を聞き得なかった。良《やや》あって兄が、

「まあ、どう云う了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆《あき》れた調子で云った。代助は依然として、口を開かなかった。

「どんな女だって、貰《もら》おうと思えば、いくらでも貰えるじゃないか」と兄がまた云った。代助はそれでも猶黙っていた。三度目に兄がこう云った。――

「御前だって満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今まで折角金を使った甲斐《かい》がないじゃないか」

 代助は今更兄に向って、自分の立場を説明する勇気もなかった。彼はついこの間まで全く兄と同意見であったのである。

(略)

 彼は彼の頭の中《うち》に、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。彼はそれで満足であった。その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉《ことごと》く敵であった。彼等は赫々《かくかく》たる炎火の裡《うち》に、二人を包んで焼き殺そうとしている。代助は無言のまま、三千代と抱き合って、この燄《ほのお》の風に早く己れを焼き尽すのを、この上もない本望とした。>

 

 兄誠吾は、近松の世話浄瑠璃にでてくる兄のステレオタイプをなんら疑問もなく演じ続けた。『心中天網島』、『女殺油地獄』のよくできた長男は、人生の模範として、道を外れた弟に意見する。ということは逆に、不出来な次男の、江戸ではなく明治という時代における、しかも英国を代表とする海外の近代ではなく、遅れて来た日本の近代における、権威と社会への相克を、恋愛を通して、漱石は書いてみせたということになる。

<十二章>の佐川の令嬢との歓談の場面で、エマーソンとホーソーンが話題にあがったが、ホーソーンの姦通小説『緋文字』を思わせる「正当」と、その結果としての「炎火」のイメージである。

 

<「焦る焦る」と歩きながら口の内で云った。

 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、

「ああ動く。世の中が動く」と傍《はた》の人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様に焙《ほて》って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。

 忽《たちま》ち赤い郵便筒《ゆうびんづつ》が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘《こうもりがさ》を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸《おっかけ》て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺《す》れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋《たばこや》の暖簾《のれん》が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄《ほのお》の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行《ゆ》こうと決心した。>

   

 恋する私は狂っている、そう言える私は狂っていない、というのであれば、代助はいまや狂っている。

 最終章の三千代の不在は、その自然な感情を、その未来を、生死を、意識しつつ遠ざけようとした漱石の、書くことかなわなかった空白という解だった。代償として、避けられない愛の純粋が様々な罪を犯してしまった代助の、幻覚のような赤と電車の強迫観念《オブセッション》を現出させて、どこかへ運ぶ。

 疑問符だらけの作品を、漱石はあえて読者に差し出した。あの日、誘惑者三千代が持参した三本の百合の香のように。

                                 (了)

        ***主な引用または参考文献***

*『それから』夏目漱石新潮文庫

*『それから』夏目漱石(「作品解説」角川源義、「「それから」について」武者小路実篤、「「それから」を読む」阿部次郎)(集英社文庫

*『漱石作品集成 それから』(「長井代助――現代文学にあらわれた智識人の肖像」亀井勝一郎)(桜楓社)

*『漱石研究10 それから』(翰林書房

*『増補 漱石論集成』柄谷行人平凡社

*『漱石記号学石原千秋講談社

*『反転する漱石石原千秋青土社

*『漱石 母に愛されなかった子』三浦雅士岩波書店

*『漱石を読みなおす』小森陽一筑摩書房

*『漱石論 21世紀を生き抜くために』小森陽一岩波書店

*『夏目漱石を江戸から読む』小谷野敦(中公論新社)

*『夏目漱石論』蓮實重彦講談社

*『夏目漱石の時間の創出』野網摩利子(東京大学出版)

*『小説家夏目漱石大岡昇平筑摩書房

*『日本語で書くということ』水村美苗(「見合いか恋愛か――夏目漱石『行人』論」、「『男と男』と『男と女』――藤尾の死」)(河出書房新社

*『百年後に漱石を読む』宮崎かすみトランスビュー

*『漱石とその時代』江藤淳(新潮社)

*『闊歩する漱石丸谷才一講談社

*『夏目漱石を読む』吉本隆明筑摩書房

*『「色」と「愛」の比較文化史』佐伯順子岩波書店

文学批評 「中村真一郎『恋の泉』の「形而上的感覚」」

    「中村真一郎『恋の泉』の「形而上的感覚」」

 

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 中村真一郎は中長編小説『恋の泉』(一九六二年(昭和三七年)三月)発表と同時期、文芸誌「文学界」の一九六一年九月号から一九六二年十月号までの十四回にわたって、『文学の擁護』という、彼にしては珍しく時局的な評論を連載した。その第七回(一九六二年三月)に『形而上的感覚』がある。

《私は二十世紀の文学が十九世紀リアリズムに対立する何物かを持っているという確信を抱いていた。それは小説や詩や戯曲においてだけではなく、批判のジャンルにおいても、明らかな相違がある、と私は感じていた。(中略)フランスのデュアメルが『小説論』という書物で、ドストイェフスキイ以後の小説戯曲を、「霊的リアリズム」という言葉で定義し、それを十九世紀の「物質的リアリズム」に対立させているのを読んだ時も、直ちにその論文の筋道に納得が行った。更にその後に、人に注意されて、アメリカのエドマンド・ウイルソンが『アクセルの城』という評論で、私たちと同じように、「象徴主義」の見地から、プルーストジョイスヴァレリーとエリオットとを同じ風土の作品として一括して考える方法を提出し、それを十九世紀リアリズムから独立させていることを知った。(中略)

 科学的分析だけで現実を眺める時、そこに現れる「現実像」には、一種の魂の乾燥のようなものが感じられるに至る。

 この乾燥から人間を救うものは、微妙な内面性、音楽性、象徴性、神秘性、への感受性であり、それを「形而上的感覚」と名付けたいのである。(中略)

 ただ、私たちの人生に対する感じ方は、自然主義的なものに尽きるという風には断言できないのではないか、という気持は青年時代以来私につきまとっている。自然主義リアリズムが捉えることのできる人間というものは、たとえばオクターブの数の非常に少ない楽器の演奏のようなもので、人間の感覚はもっと広いものなのだ、という確信がある。

 そして、就中、「形而上的感覚」を、何とかして、小説形式のなかで生かしてみたい、それによって、読者の心のなかの、現代においてはとかく乾燥しがちなその感覚を、目覚めさせ得たらと、思っている。(中略)

 私が考えている、「全体小説」というものの姿も、実はこの「形而上的感覚」の問題と関係があるので、私によれば、「全体小説」というものは、単に小説が平面的に拡がりを持つ、つまり題材が広くなる、ということ――「社会小説」ということではなく、つまり、現実を自然主義的なリアリズムで平らに切って、大きな地図のようなものを描き出すということではなく、従って、作家が社会のできるだけ多くの部分の図を集めて組み合わせる、という方向でなく、人間精神の様様の相、様様の層を同時に捉える、ということであって、それは現実の透徹した映像だけでなく、夢や幻想や美的体験や、時には病的な幻視や、宗教的な恍惚感までも含めた、「人間の心の全体」を描く小説という意味なのである。そして、それは従来の自然主義の方法が、見捨ててかえりみなかった部分へ、大胆に肯定的に入りこむことになるだろう。》

 中村は、この十年ほど前、筑摩書房『文学講座・第五巻・現代文学』(一九五一年(昭和二六年)四月)の『現代文学の特質』に、ジョルジュ・デュアメルは「自然主義は、自ら現実を見ると称して、最も重要な現実である、魂を忘れた、と指摘した。」と言及し、その具体例としてプルーストについて説明するが、ここですでに、時間意識、無意志的想起、人間の内部(内的)・外部(外的)、魂という形而上的感覚を取りあげている。

《外的現象でなく、個人の内面のドラマを純粋に――というのは、そのドラマを惹起した外部の事件から切り離して、独立させて――分析したのは、マルセル・プルーストである。彼は最もつまらない物質的原因から起る(しかも、何らの論理的因果関係なしに)、最も大きな内的現実の展開、である、無意志的想起という心理学的現象に、「永遠の哲学(フイロソフイア・ペレンニス)」の根拠を発見し、それに捉えられた瞬間の人間は、二つの相異なる時間(想起される過去の一時間と想起する現在と)に全身的に同時的に生きるが故に、時間性という人間的条件を超越し、死をも克服し、永生を経験しているという、神秘的信念に立脚して、その超人間的現実の表白を小説に求めた。それ故、彼の小説は、全くの想起の秩序に従って発展し、歴史的時間を無視している。或いは、作家の構想力の展開は、歴史的時間の展開よりは、無意志的想起の展開に近い、と信じたといってもよい。即ち、彼の小説において行ったフィクションは、自然主義作家のような、事件(・・)ではなく、或る想像上の人物の回想(・・)である。

 彼の方法は、あくまで人間内部にひらけて行く世界の追求であって、それは恋愛というような他者(・・)との魂による結合現象までも、その恋愛が人物内部に惹き起す感動を、その対象である他者(・・)から全く引離してしまう、即ち、外的存在に対して、徹底的な不可知論的立場を取る、という点にまで、徹底している。それは、我々の個的な魂が、肉体の中に閉じこめられている、という、最も原初的な人間の条件を、最も深く教えてくれる作品である。》

 逆に、遡るのではなく時計を進めれば、『恋の泉』から十六年後の一九七八年(昭和五三年)五月八日号の「週刊読書人」に、「全体小説」の自分の素質にあった方法が見えてきたとして、《それはどういうものかといいますと、一つは「私」という存在は何であるか、ということですね。ここにある「私」の中には、いろいろな要素が溶け、混じり、からみ合っていて、そこにいくつかの層が重なっている。つまり「私」とは、生まれてから現在まで半世紀を生きて来た単なる個人としての「私」ではない、父母、先祖、さらにその先までの非常に長い時間の経験や記憶や知識の累積を含んだ複合的な存在だということです。これらの重層的な内面を、秩序立てたり、整理したりせずに、まるごと定着するための方法が、五十歳を過ぎて急に見えてきたのです。》と書いているが、それは、より深まった、より確信した、そして「いくつかの層が重なっている」私の内面を表現する方法論、技法を身につけたということであって、「形而上的感覚」を小説作品とするさいの、「「私」という存在が何であるか」という根本的な問いかけは、五十歳を過ぎてからということではなくて、『恋の泉』を書いた四十歳代はおろか、青春時代からあったというのが、中村のノートや日記を読みおこせばわかるだろう。

 

『恋の泉』の、プルースト的な「半覚醒」「時間意識」「意志的な記憶の探索/無意識的な回想」「同一性を与えることができない女」「官能(性愛)」「女性同性愛(ゴモラ)」は「形而上的感覚」に交錯し、収斂してゆく。さらには、やはりプルースト的な「風俗小説/心理小説」「文明批評/人文主義(ユマニスム)/芸術論」「劇中劇(小説内小説)」がある。

 そのうえ、文学的伝統の継承とモダンな創造とが表裏一体であること、近代日本文学は西欧写実主義の浅薄な影響下にあって、真の日本古典文学は西欧文学の正統に一致していることの証として、日本の「王朝物語」、『新古今集』も、文学から文学を作る緩やかな仕掛けとしてあがって来るが、それは自分が「非常に長い時間の経験や記憶や知識の累積を含んだ複合的な存在」、古典的な存在に違いないというところからも来ている。

「王朝物語」からは、ヒロインの一人唐沢優里江の混血性に『浜松中納言物語』の世界を夢み、最後に女たちの同性愛(ゴモラ)を見ては『とりかへばや物語』の夢の領域へ不意に入りこんでしまったような幻想に捉えられてゆく。

 王朝詩歌『新古今集』の「恋歌」からは、馬内侍(うまのないし)「忘れても人に語るなうたたねの夢みてのちも長からじ世を」がライトモティーフを奏で、よみびと知らず「ためしあればながめはそれと知りながら覚束なきは心なりけり」が電話での会話として引用され、かつて民部卿と渾名されていた主人公民部兼弘は最後に、ゴモラの女から民部卿藤原成範(しげのり)「道のべの草の青葉に駒とめてなほ故郷をかへりみるかな」の「なほ故郷をかへりみるかな」という呟きを聴かされることになるが、これらはどれも「半覚醒」「時間意識」「意志的な記憶の探索/無意識的な回想」「官能(性愛)」といった「形而上的感覚」の詩歌表現に他ならない。

 本論では、「形而上的感覚」に導くもの、あるいは導き出されるモティーフを主として論じることとするが、「風俗小説/心理小説」「文明批評/人文主義(ユマニスム)/芸術論」「劇中劇(小説内小説)」についても軽く触れておくこととする。

 

 暁から深夜の時計が午前三時を過ぎるまで、古典劇のように凝縮された二十四時間ほどの時間に、五人の女(混血の若い女優唐沢優里江、国際的プロデューサー柏木純子、ヨーロッパで知名な女優氷室花子(アナコ・イムロ)(氷室巴)、女権拡張論者で木戸の妻すず子、むかし『恋の泉』の主役にしようとしたがヨーロッパへ消えてしまった萩寺聡子)と二人の男(男優魚崎、テレビ・ドラマ演出家木戸)に対する主人公民部兼弘の内面は、思いがけない展開をみせる現在と、重層的な過去の記憶に翻弄されて……

 

<風俗小説/心理小説>

 デュアメルと言えば、菅野昭正は『ヴィスコンティを通ってプルーストへ』(プルースト失われた時を求めて8 ソドムとゴモラII』巻末エッセイ)で若き中村真一郎を述懐している。《プルーストの残した水準の高さがようやく認められはじめた一九二〇年代も終るころ、『失われた時を求めて』のかけがえのない功績は、風俗小説と心理小説を綜合(そうごう)したところにある、と説いたジョルジュ・デュアメルの議論である。プルーストの小説が半ば期せずしてめざした方位を巨視的に、しかし的確に見定めたこの言葉は古びているだろうか。風俗小説(それは巨大な源流バルザックに遡(さかのぼ)ってゆく) と心理小説(それは犀利(さいり)な分析家スタンダールに繋がってゆく)は、十九世紀の小説の二つの主要な流れであること、そしてプルーストはその伝統を深いところで革新しながら受けついだということを言いそえれば、デュアメルの判定の効力はいまも失われていない、と納得してもらえるだろうか。私がこれを知ったのは、デュアメル『小説論』(一九二九)をテクストに選んだ中村真一郎講師の演習に学生として出席したときだが、以来ひとつの頼れる指針として折にふれて思いだすことが少なくなかった。》

「風俗小説と心理小説を綜合(そうごう)したところ」は、中村の小説群、とりわけ『恋の泉』の功績でもあろう。男と女、恋人同士、再会した旧い仲間が互いに嘘をつき、だましあい、誤解しあう濃厚、精緻な文章はスタンダール風の心理小説の系譜で、『失われた時を求めて』のアルベルチーヌかオデットのような嘘をつく女が登場し、主人公は彼女の心理を、複数に分裂した自我をもって重層的に分析しつづけてやまない。一方、業界人の言葉づかい、態度、思考回路、精神生活に、バルザック風の風俗小説、とりわけ精神風俗が露わである。社会環境、他人の思考(外部)によって作られた社会的人格の恋愛心理(内部)は、外部と内部の絡まり合いによって、風俗小説と心理小説の綜合化をなしとげる。

 

《「優里江ちゃん、ゆうべはやっぱり、朝までリハーサルだったそうじゃないか?」

 優里江は本心では遠ざかりたいのに己れの意志に反して無理に足に停止を命じたような具合で、前かがみになって、向うを向いたままで答えた。

「どっちでもいいじゃないの。」

 その投げやりな云い方は、絶対に私と二人きりの時間では、彼女の口から出ないものだった。それは私が立ち合っていない時間での彼女の口のきき方だ、つまり私に背を見せている彼女は私の知らない他人なのだ。私の心には淋しさが満ちた。その淋しさは容易に怒りに転じた。

「あんな時に、何故、嘘を云った。」

「今朝は本当を云ったわ。」

 それはふてくされた生意気な娘の物の云い方だった。

「面倒くさいことは、私、嫌いよ。どっちだっていいじゃないの。先生が思いたい方を、いつもその通りだと思っていればいいのよ。私、いちいち弁解するの、嫌なの。」

 それから彼女の足は、もうはじめから長く引きとめるつもりのない意志の弱まりを利用して、勝手な行動を開始したような具合に、前進しはじめた。私は今の彼女の言い分けのなかに、私の愚かな疑いに対する哀れみを嗅(か)ぎつけた。彼女が今朝、帰って来て、最初に私から聞かされたのは、私の疑いの言葉だった。それは長い夜の間、私が彼女の行動に疑念を抱きつづけていたと云う事実を示すものであった。その疑念を晴らすために、彼女は幸いにも事実(朝まで稽古があったという幸運)を利用することができた。しかし、いつもそのような幸運に恵まれるとは限らないということに気のついた彼女は、一方で、しかし、もし時間があれば木戸と遊んだかも知れないという彼女の気持を附け加えることを忘れなかった。もし、別の時に、私が同じ疑念を抱いたとして、その時、彼女が実際に木戸と(或いは別の若い男と)遊んでいた場合に私が衝撃を受けるであろう度合を、予め少なくしておこうと、彼女は突嗟に計算したのだろう。

 ということは、私の疑念に対して、彼女が哀れみを覚えたと云うことで、それは私の疑念に、私の中にある劣等感を感じたと云うことに他ならない。そうして、その劣等感は、私が四十男であり、彼女が二十歳の小娘だと云う事実から来るので、それが世間で噂している「不似合」な関係ということで、その不似合さで笑われるのは、私の方なのだ。多分、そうした噂を秘かに感じとっている彼女は、それによって私に哀れみを感じ、私をそのような劣等感から解放させたく思っているのだろう。ところが、私が自分から、そのような劣等感をむきだしにした嫉妬(四十男の自分より、若い木戸と遊ぶ方が面白いだろうというニュアンスを含んだ質問)を、仕事に疲れて帰ってきた彼女につきつけたので、いよいよ哀れみを深め、そして、しかし、木戸と遊んだのでなく、仕事をしていてよかったと彼女は思ったに違いない。》

 

<文明批評/人文主義(ユマニスム)/芸術論> 

 時間としては西欧のギリシア古典劇、日本の『源氏物語』『新古今集』を代表とする「王朝文学・王朝詩歌」の時代から大戦後十数年までという(発表時の)アクチュアルな現在までふくらみ、空間としてはヨーロッパまでひろがる国際的展望をもった文明批評を、登場人物たちが背負う社会背景を書き込むことで、主人公の精神世界として辛辣に語らせる。

 時代と密着しつつも、人間観察、哲学的考察による普遍的な人文主義(ユマニスム)(「自由で独立した人格、というのが、民部卿の昔からのテーマ・ソングね。」と柏木純子に揶揄されもする)でもあって、同じ一人称小説ではあっても、近代日本文学にありがちな書生の四畳半的世界の「私小説」的狭さから抜け出した社会心理学的洞察による人間観察、社会変化の絵巻を描くのだが、つねに「私」とは何かという存在論的問いかけが通奏低音として鳴りひびいている。

 文明批評、人文主義(ユマニスム)は、芸術論、芸術の可能性、芸術の受容と切り離すことができずに密接に接合しているが、芸術と文学の伝統の尊重、つまりは真の古典的伝統の尊重とモダンな才能の両立のなかで生きようというロマンティシズムともいえる意志がある。

 

《今、彼の心のなかに、一生の終りになって、生き残ったもの――多分、彼の本性にとって、最も切実なものとして、墓にまで運んで行くものと云ったら、それは青春時代以来の、ヨーロッパへの憧(あこが)れと、それと融け合った亡妻への愛慕の念と、またそれと混り合った娘への愛情と、それだけだろう。としたら、彼が戦争中、突然、ナチス讃美者となったのも、西欧に対する憧憬の変形だったのかも知れない。彼はヨーロッパ人になりたくて、遂になりきれなかったために、錯乱現象を起した、明治以来の多くの日本の知識人のひとつの型なのだ。彼がフランス女と結婚したのも、ヨーロッパ憧憬の衝動からだろうし、それにもかかわらず、当然のことながらヨーロッパ人にはなれない苛立(いらだ)ちが、妻を憎悪させることにもなったのだ。その上、ナチスの思想の根底には、ラテン文明、特にその現代的代表たるフランス文化に対する嫉妬(しっと)と羨望(せんぼう)と憧憬との裏返しになったものがあった筈だ。そのナチズムの精神の構造に、唐沢氏が惹かれ、取りすがったのも必然の成行きだったろう。戦時中の民族主義、というより国粋主義の引導者の非常に多くが、西欧文明に対する憧憬からの転向者であったことは事実だろう。彼等が先述として、一斉に振りかざしていた、そうして唐沢教授にとっては最高唯一の存在であった平田篤胤(あつたね)の思想さえ、実はカトリック神学の剽窃(ひょうせつ)であったという説もある、そう云う国柄なのだ。

 だからこそ、拝西欧主義者から排西欧主義者となり、自分の魂を二分するような苦しみを味わった筈のこの老人も、今は平穏な晩年を迎えることができたのだろう。彼等の思想の変転の根底には、論理よりも愛が、しかもそれは満たされぬ片想いに悩む女人のような、本能的で矛盾した愛が潜んでいる。そうして、人は他人のそうした性質の愛について、裁くことはできはしない。この老人に向って、戦時中の言説の責任を取れというのは、(たとえ、その言説、また行動によって、どれほど多くの人が、実害を受けたとしても)恋に狂った人に、その口説を論理的に説き明かせと迫るようなものだ。しかも、その恋には、日本独特の、成行(なりゆき)主義、機会主義(要するに隣人と異なった意見を発表することに対する恐れ、――地縁血縁社会の特徴――)が混入しているのだ。だからこそ、戦争内閣の閣僚が戦後、平然として首相の座に昇ることも可能なのだ。彼等は殆ど個人ではない。ある群衆心理の代表者であり、群衆は責任を取ることがないのだ。》

 

《が、こうした自己規定が、実は人間を外部から捉える、歴史主義的方法の影響であることも、本当は私は自覚しているのだ。私の彷徨(ほうこう)は、確かに私の「外部の世界の論理」からすれば、私自身の素質と時代との分離から起ったものである。しかし、私は自分が偶然に地上に投げ出されたものだ、という出発点における、私自身の意志との関係では偶然に過ぎない生誕は、そのまま承認するとしても、少なくとも生れた以上は自覚的存在として、内的な論理の大筋だけは通さないと、自分に済まないわけである。そして、私自身が、もし外部の世間の眼で見られている私の肖像に満足しないと云うならば、私は私の内部の本質を静かに生育させ開花させる義務がある筈で、そしてその本質を養うのは、体験(・・)である。体験(・・)こそ、私に外部の世界の与える偶然を、私の内部でひとつの必然と化せしめる作用であり、即ち外部を内部に吸収し、内部を豊かにする操作である。通俗的な歴史主義の危険は日己を外部世界の論理で割り切ってしまう点にある。戦時中の日本の知識階級の右往左往は、根本的には個人が白己の内部を発見し成熟させる努力を怠ったからだ、とも云えなくはないだろう。自己が歴史の申し子であり、歴史の駒のひとつであるとすれば、自己の行動の責任は全て歴史のものになってしまう。だから、個人としての生き方は無責任となる。しかも、日本の伝統というものを体験として所有していないで、日本的特性とは要するに歴史の発展段階の相違にすぎないというような認識に立っているとすれば、その行動は根無し草のそれとなり、それが白己の自覚の不足によって、精神の「自由」も獲得していないとすれば、いよいよ奇怪な行動、無論理の行動となるのは当然である。

 そうして、もし、私がその轍(てつ)を踏みたくないならば、私は自己の体験に執し、そこから成熟して行かなければならないだろう。そうして、その成熟のための風土(・・)とは、やはり私の外に拡がっているものというより、私の内部からの光によって、闇のなかに輝(てら)し出された空間でなければならない。》

 

《「だけどもね。彼女の場合、日本の伝統から自由だというのは、好都合だとばかりは云えないと思うね。近代のリアリズムに対して、対立するのはいい。しかし、日本の古い伝統とも無関係だということになるとどうなるのかね。芸術は伝統のないところからは生れないからな。しかも、厄介なことには、日本の伝統は、どこの国もそうかも知れないが、貴族的伝統と庶民的伝統との二つの筋があり、このふたつの筋をどう扱い、どう評価し、どう継承するかの、真面目な議論は、まだちっとも進展していない有様だ。戦争中は専ら貴族的伝統、応仁の乱以来、隠者の手に移った王朝の美の伝統だけが問題とされ、戦後は戦国以来の庶民的伝統の方だけが強く表面へ押しだされている。いずれも片手落ちの話さ。……」

 ああ、こういう話を魚崎とするのは久し振りだ。実際、何年振りだろう、と私の心は明るくなり、私の頭は大分、明晰(めいせき)さを取り戻してきた。魚崎の話は情念の領域では、物凄(ものすご)くメフィストフェレス的になるが、こうした理性による分析の領域では、純粋に透明になることができるのだ。そして、私達の友情は、後者の世界での知的交換に依存するところが昔から多かったのだ。そこで私も話しはじめた。

「戦後の大部分の伝統論は、庶民的伝統、下からの(・・・・)伝統だけを問題としている。そうして、下から(・・・)、上から(・・・)という時、必ず上から(・・・)と云うのは駄目だという含みがある。明治維新は上から(・・・)の革命で、だから人民的でない、という風の議論だな。しかし、芸術を論じる場合、王朝美学を抜きにして、日本を考えても無意味だと思うよ。民話のようなものだけを高く評価していては、君のいう通り片手落ちで、それは、結局、現実から――裏切られることで終ると思うんだ。特に新劇の場合、伝統的な演劇との結合の問題は、遂に真剣な実践のなかで試みられていないし、又、民衆との関係だって、インテリの側からだけの啓蒙的働きかけとしてしか、新劇は当事者に埋解されていない。と云うことになると……」》

 

<劇中劇(小説内小説)>

失われた時を求めて』が小説を書くまでの小説であるのに対して、『恋の泉』はむかし書いた戯曲を上演しようとする芸術家小説である。小説の中に劇中劇、小説内小説として、すっぽり丸ごと、まとまった形で収めて読者に追体験させるのではなく、ところどころに、上演が叶わなかった過去の経緯や執筆意図やさわりを点在させ、さまざまなエピソードを纏わせて、間接的な形で、人生経験と内面の時間的深化によって再解釈された姿としてそれとなく見せる、という洗練された芸を読むことは、ミルフィーユの薄片が口蓋に触れて砕け、溶けてゆくような精妙な幸福感がある。

 その演劇論には、「文学座」で芥川比呂志加藤周一とともに活動し、ネルヴァリアンらしく混血の女優新田瑛子を妻とした日々や、ドラマ作家としての経験が生かされている。

 

《『恋の泉』とは何か。それは結局のところ――というのは、書き終えて二十年の後になってみると、という意味だが、――「愛の讃歌」の一種だろう。人は何度も繰り返して、異った相手を愛するかも知れぬ。しかし、内的体験としての愛はひとつのものなのだ。先程、木戸がキザな調子で暗誦(あんしょう)したように、『恋の泉』の主題は、最後の台詞につきる。

「私はこの泉から、またもや、新たに恋の水を掬(く)む。しかし、異なるのは杯だけで、中の水は同じものなのだ。……」女主人公はそう祈るようにつぶやきながら、手にした大きな金の杯を、泉のなかにひたす。そうして、その杯を静かに口へ持って行く。それから、その金杯は彼女の手を離れて、泉の表面に浮く。女主人公は振り返って、客席正面を向く。彼女ははじめて、素面で立つ。今や彼女は、それぞれの仮面をかぶっていた時の、街の少女、村の老いたる女、娼婦、貴族の夫人などではなく、ひとりの泉の精なのだ!

「異なるのは杯だけで、中の水は同じものなのだ。」それは、「杯」を軽視した言葉ではない。私の内部世界の中心にある「愛」は、幾つかのその都度の経験によって、その都度の相手の協力、相手の魂(内部世界)からの流出物によって、(それが私の内部の魂の流出物と化合して)豊かにされ、深められるということなのだ。だから『恋の泉』の登場人物たち(いずれもひとりの「泉の精」の役者が、それぞれの仮面を被(かぶ)って扮する)は、同じ恋の泉(・・・)のなかにひそむ愛の神への捧げ物をするのだ。二十歳の私は、そうした私の愛の哲学を予感としてしか所有していなかった。しかし、四十歳の私は今、それがたしかな体験として感じられるに至っている。そうではないのか。今日の昼、私は萩寺聡子に対する愛(十年後に突然、眼覚めた愛)の中に、現在の唐沢優里江への愛を発見した。また氷室花子のなかに萩寺聡子の変身を発見し、それは十五年前の氷室巴への愛と、現実の現在の氷室花子への愛とを、今、同時に生れさせようとしているらしい。それらは全て、私の内部のドラマなのだ。》

 

「形而上的感覚」に移る。いっそうプルースト的なモティーフ、「半覚醒」「時間意識」「意志的な記憶の探索/無意識的な回想」「同一性を与えることができない女」「官能(性愛)」「女性同性愛(ゴモラ)」は「形而上的感覚」という地下の泉からの豊潤な涌水だ。

 

<半覚醒>

 ロラン・バルトが、愛読するプルーストを引用して書いた『長いあいだ、私は早くから寝た』という文章がある。《この眠り(または、この半覚醒)とは、一体何をなすのでしょう? それがもたらすのは、<錯覚>、というより、常套句を避けるならむしろ<調子外れの意識>で、変調をきたした、揺れ動く、間歇的な意識です。時(・)の論理的な外殻は侵食され、もはや(単語の二つの部分をはっきり切り離してよいものなら)時の論理(クロノ・ロジー)はなくなっている。「眠っている人間は(あのプルーストの眠り、つまり半覚醒の、と解しましょう)。時間の糸、歳月や世界の秩序を自分の周りにぐるぐる巻きにしている[……]が、その配列がこんがらがり(・・・・・・・・・・・)、切れてしまうこともある(・・・・・・・・・・・)。[傍点引用者]」眠りが創設するのは、別の論理、揺れ動きと障壁の除去の論理であり、この新たな論理こそ、プルーストがマドレーヌ菓子の挿話、『サント・ブーブに反対する』のなかで述べられているのではビスケットの挿話において発見したものなのです。(中略)時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。それにこれはプルースト自身が用いた暗喩でもある――作品はドレスのごとく作られる、というのですから。ラプソディ風のデキストには、さまざまな布切れや断片を交差させ、按配し、呼応させる、といった仕立屋の技術がそうであるように、独創的な技術を伴います。一着のドレスが単なるパッチワーク(・・・・・・)ではないように、『失われた時』もそうではないのです。》

『恋の泉』の冒頭もまた、『失われた時を求めて』と同じく「半覚醒」の場面ではじまり、感覚の洞窟の薄明かりに照らされる無秩序な時間を揺蕩(たゆた)う主人公がいる。そして、「さまざまな布切れや断片を交差させ、按配し、呼応させる、といった仕立屋の技術」で、ラプソディ風な「形而上的感覚」が織りあげられてゆく。

 

《……街には金色の雨が降りそそいでいた。そのなかを昂然(こうぜん)と歩いて行くのは、二十歳の私だった。青春の熱情にとって、雨に濡れることなど何物でもない。「四十歳の私ならば、神経痛を気にしなければならないが」――そんな憂鬱な反省が一瞬の間、私の脳裡を横切った。が、すぐそれは忘れられ、私はそれからまた、明るく光っている舗道のうえに、足を運んだ。その足取りも夢のなかのように(・・・・・・・・)軽やかだった。私は自由だ。私の夢想は限りなく拡がることができる。私にとって、世界はまだ生れたばかりなのだ、と私は(二十歳の私に返って)そう思った。(中略)

――いや、これは現実(・・)ではなく、回想(・・)なのだ。と、私は自分に云いきかせた。夢のなかで、過去の時間に迷い入ったのだ、と私は心の中でくりかえした。私はつい先ほど、二十歳だったし、今はまた三十歳になっている。だから、どうしてもこれは夢の中にちがいない。――それから、私は急にまたより深い夢のなかへ陥ちこんで行き、あの女の姿をありありと見た。髪を金色に縁取らせながら、昔いつもそうであったように、何か風に梢(こずえ)を揺られている木のような感じの姿を。彼女の顔を正面から眺めたなら、その姿は消えてしまうだろう。私は惧(おそ)れた。そうして、惧れながら、両腕を彼女の方に延ばした。彼女は明るく顔を輝かすと、くるりと向うへ向き返った。「ぼくは随分、長く君を探していたんだよ。ヨーロッパの何処(どこ)かへ消えてしまった君を。……」と、私は――そう、四十歳になっている、夢の中の現在の私は――云った。すると彼女は、もう一度、顔だけを向き直らせ、それから不意に消えてしまった。後には金色の煙のようなものだけが残った。(中略)

 私は眼を開くのが惜しかった。十年振りで夢のなかに現われて、そして消えて行ってしまったあの女、今、ようやくその名前を思いだした、萩寺聡子(はぎでらさとこ)の残して行った、薔薇(ばら)の花の匂いのような後味を、もう一瞬でも長く味わっていたかった。しかし、室内で鳴っているウェスタンの曲は、その聡子ではなく、唐沢優里江の存在を高らかに告げていた。》

 

<時間意識>

 外部からの歴史的秩序によって主人公の内部の時間が構築されるのではなく、内面的な求めによって編み直される、というプルーストの甘美な「時間」は、記憶による過去の現在化、感情的に想起された断片的な時間の音楽的な速度感をともなう顕れ(エピファニー)でもある。哲学的、論理的に想起しているのではなく、倫理的に想起されるのでもない。

 その一方で、容赦なく流れる現実を登場人物の内部に突きつけ、外観に刻印する残酷な時間でもある。

 小説のはじめのほうにセザール・フランク『交響変奏曲』の名前が登場するが、フランクの「循環形式」(各楽章の主題・旋律を連関させ、始めと同じ主題・旋律を終りの楽章で回帰させる手法)は、この小説の「時間意識」による「形而上的感覚」の、ノスタルジックな回帰性、統一感ある循環と重なっている。

 

《第二の画面のなかの魚崎が急に緊張した。そして、カメラが移動を開始し、彼は元の貴公子に戻ると、第三の画面に入った。その時、第一の画面に重ね衣に着換えた優里江が、別の女に裾を持たせたまま、慌(あわただ)しく入ってきた。ワンピースのその女が何か彼女に囁くと、優里江は胸のまえで掌を動かして、心臓の鼓動が激しくなっているというしぐさをした。洋服と王朝衣裳との対照が、いかにも突飛で、非現実的な雰囲気を作りだしていた。私はそこに、私と云うものを全く意識していない素顔の優里江を見た。実際、舞台やテレビで彼女を見る時は、彼女はいつも或る役に入っているのだし、私がいない場所で生の彼女を見るという機会は、ないわけである。それが全然、別の部屋にいる私の眼の前に、画面のなかに今、役から一時的に解放されている彼女を見るのは、不思議な感動だった。それは私の知らない彼女であり、そして、緊張と解放との短時間における繰り返しのためか、感情の表出が誇大になっていて、それが彼女を非常にはしたない(・・・・・)ように見せた。私は客観的(・・・)に彼女を見、そして、いわばこの局の若い連中の眼で、普段の彼女を見ているのだと思った。あれが、太った四十男である民部兼広から追いかけられて、器用に振ったという評判の娘なのだ。そして、それはいかにもその噂に適わしい感じの娘だった。あの無邪気な現代娘の肌に、四十年の経験の塵(ちり)をこすりつけるのは、何とも不似合なことだった。民部兼広が、もし私でないなら、私も容易に、その噂を信じたろう。

 彼女は役の中の女となり、邸内の部屋で魚崎や女たちと芝居をはじめた。私はしかし、今のあの洋服の女と笑い合っていた彼女の姿から受けた感動が強すぎたので、今度は舞台的幻想のなかへ入って行くことはできなかった。私の眼には、優里江はあくまで優里江のままだった。しかも、私の外の世界の彼女、世間の見ているままの彼女だった。私は身を乗りだすようにして、忙しい指示を与えている木戸の後姿を眺めながら、この軽薄な男と遊んでいる時の優里江の方が、より潑剌(はつらつ)として自然なのではないか。私の部屋のなかに捉えられている時の彼女は、寧(むし)ろ可哀そうな娘なのではないか。彼女自身はあのように私との時間を嬉しがっていても、それは自然に反することで、そして無理はいつまでも続くものではない。……そう思いながら、画面へもう一度、視線を戻してみると、そこで王朝の衣裳に包まれながら、作者の書いたままの台詞を一応、喋(しゃべ)っている優里江は、少しも王朝女性にはなっていない。相変らずのただの現代娘に過ぎないのだ。彼女は女優であるよりも先に、ひとりの若い女で、そして自分自身の生を愉しむ権利のある、従って私のような曲折を経た男の囚人となるのは、気の毒な娘なのだ。……

 それは私の外部における世界の論理であり、感情だった。私の外で生きている優里江は、そのようにして自由であるのがいい。それは時間と空間とに支配されている、外の世界の法則だろう。しかし、一方で私の内部では、私だけのための優里江が生きており、それは他人には見えないけれども、彼女自身の奥深い心の底の、彼女の精髄を流入させて作りあげた、私にとっては真の優里江なのだ。それはもし、空間を移動するとしても、私の魂と一緒であり、時を経て老いて行くとしても、私の魂と一緒なのだ。いや、私の魂がもし、外部の世界の影響で、しかし外部の世界よりも徐々に静かに年をとって行くとしても、その中で生きている彼女の面影は、いよいよ、若やいで行くだろう。周囲が暗くなればなるほど、光を増して行く燈台のように。そうして、その若やいで行く優里江の姿は、いずれは萩寺聡子の姿とひとつになり、そしてそれは「愛」の姿となって、神格化されて行くのだ。そう思いなおして画面を見ると、長い裾を重そうに動かしながら、立ったり坐ったりしている優里江の姿は、私の心の奥の愛の祭壇を前にして、愛の神への捧げ物となって踊っているもののようにも思われてくるのだった。つまり、私の外の優里江は、今や、私の内部の「愛」に奉仕する巫女(みこ)に変身したのだ。ああ、これは私の『恋の泉』の主題なのだ。私の想いは、いつもあの仕事に返って行く、と私は思った。……》

 

<意志的な記憶の探索/無意識的な回想>

 欲望の原因は相手の内部から発せられたかのように、現在という時間と並行して、いくつもの過去の時間が女たちと語らうたびに甦るが、その意識的に記憶を探求する努力によって、記憶は追想というよりも無限の忘却から成り立っていると知らされることになる。

 無意識的想起(レミニッセンス)、心の間歇は、忘却の底の記憶の編目細工、織物(テクスト)の装飾模様を、肉体の記憶によってほどく。つぎつぎと甦える色鮮やかな断片が、万華鏡をくるくる廻すとき、一瞬崩れて新たな世界を花開かせるように、人間関係も、恋愛模様も、記憶の中の女たちの一人一人を変貌させてしまう。

 

《純子の電話によれば、氷室花子なる女優が私に再会を求めているということであり、そして私に会いたいと思っているヨーロッパ在住の女性は萩寺聡子にきまっている。しかも、聡子を探して来てあげると、純子はいつか私に約束したのだ。そこで、私は萩寺聡子の正確な容貌を記憶のなかに再現しようとした。しかし、驚いたことには、それは夢のなかの映像のように、視線を集中しようとすると、忽ち漠然たるものに変ってしまう。恐らく私は今夜、ひと目、会えば、ああこの人だ、と判るだろう。そういう全体的な印象はかなり強く私のなかに残っており、それが記憶の戸口に、具体的な形となって現われようと、空(むな)しくもがいているのを感じながら、私にはそれが古くてぼやけた写真のようにしか捉えられない。そこで、今度は私は別の方、氷室花子の方から出発しようとした。私は氷室花子の容貌を思い出そうとした。こちらの方は今までも何枚も写真を見たことがあるので、何人かの女の写真を列べて、そのなかに一枚、彼女の顔があれば、私は直ちにそれを指摘することができると思う。しかし、眼を閉じて正確な素描を瞼(まぶた)の裏側に描き出そうとすると、それも少し難かしかった。私は自分が、他人の顔を細密に記憶する能力が貧しいのかも知れないと考えた。いや恐らく、人生の経験は何事もそうなのだが、類似の経験をするたびにそれは過去のその類似の経験と記憶のなかで重ねられるのだ。もしそうした頭脳による分類がなかったら、私たちの人生は、毎時、毎分が全く新たな経験だということになり、私たちの感覚は疲労に耐えないだろう。そうした苦労から私たちを免れさせてくれるのが、頭脳の仕事で、頭脳は私たちがある経験をすると、すぐそれを大急ぎで過去の幾多の類似の経験の積み重ねてある、ある分類の中へ送りこむ。丁度、郵便局で、郵便を配達先の区別によって、それぞれの箱に分けて入れるように。そうして、私の記憶のなかでも、漠然たる萩寺聡子の印象と、それから氷室花子の大体の輪郭の決った顔とは、何とかひとつの分類のなかに入れられた。》

 

《では、聡子体験(・・・・)と優里江体験(・・・・・)とは、どう照応し、どう諧和するのか。その時、突然、私の記憶の仄暗(ほのぐら)い領域に、鋭い光が投げ入れられた。それは都心のある広い庭園の池の畔(ほと)りだった。その封建時代の大名の邸跡(やしきあと)の庭園は、濃い木立の重なりの上空に、都電の音を遠い谺(こだま)のように鳴らしていた。そしてその響きが、庭園の静けさを却って際立たせていた。私は池を巡る小径(こみち)に沿った細長い岩に腰を下ろし、ぼんやりと水面を見下ろしていた。その時、向う岸から、「先生!」という高い叫び声があがり、眼を上げると、萩寺聡子が全身を笑いに揺するようにして、両手を振ってみせていた。それから彼女は池に降り、飛石伝いに、一直線に私の方に駆け寄ってきた。「危いよ」と私は叫び返した。しかし彼女は軽捷(けいしょう)な小動物のように、撥ねながら、池の中心の藤棚の下まで到達し、そこでもう一度、両手を振ってみせると、今度はその中の島からこちら岸までの、稲妻型の細い木の橋を、一気に駆け抜けて、そして私の差し伸ばした手のなかへ、飛びこんできた。彼女の少女らしい髪の匂いが、一瞬、私の鼻先に立ち昇り、上気した頬と昂奮(こうふん)した眼が、私の顔のすぐそばに押し出された。「先生、お待ちになった?」それから彼女は全身で私を押し戻すようにすると、私の両手と彼女の両手とは、二人の身体を両端に支えるような具合に、いっぱいに伸ばされた。彼女の瞳(ひとみ)はきらきらと輝き、今にもその唇からは非常に雄弁な言葉が出て来そうだった。しかし、彼女は実際には、ひとことも口をきかず、それから彼女の瞳のなかには、ゆっくりと羞恥(しゅうち)の色が浮びあがり、それから、彼女の片手は私の片手を離した。そうして、ふたりは片手を繋(つな)いだまま、小径を歩きはじめた。――それは私と研究生の彼女とが、はじめて二人きりで逢った時だった。そうして私ははじめて、この控え目な少女のなかに、激しく陽気な心の躍(はず)みを見たのだった。そしてその瞬間、私は彼女を愛した(・・・)のだ。この陽気さ、この軽捷さは、誰も他人の眼の届かない、秘密の場所で、私ひとりに向って示されただけに、殆ど愛の告白同様に、私の心を揺すったのだ。その瞬間の彼女の激動は、それは彼女の普段の態度からすれば、全く例外的な瞬間のものだった。しかし、私のなかでは、その例外的な瞬間が、私だけの聡子体験(・・・・)となって、記憶として残ったのだ。そして、同様に、優里江の方は。――ごく最近、私が半月ばかり風邪をひいて休んだあとで、研究所へ出て行った時、稽古場で賑やかに喋っていた二十人ばかりの研究生のなかで、入口に立った私に向って、一人の娘が突然に立ちあがり、そして私の胸に向って、喚声と共に、一直線に駆け寄ってきて、そして私をきつく抱きしめ、「よかったわ。早くなおってよかった。私、心配で眠れないくらいだったの。」と、叫んだ。私の鼻先を、処女の髪の匂いが包んだ。それが優里江だった。》

 

<同一性を与えることができない女>

 欲望の対象は、女たちの職業的な生態と執着的な対人関係、かけひき、恋愛模様と絡まりあって、多重映像、重層化として出現する。愛した女は、多彩な断片になって記憶の底に散乱してしまうことで、不確実性の原因であるとともに、思いだされるときには一人の女に同一化されず、並置された複数の女となって現れる。偶然と暗合による、自分の欲望に合致したイメージを、意志的記憶の、あるいは無意識的記憶の無数のイメージから選び出そうとするが分化しきれない。女は同一性を持っていない、固定化されない、ときには他者に成りすまそうとさえする。外からの光を屈折させることで、虹色の色彩をあらわすプリズムのような多面体の女を欲望、所有したいと願う複数に分裂した自我、わずか数刻の間に揺れ動く「私」は、回想によって世界を再創造する。

 

《それから、急に花子は立ち上った。

「どう、よく見て。」

 花子は危い足もとを踏みしめながら、身体をくねくねと曲げて、歩きだした。それは傷ついた鳥が、一生懸命に遁れ去ろうとしている風情だった。

「聡子でしょう? どう?」

と、彼女は私たちに後姿を見せながら、叫んだ。

 奇跡だ。その後姿はたしかに萩寺聡子だった。

「私はソーコになったのよ。監督はソーコを求めていたの。だから、私はソーコになったの。誰でも、私の後姿を見る人は、ソーコと間違えて呼びかけたわ。」

 それから、花子はくるりと振り返った。彼女の表情は弱々しく、そして、頼りなげに笑った。それも聡子だった。彼女は軽く首を傾け、私の方に手を差し延ばしかけて、ためらう風に、その手を元に戻した。

「聡子ちゃんだわ。」

と、純子が悲鳴のような声をあげた。私も思わず腰を浮かせた。花子はしかし、突然に、身体中に活力を漲(みなぎ)らせ、別人のような激しい表情に変った。あ、悪魔が素顔を見せた、と私は口の中で云った。彼女は荒々しく、元の席へ戻ると、身体をソファに投げ出した。彼女の襟もとははだけ、着物の肩先に薔薇色のネグリジェの紐(ひも)が露出した。私は思わず眼を閉じた。》

 

《しかし、巴が私の前へ差し出したものは、十五年前の雰囲気だけではない。それは、萩寺聡子の幻影でもあった。氷室巴に会うことで、聡子と会うつもりの予想を完全に裏切られたと信じきった時になって、突然に、私の眼のまえで、巴は聡子に変身してみせたのだ。この衝撃は深刻だった。それは子供の時に読んだ、あの怪談を連想させる。怪物に出会った驚きを、ある男に告げようとしたら、その男がまたその怪物に変貌してみせた、という二重の驚きを用意している怪談である。私は聡子と思って巴に会い、聡子を否定され、その後で、私自身のその驚きを心の中で整理しつくして、ようやく相手が巴であることに慣れた時になって、その当の巴が聡子を出現させた。私の意識の中では、最初は眼の前の女性が巴であって、聡子ではない、と無理に云いきかせる操作が続いたが、私の記憶のなかでは巴の映像は仲々聡子の映像から分離しなかった。遂に聡子の映像が消えて、巴の映像だけが残った。ところが、その残った巴の映像のなかから、もう一度、聡子の映像が立ち現われてきて、二つの映像がまたもや重なった、という具合になったのである。

 そしてそれは映像だけではない。その映像には愛が結びついている。私は今日一日、聡子への愛を心のなかに育てあげ、燃え上るに任せていたのだ。そうして、その愛の焔が巴によって無理やりに消されたと信じた瞬間、それは今度は巴の姿を取って、もう一度、燃え上った。私の愛は混乱した。その混乱の中で私は眼の前の巴のなかの聡子を愛し直した。――私はかつて、聡子を愛する前に巴を愛したのではないか。巴への潜在的な愛のために、後に聡子を愛することになったのではないか。とすれば、実は聡子への愛と私の信じていたものは、巴への愛ではなかったのか、とまで私は混乱のなかで推理を進めた。最後に私は巴と結婚(・・)しようと空想した青年時代の私の想いまでを想起した。(しかし、この推理は必ずしも私を納得させ得るものでもなく、また、その推理を証明するだけの記憶の回復も充分ではなかった。だから、それは単なる仮説に停まり、そして、目の前の女に対する私自身の気持が仮説に過ぎないというのは、私の気分を甚だ不安定なものとしたのだった。)》

 

《私の濁った頭のなかを、唐沢優里江が今、魚崎に抱かれている情景が一瞬、過ぎた。それが花子に対する欲望を更に刺戟(しげき)した。私は花子の肉に身を沈めることで、優里江に嫉妬するというような、外部の論理に支配されている自我を解消させ、私を悩ませ苦しませている、優里江、聡子、巴、花子という、四つの異った女の映像、また四つの異った愛を、ひとつの陶酔に溶け合せるのだ。純子が先程、電話で私にけしかけたのは、そういうことではなく、私が自我に執しながら、彼女を抱くこと、エロチックで淫猥(いんわい)な行為だったから、私は気持が醒めてしまったのだが、私が今、花子に求めているものは、そうした純子が理解しているような、二つの意識が孤立したままで抱擁するというような、二人で見つめ合いながら、快楽を鑑賞するというような行為ではない。一気に氷室花子という存在の内部と、私の内部とを融合させるための手術のごときものなのだ。》

 

<官能(性愛)>

 プルーストの官能は、アルベルチーヌへの口づけの場面においてさえ、プラトニックな精神が優位であり、憧憬、想像力を越えない。官能の陶酔を描く、というよりも、口づけの視覚性、触覚性をベルクソン的に分析、考察しつづける。それは感官の形而上学ではあっても、肉の官能のそれではないが、中村は肉欲の充足と官能の歓びという性愛の形而上学まで、快楽のエクリチュールを展開した。

 ラプソディ風な、欲望と誘惑、甘美な錯乱、エロティシズムの官能描写には、愛の反復、嫉妬の心理学の暗部に潜りこむ、宗教的体験と近親性を持ったエロスの形而上学がある。

 

《彼女は腕を差し延ばしたままで立ち上った。それから私の横へ身体を滑りこませた。彼女は今度は両腕を脇腹につけて延ばし、そして、両脚を揃(そろ)えたまま、天井に向けてゆっくりと上げて行った。両脚が垂直に立つと、一瞬、股が開かれ、それから音を立てて打ち合わされた。両脚がゆっくり降りてくる。それに伴って上半身が起き上る。両脚が床(とこ)のうえに下りきった時、上半身が私の方へねじ向けられた。乳房の間が開いて、二つの乳首が別々の方向に仰向いた。それから上半身が私の胸のうえに倒れかかってきた。

「好きよ。……」

 彼女の声は奇妙にかすれている。私はその声のなかに、昂(たか)まってきた官能への憧れを聞いた。彼女の片方の腕は私の頸(くび)のまわりに絡まりつき、もう片方の手は私の髪のなかに入れられた。私の顔の真上に、長くてよく反った睫毛がある。そして、その睫毛を透して、真剣な怒りに似た表情をしている-瞳が。私は腕を延ばして、枕許の壁のスイッチを倒した。室内は一瞬、闇に覆われた。しかし一瞬の後に窓の外の仄灯りが、その闇のあいだに忍び込んできた。

「夜が明けてきたね。」

と、私は囁いた。

「いや、私たちの夜は、これからよ。眼を閉じて。……夜を引きとめなくては。」

「夢見てのちも長からじ世を……」

 私の掌は彼女の背に沿って、臀の方へ下って行った。それは何かの花弁のように、柔らかくて、手触りのいい感触だった。彼女の彫りの深い顔の、額と鼻と口と顎とが、私の胸に食いこむように押しつけられてきた。私の腿は、彼女の腿を燃えるように熱く感じはじめていた。私の背中は彼女の長い爪に痛かった。私は我を忘れていった。》

 

《私は気紛れな男なのか。それとも愛というものは、全てそうしたものなのだろうか。私が或る瞬間に、ある女への愛に捉えられる、――「雷の一撃」という形容に適わしいような心の状態となるのは、その原因をもし分析しようとすれば、極めて復雑なものとなることは事実だ。そうして結局、その真因というものは突きとめられないからこそ、突然に、天から降って来た雷に譬(たと)えられるわけなのだろう。ぞれは、フロイト流に、リビドーの所産とも云えようし、又、孤独から遁れたいという衝動からとも考えられるし、私の心の極く奥深くに眠っている、女性に対する幼時体験が干渉したとも云えるだろうし、或いは犬儒的に云えば、その日の胃の加減かも知れない。とにかく、そうした、私たちの理智と想像との能力を超越した無数の原因の複合によって、私がある特定の女性を愛しはじめたとして、さて、その瞬間から、その原因は変化しはじめる。胃の加減は半日もすれば変ってくるし、孤独から脱出したいという欲望は、ひと度、満足させられれば、今度は再び、孤独への憧れに変貌するかも知れない。又、私の幼時体験も、現実の女性に対して、いや、この女は違うという反抗の声を上げるだろう。そうして、最も総括的で説得力のあるリビドー説といえども、性慾は極めて容易に満足させられて鎮静させられるものだ、という事実を、裏側に持っている真理なのだ。

 ところで、私は聡子とは寝たわけではない(・・・・・・・・)。その意味では、私のリビドーは満たされたとは云えない。もっと端的に云えば、男は女の肉を識った瞬間から、その女への愛が薄れるものだという、根強い俗説がある。(この俗説は、凡(あら)ゆる俗説同様、かなり普遍的に経験と合致するものなのだろうが、しかし、人は屡々(しばしば)、そのようにして女の肉を識った後でも、暫くその女から遠ざかっていれば、再びその女の肉が一新鮮に感じられるようになるという逆の事実もあるのである。)とにかく、その俗説を真理として承認するとすれば、私は聡子と最後まで行かなかったために、彼女に対する感情が解決しないままで、私の中に眠っていたのだ、という風に考えられるのだろうか。》

 

《私は今、姦淫を犯しているのだろうか。私は聡子を想いながら、優里江を抱いていることで、聡子を汚し、また優里江の肉から快楽をひき出しながら、その感覚から聡子を恢らせていることで、優里江を裏切っているのだろうか。が、私の感覚的陶酔は純一で、分裂はなかった。私には何らの罪の意識はなかった。いや、そのようにして、私の抱いている肉が、同時に優里江であり、聡子であることに、いつにない豊かな喜びを味わっていたのだ。それは背徳的行為というようなものではなく、又、恐らく私が道徳的感覚を喪失しているというようなことでもなく、肉の行為そのものが、たしかに、超個人的な要素を持っているのだ。私の自我は、その陶酔感によって、意識の中心であることをやめる。私の意識は相手の意識と融合する。今、私が味わっているこの快感は、来して私の(・・)快感なのか。彼女の(・・・)快感なのか。また、解き難く絡まり合っている四本の腕のどれが私のものであり、彼女のものなのか。今、私の背中に食いこんでいる爪は、相手のものか私のものか。またそのために感じる痛みそのものも、果して私の(・・)痛みなのか、彼女の(・・・)痛みなのか。私たちの接合した肉は、身動きするたびに、快楽を与えてくれるのだが、その身動きが、ひとつのものであると同様に、そこから生れる快楽もひとつのものだった。私たちは本当に、一匹の「四本足の獣」と化していたのだ。

 だから、そこに確かにあるのは、ひとつの快楽による陶酔状態であり、その中では、私とか優里江とか云う個々の人格は極く小さなものになり終えている。そして、それが陶酔であるのは、そのようにして、私たちの魂が自我の牢獄から遁れでるためなのではないか。としたなら、その快楽の最中に、聡子の面影を垣間(かいま)見るとしても、それが何だろう。既に、私も優里江も、ほんの僅かの瞬間にだけ、己れに返るとしても、直ぐまた次の身動きのために、意識を失わせられる。だから、そういう陶酔状態のなかで、喚起される相手の面影が聡子に入れ代ったとしても、それは聡子でさえないのだ。私たちはある特別の名前のある存在ではなく、男と女とでさえなく、ひとつの感覚と化しているのだから。》

 

<女性同性愛(ゴモラ)>

 同性愛の形而上的考察を嘲笑うかのように、同性愛をタブー視しない男の妄想は、愛する男さえ排除するゴモラの女たちによって見事に裏切られる。嘘をつく女が隠しているものは何か、というスリリングな展開。無数のイメージによる多重映像が結晶化した最後の場面では、プルーストがアルベルチーヌやヴァントゥイユ嬢の女性同性愛で書きえなかった肉欲と性愛の、幻覚と幻滅の官能的陶酔が、衰弱のイメージに犯されることなく描かれている。

 真実を探求しようと、解釈し、説明し、展望するロマネスクな視る男は、恋をしているのか、妄想しているのか、嫉妬しているのか、欲望しているだけなのか……

 

《だから、その考えからすれば、こうしたひとつの感覚を作りだすべき素材となる、二つの肉は、実は異性同士である必要さえないのかも知れない。人は同性愛という観念に嫌悪の念を覚える。しかし、それは側人の存在を目の前に想い浮べるからこそ、あの男とあの男とが裸になって抱き合うと想像するからこそ醜悪なのだ。が、もし、個人と個人との肉の交わりだという見地からすれば、男と女との肉の交わりも、同様に醜悪ではないのか。が、それをふたつの肉の存在は消滅し、ひとつの陶酔が代って生れると云う夙に考えるなら、その素材としての肉は男と女との組み合せの他に、男と男、女と女との組み合せも可能なわけだろう。私たちは快楽のなかに身を沈めている瞬間には、現に男でも女でもなくなっている。私たちは自由に感覚を相手と入れ換えているのだ。私自身、男になったり、女になったりして、自分の感覚を味わい、また相手の感覚も味わっている。だからこそ、非難され指弾されて来たにもかかわらず、人類の一部分は常に同性同士の快楽を求めてきたのだろう。そうして、もし宗教的法律的な禁圧がなかったなら、同性愛も変態的行為ではなくなるわけだ。肉の交わりにおいて、もし変態的行為があるとすれば、それは二つの肉が抱き合いながら、ひとつの陶酔を生みだすことを拒否する場合、つまり一方か両方かが、頑として個人の意識であることをやめない場合だろう。》

 

《「でも、本当に、聡子って可愛かったわ。二十五にもなって、未だ乳首が薔薇色なのよ。そうして、抱かれていて汗ばむと、押花みたいな微かな匂いが立ち昇ってくるの。寝床に入ると、いつも愛撫をせがむんだけれど、それが淋しくって死にそうだから可愛がって、って云う風に云うのね。その云い方が本当に子供っぽくて、その眼付が、いかにも頼りない淋しい迷子のようなの。抱きしめないではいられなかったわ。そのうちにあの人、貧血症になって寝たままになったの。私、あの人の分と二人分働いたわ。必死になって働いたわ。あの人は一日中、寝床のなかで待っているのね。私が帰るのは、いつも朝、明るくなってからなのよ。あの人は、身体に悪いのに、ひとりでは眠れないからと云って、眼を聞いていたわ。一生懸命、明るい表情を作ろうとして、私のためにお化粧をして待っているの。可哀そうだったし、可愛くもあった。でも、その生活は長く続けるのは無理だと思ったわ。このままでは、二人とも抱き合ったままで溺れてしまう。私はそう思った。誰か適当なパトロンを見付けて、私は別の部屋へ移り、聡子はこの部屋に置いて養ってやろう。そう思ったわ。でも、今になって、私にたかってくる男たちは、その頃の私には眼もくれなかったわ。(後略)」》

 

《やがて私は目指す部屋の前に来た。ためしに扉を押してみた。意外なことには、それは軽やかに開いた。そして、入口の垂幕が無造作に開けたままになっている部屋の奥の寝床のうえに、私はふたつの絡まり合った裸の肉を発見した。それは、またもや、双頭の蛇だった。片方の頭が急に持ちあげられると、それは髪を振り乱した、メドゥーサのような純子の顔だった。彼女はしかめ面をしながら、うわごとのように呟いた。

「どうして、今頃、来たの。いつまでたっても来ないので……」

 下の方のもう片方の頭は敷布に頬をつけたままで、謎のような微笑を浮べて、私を見つめていた。それは花子の微笑であると同時に、聡子の微笑でもあった。持ちあげられていた方の頭が、また急に床のうえに落された。その頭はまた呟いた。

「なほ古郷(ふるさと)を……なほ古郷をかへりみるかな……」

 それから、私の眼のまえで、四本の腕が、それぞれ別々の生物であるかのように、身をもたげ、お互いを求め合いはじめた。私は自分が王朝末期の悲劇的な性愛の逆転の世界、官能的陶酔の彼方(かなた)で性別も人格も生の論理もひとつの混沌(こんとん)とした甘美な無時間の恐怖に融合してしまった世界、あの『とりかへばや物語』の世界のなかへ、今、不意に入りこんでしまったような幻想に捉えられて行くのを感じながら、余りに明るい電燈の光の下で、現実とは思えぬほど、ゆるやかにうねりはじめた、白い肉塊を、眺めつづけていた。》

                              (了)

          *****参考または引用文献*****

中村真一郎『新潮日本文学48 中村真一郎集 恋の泉』(「解説」丸谷才一)(新潮社)

中村真一郎『新潮現代文学30 中村真一郎 恋の泉・四季』(「解説」篠田一士)(新潮社)

*『中村真一郎 評論全集 全一巻』(『現代文学の特質』、『文学の擁護』所収)(河出書房新社

*『中村真一郎手帳1』(清水徹『《四季》のほうへ 形而上的感覚と性愛と人文主義と』所収)(水声社

中村真一郎『重層的存在としての「私」』(「週刊読書人」一九七八年五月八日号)(読書人)

マルセル・プルースト失われた時を求めて8 ソドムとゴモラII』鈴木道彦訳(菅野昭正『ヴィスコンティを通ってプルーストへ』所収)(集英社

*『現代詩手帳 ロラン・バルト』(ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』吉川一義訳所収)(思潮社

文学批評 「谷崎『鍵』の「欲望の欲望」」

   「谷崎『鍵』の「欲望の欲望」」

 

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 谷崎潤一郎の、いわゆる「晩年三部作」は『鍵』、『瘋癲老人日記』、『夢の浮橋』を指す。第一作『鍵』は、数え年七十一歳になる谷崎が、昭和三十一年(1956年)の『中央公論』一月号および、五月号から十二月号に発表した作品で、連載時から、当時における「良俗紊乱」なスキャンダラス性と、おりからの「売春禁止法」国会審議にまで波及して「毀誉褒貶」まみれとなる始末だった。今となっては、賛否どちらにしろ、狭量な道徳感想批評をとりあげる必要はあるまい。

 しかし、その余波がいまだに残っているのか、現代にいたっても、『鍵』に関する批評は、「変態小説」という紋切型(ドクサ)から抜け出せないでいる。そのうえ、よくいわれる「谷崎の無思想性」という誤解もあいまって、谷崎がどれほどに現代思想の最先端を、(たとえ無意識であったにしても)谷崎得意の「預覚」によって、小説『鍵』に結実させたかが指摘されることはありえなかった。

 幸い、谷崎文学の優れた批評家である渡部直己河野多惠子が、批評のぶどうの苗木を植えてくれた。『春琴抄』『細雪』などについては、たわわな果実によって複雑な味わいをもったワインをもたらしてくれたのだが、こと『鍵』批評については十分とは言いがたい。そこで、二人の批評に、とりわけ渡部の批評の言葉にインスパイアされることで、何がまだ不足しているのか、その先には何があるのかを考察し、谷崎文学というテロワールから、さらに豊潤なワインを深く味わう悦びに酔いしれたい。

 考察する際、谷崎が『鍵』を書いたのとほぼ同時代の1950~60年代にクロソウスキージャック・ラカンが発表した諸作品との並行性がつねに頭をよぎった。だが、クロソウスキーにしろ、ラカンにしろ、解説の言葉をつくせばつくすほどするりと逃げてゆく。とりわけラカンは、『エクリ』や、セミネール録の『対象関係』『精神分析の倫理』などから部分を引用しても、用語解説しているうちに泥沼化し、そのうえ意味が腑に落ちない。あまたの解説書から孫引きしても、あえて難解さを目論み、難解さにこそ意味があるといったラカンの術中から逃れることができない。ラカン派の精神医でもある斎藤環が『関係の化学としての文学』のなかで、谷崎『鍵』をラカン用語(「シニフィアン」「鏡像段階」「象徴界想像界現実界」「対象a」「大文字の他者」など)を用いることなしに、しかし概念だけはうまく俎板にあげて考察しているので、この書を読解の導き手として、エキスを抽出、濾過した。

 この批評文が、あたかも「欲望の欲望」のような「読解の読解」であることを最初に宣言しておく。

 

<「マゾヒズムを書くには不向きな二元描写」>

 河野多惠子は、谷崎文学好きを公言しつづけた小説家で、『谷崎文学と肯定の欲望』(昭和五十一年、文藝春秋刊)と『谷崎文学の愉しみ』(平成五年、中央公論社刊)を刊行している。けれども、『春琴抄』を谷崎文学の最高傑作として称揚する河野の『鍵』に対する評価は決して高くない。『谷崎文学の愉しみ』から、その理由を紹介する。

 谷崎といえばマゾヒズム、と解説することが多いなかで、マゾヒズムを生涯のテーマとしてきた河野の谷崎批評は別格の高みであるものの、残念ながら『鍵』においてはズレが生じていると言わざるをえない。

《『春琴抄』を書き終えた後の時期こそ、谷崎にとって最大の危機であったと考える私には、その後の谷崎はその危機から根本的な脱出はなし得ていなかったと思われる。その間、恐らく谷崎自身の心底でも、行き詰まりの不安と焦りが点滅し続けていたことであろう。二十余年間そのような状態にあった自分の文学を積極的に前進させる野心と期待をもって試みられたのが『鍵』なのである。(中略)彼は純粋に心理的マゾヒズム文学である『盲目物語』『蘆刈』『春琴抄』において、マゾヒズムの基本心理そのものの象徴といえるほどの創造、殊に『春琴抄』に至っては、マゾヒズムの機能の生体解剖を想わせるほどの創造をなし遂げたものの、(中略)少なくともサディズム不在であっては、その可能性に限度があることになる。(中略)谷崎はサディズムを介在させることによって『卍』で果せなかった期待を実現し、サディズム不在であり、過去の最高峰である『春琴抄』を超える傑作を得て、自分の文学をはっきり拓こうと、『鍵』を構想したものと思われる。》

 しかし、その思惑はうまくいかなかった、と河野は断定する。

《この作品のモチーフが、性愛の対象者に殺されたいマゾヒズムの願望であることは明らかである。そして、谷崎はこの作品では、純粋に心理的マゾヒズムのバリエーションから脱出して、夫のマゾヒズムに実際に関わる妻のサディズムを設定している。ところが、この作品では、サディズムを設定した収穫は得られていない。サディズムは機能していないのである、作者は、妻と木村との不倫によって、嫉妬という被虐にマゾヒズムの夫を与らせ、且つその刺激のもたらす性的無謀で、彼をサディストの妻に殺してもらったも同様の死に与らせるのである。作者はそのすべてをマゾヒストの夫に主宰させるのである。しかも、普通の意味での観念上、夫が主宰できたことにしてしまっているにすぎないのである。》

『鍵』の読者は、河野が申し立てるほどには、夫のマゾヒズムと妻のサディズムを感じないというのが本音だろう。たとえ夫にマゾヒズムの特徴であるフェティシズムや反復性や死(タナトス)への希求を認め、妻には夫を死に至らしめるサディズム的嗜虐性を認めたにしても、谷崎が書こうとしたことは、もう少し違ったことだったのではなかろうか、と感じるのが素直なところではないのか。

 いかにも河野は、自分の領域である心理的マゾヒズムに引き付け、拘泥しすぎているがゆえに、妻に共犯性、相互補足性としてのサディストの設定を見たててしまい、収穫がなかった、と断罪した。マゾヒズムサディズムを、「サド=マゾ」なる相互補足的な単位として信じることには曖昧さと安易さがあって、ドゥルーズは『マゾッホとサド』のなかで、《真のサディストは、マゾヒストの犠牲者を断じてうけつけないであろう(僧侶たちの犠牲に供された一人が『美徳の不幸』の中でいっている。「あの人たちは、自分が罪を犯せば必ず涙が流されねばならないと確信したがっています。自分から進んであの人たちの犠牲のなろうとするような女は、はねつけてしまうに違いありません」)。だが、マゾヒストとて真のサディストの拷問者をうけつけたりはしまい。たしかに、マゾヒストは女の拷問者に一定の性質がそなわっていなければならぬという。だがその「性質」をマゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれの企てに従って説得しなければならず、またその企ては、サディストの女性との遭遇によって、ことごとく失敗に帰してしまうにちがいないものなのだ》と、対立概念の思い込みを難じているではないか。

 むしろ、夫のマゾヒズムにみえるものは、アレクサンドル・コジェーヴによるヘーゲル精神現象学』講義(1930年代後半のこの講義はのちに『へーゲル読解入門』として出版されたが、聴講者には、ジャック・ラカンジョルジュ・バタイユロジェ・カイヨワメルロ=ポンティアンドレ・ブルトンジャン・ポール・サルトルなどがいた)ののそれと、影響を受けたフランスの思想家たちがテーマとした「欲望」のあらわれではないのか。

 コジェーヴ『へーゲル読解入門』の「第一章 序に代えて」から抜粋すれば、遠まわしでわかりにくい表現ではあるが、《例えば、男女間の関係においても、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないならば、また相手の欲望欲望としてとらえ、この欲望を「占有」し、「同化」したいと望むのでないならば、すなわち、相互に「欲せられ」、「愛され」ること、あるいはまた自己の人間的な価値、個人としての実在性において、「承認され」ることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない》とか、《同様に、自然的対象に向かう欲望も、同一の対象に向かう他者の欲望によって「媒介され」ていなければ人間的ではない。すなわち、他者が欲するものを他者がそれを欲するが故に欲することが、人間的なのである。このようなわけで、(勲章とか敵の旗など)生物的な観点からはまったく無用の対象も、他者の欲望の対象となるから欲せられうる》などである。

 つまりは、男女間の欲望は、相手の肉体を手にいれても終わることがなく、むしろますます増進してしまう。なぜなら、欲望は、生理的、動物的に満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望する(・・・・・・・・・・)という構造を内に抱えているからである。相手を手に入れたあとも、その事実を他者に教えたい、欲望されたい(嫉妬されたい)と思う。また同時に、他者が欲望するものを知り、他者がそれを欲するがゆえに手に入れたいと思う(嫉妬する)。ゆえに、欲望はつきることがない。人間の欲望は本質的に他者を必要とし、媒介による欲望によってこそ、人間は動物と異なる。

 さらにコジェーヴの、《ところで、いかなる欲望も或る価値を目指した欲望である。動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、動物のすべての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという動物の欲望に依存している。したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち克つ必要があるわけである。換言すれば、人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない》とは、コジェーヴの講義に出席していたバタイユがのちに主張したような、恍惚のうちに死に至る人間的な行為だったのではないのか。それをしも、夫のマゾヒズム、妻のサディズムが基底にあったと括ることは可能ではあろうが、それではすべてがその色に染まってしまうだろう。

 また、じしん優れた心理的マゾヒズム小説家でもあった河野は、創作の秘儀をつかんでいるかのように、様式も問題であったとする。

《谷崎が『鍵』で用いた、夫と妻の相互の日記体は、サディズム、ことにマゾヒズムを書くには不向きな二元描写でもあるために、作品の弱点はその様式に復讐され、拡大されねばならなかった。》

マゾヒズムを書くには不向きな二元描写」という指摘は、技法的な観点のつもりなのかもしれないが、夫と妻以外の他者を、第三者として浮き彫りにして示唆的である。これについては、のちほど取りあげる。

 

<「執拗に間接的たらざるをえぬ」>

 渡部直己の『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』は、谷崎論を先に進めるための必読書といって間違いない。『鍵』に言及している箇所を検討してゆく。

《なるほど、たとえば『鍵』(昭31年)の夫は、『陰翳礼讃』の素朴な読者には即座に信じがたいほど直截な欲望に貫かれながら、「蛍光灯トフロアスタンドノ白日ノ下デ」、平素より日本的(・・・)な「女ラシサ」を身上とするその古風な妻を全裸にして横たえ、「臀ノ孔マデ覗イテ見」るだろう。同様に、『瘋癲老人日記』(昭37年)の主も、木製(・・)ならぬ「タイル張リノ」西洋風呂(・・・・)のなかで、息子の嫁と嬉々として戯れる。(中略)すなわち、かつての「光」と「闇」のあや(・・)は、いま、狂おしい「欲望」と、それをみたすには執拗に間接的たらざるをえぬ「老い」との関係に、そのまま転位され反復されている。》

 ここで重要なのは、人口に膾炙し、手垢のついた「陰翳」「闇」への反語ではない。「欲望」「執拗」「間接的」「転位」「反復」といった、単純とは言いがたい概念である。小説にあらわれる人物たちの欲望の関係性は、平面的なイメージで解釈できるものではなく、トポロジーにおける「クラインの壺」(参考図1)や「メビウスの輪」(参考図2)のような、内・外、表・裏が反転して自己に帰ってきてしまう柔らかな現代数学空間(それは現代思想空間でもある)をイメージするよう、谷崎『鍵』は要求している。

 

<「出来るだけ廻りくどく」>

 渡部は、<引用>の技法が、叙述の直線性を朧化し、屈折させ、「古典」への迂回(・・)を介して、語られるべき中心の登場を繰りかえし遅延(・・)させる方途であることは論をまたぬはずで、<引用>の頻繁な『吉野葛』と『蘆刈』とが、ともに「紀行」随筆風の体裁をもつことは偶然ではないのだ、といった論旨に続いて、

《この屈折にみちた緩慢さこそが、旅にあっても作品にあっても等しく(ちょうど、『鍵』の夫婦が「途中にいくつもの堰を設け、障害を作って、出来るだけ廻りくどく」したがるように、また、『瘋癲老人日記』の主が、「イロ/\ノ変形的間接的ナ方法デ性ノ魅力ヲ感ジ」たがるように)、その目的=中心への期待(・・)をいっそうつのらせる事実を銘記しておけばよい。》

 重要なのは、「迂回」「遅延」「緩慢」という概念で、これらこそが谷崎というと口の端にあがる「マゾヒズム」の本質には違いなく、とりわけ「母恋し」の谷崎ではあるが、フロイト的な「父・母・子」の原因探究に滞留することはせず、ここでも「迂回」「遅延」「緩慢」とは、「時間」を媒介とする人間的な欲望であることを気にとめて先に進む。

 

<「夫が妻を、娘が母をともに木村に譲渡し」>

《かかる譲渡の主題が、この昭和初年から「晩年三部作」にまでさらに濃密に引き継がれ、それが谷崎的マゾヒズムの一斑を豊かに鼓吹する点も容易に確認しうる事実である(『鍵』では、夫が妻を、娘が母をともに木村に譲渡し、『夢の浮橋』では、父が妻を子に譲り、『瘋癲老人日記』では逆に、子が妻を、老いた父の「間接的ナ楽シミ」のなかへ差し出

「譲渡」は重要な概念である。その理由はなにも、谷崎が佐藤春夫とのあいだで妻千代子の「妻譲渡事件」を起こしたからでも、小説『蓼喰う蟲』のなかに妻譲渡事件がでてくるからでもない。「譲渡」とはつまり、「交換」「贈与」のように、社会関係を作る人間の欲望のありようだからだ。

 ここから、ラカニアン斉藤環の『関係の化学としての文学』を援用することとする。

 

<「欲望の媒介項=メディア」>

 斎藤環『関係の化学としての文学』で、桐野夏生が『鍵』について語った部分と斎藤の分析を、とっかかりとして引用する。

《本書の端緒をもたらし通奏低音のひとつを奏でる桐野夏生もまた、「最も好きな小説」として『鍵』を挙げている(「婚姻を描く谷崎」『文豪ナビ 谷崎潤一郎新潮文庫)。桐野はその魅力について、次のように述べる。

「婚姻制度の中の男と女の捻れが一層際だっている。性の享楽を得るために、互いの日記を盗み読む夫婦。妻の郁子は、『夫のために「心ならず」もそのように「努めて」いるのであると、自らを欺いていた』。郁子は、あたかも夫の言いなりになることが「貞女の亀鑑」であるかのように装っているが、実際は、夫の欲望からとっくにはみ出すほどの、大きな欲望を密かに育てている。夫の仕掛けた遊びに渋々入ったかに見えて、本当はその遊びを楽しんでいるのだ。(中略)谷崎は一貫して貞女を書かなかった。むしろ、女の欲望を肯定し、女の欲望によって男が変貌する様を書いた。そのことによって、男としての谷崎は、より大きく深い存在となっていくのである。しかし、谷崎の書く物語の外枠は意外に健全だった」(前掲書)。

 ここで重要なのは、桐野が、キャラクターの欲望が関係性を通じてキャラクターそのものを変化させ、その変化がさらには作家自身にまで及ぶという再帰的過程を無造作に指摘している点である。》

 ここまでは、まずは穏当な解釈である。夫と妻という二元関係における、互いの欲望の反映であって、他者は夫にとっての妻、妻にとっての夫、という二次元平面にすぎないからだ。

 

<「酔ったふり(・・)、卒倒するふり(・・)、夢うつつの境で」>

 渡部に戻る。《妻の「脳貧血」から一事が本格化し、夫の「脳溢血」で終熄にむかうといった首尾の綾を印象づけながら、『鍵』はまず、『蓼喰ふ蟲』のいわば反転された異文(・・・・・・・)として展開する。共通の人物設定(肌合いの悪い夫婦と妻の恋人)より発しつつ、要と美佐子が互いにいたわり信じあうそのあかしとして肌を離しつづけるのとは逆に、『鍵』の夫婦は、欺しあい疑いあうことではじめて、深ぶかと互いの肌に溺れてゆくことになる。(中略)谷崎的な愛欲風土の住人として、夫はここで、妻が装う(・・)「女ラシサ」と旧套すぎる実直さ(・・・)(「義」)との紐帯を真先に咎めているのだ。要と美佐子の不仲が如実に逆照していたように、この風土では、擬態はすべからく「不義」と結び、そこに深ぶかとした愛欲を誘致せねばならない。》

 夫が従来の禁を破り、「夫婦生活ニ関スル記載」を小説冒頭の「一月一日」の日記から書き留めはじめたことに、《妻は即座に反応する。酒に酔って風呂場に倒れ、居合わせた木村という夫の後輩の目に全裸をさらし、人事不省のまま運ばれた寝室で、結婚以来はじめて煌々とした光のもと、「執拗イ、恥カシイ、イヤラシイ、オーソドツクスデハナイトコロノ痴戯の数々」を夫に許すという、それじたいがすでになかば装われた偶然(・・・・・・)の一夜を奇貨に、彼女は一変する。以後、木村が遊びにくるたびに、彼女は最初の晩と同じ仕草を(今度は明らかに意図的に)なぞりながら、酔ったふり(・・)、卒倒するふり(・・)、夢うつつの境で夫と木村を混同するふり(・・)、意図的な「譫言(うはごと)」などを繰りかえしては夫を狂喜させると同時に、一連のその淫らな擬態を通してはじめて、じしんの貪婪さを満たすことになる。彼女はさらに、出来事を記す夫の日記を見て見ぬふり(・・)をし、また、読まれていることを承知のうえで、じぶんの日記のはしばしに「虚言」を紛れこませながら、より効果的に「木村ト云フ刺激剤」を夫と共有する。同様にしてむろん、夫の日記にも、妻とのこの新たな「情熱」を維持するためのさまざまな「虚言」が仕掛けられるだろう。》

 ここでは、「反応」「ふり(・・)」「夢うつつの境」「混同」「共有」が重要だ。夫と妻という二元描写が「反応」と「ふり(・・)」によって溢れだし、木村という他者が媒介として登場し、「夢うつつの境」という幻想と現実との境界が「共有」出現する。

 

<「疑いが刺激する想像的なもの(・・・・・・)」>

 ふたりが日記によって、《欺くこと(・・・・)それじたいはしかし、この場でさほど大きな意義を与えられていない。(中略)万事はいちはやく深い黙契(・・)にささえられてあるかにみえる。一篇の新面目はそこにあるはずで、実際、互いに互いの日記を読まぬふり(・・)にせよ、卒倒にはじまる一連の「半睡半醒」の仕草にせよ、擬態はここで、欺くためではなく、主として疑い(・・)を育てるために反復されようとするのだ。疑いこそ嫉妬(・・)の最大の糧であるからだ。》

 ここで重要なのは、「黙契(・・)」「反復」「疑い」「嫉妬(・・)」であるが、「疑いこそ嫉妬(・・)の最大の糧である」について、渡部は次のように論考を発展させる。

《大切なのは、それを露骨に隠すことでも、あらわに告白することでもなく、なかば隠しなかば示すことである。》

《虚言と使嗾にみちた夫の日記にたいするいわば最良の読解者(・・・)でもある妻は、擬態をめぐるこの第二の要求の真意をも誤たず読みとる。》

《ここでもっとも切実なのは、「本当のヿ」が掻きたてる嫉妬ではなく、それへの疑いが刺激する想像的なもの(・・・・・・)であった。夫がかりに別種の(いわばより初歩的(・・・・・)な)マゾヒストであったなら、彼は、妻と木村との「本当ノ」場面をじかに目撃することを望み、その方向にふたりを誘導しえたかもしれない。だが、一篇の主人公として彼が欲するのは刺激の間接性(・・・)にはかならず、このとき、人生の(・・・)ではなくまさに作品の良き伴侶(・・・・・・・)として、彼の妻に課せられた「最後の一線」とはつまり、夫の目前には終始不在のまま横たわる「本当ノ」場面と、彼の腕のなかでみずから演ずる痴態とのあいだに差しわたされているのだ。

  「キハドケレダキハドイ程ヨイ」。》

 これらを読むと、谷崎の『鍵』が、作家/(ニーチェ、サドの)批評家/画家/神学者/翻訳者/である(画家バルチュスの兄)ピエール・クロソウスキーによる『ディアーナの水浴』(1956年)、『歓待の掟(ロベルトは今夜)』(1965年)との共通性に気づかずにはいられない。

ディアーナの水浴』は、狩りの名手アクタイオーンは処女神ディアーナ(アルテミス)がニンフたちと水浴している姿を覗き見るが、怒ったディアーナがアクタイオーンを牡鹿に変身させてしまい、鹿の姿となったアクタイオーンは自分の猟犬たちに噛み殺されてしまう、というギリシャ神話である。それに対して、クロソウスキーは、女神アルテミス(ディアーナ)は人間にすぎないアクタイオーンの欲望をなぞるようにあらわれたのではないか、よってアルテミスはあらかじめすべてを知っていた、アクタイオーンが自分を欲望していることを、その欲望のなかで自分を裸にし、さまざまな姿態をとらせていることも知っていた、それらを知ったうえで、むしろその欲望を鏡とし、その欲望のかたちを自分自身に反映させるようにして、アルテミスは顕現(エピファニー)として、美しい裸身を人間にさらしたのではないか、と解釈した。

『歓待の掟』は、それまでに発表された三つの小説『ナントの勅令破棄』(1959年)(ロベルトとその夫オクターブの交互日記形式という『鍵』によく似た形式)、『ロベルトは今夜』(1953年)、『プロンプター』(1960年)を纏めた作品(日本では、前二作を『ロベルトは今夜』という題で翻訳出版してもいる)である。神学者オクターブは、貞潔の誉れ高い古代ローマの美女ルクレティアがタルクイニウスに襲われる場面は、ルクレティウスが夫に操をたてるために自刃したと伝えられてはいるが、絵の中の彼女の手に、拒みつつ誘う堕落への同意を読みとる。そこで、愛する妻のロベルトにもその役を演じさせようと、家を訪問する男を近づけて不倫の関係を結ばせ、客人のもてなしに供するという「歓待の掟」を実践するのだが、ロベルトは、夫からもまわりを取り巻く男たちからも欲望の視線で見つめられ、しかしその視線に応えて自分を与えてしまう。

 ここにおいて、他に『わが隣人サド』『ニーチェの悪循環』なども発表し、最大限の影響を思想界に与えたクロソウスキーが、『鍵』に近接したテーマを扱っているにも関わらず、ではどうして谷崎文学が、たしかにキリスト教神学問題は欠如しているにしても、あえて「無思想」と標榜、卑下されなくてはならないのか。

(谷崎の足フェティシズムに対して、クロソウスキーは手フェティシズムである。この違いは、福音書の「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)(Noli me Tangere)」というイエス・キリストの手によって「触れる」行為の有り無しが大きいだろう。ユダヤキリスト教世界において、「触れる」こと、「触覚」の重要性は、メルロ=ポンティレヴィナスジャン=リュック・ナンシージャック・デリダといった哲学者たちによって、繰り返し議論されている。)

 

<「模倣しあう」「書き(・・)かつ読む(・・)」>

 渡部は、《『鍵』において、読む(・・)ことが、『瘋癲老人日記』に数倍して強く誰の目にも明らかな特権的主題(註7)をなしていたことは、すでに記すにも及ぶまい。作品のいっさいは、夫婦が互いに互いの「日記」を読みあうというその基本的な仕草に支えられていたのである》と書いたが、ここでは(註7)が重要なので、裏から表に出す。

《(7) 夫の目に物が「二重ニナツテ見エ」るという挿話を機に、『鍵』のなかで執拗に反復される二重性(・・・)の主題に留意しよう。木村と敏子のカップルが、夫婦のかげで(・・・)彼らとよく似た(・・・・)腹の探りあいに嗾けあいを演ずること、娘の下宿でも再演される「卒倒」の真似。夫婦が互いに互いの動作をなぞりあい(盗み読みの予防にまつわる同じ仕草、妻の「寝タフリ」と夫の空鼾、ともに装われた「譫言」)、時あって互いの「日記」中にそっくり模倣しあうこと。「日記」帳を二冊(・・)に分ける妻と、二度目(・・・)の発作で(しかも「五月二(・)日の午前二(・)時過ぎ」に)死ぬ夫、等々。――こうした類似=反射的な照応はここで、「日記」をめぐり一篇をつかさどる根本的な二重性(書き(・・)かつ読む(・・))への一連の隠喩と化しながら、『鍵』に色濃くたちこめる既視感をさらに強く助長するだろう。》

 ここでは、「執拗に反復」「二重性(・・・)」「なぞりあい」「模倣しあう」「書き(・・)かつ読む(・・)」「既視感」が重要だ。

斎藤は先の文につづいて解釈を加えているが、下記の「しかしひとたび」からは「反復」が重要な理由の説明にもなっている。

《ストーリーについては、さきほどの桐野夏生によるコメントでさしあたり十分だろう。ただし描かれるのは夫婦だけではなく、彼らの娘・敏子と、郁子の(夫公認の)愛人である木村という四人であることを付記しておく。

 たとえば郁子は、木村が来訪するたびにブランデーを飲んでは風呂場で失神することを繰り返す。常識的に考えるなら、これほど結末があきらかな飲酒行為を、誰一人止めようともしないのは現実的とは言えない。少なくともホームドクターとおぼしい児玉医師が、郁子に禁酒を勧めないのはあきらかに不自然だ。

 しかしひとたび、この物語における主要な動因である「互いの欲望を想像し合う」というダイナミズムに注目するなら、「郁子の失神」は避けようのない必然なのである。裸の郁子を風呂場から寝室に運ぶ時、それを手伝う木村の欲望はどのように喚起されているか。朦朧として「木村さん」と呟く郁子の欲望を、夫はどのように聞いたのか。木村へと向かう郁子の欲望を知ることで、夫の欲望はいかに刺激をうけるのか。

 そう、「郁子の失神」は、自然主義的リアリズムとは乖離しながらも、物語における構造的必然としては強く要請されるアクシデントだ。ここでは「小説というメディア」こそが「郁子の失神」という必然を招き寄せるのだ。》

なまなましく「反復」する動作の繰り返し、あたかもデルフィの神託巫女、シャーマン、恐山イタコのような、そのリズムと既視感による時間の倒錯魔術によって、小説は、どこか遠いところにある「静物」ではなく、谷崎が愛した「生物」、猫のように近くにすり寄って来て、読者を舐めまわし、いつしか他者と自己は一体化してゆく。

 

<「あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまう」>

 ふたたび渡部だが、《木村はなぜ、夫婦の秘密をすべて知悉しているかのように彼らに近づいては、妻に「ブランデー」を勧め、夫に「ポーラロイド」を貸すことになるのか。(中略)両親の「秘戯」が序盤の活況を呈しかけたころ下宿に移った娘の敏子も、なぜ、それが父親の切実な願いであることを見透したように、自分の交際相手であるはずの木村と母の接近をみずから取り持つことになるのか。(中略)発作に倒れた父に代わって母親の「日記」を探し出し、これを彼に取りついでいたようだが》、などについて、《妻による結末部の謎解き(・・・)めいた記述には、これらについて、敏子が両親の寝室を「夜な/\隙見して」、その光景を木村に「報告」していたらしいこと、木村をひそかに愛している彼女は「先ず母を取り持つておいて徐ろに策を廻らすつもりでゐた」らしいことなどが、なお訝しさの残る原因として推測され、「日記」の一件にかんしては、夫の指示によるものかと記されてはいる。が、原因(・・)はここでも当然、もっと近くに(・・・・・・)探りあてられねばなるまい。木村と敏子がすべてを知悉しているかのようにふるまうのは、われわれとともに彼らもまた、ふたりの「日記」を読んで(・・・)いるからではないのか。むろん、論述の穏当さを尊ぶなら、主客を転じて、あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまうとでも記すほうが賢明だろう。が、結局は同じことだ。》

「が、結局は同じことだ」ではないはずだ。重要なのは、読んでいるか読んでいないかといった、探偵めいた謎解きではなく、《木村も、敏子も作中さかんに「図星を指し」ながら、別にいえば、読みつつあるわれわれの裡に育まれる予期や願望を物語の推移に滑らかに導入する媒介として、彼らはここに身を処すのだ。われわれのいわば露骨な分身として互いの「日記」を読みあう夫婦と、彼らにくらべればいくらか秘められた読者として存在する木村と敏子》、と自分でも書いているように、ここで重要なのは、「主客を転じて」、「あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまう」作者と読者と登場人物の世界であって、「読みつつあるわれわれの裡に育まれる予期や願望を物語の推移に滑らかに導入する媒介として」「秘められた読者として存在する木村と敏子」だ。読者である我々もまた欲望のトポロジー空間に参加しているということに違いない。

 いみじくも斎藤は先の文章に続いて、渡部のこの文章の一部を引用している。

《「木村と敏子がすべてを知悉しているかのようにふるまうのは、われわれとともに彼らもまた、ふたりの「日記」を読んで(・・・)いるからではないのか。むろん、論述の穏当さを尊ぶなら、主客を転じて、あらかじめすべてを読み知っているがごとくに(・・・・・・・・・・・・)彼らはふるまうとでも記すほうが賢明だろう」(『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』新潮社)

 この点はまた、次のようにも記される。「物語の全体が《いま・ここ》で書かれ(・・・)(読まれ(・・・))つつあることじたいに由来するようなより貪婪な(・・・・・)関係性」(前掲書)と。ここで「書く」主体としては作家自身と作中人物が、「読む」主体としては読者と作中人物が、それぞれ二重写しになっている。》

 

<「・・・・・・・・・」>

『鍵』のラストの「・・・・・・・・・」ほど怖ろしい終わり方はない。この一節に書かれていることは、いったいどういう意味なのだろうか、このさきどうなるのだろうか、と最後の最後におよんで悪酔いしそうな不安にかられる。あとに残された「郁子―木村―敏子」の「欲望の三角形」に読者を加えて「欲望の四角形」を作りあげるにとどまらず、「クラインの壺」のようなトポロジカルで限りない「他者の欲望」「欲望の欲望」の奈落の深い穴に、読む者を突き落してしまう。

《木村の計画では、今後適当な時期を見て彼が敏子と結婚した形式を取って、私と三人でこの家に住む。敏子は世間体を繕うために、甘んじて母のために犠牲になる、と、云うことになっているのであるが。・・・・・・・・・》

                                     (了)

 

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      「クラインの壺」          「メビウスの輪

 

             ****参考または引用文献****

谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫

河野多惠子『谷崎文学と肯定の欲望』(文藝春秋

河野多惠子『谷崎文学の愉しみ』(中公文庫)

ジル・ドゥルーズマゾッホとサド』蓮實重彦訳(晶文社

*アレクサンドル・コジェーヴ『へーゲル読解入門 『精神現象学』を読む』上妻精ほか訳(国文社)

東浩紀動物化するポストモダン』(講談社現代新書

渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(新潮社)

斎藤環『関係の化学としての文学』(新潮社)

*『文豪ナビ 谷崎潤一郎桐野夏生ほか(新潮社)

ジャック・ラカン『エクリ』佐々木孝次ほか訳(引文堂)

*ジャック=アラン・ミレール編『ジャック・ラカン 対象関係』小出浩之ほか訳(岩波書店

*ジャック=アラン・ミレール編『ジャック・ラカン 精神分析の倫理』小出浩之ほか訳(岩波書店

ピエール・クロソウスキー『ロベルトは今夜』遠藤周作・若林真訳(河出書房新社

*『ユリイカ クロソフスキーの世界(1997年7月号)』兼子正勝ほか(青土社

ジャック・デリダ『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』松葉祥一ほか訳(青土社

文学批評 「谷崎『春琴抄』、官能の官能」

  「谷崎『春琴抄』、官能の官能」

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 谷崎潤一郎春琴抄』では、鶯(うぐいす)、雲雀(ひばり)の啼く春、幻想が欲望を支え、見ることと見られることの愛撫のうちに、官能の官能が語られる。

 

鶯(うぐいす)の凍(こお)れる涙(なみだ)>

 雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ 

 名高い二条后(にじょうのきさき)の和歌である。

春琴抄』の最後の一節、春琴死後の佐助の様子をあらわす流麗な文体に、この歌がそれとなく融けこんでいる。

《雲雀の外に第三世の天鼓(てんこ)を飼(か)っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞く毎(ごと)に泣き暇(ひま)があれば仏前に香(こう)を薫(くん)じて或(あ)る時は琴(こと)を或る時は三絃を取り春鶯囀(しゅんおうてん)を弾(ひ)いた。夫れ緡蛮(めんばん)たる黄鳥は丘隅に止るとと云う文句で始まっている此の曲は蓋(けだ)し春琴の代表作で彼女が心魂(しんこん)を傾(かたむ)け尽(つく)したものであろう詞(ことば)は短いが非常に複雑な手事(てごと)が附(つ)いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながら此の曲の構想を得たのである手事の旋律(せんりつ)は鶯(うぐいす)の凍(こお)れる涙(なみだ)今やとくらんと云う深山の雪のとけそめる春の始めから、水嵩(みずかさ)の増した渓流(けいりゅう)のせせらぎ松籟(しょうらい)の響き東風の訪(おとず)れ野山の霞(かすみ)梅(うめ)の薫(かお)り花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を隠約(いんやく)の裡(うち)に語っている生前彼女が此れを奏(かな)でると天鼓も嬉々(きき)として咽喉(のど)を鳴らし声を絞(しぼ)り絃の音色(ねいろ)と技(わざ)を競(きそ)った。》

 丸谷才一が『新々百人一首』にこの歌を選び解説しているので、読んでゆく。

《             二条后(にじょうのきさき)

雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ

古今和歌集』巻第一春歌上。また、『新撰和歌』巻第一春秋。また、『古今和歌六帖』第六帖。また、『新撰朗詠集』巻上春。また、『和歌体十種』比興体(ひきょうたい)。また、『和歌十体』八比興。また、『和歌一字抄』下證歌。また、『定家八代抄』巻第一春歌上。

古今集』には「二条のきさきの春のはじめの御うた」といふ詞書がある。

「雪」「氷る」「泊」「溶く」と水のイメージを揃へてある。さらには「うぐひす」のなかに「浮く」と「漬(ひ)」(動詞「漬(ひ)づ」の語根)および「氷(ひ)」が隠してあると見てもよからう。かういふ細工は一首の性格にすこぶるふさはしいものであつた。もともと謎々の歌だからである。しかし一首を謎々仕立てとするのはわたしの新説ではなく、窪田敏夫の創見にほかならない。

窪田は、八代集の恋歌には上の句で謎をかけ、下の句でそれを解くものが多い(たとへば『古今集』巻第十二恋歌二、小野美材(よしき)「わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき」)ことを指摘し、その型の四季歌への応用として、

 在原元方

    年のうちに春はきにけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ

 紀貫之

    はる霞たなびきにけり久方の月の桂も花やさくらむ

 藤原菅根(すがね)

    秋風に声をほにあげて来る舟はあまのと渡る雁にぞありける

などと共にこの二条后の詠をあげた。「上の句にどんな付句をするかが興味の中心」であつたと推定するのである。八代集を読み抜いた人にしてはじめて言ひ得る犀利着実な説で、宮廷の詩の遊戯があざやかに取出されてゐる。われわれはここで、謎々も詩もともに言葉の遊びであるといふ事情を改めて思ひ浮べなければならない。そして清和天皇の女御、高子(たかいこ)は、一見さりげない、しかしそのくせなかなか仕掛けのある上の句でまづ謎をかけ、次にその謎をきれいに解いてみせたのである。

 謎のかけ方に仕掛けがあるといふのは、まづ、第一句の「雪」に隠れてゐる「行(ゆ)き」と第二句の「来」とが対応してゐることだが、これについては説明は要らないはずである。(中略)

 謎の解き方のほうの仕掛けとしては、前にも述べた水づくしのほかに、鶯の泪が氷りかつ溶けるといふ詩的虚構がある。この優美な嘘、典雅な法螺話(ほらばなし)こそは一首の眼目であつた。われわれはこの大げさな誇張にほほゑみ、しかも同時に詩情にひたることになる。契沖『古今余材抄』にいはく、

 鶯に涙あるにもあらず、こほるべきにもあらねど、啼く物なれば涙といひ涙あればこほるといふは歌の習也。

 雁・虫・鹿などみな涙をよめり。『菅家万葉』下に、「こぞ鳴きし声にさもはた似たるかないつのまにかは花になれけん」といふ鶯の歌にそへて作らせ給ヘる詩の第三の句に「恒吟鳴眼涙無出」と作らせ給へるによれば、涙あるまじく聞ゆれど、詩歌は心のよりくるままにいかにもいふ事なり。(中略)蟬にも涙をよむ事なり。

 重要なのは「啼く物なれば涙とい」ふの箇所である。すなはち「泣く」と「鳴く」との同音のせいで、人が泣くときに泪を流す以上、鳥が鳴くときもまた涙はつきものだらうと戯れに考へたのだ。かういふ冗談はおそらく鳥に対する古代以来の親近と畏怖とから生れる。もつと正確に言へば、そのやうな心理的要素のうち、畏怖の念のほうがずいぶん薄れたときに生れる。

 一般に古代人は自由に飛翔できる鳥にはなはだ憧れ、しかも同時に鳥を恐れてゐたらしく、たとへばギリシア神話に、友人の死を悲しんでエリダノスの流れとその岸辺とその森に嘆きの声を響かせてゐるうちに白鳥に変身したキュクノスとか、伯父のダイダロスに天分を妬まれ、崖から突き落されたとき、アテネに救はれて鷓鴣(しゃこ)になつたペルディクスとか、ほろほろ鳥になつたメレアグロスの姉妹たちとか、その他おびただしいばかりの変形譚があるのは、かういふ意識のせいだらう。日本の神話におけるこの手の変形譚の代表としては、言ふまでもなく、「八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化(な)りて、天に翔りて浜に向きて飛び行(い)で」、「河内国の志幾に留まり」、「亦其地より更に天に翔りて飛び行で」たヤマトタケルの場合をあげなければならないが、折口信夫はこの「霊魂の姿」を一例に引きながら、「鳥殊に水鳥は、霊魂の具象した姿だと信じた事もある。又、其運搬者だとも考へられた。(中略)鵠(クヾヒ)・鶴・雁・鷺など、古代から近代に亘つて、霊の鳥の種類は多い。殊に鵠と雁とは、寿福の楽土なる常世(トコヨ)国の鳥として著れてゐた」と断定してゐる。ここから、古代人にとつては、水鳥に限らず鳥が一般に霊の姿であり、死者の化身であり、人間の同族であるとされてゐた、といふ方向に考へを進めるのは無理なことではないし、

 崇徳院

   恋死なば鳥ともなりて君が住む宿のこずゑにねぐらさだめん

は、古代信仰の名残りとも言へる。鳥の泪といふ詩的なイメージはさういふ古代信仰を基盤として、しかもその古代信仰がほとんど消え失せたか、あるいは亡びようとしてゐるときに生れたものに相違ない。(中略)

 ふたたび鶯の泪に戻るとしよう。清和天皇の女御、二条后高子は多情をもつて世に知られた。その一は清和天皇の死後、寛平八年、東光寺の僧、善祐と密通して后位を剥奪された事件である。その二は入内(じゅだい)前における、在原業平との艶聞である。前者については、高子五十五歳の年に当るゆゑ老齢に過ぎるのではないかといふ説もあるが、王朝のころ老女の恋愛は珍しくはなかつた。『扶桑略記』や『日本紀略』の記述に従ひ、后位剥奪はもちろん密通のことも信じて差支へないはずである。後者については、『伊勢物語』第三段、第五段、第六段のそれぞれの附記が典拠といふことになるが、いづれも後人の書入れ(注が本文にまじつたもの)と推定される。とすれば、平安時代には業平と二条后についてかういふ噂があつたといふ、ただそれだけのことしか言へないし、第一、『伊勢物語』の本文自体が、それと同じくらゐ無責任な、あるいは虚構性が強くて曖昧な、歌物語にすぎない。実證性を重んじる限り、われわれに言へるのはせいぜい、平安朝の人々が彼女を目して、業平と契りを結ぶにふさはしい高貴で華麗な女と見てゐた、といふところまでであらう。

 だが、かういふロマンチックな生涯は「うぐひすの氷れる泪」の解釈に影響を及ぼす。その最たるものは金子元臣『古今和歌集評釈』の説で、彼は一首を寛平九年正月の詠と断定した。前年九月に后位を停止されて、いつこの処分が解けるかと待ち望んでゐたのに、それも虚しいままもう春になつた。鶯の泪は溶けても、わたしの泪は冬のうちに氷つたままである、といふ悲哀の歌とするのだ。

 伝記との関連づけについては、「抒情詩であるから如何なる連想をする事もできるが、こうした連想をするのが、作意を明らかにする方法だろうかと怪しまれる」といふ窪田空穂の批判がすべてを盡してゐる。》

 長々と引用したのは、谷崎が鶯の凍れる涙の歌を、それとなく、しかし満を持すかのように引用したわけが意識的にせよ無意識にせよ、そっくり当て嵌まるからである。

 第一に、『春琴抄』もまた謎をかけ、それをとく構成、物語となっていること。導入部の、二つの墓の位置、大小、碑文、寺男の話、春琴三十七歳の折の写真、による謎かけ。

 第二に、鶯と雲雀(ひばり)が春琴の化身、霊魂の姿であり、佐助の幻想の欲望であること。

 第三に、啼くものならば涙という連想が、《佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度(たび)にいつも泣いたというそれが是(まこと)に意気地(いくじ)なくひいひいと声を挙げるので「又(また)こいさんの折檻(せっかん)が始まった」と端(はた)の者は眉(まゆ)をひそめた》という主従関係、《佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞く毎(ごと)に泣き》という追憶に結ばれる。さらには《足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い袘綿(ふきわた)の這入(はい)った羽二重(はぶたえ)もしくは縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を寝間着(ねまき)に用い裾(すそ)を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝(い)ね(中略)余り冷えると佐助が両足を懐(ふところ)に抱いて温(ぬく)めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸が却(かえ)って冷え切ってしまうのであった》という氷のような春琴の手事の音色(聴覚)と涙の源である眼(視覚)という感官と交り合う。

 第四に、春琴と佐助のロマンチックな生涯へのうっすらとした思いと同時に、執筆当時の谷崎と松子夫人の関係をこの小説に反映しすぎることの愚かしさ。

 そして大事なのは、これらがいくつかの語りの層(作者谷崎、佐助検校(けんぎょう)が作らせたと思しき『鵙屋春琴(もずやしゅんきん)伝』、大阪朝日新聞日曜ページの記事、鴫沢(しぎさわ)てる女の話、佐助が側近者に語ったいきさつ、天竜寺(てんりゅうじ)の峩山和尚(がさんおしょう)の言葉)によって重層的に響きあい、もっともらしさを醸しだしていることである。

 

<「義経千本桜」と「天鼓」>

 谷崎の「義経千本桜」好きはよく知られるところだ。小説『吉野葛』、『吉野葛』からの文章を紹介しつつ自伝的要素を加えた随筆『幼少時代』の「團十郎、五代目菊五郎、七世團蔵。その他の思い出」、そして晩年の随筆『雪後庵夜話』の「「義経千本桜」の思い出」とある。同工異曲というのではなく、同じ道筋を辿ること自体が悦びであるかのように繰りかえされている。

春琴抄』は中国趣味で(《天鼓の飼桶には支那(しな)から舶載(はくさい)したという逸品(いっぴん)が嵌まっていた骨は紫檀で作られ腰に琅玕(ろうかん)の翡翠(ひすい)の板が入れてありそれへ細々(こまごま)と山翠楼閣(ろうかく)の彫(ほ)りがしてあった誠(まこと)に高雅(こうが)なものであった》)、桜よりは梅だが(《春琴の繊手(せんしゅ)が佶屈(きっくつ)した老梅の幹を頻りに撫で廻(まわ)す》)、それでも「義経千本桜」好みの陰翳がある。

義経千本桜」礼賛にあるのは、きまって言及される「母恋し」であるが、「(恋人同士のような)主従関係」も見逃してはいけない。

代表して『幼少時代』から、贔屓の心象部分を引用する。

《明けて二十九年には正月六日から明治座に五代目菊五郎の一座がかかって、「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」の通しに「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」を演じた。歌舞伎座もその月の下旬から團十郎の「地震加藤(じしんかとう)」や「道成寺(どうじょうじ)」で開けたのに、日頃成田屋(なりたや)崇拝で菊五郎の芝居は嫌いだといっていた叔父が、どうして明治座を見る気になったのか、あるいは二十日(はつか)正月(しょうがつ)の過ぎないうちに母や私を芝居ヘ連れて行ってやろうという好意からであったかも知れない。(中略)

 御殿の場で忠信から狐へ早変りになるところ、狐がたびたび思いも寄らぬ場所から現われたり隠れたりするところ、欄干渡りのところなどは、もともと多分に童話劇的要素があって子供の喜ぶ場面であるから、私も甚しく感歎しながら見た。ここで私はもう一度旧作「古野葛」のことに触れるが、あれは私の六歳の時に「母と共に見た團十郎の葛の葉から糸を引いている」のみではない、その五年後に見た五代日の「千本桜」の芝居から一層強い影響を受けたものに違いなく、もし五代日のあれを見ていなかったら、恐らくああいう幻想は育(はぐく)まれなかったであろう。私はあの旧作の中で、津村という大阪生れの青年の口を借りて、次のようなことをさえ述べているのである。――

自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍(あべ)の童子を羨(うらや)んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行(みちゆき)になると、母――狐――美女――恋人――という連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静(しずか)と忠信狐とは主従の如く書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を忠信狐になぞらえ、親狐の皮で張られた鼓の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会(おんしゅうかい)の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。》

 ここにある、《静(しずか)と忠信狐とは主従の如く書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている》という、母恋しに隠れて見過ごしそうな一文に、忠信狐になぞらえる谷崎の願望が正直に語られ、それこそが『春琴抄』の、絶対的主従でありながら恋人同士の道行とも映ずるように巧みに書かれたライト・モティーフなのは言うまでもない。

 ところで竹田出雲(二代目)・三好松落・並木千柳合作による「義経千本桜」成立の以前から大和の国には、源九郎狐についての伝説があったらしく、近松門左衛門作「天鼓」に登場している。その辺りのことは、渡辺保『千本桜 花のない神話』の「第六章 大和国源九郎狐」で考証されているので、周縁部も含めて紹介しておく。

《狐忠信、キツネタダノブ。

「千本桜」の忠信に化けた狐、その狐の芝居――「狐の段」を歌舞伎では「狐忠信」という。義経から源九郎の名を貰ったこの狐は、本文にも、

 大和国の源九郎狐と、言伝へしも哀なり……(四段目)

とあって、本当ならば「源九郎狐」と呼ぶべきだろう。

 説話には何々狐という狐がある。薦の葉狐、女夫狐、源五郎狐、塚本狐、弥左衛門狐、弥助狐、小女郎狐。

 ところがこの「源九郎狐」だけは「狐忠信」という。これは狐そのものをさしているだけでなく、本物の人間の忠信の役をふくめた芝居の俗称だからであろう。そこに吉野を背景にした狐と人間の世界がひろがっていて、それを「狐忠信」というのである。歌舞伎の人間の感じている世界の輪郭がそこに見える。(中略)

 近松門左衛門の「天鼓」にはちゃんと源九郎狐が登場するからである。すなわち、その五段目の段切れに、全国の狐が集まる場面。

 あつと悦び弥左術門こん/\/\とよひければ、皆人間のかたちとげんじ、はりまの姫路のお次郎狐、中将おもだか召具して庭上に顕れたりとんだ林の与九郎狐みちのく夕ばへいざなひ来る、江州月のわ、小左衛門狐と名乗り小六判官つれ来る。勢州塩合の小坊主狐、巴丸金目丸兄弟をつれ来れば、京都六条左近狐武略之介を同道す、大和狐源九郎智略之介をともなひ来て、せつなが間に一家の人一度にめぐりあひたりし狐の威力ぞ不思議なる。

(中略)

 それはともかくも、この狐たちがドラマの全登場人物をつれてくる場面は、狐の伝説がいかに日本全国に散らばっているかを思わせて壮観である。その一匹に「大和狐源九郎」がいるというのは、すでにこの「天鼓」の書かれた段階で、近松が源九郎狐の伝説を知っていたということである。》

 さらに近松のもとになった能「天鼓」についても記述があるので、関係ない話に思われるかもしれないが紹介しておく。

近松の「天鼓」は、能の「天鼓」と同時に狂言の「釣狐」も使った能狂言の影響のつよい作品であるが、(中略)能の「天鼓」は、母が天からの鼓が胎内に入るのを夢見て身籠ったところから天鼓と名づけられた少年の物語である。

 天鼓が生まれてしばらくして、実際に天から鼓が降って来た。名器である。少年はこの鼓を愛してやまなかった。ところが時の帝がその噂を聞いてその「天鼓」という名器を召し上げようとした。少年は天鼓を手ばなしたくなかったので、故を抱いて山中に隠れた。しかし勅命を帯びた捜査の手がのび、少年は発見されて呂水という川に沈められ、鼓は帝の手に入った。

 宮中に秘成された天鼓はだれが打っても音を出さない。旧主の死を悲しんでのものと思われたので、再び勅使が少年の父のもとへ下って、父に官廷に出仕して鼓を打てという命が報ぜられる。父が打つとはじめて鼓は音を発した。

反省した帝は、父を厚くもてなし、同時に呂水のほとりで少年の供養を行なった。呂水の波の上に少年の亡霊があらわれ、天鼓を打って、その音は遠く水上にひびき渡る。

 この能の原典は中国であろうといわれているが、全くわかっていない。作者も不明である。》

 このあと、渡部保はなぜ他ならぬ狐が化けたのかを論じてゆくのだが、狐の役目の幾分かを『春琴抄』においては、春琴が愛してやまなかった鶯、第三世が春琴の死後も生きていて佐助がその啼く音を聞くごとに泣いた鶯の、その名も「天鼓」が担っているであろう。

《天鼓は此の曲を聞いて生れ故郷(こきょう)の渓谷(けいこく)を想(おも)い広々とした天地の陽光を慕(した)ったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつ何処(どこ)へ魂(たましい)を馳(は)せたであろう触角(しょっかく)の世界を媒介(ばいかい)として観念の春琴を視詰(みつ)めることに慣らされた彼は聴覚(ちょうかく)に依(よ)ってその欠陥(けっかん)を充(み)たしたのであろう乎(か)。人は記憶(きおく)を失わぬ限り故人を夢(ゆめ)に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別れたともはっきりした時は指せないかも知れない。》

 つけ加えるに、『春琴抄』には「母恋し」のテーマは見当たらない。春琴の母はよき人であり、佐助の母は登場せず、佐助の春琴への思いに母性への希求はなく、そして谷崎の美人の母が丹毒を患い醜い顔となって死んだことの反映を春琴に見ることも馬鹿げている。そればかりか非情なまでに春琴と生んだ子との母子関係、追慕を否定している。

《因(ちな)みに云う春琴と佐助との間には前期の外に二男一女があり女児は分娩(ぶんべん)後に死し男児は二人共赤子の時に河内(かわち)の農家へ貰(もら)われたが春琴の死後も遺(わす)れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人(もうじん)の実父の許(もと)へ帰るのを嫌(きら)った。》

 

<官能の官能>

 春琴二十歳の時、春松(しゅんしょう)検校が死去したのを機会に独立して師匠の看板を掲げることになり、親の家を出て淀屋橋筋(よどやばしすじ)に佐助も附いて行って一戸を構えたのだが、《道修町(どしょうまち)の時分にはまだ両親や兄弟達(たち)へ気がねがあったけれども一戸の主となってからは潔癖と我が儘が募(つの)る一方で佐助の用事は益ゝ煩多(ますますしはんた)を加えたのである此れは鴫沢(しぎさわ)てる女の話で流石(さすが)に伝には記してないが、お師匠様(ししょうさま)は厠(かわや)から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのに御自分の手は一遍(いっぺん)もお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴の時もそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて羞恥(しゅうち)ということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に馴(な)れていたので今更何の感情も起らなかったのかも知れない。》

 レヴィナスが『全体性と無限』の「エロスの現象学」で論じた、《官能において恋人たちのあいだで確立される関係は、普遍化に対して根底からあらがうものであり、社会的な関係のまさに対極にあるものである。恋人たちの関係からは第三者が排除される。それは親密さ、ふたりだけの孤独、閉じた社会、際だって非公共的なものでありつづける》の関係である。

 春琴の《手は華車(きゃしゃ)で掌がよく撓(しな)い絃(げん)を扱うせいか指先に力があり平手で頬を撲(う)たれると相当に痛かった。頗(すこぶ)る上気(のぼ)せ性(しょう)の癖(くせ)に又頗る冷え性で盛夏(せいか)と雖(いえど)も嘗(かつ)て肌に汗(あせ)を知らず足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い袘綿(ふきわた)の這入(はい)った羽二重(はぶたえ)もしくは縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を寝間着(ねまき)に用い裾(すそ)を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝(い)ねそれで少しも寝姿が乱れなかつた。上気することを恐(おそ)れるためなるべく炬燵(こたつ)や湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を懐(ふところ)に抱いて温(ぬく)めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸が却(かえ)って冷え切ってしまうのであった》とあるのは、佐助にとって、春琴の官能こそが己の秘めたる官能であったということだろう。

「表層」、「皮膚の深さ」ということでは、盲目三部作の『盲目物語』、『聞書抄』に連なる文体のぼんやりとした切れ目のない、周縁部が浸蝕しあった眼による愛撫がある。

《肉体の関係ということにもいろいろある佐助の如(ごと)きは春琴の肉体の巨細(こさい)を知り悉(つく)して剰(あま)す所なきに至り月並(つきなみ)の夫婦関係や恋愛(れんあい)関係の夢想(むそう)だもしない密接な縁を結んだのである後年彼(かれ)が己(おの)れも亦(また)盲目(もうもく)になりながら尚(なお)よく春琴の身辺に奉仕(ほうし)して大過なきを得たのは偶然(ぐうぜん)でない。佐助は一生妻妾(さいしょう)を娶(めと)らず丁稚(でっち)時代より八十三歳(さい)の老後迄(まで)春琴以外に一人の異性をも知らずに終り他の婦人に比べてどうのこうのと云う資格はないけれども晩年鰥暮(やもめぐ)らしをするようになってから常に春琴の皮膚(ひふ)が世にも滑(なめら)かで四肢(しし)が柔軟(じゅうなん)であったことを左右の人に誇(ほこ)って已(や)まずそればかりが唯一(ゆいいつ)の老いの繰(く)り言(ごと)であったしばしば掌(てのひら)を伸(の)べてお師匠様(ししょうさま)の足はちょうど此の手の上へ載(の)る程(ほど)であったと云い、又(また)我(わ)が頬(ほお)を撫(な)でながら踵(かかと)の肉でさえ己(おのれ)の此処(ここ)よりはすべすべして柔(やわら)かであったと云った。》

 佐助が失明した時のいきさつを側近者に語ったとして、《それにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如(ごと)きことであった乎(か)過日彼女が涙を流して訴(うった)えたのは、私がこんな災難に遭(あ)った以上お前も盲目(もうもく)になって欲(ほ)しいと云う意であった乎そこまでは忖度(そんたく)し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄(ふる)えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生(めば)えて来て唯(ただ)感謝の一念より外(ほか)何物もない春琴の胸の中を自(おの)ずと会得(えとく)することが出来た今迄肉体の交渉(こうしょう)はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めて犇(ひし)と抱(だ)き合い一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入(おしい)れの中の暗黒世界で三味線(しゃみせん)の稽古(けいこ)をした時の記憶(きおく)が蘇生(よみがえ)って来たがそれとは全然心持が違(ちが)った凡(およ)そ大概(たいがい)な盲人は光の方向感だけは持っている故(ゆえ)に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り鳴呼(ああ)此れが本当にお師匠様の住んでいらつしやる世界なのだ此れで漸(ようよ)うお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう衰(おとろ)えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかつたが細帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと仄白(ほのじろ)く網膜(もうまく)に映じた彼にはそれが繃帯(ほうたい)とは思えなかったつい二た月前迄のお師匠様の円満微妙(びみょう)な色白の顔が鈍(にぶ)い明りの圏(けん)の中に来迎仏(らいごうぶつ)の如く浮(う)かんだ》

 レヴィナスの言う感情の共有、《官能を社会的なものに還元するのが不可能であることで――官能がそこに流れこみ、官能を語ろうとすることばの慎みのなさにおいてあらわれる、無―意味さによって――、愛しあう者たちは、あたかも世界にたったふたりで存在するかのように孤立する。この孤独はただたんに世界を否定し忘却することではない。官能によって達成される、感覚する者と感覚される者との共同的な活動がカップルからなる社会を囲い、閉ざし、それを封印する。官能の非社会性とは、積極的にいえば感覚する者と感覚される者との共同体である。他者はただ感覚されるものというだけではない。あたかも同一の感情が私と他者とのあいだで実質的に共有されているかのように、感覚されるもののなかで感覚する者があきらかになる》は、次のような情景にあらわだ。

 何卒わたくしにも災難をお授け下さりませ、と御霊(ごりょう)様に祈願をかけ、効があって両眼が潰れたという佐助は、《お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼(め)の底に沁(し)みついたあのなつかしいお顔ばかりでござります何卒今迄通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄(にわか)盲目(めくら)の悲しさには立ち居も儘(まま)ならず御用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身(おんみ)の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白(ほのじろ)い円光の射(さ)して来る方へ盲(し)いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰(たれ)の恨(うら)みを受けて此のような目に遭(お)うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外(ほか)の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござり升(ます)そのお言葉を伺(うかが)いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換(か)えられませぬお師匠様や私を悲嘆(ひたん)に暮(く)れさせ不仕合(ふしあ)わせな目に遭わせようとした奴(やつ)は何処(どこ)の何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござり升私さえ目しいになりましたらお師匠様の御災難は無かったのも同然、折角(せっかく)の悪企(わるだく)みも水の泡(あわ)になり定めし其奴(そやつ)は案に相違していることでござりましょうほんに私(わたくし)は不仕合わせどころか此の上もなく仕合わせでござり升卑怯(ひきょう)な奴の裏を掻(か)き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござり升佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁(あいよう)して泣いた》

 凄まじい稽古の例として人形浄瑠璃の血まみれ修行や、春琴の厳しい稽古による放蕩者利太郎と北新地の少女の顔への傷という伏線、戯曲的仕掛けに見事に引っかかるかのような小説の虚構性に抗う犯人探しの愚かしさ、とりわけ佐助犯人説、あるいは春琴自害説の穿(うが)ちの馬鹿らしさは、これらの文章を読めばあきらかだろう。

 ちょうどふたりはレヴィナスの、《暗がりのなかで、いわば秘められたものの悪徳のなかで、あるいは覆いをとられてもなお秘められたものでありつづけるような未来、まさにそのゆえにかならず冒瀆であるような未来のうちで、自由は渇望される》のだった。

《佐助は眼(め)を突(つ)いた時が四十一歳初老に及(およ)んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒(かゆ)い処(ところ)へ手が届くように春琴を労(いた)わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様(さま)は端(はた)の見る目もいじらしかった春琴も亦(また)余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明(めあ)きでは勤まらない長年の習慣故(ゆえ)佐助が一番よく知っていると云い衣裳(いしょう)の着附(きつ)けも人浴も按摩(あんま)も上厠(じょうし)も未だに彼を煩(わずら)わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりも寧(むし)ろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外は唯(ただ)入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例(たと)えば人浴の時などは湯殿の戸口迄は二人に附いて行き其処(そこ)で引き退(さが)って手が鳴つてから迎(むか)えに行くともう春琴は湯から上って浴衣(ゆかた)を着頭巾を被(かぶ)っている其(そ)の間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものか嘗(かつ)て春琴が指頭を以(もっ)て老梅の幹を撫(な)でた如(ごと)くにしたのであろうが手数の掛(か)かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒(めんどう)を享楽(きょうらく)しているものの如く云わず語らず細やかな愛情が交(かわ)されていた。按(あん)ずるに視覚を失った相愛の男女が触覚(しょっかく)の世界を楽しむ程度は到底(とうてい)われ等(ら)の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身(けんしん)的に春琴に仕え春琴が又怡々(いい)としてその奉仕を求め互(たがい)に倦(う)むことを知らなかったのも訝(いぶか)しむに足りない。》

 これこそレヴィナスの言う、《官能が目ざすものはしたがって他者ではなく、他者の官能である。官能とは官能の官能であり、他者の愛を愛することなのである。》

 

<眼による愛撫>

 春琴の顔(かんばせ)に関する最初の記述は次のとおりで、《今日(こんにち)伝わっている春琴女が三十七歳(さい)の時の写真というものを見るのに、輪郭(りんかく)の整った瓜実顔(うりざねがお)に、一つ一つ可愛(かわい)い指で摘(つ)まみ上げたような小柄(こがら)な今にも消えてなくなりそうな柔(やわら)かな目鼻がついている。(中略)仏菩薩(ぶつぼさつ)の眼、慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)という慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを見馴(みな)れているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や有難(ありがた)みを覚え或(あ)る場合には畏(おそ)れを抱(いだ)くのであろうか。されば春琴女の閉じた眼瞼(まぶた)にもそれが取り分け優(やさ)しい女人であるせいか古い絵像の観世音(かんぜおん)を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところに依(よ)ると春琴女の写真は後にも先にも此れ一枚しかないのであるというと彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらず又此の写真を撮(と)った同じ年に偶然(ぐうぜん)或る災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかった筈(はず)であるから、われわれは此の朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立(おもだ)ちを浮かべられたか恐らく物足りないぼんやりしたものを心に描かれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろう或(あるい)は写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。》

 ここに早くも、「指で摘(つ)まみ上げたような」という「手」の記号がある。また、「今にも消えてなくなりそうな柔かな」、「ぼやけた」という今後いくたびも表象される「朧」な映像もあらわれる。

 手に関しては、十四歳の佐助が四つ年下の春琴を「手曳(び)き」したことが重要で、「触覚」はその年齢から育まれ、そしてまた「手曳(び)き」とは他者による「視覚」の代行、導きでもあった。

《いったい新参の少年の身を以(もっ)て大切なお嬢様の手曳(てび)きを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附(つ)いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのを或る時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に極(き)まったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に感激(かんげき)しながらいつも春琴の小さな掌(てのひら)を己(おの)れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻(もど)るのであったが途中春琴はめったに口を利(き)いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは黙々(もくもく)として唯(ただ)過(あやま)ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と尋(たず)ねる者があった時「誰(たれ)よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。(中略)手曳(てび)きをする時佐助は左の手を春琴の肩(かた)の高さに捧(ささ)げて掌(てのひら)を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであった偶々(たまたま)用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎(なぞ)をかけるようにひとりごとを洩(も)らしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云(い)い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌(きげん)が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張していなければならず恰(あたか)も注意深さの程度を試(ため)されているように感じた。》

「一つの掌に過ぎない」佐助にとって触覚と視覚の絡み合うところに言葉はいらないのだった。次の情景も示唆的だ。

《皆(みな)が庭園へ出て逍遥(しょうよう)した時佐助は春琴を梅花(ばいか)の間に導いてそろりそろり歩かせながら「ほれ、此処にも梅がござります」と一々老木の前に立ち止まり手を把(と)って幹を撫(な)でさせた凡(およ)そ盲人は触覚(しょっかく)を以(もっ)て物の存在を確かめなければ得心(とくしん)しないものであるから、花木の眺(なが)めを賞するにもそんな風にする習慣がついていたのであるが、春琴の繊手(せんしゅ)が佶屈(きっくつ)した老梅の幹を頻りに撫で廻(まわ)す様子を見るや「ああ梅の樹(き)が羨(うらや)ましい」と一幇間が奇声(きせい)を発した》

 九歳の時に盲目になった春琴は見ることかなわなかったから、見ることと見られることという絡み合い、光学的な視覚世界では存在しなかったのは確かで、常に見られる一方通行路だった。

淀屋橋筋(よどやばしすじ)の春琴の家の隣近所に家居(かきょ)する者はうららかな春の日に盲目の女師匠が物干台に立ち出(い)でて雲雀を空に揚(あ)げているのを見かけることが珍(めずら)しくなかった彼女の傍にはいつも佐助が侍(はべ)り外(ほか)に鳥籠の世話をする女中が一人附(つ)いていた女師匠が命ずると女中が籠の戸を開ける雲雀は嬉々(きき)としてツンツン啼きながら高く高く昇(のぼ)って行き姿を霞(かすみ)の中に没(ぼっ)する女師匠は見えぬ眼(め)を上げて鳥影(とりかげ)を追いつつやがて雲の間から啼きしきる声が落ちて来るのを一心に聴き惚(ほ)れている時には同好の人々がめいめい自慢(じまん)の雲雀を持ち寄って競技に興じていることもある。そういう折に隣(となり)近所の人々も自分たちの家の物干に上って雲雀の声を聴かせて貰(もら)う中には雲雀よりも別嬪(べっぴん)の女師匠の顔を見たがる手合(てあい)もある町内の若い衆などは年中見馴(みな)れている筈だのに物好きな痴漢(ちかん)はいつの世にも絶えないもので雲雀の声が聞えるとそれ女師匠が拝めるぞとばかり急いで屋根へ上って行った彼等(かれら)がそんなに騒(さわ)いだのは盲目というところに特別の魅力(みりょく)と深みを感じ、好奇心(こうきしん)をそそられたのであろう平素佐助に手を曳(ひ)かれて出稽古(でげいこ)に赴(おもむ)く時は黙々(もくもく)としてむずかしい表情をしているのに、雲雀を揚げる時は晴れやかに微笑(ほほえ)んだり物を云ったりする様子なので美貌(びぼう)が生き生きと見えたのでもあろうか。》

 ここで《町内の若い衆などは年中見馴(みな)れている筈だのに物好きな痴漢(ちかん)はいつの世にも絶えない》とは、相手が盲目であるだけにある種の窃視症ともいえよう。

 それはジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』の「部分欲動とその回路」で解説したように、《フロイトが「視る快感Schaulust」について、つまり見ると見られるについて語っているところにしたがってゆきましょう。見ると見られる、これは同じものでしょうか。シニフィアンによって書き表せばそこには共通性があるかもしれませんが、それ以外に同じものがあると主張できるでしょうか。あるいはそこに何か別の謎があるのでしょうか。実はまったく別の謎があるのですが、その手がかりを摑むには「Schaulust」が現われるのは倒錯においてである、ということを考えていただくのがよいでしょう。(中略)

 窃視症で起こっているのはどんなことでしょうか。窃視者の行為の際に主体はどこに、そして対象はどこにいるのでしょう。申し上げたとおり、見るということが問題になっているかぎり、というより欲動の水準において見るということが問題になっているかぎり、そこには主体はいないのです。主体は倒錯者としていますが、彼はループの結末のところでやっと現れるのです。対象の方はどうかといいますと――このことは黒板に描かれた私のトポロジーではお見せできませんが、認めていただけると思います――、この対象をめぐってループが回ります。対象はミサイルであり、倒錯では対象でもって標的が射当てられるのです。

 窃視症では対象は眼差しです。眼差しと言いましたが、これが主体であり、これが窃視者を射当て、標的を射当てるのです。サルトルの分析について述べたことを思い出していただければよいでしょう。サルトルの分析の中で眼差しの審級が浮かび上がっているとしても、鍵穴から覗いている主体を不意打ちする眼差しは他者という水準にあるのではありません。窃視者を不意打ちにする他者とは、すみずみまで隠れた眼差しそのものとしての主体です。》

 しかし、本当に重要なのは、町内の若い衆が盲目というところに特別の魅力(みりょく)と深みを感じたことではなく、佐助の眼差し、日常的な窃視症なのだ。

春琴抄』に佐助のマゾヒズムを論じることが多いが、佐助が自ら目を突いた行為もまたラカンの、《フロイトはこのうえもなくきっばりと、サド―マゾヒズム的欲動の出発点においては痛みは何の役割も演じてはいない、と述べています。問題は「支配Herrschaft」であり、「制圧Bewaltigung」であり、また暴力です。何に対する暴力なのでしょうか。それはあまりにも名づけにくいものなので、フロイトはその最初のモデルを――これは私が述べていることに全体として合致するモデルですが――主体が自分自身に対して自己支配を目的として行う暴力の中に求めることになりました》であろう。

 佐助の春琴への主従関係、その幻想こそがラカンの言う、《幻想が欲望の支えです。対象は欲望の支えではありません。主体は、たえず複雑さの度合いを増してゆくシニフィアンの集合との関係で、欲望するものとして自らを支えています》に違いない。 

 見られることで生きてきた春琴が、見られることを禁じることになるというギリシア悲劇的展開。春琴がいかに見られることを意識していたか、生きがいであったかの裏返しでもある。

《佐助は最初春琴が夢(ゆめ)に魘されているのだと思いお師匠(ししょう)さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起そうとした時我知らずあと叫(さけ)んで両眼を蔽(おお)うた佐助々々わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴も亦(また)苦しい息の下から云い身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠そうとする様子に御安心なされませお皃(かお)は見は致しませぬ此の通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛(ゆる)んだものかそのまま人事(じんじ)不省(ふせい)になった。その後も始終誰(たれ)にもわての顔を見せてはならぬきっと此の事は内密にしてと夢うつつの裡(うち)に譫言(うわごと)を云い続け、何のそれ程(ほど)御案じになることがござりましょう火膨(ひぶく)れの痕(あと)が直りましたらやがて元のお姿に戻(もど)られますと慰(なぐさ)めればこれ程の大火傷(おおやけど)に面体(めんてい)の変らぬ筈(はず)があろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復(かいふく)するにつれて一層云い募(つの)り、医者の外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌(いや)がり膏薬(こうやく)や繃帯(ほうたい)を取り替(か)える時は皆(みな)病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈(か)け付けた瞬間(しゅんかん)焼け爛(ただ)れた顔を一と眼見たことは見たけれ共(ども)正視するに堪(た)えずして咄嗟(とっさ)に面を背けたので燈明(とうみょう)の灯の揺(ゆら)めく蔭(かげ)に何か人間離(ばな)れのした怪(あや)しい幻影(げんえい)を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔(あな)と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れた如く佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床(びょうしょう)へ近づく毎(ごと)に努めて眼を閉じ或(あるい)は視線を外(そ)らすようにした故(ゆえ)に春琴の相貌(そうぼう)が如何(いか)なる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったし又(また)知る機会を自(みずか)ら避(さ)けた。然(しか)るに養生(ようじょう)の効あって負傷も追い迫い快方に赴(おもむ)いた頃(ころ)一日病室に佐助が唯(ただ)一人侍坐(じざ)していると佐助お前は此の顔を見たであろうのと突如(とつじょ)春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違(たが)いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒(い)えたら繃帯を除(の)けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人は兎(と)も角(かく)お前にだけは此の顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫(くじ)けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上から頻(しき)りに両眼を押(お)し拭(ぬぐ)えば佐助も諳然(あんぜん)として云うべき言葉なく共に鳴咽(おえつ)するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致します御安心なさりませと何事か期する所があるように云った。》

 見えないことで見えてくるものがあった。幻想は見えないことでさらに膨らみ、欲望を支えた。

《嘗(かつ)ててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰(つぶ)れることは不仕合せだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがない寧(むし)ろ反対に此の世が極楽浄土(ごくらくじょうど)にでもなったように思われお師匠様と唯(ただ)二人生きながら蓮(はす)の台(うてな)の上に住んでいるような心地(ここち)がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々(しみじみ)と見えてきたのは目しいになってからであるその外(ほか)手足の柔(やわら)かさ肌(はだ)のつやつやしさお声の綺麗(きれい)さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなに迄(まで)と感じなかったのがどうしてだろうかと不思議(ふしぎ)に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線(しゃみせん)の妙音(みょうおん)を、失明の後に始めて味到(みとう)したいつもお師匠様は斯道(しどう)の天才であられると口では云っていたものの漸(ようや)くその真価が分り自分の技倆(ぎりょう)の未熟さに比べて余りにも懸隔(けんかく)があり過ぎるのに驚(おどろ)き今迄それを悟(さと)らなかったのは何と云う勿体(もったい)ないことかと自分の愚(おろ)かさが省(かえり)みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味えたのだと。》

 これはM.メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』の「問いかけと直感」における、《見えるものが私を満たし、私を占有しうるのは、それを見ている私が無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見る者としての私もまた見えるものだからにほかならない。 一つ一つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつきないし重複によって出現して来たもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、彼が自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものが彼の目にとって彼の写しないし彼の肉の延長のごときものとなることなのである。物の空間・時間とは、彼自身の断片、彼の空間化・時間化の断片なのであり、もはや共時的および通時的に配置された諸個人の同時性ではなく、同時的なものと継時的なものとの起伏であり、諸個人が分化によってそこに形成される空間的および時間的な果肉なのである。》

 世界が二人を見つめ、語りかけ、取り囲み、内から浸され、すっぽり埋没する様子がこの小説のもっとも美しく哀しいひとときとしてあらわれる。

《春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病(や)む数日前佐助と二人中前栽(なかせんざい)に降り愛玩(あいがん)の雲雀(ひばり)の籠(かご)を開けて空へ放(はな)った照女(てるじょ)が見ていると盲人の師弟(してい)手を取り合って空を仰(あお)ぎ遥(はる)かに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀は頻(しき)りに啼(な)きながら高く高く雲間へ這入(はい)りいつ迄たっても降りて来ない余り長いので二人共気を揉(も)み一時間以上も待ってみたが遂(つい)に籠に戻(もど)らなかった。春琴は此の時から怏々(おうおう)として楽しまず間もなく脚気(かっけ)に罹(かか)り秋になってから重態に陥(おちい)り十月十四日心臓麻痺(まひ)で長逝(ちょうせい)した。》

 最後に谷崎は、意識と官能の手袋を反転させたことをあなたはどう思うかと問いかける。

《察する所二十一年も孤独(こどく)で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違(ちが)った春琴を作り上げ愈々(いよいよ)鮮(あざや)かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突(つ)いた話を天竜寺(てんりゅうじ)の峩山和尚(がさんおしょう)が聞いて、転瞬(てんしゅん)の間に内外(ないげ)を断じ醜(しゅう)を美に回した禅機(ぜんき)を賞し達人の所為(しょい)の庶幾(ちか)しと云ったと云うが読者諸賢(しょけん)は首肯(しゅこう)せらるるや否(いな)や》

                                 (了)

          ***引用または参考文献***

*『新々百人一首丸谷才一(新潮社)

*『千本桜 花のない神話』渡辺保(東京書籍)

*『全体性と無限』レヴィナス熊野純彦訳(岩波書店

*『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳(岩波書店

*『見えるものと見えないもの』M.メルロ=ポンティ滝浦静雄木田元訳(みすず書房

文学批評 「谷崎『細雪』の畳紙(たとう)の紐を解く」

  「谷崎『細雪』の畳紙(たとう)の紐を解く」

  

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細雪』を読むとは、畳紙(たとう)を紐(ひも)解いて、谷崎文学のすべてを目の前に繰りひろげることである。谷崎は美しい蒔岡姉妹の囀りのような会話を、俗っぽい間投詞まで聴きとろうと耳をそばだて、女たちの口唇から内奥へもぐりこんで、語りを官能で染めあげる。

 ロラン・バルト『記号の国』の日本をめぐるエクリチュールを読んでいると、これは『細雪』について書いているのではないかと思う文章があらわれる。たとえば「包み」という断章の、《箱の機能は、空間のなかで保護することではなく、時間のなかで延期してゆくことであるかのようだ。包装にこそ制作の(技巧の)仕事が注ぎこまれているのであるが、それゆえに品物のほうは存在感をうしなって、幻影になってゆく。包みから包みへとシニフィエは逃れ去り、ついにシニフィエをとらえたときには(包みのなかには、ささやかな何か(・・)がつねにあるのだから)、無意味で、つまらなくて、値打ちのないものであるように見える。》

 姉妹たちの生活、四季の移ろい、行事を描く文体といった包みの豪華さにひきかえ、政治、思想、形而上のことには無関心にみえ、物語は散漫で、ぐずぐずと引き延ばされる。それは、《お金と暇のある女たちに日常を子細にわたって描くこと、それ以外の高みも深みも要らない》(水村美苗『手紙、栞を添えて』)というジェーン・オースティンの世界の日本版といえよう。

 次の断章、「中心のない食べ物」はどうだろう。《日本の料理では、すべてがべつの装飾をまた装飾するものとなっている。その理由は、まず、食卓のうえでも大皿のうえでも、食べものは断片の集まりにすぎず、どの断片も、食べる順序によって優劣の序列をつけられているようには見えないからである。(中略)第二の理由は、この料理が――これこそが独自性なのだが――調理する時間と食べる時間とをただひとつの時間のなかで結びつけていることである。》

 蒔岡姉妹たちの誰も、数々のエピソードのどれも、中心(メイン)たりえない。まず、主人公はだれなのか。須賀敦子が『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』で論じたように、雪子の「ものがたり」と妙子の「小説」がないまぜになって進行しているとはいえ、主人公は幸子であるといってもまたおかしくはない。舞台も、京阪神と東京の二点を楕円軌道でめぐってゆく。見合いは、病いは、花見は、たちどころに消費され(贔屓の鮨屋与兵(よへい)の親爺は《二番目の鮨が置かれるまでの間に、最初の鮨を食ってしまわないと、彼は御機嫌が斜めである》し、雪子の好きな「おどり鮨」は同時性そのものだ)、繰りかえされる。

 

<衣えらびに迷う>

細雪』下巻、蛍狩への序章、大垣への雪子の見合いに、東京在の鶴子をのぞく三姉妹が向かうところで、幸子の夫貞之助が三十三の厄年になる雪子のきもの姿をしげしげと見守りながら、「若いなあ」と嘆声を発した。

《二尺に余る袖丈(そでたけ)の金紗(きんしゃ)とジョウゼットの間子織(あいのこおり)のような、単衣(ひとえ)と羅物(うすもの)の間着を着ているのが、こっくりした紫地に、思い切って大柄な籠目(かごめ)崩(くず)しのところどころに、萩と撫子(なでしこ)と、白抜きの波の模様のあるもので、彼女の持っている衣装の中でも、分けて人柄に嵌(は)まっているものであったが、これは今度のことがきまると同時に東京へ電話をかけ、わざわざ客車便で取り寄せたのであった。

「若いでっしゃろ」

と、幸子も鸚鵡(おうむ)返しに云って、

「―――雪子ちゃんの年で、あれだけ派手なもん着こなせる人はあれしませんで」》

 この長編小説は衣えらびの迷いと悦びで染めあげられている。きものの悦びとは、人前に出てからのことはもちろんのこと、きものを選び、ついで帯を、それから帯揚げ、帯締めをあわせること、いやその前に長襦袢を選びかね、半襟の色柄に悩むところからはじまっている。『細雪』のきものは、雪子のたび重なる見合いのように、選びとることの理不尽、決めることの不可能性を象徴しているが、その優柔不断の迷いの時間こそが文化というものの本質であり、女たちは迷いの悦びを生理的に知っているのだ。

 この上、中、下巻からなる長編小説は、《日支事変の起る前年、即ち昭和十一年の秋に始まり、大東亜戦争勃発の年、即ち昭和十六年の春、雪子の結婚を以て終る》(谷崎松子『倚松庵の夢』)のだが、まずその幕あけから見てゆこう。

《「こいさん、頼むわ。―――」

 鏡の中で、廊下からうしろへはいって来た妙子(たえこ)を見ると、自分で襟(えり)を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、そちらは見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ながじゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据えながら、

「雪子(ゆきこ)ちゃん下で何してる」

と、幸子(さちこ)はきいた。》

 この導入部の見事さは後述するとして、小説の最後、やっと決まった婚礼の儀式のために雪子が東京へ向かうこととなり、誂えておいた衣裳ができてくる場面はこうだ。

《小槌屋に仕立てを頼んでおいた色直しの衣裳も、同じ日に出来て届けられたが、雪子はそんなものを見ても、これが婚礼の衣裳でなかったら、と、呟(つぶや)きたくなるのであった。そういえば、昔幸子が貞之助に嫁ぐ時にも、ちっとも楽しそうな様子なんかせず、妹たちに聞かれても、嬉しいことも何ともないと云って、きょうもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆく身のそぞろ悲しき、という歌を書いて示したことがあったのを、はからずも思い浮かべていたが、下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。》

 冒頭の場面の続きだが、ピアノを聞く集りのためにめかしこもうと、顔があらかたできた幸子は「小槌(こづち)屋呉服店」と記してある畳紙(たとう)の紐(ひも)を解いて、妙子に話しかける。

《「な、こいさん、―――」

と、幸子は、引っかけてみた衣裳が気に入らないで、長襦袢の上をぱっと脱ぎすてて別な畳紙(たとう)を解きかけていたが、ひとしきり止んでいたピアノの音が階下から聞えて来たのに心付くと、また思い出したように云った。

「実はそのことで、難儀してるねん」

「そのことて、何のこと」》

 幸子の、「引っかけてみ」「ぱっと脱ぎすてて」「解きかけて」「心付くと」「思い出したように」のリズミカルな気まぐれさ、唐突な「そのこと」の一語の、相手も当然わかるはずと思いこむ女心の短絡さと可愛らしさを活写しきる文章力。「そのこと」という雪子の見合い話について会話していると当人がはいってきて、上巻第五章はまるごと帯選びとなる。

《「中姉(なかあん)ちゃん、その帯締めて行くのん」

と、姉のうしろで妙子が帯を結んでやっているのを見ると、雪子は云った。》

 これが端緒となって、「中姉(なかあん)ちゃんが息するとその袋帯がお腹のところでキュウ、キュウ、云うて鳴るねんが」の追い打ちで、女の一大事の帯えらび騒動となるのだが、谷崎は姉妹三人の性格をいきいきと書きわける。

《「そんなら、どれにしょう。―――」

 そう云うとまた箪笥(たんす)の開きをあけて、幾つかの畳紙(たとう)を引き出してはそこら辺へいっぱいに並べて解き始めたが、

「これにしなさい」

と、妙子が観世水(かんぜみず)の模様のを選び出した。

「それ、似合うやろか」

「これでええ、これでええ。―――もうこれにしとき」

 雪子と妙子とは先に着附けを終っていて、幸子だけが後れているので、妙子は子供を賺(すか)すように云いながら、またその帯を持って姉のうしろへ廻ったが、ようやく着附が出来たところで、幸子はもう一度鏡の前に坐ったかと思うと、

「あかん」

と頓狂(とんきょう)な声を出した。》

 ついには口も腰も重い雪子まで口添えしだし、

《「そんなら、あの、露芝(つゆしば)のんは」

「どうやろか、―――ちょっとあの帯捜してみて、こいさん

 三人のうちで一人洋装をしている妙子は、身軽にあちらこちらと、そこらに散らばった畳紙の中味を調べてみて、それを見つけるとまた姉のうしろへ廻った。幸子は結ばれたお太鼓の上を片手でおさえて、立ったまま二三度息をしてみて、

「今度はええらしい」

と、口に咬(くわ)えていた帯締めを取って中へ通したが、そうしてきちんと締めてしまうと、またその帯もキュウキュウ云い出した。》

 観世水とか露芝とかの模様に精しい谷崎には感心するやら、男のくせにいやらしいやら、なかでもお太鼓の上を片手でおさえて、口に咬えていた帯締めを取って中へ通すところなどは、よく観ていた、としか言いようがない。事実、松子夫人(幸子のモデル)が『倚松庵の夢』につづったように、谷崎は松子の姉妹の会話を緻密、克明にメモして、小説の美と神が宿る細部に活かしたのである。

《「何でやろ。これもやわ」

「ほんになあ、うふゝゝゝゝ」

 幸子のお腹のあたりが鳴るたびに三人がひっくり覆(かえ)って笑った。》

 しらず幸せな気分が伝播してくる。谷崎文学には笑いの場面がないという批評を読んだことがあるけれども、こと『細雪』についてならば、笑いの場面はそこかしこにある。

 そして妙子が別な帯を引っ張り出すと、幸子はこれまた微笑を禁じえないのだが、

《「あゝ忙しい。解いたり締めたり何遍もせんならん。汗掻いてしもたわ」

「阿呆(あほ)らしい、うちの方がしんどいがな」

と、妙子がうしろで膝をついて、きゅうっと締め上げながら云った。》

 中公文庫にはこの場面を描いた田村孝之介のすばらしい挿絵が添えられていて、「うしろで膝(ひざ)をついて」のほんの一行で、三人の女たちを構図化させる作家の眼の確かさを如実に示す。

《まだ鏡の前に立ってお太鼓に背負(しよ)い上げを入れさせている幸子の左の腕をとらえて》雪子が脚気(かっけ)予防のヴィタミンBの注射の針を入れると、

《「こっちも済んだで」

と、妙子が云った。

「この帯やったら、帯締めどれにしょう」

「それでええやんないか、早う、早う、―――」

「そない急からしゅう云わんといて。急かされたらなおのことかあッとしてしもて何も分らんようになるがな」》

 こうすればああなって、ああすればこうなってと頭の中がパニックとなる贅沢な悩みをこの姉妹たいは愉しんでいる。結局は妙子の「古うなって、地がくたびれてるよってに音せえへんねん」との見さだめで一件落着するのだけれども、「少し頭を働かしなさいや」の妙子の捨てぜりふによる、三人の関係性と性格描写の見事さ。

 しかしこの出立はまだ完成していない。「そのこと」の仲人口の井谷からちょうどかかってきた電話を幸子は切れず、雪子と妙子を呼んだ自動車の前で待たせている。

《そこへどたどたと足音がして、

「あ、ハンカチわすれたわ、誰か持ってきて。

ハンカチハンカチ」

と、はみ出した長襦袢の袖をそろえながら、幸子が門口(かどぐち)へ飛んで出た。

「お待ち遠さん」》

 愛しさにあふれた場面だが、《はみ出した長襦袢の袖をそろえながら》という作家の視線を見落としてはならない。いよいよ「そのこと」の当日がきて、仕度に立ちあう貞之助の姿は谷崎の化身であった。

《当日雪子は姉妹たちに手伝って貰って三時頃から拵えにかかったが、貞之助も事務所の方を早じまいにして帰って来て、化粧部屋に詰めるという張り切り方であった。貞之助は着物の柄とか、着附とか、髪かたちなどに趣味を持っていて、女たちのそういう光景を眺めることが好きなのであるが、一つにはこの連中が時間の観念を持たないことに毎度ながら懲りているので、午後六時という約束に遅れないように監督するためでもあった。》

 衣えらびに夢中な女たちに時間の観念などあるはずもなく、『細雪』は「遅延の物語」(渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』)であるが、流れゆく時間と循環がライト・モティーフであることの徴候がここにもある。

 谷崎好みは随所に顔をのぞかせ、たとえば、《そういう雪子も、見たところ淋しい顔立ちでいながら、不思議にも着物などは花やかな友禅縮緬(ゆうぜんちりめん)の、御殿女中式のものが似合って、東京風の渋い縞物(しまもの)などはまるきり似合わないたちであった》などは、幸田文が好んだ織によるかたいきものの対極、友禅染めによるやわらかなきものが似合う女こそが谷崎好みであることを投影したものに違いなく、桜、鯛を好むといってはばからなかった谷崎らしい、ある種俗物的な、しかし正統の肯定美学の表象である。

 関西の「おんな文化」の手に負えぬ一典型(田辺聖子による中公文庫解説)と評された雪子の性格も衣えらびにあらわれる。長姉鶴子について東京へ転居している雪子が、見合いのために、蘆屋の幸子の家に出てくる。見合いを済ませ、結局は縁談を打ち切ったあとも、四月三日の関西の遅い雛の節句を済ましたら東京へ帰るといっていたのに、もう三四日で祇園の夜桜が見頃だそうだから、ということになった。

《京都行きは九日十日の土曜日曜に定められたが、雪子はそれまでに帰るのやら帰らないのやら、例の一向にはっきりともせずにぐずぐずしていて、結局土曜日の朝になると、幸子や妙子と同じように化粧部屋へ来てこしらえを始めた。そして、顔が出来てしまうと、東京から持って来た衣裳鞄を開けて、一番底の方に入れてあった畳紙(たとう)を出して紐(ひも)を解いたが、何と、中から現れたのは、ちゃんとそのつもりで用意して来た花見の衣裳なのであった。

「何(なん)やいな、雪姉(きあん)ちゃんあの着物持って来てたのんかいな」

と、妙子は幸子のうしろへ廻ってお太鼓を結んでやりながら、雪子がちょっと出て行った隙にそう云っておかしがった。

「雪子ちゃんは黙ってて何でも自分の思うこと徹さ措かん人やわ」

と、幸子が云った。》

 言及しておかねばならないのは、『細雪』のきものがふわふわと浮ついたものばかりではないということだ。谷崎は地方風土や社会風俗、時代背景や流行観察の手がかりとして、きものを機能させている。それは幸子が雪子の見合い相手の月給、財産といった経済状態について大阪人らしい会話(谷崎『私の見た大阪及び大阪人』)を交わし、妙子の「それ、あやしいなあ、よう調べてみんことには」で、『細雪』全編に散りばめられた調べることの悲喜劇を予告したものだけれども、他にも、渡月橋の水辺で花見する朝鮮服を着た半島の婦人たちが酔って浮かれている様子や、踊りの師匠を見舞うために訪れた天下茶屋あたりの樹木の少なさの描写や、見合いの相手たちの職業にパラダイム化された思考様式のすくいとり、白系露西亜(ロシア)人カタリナ・キリレンコによばれた食事会、チェッコ問題に直面するヒットラー独逸へ戻ってゆくシュトルツ一家との交流とシュトルツ夫人からの手紙などとともに、小説に広がりと厚みを加える。上方の富裕な家では、大正の末年頃には婚礼の儀のために三枚襲ねを調える贅をつくしていて、東京渋谷に住みはじめた鶴子からの手紙の、《しかしこちらは大阪に比べると埃(ほこり)が少く空気の清潔なことは事実にて、その証拠には着物の裾(すそ)がよごれません、こちらで十日ばかりに一つ着物を着通していましたけれども、わりに汚(よご)れませんでした》とは、大阪の埃は関西の白い土のせいであり、関東ローム層の黒い土と違って、明るく派手やかな上方好みのきものの色を映えさせもすることに通じる。上方の女が東京に出てきたとき、どんな店で買い物をしたがったかは、《午後には四人で池(いけ)の端(はた)の道明(どうみよう)、日本橋三越、海苔(のり)屋の山本、尾張町の襟円(えりえん)、平野屋、西銀座の阿波屋(あわや)を廻って歩いたが》でわかるが、しかし彼女たちは「みんな東京々々と云うけど、行ってみたいとこもあらへんなあ」と歌舞伎見物に落ちついてしまうように、上方文化を背負った女たちは東京の流行になんの憧れもなく、「東京はえらい矢絣(やがすり)が流行(はや)るねんなあ。今ジャアマンベーカリーを出てから日劇の前へ来るまでに七人も着てたわ」とどこか田舎者を観察するような口調となる。文化が骨身にしみこんでいる姉妹たちが、国民総動員を叫ぶ時代の要請にさからってどんなふうにお洒落の工夫をしていたか、法事のさいの《女たちは皆、姉が黒羽二重、幸子以下の三姉妹がそれぞれ少しずつ違う紫系統の一越縮緬(ひとこしちりめん)、お春が古代紫の紬(つむぎ)、という紋服姿であった》が語っている。戦局は日ましに悪化し、国民生活を圧迫してゆくのだけれども、『細雪』最終章は世相を織りこみつつ雪子の婚礼の準備に流れこむ。

《現に雪子の色直しの衣裳なども、七・七禁令に引っかかって新たに染めることができず、小槌屋(こづちや)に頼んで出物を捜させたような始末で、今月からはお米も通帳制度になったのであった。それに今年は菊五郎も来ず、花見は去年でさえ人目を憚ったくらいなので、なおさら遠慮しなければならなかった。》

 そうして、すでに引用した「きょうもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆく身のそぞろ悲しき」の、地の文にとけこんだ、うまいとはいいがたい歌が妙に胸に沁みてくる。

 

<うつす/のぞく>

 書きだしは何度読んでも素晴らしい。

《「こいさん、頼むわ。―――」

 鏡の中で、廊下からうしろへはいって来た妙子(たえこ)を見ると、自分で襟(えり)を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、そちらは見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ながじゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据えながら、

「雪子(ゆきこ)ちゃん下で何してる」

と、幸子(さちこ)はきいた。》

 鏡を出入りする妙子と幸子のまなざしと声音が、読むものを脂粉ただよう化粧部屋のただなかに立たせる。「鏡の中で」からはじまって、「見ると」「見ずに」「見据えながら」と屈折しつつ、主語「幸子は」が文の最後にあらわれるという複雑な構図なのに、まるでベラスケス『ラス・メニーナス』のような臨場感と奥行きがある。なにより人を幸せにする文章だ。すぐ次の一行、「悦(えつ)ちゃんのピアノ見たげてるらしい」の声までで、もう四人の登場人物が動きだしていて、その家族構成、性格、社会階層、住居構造までわからせる。姉妹が鏡の表(おもて)に自分の顔や人の顔を見るとき、本当は何を見ているのか。鏡の前のやりとりだから、より艶っぽくなる。

《「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、また一つあるねんで」

「そう、―――」

 姉の襟頸(えりくび)から両肩へかけて、妙子は鮮やかな刷毛目をつけてお白粉(しろい)を引いていた。決して猫背ではないのであるが、肉づきがよいので堆(うずたか)く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。》

 観音さまのように肉づきのよい皮膚は、「表層の美に憑かれた作家」(谷川渥『谷崎潤一郎 文学の皮膚』)谷崎の好みだ。

《先方の写真ないのんか》

 階下のピアノがまだ聞えているけはいなので、雪子が上って来そうもないと見た幸子は、

「その、一番上の右の小抽出(こひきだし)あけてごらん、―――」

と、紅棒(べにぼう)を取って、鏡の中の顔へ接吻しそうなおちょぼ口をした。》

 ついで、「B足らん」「脚気(かっけ)」「強力ベタキシン」等の語からなる病気恐怖テーマの前触れがあり、文庫本にして5ページにもみたない第一章は、部分が全体を映したうえで、人形浄瑠璃の段切のように唐突に切れる。

《ピアノの音が止んだと見て、妙子は写真を抽出に戻して、階段の降り口まで出て行ったが、降りずにそこから階下を覗(のぞ)いて、

「ちょっと、誰か」

と、声高(こわだか)に呼んだ、

「―――御寮人(ごりょうにん)さん注射しやはるで。―――注射器消毒しといてや」》

 少しとんで上巻第九章、翌日の見合いのために頭髪(あたま)を拵(こしら)える雪子と幸子は井谷の美容院にいる(折り畳まれるように、下巻第二十章では、二人は銀座資生堂の美容室でパアマネントをかけている)。

《待合室には幸子が一人いただけでほかには誰も聞いている者はなかったけれども、すぐ隣の室の間仕切りに垂れているカーテンが絞(しぼ)ってあって、雪子がその部屋の椅子にかけつつ頭からドライアーを被せられている姿が、鏡に反射して二人の方へまともに見えていた。井谷のつもりでは、ドライアーを被っているから当人に聞えるはずはないと思っているのらしいけれども、二人がしゃべっている様子は雪子の方にもよく見えていて、何を話しているのかしらんと、上眼づかいに、じっとこちらに瞳を据えているらしいので、幸子は唇の動き具合からでも推量されはしないであろうかとハラハラした。》

 三島由紀夫が指摘した谷崎の「けれども」調はさておき、いつも見られるばかりの雪子が、眼で、唇で、鏡を出入りするまなざしと声の絡みあいをほどいている。

 見合いの当日になると、学校帰りの悦子が鞄を応接間へ投げ出しておいて、「今日は姉ちゃんお婿さんに会うのんやてなあ」と化粧部屋に勢い込んではいって来る。幸子ははっとして、鏡の中の雪子の顔色がすぐに変ったのを看(み)てとった。女中のお春からそれを聞いたと知って雪子は、「悦ちゃん、下へ行ってらっしゃい」と鏡を視つめたままの姿勢で言うが、鏡には女の決意を確信に、想像を現実に変える力があるらしい。雪子はお春をしかりつけたかと思うと、女中に立ち聞きされ噂されることの辛さから《涙が一滴鏡の面に影を曳(ひ)きながら落ちた》というぐあいに、ほんの短い時間に彼女は万華鏡のように心模様を変化させるのだった。

 雪子の眼の縁のシミについて、心配しなくてよい、と書かれた婦人雑誌を当人に読ませ安心させたい妙子は、《雪子の顔にシミが濃く現れていた或る日、彼女がひとり化粧部屋で鏡に向っている時に》、「心配せんかてええねんで」と小声で言ってみたりする。ところが雪子は「ふん」と言っただけであったものの、「ふん」は肯定の「ふん」であって。その千年の文化を秘めた「ふん」のニュアンスを汲みとれないと『細雪』の快楽も汲みとれない。

 中巻第一章もまた鏡(と病い)からはじまる。しばしば鏡は映すというより覗きこまれる、鏡面が心の井戸であるかのように。

《幸子(さちこ)は去年黄疸(おうだん)を患(わずら)ってから、ときどき白眼(しろめ)の色を気にして鏡を覗(のぞ)き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。》

 その幸子が東京へ出たおりのこと、奥畑(おくばたけ)の啓坊(けいぼん)(五六年前、妙子と家出をして、「新聞の事件」を起した)から、妙子が写真家の板倉(もとこの男は奥畑貴金属商店の丁稚だった)とつきあっていると告げ口する手紙を受けとる。あれこれ思案したあげくに、《やがて、彼女は、歌舞伎座の方から橋を渡って河岸通りをこちらへ歩いてくる雪子の日傘が眼に留まると、徐(しず)かに座敷の中へはいって、自分の顔色を見るために、次の間の鏡台の前に坐った。そして紅の刷毛(はけ)を取って二三度頬の上を撫でたが》、という行為は、自分の顔色を見るというよりも、顔の輪郭に触れることで確かめるといったある種の所作であり、そうでもしなければ消入りそうな自分、消えないまでも血の気を失ってゆきそうな自分を見出したいからに違いなかった。

 あるとき、幸子と貞之助は夫婦して河口湖のホテルに泊り、「時間」を忘れる。そこで谷崎のまなざしの遠近法は、自意識のプリズムをとおして、現実世界を想像世界に封じこめる。《魔法瓶の外側のつやつやとしているのが凸面鏡の作用をなして、明るい室内にあるものが、微細な物まで玲瓏(れいろう)と影を落しているのであるが、それらが一つ一つ恐ろしく屈曲して映っているので、ちょうどこの部屋が無限に天井の高い大廣間のように見え、ベッドの上にいる幸子の映像は、無限に小さく、遠くの方に見えるのであった。》

 鏡を自在に出入りする女たちを書きたくて谷崎は、発表のあてもなく戦時中も『細雪』を書きついだのだった。

「美しき姉妹(おとどい)三人(みたり)居ならびて写真とらすなり錦帯橋の上」

 絵日記風の短歌(擬古典調の、子規におとしめられた香川景樹を好んだ谷崎らしい)に詠まれた「写真」は『細雪』のテーマのひとつである。谷崎の映画好きはつとに知られるところで、この小説にも東西の映画女優名があがり、姉妹に洋画を見て歩かせもするが、静止画(スティル)としての写真、時間とともにうつろう映像ではなく対象を瞬間として固着し、愛玩させる写真に、カメラ好きの善良さを装いつつ悪魔的いかがわしさが機能する。

 その端的なあらわれが雪子の胸のレントゲン写真だ。見合い相手から雪子が病身と思われたことに対して貞之助は、《胸に何の曇りもないところを写真で一目瞭然と》示したいからと、阪大でレントゲン写真を撮らせたのだった。しかしなによりもネガフィルムに雪子の乳房の下のあばら骨と肺を透かして見たかったのは、誰あろう貞之助当人だったのに違いない(暑さに、濃い紺色のジョウゼットを着た雪子の、肩甲骨(けんこうこつ)の透いている、骨細な肩や腕を見たことがあった)。

 貞之助のライカは姉妹たちのあとを追いかけ、ゆるゆると流れる時間から、はかない時間を盗みとっては、快楽の脳髄に「収める」。《まず廣沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子、という順に列(なら)んだ姿を、遍照寺(へんじょうじ)山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。(中略)以来彼女たちは、花時になるときっとこの池のほとりへ来、この桜の樹の下に立って水の面をみつめることを忘れず、かつその姿を写真に撮ることを怠らないのであった》というわけで、失われた時は、毎年の行事という形式によって多重映像化される。平安神宮の紅枝垂(べにしだれ)こそは花見の行事の象徴であって、《門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅(くれない)の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と感嘆の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。》 桜樹のつきたあたりから、《貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからライカを持って追いながら、(中略)いつも写す所では必ず写して行くのであったが、ここでも彼女たちの一行は、毎年いろいろ見知らぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人はわざわざその旨を申し入れて許可を求め、無躾(ぶしつけ)な人は無断で隙をうかがってシャッターを切った。》

 ライカはいくどとなく登場する、まるで貞之助や姉妹たちが贔屓(ひいき)にした六代目(菊五郎)のように。妙子の人形制作写真を一手に撮影している板倉が、妙子の舞姿を写しにやってくると、

《「こいさん、そのままじっとしてとくなさい。―――」

と、すぐ閾際(しきいぎわ)に膝(ひざ)を衝(つ)いてライカを向けた。そしてつづけざまに、前から、後ろから、右から、左から、等々五六枚シャッターを切った。》

 崇拝するかのように、膝を衝き、《前から、後ろから、右から、左から》、舐めまわすライカのレンズは、鏡がうつすことをこえて覗くものになったように、表層をうつすというよりも奥底を覗きこんで表層にうつしこむ道具、それもかなりいかがわしい道具となっている。

 その一ヶ月後、阪神地方は豪雨にみまわれる。最も被害甚大と伝わってくる住吉川東岸の洋裁学校に通う妙子を案じて、奥畑の啓坊が幸子を訪ねてきた。

《と、式台のところに伏せてあったパナマ帽の下から、慌てて奥畑は何か二た品を取り出すと、一つを手早くポッケットに入れた。一つは懐中電灯であったが、ポッケットに入れた方は確かにライカコンタックスに違いなく、こんな時にそんなものを持っているのをバツが悪いと感じたのであろう。》

 奥畑が行ってしまったあと、幸子は何を思ったか二階へ上って、板倉が《いろいろと姿態の注文を附けて、何枚も撮った》妙子の写真を眺めた。彼女は四枚ある「雪」の舞姿の中で、「心を遠き夜半(よわ)の鐘」のあとの合の手のところを撮ったものが一番好きであった。《結いつけない髪に結い、舊式な化粧を施しているせいで常とは変って見える顔つきに、持ち前の若々しさや潑剌(はつらつ)さが消えていて、実際の年齢にふさわしい年増美といったようなものが現れているのにも、一種の好感が持てるのであった。が、今から思うとちょうど一箇月前に、あの妹がこんな殊勝な恰好をしてこんな写真を撮ったということが、何だか偶然ではないような、不吉な豫感もするのであった。》

 この写真のプンクトゥム(突き刺すもの)は、ロラン・バルトのいう「それはかつてあった」という時間のふりかえりだけではなく、「それはいつかある」という豫感でもある。《持ち前の若々しさや潑剌(はつらつ)さが消えていて》には、のちに赤痢を病む妙子の肌の前兆が、「皮膚より深いものはない」という言葉のとおり、うつされていたのではないか。そして、《姉の婚礼の衣裳を着けた妹の姿に、何ということもなく感傷的にさせられて、泣きそうになって困ったことを覚えているが、この妹がいつかはこういう装いを凝らして嫁に行く光景を見たいと願っていたことも空(むな)しくなって、この写真の姿が最後の盛装になったのであろうか》にも、のちの妙子の、《この家に預けておいた荷物の中から、当座のものをひとりでこそこそと取り纏め、唐草(からくさ)の風呂敷包に括(くく)って》、バアテンダア三好との兵庫の方の二階借りの家へ行くことのアイロニカルな豫感がある。

 見せられることで不快を与えた写真も登場した。雪子はじじむさい野村との見合いの晩、家へ引っ張って行かれ、亡くなった奥さんや子供たちの写真を目にする。《あの人は写真を急いで隠しでもすることか、わざわざあれが飾ってある佛壇の前へ案内するとは何事だろう、あれを見ただけでも、とても女の繊細な心理などが理解できる人ではないと思う》と愛憎(あいそ)を尽かす。

細雪』で嫉妬するただ一人の人物、それは奥畑の啓坊に他ならず、彼によって板倉のライカが壊されてしまう事件は次のようにして起きた。妙子の舞の師匠の追善の会が大阪三越で催されることになり、こいさんの「雪」だけでも見たい、と貞之助は駈けつけるが、《見物人の最後列に立って、ライカを舞台の方に向けて、ファインダーに顔を押し着けている男のいるのが、板倉に紛れもなかった。貞之助ははっとして、先方から見つけられないうちに遠い隅の方へ逃げて来て、時々こっそり窺(うかが)うと、板倉は外套(がいとう)の襟を立てて顔を埋め、めったにキャメラから首を挙げないで、つづけざまに妙子を撮っている。》 と、貞之助は、舞が終ったとたんに、慌ててライカを小脇に挟んで急ぎ足に廊下へ出て行く板倉を認めたが、その後影を追うように出て行った紳士が奥畑であったと心付くと、貞之助もすぐあとから廊下へ出た。「………何でこいさんの写真撮った。………撮らんいう約束したやないか。………」と板倉を詰(なじ)った奥畑は、「そのキャメラ僕に貸せ。………」と言うと、《刑事が通行人を検(しら)べるように板倉の体を撫で廻して外套のボタンを外すと、上衣のポッケットへ手を挿し入れて、素早くライカを引っ張り出した。》 まるで情事の現場を取り押さえ、勃起したペニスを引っ張り出したかのようで、奥畑は、指先をがたがた顫わせながらレンズの部分をいっぱいに引き伸ばすと、コンクリートの床へ、カチンと、力任せに叩き着けて、後も見ずに行ってしまった。

 二三日後、妙子は《この間の舞姿を写真に撮っておきたいからもう一遍あの衣裳を貸してくれと云って、畳紙(たとう)の包を取り揃えて衣裳行李に入れ、それと鬘の箱と、あの時の傘とを自転車に積んで出掛けた》が、幸子が「きっとこいさん、あの荷物持って板倉の所(とこ)へ写しに行くねんで」としゃべりだすと雪子は「そんならあのライカ壊れたやろか」、「フィルムもあかんようになったのんで、撮り直すのんと違うやろか」と噂しあうが、あたかも色ごとの噂話のようではないか。

 

<形代(かたしろ)>

 妙子は、製作した人形が百貨店の陳列棚へ出るようになり、夙川(しゅくがわ)に仕事部屋を借りることから、多方面に発展する。幸子は、娘悦子の寝台と同じ高さに寝床を敷いて雪子を寝させるのは、雪子ちゃんの孤独を慰める玩具の役を悦子にさせているから、と夫に打ちあけるが、自己のさまざまな欲望を姉妹たちに投影し、自分の形代(かたしろ)としてたくみに操る人形遣いだったのではないか、とうがった見方もできる。雪子は、ある日、二階の欄干から庭の芝生で悦子と隣家シュトルツ氏の娘ローゼマリーが西洋人形で遊んでいるところを見おろしていると、ローゼマリーが「ベビーさん来ました、ベビーさん来ました」と言いながら、ママ役の人形のスカートの下から赤ん坊を取り出したので、西洋の子供も赤ん坊がお腹から生れることを知っているのだなと微笑(ほほえ)ましさを怺(こら)えてひっそりと見守る(この叙情的なシーンは、幸子の流産と妙子の死産の前触れでもある)。悦子は、飯(まま)事遊びをするのに、注射の針の使いふるしたのを持って来て、芯(しん)が藁(わら)で出来ている西洋人形の腕に注射したり、雪子が東京から帰ってくると知って、「姉ちゃんお節句にやって来やはった。お雛さんと一緒やわ」と無邪気にはしゃいだり、と人形を介して神経衰弱と紙一重の、真実を見抜く気味悪さを発揮する。

 それぞれが人形という対象に幻想を注ぐ女たちのなかで、雪子は自身もまた人形のような存在だった。大概な暑さにはきちんと帯を締めている雪子がどうにも辛抱しきれず洋服となったところを、どうかした拍子に見ることがあった(とは、しらじらしい)貞之助は、《濃い紺色のジョウゼットの下に肩甲骨の透いている、傷々しいほど痩せた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させる肌の色の白さを見ると、にわかに汗が引っ込むような心地もして、当人は知らぬことだけれども、端の者には確かに一種の清涼剤になる眺めだとも、思い思いした。》 そして雪子は、長姉鶴子と一緒に東京へ立ってほしいと言われて、《黙って項垂(うなだ)れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬(まり)に素足を載せながら、時々足の蹠(うら)が熱くなると毬を廻して別な所を蹈んでいた》とはまた、たくみなカメラ・アイによる見事な人形ぶりである。この透けるエロティシズムは『源氏物語』の「蜻蛉」巻の、薫大将が女一の宮の着ていた羅(うすもの)に執着したエピソードを想わせる。

 過ぎた時間がしらず積もるように、『細雪』のいくつものくりかえしのひとつとして、同じ情景が翌夏にも紡ぎだされる。《七月も二十五六日頃となると、雪子の洋服嫌いまでがとうとう我を折って、観世縒(かんぜより)で編んだ人形のような胴体にジョウゼットの服を着始めた》のだけれども、このジョウゼットという素材は、人形のようにのっぺりした身体の線を消却することでかえって想像力を刺激するのであって、裸同然のみなりのまま蜂に追われて逃げ廻った《彼女の脚気の心臓がドキドキ動悸を搏(う)っているのが、ジョウゼットの服の上から透いて見えた》という視線は、ちょうど居あわせた板倉のものなのか、作者のものなのかは「見えた」の主語がなくあいまいだが、まなざしより深い触感はない、と語ってやまない。

 この雪子の体型こそは『陰翳礼讃』における谷崎の美しい母のそれに近い。《私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺(ちゅうぐうじ)の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体美ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸(おうとつ)もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀(しり)の線、(中略)私はあれを見ると、人形の心棒を思いだすのである。事実、あの胴体は衣裳を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。》 この人形は文楽の人形をさしていて、『蓼食う虫』で文楽を視る主人公の感想に託された《元禄(げんろく)の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。(中略)昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎しみ深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない》という「永遠女性」のおもかげであった。個性的色彩を消して一層の美を見させようとした雪子なのに、個性的な妙子の恋の逃避行のせいで、無名的な雪子の名前が取り違えられるという「新聞の事件」は、だからアイロニカルに機能している。

 形代にまつわるクライマックスは妙子の出産の場面だろう。三好との死産した女の児の件りで、もっとも近代的な末娘妙子に『源氏物語』の原動力となったもののけ(・・・・)と同じ古層が働きかける呪術性、境界領域の溢れだしもまた『細雪』物語の魅力である。

《三人は次々にその赤ん坊を抱き取ってみたが、突然妙子が激しく泣き出したのにつられて、幸子も泣き、お春も泣き、三好も泣いた。まるで市松人形(いちま)のような、………と、幸子は云ったが、その蝋色(ろういろ)に透き徹った、なまめかしいまでに美しい顔を見詰めていると、板倉だの奥畑だのの恨みが取り憑(つ)いているようにも思えて、ぞっと寒気がして来るのであった。》

 さて、足フェティシズムは今さら取りあげるのも陳腐だが、『細雪』にその徴候はなさそうにみえる。けれども注意深く読みこめば、形代としての足が螺鈿のような妖しい虹色で底光りしている。

 まずは男たちが担うものからあげれば、板倉が足を切り落とすのは、かなわぬ欲望の大胆な象徴であろう。申し分ない見合い相手と思われた橋寺氏は、神戸元町のとある雑貨店で靴下を買いたいから一緒に見てくれないかと雪子を誘ったのに、彼女はモジモジして困ったような顔つきで衝(つ)っ立っているばかりなので憤然となるのだが、このささいなエピソードの小道具として、女に男の足を連想させる靴下を選ばせるところに、橋寺のありきたりな淫蕩さが臭ってくる。奥畑の啓坊は、病みあがりの妙子を見舞ったとき、片脚をすっかり縁側の閾(しきい)に載せて、まっすぐに伸ばし、新調の靴が妙子の方へよく見えるようにするのだが、この男の自意識と性格がポーズで表現されている。

 姉妹の足に移る。巻頭の「B足らん」は足の病、脚気ゆえだった。雪子の足は作家の偏執的視線に晒される。見合い相手の飲みっぷりに意を強くして、白葡萄酒に目立たぬように折々口をつけていた雪子が、《雨に濡れた足袋の端がいまだにしっとりと湿っているのが気持が悪く、酔が頭の方へばかり上って、うまい具合に陶然となって来ないのであった》の隠微に湿った触感。悦子を学校へやるために雪子が《鞐(こはぜ)も掛けずに足袋(たび)を穿(は)いたまま玄関まで送って出ると》のきらめく細部。悦子が飼っている兎の一方の耳が立たないため、《そのぷよぷよした物に手を触れるのが何となく不気味だったので、足袋を穿いている足を上げて拇(おやゆび)の股に耳の先を挟んで摘み上げた》の、微笑ましくはあっても奇妙な感覚。あまりの暑さに雪子は、《悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を蹈んでいた》の、蹈まれるゴム毬に化身したい作者の欲望。『細雪』でもっとも美しい場面は、姉妹たちの自然な仲のよさを貞之助が覗くように見てしまう情景だろう。

《ある日、夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖(ふすま)を開けると、雪子が縁側に立て膝して、妙子に足の爪を剪(き)って貰っていた。

「幸子は」

と云うと、

「中姉(なかあん)ちゃん桑山さんまで行かはりました。もうすぐ帰らはりますやろ」

と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑(くず)を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌(てのひら)の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。》

 悦子もまた、《クリーム色の毛織のソックスを穿いた可愛らしい脚》、《紅いエナメルの草履》、ペーターからの小さすぎて嵌まらなかった《上質のエナメルの靴》といった描写のまわりをうろつく。

 形代ということでは髪もまたそうである。たとえば鬘(かつら)とは、仮装のための、仮託された死からなるものなのか。愛猫を剥製にした谷崎にとって、包む表層に魂が宿っていた。

《「この鬘、あたしも時々髷(まげ)に結うて被らして貰おうと思うて、こいさんと共同で拵えてん」

「よろしかったら、雪姉(きあん)ちゃんにも貸したげるわ」

「お嫁入りの時に被りなさい」

「阿呆らしい、あたしの頭に合うかいな」

 幸子が冗談を云ったのを、雪子は機嫌のいい笑顔で受けた。そう云えば彼女の頭の鉢は、毛が豊かなので見たところでは分らないけれども、飛び抜けて容積が小さいのであった。》

 鬘のエピソードは『細雪』の最後でふたたびあらわれる。妙子が死産した《赤ん坊は髪の毛をつややかに撫でつけられ、さっきの産衣を着せられているのであったが、その髪は濃く黒く、顔の色は白く、頬が紅潮を呈していて、誰が見ても一と眼であっと嘆声を挙げたくなるような児であった》、のその黒髪に形代として魂が宿ったあと、雪子が《大阪の岡米(おかよね)に誂(あつら)えておいた鬘(かつら)が出来てきたので、彼女はちょっと合わせてみてそのまま床の間に飾っておいたが、学校から帰って来た悦子がたちまちそれを見つけ、姉ちゃんの頭は小さいなあと云いながら被って、わざわざ台所へ見せに行ったりして女中たちをおかしがらせた。》

 悦子という情緒不安定な少女を一脇役にして、姉妹たちのどうということのない会話をいつまでも聴いていたい、何度でも聴きたい、と不健康なことをも健康な文体で表現し、なめらかに水平移動するカメラワークによって、感じられる時間がここにある。

 

<おぞましさ/あふれ>

 不安症と思わせる偏執的言辞の羅列をもって、『細雪』にも病名と薬名が呪文のように唱えられている。クリスティヴァ『恐怖の権力』から引用すれば、《作家とは隠喩による表現に成功した恐怖症患者であり、これによって彼は恐怖のあまり死んでしまうことなく記号のなかに宿ることができるのである》は谷崎にもあてはまる。

 妙子と女中お春は、おぞましさを産みだしつづける。暑い季節、妙子は、《汗で肌に粘(ねば)り着いた服を、皮を剥(は)ぐように頭からすっぽり抜ぎ、ブルーマー一つの素っ裸になって洗面所へ隠れたが、しばらくすると濡れ手拭で鉢巻をし、湯上り用タオルを腰に巻いて出て来て》といったぐあいで、《ひどい時は胡坐(あぐら)を掻(か)くような形をして前をはだけさせたりする。》 赤痢で寝つくと、《どんよりと底濁りのした、たるんだ顔の皮膚は、花柳病か何かの病毒が潜んでいるような色をしていて、何となく堕落した階級の女の肌を連想させた》のだが、中村眞一郎が《プルーストをして嫉妬せしめるに足る病気の妙子の描写に、限りない美しさを感じないだろうか》(『谷崎と細雪』)とした淫蕩陰影の美さえある。表層の汚れは内部からの穢れのあらわれであるから、雪子は、《妙子が入浴した後では決して風呂に入らなかったし、幸子の肌に触れたものなら下着類なども平気で借りて着る癖に、妙子のものは借りようともしなかった。》

 一方、お春の物臭(ものぐさ)は生来で、《女中部屋の押入に汚れ物がいっぱい溜るようになって、穢(きたな)くてしようがない、(中略)中から御寮人様のブルーマーが出て来たのにはびっくりした。あの人は洗濯するのが面倒臭さに、お上のものまで穿いていたのだ、(中略)始終買い食いや摘(つま)み食(ぐ)いをするので、胃を悪くしているとみえて、息の臭いのが鼻持ちがならない》などと苦情が絶えない。悦子が猩紅熱(しょうこうねつ)に罹ったときなどは、病人が食べ残した鯛の刺身をこの時とばかり貪(むさぼ)り食べるという風で、あげくは伝染も怖がらず、《悦子の手だの足だのを掴まえて、瘡蓋を剥がしては面白がっていた。お嬢ちゃん、まあ見てごらん、こんな工合に何ぼでも剥がれますねんと云いながら、瘡蓋の端を摘まんで引き剝がすと、ずるずると皮がどこまでも捲(めく)れて行く。》

 やがて、赤痢から回復した妙子を《もう、以前の彼女が持っていた性的魅力を完全に取り返していた》とする文章は、貞之助の眼とは言い切れないないように書かれているが、おぞましさ(アブジェクション)を覗き、言葉にする谷崎は、やはりクリスティヴァの《窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である。このエクリチュールの停止は即、窃視症の倒錯化につながる》をよく認識していたからこそ、エクリチュールに人生を捧げた。

 結婚式のために夜行で上京する雪子の《下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた》で『細雪』が終るのは有名だが、豪華絢爛たる『細雪』には美と同じほどの汚穢がどろどろと垂れ流され、あふれている。

 大正期、中国エキゾチズムに惹かれた谷崎らしく、貞之助の眼に飛びこんで来た水害の景観は《水は黄色く濁った全くの泥水で、揚子江(ようすこう)のそれによく似ている。黄色い水の中に折々餡のような色をした黒いどろどろのものも交っている》と描写されるが、水害で九死に一生を得た妙子にまつわって、どろどろはあふれでる。啓坊のところで発病した妙子のところへお春が行ってみると、《昨夜からもう二三十回も下痢したそうであるが、あまり頻繁なので、起きて、椅子に摑まって、御虎子(おまる)の上へ跨(また)がったきりであった。もっともこれは、そんな恰好をしていてはよろしくない、安静に横臥して挿込便器を用いなければならぬという医師の忠告があったそうで、お春が行ってから、彼女と奥畑とで無理に説きつけて、ようよう臥かすことができたが、お春がいた間にも何回となく催した。》 お春からの待ち遠しい電話(電話もまたあれこれ不吉な事件を垂れ流す)を受けた幸子は、容態の変化が案じられ、《どんな大便をするのん、血が交(まじ)っていないのん、と云うと、少し交っているようでございます、血のほかには鼻汁のようなどろどろした白い粘(ねば)っこいものが出るばかりでございます、と云う。》 神をも怖れぬ探究心だが(谷崎は厠(かわや)をたびたび題材化している)、『源氏物語』がけしからぬ汚物で女御(にょうご)のきものの裾が汚れる桐壷の話からはじまったことを気にとめたい。

 あるときは膣や口腔からの排出となる。愛猫の鈴のお産のために獣医を呼んで陣痛促進剤を注射してもらい(医者は妙子に注射することをためらって危ないめにあわすのに、猫には簡単に注射する)、《辛うじて口もとまで出かかった胎児を、幸子と雪子で代る代る引っ張り出した。(中略)そして、二人が血腥(ちなまぐさ)い手をアルコールで消毒し、臭(におい)のついた着物を脱いで寝間着に着換え、これから寝床へはいろうとしているときであった》にみる臭覚にもうったえてくる聖俗の混沌。不意に電話のベルが鳴ったので、幸子が取ると、お春の声で、妙子が陣痛微弱で苦しんでいて独逸製の陣痛促進剤を注射してもらえずに弱っているという。手足を踠(もが)いている妙子は、《何かえたいの分らぬものを嘔吐するやらした。それは物凄(ものすご)く汚いどろどろのかたまりのようなもので、三好が看護婦から聞いたのでは、胎児の毒素が口の方へ出るのだということであったが、幸子が見ると、赤ん坊が分娩後に始めて排泄する蟹屎(かにくそ)というものに似ていた。》

 口という開口部が無意識の裂けめなのは今さらのことだが、思いかえせば『細雪』の上巻第一章で、幸子は《紅棒(べにぼう)を取って、鏡の中の顔へ接吻しそうなおちょぼ口をした》と印象づけている。とくに妙子(パロディーみたいに口唇欲動と肛門欲動の記号を垂れ流す、幼くして母を亡くした末娘)の唇は、くりかえしクローズアップされる。舞「雪」の衣装を着た妙子がちらし鮨(「中心のない食べもの」の代表)を食べる場面では、《妙子は衣装を汚(よご)さないように膝の上にナフキンをひろげて、分厚い唇の肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しづつ口腔へ送り込みながら、お春に茶飲み茶碗を持たせて、一と口食べてはお茶を啜(すす)っているのであった。》 貞之助に「こいさんそんなに食べてええのんかいな」と聞かれて、「兄さん、うち、そんなに食べてえしませんねんで。口紅に触らんように少しづつ何遍も持って行くよってに、たんと食べてるみたいに見えますねん」と言いかえして、「藝者が京紅(きょうべに)着けたら、唇を唾液(つばき)で濡らさんようにいつも気イ付けてるねんて。もの食べる時かて、唇に触らんように箸で口の真ん中へ持って行かんならんよってに、舞妓(まいこ)の自分から高野(こうや)豆腐で食べ方の稽古するねん」と教える。

 しかし、口唇という外/内が境界侵犯する開孔部に、時間がたつと浄から不浄へ変化する食物を送り込む行為は、何がしかの穢れを肉体に交らせるため、腐敗を引きおこす。幸子はビフテキを食べて黄疸になる。ロシア人との会食で生牡蠣(なまがき)におびえる。鯖の血合は妙子の肝臓に膿瘍(のうよう)を起こす。なのにこの姉妹はことあるごとに、「オリエンタルのグリル奮発しんかいな」「出し巻の玉子、どうもなってへんやろか」「それよりサンドイッチが怪しいで、この方を先に開けよう」と口を動かし続け、流れだすどろどろをおぎなおうとばかりに、血と肉を所望してやまない(板倉の大腿部が脱疽(だつそ)のために切られる手術に立ち会った妙子は「当分牛肉の鹿(か)の子(こ)のとこ―――」という比喩さえ口にする)。おとなしそうな雪子(しかし田辺聖子によれば関西の女のふてぶてしさの典型)はといえば、《切り身にしてまで蝦の肉が生きてぷるぷる顫えているのを自慢にするいわゆる「おどり鮨」なるものが、鯛にも負けないくらい好きなのではあるが、動いている間は気味が悪いので、動かなくなるのを見届けてから食べるのであった》の、けっきょくはおぞましさを口腔にとりこんでしまう現実さこそ彼女の真骨頂であった。

 

<めぐり>

 おぞましさを引きたてるかのように、白が美しい。雪子の顔のシミをかえって目立たせてしまう京風厚化粧のお白粉。家族で飲みあう白葡萄酒。切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色の鯛。白兎。白が零れる小手毬、梔子(くちなし)、白萩、さつまうさぎ、雪柳、平戸つつじ。いっこうに雪が降らないこの小説の細雪とは、これら白い散乱ではないか。たとえば次の場面には季節のめぐりと日常行事を背景にして、白と穢れの対比、移ろいがある。

《幸子(さちこ)は去年黄疸(おうだん)を患(わずら)ってから、ときどき白眼(しろめ)の色を気にして鏡を覗き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。或る日彼女は所在なさに、例年のように葭簀(よしず)張りの日覆(ひおお)いの出来たテラスの下で白樺の椅子(いす)にかけながら、夕暮近い前栽(せんざい)の初夏の景色を眺めていたが、ふと、去年夫に白眼の黄色いのを発見されたのがちょうど今頃であったことを思い出すと、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つむしり始めた。》

 住吉川と蘆屋川は氾濫し、幸子は流産したあげくにぐずぐずと出血し、雪子の見合い話はいくたびも流れ、誤った新聞記事が流布され、妙子は絞り腹になり、雪子の下痢はとうとう止まらない、というように、なにもかも流れてゆく『細雪』だが、もっとも流れてゆくのは「時間」であって、その流れゆく時間の観念において、下痢が肛門括約筋を自己統制不能におちいらせるように、姉妹たちの時間観念の括約筋も緩みきっている。『細雪』は、はじめ『三寒四温』という題名が考えられていたくらい、はてしない循環、「めぐり」の律に従っていて、無情の時の感覚は、暗黒小説(ノヴェル・ノワール)としての宇治十帖の浮舟をのみこんだ黄泉(よみ)めく不気味さを思わす。

 絵巻物としての『細雪』の雪月花は、小説の題名、雪子、舞の「雪」、毎年の欠かせない行事としての花見(年々散文化して最後はたった一行となる)、そして月の病で象徴される。『細雪』の美しいおぞましさは、母なるものに、妊娠のために内奥の子宮が準備した層が剥がれることによる経血(月のめぐり)に帰着する。陰暦のめぐりに幸福に支配されて、濃く豊かな稔りを生んでいた上巻が、ゆるゆる中巻、下巻へと流れてゆくうちに、のっぺりとして味気ない戦時の統制された禁欲の現実に日常が拡散してしまう(《菊五郎も来ず》)といった文化的悲劇がゆるみなき筆力で書きあげられている。そういった希薄さへの隠喩(メタファー)が雪子の顔のシミであった。

《雪子の左の眼の縁、―――委(くわ)しく云えば、上眼瞼(うわまぶた)の、眉毛の下のところに、ときどき微かな翳(かげ)りのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。(中略)ふっと、一週間ばかりの期間、濃く現れる期間は月の病の前後であるらしいことに心づいた。》

 と、上巻では月のめぐりに重なっていたのに、下巻ともなると、

《以前は月の病(やまい)の前後に濃くなる傾向があり、大体週期的に現れるようであったのに、近頃は全く不規則になって、どういう時に濃くなるとも薄くなるとも予測が付かず、月のものとは関係がなくなったようにさえ見える。》

 というように、めぐりの喪失へ変化してしまう。

 雪子の見合いとは、写真からはじまる品定めの行事であるが、シミは商品価値のいちじるしい低下をもたらす。『細雪』は、結婚を要(かなめ)とする家族制度における未婚女という商品の、価値とフェティシズムをめぐる徴候的読み方(見えないものを見る、見そこないを見る)の宝庫でもある。

 帝国ホテルまで出てきた幸子は、その商品価値を落とすまいと、雪子の月のめぐりまで熟知しているのがわかる。《ずっとあれから続けている注射が利いて来たのであろうか、このところいいあんばいに眼の縁の翳(かげ)りが、完全に消えたとはとはいえないけれども大分薄くなっているのであるが、多分もう月の病が近づいている頃でもあるし、汽車旅行の窶(やつ)れで冴えない顔色をしているのを見ると、こういう時にはよくあのシミが濃くなることを思い合わせて、何よりこの場合雪子を疲れさせないことが第一であると考えられた。》

 そういう幸子もまた月のめぐりの下にある。有馬(ありま)温泉で病後の療養をしているある奥さんを見舞うためにバスで六甲越えをした幸子は、《その夜寝床へはいってから、急に出血を見て苦痛を訴え始めたので、櫛田医師に来診して貰ったところ、意外にも流産らしいと云う》事態におちいってしまう(のちに、妊娠五ヶ月と診断された妙子は山越しをして有馬に雲がくれさせられる)。《このところ二度ばかり月のものを見なかったので、ひょっとしたら、という豫感がしないでもなかったのであるが、何分悦子を生んでから十年近くにもなるし》といった女性器官の豫感のハズレを書きこむ谷崎(たしかに谷崎は、河野多恵子が指摘したように、小説が人生を豫感した文学者であったけれども)は、女の裂けめからあふれだす穢れに畏怖と憧憬をないまぜにしつつ臨床学的関心を隠せない。雪子の見合い前日になっても、《まだ時々少量の出血を見、臥(ね)たり起きたりしているという程度であった》の文章を皮切りに、《貞之助は朝起きるとから、出血はまだ止まらんのか、と、第一にそれを気にしていたが、午後にも早く帰って来て、どうや、出血はと、また尋ね、(中略)幸子はそう聞かれるたびに、いくらかずつ良い方で、出るものも微量になりつつあると答えてはいたものの、実は昨日の午後あたりから何度も電話口へ立ったりして体を動かしたのが障(さわ)ったらしく、今日はかえって量が殖えているのであった。》

 なめまわすように検分し、世話を焼く身はいったいどういった存在なのか。見合いがはじまってからも、《幸子はそれから化粧室へはいって行ったきり、二十分ほど姿を隠していたが、やがて一層青い顔をして戻って来た。》 支那料理屋に移ってからも、《幸子はできるだけ何気ないようにはしていたものの、トーアホテルで一回、ここへ来てから食卓に就く前に一回検(しら)べたところでは、明らかに今夕家を出てから以後出血が殖えつつあって、急に体を動かしたことが原因であるに違いなく、それに、案じていた通り、背の高い堅い食堂の椅子に腰かけているのが工合が悪く、その不愉快を怺(こら)えるのと、粗相をしてはという心配とで、じきに気分が塞いで来るのを、どうにもしようがなかった。》

 いっしょになって粗相を心配し、化粧室にまで押しかけて行きかねないブルーな女谷崎がいる。これほどに女の出血について書きつらねた小説は女性作家のものでもみたことがあるだろうかと考えているうちに、『源氏物語』の「浮舟」がそうだったと思いあたった。その現代語訳に心血を注いだ谷崎がこの古典から吸収した最大のものは、めぐり、あふれる女の生理と、物語の終り方だったのに違いない。

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        ***引用または参考***

ロラン・バルト『記号の国』、石川美子訳(みすず書房

・辻邦夫・水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫

須賀敦子『作品の中の「ものがたり」と「小説」』(河出文庫

渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(新潮社)

・谷川渥『谷崎潤一郎 文学の皮膚』、現代思想、1994・12月号(青土社

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』枝川昌雄訳(法政大学出版局

中村眞一郎『谷崎と『細雪』』、中村眞一郎評論全集(河出書房新社