演劇批評 「三島『サド侯爵夫人』のコペルニクス的転回」

 「三島『サド侯爵夫人』のコペルニクス的転回」

 

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 三島由紀夫の戯曲から代表作を三つあげろと言われれば、大方の人は、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』『鹿鳴館』を名指すだろう。人によっては、『近代能楽集』から『綾の鼓』か『卒塔婆小町』か『弱法師』あたりを滑り込ませるかもしれないし、あるいは歌舞伎好きなら『鰯売恋曳綱(いわしうりこいのひきあみ)』を割り込ませるかもしれない。そういった出入りがあったにせよ、まず『サド侯爵夫人』は落ちまい。それだけ完成度も人気も高く、様々な演出の工夫による話題と共にいくたびも上演されてきている。

 昭和40年(1965年)6月に執筆開始された『サド侯爵夫人』の書かれたいきさつや三島の意図・狙いは、三島自身が、「跋(ばつ)」や「解題(解説)」として、本やプログラムや新聞にほぼ同工異曲で書いて来たので、作者の思いは明確に宣言されていると考えるのが自然だろう。しかし、あまりに明確に見せられるがゆえに、かえって見えなくなってしまう、あるいは逆説の人三島であるだけに、見せつつ見せない、ということもあるのではないか。

 

<『サド侯爵夫人』の作劇意図>

 まずは三島が正直に書いたに違いない(小説『禁色』、歌舞伎『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき)』のような、自信作であるにもかかわらずの低評価を気にして、あらかじめ自分から意図を説明しようとした)河出書房新社刊『サド侯爵夫人』昭和40年11月の「跋(ばつ)」をみておく。三島には、この戯曲ならではの三点の意図があった。

 一点目は「切り口」。

澁澤龍彦氏の『サド侯爵の生涯』を面白く読んで、私がもっとも作家的興味をそそられたのは、サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に終始一貫尽していながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまうのか、という謎であった。この芝居はこの謎から出発し、その謎の論理的解明を試みたものである。そこには人間性のもっとも不可解、かつ、もっとも真実なものが宿っている筈であり、私はすべてをその視点に置いて、そこからサドを眺めてみたかった。》

 二点目は「サド論」。

《いわばこれは「女性によるサド論」であるから、サド夫人を中心に、各役が女だけで固められなければならぬ。サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。》

 三点目は「言葉(台詞)」。

《舞台の末梢(まつしよう)的技巧は一切これを排し、セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻らねばならぬ。目のたのしみは、美しいロココ風の衣裳(いしよう)が引受けてくれるであろう。すべては、サド夫人をめぐる一つの精密な数学的体系でなければならぬ。》

 以上、三点である。

 一点目の「切り口」については、同じく昭和40年11月の『劇団NLTプログラム』の冒頭に、劇の核心ともいえる構造、サドという「中心の不在・虚無」を、歌舞伎女方への逡巡、と絡めて解説している。

《あるときふと「こりゃ、サド自身を出さない、という行き方があるんじゃないか」と思いつき、それから俄かに構想がまとまりはじめたのである。芝居の構想がまとまるキッカケというものは、大抵そんな風に単純なものである。サドを、舞台に出さぬとなれば、他の男は、もちろん出て来てはならない。サドが男の代表であるべき芝居に、他の男が出て来ては、サドの典型性が薄れるからである。しかし女ばかりの舞台では、声質が単調になりがちで、(これは宝塚の舞台を、考えればすぐわかる)、殊にセリフ本位の芝居の場合は、それが心配になり、構想中、老貴婦人の役を出して、女形で、やらせる、とも考えたが新劇における女形演技の無伝統を思うと、それも怖くなってやめてしまい、結局女だけの登場人物で通すことにした。》

 三点目の「言葉(台詞)」については、昭和41年7月の毎日新聞『『サド侯爵夫人』の再演』に、大入り満員だった東京再演に対して、三島の作劇の意図と自信をはっきりと念押し、強調している。

《もっとも下劣、もっとも卑ワイ、もっとも残酷、もっとも不道徳、もっとも汚らしいことをもっとも優雅なことばで語らせること。そういう私のプランのなかには、もちろんことばの抽象性と、ことばの浄化力に関する自信があった。それが、芝居におけるセリフの力を、もっとも目ざましく証明してくれるはずだった。(中略)芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいうまでもないが、その相克はかしゃくないセリフの決闘によってしか、そしてセリフ自体の演技的表現によってしか、決して全き表現を得ることがない。その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もっともらしい理屈をくっつけて来たにすぎない。》

 同じくロゴスとセリフへのこだわりを、昭和42年8月の中央公論社刊『サド侯爵夫人』限定版の『豪華版のための補跋(『サド侯爵夫人』)』で補足している。

《日本で純粋な対話劇が発達しなかったのには、さまざまな理由が考えられるが、根本的には、日本人の人間観自然観に、主客の対立を厳しくしないものがあるからであろう。主客の対立を惹(ひ)き起すものこそ言葉であり、言葉のロゴスを介して、感情的対立は、理論的思想的対立になり、そこにはじめて劇的客観性を生じて、これがさらに、観客の主観との対立緊張を生むことになる。これがギリシア以来の西欧の演劇伝統のあらましである。ラシイヌの戯曲は、このようなラテン的伝統の精華であろう。しかるに、日本に移入された西欧劇(いわゆる新劇)は、その戯曲解釈において、必ずしも、こうした西欧的伝統を継受するものではなく、表面はわが伝統演劇ときびしく対決したように見えながら、その実、セリフの文学性、論理性、朗誦(ろうしょう)性、抽象性等々をことごとく没却して、写実的デッサンと心理的トリヴィアリズムと性格表現の重視、あるいはイデオロギーの偏重に災いされ、却って偏頗(へんぱ)で特殊な一演劇ジャンルを形成してしまった。それだけそれがみごとな変種であるかというと、そうとばかりは言えぬ。セリフ自体をでなく、セリフの行間のニュアンスを固執する日本伝統演劇の演技術や演出術が、そこかしこに無意識に顔を出している。》

 ラシイヌ劇の演出家にして翻訳者でもある渡邊守章が1995年にさいたま芸術劇場で『サド侯爵夫人』を演出するにあたり、『三島由紀夫作『サド侯爵夫人』の演出について』を書いている。

《作者が繰り返し述べているように、劇作術のモデルは、幾何学的均衡と、強固な論理構造と、輪郭の鮮明な言語によって書かれたフランスの古典主義悲劇である。かつてラシーヌの『ブリタニキュス』に挑んだ三島の、これは文字通りの力業であり、しかもそれに見事に成功している。そこには、文を彩る三島好みのドイツ・ロマン派的な官能性も与(あず)かって大きいが、同時に、新劇の発明した奇怪な『翻訳調』を逆手に取るという計画は、実は通常の「翻訳調」などとはレベルを全く異にする。格調高くかつ色っぽい(・・・・)日本語の台詞に結晶している。三島が愛唱した『天守物語』の鏡花の影さえも透けて見えるので、この戯曲を演じるとなれば、まず三島の台詞を身体化するところから始めなくてはなるまい。

 主題の孕(はら)みうる性的な異常性やその哲学的・政治的作用は、それはそれで重要だが、徒(いたずら)な内容主義に走って、三島のテクストの持つ演劇言語としてのあの魅力と強度が活かされないならば、この戯曲に挑戦する意味はない。なによりもまず言語であり、台詞を音楽の譜面のように捉えることである。》

 渡邊守章に、「主題の孕(はら)みうる性的な異常性やその哲学的・政治的作用は、それはそれで重要だが、徒(いたずら)な内容主義に走って」と釘をさされてはいるが、「三島のテクストの持つ演劇言語としてのあの魅力と強度」は観劇するか、後に引用もするから、声に出して読んでもらうことで味わうとして、内容、とりわけその哲学的作用とでもいったものを論考してみたい。

 

 

<『サド侯爵夫人』>

 戯曲は三幕からなる。物語の節目も、その三幕と一致した三つの時間による。空間はパリのモントルイユ夫人邸サロンから動かない。登場人物は、サド侯爵夫人ルネ、ルネの母親モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、シミアーヌ男爵夫人、サン・フォン伯爵夫人、モントルイユ夫人家政婦シャルロットという女ばかりの六人(六人が六芒星ダビデの星のような幾何学✡をなし、惑星のような図形の中心にはサド侯爵が存在するはずだが、空白、空虚、無ともいえる)。

 

 第一幕。

 1772年秋。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 サドの物語の口寄せのような悪徳の権化サン・フォン伯爵夫人が信心深い美徳の象徴シミアーヌ男爵夫人に、三月前にサド侯爵(アルフォンス)が売春婦達と起こしたマルセイユ事件のために、高等法院から死刑の判決を受け、肖像が町の広場で焼かれたスキャンダルを披露している。サドはこれまでも売春婦や乞食、女役者などと乱交に耽り、拘留されたりしたが、その度にサドの妻ルネの母親モントルイユ夫人が莫大な金を使って釈放したり、娘ルネに知られないようにと噂を消してまわっていた。夫人は、追われる娘婿サドの無罪放免のために、法王庁に赦免の沙汰を願い出てほしいシミアーヌ男爵夫人と、高等法院の判決を破棄するために大法官をたらしこめるサン・フォン伯爵夫人を招いたのだった。そこへ、娘ルネがラ・コストの城からパリに戻って来た。夫人はルネにサドとの離別を勧めるが、貞淑な妻であることを守り通そうと拒否される。さらに妹娘のアンヌも戻ってきて、義兄のサドと一緒にヴェニスに旅していたこと、自分とサドの関係は姉のルネも知っていることを母に告げて悲嘆させる。サドの隠れ家がサルデニア王国とアンヌから聞き出した夫人は、サン・フォン伯爵夫人とシミアーヌ男爵夫人への頼みを取消す手紙を家政婦のシャルロットに託すとともに、国王へのお願い(サド逮捕)の手紙を自分で届けることとする。

 

 第二幕 。

 6年後の1778年晩夏9月。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 サド(アルフォンス)の罪を罰金刑で済ますとする高等法院再審の結果をサド侯爵夫人(ルネ)のところへ妹アンヌが届けに来る。この報せで、母子三人のわだかまりも融けたかのように見えたが、散歩のついでに立ち寄ったサン・フォン伯爵夫人が、7月にヴァンセンヌの牢獄から釈放されたサドは、忽(たちま)ち王家の警官に捕らえられ、さらに堅固な独房へ移されていて、すべてはモントルイユ夫人の罠だった、と暴いて立去る。ルネは母モントルイユ夫人に詰め寄り、激しい言葉の応酬となる。夫人はルネに、サドを牢屋に入れておけば嫉妬もせずにすむのに、何故怪物を自由の身にしたいのかと問う。ルネは母から教わった「貞淑」のためだと応えるが、夫人は密偵からの報告で、4年前のノエルの夜にラ・コストの城で、丸裸のルネがサドの饗宴の一人だったのを知っていた、と明かす。ルネは、サドは譬(たとえ)でしか語れない人で、鳩であり、金髪の白い小さな花であり、自分はその共犯者になったのです、母と父はしきたりや道徳や正常さと一緒に寝て、一寸でも則(のり)に外れたものへの憎しみや蔑(さげす)みで生きていると言い返す。夫人が、お前の顔がアルフォンスに似てしまったと言うと、ルネは「アルフォンスは、私だったのです」と告げる。

 

 第三幕 。

 さらに12年後の1790年春4月。フランス革命勃発後九ヶ月。パリ、モントルイユ夫人邸サロン。

 王侯、貴族に身の危険が迫る革命が勃発した。憲法制定議会が勅命逮捕状を無効にしたことで、サド(アルフォンス)は帰ってこようとしていた。パリに飽きたサン・フォン伯爵夫人は、マルセイユで娼婦に身をやつしていて、警官隊に襲われた暴徒に踏みつぶされてしまった。妹娘アンヌが母モントルイユ夫人に一緒にヴェニスへ逃げようと誘うが、夫人は、牢屋のサドが革命党と知合いで、便宜をはかってやろうと手紙で言ってきたことを心にとめている。尼になったシミアーヌ男爵夫人が現れる。サドが自由の身で帰ってこようとしているのに、ルネは世を捨て、シミアーヌ夫人のいる修道院へ入る決心をしていた。なぜかと問う母にルネは言う。サドから牢屋で手渡された物語『ジュスティーヌ』(美徳を守ろうとする妹ジュスティーヌはあらゆる不幸に遭い、悪を推し進める姉ジュリエットはあらゆる幸運を得て富み栄え、しかも神の怒りは姉には下らず、みじめな最期を遂げるのは妹ジュスティーヌのほうだった)を読み、むかし、「アルフォンスは私です」と言ったのは思いちがいだった、本当は、「ジュスティーヌは私です」だった、サドは、内側から鑢(やすり)一つ使わずに牢を破っていた、朽ちない悪徳の大伽藍(だいがらん)を築き上げようとして、悪の水晶を創り出してしまった、人のこの世をそっくり鉄格子のなかへ閉じ込め、あらゆる悪をかき集めて、もうすこしで永遠に指を届かせようと天国への裏階段をつけた、神がその仕事をアルフォンスにお委(まか)せになったのかもしれません。十八年のあいだ待ちこがれた自由の身になって帰ってきても決心は渝(かわ)りはいたしません。家政婦シャルロットが戸口の外に、サド侯爵がお見えです、と告げる。あまりに変り、物乞いの老人のようで、醜く肥えておしまいになった、とシャルロットから聞いたルネは告げる。「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。」

 

<ルソー/カント/サド>

 ルソー(1712年 ~1778年)とカント(1724年 ~1804年)とサド(1740年 ~1814年)は、啓蒙と理性の世紀といわれる十八世紀後半を生きた同時代人だった(さらにゲーテ(1749年~1832年)とモーツァルト1756年1791年)も直近の影響を受けた)。

 

 カントは、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)の『批判』三部作に打ち込む以前に、ルソーに夢中になっている。

 カント学者である坂部恵の『カントとルソー』および『人間学の地平』によれば、カントがルソーの『エミール』に読みふけって、日課の散歩を忘れたという逸話の伝える出来事がおこったのは、およそ1763年から64年にかけての時期であるという。ルソーの思想の影響は、1763年の10月に書き終えられた『美と崇高の感情に関する観察』の注に、『エミール』に関する言及が見られ、1764年2月の『脳病試論』、翌年の『一七六五年―六六年冬学期の講義計画』から、翌々年すなわち1766年はじめの『視霊者の夢』でさらに身についたものとなって、この時期の著作の基調音をなすにいたる。ルソーのカントへの影響を論じる際にきまって引用される、カントが『美と崇高の感情に関する観察』の手沢本(しゅたくぼん)に書きこんだ有名な断章には、《私は気立てからしても学者だ、知ることを渇望し、また、ものを知りたいという貪欲な不安にとらわれ、あるいは、一歩進むごとに満足をおぼえもする。一時期、私はこのことのみが人間の名誉を形づくると信じ、無知な賤民を軽蔑した。ルソーがこの私を正道にもたらしてくれた。目のくらんだおごりは消え失せ、私は人間を尊敬することを学んだ。もし、この尊敬が、他のすべての研究に、人間の諸権利を顕揚するという価値をあたえうると信じなかったならば、私は私自身をありきたりの労働者よりずっと無用な者と考えるだろう》とある。坂部は、既成の文明の一切を仮のものと感じさせるほどに、人間としての人間、生地のままの人間、いわゆる自然人をみすえてはなさず、みずからその生き証人となることによって、既成の学問、芸術、道徳などの一切を根底から批判しさるというルソーの、ときに理性と称されるものまでも含めての一切の虚飾を排した徹底的な思想に、カントは心の底から揺り動かされた(ただし、ルソーの誇張の多い、ロマン的な文体に目をくらまされることはなかった)、と論じた。

 

 サドもまたルソーを熱心に読んだ。おそらくは幼いころから、そして監獄のなかでも読むことを熱望した。

 植田祐次の『啓蒙の時代のリベルタン作家』によれば、サドに影響を及ぼした人物として、父サド伯爵が、五歳のドナシャン(のちのサド侯爵)を5年間預けた、プロヴァンス地方のソマーヌに住む実弟、大修道院長のジャック=フランソワの名をあげている。彼は、ヴォルテールの友人でもあり、途方もない学識を持ったディレッタントで、サド家の先祖ラウラの恋人、詩聖ペトラルカの研究家でもあった。『サド伝』を著したモーリス・ルヴェールによれば、叔父にあたるこの修道院長の蔵書は、ギリシア、ラテンの作家たちの書はもちろんのこと、ロック『人間悟性論』、モンテスキュー『著作集』、ホッブス『市民論』、『ドン・キホーテ』、プレヴォー『貴人の回想と冒険』、ルソーの『新エロイーズ』『エミール』『社会契約論』など、ヴォルテール『ランジェニ』『戯画集』、ディドロ『戯曲集』など当代作家の作品や好色本が揃えられていて、ドナシャン少年は叔父の書棚を隅々まで熟知していたという。

 澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』によれば、ヴァンセンヌの獄で、サドが最も欲したものは食物と本であった。彼が夫人の差入れによって、どんな本を好んで読んでいたかといえば、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』、マントノン夫人の伝記、ルクレティウスの『万象論』、ヴォルテールの対話編、ビュフォンの『博物誌』、モンテーニュの全集などで、ドルバック『自然の体系』やルソー『告白』などは獄吏の干渉によってサドの手に入らなかった。

 ルソーの『告白』を入手できなかったことへのサドの憤りは、澁澤龍彦『サド侯爵の手紙』の1787年7月、サド侯爵夫人宛で読むことができる。《私にルクレティウスの本とヴォルテールの対話を送ってくれたあとで、今度はジャン=ジャックの『告白』を差し入れ禁止にするとは、何ともすばらしい処置だと申しあげるしかない。これこそ、あなた方管理者の偉大な眼識と深い洞察力を証明するものだ。(中略)ルソーはあなた方のような偏狭な心の人間には危険な著者かもしれないが、私にとっては、世にもすぐれた書物の著者なのだということを理解するだけの良識をもっていただきたい。ジャン=ジャックは私にとって、ちょうどあなた方にとっての『キリストのまねび』のような書物なのだ。ルソーの道徳と宗教は、私のためにはきびしいものだ。私は教科されたいと思うとき、ルソーの本を読む。》

 そして、サドは11月24日の夫人への手紙に、出所してから最初にするだろう自由の行為は、ぜひとも次の書物をただちに購入するということだ、として、ビュフォンの『博物誌』、モンテーニュヴォルテール、J=J・ルソーなどの作品の全部、フランスや東ローマ帝国の歴史、などをあげている。

 

 カントとサドについてはどうだろうか。

 サドはドイツ語圏であるカントの諸作品を読んではいなかったようだが、カントとサドの類縁性については、ジャック・ラカンの有名な論考が『エクリ』およびセミネール『精神分析の倫理』にある。これも、坂部恵が『理性の不安――サドとカント』に要点をまとめている。

《構造言語学の方法を精神分析に導入したジャック・ラカンは、”Kant avec Sade”と名づけられた卓抜な小論において、カントの『実践理性批判』とその八年後に出されたサドの『閨房哲学』(La philosophie dans le boudoir)を対比させながら、『閨房哲学』は、まさに、『実践理性批判』の世界の底にかくされた「真実」を示すものにほかならぬこと、すなわち、カントの道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則は、サドのいわば主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望と、じつは、同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうるものにほかならないことをあきらかにする。》

 カントの「道徳の自律的主体を構成する一切対象にとらわれぬ形式的命法としての道徳法則」は、サドの「主体なき思考としての幻想世界を生んだ果てしのない一種求道者的な欲望」と、「同一の欲望の変換過程の構造のなかに、表裏の関係をなすものとして位置づけうる」というラカン精神分析の倫理』の『道徳的法則』を直接引用すれば、

《まさしくニュートン物理学が、純粋なものとしての理性の機能の根本的な見直しをカントに迫ったのです。(中略)いかなる「幸せ Wohl」も、それが我々の「幸せ」にしろ、隣人の「幸せ」にしろ、道徳的行為の目的性にはそのものとしては関与してはならないのです。可能な道徳的行為の唯一の定義とは、彼が次の有名な定式で与えたものです。「汝の行為の格率が普遍的格率と見なされるように行動すべし」。行為が道徳的であるとしたら、それは格率が示す動機のみによって命令されている限りにおいてなのです。(中略)「汝の意志の格率が常に万人にとっての法原則でありうるような仕方で行動すべし(ドイツ語略)」。ご存知のようにこの定式はカントの倫理の中心ですが、これを彼はその極限にまで推し進めました。このラディカルなリズムは次のようなパラドックス、つまるところ「gute Willen 善き意志」があらゆる立派な行為から排除されるというパラッドックスに行き着きました。(中略)

 ショックを与えて皆さんの目を開かせるために――そういうことは我々の進歩に不可欠ですが――ここでは次のことに注目していただくだけで結構です。つまり『実践理性批判』は『純粋理性批判』の初版の七年後、一七八八年に出版されましたが、その七年後の一七九五年、<テルミドール>の直後にもう一つの著作、『閨房哲学』と呼ばれる著作が出版されているということです。

 皆さんご存知のように、『閨房哲学』は様々な理由で有名なサド侯爵の著作です。彼のスキャンダラスな名声は、最初いくつかの不運に伴われていました。彼は約二五年のあいだ囚われの身でしたから、彼に対しては権力が濫用されたということもできます。(中略)

 サド侯爵の著作は、ある人々の目には一種の気晴らしの方法と見えるかも知れませんが、実はそれほど面白いものでもありませんし、最も評価されている部分などはきわめて退屈なものです。しかし、彼の著作が筋が通らないと言うことはできません。むしろそこではまさしくカントのクライテリアが、一種の反―道徳ともいうべき立場を正当化するために強調されているのです。

 反―道徳のパラドックスは『閨房哲学』と題された作品においてきわめて筋の通ったやり方で擁護されています。ここにいらっしゃる方々を考慮すると、ここだけは是非ともお読みいただきたいのは、「フランス人よ、共和主義者たらんとせばいま一息だ」と題された部分です。(中略)

 さらに彼は続けて、道徳的法則の基本的な命令を覆すことを徐々に正当化し、近親相姦、姦通、盗み、およびそれらに付け加えることのできるものすべてを褒めそやします。十戒が定めるあらゆる法の正反対を考えてみて下さい。そうすると首尾一貫したものが得られますが、それは最終的にはこうなります。「誰であろうと他者を我々の快楽の道具として享楽する権利を我々の行為の普遍的格率とすべし」。

 サドは、この法が普遍化されて、同意しようとしまいと、あらゆる女性を誰彼なしに自由に所有する権利をリベルタンに与えるとしても、逆にこの法は、文明化された社会が夫婦関係や婚姻関係の中で課すあらゆる義務から女性たちを解放するのだということを、きわめて筋の通ったやり方で論証します。この構想は、サドが空想的に欲望の地平に措定している水門を全開にするものであり、誰もがその貪欲さを最大限に高め、実現することを要請されるということです。

 万人にこの解放がもたらされると、そこに現れるのが自然社会です。これに対する我々の嫌悪感は、カント自身が道徳的法則のクライテリアからは除外すると称したもの、つまり感情的な要素と見なすことができるでしょう。

 もし我々があらゆる感情的要素を道徳から除外し、我々を感情的に導くあらゆる案内を消去し失効させるなら、極限においてサドの世界は――たとえその裏面であり戯画であるとしても――あるラディカルな倫理、一七八八年に起草されたカントの倫理によって統治される世界の一つの可能な達成と考えることのできるものです。》

 

コペルニクス的転回>

 三島文学における、達成・到達の、最後の最後での不可能性・敗北という重要な本質が、昭和44年5月の『劇団浪曼劇場プログラム』で高らかに宣言されている。さきの三点は『サド侯爵夫人』特有の意図であったが、こちらは三島文学の通奏低音である。

《『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠(けんたい)、性の現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞(たくま)しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていずれもジョルジュ・バタイユのいわゆる「エロスの不可能性」へ向って、無意識に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北してゆくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡(うち)に埋没する。それが人間の宿命なのだ。私が劇の本質と考えるものも、これ以外にはない。》

 

 カントのいわゆる「コペルニクス的転回」について復習しておこう。明示的には、カント『純粋理性批判』の第二版序文の以下の文章をさす。

《これまでわたしたちは、人間のすべての認識は、その対象にしたがって規定されるべきだと想定してきた。しかし概念によって、対象について何ものかをアプリオリに作りだし、人間の認識を拡張しようとするすべての試みは、この想定のもとでは失敗に終わったのである。だから[認識が対象にしたがうのではなく]対象がわたしたちの認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば、形而上学の課題をよりよく推進することができるのではなかろうか。ともかくこれを、ひとたびは試してみるべきではないだろうか。形而上学の課題とするところは、対象をアプリオリに認識する可能性を確保すること、すなわち対象がわたしたちに[経験によって]与えられる以前に、対象について何ごとかを確認できるようにすることにある。だからこの想定はこの課題にふさわしいものなのである。

 この状況はコペルニクス(・・・・・・)の最初の着想と似たところがある。コペルニクスは、すべての天体が観察者を中心として回転すると想定したのでは、天体の運動をうまく説明できないことに気づいた。そこで反対に観察者のほうを回転させて、天体の運動をそのように説明しようとしたのである。だから形而上学においても、対象の直観(・・)について、同じような説明を試みることができるのである。もしもわたしたちの直観が、対象の性質にしたがって規定されなければならないとしたら、わたしたちが対象について何かをアプリオリに知りうる理由は、まったく理解できなくなる。ところが感覚能力の客体である対象が、わたしたちの直観能力の性質にしたがって規定されねばならないと考えるならば、わたしたちが対象をアプリオリに知ることができる理由がよく分かるのである。》

 

 サド侯爵夫人ルネがようやくにして自由の身となったサドからあえて離別し、修道院へ入ったのは歴史的史実だが、その理由は、三島の文学的な想像力、構想にすぎない。おそらくは、ルネの単純な宗教心であったのだろう。サド侯爵は、ルソーの影響を初期において決定的に受けたカントそれ自体を読んではいなくとも、十八世紀末の思潮に共鳴していた。長く獄中のサドと観念の手紙をやりとりしていたサド侯爵夫人が、たとえルソーも(そして、もちろん)カントも読んでいなくとも、その思潮に無意識のうちに音叉のように共鳴してしまうことはありえる。たとえ三島がそうと意識していなかったにしろ、カントの「コペルニクス的転回」の音色が、ルソー/カント/サドの波長でサド侯爵夫人ルネの音叉から鳴ってしまう(鳴らしてしまう)ことは不思議ではない。

 

 サド侯爵夫人の「コペルニクス的転回」は、手袋を裏返すような、内と外の反転、主客の転倒として、天空のイメージをともなっておこる。太陽サドは、それまでは地球というサド侯爵夫人のまわりを廻っているはずだったのに、『ジュスティーヌ』物語を書くことによって、天動説から地動説へという「コペルニクス的転回」が起り、サド侯爵夫人やモントルイユ夫人やアンヌなどの惑星を回転させてしまった。

 サドから牢屋で手渡された物語『ジュスティーヌ』(美徳を守ろうとするジュスティーヌはあらゆる不幸に遭い、みじめな最期を遂げる)を読んだルネが、淑徳のために不運を重ねるジュスティーヌの話は、サドが自分のために書いたのではないか、と主張する台詞は、認識が対象に従うのではなく、対象がわれわれの認識に従う、のと同じように、世界がサドを閉じ込めるのではなく、サドが世界を創造し、物語りに閉じこめてしまっている。

ルネ あれはまちがいでございました。とんでもない思いちがいでございました。むしろこう言うのが本当でしょう。

「ジュスティーヌは私です」って。

 牢屋の中で考えに考え、書きに書いて、アルフォンスは私を、一つの物語のなかへ閉じ込めてしまった。牢の外側にいる私たちのほうが、のこらず牢に入れられてしまった。私たちの一生は、私たちの苦難の数々は、おかげではかない徒労に終った。一つの怖ろしい物語の、こんな成就(じょうじゅ)を助けるためだけに、私たちは生き、動き、悲しみ、叫んでいたのでございます。

 そしてアルフォンスは……、ああ、その物語を読んだときから、私にはじめてあの人が、牢屋のなかで何をしていたのかを悟りました。バスティユの牢が外側の力で破られたのに引きかえて、あの人は内側から鑢(やすり)一つ使わずに牢を破っていたのです。牢はあの人のふくれる力でみじんになった。そのあとでは、牢にとどまっていたのはあの人が、自由に選んだことだと申せましょう。私の永い辛苦、脱獄の手助け、赦免の運動、牢番への賄賂(まいない)、上役への愁訴、何もかも意味のない徒(あだ)し事(ごと)だったのでございます。

 充(み)ち足りると思えば忽(たちま)ちに消える肉の行いの空(むな)しさよりも、あの人は朽ちない悪徳の大伽藍(だいがらん)を、築き上げようといたしました。点々とした悪業よりも悪の掟を、行いよりも法則を、快楽の一夜よりも未来永劫(えいごう)につづく長い夜を、鞭の奴隷(どれい)よりも鞭の王国を、この世に打ち建てようといたしました。ものを傷つけることにだけ心を奪われるあの人が、ものを創ってしまったのでございます。何かわからぬものがあの人の中に生れ、悪の中でももっとも澄みやかな、悪の水晶を創り出してしまいました。そして、お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます。》

 

 ところが、中心となったはずの太陽サドが、世界の創造者となったサドが、あろうことか、物語に閉じこめたはずの夫人ルネに拒絶されてしまう。

 最終第三幕のラストで、家政婦シャルロットが、「サド侯爵がお見えでございます。お通しいたしましょうか。」と告げると、

ルネ どんな御様子かときいているのです。

シャルロット  あまりお変りになっていらっしゃるので、お見それするところでございました。黒い羅紗(らしゃ)の上着をお召しですが、肱(ひじ)のあたりに継ぎが当って、シャツの衿元(えりもと)もひどく汚れておいでなので、失礼ですがはじめは物乞いの老人かと思いました。そしてあのお肥(ふと)りになったこと。蒼白(あおじろ)いふくれたお顔に、お召物も身幅が合わず、うちの戸口をお通りになれるかと危ぶまれるほど、醜く肥えておしまいになりました。目はおどおどして、顎を軽くおゆすぶりになり、何か不明瞭に物を仰言るお口もとには、黄ばんだ歯が幾本か残っているばかり。でもお名前を名乗るときは威厳を以て、こんな風に仰言いました。「忘れたか、シャルロット。」そして一語一語を区切るように、「私は、ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵だ」と。

(一同沈黙)

ルネ お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。

                        ――幕――》

 

 三島由紀夫の遺作『豊饒の海』四部作の第一作『春の雪』もまた、『サド侯爵夫人』と同じ昭和40年6月に執筆が開始されている。三島は、小説と戯曲の代表作を並行して書きはじめたのだ。第四作最終巻の『天人五衰』のラストは、『春の雪』の主人公、松枝清顕(まつがえきよあき)の学友だった本多が、かつて清顕との悲恋の相手で、いまでは奈良帯解(おびとけ)の月修寺(げっしゅうじ)門跡になっている綾倉聡子(あやくらさとこ)を60年ぶりに訪ねる場面で、末尾には、この手のものには珍しく、「完 昭和四十五年十一月二十五日」と日付が意味深く刻印されている。

《「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」

 ようやく門跡が、本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと察した本多は、失礼に亘(わた)らぬように気遣いながら、多言を贅(ぜい)して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語った。

 門跡は本多の長話のあいだ、微笑を絶やさずに端座したまま、何度か「ほう」「ほう」と相槌(あいづち)を打った。途中で一老が運んできた冷たい飲物を、品よく口もとへ運ぶ間(ま)も、本多の話を聴き洩(も)らさずにいるのがわかる。

 聴き終った門跡は、何一つ感慨のない平淡な口調でこう言った。

「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ」

「しかし御門跡は、もと綾倉聡子(あやくらさとこ)さんと仰言(おつしや)いましたでしょう」

 と本多は咳(せ)き込みながら切実に言った。

「はい。俗名はそう申しました」

「それなら清顕君をご存知でない筈(はず)はありません」

 本田は怒りにかられていたのである。(中略)

「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません」

「では私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです? 又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう」

「俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?」

「たしかに六十年前ここへ上った記憶がありますから」

「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」

 門跡の目ははじめて強く本多を見据えた。

「それも心々(こころごころ)ですさかい」(中略)

これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蟬(せみ)の声がここを領している。

そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

                       「豊饒の海」完。

                    昭和四十五年十一月二十五日》

 

 ここには、十八世紀末の「コペルニクス的転回」よりもさらに厳しい、根源的な拒絶、空白・虚無・不可能性が、昭和45年(1970年)という二十世紀末を前にした三島の、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」という文字通り最後の言葉で表現されている。それは、昭和40年に『春の雪』に着手し、同時に『サド侯爵夫人』を構想した最初から、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」という幕切れの台詞とともに、三島の内奥で決められていた言葉だったのではないだろうか。

                                    (了)

            ****参考または引用文献****

三島由紀夫『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(自作解題所収)(新潮文庫

三島由紀夫天人五衰』(新潮文庫

渡邊守章『快楽と欲望』(『三島由紀夫『サド侯爵夫人』の演出について』所収)(新書館

澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』(中公文庫)

澁澤龍彦『サド侯爵の手紙』(筑摩書房

坂部恵坂部恵集1 生成するカント像』(『人間学の地平』所収)(岩波書店

坂部恵坂部恵集2 思想史の余白に』(『理性の不安――サドとカント』、『カントとルソー――時代に先駆けるものの喜劇と悲劇』所収)(岩波書店

*『ユリイカ 特集サド――没後二〇〇年・欲望の革命史(2014.9)』(植田祐次『啓蒙の世紀のリベルタン作家』、原和之『サドの読者ラカン』所収)(青土社

ジャック・ラカン精神分析の倫理』ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之ほか訳(岩波書店

*カント『純粋理性批判中山元訳(光文社古典新訳文庫

*カント『実践理性批判』波多野清一ほか訳(岩波文庫

橋本治三島由紀夫とはなにものだったのか』(新潮文庫

*秋吉良人『サド 切断と衝突の哲学』(白水社
ロラン・バルト『サド、フーリエロヨラ』篠田浩一郎訳(みすず書房

ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』土田知則訳(岩波書店