文学批評 「谷崎『春琴抄』、官能の官能」

  「谷崎『春琴抄』、官能の官能」

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 谷崎潤一郎春琴抄』では、鶯(うぐいす)、雲雀(ひばり)の啼く春、幻想が欲望を支え、見ることと見られることの愛撫のうちに、官能の官能が語られる。

 

鶯(うぐいす)の凍(こお)れる涙(なみだ)>

 雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ 

 名高い二条后(にじょうのきさき)の和歌である。

春琴抄』の最後の一節、春琴死後の佐助の様子をあらわす流麗な文体に、この歌がそれとなく融けこんでいる。

《雲雀の外に第三世の天鼓(てんこ)を飼(か)っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞く毎(ごと)に泣き暇(ひま)があれば仏前に香(こう)を薫(くん)じて或(あ)る時は琴(こと)を或る時は三絃を取り春鶯囀(しゅんおうてん)を弾(ひ)いた。夫れ緡蛮(めんばん)たる黄鳥は丘隅に止るとと云う文句で始まっている此の曲は蓋(けだ)し春琴の代表作で彼女が心魂(しんこん)を傾(かたむ)け尽(つく)したものであろう詞(ことば)は短いが非常に複雑な手事(てごと)が附(つ)いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながら此の曲の構想を得たのである手事の旋律(せんりつ)は鶯(うぐいす)の凍(こお)れる涙(なみだ)今やとくらんと云う深山の雪のとけそめる春の始めから、水嵩(みずかさ)の増した渓流(けいりゅう)のせせらぎ松籟(しょうらい)の響き東風の訪(おとず)れ野山の霞(かすみ)梅(うめ)の薫(かお)り花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を隠約(いんやく)の裡(うち)に語っている生前彼女が此れを奏(かな)でると天鼓も嬉々(きき)として咽喉(のど)を鳴らし声を絞(しぼ)り絃の音色(ねいろ)と技(わざ)を競(きそ)った。》

 丸谷才一が『新々百人一首』にこの歌を選び解説しているので、読んでゆく。

《             二条后(にじょうのきさき)

雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ

古今和歌集』巻第一春歌上。また、『新撰和歌』巻第一春秋。また、『古今和歌六帖』第六帖。また、『新撰朗詠集』巻上春。また、『和歌体十種』比興体(ひきょうたい)。また、『和歌十体』八比興。また、『和歌一字抄』下證歌。また、『定家八代抄』巻第一春歌上。

古今集』には「二条のきさきの春のはじめの御うた」といふ詞書がある。

「雪」「氷る」「泊」「溶く」と水のイメージを揃へてある。さらには「うぐひす」のなかに「浮く」と「漬(ひ)」(動詞「漬(ひ)づ」の語根)および「氷(ひ)」が隠してあると見てもよからう。かういふ細工は一首の性格にすこぶるふさはしいものであつた。もともと謎々の歌だからである。しかし一首を謎々仕立てとするのはわたしの新説ではなく、窪田敏夫の創見にほかならない。

窪田は、八代集の恋歌には上の句で謎をかけ、下の句でそれを解くものが多い(たとへば『古今集』巻第十二恋歌二、小野美材(よしき)「わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき」)ことを指摘し、その型の四季歌への応用として、

 在原元方

    年のうちに春はきにけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ

 紀貫之

    はる霞たなびきにけり久方の月の桂も花やさくらむ

 藤原菅根(すがね)

    秋風に声をほにあげて来る舟はあまのと渡る雁にぞありける

などと共にこの二条后の詠をあげた。「上の句にどんな付句をするかが興味の中心」であつたと推定するのである。八代集を読み抜いた人にしてはじめて言ひ得る犀利着実な説で、宮廷の詩の遊戯があざやかに取出されてゐる。われわれはここで、謎々も詩もともに言葉の遊びであるといふ事情を改めて思ひ浮べなければならない。そして清和天皇の女御、高子(たかいこ)は、一見さりげない、しかしそのくせなかなか仕掛けのある上の句でまづ謎をかけ、次にその謎をきれいに解いてみせたのである。

 謎のかけ方に仕掛けがあるといふのは、まづ、第一句の「雪」に隠れてゐる「行(ゆ)き」と第二句の「来」とが対応してゐることだが、これについては説明は要らないはずである。(中略)

 謎の解き方のほうの仕掛けとしては、前にも述べた水づくしのほかに、鶯の泪が氷りかつ溶けるといふ詩的虚構がある。この優美な嘘、典雅な法螺話(ほらばなし)こそは一首の眼目であつた。われわれはこの大げさな誇張にほほゑみ、しかも同時に詩情にひたることになる。契沖『古今余材抄』にいはく、

 鶯に涙あるにもあらず、こほるべきにもあらねど、啼く物なれば涙といひ涙あればこほるといふは歌の習也。

 雁・虫・鹿などみな涙をよめり。『菅家万葉』下に、「こぞ鳴きし声にさもはた似たるかないつのまにかは花になれけん」といふ鶯の歌にそへて作らせ給ヘる詩の第三の句に「恒吟鳴眼涙無出」と作らせ給へるによれば、涙あるまじく聞ゆれど、詩歌は心のよりくるままにいかにもいふ事なり。(中略)蟬にも涙をよむ事なり。

 重要なのは「啼く物なれば涙とい」ふの箇所である。すなはち「泣く」と「鳴く」との同音のせいで、人が泣くときに泪を流す以上、鳥が鳴くときもまた涙はつきものだらうと戯れに考へたのだ。かういふ冗談はおそらく鳥に対する古代以来の親近と畏怖とから生れる。もつと正確に言へば、そのやうな心理的要素のうち、畏怖の念のほうがずいぶん薄れたときに生れる。

 一般に古代人は自由に飛翔できる鳥にはなはだ憧れ、しかも同時に鳥を恐れてゐたらしく、たとへばギリシア神話に、友人の死を悲しんでエリダノスの流れとその岸辺とその森に嘆きの声を響かせてゐるうちに白鳥に変身したキュクノスとか、伯父のダイダロスに天分を妬まれ、崖から突き落されたとき、アテネに救はれて鷓鴣(しゃこ)になつたペルディクスとか、ほろほろ鳥になつたメレアグロスの姉妹たちとか、その他おびただしいばかりの変形譚があるのは、かういふ意識のせいだらう。日本の神話におけるこの手の変形譚の代表としては、言ふまでもなく、「八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化(な)りて、天に翔りて浜に向きて飛び行(い)で」、「河内国の志幾に留まり」、「亦其地より更に天に翔りて飛び行で」たヤマトタケルの場合をあげなければならないが、折口信夫はこの「霊魂の姿」を一例に引きながら、「鳥殊に水鳥は、霊魂の具象した姿だと信じた事もある。又、其運搬者だとも考へられた。(中略)鵠(クヾヒ)・鶴・雁・鷺など、古代から近代に亘つて、霊の鳥の種類は多い。殊に鵠と雁とは、寿福の楽土なる常世(トコヨ)国の鳥として著れてゐた」と断定してゐる。ここから、古代人にとつては、水鳥に限らず鳥が一般に霊の姿であり、死者の化身であり、人間の同族であるとされてゐた、といふ方向に考へを進めるのは無理なことではないし、

 崇徳院

   恋死なば鳥ともなりて君が住む宿のこずゑにねぐらさだめん

は、古代信仰の名残りとも言へる。鳥の泪といふ詩的なイメージはさういふ古代信仰を基盤として、しかもその古代信仰がほとんど消え失せたか、あるいは亡びようとしてゐるときに生れたものに相違ない。(中略)

 ふたたび鶯の泪に戻るとしよう。清和天皇の女御、二条后高子は多情をもつて世に知られた。その一は清和天皇の死後、寛平八年、東光寺の僧、善祐と密通して后位を剥奪された事件である。その二は入内(じゅだい)前における、在原業平との艶聞である。前者については、高子五十五歳の年に当るゆゑ老齢に過ぎるのではないかといふ説もあるが、王朝のころ老女の恋愛は珍しくはなかつた。『扶桑略記』や『日本紀略』の記述に従ひ、后位剥奪はもちろん密通のことも信じて差支へないはずである。後者については、『伊勢物語』第三段、第五段、第六段のそれぞれの附記が典拠といふことになるが、いづれも後人の書入れ(注が本文にまじつたもの)と推定される。とすれば、平安時代には業平と二条后についてかういふ噂があつたといふ、ただそれだけのことしか言へないし、第一、『伊勢物語』の本文自体が、それと同じくらゐ無責任な、あるいは虚構性が強くて曖昧な、歌物語にすぎない。実證性を重んじる限り、われわれに言へるのはせいぜい、平安朝の人々が彼女を目して、業平と契りを結ぶにふさはしい高貴で華麗な女と見てゐた、といふところまでであらう。

 だが、かういふロマンチックな生涯は「うぐひすの氷れる泪」の解釈に影響を及ぼす。その最たるものは金子元臣『古今和歌集評釈』の説で、彼は一首を寛平九年正月の詠と断定した。前年九月に后位を停止されて、いつこの処分が解けるかと待ち望んでゐたのに、それも虚しいままもう春になつた。鶯の泪は溶けても、わたしの泪は冬のうちに氷つたままである、といふ悲哀の歌とするのだ。

 伝記との関連づけについては、「抒情詩であるから如何なる連想をする事もできるが、こうした連想をするのが、作意を明らかにする方法だろうかと怪しまれる」といふ窪田空穂の批判がすべてを盡してゐる。》

 長々と引用したのは、谷崎が鶯の凍れる涙の歌を、それとなく、しかし満を持すかのように引用したわけが意識的にせよ無意識にせよ、そっくり当て嵌まるからである。

 第一に、『春琴抄』もまた謎をかけ、それをとく構成、物語となっていること。導入部の、二つの墓の位置、大小、碑文、寺男の話、春琴三十七歳の折の写真、による謎かけ。

 第二に、鶯と雲雀(ひばり)が春琴の化身、霊魂の姿であり、佐助の幻想の欲望であること。

 第三に、啼くものならば涙という連想が、《佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度(たび)にいつも泣いたというそれが是(まこと)に意気地(いくじ)なくひいひいと声を挙げるので「又(また)こいさんの折檻(せっかん)が始まった」と端(はた)の者は眉(まゆ)をひそめた》という主従関係、《佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞く毎(ごと)に泣き》という追憶に結ばれる。さらには《足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い袘綿(ふきわた)の這入(はい)った羽二重(はぶたえ)もしくは縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を寝間着(ねまき)に用い裾(すそ)を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝(い)ね(中略)余り冷えると佐助が両足を懐(ふところ)に抱いて温(ぬく)めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸が却(かえ)って冷え切ってしまうのであった》という氷のような春琴の手事の音色(聴覚)と涙の源である眼(視覚)という感官と交り合う。

 第四に、春琴と佐助のロマンチックな生涯へのうっすらとした思いと同時に、執筆当時の谷崎と松子夫人の関係をこの小説に反映しすぎることの愚かしさ。

 そして大事なのは、これらがいくつかの語りの層(作者谷崎、佐助検校(けんぎょう)が作らせたと思しき『鵙屋春琴(もずやしゅんきん)伝』、大阪朝日新聞日曜ページの記事、鴫沢(しぎさわ)てる女の話、佐助が側近者に語ったいきさつ、天竜寺(てんりゅうじ)の峩山和尚(がさんおしょう)の言葉)によって重層的に響きあい、もっともらしさを醸しだしていることである。

 

<「義経千本桜」と「天鼓」>

 谷崎の「義経千本桜」好きはよく知られるところだ。小説『吉野葛』、『吉野葛』からの文章を紹介しつつ自伝的要素を加えた随筆『幼少時代』の「團十郎、五代目菊五郎、七世團蔵。その他の思い出」、そして晩年の随筆『雪後庵夜話』の「「義経千本桜」の思い出」とある。同工異曲というのではなく、同じ道筋を辿ること自体が悦びであるかのように繰りかえされている。

春琴抄』は中国趣味で(《天鼓の飼桶には支那(しな)から舶載(はくさい)したという逸品(いっぴん)が嵌まっていた骨は紫檀で作られ腰に琅玕(ろうかん)の翡翠(ひすい)の板が入れてありそれへ細々(こまごま)と山翠楼閣(ろうかく)の彫(ほ)りがしてあった誠(まこと)に高雅(こうが)なものであった》)、桜よりは梅だが(《春琴の繊手(せんしゅ)が佶屈(きっくつ)した老梅の幹を頻りに撫で廻(まわ)す》)、それでも「義経千本桜」好みの陰翳がある。

義経千本桜」礼賛にあるのは、きまって言及される「母恋し」であるが、「(恋人同士のような)主従関係」も見逃してはいけない。

代表して『幼少時代』から、贔屓の心象部分を引用する。

《明けて二十九年には正月六日から明治座に五代目菊五郎の一座がかかって、「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」の通しに「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」を演じた。歌舞伎座もその月の下旬から團十郎の「地震加藤(じしんかとう)」や「道成寺(どうじょうじ)」で開けたのに、日頃成田屋(なりたや)崇拝で菊五郎の芝居は嫌いだといっていた叔父が、どうして明治座を見る気になったのか、あるいは二十日(はつか)正月(しょうがつ)の過ぎないうちに母や私を芝居ヘ連れて行ってやろうという好意からであったかも知れない。(中略)

 御殿の場で忠信から狐へ早変りになるところ、狐がたびたび思いも寄らぬ場所から現われたり隠れたりするところ、欄干渡りのところなどは、もともと多分に童話劇的要素があって子供の喜ぶ場面であるから、私も甚しく感歎しながら見た。ここで私はもう一度旧作「古野葛」のことに触れるが、あれは私の六歳の時に「母と共に見た團十郎の葛の葉から糸を引いている」のみではない、その五年後に見た五代日の「千本桜」の芝居から一層強い影響を受けたものに違いなく、もし五代日のあれを見ていなかったら、恐らくああいう幻想は育(はぐく)まれなかったであろう。私はあの旧作の中で、津村という大阪生れの青年の口を借りて、次のようなことをさえ述べているのである。――

自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍(あべ)の童子を羨(うらや)んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行(みちゆき)になると、母――狐――美女――恋人――という連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静(しずか)と忠信狐とは主従の如く書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を忠信狐になぞらえ、親狐の皮で張られた鼓の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会(おんしゅうかい)の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。》

 ここにある、《静(しずか)と忠信狐とは主従の如く書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている》という、母恋しに隠れて見過ごしそうな一文に、忠信狐になぞらえる谷崎の願望が正直に語られ、それこそが『春琴抄』の、絶対的主従でありながら恋人同士の道行とも映ずるように巧みに書かれたライト・モティーフなのは言うまでもない。

 ところで竹田出雲(二代目)・三好松落・並木千柳合作による「義経千本桜」成立の以前から大和の国には、源九郎狐についての伝説があったらしく、近松門左衛門作「天鼓」に登場している。その辺りのことは、渡辺保『千本桜 花のない神話』の「第六章 大和国源九郎狐」で考証されているので、周縁部も含めて紹介しておく。

《狐忠信、キツネタダノブ。

「千本桜」の忠信に化けた狐、その狐の芝居――「狐の段」を歌舞伎では「狐忠信」という。義経から源九郎の名を貰ったこの狐は、本文にも、

 大和国の源九郎狐と、言伝へしも哀なり……(四段目)

とあって、本当ならば「源九郎狐」と呼ぶべきだろう。

 説話には何々狐という狐がある。薦の葉狐、女夫狐、源五郎狐、塚本狐、弥左衛門狐、弥助狐、小女郎狐。

 ところがこの「源九郎狐」だけは「狐忠信」という。これは狐そのものをさしているだけでなく、本物の人間の忠信の役をふくめた芝居の俗称だからであろう。そこに吉野を背景にした狐と人間の世界がひろがっていて、それを「狐忠信」というのである。歌舞伎の人間の感じている世界の輪郭がそこに見える。(中略)

 近松門左衛門の「天鼓」にはちゃんと源九郎狐が登場するからである。すなわち、その五段目の段切れに、全国の狐が集まる場面。

 あつと悦び弥左術門こん/\/\とよひければ、皆人間のかたちとげんじ、はりまの姫路のお次郎狐、中将おもだか召具して庭上に顕れたりとんだ林の与九郎狐みちのく夕ばへいざなひ来る、江州月のわ、小左衛門狐と名乗り小六判官つれ来る。勢州塩合の小坊主狐、巴丸金目丸兄弟をつれ来れば、京都六条左近狐武略之介を同道す、大和狐源九郎智略之介をともなひ来て、せつなが間に一家の人一度にめぐりあひたりし狐の威力ぞ不思議なる。

(中略)

 それはともかくも、この狐たちがドラマの全登場人物をつれてくる場面は、狐の伝説がいかに日本全国に散らばっているかを思わせて壮観である。その一匹に「大和狐源九郎」がいるというのは、すでにこの「天鼓」の書かれた段階で、近松が源九郎狐の伝説を知っていたということである。》

 さらに近松のもとになった能「天鼓」についても記述があるので、関係ない話に思われるかもしれないが紹介しておく。

近松の「天鼓」は、能の「天鼓」と同時に狂言の「釣狐」も使った能狂言の影響のつよい作品であるが、(中略)能の「天鼓」は、母が天からの鼓が胎内に入るのを夢見て身籠ったところから天鼓と名づけられた少年の物語である。

 天鼓が生まれてしばらくして、実際に天から鼓が降って来た。名器である。少年はこの鼓を愛してやまなかった。ところが時の帝がその噂を聞いてその「天鼓」という名器を召し上げようとした。少年は天鼓を手ばなしたくなかったので、故を抱いて山中に隠れた。しかし勅命を帯びた捜査の手がのび、少年は発見されて呂水という川に沈められ、鼓は帝の手に入った。

 宮中に秘成された天鼓はだれが打っても音を出さない。旧主の死を悲しんでのものと思われたので、再び勅使が少年の父のもとへ下って、父に官廷に出仕して鼓を打てという命が報ぜられる。父が打つとはじめて鼓は音を発した。

反省した帝は、父を厚くもてなし、同時に呂水のほとりで少年の供養を行なった。呂水の波の上に少年の亡霊があらわれ、天鼓を打って、その音は遠く水上にひびき渡る。

 この能の原典は中国であろうといわれているが、全くわかっていない。作者も不明である。》

 このあと、渡部保はなぜ他ならぬ狐が化けたのかを論じてゆくのだが、狐の役目の幾分かを『春琴抄』においては、春琴が愛してやまなかった鶯、第三世が春琴の死後も生きていて佐助がその啼く音を聞くごとに泣いた鶯の、その名も「天鼓」が担っているであろう。

《天鼓は此の曲を聞いて生れ故郷(こきょう)の渓谷(けいこく)を想(おも)い広々とした天地の陽光を慕(した)ったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつ何処(どこ)へ魂(たましい)を馳(は)せたであろう触角(しょっかく)の世界を媒介(ばいかい)として観念の春琴を視詰(みつ)めることに慣らされた彼は聴覚(ちょうかく)に依(よ)ってその欠陥(けっかん)を充(み)たしたのであろう乎(か)。人は記憶(きおく)を失わぬ限り故人を夢(ゆめ)に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別れたともはっきりした時は指せないかも知れない。》

 つけ加えるに、『春琴抄』には「母恋し」のテーマは見当たらない。春琴の母はよき人であり、佐助の母は登場せず、佐助の春琴への思いに母性への希求はなく、そして谷崎の美人の母が丹毒を患い醜い顔となって死んだことの反映を春琴に見ることも馬鹿げている。そればかりか非情なまでに春琴と生んだ子との母子関係、追慕を否定している。

《因(ちな)みに云う春琴と佐助との間には前期の外に二男一女があり女児は分娩(ぶんべん)後に死し男児は二人共赤子の時に河内(かわち)の農家へ貰(もら)われたが春琴の死後も遺(わす)れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人(もうじん)の実父の許(もと)へ帰るのを嫌(きら)った。》

 

<官能の官能>

 春琴二十歳の時、春松(しゅんしょう)検校が死去したのを機会に独立して師匠の看板を掲げることになり、親の家を出て淀屋橋筋(よどやばしすじ)に佐助も附いて行って一戸を構えたのだが、《道修町(どしょうまち)の時分にはまだ両親や兄弟達(たち)へ気がねがあったけれども一戸の主となってからは潔癖と我が儘が募(つの)る一方で佐助の用事は益ゝ煩多(ますますしはんた)を加えたのである此れは鴫沢(しぎさわ)てる女の話で流石(さすが)に伝には記してないが、お師匠様(ししょうさま)は厠(かわや)から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのに御自分の手は一遍(いっぺん)もお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴の時もそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて羞恥(しゅうち)ということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に馴(な)れていたので今更何の感情も起らなかったのかも知れない。》

 レヴィナスが『全体性と無限』の「エロスの現象学」で論じた、《官能において恋人たちのあいだで確立される関係は、普遍化に対して根底からあらがうものであり、社会的な関係のまさに対極にあるものである。恋人たちの関係からは第三者が排除される。それは親密さ、ふたりだけの孤独、閉じた社会、際だって非公共的なものでありつづける》の関係である。

 春琴の《手は華車(きゃしゃ)で掌がよく撓(しな)い絃(げん)を扱うせいか指先に力があり平手で頬を撲(う)たれると相当に痛かった。頗(すこぶ)る上気(のぼ)せ性(しょう)の癖(くせ)に又頗る冷え性で盛夏(せいか)と雖(いえど)も嘗(かつ)て肌に汗(あせ)を知らず足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い袘綿(ふきわた)の這入(はい)った羽二重(はぶたえ)もしくは縮緬(ちりめん)の小袖(こそで)を寝間着(ねまき)に用い裾(すそ)を長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝(い)ねそれで少しも寝姿が乱れなかつた。上気することを恐(おそ)れるためなるべく炬燵(こたつ)や湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を懐(ふところ)に抱いて温(ぬく)めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸が却(かえ)って冷え切ってしまうのであった》とあるのは、佐助にとって、春琴の官能こそが己の秘めたる官能であったということだろう。

「表層」、「皮膚の深さ」ということでは、盲目三部作の『盲目物語』、『聞書抄』に連なる文体のぼんやりとした切れ目のない、周縁部が浸蝕しあった眼による愛撫がある。

《肉体の関係ということにもいろいろある佐助の如(ごと)きは春琴の肉体の巨細(こさい)を知り悉(つく)して剰(あま)す所なきに至り月並(つきなみ)の夫婦関係や恋愛(れんあい)関係の夢想(むそう)だもしない密接な縁を結んだのである後年彼(かれ)が己(おの)れも亦(また)盲目(もうもく)になりながら尚(なお)よく春琴の身辺に奉仕(ほうし)して大過なきを得たのは偶然(ぐうぜん)でない。佐助は一生妻妾(さいしょう)を娶(めと)らず丁稚(でっち)時代より八十三歳(さい)の老後迄(まで)春琴以外に一人の異性をも知らずに終り他の婦人に比べてどうのこうのと云う資格はないけれども晩年鰥暮(やもめぐ)らしをするようになってから常に春琴の皮膚(ひふ)が世にも滑(なめら)かで四肢(しし)が柔軟(じゅうなん)であったことを左右の人に誇(ほこ)って已(や)まずそればかりが唯一(ゆいいつ)の老いの繰(く)り言(ごと)であったしばしば掌(てのひら)を伸(の)べてお師匠様(ししょうさま)の足はちょうど此の手の上へ載(の)る程(ほど)であったと云い、又(また)我(わ)が頬(ほお)を撫(な)でながら踵(かかと)の肉でさえ己(おのれ)の此処(ここ)よりはすべすべして柔(やわら)かであったと云った。》

 佐助が失明した時のいきさつを側近者に語ったとして、《それにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如(ごと)きことであった乎(か)過日彼女が涙を流して訴(うった)えたのは、私がこんな災難に遭(あ)った以上お前も盲目(もうもく)になって欲(ほ)しいと云う意であった乎そこまでは忖度(そんたく)し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄(ふる)えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生(めば)えて来て唯(ただ)感謝の一念より外(ほか)何物もない春琴の胸の中を自(おの)ずと会得(えとく)することが出来た今迄肉体の交渉(こうしょう)はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めて犇(ひし)と抱(だ)き合い一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入(おしい)れの中の暗黒世界で三味線(しゃみせん)の稽古(けいこ)をした時の記憶(きおく)が蘇生(よみがえ)って来たがそれとは全然心持が違(ちが)った凡(およ)そ大概(たいがい)な盲人は光の方向感だけは持っている故(ゆえ)に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り鳴呼(ああ)此れが本当にお師匠様の住んでいらつしやる世界なのだ此れで漸(ようよ)うお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう衰(おとろ)えた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかつたが細帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと仄白(ほのじろ)く網膜(もうまく)に映じた彼にはそれが繃帯(ほうたい)とは思えなかったつい二た月前迄のお師匠様の円満微妙(びみょう)な色白の顔が鈍(にぶ)い明りの圏(けん)の中に来迎仏(らいごうぶつ)の如く浮(う)かんだ》

 レヴィナスの言う感情の共有、《官能を社会的なものに還元するのが不可能であることで――官能がそこに流れこみ、官能を語ろうとすることばの慎みのなさにおいてあらわれる、無―意味さによって――、愛しあう者たちは、あたかも世界にたったふたりで存在するかのように孤立する。この孤独はただたんに世界を否定し忘却することではない。官能によって達成される、感覚する者と感覚される者との共同的な活動がカップルからなる社会を囲い、閉ざし、それを封印する。官能の非社会性とは、積極的にいえば感覚する者と感覚される者との共同体である。他者はただ感覚されるものというだけではない。あたかも同一の感情が私と他者とのあいだで実質的に共有されているかのように、感覚されるもののなかで感覚する者があきらかになる》は、次のような情景にあらわだ。

 何卒わたくしにも災難をお授け下さりませ、と御霊(ごりょう)様に祈願をかけ、効があって両眼が潰れたという佐助は、《お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼(め)の底に沁(し)みついたあのなつかしいお顔ばかりでござります何卒今迄通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄(にわか)盲目(めくら)の悲しさには立ち居も儘(まま)ならず御用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身(おんみ)の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白(ほのじろ)い円光の射(さ)して来る方へ盲(し)いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰(たれ)の恨(うら)みを受けて此のような目に遭(お)うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外(ほか)の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござり升(ます)そのお言葉を伺(うかが)いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換(か)えられませぬお師匠様や私を悲嘆(ひたん)に暮(く)れさせ不仕合(ふしあ)わせな目に遭わせようとした奴(やつ)は何処(どこ)の何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござり升私さえ目しいになりましたらお師匠様の御災難は無かったのも同然、折角(せっかく)の悪企(わるだく)みも水の泡(あわ)になり定めし其奴(そやつ)は案に相違していることでござりましょうほんに私(わたくし)は不仕合わせどころか此の上もなく仕合わせでござり升卑怯(ひきょう)な奴の裏を掻(か)き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござり升佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁(あいよう)して泣いた》

 凄まじい稽古の例として人形浄瑠璃の血まみれ修行や、春琴の厳しい稽古による放蕩者利太郎と北新地の少女の顔への傷という伏線、戯曲的仕掛けに見事に引っかかるかのような小説の虚構性に抗う犯人探しの愚かしさ、とりわけ佐助犯人説、あるいは春琴自害説の穿(うが)ちの馬鹿らしさは、これらの文章を読めばあきらかだろう。

 ちょうどふたりはレヴィナスの、《暗がりのなかで、いわば秘められたものの悪徳のなかで、あるいは覆いをとられてもなお秘められたものでありつづけるような未来、まさにそのゆえにかならず冒瀆であるような未来のうちで、自由は渇望される》のだった。

《佐助は眼(め)を突(つ)いた時が四十一歳初老に及(およ)んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒(かゆ)い処(ところ)へ手が届くように春琴を労(いた)わり少しでも不便な思いをさせまいと努める様(さま)は端(はた)の見る目もいじらしかった春琴も亦(また)余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明(めあ)きでは勤まらない長年の習慣故(ゆえ)佐助が一番よく知っていると云い衣裳(いしょう)の着附(きつ)けも人浴も按摩(あんま)も上厠(じょうし)も未だに彼を煩(わずら)わした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりも寧(むし)ろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触れたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外は唯(ただ)入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例(たと)えば人浴の時などは湯殿の戸口迄は二人に附いて行き其処(そこ)で引き退(さが)って手が鳴つてから迎(むか)えに行くともう春琴は湯から上って浴衣(ゆかた)を着頭巾を被(かぶ)っている其(そ)の間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものか嘗(かつ)て春琴が指頭を以(もっ)て老梅の幹を撫(な)でた如(ごと)くにしたのであろうが手数の掛(か)かることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒(めんどう)を享楽(きょうらく)しているものの如く云わず語らず細やかな愛情が交(かわ)されていた。按(あん)ずるに視覚を失った相愛の男女が触覚(しょっかく)の世界を楽しむ程度は到底(とうてい)われ等(ら)の想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身(けんしん)的に春琴に仕え春琴が又怡々(いい)としてその奉仕を求め互(たがい)に倦(う)むことを知らなかったのも訝(いぶか)しむに足りない。》

 これこそレヴィナスの言う、《官能が目ざすものはしたがって他者ではなく、他者の官能である。官能とは官能の官能であり、他者の愛を愛することなのである。》

 

<眼による愛撫>

 春琴の顔(かんばせ)に関する最初の記述は次のとおりで、《今日(こんにち)伝わっている春琴女が三十七歳(さい)の時の写真というものを見るのに、輪郭(りんかく)の整った瓜実顔(うりざねがお)に、一つ一つ可愛(かわい)い指で摘(つ)まみ上げたような小柄(こがら)な今にも消えてなくなりそうな柔(やわら)かな目鼻がついている。(中略)仏菩薩(ぶつぼさつ)の眼、慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)という慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを見馴(みな)れているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や有難(ありがた)みを覚え或(あ)る場合には畏(おそ)れを抱(いだ)くのであろうか。されば春琴女の閉じた眼瞼(まぶた)にもそれが取り分け優(やさ)しい女人であるせいか古い絵像の観世音(かんぜおん)を拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところに依(よ)ると春琴女の写真は後にも先にも此れ一枚しかないのであるというと彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらず又此の写真を撮(と)った同じ年に偶然(ぐうぜん)或る災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかった筈(はず)であるから、われわれは此の朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌を想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立(おもだ)ちを浮かべられたか恐らく物足りないぼんやりしたものを心に描かれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろう或(あるい)は写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。》

 ここに早くも、「指で摘(つ)まみ上げたような」という「手」の記号がある。また、「今にも消えてなくなりそうな柔かな」、「ぼやけた」という今後いくたびも表象される「朧」な映像もあらわれる。

 手に関しては、十四歳の佐助が四つ年下の春琴を「手曳(び)き」したことが重要で、「触覚」はその年齢から育まれ、そしてまた「手曳(び)き」とは他者による「視覚」の代行、導きでもあった。

《いったい新参の少年の身を以(もっ)て大切なお嬢様の手曳(てび)きを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附(つ)いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのを或る時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に極(き)まったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に感激(かんげき)しながらいつも春琴の小さな掌(てのひら)を己(おの)れの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻(もど)るのであったが途中春琴はめったに口を利(き)いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは黙々(もくもく)として唯(ただ)過(あやま)ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と尋(たず)ねる者があった時「誰(たれ)よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。(中略)手曳(てび)きをする時佐助は左の手を春琴の肩(かた)の高さに捧(ささ)げて掌(てのひら)を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであった偶々(たまたま)用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎(なぞ)をかけるようにひとりごとを洩(も)らしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云(い)い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌(きげん)が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張していなければならず恰(あたか)も注意深さの程度を試(ため)されているように感じた。》

「一つの掌に過ぎない」佐助にとって触覚と視覚の絡み合うところに言葉はいらないのだった。次の情景も示唆的だ。

《皆(みな)が庭園へ出て逍遥(しょうよう)した時佐助は春琴を梅花(ばいか)の間に導いてそろりそろり歩かせながら「ほれ、此処にも梅がござります」と一々老木の前に立ち止まり手を把(と)って幹を撫(な)でさせた凡(およ)そ盲人は触覚(しょっかく)を以(もっ)て物の存在を確かめなければ得心(とくしん)しないものであるから、花木の眺(なが)めを賞するにもそんな風にする習慣がついていたのであるが、春琴の繊手(せんしゅ)が佶屈(きっくつ)した老梅の幹を頻りに撫で廻(まわ)す様子を見るや「ああ梅の樹(き)が羨(うらや)ましい」と一幇間が奇声(きせい)を発した》

 九歳の時に盲目になった春琴は見ることかなわなかったから、見ることと見られることという絡み合い、光学的な視覚世界では存在しなかったのは確かで、常に見られる一方通行路だった。

淀屋橋筋(よどやばしすじ)の春琴の家の隣近所に家居(かきょ)する者はうららかな春の日に盲目の女師匠が物干台に立ち出(い)でて雲雀を空に揚(あ)げているのを見かけることが珍(めずら)しくなかった彼女の傍にはいつも佐助が侍(はべ)り外(ほか)に鳥籠の世話をする女中が一人附(つ)いていた女師匠が命ずると女中が籠の戸を開ける雲雀は嬉々(きき)としてツンツン啼きながら高く高く昇(のぼ)って行き姿を霞(かすみ)の中に没(ぼっ)する女師匠は見えぬ眼(め)を上げて鳥影(とりかげ)を追いつつやがて雲の間から啼きしきる声が落ちて来るのを一心に聴き惚(ほ)れている時には同好の人々がめいめい自慢(じまん)の雲雀を持ち寄って競技に興じていることもある。そういう折に隣(となり)近所の人々も自分たちの家の物干に上って雲雀の声を聴かせて貰(もら)う中には雲雀よりも別嬪(べっぴん)の女師匠の顔を見たがる手合(てあい)もある町内の若い衆などは年中見馴(みな)れている筈だのに物好きな痴漢(ちかん)はいつの世にも絶えないもので雲雀の声が聞えるとそれ女師匠が拝めるぞとばかり急いで屋根へ上って行った彼等(かれら)がそんなに騒(さわ)いだのは盲目というところに特別の魅力(みりょく)と深みを感じ、好奇心(こうきしん)をそそられたのであろう平素佐助に手を曳(ひ)かれて出稽古(でげいこ)に赴(おもむ)く時は黙々(もくもく)としてむずかしい表情をしているのに、雲雀を揚げる時は晴れやかに微笑(ほほえ)んだり物を云ったりする様子なので美貌(びぼう)が生き生きと見えたのでもあろうか。》

 ここで《町内の若い衆などは年中見馴(みな)れている筈だのに物好きな痴漢(ちかん)はいつの世にも絶えない》とは、相手が盲目であるだけにある種の窃視症ともいえよう。

 それはジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』の「部分欲動とその回路」で解説したように、《フロイトが「視る快感Schaulust」について、つまり見ると見られるについて語っているところにしたがってゆきましょう。見ると見られる、これは同じものでしょうか。シニフィアンによって書き表せばそこには共通性があるかもしれませんが、それ以外に同じものがあると主張できるでしょうか。あるいはそこに何か別の謎があるのでしょうか。実はまったく別の謎があるのですが、その手がかりを摑むには「Schaulust」が現われるのは倒錯においてである、ということを考えていただくのがよいでしょう。(中略)

 窃視症で起こっているのはどんなことでしょうか。窃視者の行為の際に主体はどこに、そして対象はどこにいるのでしょう。申し上げたとおり、見るということが問題になっているかぎり、というより欲動の水準において見るということが問題になっているかぎり、そこには主体はいないのです。主体は倒錯者としていますが、彼はループの結末のところでやっと現れるのです。対象の方はどうかといいますと――このことは黒板に描かれた私のトポロジーではお見せできませんが、認めていただけると思います――、この対象をめぐってループが回ります。対象はミサイルであり、倒錯では対象でもって標的が射当てられるのです。

 窃視症では対象は眼差しです。眼差しと言いましたが、これが主体であり、これが窃視者を射当て、標的を射当てるのです。サルトルの分析について述べたことを思い出していただければよいでしょう。サルトルの分析の中で眼差しの審級が浮かび上がっているとしても、鍵穴から覗いている主体を不意打ちする眼差しは他者という水準にあるのではありません。窃視者を不意打ちにする他者とは、すみずみまで隠れた眼差しそのものとしての主体です。》

 しかし、本当に重要なのは、町内の若い衆が盲目というところに特別の魅力(みりょく)と深みを感じたことではなく、佐助の眼差し、日常的な窃視症なのだ。

春琴抄』に佐助のマゾヒズムを論じることが多いが、佐助が自ら目を突いた行為もまたラカンの、《フロイトはこのうえもなくきっばりと、サド―マゾヒズム的欲動の出発点においては痛みは何の役割も演じてはいない、と述べています。問題は「支配Herrschaft」であり、「制圧Bewaltigung」であり、また暴力です。何に対する暴力なのでしょうか。それはあまりにも名づけにくいものなので、フロイトはその最初のモデルを――これは私が述べていることに全体として合致するモデルですが――主体が自分自身に対して自己支配を目的として行う暴力の中に求めることになりました》であろう。

 佐助の春琴への主従関係、その幻想こそがラカンの言う、《幻想が欲望の支えです。対象は欲望の支えではありません。主体は、たえず複雑さの度合いを増してゆくシニフィアンの集合との関係で、欲望するものとして自らを支えています》に違いない。 

 見られることで生きてきた春琴が、見られることを禁じることになるというギリシア悲劇的展開。春琴がいかに見られることを意識していたか、生きがいであったかの裏返しでもある。

《佐助は最初春琴が夢(ゆめ)に魘されているのだと思いお師匠(ししょう)さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起そうとした時我知らずあと叫(さけ)んで両眼を蔽(おお)うた佐助々々わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴も亦(また)苦しい息の下から云い身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠そうとする様子に御安心なされませお皃(かお)は見は致しませぬ此の通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛(ゆる)んだものかそのまま人事(じんじ)不省(ふせい)になった。その後も始終誰(たれ)にもわての顔を見せてはならぬきっと此の事は内密にしてと夢うつつの裡(うち)に譫言(うわごと)を云い続け、何のそれ程(ほど)御案じになることがござりましょう火膨(ひぶく)れの痕(あと)が直りましたらやがて元のお姿に戻(もど)られますと慰(なぐさ)めればこれ程の大火傷(おおやけど)に面体(めんてい)の変らぬ筈(はず)があろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復(かいふく)するにつれて一層云い募(つの)り、医者の外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌(いや)がり膏薬(こうやく)や繃帯(ほうたい)を取り替(か)える時は皆(みな)病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈(か)け付けた瞬間(しゅんかん)焼け爛(ただ)れた顔を一と眼見たことは見たけれ共(ども)正視するに堪(た)えずして咄嗟(とっさ)に面を背けたので燈明(とうみょう)の灯の揺(ゆら)めく蔭(かげ)に何か人間離(ばな)れのした怪(あや)しい幻影(げんえい)を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔(あな)と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れた如く佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床(びょうしょう)へ近づく毎(ごと)に努めて眼を閉じ或(あるい)は視線を外(そ)らすようにした故(ゆえ)に春琴の相貌(そうぼう)が如何(いか)なる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったし又(また)知る機会を自(みずか)ら避(さ)けた。然(しか)るに養生(ようじょう)の効あって負傷も追い迫い快方に赴(おもむ)いた頃(ころ)一日病室に佐助が唯(ただ)一人侍坐(じざ)していると佐助お前は此の顔を見たであろうのと突如(とつじょ)春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違(たが)いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒(い)えたら繃帯を除(の)けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人は兎(と)も角(かく)お前にだけは此の顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫(くじ)けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上から頻(しき)りに両眼を押(お)し拭(ぬぐ)えば佐助も諳然(あんぜん)として云うべき言葉なく共に鳴咽(おえつ)するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致します御安心なさりませと何事か期する所があるように云った。》

 見えないことで見えてくるものがあった。幻想は見えないことでさらに膨らみ、欲望を支えた。

《嘗(かつ)ててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰(つぶ)れることは不仕合せだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがない寧(むし)ろ反対に此の世が極楽浄土(ごくらくじょうど)にでもなったように思われお師匠様と唯(ただ)二人生きながら蓮(はす)の台(うてな)の上に住んでいるような心地(ここち)がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々(しみじみ)と見えてきたのは目しいになってからであるその外(ほか)手足の柔(やわら)かさ肌(はだ)のつやつやしさお声の綺麗(きれい)さもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなに迄(まで)と感じなかったのがどうしてだろうかと不思議(ふしぎ)に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線(しゃみせん)の妙音(みょうおん)を、失明の後に始めて味到(みとう)したいつもお師匠様は斯道(しどう)の天才であられると口では云っていたものの漸(ようや)くその真価が分り自分の技倆(ぎりょう)の未熟さに比べて余りにも懸隔(けんかく)があり過ぎるのに驚(おどろ)き今迄それを悟(さと)らなかったのは何と云う勿体(もったい)ないことかと自分の愚(おろ)かさが省(かえり)みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味えたのだと。》

 これはM.メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』の「問いかけと直感」における、《見えるものが私を満たし、私を占有しうるのは、それを見ている私が無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見る者としての私もまた見えるものだからにほかならない。 一つ一つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつきないし重複によって出現して来たもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、彼が自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものが彼の目にとって彼の写しないし彼の肉の延長のごときものとなることなのである。物の空間・時間とは、彼自身の断片、彼の空間化・時間化の断片なのであり、もはや共時的および通時的に配置された諸個人の同時性ではなく、同時的なものと継時的なものとの起伏であり、諸個人が分化によってそこに形成される空間的および時間的な果肉なのである。》

 世界が二人を見つめ、語りかけ、取り囲み、内から浸され、すっぽり埋没する様子がこの小説のもっとも美しく哀しいひとときとしてあらわれる。

《春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病(や)む数日前佐助と二人中前栽(なかせんざい)に降り愛玩(あいがん)の雲雀(ひばり)の籠(かご)を開けて空へ放(はな)った照女(てるじょ)が見ていると盲人の師弟(してい)手を取り合って空を仰(あお)ぎ遥(はる)かに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀は頻(しき)りに啼(な)きながら高く高く雲間へ這入(はい)りいつ迄たっても降りて来ない余り長いので二人共気を揉(も)み一時間以上も待ってみたが遂(つい)に籠に戻(もど)らなかった。春琴は此の時から怏々(おうおう)として楽しまず間もなく脚気(かっけ)に罹(かか)り秋になってから重態に陥(おちい)り十月十四日心臓麻痺(まひ)で長逝(ちょうせい)した。》

 最後に谷崎は、意識と官能の手袋を反転させたことをあなたはどう思うかと問いかける。

《察する所二十一年も孤独(こどく)で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違(ちが)った春琴を作り上げ愈々(いよいよ)鮮(あざや)かにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突(つ)いた話を天竜寺(てんりゅうじ)の峩山和尚(がさんおしょう)が聞いて、転瞬(てんしゅん)の間に内外(ないげ)を断じ醜(しゅう)を美に回した禅機(ぜんき)を賞し達人の所為(しょい)の庶幾(ちか)しと云ったと云うが読者諸賢(しょけん)は首肯(しゅこう)せらるるや否(いな)や》

                                 (了)

          ***引用または参考文献***

*『新々百人一首丸谷才一(新潮社)

*『千本桜 花のない神話』渡辺保(東京書籍)

*『全体性と無限』レヴィナス熊野純彦訳(岩波書店

*『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳(岩波書店

*『見えるものと見えないもの』M.メルロ=ポンティ滝浦静雄木田元訳(みすず書房