文学批評 「辻邦生『夏の砦』の変容と共鳴(レゾナンス)」

  「辻邦生『夏の砦』の変容と共鳴(レゾナンス)」

                                       

 

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《私が書いた長編小説のなかで最も苦しかったのは、一九六六年河出書房新社の「書き下ろし長編小説」叢書の一つとして刊行された『夏の砦』(文春文庫)である。この作品は前回で紹介させていただいた『廻廊にて』につづく、私の二番目の小説で、アンドレ・ドーヴェルニュやマーシャと同じように、主人公支倉(はせくら)冬子(ふゆこ)はいまも私の心のそばに生きている。》

 

<「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム」>

 辻邦生は雑誌「婦人之友」連載のひとつ、「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム⑧」を冒頭に引用した文章ではじめた。『夏の砦』が世に出てからほぼ三十年後の1995年11月のことで、四年後の1999年7月に思いがけない死が待ちうけているとは知る由もない。

 つづいて、ほぼ三年半の時日を要して《苦労の末にようやく誕生した人物であるという理由からも、なかなか忘れられない女性である》と前置きしてから、あたかも「作者解題」のように、作品成立の経緯・舞台裏(《冬子の生活内容のかなりの部分に、妻(辻佐保子)から提供された素材が使われているからだ。(中略)それらの多くは折にふれて妻が話す子供の頃の思い出で、とくに浜名湖畔の別荘地弁天島の夏の記憶と、少女時代に過した屋敷の雰囲気は、いつか何かの形で書いておきたいと思うほど、詳細な、忘れがたいディテールに満ちていた》)と小説作法(1958、9年ごろ、パリでメモした《それをそのまま小説に書くという意図はなかった。「物語・挿話は、小説のなかで何らかの効果を発揮する作用物だ」》)の緒言のあとで、荒筋と主題が紹介される。

《そんなわけで、支倉冬子はまず主題の要求からおのずと生れてきた人物だった。彼女は織物や染色に打ち込む工芸家だが、心のなかでは「<美>とは何か」をつねに求めている。冬子ははじめ絵を描いているが、それだけではどうしても満足することができない。「絵を描くとは、人間の生活のなかでどういう意味を持つのか」がだんだん分らなくなってくる。絵を描いて「これが美だ」と叫んでも、美だと思っているのは、その当人だけかもしれない。人間がもし多くの人に役立つ仕事をしなければならないとしたら、自分だけ美しいものを作っても意味がないのではないか。冬子はそう考えると、とても絵を描きつづける気がなくなる。そして人に役に立っていることがはっきり分かるもの(たとえば着物、帯、ショールなど実用品としての布地)を作る仕事に変ってゆく。》

《こうして冬子は織物工芸の勉強に北欧の都会に留学する。そしてそこでマリーとエルスというギュルデンクローネ男爵家の姉妹に出会う。この北欧の都会は冬子にとって夢のなかの都会と同じように現実感を持たない。その浮遊感に似た状態のなかで、冬子はながいこと忘れていた幼年時代の、至福に満ちた生活を思い出してゆく。》

 ここまでが、『夏の砦』の「第一章」から「第三章」までの要約に相当するのだが、つづいて幼年時代の暮らしの細部の感覚的な映像、「序章」を占める冬子のこまごました生活の位置づけについて、辻はさらっとだが重要なことを言葉にしている。

《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている。》

 すぐにはピンと来ないかもしれないが、「序章」では記憶をなぞっただけの独白の記録のような、本人によって外面的に見られたぼやけた浮遊する記憶の映像であったものが、思い出をほとんど忘れた女性として登場し、時々ちょっとした暗示で過去が揺らめき出そうになってはすぐ消えてしまう「第一章」から「第三章」までの経験と苦悩と成熟を経て、「第四章」以降の、自発的で意識的な「思い出」は、内面的に「見る行為」から「心の行為」へ時間とともに「変容」を遂げていったことを表現している。

《『夏の砦』全体の構成を単純化していえば、北欧の都会とギュルデンクローネ男爵家の城館での経験が(とくにその城館での火事が)、徐々に冬子のなかに、この幸福だった過去の姿を呼び戻す。それが完全に恢復されたとき、ながいこと失っていた<美>が戻ってくる。それは北欧の都会の美術館にある「グスターフ候のタピスリ」と呼ばれる壁掛けが一つの象徴的出来事の役割を果たす。たとえば支倉冬子がはじめてその壁掛けを見たときには、単なる中世風の作品だとしか思えないが、こうした過去の思い出を発見したあとでは、そこに<この世というただ一回きりの生>が――両手で抱きしめ、しみじみと味わうべき存在が織りこまれていることが理解される。》

「こういう思い出の一つ」として、手燭の蠟が鉄製の甕の水のなかに沈むイメージが「第四章」から引用されるが、それは後に見てゆくこととしよう。

《「幼い眼(まな)ざしは、あらゆる移りゆくものの姿のなかに、何か永遠の陰に似たものを認めることができた」が、人は、大人になるにつれて、そうしたことを一切忘れてゆく。その忘却のなかには、幼少期の出来事だけではなく、至福も含まれている。大人になるとは、至福に包まれていた世界を忘れることではないか。》

 すぐ思いあたるように、プルーストの『失われた時を求めて』冒頭の「スワン家の方へ」の至福の回想への共感がここにはあるだろう。

 そうして辻は、「第七章」に満ちている、この作品のタイトルでもある夏の海辺のエピソードを引用する。それもまた、後ほど見てゆくこととするが、なるほど辻は、ここまで紹介した荒筋や主題解説では小説の魅力を到底伝えきれないと考えて、プルースト的な幼少期の思い出の文章を、少し長いとはいえ二つほど引用して、読者の感覚、官能に訴えでたのだ。

《支倉冬子が苦しみ悩み求めたのは、こうして無感覚、無感動になった心をいかにしたら高揚させこの世の素晴らしさに覚醒することができるか、ということだったともいえる。冬子は親友エルスとともに北欧の海で遭難する。だが、その生涯にどこか完成した姿を感じられるのは、生とは刻々に過ぎてゆくが、その刻々はつねに永遠であるという真実を、それが語っているからではないだろうか。》

 最後の一文で辻が言いたかったことは、プルースト失われた時を求めて』やトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』やリルケ『マルテの手記』が、《最後に来るべき「死」から出発し、そこから遡(さかのぼ)って「生」を見る視点》(水村美苗)(辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』より)で描かれた物語であるように、『夏の砦』もまた死の視点から生を描いた物語であることだったに違いあるまい。

 

<『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』>

 1994年から95年まで『ちくま』に掲載された十二回の連載を基本として、佐保子夫人の編纂によって没後の2000年1月に刊行された『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』(以下、『薔薇の沈黙』と略す)は、辻邦生の遺作と呼んでもおかしくない作品だろう。辻のリルケへの関心と変化は、本書の第一回に書かれているように、1957年から61年までのパリ留学の最初期からはじまっているが、辻邦生『パリの手記』を読めば、プルーストトーマス・マンスタンダールリルケハイデッガーを忍耐強く繰りかえし持続的に読みこみ、思索しつづけていることに驚かされる。その後の、生涯にわたるリルケとのさまざまな関わりは、講演、大学講義・ゼミ、リルケゆかりの地への旅行、エッセイ、短編小説執筆、そして『薔薇の沈黙』の納得ゆく完成を目指して死の間際までたゆまず持続されていたことが、夫人による「夢のなかのもう一つの部屋――あとがきにかえて――」によって痛々しいほど読みとれる。

 ここでは、『薔薇の沈黙』の前半部分、『マルテの手記』に関して考察した第一回から第五回を主に取りあげる。それらが『夏の砦』と共鳴(レゾナンス)しているからである。

 

<『薔薇の沈黙』――「変容(へんよう)すること」>

『薔薇の沈黙』の第一回は「変容(へんよう)すること」と題されている。

「変容」、それは辻文学の本質であり、『夏の砦』はリルケへのオマージュ、「変容」の物語であることから、辻のリルケ論の本質を押えておくことが『夏の砦』解読の肝となる。

《もし一九五七年当時パリに森有正がいなかったら、私がリルケの作品とあれほど真剣に出会うことになっただろうか。》からはじまり、

《しかし森さんが時おり話すリルケは、どうも東京で考えていた詩人とは違っていた。森さんはリルケのことを「パリの孤独を徹底的に経験し、それに耐え、それを乗り超えていった詩人」というふうに話した。(中略)そしてリルケはドイツ語で読むか、すくなくとも仏訳で読むように、と言ってモーリス・ベッツ訳の『マルテの手記』と『フィレンツェ日記』を差し出した。》

 ここからは、「たえず書く人」(辻佐保子『たえず書く人辻邦生と暮らして』)だった辻自身の小説に対する態度と、さきに辻が「心ひかれる女性のアルバム」で解説したヒロイン支倉冬子の彷徨と苦悩を語るうえでの大事な主題と重なる。

森有正は当時西欧文化をいかに自分の感覚の底面に刻みこむかに苦闘していた。それは『バビロンの流れのほとりにて』に精緻に描かれているように、ただ知識としてヨーロッパを学ぶのではなく、そうした西欧文化(文学、思想から絵画、音楽、建築、制度まで)という形体で表現された全精神内容を、もう一度自分で経験し、それがおのずと、そのような形で外に表われ出るまで、成熟深化させてゆこうという途方もない試みであった。森さんは日本人が文化の上澄みをすくい取って、それで文化摂取ができたと思い込む態度に絶望感を抱いていた。文化は、結果ではなく、結果に至る全経験が大事なのだ。それを飛び越して、ただ結果だけを日本に持って帰っても、そんなものは文化でも何でもない――森さんはつねにそう考えていた。リルケを読む場合も同じで、リルケが経験したパリの孤独を徹底的に経験してゆく。そして彼が『マルテの手記』という形で定義したものが、自分の中で析出されてくるまで待ちつづける。リルケを理解するにはそれしかない。》

 パリに留学したばかりの辻と共鳴(レゾナンス)した。

《森さんのこうした話を聞いているうち、私が漠と感じていた問題と、それがどこかで響き合うのを感じた。私は何とか美の意味をフランスにいる間に摑みたいと思っていた。美の意味が摑めず、その根拠がはっきりしないために、どうしても小説が書けなかった。小説の不可能性――それが当時私の前に立ちはだかっていた壁であった。それを乗り越え、小説の可能性の端緒が摑めるのだったら、どんな苦労も厭わない。私はそう思って、不能感にとらわれる前に没頭したトーマス・マンをもう一度取りあげたり、プレイヤード版でプルーストをくる日もくる日も読みつづけたりした。しかしながら、それは知識を集めたり、感覚を楽しませたりするためではなく、そうした知的営為を経験することによって、自分自身が、前とは違った自分に変容することが問題だった。もちろん一と月やふた月でそんな変化が起るわけはない。だが、自分が変り、何か別のものが見えてくるのでなかったら、いくら物知りになっても意味がなかった。小説を書くこと――それは自分がまず変容することだった。》

 それはまた、『夏の砦』で、北欧に留学して来た支倉冬子の心境と都会彷徨とに多重映像化することとなる。

リルケは『マルテの手記』を一九一〇年に出版するが、それはマルテ体験を得た最初のパリ滞在からは八年後のことである。『マルテの手記』の稿のかたわらで書いた『ロダン論』第二部(講演原稿)のなかに、すでにロダンがいかに<生命(ラ・ヴイ)>を愛したかを的確に描いている。(中略)

 ロダンを彫刻へ駆り立てるものは何か――ロダンを近くから見ていた若きリルケは、それは<生命>だ、と答えるのである。<生命>は万物の中に遍在し、万物に<歓喜>を与える。しかしそれはロダンが自らの世界に実現している大いなる営みである。リルケのほうはその外に立ち、ただそれを理解しているにすぎない。だが、思えばこの<歓喜>の遍在する世界こそ、晩年のリルケが、オルフォイスという形象によって透視した<世界内面空間>ではなかったか。

 としたら、ロダンのそばで働いていた若きリルケは、それを<理解>という形ではすでに摑んでいた。ということになる。事実、摑み、認識していた。しかしそれはあくまで言葉のレヴェルであって、それが創造の母体となるためには、沈黙の形まで、経験の領域まで、深められなければならなかった。》

 この辺りは、支倉冬子の恢復期に反映している。

 

<『薔薇の沈黙』――「<固有の死>を失うこと」>

『薔薇の沈黙』の第二回は「<固有の死>を失うこと」である。

《『マルテの手記』の冒頭は次のような有名な言葉で始まる。

 

  So,also hierher kommen die Leute,um zu leben,ich würde eher meinen,es stürbe sich hier.

  なるほど、この都会にも人々は生きるためにやってくるが、ぼくには、人々が死ぬためにくるとしか思えないのだ。

 

 この一行は『マルテの手記』という一大変奏曲の唯一の主題と見ていいものだ。マルテがパリの街々で見る産婦、乳母車の中の赤ん坊、サルペトリエール病院の病人たち、舞踏病患者、壁に残る取り壊された家の痕跡、それに絶えず襲う敗残者意識などは、すべてパリに澱む死の臭いを象徴する。しかもこの死には<掛けがえのないその人の死>という尊厳も崇高さも深い意味もない。》

 それは支倉冬子が北欧の都会の人々に感じた暗く澱んだ死の臭いと重複するし、冬子が幼年期の記憶の暗がりに抱え込んでいる度重なる死という過酷な思い出(祖母の、母親の、知恵遅れの子供駿(すぐる)の、老犬クロの、池の亀ヒューロイの、砂丘の数百、数千羽の鳥の、死)と繋がっている。ただ、『夏の砦』のあいつぐ「死」は、<掛けがえのないその人の死>ではあったのだけれども、過去に蓋をしなければいけない、過去に未練を持つんじゃない、と抑圧されたこともあって、尊厳も崇高さも深い意味もないものへ失墜してしまっていたのだった。

《『マルテの手記』の<誰のでもない死>は、ロダンを求めてパリにきたリルケの前に現前した<近代>という現実の姿であり、この<近代>を知ることがなければロダンの力業(ちからわざ)の真意も分らないことになる。

 ハイデッガーリルケを「乏しい時代の詩人」として描き出した論文のなかで、この<誰のでもない死>について次のように書いている。「時代が乏しい状態をつづけているのは、神が死んだからというばかりではなく、死すべき人間たちが自らの死すべき定めをほとんど知らず、ほとんど実践できずにいるからである。いまだに人間はその本質の所有に達していないのである。死は歪曲されて謎めいたものになっている」(手塚富雄高橋英夫訳)と述べている。(中略)彼は全力をあげて<誰のものでもない死>と戦い、<一つの死>、一つの<固有の死>を創造し、パリと対決しなければならなかった。『マルテの手記』はかかる<死>の創造によって「<誰のものでもない死>=近代のニヒリズム」を越えようとする渾身の力をかけた試みなのであった。》

 ここにおいて、<誰のものでもない死>とは動物的な「死」だけではなく、冬子の場合で言えば「グスターフ候のタピスリ」を前にしての精神的な「無感動」をも象徴していた。そしてまた、先を急ぐようだが、ハイデッガーの《死すべき人間たちが自らの死すべき定めをほとんど知らず、ほとんど実践できずにいるからである》という近代のニヒリズムを越えて、冬子は「無感動」を克服して、「その本質の所有に達し」、一つの<固有の死>を創造しえたのではないか。

 

<『薔薇の沈黙』――「物語が崩壊するとき」>

『薔薇の沈黙』の第三回は「物語が崩壊するとき」となっている。

《ここで注目すべきは、リルケがこの作品を<物語の地平>で展開しようとした点である。リルケは当初、マルテの日記と遺稿を手に入れた語り手が、それをもとに、一人の少女にマルテの生涯を語るという計画を立てていたという。しかし少女がマルテの日記と遺稿を直接見たがったあたりから、リルケの筆は進まなくなった。リルケがその後『新詩集』や『鎮魂歌』などの詩集のかたわら、『マルテ』の原稿を書くのに呻吟し、精根を使い果たしたという伝記的事実を知っているわれわれにとって、なぜ物語形式で書き出された作品が、次第に困難なものになっていったのか、想像してみるのも無駄なことではないだろう。》

この回は、少し視点を変えて、『夏の砦』の小説構造・構成を考えるうえでの参考になる。

《なぜリルケは聞き手の存在も、物語の形も、ともに放棄し、ついに現在あるようなマルテの日記、回想、遺稿を、語り手の介在なしに直接提示する形式をとったのか。

一つにはマルテのなかに、リルケが考えていた以上の実存的課題が含まれていて、あらためてそれを考えぬくことを要求されたこと。もう一つには、人物や出来事の展開を<物語の地平>で取り扱うのが不可能になったことが主要な理由だったように思われる。

 この<物語の地平>における話法の特色は、物語主体の一段と高い全能の視点にあるが、さらに物語的展開をする人物、挿話、出来事が<過去形>であること、したがってそれらの一つ一つが明確な中心と輪郭を持つ完結した形象として摑まれていること、また物語主体は認識主体と異なり、物語世界に合一化し、それを唯一的なものとして把えていること、などが挙げられる。》

 次いで辻は、リルケが『マルテの手記』の物語叙述を断念した時期には、トーマス・マンジョイスプルーストが物語形式の解体を経験しながら新しい小説の可能性を追究していたという、時代を支配する反物語的な精神状態が働いていたこともあるとしたうえで、小説世界が社会の全体を象徴するごとき関係が、<近代>の疎外・断片化が進むにつれて崩壊に向かっていったことによるとしている。

『夏の砦』には一応の語り手、編集者として冬子と一時期知り合いだったエンジニアが介在するにしても、『マルテの手記』と同じように単純な物語形式をとっていないのは、辻がリルケに託して論じた理由からであろう。

 なお、支倉冬子が留学した北欧がどこの国で、なんという都市なのかは明確に書かれていないが、文脈から類推するにデンマークが有力で、リルケがマルテ・ラウリツ・ブリッゲというデンマークの作家を創造し、主人公に選んだことと心理的に繋がっているに違いない(付け加えれば、辻が執拗に読みこんだトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』の舞台リューベックバルト海沿岸に近い北の地であった)。

 

<『薔薇の沈黙』――「セザンヌからの死」>

『薔薇の沈黙』の第四回は「セザンヌからの死」。

 幼年時代における<もの>たちとの親密感と、生のプロセス・内実としての「仕事」についての言及が、冬子の思い出や、最終章の冬子の手紙における島の織り女の織物に感じたこと、再び見て感動した「グスターフ候のタピスリ」の織匠の仕事への考察に反映される。

 まず前者は、

リルケロダンの場合と同じように、セザンヌからも現実の本質を見つめるきびしい見方を学ぶ。ロダンは日常的現実の覆いをはぎ取って、生命を失った<もの(デイング)>から、本質存在の輝きを取り戻すことだった。『ロダン論』の第二部はこの<もの(デイング)>についての考察からはじまる。

 

 <もの>――このことばを口に出すと、ある静寂が生れます、<もの>の周りにある静寂が。あらゆる運動は止み、輪廓となり、過去と未来の時から一つの永続するものがその輪を閉ざす。すなわち空間が、無へ追いつめられた<もの>の大きな安静が。(生野幸吉訳)

 

 しかしこうした<もの>の静寂は深いニヒリズムに冒されている<近代>の日常的現実からは失われている。せいぜい幼年時代に人々が経験した<もの>たちとの親密感のなかに追想されるにすぎない。リルケは人々にこうした幼年時代を思い出させながら、ロダンが創る<もの>を理解させようとする。それは「ともに滅亡することのない、永続するもの、一段と高次なもの、すなわち一個の<もの(デイング)>を作ろうとする試み」であり<近代>が実用価値の追求のなかで、無用の存在として追放した<もの>の意味(・・)の恢復なのである。》

 後者は、

《というのは<近代>社会において意味を持ち価値があるとされるのは、行為の主体的意味ではなく、その結果だからだ。「木はその実によって知らる」という聖書の言葉を典型的に実現しているのはこの<近代>なのである。かつて仕事は、仕事の成果とともに、そこに打ち込む生のプロセス・内実として意味を持った。ロダンが芸術家でなく職人の尊さを讃え、徒弟時代が失われたのを嘆いたのは、職人にあっては、成果だけではなく、成果を挙げてゆく生の過程の充実が生きる意味だったからだ。》

 

<『薔薇の沈黙』――「<愛する女>の肖像」>

 承前として、第五回は「<愛する女>の肖像」という題で、考察が展開される。

《この<近代>の空虚化・疎外化する生を克服するとは、リルケ=マルテにとって、生の内実・プロセスを、内側から充たすという形による恢復に他ならない。(中略)リルケはこの反転の契機をロダンセザンヌから学んでゆく。(中略)そこに湛えられているのは「神さまから、永遠のむかし、わたしにつくれと命ぜられた甘美な<蜜>」なのである。この二人は<近代>の空虚化の圧力に抵抗し、心の内部をかかる<生命>の<蜜>で満たしながら、それを孤独な仕事を通して、内から外へ実現する(レアリザシオン)してゆく。リルケが『マルテの手記』のなかでマルテと同化しながら一つの典型として示すのは、この<内から外へ>を純粋に徹底してなし遂げた人間たち――すなわち<愛する女>たちなのである。その意味では<愛する女>とは芸術家の原型といってもよく、<近代>が歪める以前の、人間の本源の在り方といってもいいものなのだ。それはハイデッガーが「元初の能力、それぞれのものをそれ自身へ集中する能力」と呼んだものであり、「存在者はすべて、存在者として意志の中にある」と規定した「意欲するもの」の根源の姿なのである。

「アベローネ。おまえは愛せられる女ではなく、<愛する女>だ」マルテは『手記』第一部の終りにこう書いて彼女に一角獣の壁掛のゴブラン織を示す。「アベローネ、僕はおまえといま一緒に立っているような気持がする。アベローネ、おまえはこの気持がわかってくれるだろうか。僕はぜひこれがわかってくれなければならぬと思うのだ」

――『マルテの手記』第一部はこの言葉で終り、第二部は「女と一角獣」の壁掛と呼ばれたこのゴブラン織の細かい描写から始まる。なぜなら、こうしたゴブラン織に織り込まれた女たちは何よりも<愛する女>だからである。》

 支倉冬子もまた<愛する女>となって蘇った、たとえ愛する対象が男ではなく、十五、六歳の若い娘エルサであったにしても。そして、冬子は再び「グスターフ候のタピスリ」の前に立つ。

 

<『薔薇の沈黙』――「見ることの果て」>

 リルケが『マルテの手記』を書き終えたのちの『ドゥイノの悲歌』、『転向』、『オルフォイスに寄せるソネット』を引用しながら論じた第六回から十三回までの題は、「夢のなかの部屋」、「天使のプロフィール」、「天使の現れる場所」、「委託を果たす者」、「遠ざかる死者たち」、「見ることの果て」、「大戦のなかの孤独な島」、「<開かれた空間>の声」であるが、ここでは『夏の砦』に関わる二つの文章を「見ることの果て」から引用して、『薔薇の沈黙』との共鳴(レゾナンス)の終りとしよう。

《『転向』で言われているのは物を見る(世界を見る)ことの内部で突然起った方向転換なのだ。リルケは端的に「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい」と歌ったが、まさしく見ることはここで異質の働きに変ったのである。》

 このことは冬子が北欧の地で「グスターフ候のタピスリ」を見る時の、第一回目が「眼の仕事」だったとすれば、最後に見た時には「心の仕事」に変っていたことに対応しているだろう。

 次いで、『夏の砦』全体の、冬子の幼年時代の回想、思い出、死(時間の否定)の記憶、人形のエピソードの重要性、魔術性と、それらを超えての内から外への恢復、眼から心への転向、時間の否定を超える永遠を象徴するかのような文章がやってくる。

《「第四の悲歌」では、「天使と人形」の合体から突然終曲ともいうべき部分に入り、存在の全的肯定を阻む否定(死)がふたたび現れる。しかしこんどはその否定(死)は逆手にとられて、存在を超えるものとして世界を捉える契機になってゆく。

 

 死へあゆみつつある人間よ、

 われらがこの世でしとげるすべてのことは、

 いかに仮託にみちているかを、われらは思い知るべきではないか。そこではいっさいが

 それみずから(・・・・・・)ではない。おお幼年時代の日々よ。

 そのときわたしたちの見たもろもろの形象の背後には単なる過去

 以上のものがあり、また、わたしたちの行手をおびやかす未来もなかった。

 (…)

 けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには、

 過去も未来もない持続をたのしみ、世界と

 玩具とのあいだにある中間地帯の、

 太初から、純粋なありかたのために設けられた

 ひとつの場所に立ったのだ。

 

 リルケにおける幼年時代の重要性は後期にいたるまで変らなかったが、ここでもすべてがそれみずから(・・・・・・)存在するのではない幼年期の魔術性が出現する。「過去も未来もない持続」という形で、死(時間の否定)を超える可能性の暗示として、世界と玩具のあいだに設けられた幼年の王国が描かれる。そこでは人間は決して単なる物として見られることはない。リルケはその体験を内側から遡って、<もう一つの地>(「より高次のレアリテ」)を見出してゆく。時間の否定を超える永遠が現れるのもまさしくこの地平である。》

 

<『夏の砦』――「序章」>

 辻邦生追悼特集(「新潮」1999年10月号)に丸谷才一が「『夏の砦』のことなど」と題して文章を寄せていて、辻文学の本質をある意味、残酷なまでによく表現している。

プルーストの弟子としての辻は、イメージのあつかひ方にはすこぶる長けてゐて、殊に簡勁な描線がまるで院展系の日本画の大家たちのやうに美しく、効果的で、息を呑むばかりである。ただし観念のあいらひ方といふ点では、さほどの卓越を示さないし、とりわけ作者の精神のあり方が健全に過ぎて頽廃味が薄いため、いささか物足りない感じが残る。しかし小児となれば観念がややこしくなくて自然だし、頽廃が乏しくても別におかしいことにはならない。そのせいもあつて、『夏の砦』の幼女期の回想にはあれだけ堪能することができるのかもしれない。》

 辻は『安土往還記』を書いてから、もっぱら長編歴史小説を世に出すようになり、それはそれで素晴らしい作品群なのだが、いささか物足りない感じを持たせられたのは、作者の精神のあり方の健全性、頽廃味が薄いからである、と言葉にされれば、なるほどそのとおりである。しかしながら、『夏の砦』の幼女期の回想、思い出は、丸谷の指摘を超えて、作者の精神のあり方が健全に過ぎるということはなく、十分に観念がややこしく、トーマス・マンヴェニスに死す』のように頽廃が充ちてさえいるのだから、堪能できたのは当然であった。

 竹西寛子による新潮文庫の『夏の砦』解説(1975年2月刊行)には、成人になってからの思考、形而上的思惟も含めての、冬子という女の言語表現への言及がある。

《女の意識の領域に、日本の男の作家にここまで立ち入られたかという思いは、相変らず健在である。女の無意識とのかかわり方を通して、在りようの独自をみせた男の作家というなら、すぐにでも谷崎潤一郎川端康成の名をあげることはできる。それならば、女の意識との、形而上的思惟との、と考えて口ごもらざるを得なかったのは、『夏の砦』が出るまでのことだ。

 感性の活用は、むろん人間だけの行為ではない。しかし、活用の自覚が言葉で行われるとき、人は一般動物と区別される。この、自覚するものとしての人間が、男性だけに限られる必要はないだろう。強弱の度合は明らかでも、女もまた感性の活用を自覚することはできる。表現の素材となった女のこのような自覚が、思考が、さらには形而上的思惟が、少なくとも不自然ではないものとして女らしさのうちに納得されるには、彼女の感受性の幅広い活用が言葉で行われることが望ましい。『夏の砦』の女主人公支倉冬子は、そのような女性として現われる。読者はただ、冬子のあとを追って、枝を張った樟のざわめきを聞き、蛇の卵を見、松の花粉の匂いを嗅げばよい。森や沼を、城館や壁飾りを、あらしの近い島の夜明けを見ればいいのである。乾草の匂いを、百合の香りを嗅げばいいのである。》

『夏の砦』の主題や荒筋は「心ひかれる女性のアルバム」で辻自身が説明していることから、ここで繰り返すことは避けて、丸谷や竹西が堪能した、プルーストの弟子としてのイメージと言葉を読むこととしよう。さらに、幼年期の回想、思い出に加えて、北欧の都会で鬱屈してゆく冬子の様子は恢復期の健全さとは違って、パリの町をさまようマルテのようにイメージ描写にすぐれ、頽廃味に澱んでいるので取りあげたい。

 

「序章」は、いきなり独白のような文章が二十ページ以上も延々と続く。現在の『夏の砦』は第三稿にあたるが、第一稿、第二稿とも、現在あるような語り手は存在せず、全編すべて女主人公の一人称独白だったという。古いタイプの編集者(河出書房新社の編集者坂本一亀)などは不満を抱いたようだが、福永武彦の七五〇枚を一人称だけで通すのは最初の書き下ろし小説としては不利だろう、もうちょっと主題を明確にしてダイナミックな形にした方がいいんじゃないか、という意見を受けて第三稿を書き、埴谷雄高に合格点をもらうなどもあって、全体として完全稿のような形式になったという(「「夏の砦」まで埴谷雄高辻邦生」(辻邦生作品全六巻―2 月報1))。

 前置きはともかく、『夏の砦』の冒頭部分はこうだ。

《私はながいこと、この屋敷以外の世界を知らなかったし、学校にゆくようになり、新しい友だちができても、私の世界は格別に拡がったようにも思われなかった。学校で私がぼんやり放心することが多いと、最初の父兄会で母が注意され、それを父と母が話しあっていたのを、私はひどく心外な気持できいていた。私の気持では、学校で自分が放心していたのではなく、この古い沼に似た広い家の細々した出来事が、睡ったあと夢のなかまで侵入してきたように、学校にいるあいだにも私のこころを奪いさっていて、若い、顔色のわるい、痩せた女の先生の言葉など耳に入らなかったにすぎないのだ。しかし、それを私が放心しているといって非難するとは、なんという間違いだろうと、小さかった私は、ひどく腹立たしい気持で考えたものだった。私が教室の窓の外の大木やその梢の上を流れてゆく雲を見ていたのは、ただぼんやりそうしていたのではなかった。池の隅に暮している亀(この亀は兄のと一緒に若い叔父が買ってきてくれたのだが、兄のは、どこかへ逃げていったため、兄は私の亀を自分のだと言いはったので、私は、それを水槽から奥の築山のある庭の池に移して、そこでひそかに飼っていたのだ)や、池の橋の下に沈めた絆創膏の空罐のなかの秘密の宝や、前の晩、時やが読みさしのまま置いていった本――あの蒼黒い顔をした靴屋の話などのことを気にするなといっても、それはまったく無理なことだった。教室で若い痩せた女の先生の話をきくことができるのは、亀のヒューロイや池の中の空罐の冷蔵庫を持ったことのない生徒たちだけなのだ。私には、ヒューロイがいま岩の上を這いだして、石橋の上で日なたぼっこをしていて、兄に見つかりはしまいか、気が気ではなかったし(もちろん私の方が先にかえるのだから、そんなことはなかったが、それでも時おり気まぐれから兄は早退することもあったのだ)それに先生がどんなに面白い話をしてくれたって、ミカエルの靴屋の話ほどに面白いものがあるだろうか。ミカエルは、いったいあんな蒼い顔をして倒れていたんだろうか。ほんとにこのミカエルの靴屋の話は、それまで読んだどの話よりも面白かった。馬車の喇叭がひとりでに歌いだす法螺男爵の話だって、それは面白かったけれど、ミカエルの頭の上でざわざわゆれた大木はうちの樟のようだわ、と私はつぶやいた。》

 森有正は「早春のパリから初秋の東京まで――辻邦生著『夏の砦』をめぐって――」(「文藝」1967年9月号)と題して、《この作品が自分の中にのめり込んで来る、と書いた。その意味は、『夏の砦』を読んでいると自分の心の奥底にある何ものかがそれに感応して共鳴する、ということである。だから本当はこの作品が私の中にのめり込んで来る、とうのはやや不正確で、むしろ、この作品は自分の中に深いレゾナンスを惹き起す、と言った方がよいかも知れない。》と前置きしてから、自分が生まれ育った淀橋浄水場の近くにあった日本の樫の木のある家の思い出を語りつつ、さきに引用した冒頭部分を自身が集中的に思考していた「経験」の問題に引き寄せて展開した。

《支倉冬子のこの独白のような記録はこの小説の構成そのものである。原初の接触は明らかに意識を、それと言わずに支配し、構成している。と同時に原初的接触を起しえないものもその意識の中に侵入し、そこにやがて来るべき葛藤を予測させる。ミカエルの靴屋の話は、時空の制限を超えて行く自由を語る。それからもっと大切なことは、この「序章」冒頭の導入部とも言うべき部分に、主人公の経験の質が鮮やかに出ていることである。それは感度の鋭い圏の表示であり、私はそれをその人の本質圏と呼びたいと思うが、それは冬子の孤独でしかもその圏をあくまで追求する姿勢を剰すところなく示していることである。それは一人の個人を定義する経験なのだ。こういう経験は、何か外側から操作出来る経験、あるいは体験ではない。独白はそれが内側から外側に伝えられる唯一の道である。》

 引用した冒頭の一節が「私の世界」、「私の気持」、「私のこころ」というように、「私の**」という小さかった私の内なる世界から外に出ないことに注意すべきだが、それはまた、辻が「心ひかれる女性のアルバム」で注意を促した《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている》という言葉において、内なる世界に閉じこもっているにも関わらず「外面的」に見られていることに気づくべきだろう。あとで「第四章」以降の「思い出」のなかから引用することになるが、そちらでは内と外を往き来することによってかえって「内面的」に見られるという逆説が成立している。

冬子の回想は「匂い」の官能に満ちていて、異なる匂い(負のイメージのときは「臭い」)は魅惑的であると同時に分離、断絶を予感させるものだった。ここには丸谷が指摘した「作者の精神のあり方が健全に過ぎて頽廃味が薄い」ということはない(小説の後半で、恢復した冬子が若い娘エルサに引きつけられる酩酊感は、このときの「裏のお嬢ちゃん」との性向と関係しているに違いないのだが、それを強調しないところなどは辻の健全さ、物足りなさの一端だろう(例えば、エルスには匂いがないし、肉体的な交感もつつましくも表現されない))。

 しかし何よりも、プルーストにおけるアイリスの香のような、匂いにまつわる感官を記憶の暗がりから救い出す文体の細やかな肌理(きめ)を味わうべきだ。

《果してその翌日、私が学校にゆくのを渋ったかどうか、私にはまったく記憶はないのだけれど、それから何年かたって、卒業するまで、私は学校にも学校友達にもさして強い関心が生れなかった。それだけ、私には、この屋敷のなかにこもっている重い、よどんださまざまな匂い――土蔵の湿(し)っけた黴の匂い、誰も使わないままに障子の閉めきってある書院の匂い、五月の終り、築山のある奥の庭にこもる松の花粉の匂い、渡り廊下の雨の日の匂い、西日のあたる女中部屋の匂いなど――が、それなしには呼吸できないような、ある離れがたい存在として感じられていたのだ。(中略)

 それは私が小学校に入って、二年か三年たったある初夏のことだったと思う。ぶらんこのある裏庭のつづきに木塀でへだてて私たちの家の借家があり、そこに、そのころ、ある仲買人の一家が引越してきていて、婆やたちが「裏のお嬢ちゃん」と呼んでいる顔色のわるい娘が一人いた。(中略)私がその子からある種の体臭を感じたとしても、もちろんそれは、乾いた日なたの草ほどの匂いであって、果して体臭などと言えるものだったかどうかわからない。あるいは子供特有の何かそうした匂いだったのかもしれない。しかし私は何よりもまずその匂いに女の子の髪や肌や洋服を感じた。私は女の子と会うとまず眼をつぶって、その髪や肌の匂いを嗅いだ。その乾草のような匂いは、ある異質の、どことなく馴染にくい不透明な抵抗となって、私にさからった。それはちょうど夏の海で泳いでいるうち、突然、冷たい潮の流れにぶつかるようなものだった。表面を見ただけでは同じものに見えながら、そこには異なった二つのものが相接しているという感じ――驚きと好奇心と嫌悪とを含みながら、同時に、その異なったもののおかげで、自分というものが逆にはっきりと浮かびあがってくる感じ――いわば油のなかに混った水滴が、周囲の黄色く澱んだ油質を感じるゆえに、かえって自らの透明な水の特質を自覚するという感じ――そうした感じを、私は、この女の子の乾草に似た匂いのなかに感じたのだった。(中略)私はよくその子の背中に顔をつけて、その汗ばんだ匂いを深く吸いこんだ。その子は私が何をしているのか理解できなかった。私が、百数えるまでこうしていさせて、と頼むと、はじめのうち、じっと私のするままに数をかぞえてゆくが、しまいに、急に不安になってくるらしく、ね、何しているの、もうやめてよ、と半ば嘆願するような調子で言って、身をもがくのだった。》

 プルーストの小説の主人公が女中や祖母、叔母によって自分以外の人たちという存在と社会、階層を発見したように、臭いが後ろ暗い感覚へ誘い、<もの(デイング)>たちとの原初的な親密感が生じる。

《このような自分以外の人たちがいるという事実――祖母や両親や兄などが自分と一つのものであるとすれば、はっきりそれと異なった感じの人々がいるという事実――の発見は、内玄関から中(なか)の土蔵へゆく途中の広い女中部屋に、ある特別な臭いを感じるようになったとき、はじまっていたと言ってよかった。この臭いを私がいつごろから自覚しはじめたものかわからない。しかし中のお蔵の前の大部屋が、私たちとは違った人たちの住むところ、私たちの家の中に設けられた特別の領域だという気持は、このなじめない、異種の臭いから生れていたように思う。今でも女中部屋のことを思いだすと、その汗臭い、すえた、甘ずっぱい匂いとともに、西日のさしこむ格子戸や、縁のない赤茶けた畳や、部屋の隅にある小さな鏡台や、壁にかかっていた着物や、家では決して見たことのない婦人雑誌や娯楽雑誌(それも表紙がめくれたり、破れたり、とれたりして、口絵には、色刷の天皇一家の写真や名士令嬢のグラビア写真などがむきだしになっていた)が鮮やかに眼の前に浮かびあがるが、この装飾もなにもない、貧しい裸の壁だけの部屋には、また、何か私の感覚を異常に刺激するものがあったのも事実なのだった。それが、その当時の私に快感をあたえたのか、嫌悪をあたえたのか、それはわからないけれど、私はただこうした奇妙な異質感を味わうためにだけ、よくその女中部屋に入ったことを憶えている。私は、そこに何か後ろ暗いような、自分では知ってはならぬような、説明のつかぬものが隠されているような気がして、そのすえた甘ずっぱい匂いを、小さな鼻孔をふくらませて、深々と吸いこんだものであった。そこには浅黒い脂肌の若い女中たちの体臭とともに、乾いて埃りっぽい老人じみた婆やの臭いもまじっているような気がした。足のうらにはりつく畳の冷たく平たい感触、細格子のはまった硝子窓に書かれた落書(これは若い叔母たちがまだ子供だったころに書いた落書で、鉛筆や色鉛筆で、自分の名前、兄妹、友だちの悪口、親戚じゅうの名前、いたずら書き、へのへのもへじ、などが、あたりかまわず書きこんであったのだ)、小さな鏡台の引出しの中のすり切れたブラシ、かけた櫛、使い古した化粧道具、夕方になるとつくニクロム線の赤くW形に光る暗い電球、土蔵から細い黒い流れになって吹きすぎてゆく隙間風、土間につづく板の間の滑らかな冷たい一段低まった感じ――こうしたものを、私はなんという不思議な陶酔感をもって味わっていたのであろう。》

 ついで、女中の時やの漁村の家に連れて行かれたときの回想と、絆創膏の空罐のなかの蛇の卵をめぐる裏の女の子との諍いが暗く描かれる。

 

<『夏の砦』――「第一章」>

 留学当初の冬子の眼で見られた北欧の街は、マルテの眼で見られたパリの街と同じように、分裂病統合失調症)すれすれの神経症的徴候に揺らぐ。しかし、リルケの文章が自覚的であることから病理性が認められないように、冬子のノートのそれも自我の崩壊の危機が迫ってはいたが自覚的に書かれているという点で健全であり、リルケ(=マルテ)がそうだったように認識の訓練の通過儀式だった、とも言える。都合六冊ある冬子のノートの第一冊目の半ばほどに書かれていた異様さを示す記述はいくつかあるが、一つだけ引用する。

《この頃、ふと気がついてみるといつか自分で独り言を言っている。まるで言葉に出さないと、ものが考えられないみたい。部屋にじっとしていると、壁や天井から脂汗のようなものが流れてくるような気がして、なるべくせっせと工芸研究所に通っている。それでもユール先生はフランス語を話して下さるので、先生とお目にかかれた日は心が晴ればれする。街を歩いていても、フランス語か英語で(この都会の暗い響きの言葉はまるで喋れないから)誰かれとなく話しかけてしまう。先日もS**街の古物商の店の前を通ったら、こんなことがあった。そこは、ひっそりした狭い通りで、店のなかは暗く、鉄の甲冑が光っていたり、花瓶や壜が古家具の上にのっていたり、造花や風景画が壁にかかっていたり、各種の楽器が天井から吊りさがっていたりして、その奥に、いつも店の主人が坐って新聞か何かを読んでいた。私は研究所からの帰り、よくそのガラス扉に顔をくっつけるようにして店内をのぞいたが、一度も入ったことはなかった。ところが今日、いつものように店のなかをのぞくと、ふだん店の主人が坐っているところに、蝋人形が置いてあった。若い男の人形で、はにかんだような微笑を浮かべ、いくらかうつ向き加減で、着ている洋服はどこかこの地方の風俗衣裳のように見えた。私はそれがちょっと面白かったので、なかへ入ってみようという気になった。ドアの鈴の音がして、店の奥から小肥りの若い陽気な娘が出てきた。私がフランス語で話すと「あら、フランス語を話しますの?」と言って、フランス語で何が欲しいかとか、この絵はどうだとか、話しだした。私は、いつもこの店を通るのだということ、そして店の主人がふだんは帳場に坐って本か何かを読んでいるのを見かけていることなどを話した。

「今日はご主人はいらっしゃらないの?」

私はその蝋人形を眼で指しながら言った。小肥りの娘はちょっと驚いた顔をして、

「ご主人ってパパのこと?」

と叫んだ。

「ええ。年配の方よ。少し髪の薄くなった……」

「あ。じゃパパね。あなた、パパをご存知でしたの? ああ、可哀そうなパパ。あのパパは五年前になくなりましたの。」

 私はしばらく娘の顔を見ていたが、黙って頭をふると、後ろも振りかえらず店を出てしまった。なんだかそのあとで、ひどく頭が痛み、早く床についた。そして翌日になってもいやな感じが黒ずんで身体のなかに残っているみたいだった。》

 ノート全体を読んだ編集者であるエンジニアは、第三冊目のノートの大半を埋めている冬子の街区遍歴の記録を《彼女の不安の克服法の一つの方法》と解釈し、《彼女が執拗に感覚の細部を詳細精密に定着しようと意識していて、外界が曖昧になり欠落してゆくのを言語によって凝集し、固定しようとしているのではあるまいか》と推測して、《喪失した場所を恢復しようという無意識の欲求》という<オデュッセイ的遍歴>の特徴を示す出来事を紹介している。そこには思考が、形而上的思惟が不自然ではない女らしさのうちに表現されている。

《まだB**広場から戻ってくるようなときにも、よく道をまちがえた初めのころ(それはある雨の夕方だった)美術館から帰ってくる途中、自分の家がどうしても見つからなかったことがあった。私は、もう一度、B**広場に戻ってみようと思ったのは、かなり歩きまわったあとなので、後戻る道すじさえわからなくなっていたのだった。どの通りにも見覚えがなく、同じような形の暗い階段や扉や窓が、雨のなかに並んでいた。こうして通りから通りへ歩きつづけたあげく、とある町角で、彫刻や浮彫りに飾られた重々しいアーケードの玄関のある大きな建物の前に出た。それは官庁か、学校か、病院か、ともかくそういう公共の建物であることには間違いなかった。しかし私の住むP**街の付近には、こうした大建築は見当たらなかった。(私はP**街付近ならよく歩いたので、そう確信できた)自分が見当ちがいの街にまぎれこんでいるのにちがいないと思った。私はそこで町角を通りがかったタクシーをとめて、運転手に、私の住所を見せた。すると彼は早口で何か言った、私はわからないという身振りをすると、わざわざ雨の中を車からおりて、私の先に立って歩きだした。数メートル先の次の町角で、彼は私の住所と町の標識をくらべ、それだけで行ってしまった。それはたしかに私の住むP**街の標識だった。(中略)私はふと、耳の痛いまでに静まりかえるこの都会特有の濃い深い沈黙のなかで、何度となく繰りかえし現われてくるあの重厚な大学の建物を思いえがくのだった。なぜ私はその軒蛇腹の浮彫りや、正面の上の盾と、波と、文字を書いたリボン状の旗とを組合せた紋章や、擬古典的な女神石像などを、はじめのうち、見なかったのであろうか――私の思いはかならずこの一点に戻ってくる。そんなとき私はこう思った。「私は浮彫りや大きな窓や紋章などを眼にしてはいたのだ。そうしたものは私の網膜に映ってはいたのだ。しかし、ぼんやりしていた私にとって、それは眼に映っているだけで、本当に、浮彫りなり窓なりの形として意識されていなかったのだ。」》

 彼女は書く行為、表現することによって、現実を自分のものにしてゆこうとしていたのだが、「大学を認める」ということは、まだそれと気づかぬがかすかに泡立ってきた「幼年期の思い出を認める」ことの予兆であり、認める/認めない、は「眼の仕事」から「心の仕事」への現れては消えるかすかな胎動だったのだろう。

 

<『夏の砦』――「第二章」>

 雨に打たれて肺炎になり、入院した冬子はビルギットという看護婦に癒される。第四冊目のノートは恢復期に特有の軽々した新鮮な感じにみたされている。ようやくベッドを離れて部屋の端ぐらいまで歩けるようになった頃に見た夢は、プルースト的な回想の場面で、失われた空間が、失われた時を誘って、ざわざわという遠い音とともに浮上してくる。

《そういうある夜明け、私はめずらしく祖父の建てた樟の大木のある家の夢をみた。その樟の枝々は母屋のうえを覆いつくすように腕をひろげていて、風のある夜、ざわざわとまるで川でも傍を流れているような音で葉を騒がせた。夢のなかでも楠の大枝は、かつて私が夜ごと怯えたと同じ音をたてて鳴りつづけていて、重い潜戸(くぐりど)も玄関につづく砂利道も植込みの奥の築地塀も夢とは思えない鮮やかさでよみがえってきたのだった。私はそこで母だったか、祖母だったか、あるいは別の誰かに、今までこんなながいあいだどこへ行っていたのかと訊ねられ、家ではみんなが大へん心配していたところだ、というようなことを言われた。(中略)

 私は自分の涙で目をさました。目がさめてからも悲しみの発作はまだつづいていた。枕が涙で湿っていた。しかし目がさめて後、悲しみの発作は急に実体をうしなって、なにか感情の虚像のようなものに変っていた。その夢のなかで会った人物が母なのか祖母なのかはっきりしないのに、潜戸の重い鎖や。砂利道を踏む感覚や、植込みの奥の築地塀の雨に濡れて変色した壁土の色などは、異様な鮮明さで思いおこされた。その瞬間、私は思わず声をあげそうになった。樟の大枝がその時いっせいにざわざわと鳴りわたったのを耳にしたからだった。すると突然あの黒ずんだ影が次第に明確な姿となっていった。私は息をのんで、それを見つめた。それは今しがたの夢で途切れたばかりの祖父の家の暗い森閑とした気配であり、姿だった。「あんなにもしばしば私のそばを走りぬけていた感覚、私が仮りに黒ずんだ影のようなものと呼んでいた感覚とは、実は、私の身体に蓄積され、その都度、さまざまな触発を受けて喚びおこされようとしながら、記憶の表面にまで、ついに浮かび上らず、意識の下層をかすめて消えたこの祖父の家の記憶だったのか。」私は呆然として突然現われたその暗い静かな家の隅々を、あたかも現実の家でも見るように、眺め入ったのである。(中略)すると不意に、築山につづく一枚岩の橋で死んだ亀のことを思いだした。亀を私は飼っていたことがあったっけ――なにか信じられない出来事のように私はその思い出を驚いて見つめた。それはもう遙か遠い過去に忘れ去られ、葬り去られていた事柄だった。なんていろいろのことがあったのだろう。そしてなんと多くのことを私はこんなながい間、忘れ果てていたのだろう。そう思う間もなく、死んだ亀の墓を一緒につくってくれた色白の女中の時やのことが思いだされた。そうだった、時やと最後に会ったのは小学校の三年の頃だった。ああ、憶いだしてくる、時やがお嫁にいって、本当にあの人は仕合せだと言われていたのに、その翌々年だったかに、亡くなったのだ。私は時やの家にいったこともある。海のそばの寂しい、ランプのついた暗い家だった。いつも黙って坐っていた老婆がいたっけ。時やのそばに寝ると、波の音が枕のそばで聞えたのだ。「時や、時や、波が近くなってくるよ。私たち。溺れるようなことはないだろうね。だって波が家のすぐそばで鳴っているんだもの。」私がそう叫ぶと、時やは「夜は潮が差してくるんです。こわいことなんかありませんわ。さ、お嬢さま、時やがこうして持っていてあげますからね、安心してお休みなさいませ。」と言って、冷たい湿った手で私の手をしっかり握ってくれた。冷たい湿ったやさしい手。そうだった。突然、私は我にかえって身ぶるいした。あの冷たい湿った感触は、時やの手の感触だったのだ。私は病院にきてずっと不思議とビルギットの手の感触に心が和んでいたのも、それが時やの手であると思っていたからだったのだ。(中略)その時、突然、記憶の奥の暗闇から、昨日のことのような鮮やかさで、一つの場面が浮かびあがった。それは裏の借家に住んでいた髪の薄い、蒼い顔をした女の子の姿であり、私がその子を何か残忍な強暴な力で突き倒している情景だった。その前後のことは思いだせなかった。ただ、思いだしたその瞬間にでも、息苦しくなるような残忍な憎悪の感覚がその記憶にこびりついていた。(中略)ところがたまたま私が飼っていた亀のことを考えていたとき、何の脈絡もなく不意にその憎悪の原因がよみがえってきたのだ。私がその子と一枚岩の橋の上で争ったこと、そして怒りの発作にかられてその子を池のなかへ突き落したこと、その後で土蔵のなかで泣いたこと、泣きながらもう誰にも愛して貰えない人間になったと感じたこと、涙が乾くと、自分は誰かを愛そうとすると拒まれる人間なのだと思いこんだこと、それをひどく寂しいと思ったことなどを、私は一挙におもいだしたのである。》

 そのあとには、隣りの寄宿学校から病院に忍び入ってきた十五、六歳の少女、長い栗色の髪をくしゃくしゃにした、燃えるような眼のエルス・ギュルデンクローネとの、親和力の働きのような不思議な出会いの場面が来る。エルスの姉で市立図書館司書のマリーとの友情の記録がノートから書きだされる。

 第四冊目のノートの最後のエピソードとして、ふたたび制作へ激しい意欲を感じはじめた冬子が、市立図書館にマリーを訪ねて、図書館所蔵の**黙示録写本を見せてもらった日記が示される。一葉の挿絵では、白馬にまたがる天使ミカエルが槍をかまえて、赤い龍の方を眺めていた。十何葉かの挿絵頁が終って、写字僧の書いた本文がはじまる第一頁、その左上の冒頭のAの花文字が驚きを与える。

《花文字Aは単なるAをあらわしているのではなく、むしろ複雑にからむ花茨から、まるで牧羊神が時ならぬ顔をあらわすように、不意にAの字体が出現して、蔓が相互に、いっそう解けがたくもつれあってしまった感じがした。(中略)しかし花文字Aはまぎれもなく、あの魔法使いの靴、先端のそりかえった細長い靴をはいていた。靴の各々の末端は蔓文様にまぎれていた。しかしそのとき、その夏の光のなかにまぎれこんでいったのは、蔓文様ではなくて、私自身だったといえないだろうか。私の見たのは、あの樟のざわめく祖父の家とともに焼けてしまった、ゴシック体の花文字を金箔で、深紅色の地に打ちだした、あのミカエルの物語――青い天使と赤い天使がステンド・グラスの太い輪郭にはめこまれて表紙をかざっていた、手あかによごれ、すりきれたあの本だった。私が見ていたのは、封建時代のグスターフ候の書庫におさめられた**黙示録写本などではなかったのだ。私はすでに、あの噴水のある広場の飾り窓のなかでその複製を見たときから、自分が何を見ようとしていたのか、ひそかに知っていたと言えないだろうか。いや、むしろ私がそれを眼にしたとき、不意に私のなかの何者かが、かつて忘れはてたある姿を、ある物影を、そこに感知していたというべきだったかもしれない。たしかに私は、あのとき、そこに何者かがゆらめき通りすぎたのを見たのだ。私はその影のあとを追って、ひたすらこの暗鬱な、巨大な墓窖に似たグスターフ候の城館へとまぎれこんだのだ。私はそこで祖母が長い廊下を歩くあの、とっちん、とっちん、という音を聞いたようにも思い、樟の大枝が私の耳のなかでざわめきつづけていたようにも思ったのだ。……》

 

<『夏の砦』――「第三章」>

 支倉冬子がマリーとともにエルスの待つギュルデンクローネの城館(男爵のほかには、執事の無口なマーゲンス、寡婦で大女のビルギット、ビルギットの後からよちよち歩いてくる哀れな白痴の小人ホムンクルス、それに森番と庭師だけ)で生活した夏の、ギュルデンクローネ日記と呼んでいいノートからなる。冬子は、夜風に森がざわめくのを聞いて、楠の大木におおわれた祖父の家にいるような気になり、健康で生命にみちたエルスといると、自然のなかに融けこんでゆく調和感を感じて、能動的な熟考を重ねる。

《だが、なぜ私が樟の大木のざわめくあの家にいていけないのであろうか。なぜ母が機を織っている音を夢うつつに聞いていたり、祖母が廊下を通ってゆく足音を聞いていたりしてはならないのか。いま誰かが来て、お前はまだ幼いままの冬子なのだと言ったとしたら、そのままそれを素直に信じこんでしまうだろう。

 しかしそれ以上に辛く苦痛なのは、私をここへ運びこんできた宿命を考えることだ。いまから思えば、それは、幼年期と現在との間に挿入された大きな挿話のような気もしてくる。だがなぜそんな挿話が私に必要だったのだろうか。そうだ。そのことだけは、自分にはっきりさせなければならない。そうでなければ、あの病気のあと、なぜ私が徐々に制作力を取り戻していったか、なぜ調和した甘美な感覚を味わえるようになったか理解できないばかりでなく、現在それを保っているかに見える調和感やこの歓びも、幼年期をいつか喪っていったように、また見失ってゆかないともかぎらない。この意味でもギュルデンクローネの館での一日一日は、私にとって、二度と得られない貴重な日々なのだ。なぜならここには私の幼年期がそのまま残されているだけではない。私はエルスのなかに失われた私自身を見るような気がするからなのだ。》

 辻が「心ひかれる女のアルバム」に《『夏の砦』全体の構成を単純化していえば、北欧の都会とギュルデンクローネ男爵家の城館での経験が(とくにその城館での火事が)、徐々に冬子のなかに、この幸福だった過去の姿を呼び戻す。それが完全に恢復されたとき、ながいこと失っていた<美>が戻ってくる。》と解説した火事の場面、それに先立つ仮装舞踏会の準備(仮想衣装選びや、舞踏会のあとの行楽に使えるものがあるか調べるために屋根裏で調べていると、ばらばらになった操り人形が出てきて、胸のしめつけられるような、妙に不安な気持になったこと)や当日の様子が書かれ、冬子は美は物狂いのなかだけに姿を現わすものであることを摑む。

 厩舎の火事について冬子は、日記に次のように書いているだけだった。

《おそろしい焔。なんという鮮やかな色で燃え落ちたことか。哀れな白痴のホムンクルス。ああ、それは昔のこと。何から何まで同じではないか。》

 

<『夏の砦』――「第四章」>

 《多くの人たちは、記憶のなかの物ごとを、霧に包まれたように、ぼんやりした姿しかもたず、それに反して、現実に経験する姿は、はっきり確実な形をもつと言うけれど、この北方の古い異国の都会(まち)での生活は、しばしばそれと全く反対のことを私に教えるように思う。たとえば街の飾り窓の冷たい反射がそのまま祖父の家の応接間のガラス戸の反射になり、ギュルデンクローネ家の廊下が、いつかあの書院へ曲る樟の家の廊下につづいているようなとき、現実から、過去を憶いだすというのではなく、現実と過去の閾口に立って、同時にその両方の世界を生きていたと言えないだろうか。

 とはいえ、私は誰にその古い屋敷の物語をすべきであったろうか。》

あたかもここから小説がはじまるかのような正統的で格調高い文体による問いかけの先は冬子自身である。ギュルデンクローネの館で書き継がれた回想は、辻が解説した《この序章が外面的に見られ、思い出が内面的に見られるという相違は、実は『夏の砦』の大切な主題の一つになっている。》の「内面的に見られる」思い出に相当している。

 祖父が亡くなってから後の家に漂いはじめた、暗い、空虚な、沈んでゆく気分、没落する雰囲気なり徴候は、辻が精読したトーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』の影の下にあって、リルケ『マルテの手記』経験やハイデッガー哲学研究による<もの>についての考察が次のような場面と共鳴(レゾナンス)している。

《私は、庭での遊びに飽きると、家のなかをさまよって、何か面白いものはないかと捜しながら、奥の書院に入りこんだのだったが、そこは昼でも、ながい廊下にそったガラス戸にカーテンが閉まっていて、後には雨戸をたてきったままになっていた。(中略)普通なら、人間たちによって使われる部屋、人間たちの開けたてする襖、人間が光をとる書院窓、人間の眼をよろこばす違い棚の彫刻や人形などが、ながいこと、誰もここを使わないうちに、もう人間への従属を忘れてしまって、めいめいが独立し、自分の権利を主張しはじめているような気がした。床柱も掛軸も額も天井も透し彫りも、自分たちがはじめからそこにいて、人間などまるで知らないというような顔をしていた。私は、こうした物たちのもつ無愛想、よそよそしさ、傲慢さには腹がたったが、同時に、物たちがお互い同士では、何とも言えない親密さで話をしたり、目くばせを交わしたり、うなずき合ったりしているのに気がついた。(中略)そのうち、物たちのうちの誰かが、ふと、私のいることに気がつくのだ。急にみんなは黙りこくり、ひそひそと私のことを囁きはじめる。(中略)すると、そのとき、誰かが、「どうだ、この子をひっとらえては。」と言うのを聞いた。突然、物たちはざわめきたち、意見をかわしているようだったが、そのうち、「そうだ、この子をひっとらえてしまえ。」という声が圧倒的になっていって、みんながいっせいに私にむかって飛びかかろうと身構えた。私はぞっとして、夢中になって部屋からとびだすと、ながい廊下を息せききって走りながら、今にも後ろから床柱や天井や壁が長い手をのばして、声をあげて私につかみかかってくるのを感じた。》

 「物たちのなかに沈んでゆく感じ」、「ある種の恍惚と陶酔」は、放心のようで、《太陽の甘い光に愛撫されて豊潤に成熟してゆく葡萄の実のように、子供たちの魂のなかに、外から計算したり、推しはかったりできない何か全一の成長が約束されていたのだったのかもしれない。》 

 過去の思い出の一つとして、辻が「心ひかれる女性のアルバム」に紹介した部分が、プルースト失われた時を求めて』の日本の水中花を思いださせる次の引用文で、丸谷才一が《イメージのあつかひ方にはすこぶる長けてゐて、殊に簡勁な描線がまるで院展系の日本画の大家たちのやうに美しく、効果的で、息を呑むばかりである》ことを証明している。

《私はよく母とともに、中のお蔵に、夜、のぼっていったことがあるが、母が手燭をかかげて捜しものをするあいだ、私は私で、別の手燭をもって、土蔵の二階の四隅に置いてある大きな鉄製の甕の上に、身をのりだしてみるのだった。龍の浮彫りのある鉄甕のなかには、口まで、なみなみと水が張ってあって、手燭のうえでゆれている蠟燭の暗い焔の、ゆらゆらと照らしだす私の顔が、その鏡になった水面にうつっていた。水の底は暗く、沼のように深い感じで、その鏡になった水面の下に、何か別の世界があるようだった。で、私は手燭をかかげて、自分の顔をその水面に近づけたとき、一滴の蠟がかすかな音をたてて、水のなかに沈み、白い花びら模様にひろがって、まるで暗い池に浮かぶ睡蓮のように、また夜の運河に散り漂う桜の花びらのように、ひらりと、浮かび上ってくるのだった。私は思わず息をのんで、この妖しい花の白さを見つめていたが、やがて、手燭を傾けると、もう一度、一滴、蠟を水面に落してみた。蠟はぽとりと暗い水面に沈み、やがて、同じ白い花びらに軽やかに開くと、まるで重さのないものが暗い空間をただよってでもいるように、夢のように、ゆらりと浮かびあがってくるのだった。蝋燭の暗い焔に照らされた水面は、鏡になって光っていて、白い花びらは、そこに映る私の顔の奥から、遠近感をうしなったはかない透明なゆらめきで漂いのぼってくるように見えた。

 私は半ば息をこらして、蠟の白さの凍りついた水中花をじっとみていると、いつの間にか、それがまるで遠い暗い夜空から舞いおりてくる雪片のように感じられて、透明な自分の顔の上に降りつもってくるような気持になったのだ。》

 ギュルデンクローネの館で胸のしめつけられるような、妙に不安な気持にさせた原因となる、兄の人形劇のエピソードがはじまるが、この挿話もまたプルースト失われた時を求めて』冒頭の幻燈のシーンを彷彿とさせる。

《青い幕があくと、舞台は森の中の場面だった。深いみどりの森に、日の光が差しこんで、光がゆらゆらと躍っていた。そこに一匹の狐(私ははじめ狼だと思っていた。頭は茶色で、うちのシェパードのクロに似ていた。しかし兄の説明で、それが狐なのだということはすぐわかった)が、ひどく、ふわふわと、あたかも空中に漂っているかのように、その森の中にやってきたとき、私のよろこびは胸の痛くなるほどに高まって、手で口をいっそう強く押さえなければならなかった。(中略)

 あかりがつき、兄のまっ赤になった、照れくさそうに笑った顔が、舞台の後ろに表われた。従兄妹たちは人形芝居のまわりに集まり、狐や猟師や栗鼠を持ったり、動かしたり、着物の裏をのぞいてみたりした。明るい電燈の下で、みんながとりかこんでいる舞台からは、暗闇のなかで、照明されていたときの、あの不思議な神秘さは消えていた。父の大机のうえに蜜柑箱に似た木箱があって、そこに泥絵具で描いた書割が貼りつけてあるだけだった。二つの尖塔をもつ城も、城壁の白い輪郭をとった煉瓦も、青い幕も、つい今しがた見た通りのものにちがいなかったが、それは、この部屋の他のもの、椅子や本立や地球儀や花瓶などとまるで同じただの物にすぎなかった。乾いて埃りのかかった剥製のふくろうや棚の上に置き忘れた電気スタンド、動かなくなった置時計などと大して変らない、当り前の木箱であり、青い端布であり、ボール紙の絵であった。私は、はじめは、自分の放心から急に醒めることができず、いくらかぼんやりと、兄や従兄妹たち、叔父叔母たちが舞台をとりまいて、賞賛したり、驚いたりしているのを見ていた。それから、ふと、さっき見ていたものと今眼にしているものとの信じがたい差異に気がついて、胸をつかれるような気持になった。やがて、それが私を新しい放心のなかに投げこんだ。「それでは、これで終りなのだろうか。そうなのだ。もうそれは終ってしまったのだ。もう森もなければ、狐もいなければ、猟師もいない。いまみんなが触っているのは、さっきの人形劇とは何の関係もないものなのだ。この人形や舞台を使ってあの話を上演したにはちがいない。でも、今こうしてここに力なく横になっているのは、ただの物なのだ。」》

 冬子は女学校に入ってからも、この昔の人形芝居を土蔵の二階で見つけて、兄がしたのと同じように、この世界とは関係のない、別のもう一つの世界、夏の光が耀く舞台を、何度か上演してはみたものの、《それが終ったあとの空虚さは、幻影が生命にみちていればいるだけ、いっそう深かった。》

 

<『夏の砦』――「第五章」>

 どこへゆくにも持っていった叔母から貰った人形を紅葉の枝に逆さにぶらさげ、雨に打たれ、風にさらされて、最後にはただ白っぽいしみ(・・)となってこびりついていた情景、蛇のひげ(・・・・)のうえで冷たくなって死んだ老犬クロの物悲しい眼、女中の末の息子で白痴の駿(すぐる)に亀のヒューロイの甲羅を割られて殺された出来事、叔母の流産、無気力な若い叔父と兄の自分のなかで暮す態度、毎朝ひたむきに読経していた祖母の死と葬儀の記憶、新しい意匠の布地を織る母の佇まい、かいまみる大人たちの世界としての書斎の父の姿などが走馬灯のように流れ、それらを通って幼時というものから決定的に離れてゆく。ここでは祖母の死を、やはり祖母の死を描いたことのあるプルーストのような息の長い、比喩をもちいた文章を引用するが、リルケ『マルテの手記』の「固有の死」に連なる経験の質として、その後の北欧での冬子を変容させる原因の一つにもなるのだった。

《しかしそれらに較べても一段と鮮明で、忘れがたく心に刻まれているのは、翌日の早朝、私が洗面所で歯をみがいていると(なぜか、そのときの洗面所の湿っぽい木の匂いや、石鹼や髪油の匂い、小窓の外に葉を繁らせているもみじ(・・・)の色と一緒になって)蒼い、沈んだ顔をした母が、私に、祖母が明け方に亡くなったので、食事の前に、お別れに離屋にくるように言ったこと、香や線香の匂いの立ちこめる離屋の冷んやりとほの暗い、樟の葉の青さのただよう祖母の部屋で、白い布をかけられた祖母の姿を見たとき、その一枚の白布の異様な気配、まるでこの世のすべてから、その一枚の白布がそこに横たわる人を切りはなし、覆いつくしているような、重く、厳粛で、妙に虚しい気配を感じたこと、父の手で静かにあげられたその白布のしたから、祖母の、眼を閉じた、いくらか残念そうな表情の顔があらわれてきたとき、私は、その黒ずんだ蒼さ、なんとも名状しがたい蒼白い硬さ、人間でありながら、もはや一個の物体でしかなくなった、一種の紫を帯びた灰暗色に、ほとんど肉体的な嫌悪と恐怖を覚えたこと、そして母に手をとられて、その白くなった祖母のかさかさの唇に水を湿さなければならなかったとき、その水を含んだ綿から、一滴の水が祖母の唇から顎をつたわって流れるのを見て、私は思わず祖母が冷たかろうと思い、その一瞬、はじめて祖母は死んでいて、そんな冷たさなど感じないのだと思いかえし、我にもあらずぞっとしたこと、などである。

 この蒼白い硬い祖母の顔の印象は、死というものの具体的な姿として、その後、眠れない夜とか、樟の大枝がざわめく夜半などに、ふと記憶のなかに浮かびあがって、私は思わず頭をふり、その陰気な映像をはらいのけようとしたが、なるほどそうした祖母の、眼を残念そうに閉じた顔は消えたとしても、そのとき感じた、物体の硬い冷たい肌ざわりに似たある感触は、ちょうど冷血動物の湿って冷んやりした肌に触れたあとのように、いつまでも私のなかから消えなかった。それは言ってみれば、それまで生きていた祖母の生命が、枯れて、音もなく折れた、その灰暗色の断面のようなものであり、祖母の死と言うより、何か死そのものの姿を、そこに感知したとも言えるものだった。》

 

<『夏の砦』――「第六章」>

「第六章」には「グスターフ候年代記」と称する文章が収録されている。この地方伝承のサーガの形式をもち、古雅簡朴な散文で書かれている原文を、マリーが仏訳したものから、夏のあいだに冬子が古雅な味わいを残して日本語に訳したものであって、「グスターフ候のタピスリ」に関係のある十字軍に関した部分及びとくに冬子の興味を示した死神遊戯の挿話(七話)からなる。十字軍に参加した信仰あつい領主グスターフ候は、《神を求めて海路千里、聖地へ赴きしも、神も御顔はついにあらわれなかった》。失望、落胆し、帰還してからも憂悶去りやらず、七夜にわたって死神と闘うことで《死を知らんとて追いもとめしも、死はいまだに正体を示すことはなかった》が、森で、禁猟を犯した罰に従い、自分みずから絞首台の木を切る男に出会う。グスターフ候がいろいろ問うも、猟師はお裁きに従うと答え、候は聞きおえると、瞑想にふけりながら帰ってゆく。「一、グスターフ候、森にて木を切る男に出会う事、及びその問答の詳細」から一部引用する。

《それはあたかも、一夏の生命を終えんとする蜂や蝶のごとくである。数日のはかない生命を咲きほこる薔薇ははじらいの深い莟のなかで、その開花の純粋、無償な行いについて、短かい生命の輝きについて、思いまどうであろうか。蝉は一夏を鳴きあかして、やがて固い殻となって林間の空地に転がるのであり、輝く美しさで咲きほこる花は季節の空しさを嘆くことも知らず、ただ生命のままに散りはてるのである。されば、などて人のみが己れの死について思いなやむのであろうか。(中略)かの賤が猟師のごとく、ありしままの宿命を引きうけることはできないであろうか。われらの望むのはただ己れ自身であり、また己れの未来だけである。》

 冬子は「グスターフ候の年代記」の遍歴、絶望、死、経験、探究、宿命、啓示、再生、変容といった物語に共鳴(レゾナンス)して翻訳をしたのであり、「第六章」に挿入される構成によって、『夏の砦』全体を象徴する凝縮された雛型として、読者をもまたマトリョーシカのような果てることのない共鳴(レゾナンス)に誘う。

 

<『夏の砦』――「第七章」>

 辻は「心ひかれる女性のアルバム」に、《『夏の砦』の第七章は、この作品のタイトルでもある夏の海辺でのエピソードで満ちている。》として、次の文章を引用したが、感官が全開した美しいイメージ描写の妙に魅かれずにはいられない。

《私たちは貝殻集めに飽きると、また浮き袋につかまって泳ぎ、波に巻きこまれて悲鳴をあげた。鬼ごっこをしたり、水しぶきをたてたり、歌をうたったり、子供同士で相撲をとったりした。そしてまた思いだしたように砂の城に戻ってきて、厚い城壁をつくったり、濠を掘って湧きだす海水を汲みだしたり、広い内囲いを築いたのだ。その内囲いのなかは子供がひとり寝られる広さがあり、私たちはかわるがわるそこで仰向けに横たわった。私が最後にそこに横になってじっと目をつぶると、絶え間ない波の音と、遠くで騒いでいる子供たちの叫び声が、どこか円天井にでも反響するように微かに聞えていた。微風がかすめ、時どき外航船の汽笛などがそれにまじっていた。眼をひらくと、その青い空の奥に雲が眩しく光り、ほとんど動くとも見えなかった。そこには深い、はてしない休息があるような気がした。私はふたたび目をとじ、ながく深々と息を吸った。爽やかな潮の匂いがあらためて私を幸福な感情でみたした。そうやって仰向いたまま、私には、こうした瞬間がいつまでもつづかないのがなぜか信じられないような気がした。鷗の声、波の音、子供たちの叫び、そしてたっぷりと過ぎてゆく夏の時間が、いつか私たちから奪いさられるということが、信じられないことに思えたのである。》

 兄と二人で、砂丘に露出する岩に数百羽、数千羽の鳥が白骨となって横たわっているのを発見し、海岸線のつづきの難破船の残骸を見つけ、上にのって、大洋に乗りだしてゆく様を空想していると、迎えが来て、「坊ちゃん、さ、急いで帰らなければいけません。お母さんの容体がお悪いんですよ。」と兄に向かって言うのだった。

《ああ、なんとその船頭の言葉が口にされる前には、仕合せなことがみちわたっていたのであろうか。その言葉が口に出ると、そこには乗りこえることのできない仕切りが生れていた。それ以前のことは、どんどん過去のなかに繰りこまれ、手をのばしても、もうつかむことはできなかった。ああ、どうして、もう一度、その前の状態にかえることができないのか。そのとき突然、悲しみの発作がこみあげてきた、あの静かでやさしかった母、いつも機屋に坐って庭の青木に降りそそぐ雨を見ていた母、つい先日まで島の家にいて、私たちと一緒に歩いていた母――その母が死んだのだ。もう二度と会うことができないのだ。もうどこにもいないのだ。船頭の背におぶわれて、ゆらゆら砂洲の背をこえてゆくあいだ、私はひたすら泣きつづけた。(中略)

 こうして私たちは夏と別れをつげた。母の葬儀が終り、祖母の死のとき以上に樟のざわめく家がひっそりしたとき、私の感じたのは、すぎさったのは夏だけではなくもっと大切な何かだったということであった。しかしそれが何であるか当時の私には理解することはできず、ただ季節の喪失感だけが心にいつまでも空白な映像となって残っていた。》

 夏の海辺の難破船の残骸の情景は、女中の時やの父が海で溺れ死んだ挿話ともども冬子の未来を予感させるイメージとして機能している。

 

<『夏の砦』――「最終章」>

 最後に、冬子の手紙(エンジニアの私宛のもの)が示される。私がギュルデンクローネの城館にあてて出しておいた手紙の返事として、彼女がエルスとともに、S**諸島からフリース島へヨット周航に出かける前、そこで書いたものである。

 島の織り子(こ)たちの図柄や色彩についての清新な感想、島にきてはじめて眼のあたりにした生活に密着した感情の動き、神を喪った時代の芸術の在りようについての思考などが繰りひろげられるが、祖母の死によって苛酷な事実というものを教えられた冬子は、事実からはずれたこと、事実に匹敵しないものを無価値なものと見なす習慣を育んでいったこと、母が自殺してから、父と二人で暮らすようになった戦争末期、ちょうどその頃、港に近い地区から焼け出された末が白痴の子供の駿ともども家に住むようになっていた。戦争の終る年の青葉の季節のある夜、いつもとは違う空襲で一面焼け野原となり、家が焼けてしまうばかりか、地下室で寝ていた駿が焼け死んでしまう。

《やがて私たちの家が遠望できるあたりで足をとめたとき、父はふと誰に向かって言うともなく、こう言いました。

「いや、あれでいいのだ。あの家は焼けたほうがいいのだ。駿が焼け死んだことは気の毒だった。しかしあの家は焼けたほうがよかったのだ。あの家が焼けて、私たちはやっとあれから自由になれたのだ。」それから私を振りかえると、「冬子。私たちはもうこうした過去に蓋をしてしまおうね。私たちは過去に未練を持つんじゃないよ。いいかい。」と言うのでした。(中略)

 私がこの苛酷な事実を自分の生き方の基準にしたのは、家が焼けるより以前のことでしたが、家が焼けたことによって、それがさらにいっそう徹底したものになっていったのです。こうした生き方の結果がどんなものだったか、私は、あなたに、織物の制作が次第に困難になり、不可能になっていった過程に触れながら、たしかお話し申しあげたと存じます。そうなのです。私は自分の過去を見すてることによって前に進みでたわけですが、この過去とは、多くの場合、前へ進む力を汲みだす深い豊かな源泉であることがあり、それに私は気がつかなかったのでした。

 この事実に気がついたのは、「グスターフ候のタピスリ」を見にここの都会へ来てからでした。とくに私がマリーやエルスと知り合い、ギュルデンクローネの館(やかた)で暮すようになってからでした。

 すでに新聞でご存知のことと思いますが、この夏、ギュルデンクローネ家の仮装舞踏会の夜、思いがけぬ偶然から、火事が起り、その火事で、ある憐れな白痴の小人が焼け死んだのでした。その瞬間、私は自分が炎と熱気に吹き倒される思いで、突然、あの樟のおおった祖父の家の燃えあがる姿を思いだしたのです。白痴の駿まで、私ははっきりと思いだしたのでした。

 そうなのです。その瞬間、私はあの父の言葉の呪縛から解かれたのを感じました、私の前に過去は蓋をひらき、どっとあふれでてきたのでした。同時に私は、この古い都会やギュルデンクローネ家において、かつて無益なもの、無意味なものとして、自分の中から棄てさっていったものが、かえって人々の中で愛しまれ、保存されて、生きつづけているということを見いだしたのでした。それはいわば私の喪った過去と出会うのに似ていました。あの澱んだ、ひっそりした、人の気配のないような空気、もの(・・)にじっと囲まれて生きている老人たち、沼の底のように、枯葉が積み重なり、朽ちてゆく閉じられた部屋部屋――そうした気分こそ、私がずっと以前に身近かに持っていて、すこしずつ、自分から脱落させ、焼失させていったものに他ならなかったのです。》

島に来ることが決った初夏のある夕方、冬子は灼けつくような激しさで、「グスターフ候のタピスリ」を見にゆきたくなった。タピスリの前に立つ冬子の精神の働きには、プルーストの筆致に似て、フェルメールの「デルフトの眺望」を前にしたベルゴットや、システィーナ礼拝堂ボッティチェルリフレスコ画を見るスワンのような精神の深みがある。

《私は息をつめて春の農耕図を見つめました。以前、そこに優美な中世風の様式を感じていましたが、いまこの種まき、耕作、飼育の三つの動作をする農民の男女を、後景から前景に開くようにして配列した構図を見ていると、そこに同じような線のつよさ、簡潔さ、いくらかのこわばりを感じました。その人物たちは写実風というより、ギニョールの人形のように眼も大きく、様式化され、それだけに、どこかおどけた様子、誇張された表情が感じられました。それだけにこの雄大で素朴な気分にふさわしく、煩雑な細部を無視した単純さのなかに、私は、後の時代の、写実風で、ただ優美さを狙った農耕図よりは、ずっと生活の本質に近い、瞑想的な、深い、暗い、重苦しいものを感じました。それは色彩版や写真版でみていたときに感じたゴシック国際様式風に優雅にまとめられた作品ではなく、織りの荒さ、粗野な生活の匂いのじかに残るかたい手ざわり、つまり石造の農家の裏の機(はた)屋で、生活の合間合間に織られた無意識の作品なのでした。もちろんそこには巨匠の手腕を感じます。無意識といっても、決して無技巧だというのでありません。(中略)

 夏の図では、私は、何よりも光への讃歌を感じます。汗と労働と休息がここでは生活の歓ばしい律動となっています。まるで牧畜という地を這う困難な仕事ではなく、太陽とたわむれ、大地の香りにむせびながら、羊たちの生殖や出産、成長や繁殖のなかにおのずと現われる変転する自然の生成に歓喜している姿として、それはえがかれているのです。秋の図でも冬の図でも、何よりもこの単純な、瞑想的な、内面の生活感情、自然感情を表現しようとする態度は変っておりません。私はそこに人間の生の輪郭を感じます。(後略)》

 そして冬子の手紙は、リルケに共鳴(レゾナンス)する、魅惑的な謎めいた言葉で変容の果てを締めくくった。

《いま、この白い硬い岩におおわれたS**諸島で風の音と波の音を聞きながら、私の感じているのは、こうした自分の世界とのめぐりあいの歓びです。かつて私は、夏、母や兄と島の家で、長い休みを送りました。時間のとまったような、甘美な遠い幸福な日々でした。その日々が、いま、厳しい、ほの暗い、この北の海の孤島で、戻ってきたような気がします。

……私はまだこの秋からの仕事について十分に考えぬいておりません。プランも図柄も何もかも投げだしたままにしてあります。

 いま私の書いている窓の外で、いつか夜が明けようとしています。風が港の帆柱に鳴り、はしけのぶつかり合う音や、波が突堤に打ちあげられる音が聞えます。

ずいぶん長いお手紙になりました。やがて夜明けの光が、差しこんでくる時間です。でも私には、これからどのような夜明けがくるのかわかりません。ただ私には、自分がこれから本当の意味で制作の時に入るだろうことがわかっているだけです。

 私の手紙がこうして終ったとすると、いったいまたどういう夜があるのでしょうか――それはわかりませんが、私はこの手紙を書き終えたら、真昼の永遠の光の下で眼をさますために、深いねむりに入りたいと今はそれだけを考えているばかりです。》

 もはや冬子が、遭難したか、自殺したか、失踪したか、などあれこれ憶測、穿鑿することに何の意味があろうか。小説末尾の美しい文章は、「序章」や「ギュルデンクローネ年代記」と同じほどに、『夏の砦』の世界全体と打ちつけては砕ける白い波のように共鳴(レゾナンス)してやまない。

《私はその最後の捜索船に乗ってフリース島付近まで行ってみたのである。舟にはマリー・ギュルデンクローネも一緒だった。私たちは捜索というより、冬子やエルスが最後に見た海をこの眼で見て、それに別れを告げたいと思ったのである。(中略)

「もうエルスも冬子も帰ってきませんね。ここにきて、やっとそんな納得できる気持です。」

 私は海面を見つめているマリーにそう言った。」

「本当にそうですわ。私もいまそんなことを考えていましたの。でも二人は何か一つのもので結ばれていましたのね。そのことも、ここへ来て、よくわかりましたわ。二人は同じものを愛していたのです。それを見つめたら、もう二度とこの世へ帰って来られないなにかを。」

 私はマリーの言葉をどうとっていいものかよくわからなかった。その言葉から私は、あの手紙に或る「深いねむり」という言葉を思いだした。私はポケットに押しこんだままの冬子の最後の手紙をとりだした。マリーになんとなくそれを話して聞かせたい気持がした。しかし私の手はそのままとまった。というのは私はなぜかその言葉にはふれてはならないものをふと感じたからである。

 私たちの船は島の周囲をゆっくりとまわり、汽笛を低く鳴らした。その音に驚いた海燕の群れが黒くいっせいに空を暗くして舞い立たち、海面すれすれに不気味な旋回をつづけた。私は手紙をしまうと、そのまま、しばらく烈しい風のなかに立って、冬子の中を通っていったもののことを考えながら、島に波が白く砕けるのを眺めていた。その波は激しく身もだえしながら、岩に白く砕けていた。それはあたかも何か告げられぬ思いをそこに打ちつけては砕いている空しい努力のようにも見えた。私は最後の汽笛を鳴らして島を離れていく船から、その波の白さをいつまでも眺めつづけた。しかしそれもやがて、飛びかう海燕の群れとともに灰色の空の下に遠ざかり、孤島のようなフリース島もまもなく私たちの視野からその姿を消していった。》

                          (了)

            *****引用または参考文献*****

*『辻邦生作品全六巻――2 『夏の砦』』(河出書房新社

辻邦生「『夏の砦』の支倉冬子……心ひかれる女性のアルバム⑧」(「婦人之友」1995年11月号)(婦人之友社

辻邦生『薔薇の沈黙 リルケ論の試み』(筑摩書房

*『辻邦生全集 20 アルバム・雑纂・年譜・書誌 ほか』(竹西寛子「夏の砦」、森有正「早春のパリから初秋の東京まで――辻邦生著『夏の砦』をめぐって――」、丸谷才一「『夏の砦』のことなど」、菅野昭正「『夏の砦』をめぐって」所収)(新潮社)

辻邦生『パリの手記』(河出書房新社

辻邦生『夏の砦』(文春文庫)

辻邦生水村美苗『手紙、栞を添えて』(ちくま文庫

*辻佐保子『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中公文庫)

*辻佐保子『辻邦生のために』(中公文庫)

リルケ『マルテの手記』望月市恵訳(岩波文庫

トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』望月市恵(岩波文庫

プルースト失われた時を求めて』鈴木道彦訳(集英社文庫

オペラ批評 「モーツァルト・オペラの思想的考察(引用ノート)――カントとサドとモーツァルト」

モーツァルト・オペラの思想的考察(引用ノート)――カントとサドとモーツァルト

  

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スウェーデンボルグ(一六八八~一七七二)、ヒューム(一七一一~一七七六)、ルソー(一七一二~一七七八)、ディドロ(一七一三~一七八四)、カント(一七二四~一八〇四)、カサノヴァ(一七二五~一七九八)、サド(一七四〇~一八一四)、ラクロ(一七四一~一八〇三)、ゲーテ(一七四九~一八三二)、モーツァルト(一七五六~一七九一)、ジェーン・オースティン(一七七五~一八一七)。

 

モーツァルトが晩年の十年間に作曲した七つのオペラ。初演順に、『イドメネオ』一七八一年、『後宮からの誘惑』一七八二年、『フィガロの結婚』一七八六年、『ドン・ジョヴァンニ』一七八七年、『コシ・ファン・トゥッテ』一七九〇年、『ティート帝の慈悲』一七九一年、『魔笛』一七九一年。

 

・《われわれの世紀(筆者註:二十世紀)は、歴史上で最も忌み嫌われる世紀となろうが(もちろん今世紀で今後の歴史が中断してしまわなければ、やがてそれを憎む者が現れる、としての話だが)、こういう肩書きをもっている――それはモーツァルトを認めた世紀である、と。》(ブローフィ『劇作家モーツァルト』p1)

  

<カント>

――『視霊者の夢』/啓蒙主義ロマン主義の「間」/自嘲

・《カントが『視霊者の夢』を書いた一七六〇年代には、ライプニッツ形而上学には埋めようのない亀裂があいていた。ライプニッツにおいて感性と理性が連続的な進化の段階にあるとしたら、この亀裂は、感性と悟性の間にある。(中略)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。

 しかし、以後の長い沈黙のあとに発表された『純粋理性批判』には、一見してこうした「問題」は消えている。それをむしろ後退として見るべきだろうか。もしこの本が、ライプニッツ的な合理論とバロック的な経験論への批判として書かれたと読むなら、そう見えるだろう。しかし、彼はそれとは違った文脈に生きていたはずである。たしかにカントは、経験論と合理論の「間」に立っていた。彼は合理論者から見れば経験論的であり、経験論者から見れば合理論者である。むろん、誰もがいうように、彼はそのいずれでもない。しかし、むしろ注目すべきことは、彼が啓蒙主義ロマン主義の「間」にも立っていたことである。

 カントの芸術論(『判断力批判』)は、美を主観性において見いだすことにおいてロマン主義的であり、事実、ロマン主義美学の基盤を与えている。しかし、厳密には、彼は古典主義とロマン主義の「間」に立っている。それは、ゲーテが古典主義的であると同時にロマン主義的であるといわれるのと、或る意味で似ているだろう。しかし、カントが古典主義とロマン主義の「間」に立っていたと私がいうのは、彼がそれらの過渡期に生きていたという意味ではなく、それらのいずれをも「批判」する視点に立っていたという意味である。

 カントが啓蒙主義ロマン主義の「間」に立っていたというのも、同じ意味である。彼がロマン主義者から見れば啓蒙主義者であり、啓蒙主義者から見ればロマン主義者と見えることは疑いがない。》(柄谷行人「探究Ⅲ」)

・《カントがこうした理性の欲動を見いだしたのは、『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』(一七六六年)においてである。これは、スウェーデンの視霊者スウェーデンボルグを論じた論文である。彼は基本的に、視霊という現象を「夢想」あるいは「脳病」の一種と見なしている。そこでは、ある思念が感官を通して外から来たかのように受けとめられている。だが、このヴィジョンはその鮮明さにおいて、知覚にあることがあるし、実際にそれらは区別できない。形而上学も同じことではないかと、カントはいう。なぜなら、形而上学は、なんら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように扱っているからである。このエッセイは、その意味で「視霊者の夢によって解明されたる形而上学の夢」であるといってもよい。

 しかし、彼はスウェーデンボルグの「知」を否定すると同時に、それを否定することができない。霊という超感性的なものを感官において受けとることは、たんに想像(妄想)でしかないが、他方、霊が直観されるということは、構想力による錯覚が混じっているにせよ、それをもたらす霊の影響を推定することができないわけではない。しかし、カントは態度を決定できない。彼は、それを精神錯乱と呼んだにもかかわらず、「視霊者の夢」を真面目に扱わずにいられない。同時に、そのことを自嘲せずにもいられない。(中略)

 この『視霊者の夢』に、カントの「批判」の先駆を見いだせることはいうまでもない。すでに、ここで、彼は、主観によって構成された外部(現象)とそうでない外部(物自体)の区別について語っている。あるいは、恣意的な空想と、ヌーメナルなものを感性的に把握する構想力との区別――それはのちに、自由と自然を媒介するものとして「判断力」を措定することにつながるだろう。しかし、『視霊者の夢』を特徴づけるのは、たとえば、スウェーデンボルグを肯定すると同時に、肯定する自分を嘲笑するというような書き方である。坂部恵は、ここに、このエッセイに固有の「二義的」な態度を見いだし、次のように述べている。

 みずからのぎりぎりの信念に対しても、「心があらかじめ偏して」いる可能性を留保し、したがって、みずからのどんな「正当化の根拠」をも警戒することを止めない、というこの著作をいろどる二義性の究極の底にある態度は、けっして批判前期の過渡的なものとして割り切ってしまえるものではなく、むしろ、批判期には「実践理性の要請」とか、「実践的定説的形而上学」とかいう形でただちに普遍的なものとしてドグマ化されることによって、失われてしまった、きわめて積極的な貴重な本来の「知恵」あるいは、みずからをみずからたらしめる ratio(理性‐根拠)をもあえて疑問に付し、夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうことをあえてする、最もラディカルな思考のあらわれと見なされるべきではないのか。これ以上の判断は、わたしは、カントにならって、読者にゆだねることにしたい。(坂部恵「『視霊者の夢』の周辺」)

 私はこの判断に同意する。》(同上)

・《私の『トランスクリティーク――カントとマルクス』という著作は、『視霊者の夢』からカントの可能性を見る坂部氏の本なしにありえなかった、といっても過言ではない。しかし、最初に『理性の不安』を読んだとき、私はむしろそれを文学評論として読んだのである。というのも、坂部氏は、カントの『視霊者の夢』に関して何よりも、「自己を嘲笑する」ことから始めるカントの書き方に注目していたからである。氏はそこに、ディドロやスターンの文学との共時的な類似を見出している。十八世紀の小説では、サタイヤや書簡体など多種多様な表現形式がとられたが、十九世紀に「三人称客観」の手法が確立したとき、それらは未熟な形式として抑圧されてしまった。

「三人称客観」の視点は仮構であるが、それはカントでいえば、「超越論的主体」という仮構に対応するものである。逆にいうと、カントが超越論的主体を仮構した時点で、小説に生じたのと同じことが哲学におこった。坂部氏がとらえたのはそのような変化である。『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。カントの柔軟な思考と文体は、「学校の文体といわば妥協し、伝統的形而上学の枠どりに何らかの程度復帰して、自己の防衛と自己の思考の社会化に乗り出すと同時に、必然的に捨て去られることになる」(坂部恵「カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇――」)。

 とはいえ、坂部氏は、『純粋理性批判』よりも『視霊者の夢』のほうが重要だといっているわけではない。坂部氏がいいたいのは、『純粋理性批判』あるいは「批判哲学」は、それよりも前の『視霊者の夢』から見るとき、別の可能性、つまり、近代哲学を超える可能性をもちうるということである。すなわち、坂部氏は、近代批判の鍵を、近代以前にさかのぼるかわりに、十八世紀半ば、すなわち、啓蒙主義ロマン主義の境目の一時期に求めたのである。そこでは、もはや啓蒙的合理性が成り立たなくなっている。にもかかわらず、そこであくまで啓蒙的スタンスを維持しようとするならば、「自己嘲笑」的なスタイルによってしかありえない。カントが『視霊者の夢』でとった文体は、そのような苦境が強いたものである。》(柄谷行人「近代批判の鍵」)

  

<サド>

――『閨房哲学』と『実践理性批判

・《ミシェル・フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』において、サドの体現する「サディズム」という現象が、けっして、「エロスと同じだけ古い」ものではなく、まさに十八世紀のおわりという西欧の古典的理性の爛熟の時代に、「西欧的想像力のもっとも大きな転換の一つを構成する」集団的文化現象としてあらわれたのであること、すなわち久しく日常の理性的生活から隔離されいまや沈黙のうちに追いやられた「非理性」が、今度は世界のなかに姿をあらわす形象としてではなく、「ことばと欲望」(discours et désir)として、いいかえれば、「魂の錯乱、欲望の狂気、欲望の再現のない専横における愛と死との狂気じみた対話」としてふたたび姿をあらわしたものにほかならぬことをいい、(中略)ジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。

 これらの見方は、いずれも、十八世紀のおわりといういわば光の時代、理性の時代ののぼりつめた頂点といってもよい時期におけるサドの存在がけっして偶然ではなく、むしろ、時代の必然的裏面あるいは陰画の部分にほかならぬことを示す点において、軌を一にするといってもよいだろう。》(坂部恵『理性の不安――サドとカント――』p189)

・《ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>(訳注:フランス革命期の一七九四年七月二七日(共和歴第二年テルミドール九日)にロベスピエール派を失脚させたクーデターのこと)の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存じのように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたと言うこともできます。(中略)サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反‐道徳とも言うべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反‐道徳パラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。

 この部分は、当時革命下のパリで暴れ回っていた小組織のパンフレットと考えられています。このアピールに続けてサド侯爵は、権威の失墜を考慮すれば――真の共和制の到来は権威の失墜からなるというのがこの著作の前提となっています――実現可能な一貫した道徳生活の最低限度とこれまで考えられてきたものとは正反対のものを我々の行動の普遍的格率とするように提唱しています。

 実際、彼はそれをなかなか見事に擁護しています。誹謗への賛辞が『閨房哲学』のこの部分の最初に見られるのも決して偶然ではありません。彼によれば、当然向けられるべきよりもさらに悪いものを誹謗は隣人に負わせるとしても、誹謗は決して有害なものではありません。というのは、誹謗は誹謗の企てに対して用心させてくれるからです。さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現われるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。

 よろしいですか、リベルタンと呼ばれる人々が残した膨大な文献、快楽人間のそれに見いだすことのできる道徳の分節化のさまざまな試みにはカントの影響がはっきりと認められるのです。》(ラカン精神分析の倫理』(上)p117)

  

<オペラ>

――近代哲学/空想

・《オペラは「エキゾチックで不合理な気晴らし」であるというジョンソン博士の有名な見解は、オペラはもっとも高度な芸術形式であるギリシア演劇のもっとも低俗なカリカチュアであるというシェリングの主張とともに、オペラに関する通説となっていた。オペラが三世紀にわたって試みてきたのは、魅惑すること、想像的なものを使って誘惑すること、空想によって魔法をかけることであった。それに対して哲学の仕事は、このオペラの幻想と魔法からひとびとを目覚めさせること――その幻想と魔法を脱構築すること――であった。オペラと近代哲学が、十七世紀から二〇世紀にいたる同じ歴史的時間を生きてきたとは、なんと皮肉なことだろうか。

 オペラが哲学者とは相容れないものであるとすれば、ルソー、キルケゴールニーチェは、この一般論における例外である。二つの精神をもった男ルソーは自分でもオペラを書いており、彼のオペラ『村の占い師』は、今日でもときどき上演されている。キルケゴールはオペラに心底魅了されており、そのため彼にとってオペラは、美学的で官能的な魅惑を引き起こすパラダイムとなっていた。しかし、だからこそ彼は、倫理的なもの、宗教的なものへと上昇することによって、最終的にそのパラダイムを首尾よく乗り越えることができた。そしてニーチェは長いあいだ、自分の哲学はワーグナーのオペラにおいて実現されていると実際に考えていたのだが、最終的には、この誤信を仰々しく(別種のオペラ、ビゼーの『カルメン』に依拠しながら)撤回してみせたのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p14)

・《オペラは三世紀ものあいだ、神話的共同体という空想を上演するための特権的な場所であった。そしてこの上演によって(ベネディクト・アンダーソンのいう)「想像の共同体」は、「現実の」共同体のなかにあふれ出していった――はじめは絶対君主制を支える空想として、そのあとは国民国家の基盤となる神話として。宮廷オペラは「国家オペラ」へと発展したのである。神話的共同体は、現実の共同体を構成するうえで必要な、糧となる空想――単なる現実の共同体の代替物やその神話的な写像ではなく、その原動力としての空想――を提供することができたのである。》(同上p18)

・《オペラの世界に入ったわれわれが扱わねばならないのは、哲学が取り組むにはあまりに馬鹿げてくだらないもの、しかし精神分析がみずからの課題として掲げてきたものである。つまりそれは、空想の論理である。そしておそらく、オペラの没落と精神分析の出現が時期的に一致しているのは偶然ではないのだ。》(同上p20)

・《オペラが誕生した世紀(筆者註:一七世紀。モンテヴェルディが一六〇七年に初演した『オルフェオ』)の変わり目は、二つの時代のあいだの、きわめて劇的な移行を表してもいる。音楽および芸術全般におけるルネサンスバロックのスタイルの違いは、比較的マイナーな問題にみえるかもしれない。というのも、その時代はガリレオデカルトの時代(ちなみにガリレオの父、ヴィンチェンツォ・ガリレオは音楽家であり、モノディの創設者のひとり、つまり古代悲劇の再生という思想の担い手のひとりでもあった)、すなわち近代科学が誕生し、近代的主体の基盤となる構造が出現し、ブルジョア社会の創始と勃興――そのもととなる要素は数世紀前につくられていた――が集中的かつ顕著に現れた時代であるからだ。オペラは、この時代の支えとなった新たな空想を提供したのであり、その途方もない力が一般的に理解されるまであまり時間はかからなかった。劇場という空想のメカニズムは、その単純さゆえに強烈な力をもつわけだが(実際、舞台とは、ラカンのいう「空想の窓」のフレームを形成する必要最小限の身ぶり以外の何であるというのか)、それは音楽という要素、世俗を超えた世界へじかに上昇していく要素によって、超越性やユートピア的な和解の場へと祭り上げられる。音楽は、あらゆる芸術のなかでもっとも時間に縛られたものであると同時に、レヴィ=ストロースが書いているように、神話のような「時間を抑圧する機械」でもある。》(同上p23)

 

――オペラ・セリアとオペラ・ブッファ

・《モンテスキューによれば、君主は最高位の審判者になるべきではない。そうではなく、君主は、真の<他者>という比類なき存在としなければ機能できない。しかし君主は、法の上に位置する最後の審級である。彼はひとつの例外という位置を占めており、だからこそ、みずからも例外的行為を行えるのである。オペラ・セリアが目指しているのは、まさにそうした崇高の瞬間、愛という次元が開かれる瞬間である。慈悲の行為は、法を超えた愛の証となる。慈悲の行為は、その見返りに愛を要求する。そして愛の真の媒体となるのは音楽なのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p50)

・《オペラ・セリアは、主体と<他者>、社会とそれを超越したものとのあいだの距離を基盤にしている。オペラは、この二つのものが象徴的に交換される空間を舞台にしてはじまり、両者の距離が慈悲の行為を通じて崇高なかたちで保証されたときに終わる。民主主義的なジャンルであるオペラ・ブッファは、一般的な人間社会に枠を限定したうえで平等という視点を提示する。オペラ・ブッファの武器は、個人としての人間性とその社会的地位とのあいだに齟齬がある人物、一般的な人間社会の仲間入りをする資格のない人物を嘲笑することである。確かに、これは両者の対立のおおざっぱな、図式的な記述にすぎない。》(同上p59)

 

 モーツァルト

――多様性/フィナーレと二つの世界

・《彼(筆者註:モーツァルト)の一七八〇年八月二六日の日記の断片(正確には、彼が妹の日記帳に書いたメモ)を引用することにしよう。

post prandium la sig'ra Catherine chéf uns. Wir habemus joué colle carte de Tarock. Á sept heur siamo andati spatzieren in den horto aulico. faceva la plus pluchra tempestas von der Welt.

 昼食のあと、カテリーヌ夫人がやってきた。ぼくらはずっとタロックカードをして遊んだ。七時に庭に出た。この世で稀に見る素晴らしい大あらしだった。

 この断片のもつ圧倒的なユーモアと魅力は、ひとつの文を構成する単語一語一語に、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ラテン語といった異なる言語が使われているという単純な事実からきている。モーツァルトは、正式な教育を受けなかったにもかかわらず、三ヵ国語を流暢に使いこなし、その三ヵ国語を駆使して巧みな言葉遊びをすることができた。そうした彼の瞠目すべき余裕と感受性にまさるものは、彼の音楽的才能だけであった。

 この引用の狙いは、モーツァルトの音楽全体、とくに彼のオペラはこの断片と同じように解釈されるべきであるという仮説、すなわち、それは種々多様な伝統――イタリア・オペラ、ドイツのジングシュピール、フランスのギャラント様式、ローマ・カトリックの教会音楽――の組み合わせ、より合わせとして解釈されるべきであるという仮説を提示することである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p61)

・《モーツァルトはそれぞれのオペラ作品において、異なる伝統同士の衝突だけでなく、それらの伝統におけるイデオロギー的、構造的前提をも緻密に提示していった。この変化を考察するうえでもっとも示唆的な要素は、オペラの最後の瞬間、つまりフィナーレである。それこそは、二つの論理がぶつかり合う場である。(中略)オペラの結末になると、主要人物は一堂に会し、プロット上の緊張は高まり、オペラのテンポは上ってゆく。しかし、結末に向かって出来事が次々に起こってゆくさなかにあっても、すべての人物はアイデンティティを保っており、明確に見分けがつくようになっている。そのようなフィナーレを可能にした装置、それはアンサンブルであった。

 音楽は、モーツァルトのアンサンブルにおいて新しい機能を獲得する。それは、もはや<他者>に向けられた悲嘆として歌われるアリアではないし、感情表現の瞬間、つまりアクションの一時的な停止状態でもない。それは、以前からあった二重唱(あるいは、稀ではあるが三重唱や四重唱)のような二重化されたアリアでもなく、全体的な共鳴状態をつくりだす合唱、個を超えた共同体という媒介物でもない。アンサンブルの発明によってもたらされたのは新しい共同体であり、そこでは、すべての人物が自分の個性、自分のモチーフ上のアイデンティティ、自分のリズムとメロディを保持しながら、なおかつひとつのアンサンブルにおいて他者と向かい合い、他者と対立するが、しかし同時にこの対立をアンサンブルを通じて解決する。そしてその際には、全体の調和も維持されるのである。》(同上p65)

・《モーツァルトのフィナーレを概括的にとらえるうえで有効な第二の要素は、モーツァルトが、伝統によって提示された前提条件同士の対立をいかに解決しているかということである。モーツァルトの全作品は明らかに啓蒙主義に属しており、オペラ・ブッファの主題もまたそうである。その論理は、上からの慈悲という崇高な行為に起源をもつもの、共同体を超えた超越的な審級に基礎づけられたものとはまったく対照的である。したがって、この特異な歴史的、音楽的契機は、二つの哲学、二つの社会理論、さらにいえば「二つの存在論」の出会いと対立を表している。個人はすでに(啓蒙化された)主体であるにもかかわらず、慈悲という枠組みは、依然として一般的な参照枠として維持されているのである。》(同上p69)

・《モーツァルトのオペラには、二つの世界が共存している。ひとつは、みずからの勝利にうかれている、いままさに創造されつつある世界。もうひとつは、いまなお完全には消滅しきっていない世界である。後者の世界は、その実質を失ってはいるものの、依然としてその輝かしい形式を保持している。モーツァルトのオペラにおいて、この二つの世界およびその基本となる二つの原理は、音楽によって支えられたユートピア的な和解を達成しているようにみえる。モーツァルトのオペラが舞台上で描き出すのは、ブルジョア的世界が非全体主義的な共同体のなかで神話的なものを出発点にして勃興してくる様であり、そしてもちろん、それ本来のあり方からずらされた慈悲の論理――これは前者と結合あるいは共存し、穏やかな調和を形成しているようにみえる――これは、ヨーロッパ史におけるユートピア的な一時代であった。そこでは啓蒙主義と伝統とのあいだの、二つの存在論、二つの社会理論のあいだのどっちつかずの調和が可能であったように思われるのである。しかし、それと同時にモーツァルトのオペラは、この調和の限界を提示している。彼のオペラは、みずからの価値を評価し、みずからの矛盾した前提条件を指摘しているのである。》(同上p161)

 

 <『フィガロの結婚』>

――啓蒙主義と封建主義/慈悲と放蕩、和解と赦し

・《『フィガロ』のプロット全体は、主人と従僕の境界線を破ることに関わっている。

 伯爵の置かれた立場は二重である。一方において彼は――ハーレムという専制君主的な権利を彼に保証するあらゆる特権の源泉、つまり初夜権を含む――自分の特権を公的かつ形式的に無効にしたいと思っている。それによって彼は、慈悲に満ちた寛大な行為を通じて自己を正当化できるからである。実際、第一幕において臣下たちは、合唱によって伯爵の寛大さに謝意を表すのである。だが、他方において彼は、特権を維持すること――公的な慈悲と私的な放蕩を両立すること、封建主義的かつ(・・)啓蒙主義的な主人になること――を密かに望んでいる。伯爵の適役であるフィガロの社会的身分は、当然ながら伯爵よりも低い。しかし、彼は最終的に、従僕という役割においてまさに主人を打ち負かすのである。和解は身分差の解消を通じてはじめて達成される。(中略)しかし、もっとも重要なのは、最後の和解が古典的な慈悲の行為によって成し遂げられるのではないということである。和解のメカニズムは根本的な変容を遂げ、文字通り逆転されている。それはもはや、神によって与えられるgrazia(慈悲)、君主や貴族によって示されるclemenza(寛大な措置、雅量)、臣下が請い求めるpietà (同情、慈悲)とは関係がない。それはむしろ、perdono(寛容pardon、赦しforgiveness)に関わっているのだ。赦しとは人間的な慈悲であり、そこではもはや[赦しを与える側と受ける側を隔てる]距離が保たれる必要はない。それは、ひと同士のつながりを作り出すこと、[超越性ではなく]内在性を肯定することに基づくのである。赦しは、世俗化された慈悲、人間が人間に対して示す慈悲である。赦しこそが、[『フィガロ』の終わりで形成される]共同体を平等の共同体にするのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p79)

・《「みなこれで満足できよう」――これはブルジョア的共同体の、驚くべき強度をもったユートピア的瞬間であり、和解と平等の瞬間、自由、平等、博愛の瞬間である。革命はすでにはじまっている。侍女に変装した伯爵夫人が伯爵に赦しを与えたとき、主人はすでにその地位から転落し、共同体の一員になっているのである。『フィガロ』の三年後に起きたフランス革命は、ただ主人の抜け殻を処理するだけでよかった。主人はすでに舞台の上で、みんなに見守られながら死んでいたのだ。殺されるのではなく、赦しを与えられたことによる死。それによって主人の死は、なおいっそう確かなものになるのである。そしてバスチーユはすでにその力を失っていた。ナポレオンは「フィガロの結婚はそれ自体ですでに革命の実践である」といい、また、自分が統治しているかぎり、ボーマルシェは監獄で一生を終えることになると断言したわけだが、それはすこしも不思議なことではない。》(同上p81)

・《オペラにおける哲学について語ること――ここには、その最高の例がある。ヘーゲルの『精神現象学』、とくにそのなかの精神を扱った章には、この赦しの瞬間に対応するものがある。その章はこの作品の中心となる章であり、「良心――『美しい魂』、悪、悪の赦し」というセクションで結ばれている。ここにおいて赦しは、精神の最高次の現れ、精神の最高段階としてとらえられている。ヘーゲルの考えでは、赦しにはUngeschehenmachenの力、つまり「[あること]をなかったことにする」力が備わっている。それゆえに「精神の傷は癒え、傷跡も残らないのである」。共同体をまとめる力と分解する力との弁証法が、赦しを通じて、共同体をまとめる新しい力に生まれ変わるという事態は――私はここで哲学用語を散発的に用いている――ヘーゲルの『精神現象学』のこの部分に見出すことができる。そしてこの事態は、『フィガロ』のフィナーレにおいて、これみよがしに音楽化されているのである。》(同上p82)

 

――セクシュアリティ/ケルビーノ

・《『フィガロ』にはもうひとつの軸、ジェンダーの軸があり、そこからは、モーツァルトのオペラにおけるセクシュアリティ構造と政治学の問題が出てくる(モーツァルトのオペラにおいては、すべての政治学が性の政治学であることを銘記しよう。それは、支配関係とも交叉するオペラのロマンティックな筋立てを背景にして展開されている)。伯爵とフィガロは、主要人物として対立しあう存在であるかもしれないが、その対立の解決は、第二の軸――それは伯爵夫人とスザンナとの関係によって規定される――を通じてはじめて可能になる。(中略)すべての糸を操っているのは、結局のところ女たちなのである。音楽的にもドラマトゥルギー的にも、モーツァルトの心は女の側にある。伯爵夫人は、赦しという崇高な行為を行う主体であるだけではない。彼女は、紋切り型と化したオペラ的な失望の身振りに頼ることなく、あらゆる面において威厳を保ち続ける人物でもある。またスザンナは、最大の共感をもって描かれている。(中略)また『フィガロ』のフィナーレは、和解の行為と主人の没落は女を通じて実現するという要点を提示している。主人の没落を引き起こしたのは、小賢しい反抗的な従僕ではなく、女である。したがって、従者であり女でもあるスザンナは、このオペラの中心に位置する存在である。女性的要素が、共同体全体のあり方を決めるひとつの特徴として全体を媒介する要素とならなければ、共同体は生み出されないのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p86)

・《オペラ全体のセクシュアリティ構造は、ケルビーノという人物によって複雑になっている。二組のカップルが四角形を形成しているときに(そして仕上げにバルトロとマルチェリーナのカップルがこれに加わるときに)、まったく存在する必要のない、それでいながら話の展開の中心にいるこのケルビーノという人物がこの四角形に付け加えられる意図は何かという疑問、それがここで浮上するのである。(中略)このように、一方においてケルビーノは――フロイトの言葉でいえば――Störer der Liebe(恋路をじゃまする者)、ロマンティックな計画を妨害する厭わしい要素である。また他方において彼は、クピド(キューピッド)とアモルのイメージ、セクシュアリティの卓抜な象徴でもある。彼は、相手が伯爵夫人だろうと、スザンナだろうと、バルバリーナだろうと、同じように言い寄ってゆく。対象を差異化しない彼の性的欲望は、女性という類そのものに向けられているのである(のちにキルケゴールは、ケルビーノのなかに「若き日のドン・ファンの肖像」を見出すことになる)。彼は、セクシュアリティの世界に足を踏み入れながら、子供と大人の閾に立っているが、それと同時に男と女の境界線の上にも立っている。彼の役が女性歌手――ドイツ語でいうズボン役Hosenrolle(ズボンをはいた女)――のために書かれているというだけではない。物語を急展開させる重要な契機は、彼の女装――『ヴィクター/ヴィクトリア』の十八世紀版のような、女の格好をした男を演じる女――によってもたらされるのである。彼のキャラクターは、クピドと(ケルビーノの親愛のこもった指小辞として用いられる)ケルビムが奇妙なかたちでひとつに圧縮された状態を表している。つまり、彼においては、性的欲望が純粋なナルシシズムと一致するように(フィガロは彼のもっとも有名なアリアのなかで、ケルビーノをナルキッソスアドニスになぞらえている)、性とは無関係の天使とセクシュアリティそのものの象徴が一致するのである。セクシュアリティの目覚め、セクシュアリティの神話的起源、性と性のない状態とのあいだの境界、男と女のあいだの境界――彼は、そうしたフェティッシュの凝縮状態の生きた事例なのである。また、それと同時に彼は、セクシュアリティそのもの、セクシュアリティの本質を具現するだけでなく、主人の誘惑行為の成功を妨げるセクシュアリティにおける障害、躓きの石を具現してもいる。ここに変装という要素を加えれば、精神分析においてファルスの要素を定義する上で必要なものは、すべてそろうのである。》(同上p88)

・《私は拙著“地獄への黒い船”の中で、キューピッドは男根崇拝の最も集約的な象徴なので、彼のサイズについての伝説の不確かさは、そのこと自身、勃起と膨張の力を象徴している、と主張した。ケルビーノの胸さわぐアリア<もうわからない>(non so più)は、いわばペニスの独白である。「ぼくはなにものか、なにをしているのか、もうぼくにはわからない。一瞬、火と燃えるかと思えば、次の瞬間には氷となる。女と見ればぼくの色は変わり、ぼくの胸は騒ぐ」(一幕第六番アリア)》(ブローフィ『劇作家モーツァルト』p132)

・《第一幕でケルビーノは大胆にも、伯爵夫人、スザンナ、そして城館のすべての女たちに彼が作った小唄が披露されるように求め、感極まって彼の心は乱れに乱れる。この聴覚を通じた接触によって、彼の心は高鳴る。未来の歌の希望は恋心で満ち溢れる状態であり、アジタートへ道をひらく。「ぼくはもう分からない、自分が何か、何しているのか」(Non so più cosa son,cosa faccio)……あたかも即興で作ったかのように、この歌は奇跡的な剰余を響かせるのだが、そこでは肉体と物体にとどまることなどありえないエネルギーが消費されまた新たに息を吹き返すのだ。激情に駆られてはるか遠くの空間めがけて飛翔する愛の欲望は、最終的には自分自身に立ち戻るのだが、それは逃げ去るものの彼方にある目標に到達する必要があるからなのだ。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p108)

 

――逸脱と回帰/階層と変装

・《回帰。再認。昔ながらの作劇法の法則が見出される。だが音楽という名のもう一つの時間芸術についても同じことが当てはまる。ディドロによれば、作曲は一連の逸脱と回帰の法則によって統括されなければならない。モーツァルトはこのオペラの幕ごとの調性およびオペラ全体の調性に関して、そのとおりのやり方で臨んだのである。新たな愛の幻に翻弄されたあげく、伯爵は本当の妻の足元にひれ伏す。不貞の罠にはまり、鳥刺し(uncelatore)は自分で鳥かごのなかに入ってしまう。そして混乱のきわみに達したあげく、最後には秩序が戻る。伯爵が欺かれたとしても、それは召使やお小姓のせいではない。自分の欲望の対象そのものによって欺かれたのである。ニ長調は岸辺であって、いったんそこから離れたとしても、最後にまた上陸する陸地でもあるのだ。

 このように時間は軽々とした足取りで走り去り、そのあいだに気紛れと取り違えの増殖をたえず絶体絶命の状況に引き込んでゆく。瞬間が瞬間を次々と消し去り、捉えがたい未来に向かってゆく加速度的で密な展開にあって、見出された秩序はそれじたいが偶然の出来事でしかなく、サスペンスのための余地もまた用意されている。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p88)

・《ダ・ポンテとモーツァルトはたとえ登場人物の数を原作の十六人から十一人に減らしても、さまざまな社会的身分からなる一世界、種々の情念の広い音域を動かす余地をちゃんと残しておいた。

 彼らはボーマルシェが登場人物を動き回らせる空間をそのまま利用した。庭師から伯爵にいたるまで、あいだには医者(バルトロ)や裁判官(ドン・クルツィオ)、フィガロや「黒い帽子、僧衣と長いマント」(それによってボーマルシェオルガニストに多少なりとも聖職者風の雰囲気をあたえている)といういでたちの音楽教師バジリオを挟んで、さまざまな社会階層の人々がじつにみごとに表現されている。貴族は伯爵だけであり、バスからソプラノまで、自分の声を明確に聞き届かせる民衆(合唱)に対峙する。第三身分、僧侶、貴族、すなわち一七八九年の三部会の役者がすべて出揃って、陽気な無意識のなかで舞台稽古をしようというわけだが、その役割とは、大革命の幕が上がる際には、まったく違った獲得目的のために再び彼らが演じるはずのものだったのである。

 誰も自分本来の居場所に留まろうとはしていない。誰もが快楽のため、金銭のため、城館の階段を上ったり降りたりする。ケルビーノの場合には飛び降りたりもする。伯爵とケルビーノは恋敵として庭師の娘の部屋に出入りする。彼らは庭師の姪であるスザンナの部屋でも鉢合わせをする。庭師が踏み潰されたナデシコを手にして主人たちが住まう城館の一角に飛び込んでくる。伯爵の伝言を携えたバジリオは何も見逃さない。世の中の動きを窺い見ることに慣れてしまった彼は自分でも経験十分と思い込み、やがて「哲学者」ドン・アルフォンゾがそうするように、「すべての美しい女たちはこうしたもの」(Cosí fan tutte le belle)と口にする。小さな「蛇」、「悪魔のようなお小姓」、小悪魔(demonietto)すなわちケルビーノはといえば、うまい具合に偶然も味方に引き入れ、どこであろうとも、巧みに身を滑り込ませる。彼は最初の場面が始まる以前に暇を出されているのだが、こっそり舞い戻り、衣裳をとっかえひっかえ段々と近くに姿をあらわし、騒動を起こし、皆を困らせ、彼が通り過ぎたあとには、じつに独特な苛立ちが生じる。ケルビーノのうちに見るべきは、特定の対象に密着できず、宇宙全体に向かう、定まった居場所をもたぬエロスの姿であって、彼が登場すれば厄介事が生じ、彼の接吻は夜の闇の混乱にまぎれる。(中略)この城館では跨ぎこしてはならない敷居というものがない。どの人物も、必要とあれば、役柄を取り替えることができる。ケルビーノの場合は男女の性を取り替え、マルチェリーナの場合は結婚相手から母親へと役柄を変える。》(同上p93)

 

――欲望の代数学

・《誰もが自分なりに恋心を燃やし、愛の姿は一様ではないが、それに見合った音楽を得ている。複数の形態をもつ欲望のイントネーション、そしてまたありとあらゆる種類の情念のアクセントに場は自由にひらかれている。あらゆる状態の愛のかたちから出発して、陽気さ、メランコリー、色欲、恐れ、抜け目なさ、虚栄心、後悔、赦しなどがそれぞれ場を得るのである。

 われわれは眼と耳をもって感情の小宇宙が回転するのを体験する。奇跡とも思われるようなかたちで、この小宇宙は独自の律動、響き、音色を見出すのである。伯爵の貴族としての怒りは、フィガロの場合の反逆の怒りとは別の感情の領域に位置していて、心の痛みと恨みを深くとどめている。モーツァルトがただひたすら待ち受けていたのは、このように自分にそなわっていると彼が意識していた表現能力をことごとく作品に投入する機会だった。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p96)

・《幕が開いた瞬間から、序曲の躍動はフィガロが歌う「五……十……二十……三十……三十六……四十三……」(Cinque…dieci…venti…trenta…trentasei…quarantatre…)の最初の音符にすでに伝わっていた。みごとな律動によってもたらす陶酔が認められる。上昇音階はそのことをみごとに表現している。それは欲望の代数学であり、数によって象徴される男性的欲望なのである。すべては計算に始まる。それは計算可能な現実への従属というよりも愛の快楽への期待、愛の膨張によって運ばれる計算を意味しているのだ。モーツァルトにあっては力動感が何と強まっていることだろう。ボーマルシェの原作の冒頭にあらわれる無味乾燥な「二十六ピエ☓十九ピエ」と比べると何と違いが際立つことか。》(同上p98)

 

――フェティッシュな表象

・《夢の出来事のように、女性の化粧(ボードレールの表現によるならばmundus muliebris)に関係する品物のすべてが、沸き立つような全体の動きのなかで置き換えを引き起こす。「オレンジの花の小さな冠」(ボーマルシェ)もしくは白の縁なし帽、つまり最初の小二小節で歌われるスザンナが結婚式のために作る帽子(モーツァルトとダ・ポンテ)は午後の儀式の際には伯爵の手でもってスザンナの頭の上に置かれることになるだろう(第三幕第十四場)。それらは夜の闇のなかで伯爵夫人がかぶることになるだろう。花に誘われる蝶のように(第四幕第十一場)、ケルビーノは取り違えてしまうし、伯爵もまた同様だ。それは舞台の明るい中心点をなしている。

 これとは別の女物の装身具にリボンがある。もともとは伯爵夫人の持ち物なのだが、ケルビーノはこれをスザンナの手から奪い取る。お小姓はこのリボンを腕に巻き、引っかき傷のせいで出た血がそこに染みをつくる。伯爵夫人がよく理解したように、貴重な接触であり、彼女はその回帰を願う。でなければ、なぜ伯爵夫人は第二幕で、他のリボンと交換するという口実のもと、躍起になってこのリボンを取り戻そうとするのだろうか。ケルビーノは伯爵夫人と間接的に肉体の接触があるのを望んでいたわけであり、伯爵夫人は彼女の代子のようなケルビーノが流した知の滴にわが身で触れていたいと思うのである。指標は雄弁に語り、魔術の伝染力をおびた官能の儀式は無言のうちに執り行われる。》(スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』p101)

・《化粧小部屋に閉じ込められたケルビーノを伯爵は剣でもって威嚇するわけだが、女性陣のほうは剣ではなくてピンで応じる。切っ先には切っ先をもってというわけだ。ピンの刺し傷は、周知のように、「甘美な痛み」であり、事細かに痛みのある箇所がわかる。(中略)第一幕第五場のレチタティーヴォで、ケルビーノは伯爵夫人の衣裳と髪の世話をするスザンナの特権をうらやむ。「なんと幸せなんだろう[……]朝は彼女の身繕いのお手伝いをし、夜は夜で衣裳を脱ぐお手伝いをする、ピンやら刺繍レースをつけてあげたりする」(Ferice[…]che la vesti il mattino,che la sera la spogli,che le metti gli spilloni,I merletti)。(中略)婚礼の宴が最高に盛り上がった瞬間、このピンは不実な夫を突き刺すことになるだろう。(中略)伯爵はスザンナの頭に処女のあかしの帽子をかぶせてやろうとすると、密会の手紙を滑り込ませようとするスザンナの手にそのとき触れる。伯爵の指に刺し傷ができる。そして彼はすぐに相手が自分を待っているのだと理解する。「女たちはどこでもピンを用いるわい……ああ、ああ、わかったぞ目論見が」(Le donne ficcan gli aghi in ogni loco…Ah! Ah! Capisco il gioco)。》(同上p103)

  

<『ドン・ジョヴァンニ』>

――「欲望に対して妥協しないこと」

・《ドン・ジョヴァンニフィガロとのあいだには、直接的な関係がある。この関係から生じるのは、モチーフを敷衍し極端なかたちに変えることによって起こる関係全体の転倒である。ドン・ジョヴァンニとは、伯爵がそうなりたいと思っていながら意気地がなくてなりきれないでいるものの総体である。おのれの欲望をすべて実現させた伯爵、それがドン・ジョヴァンニなのだ。(中略)いかなる欲望も断念せず、世のすべての女性を手中に収めることを望む大胆不敵な主人ドン・ジョヴァンニは、快楽原則の彼岸へと向かう契機を表わしている。それこそが彼のパラドクスである。彼は、快楽原則を断念することなく徹底的に追及することによって、この原則をその極限にまでもってゆく。つまり、この原則を、そのためになら命を懸けても惜しくないと思えるような倫理的姿勢に変えるのである。この倫理的姿勢は、既存の体制と、その道徳的原則および宗教的議論に反抗する主体の絶対的な自律性を示している(伝統的にドン・ファンは、女たらしとしてだけでなく――それだけであったなら、彼は最悪の人間とはされなかっただろう――無神論者としても描かれてきた)。彼は人間の道徳律と<神>の命令に背くだけではない。彼は、アンティゴネがいう意味での「神の掟」をも破っているのだ。すなわち、彼は、死者の埋葬、死者の不可侵性、死者の神聖さを規定する法を破るのであり、死者に割り当てられた象徴的な場所を踏みにじるのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p90)

・《ドン・ジョヴァンニは、「欲望に対して妥協しないこと」(のちにふれるように、これはキルケゴールが知っていたことである)というラカンのスローガンに則して読むことが可能であるような倫理的立場をとっている。彼に関してわれわれを当惑させるのは、彼が膨大な数の女性と関係をもったということではなく――それぐらいのことは貴族ならあたりまえだろう――彼が快楽の追求を倫理原則のレヴェルにまで、それを断念するくらいなら死んだほうがましだという次元にまで高めたことである。

 ドン・ジョヴァンニにとって、和解や慈悲は存在しない。『フィガロ』のフィナーレと比べると、状況が逆転している。(中略)ドン・ジョヴァンニのなかには二つのものが凝縮されている。一方において、彼は旧体制の典型である。これは伯爵と共通するが、ただしドン・ジョヴァンニのほうは本心を隠したりせずに、欲望の実現に向けて突っ走る。彼は絶対的な特権、初夜権ius primae noctisだけでなく、すべて夜の権利を要求する。慈悲と寛容を隠れ蓑にしなければならない主人とは対立する、あるいはそれよりも情けない、自分から赦しを求めなければならない主人とは対立する本物の主人――彼は、そうした古風な主人のイメージとして登場するのである。したがって彼は、啓蒙主義運動の敵ともいうべき、旧体制の特権的な権利を具現している。また他方において彼は、啓蒙主義の土台である自律的な主体を具現している。彼は自らを立法者とし、ただ自分の欲望だけに付き従ってゆく。結局彼は、ブルジョア主体にはとうてい真似できないほど根源的=急進的なやり方で旧体制に反抗しているのである。『フィガロ』は自由、平等、友愛の精神をもって幕を閉じる。それに対して、ドン・ジョヴァンニにとっての自由は、平等と自由を超えたところに、そして平等と自由に対立するものとして設定されている。自由は、純粋な自由が邪悪な悪と一致する場所に置かれているのである。》(同上p92)

 

 <『コシ・ファン・トゥッテ』>

――当惑と不信感

・《『フィガロ』のフィナーレは、ブルジョア体制の喜びにみちたユートピア的なはじまり、君主の退位、音楽におけるフランス革命、新たな共同体における和解を提示しながら、「これでみな満足できよう」と請け負ってみせる。しかし、それからわずか一年後、『ドン・ジョヴァンニ』のフィナーレは、新しい局面を提示する。つまり、旧体制のあらゆる特権を体現する放蕩者との和解は不可能であるという局面を。この放蕩者にとっては、慈悲や赦しは存在しない。彼のもつ絶対的な自律性、社会の基本的な価値観を疑問に付す彼のラディカルな身振り、彼のみせる倫理的な姿勢――こうしたものと和解することは不可能なのである。彼は、旧体制の放蕩とジャコバン急進主義とを合わせもった人物である。共同体は、超越的なものの回帰によって、父性的な人物の家父長的な権威や<彼岸>からの報復が復活することによって、はじめて救済される。この結末は、共同体を救済するというよりは、むしろ破壊する。輝かしい未来には、暗雲が立ちこめるのである。

 モーツァルトの次の作品、『コシ・ファン・トゥッテ』は、まちがいなく彼の全オペラ作品のなかでもっとも奇妙な作品である。過去二世紀のあいだ、この作品はつねに見る者を当惑させてきた。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p112)

・《不信感の理由は、はっきりしている。この作品は心理学的な信憑性を欠いており、不自然な偏った作り方がなされている――それが第一の理由である。二人の女性は、なるほどまぬけで愚かなのかもしれない。しかし、彼女たちがアルバニア人の男に偶然会ってから数時間しかたっていないのに彼らに身をあずけ、お粗末な策略にはまってしまうというのは、いささかやりすぎだろう。(中略)『コシ』は、オペラにとって都合のよい、遠く隔たった何らかの神話的な時空間に舞台が設定されていない(とくにオペラ史の初期における)数少ない作品のひとつである。またそこには、神も君主も登場しない。作品の舞台は完全に同時代に置かれているのだ。アクションは、ナポリ風のアパート、庭、カフェといったブルジョア的な舞台で起こっている。この作品にかぎっては、観客は自分たちと何ら変わらない人物を目にするのである。『コシ』が不自然であるという印象は、二組のカップルが対称的な関係にあること、そしてオペラ全体が対称を意識した構成になっていることによって強まっている。(中略)『コシ』が話題にされなかった第二の理由は、物語のあからさまな不道徳性にあった。『フィガロ』と『ドン・ジョヴァンニ』が、すくなくとも表面的には、軽薄な放蕩者を非難し罰するのだとすれば、『コシ』のほうは、いかがわしい行為を容認しているようにもみえる。この作品が証明しようとしているテーゼは、愛、貞節、忠誠といった高尚な、不可侵の価値観を疑問に付してしまう。(中略)三つ目の躓きの石は、近年出てきたものであり、作品がつくられた当時は、そこから多くの問題が発生するようなことはおそらくなかっただろう。『コシ』には、女は本質的に不義を犯すものであり、その貞節も疑わしいという反フェミニズム的な視点が盛り込まれている。》(同上p114)

 

――人間機械論/贈与から交換へ

・《哲学者(筆者註:ドン・アルフォンソ)は、単なる快楽主義を超えたその先にあるものを見ており、ラ・メトリの『人間機械論』に代表される、一八世紀哲学の唯物論的、決定論的思考をみずからの足場にしている。決定論は、自由と表裏一体の関係にある。熱烈な賞賛をもって迎えられた自律性の背後には、無機的な機械がひそんでいる。自律性というもっとも崇高な感情は、機械的に生み出される。つまり、経験的に、人工的に喚起されるのである。自由を熱烈に賛美した一八世紀が、その反面で機械的なものに魅了されていたということ――すこしだけ例をあげていえば、帽子をかぶったデカルトの自動人形と、知らず知らずのうちに精神をもって動いているパスカルの自動人形からはじまって、ラ・メトリとヴォーカソンに移り、最後にホフマンのオリンピアにいたる流れ――は、きわめて逆説的な事態にみえるかもしれない。機械仕掛けの人形は、自律的な主体性の隠喩であり、また自律的な主体と対比されるものでもある。(中略)そして過去二世紀のあいだ、『コシ・ファン・トゥッテ』の批評としてもっとも頻繁にいわれてきたのは、まさに『コシ』の主要人物は単なる人形にすぎない、ということなのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p119)

・《『コシ・ファン・トゥッテ』は、マリヴォーがややもすれば曖昧に提示しがちであったメッセージを過激なかたちで押し出している。それは、愛はすべてを打ち負かすのではなく、むしろ簡単にうち破られる、というメッセージである。愛を操作するのに手間はかからない。少々のねたみ、わずかな懐疑、受け入れないわけにはいかない愛の告白、ちょっとしたお世辞、自分の身を犠牲にするふり――こうしたものがあれば十分なのである。第一幕の終わりで、二人の将校は、みずからの愛が報われないことを理由に自殺するふりをする。すると二人の婦人は、彼らを哀れに思うことしかできなくなり、結局、策略におちてしまう。愛のなかには、予測しえない感情の集合というよりも、むしろ機械に近い何かが存在している。愛は実験によって誘発されるものであり、愛の発生は機械論的に予測可能なのである。》(同上p120)

・《策略をしたつけは払わなければならない。彼らは、自分たちでは制御できない装置をつくり、それに捕らえられてしまうのである。ここにあるのは、啓蒙主義にかかわる、もうひとつの大きな主題である。それは、自尊心、つまり自己愛に対する批判という、パスカルラ・ロシュフコーにはじまる長い系譜をもった主題である。自尊心は、現代的ないいかたでいえばナルシシズムへの一撃とでも呼びうるものを経験しなければならない。人間の本性を正しく理解するためには、自然のうちに発生する自己欺瞞を取り除かねばならない。愛とは、この自己欺瞞を隠蔽するための、いまひとつの仮面である。そして[『コシ』における]反フェミニズム的な視点は、その裏の面を表に出す。二人の若い男は、女たちの不貞を証明するためにみずからのナルシシズムを破壊しなければならない、つまり、おのれの自我を傷つけねばならないのである。彼らは、偶像としての、また特権化された愛の対象としての自分の地位がいかに造作なく崩壊するかということを経験するのである。ロココ的な悪巧みは、突然、苦痛と欺瞞をもたらす結果におわる。》(同上p121)

・《平等というスローガンは、『コシ』においては予期せぬ結果をもたらしている。平等とは、人同士の交換が可能であることを意味する。ひとりの女は他の女に等しく、ひとりの男は他の男に等しい。あらゆるひとは、他のひとに置き換えることができる。ここには、特権化された愛の対象も存在しない。「男はどれも同じもの、値打ちのあるひとなんかいやしませんもの」とデスピーナ(筆者註:侍女)はいっている。このひともあのひとも変わりはない、どちらも価値なんてないんだから、というわけだ。》(同上p124)

・《変装は、『フィガロ』の最終幕にも、『ドン・ジョヴァンニ』の第二のフィナーレにも出てくる。変装という、この遍在する複雑な操作の背後には、確固とした啓蒙主義的な考え方が存在している。それは価値観の見直しである。これは要するに、主人と従僕が社会的地位を交換するには、彼らの服を交換するだけでよい、ということである。人間を作るのは服である。疎外状況にある社会体制において基準となるのは、イメージであって、内在的な価値ではない。(中略)たとえば、ドン・ジョヴァンニはレポレッロと、伯爵夫人はスザンナと服を交換する。しかし、『コシ』にいたって状況は変化する。服装交換は、同じ身分の二人の主体のあいだで起こるのである。イタリア人にしてアルバニア人でもある二人の将校のあいだに、身分の差はない。彼らの変装は、ただ彼らの人間としての個性だけに、愛し愛される者としての彼らの特権的な地位だけにかかわっている。》(同上p125)

 

――「否定の否定」/倒錯と享楽

・《この哲学者は、冷笑家というよりも、むしろ道徳家である。みずからがもたらした最後の和解において、彼は、もともとの秩序を擁護している。その秩序がまったく恣意的なもので、二番目の秩序(筆者註:交換された恋人たち)をより良いというわけではないことが遡及的に明らかになったにもかかわらず、である。あるいはむしろ、にもかかわらず、ではなく、まさに(・・・)それゆえに、といったほうがよいだろう。哲学者という立場にふさわしく、彼は否定の否定を擁護する。つまり、最初の立場は、それと対象をなし、且つそれを逆転させた否定性(アンチテーゼ)と、すなわち、みずからの鏡像のような限定された否定性と出会うのである。(中略)既存の秩序はまったく恣意的なものであり、物語はその恣意性を明示してみせる。しかし、まさにそのかぎりにおいて、その既存の秩序は、みずからに対する自己否定となっている。そして、この恣意性に対する唯一の対処法は、その恣意性を無条件に受け入れることである。このようにしてドン・アルフォンソは、一方の手をラ・メトリに、もう一方の手をヘーゲルに差し出すのである。》(ドラー『オペラは二度死ぬ』p128)

・《『フィガロ』においては、無垢な者は、罪を犯した者を赦すことにおいてみずからの寛大さを示していた。しかし、『コシ』においては、誰も無垢ではない。モーツァルトが崇高の瞬間を、欺瞞のもっとも高まる場面のただなかに置かねばならなかったのは、そして最後の身振りを曖昧なままにしておかねばならなかったのは、おそらくそのためである。『コシ』における和解には、Ungeschehenmachen(物事を遡及的に無化すること)の力――それは、乾杯の場面においては、まやかしの徴候としてぼんやりと現れていた――が備わっていない。フィナーレは支離滅裂であり、説得力も欠いている。つまり、それはアンチクライマックス[漸降法]になっているのである。》(同上p129)

・《哲学者は、<他者>の、普遍的知の代理として行動している。彼は、普遍的なテーゼを証明するために科学的な実験をはじめるのだ。しかし、この実験には、どこかしらいかがわしいところがある。すなわちそれは、彼の悪意に満ちた中立性(「それはあなた自身の誤りです。私はそういったはずです」)、彼はあえて可視化しようとしている人間の欠陥に関する、見た目だけ客観的な観察である。彼は、自分は人間本性に関する普遍的法則の単なる道具にすぎない、という姿勢をとっている。しかし彼の享楽ぶりや笑いは、この姿勢をうさんくさいものに変える。「さ、四人とも笑いなさい/これまでの私のように、そしてこれからの私のように」。彼はこれまでも笑ってきたし、これからも笑いつづける。なぜなら、彼は人間的な情念や弱さを超越しているからである。ただし彼は、最悪の、もっとも陰険な情念ないし弱さだけは超越していない。それは、人間の弱さを見せ物として享受することである。彼は、中立的な立場にたつ普遍性の代理人であるだけでなく、<他者>の眼差しと享楽の代行者、つまり、舞台で演じられるこの人間の欠陥をめぐるスペクタクルの観客として想定された主人の、不在の眼差しでもあるということ――彼のいかがわしさは、最終的にこの点に存するのである。人形は主人の享楽のために存在する。そして哲学者は、最終的にはこの享楽の代行者であり、また、密かにこの享楽に奉仕している。このような構造をもった立場は、まさしく、精神分析における倒錯の定義と一致する。》(同上p130)

・《自由に使えるということと、分かりやすいということは、『コシ』における操り人形がもつ主要な特徴でもある。ここからパノプティコン[一望監視施設]の空想までは、つまり、誰もがその場所に立つことのできる、この<他者>の普遍化された眼差しまでは、ほんの一歩であるということ――それが、フーコーがいわんとしている要点である。》(同上p135)

・《ヘーゲルの『精神現象学』における啓蒙主義の分析を思い出そう。そこにおいて啓蒙主義は、あらゆるものを有用性Nützlichkeitへと、つまり主体にとっての利用しやすさへと還元することとみなされている。そしてここから啓蒙主義が取りつかれていたもうひとつの大きな主題までは、ほんの一歩である。その主題とは、計算されるべきものとしての享楽という主題、享楽の計算le calcul des jouissancesという主題である。このようにして、この空想――その核には、その掛け金enjeuとなる<他者>の眼差しと享楽が備わっている――は、わずかな変更を加えるだけで、その機能を完全に変えることができた。モーツァルトにおいてわれわれが目にすることができるのは、この空想の、消滅しかかった背景である。そこにおいてこの空想は、依然として、衰えゆく旧体制を下支えすることができた。しかし、それは同時に、新たな時代の前兆になることもできたのである。モーツァルトとは、この重大な分岐点であったのだ。》(同上p135)

 

――反復

・《『ドン・ジョヴァンニ』が(キルケゴールが、『あれかこれか』においてこのオペラを詳細に分析しながら論じていたように)美的なものを具現しているとすれば、『コシ・ファン・トゥッテ』の教義は倫理的である。なぜか。オペラの冒頭で二組のカップルを結びつけている愛は、アルバニア人の将校に扮装したパートナーに対する二人の姉妹の愛――これは哲学者アルフォンソの策略によって生まれた愛であり、その際の男女の組み合わせは互い違いになっている――と同様に人工的であり、機械的に生み出されているということ、それが『コシ』の要点である。この二つの愛においてわれわれは、操り人形と化した主体が盲目的に従うメカニズムを扱っている。ここには、ヘーゲルのいう「否定の否定」がある。最初われわれは、アルフォンソの操作によって生まれた人工的な愛は冒頭の真正な愛と対立していると考える。だが、その後われわれは、その二つの愛のあいだに差異はないということに突然気づく。つまり、二つの愛の価値に差はないのであり、それゆえに、カップルは最初に決まっていた結婚の段取りにもどることができるのである。(中略)この意味で倫理的なものは、象徴的なものとして反復の領域である。美的なものにおいては、ひとはひとつの特異性をもった瞬間をとらえようと努めるのだとすれば、倫理的なものにおいてひとつの事物は、反復されることによってはじめてその事物そのものとなるのである。》(ジジェク『オペラは二度死ぬ』p279)

・《モーツァルト一世一代の到達点といってよい、『コシ・ファン・トゥッテ』第二幕においては、フィオルディリージの卓絶したロンド‐アリア「お願い、ゆるして、恋人よ」の場面――それは、アルバニア人の格好をしたフェルランドに対する欲望を、彼女がひっしに抑えようとする最後の場面である――が、真の心理的キャラクターの現れる瞬間となっている。ここでは次の二点が決定的に重要である。第一に、「お願い」はフィオルディリージにとって、誘惑に断固抵抗するための二回目(・・・)の試みであるということ。一回目の試みは第一幕の「岩のように」であり、そこで彼女は、自分の非凡さは、彼が常套的な反復の論理(一度目は深刻な悲劇として、二度目は喜劇として)を転倒している点に求められる。最初のアリア(「岩のように」)は、感傷的な、誇張された喜劇性を示す典型的な例である。それに対し「お願い」は、悲劇本来の誇張を表現している。二点目は、フィオルディリージが完全な主体化を果たすのは、つまり完全なキャラクターとして出現するのは、自らを圧倒する抗しがたい情動を正面から受け入れることにおいてではなく、この情動の爆発を抑えようと必死に努力する過程においてであるということ。主体性が本来もっている深みには、内的な緊張が、心の内奥にひそむ欲望との戦いが備わっているのである。したがって、フィオルディリージは、『コシ』における唯一の(・・・)真のキャラクターである――それ以外の人物たちは、深みのないステレオタイプの集団にすぎない――という主張は、ある意味において正しい。たとえば、デスピーナは世俗的で日和見主義的な使用人であり、ドラベッラはわがままな恋多き女である。》(同上p403)

 

――「カントとサド」

・《モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』にでてくる二人の男は、自分のフィアンセに彼女たち自身が屈辱をうけるところを想像させたいのである。ポイントは、単にフィアンセの貞節を試すことではなく、人前でみずからの不貞行為に向き合わせることによって彼女たちを困惑させることである(フィナーレを思い出そう。[彼らのフィアンセと]二人のアルバニア人が婚約したあと、二人の男は彼ら本来の服装で再登場し、アルバニア人に変装していたのは自分たちであったことをフィアンセに教える)。ここで得体が知れないのは、女の欲望(それは堅忍不抜なものなのか、かりそめのものなのか)ではなく、男の欲望である。女性にそうした残酷な試練を受けさせる、二人の若い男の天邪鬼な心理とは、いったいいかなるものなのか。なぜ彼らは、平和で牧歌的な恋愛関係を混乱におとしいれるように強いられるのか。彼らは明らかに、フィアンセとよりを戻したいと思っている。しかし、彼らはあくまで、女性的欲望がはらむ虚栄心に直面してからでなければ、そうしないのである。このようにして彼らは、厳密な意味で、サド的倒錯者の立場にいる。彼らの目的は、欲望する主体の分裂を<他者>(犠牲者)の側に置き換えることである。つまり、あわれなフィアンセたちは、みずからの欲望に嫌悪感をおぼえるという苦痛を引き受けなければならないのである。》(ジジェク『オペラは二度死ぬ』p206)

・《エドワード・サイードは、一七九〇年九月三〇日以降にモーツァルトが妻コンスタンツェに宛てた書簡への注意を喚起しています。それはまさに、彼が『コシ・ファン・トゥッテ』を作曲している時期に当たります。近いうちに妻と再会する悦びを綴ったモーツァルトは、「もし誰かが私の心の裡を覗きこむようなことがあれば、私は恥じ入らねばならないだろう」と書き継ぎました。この一文に、明敏なサイードは感じ取るのです。人びとはこの一文にある種の汚れた私的秘密(モーツァルトが妻に再会するに当たって行うであろうことについての性的なファンタジーなど)の告白を感じ取るだろう、と。ですが、手紙は続きます。「私にとってすべてが冷たいのです――まるで氷のように」と。まさにここで、モーツァルトは「カントとサド」という不気味な領域、性(セクシュアリティ)がその情熱に溢れ、張り詰めた特性を失い、冷たい距たりに処刑された快楽のもとでの「機械的な」行為というその対極に転化する領域、情熱に溢れる(パソロジカル)いかなる関与も欠いて義務の実効を担うカント的な倫理主体にも似た領域に、這入り込むのです。

 これが『コシ・ファン・トゥッテ』の根底にある考え方ではないでしょうか? 主体がその情熱(パトス)に溢れる関与ではなく、そうした情熱を規制する盲目のメカニズムによって規定されるような世界ではないでしょうか? 『コシ・ファン・トゥッテ』と「カントとサド」の領域との間に平行関係を打ち立てることを私たちに強いるのは、その権限によってその徴候をすでに仄めかされている普遍的な次元にほかなりません。「人びとはみな(・・)、同じことをしている」。同一の盲目のメカニズムによって決められている、と。約めて言えば、『コシ・ファン・トゥッテ』における変更された同一性のゲームを組織し操作する哲学者アルフォンソは、放蕩という技法のもとで自分の若き弟子たちを教育するサド的な教師(ペダゴーグ)という形象をめぐる一箇の解釈なのです。ですから、この冷たさを「道具的理性」の冷たさと考えるのは、あまりに単純にすぎ、不適切です。

コシ・ファン・トゥッテ』のトラウマの核芯は、パスカル的な意味におけるその根源的な「機械的唯物論」なのです。つまり、信仰をもたない者への助言――「あたかも信じているかの如くに振る舞い、跪き、儀式に随え。そうすれば、信仰はおのずと到来するであろう!」――です。『コシ・ファン・トゥッテ』はこの論理を愛に適用しています。愛の内的感情を外に向けて表出することとはまったく異なり、愛の儀式と身振りが、愛を生みだす(・・・・)のです。つまり、恋に落ち、手続きを踏んだかの如くに行為せよ。そうすれば、愛はおのずと出現するだろう。》(ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」p276)

・《モーツァルトは「盲目的なロマンティックな愛」を信じていないため、「それを容赦なく茶化す」ことまでおこなっている(その最たるものが『コシ・ファン・トゥッテ』である)。しかしステプトーが引用する『コシ』作曲時の書簡群は、もっと複雑な物語に関係している。ある手紙のなかでモーツァルトはコンスタンツェに、君と再会できると思うと心躍ると書き、こう付け加えている――「もし誰かがわたしの心のなかを覗きこむようなことがあれば、わたしは恥ずかしくてほとんど赤面するだろう」と。そこでわたしたちとしても、このあとモーツァルトが煮えたぎる情念や官能的な妄想について一言あるものと期待するかもしれない。ところが彼はこうつづけるのだ――「すべてが冷たい――氷のように冷たい」と。そして彼はこう記す、「すべてがとても空虚だ」と。それにつづく手紙、これまたステプトーが引用している手紙のなかで、モーツァルトはふたたび「感情」について、「わたしをひどく傷つける、一種の空虚感――、決して満たされることのない、決して止むことのない、つねに残存する、いやむしろ日々大きくなる一種の憧憬――」について語っている。モーツァルトの書簡には、ほかにもこれと同様のものがあって、静まらぬエネルギー(空虚感や、増大するいっぽうの満たされぬ憧憬ということを言わんとしているらしい)と冷静な制御とが一対になってあらわれる。こうした特徴は、モーツァルトの生涯と全作品における『コシ』の位置ととりわけ重要な関連があるように、わたしには思われる。》(サイード『晩年のスタイル』p107)

・《アルフォンソの立場とは、ただたんに幻滅しうんざりして夢や理想を失った世俗の男というだけでなく、みずからの思想を徹底して説いてまわる教師でもある。自分の思想を実証するために人間と空想を必要としているかにみえて、その実、自分がお膳立てする余興は、珍しくもなんともないことをあらかじめ知っている。そんな人物なのだ。余興はわくわくするような面白いものかもしれないが、彼にはうんざりするほどわかっていることを、ただ確証するだけなのである。

 この点でドン・アルフォンソは、彼とほぼ同時代の人間であるサド侯爵の、やや控えめなヴァージョンといえなくもない。このリベルタンについて、フーコーは、つぎのような印象的な記述を残している――

   欲望のあらゆる空想に、また欲望の猛威のひとつひとつに身をゆだねながら、[このリベルタン]は欲望のほんのわずかな動きにも、明晰かつ用意周到に準備された表象によって、光をあてることができるし、またそうしないではいられないのだ。リベルタンの人生を統御する厳格な秩序が存在する。あらゆる表象は、欲望の生きた肉体のなかでただちに生命を付与されなければならないし、あらゆる欲望は表象的言説[このオペラでいえば、第二幕における愛の言語あるいは言説]の純粋な光のなかで表現されねばならない。ここから「場面」の厳密な連続が生れる(サドにおけるこの場面は、表象の秩序に従属した放蕩である)、そして場面の内部で、肉体の結合と理由づけの集合との間に入念に配慮された均衡が生まれるのである。(筆者註:フーコー『言葉と物』)

(中略)『コシ』のプロットは、場面の厳密な連続であり、そのすべてがアルフォンソと、彼と同じように冷笑的な援助者デスピーナによって操作され、性的欲望は、フーコーが示唆しているように、表象の秩序に従属した放蕩となる――ここでいう表象は、恋人たちが甘い幻想を失くしつつも、それでも胸躍る恋を通して教訓を学ぶことを示す演劇物語のことだ。そのゲームがフィオルディリージとドラベッラに明かされたとき、彼女たちは、自分たちが経験したことの真実を受け止める。そしてその韜晦的な両義性によって解釈者や演出家を困らせてきた結論部において、彼女たちは理性と喜びの歌をうたうのだが、ふたりの女性とふたりの男性がもとの恋人といっしょになるのかどうか確証となるものをモーツアルトは何も示していないのである。

 このような結論部は、やっかいな未来の可能性を垣間見せることになる。いかなる絆もアイデンティティも、いかなる安定性もしくは思想堅固の概念も、無傷のまま残ることはない以上、さらなる恋人の入れ替えや混乱があってもおかしくないからだ。フーコーは、こうした文化的契機について次のように語る。すなわち、言語は名づける能力を維持するが、それは「必要最低限の正確さにまで切りつめられる堅苦しい虚礼において」のみ可能になるとともに、言語は「その能力を際限なく拡張する」のだ、と。つまり恋人たちは、他のパートナーを探しつづける、なぜなら愛のレトリックと欲望の表象は、存在の本源的に不変の秩序にみずからをつなぐ錨を失ったということだからだ。「わたしたちの思惟はきわめて断片的となり、わたしたちの自由は隷属化され、わたしたちの言説は繰り返しとなる……わたしたちは、足もとの影の広がりが、実際には底なしの海であるという事実に直面せねばならないのだ」。》(同上p108)

・《ここでわたしたちは、モーツァルトがこのオペラ作曲時に語っていた孤独な憧憬と冷たさの異常な感覚を思い出してもいい。『コシ』をめぐってわたしたちが感銘を受けるのは、もちろんその音楽である。それはモーツァルトが奏でようと用意した状況よりも、不釣合いなほど興味ぶかいものに思われる。例外は(とりわけ第二幕において)四人の恋人たちが、高揚、悔悟、恐怖、激怒といった複雑な感情を表現するときだが。しかし、そのような瞬間ですら、フィオルディリージの「岩が不動であるように」にみられる信頼と献身の主張と、彼女が巻き込まれる心底とるに足らぬゲームとの不一致は、彼女から発せられる高貴な心情吐露とその音楽とを歪曲してしまい、音楽を、ありえないほど粉飾的でありながら、同時に扇情的なほど美しいものにしてしまう――この組み合わせは。満たされぬ憧憬と冷徹な支配とが混在するモーツァルトの感情に照応しているのである。アリアに耳を傾け、真摯な要素と滑稽な要素とが舞台で角突き合わせる騒動を観ながら、わたしたちは思弁にも絶望にも迷い込むことなく、ただモーツァルトの厳格な音楽の完璧な統治ぶりを追うことしかできない。》(同上p121)

                            (了)

           ******主な引用または参考文献*****

柄谷行人「探究Ⅲ」第十八回(「群像」1996年3月号に所収)(講談社

柄谷行人「近代批判の鍵」(『坂部恵集1 生成するカント像』月報に所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(「『視霊者の夢』の周辺」所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(「理性の不安――サドとカント――」、「カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇――」所収)(岩波書店

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店

ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

ミシェル・フーコー『狂気の歴史――古典主義時代における』田村俶訳(新潮社)

スラヴォイ・ジジェク、ムラデン・ドラー『オペラは二度死ぬ』中山徹訳(ドラー「音楽が愛の糧ならば」、ジジェク「私はその夢を、見たくて見たのではない」「昼が考えたよりも深い」「共同体永遠のアイロニー」「走れ、イゾルデ、走れ」所収)(青土社

*ジャン・スタロバンスキー『オペラ、魅惑する女たち』千葉文夫訳(みすず書房

エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』大橋洋一訳(岩波書店

アラン・バディウワーグナー論』(スラヴォイ・ジジェクワーグナー反ユダヤ主義、「ドイツ観念論」――後書き」所収)長原豊訳(青土社

*ブリジット・ブローフィ『劇作家モーツァルト』高橋英郎、石井宏訳(東京創元社

*ミヒャエル・ハンペ『オペラの学校』井形ちづる訳(水曜社)

*ミヒャエル・ハンペ『オペラの未来』井形ちづる訳(水曜社)

岡田暁生『恋愛哲学者モーツァルト』(新潮社)

岡田暁生『オペラの運命』(中央公論新社

河上徹太郎ドン・ジョヴァンニ』(講談社

*ゼーレン・キルケゴールドン・ジョヴァンニ』浅井真男訳(白水社

大岡昇平大岡昇平全集16 評論Ⅲ』(「ケルビーノ礼賛」所収)(筑摩書房

カール・バルトモーツァルト』小塩節訳(新教出版社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト フィガロの結婚』畔上司訳(音楽之友社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』竹内ふみ子、藤本一子訳(音楽之友社

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス モーツァルト コシ・ファン・トゥッテ田中純訳(音楽之友社

*『ユリイカ 総特集モーツァルト<没後200年記念>(1991年8月臨時増刊)』(小林康夫「『フィガロの結婚』と様々なる衣裳」、千葉文夫「『コシ・ファン・トゥッテ』の曖昧さ」、大澤真幸「荘厳と透明――転換期のモーツァルト」、等所収)(青土社

マルキ・ド・サド『閨房哲学』渋沢龍彦訳(河出書房新社

イマヌエル・カント実践理性批判中山元訳(光文社)

イマヌエル・カント『視霊者の夢』金森誠也訳(講談社学術文庫

モーツァルトモーツアルトの手紙――その生涯のロマン』柴田治三郎編訳(岩波文庫

演劇批評 「<象徴界>と<大文字の他者>でみる『義経千本桜』と『伽羅先代萩』」

「<象徴界>と<大文字の他者>でみる『義経千本桜』と『伽羅先代萩』」

  

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 谷崎潤一郎は回想録『幼少時代』で、「団十郎、五代目菊五郎、七世団蔵、その他の思い出」という章を設けて歌舞伎経験を語っているが、そのハイライトは明治二十九年に観劇した『義経(よしつね)千本(せんぼん)桜(ざくら)』にまつわる、谷崎文学の根幹ともいえる「母恋し」だろう。

《御殿の場で忠信から狐へ早変りになるところ、狐がたびたび思いも寄らぬ場所から現われたり隠れたりするところ、欄干渡りのところなどは、もともと多分に童話劇的要素があって子供の喜ぶ場面であるから、私も甚しく感嘆しながら見た、ここで私はもう一度旧作「吉野葛」のことに触れるが、あれは私の六歳の時に「母と共に見た団十郎の葛の葉から糸を引いている」のみではない、その五年後に見た五代目の「千本桜」の芝居から一層強い影響を受けたものに違いなく、もし五代目のあれを見ていなかったら、恐らくああいう幻想は育まれなかったであろう。私はあの旧作の中で、津村という大阪生れの青年の口を借りて、次のようなことさえ述べているのである。――

 自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍(あべ)の童子を羨(うらや)んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じを抱くであろう。が、「千本桜」の道行(みちゆき)になると、母――狐――美女――恋人――と云う連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静(しずか)と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行と映ずるように工(たく)まれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇を見ることを好んだ。そして自分を忠信狐になぞらえ、親狐の皮で張られた鼓の音に惹(ひ)かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会(おんしゅうかい)の舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。》

 谷崎は『幼少時代』に『吉野葛』から上記文章を引用、紹介したが、もとの『吉野葛』では直前にこう書いている。

徳川時代狂言作者は、案外ずるく頭が働いて、観客の意識の底に潜在している微妙な心理に媚(こ)びることが巧みであったのかも知れない。この三吉の芝居なども、一方を貴族の女の児(こ)にし、一方を馬方の男の児にして、その間に、乳母(うば)であり母である上臈(じょうろう)の婦人を配したところは、表面親子の情愛を扱ったものに違いないけれども、その蔭に淡い少年の恋が暗示されていなくもない。少くとも三吉の方から見れば、いかめしい大名の奥御殿に住む姫君と母とは、等しく思慕(しぼ)の対象になり得る。それが葛の葉の芝居では、父と子とが同じ心になって一人の母を慕うのであるが、この場合、母が狐であるという仕組みは、一層見る人の空想を甘くする。自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍(あべ)の童子を羨(うらや)んだか知れない。(後略)》

 さすがに谷崎は鋭い。

徳川時代狂言作者は、案外ずるく頭が働いて、観客の意識の底に潜在している微妙な心理に媚(こ)びることが巧みであったのかも知れない」とは、人間精神の構造の深い真理に届いている。

 谷崎がジャック・ラカン精神分析を知らなかったのは時代的に当然のことだが、そこにはラカン精神分析への気づきのようなものがある。「案外ずるく頭が働いて」という狂言作者を介して「潜在している微妙な心理に媚(こ)びることが巧みであった」には、ラカンの<象徴界>と<大文字の他者>という、女人のような足先が透けて見える。

 イラク大量破壊兵器に関するラムズフェルド国務長官の発言(2003年に英国の「意味不明な迷言(Foot in Mouth)大賞」に選ばれて有名になった)はまだ記憶に残っているであろうか。

《二〇〇三年三月、ドナルド・ラムズフェルドは、知られていることと知られていないことの関係をめぐり、発作的にアマチュア哲学論を展開した。

   知られている「知られていること」がある。これはつまり、われわれはそれを知っており、自分がそれを知っていることを自分でも知っている。知られている「知られていないこと」もある。これはつまり、われわれはそれを知らず、自分がそれを知らないということを自分では知っている。しかしさらに、知られていない「知られていないこと」というのもある。われわれはそれを知らず、それを知らないということも知らない。

 彼が言い忘れたのは、きわめて重大な第四項だ。それは知られていない「知られていること」、つまり自分はそれを知っているのに、自分がそれを知っているということを自分では知らないことである。これこそがまさしくフロイトのいう無意識であり、ラカンが「それ自身を知らない知」と呼んだものであり、その核心にあるのが幻想である。もしラムズフェルドが、イラクと対決することの最大の危険が「知られていない『知られていないこと』」、すなわちサダム・フセインあるいはその後継者の脅威がどのようなものであるかをわれわれ自身が知らないということだ、と考えているのだとしたら、返すべき答えはこうだ――最大の危険は、それとは反対に「知られていない『知られていること』」だ。それは否認された思い込みとか仮定であり、われわれはそれが自分に付着していることに気づいていないが、それらがわれわれの行為や感情を決定しているのだ。》(スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』)

 谷崎も、『義経千本桜』の狂言作者も、われわれの行為や感情を決定している「知られていない「知られていること」の機微の下で書いていた。

 これから、『義経千本桜』と『伽羅(めいぼく)先代(せんだい)萩(はぎ)』における、ラカン精神分析の<象徴界>と<大文字の他者>の顕れを見てゆく。『義経千本桜』からは前半のクライマックス、「渡海屋(とかいや)の場・大物浦(だいもつのうら)の場」を、『伽羅先代萩』からは「竹の間の場・御殿の場」をとりあげるが、その理由は、<象徴界>と<大文字の他者>が跋扈しているからである。

 

<<象徴界>と<大文字の他者>>

 しかしその前に、ラカンによる<象徴界>と<大文字の他者>について共通理解を計りたい。

 ラカン自身の著作は誰もが認めるように(そして本人も「謎」による学びを企んでいるかのように)あまりに難解だ。解説書はあまたあるが、「あまり早く読んでも、あまりゆっくりでも、何もわからない」(パスカル『パンセ』69)と同じように、あまり簡単すぎても、あまり難しくても、何もわからない。おそらくはスラヴォイ・ジジェク大澤真幸の著作が最も任に適っているだろう。

 まずジジェクラカンはこう読め!』を先導とする。

ラカンの思想は、主流の精神分析思想家たちと、またフロイト自身と、どのように異なっているのだろうか。ラカン派以外の諸派と比較したときにまず眼を惹くのは、ラカン理論がきわめて哲学的だということだ。ラカンにとって、精神分析のいちばんの基本は、心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。精神分析は個人に、社会的現実の要求にいかに適応すべきかを教えてくれるものではなく、「現実」なるものがいかにして成立しているのかを説明するものである。精神分析は、人が自分自身についての抑圧された真理を受け入れられるようにするだけでなく、真理の次元がいかにして人間の現実内に出現するのかを説明する。》

 精神分析への誤った先入観をリセットしてから先へ進もう、耐えざる自問と貪欲な解釈者となって。

ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界想像界現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。(中略)<大文字の他者>は象徴的次元で機能する。ではこの象徴的秩序は何から構成されているのか。われわれが話すとき(いや聞くときでもいいのだが)、われわれはたんに他者と一対一でやりとりをしているだけではない。われわれは規則の複雑なネットワークや、それとは別のさまざまな前提を受け入れ、それに依拠しており、それがわれわれの発話行為を下から支えている。(中略)第一のタイプの規則(と意味)に、私は盲目的・習慣的に従うが、反省する際には、それを少なくとも部分的に意識することができる(一般的な文法規則など)。第二のタイプの規則と意味は私に取り憑いて、私は知らないうちにそれに従っている(無意識的な禁止など)。私はさらに第三の規則と意味を知っているが、知っていることを他人に知られてはならない。たとえば、然るべき態度を保つためには、汚い猥褻なあてこすりは黙って無視しなければならない。

 この象徴空間は、私が自分自身を計る物差しみたいなものである。だからこそ<大文字の他者>は、ある特定のものに人格化あるいは具象化される。彼方から私を、そしてすべての現実の人を見下ろしている「神」とか、私が身を捧げ、そのためなら私には死ぬ覚悟ができている「大義」(自由主義共産主義、民族)とか。私が誰かと話をしているとき、たんなる「小文字の他者」(個人)が他の「小文字の他者」と二人で話しているわけではない。そこにはつねに<大文字の他者>がいなければならない。(中略)

 そのしっかりとした力にもかかわらず、<大文字の他者>は脆弱で、実体がなく、本質的に仮想存在である。つまりそれが占めている地位は、主観的想像の地位である。あたかもそれが存在しているかのように主体が行動するとき、はじめて存在するのだ。その地位は、共産主義とか民族といったイデオロギー大義と似ている。<大文字の他者>は個人の実質であり、個人はその中に自分自身を見出す。<大文字の他者>は、個人の存在全体の基盤である。それは究極の意味の地平を供給する評価基準であり、個人はそのためだったら生命を投げ出す覚悟ができている。にもかかわらず、実際に存在しているのは個人とその活動だけであって、個人がそれを信じ、それに従って行動する限りにおいてのみ、この<大文字の他者>という実体は現実となるのだ。》

 

 大澤真幸の説明は多くをジジェクに拠っているが、より丁寧である。大澤が頻繁に用いる<第三者の審級>という概念は<大文字の他者>と等しいので、頭の中で読み替えればよい。

《たとえば、古典派経済学が念頭においている市場を考えてみる。アダム・スミスによれば、市場に参入している個人が、それぞれ勝手に自身の利益を最大化すべく利己的に行動することによって、社会一般にとっても最も大きな利益が得られる。各個人は、社会全体の利益のことを考える必要もないし、そもそも、どのような状態が社会にとって最も望ましいかをあらかじめ知ってはいない。彼は、ただ、自分の利益の極大化にだけに専念しているのだ。

 しかし、結果として、社会一般の利益もそれによって最大になる。このように、個人の勝手な行動――全体への配慮を欠いた利己的な行動――が、結果的に社会にとって都合のよい結果へと収束するため、アダム・スミスは、こうした状況を、社会(市場)に対して「見えざる手」が働いているかのようだ、と記述したのである。

 こうした市場のメカニズムを、歴史のメカニズムとして一般化してとらえたのが、ヘーゲルの歴史哲学である。ヘーゲルに、「ずるがしこい理性」という有名な概念がある。この概念の意義は、実例から見ると、わかりやすい。

 ヘーゲルが援用している、きわめて顕著なケースは、ブルータス等によるカエサルの暗殺である。カエサルは、大きな軍功をあげ、ライバルのポンペイウスを打ち負かし、ローマ市民にも圧倒的な人気があったため、ついに終身独裁官の地位に就いた。ブルータスたちは、カエサルにあまりにも大きな権力が集中し、ローマの共和政の伝統が否定されるのではないかと懸念し、カエサルの暗殺を決行した。クーデタは成功し、カエサルは殺害された。

 しかし、この出来事をきっかけとして、歴史が大きく動き出し、紆余曲折の末に結局、暗殺から17年後にあたる年に、政争を勝ち抜いたオクタヴィアヌスが事実上の皇帝に就任し、ローマは帝政へと移行する。

 これはまことに皮肉な帰結だと言える。ブルータスたちは、最初、カエサルが皇帝になってしまうのを防ぐために――つまりローマが帝政へと移行することがないようにと――カエサルを暗殺した。そして、その暗殺は、実際に成功した。しかし、まさにその成功こそが、共和政から帝政へのローマの移行を決定的なものにしたのだ。オクタヴィアヌスが初代の皇帝に就位するに至る出来事の連なりは、この暗殺によってこそ動き出すからである。

 ヘーゲルは、この過程を、次のように分析している。カエサルが個人的な権限を強化し、さながら皇帝のようにふるまっていたとき、実は、本人は気づいてはいないが――つまり即自的には――歴史的真理に合致した行動をとっていたのだ。共和政はすでに死んでいたのだが、カエサルや暗殺者たちを含む当事者たちは、まだそのことに気づいていなかったのである。

 したがって、暗殺者たちは、カエサル一人を排除すれば、共和政が返ってくると思ったのだが、しかし、実際には、カエサル殺害こそがきっかけとなって、共和政から帝政への転換が決定的なものになった――即自的なものから対自的なものへと転換した。それによって、「カエサル」は、個人としては死んだが、ローマ皇帝の称号として復活したのだ。

カエサルの殺害は、その直接の目的を逸脱し、歴史が狡猾にもカエサルに割り当てた役割を全うさせてしまった」(Paul Laurent Assoun, Marx et répétition historique, Paris, 1978, p.68)。この場合、まるで、歴史の真理を知っている理性が、ブルータスやカエサルを己の手駒として利用し、歴史の本来の目的(ローマ帝国)を実現してしまったかのようである。これこそが、ずるがしこい理性である。

 こうした考え方の原型は、プロテスタントカルヴァン派の「予定説」であろう。キリスト教の終末論によれは、人間は皆、歴史の最後に神の審判を受ける。祝福された者は、神の国で永遠の生を与えられ、呪われた者には、逆に、永遠の責め苦が待っている。これが最後の審判である。神による最終的な合否判定だ。

 予定説は、このキリスト教に共通の世界観に、さらに次の2点を加えた。第一に、神は全知なのだから、誰が救われ(合格し)、誰が呪われるか(不合格になるか)は、最初から決まっている。しかし、第二に、人間は、神がどのように予定しているかを、最後のそのときまで知ることができない。このとき、人はどうふるまうか。それぞれの個人は、神の判断を知ることもできないのだから、ただ己の確信にしたがって、精一杯生きるしかない。彼らは、歴史の最後の日にしかるべき判決を受けるだろう。

 これら三つの例に登場している第三者の審級(見えざる手、ずるがしこい理性、予定説の神)には、共通の特徴がある。第一に、どの例でも、第三者の審級が何を欲しているのか、何をよしとしているのか、渦中にある人々にはまったくわからない。つまり、人々には、その第三者の審級が何者なのか、何を欲望する者なのかが、さっぱりわからないのである。

 これは、第三者の審級が、その本質(何であるかということ)に関して、まったく空白で、不確実な状態である。しかし、第二に、にもかかわらず、第三者の審級が存在しているということに関しては、確実であると信じられている。第三者の審級の現実存在に関しては、百パーセントの確実性があるのだ。

 本質に関しては空虚だが、現実存在に関しては充実している第三者の審級、これがあるとき、リスク社会は到来しない。三つのケースのどれをとっても、内部の個人には、ときにリスクがある。たとえば、市場の競争で敗北する者もいる。カエサルもブルータスも志半ばで死んでしまった。カルヴァン派の世界の中では、神の国には入れない者もたくさんいる。だから、個人にはリスクがある。

 しかし、全体としては、第三者の審級のおかげで、あるべき秩序が実現することになっている。全体が崩壊するような、真のリスクはありえない。見えざる手は、最も望ましい資源の配分を実現するだろう。ずるがしこい理性は、歴史の真理に従った目的を実現するだろう。神は、しかるべき人を救済し、そうでない人を呪うだろう。》(大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』に関する朝日出版社ブログ「大澤真幸 時評」)

《民主主義は、討議によるそれであれ、投票によるそれであれ、第三者の審級の知として真理の存在を前提にしている。「われわれ」は、その真理が何であるかを知らない。だが、それを知っている人がいる。

 誰か? 第三者の審級である。第三者の審級の(「われわれ」にとっては不可知の)知を前提にすれば、討議や投票を機能させることができる。その知が、討議や投票が、そこへと収束し、または漸近するための虚の焦点となるからである。

 だから、民主主義は、単一の第三者の審級の存在を前提にしているに等しい。民主主義が、多元主義を表面上は標榜しながら、結局は、排除を伴わざるをえない理由は、ここにある。単一の第三者の審級を前提にした途端に、真理(という名前の虚偽)による支配を容認したことになるからだ。》(大澤真幸『逆説の民主主義』)

 

 うっすらとでも理解できただろうか。

大文字の他者>は、<大他者>、<他者>あるいは「A(Autre)」とも表記されることがあって、いっそうの混乱をまねいている。「超越的な他者」、「超絶的な他者」、「絶対的な第三者としての他者」、「掟」、「社会の不文律」、「第三者の審級」とも表現される。顕れとしては他に、「言語」、「天皇制」、「(ロラン・バルト『記号の国』の空虚な中心)皇居」、「(近親相姦タブーの)外婚制」、「中国の皇帝は天の意志の反映(=天子)」、「(折口信夫の)まれびと」、「御霊信仰」、「(エコロジストの)信仰対象としての自然」、「(やめられない)原子力発電」、「(日本が心理的負債を負っている)日米同盟」、「(人間天皇に代った)進駐軍」、「(山本七平が指摘した)空気」、「世間」などもあげられるかもしれない。

 それは、《ここで、あの『裸の王様』の寓話のことを考えてみよう。王が裸であるということを知らないのは誰なのか? 任意の個人が、本当は王が裸であることを知っている。王自身すらも知っているのである。それにもかかわらず、彼らは、皆、王が裸であることを知らないかのように振る舞うのだ。どうしてか? どの個人も、「他の者は、王様が服を着ていることを知っている(皆は、王様が裸であることを知らない)」という認知を持っているからだ。知らないのは、だから「皆」である。それは誰なのか? それは、王国を構成する個人たちの総和では断じてない(何しろ、どの任意の個人も「知っている」のだから)。私が「第三者の審級」と呼んできた、超越的な他者こそは、任意の個人から独立して機能するこの「皆」である。》(大澤真幸『逆説の民主主義』)のような「うまく説明できないもの」、「鈍い意味」、「あるはずのないものがある」、「ないはずのものがある」世界である。同じような譬としてマルクスは『資本論』で、《ある人間が王であるのは、他の人間たちが彼にたいして臣下として相対するからに他ならない。ところが一方、彼らは、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思いこんでいる》や、《彼らはそれを知らない。しかし、彼らはそれをやっている》と書いている。

 

 ジジェクに戻る。

ラカンいわく、症候なる概念を考え出したのは誰あろうカール・マルクスであった。このラカンのテーゼは、ただの気のきいた言い回しだろうか、あるいは漠然とした比喩だろうか、それともちゃんとした理論的根拠があるのだろうか。もし、精神分析の分野でも用いられるような症候の概念を提唱したのが本当にマルクスだとしたら、われわれとしては、このような組み合わせが可能であるための認識論的な諸条件は何かという、カント的な問いを発しなければならない。商品の世界を分析したマルクスが、夢とかヒステリー現象とかの分析にも使えるような概念を生み出すなんて、どうしてそんなことがありえたのだろうか。

 答えはこうだ――マルクスフロイトの解釈法は、より正確にいえば商品の分析と夢の分析とは、根本的に同じものなのだ。どちらの場合も、肝心なのは、形態の背後に隠されているとされる「内容」の、まったくもって物神的(フェティシスティック)な魅惑の虜になってはならないということだ。分析によって明らかにすべき「秘密」とは、形態(商品の形態、夢の形態)の後ろに隠されている内容などではなく、形態そのものの「秘密」である。夢の形態を理論的に考察することは、顕在内容からその「隠された核」すなわち潜在的な夢思考を掘り起こすことではなく、どうして潜在的な夢思考がそのような形態をとったのか、どうして夢という形態に翻訳されたのか、という問いに答えることである。商品の場合も同じだ。重要なことは商品の「隠された核」――つまり、それを生産するのに使われた労働力によって商品の価値が決定されるということ――を掘り起こすことではなくて、どうして労働が商品価値という形態をとったのか、どうして労働はそれが生産した物の商品形態を通じてしかおのれの社会的性格を確証できないのか、を説明することである。》

 歌舞伎においても、『義経千本桜』「渡海屋の場・大物浦の場」で、どうして平知盛は二度死なねばならないのか、どうして安徳天皇は不死なのか、どうして安徳天皇は娘お安になりすましていたのか、どうして桜の季節でもないのに千本桜なのか、どうして義経は武の主役のようではないのか、どうして後白河法皇は気配すら見せないのか、『伽羅先代萩』「竹の間の場・御殿の場」で、どうして栄御前は政岡が取り替え子をしたと誤認したのか、どうして「竹の間の場」で八汐に失敗させてみせるのか、に「症候」と「秘密」を読み取らねばなるまい。

 

《もう何十年も前からラカン派の間では、<大文字の他者>の知がもつ重要な役割を例証する古典的ジョークが流布している。自分を穀物のタネだと思いこんでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒し(自分がタネではなく人間だという確信をもてるようになり)、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。「ねえ、きみ。自分がタネじゃなくて人間だということをよく知っているだろう?」患者が答える。「もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?」》(ジジェクラカンはこう読め!』)に、にやっと笑えるようになっていれば、この先の『義経千本桜』と『伽羅先代萩』を、ラカンの眼差しを持って観劇できる。

 

<『義経千本桜』「渡海屋の場・大物浦の場」>

義経千本桜』の作者は竹本グループの(二代目)竹田出雲・三好松洛・並木千柳による合作で、人形浄瑠璃として1747(延享4)年11月 大坂・竹本座上演、歌舞伎としては翌1748(延享5)年1月 伊勢の芝居、同年5月 江戸・中村座の上演だった。

義経千本桜』「渡海屋の場・大物浦の場」のあらすじはこうだ。

 頼朝の疑惑を受け、とうとう都落ちすることになった義経主従は、九州に逃れるべく、摂津国大物浦(現在の尼ケ崎市)の廻船(かいせん)問屋(どんや)の渡海屋(とかいや)で日和待ちをしている。渡海屋の主人は銀平(ぎんぺい)、女房お柳(りゅう)、娘お安(やす)。銀平は身をやつした義経一行を嵐が来るのに船出させた後、白装束に長刀(なぎなた)を持った中納言平知盛の姿で現れる。実は、銀平こそ西海に沈んだはずの知盛であり、やはり合戦中に入水(じゅすい)したとされていた安徳天皇とその乳人(めのと)典侍局(すけのつぼね)を、自分の娘お安、女房お柳ということにして、ひそかに平家復興を目論んでいたのだ。源氏に対する復讐の機会到来と知盛は、嵐を狙って得意の船戦(いくさ)で義経を討とうと、勇んで出かけて行く。(「渡海屋の場」)

 典侍局と安徳帝は装束を改め、宿の襖を開け放って海上の船戦(いくさ)を見守る。しかし義経はとうに銀平の正体を見破っていて返り討ちにしてしまう。典侍局は覚悟を決め、安徳帝に波の底の都へ行こうと涙ながらに訴えるが、義経らに捕えられてしまう。死闘の末、悪霊のごとき形相となった知盛が戻ってくると、安徳帝を供奉(ぐぶ)した義経が現れて、帝を守護すると約束する。帝の「義経が情、あだに思うなコレ知盛」との言葉を聞いて、典侍局は自害し、知盛は平家再興の望みが潰えたことを悟る。知盛は「大物の浦にて判官に、仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝えよや」と言い残すと、碇(いかり)もろとも海に身を投げ、壮絶な最後を遂げる。義経安徳帝を供奉して大物浦を去る。(「大物浦の場」)

 能『船弁慶』で悪霊となって義経一行を襲う知盛の扮装をふまえ、最後に碇もろとも海に身を投げるのは、能『碇潜(いかりかずき)』で知盛が亡霊として入水するさまから取っている。

 

「渡海屋の場・大物浦の場」には平知盛安徳天皇源義経が登場するが、三人の一人一人から<象徴界>、<大文字の他者>が見てとれる。同じくらい重要なことは、不在に意味があることで、それらは後白河法皇、桜、義経の智と武である。

 まず安徳天皇後白河法皇から、天皇制について考える。

大澤は『THINKING「O」第9号』の特集「天皇の謎を解きます なぜ万世一系なのか?」で、大澤社会学の概念<第三者の審級>(=<大文字の他者>)の視点から天皇制を論じている。

天皇は、日本の歴史の最大の謎である。天皇は、いまだに謎のままに現前している》のであり、《天皇の謎は、その最も顕著な特徴として挙げられている「万世一系」に集約されている》。しかし、皆が知るように、天皇家がずっと他を寄せ付けない強大な権力を持っていたわけではない。むしろ日本史の教科書では、脇役である時代の方がはるかに長い。だからかえって、その継続性が「謎」なのである。

《「空虚な中心x―実効的な側近p」の形式が、日本史の中で、執拗に反復され》、そして《中心の支配者としての地位は、多くの場合、世襲され》たことが、継続性の理由であり、「空虚な中心x―実効的な側近p」という形式が非常に有効だったことが、謎を解く鍵である。

天皇とは、従属者たちが、臣下たちが自身の意志をそこへと自由に遠心化し、そこに投射することができるような空白の身体ではないか、と。臣下たちは、自分たちの意志を、直接にではなく、「天皇は何を欲しているのか」という問いへの答えとして探求するのだ。客観的に見れば、臣下たちが見出しているのは、臣下たちの主観的で集合的な意志である。しかし、彼らは、それを、「天皇の意志」として発見する。しかし、ほんとうは「天皇の意志」は、臣下たち、従属者たちの間身体的な関係性を通じて、構成されているのである。これこそ、公儀輿論の状況である。》

 重要なのは、従属者たちは、自分たちの意志を直接に見出すことはできない、ということである。《それは、他者の意志、天皇の意志という形式でのみ見出される。というのも、「天皇の意志」という形式から独立した、固有の「自分たちの意志」など存在しないからである。天皇の身体に投射し、帰属させることを通じて、従属者たちは初めて、自分たちの集合的で統一的な意志を形成することができるのである。》

 大澤は<第三者の審級>の典型的モデルを、天皇制に見いだす。この構造を、天皇の側から見ると、天皇にとっても、すべてが「自分の意志」と表明されるにも関わらず、それはみな、従属者の意志なのだ。日本の歴史において、「空虚な中心x―実効的な側近p」という形式は、常にその終点は天皇の身体に置かれながらも、それぞれの時代の権力構造が共有している。平安時代は「天皇(x)―摂政・関白(p)」、鎌倉時代は「将軍(x)―執権(p)」、室町時代は「将軍(x)―三管領四職(p)」、江戸時代は「将軍(x)―老中・大老(p)」といったように。

 赤坂憲雄『王と天皇』は、日本のアポリアである天皇制に関して鳥瞰した論考だが、天皇制の象徴性論のヴァリエーションの一つとして山口昌男天皇制の象徴空間」(『知の遠近法』所収)に言及している。

《 天皇(・・)の(・)役割(・・)が(・)民族(・・)の(・)宗教的(・・・)集中(・・)を(・)行なう(・・・)者(・)と(・)すれば(・・・)、天皇(・・)は(・)当然(・・)現実(・・)の(・)社会的(・・・)政治的(・・・)な(・)面(・)から(・・)の(・)自己(・・)疎外(・・)を(・)行う(・・)。つまり、あらゆる政治的世界の権力を一点に集中して「中心」をつくり、なおかつ、その中心から彼自身の肉体を抜き取ってしまう。しかし、彼自身は歌舞伎の座頭のごとく、司祭として同じ一点に坐っているのである。そして政治世界とは異なる次元の「中心」を形成しているのである。ここに、天皇制の鵺的性格の一つの側面が秘められているのである。(山口昌男天皇制の象徴空間」(『知の遠近法』所収、傍点筆者)

 この部分は渡辺保女形の運命』に寄り添いつつ書かれており、はたして山口の地の文といえるのか判断がつきにくい。これに続けて、山口(=渡辺)は天皇制のそうした“両棲類的側面”を、菅原道真藤原時平そして醍醐天皇の三項関係を例にとって説明する。すなわち、“通史が説くように道真配流事件の責任はすべて藤原時平に転嫁されて、天皇そのものには傷がつかない。天皇は時平の書いた政治的筋書に署名した立場から見抜きをして政治的世界からは不可視の空間に這入ってしまい、同じ一点にとどまりながら、民俗的想像力の世界に転移して「荒ぶる道真の霊をなぐさめ、その災害から民衆を救うために」取引する司祭の立場に立つのである”と。》

 赤坂は、醍醐天皇についての伝承には誤りがあると批判しつつも、《“空無化された深淵”(渡辺)である「中心」に、歌舞伎の座頭のごとく鎮座する天皇のイメージ》はたいへん魅力的であって、全く否定しているというわけではないとしている。正面きった天皇論に劇評家の渡辺保の文章が引用されていることに少し驚くが、渡辺の『女形の運命』の該当部分は、天皇制を論じることが主目的ではなく、歌舞伎における「三角形」の「中心」としての「座頭」市川團十郎家を論じ、次いで後を襲った女形の六世中村歌右衛門へと話を進めるための歌舞伎の構造論、回り道であった。ここには、<第三者の審級>や<大文字の他者>という概念は出てこないが、「昏い世界のふるさと」、「歌舞伎の構造」という表現が近いものを言い表している。いずれにしろ、天皇の外観と役回り、関係性は、大澤が論じていることに似ている。

 渡辺保ならば、『千本桜 花のない神話』の、まさしく「渡海屋の場・大物浦の場」の安徳天皇から天皇制に言及した部分が同じことを「超越的」、「ブラック・ホール」、「日本人の深層」として語っているので、こちらから引用しよう。

《「千本桜」は『平家物語』の再現であると同時に、人間にとって戦争とはなにかを問うすぐれた戦争劇なのである。

 しかし「千本桜」がすぐれているのはさらにその先にあって、その戦争の原因がなんであり、どういう本質をもっていたかを語る。すなわち入水しようとした天皇と局を義経が助けるところ以後に本当のドラマのクライマックスがくる。(中略)天皇はだれも捕虜にすることができない。それにもかかわらず天皇の源氏討伐、平家討伐の命令によって、ある者は官軍になり、ある者は賊軍となって、戦争の勝敗に決定的な影響が出る。現にさきほどまで安徳天皇を供奉していた知盛は官軍であり、いま義経天皇を供奉してしまった以上、知盛は賊軍にならざるをえない。(中略)しかしその権力闘争に決定的な役割を果たしたのは、実は天皇制の超越性と、どちらの側にもつく両義性であった。

 その事実が明らかになるのは、あくまで義経を討とうとする知盛の目前にあらわれた安徳天皇の言葉と、それにつづく典侍の局の自殺による。まず天皇はどういうことをいったのか。

 御幼稚(ようち)なれ共天皇は、始終のわかちを聞こし召し、知盛に向はせ給ひ、朕を供奉(ぐぶ)し、永々の介抱はそちが情(なさけ)、けふ又丸を助けしは、義経が情なれば、仇(あだ)に思ふな知盛……

 天皇の「始終のわかちを聞し召し」とは悲惨な潜行をつづけてきた天皇の流浪の悲しみをいった言葉ととれるかも知れないが、実はそうではない。普通の子供だったらばとても考え及ばなかったかも知れないが、「御幼稚なれ共」さすがに「天皇」で、前後の状況を正確に判断したというのである。その判断の結果、天皇はこれまでの「介抱」の苦労は知盛の「情」として認めるが、今日ただ今の時点では自分を供奉するのは義経であるといったのだ。(中略)それこそ天皇制という社会政治制度のメカニズムをもっともよくあらわした言葉であって、状態が悪くなってくると自分を推戴している権力を自由に切り捨て、のりかえて行くのである。そして人間に「情」をささげさせて、その「情」をまた与え返すという形をとりながら、この功利的な装置が作動していくのだ。

 天皇は決してそれ自体が権力として機能するものではない。あくまで権力から超越的であって、なんらかの権力に支えられている。それでいてその権力を選択する力を保有している。したがって現実には権力それ自体よりももっと強力に作動する権力のブラック・ホールなのである。こういう天皇制のもつ政治的な構造について、このドラマほど的確にその実態を描いているドラマは他に類がない。

「千本桜」は単に「戦争」を描いただけではなく「天皇制」そのものの性格を描いている。その意味で、このドラマは日本人の深層に深く根ざしたものをもっているのだ。》

 安徳天皇の「朕を供奉(ぐぶ)し、永々の介抱はそちが情(なさけ)、けふ又丸を助けしは、義経が情なれば、仇(あだ)に思ふな知盛」という無邪気そうな言葉は、あたかもラカンによる次の笑話の、パン屋で金を払わない男のようなキョトンとさせる虚にして異を唱えさせない力がある。《彼は手を出してケーキを要求し、そのケーキを返して、リキュールを一杯要求し、飲み干します。リキュール代を請求されると、この男はこう言います、「代わりにケーキをやっただろう」。「でもあのケーキの代金はまだいただいていません」。「でもそれは食べていない」。》(ラカン『自我(下)』)

 山口が寄り添った『女形の運命』からも引用しておく。天皇制の鵺のような、両棲類的な実体のなさばかりでなく、「御霊」もまた<大文字の他者>として機能することがあるからである。渡辺自身の私的な追想と実感から来るだけに、よりなまなましく「昏い世界のふるさと」、「関係の心情の構造」という<大文字の他者>の不気味さが、日本人が弱い「情」の贈与交換の儀式を伴って、高温多湿の心情にアメーバのようにぬめぬめともたれてくる。

《私にとって天皇は一つの危険な罠のようにみえる。現実の市民生活の中で多少とも戦前の怖ろしい記憶をもつ人間にとっては、天皇が今日存在すること自体がたえられぬ痛みである。しかし一方で古代以来天皇がもっていた神話的な闇は、歌舞伎役者の背負っていた闇にも通っているのではないか。私は天皇を少しも愛さず、歌舞伎役者を愛している。しかし歌舞伎役者とは実はあの怖ろしい記憶の根源にあるものの似姿ではないのか。

 二代目団十郎がその「特殊な象徴的意味」を獲得するために利用した御霊信仰とは、本来現世に怨みを抱いて不慮に死んだ人間の霊をなぐさめるものだそうである。もしそうだとすれば、この信仰の対象の霊の中には、当然現世に対する批判が含まれるだろう。たとえば菅原道真の霊は、雷(いかずち)となって京都を襲った。道真の霊は御霊の典型的なものである。

 雷は道真を九州に左遷した当の政敵に及んだだけでなく、上下の民心、ことに天皇自身を畏怖せしめたという。伝説によれば藤原時平が一人わるい奴のようであるが、実はこういう伝説はつねに天皇制の永遠なる維持のためと、のちにのべるように天皇を宗教的次元にとどめるために、政治的実務家の側近に罪をなすりつけて終わる。むろん道真の怨念のおもむく先は、側近ばかりでなく、現体制の権威の根源である天皇自身にまで及ぶべきものである。天皇自身そういうことを知っているから、慌(あわ)てて道真の官位を復し、天神社を造営し、祭祀(さいし)をとり行って、災をさけようとしたのである。(中略)

 しかもここで大事なことは天皇が道真の霊に表面的には敵対しているようであるが、そう見えるのは政治的な次元のことであって、宗教的な次元では荒ぶる霊とそれをまつる祭主というような形になって、必ずしも対立してはいないことである。むしろ道真の霊はいつのまにか天皇と手を握ってしまう。そういう関係の心情の構造を考えると、私には天皇とたとえば道真の霊が必ずしも対立した二つのものではなく、一つのものの二つの側面だという気がする。》(渡辺保女形の運命』)

 醍醐天皇藤原時平の関係性と瓜二つなのが、『義経千本桜』における後白河法皇左大臣藤原朝方(ともかた)の関係性だ。後白河法皇の御所へ、平家を討って帰京した義経が、弁慶とともに参上するところから始まる「序段」の発端において、後白河法皇は気配さえ見せず、かわって朝方(ともかた)が院宣(いんぜん)だとして「初音(はつね)の鼓(つづみ)」を陰謀のごとく与える。

大文字の他者>の具象化である「御霊信仰」に関して補足すれば、『義経千本桜』(1747年)の前年(1746年)に同じ竹田出雲グループによる『菅原伝授手習鑑』は道真の物語であり、『義経千本桜』の翌年(1748年)の『仮名手本忠臣蔵』が『曾我物語』の流れを汲んだ怨霊に関わる物語なのは、丸谷才一忠臣蔵とは何か』に詳しい。間に挟まった『義経千本作』にもまた、平家一門、義経安徳天皇御霊信仰として機能していることを感ぜずにはいられない。

 そしてまた、作者が竹田出雲・三好松洛・並木千柳の三人による合作であることが、それぞれに他者の眼をより意識させて、<大文字の他者>を強く発動させたのではないか。

 

 知盛の反復する死と、安徳天皇の不死には、作者が「観客の意識の底に潜在している微妙な心理に媚(こ)び」た、<象徴界>と<大文字の他者>が表現されている。知盛は反復しなければならず、安徳天皇は反復してはならなかった、そればかりか天皇の最初の死もあってはならなかったのだ。

 ジジェクは『イデオロギーの崇高な対象』で次のように解説している。

ヘーゲルは、ユリウス・カエサルの死について論じながら、その反復理論を発展させた。(中略)反復の問題のいっさいがここに、すなわちカエサル(ある個人の名)から皇帝(カエサル)(ローマ皇帝の称号)への移行にある。カエサル――歴史的人格――の殺害は、その最終的結果として、皇帝支配(カエサリスム)の開始の引き金となった。カエサルという人格が(・・・・・・・・・・)皇帝(カエサル)という称号として反復される(・・・・・・・・・・・・・)。この反復の理由、動力は何か。一見すると答えは簡単そうにみえる。「客観的」歴史的必然性に関する、われわれ人間の意識の立ち遅れである、と。その隙間から歴史的必然性がちらりと見えるようなある行為は、意識(「民衆の意見」)からは、恣意的なものとして、すなわち起こらずともよかったものとして捉えられる。こうした捉え方のせいで、民衆はその結果を捨て去り、かつての状態を復元しようとするが、この行為が反復されると、その行為は結局、底にある歴史的必然性のあらわれとして捉えられる。言い換えれば、反復によって、歴史的必然性は「世論」の目の前にあらわれるのである。

 しかし、反復についてのこうした考え方は、認識論的に素朴な前提にもとづいている。すなわち、客観的な歴史的必然性は、意識(「民衆の意見」)とは関わりなくしぶとく生き残り、最終的に反復を通して姿をあらわす、という前提である。こうした発想に欠けているのは、いわゆる歴史的必然性そのものが誤認(・・)を(・)通して(・・・)つくりあげられる(・・・・・・・・)、つまりその真の性格を最初に「世論」が認識できなかったということによってつくりあげるのだということ、要するに真理そのものが誤認から生まれるということである。ここでも核心的な点は、ある出来事の象徴的な地位が変化するということである。その出来事が最初に起きたときには、それは偶発的な外傷として、すなわちある象徴化されていない<現実界(リアル)>の侵入として体験される。反復を通じてはじめて、その出来事の象徴的必然性が認識される。つまり、その出来事が象徴のネットワークの中に自分の場所を見出す。象徴界の中で現実化されるのである。だが、フロイトが分析したモーセの場合と同じく、この反復による認識は必然的に犯罪、すなわち殺人という行為を前提とする。カエサルは、おのれの象徴的必然性の中で――権力―称号として――自身を実現するために、血と肉をもった経験的な人格としては死ななければならない。なぜなら、ここで問題になっている「必然性」は象徴的必然性だからである。(中略)

 言い換えれば、反復は「法」の到来を告げる。死んだ、殺された父親の代わりに「父―の―名」があらわれる。反復される出来事は、反復を通じて遡及的に、おのれの法を受け取るのである。だからこそ、われわれはヘーゲルのいう反復を、法のない系列から法的な系列への移行として、法のない系列の取り込みとして、何よりも解釈の身振りとして、象徴化されていない外傷的な出来事の象徴的専有として、捉えることができるのだ(ラカンによれば、解釈はつねに「父―の―名」の徴のもとにおこなわれる)。》

 だからこそ、歴史的事実から遅れて来た『義経千本桜』において、「父―の―名」の徴のもと、知盛は父清盛の「悪」の象徴として反復して二度死ななければならなかったし、対して安徳天皇は日本の<大文字の他者>として不死であらねばならなかった。

 知盛は、《ナポレオンが最初に敗北してエルバ島に流されたとき、彼は自分がすでに死んでいることをつまり自分の歴史的役割が終わったことを知らなかった。それで彼は、ワーテルローでの再度の敗北によってそれを思い出さなければならなかった。この時点では彼は二度目の死を迎えた。つまり現実に死んだのである。(中略)ラカンは、この二つの死の差異を、現実的(生物学的)な死と、その象徴化・「勘定の清算」・象徴的運命の成就(たとえばカトリックの臨終告解)との差異と捉える。》(ジジェクイデオロギーの崇高な対象』)のナポレオンと同じように、現実的な死と、その象徴的運命の成就としての死という二つの死を『義経千本桜』で果たしたことになる。

義経千本桜』(人形浄瑠璃は1747(延享4)年11月 大坂・竹本座。歌舞伎は1748(延享5)年1月 伊勢の芝居、同年5月 江戸中村座)の「渡海屋の場・大物浦の場」に反戦のメッセージを読みとることに対して、応仁の乱から150年以上続く戦国時代の終結(「元和偃武(げんなえんぶ)」)を最後の内戦(「大阪夏の陣」(1615(慶長20)年))によって成し遂げ、それから100年以上が経過した徳川の平和の中に生活する観客の、同時代の意識の解釈として、「反戦」という現代的な概念はおかしいのではないかとも考えられよう。しかし、ベンヤミンが、歴史記述は未来から見て遡及的に記述されているのだという視点や、「メシヤ的な歴史」と表現した期待をこめた時間の見方もある。

《歴史をテクストと見なしさえすれば、現代の一部の作家たちが文学的テクストについて述べていることを、歴史についても言うことができる。過去は歴史のテクストの中に、写真版上に保たれているイメージに譬えられるようなイメージを置いてきた。写真の細部がはっきりあらわれてくるような強い現像液を処理できるのは未来だけである。マリヴォー、あるいはルソーの作品にはところどころに、同時代の読者には完全に解読できなかった意味がある。》(ベンヤミン

 マリヴォーやルソーの作品が期待している未来がなんであるのか、同時代には確定していないからだ。過去の出来事は未来の出来事への期待を孕んでいる。竹田出雲・三好松洛・並木千柳という竹本グループが、同時代の観客には完全には理解できなかった意味を含んで語っていたとしても不思議ではない。

 

義経千本桜』というタイトルと「不在」にも意味がある。本来、歴史的にも作品本文も桜の季節ではないのに「千本桜」。見せ場が少なくて主役には見えず、武がなく智も少なく仁だけで、あまり魅力のない「義経」。

ワルシャワレーニン」という小話(ジョーク)がある。

《モスクワのある絵画展に一枚の絵が出品されている。その絵に描かれているのは、レーニンの妻のナジェージダ・クルプスカヤがコムソモール〔全連邦レーニン共産主義青年同盟〕の若い男と寝ているところだ。絵のタイトルは「ワルシャワレーニン」。困惑した観客がガイドに尋ねる。「でも、レーニンはどこに?」。ガイドは落ち着き払って答える。「レーニンワルシャワにいます」。(中略)この観客の誤りは、あたかもタイトルが一種の「客観的距離」から絵について語っているかのように、絵とタイトルの間に、記号とそれが指し示す対象との間と同じ距離をおき、タイトルが指し示す実体を絵の中に探したことである。だから観客はこうたずねる、「ここに書かれているタイトルが示している対象はどこにあるんですか」。だがもちろんこの小話の急所は、この絵の場合、絵とタイトルの関係が、タイトルが描かれているものを単純に指し示す(「風景」「自画像」)ような普通の関係ではないということである。ここでは、タイトルはいわば同じ表面上にある。絵そのものと同じ連続体の一部である。タイトルの絵からの距離は厳密に内的距離であり、絵に切り込んでいる。したがって何かが絵から(外へ)抜け落ちなくてはならない。タイトルが落ちるのではなく、対象が落ちて、タイトルに置き換えられるのである。》(ジジェクイデオロギーの崇高な対象』)

「千本桜」という名前が「吉野の花の爛漫」という地理的な古代信仰を喚起し、武家文化と公家文化の両方を兼ね備えた貴種流離の英雄「義経」の武を期待させておいて、その観念と理念のうえでの「不在」は「謎」を生み「不安」を呼び覚まして、観客を幕切れまで引っ張るとは、「徳川時代狂言作者は、案外ずるく頭が働いて」いたか、「知られていない「知られていること」」の下で奇跡的な3年間が訪れた。

 さらに、ここでは多くを割かないが(詳細は渡辺保『千本桜 花のない神話』「第三章 安徳天皇は女帝か」)、安徳天皇が実は女であったという伝承を利用しての知盛の今際(いまわ)の告白、「これというも、父清盛、外戚の望みあるによって、姫宮を男(おのこ)宮と言い触らし、権威をもって御位につけ、天道をあざむき」にも、現代に通じる女帝問題の象徴として<大文字の他者>が通奏底音を奏でていることを忘れてはならない。

 

<『伽羅先代萩』「竹の間の場・御殿の場」>

 作者の奈河亀輔(ながわかめすけ)は、あまり実像が知られていない。歌舞伎上演は1777(安永6)年4月大坂・中の芝居。義太夫狂言人形浄瑠璃で初演されてから歌舞伎に移植された作品がほとんどだが、これは歌舞伎で先に上演された。江戸時代に仙台藩で起こったお家騒動「伊達騒動」を脚色した話で、登場人物にはほぼ実在のモデルがいる。現行上演では1778年江戸・中村座初演の『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』などの別作品や、人形浄瑠璃に移し替えられたものをさらに歌舞伎に逆輸入、転移することで成立していて、主要な登場人物の名前においてすら歌舞伎と人形浄瑠璃、時代時代で異同がある。そのような混合、淘汰ないし洗練の過程で、<象徴界>と<大文字の他者>が、台本や役者の型に暗に働きかけたであろうことは容易に想像できる。

「竹の間の場・御殿の場」は(幼い子供二人を別にして)女ばかりの登場人物であり、後に続く「対決の場・忍傷(にんじょう)の場」は一転、男ばかりの登場人物であって、三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』のような、女たちの嫉妬・陰謀と男たちの血で血を洗う政治劇といった対になっている。

伽羅先代萩』の「竹の間の場・御殿の場」のあらすじはこうだ。

 足利頼兼(よりかね)は放蕩の末に隠居を命じられてしまい、幼い鶴千代が家督を相続した。鶴千代の命を狙ってお家乗っ取りを企む者がいるため、乳人(めのと)政岡(まさおか)は鶴千代が男を嫌う病気にかかったと偽って男を遠ざけ、食事も毒を警戒して自ら用意し、息子千松とともに出された膳には決して手を付けさせない。竹の間へ鶴千代の病気見舞いに訪れた仁木弾正(にっきだんじょう)の妹八汐(やしお)が、抱えの医師大場道益の妻小槙に鶴千代の脈をとらせると危険をしめした。八汐はあらかじめ天井に忍ばせていた嘉藤太を発見し詮議すると、政岡の依頼で鶴千代の命を狙ったと白状する。さらに偽の願書を提出して自分が乳人になろうと企てるが、鶴千代が八汐を嫌って政岡をかばうことで失敗する。(「竹の間の場」)

 政岡は空腹に耐える鶴千代と千松のために茶釜で飯を炊く(「飯炊(ままた)き」)。そこへ足利本家の管領(かんれい)山名宗全(やまなそうぜん)の妻栄(さかえ)御前(ごぜん)が見舞いの菓子を持ってやって来る。政岡は鶴千代に手を付けさせるわけにはゆかず、さりとて管領からの下され物を断ることもできない。すると「常々母が云うたこと、必ず共に忘れまいぞや」と毒見をするよう言い含められていた千松が突如駆け寄って菓子をほおばり苦しみだす。八汐は陰謀が発覚するのを恐れて懐剣で千松をなぶり殺す。千松が息絶えた後、栄御前は秘かに政岡を呼び寄せ、乗っ取り一味の連判状を預けて帰って行く。栄御前は千松が目の前で殺されても顔色一つ変えなかった政岡の様子から、二人を取り替え子にして鶴千代を殺させたと誤認したのだった。 一人になった政岡は、主人のため進んで身替りにという教えを守った千松を褒め、母としての悲しみにくどき、泣き崩れる。様子を見ていた八汐が斬りかかってくるが政岡は返り討ちする。(「御殿の場」)

 

 クライマックスを見てゆこう(昭和63年12月国立劇場開場40周年公演記録集からで、政岡を六代目中村歌右衛門が一世一代で演じた)。

 栄御前が見舞いの菓子を持ってやって来て、八汐が菓子箱を差し出す。

《八汐  テモマァ見事、結構なこのお菓子、イザ召しませ。

        ト 八汐二重の上に置く

      〽いざ召しませと差し出(いだ)す、流石(さすが)童(わらべ)の嬉しげに、手を出し給えば

        ト これにて鶴千代手を出しそうにするを政岡留める。

栄   コリャ政岡、そちゃなぜ留(と)めた。

政岡  サァそれは。

栄   管領家より下されしこのお菓子、怪しいと思うて留(と)めたか。

政岡  まったくもって左様では。

(中略)

栄   政岡なんと。

      〽と権柄(けんぺい)押(お)し、奥より走って千松が

        ト バタ/\にて奥より千松走り出て来り、

千松  この菓子ひとつ下されや。

      〽なんの頑是(がんぜ)もただひと口、けちらかしたる折は散乱

      〽八汐はすかさず千松が首筋片手に引き寄せて懐剣ぐっと突っ込めば

      〽わっと一声七転八倒、驚く沖の井政岡が仰天しながら一大事と若君抱き守り居る

        ト 千松、菓子を喰う事あって苦しむ。八汐驚き、千松を引き付け、胸元へぐっと突っ込む事。政岡は鶴千代を囲い腰元皆々守護する。沖の井キッとなって、

沖の井 ヤァ事の実否(じっぷ)も糺(ただ)さぬ内、なにゆえあって千松を、

松島  手にかけられし八汐、

沖の井 ご返答が、

二人  承りたい。

      〽と詰めよれば

八汐  何をざわ/\、騒ぐことはないわいの。忝(かたじけな)くも管領家より下されしこの折、踏みわりしは上への無礼。小さいがきでも、このままには捨ておかれぬ。手にかけたはお家を思う八汐が忠節、可愛そうに、痛いかいのう、痛いかいやい。他人のわしさえ涙(なんだ)がこぼれる。コレ政岡、現在のそなたの子、悲しうはないかいのう。

政岡  なんのマァ、お上へ対し慮外せし千松、御成敗(ごせいばい)はお家のお為。

八汐  ムム、スリャこれでも、なんともないか。これでもか/\。

      〽なぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先(きもさき)へ、こたゆるつらさ、無念をじっと堪(こた)ゆる辛抱も、ただ若君が大事ぞと涙一滴目にもたぬ、男まさりの政岡が、忠義は先代末代まで、またあるまじき列女の鑑(かがみ)今にその名は芳しき。栄は始終政岡がそぶりに気を付け打ち微笑(ほほえ)み

栄   オオでかした八汐、管領家よりくだされし、この御菓子。よしない小児(しょうに)が差し出たゆえ、大事の企(たく)みを、イヤサァ大事の菓子をあらせし科(とが)。手にかけしは八汐が働き、オオあっぱれ/\。

八汐  さまでもない事、お誉めに預かりありがとう存じまする。

栄   この上は政岡に云い聞かす仔細もあれば、皆の者はしばらく次へ。

(中略)

      〽跡先見廻し栄御前、政岡がそばへすり寄って

栄   政岡近う。

政岡  ハァー。

栄   年頃仕込みしそなたの願望成就(じょうじゅ)して、さぞ満足であろうのう。

政岡  なんと御意遊ばす。

栄   イヤ、隠すに及ばぬ。東西分かぬその内より取(と)り替(か)え子(こ)と云う事は、とくよりそれと知ったれども、もしやと思い、最前から終始の様子窺(うかが)いみるに、血を分けた我が子の苦しみ、なんぼ気強い親々でも、堪(こら)えられるものではない。慥(たし)かな証拠を見る上にはそなたに見(み)する一品(ひとしな)あり。

         ト 懐中より連判状を出して

栄   サ、披見(ひけん)しや。

政岡  ハアー。ヤァ、コリャ、鬼貫公(おにつらこう)を始めとして家中の諸武士は過半お味方。

栄   アア、コレ密かに/\。何かの事は八汐に申し付けおいたれば、万事よしなに。

(中略)

       〽跡にはひとり政岡が奥口伺い/\て、我が子の死骸打ち見やり、堪え/\し悲しさを、一度にわっと溜涙、せき入りせき上げ歎きしが

         ト 政岡思い入れあって、千松の骸を見て、

政岡  コレ千松。でかしやった/\/\/\よのう。そなたが命捨てたので、邪智深い栄御前、取り替え子と思い違い、己の企み打ち明けて連判までも渡せしは、親子の者の忠心臣を神や仏もあわれみて、鶴千代君の御武運を守らせ給うか。チェ忝い/\/\わいのう。コレと云うのもこの母が常々教えおいた事、幼な心に聞きわけて手詰めになった毒薬を、よう試みてたもったのう。でかしゃった/\/\/\よなぁ。コレ千松、そなたの命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存のほぞを固めさす、まことに国の、

(中略)

八汐  政岡、覚悟。

         ト 懐剣にて斬ってかかるを早舞になる。一寸立廻り、八汐をひと刀斬る。この時政岡連判状を落とす。鼠出て連判状をくわえ消える。(後略)》

 

 政岡が千松の死骸を抱いてくどくサワリの場面は、爾来、我が子を犠牲にしてまでもの「忠義」(時に<大文字の他者>として働く)の鑑とされてきて、ここが見どころと思いがちだが、違う。芸談の数々が語っているように、真のクライマックスはその直前の、八汐が千松をなぶり殺すのを政岡がじっと堪えている場面、「政岡-栄御前―八汐」の三角形における、栄御前の眼差しと政岡の眼差しが織りなすドラマ、<象徴界>の存在に違いない。

 芸談を紹介する。

 五代目中村歌右衛門は、《政岡のしどころとしては、八汐が千松を殺すのを、じっと堪(こら)えるあいだが性根どころで、一方には栄御前が見張っている。それに悟られてならないのは、こゝのせりふにもある通り、「なんのまあ、お上へ対し慮外せし千松、御成敗は御家(おいえ)のお為」といっているくらいで、腹の中では千松はよく死んでくれたの心持を充分に持っていることは、義太夫の文句の「涙一滴目に持たぬ、男まさりの政岡が……」のところになって、いよ/\我慢の出来なくなるのを、尚もこらえにこらえて、若君を引き寄せて守護し、わざと千松の死体から目を離して、遠くの方を眺めながら歯を喰いしばっているのです。(中略)栄御前が帰ったあとを見送って、「跡には一人政岡が……」で奥口を窺い、下手から上手へ目を移して、若君の無事を心に喜んで、さてその目が千松の死骸へ行く、こゝで真(しん)の女にもどってしまって、「こらえ/\し溜(ため)涙一度にわっと……」で、襠(うちかけ)を脱いで泣き入る順序で、これからは「さわり」になるのですから、動きもあれば芝居も面白く出来て、こゝまで来ればもう楽なものです。》(『歌舞伎オン・ステージ 伽羅先代萩・伊達競阿国戯場』)

 六代目尾上梅幸は、《女形の役のうちにむづかしいものが沢山ありますが、立役で言へば『忠臣蔵』の大星由良之助に当て嵌るのが、『先代萩』の政岡でせう。この政岡の演所(しどころ)は、「御殿の場」で倅の千松が八汐に殺されるのを、じっと辛抱をして涙一滴こぼさずに、御主君鶴喜代君(筆者註:鶴千代の事)を大切に守護するといふ所が性根になってゐますが、これには昔からいろ/\の型があって、中には随分取り乱した仕科を見せて、見物受を狙ふやり方も行はれますが、團十郎あたりになりますと、裲襠の襟へ手をかけて、それが肩からはづれるのを掛け直して、片手を膝へ置いてじっと辛抱するくらゐな、渋いゆき方を見せてゐました。(中略)何しろ長丁場の場面を持ちこたへるので、余程腕前がなければ仕終せない役になってゐますが、最後に栄御前が心を許して連判状を残して立帰った跡、わが子の千松の死骸に取付いて愁嘆を見せる件になれば、実はもうしめたもので、動きも多く見物も喜んで下さるので、見た眼は派手でありながら、こゝへ来れば役者の方はずっと楽になるのです。》(尾上梅幸女形の事』)

 歌舞伎では、栄御前は政岡に「取(と)り替(か)え子(こ)と云う事は、とくよりそれと知ったれども」と言うが、「とくよりそれと」がどこから来たのか、「謎」は結局明かされない。しかし人形浄瑠璃では、八汐が政岡に切りかかる直前に、小巻(=小槙)が登場して、栄御前に「鶴喜代君(=鶴千代)と千松を入替子と云ふたも小巻、それゆゑに栄御前うま/\此場を帰りしも、裏の裏行く匙加減」と宣言し、種明かしをする。

《後にすつくと八汐の大声「何もかも様子は聞いた。此方の工みの妨げ女、己も生けては置れぬ」と詞の一間押明けて「ヤア不忠不義の銀兵衛夫婦、工みの次第白状せよ」と立出づる沖の井「ヤアこの八汐に白状とは」「オヽその証人は此処に在り」と云ひつヽ出づる顔見て恟り「ヤア、そちや小巻」「オヽよい証人であらうがの、夫道益に云付けて無理に毒薬調合させ、この事外へ洩らさうかと、よう夫を殺したな。夫の敵と思へども女の身の討つ事叶はず、わざと悪事に一味して、まつかう手目を上げふため、鶴喜代君と千松を入替子と云ふたも小巻、それゆゑに栄御前うま/\此場を帰りしも、裏の裏行く匙加減、サア真直に白状」と忠と不忠の喰合せ、毒薬却つて薬となる顔に似合ぬ配剤は、類ひないぎの手柄なり。「モウこれまで」と八汐が懐剣、心得政岡請流す、互に嗜む太刀さばき手を尽くしたる二人の女、我子の恨み一心に突込む懐剣打落し直に切込む八汐が肩先き、ひるむを取つて、突通され虚空を掴んで、もがき死に悪の報ひは忽ちに心地よくこそ見へにけり。「》

 歌舞伎は、このようなごてごてした説明をせずに、八汐はくどきを見届けて現われるや、「政岡、覚悟」で立廻りして、政岡にえぐられ、絶命する。「謎」は「謎」でよい。「邪智深い栄御前」に対して、観客は自由に空想と謎解きに耽ることができる。明晰につじつまをあわせられ、登場人物の内面を透明に見せつけられるや、絵空事のようで詰まらない。観客に何かを感じさせ、惹きつけることが重要で、合理的な説明が真理を表しているとは限らないのは、ここまでラカンを通して見てきたとおりである。

 

「御殿の場」は、他者の欲望が交錯するゲームの場となっている。政岡も栄御前も八汐も幻想の渦中にいる。それもこれも「竹の間の場」で八汐が政岡を陥れようとして失敗するゲームがまずあるからで、「御殿の場」の「飯炊き」の、退屈にも感じられる動きの少ない内面を語る所作による透明な時間の後に、再び栄御前と八汐によって二度目のゲームが開始されるとき、「政岡-栄御前―八汐」の三角形が象徴的な意味を求めて発光する。したがって、「竹の間の場」が時代劇には珍しい台詞劇で地芸が上手でないと難しいのと、「御殿の場」だけで十分に長丁場であるということから、滅多に上演されないのは片手落ちである。

 たしかに政岡が主人公ではあるが、次の三島由紀夫の言葉、《悪のエネルギー  「合邦」前半の玉手(たまて)御前(ごぜん)や、「御殿」の八汐は、浄瑠璃作者が想像した性格といふよりは、人形の機巧が必要上生み出したデスペレエトな怪物であるが、それはもちろん義太夫節の怪物的性格にも懸つてゐる。しかし何といふ情熱的なエネルギッシュな怪物であらう。類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。儒教道徳やカソリック道徳の支配下においては、悪は今日よりも、もつと類型的でさうして強烈であつた。》(注:デスペレエト=死にもの狂いの、絶望的な、自暴自棄の)のように八汐の役割の強烈さも重要なのである。

 以下、ジジェクラカンはこう読め!』から読み解いてゆく。

《幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているのは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話を通して、息子の父親にメッセージを送る。子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのか、は理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんなに単純な幻想でも、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。》

 ゲームの佳境で、「とくよりそれと知ったれども」という栄御前は、なぜ取り替え子と誤認識したのか。

 第一に、栄御前は「他者の欲望」を欲望している。取り替え子であれ、という「皆」の欲望を欲望している。

《しかし、「人間の欲望は<他者>の欲望である」という公式にはもうひとつの意味がある。主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉えるかぎりにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように。他者は謎に満ちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。ラカンはここではフロイトに従っているが、そのラカンにとって、他の人間の底知れぬ次元――自身のように愛せという命令をもったユダヤ教においてである。フロイトにとってもラカンにとっても、この命令はひじょうに多くの問題を含んだ命令である。次のような事実を曖昧にしてしまうからだ。その事実とは、私の鏡像としての隣人、私に似ている人、私が共感できる人の裏には、根源的な他者性の、つまり私がその人については何も知らないという、計り知れぬ深淵が口を開けているということである。》(ジジェクラカンはこう読め!』)

 第二に、「自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすい」ということだ。

《自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているというとである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。》

 だから、「最前から終始の様子窺(うかが)いみるに、血を分けた我が子の苦しみ、なんぼ気強い親々でも、堪(こら)えられるものではない。慥(たし)かな証拠を見る上には」という自分の眼は、たとえ政岡がそのように見えたにしても、すでに小槙の言葉を信じていた。

 第三に、政岡は、「血を分けた我が子の苦しみ、なんぼ気強い親々でも、堪(こら)えられるものではない」という見せかけではないと思いこませる無心の、何かを隠しているかのように思わす気配によって、栄御前にあらぬものを見させた。隠蔽の行為が欺くのは、何かを隠しているかのように思わせるゆえである。

ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白する――自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したこのとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するためには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造する。つまり、二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなければならない。これこそが最も純粋な見せかけである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕を張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけである。見せかけとは、その下に<現実界>を隠している仮面のことではなく、むしろ仮面の下に隠しているものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見ではなく、この眼も眩むような外見は何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。》

 

 歌舞伎の「型」の変遷をみてゆくと、役者の身体を通して<大文字の他者>が機能していることがわかる。渡辺保は『歌舞伎 型の魅力』で、『伽羅先代萩』の型の変遷を論じているが、それは一演目に限らず歌舞伎全体に波及する論点ともなっている。

《政岡の型には、三つの流れを見ることができる。

 第一に、江戸時代から明治時代へ、すなわち近代化。第二に、上方と江戸との対立から東京一極集中化へ。そして第三に立役から女形へ。

 九代目団十郎と五代目菊五郎によって多くの者が捨てられ、歌舞伎はよりリアルになり、より内面的になった。たとえば雀の唄で忍びの者がからむ型は、本来江戸の伝統的な菊五郎型であったにもかかわらず淘汰(とうた)され、今日では梅玉型と猿翁に残るのみである。

 第二点。上方の型は、むろん荒唐無稽な点があるにしても、一方で本文に忠実(たとえば千松殺しの時に自分の部屋へ鶴千代を入れる)であり、一方で江戸時代以来の本流の型(たとえば梅玉型の雀の唄で忍びの者がからむこと、あるいは仁左衛門型のくどきに鶴千代が出ること)であるにもかかわらず、今日の舞台からは排斥されている。これは東京の、それらの型をリアルでないとする感覚のためであり、要するに中央の権威主義であり、文化の一極集中に他ならない。

 そして第三点。立役から女形へ。政岡の初演は中山来助(らいすけ)という立役であった。本来は立役の役であるにもかかわらず、女形である五代目岩井半四郎、四代目菊五郎という傑作が出て、さらには五代目、六代目歌右衛門、六代目梅幸その他の女形によって政岡の型が統一されたために、今日では純然たる立役の演ずる政岡はわずかに猿翁のみになった。(中略)

 以上三つの流れによって、政岡の型は、熊谷の型が芝翫型と団十郎型と対照的なのとは違って、混雑輻輳(ふくそう)している。しかしその混乱の中でも一点明確なのは、リアルなものへの志向である。五代目歌右衛門が、九代目団十郎型を吸収して女形の型にしたように、立役から女形へ、荒唐無稽なものから、あるいは本文から離れても、リアルな感情へという変化がおきている点である。

 その結果、たとえばくどきで鶴千代を退場させるということがおこった。この方が役者はやりやすいのは、いうまでもない。たとえ子供とはいえ殿様のいる前で我が子を手放しでほめるのはテレるにきまっているからである。しかし本文をよく読めばわかるが、殿様がいる前での政岡のなげきだからこそ、これは政岡の忠義批判、体制批判になるのである。そういう登場人物の一心理をはなれて、劇的宇宙のもつ意味を喪失したことも忘れるべきではない。

 そこまで考えると、政岡の型の変化は、単に役者の好みの問題ではなく、その背景に歌舞伎の歴史、ひいては日本の文化の、あるいは社会の価値観の大きな変化を思わせるのである。》

 付け加えれば、ここで「皆」に働いているのは、近現代のサイエンスや民主主義における「(あるはずの)真理」に匹敵する、象徴的秩序から来る「リアル」というもっともらしさを纏った<大文字の他者>だろう。

 

 歌舞伎には嘘も真実もある。しかし、嘘と真実、現象と隠れたもの、虚と実という二項対立ではない。ラカンはこう書いている。

《患者の主張はすべてそれ自体二面性を持っています。真理の次元がうちたてられるのを我われが見るのは、まず初めにある嘘という形で、そして嘘を介してすら打ち立てられるものとしてなのです。厳密にいえば、嘘の中でも真理の次元は揺らぐわけではありません。というのは、嘘はそれ自体真理の次元で自らを示すからです。》(ラカン精神分析の四基本概念』)

 古代ギリシャの画家ゼウキシスとパラシオスの、どちらがより真に迫ったリアルな絵を描くことができるかという競争をラカンは喩えに引いた。はじめにゼウキシスが本物そっくりな葡萄の絵を描いたので、鳥が飛んできて葡萄を啄もうとしたほどだった。出来栄えに勇んだゼウキシスはパラシオスに君の番だと急かす。ところが、パラシウスが壁に描いた絵には覆いがかかっていた。そこでゼウキウスは「その覆いを取って、何を描いたのか早く見せてくれ」と言った。そこで勝負はついた。なぜなら、パラシウスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたからである。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みな覆いの後ろに真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。この喩えの教えるところは何か。

パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなければならない、ということです。》(ラカン精神分析の四基本概念』)

伽羅先代萩』でも『義経千本桜』でも、真に向こう側を見なければならないのは私たち観客であって、そこにこそ芝居という「魅惑する者」と「魅惑される者」の交換関係、魅惑と欲望の運動、享楽がある。

                         (了)

        *****引用または参考文献*****

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』鈴木晶訳(紀伊國屋書店

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』鈴木晶訳(青土社

大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社

大澤真幸『逆説の民主主義――格闘する思想』(角川書店

大澤真幸『思想のケミストリー』(紀ノ国屋書店)

大澤真幸『社会システムの生成』(弘文堂)

大澤真幸『THINKING「O」第9号』(左右社)

内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(文春文庫)

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』小出浩之他訳(岩波書店

ジャック・ラカン『自我(下)』小出浩之他訳(岩波書店

谷崎潤一郎『幼少時代』(岩波文庫

谷崎潤一郎吉野葛蘆刈』(岩波文庫

渡辺保『千本桜 花のない神話』(東京書籍)

渡辺保女形の運命』(岩波現代文庫

渡辺保忠臣蔵――もう一つの歴史感覚』(中公文庫)

渡辺保『歌舞伎 型の魅力』(角川ソフィア文庫

渡辺保『歌舞伎 型の真髄』(角川学芸出版

渡辺保『歌舞伎手帖』(角川ソフィア文庫

渡辺保歌右衛門 名残りの花』(マガジンハウス)

橋本治浄瑠璃を読もう』(新潮社)

丸谷才一忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫

丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)

柄谷行人『日本精神分析』(講談社学芸文庫)

赤坂憲雄『王と天皇』(筑摩書房

吉本隆明『<信>の構造3 全天皇制・宗教論集成』(春秋社)

山口昌男『知の遠近法』(岩波書店

*『折口信夫全集3 古代研究(民俗学編2)』(「大嘗祭の本義」所収)(中公文庫)

*『新潮日本古典集成 平家物語(上)(中)(下)』(新潮社)

*『義経記』(岩波文庫

*『歌舞伎オン・ステージ 義経千本桜』原道生編著(白水社

*『歌舞伎オン・ステージ 伽羅先代萩・伊達競阿国戯場』諏訪春雄編著(白水社

*『国立劇場歌舞伎公演記録集 義経千本桜(上)(下)』(ぴあ株式会社)

*『国立劇場歌舞伎公演記録集 伽羅先代萩』(ぴあ株式会社)

*『文楽床本集 義経千本桜』(平成十五年九月文楽公演)(日本芸術文化振興会

*『文楽床本集 伽羅先代萩』(平成十七年五月文楽公演)(日本芸術文化振興会

尾上梅幸女形の事』(中公文庫)

三島由紀夫『歌舞伎』芸術新潮(新潮社)

演劇批評 「南北『東海道四谷怪談』と「ライプニッツのバロック」(ノート)」

 「南北『東海道四谷怪談』と「ライプニッツバロック」(ノート)」

 

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 鶴屋南北東海道四谷怪談』には二つのバロックがある。よく知られたヴェルフリン『ルネサンスバロック』『美術史の基礎概念』やドールス『バロック論』の流れを汲むバロックのそれと、「ライプニッツバロック」である。二つは対立するものではなく、円錐の切り口が、円、楕円、放物線、双曲線、三角形になるような、「一」にして「多」ともいえよう。

 前者については、河竹登志夫『歌舞伎美論』における「歌舞伎のバロック的性格」論がよく知られるところで、教科書的な河竹登志夫『歌舞伎』から、一般的な「バロック」の定義と、「歌舞伎はバロックの典型である」理由を紹介しておく。

バロックbaroque,barockとは「石ころ」から転じて「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語のバロッコbarrocoからきたもので、十六世紀から十八世紀にかけての西洋の美術や建築の様式をさすことばです。それは、ルネサンス様式やフランス古典主義を、完全に形の整った丸い真珠に見たてて、それがくずれて歪んだ、堕落退廃した様式という意味で、こう呼ばれるようになったのでした。

 ですからそれは、異端、異常、グロテスク、ゴテゴテと雑多にかざり立てた悪趣味――といった、劣悪なものの形容詞だった。それが十九世紀ごろから、ルネサンス様式や古典主義と同等に対置さるべき独自の様式として、位置づけられるようになりました。つまり芸術には、古典主義系とバロック系という、二つの様式があるというわけです。(中略)

 バロック演劇の特長は、ことごとくこれらの対極とおもえばいい。すなわち、感覚的官能的で、卑近でけばけばしく、フィクションだらけで時も所もどんどん移り変わり、人物は突然変心したり変身したりする。主人公も一人ではなく、筋も入り乱れて変化に富む。残虐場面やエロチックシーンを、ことばによってではなく、好んで眼前に演じる。したがって反道徳的で、体制側からは害悪視されがちである。》

 ついで著者は、バロック劇としての、西のシェークスピア劇と東の歌舞伎の似たところを、《どちらも市民劇で、成立年代もおなじであること、女方使用のこと、流血場面そのほか構造や表現の形に共通点が多いこと》などとしたうえに、舞台の構造(セリやスッポンといった垂直性(下降と上昇という二つのベクトルによって組織されるバロックの一大特徴)、回り舞台というスペクタクル性)、悲劇と喜劇、厳粛な場面と卑俗な場面とが、ひとつの芝居のなかにしばしば交互に混在していることなどをあげる。さらには、著者自身の説に加えて、丸谷才一「出雲のお国」から小説家の空想(丸谷曰く)を紹介していて、その丸谷の原文は、《出雲のお国やその夫の狂言師三十郎は、どこかの町のイエズス会の教会か学校にもぐりこんで、イエズス会劇を見物し、それに強烈に刺激されてお国歌舞伎を創始したのではないか。(中略)能の古典主義から歌舞伎のバロック性への移行、革命的な転換を決定づけたものは、ヨーロッパのバロック芸術の綜合としての演劇を海路はるばる伝へた、教会の催し物であったらう。》である。

 昭和42年3月国立劇場鶴屋南北桜姫東文章(あづまぶんしやう)』プログラムに三島由紀夫が文章を寄せていて、バロック劇の本質、とりわけ南北のそれを言いあてている。《ただの因果といふよりは、つねに破滅的な形でエロスにつながることをくりかへす、こりずまの人間性が示される》と指摘した後、《女主人公の桜姫は、なんといふ自由な人間であらう。彼女は一見受身の運命の変転に委(ゆだ)ねられるが、そこには古い貴種流離譚(りゆうりたん)のセンチメンタリズムなんかはみごとに蹴飛ばされ、最低の猥雑さの中に、最高の優雅が自若として住んでゐる。彼女は恋したり、なんの躊躇もなく殺人を犯したりする。南北は、コントラストの効果のためなら、何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結びつけて、怖ろしい笑ひを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれこはれてゐる。手足もバラバラのでく(・・)人形のやうにこはれてゐる。といふのは、一定の論理的な統一的人格などといふものを、彼が信じてゐないことから起る。劇が一旦進行しはじめると、彼はあわててそれらの手足をくつつけて舞台に出してやるから、善玉に悪の右足がくつついてしまつたり、悪玉に善の左手がくつついてしまつたりする。》と、舞台の上ならではのバロックの王国を説明した。多くの批評家は南北の最高傑作としてこの『桜姫東文章』を顕彰し、『東海道四谷怪談』は登場人物たちに深さと複雑さがなく、舞台効果技術に長けてはいるものの、ケレン味たっぷりと批判されがちだけれども、三島の指摘がよりあくどく当てはまるのは自明だろう。

東海道四谷怪談』の一般的なバロック的性格に付け加えることはないので、後者の「ライプニッツバロック」、十七世紀バロックの時代の哲学者にして微分学の創始者ライプニッツバロックの特徴が『東海道四谷怪談』にいかに発現しているかに論を移す。

現代思想 特集=ライプニッツ――バロックの哲学』に、ドゥルーズ『襞(ひだ) ライプニッツバロック』の翻訳者宇野邦一の「裸のモナドへ」という文章がある。

ドゥルーズライプニッツ論の導入部にこう書いている。

「連続的なものの迷宮は、流れる砂が砂粒に分解されるように、独立した点に分解されるような線ではない。むしろ、無限のひだに分割され、曲線的運動に分解される布や紙に似ているのである。そのひだや運動のそれぞれが、粘性をもち、合流してくる周囲によって限定されている」。

 ひだはまた、バロック時代の絵画において、身体や物体の輪郭から解放されて増殖する布のひだである。バロックの世界では、理性の統御を離脱して曲線がはてしなくうねり、無限にひだを増殖していく。理性はだから無数のひだに浸透していく光でなくてはならない。分裂し、散乱していく世界の悲惨に対して、秩序と原理を再構築しなくてはならないが、このような要請のなかで、原理そのものがある過剰さを帯びてくる。「世界の悲惨に、原理の過剰によって答える」こと、これがドゥルーズによるバロックの定式である。》

ドゥルーズによるバロックの定式」とは、バロックが芸術一般にもたらしたもの、ライプニッツの思想が哲学にもたらしたものとして、「襞」「内部と外部」「高みと低み」「拡げられた襞」「織物」「パラダイム」をあげたドゥルーズの読解による「ライプニッツバロックの定式」であって、『東海道四谷怪談』の構造として「筋」、「場所」、「役」に現れる。

 では、『東海道四谷怪談』の定式幕をあけてみよう。

 

<『東海道四谷怪談』と『仮名手本忠臣蔵』>

 折口信夫全集第二十二巻『かぶき讃(芸能史2)』には芸能史論考のうち、演劇論、主として歌舞伎に関するものが収められている。内訳は『かぶき讃』として刊行された内容に、その他各種媒体に発表した文章が加わり、およそ四十ばかりを読むことができる。これらは昭和二十年の前後数年間に書かれたものだが、本質を突いた論点は古びていないばかりか、折口博士に逆らうことはいまだ危険である。

 単行本『かぶき讃』の中では沢村源之助(四代目)、市村羽左衛門(十五代目)、実川延若(二代目)、尾上菊五郎(六代目)、中村歌右衛門(六代目)に関するものが、歌舞伎の女形論、大阪芝居、科学性などへの問題提起として有名で、その他の発表文章では「玉手御前の恋」「見ものは合邦」が近親姦的な恋への関心もさることながら、折口の出身地が舞台であったことも影響して、紙数を割いて論じられている。

 鶴屋南北に関して筆を伸ばしたものは少なく、そのうちの二つは「夏芝居」と関連した「涼み芝居と怪談」だが、『東海道四谷怪談』を正面から論じたという気配はなく、「お岩と与茂七」(『日本文学大成』(昭和二十三年七月)の鶴屋南北集に付された月報)だけが、二頁ほどの短い文章ながらまとまった論考となっている。さらっと筆すさびのように書かれた文章だが、突き放したような何気なさを装っているときこそ、真実が意地悪くあることに折口の熱心な読者なら思いあたるだろう。好事家の趣味か要望、たんなる不満のようにさえ見えるが、『四谷怪談』の本質が捻じ曲げられてしまったことへの重大な指摘を見逃してはならない。

 折口は、上方興行に出る『いろは仮名四谷怪談』風な演出になじんで相当に見た方なので、『東海道四谷怪談』では、気持ちのあわぬ所を感じるが、江戸のものは五代目菊五郎を見ることは出来なかったものの、先代梅幸(六代目)、並びに沢村源之助(四代目)は見ておいたから、江戸方の四谷怪談の知識もないわけではなく、源之助のお岩は優れたもので、蚊帳に居る間から髪梳きに至る前半が非常によくて、此れでこそ後半のお岩の執念に同情できると賞賛したうえで、次のように批評する。

《一体、此芝居は、存外お岩と関係のない、佐藤与茂七に力点が置かれてゐて、此が、お岩の筋と対立してゐる。又其側の出来ばえが、作品として、よくも出来てをり、所謂南北らしさを発揮してもゐる。

 だがお岩を主とすると、与茂七の出場が、閑却せられる傾きのある事は、東西共にさうであつた。台本によつて四谷怪談を読む方々には、何の不審も起るまいが、芝居の方を見る者には、隠亡堀の世話だんまりに樋の口を開けて、何故非人姿の与茂七が参加するのか、そんな事がまづわからなくなつてゐる。

 直助権兵衛の様な重要な役だつて、大凡、極悪人の生活の切れ端だけを見せるに止る様な形をとつて来たのが、大体、普通の四谷怪談の演出であつた。それ程こはがらせる方にかゝつてゐる。

 宅悦住家及び、此を受けてゐる三角屋敷の場などは、南北らしい惨虐と幻怪味と不道徳とが、腐つたはらわたの様に、纏綿してゐるのだが、これすら完全に二つ連続して上演した事を、覚えてゐない。もう、完全なお岩小平の恐怖は、東海道四谷怪談の台本によつて受ける外はなくなつたと言へる。》

 つまり、お岩の怪奇性、奇抜さ、ケレン味にこびて「こはがらせる方にかゝつてゐる」こと、及びお岩と伊右衛門による筋を重要視するあまり、対立軸となる与茂七と直助とお袖によるもう一つの筋の重要な場「三角屋敷」上演が少なくなったことへの批判で、煎じ詰めれば『仮名手本忠臣蔵』とのたえまない接点を軽んじた演出への警告である。

 

 世に爛熟と狂熱の「化政文化」と称される文化文政時代の文政八年(一八二五)七月、中村座での『東海道四谷怪談』初演の様子については、どの解説書にも同じ内容が紹介されている。違いがあるとすれば、二日にわたった『仮名手本忠臣蔵』との同時上演は、興行的な自信があったからだ、いや逆に自信がなかったから抱き合わせたのだ、一座の役者たち(菊五郎團十郎幸四郎など)の力関係、團菊の対抗心、役者本位からきたものだ、といった推察の差か、『東海道四谷怪談』の先行作品(『太平記忠臣講釈(たいへいきちゅうしんこうしゃく)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべい)』『仮名曽我當蓬莱(かなでそがねざしのふじがね)』など)を意識した影響研究の詳細さ、及び原資料(台帳)や菊五郎口上図の読み解きの有り無しであろうか。

 初演の上演形態は次のとおり一番目が「時代物」、二番目が「世話物」という江戸歌舞伎の規範を守りつつ、「二日見物せざれば、趣向のつぢつま全からず」(草双紙)ということになる(二日かけての興業は前例もあるようだが)ばかりか、初日を『東海道四谷怪談』三幕目「十万坪隠亡堀」で打ち出し、後日はその「十万坪隠亡堀」を屈折点として、折り畳んだ襞をなすように始めたところに特徴がある。

 初日:一番目『仮名手本忠臣蔵』大序「鶴ヶ岡社頭」より六段目「勘平腹切」まで。

   二番目『東海道四谷怪談』序幕「浅草境内」より三幕目「十万坪隠亡堀(おんぼうぼり)」まで。

 後日:『東海道四谷怪談』三幕目「十万坪隠亡堀」。

 一番目『仮名手本忠臣蔵』七段目「祇園一力茶屋」より十段目「天川屋(あまがわや)」まで。

   二番目『東海道四谷怪談』四幕目「深川三角屋敷」より五幕目「蛇山(へびやま)庵室(あんじつ)」まで。

   大切(おおぎり)『仮名手本忠臣蔵』十一段目「討入り」。

 

 ここで、『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』の段・幕構成、場割を確認しておく。

仮名手本忠臣蔵

  大序:「鶴ヶ岡社頭の場」

  二段目:「桃井館の場」

  三段目:「足利館門前進物の場」「同(おなじく)殿中松の廊下の場」「同裏門の場」

  四段目:「扇ヶ谷(おおぎがやつ)塩谷判官切腹の場」「同表門城明渡しの場」

 (浄瑠璃:「道行旅路の花聟」)

  五段目:「山崎街道の場」

  六段目:「勘平腹切りの場」

  七段目:「祇園一力茶屋の場」

  八段目:「道行旅路の嫁入り」

  九段目:「山科閑居の場」

  十段目:「天川屋の場」

  十一段目:「討入りの場」

 

東海道四谷怪談

 序幕:「浅草境内の場」「藪の内地獄宿の場」「浅草裏田圃の場」

 二幕目:「伊右衛門浪宅の場」「伊藤屋敷の場」「元の浪宅の場」

 三幕目:「十万坪隠亡堀(おんぼうぼり)の場」

 四幕目:「深川三角屋敷の場」「小塩田(おしおだ)隠れ家の場」「元の三角屋敷の場」

 五幕目:「夢の場」「蛇山(へびやま)庵室(あんじつ)の場」

 

<『東海道四谷怪談』――序幕:「浅草境内の場」「藪の内地獄宿の場」「浅草裏田圃の場」>

(以下、ドゥルーズ『襞(ひだ) ライプニッツバロック』からは《イタリック》で、『東海道四谷怪談』の荒筋(梗概)は『歌舞伎オン・ステージ 東海道四谷怪談』(諏訪春雄編著)からは[太字]で引用する。二によって一を作ること、二つのものを一つに撚りあわせてゆくこと(縄を綯(な)う)を「綯(な)い交(ま)ぜ」にするというが、その趣向である。)

 

バロックは何らかの本質にかかわるものではない。むしろ、ある操作的な機能に、線にかかわっている。バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物を作りだすのではない。東洋から来た襞、ギリシャ的、ローマ的、ロマネスク的、ゴシック的、古典的……といった様々な襞がある。しかしバロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。バロックの線とは、無限にいたる襞である。(中略)

「襞には際限がないからである。」一つの迷宮は、語源からしても<多>と呼ばれてよい。迷宮はたくさんの襞をもつからである。<多>とは、単にたくさんの部分をもつものではなく、たくさんの仕方で折り畳まれるもののことである。まさにおのおのの階層に、一つの迷宮が対応する。すなわち、物質とその部分における連続的なものの迷宮、そして魂とその述語における自由の迷宮である。デカルトがこれらを解明することができなかったのは、連続的なものの秘密を直線的な経路の中に求め、自由の秘密を魂の直線に求めるだけで、魂の勾配にも、物質の曲線にも目をむけなかったからである。自然を数え上げ、魂を解読し、物質の折り目の中をのぞき、魂の襞の中を読むための、一つの「暗号解読法」が必要なのである。(中略)

 折り畳むこと―折り目を拡げることは、もはや単に緊張する―弛緩する、収縮する―膨張することではなく、包むこと―展開すること、逆行[退化]すること―進化することを意味する。有機体は、自分に固有の部分を無限に折り畳み、また折り目を拡げる能力によって定義されるのであって、折り目を拡げるのは無限にではなく、種に指定された展開の度合いまでである。したがって一つの有機体は種子の中に包まれており(器官の前成説)、種子は互いにロシア人形のように無限に包みあっている(胚の入れ子説)。》(ドゥルーズ襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第1章 物質の折り目」)

 

「浅草境内の場」

[塩冶(えんや)浪人四谷(よつや)左門(さもん)の娘お袖は、楊枝(ようじ)見世(みせ)に出て生計をたてている。高野(こうの)師直(もろのう)の家臣である伊藤喜兵衛(きへえ)、孫娘のお梅、乳母お槇、医者扇泉(びせん)の一行が参詣に現れる。喜兵衛たちが楊枝見世に立ち寄るが、お袖は高野家の家中には売れないと拒否する。藤八五文(とうはちごもん)の薬売り直助(なおすけ)がとりなして、その場はおさまる。直助は、もと塩冶家中奥田将監(しょうげん)の下男でお袖を口説いてはねつけられた。四谷左門は、苦しい生活をささえるため縄張りをおかして物乞いをして、乞食たちにしめあげられる。民谷(たみや)伊右衛門(いえもん)が仲裁に入り乞食たちに金をはずみ、左門を助ける。伊右衛門は左門の姉娘お岩との復縁を申し出たが、伊右衛門が国元で御用金を盗んだことを知る左門は、伊右衛門をはねつけた。この様子を見ていた伊藤喜兵衛は塩冶方の動静を探り、孫娘の伊右衛門への恋を成就させるために伊右衛門を手なずけようと企てる。塩冶家中奥田将監の子息庄三郎(しょうざぶろう)は非人に身をやつし、高野方の情報を得ようとして伊藤喜兵衛に近付く。庄三郎が所持していた塩冶浪人の回文状が、いったんは喜兵衛の手にわたったが、小間物屋に身をかえた塩冶浪人の佐藤与茂七(よもしち)が無事に取り戻した。]

「藪の内地獄宿の場」

[直助は、お袖が地獄(私娼)をするときいて按摩宅悦(たくえつ)の営む地獄宿を訪れるが、ここでもお袖に拒まれる。お袖の許嫁であった与茂七も、宅悦の元を訪れお袖との再会を果たす。二人の仲睦まじい様子を見ていた直助は、恋敵の与茂七を殺す決心をした。]

「浅草裏田圃の場」

[与茂七は、回文状を鎌倉表から山科に届けるため、目立たぬように非人姿の庄三郎と着物を交換する。直助は、与茂七と間違えて主筋にあたる庄三郎を殺害、伊右衛門は過去の悪事を知る左門を殺す。お岩、お袖の姉妹は、そしらぬ顔で仇討ちを約束する伊右衛門と直助の言葉を信じて、お岩は伊右衛門と復縁し、お袖も直助と仮の夫婦となった。]

 

・「序幕」(「序幕」という主語には『東海道四谷怪談』という述語がすべて含まれる)の「浅草境内の場」は、言わずと知れた『仮名手本忠臣蔵』「大序」の鎌倉鶴ヶ岡八幡社頭に対応している。その荘重、厳粛、格式を持って晴れがましい「大序」の「兜改(かぶとあらた)め」は、主要登場人物たちの顔見せ、横恋慕と恋わずらいによって生じる物語の伏線を示しているが、一方の「浅草境内の場」も登場人物たちの顔見せ、横恋慕によって生じる物語の伏線を示してはいるものの、前者の壮言、厳粛、格式に対して、舌を出して「崩す」。

・『仮名手本忠臣蔵』という本質に対して、『東海道四谷怪談』にあるのは、《何らかの本質にかかわるものではない。むしろ、ある操作的な機能に、線にかかわっている。バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物を作りだすのではない。》という作劇術であって、『仮名手本忠臣蔵』ばかりでなく、他作、自作、伝説、民話、実際の事件をふくめての操作的な機能によって『東海道四谷怪談』が生まれた。「何をどう作劇するか」において、「何を」という材料が「趣向」であり、独創的な、新しいもの、オリジナリティではなく、よく知られた既知のもの、周知のものの「世界」「型」を材料とする。そして、「どう」もまた「趣向」であって、つまりは「操作的な機能」によってたえまない「筋の襞」を生み出している。

・奥山に見世物小屋が立ち、すぐ東側の大川端の「藪の内」には「地獄宿」が営まれ、吉原へ向かう裏手に田圃が拡がる聖域と俗界の境界は一本の線で切断できるようなものではなく、《バロックの線とは、無限にいたる襞である。》という外縁の襞、《バロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。》という「場所の襞」が織りなされている。

前田愛『都市空間のなかの文学』に、《序幕が浅草寺境内と浅草裏田圃、二幕目が雑司ケ谷四谷町(四ッ家町)、三幕目が深川砂村の隠亡堀、四幕目が深川の三角屋敷と寺町、大詰が本所中の郷の蛇山庵室――これが「四谷怪談」の場割であって、いわゆる御曲輪内は除外されている。ドラマの進行は、浅草を起点に江戸空間の外縁に沿うようなかたちで、左回りの円環を描きだす。その節目節目に配置されているのは、場末の裏店であり、遍歴する悪漢(ピカロ)が遁走した後に残されるのは屍体とおびただしい血の量である。》とある外堀の外周は、ロラン・バルトが『記号の国』で指摘した、中心のない空虚(皇居(江戸城)という空虚)に対して密度過剰な猥雑の襞として血なまぐさく揺らめく。

・「浅草境内の場」で南北が登場人物たちの台詞を巧妙に書き分けたように、上方言葉と各地から流れ込んだ住民の、いまだ不確かな江戸言葉が入り交って、言葉の音声の襞が喧しい。

・師直を敵と狙う義士たち(佐藤与茂七、奥田庄三郎ら)と不義士たち(民谷伊右衛門、直助ら)の光と影がうごめき、たがいにもたれあい、ひしめいている構図を、直線的ではない物語の襞が覆っている。《デカルトがこれらを解明することができなかったのは、連続的なものの秘密を直線的な経路の中に求め、自由の秘密を魂の直線に求めるだけで、魂の勾配にも、物質の曲線にも目をむけなかったからである。自然を数え上げ、魂を解読し、物質の折り目の中をのぞき、魂の襞の中を読むための、一つの「暗号解読法」が必要なのである。》という魂の襞の中を読むための「暗号解読法」を知っていたのが他ならぬ鶴屋南北であり、その極端な実践が『東海道四谷怪談』だったのだろう。

・御用金横領という「金」の問題は、『仮名手本忠臣蔵』五段目「山崎街道の場」、六段目「勘平腹切の場」で悲劇を生んだ問題だったが、伊右衛門は悲劇性など素知らぬ顔で、あくどく引き継いでいる。

・「藪の内(宅悦住居)地獄宿の場」は、同じく遊里(祇園との落差はあまりに大きい)を舞台とした『仮名手本忠臣蔵』七段目「一力茶屋の場」における、敵の目をくらますための大星由良之助の遊蕩、やつしに対応しているものの、ただし佐藤与茂七はただの遊び人に過ぎない、とよく指摘されるが、それに加えて、『仮名手本忠臣蔵』のお軽が遊女になって夫勘平の敵討を支えたように、『東海道四谷怪談』のお袖もまた「地獄宿」の私娼になっているという類似も忘れてはならない。

・按摩宅悦が営む「地獄宿」という売春宿は、《<多>とは、単にたくさんの部分をもつものではなく、たくさんの仕方で折り畳まれるもののことである。まさにおのおのの階層に、一つの迷宮が対応する。すなわち、物質とその部分における連続的なものの迷宮、そして魂とその述語における自由の迷宮である。》ために、折口が指摘した《南北らしい惨虐と幻怪味と不道徳とが、腐つたはらわたの様に、纏綿してゐる》重要な場面であるから、「地獄宿の場」の前半をただのチャリ場だからと割愛してはならない。

・「地獄宿」で、許嫁同士の与茂七とお袖が互いの顔と出自を知らずに寝ようとする場面の、屏風と行灯というバロックの闇と差し込む光。奥で知らずにお袖を待つ直助、という歌舞伎舞台の、「見える(観客)/見えない(登場人物同士)」という眼差しの三角関係もまたバロック的構図である。

・『仮名手本忠臣蔵』から『東海道四谷怪談』へ、脱落するもの、それは「恋」である。直助のお袖への横恋慕と、お梅の伊右衛門への恋わずらいに加えて、伊右衛門のお岩への復縁話といった、恋にまつわる遺恨の数々はあるものの、それらを本当に恋と呼べるだろうか。

・「浅草裏田圃の場」は『仮名手本忠臣蔵』五段目「山崎街道の場」の色悪斧定九郎(おのさだくろう)のイメージを、伊右衛門の舅殺しに投影させることで伊右衛門を色悪に仕立てている。伊右衛門の確信を持っての舅殺しは勘平の誤殺に逆対応し、勘平の誤殺は直助による恋敵佐藤与茂七と誤っての主筋奥田庄三郎殺し(その顔面の皮(襞)を剥ぐという表層へのこだわり)に対応するというズレがある。『東海道四谷怪談』で何か一つ物事が生じる度に、『仮名手本忠臣蔵』に対して、《一つの有機体は種子の中に包まれており(器官の前成説)、種子は互いにロシア人形のように無限に包みあっている(胚の入れ子説)。》の裏切りと「逆転」の構造であり、それは「差異化」「微分化」というライプニッツの「普遍数学」に繋がって行く。

 

<『東海道四谷怪談』――二幕目:「伊右衛門浪宅の場」「伊藤屋敷の場」「元の浪宅の場」>

《神学的な理想が袋叩きにあっていたとき、世界が神学に逆らって、あらゆる「証拠」を、暴力や悲惨をたえまなく積み重ね、大地が大揺れしかけているとき、それを救出する手段があるかどうか。バロックの解決とはこういうものだった。原理を増殖させること、いつも一つの原理を袖口から飛び出させ、そして原理の使用法を変えてしまうこと。(中略)

 ライプニッツの戯れのほんとうの性格は、またそれを骰子の一擲に対立させるものは、何よりもまず原理の増殖である。われわれは原理の欠如によってではなく過剰によって戯れるのである。戯れとは原理そのものの戯れであり、原理の発明という戯れなのである。だからそれは、チェスにせよ、チェッカーにせよ、内省の戯れであり、そこでは古めかしい懸命さや慎重さではなく、敏捷さ(偶然ではなく)が大切なのだ。第三に、これは空虚を締め出し、もはや欠如には何も与えない充足の戯れである。》(ドゥルーズ『襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第7章 不共可能性、個体制、自由」)

 

伊右衛門浪宅の場」

[産後の肥立ちの悪いお岩は床につき、伊右衛門は生計をたてるために笠張りの内職をしている。人手が足りず宅悦の紹介で雇っていた小仏(こぼとけ)小平(こへい)は、古主にあたる塩冶浪人小塩田又之丞(おしおだまたのじょう)の病を治すため、民谷家伝来の妙薬ソウキセイを盗んで逃走する。小平は伊右衛門の子分格の浪人秋山長兵衛や関口官蔵(かんぞう)に引き戻され、杉戸の中にとじこめられた。隣家の伊藤喜兵衛宅の乳母お槇が、酒や料理を持って挨拶に来る。産後の肥立ちの悪いお岩には、伊藤家に伝わる婦人病の妙薬や子供の着物などを届ける。質屋の利倉屋茂助(とくらやもすけ)が、五両の質草としてソウキセイを持っていく。お岩にすすめられ、伊右衛門は長兵衛、官蔵をひきつれて伊藤家にお礼の挨拶に行く。お槇が届けた薬を飲んだお岩は、次第に顔色が変わり、苦しみだした。]

「伊藤屋敷の場」

[伊藤家では、長兵衛と官蔵に銀貨の小粒入りの吸物が振る舞われ、伊右衛門には小判が差し出される。喜兵衛は伊右衛門に孫娘お梅の恋心を告げ、お岩と別れお梅をもらってくれるように頼む。伊右衛門は断るが、喜兵衛からお岩に婦人病の妙薬と偽り顔の醜く変わる毒薬を渡したことを打ち明けられ、高野家への仕官を条件にお梅との縁談を承知した。]

「元の浪宅の場」

[宅悦はお岩の顔つきの変化に驚き、行灯の油を買うと言って家を出た。帰宅した伊右衛門は変わり果てたお岩の顔を見て、お岩に悪口雑言を浴びせる。伊右衛門が質草にしようとする蚊帳を、我が子のために必死で取り戻そうとするお岩は爪をはがして血だらけになる。伊右衛門は、宅悦に金を渡してお岩の浮気の相手になるよう説得する。宅悦はお岩にいやらしい振る舞いをするが、腹を立てたお岩に刀で切りつけられ、薬の件や伊右衛門とお梅の縁談などお岩にすべてを打ち明ける、喜兵衛に恨みを言うため身支度を調えるお岩は、お歯黒をつけ、母の形見の鼈甲の櫛で髪を梳くと毛がごっそり落ちて血がしたたる。よろよろと立ち上がったお岩は、柱にささっていた刀で喉を切り命を失った。杉戸の中で全てを聞いていた小平も伊右衛門に殺され、お岩の密通相手とされてしまった。お岩、小平の死体は戸板の表と裏にくくられ、江戸川に流された。伊藤家での内祝言の後、民谷家で寝所に入ったお梅の顔がお岩に変わる。驚いた伊右衛門は、お梅の首を切り落としてしまい、小平の霊が乗り移った喜兵衛をも殺害する。]

 

・《神学的な理想が袋叩きにあっていたとき、世界が神学に逆らって、あらゆる「証拠」を、暴力や悲惨をたえまなく積み重ね、大地が大揺れしかけているとき、それを救出する手段があるかどうか。バロックの解決とはこういうものだった。》とは、泰平による生活向上で下層民衆の欲望が刺激される一方で、すでに経済的破綻の生じていた江戸市中へ地方者が流入しつづける享楽と悲惨と頽廃の文化文政の時代の過密の渦に、塩冶家中の箍が外れた貧窮の御家人、浪人が義士、不義士問わず流れこんで残虐な事件を周縁部で犯す、という南北のリアルな戯れは、宗教改革の動揺が収まらず、カトリック勢力の逆襲が強まった時代のライプニッツの戯れに似ている。

伊右衛門、直助、小仏小平、宅悦、喜兵衛といった様様な大物小物の悪のレベルが笑いと共存し、小仏小平のような正直者が迫害されるという観劇者の嗜虐的な哄笑のカタルシスなどは、みなバロックの特徴である。

・《ライプニッツの戯れのほんとうの性格は、またそれを骰子の一擲に対立させるものは、何よりもまず原理の増殖である。われわれは原理の欠如によってではなく過剰によって戯れるのである。戯れとは原理そのものの戯れであり、原理の発明という戯れなのである。》が当て嵌まる南北の過剰は、勘平の腹切を延々と見せつけるのに似た髪梳きの場面の時間の持たせ方に露わだ。

・醜く変化してゆくお岩を映し出す表層としての鏡、片目を潰したお岩に、ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』のバロック的な「眼差し」を読みとることができるだろう。

・赤子を蚊から守るために吊られた蚊帳を外して質入れしようとする伊右衛門に対して、お岩は赤子可愛さに嫌とすがるが、蚊帳の襞ごと伊右衛門に無理やり引かれてお岩の爪は剥がれ、血が襞を描いてしたたる。

・《古めかしい懸命さや慎重さではなく、敏捷さ(偶然ではなく)が大切なのだ。》の前者は、お岩と小平の怨霊⇔勘平の怨霊、お岩の怨霊(形見の櫛)⇔「四段目 判官切腹」の怨霊(形見の九寸五分)という対比、狂言回しとしての按摩宅悦は地獄宿の主人かつ口入れ業でもあるが、お軽に横恋慕する鷺坂伴内とは違って、他ならぬ伊右衛門からお岩と不義するよう金で頼まれる、という『仮名手本忠臣蔵』へのアレゴリカルなパロディーを臆面もなくやってみせるところや、お梅が伊右衛門宅に内祝言で嫁入りする場面が『仮名手本忠臣蔵』「八段目 道行旅路の嫁入り」を連想させるところのえげつなさに通じ、後者の「敏捷さ」はお岩と小平の怨霊による一瞬で兼ル変化(へんげ)がそうであろう。

・《空虚を締め出し、もはや欠如には何も与えない充足の戯れである。》は、屋台の隅から隅まで登場人物たちが動きまわるという物理的な動きは勿論のこと、『東海道四谷怪談』(お岩・小平・与茂七)+『仮名手本忠臣蔵』(由良之助・勘平・本蔵女房戸名瀬)」という役を菊五郎が一人で兼ルことの充足、空虚への怖れ、不安と結びつく。

坂東玉三郎が『東海道四谷怪談』(1983年6月)上演に関連した対談で、「あの、うんと深く掘り下げていくと、伊右衛門がなぜああなるのか、伊藤喜兵衛の孫のお梅はなぜ浪人でしかも妻のある伊右衛門にあれほど夢中になるのか、必然性がわからない。現代的にいえば交渉して伊右衛門をもらってもいいわけだし、顔の変わる毒を内緒でやることもない。 桜姫の場合は、まず稚児白菊丸と清玄の因果があって話が回ってゆくので、どこから入っても話がわかるんです。清玄が白菊丸の生まれ変わりの桜姫に執着する必然性がわかるし、清玄は姫を追い、姫は自分を犯した権助にひかれて追ってゆく。そして権助と清玄が兄弟とわかる。そういうものが、話がとびながらもキチッとつながってゆく。『四谷怪談』というのはそうして考えた時になかなかわかりにくいところがあってむずかしいですね。」と話したように、そして三島由紀夫が、南北は効果のためなら、何でもやる、と評したように、貧しい民谷家に富裕な伊藤喜兵衛の孫娘お梅を来させて伊右衛門にお梅の水揚げをさせ、その同じ屋根の下で、襞のような屏風で分かつとはいえ喜兵衛に赤子を抱かせる。お岩の怨霊によるお梅と伊右衛門の誤殺のために二人を集結させるというわからなさには、必然性や論理は無視した「原理の欠如ではなく過剰」「慎重さではなく敏捷さ」「空虚ではなく充足」という南北劇に見られる特徴がある。

 

<『東海道四谷怪談』――三幕目:「十万坪隠亡堀の場」>

《確かに二つの階層はつながっている(だからこそ連続的なものが魂の中に上昇してくる)。下の方にも感覚的、動物的な魂があり、魂の中に下の階があるともいえる。そして物質の折り目が、これらの魂を囲み、包みこんでいる。魂は外にむけて開いた窓をもたない、と言われるとき、少なくとも第一に、このことはもう一つの階に上昇した理性的な、高い方の魂について言われていると理解すべきだろう(「魂の高揚(エルヴアシオン)」)。窓をもたないのは、上の階である。暗い部屋あるいは小部屋、装飾といっても「襞によって変化をつけた」布が張ってあるだけで、それは剥き出しの皮膚に似ている。不透明な布地の上に構成された襞、絃、あるいはばね仕掛けは、生得的な観念を表しているが、物質の働きのもとでそれらは行動に移るのである。なぜなら物質は、絃の下の端で、下の階に存在する「いくらかの小さな開口部」を通じて、「振動や波動」を発するからである。これこそライプニッツが取りあつかう壮大なバロック的編成であって、これは窓のある下の階と、窓がなく暗い上の階からなっている。》(ドゥルーズ『襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第1章 物質の折り目」)

《ヴェルフリンが示したように、バロックの世界は、下への陥没と上への浮力という二つのベクトルによって組織されるのである。(中略)

 バロックといわれる画家のうちでもティントレットとグレコは、比類なく輝いている。例えば、『オルガス伯爵の埋葬』は水平線で二つに分かたれ、下の方では、身体がたがいにもたれあい、ひしめいているが、上の方では、魂は、それぞれが自発性をもった聖なるモナドに待望され、細い折り目を通って昇っていくのである。》(ドゥルーズ襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第3章 バロックとは何か」)

 

「十万坪隠亡堀の場」

[非人に身を落して敵(かたき)伊右衛門の行方を探す伊藤家の後家お弓。供の乳母お槇はお岩の亡霊に川へ引きずり込まれて命を落とし、お弓も伊右衛門に川へ突き落されて死ぬ。伊右衛門の母お熊は、お岩や隣屋敷の伊藤喜兵衛らを殺して追われる身となった伊右衛門を死んだと見せかけるために、俗名を書いた卒塔婆を立てに隠亡堀に来る。伊右衛門と出あったお熊は、師直からもらったお墨付きをやる。権兵衛と名をかえて鰻かきとなった直助は、鰻かきにかかった櫛が鼈甲のものと知って持ち帰った。釣りをしていた伊右衛門が、流れてきた戸板の菰(こも)をめくるとお岩の死骸が恨みを述べ、裏返すと小平の死骸が「薬を下され」と言う。暗闇の中で伊右衛門、直助、与茂七、三人のさぐりあいとなり、与茂七の落とした回文状を直助が拾い、直助のもっていた鰻かきを伊右衛門が二つに切り、権兵衛と焼印のついた柄(え)は与茂七の手に渡った。]

 

・「上の階」と「下の階」はわかりにくいだろうから、宇野邦一「裸のモナドへ」による二階だての「バロックの館」の説明を援用しよう。《ドゥルーズは、バロックのモデルとして、二階だての「館」の図を描いている。上には、閉じられたプライベートな魂の部屋があり、さまざまなひだにみちた布が壁を覆っている。下には、開口部のある共同の部屋があり、これは身体、五感、物質の領域である。ひだは、上にも、下にもあり、上と下のあいだにも、やはりひだがある。上層は下層を表現(表出、表象)するのであって、決して作用を受けるのではない。上層(魂の部屋)が窓をもたないのは、それが「有限なものの無限の解放の条件」だからだ、とドゥルーズはいう。そして、下層は世界に開かれている。世界は、はてしない屈折、曲線、ひだのひろがりである。「モナドにとって本質的なことは、それが、ある暗い底をもっているということである。モナドはそこからすべてを引き出すのであって、何も外からはやってこず、外に出ていかない」。》

・二幕目「元の浪宅の場」の最後で、お岩と小平が戸板の裏と表に張り付けられて川に流されるのは、世界に開かれた下層への沈みこみ現象ではないだろうか。「元の浪宅の場」の暗い閉鎖性は、《魂は外にむけて開いた窓をもたない、と言われるとき、少なくとも第一に、このことはもう一つの階に上昇した理性的な、高い方の魂について言われていると理解すべきだろう(「魂の高揚(エルヴアシオン)」)。窓をもたないのは、上の階である。暗い部屋あるいは小部屋、装飾といっても「襞によって変化をつけた」布が張ってあるだけで、それは剥き出しの皮膚に似ている。》という内向の陰惨である。

・《バロックといわれる画家のうちでもティントレットとグレコは、比類なく輝いている。例えば、『オルガス伯爵の埋葬』は水平線で二つに分かたれ、下の方では、身体がたがいにもたれあい、ひしめいているが、上の方では、魂は、それぞれが自発性をもった聖なるモナドに待望され、細い折り目を通って昇っていくのである。》のように、隠亡堀の土手は上の階、掘割の水は下の階である。

・もっと大きくとらえれば、『東海道四谷怪談』は上の階、『仮名手本忠臣蔵』は下の階であって、《確かに二つの階層はつながっている(だからこそ連続的なものが魂の中に上昇してくる)。》のように、『仮名手本忠臣蔵』から連続的なものが『東海道四谷怪談』に上昇してくる。

・『東海道四谷怪談』の《下の樋(ひ)の口より、三役菊五郎、与茂七にて、非人(ひにん)の形(なり)、桐油(とうゆ)に包みし廻文状(くわいぶんじやう)を襟(えり)にかけ》の堀の水を、前田愛が説明していて、《第三幕目、砂村隠亡堀に淀んでいる昏い水のイメージは、江戸空間を蝕んでいる病理的な部分のみごとな象徴である。隠亡堀に釣糸を垂れる伊右衛門と膝まで水につかって鰻かきに余念がない直助のイメージは、この病理的な部分に寄生している彼らの生きざまそのものでなければならない。戸板に打ちつけられたお岩と小平の死骸は、早稲田田圃のあたりで江戸川に投げこまれ、神田川から大川を経てこの隠亡堀に流れつく。屍臭をただよわせる水の流れは、「四谷怪談」では空白のまま放置されていた市街地の中心部を通底し、雑司ケ谷とその反対側にある深川とを同じ死の局面で結び合わせるのである。伊右衛門のまなかいにあらわれたのは、お岩の怨霊であると同時に、江戸空間のいたるところに遍在する死の風景であったといってもいい。》のように、下の階の水は深川砂村という江戸の周縁で上の階に上ってくる。

・『東海道四谷怪談』の種本の一つともされる『四谷(よつや)雑談(ぞうだん)』の舞台「於岩(おいわ)稲荷(いなり)田宮(たみや)神社(じんじゃ)」通称「お岩稲荷」が祀られている四谷(よつや)左門(さもん)町(ちょう)は台地にあるが、崖下は、縄文海進期にえぐられた入り江の跡地で、東京三大貧民窟のひとつ鮫(さめ)河(が)橋(はし)(他の二つは下谷万年町上野駅近隣)と芝新網町浜松町駅近隣))という湿った地になる。中沢新一は『アースダイバー』の「湿った土地と乾いた土地 新宿~四谷」で、「湿地からの逆襲 四谷怪談」という章をたてて「場所の襞」を説明している。《歌舞伎芝居は湿地帯に成長する。縄文的想像力の芸能である。南北という人は、歌舞伎の人気台本作者として有名になったあとも、とりわけそういう世界とのつながりを、強く保ち続けた人だ。四谷の高台を散策しているときにも、眼下に見下ろせる沢の底にできた細長いスラム街のことを、親しみをこめて見つめたことだろう。回廊のように続く細長いその沢の南端に、たくさんの芸人たちの住む地帯がある。横山源之助の『日本の下層社会』で有名な鮫河橋界隈である。いまは小さな公園になっているその狭い一角に、その頃は下級女郎の夜鷹がなんと四千人も商売をしていたという。その元湿地帯の上で、河原者の芸能は生き生きと想像力の羽根をはばたかせていたのだ。》という南北は、「浅草裏田圃の場」で、そこまでさせなくてもよさそうなものを、お岩を夜鷹として登場させる。

 

<『東海道四谷怪談』――四幕目:「深川三角屋敷の場」「小塩田隠れ家の場」「元の三角屋敷の場」>

ライプニッツとともにバロック数学の定義が登場する。この数学は変化する大きさの「新たな変容」を対象とするが、これは変化そのものなのである。(中略)

 数学が変化を対象とするときには関数の概念が強調される傾向があるが、同時にまた対象の概念も変わって関数的になる。特に重要な数学的テクストでライプニッツは、一つまたはいくつかのパラメーターに依存する曲線族という観念を提起している。「与えられた曲線に唯一の点で接する唯一の直線を求めるかわりに、無数の点で、無数の曲線に接する曲線を求めてみよう。曲線に何かが接触するのでなく、曲線が接触するのであって、接線はもはや直線ではなく、接触する唯一のものでもなく、曲線となり、無限の族となり、何かがこれに接触するのである。」》(ドゥルーズ襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第2章 襞の中の襞」)

 

「深川三角屋敷の場」

[深川法乗院(ほうじょういん)の門前で、お袖は香花(こうはな)を売ったり、洗濯の賃仕事をしている。古着屋庄七(しょうしち)が持ち込んだ湯灌場(ゆかんば)物(もの)が姉お岩の着物に似ているので不審に思いながら盥(たらい)につけておいた。直助の持ち帰った鼈甲の櫛が姉お岩のものなので驚くお袖。盥の中の着物の袖から出た女の手が櫛をもった直助の腕をつかむ。按摩の宅悦から姉お岩の最後の様子を聞いたお袖は、父と与茂七そして姉の敵伊右衛門を一人で討たなければならなくなった。夫婦とは名ばかりでまだ枕をかわさぬ赤の他人のために助太刀はできないと言う直助に、敵を討つためと、お袖は肌を許した。隠亡堀で回文状をなくした与茂七が、鰻かきの権兵衛の名をたよりに尋ねてくる。与茂七は直助に、隠亡堀でなくした書き物と引き換えにお袖を譲ると言う。しらを切る直助を殺そうとする与茂七、恋敵の与茂七を殺そうとする直助、中に入ったお袖は、二人にそれぞれ殺す手引を約束する。]

「小塩田隠れ家の場」

[寺町の仏(ほとけ)孫兵衛(まごべえ)の家では、小平の古主である塩冶浪人小塩田又之丞をかくまっている。孫兵衛の後妻お熊は生さぬ仲の小平の倅(せがれ)次郎吉(じろきち)を蜆(しじみ)の売溜(うりだ)めが少ないと言ってはいびり、鶴膝風(かくしつぷう)にかかり足腰の立たない又之丞を厄介者扱いしていた。又之丞を思う小平の亡霊が、次郎吉を使って古着屋(兼質屋)の蔵から蒲団や掻巻(かいまき)を運ばせたために、又之丞は庄七から盗人(ぬすっと)呼ばわりをされる。その場に居合わせた塩冶浪人の赤垣伝蔵(あかがきでんぞう)は、泥棒の汚名を着せられた又之丞に仇討ちの同士の人数から除かれるだろうと告げて帰る。又之丞は言い訳のために切腹をしようとするが、小平の亡霊が現れ、又之丞を止めて、これまでの一部始終を語り、難病の薬ソウキセイを渡して消え去った。ソウキセイを飲むと、又之丞は難病が完治し、これで義士の一人として仇討ちに加わると喜ぶ。]

「元の三角屋敷の場」

[お袖の言う通り行灯の消えたのを合図に、直助と与茂七は屏風を突き刺すとそこにはお袖が倒れていた。お袖の書置と臍(ほぞ)の緒(お)書きから、お袖が妹であり、与茂七と間違って殺したのは古主の子息奥田庄三郎であることを知った直助は、お袖の首をはねて自分も切腹、置き土産にと与茂七に回文状を手渡して息絶える。]

 

・《この数学は変化する大きさの「新たな変容」を対象とするが、これは変化そのものなのである。》という無数の三角関係があって、三つの頂点の役回りは、ずらしと差異によって変化、変容する。「与茂七―お袖―直助」(「勘平―お軽―伴内」に対応)の三角関係による、無秩序で雑多、メロドラマ、愁嘆場にしてグロテスクで滑稽なやりとりは「役の襞」である。「伊右衛門⇔喜兵衛(お梅)⇔お岩」(「顔世御前⇔高師直⇔塩冶判官」に対応)、「お岩⇔伊右衛門⇔お梅」(「顔世⇔判官⇔師直」に対応)という三角形は、横恋慕⇔拒絶、毒薬⇔憤死、挑発⇔切腹によって、フーガかリトルネロのように追走、回転しつづける。

・《曲線に何かが接触するのでなく、曲線が接触するのであって、接線はもはや直線ではなく、接触する唯一のものでもなく、曲線となり、無限の族となり、何かがこれに接触するのである。》とは「微分」の概念であって、お袖(楊枝見世の店番、与茂七の許嫁、地獄宿の私娼、直助との仮夫婦)⇔お軽(武家の腰元、猟師勘平の女房、祇園一力の遊女)という兼ル女の色恋と金と遊里が対応するように、直助の切腹は『仮名手本忠臣蔵』七段目「勘平腹切の場」に対応し、直助が与茂七に回文状をわたして息絶える場面が『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居の場」の瀕死の本蔵が由良之助に絵図面を渡す場面に対応し、と連続的、曲線的に『仮名手本忠臣蔵』に接触し続ける。

・深川三角屋敷という周縁の地で、湯灌場物の布に襞を見ることができる。形見の櫛はお岩の波打つ襞のような髪を思いおこさせ、盥からお岩の腕が出てくる場面は下の階から上の階への上昇ではないのか。

・直助とお袖のいきなりの畜生道にも、なんでももってくる南北の過剰がみてとれる、というように、折口の《宅悦住家及び、此を受けてゐる三角屋敷の場などは、南北らしい惨虐と幻怪味と不道徳とが、腐つたはらわたの様に、纏綿してゐるのだが、これすら完全に二つ連続して上演した事を、覚えてゐない。もう、完全なお岩小平の恐怖は、東海道四谷怪談の台本によつて受ける外はなくなつたと言へる。》という事態は好ましくない。

 

<『東海道四谷怪談』――五幕目:「夢の場」「蛇山庵室の場」>

《もう既に久しい前から、あらゆる中心(・・)も、またあらゆる指定可能な形態も失ってしまった無限の宇宙という仮説が練りあげられている。しかしバロックの特性とは、観点としての頂点(・・)から発する投影によって、このような宇宙に再び一つの統一性を与えたことなのだ。もうずっと前から、世界は根本的に演劇として、夢想あるいは幻影として、ライプニッツがいうように道化の衣裳として扱われている。しかしバロックの特性とは、幻影に陥ることでも、幻影から脱出することでもなく、幻影そのものの中で何かを実現すること、幻影に精神的な現前(・・)を伝え、幻影の部分や断片に集合としての統一性を再び与えるようにすることなのだ。》ドゥルーズ襞(ひだ) ライプニッツバロック』「第9章 新しい調和)

 

「夢の場」

[殿様姿の伊右衛門は、奴(やっこ)となった秋山長兵衛を供に鷹狩りに来て、鷹の逃げ込んだ百姓家を訪れる。中では美しい在所娘が糸を紡いでいた。娘に心引かれた伊右衛門は酒を酌みかわし。簾(すだれ)の内で情をかわす。帰ろうとする伊右衛門を引き止める娘の顔がお岩の亡霊となる。さてはお岩の執念と伊右衛門が刀を抜いて切りかかると、糸車は炎を吹いて回りはじめ、鷹は鼠(ねずみ)となって伊右衛門に飛びかかって来る。お岩のたたりから熱病にかかった伊右衛門は蛇山の庵室(あんじつ)で夢を見ていたのである。]

「蛇山庵室の場」

[近所の人々が集まって伊右衛門の熱病をしずめるために百万遍の念仏を唱えている蛇山の庵室へ、お熊の前夫で伊右衛門にとっては義理の父である塩冶浪人の進藤源四郎が訪れる。念仏の合間に庭に出た伊右衛門に、お岩の亡霊が腰から下を血だらけにした産女(うぶめ)姿で現れ、抱いていた子供を渡して消える。驚いた伊右衛門が思わず子供を取り落とすと、たちまちその子は石地蔵となった。伊右衛門からお墨付きをもらった長兵衛は、毎夜大きな鼠に苦しめられるとお墨付きを返しに来たが、お岩の亡霊に絞め殺される。お墨付きは鼠に食い荒らされ、高野家へ仕官のための役に立たなくなってしまう。父源四郎は伊右衛門を勘当して首をくくり、母のお熊はお岩の亡霊に喉をかまれ哀れな最後を遂げた。旧悪が露見して捕り手に囲まれた伊右衛門は、たくさんの鼠にまといつかれ、与茂七の一太刀をあびて苦しみもだえるのであった。]

 

・「夢の場」では、崇徳院(すとくいん)の歌(「瀬をはやみ岩に堰(せ)かるゝ滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」(「詞花集」恋上))を恋人同士の再会、口説きの常として二人で割って語らせる。

伊右衛門 こりや七夕へさゝげたる百人一首の歌の内、〽瀬をはやみ、岩に堰(せ)かるゝ滝川の

お岩   われても末に、逢はんとぞ思ふ。○ われても末に》

百人一首にも収められたこの歌は、「岩」という名にちなむと説明されるきりなのだが、平将門菅原道真崇徳院という日本の三大怨霊の一人崇徳院をわざわざ持ってきたところにもっと注目すべきだろう。怨霊の大衆版が、『仮名手本忠臣蔵』の勘平であり、『東海道四谷怪談』の女お岩なのだから。

崇徳院は「夢」の歌の名手でもあり、「朝夕に花茉ころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける」、「うたた寝は萩ふく風に驚けどながき夢路ぞ覚むるときなき」、「夢の世になれこし契り朽ちずしてさめん朝にあふこともがな」などがある。「隠亡堀の場」で、お熊が師直からもらったお墨付きを伊右衛門に渡すが、伊右衛門の師直落胤説は、「蛇山庵室の場」でもしつこく取りざたされることからあながち否定できず、そうすると貴種流離たる伊右衛門が在所の美しいお岩との色模様を夢に見るという舞踊劇は、文学伝統の原型、人びとの深層心理に結びつくうえに、『仮名手本忠臣蔵』「道行」と同じ江戸歌舞伎の幕構成の息抜き役も果たすのだから、省略すべきではない。《もうずっと前から、世界は根本的に演劇として、夢想あるいは幻影として、ライプニッツがいうように道化の衣裳として扱われている。》という幻影の濃艶な恋模様は「ありえた世界」の表徴ともいえよう。

・舞台技術を駆使した「蛇山庵室の場」は、『仮名手本忠臣蔵』十一段目「討入りの場」に対応し、与茂七⇔由良之助による敵討ちであるけれども、女の敵討というテーマも透けて見える。

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』の「アレゴリーバロック悲劇」のアレゴリーを、猫を食べてしまう鼠という「逆転」、子年生まれのお岩のアレゴリーとして見ることが可能だろう。

・《しかしバロックの特性とは、幻影に陥ることでも、幻影から脱出することでもなく、幻影そのものの中で何かを実現すること、幻影に精神的な現前(・・)を伝え、幻影の部分や断片に集合としての統一性を再び与えるようにすることなのだ。》という統一性への腕の振るい方こそ、齢七十一になる老練な南北のバロック的な技であったに違いない。

                       (了)

 

バロックの館>

                            

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「襞によって変化をつけた布」を張りめぐらせた閉じた部屋

「いくらかの小さい開口部」のある共同の部屋

           

<「オルガス伯爵の埋葬」(エル・グレコ)>

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*****参考または引用文献*****

鶴屋南北東海道四谷怪談河竹繁俊校訂(岩波文庫

鶴屋南北『新潮日本古典集成 東海道四谷怪談郡司正勝校注(新潮社)

鶴屋南北『歌舞伎オン・ステージ18 東海道四谷怪談』諏訪春雄編著(白水社

郡司正勝鶴屋南北 かぶきが生んだ無教養の表現主義』(中公新書

郡司正勝『かぶき 様式と伝承』(ちくま学芸文庫

小林恭二『新釈 四谷怪談』(集英社新書

渡辺保『江戸演劇史』(講談社

*諏訪春雄『鶴屋南北』(ミネルヴァ書房

*廣末保『四谷怪談――悪意と笑い――』(岩波新書

高田衛『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』(洋泉社

塩見鮮一郎四谷怪談地誌』(河出書房新社

*犬丸治『天保十一年の忠臣蔵 鶴屋南北『盟三五大切』を読む』(雄山閣

河竹登志夫『歌舞伎』(東京大学出版会

河竹登志夫『歌舞伎美論』(東京大学出版会

折口信夫折口信夫全集22かぶき讃(芸能史2)』(「お岩と与茂七」所収)(中央公論社

三島由紀夫三島由紀夫全集32』(「南北的世界(「桜姫東文章(あづまぶんしやう)」)」所収)(新潮社)

前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房

中沢新一『アースダイバー』(講談社

丸谷才一丸谷才一全集8』(「出雲のお国」所収)(新潮社)

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』(筑摩書房

ドナルド・キーン『日本文学史 近世編 三』徳岡孝夫訳(中公文庫)

*松原岩五郎『最暗黒の東京』(岩波文庫

横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫

服部幸雄『さかさまの幽霊』(ちくま学芸文庫

*『國文学 解釈と教材の研究 忠臣蔵・日本人の証明』(昭和61年12月号)(服部幸雄「由良之助とお軽勘平――『仮名手本忠臣蔵』の宇宙(コスモス)」所収)(学燈社

ジル・ドゥルーズ『襞(ひだ) ライプニッツバロック宇野邦一訳(河出書房新社

*『現代思想 特集=ライプニッツ――バロックの哲学』1988年10月号(宇野邦一「裸のモナド」所収)(青土社

中沢新一チベットモーツァルト』(「チベットモーツァルト――クリステヴァ論」所収)(講談社学術文庫

*『世界の名著 スピノザライプニッツ』(ライプニッツ形而上学叙説」「モナドジー」所収)下村寅太郎責任編集(中央公論社

ライプニッツ形而上学叙説 ライプニッツ−アルノー往復書簡 』橋本由美子監訳(平凡社ライブラリー

ライプニッツライプニッツ著作集(2)数学論・数学』原 亨吉、佐々木 力、他訳(工作舎

*クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『見ることの狂気 バロック美学と眼差しのアルケオロジー』谷川渥訳(ありな書房)

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』小出浩之、新宮一成、他訳(岩波書店

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』浅井健二郎訳(ちくま学芸文庫

 

演劇批評 「三島『サド侯爵夫人』のコペルニクス的転回」

 「三島『サド侯爵夫人』のコペルニクス的転回」

 

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 三島由紀夫の戯曲から代表作を三つあげろと言われれば、大方の人は、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』『鹿鳴館』を名指すだろう。人によっては、『近代能楽集』から『綾の鼓』か『卒塔婆小町』か『弱法師』あたりを滑り込ませるかもしれないし、あるいは歌舞伎好きなら『鰯売恋曳綱(いわしうりこいのひきあみ)』を割り込ませるかもしれない。そういった出入りがあったにせよ、まず『サド侯爵夫人』は落ちまい。それだけ完成度も人気も高く、様々な演出の工夫による話題と共にいくたびも上演されてきている。

 昭和40年(1965年)6月に執筆開始された『サド侯爵夫人』の書かれたいきさつや三島の意図・狙いは、三島自身が、「跋(ばつ)」や「解題(解説)」として、本やプログラムや新聞にほぼ同工異曲で書いて来たので、作者の思いは明確に宣言されていると考えるのが自然だろう。しかし、あまりに明確に見せられるがゆえに、かえって見えなくなってしまう、あるいは逆説の人三島であるだけに、見せつつ見せない、ということもあるのではないか。

 

<『サド侯爵夫人』の作劇意図>

 まずは三島が正直に書いたに違いない(小説『禁色』、歌舞伎『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき)』のような、自信作であるにもかかわらずの低評価を気にして、あらかじめ自分から意図を説明しようとした)河出書房新社刊『サド侯爵夫人』昭和40年11月の「跋(ばつ)」をみておく。三島には、この戯曲ならではの三点の意図があった。

 一点目は「切り口」。

澁澤龍彦氏の『サド侯爵の生涯』を面白く読んで、私がもっとも作家的興味をそそられたのは、サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫尽していながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまうのか、という謎であった。この芝居はこの謎から出発し、その謎の論理的解明を試みたものである。そこには人間性のもっとも不可解、かつ、もっとも真実なものが宿っている筈であり、私はすべてをその視点に置いて、そこからサドを眺めてみたかった。》

 二点目は「サド論」。

《いわばこれは「女性によるサド論」であるから、サド夫人を中心に、各役が女だけで固められなければならぬ。サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。》

 三点目は「言葉(台詞)」。

《舞台の末梢(まつしよう)的技巧は一切これを排し、セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻らねばならぬ。目のたのしみは、美しいロココ風の衣裳(いしよう)が引受けてくれるであろう。すべては、サド夫人をめぐる一つの精密な数学的体系でなければならぬ。》

 以上、三点である。

 一点目の「切り口」については、同じく昭和40年11月の『劇団NLTプログラム』の冒頭に、劇の核心ともいえる構造、サドという「中心の不在・虚無」を、歌舞伎女方への逡巡、と絡めて解説している。

《あるときふと「こりゃ、サド自身を出さない、という行き方があるんじゃないか」と思いつき、それから俄かに構想がまとまりはじめたのである。芝居の構想がまとまるキッカケというものは、大抵そんな風に単純なものである。サドを、舞台に出さぬとなれば、他の男は、もちろん出て来てはならない。サドが男の代表であるべき芝居に、他の男が出て来ては、サドの典型性が薄れるからである。しかし女ばかりの舞台では、声質が単調になりがちで、(これは宝塚の舞台を、考えればすぐわかる)、殊にセリフ本位の芝居の場合は、それが心配になり、構想中、老貴婦人の役を出して、女形で、やらせる、とも考えたが新劇における女形演技の無伝統を思うと、それも怖くなってやめてしまい、結局女だけの登場人物で通すことにした。》

 三点目の「言葉(台詞)」については、昭和41年7月の毎日新聞『『サド侯爵夫人』の再演』に、大入り満員だった東京再演に対して、三島の作劇の意図と自信をはっきりと念押し、強調している。

《もっとも下劣、もっとも卑ワイ、もっとも残酷、もっとも不道徳、もっとも汚らしいことをもっとも優雅なことばで語らせること。そういう私のプランのなかには、もちろんことばの抽象性と、ことばの浄化力に関する自信があった。それが、芝居におけるセリフの力を、もっとも目ざましく証明してくれるはずだった。(中略)芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいうまでもないが、その相克はかしゃくないセリフの決闘によってしか、そしてセリフ自体の演技的表現によってしか、決して全き表現を得ることがない。その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もっともらしい理屈をくっつけて来たにすぎない。》

 同じくロゴスとセリフへのこだわりを、昭和42年8月の中央公論社刊『サド侯爵夫人』限定版の『豪華版のための補跋(『サド侯爵夫人』)』で補足している。

《日本で純粋な対話劇が発達しなかったのには、さまざまな理由が考えられるが、根本的には、日本人の人間観自然観に、主客の対立を厳しくしないものがあるからであろう。主客の対立を惹(ひ)き起すものこそ言葉であり、言葉のロゴスを介して、感情的対立は、理論的思想的対立になり、そこにはじめて劇的客観性を生じて、これがさらに、観客の主観との対立緊張を生むことになる。これがギリシア以来の西欧の演劇伝統のあらましである。ラシイヌの戯曲は、このようなラテン的伝統の精華であろう。しかるに、日本に移入された西欧劇(いわゆる新劇)は、その戯曲解釈において、必ずしも、こうした西欧的伝統を継受するものではなく、表面はわが伝統演劇ときびしく対決したように見えながら、その実、セリフの文学性、論理性、朗誦(ろうしょう)性、抽象性等々をことごとく没却して、写実的デッサンと心理的トリヴィアリズムと性格表現の重視、あるいはイデオロギーの偏重に災いされ、却って偏頗(へんぱ)で特殊な一演劇ジャンルを形成してしまった。それだけそれがみごとな変種であるかというと、そうとばかりは言えぬ。セリフ自体をでなく、セリフの行間のニュアンスを固執する日本伝統演劇の演技術や演出術が、そこかしこに無意識に顔を出している。》

 ラシイヌ劇の演出家にして翻訳者でもある渡邊守章が1995年にさいたま芸術劇場で『サド侯爵夫人』を演出するにあたり、『三島由紀夫作『サド侯爵夫人』の演出について』を書いている。

《作者が繰り返し述べているように、劇作術のモデルは、幾何学的均衡と、強固な論理構造と、輪郭の鮮明な言語によって書かれたフランスの古典主義悲劇である。かつてラシーヌの『ブリタニキュス』に挑んだ三島の、これは文字通りの力業であり、しかもそれに見事に成功している。そこには、文を彩る三島好みのドイツ・ロマン派的な官能性も与(あず)かって大きいが、同時に、新劇の発明した奇怪な『翻訳調』を逆手に取るという計画は、実は通常の「翻訳調」などとはレベルを全く異にする。格調高くかつ色っぽい(・・・・)日本語の台詞に結晶している。三島が愛唱した『天守物語』の鏡花の影さえも透けて見えるので、この戯曲を演じるとなれば、まず三島の台詞を身体化するところから始めなくてはなるまい。

 主題の孕(はら)みうる性的な異常性やその哲学的・政治的作用は、それはそれで重要だが、徒(いたずら)な内容主義に走って、三島のテクストの持つ演劇言語としてのあの魅力と強度が活かされないならば、この戯曲に挑戦する意味はない。なによりもまず言語であり、台詞を音楽の譜面のように捉えることである。》

 渡邊守章に、「主題の孕(はら)みうる性的な異常性やその哲学的・政治的作用は、それはそれで重要だが、徒(いたずら)な内容主義に走って」と釘をさされてはいるが、「三島のテクストの持つ演劇言語としてのあの魅力と強度」は観劇するか、後に引用もするから、声に出して読んでもらうことで味わうとして、内容、とりわけその哲学的作用とでもいったものを論考してみたい。

 

 

<『サド侯爵夫人』>

 戯曲は三幕からなる。物語の節目も、その三幕と一致した三つの時間による。空間はパリのモントルイユ夫人邸サロンから動かない。登場人物は、サド侯爵夫人ルネ、ルネの母親モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、シミアーヌ男爵夫人、サン・フォン伯爵夫人、モントルイユ夫人家政婦シャルロットという女ばかりの六人(六人が六芒星ダビデの星のような幾何学✡をなし、惑星のような図形の中心にはサド侯爵が存在するはずだが、空白、空虚、無ともいえる)。

 

 第一幕。

 1772年秋。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 サドの物語の口寄せのような悪徳の権化サン・フォン伯爵夫人が信心深い美徳の象徴シミアーヌ男爵夫人に、三月前にサド侯爵(アルフォンス)が売春婦達と起こしたマルセイユ事件のために、高等法院から死刑の判決を受け、肖像が町の広場で焼かれたスキャンダルを披露している。サドはこれまでも売春婦や乞食、女役者などと乱交に耽り、拘留されたりしたが、その度にサドの妻ルネの母親モントルイユ夫人が莫大な金を使って釈放したり、娘ルネに知られないようにと噂を消してまわっていた。夫人は、追われる娘婿サドの無罪放免のために、法王庁に赦免の沙汰を願い出てほしいシミアーヌ男爵夫人と、高等法院の判決を破棄するために大法官をたらしこめるサン・フォン伯爵夫人を招いたのだった。そこへ、娘ルネがラ・コストの城からパリに戻って来た。夫人はルネにサドとの離別を勧めるが、貞淑な妻であることを守り通そうと拒否される。さらに妹娘のアンヌも戻ってきて、義兄のサドと一緒にヴェニスに旅していたこと、自分とサドの関係は姉のルネも知っていることを母に告げて悲嘆させる。サドの隠れ家がサルデニア王国とアンヌから聞き出した夫人は、サン・フォン伯爵夫人とシミアーヌ男爵夫人への頼みを取消す手紙を家政婦のシャルロットに託すとともに、国王へのお願い(サド逮捕)の手紙を自分で届けることとする。

 

 第二幕 。

 6年後の1778年晩夏9月。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 サド(アルフォンス)の罪を罰金刑で済ますとする高等法院再審の結果をサド侯爵夫人(ルネ)のところへ妹アンヌが届けに来る。この報せで、母子三人のわだかまりも融けたかのように見えたが、散歩のついでに立ち寄ったサン・フォン伯爵夫人が、7月にヴァンセンヌの牢獄から釈放されたサドは、忽(たちま)ち王家の警官に捕らえられ、さらに堅固な独房へ移されていて、すべてはモントルイユ夫人の罠だった、と暴いて立去る。ルネは母モントルイユ夫人に詰め寄り、激しい言葉の応酬となる。夫人はルネに、サドを牢屋に入れておけば嫉妬もせずにすむのに、何故怪物を自由の身にしたいのかと問う。ルネは母から教わった「貞淑」のためだと応えるが、夫人は密偵からの報告で、4年前のノエルの夜にラ・コストの城で、丸裸のルネがサドの饗宴の一人だったのを知っていた、と明かす。ルネは、サドは譬(たとえ)でしか語れない人で、鳩であり、金髪の白い小さな花であり、自分はその共犯者になったのです、母と父はしきたりや道徳や正常さと一緒に寝て、一寸でも則(のり)に外れたものへの憎しみや蔑(さげす)みで生きていると言い返す。夫人が、お前の顔がアルフォンスに似てしまったと言うと、ルネは「アルフォンスは、私だったのです」と告げる。

 

 第三幕 。

 さらに12年後の1790年春4月。フランス革命勃発後九ヶ月。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 王侯、貴族に身の危険が迫る革命が勃発した。憲法制定議会が勅命逮捕状を無効にしたことで、サド(アルフォンス)は帰ってこようとしていた。パリに飽きたサン・フォン伯爵夫人は、マルセイユで娼婦に身をやつしていて、警官隊に襲われた暴徒に踏みつぶされてしまった。妹娘アンヌが母モントルイユ夫人に一緒にヴェニスへ逃げようと誘うが、夫人は、牢屋のサドが革命党と知合いで、便宜をはかってやろうと手紙で言ってきたことを心にとめている。尼になったシミアーヌ男爵夫人が現れる。サドが自由の身で帰ってこようとしているのに、ルネは世を捨て、シミアーヌ夫人のいる修道院へ入る決心をしていた。なぜかと問う母にルネは言う。サドから牢屋で手渡された物語『ジュスティーヌ』(美徳を守ろうとする妹ジュスティーヌはあらゆる不幸に遭い、悪を推し進める姉ジュリエットはあらゆる幸運を得て富み栄え、しかも神の怒りは姉には下らず、みじめな最期を遂げるのは妹ジュスティーヌのほうだった)を読み、むかし、「アルフォンスは私です」と言ったのは思いちがいだった、本当は、「ジュスティーヌは私です」だった、サドは、内側から鑢(やすり)一つ使わずに牢を破っていた、朽ちない悪徳の大伽藍(だいがらん)を築き上げようとして、悪の水晶を創り出してしまった、人のこの世をそっくり鉄格子のなかへ閉じ込め、あらゆる悪をかき集めて、もうすこしで永遠に指を届かせようと天国への裏階段をつけた、神がその仕事をアルフォンスにお委(まか)せになったのかもしれません。十八年のあいだ待ちこがれた自由の身になって帰ってきても決心は渝(かわ)りはいたしません。家政婦シャルロットが戸口の外に、サド侯爵がお見えです、と告げる。あまりに変り、物乞いの老人のようで、醜く肥えておしまいになった、とシャルロットから聞いたルネは告げる。「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。」

 

<ルソー/カント/サド>

 ルソー(1712年 ~1778年)とカント(1724年 ~1804年)とサド(1740年 ~1814年)は、啓蒙と理性の世紀といわれる十八世紀後半を生きた同時代人だった(さらにゲーテ(1749年~1832年)とモーツァルト1756年1791年)も直近の影響を受けた)。

 

 カントは、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)の『批判』三部作に打ち込む以前に、ルソーに夢中になっている。

 カント学者である坂部恵の『カントとルソー』および『人間学の地平』によれば、カントがルソーの『エミール』に読みふけって、日課の散歩を忘れたという逸話の伝える出来事がおこったのは、およそ1763年から64年にかけての時期であるという。ルソーの思想の影響は、1763年の10月に書き終えられた『美と崇高の感情に関する観察』の注に、『エミール』に関する言及が見られ、1764年2月の『脳病試論』、翌年の『一七六五年―六六年冬学期の講義計画』から、翌々年すなわち1766年はじめの『視霊者の夢』でさらに身についたものとなって、この時期の著作の基調音をなすにいたる。ルソーのカントへの影響を論じる際にきまって引用される、カントが『美と崇高の感情に関する観察』の手沢本(しゅたくぼん)に書きこんだ有名な断章には、《私は気立てからしても学者だ、知ることを渇望し、また、ものを知りたいという貪欲な不安にとらわれ、あるいは、一歩進むごとに満足をおぼえもする。一時期、私はこのことのみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。もし、この尊敬が、他のすべての研究に、人間の諸権利を顕揚するという価値をあたえうると信じなかったならば、私は私自身をありきたりの労働者よりずっと無用な者と考えるだろう》とある。坂部は、既成の文明の一切を仮のものと感じさせるほどに、人間としての人間、生地のままの人間、いわゆる自然人をみすえてはなさず、みずからその生き証人となることによって、既成の学問、芸術、道徳などの一切を根底から批判しさるというルソーの、ときに理性と称されるものまでも含めての一切の虚飾を排した徹底的な思想に、カントは心の底から揺り動かされた(ただし、ルソーの誇張の多い、ロマン的な文体に目をくらまされることはなかった)、と論じた。

 

 サドもまたルソーを熱心に読んだ。おそらくは幼いころから、そして監獄のなかでも読むことを熱望した。

 植田祐次の『啓蒙の時代のリベルタン作家』によれば、サドに影響を及ぼした人物として、父サド伯爵が、五歳のドナシャン(のちのサド侯爵)を5年間預けた、プロヴァンス地方のソマーヌに住む実弟、大修道院長のジャック=フランソワの名をあげている。彼は、ヴォルテールの友人でもあり、途方もない学識を持ったディレッタントで、サド家の先祖ラウラの恋人、詩聖ペトラルカの研究家でもあった。『サド伝』を著したモーリス・ルヴェールによれば、叔父にあたるこの修道院長の蔵書は、ギリシア、ラテンの作家たちの書はもちろんのこと、ロック『人間悟性論』、モンテスキュー『著作集』、ホッブス『市民論』、『ドン・キホーテ』、プレヴォー『貴人の回想と冒険』、ルソーの『新エロイーズ』『エミール』『社会契約論』など、ヴォルテール『ランジェニ』『戯画集』、ディドロ『戯曲集』など当代作家の作品や好色本が揃えられていて、ドナシャン少年は叔父の書棚を隅々まで熟知していたという。

 澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』によれば、ヴァンセンヌの獄で、サドが最も欲したものは食物と本であった。彼が夫人の差入れによって、どんな本を好んで読んでいたかといえば、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』、マントノン夫人の伝記、ルクレティウスの『万象論』、ヴォルテールの対話編、ビュフォンの『博物誌』、モンテーニュの全集などで、ドルバック『自然の体系』やルソー『告白』などは獄吏の干渉によってサドの手に入らなかった。

 ルソーの『告白』を入手できなかったことへのサドの憤りは、澁澤龍彦『サド侯爵の手紙』の1787年7月、サド侯爵夫人宛で読むことができる。《私にルクレティウスの本とヴォルテールの対話を送ってくれたあとで、今度はジャン=ジャックの『告白』を差し入れ禁止にするとは、何ともすばらしい処置だと申しあげるしかない。これこそ、あなた方管理者の偉大な眼識と深い洞察力を証明するものだ。(中略)ルソーはあなた方のような偏狭な心の人間には危険な著者かもしれないが、私にとっては、世にもすぐれた書物の著者なのだということを理解するだけの良識をもっていただきたい。ジャン=ジャックは私にとって、ちょうどあなた方にとっての『キリストのまねび』のような書物なのだ。ルソーの道徳と宗教は、私のためにはきびしいものだ。私は教科されたいと思うとき、ルソーの本を読む。》

 そして、サドは11月24日の夫人への手紙に、出所してから最初にするだろう自由の行為は、ぜひとも次の書物をただちに購入するということだ、として、ビュフォンの『博物誌』、モンテーニュヴォルテール、J=J・ルソーなどの作品の全部、フランスや東ローマ帝国の歴史、などをあげている。

 

 カントとサドについてはどうだろうか。

 サドはドイツ語圏であるカントの諸作品を読んではいなかったようだが、カントとサドの類縁性については、ジャック・ラカンの有名な論考が『エクリ』およびセミネール『精神分析の倫理』にある。これも、坂部恵が『理性の不安――サドとカント』に要点をまとめている。

《構造言語学の方法を精神分析に導入したジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。》

 カントの「道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則」は、サドの「主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望」と、「同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうる」というラカン精神分析の倫理』の『道徳的法則』を直接引用すれば、

《まさしくニュートン物理学が、純粋なものとしての理性の機能の根本的な見直しをカントに迫ったのです。(中略)いかなる「幸せ Wohl」も、それが我々の「幸せ」にしろ、隣人の「幸せ」にしろ、道徳的行為の目的性にはそのものとしては関与してはならないのです。可能な道徳的行為の唯一の定義とは、彼が次の有名な定式で与えたものです。「汝の行為の格率が普遍的格率と見なされるように行動すべし」。行為が道徳的であるとしたら、それは格率が示す動機のみによって命令されている限りにおいてなのです。(中略)「汝の意志の格率が常に万人にとっての法原則でありうるような仕方で行動すべし(ドイツ語略)」。ご存知のようにこの定式はカントの倫理の中心ですが、これを彼はその極限にまで推し進めました。このラディカルなリズムは次のようなパラドックス、つまるところ「gute Willen 善き意志」があらゆる立派な行為から排除されるというパラッドックスに行き着きました。(中略)

 ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存知のように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は約二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたということもできます。(中略)

 サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反―道徳ともいうべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反―道徳のパラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。(中略)

 さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係や婚姻関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現れるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。》

 

コペルニクス的転回>

 三島文学における、達成・到達の、最後の最後での不可能性・敗北という重要な本質が、昭和44年5月の『劇団浪曼劇場プログラム』で高らかに宣言されている。さきの三点は『サド侯爵夫人』特有の意図であったが、こちらは三島文学の通奏低音である。

《『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠(けんたい)、性の現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞(たくま)しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていずれもジョルジュ・バタイユのいわゆる「エロスの不可能性」へ向って、無意識に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北してゆくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡(うち)に埋没する。それが人間の宿命なのだ。私が劇の本質と考えるものも、これ以外にはない。》

 

 カントのいわゆる「コペルニクス的転回」について復習しておこう。明示的には、カント『純粋理性批判』の第二版序文の以下の文章をさす。

《これまでわたしたちは、人間のすべての認識は、その対象にしたがって規定されるべきだと想定してきた。しかし概念によって、対象について何ものかをアプリオリに作りだし、人間の認識を拡張しようとするすべての試みは、この想定のもとでは失敗に終わったのである。だから[認識が対象にしたがうのではなく]対象がわたしたちの認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば、形而上学の課題をよりよく推進することができるのではなかろうか。ともかくこれを、ひとたびは試してみるべきではないだろうか。形而上学の課題とするところは、対象をアプリオリに認識する可能性を確保すること、すなわち対象がわたしたちに[経験によって]与えられる以前に、対象について何ごとかを確認できるようにすることにある。だからこの想定はこの課題にふさわしいものなのである。

 この状況はコペルニクス(・・・・・・)の最初の着想と似たところがある。コペルニクスは、すべての天体が観察者を中心として回転すると想定したのでは、天体の運動をうまく説明できないことに気づいた。そこで反対に観察者のほうを回転させて、天体の運動をそのように説明しようとしたのである。だから形而上学においても、対象の直観(・・)について、同じような説明を試みることができるのである。もしもわたしたちの直観が、対象の性質にしたがって規定されなければならないとしたら、わたしたちが対象について何かをアプリオリに知りうる理由は、まったく理解できなくなる。ところが感覚能力の客体である対象が、わたしたちの直観能力の性質にしたがって規定されねばならないと考えるならば、わたしたちが対象をアプリオリに知ることができる理由がよく分かるのである。》

 

 サド侯爵夫人ルネがようやくにして自由の身となったサドからあえて離別し、修道院へ入ったのは歴史的史実だが、その理由は、三島の文学的な想像力、構想にすぎない。おそらくは、ルネの単純な宗教心であったのだろう。サド侯爵は、ルソーの影響を初期において決定的に受けたカントそれ自体を読んではいなくとも、十八世紀末の思潮に共鳴していた。長く獄中のサドと観念の手紙をやりとりしていたサド侯爵夫人が、たとえルソーも(そして、もちろん)カントも読んでいなくとも、その思潮に無意識のうちに音叉のように共鳴してしまうことはありえる。たとえ三島がそうと意識していなかったにしろ、カントの「コペルニクス的転回」の音色が、ルソー/カント/サドの波長でサド侯爵夫人ルネの音叉から鳴ってしまう(鳴らしてしまう)ことは不思議ではない。

 

 サド侯爵夫人の「コペルニクス的転回」は、手袋を裏返すような、内と外の反転、主客の転倒として、天空のイメージをともなっておこる。太陽サドは、それまでは地球というサド侯爵夫人のまわりを廻っているはずだったのに、『ジュスティーヌ』物語を書くことによって、天動説から地動説へという「コペルニクス的転回」が起り、サド侯爵夫人やモントルイユ夫人やアンヌなどの惑星を回転させてしまった。

 サドから牢屋で手渡された物語『ジュスティーヌ』(美徳を守ろうとするジュスティーヌはあらゆる不幸に遭い、みじめな最期を遂げる)を読んだルネが、淑徳のために不運を重ねるジュスティーヌの話は、サドが自分のために書いたのではないか、と主張する台詞は、認識が対象に従うのではなく、対象がわれわれの認識に従う、のと同じように、世界がサドを閉じ込めるのではなく、サドが世界を創造し、物語りに閉じこめてしまっている。

ルネ あれはまちがいでございました。とんでもない思いちがいでございました。むしろこう言うのが本当でしょう。

「ジュスティーヌは私です」って。

 牢屋の中で考えに考え、書きに書いて、アルフォンスは私を、一つの物語のなかへ閉じ込めてしまった。牢の外側にいる私たちのほうが、のこらず牢に入れられてしまった。私たちの一生は、私たちの苦難の数々は、おかげではかない徒労に終った。一つの怖ろしい物語の、こんな成就(じょうじゅ)を助けるためだけに、私たちは生き、動き、悲しみ、叫んでいたのでございます。

 そしてアルフォンスは……、ああ、その物語を読んだときから、私にはじめてあの人が、牢屋のなかで何をしていたのかを悟りました。バスティユの牢が外側の力で破られたのに引きかえて、あの人は内側から鑢(やすり)一つ使わずに牢を破っていたのです。牢はあの人のふくれる力でみじんになった。そのあとでは、牢にとどまっていたのはあの人が、自由に選んだことだと申せましょう。私の永い辛苦、脱獄の手助け、赦免の運動、牢番への賄賂(まいない)、上役への愁訴、何もかも意味のない徒(あだ)し事(ごと)だったのでございます。

 充(み)ち足りると思えば忽(たちま)ちに消える肉の行いの空(むな)しさよりも、あの人は朽ちない悪徳の大伽藍(だいがらん)を、築き上げようといたしました。点々とした悪業よりも悪の掟を、行いよりも法則を、快楽の一夜よりも未来永劫(えいごう)につづく長い夜を、鞭の奴隷(どれい)よりも鞭の王国を、この世に打ち建てようといたしました。ものを傷つけることにだけ心を奪われるあの人が、ものを創ってしまったのでございます。何かわからぬものがあの人の中に生れ、悪の中でももっとも澄みやかな、悪の水晶を創り出してしまいました。そして、お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます。》

 

 ところが、中心となったはずの太陽サドが、世界の創造者となったサドが、あろうことか、物語に閉じこめたはずの夫人ルネに拒絶されてしまう。

 最終第三幕のラストで、家政婦シャルロットが、「サド侯爵がお見えでございます。お通しいたしましょうか。」と告げると、

ルネ どんな御様子かときいているのです。

シャルロット  あまりお変りになっていらっしゃるので、お見それするところでございました。黒い羅紗(らしゃ)の上着をお召しですが、肱(ひじ)のあたりに継ぎが当って、シャツの衿元(えりもと)もひどく汚れておいでなので、失礼ですがはじめは物乞いの老人かと思いました。そしてあのお肥(ふと)りになったこと。蒼白(あおじろ)いふくれたお顔に、お召物も身幅が合わず、うちの戸口をお通りになれるかと危ぶまれるほど、醜く肥えておしまいになりました。目はおどおどして、顎を軽くおゆすぶりになり、何か不明瞭に物を仰言るお口もとには、黄ばんだ歯が幾本か残っているばかり。でもお名前を名乗るときは威厳を以て、こんな風に仰言いました。「忘れたか、シャルロット。」そして一語一語を区切るように、「私は、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵だ」と。

(一同沈黙)

ルネ お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。

                        ――幕――》

 

 三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作の第一作『春の雪』もまた、『サド侯爵夫人』と同じ昭和40年6月に執筆が開始されている。三島は、小説と戯曲の代表作を並行して書きはじめたのだ。第四作最終巻の『天人五衰』のラストは、『春の雪』の主人公、松枝清顕(まつがえきよあき)の学友だった本多が、かつて清顕との悲恋の相手で、いまでは奈良帯解(おびとけ)の月修寺(げっしゅうじ)門跡になっている綾倉聡子(あやくらさとこ)を60年ぶりに訪ねる場面で、末尾には、この手のものには珍しく、「完 昭和四十五年十一月二十五日」と日付が意味深く刻印されている。

《「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」

 ようやく門跡が、本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと察した本多は、失礼に亘(わた)らぬように気遣いながら、多言を贅(ぜい)して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語った。

 門跡は本多の長話のあいだ、微笑を絶やさずに端座したまま、何度か「ほう」「ほう」と相槌(あいづち)を打った。途中で一老が運んできた冷たい飲物を、品よく口もとへ運ぶ間(ま)も、本多の話を聴き洩(も)らさずにいるのがわかる。

 聴き終った門跡は、何一つ感慨のない平淡な口調でこう言った。

「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ」

「しかし御門跡は、もと綾倉聡子(あやくらさとこ)さんと仰言(おつしや)いましたでしょう」

 と本多は咳(せ)き込みながら切実に言った。

「はい。俗名はそう申しました」

「それなら清顕君をご存知でない筈(はず)はありません」

 本田は怒りにかられていたのである。(中略)

「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません」

「では私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです? 又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう」

「俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」

「たしかに六十年前ここへ上った記憶がありますから」

「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」

 門跡の目ははじめて強く本多を見据えた。

「それも心々(こころごころ)ですさかい」(中略)

これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蟬(せみ)の声がここを領している。

そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

                       「豊饒の海」完。

                    昭和四十五年十一月二十五日》

 

 ここには、十八世紀末の「コペルニクス的転回」よりもさらに厳しい、根源的な拒絶、空白・虚無・不可能性が、昭和45年(1970年)という二十世紀末を前にした三島の、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」という文字通り最後の言葉で表現されている。それは、昭和40年に『春の雪』に着手し、同時に『サド侯爵夫人』を構想した最初から、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」という幕切れの台詞とともに、三島の内奥で決められていた言葉だったのではないだろうか。

                                    (了)

            ****参考または引用文献****

三島由紀夫『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(自作解題所収)(新潮文庫

三島由紀夫天人五衰』(新潮文庫

渡邊守章『快楽と欲望』(『三島由紀夫『サド侯爵夫人』の演出について』所収)(新書館

澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』(中公文庫)

澁澤龍彦『サド侯爵の手紙』(筑摩書房

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(『人間学の地平』所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(『理性の不安――サドとカント』、『カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇』所収)(岩波書店

*『ユリイカ 特集サド――没後二〇〇年・欲望の革命史(2014.9)』(植田祐次『啓蒙の世紀のリベルタン作家』、原和之『サドの読者ラカン』所収)(青土社

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之ほか訳(岩波書店

*カント『純粋理性批判中山元訳(光文社古典新訳文庫

*カント『実践理性批判』波多野清一ほか訳(岩波文庫

橋本治三島由紀夫とはなにものだったのか』(新潮文庫

*秋吉良人『サド 切断と衝突の哲学』(白水社
ロラン・バルト『サド、フーリエロヨラ』篠田浩一郎訳(みすず書房

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』土田知則訳(岩波書店

演劇批評 「おかるの恋と顔世(かおよ)の文(ふみ)(習作)」

  「おかるの恋と顔世(かおよ)の文(ふみ)(習作)」

 

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 ご存知『仮名手本忠臣蔵』、おかるは二度、顔世(かおよ)の文(ふみ)で恋を焚きつけられた。

 一度目は、「三段目 腰元おかる文使いの段」、武蔵守高(こうの)師直(もろなお)あての顔世御前の文を早野勘平(かんぺい)に届ける場面で、勘平への恋と、それが引きおこす「忠臣蔵」事件の悲劇として。

 二度目は、「七段目 祇園一力茶屋の段」、大星由良之助への顔世の密書を遊女となったおかるが覗き見る場面で、由良之助との「真(まこと)から出た皆嘘」の恋と、勘平になり代わっての敵討という、おかるにとってなんら価値のない哀しい茶番(ファルス)として。

 あたかも、マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』冒頭のかの有名な言葉、《ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、と、彼はつけくわえるのをわすれたのだ》のように。

 マルクスは続けている。《人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持越されてきた環境のもとでつくるのである》、と。

 江戸元禄の『仮名手本忠臣蔵』の登場人物たちも、大星由良之助にしろ、おかる、勘平にしろ、「自分でえらんだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持越されてきた環境のもとで」ドラマティック・アイロニーを演じた。

 とにもかくにも、おかるは二度、顔世の文で恋を焚きつけられた。そのドラマを順に見てゆく。

(以下、丸本にほぼ忠実な文楽の床本と、歌舞伎の台本とで、各段の名前や、内容に異同があるのはよく知られたところだが、原作重視の姿勢から、文楽床本(国立劇場上演床本)を用いる。歌舞伎独自の「道行旅路の花聟」は『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』からの引用とする)

 

<袂から袂へ入るる結び文>

「大序(だいじょ) 恋歌(こいか)の段」から。古川柳の「其(その)はじめいろから起る仮名手本」という事(こと)の発端である。

 

《あとに顔世はつぎほなく「師直さまは今しばし、御苦労ながらお役目をお仕舞あつて、お静かに。お暇の出たこの顔世、長居はおそれ、さらば」と立上る袖、すり寄つてじつと控へ「コレマアお待ち待ち給へ。けふの御用仕舞次第そこもとへ推参してお目にかけるものがある。幸ひのよいところ召し出された。直義公はわがための結ぶの神。ご存じの如く我れら歌道に心を寄せ、吉田の兼好を師範と頼み日々の状通。そのもとへ届けくれよと問合せのこの書状、いかにもとのお返事は、口上でも苦しうない」と袂から袂へ入るる結び文。顔に似合はぬ『様参る武蔵鐙(あぶみ)』と書いたるを、見るよりはつと思へども『はしたなう恥ぢしめてはかへつて夫の名の出ること。持ち帰って夫に見せうか。いや/\それでは塩谷殿、憎しと思ふ心から怪我過ちにもならうか』と、ものを言はず投げ返す。人に、見せじと手に取上げ「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、わが文ながら捨ても置かれず。くどうは言はぬ。よい返事聞くまでは口説いて/\、口説きぬく。天下を立てうと伏せうともままな師直。塩谷を生けうと殺さうとも、顔世の心たつた一つ。なんとさうではあるまいか」と、聞くに顔世が返答も、涙ぐみたるばかりなり。》

 

 文芸から文芸を、という本歌取り、薀蓄が、二度、三度と波のように押しよせる。この態度は「三段目 殿中刀傷(でんちゅうとうしょう)の段」の、顔世から師直への返しの歌でも使われる。

「吉田の兼好を師範と頼み日々の状通」とは、「赤穂事件」の時代設定を、足利尊氏、直義(ただよし)のそれに移し変えたことから『太平記』の「世界」となるわけで、『太平記』巻二十一に、高師直塩冶高貞の妻に送る艶書を、『徒然草』で知られる吉田兼好に代筆させた話を持ち込んだもの。

「『様参る武蔵鐙(あぶみ)』」の「様参る」とは恋文の末尾の決り文句で、高師直が武蔵守であることから、『伊勢物語』十三段の、武蔵の国の男が京の女のもとに、「聞ゆればはづかし、聞えねば苦し(お便りすれば恥ずかしいし、お便りせずにいるのは苦しいし)と書いて、上書(うわが)きに「武蔵鐙(あぶみ)」と書いた話からきている。

「戻すさへ手に触れたりと思ふにぞ、わが文ながら捨てもかれず」とは、『太平記』巻二十一に、兼好の文では読んでもらえなかったので、薬師寺次郎左衛門公義(きんよし)が、師直に代わって、「返すさへ手やふれけんと思(おも)ふにぞわが文(ふみ)ながらうちも置(お)かれず」の一首だけを書いて仲介の者にもたせたことをふまえている。

 六代目中村歌右衛門が、「顔世が悪かったらあなた、忠臣蔵(事件)は起きないんだからね(笑)」と語ったように(関容子『芸づくし忠臣蔵』)、塩谷(えんや)判官(はんがん)御台所(みだいどころ)顔世御前役の芸談からはじめる。なぜ芸談か、と問われれば、芸を極めたその当代の役者が、代々語り継がれた芸の「過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり」て演じることで摑んだ役の性根が、端的な言葉として顕したからだ。

 七代目沢村宗十郎芸談はこんなぐあいだった。

《大序の顔世御前を勤めます役者が、昔は素足で出ましたのは、女形の色気を見せるためでございましたろう。それを義太夫の文句に、〽馬場の白砂素足にて」と語りますところから、足袋を履いて出るのを反則のようにも申されますが、本文の文章は、履き物を履かないという意味であると承っております。顔世御前の役は、品格と色気とが大切でございます。(中略)しかし、顔世の演所(しどころ)としましては、師直に文を付けられたのを見まして、〽見るよりはっと思えども、はしたのう恥じしめては、かえって夫の名の出る事、持ち帰って夫に見しょうか、いや/\それでは塩谷(塩冶)殿、憎しと思う心から、怪我過(あやま)ちにもなろうかと」の所が、本来大事な所でございますから、昔は相当露骨なしぐさもいたしたのでしょうが、そこだけ際立ってしまいますので、内端にいたす事を心がけております。[昭和二十二年十一月東京劇場所演](「役者」昭和22.11)》

 この昭和二十二年十一月の公演は、GHQによる昭和二十年九月の「封建主義に基礎を置く忠誠、仇討を扱った歌舞伎劇は現代世界とは相容れない」という上演自粛勧告後の、初の『仮名手本忠臣蔵』解禁公演に他ならない。沢村宗十郎を贔屓とし、この公演も『芝居日記』に観劇記録を残した三島由紀夫が始めて見た歌舞伎は、やはり『仮名手本忠臣蔵』だった。歌舞伎好きの祖母は、しょっちゅう、母を連れて歌舞伎へまいり、家でもよく話題になることから、ずっと歌舞伎に憧れをいだいていた三島が、教育的配慮から遠ざけられていた歌舞伎座をようやく訪れることを許されたのは、十三歳のとき、昭和十三年十月だった。十五代目市村羽左衛門、六代目尾上菊五郎、七代目沢村宗十郎、七代目坂東三津五郎、十二代目片岡仁左衛門らによる『仮名手本忠臣蔵』を見た三島はすっかりとりこになってしまう。このときの感想には、三島がこだわり、しかしそれが失われてゆくことで離れてしまう歌舞伎の本質を、顔世を通して早熟な三島が生理的に直感した瞬間だったと言えよう。

《私は当時中学一年生ですから、弁当を食べたり、その他にもいろいろ食べるものもあるし、面白くてたまらない。さうすると、やがて芝居が始まり、花道から不思議な人が出て来た。これが顔世御前です。(中略)その素足の顔世御前が花道のすぐ目の前を通りました。それはもう皺(しわ)くちやでした。これがこの「忠臣蔵」といふ大事件を起こす発端になる美人だなんて、想像もつかない。で、いきなり声を出すので、私はびつくりしてしまつた。よく男でこんな声が出るもんだと、ただただ呆気(あっけ)にとられて見てをりますうちに、私は歌舞伎といふものには、なんともいへず不思議な味がある、何かこのくさや(・・・)の干物(ひもの)みたいな非常に臭いんだけれども、美味(おい)しい妙な味があるといふことを子供心に感じられたと思ふんです。》

 ついで、六代目尾上梅幸芸談だが、これは今でも主論であろう。

《この役は品格と色気で、品が七部に色気が三部というところでしょう。色気があるので、師直とのあんな事件が出来上がるのですから、ただ押し出しだけではいけません。別に演所(しどころ)もありませんが油断も出来ません。(『梅の下風』昭和五年刊)》

「色気が三部」を多いとみるか少ないとみるかよりも大事なのは、その色気の質にある。「別に演所(しどころ)もありませんが油断も出来ません」という役の難しさは、観客がなんとなく感じる、横恋慕の被害者顔世の、無意識の政治的加害者性ともいえる。

 

<こまづけ頼んで見ん/わたしはお前に逢ひたい望み/重きが上のさよ衣>

 まず「三段目 下馬先進物の段」、歌舞伎では「足利館門前進物の場」と呼ぶが、だいたいは省かれる。師直が、おかるを「恋の小間使い」として目をつけていることがわかる。それは、西洋演劇にもたびたび登場するキャラクターといえるが、おかる自身が、はじめから終わりまで、自分の「恋の小間使い」であるところが、『仮名手本忠臣蔵』の討入りと絡みあう、もう一本のストーリーである。

 

《西の御門の見附の方『ハイ/\/\』といかめしく提燈照らし入り来るは、武蔵守高師直。権威をあらはす鼻高々、花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子。家来どもを役所/\に残し置き、しもべ僅かに先を払はせ、主の威光の召しおろし、鶴の真似する鷺坂伴内、肩ひぢいからし「もしお旦那。今日の御前表も上首尾/\。塩谷で候の、イヤ桃井での候のと、日頃はどつぱさつぱとどめしけど、行儀作法は狗(えのころ)を、屋根へあげたやうで、さりとは/\腹の皮。イヤそれにつき兼々塩谷が妻顔世御前、未だ殿へ御返事いたさぬ由。お気にはさへられな、/\。器量はよけれど気が叶はぬ。なんの塩谷づれと、当時出頭の師直様と」「ヤイ/\声高に口きくな。主ある顔世、たびたび歌の師範に事寄せ、口説けども今に叶へぬ。すなわちかれが召使、かるといふ腰元新参と聞く。きやつをこまづけ頼んで見ん。さてまだ取得がある。顔世が誠にいやならば、夫塩谷に仔細をぐわらりと打明ける、所を言はぬは楽しみ」と、四つ足門の片蔭に主従うなづき話あふ。》

 

 おかる役の芸談としては、五代目中村歌右衛門の、人口によく親炙した話がある。

《おかるは、三段目、六段目、七段目とも勤めましたが、これを一日にうまく勤め分けることが出来れば一人前と言われるのです。

 三段目は腰元、六段目は世話女房、七段目は遊女なんですから、六段目が出来ても七段目に不向きの人もあるという風で、相当に技倆がなければ出来ない役です。(「演芸画報」昭和13.11)》

 おかるが三種類の女に移り変わり、いわば一人でありつつ三人の女を生きてみせていることなのだけれども、はじめて観るものはいざしらず、二度、三度と観るものは、このさきのおかるを記憶の中で知っているわけで、三段目のおかるを見るとき、六段目のおかる、七段目のおかるの多重映像を心の目で見ている。

一人で三つの役柄ということでは、六代目尾上梅幸の口伝もあって、

 《父(五代目菊五郎)の話に、すべて移りかわりのある役はこのような用意がなければならない。

一、       六段目のおかるは腰元の意(こころ)でやる事。

一、       七段目のおかるは世話女房の意でやる事。

で芸者が急にお内儀さんになっても、チョイ/\元の芸者の地が顕れるというつまりです。(「梅の下風」)》

 見るものの記憶、時間の経過、イメージの残像。これもまた『失われた時を求めて』で、長い物語の最後の方になって話者の目の前に現れるオデット(男遍歴を重ねた元高級娼婦(ココット)だったがスワンの妻となり、スワンの死後はフォルシュヴィル伯爵と再婚して、フォルシュヴィル伯爵夫人となる)やジルベルト(スワンとオデットの娘で、話者の初恋の相手だったが、話者の親しい友人でゲルマント侯爵の甥のサン=ルー侯爵と結婚する)に、過去の彼女らの姿を見出してしまうのに似ている。

 それでも、おかるは、どんなに変わろうとも、「恋する女」という芯だけは変わらない軽薄さに唖然とさせられもする。

 ついで、「三段目 腰元おかる文使いの段」も、省略されることが多いが、このおかるの文使いによって殿中刀傷が起ったともいえるうえ、「おかる」の名のとおり、「軽」はずみな恋する女、恋の小間使いの役割がはっきりとでているので割愛すべきではない。

《奥の御殿は御馳走の、地謡の声播磨潟 √高砂の浦に着きにけり/\」謡ふ声々門外へ、風が持て来る柳蔭。その柳より風俗は、負けぬ所定の十八九、松の緑の細眉も、堅い屋敷に物馴れし、奇特帽子の後帯。供の奴が提灯は、塩谷が家の紋所。御門前に立休らひ「コレ奴殿。やがてもう夜も明ける。こなた衆は門内へは叶わはぬ。こゝから去んで休んでや」と、詞に従ひ「ナイ/\」と、供の下部は帰りける。内を覗いて「勘平殿はなにしてぞ。どうぞ逢ひたい用がある」と、見廻す折から、後影、ちらと見付け「おかるぢやないか」「勘平様逢ひたかつたに、ようこそ/\」「ムヽ合点のゆかぬ夜中といひ、供をも連れず只一人」「さいなア、こゝまで送りし供の奴は先へ帰した、私一人残りしは、奥様からのお使ひ。どうぞ勘平に逢うてこの文箱。判官様のお手に渡し、御慮外ながらこの返歌を御前のお手から直ぐに師直様へ、お渡しなされ下さりませと伝へよ。しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞。わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た、アヽしんどや」と吐息つく。「しからばこの文箱。旦那の手から師直様に渡せばよいぢやまで。どりや渡して来う待つてゐい」という中に門内より「勘平/\/\判官様が召しまする。勘平/\」」「ハイ/\/\只今それへ。エヽ忙しない」と袖振切つて行く後へ、どぜう踏む足付き鷺坂伴内(中略) 勘平後へ入替り「なんと今の働き見たか。伴内めが一杯喰うて失せをつた。俺が来て旦那が呼ばしやると言ふと、おけ古いとぬかすが面倒さに奴共に酒飲ませ、古いと言はさぬこの方便。まんまと首尾は仕おほせた」「サアその首尾ついでにな、ちよつと/\」と手を取れば「ハテ扨はづんだマア待ちやいの」「なに言はんすやら、なんの待つことがあろぞいなア。もうやがて夜が明けるわいな。是非に/\」是非なくも、下地は好きなり御意は善し「それでもこゝは人出入り」奥は謡の声高砂√松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ》

 

「袖振切つて行く後へ」とあるように、勘平はここでおかるを振り切つて門内に入り、あとの「三段目 殿中刀傷の段」の「最前手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ、すなはち奥顔世方より参りし」とあるように文箱を渡す。

 そして勘平は、また門外に戻って、伴内を撃退してから、《下地は好きなり御意は善し「それでもこゝは人出入り」奥は謡の声高砂√松根に倚つて腰をすれば「アノ謡で思ひ付いた。イザ腰掛けで」と手を引合ひ、打ちつれてこそ》連れて行く。「こゝまで送りし供の奴は先へ帰した」という、はじめからわけしりのおかると「色に耽ったばっかりに」、主判官の一大事に居合わせないこととなってしまった、という「おかる・勘平」ストーリーの生臭くもある三段目の「腰元おかる文使いの段」が省略され、のちの「裏門の段」もまた省かれて、幕末に創作された所作事の「道行旅路の花聟」に収斂して上演されている(上方では原作通りに上演されることが多い)のはまことに惜しい。

この文箱は、「三段目 殿中刃傷の段」で、顔世からおかる、勘平を経由して師直に届く。受けとって文を読む師直の心理状態の二転、三転もまた見どころで、《ほどもあらさず塩谷判官。御前へ通る長廊下。師直呼びかけ「遅し/\。なんと心得てござる。今日は正七ツ時と先刻から申し渡したでないか」「なるほど遅なりしは不調法。さりながら御前へ出るはまだ間もあらん」と袂より文箱取り出し「最前手前の家来が貴公へお渡し申しくれよ、すなはち奥顔世方より参りし」と渡せば、受取り「成程々々。イヤそこもとの御内方は扨々心がけがごさるわ。手前が和歌の道に心を寄するを聞き、添削を頼むとある。定めてそのことならん」と押しひらき「さなきだに重きが上のさよ衣、わがつまならぬつまな重ねそ/\。フンハアこれは新古今の歌。この古歌に添削とはムヽヽヽ」と思案の中『わが恋のかなはぬしるし。さては夫に打ち明けし』と思ふ怒りをさあらぬ顔「判官殿。この歌ご覧じたでござらう」「イヤたヾいま見ました」「ムヽ手前が読むのを、アヽ貴殿の奥方はきつい貞女でござる。ちよつと遣はさるゝ歌がこれぢや。つまならぬつまな重ねそ。アヽ貞女々々。そこもとはあやかり者。登城も遅なはる筈のこと。家にばかりへばりついてござるによつて、御前の方はお構ひないぢや」とあてこする雑言過言。》で、「喧嘩場」となる。

「さなきだに重きが上のさよ衣、わがつまならぬつまな重ねそ」とは、さきの『太平記』巻二十一で、「重きが上の小夜衣」とだけ奥方から返事があったのを踏まえていて、その意味するところは、『新古今集』巻二十「釈教歌」の、「不(ふ)邪(じゃ)婬(いん)戒(かい)」と詞書した寂然法師の和歌「さらぬだに重きがうへの小夜衣わがつまならぬつまな重ねそ」(ただでも夜の衣は重いのに、そのうえに自分のものでない褄(妻)を重ねるな)から来ているわけだが、こういった古層は、観客の知性がどうであったかに関わらず、無意識に深層まで届いていたことだろう。

 なお、『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』の服部幸雄脚注によれば、《現行の歌舞伎では、顔世からの文箱を判官が自身で持参して登場する型ではなく、別にここへ茶坊主を出して、「ハッ、塩冶様へ申し上げまする。御家来早野勘平、御内室顔世さまのお便りとして、これなる文箱持参つかまつり、歌道御執心の師直公へご覧に入れたしとの事ゆえ、持参つかまつってござりまする」と言って判官に手渡す演出(六代目尾上菊五郎の型)が多く行われる》とあるが、上方の十三代目仁左衛門は、絶対に判官が持って出るのがいい、という芸談を残している。

 

<もうかうなつた因果ぢやと思うて/〽落人も見るかや野辺の若草の>

「三段目 裏門の段」から。『仮名手本忠臣蔵』の「忠臣」というライト・モティーフを茶化す、おかるの道理、「反忠臣」というわけではなくて、単純なだけにある種の真実性を持つ、恋する男への価値の移動。組織集団への男たちの愛(のようなもの)と、勘平個人へのひとりの女の愛恋とが、チャリ場のようなおかしみのなかで比較対象されることで、観客はあまり気づくことなく劇の奥行きの中に引きずりこまれてゆく。

 

《「なるほど裏門合点。表御門は家中の大勢早馬にて寄り付かれず、喧嘩の様子は何と/\」「喧嘩の次第相済んだ。出頭の師直様へ慮外致せし利によつて、塩谷判官は閉門仰付けられ、網乗物にてたつた今帰られし」と聞くより「ハア南無三宝、お屋敷へ」と走りかゝつて「イヤ/\/\閉門ならば舘へはなほ帰られじ」と行きつ戻りつ思案最中。腰元おかる道にてはぐれ「ヤア勘平殿、様子は残らず聞きました。こりや何とせうどうせう」と取付き嘆くを取つて突退け「エヽめろ/\とほえ面、コリヤ勘平が武士はすたつたわやい。もうこれまで」と刀の柄。「コレ待つて下され。こりやうろたへてか勘平殿」「オヽうろたへた。これがうろたへずにをられやうか。主人一生懸命の場にも在り合わさず、あまつさへ囚人同然の網乗物お屋敷は閉門、その家来は色に耽りお供にはづれしと人中へ、両脇差し出られうか。こゝを放せ」「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする。こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」とわつとばかりに泣き沈む。「さうぢやもつともそちは新参なれば、委細の事は得知るまい。お家の執権大星由良助殿、今だ本国より帰られず、帰国を待つてお詫びせん。サア一時なりとも急がん」(中略)「エヽ残念々々、さりながら彼奴をばらさば不忠の不忠。ひとまず夫婦が身を隠し、時節を待つて願うて見ん」もはや明六ツ東がしらむ横雲にねぐらを離れ飛ぶ烏かはい/\の女夫連れ、道は急げど後へ引く、主人の御身いかがと案じ行くこそ》

 

「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする。こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」とは、ほとんど道理の体をなさずに「道行」を決め込んで、はやくも「女房」気取りである(相対する勘平もまた、「お家の執権大星由良助殿、今だ本国より帰られず、帰国を待つてお詫びせん。サア一時なりとも急がん」、「ひとまず夫婦が身を隠し」とはおかるにのせられて「夫婦」になりきるいい加減なものだ)が、それを六代目尾上梅幸はこう語った。

《おかるくらい『忠臣蔵』で通った役はありますまい。御奥の使いの帰りに色男の勘平と道行をきめ込んで山崎へ帰り、勘平が金の工面に困ると言えば女郎に身を売り、由良之助が「三日添うたら暇やろう」と言えば操などのことを考えず大喜びでこれに応じます。お軽の腹の中には御主君も御家老も親もない。色男の勘平のことばかり思っているのですから、今のモダンガールとか言うのでしょうネ。(『梅の下風』)》

 因果なおかるは、遊女に身を売ったり、由良之助と三日添うことさえ、勘平への恋である、いっとき操を捧げることは、恋する男への不貞ではない、むしろ忠臣のようなものである、ということを的確に言い当てている。おかるは、権力構造に対して、なんら罪の意識もなく、義理もなく、神も仏も頼まない。勘平においても、はじめこそ罪の意識があったが、おかるに道行を薦められると、とたんにあっけらかんとしたものなのは、見てきたとおりだ。

 しかし、幕末の天保四年に創作初演された「道行旅路の花聟」では違う。この裏門の場面をほぼそのまま戸塚山中(鎌倉から京、山崎なら、まず大船へ出て、東海道を西へ向うから、東の戸塚は通るはずもないのだが、そこに本来の事件があった江戸から落ちるという匂いが、作者にも観客にも暗黙の了解としてあったのだろうか)に移して創作されたもので、台本は床本との類似点が多いが、大事なのは、同じところよりも違う箇所、差異である。すでに、二人は道行の最中、戸塚の宿近くで、清元と勘平、おかるの口から裏門の場面のいきさつ、対話が語られてゆくのだが、そこには「三段目 裏門の段」にはなかった罪の意識が、はっきりでてきている。

 そもそも曲の略称が「落人」である。「〽落人も見るかや野辺の若草の」とは、近松門左衛門『冥途の飛脚』由来の「梅川」の文句「〽落人のためかや今は若草の」から来ていて、それは封印切の追われる罪人だった。

 そして、《勘平「そうであろう。昼は人目を憚(はばか)るゆえ、幸いこゝの松陰で、しばしが内の足休め。」 かる「ほんに、それがよいわいなあ。」》の「足休め」は、情事の意味をも含むことから、「三段目 腰元おかる文使いの段」の最後の濡れ事を入れこんでいるが、時も場所も緊張度を欠く移動で、キレイごとに成りはてている。

 続く清元のおかるのクドキでは、はっきりとおかるに罪科の意識を持たせている。家の大事なのに恋に心を奪われたとは罪である、という近代的な意識を持つ女、恋の順位の低い女に変えてしまっているのは問題だ。

《〽空定めなき花曇り、暗きこの身の繰言(くりごと)に、恋に心を奪われて、お家の大事と聞いた時、重きこの身の罪科(つみとが)と、歎き涙に目もうるむ。》

 天保になっての歌舞伎創作だから、時代か作者か観客の求めるところだったのだろうか。

 この振りの直後に、勘平の「主人一生懸命の場にも在り合わさず、あまつさへ囚人同然の網乗物お屋敷は閉門、その家来は色に耽りお供にはづれしと人中へ、両脇差し出られうか。こゝを放せ」(歌舞伎では《勘平「よく/\思えば、後先(あとさき)の弁(わきま)えなくこゝまで来たけれども、主君の大事をよそに見て、この勘平はとても生きては居(い)られぬ身の上。そなたはいわば女子(おなご)の事、死後の弔(とむら)い頼むわ。おかる、さらば。」》に対して、おかるが「マヽヽヽ待つて下さんせ。もつともじや道理ぢやが、その狼狽武士には誰がした。皆わしが心から死ぬる道ならお前より私が先へ死なねばならぬ。今お前が死んだらば誰が侍ぢやと褒めまする」(歌舞伎では《かる「あれまたそんな事を言わしゃんすか。私(わたし)故にお前の不忠、それが済まぬと死なしゃんしたら、私(わたし)も死ぬるその時は、アレ二人(ふたり)心中じゃと、誰(たれ)がお前を褒めますぞえ。」》が、道行の最中に語られると、事後の反省の色調、人目をはばかる忍び旅、となってしまうし、おかるのあっけらかんとした性格が常識に向って歩んでしまう。

 ついで、おかるに「こゝをとつくりと聞き分けて私が親里へひとまづ来て下さんせ。父様も母様も在所でこそあれ頼もしい人、もうかうなつた因果ぢやと思うて女房の言ふ事も聞いて下され勘平殿」(歌舞伎では《かる「サヽ、こゝの道理を聞きわけて、一(ひと)まず私(わたし)が在所へ来て下さんせ。父(とと)さんも母(かか)さんも、それは/\は頼もしいお方、もうこうなったが因果じゃと諦めて、女房の言う事もちっとは聞いてくれたがよいわいなア。」》と同じような台詞となって、勘平も納得する(歌舞伎では《勘平「成程、聞き届けた。」》のは同じだが、道行の前ではなく、すでにしてしまっているゆえに、罪の匂いが纏わりつく。

 

<もとの起りはこの顔世/気もわさわさと見えにける>

「四段目 花籠の段」から。四段目は、丸本でははじめに「花籠の段」、歌舞伎では「花献上」と呼ばれる件りがある。文楽ではときたま上演されるものの、歌舞伎では普通は省略されている。しかしここには、塩谷判官切腹という悲痛な場面の前の、ひとときのはなやかな風情のなかでの、御台所顔世御前の重要な言葉がある。自責のそれだ。

 

《なだむる御台「二人とも争ひ無用。このたび夫の御難儀なさるもとの起りはこの顔世。いつぞや鶴が岡で饗応の折柄、道知らずの師直、主のあるみづからに無体な恋を言ひかけ、さまざまと口説きしが、恥を与へ懲りせんと判官様にも露知らさず、歌の点に事よせ、さよ衣の歌を書き恥ぢしめてやつたれば、恋のかなはぬ意趣ばらしに判官様に悪口。もとより短気なお生れつき、え堪忍なされぬはお道理でないかいの」と語りたまへば、郷右衛門、力弥もともに御主君の御憤りを察し入り、心外面にあらはせり。》

 

 思い返せば、「三段目 腰元おかる文使いの段」で、おかるが顔世の言葉を織りこんで語った、「どうぞ勘平に逢うてこの文箱。判官様のお手に渡し、御慮外ながらこの返歌を御前のお手から直ぐに師直様へ、お渡しなされ下さりませと伝へよ。しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞。わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た」という「しかしお取込の中、間違ふまいものでなし。マア今宵はよしにせうとのお詞」を「わたしはお前に逢ひたい望み、なんのこの歌の一首や二首。お届けなさるゝほどの間のないことはあるまいと、つい一走りに走って来た」おかるのしたことを、顔世は迷いはしたがお軽の言葉にしたがったのか、黙認したのか、おかるが勝手に先走ったのか、横恋慕された被害者顔世に無意識の加害者性はあったのか、など議論があってもよいところで、なるほど『仮名手本忠臣蔵』には、あれだったのか、これだったのか、という謎がいたるところに仕掛られていて、それこそが見飽きぬ魅力であろう。

 おかるの「軽」い性格は、「六段目 身売りの段」にも端的だ。

 

《「オヽ娘、髪結ひやつたか。美しうよう出来た。イヤもう、在所はどこもかも麦秋時分で忙しい。今も藪隙で若い衆が麦かつ歌に、『親父出て見やばゝん連れて』と唄ふを聞き、親父殿の遅いが気に掛り、在口まで行たれど、ようなう影も形も見えぬ」「サイナ、こりやまあどうして遅い事ぢや。わし、一走り見て来やんしよ」「イヤノウ、若い女子一人歩くは要らぬ事。殊にそなたは小さい時から在所を歩くことさへ嫌ひで、塩谷様へ御奉公にやつたれど、どうでも草深い処に縁があるやら戻りやつたが、勘平殿と二人居やれば、おとましい顔も出ぬ」「オヽかゝ様のそりや知れた事。好いた男と添ふのぢやもの、在所はおろかどんな貧しい暮らしでも苦にならぬ。やんがて盆になつて、『とさま出て見やかゝんつ、かゝん連れて』といふ唄の通り、勘平殿とたつた二人、踊り見に行きやんしよ。かゝさん、お前も若い時覚えがあろ」と、差し合ひくらぬぐわら娘、気もわさわさと見えにける、気もわさわさと見えにける。「イヤノウ、なんぼその様に面白をかしう言やつても、心の中はの」「イエイエ、済んでござんす。主のために祇園町へ勤め奉公に行くは、かねて覚悟の前なれど、年寄つて父さんの世話やかしやんすが」》

 

「差し合ひくらぬぐわら娘、気もわさわさと見えにける」ほど、おかるの性分を言いあらわしている表現もないだろう。「差し合ひくらぬ」「ぐわら(がら)娘」とは、さしさわりがある(母の面前で自分たちの色事の話をする)のを遠慮することもない、おてんば娘、の意で、「気もわさわさと」は陽気に、といったところだからだ。

 

<余所の恋よと羨ましく>

「七段目 祇園一力茶屋の段」から。『古今いろは評林』(元明五年)で「おかる役」は《一体の此(この)狂言一日のつもりして見ては、恋をするものは師直と勘平ばかりなり。堅(かた)い狂言といえども、趣向に愛(あい)を持って、七ツ目の和らかみに、恋なくて恋の情をふくみてのみ、恋の有無を覚えぬばかりの出来狂言なり》という、「恋なくて恋の情をふくみて」という和らかみは、全体にとってかけがえのないものだ。

 六代目尾上梅幸芸談、《お軽は御台様から敵の様子を書いた手紙が由良之助へ届いても別に何の感じもなく読んでいる方が、お軽の性格にも叶っているだろうと存じます。お軽はお主(しゅう)も敵(かたき)も考えていないのですから、勘平が死んだと聞いて自暴自棄になり、さあ殺して下さいと兄さんに申し出るのです。あの手紙を読んで、共にお主のために死ぬという考えなぞ起こさない方が良いのです。(「梅の下風」)》は、もっともなことである。

 

《折に二階へ、勘平が妻のおかるは酔ひ醒まし、早廓馴れて吹く風に、憂さを晴らしてゐる所へ。「ちよと往て来るぞや。由良助ともあらう侍が、大事の刀を忘れて置いた。つい取つて来るその間に、掛物も掛け直し、炉の炭もついで置きや。アヽそれそれ、こちらの三味線踏み折るまいぞ。これはしたり、九太はもふ去なれたさうな」(父よ母よと泣く声聞けば、妻に鸚鵡のうつせし言の葉、エヽ何ぢやいなおかしやんせ)辺り見廻し由良助、釣燈篭の明りを照らし、読む長文は御台より敵の様子細々と、女の文の後や先、参らせ候ではかどらず、余所の恋よと羨ましく、おかるは上より見下ろせど、夜目遠目なり字性も朧ろ、思ひ付いたる延べ鏡、出して写して読み取る文章、下屋よりは九太夫が、繰り下ろす文月影に、透かし読むとは、神ならず、ほどけかゝりしおかるが簪(かんざし)、バツタリ落つれば、下には『ハツ』と見上げて後へ隠す文、縁の下にはなほ笑壷、上には鏡の影隠し、「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「アイ、わたしやお前に盛り潰され、あんまり辛さの酔ひ醒まし。風に吹かれてゐるわいな」「ムウ、ハテなう。よう風に吹かれてぢやの。イヤかる、ちと話したい事がある。屋根越しの天の川でこゝからは言はれぬ。ちよつと下りてたもらぬか」「話したいとは、頼みたい事かえ」「マアそんなもの」「廻つて来やんしよ」「アヽイヤイヤ、段梯子へ下りたらば、仲居が見つけて酒にせう。アヽどうせうな。アヽコレコレ、幸ひこゝに九つ梯子、これを踏まへて下りてたも」と、小屋根に掛ければ、「この梯子は勝手が違うて、オヽ恐。どうやらこれは危いもの」「大事ない、大事ない。危ない恐いは昔の事、三間づゝまたげても赤膏薬も要らぬ年輩」「阿呆言はしやんすな。船に乗つた様で恐いわいな」「道理で、船玉様が見える」「エヽ覗かんすないな」「洞庭の秋の月様を、拝み奉るぢや」「イヤモ、そんなら降りやせぬぞえ」「降りざ降ろしてやろ」「アレまだ悪い事を、アレアレ」「喧しい、生娘か何ぞの様に、逆縁ながら」と後より、ぢつと抱きしめ、抱き降ろし。「何とそもじは、御覧じたか」「アイ、いいえ」「見たであろ、見たであろ」「何ぢややら面白さうな文」「アノ、上から皆読んだか」「オヽくど」「アヽ身の上の大事とこそはなりにけり」「ホヽヽヽ、何の事ぢやぞいな」「何の事とはおかる、古いが惚れた、女房になつてたもらぬか」「おかんせ、嘘ぢや」「サ嘘から出た真でなければ根が遂げぬ。応と言や、応と言や」「イヤ、言ふまい」「なーぜ」「サお前のは嘘から出た真ぢやない。真から出た皆嘘」「おかる、請け出さう」「エヽ」「嘘でない証拠に、今宵の中に身請けせう」「イヤ、わしには」「間夫(まぶ)があるなら添はしてやろ」「そりやマアほんかえ」「侍冥利。三日なり共囲うたら、それからは勝手次第」「エヽ嬉しうござんす、と言はして置いて、笑おでの」「イヤ、直ぐに亭主に金渡し、今の間に埒させう。気遣ひせずと待つてゐや」「そんなら必ず待つてゐるぞえ」「金渡して来る間、どつちへも行きやるな。女房ぢやぞ」「それもたつた三日」「それ合点」「エヽ忝うござんす」「どりや、金渡して来うか」(世にも因果な者ならわしが身よ、可愛い男に幾瀬の思ひ、エヽ何ぢやいなおかしやんせ。忍び音に鳴く小夜千鳥)》

 

 密書の中味を知ったおかるを殺すつもりで身請けする、と由良之助の本心を察したおかるの兄平右衛門は、同じことなら討入りの共に加わる手柄にも、と妹おかるを手にかける覚悟を決める。おかるも父与市兵衛と夫勘平の悲劇的な最後を知って死を決意するが、由良之助に止められる。事情を知った由良之助は、師直と内通する床下の斧九太夫を、おかるに刀で突かせて勘平の代りに仇討ちさせ、平右衛門は東(鎌倉)への仇討ちの共に加える。

 七段目については、坂東玉三郎のステキな話が紹介されている(関容子『芸づくし忠臣蔵』)。

《ずっと以前、玉三郎さんにお会いしたとき、七段目のおかるを見ることは、日本人が四季折々を楽しむことと似てないかしら、と言った言葉が心に残っている。遊女になり切ったはずのおかるが、兄平右衛門に会った途端にあの草深い萱葺屋根に暮していたころの妹の顔になる。素朴な田舎娘に戻ったおかるが、後光が射すようだ、と兄に褒められて悦に入り、また廓の女の顔になる。兄に刃を向けられると、わたしには勘平さんという夫もあり、と急に妻の顔になる。一人の女がこの一幕でパラッパラッパラッと、四季の移ろいのような顔を見せるのが面白い、ということだった。》

 目の前の女の多重映像、多面性は、やはり『失われた時を求めて』におけるアルベルチーヌ(バルベックの「花咲く乙女たち」の一人で、話者が同棲した女だったが、突如逃げ去った女となって、落馬して死ぬ)に似ていて、話者は、囚われのアルベルチーヌに口づけする時ですら、同一性を与えることができなかった。

 

 本当のところは、マルクスが言いたかったのは、この先の文章だった。《死せるすべての世代の伝統が悪夢のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり、この由緒ある扮装と借物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである》であったから、このような史観、歴史的繰り返しは、「討入」を「革命」と変換しえないこともない由良之助はともかく、まさに「すぐ目の前にある」恋だけで生きたおかるには無縁な世界といえよう。

それでも人はおかるを、悲劇を招いた「ひどい女」とだけ見ることができるのに、「可愛い女」と感じてしまうのは、ギリシア悲劇や、ラシーヌ劇、シェークスピア劇のヒロインのような、「恋する女」という「過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣裳をかり」た女の悲劇の形而上的でもある真理を感じとるからだろう。しかもそればかりでなく、プルースト失われた時を求めて』のオデットやジルベルト、アルベルチーヌさえ彷彿とさせるおかるの、人間諸相と人間観察の「新しい場面を演じようとする」リアルな現代性に魅了されるからに違いない。

                                  (了)

  *****引用または参考文献*****

*『仮名手本忠臣蔵 床本集』(平成十四年十二月)(平成十八年九月)(国立劇場

服部幸雄編著『歌舞伎オン・ステージ 仮名手本忠臣蔵』(白水社

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』伊藤新一、北条元一訳(岩波文庫)(漢字は新字体に改めた)

*関容子『芸づくし忠臣蔵』(文藝春秋

三島由紀夫「講演「悪の華――歌舞伎」」、三島由紀夫全集36巻(新潮社)

三島由紀夫『芝居日記』、三島由紀夫全集26巻(新潮社)(新潮社)

*竹田出雲『仮名手本忠臣蔵  附 古今いろは評林』(岩波文庫

渡辺保忠臣蔵――もうひとつの歴史感覚』(中公文庫)

丸谷才一忠臣蔵とはなにか』(講談社文芸文庫

*『太平記』日本古典集成(新潮社)

*『伊勢物語』日本古典集成(新潮社)

*『新古今和歌集新日本古典文学大系岩波書店

演劇批評 「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」

 「『婦系図』ヒロイン菅子の凋落とお蔦の芝居」

   

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  はじめに、『婦系図(おんなけいず)』の作者泉鏡花の『新富座所感』から次の一文を紹介しよう(出典は明治四十一年十一月の「新小説」(『鏡花随筆集』岩波文庫))。

 明治四十年一月から四月まで「やまと新聞」に連載された原作小説が、早くも翌明治四十一年年九月に新富座で初演されたときのもので、《さて、これは、脚色を議したるにあらず、芸評ではない。劇評は当編輯(とうへんしゅう)春月君(しゅんげつくん)あり、ただ見物した所感なのである》と、いかにも鏡花らしい気配りを文末に忘れない。

《さて、喜多村のお蔦は申分がない。一体原作では、殆(ほとん)ど菅子が女主人公で、お蔦はさし添(ぞい)と云うのであるから、二人引受けるとなら格別、お蔦だけでは見せ場はなかろう、と思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になつたり。(中略)お蔦が見えると、この役に連関した劇中の人物が残らず髣髴(ほうふつ)として影の如く舞台へ顕れ出る。これが、お蔦の芝居になつた所以(ゆえん)の一つであろうと思う。》

 しかしまだ、明治四十一年の段階では、菅子、お蔦、両名がヒロインの芝居だった。

それが、明治四十四年明治座を経て、喜多村緑郎の依頼で鏡花が新たに『湯島の境内』を書き加えた大正三年明治座公演となり、その後、いくたびも演じられて違う脚本が十冊以上あると言われているが、鏡花が『新富座所感』で序幕の富子を評したごとく、《舞台へ狂言の筋を通しに出るだけで、あとは投済(なげす)みの役者となる》というところまで菅子は貶められ、すっかりお蔦の芝居となって今日に至っている。

 そんな次第だから、いまや『婦系図』と聞けば誰しもが、早瀬主税(ちから)とお蔦の悲恋を思うであろう。

新派では喜多村緑郎河合武雄花柳章太郎といった女形水谷八重子波乃久里子、直近では女形市川春猿が、映画では田中絹代山田五十鈴山本富士子が演じたお蔦は、「通し」でなくとも、一幕ものとして演じられもする名高い「湯島の境内」、「めの惣」の場を一度でも見れば、容易に忘れられるものではない。

けれども、名のみ事々しくて手に取られない原作を「前篇」、「後編」読み通してみれば、ヒロインは二人(お蔦、河野菅子)、もしくは三人(加うるに、早瀬の師酒井俊蔵の娘で、実はお蔦の姉貴分の柳橋芸者小芳(こよし)との娘だった、純情可憐、心きれいな酒井妙子)いるのではないかと、素直に思えて来るだろう。(ここで妙子は、小説、芝居で相等しい比重と役回りで活躍しつづけているから、分散させないために論じない。)

 お蔦は、「前篇」巻頭でこそにぎにぎしく登場するものの、その後は、妙子の十分の一ほどの出番も、様子の活写もない。「後編」になっても、短い儚げな描写が死の床めざして細い一本の糸のように数か所あるのみだ。

それにひきかえ菅子は、「前篇」にこそ登場しないが、「後編」ははじめから終わりまで、独壇場といってよい活劇ぶりである。

 かわいそうなのは菅子である。

 初演時は、お蔦(喜多村緑郎)と菅子(坂東秀調)の二枚看板、「お蔦物語」と「菅子物語」が交錯していたのに、お蔦の人気が高まるや、お蔦の泣かせどころに集中させんがために、菅子はしだいに消されてゆく。初演からお蔦は喜多村がずっと演じつづけ(大正三年は河合武雄)、ようやく昭和二十六年に喜多村が小芳に廻って、お蔦を花柳章太郎に譲り、その後は、年齢とともに「妙子→お蔦→小芳」に代わりつつ、花柳、水谷八重子でお蔦を演じるのであって、出番の少ない菅子はすっかり中堅どころの脇となってしまう。

 さらに、初演時からすでに河野家の次女菅子は、長女道子(実は河野家の母豊子と馬丁貞造との不義の子)の宿命を背負って演じているのだけれども、「昭和四十八年国立劇場十月新派公演(泉鏡花生誕百年記念)」プログラムを開けば、「登場人物の紹介」欄には、「河野菅子=母親が馬丁と浮気して生れた秘密を持っているが、気位が高く、みんなから嫌われている」とは、あまりといえばあまりである。

 

<女たちの登場>

 お蔦の境遇と、悲恋の道筋は誰もが知っていることだから、前記プログラムの「登場人物の紹介」だけを案内しておく。「お蔦=柳橋の芸者。早瀬と世帯を持つが、義理に迫られて別れ、淋しく死ぬ。誠実で純情な女。」

 それにひきかえ菅子について劇中で知っていたとしても、あまりにも原作と違うから、ここで人物相関からはじめて、社交的で華のある魅力的な姿、ゆえに泣かせどころなく、悪役に仕立てられてしまった実像を、原作を引用しながら紹介しなければ話が進まない。西洋的な菅子が追放されてゆく物語から、日本精神分析することさえ可能であろう。

 早瀬主税の友人で、主税の師酒井俊蔵の娘妙子に縁談を申し込もうとする文学士河野英吉の妹が菅子である。理学士島山と結婚して、長女滝(たき)、長男透(とおる)の二児の母。静岡の河野家は、元軍医監河野英臣(ひでおみ)を長として、夫人豊子、長女道子、その女婿で河野病院を継いだ河野理順(りじゅん)、長男英吉、次女菅子、その下に福井県参事官(「前篇」では工学士)と結婚した三女辰子、四女操子(みさこ)、五女絹子、六女がいる。

 菅子は、「前篇」では英吉の口による河野家の自慢話で、嫁ぎ先と収入を語られるばかり(「新学士」、「一家一門」)で姿を見せない。

 ところが、「後編」ではいきなり、「貴婦人」の、主税が静岡へ落ちてゆく神戸行き急行列車食堂から出ずっぱりとなる。鏡花の筆は、菅子の華やかさ、社交と会話の妙を存分にあらわしていて、たちどころに読者を視覚、聴覚でヒロインにひきつける。菅子を、主税をたらしこむような悪い性格の女、その影か記号か表徴をちらとでも読者に暗示させるよう書いていないのがたちどころにわかるだろう。

《こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母(たのも)しそうに、熟(じっ)と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗(のっ)かかった、かすりで揃の、袷(あわせ)と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児(こ)に、極めて上手な、肉叉(フォーク)と小刀(ナイフ)の扱い振(ぶり)で、肉(チキン)を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。

 見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺(しらさぎ)の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後(しりえ)に走る。

 函嶺(はこね)を絞る点滴(したたり)に、自然(おのずから)浴(ゆあみ)した貴婦人の膚(はだ)は、滑かに玉を刻んだように見えた。

 真白なリボンに、黒髪の艶(つや)は、金蒔絵(きんまきえ)の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹(ぼたん)の花、蕊(しべ)に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷(あわせ)、薄色の褄(つま)を襲(かさ)ねて、幽(かす)かに紅の入った黒地友染の下襲(したがさ)ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子(くろじゅす)の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃(いと)、添えた模様の琴柱(ことじ)の一枚(ひとつ)が、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧(おさ)えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬(ちりめん)に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環(ゆびわ)の玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼(まなこ)を射るのは、水晶の珠数を爪繰(つまぐ)るに似て、非ず、浮世は今を盛(さかり)の色。艶麗(あでやか)な女俳優(おんなやくしゃ)が、子役を連れているような。年齢(とし)は、されば、その児(こ)の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十(はたち)でも差支えはない。

 婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々(わかわか)しい口許(くちもと)と、心の透通るような眼光(まなざし)を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、》

「鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男」とは主税のことで、この段階では、二人は互いの名すら知らないが、菅子がハンサムな男に魅かれていると、気づくよう書かれている。師紅葉ばりの言文一致の美文であって、菅子は文明開化からはや四十年、江戸情緒を超えた明治近代美人とわかる。

 ここで、菅子の登場の仕方がお蔦とどのように違い、他の女性たちとはどうなのかをみておこう。

 まず、お蔦。お蔦については、あまりに着物、容色の描写が欠如しているので、その意味については別に考察したいが、巻頭「鯛、比目魚」、第一行の、出である。いきなり女の口唇という細部をアップして、聴覚、噂話、ものいい、立ち振る舞いで玄人から素人になったお蔦の飾り気のないさっぱりした性格、人となりを書きあらわす。

《素顔に口紅で美(うつくし)いから、その色に紛(まが)うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない。お蔦(つた)は、皓歯(しらは)に酸漿(ほおずき)を含んでいる。……

「早瀬の細君(レコ)はちょうど(二十(はたち))と見えるが三だとサ、その年紀(とし)で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺(あたり)近所は官員(つとめにん)の多い、屋敷町の夫人(おくさま)連が風説(うわさ)をする。

 すでに昨夜(ゆうべ)も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可(い)いのを撰(よ)って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家(となり)の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎(は)ねられて、利いた風な、と口惜(くやし)がった。

 面当(つらあ)てというでもあるまい。あたかもその隣家(となり)の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇(たたず)んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返(いちょうがえ)しのほつれた鬢(びん)を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。》

 次いで、河野英吉の母豊子。長男英吉の縁談相手妙子のことを主税の住居に聞きだしに来た帰りの場面(「見知越」)。このさき妙子、小芳を紹介するが、菅子と同じような鏡花調、振付だ。

《黒の紋羽二重の紋着(もんつき)羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰(せがれ)が学士だ先生だというのでも、大略(あらまし)知れた年紀(とし)は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶(つや)が見えた。

 背は高いが、小肥(こぶとり)に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢(としごろ)には御難だけれども、この位な年配で、服装(みなり)が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛(ショオル)をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾(みだしなみ)の一ツで、貴婦人(あなた)方は、菖蒲(あやめ)が過ぎても遊ばさるる。

 直ぐに御歩行(おはこび)かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌(は)めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱(しご)いた時、襦袢(じゅばん)の裏の紅いのがチラリと翻(かえ)る。

 年紀(とし)のほどを心づもりに知っため(・)組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸(うなじ)を窘(すく)めた処へ、

「まだ、花道かい?」

 とお蔦が低声(こごえ)。

「附際(つけぎわ)々々、」

 ともう一息め(・)組の首を縮(すく)める時、先方(さき)は格子戸に立かけた蝙蝠傘(こうもりがさ)を手に取って、またぞろ会釈がある。

「思入れ沢山(だくさん)だ。いよう!」

 おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。

 振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹(きっ)と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。(後略)》

 妙子。鏡花は、その出から明るい女学生らしく、軽やかな蝶のように描いている(「矢車草」)。

《「御免なさいよ。」

 と優(やさし)い声、はッと花降る留南奇(とめき)の薫に、お源は恍惚(うっとり)として顔を上げると、帯も、袂(たもと)も、衣紋(えもん)も、扱帯(しごき)も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅(くれない)咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀(くじゃく)を見るような。

(中略)

 妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔(しなやか)な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、

「こんなものを持っていますから、こちらから、」

 とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑(ほほえ)み、

「お邪魔をしてね。」

「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴(ひッつか)んで、

「あれ、お召ものが、」

 と云う内に、吾妻下駄(あずまげた)が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸(なんど)地に、浅黄と赤で、撫子(なでしこ)と水の繻珍(しゅちん)の帯腰、向う屈(かが)みに水瓶(みずがめ)へ、花菫(はなすみれ)の簪(かんざし)と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入(ひとしお)である。》

 小芳ともなれば(「柏家」)、先生(酒井俊蔵)と主税の席への出は、

《「そうかい。」

 と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖(ふすま)音なく、すらりと開(あ)いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。

 瓜核顔(うりざねがお)の、鼻の準縄(じんじょう)な、目の柔和(やさし)い、心ばかり面窶(おもやつれ)がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際(はえぎわ)の可(い)い、洗い髪を引詰(ひッつ)めた総髪(そうがみ)の銀杏返(いちょうがえ)しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶(つや)の涼しさ。撫肩の衣紋(えもん)つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦(おんな)の母親なら、芸者家の阿婆(おっかあ)でも、早寝をしよう、と頷(うなず)かれる。

「まあ、よくいらしってねえ。」

 と主税の方へ挨拶して、微笑(ほほえ)みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着(もんつき)二枚袷(あわせ)、藍気鼠(あいけねずみ)の半襟、白茶地(しらちゃじ)に翁格子(おきなごうし)の博多の丸帯、古代模様空色縮緬(ちりめん)の長襦袢(ながじゅばん)、慎ましやかに、酒井に引添(ひっそ)うた風采(とりなり)は、左支(さしつか)えなく頭(つむり)が下るが、分けてその夜(よ)の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、

「御機嫌宜(よ)う、」と会釈をする。

 その時、先生撫然(ぶぜん)として、

「芸者に挨拶をする奴があるか。」》

 

<原作のヒロイン菅子>

「貴婦人」ではそのあと偶然に、互いが英吉の友人、妹と知るが、菅子の様子はとりたてて恨みがましい色調ではなく、会話は静岡に着くまで続く。

《「あら、河野は私(わたくし)どもですわ。」
 と無意識に小児(こども)の手を取って、卓子(テイブル)から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺(ゆる)ぐがごとく気を籠めて、

「そして、貴下は。」

「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税(ちから)と云うものです。」

 と青年は衝(つ)と椅子を離れて立ったのである。

「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾(にっこり)する。

 主税は驚いた顔で、

「ええ、人が悪うございますって? その女俳優(おんなやくしゃ)、と言いました事なんですかい。」

「いいえ、家(うち)が気に入らない、と仰有(おっしゃ)って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」

「…………」

「兄はもう失望して、蒼(あお)くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」

 とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時更(あらた)めて、略式の会釈あり。

「私(わたくし)は英さんの妹でございます。」

「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人(おくさん)でいらっしゃいますか。……これはどうも。」

 静岡県……某(なにがし)……校長、島山理学士の夫人菅子(すがこ)、英吉がかつて、脱兎(だっと)のごとし、と評した美人(たおやめ)はこれであったか。

 足一度(ひとたび)静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間(せんげん)の森の咲耶姫(さくやひめ)に対した、草深の此花(このはな)や、実(げ)にこそ、と頷(うなず)かるる。河野一族随一の艶(えん)。その一門の富貴栄華は、一(いつ)にこの夫人に因って代表さるると称して可(い)い。

(中略)

 聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家(さと)から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装(よそおい)をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝(おんぞがち)の着痩(きやせ)はしたが、玉の膚(はだえ)豊かにして、汗は紅(くれない)の露となろう、宜(むべ)なる哉(かな)、楊家(ようか)の女(じょ)、牛込南町における河野家の学問所、桐楊(とうよう)塾の楊の字は、菅子あって、択(えら)ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。》

 これは誰が見ても、立派なヒロイン、宝塚のトップである。早くも主税との物語を予感させる気配濃厚だ。

 しかし、この手の経済的に恵まれた地方名士の娘は、鏡花の筆致にたとえ嫌みなところがなくても、僻まれ、恨みを買うことに、少なくとも人気がないことに、この国の文芸、芸能ではなっている。

 静岡に着いた翌日、主税は草深町の、薄紅の雲のような合歓(ねむ)の花咲く菅子邸に招かれる(「草深辺」)。夫の島山理学士は九州へ出張中で、子供二人は乳母が連れて河野家へ出向いている。静岡で独逸語の塾を開くという主税の、「いの一番のお弟子人よ」とばかりに、読本(とくほん)を早くも買い求めている。「ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)……でしたっけかね、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう」などと打ち解けたものいいをされれば、どうして気をひかれずにいられようか。

 菅子はさりげなく主税の髪を梳かし、主税の家探しに出かける二人は、あたかも『義経千本桜 道行初音旅』か『仮名手本忠臣蔵 道行旅路の花聟』のように華やいでいるが、神社の茶店で五十近の肺病病みに出逢い、陰湿な空間に迷いこむことによって、民俗的な闇と、どこか性的な匂いさえただよってくる(「二人連」)。

《部屋で、先刻(さっき)これを着た時も、乳を圧(おさ)えて密(そっ)と袖を潜(くぐ)らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露(あらわ)にその長襦袢に水紅(とき)色の紐をぐるぐると巻いた形(なり)で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、

(市川菅女。)と莞爾々々(にこにこ)笑って、澄まして袷を掻取(かいと)って、襟を合わせて、ト背向(うしろむ)きに頸(うなじ)を捻(ね)じて、衣紋(えもん)つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒(かゆ)そうに天窓(あたま)を引掻(ひっか)いていたのを見ると、

「そんな邪険な撫着(なでつ)けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」

 と云うのを、聞かない振でさっさと引込(ひっこ)もうとしたので、

「あれ、お待ちなさい」と、下〆(したじめ)をしたばかりで、衝(つ)と寄って、ブラッシを引奪(ひったく)ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗(のぞ)き込むように瞳をためて顔を見た。

 胸の血汐(ちしお)の通うのが、波打って、風に戦(そよ)いで見ゆるばかり、撓(たわ)まぬ膚(はだえ)の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅(くれない)の色は褪(あ)せぬ。

 境内の桜の樹蔭(こかげ)に、静々、夫人の裳(もすそ)が留まると、早瀬が傍(かたわら)から向うを見て、

茶店があります、一休みして参りましょう。」》

 静岡浅間神社茶店の婆さんが、よぼよぼ、蠢く、五十近の肺病の男と、芭蕉の葉煎じの効能話をしている。菅子と主税は、手巾と鳩とでじゃれあって、「その時義経少しも騒がず、落ちた菫(すみれ)色の絹に風が戦(そよ)いで」と時代めく。

裏町に懸ると寂寞(ひっそり)と陰に籠った辺りで、空家と思って隣の紺屋に菅子が声をかけると、その茅家(あばらや)は偶然にも貞造(元馬丁で長女道子の実父)の家と知れた(おそらくは鏡花がよくとりあげた部落ではないか)。菅子の思い切りに主税は驚き、帰り路、二人の手と手は付かず離れず、人目を忍ぶ色模様めく。

《「驚いたでしょう、可い気味、」

 と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行(ある)き出そうとして、その茅家をもう一目。

「しかし極(きまり)が悪かってよ。」

「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻(さっき)拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷(うなず)いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行(ある)きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉(ひと)しく左右を見た。両側の伏屋(ふせや)の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗(いぬ)が……》

 主税は幾日もせがまれた末、菅子邸に泊まる(「貸小袖」)が、二児の母らしいところも見せて、たんなる淫婦ではない重層的な性格ゆえに小説のヒロインたりうる。

《「やっと寝かしつけたわ。」

 と崩るるように、ばったり坐って、

「上の児(こ)は、もう原(もと)っから乳母(ばあや)が好(い)いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻(さっき)のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」》

 もう、徐々(そろそろ)失礼しましょう、と恐しく真面目に言う主税に、

《「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可(い)いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様(かあさま)から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出(いで)なすって、幸いお知己(ちかづき)になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。(中略)

「母様(かあさん)が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩(ゆっく)り召食(めしあが)れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸(わか)してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯(さっ)と流してから喫(あが)りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可(よ)くって、」

 念を入れて、やがて諾(うん)と云わせて、

「ああ、昨日(きのう)も一昨日(おととい)も、合歓の花の下へ来ては、晩方寂(さみ)しそうに帰ったわねえ。」》

 さきの「二人連」の「芭蕉の葉」、「義経」が「合歓」の花と結びついて、芭蕉奥の細道」の有名な一句を「象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」を喚起させる。西施とは、中国の春秋時代、戦に敗れた越王勾践(こうせん)から戦勝国呉王夫差(ふさ)に差し出された絶世の美女(中国四大美女の一人)で、狙い通り夫差は西施に溺れたがために越に滅ぼされる、傾国の美女。同じイメージ、役割を、主税に対する菅子に荷わせているとする説は、鏡花文学本来の、重層的で、アイロニカルな、文学から文学を作る態度(例えば、主税を《奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演(す)るという新俳優の、あれは貫一に扮(な)る誰かだ、と立騒いだ》と茶目っ気を盛り込んだり、戯曲『湯島の境内』で余所事(よそごと)浄瑠璃として、歌舞伎の直次郎と遊女三千歳(みちとせ)の忍び逢いの清元「三千歳(みちとせ)」)を用いたり)からして、あながち的外れではあるまい。

 湯上りに用意された浴衣は仕立て上がりで、「むざむざ新しいのを」と主税が袖を引張ると、「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」と言う。帯は「これを上げましょう。」とすっと立って、上緊(うわじめ)をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹縮(ちぢみ)。目を見合せ、「可(い)いわ、」とはたと畳に落して、「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」の菅子のいじましさ。

 そして、婢(おさん)が来て、ぬいと立つと、「いつも何時頃にお休みだい。」と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍(わき)へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んで、「一個(ひとつ)は乳母(ばあや)さんに、お前さんから、夫人(おくさん)に云わんのだよ。」とは、主税こそが色悪のようではないか。

 湯上りのあと、かれこれ一時まで二人は話し飽かない。ギョウテの(エルテル)を直訳的になど語りあううちに、《お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛(きっかけ)から、エルテルは後日(ごにち)にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられ》、早瀬は悉(くわ)しく懺悔(ざんげ)するがごとく語った。

 ここではじめて、「お蔦物語」と「菅子物語」の、主税の声を通しての交錯が生じた。

《それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込(ひっこ)むつもりだったが、め(・)組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠(はたご)も人目を憚(はばか)って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。

(そんな時は、)

 と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、

(背中合わせで、別々に。)

 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人(あなた)に逢ったんだと。……》

 この、「背中合わせで、別々に」の、次の場面の色事を予兆させる婀娜っぽさ。

 菅子は、「気の毒だ、可哀相に、と憐愍(あわれみ)はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可(ゆるし)が出ても、私が不承知よ。」で、さてもう夜が更け、「うつらうつら」で、とうとう二人は結ばれる。

 ここでは、鏡花本来の幻想文学作者としての技量が、怪奇とまでは溢れださないけれど文体に発揮されている(もう一か所は、「おとずれ」のお蔦幻影と守宮(やもり)毒薬死の場面があるのみで、いったいに鏡花は花柳小説に徹した)。

《やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。

 不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸(すん)ばかり襖が……開(あ)……い……た。

 と見ると、手巾の片端に、紅(くれない)の幻影(まぼろし)が一条(ひとすじ)、柔かに結ばれて、夫人の閨(ねや)に、するすると繋(つなが)っていたのであった。

 菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁(えにし)の糸と云う。禁断の智慧(ちえ)の果実(このみ)と斉(ひと)しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児(こ)となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属(けんぞく)となり、畜生の浅猿(あさま)しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。

 いかに、この時。

 隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱(あか)き蛇(くちなわ)は、その燃ゆる色に黄金の鱗(うろこ)の絞を立てて、菫の花を掻潜(かいくぐ)った尾に、主税の手首を巻きながら、頭(かしら)に婦人の乳(ち)の下を紅(くれない)見せて噛(か)んでいた。

 颯(さっ)と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺(あたり)が露(あらわ)に見えた。残燈(ありあけ)はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明(あかり)でも、繋いだものの中は断たれず。……

 ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾(ふすま)を出て、胸を圧(おさ)えて、熟(じっ)と見据えた目に、閨の内を眗(みまわ)して、矒(ぼう)としたようで、未だ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を徜徉(さまよ)うごとく、裳(もすそ)も畳に漾(ただよ)ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯(しごき)の我を纏(まと)えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘(うな)された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。》

 ここまではロマンスだが、つつましい長女道子が登場する「道子」を経て「私語(さざめごと)」になるとメロドラマの醜い部分、河野家をめぐる二人の考え方の根本的な相違がぶつかり、菅子が身をまかせた理由を主税が執拗に問うことになる。ここにきて主税がそのような質問、疑念が発すること自体に、鏡花が菅子を急に悪者に仕立てたか、これまでにまったく伏線を示すのを怠っていたか、どちらにせよ、早急な物語の解決策に走った感は否めない。

 菅子ははっきりと答えられず、しかし、菅子がたとえ主税の指摘のような気持ちを意識的にせよ(そのようには読めないが)、無意識にせよ(育ちからして河野家の存続・発展が頭脳の第一にあったというのは納得しうる)持っていたにしても、邪悪とまでは言いがたく、自ら犯罪に手を染めたわけでもない。

 菅子と主税の言い合いは引用しだすときりがないので、菅子の言葉の核心、とくに私の「身体」に言及した会話を取り出す。「お蔦―主税―菅子」という「女―男―女」の三角関係は、お蔦が芸者の出で、しかも離れていりことから「主税―菅子―島山理学士」の「男―女―男」の三角関係となり、これでますます自ら動いた中心の女は共感を誘いにくくなる。

《「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家(となり)の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地(いこじ)に、さもしいお米の価(ね)を気にするようなことを言うんだろう。

 ほんとうに串戯(じょうだん)ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい、痩(や)せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体(からだ)が萎(すく)むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。

 跪(ひざまず)いて、夫の足に接吻(キッス)をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。

 ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」》

《「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜(よる)内を出るわけには行(ゆ)かず、お稽古に来たって、大勢入込(いれご)みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。

 過日(いつか)何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙(かわず)の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯(しごき)か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇(やみ)か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯(じょうだん)云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵(こしら)えさせたんだわ。》

《「あんな恐い顔をして、(と莞爾(にっこり)して。)ほんとうはね、私……自ら欺(あざ)むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲(ぎせい)にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来(ゆきき)をしているの。

 でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母(ばあや)にだって面(おもて)を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然(ぞっと)してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠(や)せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他(ほか)の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多(かるた)会時分から、有りもしない事でもありそうに疑(うたぐ)っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体(からだ)はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」》

《「貴下はまるッきり私たちと考えが反対(あべこべ)だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇(あだ)する敵(かたき)だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市(バザア)へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」》

 この最後の「もう、私、慈善市(バザア)へ行かなくッては。もう何でも可いわ!」を菅子のいい加減さ、逃亡と捉えるのは、菅子悪女説に囚われ、主税贔屓なのではないか。むしろ、「どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ」に、恋する女のやるせなさ、人間としての苦悩をみるべきではないのか。自分でもよく分らない恋心を無視する主税こそが、女の心しらず、義のためにお蔦を捨て、病床のお蔦のもとへ駈けつけもしない(小説ではそうだ)身勝手でさもしい男に違いない。

 そうして最終の「隼」では、河野一族の悪事の暴き(といっても刑事事件になりそうなのは母豊子による主税への毒殺未遂ぐらいで、民事すら起こしておらず、ただただ道義的、階級的な悲憤、八つ当たりばかりである)、復讐劇、日蝕に狂気をかきたてられたかのような弾劾によって、久能山で、河野一族の英臣、豊子はピストルで自栽し、菅子と道子は、《抱合って、目を見交わして、姉妹(きょうだい)の美人(たおやめ)は、身を倒(さかさま)に崖に投じた。あわれ、蔦に蔓(かずら)に留(とど)まった、道子と菅子が色ある残懐(なごり)は、滅びたる世の海の底に、珊瑚(さんご)の砕けしに異ならず。》

 主税もまたお蔦の黒髪を抱きながら毒を仰ぐのだが、『嵐が丘』のヒースクリフのごとき暗い情念や魂の叫びがあるわけでもなく、近代日本にありがちな独りよがりの正義感は、ある種のストーカー行為、偏執狂でなくてなんであろうか。

哀れ、菅子よ、と小説の最後に歎かずにいられない。だが、菅子への仕打ちは、このあと作者鏡花の手を離れて演劇化されるにあたって、まずは型にはまった悪役へ、そして徐々に脇役へ、端役へと凋落してしまったことの方がより悲惨だった。その様子を次に見てみよう。

 

新富座初演の菅子>

 明治四十一年新富座初演の脚色家は柳川春葉(しゅんよう)。鏡花と同じ尾崎紅葉門下の弟弟子にあたる。芝居番付に「幕」と「登場人物」配役がある。

 

(明治四十一年十一月新富座

・序満来「早瀬主税の住宅」

・二幕目「神楽坂毘沙門縁日」

・仝返し「柳橋芸者小芳宅」「仝座敷」「仝門口」

・三幕目「湯島天神境内」

・四幕目「酒井俊蔵宅庭前」「仝主人居間」「仝庭前」

・五幕目「八丁堀め組惣助の宅」

・六幕目「河野病院」「久能山上」「早瀬私塾」

・大津目「め組惣助の宅」

 お蔦:喜多村緑郎、菅子:坂東秀調、妙子:木村操

 

 その「婦系図概要」の「発端」には、登場人物の紹介・物語の背景と劇の狙いが書いてある(漢字はすべてフリガナつきだが、引用にあたって特に必要なもの以外は省略)。

《然るに河野英吉の姉に菅子といふのがあつて、弟の切なる希望に煩悶するを見兼ね、自分の貞操を犠牲にして早瀬を薬籠中のものとせんとする、早瀬も亦河野家の門閥癖を打破して苦痛を與へんと互に暗闘する。そして全編波瀾萬丈、悲喜交々到りて見る人の腸(はらわた)を剜(えぐ)るのが此の劇の要領である。》

 菅子の役どころもふくめ、三つのことを言える。

 第一に、はやくも菅子は「自分の貞操を犠牲にして早瀬を薬籠中のものとせんとする」という悪女のステレオタイプにさせられている。妹なのに、「英吉の姉」としているのは、姉道子を登場人物にせず、馬丁貞造と母豊子との不義の結晶役として演じさせるがためだった。

 第二に、「早瀬も亦河野家の門閥癖を打破して苦痛を與へんと互に暗闘する」という復讐劇であって、原作「後編」を重んじている。師酒井が早瀬を罵倒し折檻して遂に手を切らせ、原作にはない「湯島天神境内」を三幕目に設けて、《早瀬と蔦吉は血を吐くやうな辛い悲しい思ひをして別れて仕舞つた》という悲恋ドラマだけではない、総合劇だった。

 第三に、「全編波瀾萬丈、悲喜交々到りて見る人の腸(はらわた)を剜(えぐ)る」という物騒で威勢のいいピカレスク・ロマンだと宣言した。

 つぎに、各幕の解説を読み進めると、およそ二つのことがわかる。

 第一に、「第六段(その一)河野病院病室(これは毒薬)」は、原作の「貸小袖」「うつらうつら」(先に引用した菅子邸での菅子との交情)と「廊下づたい」(病に冒された主税を看病する道子との病室での交情)を菅子のもとに合成・合体した脚色となっている。

《静岡に独逸語の私塾を開いた早瀬主税は病に冒されて河野病院の病室に呻吟して居る、眼醒めて四邉(あたり)を見廻はすと、島山理学士夫人菅子は自分の良人(おつと)を介抱せん斗(ばか)りに看病をして居た、早瀬は其の病院に来て居る事を菅子より聞き人事不肖に陥つたのを菅子の盡力で此處に来た事を説いた、頓(やが)て茲(ここ)へ菅子の良人島山理学士が来て菅子を見て先づ嫉妬の情に駆られて烈火の如く怒つて不義の関係を罵つた。》

「介抱せん斗りに看病をして居た」という程度だから、「不義の関係」というわりには穏当で、これが検閲対象となって「蔦子物語」に集中していったという説は、一因ではあったかもしれないが主因とは同意しがたい。

 第二に、「第六段(その三)早瀬主税の私塾(親子の邂逅)」には、《頓て島山夫人菅子来りて弟の為めに自分の貞操を犠牲にして早瀬に従ひたる事を具(つぶ)さに語りて妙子を嫁に貰ひ呉と依頼する、主税は先づ菅子に向つて真の父ある事を話して不義の結晶なりし事をいふ、菅子は事の意外に驚く、特に萬太は病中の貞造を負ひ来りて菅子に合はしむ、茲に親子の対面となつて悲喜交々両人の肺腑を貫く》とあるとおり、理由(わけ)あって日陰の身に別れた親子の邂逅という『婦系図』のメインテーマ(旧派の歌舞伎の基本形で、「誰それ、実は誰々」と「親子の別れ/邂逅」という泣かせどころを、新派においても「小芳(実母)―妙子(娘)」、「貞造(実父)―道子(菅子)(娘)」をセットにして強調)が、不道徳な河野家にもあったので、都合よく菅子に割りあてた、ということ。

新富座所感』に戻って、菅子について鏡花がどういう思いを持ったかを見てゆこう。「所感」といいつつも、かなり細かい感想、注文を残しているのは、思い入れが強かったからに違いあるまい。

 原作『婦系図』を劇化するさいの基本問題として横たわっていたのは、「お蔦物語」と「菅子物語」のパラレルな進行と展開、両者のバランス、六幕ていどにするための幕・場面の選択、登場人物の絞り込みと出し入れだったろう。もちろん劇の見せどころ、要点をどこに置くかからそれらは来る。

 初演にあたって、師紅葉門下の弟弟子にあたる柳川春葉(引用中「おじさん」と表記)が、いかに苦労したのか鏡花には痛いほどわかったうえで、「が、慾を云ってあとねだりをすれば」と言いのけた怖い所感ではあった。

《(前略)原作の我がままものを今度の脚色には、彼方此方(あちこち)お手心(てごころ)の骨折(ほねおり)が見えて居る。が慾(よく)を云ってあとねだりをすれば、四幕目の酒井俊蔵(さかいしゅんぞう)の書斎が引返(ひっかえ)しに成って、お妙(たえ)の部屋に成る。ここへ学校ともだちの紹介で、嶋山夫人菅子(すがこ)が透(とおる)と云う小児(こども)をつれて遇(あ)いに来る。意(こころ)はそれとなく兄英吉が嫁に望むお妙の容子(ようす)を下見と云う筋。開場前にも打合せがあって、此処(ここ)に一寸(ちょっと)菅子と云う人物を出して置かないと、静岡へ行ってからの早瀬との連絡がつかぬというので、おじさんも名趣向でないのは分ってるが、舞台の都合と、時間の経済のため、仕方がない間に合わせに菅子の顔だけ見せて置くつもりとの事。話で聞いた時は何でもなかった。扨(さ)て舞台へ顕(あらわ)れたのを、見物人になって見ると、何(ど)うも甚(はなは)だ調和が悪い。》

 以下、その改善提案だ(異常なほど潔癖症で生ものを口にしなかった鏡花は「腐」の字を嫌って「豆府」とここでも書いている)。

《これで時間の遣繰(やりく)りをつけて新橋の停車場(ステエション)が欲しい。(中略)め組が、何構わねえ、で、これから飯田町のお蔦(つた)との所帯を畳んだいきさつ、出入りの八百屋(やおや)豆府屋(とうふや)までが、車座で呻って掏摸(すり)ばんだいを一(ひと)わたり饒舌(しゃべ)り立てる処へ、菅子とその母親の富子を出して、ここで早瀬と菅子を逢わせる、英吉等(ら)二人も出る。何か話のキッカケに煙草(たばこ)を買いか何かに一寸(ちょっと)早瀬が立違(たちちが)ったあとを、ヒソヒソ話しで英吉が、菅子にその手腕を以(もっ)て早瀬を籠絡(ろうらく)するよう頼む、母親も内々(ないない)承知で頷(うなず)く。菅子がずっとハイカラに心得込んで、私の外交を御覧なさいか何か云う。》

「新橋の停車場(ステエション)が欲しい」は、実際に明治四十四年上演で具体化されて今日に至っている。

「英吉が、菅子にその手腕を以て早瀬を籠絡するよう頼む、母親も内々承知で頷く。菅子がずっとハイカラに心得込んで、私の外交を御覧なさいか何か云う」には、原作小説ではそこまで策略に満ちた女に描いていないにもかかわらず、そのような性向にしたほうがメリハリがつく、主税との対決の構図がわかりやすくなる、と劇を見て引っぱられたのか、はじめからそう考えていたのか、あるいは両方に揺らぐ深層心理だったのか、核心ではあるが鏡花本人のみ知るところだろう。

 ついで、六幕目の菅子の中途半端さ、折衷への不満である。鏡花の本心では、もっと菅子を艶に働かせたかったのだ。

《其処で次の場へ、静岡の菅子の邸(やしき)を一場出す。この場を出すかわりに、後の早瀬私塾と云う処を省略しても可(よ)かろうと思う。で、此処は派手な、媚(なま)めかしい、且(か)つ艶(えん)な、女俳優(おんなやくしゃ)に見紛(みまご)うと云う、尤(もっと)も夫、嶋山理学士は旅行中の留守なる、菅女(すがじょ)部屋(べや)の誂(あつらえ)で、思う状(さま)菅子と早瀬に働かせる、無論恁(こ)うするには、菅子に扮するのが喜多村(きたむら)でなければならぬ。(中略)

 処で、菅子は母(おっか)さんの御免(おゆるし)の美的外交で、早瀬を服従させようとする。思う壺と、早瀬はその術に乗りながら、自分の思(おもい)を果そうとする。

 衣桁(いこう)にかけた扱帯(しごき)ぐらいはしめさせる言などあり、邪魔に成らぬだけに小児(こども)もつかい、乳母(うば)と女中を出す、麦酒(ビール)も出す。菅子が湯に入ったあとで、一つは乳母(ばあや)さんに、奥さんに言わんのだよ、と早瀬が女中に心附(こころづけ)をポンと出すあたりで幕として。

 それから病院へ筋を続ける。》

 これはつまり、道子との病院の「廊下づたい」と合成することなく、さきに少し引用した原作の「貸小袖」と同じような筋立て、ぞくぞくさせる

 エピソードをもって、菅子には艶にやって欲しいと願っていたのである。次の「うつらうつら」は肉慾に傾きすぎて肉感的であるから、その直前で「幕として」にしまうにしても。

 しかし、この提案だけは、残念ながら新派『婦系図』において実ることはなかった。

 

<菅子の凋落>

 明治四十四年十一月明治座公演の辻は次のとおりである。

 

(明治四十四年十一月明治座

・序幕「私立照陽塾運動会」「早瀬主税の住居」

・二幕目「小石川新坂下縁日」「柳橋柏家小芳宅座敷」「同家裏口薄暮

・三幕目「湯島天神社境内」

・四幕目「酒井俊造宅奥座敷」「新橋停車場待合室」「待合嬉し野座敷」

・五幕目「八丁堀魚屋惣助宅」

・六幕目「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」

・大詰「魚屋惣助内おつた臨終」

 おつた:喜多村緑郎、すが子:丸山久雄、妙子:酒井信一

 

 明治四十一年初演との差異として、もっとも目につくのは、六幕目から「河野病院」「久能山上」という「菅子物語」が消えていることだ。

 さらに、すぐ目につくのは、四幕目に鏡花提案の「新橋停車場待合室」が加わったことと、新たに妙子がレイプされそうになって危うく救出される「待合嬉し野座敷」が加わったが、これらは「お蔦物語」の強化に他ならない。

「早瀬私塾」が「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」になったが、これは二つに分割されただけとも言える。縁日が「神楽坂毘沙門縁日」から「小石川新坂下縁日」になり、序幕に「私立照陽塾運動会」を設定するといった遣り繰りの異同がある。

 重要なのは、「菅子物語」の凋落、追放が、大正三年の鏡花書き下ろし戯曲『湯島の境内』によるお蔦人気から来たのではなく、すでに明治四十四年の段階からはじまっていたことだ。

 初演を観劇した鏡花「所感」の、「菅子物語」への艶なる思い入れは、あっさりと無視され、《一体原作では、殆(ほとん)ど菅子が女主人公で、お蔦はさし添(ぞい)と云うのであるから、二人引受けるとなら格別、お蔦だけでは見せ場はなかろう、と思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になつたり》は、ここに本当にその通りになってしまった。

 ついで、その鏡花書き下ろし戯曲『湯島の境内』を入れ込んだ大正三年九月明治座公演の辻はどうだったかと言えば、次のとおりだ。

 

(大正三年九月明治座

・序幕「早瀬主税住居」

・二幕目「本郷四丁目縁日」「柳橋柏家小芳宅」「同く柏家裏口」

・三幕目「湯島天神境内」

・四幕目「酒井俊蔵宅書斎」「品川停車場待合室」「嬉野亭奥座敷

・五幕目「八丁堀魚屋惣助宅」

・大詰「静岡早瀬主税私塾」「安東村馬丁貞造貧家」「惣助宅お蔦病床」

 おつた:河井武夫、菅子:石川新水、妙子:木村操

 

 六幕ものへと集約され、「新橋停車場待合室」が「品川停車場待合室」に、「小石川新坂下縁日」が「本郷四丁目縁日」に、といった地理的な御都合主義があったにしても、ここでも、菅子邸はおろか河野病院さえも存在しない。脇道に外れる「菅子物語」はなくなって、お蔦の芝居がはっきりと確立された。

 残るは「安東村馬丁貞造貧家」をめぐる河野家の血の不義の話だけであるが、それだけは「茲に親子の対面となつて悲喜交々両人の肺腑を貫く」泣かせどころとしてかろうじて残った。

「お蔦物語」が「菅子物語」を追放し、お蔦の悲恋をより純化させるために西施菅子、主税の復讐を外す構造は、脚色・演出が柳川春葉、小島孤舟、そして喜多村緑郎から久保田万太郎、大江良太郎、川口松太郎、大場正昭へと移っても変ることなく、ますます新派としてこれでもかと強めていったというのが正しいだろう。

 それは例えば、残った「安東村馬丁貞造貧家」さえも、昭和四十八年十月国立劇場婦系図』プログラムに川口松太郎が「脚色・演出のことば」で書いているように、《従来は静岡の貞蔵小屋という場面があったが、舞台も陰気で芝居が脇道へ外れてしまう危険があるので新しく書き直した。婦系図を通して見ると各幕にヤマがあって誠に面白く出来ているが、貞蔵小屋だけは従来も感心しなかった》(貞蔵=貞造)とあるような扱いを受けて、次のような幕割となる。

 

(昭和四十八年十月国立劇場

・序幕「飯田町の井戸端」「飯田町早瀬主税宅」

・二幕目「本郷の薬師縁日」「柳橋の柏家」「柏家の裏手」

・三幕目「湯島の境内」

・四幕目「本郷真砂町酒井邸」「新橋ステーション」「烏森の嬉し野」

・五幕目「八丁堀のめの惣」

・大詰「静岡の早瀬寓居」「めの惣の二階座敷」

 お蔦:水谷八重子、菅子:安倍洋子、妙子:波乃久里子

 

<お蔦の芝居へ>

 川口松太郎は「脚色・演出のことば」に次の言葉も残している。

《今度は新しく脚色するに当って改めて泉先生の原作を読んでみたが、あの原作をよくもこんな芝居に仕組んだものと脚色のうまさに驚いてしまった。そういっては怒られるかも知れないが、婦系図に関する限りは原作よりも芝居の方が面白く仕組まれている。》

 さすがに川口は、「仕組まれている」と旨い表現をする。この芝居は原作から、あれこれを出入りさせて「仕組んだ」ものに違いあるまい。

 同プログラムには、戸板康二のエッセイ「「婦系図」の記憶」もある。この文章が、「お蔦の芝居」のなんたるかを著わしてあますところがない。それは「菅子の芝居」ではなくなった由縁をも示している。

《(前略)愛人をそばにおいて、弟子に女と別れろと厳命する酒井先生は、暴君のように見えるという若者もいる。

 しかし、それだからこそ、お蔦の純情がきわ立って美しく見えるので、原作の描写よりも、ぼくなぞは、新派の古典の中に立体化されたお蔦に、日本の女のすぐれた特徴をしみじみと見るのである。

 芝居としても、酒井先生と主税の詰め開き、主税とお蔦の別れ話、小芳と妙子の晴れて名のれぬ母子の対面、お蔦の病死というように、たたみかけて観客を緊張させ、泣かせる場面が、じつによく用意されている。》

 さきに、お蔦については、あまりに着物、容色の描写が欠如しているので、その意味については別に考察したい、と書いたが、ようやくここで詳述できる。

 巻頭「鯛、比目魚」の出の《素顔に口紅で美(うつくし)いから、その色に紛(まが)うけれども、可愛い音(ね)は、唇が鳴るのではない》の後も、お蔦の出番はとても少ない。

婦系図』を通して、お蔦のはっきりとした出番は十ほどもないのではないか、それも鏡花の筆は短い筆致で絡みつくのみで、他の女たちの細部への、今となっては時代がかった華麗かつ饒舌な表現、文体との落差には驚くばかりだ。

 巻頭の引用文のあとも、魚屋のめの惣、女中お源とのいなせなやりとりによって、お蔦の性格描写がなされるだけだ。

《例によって飲(き)こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、

「おいでなさい、奥様(おくさん)、へへへへへ。」

「お止(よ)しってば、気障(きざ)じゃないか。お源もまた、」

 と指の尖(さき)で、鬢(びん)をちょいと掻(か)きながら、袖を女中の肩に当てて、

「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様(おくさん)が、江戸に在るものかね。」》

《「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可(い)い……」

「値切らない、」

「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦(だん)じゃねえか。」

「可いよ。私が承知しているんだから、」

 と眦(まなじり)の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤(おとがい)をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿(しめ)やかに見えたので、め(・)組もおとなしく頷(うなず)いた。》 

 その後もお蔦は、主税宅に河野豊子、英吉、妙子といった客がつぎつぎ来訪すれども、なにしろ姿を見られないよう隠れてしまうのだから、描写のしようがないともいえる。現われたと思うと、この程度である。

《お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁(ふくいく)として、繻子(しゅす)の襟の烏羽玉(うばたま)にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚(はばか)って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢(けはい)もない。》

「前篇」末尾は、新橋停車場でのお蔦の出現で終わるが、この描写がお蔦の描き方を端的に示している。

《主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜(あだ)な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸(がらすど)をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。

 はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背(うしろ)を向いた。

 汽車出でぬ。》

「前篇」のお蔦はもうこれだけなのである。途中、二、三カ所、主税の意識の流れのような前衛的ともいえる文章の中で、妙子をめぐるお蔦の意見、態度が泛んでは消え、するものの、原作には「湯島の境内」の「たっぷり」は今も昔も存在しない。

「後編」になると、「貸小袖」で主税が菅子に懺悔するごとく語ったお蔦との恋物語があるけれども、本人が登場するわけではなく、語りの中でのお蔦にすぎない。

《義理から別離(わかれ)話になると、お蔦は、しかし二度芸者(つとめ)をする気は無いから、幸いめ(・)組の惣助(そうすけ)の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め(・)組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。》

 その後のお蔦は、もう病いの床にあるから哀れで、後れ毛を掻上げるというお決まりの儚いポーズ。派手やかな描写にはなりえないし、泣かせるシーンの連続となる。以下、お蔦が小説の中で演じる、ほとんどすべてのはずだ。

《枕についた肩細く、半ば掻巻(かいまき)を藻脱けた姿の、空蝉(うつせみ)のあわれな胸を、痩(や)せた手でしっかりと、浴衣に襲(かさ)ねた寝衣(ねまき)の襟の、はだかったのを切なそうに掴(つか)みながら、銀杏返しの鬢(びん)の崩れを、引結(ひきゆわ)えた頭(かしら)重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻(ほっ)と今呼吸(いき)をしたのはお蔦である。》

《お蔦は急に起上った身体(からだ)のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術(じゅつ)なそうであった。

 枕から透く、その細う捩(よ)れた背(せな)へ、小芳が、密(そっ)と手を入れて、上へ抱起すようにして、

「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可(いけな)いよ。」

「ああ、難有(ありがと)う、」

 とようよう起直って、顱巻(はちまき)を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、

「何だか、骨が抜けたようで可笑(おかし)いわ、気障(きざ)だねえ、ぐったりして。」

 と蓮葉(はすは)に云って、口惜(くや)しそうに力のない膝を緊(し)め合わせる。》

《その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮(はず)んだ調子で、

「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」

「主税さんが好な色よ。」

 と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。

「姉さん、」

 と、お蔦は俯向(うつむ)いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染(そむ)るまでその半襟を咽喉(のど)に当てて、頤(おとがい)深く熟(じっ)と圧(おさ)えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。

「私が死んだら、姉さん、経帷子(きょうかたびら)も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」

 と云う下から、桔梗(ききょう)を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。》

《お蔦は蓐(しとね)に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄(つま)の萎(な)えた、かよわい状(さま)は、物語にでもあるような。直ぐにその裳(もすそ)から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。》

《お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛(はけ)を持って、颯(さっ)とお化粧(つくり)を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭(ふ)いて一歯入れる。》

《芸妓(げいこ)島田は名誉の婦(おんな)が、いかに、丹精をぬきんでたろう。

 上らぬ枕を取交えた、括蒲団(くくりぶとん)に一(いち)が沈んで、後毛(おくれげ)の乱れさえ、一入(ひとしお)の可傷(いたまし)さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。

 お蔦は恥じてか、見て欲(ほし)かったか、肩を捻(ひね)って、髷(まげ)を真向きに、毛筋も透通るような頸(うなじ)を向けて、なだらかに掛けた小掻巻(こがいまき)の膝の辺(あたり)に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。》

《トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴(つか)んで、

「咽喉(のど)が苦しい、ああ、呼吸(いき)が出来ない。素人らしいが、(と莞爾(にっこり)して、)口移しに薬を飲まして……」

 酒井は猶予(ため)らわず、水薬を口に含んだのである。

 がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚(うっとり)したが、

「早瀬さん。」

「お蔦。」

「早瀬さん……」

「むむ、」

「先(せ)、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」

 酒井は、はらはらと落涙した。》

これっきり、隠れていること、控えめなことで、かえって読者の想像力は自分の心の色に膨らむ。

 小説の華麗な文体の欠如、空白は、逆に言えば、すでに演劇のすっきりとした文体となっていることを意味する。つねに登場人物たちとの関係の中で、地の長々とした説明文ではなく、会話と、ト書のようなそこはかとした動作表現だけからなる文体で、お蔦にだけは戯曲台本を書きあげていた。

 原作小説にはなくとも初演からこしらえられた「湯島天神境内」の場を、鏡花の腕前で『湯島の境内』戯曲、一齣(こま)として書き加える(書き換える)ことは、自身にとって願ってもないことだったに違いない。でなければ、どうしてあれほどの名場面が書かれよう。

 この場に、余所事(よそごと)浄瑠璃として、これも喜多村緑郎の提案のようだが、黙阿弥歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』六幕目の、直次郎と遊女三千歳(みちとせ)の忍び逢いで唄われる清元の「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」(「三千歳(みちとせ)」)が巧みに使われる。

 幕あきの、

「〽 冴え返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、」から、中程の、

「〽 一日逢わねば千日の、思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣きの涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ」を経て、幕切れの、

「〽 実(げ)に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る・・・・

〽 思いぞ残しける」まで、

 名台詞「月は晴れても心は暗闇(やみ)だ」、

「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ。・・・・私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろとおっしゃいましな」、

「静岡って箱根のもっと先ですか」とともに、お蔦、主税につかずはなれず纏綿と情緒を掻きたてる。

 その名調子はますますもって『婦系図』をお蔦の芝居にしてゆき、哀れ菅子は忘れられてゆくのだった。

                                   (了)

  *****参考または引用***** 

泉鏡花集成」(ちくま文庫筑摩書房