文学批評 「フーコーと鴎外 ――「知/言説」「権力」「告白」「歴史/狂気」」

 「フーコーと鴎外 ――「知/言説」「権力」「告白」「歴史/狂気」」

 

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フーコーと鴎外」について考えてみたい。

フーコーにおける鴎外」ではない。フーコーは一九七八年四月に二度目の来日を果たし、一か月近く滞在して講演、対談、インタビュー、精神病院や監獄訪問や禅寺での座禅体験などをした。数か月前から日本の文化や社会状況についてさまざまな文献を学んで来たが、講演における日本への言及は、十六、七世紀ヨーロッパのキリスト教社会で<牧人=司祭制>が国家の形成に重要な役割を果たしたことと、丸山眞男『日本政治思想史研究』を読んでの、日本の徳川幕府体制の中で儒教が果たした役割との共通点と差異について述べた程度にすぎず、鴎外を読んでいたとは思いがたい。

「鴎外におけるフーコー」でもない。鴎外は海外情報に特別に詳しかったが、一九二二年に死んだ鴎外が一九二六年に生を受けたフーコーを知る由もない。しかし鴎外の業績、軌跡は、フーコーを突き動かした「知/言説」、「権力」、「告白」、「歴史/狂気」といった現代的テーマと驚くほど重なりあう。だから「鴎外におけるフーコー」的なもの、と言うべきかもしれない。

『鴎外全集』全38巻(岩波書店)を手に取れば、木下杢太郎が森鴎外の業績を「テーベス百門の大都」と嗟嘆したのは誇張ではなかったと認識させるに十分だ。

 およそ1巻から20巻までは文学者の姿として、質と量と先進性に目を瞠らせる翻訳(『即興詩人』、『諸国物語』、ゲーテファウスト』等)と、小説(ドイツ三部作の『舞姫』から歴史小説阿部一族』等まで)、戯曲、詩歌。21巻から27巻は批評家として、審美論、文芸批評、美術評論、劇評、歌舞伎評、社会思想批評、ジャーナリズム(海外通信『椋鳥通信』)。28巻から34巻は軍医官僚として、衛生学、医事評論、戦時衛生、戦争論。35巻が日記(『独逸日記』、『小倉日記』等)、36巻から38巻が書簡、手記となっている。これらの基底には主筆、主催した「しがらみ草紙」、「めさまし草」、「衛生新誌」等による知の啓蒙活動がある。

 おそらく近代日本の表象空間において、これほどフーコーの関心と似ていた人間はほかにいないだろう。もちろん鴎外の思想的問題意識は半世紀後のフーコーに及ばず、とりわけ「権力」との関係性は、『舞姫』によるデビューから歴史小説一辺倒になった晩年を経て、有名な「遺書」で終わるまで、持続的に苦悩しながらも国家「権力/装置」そのものの軍医トップに登りつめた立ち位置から限界はあるが、むしろその差異を測ることで見えてくるものがある。

 

 フーコーは遺言で未刊行テクストの死後出版を許さなかったが、単行本以外のフランス及び外国で既刊行されたテクストを集めた『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ~Ⅹ』全10巻(蓮實重彦渡辺守章監修/小林康夫石田英敬松浦寿輝編、筑摩書房)(原著で全4巻)が没後に出版された。

 各巻の構成は次の通りとなっている。

ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』

ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー

ミシェル・フーコー思考集成III 1968-1970 歴史学/系譜学/考古学』

ミシェル・フーコー思考集成IV 1971-1973 規範/社会』

ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』

ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-1981 政治/友愛』

ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-1983 自己/統治性/快楽』

ミシェル・フーコー思考集成X 1984-1988 倫理/道徳/啓蒙』

 発表年次と、日本版に付された副題によって、フーコーの関心がどのように推移して行ったかが類推できるが、主著である『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生――監視と処罰』、『知への意志(性の歴史Ⅰ)』と並行して読めば、フーコーの初期(一九六〇年代)、中期(一九七〇年代)、後期(一九八〇年代)において、執筆当時は十分に自覚的ではなく、考察の焦点に据えてはいなかったけれども、真の関心、テーマは「権力」をめぐるものだった。

ミシェル・フーコー思考集成』の副題「狂気/精神分析/精神医学」、「文学/言語/エピステモロジー」、「歴史学/系譜学/考古学」、「規範/社会」、「権力/処罰」、「セクシュアリテ/真理」、「知/身体」、「政治/友愛」、「自己/統治性/快楽」、「倫理/道徳/啓蒙」といったフーコーの広汎なテーマの中で、「権力」ばかりでなく、「知/言説」、「告白」、「歴史/狂気」を、「啓蒙」、「事件」、「空間」へも派生しつつ考察してゆく。

 その際、フーコーについては『ミシェル・フーコー思考集成』のインタビュー、対談での発言が下手な解説書よりもわかりやすく、何よりも生の言説なので、少し長くなるが引用することで理解を共有する。鴎外については高校の国語教科書等による道徳教育的先入観、思い込みを排除しながら、両者の近親性を確認、比較検討したい。

 

 

<知/言説>

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)から。

《私は、科学史の専門家カンギレムの弟子であったので、私の問題は、一科学の誕生と発展と組織化を、その内的構造化からではなく、その支えとなった外在的・歴史的要素から出発して研究する、そういう科学史は不可能だろうかという問いでした。

 そういうわけで、私はある時期まで、科学的言説の内的分析と、その展開の外在的条件の分析との間で揺れ動いたのです。『狂気の歴史』では、精神病理学がどのように発展したか、どのようなテーマを取り上げ、どのような対象を扱い、どのような概念を用いたかを明らかにしようとすると同時に、それが行なわれた地盤というもの、すなわち<監禁>の実践、十七世紀における社会的・経済的条件の変化をも捉え返そうとした。》

 

 フーコーの経歴と問題は、鴎外がドイツ留学で学びとろうとしたコッホ細菌学、衛生学、医学統計、医療行政や、帰路に立ち寄ったイギリスの公共医療施設見学という経歴、関心(「衛生新誌」等による社会的視野の啓蒙)と重なり合う部分が多い。鴎外が学んだドイツ軍の衛生制度は、帝国主義列強に伍すことを急務とする日本陸軍にとってただちに必要不可欠な実践的知で、鴎外は実際に医者であったことから医学学術論文を残した。

 鴎外は留学先のドイツで三つの医学的研究を実習した。 第一に、ミュンヘンの衛生学者ペッテンコーファー教授の命により「ビールの利尿作用について」を研究した。ビールの利尿作用がアルコール含有量によるものであることを証明し、ドイツの「衛生学雑誌」に掲載された。第二に、「ムギナデシコ精子の毒性と解毒法について」で、ドナウ河岸で花を咲かせるムギナデシコの実は毒性が強く、家禽、家畜が食べて死ぬことが多かったが、 自らムギナデシコ入りパンを食べて障害を調べた。この実験のさなか、ルードヴィヒ二世が湖で溺死した(鴎外は湖に何度か通って、「事件」を『うたかたの記』で小説化した。王を救おうとして引きこまれて死んだ侍医の精神科医グッデンを、殉死忠臣と漢詩に詠んだ)が、『うたかたの記』のテーマの一つは「狂気」でもある。第三に、ベルリンで厳密な科学的研究を指導するコッホの下で、「下水道中の病原菌について」を研究し、論文発表している。

 

 フーコーは外在的、歴史的、社会的な要素分析の一例として、『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「社会医学の誕生」(リオ・デ・ジャネイロ国立大学での講演)で、医療化の歴史、国家医学、都市医学、労働力の医学を論じている。

《もうひとつの有名な例は、結核です。一八一二年に結核で死んだ病人の数を七百人とすると、コッホが彼の名を世間に知らしめることになる結核菌を発見した一八八二年には、わずか三百五十人が結核で死んだにすぎません。そして化学療法を取りいれた一九四五年には、死者の数は五十人の割合にまで減ります。どのようにして、そしてなぜ結核という病気はこのように鎮静化したのでしょうか。生命=史のレベルで、どのようなメカニズムが働いたのでしょうか。社会・経済的な状況の変化、人体の適応や抵抗といった現象、細菌そのものの弱体化、そしてさまざまな衛生手段や隔離手段が重要な役割を果たしたことは、疑いの余地がありません。(中略)十七世紀半ばにドイツで計画され、同じ世紀の末期と十八世紀初頭に導入された医療行政は、次のような要素から成り立っていました。》と、ドイツは国家的なレベルの罹患率の観察システム、医学の実践と知の規範化(医者の規格化)、医者の活動を監視するための行政組織、医学官僚の創設といった国家管理主義によるか国家医学とでも呼べるようなものを産み出した、とする。

 また、《新しいかたちの社会医学がイギリスで誕生します――イギリスは産業の発達を経験し、その結果、プロレタリアの形成が他の国々よりも大規模で、急速だったからです。(中略)イギリスの医学が社会医学になっているのは、主として「貧民救済法」のおかげです。(中略)この法律の条項には、貧窮者たちを医学的に管理するということが含まれているのですから、貧しい人々が扶助制度の恩恵をこうむるようになったときから、さまざまな方法で彼らを医学的に管理することが義務化されます》からは、「権力」「装置」によって、《豊かな人々はこうして、貧しい階級が生みだす疫病の犠牲になるという危険から解放されたのです。》という批評精神を見ることができる。

 

 鷗外においては、『鷗外全集』の医学・衛生学に関する20巻から24巻から、例えば「公娼廃後の策奈何」、「「公娼廃後策」の原材」、「公娼廃後策とフリイドリヒ、ザンデルと」、「性欲雑説」、「女子の衛生」といった啓蒙活動において、外在的、歴史的、社会的な要素分析としてセクシュアルなものへの関心が見てとれる。

 衛生学を学ぶということは、ドイツ、プロイセンの外在的・歴史的要素への眼差し(成果は、日本の都市衛生、陸軍糧食への具体的対策)を必須とするものだった。鴎外の場合も、内的なものと外在的なものとの揺れ動きがある。明治二十一年から二十六年までのドイツ三部作、文芸評論、海外文学翻訳紹介ばかりでなく、医学の分野における「衛生新誌」刊行による啓蒙活動、軍医学校での出世、医学博士学位取得、慶應義塾での講義といったパッションの後で、明治二十七年から四十一年までの文学活動の中断、空白、その埋め草のような審美学研究、アンデルセン『即興詩人』翻訳の諦念の日々から晩年の歴史小説へのある種の逃避に、作家と軍医総監にまで登りつめた二重生活の不機嫌な内実が見え隠れしている。

 

「啓蒙」について触れておこう。

 フーコーは、『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)で、哲学者の役割をこう述べている。

《哲学者は、<見えないもの>を見えるようにするのではなく、<見えているもの>を見えるようにする役割をもっていると思います。つまり、常に人が見ていながらその実態において見えていないもの、あるいは見損なっているものを、ちょっと視点をずらす(・・・・・・)ことによってはっきりと見えるようにする作業なのです。哲学とは、このわずかな首のひねり(・・・・・・・・・)、わずかな視点の移動(・・・・・・・・・)によって成立しているので、それは十八世紀ヨーロッパにおいて<フィロゾフ>と呼ばれた意味での<哲学者>の作業によほど近いわけです。

 ところで、現代社会において<知識人>が果たし得る役割があるとすれば、それは未来に関わる真理を予言するというようなことではもはやない。むしろ、その役割は、現在時の診断者(・・・・・・・)のそれであり、現在何が起こっているかを、しかも自分の専門領域について、分析することなのです。(中略)

 現在、たとえば医療について、性の解放について、環境問題について、一連の事件が起きている。たとえば原子力物理学者や生物学者は、それぞれの専門の立場から環境問題を分析し、かくかくの危険があると批判することができる。しかしその批判は、普遍的な良心=意識というような立場から、システマティックになされるものではないのです。

 現代社会における<知>は、その軌跡が余りにも複雑になったために、文字通りわれわれの社会の<無意識>になってしまっている。われわれはわれわれの知っていること(・・・・・・・)が何かを知らないし、われわれは<知>の作用が如何なるものかを知らないのです。その意味で、知識人の役割とは、われわれの社会に無意識のようにして君臨するこの<知>を、意識へと転換することにある、と言えると思います。》

 

 鷗外は、哲学者のシステマティックな批判には至らなかったが、一般的な啓蒙には関心があった。明治の啓蒙家として有名な西周(にしあまね)は両親の従兄であり、鴎外自身も翻訳、批評、医学の分野で知の啓蒙に努めた。その活動の一つに、一九〇九年(明治四十二年)から、第一次世界大戦を告げる一九一四年(大正三年)まで書き継がれた『椋鳥(むくどり)通信』があって、全集の1巻を占める。鴎外の新しい文体とユーモアをもって文芸誌「スバル」に連載された世界のニュースは、現在のツイッターに近く、文学、美術、演劇、音楽、オペラ、出版、政治、軍事、宮廷、科学、社会情勢、犯罪、風俗、モード、珍談奇談、女性参政権、ゴシップにまで及んでいる。『舞姫』文中の《我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。》の意が持続している。ソースはイギリスのロイター、フランスのアヴァス、ドイツのヴォルフ通信という三大通信社の新聞や雑誌が主で、一九〇四年にシベリア鉄道が開通すると二週間で情報を手にして諜報活動的タイムリーさで広報し、総登場人物は二千八百人にも及ぶという。

 いくつか引用するが、後に論じるフーコー「汚辱に塗れた人々」の収監請願承認文書と同じく物語、文学を削ぎ落とした「言表(エノンセ)」の色調がある。

《一九〇九年二月六日発

〇楽人 Felix(フェリックス・) Mendelssohn(メンデルスゾン)-(=)Bartholdy(バルトルディ) が百年目の誕生日だというので、二月三日には独逸の諸都会の楽人達がいろいろな催(もよおし)をした。この人が生まれたのは一八〇九年で、故郷はHamburg であった。Leipzig〔ライプツィヒ〕が好(すき)で、多くあそこにいる中に、千八百四十七年十一月四日にあそこで亡くなったのだ。それだからあそこの楽堂(Gewandhaus)の前に立像が据えてある。今の趣味から云えば、古臭い楽(たのしみ)であるが、まだ民心には影響している。》

《一九〇九年三月十二日発

〇二月二十二日にはCharlottenburg〔シャルロッテンブルク〕でFriedrich(フリードリヒ・) Spielhagen(シュピルハーゲン)が八十の誕生日を祝った。首相も賀客の中に見えた。〇二月二十四日には巴里の女優Irene(イレーヌ・) Muza(ミュザ)が酒精のはいっている水で髪を洗わせていて,その水に火がうつったので大火傷(おおやけど)をした。〇今年の春から夏にかけての巴里の流行色はBleu electric〔緑がかった青〕である。緑を帯びた青で,濃淡はいろいろある。伯林では青い男の帽がはやる。》

《一九一〇年四月十三日発

〇National Galery〔ナショナル・ギャラリー(ロンドン)〕に Velasquez(ベラスケス) の「鏡を持った Venus〔ヴィーナス〕」がある。この頃 Grieg(グリーク) という批評家が、その画に J. B. D. M. という落款(らっかん)があるのを見出して、ウェラスケスの壻 Juan(フアン・) Batista(バウティスタ・) del(デル・) Mazo(マソ) の署名であろうと云い出した。併しその文字と見たのは裂目であったらしい。》

 

 なお、フーコーにはカントの『啓蒙とは何か』についての重要な論考があって、『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-1988 倫理/道徳/啓蒙』の「啓蒙とは何か」で読むことができる。フーコーによれば、カントの啓蒙論は、単なる知性の開化や知識の豊かさではなく、人間が自らの理性を十二分に用いて自分自身で批判的に思考すること、であり、フーコーはカントの批判的態度から、厳格な「自己と自己の関係性」、「倫理」、「道徳」、「自己のテクノロジー」を思索の糧として見出した。知性の開化や知識の豊かさといった一般的啓蒙活動に熱心であった鴎外においても、カントの言う「批判的態度」、フーコーが思延した厳格な「自己と自己の関係性」、「倫理」、「道徳」、「自己のテクノロジー」という筋は、明治人として通っていたのではないか。

 

 次に「言説」について見てゆく。

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)から。

《私は、科学的言説の歴史を書こうとして、アングロ・サクソン系の分析哲学を研究したことがあります。その分析哲学は、<言表(エノンセ)>と<言表行為(エノンシアシオン)>について、一連の見事な分析をしていて、重要なものです。しかし問題は少し違っていた。私の問題は、どのようにして<言表>が形成されたか、どのような条件でそれが真実を語っているか、などということではなかった。私の問題は、<言表>よりはもっと大きな単位を対象とすることであり、それは不可避的に分析の厳密さにおいていささか劣ることにもなるのですが、つまり、どのようにしてある型の<言説>が形成されるのか、またどのようにして、その言説の内部に作動する一連の規則があるのか、それを知ることだった。しかもこの規則というのは、<言表(エノンセ)>がそれに従って形成されなければ、もはやその型の<言説>には属さないと見做されるほどはっきりしたものなのです。

 非常に簡単な例を取りましょう。十八世紀末まで、フランスにおいては、いかさま治療師(・・・・・・・)の言説と医者(・・)の言説とには、さしたる差はなかった。差は、うまくいくかいかないか、勉強したことがあるかないかであり、彼らの言っていること(・・・・・・・)の性質は大して違っていなかった。ところが、ある時点からは、医学的言説はある<基準>に従って構成されることになり、たちまちに、それを口にする人物が上手な医者か下手な医者かは分からぬにしても、医者なのかいかさま治療師なのかは分かってしまうようになる。彼らの語ることは同じ事柄ではなくなるし、彼らが支えを見出す因果関係も、彼らの用いる概念も同じものではなくなるのです。一つのはっきりした分割が起きたわけです。したがって、医学的言説が科学的言説として認められるためには、何について語り、どのような概念を用い、どのような理論を背景にもたねばならなかったのか、それを知るのが、『言葉と物』と『知の考古学』の時点での私の問題だったわけです。》

 

 鷗外はフーコーとは違って小説家だったから、明治近代文学を取り巻く外的状況に対して、新しい文体で作品発表する責務に燃えた。その実績を国内外の文学に通じた二人の作家兼批評家が顕彰しているので紹介する。

 吉田健一は、《鷗外は更にコッホに学ぶ為に、明治二十年四月にベルリンに行き、翌年七月留学が終って日本に向けて出発するまでここに滞在した。そして彼がこのように四年近くドイツの上下の人々と親身になって交際し、ベッテンコオフェル、コッホ等の下にドイツ語を自在に駆使して各種の研究を発表し続けたことを、例えば、文学は人間の生活を扱うものだという風な、単に一般的な立場からだけ文学の問題と結び付けて考えるのは間違っている。彼の語学の才能は、彼が論理的な頭の持主だった事から来ているのは言うまでもないが、まだ文学作品を書くのに用いられる日本語が言語として体をなしていなかった時代に、彼がドイツ語のような正確な構造を持った言語に堪能だったことは、彼が後に日本で文学の仕事を始めた時に、彼がそれまでとは違った精密な表現を日本語で試みるのに役立たなかった筈はないのである。事実、現代文学の表現に堪える日本語の文体を最初に完成したのは彼であって、ここでも彼のドイツ留学と日本の現代文学の間に直接の関係が認められる。》

 中村真一郎は、《当時、森鷗外は二本脚で、露伴は一本脚で立っていると評されたが、これは鴎外においては西洋文学と漢文学との、ふたつの教養が、その文学を支え、露伴の場合は専ら漢文学のみが、支えているということを指摘していたので、それは、鷗外の場合は「和洋折衷」の中途半端に終らずに、西洋文学も漢学も徹底していたことを意味していたし、露伴の場合は漢学一点張りで、やはり純粋な高度に達していたことに敬意を表した評言だったのである。(中略)そうした状態を、弟子の荷風は、「鴎外先生の文体(・・)は、ラテン文と漢文との粋をあつめたものである」と指摘した。(中略)この場合の「ラテン文」は必ずしも、キケロを意味するのではなく、広くヨーロッパ文学一般を指すのだろうし、特にドイツ語の文体の精華を体現して、新しく生れたばかりの、日本語の文学用語である「口語」の要素にとり入れ、一方、江戸時代からの伝統的な漢文に対する極めて高い教養水準を維持して、その文語体の長所を、やはり口語体のなかに生かそうとした、ということである。》

 あえて二つ付け加えておく。一つは、医学、衛生学の学術論文、科学的啓蒙活動にも鴎外の言説の知性、明晰性が発揮され、近代日本の科学研究の客観性、伝達理解力に繋がったこと。二つめは、文芸作品において年少の頃から親しんだ中国小説(前田愛『近代読者の成立』の「鴎外の中国小説趣味」に詳しい)、江戸人情本浄瑠璃の影響もあるということ。『舞姫』で主人公がエリスと街角で知り合う場面には、中国伝奇小説『情史類略』の風流奇縁や、鴎外が書生時代に浄瑠璃『生写(しょううつし)朝顔話』(『朝顔日記』)を漢文に訳していて、才子(駒沢=阿曾次郎)が佳人(深雪)に慕われるという夢、悲恋や、為永春水作『春色梅暦』の丹次郎と米八の出逢いに似ている。西欧文学にも公平さを保てば、鴎外が翻訳したゲーテの『ファウスト』で、ファウストがマルガレーテを街中で見染める場面が反映されているだろう。鴎外はその硬派な文体、厳格な風貌から「夢」とは無縁との先入観を抱かれがちだが、例えば『魚玄機』、『百物語り』などを読めば「夢」の人でもあったとわかる。

 

 

<権力>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「権力と知」(蓮實重彦との対談)から。

《わたしが『狂気の歴史』で実現しようとしたことは「狂気」をめぐる「知」の諸形態の分析といったものではなく、十七世紀いらい、いわゆる「理性」なるものがいかなる「権力」=力を「狂気」の上に及ぼしつづけてきたかという分析にあったことがわかります。『臨床医学の誕生』についても同じことがいえるでしょう。つまり「病気」という現象が、資本主義形成期の社会に、国家に、制度にいかなるかたちの挑戦をかたちづくりその挑戦に対して、諸「権力」がいかなる反応を行ったか――医学の制度化と病院の組織化等々――という分析がその真の主題でした。『監獄の誕生――監視と処罰』はほぼそれと同じことを監獄の制度化という点から考察したものですし、『言葉と物』の場合も、そのいささか「文学」的な表情の下で、「科学」的な諸ディスクールの中に含まれた「権力」=力の分析が行われていたといえます。すなわち、しかるべき歴史の一時期に、生命と経済と博物学をめぐる「科学」的ディスクールを口にしようとするとき、そのディスクールがいかなる「権力」的なメカニズムによって規制され、どのような規則に従属しなければならなかったかという点の標定こそがその主題だったのです。》

《「権力」と聞くと、誰もがすぐに軍隊や警察そして司法制度といったことを思いだしてしまう。昔は姦通や近親相姦が罰せられ、いまでは同性愛や強姦が罰せられている、等々といった具合に。

 ところがそうした「権力」の概念は、すべてを「国家権力」に還元してしまった結果、現実に存在している「権力」関係、たとえば一人の男性と一人の女性との間に存在しているもの、知っているもの、つまり「知」の所有者と「知」の非所有者の間に存在しているもの、両親と子供との間に存在しているものを無視したり、二次的なものと考えてしまう。しかし現実の社会には、こうした「権力」関係、力の関係が無限に存在している。そこには抗争がありミクロの戦争がある。こうしたものは普通、大いなる「国家権力」によって上から統御され、階級的支配に屈しているとされている。しかし逆に、国家という構造や階級的支配はこうした小なる「権力」関係がない限り機能しはしない。たとえば兵役の強制という一つの例をとってみても、もし各人のまわりに無数の「権力」関係がなければどうなるか。両親とか、教師とか、上役とか、知識を吹きこんだものとかに各人を関係づける力の束のようなものがなかったら、強制する側の人間はどうなってしまうか。国家なる抽象的なものが強制する兵役といった制度がこれほど隠微にしてかつ暴力的に堅持され続けてきたのは、それを強制する力が、さまざまな個体的で局部的な「権力」関係の内部に根をおろし、それを戦略的に利用してきたからです。「権力」ということばで明らかにしたかったのは、こうした関係です。》

 

 鴎外『舞姫』の主人公豊太郎にとっての「権力」も、《大臣は既に我に厚し》という国家権力体制ばかりでなく、両親の善意、上役からの期待と圧力から始まって、権力対個我の引き裂かれの原因は、相澤も含めて同輩という世間の空気、軋轢「装置」からの孤立感が『舞姫』を漂う寒々とした表徴となっている。さらに見方を変えれば、豊太郎自身は意識していないだろうが、エリスにとって豊太郎は金銭的扶養者、結婚の相手、知的なドイツ語の指導者という権力存在となってしまっている。権力はそれと自覚されることなく無数の点から出発して、不均等かつ可動的な「力のゲーム」として分析されるべきものであり、単に禁止や懲罰という一方的な「抑圧の構図」に尽きるものではなく、つねに内在して機能することを、『舞姫』は描いている。

舞姫』の「無数の権力関係」、「権力の束」の一例を引用すれば、

《余は私(ひそか)に思ふやう、我母は余を活きたる辭書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辭書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目にふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼(か)む境に入りぬ。

 官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比(ひごろ)伯林(ベルリン)の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣(ざんぶ)するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。》

《彼(筆者註:エリス)は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書(ふみ)を讀みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に關りしを包み隱しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを祕め玉へと云ひぬ。こは母の余が學資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。》

《その名を斥(さ)さんは憚あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡(しば) 芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許に報じつ。さらぬだに余が頗る學問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に傳へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を傳ふる時余に謂ひしは、御身若し即時に郷に歸らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶豫を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤も悲痛を覺えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り來て筆の運を妨ぐればなり。》

《余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれ(筆者註:相澤)は屡(しば) 驚きしが、なか/\に余を譴(せ)めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢りし時、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素(も)と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活(なりはひ)をなすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れその言(こと)のおほむねなりき。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「政治の分析哲学――西洋世界における哲学者と権力」(一九七八年四月の朝日講堂での講演)には、日本への対照がある。

《西洋世界には中世以来、必ずしも政治的・法制的でもなく、経済的でもなく、また民族支配的でもないが、しかし西洋社会に構造的に大きな作用を及ぼした権力の形があった。

 ここで問題になる権力は、宗教に由来する権力なのだ。つまり、人間が生まれてから死ぬまで、あらゆる状況で人間を導き、しかも来世での魂の救いのために現世での行動を規制するような一つの権力であり、それを私は<牧人=司祭型権力>と呼んでおこうと思う権力なのだ。

<牧人=司祭型権力>とは、語源的な意味で、<牧人=羊飼い>が、<羊の群れ>に及ぼす権力ということだ、羊飼いが己の羊の群れの一頭一頭の羊に心をくばるというこの型の権力は、ギリシア・ローマの古代社会には存在しなかったし、また、望まれもしなかったであろう。

 それは、キリスト教とともに発展してきた権力であり、キリスト教の制度化、キリスト教会内部の階層的秩序、来世や罪や救済といった信仰の総体、<牧人=羊飼い>である司祭というものの確立、すなわち羊の群れである信者に対し<牧人>としての責務を果たす存在の確立とともに形成されてきた。それは中世を通じて封建社会の発達と微妙な関係を持ちながら発展してきたが、十六世紀の宗教改革並びに反宗教改革の時期に一層強化された形において展開を見たものである。しかし、変遷はあるにしても、この<牧人=司祭型権力>は、常に次の特性を持つ権力であるという本質的な性格を奇妙なことに保ち続けていた。すなわち、すべての権力と同じく集団全体に力を及ぼしつつも、同時に、その<集団=羊の群れ>の中の<牝羊>の一頭一頭に対して、つまり集団内の個々人に対して責任を持っている。しかもその行動に拘束を加えるばかりでなく、一人一人の個人を知り、個々人の内面をはっきり見なければならない。言いかえれば、個人の<主観性>をはっきり出現させ、個人が己の意識に対して持つ関係(・・・・・・・・・・・・・・・)を構造化する必要があったという点である。<牧人=司祭型権力>の技術にとって、<良心の教導>とか<救霊>の問題が、<告解>という、自己が自己自身に対して持つ関係を、真理と義務づけられた言説という形で報告することにかかっていた、というのは極めて重要なことだ。この権力は、こうして<個人形成的>な権力であるという本質的特徴を持っているのだ。》

 ついで、フーコーは極東の日本の場合はどうなのか、という二つの指摘をする。

《ところでこの<牧人=司祭型権力>について、私は二つの指摘をしておきたい。まず第一には、キリスト教社会におけるこのような<牧人=司祭制>と、極東における儒教の作用や役割を比較してみる必要があるという点だ。この二つのものは時代的にはほぼ同じ時代に起きた。十六、七世紀にヨーロッパで<牧人=司祭制>が国家の形態の成立に重要な役割を果たしたことは知られているし、それは日本の徳川幕府の政治体制の中で儒教が果たした役割に似ているのではないか。しかし、同時にその差も測らなければならない。<牧人=司祭制>は、第一に宗教的であり、それが目指すのは、究極的には地上世界の問題ではなく、来世のことだ。しかし、儒教の役割は本質的に現世的である。また、儒教は、個人あるいは個人の属する社会的範疇のすべてに課せられるべき規則の総体を明確化することによって、社会全体の安定を目標とするが、<牧人=司祭制>は、<牧人=司祭>と<羊の群れ=信徒>との間の、個人のレベルでの厳密な服従関係(・・・・・・・・・・・・・・・)を確立しようとする。<牧人=司祭制>は、魂の教導その他の技術によって、個人形成的であるのに対し、儒教にはそのような作用はないのである。

 もちろん、この問題はもっと深くきわめる必要のある重要な問題で、そのある要素は丸山眞男氏の研究のなかに読むことができる。

 第二の指摘は、逆説的で、しかも意外なことなのだが、十九世紀以来の資本主義的工業化社会と、それに伴いそれを支えた近代的国家形態は、<牧人=司祭制>が宗教的次元で実現したこの個人形成という手続きを、このメカニズムを必要としたということだ。

 宗教制度そのものの評価が低下し、またイデオロギー的な変化が生じて、西洋世界における人間と宗教的信仰との関係は変わった。しかし同時に、この<牧人=司祭制>の技術は、非宗教的な場所で、国家の作業の内部で、確立し、変容し、普及していくのだ。このことはあまり知られていないし、また語られることも稀だ。(中略)しばしば、近代国家や近代社会は個人を知らないとか無視しているとかいわれる。しかし、よく観察して見ると、驚くべきことにそれとは正反対のことが見えてくる。近代社会ほど個人の配置に関心を抱き、個人を監視、管理、訓練、矯正の仕組みから絶対に逃れられないように取り込んでいく技術の発達した社会はないのだ。兵営、学校、工場、監獄、すべての規律・矯正の大きな仕組みは、個人を捕らえて、個人が何者であり、何ができ、また何に用いたらよいかを知り、どこに配置したらよいかを知るための仕組みなのだ。(中略)西洋世界における政治的な<個人の形成>を、それとは全く違う文化的・宗教的・政治的コンテクストで生起したことと比較してみることの重要さも納得されることだろう。たとえば日本のように、ヨーロッパとは非常に違う宗教性が長く続いた国の場合である。最大限の<個人化>を説くキリスト教とは違って、<非個人化=個人の解体>を説く仏教のもとで発展し、しかも現在では、ヨーロッパ近代の個人の形成という思想がそれと並置されている日本の場合は、このような観点の研究に寄与するところきわめて大だと考えるものである。》

 

 鴎外は、明治初年の乙女峠キリシタン殉教の地、津和野の出身であることから幼少期にキリスト教や教徒への馴染もあったことだろう。鴎外はキリスト教に対してほとんど意見を残していないが、ドイツではキリスト教を身近に感じる機会が多かったはずだ。後年の森家クリスマスの様子は家族が書き残している。西欧化圧力の強かった明治時代に内村鑑三キリスト教徒が果たした「告白」の先導性はよく知られるところで、鴎外の周囲の文学者にも影響は強かったし、現に日本の「告白」文学は彼らから始まったと言ってもよいほどである(柄谷行人日本近代文学の起源』の「告白という制度」)から、フーコーが残した日本に関する二つの指摘はもっと研究されてしかるべきものだろう。

舞姫』、『青年』、『妄想』等に見られる、権力からの疎外感、名状しがたい不安、使命への疑惑を自覚したうえでの、明治近代国家、西欧的資本主義工業化社会の形成の担い手として、権力の側(陸軍軍医総監、陸軍省医務局長)の立場でもあった鴎外の複雑さはここにあるのだが、鴎外は初期の歴史小説阿部一族』で、「権力/装置」のエピソードを生き生きと描いている。

阿部一族』から紹介すれば、

《長十郎はまだ弱輩で何一つきわだった功績もなかったが、忠利は始終目をかけて側近(そばちか)く使っていた。酒が好きで、別人なら無礼のお咎(とが)めもありそうな失錯(しっさく)をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過(あやま)ちを償(つぐの)わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病気が重(おも)ってからは、その報謝と賠償との道は殉死のほかないとかたく信ずるようになった。しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。こういう弱みのある長十郎ではあるが、死を怖(おそ)れる念は微塵(みじん)もない。それだからどうぞ殿様に殉死を許して戴こうという願望(がんもう)は、何物の障礙(しょうがい)をもこうむらずにこの男の意志の全幅を領していたのである。

 しばらくして長十郎は両手で持っている殿様の足に力がはいって少し踏み伸ばされるように感じた。これはまただるくおなりになったのだと思ったので、また最初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己(おのれ)は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。》

《そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその噂(うわさ)ばかりである。誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、背後(うしろ)から見たりするのがわかる。不快でたまらない。それでもおれは命が惜しくて生きているのではない、おれをどれほど悪く思う人でも、命を惜しむ男だとはまさかに言うことが出来まい、たった今でも死んでよいのなら死んでみせると思うので、昂然(こうぜん)と項(うなじ)をそらして詰所へ出て、昂然と項をそらして詰所から引いていた。

 二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪(ひょうたん)に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思った。悪口が言いたくばなんとも言うがよい。しかしこの弥一右衛門を竪(たて)から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言えば言われたものかな、よいわ。そんならこの腹の皮を瓢箪に油を塗って切って見しょう。》

 

 

<告白>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「権力と知」は「告白」の小説への道を語る。

キリスト教は「告白」を発明したのではないにしても、文明の歴史の上できわめて特殊なかたちで体系化したわけですが、ほぼ宗教改革以後、その長い歴史の中で、「告白」はもはや贖罪の儀式という個別領域に閉じこめられたままでいることなく、あらゆる領域に向って爆発したということができましょう。それは、いわば、みずからをよりよく知るための心理的な身振りのようなものになりました。自己抑制、性格の矯正、そうしたものは、プロテスタンティスムが贖罪行為の枠外で奨励した自己意識の検証であり、自己の生命の統御手段といったものです。そこで一方ではあの多くのヴァリエーションを伴った一人称小説というものが主にプロテスタント的な諸国や、またカトリック的なフランスにも生まれたし、また他方、「告白」が重要な意味を帯びた作品、たとえば『クレーブの奥方』のような小説も生まれてくるわけです。さらには、小説の形態を借りてただ自分の身に起ったことのみを語るといったようなものも出現する。》

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」でフーコーは、告発された者たちの「日常的なものを巡るかくも誇張された演劇化は何故のものか?」と問う。

《日常的なものに対する権力の関わりとして、キリスト教世界は、その大きな部分を、告解の周囲に形成して来た。日々の世界の細片、平凡な過ち、知覚し難いほどの過誤、そしてまた思考や意図や欲望のあやしげな動揺にいたるまでを、定期的に告解の言葉の流れの中を通過させることの義務づけ。語る者が同時に語る対象となる告白の儀式。語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式、その告白への[告解僧の]註釈もまた秘密にされ続けねばならず、その後には懺悔、そして悔悛の書物以外如何なる痕跡も残さぬ告白自体も増加してゆく。語られたすべてを消去するためにすべてを語り、如何なるものも逃さぬまでに、如何にわずかの過ちまでをも途絶えることない、執拗で徹底的な呟きの中に言明し、そしてしかしそれらが語られた瞬間に消え去り、残存するもののないように義務化されたこの驚くべき強制をキリスト教的西欧世界は発明し、あらゆる者に押しつけたのだった。何世紀もの間、幾千もの人々にとって、悪徳はそれを犯した当の者によって、義務的かつ瞬時に消え去るささやきの中に告白されねばならないものだったのである。》

「告白」は、真理の産出が期待される主要な儀式の一つとして、広まり、かつ高まった、とフーコーは『知への意志(性の歴史Ⅰ)』で述べる。

《少なくとも中世以来、西洋社会は、告白というものを、そこから真理の産出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた。(中略)いずれにしろ、試練の儀式の傍らで、伝統のもつ権威によって与えられる保証というものの傍で、証言の傍で、いやそればかりではなく、観察と立証の学問的方法の傍で、告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていた。それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである。告白はその作用を遙か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、最も日常的次元から最も厳かな儀式に至るまでである。自分の犯した犯罪を告白する。宗教上の罪を告白する。自分の幼児期を告白する。自分の病いと悲惨を告白する。人は懸命に、できる限り厳密に、最も語るのが難しいことを語ろうと努める。》

 

 フーコーが言う「異常なほど告白を好む社会」の、「最も語るのが難しいことを語ろうと努める」例をルソー『告白』に見ることができる。

 ポール・ド・マンは『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』の第十二章「言い訳(『告白』)」でルソー『告白』の中心的な一節を批評的=批判的に読む。

《ルソーは、『告白』冒頭の三書[三つの章]で語られる幼年期および思春期のいくぶん恥辱的で当惑的な数々の場面から、マリオンとリボンにまつわるエピソードをとりわけ重要な感情的意味を有するもの――物語の中に戦略的に位置づけられ、独特のひけらかし[panache]によって語られた、嘘とまやかしの紛れもない原光景――として選り出している。(中略)

 このエピソード自体は一連の軽窃盗譚の一つだが、そこには一つのひねりが加わっている。トリノの貴族の家庭で使用人として雇われていたとき、ルソーは「薔薇色と銀色の小さなリボン」を盗む。窃盗が発覚したとき、彼は若い女中[マリオン]からそれをもらったと主張し、彼女に罪をなすりつけるが、そうした彼の主張には、彼女が彼を誘惑しようとしていたことをほのめかすような含みがともなっている。彼は公衆の面前で彼女と対面した際、自分の作り話を執拗に押し通し、自分に少しの害も与えなかったこの無実の少女の品行方正さを完璧なきまでに踏みにじる。しかし、彼の卑劣な非難を前にしても、彼女の崇高な善良さはたじろぎさえ見せない。「ああ、ルソーさん! 私はあなたを気立てのよい方だと思っていました。あなたは私をとても不幸になさっていますが、あなたと立場を交換したいとは思いません」。この話は二人の人間の解雇という悲惨な結末に行き着くが、ルソーはそれによって、この不運な少女の人生にその後生じたに違いない事柄について長々と――いくばくかの興味を噛みしめながら――思いをめぐらすことができるのである。

 この教訓的な物語によって最初に確認されるのは、『告白』はそもそも告白的なテクストではない、ということである。告白するとは、真実の名において罪や恥を克服することである。つまり、それは認識論的な言語使用であり、そこでは善意という倫理的価値が真偽という価値に置き換えられる。(中略)

「私はありのままに告白したつもりである。だから、私がここで大罪の卑劣さを糊塗したと思われることは決してないだろう」。しかし、すべてを語るだけでは、まだ不十分である。告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められるのだ。(中略)

 言い訳の随行もまた、第二書の結末でなされるルソーの熱心な釈明にもかかわらず(「この件について言う必要があったのはこれだけだ。もう二度とこのことを口にせずにいられますように」)、この弁解的なテクストを終結させることはできない。こう述べたルソーは、それよりおよそ一〇年ほどのちに『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で嘘の「免責」可能性について省察する際、この話をまたまるごと口にしている。弁解は明らかに彼自身の罪の鎮圧に失敗しており、彼がそれを忘却できるまでには至っていない。(中略)

 ルソーが本当に(・・・)欲していたのは、リボンでもマリオンでもない。彼が欲していたのは、現実に入手することになる人前での暴露の場面なのだ。》

 ただし、フーコーの言う「語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式」は暴露の場面と、『告白』中の「この件について言う必要があったのはこれだけだ。もう二度とこのことを口にせずにいられますように」という願いに託されたわけだが、十年後に『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で省察しなおすことで、完全な「消去」など不可能であったことを示していて、そこにルソーの人間的な魅力を見出すこともできる。

 ド・マンの考察は、鷗外の『舞姫』と、およそ二十年後に発表された『普請中』(エリスのモデルらしき女性が来日した時の面会光景)にほぼそのまま適用できるだろう。

 よく『舞姫』を、「告白」の私小説であるとか、出世のために愛を犠牲にしたとか、最後には個人よりも社会を尊重したとか、エリスへの悔恨であるとか、陸軍省での噂を封じるために先回りして(私小説性を脱した文学として)打ち明けたとか、気の進まない婚姻への当てこすりだとか、いろいろ取沙汰されるが、最新の西洋文学に通じていた鴎外は一つ理由で文学を為すほど単純ではない。鴎外の妹小金井喜美子の手記「森於菟に」を読めば、帰朝の後を追うように『舞姫』エリスのモデルとされる女性が来日し、いろいろ説得もあったらしく、快く帰国させたあとで『舞姫』を書きあげた鴎外は、その発表前に本人は不在だったが家族みんなに読んで聞かせたという。明治近代文学とその周辺に暗くじめじめした悲惨と勤勉を求めがちな読者をあざ笑うかのように、小説『舞姫』の「告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められる」悲恋ストーリーに二重に被せるように、「告白すること[confess]に加えて、言い訳すること(・・・・・・・)[excuse]が求められる」露出症的な暴露の場面を作った。

 小金井喜美子の手記「森於菟に」は森一族の様子も窺えておもしろいので朗読の場面を紹介する。

《年の暮近く私が千住の家へ行つて居ます時、叔父さんが車で上野の家からかけつけて、私の居るのを見て「来て居たのか丁度よかつた」、「何があつたのですか。」心配さうな顔を見て笑ひながら「何、あの舞姫の事を今度兄さんがお書きになつたから、まつ先に皆に聞せて呉れといふお使ひに来たのですよ、お父さんは往診の御留守だつて、じやああとにしてさあさあ集まつて下さい、勧進帳もどきで読み上げるから」、何でも芝居掛りになるのはいつもの癖でした。

「石炭をはや積み果てつ中等室の卓のほとりはいと静かにて熾熱燈の光の晴れがましきもやくなし。」中音に読み初めたのを、誰も誰も熱心に聞いて居ました。だんだん進む中、読む人も情に迫つて涙声になります。聞いてゐる人達も、皆それぞれ思ふことはちがつても、記憶が新しいのと、其文章に魅せられて鼻を頻にかみました。「ああ相沢兼吉の如き良友は世に又得難かるべし、されど我が脳裡に一点の彼を憎む心は今日までも残れりけり」。読み終つた時は、誰も誰もほつと溜息をつきました。暫く沈黙の続いた後、「ほんとによく書けて居ますね」といひ出したのは私でした。お祖母様はうなづきながら、「賀古さんは何と御言ひになるだらう」、「何昨夜見えたので読んで聞せたら、己れの親分気分がよく出て居るとひどく喜んで、ぐづぐづ蔭言をいふ奴等に正面からぶつつけてやるのはいゝ気持だ。一つ祝ひ酒をご馳走にならうと又夜が更けました。

 それが春の国民之友に出て評判がよいものですから、今迄の何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした。》

 ここには、フーコーの言う「語ることによって語られた過ちが消去されてゆく儀式」があるが、過ちをルソーが十年後に『第四の夢想』(筆者註:『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」)で省察しなおしたように、鴎外もまた二十年後に『普請中』で蒸し返すことで、消去の困難さを証明している。

 

『知への意志(性の歴史Ⅰ)』で、性は告白の特権的な題材であった、とされる。

キリスト教の悔悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであるとしたら? それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら? (告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら? すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。》

 

舞姫』は性的「告白」としても読める。しかし、自伝的な『ヰタ・セクスアリス』を手に取って、性的「告白」の綺麗事にがっかりした者は多かろう。鴎外の告白とは、表向きそういったところに留まっている。小説よりもかえって、鴎外の医学論文(「公娼廃後の策奈何」、「「公娼廃後策」の原材」、「公娼廃後策とフリイドリヒ、ザンデルと」、「性欲雑説」、「女子の衛生」)や、ルソー『告白』の鴎外による翻訳に目を向けたほうが、より鴎外のセクシュアルなものへの関心に近づく。

ルソー『告白』は明治二十四年、森鷗外がレクラムのドイツ語訳から部分翻訳した『懺悔記』として、「立憲自由新聞」に連載されたが、第1 巻の冒頭と、一七一二年から一七一九年までの一部、一七四三年の一部にすぎない。全文翻訳は、その11年後の大正元年、ルソー生誕二百年と連動して、石川戯庵訳『懺悔録』として翻訳された。鷗外がルソー“Confessions を『懺悔記』と訳したことは、その後の『告白』受容を、キリスト教的な「告白」ではなく、罪を意識して裁きを乞う仏教的「懺悔」という印象に固定したのではないか。それは「懺悔」の方が「告白」よりも日本人の耳と心に馴染み深かったゆえだろう。

 明治二十四年といえば、まさに『舞姫』などドイツ三部作を執筆、発表した時期と重なるから、『懺悔記』の影は、その作為性も含めて『舞姫』にかかるだろう。鴎外翻訳の『懺悔記』(『鴎外全集2』)は、ルソー『告白』中の性的体験に関する部分を中心に選出したもので、八歳の時のランペルシエ嬢による鞭笞(べんち)で快楽を覚えた有名な挿話と、ヴェネチアで遊んだ娼婦の片方の乳房に乳首がないのを発見して驚くといった挿話である。鴎外は『懺悔記』発表に先立つ明治二十二年に「ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス」という文章を「東京医学新誌」に「医学士 森林太郎」の名で発表していて、グラーツ大学精神及び神経病教授クラフト=エービングを参照して、井戸に水を汲みに来る若い娘たちへの露出症を論じたあと、ランペルシエ嬢による鞭笞の快美を論じ、「想フニジャン、ジャック、ルーソーハ被打兼露呈症ヲ患ヒシモノナリ」と診断している(『鴎外全集29』)。有名なリボンにまつわるエピソードにはまったく触れていないことからも、鴎外にとってのルソー『告白』は性の「懺悔」以外のものではなかったようだ。

 

 

<歴史/狂気>

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」は、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘したアンソロジー企画の序文として準備されたものだ。

《これは生きられた生のアンソロジーである。数行、或いは数頁の人生、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険。束の間の生、偶然書物や公文書に遭遇した人生。生の或る例証(・・)exampla、しかしそれらは――学者たちが読書の中で収集したものと異なり――省察を促す教訓であるよりも、ほとんど一瞬にしてその力を失ってしまう瞬時の効果をそなえた例証群である。(中略)

 この着想が私にやって来たのは、そう信じているのだが、或る日、国立図書館で十八世紀が始まったばかりの頃に作成された収監請願承認文書を読んでいた時だった。とりわけそれは、次の二つの略述文書を読んでいた時だったと思う。

「マチュラン・ミラン。一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監――<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」。

「ジャン・アントワーヌ・トゥザール、一七〇一年四月二十一日ピセートル癲狂院収監――<棄教せるフランシスコ派修道僧、謀叛人、より大いなる罪科の可能性あり。男色者となり或いは出来得れば無神論者とも成り得んか――冒瀆の怪物、この者を自由のままに放置せしよりも抹消せむことを厭うことなし>」。》

《私が望んだのは、つねに実在する者に関わることだった。つまり、場所と日付を付与し得ること、もはや何も語らない氏名の背後、大体において誤認や虚偽、不当、誇張となりがちなそれらの敏速な語群の背後に、ともあれ確実にそれらの語群が示しているものの背後に、生き、死んでいった者たち、苦悩や悪意、嫉妬、怒号が存在したこと。それ故私は、空想や文学となりうるものを一切排除した。空想や文学が発明した如何なる暗黒の主人公も私には、本書に現れる激怒や醜聞、惨めさに塗れた者たち、靴屋や脱走兵、装身具の女行商人たち、公証人、浮浪僧といった者たちほどに緊迫した強度を感じさせない。(中略)

 私はまた登場人物たちが世に埋もれた者であることを望んだ。彼らが如何なるきらめきによっても前もって素地を与えられていない者たちであり、確立し認められた如何なる偉大さ――血統、財産、聖性、英雄性、或いは才能といった偉大さを一切付与されていない者たちであること。何の痕跡も残さずに消え去って行くことを運命づけられた他の無数の人々に属する者たちであること。彼らの不幸、パッション、その愛や憎悪の中に、ふつうなら語るに価すると判断されるものと照らし合わすと、ぱっとしないありきたりのものが存在すること。とはいえ、それらの生は或る種の鮮烈さに貫かれていること。》

 

 これは鷗外の『歴史其儘と歴史離れ』における、《わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
 わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ点は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは思ふ。
 友人中には、他人は「情」を以て物を取り扱ふのに、わたくしは「智」を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollinisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである。
     ――――――――――――
 わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。》を連想させる。

 

阿部一族』の実在した、しかし無名の登場人物たち。これはもう、「汚辱に塗れた人々の生」でフーコーが望んだ者たちのようである。

《五助は肩にかけた浅葱(あさぎ)の嚢(ふくろ)をおろしてその中から飯行李(めしこうり)を出した。蓋(ふた)をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。

「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司(げす)ではあるが、御扶持(ごふち)を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院(しゅううんいん)で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」

 こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。

「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。

 犬は一声(ひとこえ)鳴(な)いて尾をふった。

「よい。そんなら不便(ふびん)じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。

 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸(やしき)で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。

 もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座(あんざ)して肌(はだ)をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手(さかて)に持って、「お鷹匠衆(たかじょうしゅう)はどうなさりましたな、お犬牽(いぬひ)きは只今(ただいま)参りますぞ」と高声(たかごえ)に言って、一声快(こころ)よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後(うしろ)から首を打った。》

《柄本又七郎へは米田監物(こめだけんもつ)が承って組頭谷内蔵之允(たにくらのすけ)を使者にやって、賞詞(ほめことば)があった。親戚朋友(しんせきほうゆう)がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀(げんき)天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒(い)えて光尚に拝謁(はいえつ)した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城(ましき)小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山(やぶやま)である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを私(わたくし)に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預(えいたいおあず)けということになった。(中略)

 阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)に「事件」についての言及がある。

《私が関心を持つのは<永遠なるもの>、<動かぬもの>、外見(・・)の輝きの変化のもとに<変らずにいるもの>ではない。私が関心をもつのは<事件>です。

 ところが、<事件>というものが哲学的範疇になったことはほとんどない。ストア派の場合だけが例外だったのかもしれない。それは<事件>が彼らに論理学上の問題を提出していたからです。ここでもやはりニーチェが、初めて哲学を、「現在生起している事柄を知るのに役立つ活動」として定義したのです。言い換えれば、一連の能動的な作用(プロセシュス)が、運動が、力が、われわれを貫いているが、しかしわれわれはその実態を知らずにいる。そして哲学者と呼ばれる人間の役割は、恐らく、そのような作用や運動や力の現下の状勢を診断することだ、というわけです。(中略)

 私の書物のなかでも、私は、過去に起きたことではあるが、われわれの現在にとって重要だと思われる<事件>を捉え返そうと努めています。たとえば<狂気>の場合、西洋世界においては、ある時点で、<狂気>と<非―狂気>の分割が起きた。また別のある時点では、<犯罪>の力と、<犯罪>の提出する人間的問題とを捉える方法が出現した。これらの<事件>を、われわれはわれわれの現実において繰り返して(・・・・・)いるように思われます。私は、われわれがそのもとに生まれた時代の徴しのもとに、これらの<事件>を、つまり今なおわれわれを横切っているこれらの<事件>を捉えなおそうと企てているのです。》

 

 鴎外の歴史小説における方法論としての「事件」を『大塩平八郎』に見ることができる。そこに幸徳秋水の「大逆事件」の投影を見がちなのは、「附録」に次の見解があることにもよる。

《平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。

 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘(まゝ)に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。

 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情(ふぜい)には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮(ふる)はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。

 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望(のぞみ)を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。(中略)

 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。》

 しかし鴎外は、人間はそんなに図式的ではないということを平八郎の内面、《今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先(ま)づ恣(ほしいまゝ)に動いて、外界(げかい)の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時(いつ)でも用に立てられる左券(さけん)を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉(ゐしや)にした丈(だけ)で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘(まゝ)で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄其物が自然に捗(はかど)つて来たのだと云つても好い。己(おれ)が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此(この)終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。》と書くことや、「附録」の最後に告発者四人のその後、《近い頃のロシアの小説に、嘘(うそ)を衝(つ)かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩(ばうはい)に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々(まち/\)であつた。
 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒(ほ)むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠(かへりちゆう)と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。

 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。

 平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す

 吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の昧爽(まいさう)、西町奉行堀利堅に上書す

 吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

 河合八十次郎 平八郎の陰謀に与(くみ)し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅(せがれ)なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ 九郎右衛門の訴状を堀に呈す

 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請(こぶしん)入(い)を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏(うるふ)四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和(ただより)の邸(やしき)で、人間らしく自殺を遂げた。》と記すことによって<事件>を捉えなおそうとしている。

 

『堺事件』という「事件」では、明治薩長政府が攘夷に変る新しい外交方針の下、諸外国との友好関係を十一人の土佐藩士の犠牲によって信頼を勝ちとり(フランス政府の要求のままに土佐藩兵二十人を処刑)、かつ内に向っては譲歩せざるところは譲歩せずに(フランス政府の助命請願によって切腹することなく生き残った十一人を士族には取り立てず)武士階級を制御できる力を証明するという外と内との両立を果たした。フランス政府の外交的な権力(二十人処刑するように命じて置いて、切腹の惨澹さを見るに堪えないと言って十一人を助命するという勝手気ままさ)と日本政府の内政的な権力のバランスという明治元年の<事件>が、鴎外が生きた時代の明治政府による大逆事件と一部恩赦に直結した現在として捉えうる。

《公使の要求は直ちに朝議の容(い)るるところとなった。土佐藩主が自らヴェニュス号に出向いて謝罪することが一つ。堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、フランス人を殺害(せつがい)した隊の兵卒二十人を、交渉文書が京都に着いた後三日以内に、右の殺害を加えた土地に於(お)いて死刑に処することが二つ。殺害せられたフランス人の家族の扶助(ふじょ)料として、土佐藩主が十五万弗(どる)を支払うことが三つである。》

《子の刻頃になって、両藩の士が来て、只今七藩の家老方がこれへ出席になると知らせた。九人は跳(は)ね起きて迎接した。七家老の中三人が膝を進めて、かわるがわる云うのを聞けば、概(おおむ)ねこうである。我々はフランス軍艦に往って退席の理由を質(ただ)した。然るにフランス公使は、土佐の人々が身命を軽んじて公に奉ぜられるには感服したが、何分その惨澹(さんたん)たる状況を目撃するに忍びないから、残る人々の助命の事を日本政府に申し立てると云った。》

《十一月十七日に、目附方は橋詰以下九人のものに御用召を発した。生き残った八人は、川谷の墓に別を告げて入田村を出立し、二十七日に高知に着いた。即時に目附役場に出ると、各通の書面を以て、「御即位御祝式に被当(あたられ)、思召帰住御免(おぼしめしきじゅうごめん)之上、兵士某(なにがし)父に被仰付(おおせつけられ)、以前之年数被継遣之(いぜんのねんすうこれをつぎつかわさる)」と云う申渡(もうしわたし)があった。これは八月二十七日にあった明治天皇の即位のために、八人のものが特赦(とくしゃ)を受けたので、兵士とは並の兵卒である。士分取扱の沙汰(さた)は終(つい)に無かった。》

大塩平八郎』にしろ、『堺事件』にしろ、時の権力者(『舞姫』の大臣天方伯爵のモデルだった)山縣有朋の忠実なイデオローグとしての限界だとみるのは一面的に過ぎるとしても、大岡昇平が「『堺事件』の構図」で指摘した「森鷗外における切盛と捏造」は、「史料」に対する「歴史其の儘」に徹しきれない鴎外の無意識な物語り化心理を突いてはいる。

 

「空間」について。

ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』の「哲学の舞台」(渡辺守章とのインタビュー)で、渡辺守章は「空間」を取りあげる。

 渡辺《<視線>、<舞台>、<劇>、<事件>といったテーマ系は、不可避的にもう一つのテーマ系、つまり<空間>のそれと結びついています。すでに『臨床医学の誕生』の序文で、「この書物では空間と言語と死が問題になるだろう。また視線もそこでは問題になるはずだ」と述べておられる。》

 フーコー《私には、<空間>がどのようにして<歴史>の一部をなしていたかを理解するのは、重要なことだと思われる。如何にして一社会が己れの空間を整理し、そこに力の関係を書き込んでいったか、という問題です。(中略)たとえば中世は、人が通常考えるのとは反対に、絶えず人間が動き廻っている時代だった。国境はなかったし、多くの人間が移動していた。僧侶、大学人、商人、時には、土地を失えば農民もまた移動した。<大旅行>は何も十六世紀になって始まったものではないのです。ところが西洋世界においては、十六、十七世紀になって、<空間>は安定し出す。それは、都市の編成、私有地の確立、監視方式の発達、道路網の拡充整備等と平行する現象であり、同時にまた、放浪者を逮捕し、貧乏人を監禁し、乞食を禁止したのです。こうして世界は固定化しますが、それは様々に異なる空間を制度として確立することによってのみ可能になった。つまり、病人、狂人、貧乏人の入るべき空間が定められ、金持の居住地、貧乏人の居住地、不健康な居住地等々が区別される。このような<空間の分化>は、われわれの歴史の一部をなすものであり、恐らく最も重要な要素の一つなのです。》

 

 鴎外は「空間」の人、「まなざし」の人である。聴覚よりも視覚を好んだのは、その『独逸日記』に毎日のような観劇はあっても、音楽会はほとんどないことからも推察できる。

舞姫』には「空間」視覚表現が頻出する。

 醒めた都市空間表現。

《余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉(ヰルヘルム)一世(いっせ)の街に臨めるに倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍(かほよ)き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多(あまた)の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑(いとま)なきも宜(うべ)なり。されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。》

《或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄(おばしま)に干したる敷布、襦袢(はだぎ)などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太(ユダヤ)教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯(はしご)は直ちに樓(たかどの)に達し、他の梯は窖(あなぐら)住(すまい)まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。》

 エリスの家の、上、下、右、左と測量されたような「空間」配置の描写。

《余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈(ラムプ)の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて余を迎へ入れつ。戸の内は厨にて、右手(めて)の低き窗(まど)に、眞白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手(ゆんで)には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この處は所謂「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窗に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき處に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二卷と寫眞帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ價高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞(はぢ)を帶びて立てり。》

 

『青年』には鴎外が「空間」把握を科学的に見える形にした「東京方眼図」なるものが登場する。

《小泉純一は芝日蔭町(しばひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場(ていりゅうば)から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町(すだちょう)の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現(ねづごんげん)の表坂上(さかがみ)にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

 此処(ここ)は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿(たど)って来た道を鉛直に切る処(ところ)に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがいせいようづくり)である。入口(いりくち)の鴨居(かもい)の上に、木札が沢山並べて嵌(は)めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。》

「東京方眼図」とは、方眼状に区切られて符号が付いた地図で、地名索引と符合によって目的地の位置を簡単に探し出すことが可能だ。ドイツ留学中に見知ったガイドブックを参考にしたとか、地図を読む軍人の興味から来たとか言われているが、いずれにしろ江戸切り絵図の時代に、科学的な「東京方眼図」は、「現代文学の表現に堪える日本語の文体を最初に完成した」のと同じ文明、文化の切断精神に違いない。

 

「狂気」について。

 さきに見たように『うたかたの記』ではルードビッヒ二世の狂気が物語を急展開せしめたが、『舞姫』でも「狂気」が同じ役割を果たす。

《後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵(たふ)れぬ。相澤は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髮をむしり、蒲團を噛みなどし、また遽に心づきたる樣にて物を探り討(もと)めたり。母の取りて與ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を與へたるとき、探りみて顏に押しあて、涙を流して泣きぬ。

 これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、その痴(おろか)なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。

 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行(ちすぢ)の涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議(はか)りてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。

 嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。》

 

ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』の「汚辱に塗れた人々の生」の「狂気」は、フーコーという人間の根源を示唆して意味深い。

《こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を越えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言葉(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、或る一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。》

 

 松浦寿輝は「フーコー・コレクション4 権力・監禁」で次のように解説した。

《快楽、笑い、恐怖とともにフーコーは最後にはついに一線を越え、向こう側へ出たのだと思う。唐突な言いかたになるが、それが彼に死をもたらしたのだとわたしは信じている。》

 鷗外『堺事件』にもまた、快楽、笑い、恐怖の挿話が畳みかけられてはいる。

 切腹する《二十人が暫(しばら)く待っていると、細川藩士がまだなかなか時刻が来そうにないと云った。そこで寺内を見物しようと云うことになった。庭へ出て見ると、寺の内外は非常な雑沓(ざっとう)である。堺の市中は勿論、大阪、住吉、河内在等から見物人が入り込んで、いかに制しても立ち去らない。鐘撞堂(かねつきどう)には寺の僧侶が数人登って、この群集を見ている。八番隊の垣内がそれに目を着けて、つと堂の上に登って、僧侶に言った。

「坊様達、少し退(の)いて下されい。拙者は今日切腹して相果てる一人じゃ。我々の中間(なかま)には辞世の詩歌などを作るものもあるが、さような巧者な事は拙者には出来ぬ。就いてはこの世の暇乞に、その大鐘を撞いて見たい。どりゃ」と云いさま腕まくりをして撞木(しゅもく)を掴んだ。僧侶は驚いて左右から取り縋(すが)った。

「まあまあ、お待ち下さりませ。この混雑の中で鐘が鳴ってはどんな騒動になろうも知れません。どうぞそれだけは御免下さりませ」

「いや、国家のために忠死する武士の記念じゃ。留めるな」

 垣内と僧侶とは揉(も)み合っている。それを見て垣内の所へ、中間の二三人が駆け附けた。

「大切な事を目前に控えていながら、それは余り大人気ない。鐘を鳴らして人を驚かしてなんになる。好く考えて見給え」と云って留めた。

「そうか。つい興に乗じて無益の争をした。罷(や)める罷める」と垣内は云って、撞木から手を引いた。(中略)

 人々は切腹の場所を出て、序(ついで)に宝珠院(ほうじゅいん)の墓穴も見て置こうと、揃って出掛けた。ここには二列に穴が掘ってある。穴の前には高さ六尺余の大瓶(おおがめ)が並べてある。しかもそれには一々名が書いて貼(は)ってある。それを読んで行くうちに、横田が土居に言った。

「君と僕とは生前にも寝食を倶(とも)にしていたが、見れば瓶(かめ)も並べてある。死んでからも隣同士話が出来そうじゃ」と云った。

 土居は忽ち身を跳(おど)らせて瓶の中に這入って叫んだ。

「横田君々々々。なかなか好い工合じゃ」

 竹内が云った。

「気の早い男じゃ。そう急がんでも、じきに人が入れてくれる。早く出て来い」

 土居は瓶から出ようとするが、這入る時とは違って、瓶の縁は高し、内面はすべるので、なかなか出られない。横田と竹内とで、瓶を横に倒して土居を出した。》

《呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮(しずま)った。箕浦は黒羅紗(くろらしゃ)の羽織に小袴(こばかま)を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手(めて)に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。

「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。

 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口(きずぐち)は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に挿(さ)し込んで、大網(だいもう)を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨(にら)み付けた。

 馬場が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切ったが、浅かった。

「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。

 馬場の二の太刀は頸椎(けいつい)を断って、かっと音がした。

 箕浦は又大声を放って、

「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。

 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭(きょうがい)と畏怖(いふ)とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所(おきどころ)に迷った。

 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜(おと)した。》

あたかも「快楽、笑い、恐怖とともに」鴎外もまた一線を越えそうな気配ではあったが、鴎外は物語を権力との戦い、衝突へとあえてまとめあげることなく、

妙国寺で死んだ十一人のためには、土佐藩で宝珠院に十一基の石碑を建てた。箕浦を頭(かしら)に柳瀬までの碑が一列に並んでいる。宝珠院本堂の背後の縁下には、九つの大瓶(おおがめ)が切石の上に伏せてある。これはその中に入るべくして入らなかった九人の遺物である。堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶(かめ)を「生運様(いきうんさま)」と云って参詣(さんけい)するものが迹(あと)を絶たない。

 十一人のうち箕浦は男子がなかったので、一時家が断絶したが、明治三年三月八日に、同姓箕浦幸蔵の二男楠吉(くすきち)に家名を立てさせ、三等下席(かせき)に列し、七石三斗を給し、次で幸蔵の願に依て、猪之吉の娘を楠吉に配することになった。

 西村は父清左衛門が早く亡くなって、祖父克平(かつへい)が生存していたので、家督を祖父に復せられた。後には親族筧氏(かけいうじ)から養子が来た。

 小頭以下兵卒の子は、幼少でも大抵兵卒に抱えられて、成長した上で勤務した。》といった具合に、鴎外は、この先の歴史小説で踏襲してゆく子孫という未来への、物語性よりもニヒルな客観的史実の羅列、散乱でケリをつけてしまう。

 

 丸谷才一は『美談と醜聞 森鷗外』で、鴎外は一体に美談を好むたちの小説家であったとして、『そめちがへ』、『うたかたの記』、『阿部一族』、『高瀬舟』、『伊澤蘭軒』、『澀江抽斎』がいかに美談仕立てであるか、そして美談の由来は年少のとき読みふけった中国小説が彼を支配していたからではないかと推測する。しかし鴎外が西欧小説の本格を日本に移そうと志した成果が見事に達成されている未完の作が一つあって、それは明治四十四年の『灰燼』だという。

《鷗外はこの作をつづけてゆけば恐しいことになると感じて、奇怪な新聞論の二章に韜晦(とうかい)し、中絶した、といふのは前まへから『灰燼』を推奨している中村真一郎の説ですが、あるいはさうかもしれない。中心人物は鷗外その人を思はせる文筆業者で、その青春期における愚行(何か性的なものらしい)を中年になつて回顧するといふ仕組になつてゐる。その愚行とは彼が書生として住込んでゐた家の令嬢とのことのやうである。まづ、近所の、半陰陽だといふ噂のある青年がその娘に恋着して、路上でうるさくつきまとふため、書生がこの者にやめてくれと申入れると、相手はポケットからピストルを出すが、書生は上手に威圧して約束させる。(中略)しかしこれよりも魅力的なのはこの青年の人となりで、彼は沈着冷静で大人びた秀才でありながら、分裂した人格の持主である。その病的な自我は、彼の手に負へない厄介なものなのだ。かういふ人間のとらへ方は極めて二十世紀小説的で、デュメジルあたり、さらにはドストエフスキーを連想させる。

 一方にこの新しい分裂した自我とエロチックなものへの激しい関心があり、他方には明治国家の戒律と日本近代文学の未成熟がある。面倒なことになると極つてゐると、完成したときの事態を遙かに望み見て、鷗外は身ぶるひしたのでせうか。そのとき彼は四十九歳。そして五十代の彼は、ほとんど歴史小説と伝記しか書きませんでした、死を迎へるのは六十歳の年です。》

 

 フーコーと鴎外の関心、問題意識は驚くほど重なるのだが、二人の最大の相違は、一線をついに越えたか、とどまったかにあるに違いない。一九八四年、フーコーベルリンの壁崩壊もインターネットも知ることなくこの世を去ったが、フーコーの問題はますます強度を増し、時代は「フーコーの世紀」となった。ならば、少なくとも極東の日本においては「鴎外の世紀」でもあるのだろうか。文学と医学の世界では戦闘的であったが、世間的、社会的には妥協の人であった、ということの意味も含めて。

                              (了)

            *****主な引用または参考文献*****

*『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ~Ⅹ』蓮實重彦渡辺守章監修/小林康夫石田英敬松浦寿輝編(筑摩書房

*『フーコー・コレクション1~7』小林康夫石田英敬松浦寿輝編(ちくま学芸文庫

フーコー『狂気の歴史』田村俶訳(新潮社)

フーコー臨床医学の誕生』神谷美恵子訳(みすず書房

フーコー『言葉と物』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

フーコー『知の考古学』慎改康之訳(河出文庫

フーコー『監獄の誕生』田村俶訳(新潮社)

フーコー『知への意志(性の歴史Ⅰ)』 渡辺守章訳(新潮社)

*『人と思想 フーコー今村仁司。栗原仁(清水書院

ドゥルーズフーコー宇野邦一訳(河出文庫

森鴎外『鴎外全集 全38巻』(岩波書店

森鴎外『日本現代文學全集 7 森鴎外集』(『舞姫』所収)(講談社

森鴎外『日本文学全集4 森鴎外集』(『妄想』所収)筑摩書房

森鴎外『椋鳥通信』池内紀編(岩波文庫

森鴎外『青年』(新潮文庫

森鴎外『日本の文学 3 森鴎外(二)』(『阿部一族』所収)(中央公論社

森鴎外『鴎外歴史文学集 第二巻』(『大塩平八郎』所収)(岩波書店

森鴎外阿部一族舞姫』(『堺事件』所収)(新潮文庫

森鴎外『ザ・鴎外-森鴎外全小説全一冊』(「歴史其儘と歴史離れ」所収)(第三書館)

*『柄谷行人集1 日本近代文学の起源』(岩波書店

柄谷行人『意味という病』(「歴史と自然――鴎外の歴史小説」所収)(講談社文芸文庫

柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』(「フーコーと日本」所収)(講談社学術文庫

吉田健一『東西文学論/日本の現代文学』(「森鷗外のドイツ留学」所収)(講談社文芸文庫

中村真一郎『再読日本近代文学』(集英社

山崎正和『鷗外 闘う家長』(河出書房新社
*『丸谷才一全集9』(「美談と醜聞 森鷗外」所収)(文藝春秋

大岡昇平歴史小説論』(「『堺事件』の構図」所収)(岩波同時代ライブラリー)

*小金井喜美子「森於菟に」(「文学」第4巻第6号〈特輯 鴎外研究〉昭和11年6月)(岩波書店

松本清張『両像・森鷗外』(文春文庫)

前田愛『都市空間のなかの文学』(「BERLIN1888「舞姫」」所収)(ちくま学芸文庫

前田愛『近代読者の成立』(「鴎外の中国小説趣味」所収)(岩波現代文庫

西成彦『胸さわぎの鴎外』(「性欲と石炭と植民地都市――『舞姫』再考」所収)(人文書院

*J・J・オリガス『物と眼』(「物と眼――若き鴎外の文体について」所収)(岩波書店

*ルソー『告白』桑原武夫訳(岩波文庫

*スタロバンスキー『透明と障害 ルソーの世界』山路昭訳(みすず書房

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(「言い訳(『告白』)所収」土田知則訳(岩波書店

デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』足立和浩訳(現代思潮社

松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社)

丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会