映画批評 溝口健二『近松物語』論ノート

 

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映画批評 溝口健二近松物語』論ノート

<「『近松物語』の物語」>

溝口健二監督『近松物語』(1954)の脚本家、依田義賢の『依田義賢 人とシナリオ』「シナリオ 近松物語」は、溝口健二(1898~1956)の人間的な気性、理不尽さと、監督が求める狙い、水準の高さを、重要場面の誕生秘話とともに描写して申し分ない。いわば「『近松物語』の物語」だ。長くなるが転載する。

(溝さん=溝口健二、川口さん=川口松太郎。辻君=辻久一)。

《溝さんは永田社長に呼ばれて東上し、もっと、何かこれと言ったものはないかとたずねられたようです。

近松のものをやってみてはどうだろうかとその時、話が出たらしいのです。溝さんは『堀川波鼓』をやってみたいと、社長に言ったということが、すぐ京都にしらされまして、まだあの作をよく知らなかったわたしは、すぐに読みましたが、この姦通ものは面白いので、わたしは賛成したいと思って、溝さんの帰りを待っていました。溝さんが帰って来て、川口さんと企画部長の服部君、企画者の辻君たちと早速、検討しましたが、どうも子持ちのかみさんの話では地味だというのがみんなの意見でした。それに武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした。他になにかあるかいと問われて、わたしは、近松の作品で現代性に通ずるものは『女殺し油地獄』がいちばんだと言ったのですが、皆の賛同を得られません。姦通ものでもいいが、他になにがあるかというので、すぐに溝さんの口をついて出たのが『大経師昔暦』でした。(中略)

 ところが、『近松物語』のシナリオづくりがまたまた大騒動でした。はじめ、川口さんが本を書くということになりまして、それが出来てきますと、私の手にわたります。がっちりと芝居は組まれて、申し分がありません。(中略)本読みをしました。溝さんはむっつりして容易に感想を述べません。

「これでやれとおっしゃるならやりますよ。しかし、こんなものでいいのですか。」

と言う。

「どこが気に入らないんだ。」

川口さんがききます。

「芝居はちゃんとできてますよ、しかし、これでは困るのですがね。」

そう言うだけで、一向にその理由がわからない。

「わたしは西鶴のおさん茂右衛門の方をもっと、とり入れてほしいのです。」

 聞いていて、わたしは、あっと思った。近松の『大経師昔暦』をというので、仕事がすすんでいたのでしたが、これはお玉という女中が中心となっているのです。それでは、おさん茂兵衛が立たない。いや茂兵衛の長谷川一夫さんが立たないということを、溝さんは考えているのです。溝さんはそれを口にのぼせませんでしたが、川口さんもそこに気がついたにちがいありません。

「それなら、そうとはじめから言ってくれよ、後は君たちでやってくれ。」

と、そこでわたしと辻君に新しい稿がまかされました。

 おさんと茂兵衛が駈落するまでのところは、近松は実によく事情が組んであってまず動かぬところだから、駈落してからの後半を直すことになります。

 つまり、お玉が二人の罪をかぶって、処刑されるにいたるくだりを、おさん茂兵衛の運命を追いつめてゆくことになるわけです。西鶴の『好色五人女』の巻三にあるおさん茂右衛門の話について、詳しく述べるのははぶきますが、この不義におちるまでのいきさつは、たわいない誤ちによっています。たわいないというのはくだらないというのではなく、女中のりんに思慕をよせる奉公人の茂右衛門が純情に思いをかきつづる恋文を読んだおさんが、影待の酒の酔いについいたづらごころをおこし、女中の寝床に入って、恥入らせ、こらしめてやろうというのが、疲れて眠ってしまって誤ちを犯したという、追いつめられたようなものでないのです。自然さ、ありそうなことといえば、この方がよいので、近松の方は如何にも、しぐみ、こしらえあげたという感じで、ふとした誤ちが苛酷な運命を誘うというのはなかなか見事なものです。わたしなどは、西鶴のこの事情の方が好きなのですが、こういう展開では溝さんは承知しません。世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)というものを、強く組み合わせて描くことを求める人ですから、この点で、前半の方は近松をとりたいというのはわかっていました。二人が家を立ち退いて後のことについては、実は溝さんは、このシナリオにかかる前に、わたしに西鶴のあのところのくだりの文章の見事な美しさはたまらない、あんな美しい文章はちょっとありませんよとしきりに言っていたのです。わたしはそれを聞いていたにもかかわらず、近松の方を土台にこの話がすすめられていましたし、それを追ってゆけば、女中お玉の運命を辿るのが構成の自然の展開と見、川口さんも同様に思われたのでしょう。近松のよいところ西鶴のよいところをとりあげ、ないまぜてという風には考えなかったわけです。あるいは、今から思いかえしてみますと、近松の作をまとめられた川口さんの作に対して、大きく改変することは悪いと気がねしたということもありました。なにはともあれ、西鶴の作を辿って後半を構成しました。あらましは、京をのがれて近江に出て、湖に身をおえようとしたが、生きて年月を送ろうと、丹波の奥の茂右衛門の親もとをたずねる。ここでは律儀な親の怒りを買い、追われてゆくうちに京よりの追手がかかり、遂に、捕らえられて、粟田口に処刑のため町を引きまわされてゆくというのです。》

 苦心をして、二度目の本読みです。

《溝さんは、むっとして、口を開きません。

「気に入らないのか。」

「いや。」

溝口さんは、肩をそびやかし、

「そんなことじゃないんです。いったい、これは何を描こうというんです。わたくしはそれを、おたずねしたいのです。テーマはなんですか。」

 辻君は、

「封建下の男女の悲恋でしょう。」

といいましたかどうか、とにかく才走った彼だからもっと巧みに話したと思います。その時どんな言葉を溝さんが言ったか忘れてしまいましたが、

「そんなものが描かれていますか。こういっちゃ失礼だが、そんなものは描けているとは認めません。ただ、苦労して、つかまって死んだというだけの話じゃありませんか。」

 いや、そんな言葉じゃなかったようです。

「この題材がだめなんですかね。近松西鶴がだめなんですかね。」

 というようなことも言われた気がします。(中略)

辻君のほうも、

「もう一度考えてみましょう。ですから先生の御意見を。」

「どうしたらいいか、それは君たちが考えて下さらなきゃ困るじゃないですか。しかし、言ったってむだでしょ。」

「たとえばどうなんだよ」と川口さん。

 溝さんはかっととりのぼせたような顔で、

「大経師のような家は体面がある筈です。心中してくれては困る筈です。そうでしょう。」

「死ぬことも出来ないということですね。」

 わたしが言う。

「そうですよ。そこを考えればいろいろあると思うんだ。不義ものを出した大経師のような家は闕所(けっしょ)になる筈です。」

(大経師とは伊勢神宮よりの暦を神祇官より最初に受けて版行する名家)なるほどそれはさすがに、溝さんらしい考え方、とわたしはすぐに感心して、されば、と思って、ようしという気になりました。》

 茂兵衛という人間の肉体感、実在性、奉公人としての立場、思いを明確にしようと、人物を紹介するところで境遇や人間性がずばりと出る方法がないか。信頼されている、誠実で律儀な人柄を表現しようと、辻君と相談して、風邪でもひいて寝ているということにし、彼でなければ出来ない表具をせかされて病中を押してやる、ということになった。さらに、姦通した男女は不義の刑として磔刑にあうということを前に出して置く必要があるだろうということで、まだ互いに何の思いもないおさん、茂兵衛が引きまわしを見ることによって、二人の運命の暗示だけでなく、そのような社会なのだと裏付けられ、不義ものを出した家は闕所になることが強く了解できる。そう考えて全部書き直し、溝さんと東上して、社長に本読みした。

《社長はきいて満足のようでしたが、

「どうや、これで」ときくと、溝さんは、まだむっとしています。

「総体に芝居が出来てないんですね。」

 きいたわたしは、なんという言い方だろうと、ほんとうに情けなくなりました。

「例えば、どういうことや。」

 社長がききますと、

「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」

 なるほど、これはやられたと思いました。》

 溝口健二の『堀川波鼓』、『女殺油地獄』も見たかった、との思いを禁じえないのは私だけではあるまい。

武家というのが、溝さん自身も少々、荷厄介なようでした」というのは、戦前の国策映画『元禄忠臣蔵』(1941、42)の苦労が頭にあるからだろう。「世間の仕組み、封建の世の枷(かせ)」と言っても、あくまでも圧迫される庶民のそれをマゾヒスティックなまでに絞り上げての美であった。翌年の『楊貴妃』(1955)における貴族階級も遠い世界だったから、楊貴妃京マチ子)と玄宗皇帝(森雅之)とを無理やり繁華街にお忍び散策させ、苦肉の庶民風俗を撮った。

 

西鶴の作を辿って後半を構成した、とはいっても、実際西鶴の作に当ってみれば、お玉は舞台を去り、琵琶湖で死のう、という題材はそのとおりだとしても、荒唐無稽な雑音は割愛されて、丹波の茂兵衛の父との別れの場、一度捕まっておさんだけが実家に戻されて母に諭されるが、また二人して逃げ出す場など、溝口監督の言う「芝居」作り、「封建の世の枷」の主旨を十分に組み込んでの、相当に改変した脚本を作ったと判る。

近松を採ったという前半にしたところで、近松『大経師昔暦』では、礼を言おうとお玉の部屋に忍び込んだ茂兵衛は、以春を懲らしめるために代わりに床に入っていたおさんと互いに知らずにできてしまう。しかも近松は閨房の場を卑猥に表現した。

《屏風そろ/\押遣(や)りて夜着(よぎ)にひっしと抱(いだき)付き。ゆり起(おこ)しゆり起し。ゆり起されて驚きの今目のさめし風情(ふぜい)にて。頭(かしら)を撫づれば縮緬頭巾サア是こそと頷(うなづ)けば。男は今日(けふ)の一礼の聲を立てねば詞なく。手先に物をいわせては伏拝(ふしおが)み/\心の。たけを泣く涙。顔にはら/\落ちかゝる其の手を取って引寄せて。肌と/\は合ひながら心隔たる屏風の中。縁(えん)の始(はじめ)は身の上の仇の始と成りにける。既に五更(かう)の八聲の鳥門の戸険(けは)しくとん/\/\。旦那お帰り。はっと消入る寝(ね)所に汗は湖水を湛へたり。やい/\戻った明けやいと。呼(よば)はるは以春の聲。助右衛門目をさまし。どいつらも大ぶせりと提(さ)げて出でたる行燈(あんどう)の光。顔を見合す夜着の内。ヤアおさん様か。茂兵衛か。はあはあゝ》

 逃亡後に「宿で、二人ができるのは困ります」どころではない。水上勉は『近松物語の女たち』「おさん――『大経師昔暦』」で、本当に二人は人違いと気づかずに肌と肌を合わせたのか、「湖水を湛え」るまでに、といらぬ邪推をし、心理分析を執拗にしているが、映画では慎ましいまでに行儀よい。結ばれは、後ろへ後ろへと先延ばし、遅延される。伏見の船宿では床をのべに来た女中が二つ枕を用意するのを茂兵衛が見とがめると、おさん(香川京子)「茂兵衛、一人で心細い。ここに居てて」、茂兵衛(長谷川一夫)「めっそうもない、お家さまと、同じ部屋になど」の会話に続いて、茂兵衛は美しい所作で布団を捲りあげ、一つ残された枕を整えてから奉公人らしく引き下がる。そして、舟の上での「死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!」でおさんがしがみつく。前面に漁師小屋を配した湖上の舟に人影が見えないショットで、ようやく結ばれたことを表徴した。

 

・撮影宮川一夫が残した台本によれば、

《舟のシーンに続いて、「水辺:水際に、二人の乱れた足跡が続いている。辿ってゆくと、小さな、漁師小屋に続いている」というト書きがある。このショットはあまり語られることはないものの、実は完成したフィルムにも残存している。ところが、この後、撮影台本の挿入ページには漁師小屋の内部で事を終えたおさん茂兵衛の描写があった。ト書きには二人は「放心したように抱き合い」「衣服に乱れが見え」とあり、茂兵衛がおさんの手を取って想いを遂げた幸せを述べ、彼女は頬を寄せる。しかし、この場面には宮川による絵コンテの書き込みはなく、実際に撮影されたとは考え難い。》(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』)

 かくして、実亊は湖上の小舟の上で行なわれたとも、漁師小屋で行なわれたとも、溝口健二は両義的な解釈を見るものに与えた。

 

<視線/音>

・小説家阿部和重は映画専門学校出身だけあって、キャメラと役者を転倒させた解釈で溝口を評した。溝口の映画の主要なキャラクターたちは、「必ずどこかに行きたがる」、「立ち去ってしまったり」、「その場を離れたり」、「定住しない」、「とどまらない」。「ある抑圧」、「権力者のような人たちから強制され、追い出されてしまう」、「社会的なルールやシステムに従うように強制されて居場所を失う」のは、なるほど『雨月物語』も『西鶴一代女』も『山椒大夫』も、「浪華悲歌(エレジー)」も、勿論『近松物語』もそうで、許しがたいまでに追いかけまわす、執拗なストーカーぶりである。

阿部和重 とにかく逃げ回るわけですね。逃げて、隠れようとする。溝口の映画では、役者がフレームアウトすることがわりと多いような気がするのですが、彼らはとにかく逃げようとしています。それは「視線」から逃げようとしているわけで、言ってみれば、溝口のキャラクターというのは他者の視線を内面化したような存在ではないか、と思えるのです。こうなると役者というか作中人物たちは逃げ回ってしまうわけですから。撮る側としてはキャメラを移動させてそれを追いかけなければなりませんよね。というわけで、移動ショットの必要性というものが出てきたのではないでしょうか。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、「シンポジウム 日本における溝口」)

 

・小津作品は対話する相手をまっすぐ見つめあい、切り返しショットで繋ぐが、溝口作品は視線と視線が絡み合わない(よって切り返しショットなどありえない)。溝口の作中人物の視線とキャメラとは決して重なり合わない。視線は放射する。

 蓮實重彦は「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」で、自由な恋愛を謳歌する稀な時代劇、西欧的なラブ・ロマンスであるどころか、結ばれるまでのおさんと茂兵衛の心理は曖昧で、愛の心理というものが念入りに描かれてはいない(おさんも茂兵衛も恋心を匂わす仕草、表情をまったく見せないのは、茂兵衛に惚れている女中お玉の演技と対称的)、メロドラマをまぬかれている、としたうえで、「見つめあうこと」を代理する「音」、「触感」について次のように論じた。

・《『近松物語』の男女は、多くの溝口的存在がそうであるように、あたかも何かを見ているかのような位置キャメラにおさまることはまずないといってよい。おさんと茂兵衛は、たがいに相手を見つめるという動作を初めから禁じられた存在なのだ。(中略)

 では、見つめあうことを禁じられた恋人たちは、いかにして愛を確かめあうのか。すでに指摘しておいたように、茂兵衛が熟達した経師職人であることを示すにあたり、溝口は、その巧みな手さばきを視覚的に描くことを排し、もっぱら道具類の音を夜の闇に響かせるという方法を選ぶ。その事実は、廊下での金策の場面に豊かな情感を漂わせるものが、画面には写っていないおさんの声であったことと無縁ではなかろう。低く抑えられてはいても厳しさとは無縁の、ほとんど性的な誘惑を思わせさえする呼びかけに茂兵衛が「へえ」と応ずる瞬間に、笛の音が高まる。彼女が廊下の奥の薄暗がりに衣裳を鈍く光らせて姿を見せるのは、そうした音の戯れに導かれてである。(中略)

 事実、一つの誤解から始まる逃避行は、表面で触れ合うもののたてるひそかな物音を背景として進んでゆく。おさんを背負って賀茂川を渡る茂兵衛の裸足の足の裏が、川瀬の浅い流れに触れてたてる湿った音の魅力はどうだろう。また、心中を思い立って琵琶湖にこぎ出す舟が、水面と触れあってたてる冷たい音の繊細さはどうか。おそらく世界映画史で最高の技術的達成といえようこうした音響的世界は、拭いたり擦り合わせることで始まったこの映画の主題的な統一を誇示しながら、また同時に、それと意識されることなく配置されていた愛の映画的な記号に、ここでぴたりと重なり合ってしまうのだ。》

 徹夜明けの茂兵衛が休もうとすると、画面オフから聞えてくる、か細いおさんの「茂兵衛、茂兵衛」という声が、落ちて行く二人の運命を暗示する。溝口作品についてまわる金銭の話が、おさんの実家の兄、当代岐阜屋道喜(田中春男)からおさんへ、おさんから茂兵衛へと伝えられ、発端となる。茂兵衛はおさんに頼まれた五貫目を用立てるため、白紙手形に大経師以春(進藤英太郎)の判を持ちだして押すところを、手代の助右衛門(小澤栄)に見とがめられる。ここでも助右衛門の声が画面オフから入る。オフの声こそ不吉な運命の合図に違いない。

 

・蓮實は、おさんの素晴らしい視線と声の官能的なハーモニーに感嘆する。

《『近松物語』の終り近く、われわれは素晴らしい視線に出会う。実家につれ戻されたおさんが、母親と兄から大経師のもとに戻るよう説得される場面である。庭に面した部屋で障子がなかば開かれている。家族の言葉を聞き入れようとしない彼女は、逃れるように縁側に立ち、障子に手をそえて力なくすわり込む。夜で、あたりには暗さがたれこめている。と、そのとき、何ごとか物音を耳にして、闇夜の庭に瞳を向ける。それに続く無人の庭のショットが素晴らしい。凝視する瞳と、その視線の対象とが一つに結ばれるという例外的な編集がこれほどの情感を漂わせうることに人は深い驚きを覚える。丹波の山奥では不安を漂わせていたおさんの目は、いま、愛に湿って官能に震えている。そして闇の中の黒々とした塀と、その右はしの木戸のあたりに定かならぬ人影が揺れるのが見えるとき、この映画での唯一の主観的ショットの暗く奥深い拡がりを、心から美しく思う。これこそ、映画のみが可能にする愛の空間ともいうべきものだからである。思わず「茂兵衛」と口にして庭に駈け出してゆくおさんの姿を痛ましい思いで見つめながら、この声こそ、かつて廊下の薄暗がりの中で職人を呼んだ女主人の声にほかならぬことを理解する。》(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」)

 

秋山邦晴は「「近松物語」の一音の論理」で、映画音楽の前衛性について解説した。

早坂文雄はこの映画に、歌舞伎で使われる下座音楽(げざおんがく)を主体として用いた。(中略)

 タイトルは、拍子木、大拍子(太鼓)、しめ太鼓、笛などの伝統楽器による音楽である。開幕を暗示する横笛、しめ太鼓の一声があって、やがて横笛が鋭く、しかも揺れるようにうごき、それに太鼓が漸増のリズムをくりかえしていく。能、歌舞伎の開幕の音楽の“型”をとりいれているといってもよい。(中略)不義のためハリツケ刑となり、刑場へと馬でひかれていく男女の行列が街中を通っていく場面。横笛が哀調をおびてきこえる。すると間をおいて、ズーン、ズーンと地鳴りのように大太鼓のひびきが画面を圧する。(中略)

 早坂文雄が下座音楽を時代劇の雰囲気をつくりだすために使用したのではなく、むしろ現代劇にみられるような人間の心のうごきの表現として使っているということである。(中略)

 おさんと茂兵衛の「道行」のシーン、おさんをおぶって川を渡る場面では、水音とともに、笛とゆっくりとした四連音の太鼓の音を遠くきかせている。そして宿屋の場面では大太鼓のしずかにゆっくりと打ちつづける連続音を遠く聞かせながら、ときどき三味線が8連音をかきならすひびきをくわえる。

 おなじ「道行の旅」で、疲れたおさんの歩くシーンに、太棹の三味線の音楽をきかせる。映像のうごきとともに、ときにはその音はクローズ・アップされ増幅されて演出されている。太棹三味線の独特の深い音色が、実に効果的に映像への表現力として働きかけている。

 おさんの実家に立ち寄る場面では、つけ板の鋭く乾いた音色としめ太鼓が画面いっぱいに増幅されて、すばらしい迫力で迫っている。(中略)

 この映画のラスト・シーンは、おさんと茂兵衛のふたりが不義の罪に問われ、捕われて、馬にのせられ、刑場へとひかれていく。音楽はファースト・シーンとおなじように、あの大太鼓の音がまた不気味にひびいている。ところが、この音とともに、太棹と胡弓の音がそれにくわわっていく。胡弓の不安定な音程が不安なものを感じさせながら、この不条理な悲劇の暗く重くやりきれない状況と、人間の悲しさをいやというほどつきつけながらひびいていくのである。》

 

<怪物と怪物>

・助監督田中徳三は、「怪物と怪物との壮絶なバトル」で、溝口健二長谷川一夫に負けた、と発言する。

《田中 私は溝口さんから呼ばれて、「長谷川君に『この役は丹波の山奥で生まれて、米の飯なんて見たことない、粟ばっかり食ってた男が、京都の大経師という非常に位のある家に丁稚奉公に行って、それが手代にまで出世というか、上り詰めた男だ』と伝えてくれ」と言われたんですよ。長谷川一夫はあの通り二枚目ですね。要するにいつもの長谷川一夫さんの、二枚目では困るというわけなんですよ。だから、ちゃんと長谷川さんに、いや、長谷川君ですわ、溝口さんに言わせると――長谷川君に言っておきたまえと。これはチーフのお前の責任だと言われて。だいたいね、芝居については監督が言うものでしょう(笑)。何も助監督の僕がのこのこ行って、天下の長谷川さんに言えと言われてもねえ。それはしょうがないから行きましたけど。》

 溝口健二に言われた通り伝えると、長谷川一夫は「うんうんうん」、「ああ徳さん、わかったよ」と言ってそこはそれで終わりだったが、

《田中 それで初日を迎えたわけですが、最初の撮影は、長谷川さんの茂兵衛が風邪を引いて、二階の隅っこで寝ているというシーンでした。そこに、どうしてもあの手代の仕事でないと困るというご贔屓(ひいき)の客が来てるから起きてくれと言われ、茂兵衛はしょうがないから起き上がるわけです。それまで長谷川さんは横を向いて寝ているから、よくわからなかったんですが、すっと起き上がったら、これはもう天下の二枚目の長谷川一夫なんですよ(笑)。

 宮川さんもそれまでの経緯を知っておりましたので、僕ら二人で顔を見合わせて、「えらいこっちゃで」とか、「今日はもうワンカットも回らんで」なんてことを話してたんですが、ところが溝口さんは長谷川さんの顔を見ても何にも言わないんですね。ともかくその日の撮影は終わったんですが、それから三日ほど経っても、長谷川さんは自分のスタイルを絶対に壊していないわけですよ。すると、「徳さん、徳さん」と長谷川さんが僕を呼ぶわけです。お弟子さんが近寄ってきて、「先生が呼んではる」と言うので行ったら、「徳さん、あんたいろんなこと言うたけど、先生は何にも言わはらないやないか」と、「これでええんやろ、これでいくで」ということになって、こっちは三枚目ですよ。》

 溝口監督は何にも言わない、どうしてでしょう?と山根貞男に聞かれて、

《田中 さあ、どうしてなんでしょうねえ。(中略)表現は悪いけれども、怪物と怪物との壮絶なバトルなんですよ、あの作品は(笑)。それで結局は、長谷川ペースで終ってしまったんですが、できあがりはすごい作品で、長谷川さんもいつもの長谷川一夫じゃなしに、抑えた芝居をされている。もう亡くなられて五十年だから、いまここで言うても大丈夫だと思いますけど(笑)、「ああ、溝口さん負けたな」というふうに思いましたね。これは僕だけの思いなんですが。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、田中徳三「助監督の証言」)

 

・しかし、蓮實重彦山根貞男は、溝口監督は負けてはいない、と合わせる。

《蓮實 シンポジウムのなかで田中監督は、『近松物語』では、長谷川一夫に溝口さんが負けたのだということをおっしゃっていましたが、私は溝口はやはり負けていないと思います。溝口は、『近松物語』ではじめていわゆる長谷川一夫的な、立役ではない二枚目に触れたわけではありません。それ以前に、花柳章太郎主演の『残菊物語』(一九三九)でやっているわけです。ですから、彼は長谷川一夫をどう使えばいいかということを、頭ではよくわかっていたはずです。確かに当時長谷川一夫大映の大スターで、その辺の事情はいろいろあっただろうけれど、決して溝口は「この人はこの程度でいいや」と思ったわけではない。溝口が長谷川一夫に負けた、ということに関しては絶対に違う、と思います。山根さんはどう思いますか?

山根 僕も溝口が負けたとはいえないと思いますね。田中さんは、チーフ監督の立場から見て、溝口さんの負けですということをおっしゃったのでしょうが、長谷川一夫自身も自分が溝口に勝ったとは絶対に思っていないはずです。結局のところ溝口監督の目指す方向にうまく自分が使われたと、彼も感じていたのではないですか。もちろんそれはお互いさまということになるでしょうが、最終的に溝口は長谷川一夫のいいところを撮ってしまったと思いますね。蓮實さんがおっしゃったように、溝口の望む水準がとても高いところにある。だから長谷川一夫も知らず知らずのうちに、そこにいかざるを得なかったんだと思います。そうでなければ、あれほどいい茂兵衛にはならないはずです。

蓮實 長谷川一夫が「林長二郎」時代からずっと持っていた、やや女性的で稚児風のものとはまったく違う男にしてしまったわけですよね。

山根 僕はカタログ用に香川京子さんにインタビューした際に、『近松物語』の浅瀬を渡るシーンで、おさんが濡れないようにと、茂兵衛がおさんをおぶって渡る印象深い動作について尋ねたのですが、あの独特の背負い方は長谷川一夫が持っていた型だとおっしゃっていました。溝口監督が、こういうときはこういうふうにやるものだと指示したわけではない。にもかかわらず、すばらしい動作をすっとやってしまう、あるいは、やらせてしまう、という二人の関係なんですね。溝口映画における監督と俳優の関係が象徴されていると思います。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』)

 

・茂兵衛がおさんをおぶるシーンは、お家さんの肉体に触れないがための主従関係の見事な表出、型でもあるが、内弟子を任じる宮嶋八蔵は「溝口健二監督の映画作法 近松物語」で、勝負は五分五分と回顧した。

《茂兵衛がおさんを担いで河を渡る場面のロケ地は嵐山の東公園です。ライテングの為に助監督がおさんと茂兵衛の代わりのスタンドインをしたのです。先輩助監督の土井茂さんの背中に私は子供が背負われるようにおぶさっていました。本番では長谷川さんは見事に美しく斜め背負いをしたのです。土井助監督と私は思わず「いかれたねぇ。みごとやねぇ。けれどあの抱えはきつい力がいるでぇ。」この場面は一回でOKとなりました。美しさにおいては、長谷川さんの勝。リアリズムの先生もクソリアリズムではないと思いました。どんな芝居でも品位と形の奥にある心情を大切にされる溝口先生の勝でもあります。勝負は五分五分でしょうか。》

 

・《香川京子 とにかく監督さんは何もおっしゃらないし。ただ一番多く言われたことは、今でしたら「リアクション」という言葉で言いますけれども、溝口監督は独特の「反射してください」というふうにおっしゃったんですよね。「反射してください」「反射してますか」ということは、ずいぶん言われました。それはつまり、芝居というのは自分の台詞を言う番が来たから言うのではなくて、相手の言葉とか動作によってはじめて自分の芝居が生まれるというようなことだったんだと思います。

 ですから「セットに入ったときに、その役のそのときの気持ちになっていれば自然に動けるはずです」とおっしゃるんですね。それをまた私がボーッとしていて、よく摑んでいないものだから、それで動けなかったんだと思うんですけれど、それはもう本当に芝居の基本だと思いますね。それをあの作品一本で叩き込まれたというか、若かったし、すごく吸収できたと思うんです。ですからこうやって長く仕事をさせていただけているのも、あの溝口監督のご指導があったからだと、本当に今改めてありがたく思っているんです。

山根貞男 でも「反射してください」という言葉は、突然言われたら意味がわからないですよね。

香川 そうですね(笑)。たとえば一度二人で逃げて、引き離されて私だけ自分の家に戻されますね。そして、お母さんやお兄さんから側でいろいろ言われます。そのときに私は、鏡の前でお母さんに乱れた髪を梳(くしけず)ってもらっていたんですね。それで「ああ、このあとの芝居はどうやったらいいのかなあ」って目をつぶって考えていたんです。そうしたら監督さんが「そういう感じがよいです」っておっしゃるんです。「あなたはお母さんやお兄さんにそういうことを言われてそこにじっと坐っていられますか?」というふうにおっしゃるわけです。「ああ、そうだなあ。これを聞いているのはとってもつらくて聞いていられない」と思って、それで障子の方に逃げていくようにしました。そのときに茂兵衛が入ってくるのを見つけて、最初はだれかわからないのですが、おさんにだけはわかるわけです。「あ、茂兵衛だ」ということが。それで茂兵衛に縋(すが)り付いていく、というシーンでした。そこのところなんかもよく覚えていますね。

蓮實重彦 あのシーンは本当にすばらしいですね。おそらく世界映画史の上でもあんなにすばらしいシーンはそんなにないと思います。

香川 やはり溝口監督のお力はすばらしいですね。でも私は、お恥ずかしいことにこういう演技にしようとかまったく計算がないんですね。「どうしよう、どうしよう」ってなるばっかりで。先ほど上映された『近松物語』の船のシーンでも、あれはセットで撮ったんですけれども、水槽に水がいっぱい張られてそこにすーっと船が現れてきますね。そこで茂兵衛に告白されるわけですけれども、その船がすーっと動いているあいだ「ああ、どうやったらいいんだろう」「どうやったらいいんだろう」ってそればっかり考えていたんです(笑)。

 今、振り返ってみると、溝口監督という方は、そういうふうに苦しめて苦しめてそこまで追い詰めて、そこで何か自分で考えて出てくるものを待っていらしたというか、そういう感じがするんです。》(『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』、香川京子「女優の証言」)

 

・この裏庭のシーンは次のような観点から見ることもできる。

《裏庭の入口は薄暗くて裏庭は離れの光がこぼれている。というようなライテングでした。裏木戸から茂兵衛が羽織を被り物のように頭上を被って入ってくるのです。その時はシルエットのようですが離れ座敷の漏れた灯りの処でパラリと被り物を外します。すると、綺麗な長谷川さんが現れたのです。思わず助監督の土井さんと私が顔を見合わせたのです。「又、長谷川さんが現れた。いかれたねぇ。」あの汚い小屋にいて、山道を歩いて来てこんなに奇麗なはずはありません。茂兵衛がおさんと会う強烈な再会の恋情が爆発するのですが、監督の文句は何もありませんでした。これから後の芝居も音楽も歌舞伎の下座音楽風に変わります。》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

 

<琵琶湖舟上/愛宕山山中>

・「もう、あの家に居とうないのや」と嘆くおさんの逃避行だったが、次々と迫る追っ手に嫌気をさしてしまい、生きて恥をさらすのは嫌や、といっそ死のうと決意する。茂兵衛は宥め、止めつつも、「参りましょう、お供いたします」と付いてゆく。溝口の「宿で、二人ができるのは困ります。それから琵琶湖で死のうというのではだめですよ。二人は死のうと思ってゆくんです。舟にのって死のうとしたときに、二人の気持が出るんだと思います。すると急に死ぬのが惜しくなるんです。芝居というものはそういうものだと思います。総体にそういうところがないんです。」に従って書き直された、琵琶湖への死出の舟の漕ぎ出し(『瀧の白糸』(1933)、『残菊物語』(1939)、『名刀美女丸』(1945)、『歌麿をめぐる五人の女』(1946)、『お遊さま』(1951)、『雨月物語』(1952)、『山椒大夫』(1953)など、途切れることなく何らかの形で出現する、溝口作品になくてはならない舟のシーン)は、いまだ主従関係が持続した道行だった。

《茂兵衛 おさんさま。おかくごはよろしゅうございますか。

(おさん、帯を茂兵衛に渡す)(茂兵衛は帯で膝上を幾重にも縛ってゆく)

おさん 私のために、お前をとうとう死なせるようなことにしてしもうて。許しておくれ。

茂兵衛 何をおっしゃいます。茂兵衛は、喜んでお供するのでございます。いまわの際なら、罰もあたりますまい……この世に心が残らぬよう、ひとことお聞き下さいまし。(茂兵衛が結び目を作る)茂兵衛は……、茂兵衛はとうから、あなたさまを、お慕い申しておりました。(おさんの膝を抱きしめる)

おさん ええっ。私を?

茂兵衛 はい。さあ。しっかり、しっかりつかまっておいでなされませ。さあ。(二人して立ち上がる)おさんさま。どうなされました。お怒りになりましたのか。(茂兵衛はしゃがみこむ)悪うございました。

おさん (かがみこんで)お前の今の一言(ひとこと)で、死ねんようになった。

茂兵衛 今さら、何をおっしゃいますか。

おさん 死ぬのはいやや、生きていたい。茂兵衛!(おさん、茂兵衛にしがみつく)》

 

・撮影の裏話として、溝口監督は長谷川一夫にも遠慮することなく、「形芝居は駄目」、「反射して」と注文していたと知る。

《茂平がおさんと小舟の中で心中しょうとするところ、いまわの水際の恋情の打ち明けでおさんもそれに感動して愛の爆発となる。芝居の動きが激しくなるから船も揺れるだろう、その揺れを助けようと水の中へ入ると監督が腕を掴んで「いらん!」と言われました。監督は俳優に「君ッ… 茂兵衛ですよッ。形芝居は駄目です!反射して下さい。気持ちが爆発するんだよ!胸が突き当たるんだ!」 NG本番……そして二人は狂気のようにぶつかり抱き合ったまま舟底に転げる。OKとなる。当然舟は抱き合いと転倒の衝撃で強烈に揺れていました。(おさんの方が先に茂兵衛の胸に飛び込んでいたのです。)》(宮嶋八蔵「溝口健二監督の映画作法 近松物語」) 

 

・琵琶湖で結ばれてから最初におさんと茂兵衛が登場するシーンは山の中だ。茂兵衛の実家がある丹波へと向かう愛宕山の峠の貧しい茶屋で、茂兵衛はおさんのくじいた足を濯ぐ。老婆が薬を塗ろうとして漏らす「土の上を踏んだこともないような足やな」との声に、おさんは眉を曇らせる。おさんの手当てをした茂兵衛は、嵯峨村の高札でお上が探しているのは茂兵衛だけであり、自分だけ逃げるか、お縄になれば、おさんは大経師の内儀に戻ることができると考えて、一人離れる。

 茶屋の老婆が外を眺めながら「連れさんはどうしたんや」と尋ねると、おさんは「えっ!」とばかりに同じ方向を向く。おさんの強い眼差しが、初めての自立を現わすようで素晴らしい。おさんは足を引きずりながら「茂兵衛!」、「茂兵衛!」と叫んで斜面を駈け下り、茂兵衛を追う。斜面を下りきった茂兵衛は炭焼小屋に隠れ、耳を塞いで苦悶する。おさんが倒れるや、茂兵衛は飛び出してきておさんの足首をさすり、口づけする。

《おさん 私は、お前なしで生きていけると思うてるのか。お前はもう、奉公人やない。私の夫や。旦那様や。

茂兵衛 悪うございました。悪うございました。もうお側を離れません。離れません。……》

 二人は抱き合って転がり、おさんが上になって悦びに嗚咽する。はじめて主従の逆転が起こった。

 木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』の註に、《この演出[ミザンセヌ]はまさに溝口システムの精髄を示す。香川京子によると、「何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが、「はい、本番いきましょ」って」。(香川京子『愛すればこそ――スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社)) 一方、長谷川一夫はこの場面についてこう証言している。「……おさんが足に怪我して、茂兵エがその血を吸ってやるところがありましたね。あれは茂兵エの情熱の発露でしょうが、実はあそこに歌舞伎の型が入ってるのです。あの場合、まともに女の足をもちあげちゃ醜悪ですからね、うしろへ廻ってにじりよって、ふくらはぎの方から、そっともちあげるようにしてやったわけです。溝口さんのはロングのワンカットだから、切返しがない。此方がキャメラの方へもって行くしかない。あの演技も溝口さんの注文で工夫したものですけれど、形から入ってリアルな感情を出すラヴシーンをねらったつもりです」。(長谷川一夫依田義賢「「芸」について」『時代映画』一九五五年五月号) つまり、まったく異なったタイプの演技術が溝口システムによって引き出され、結合されたのである。》

 ここで長谷川一夫が、接吻ではなく、足の怪我の血を吸っている、と語っているのはどうしたことだろう。

 

<愛死>

・内儀おさんと使用人茂兵衛が不義密通の疑いで逃亡したことによって、結局は大経師の家は取りつぶし、闕所(けっしょ)となる。冒頭に繁盛している店の様子が俯瞰され、最後には廃墟となってゆく店内が映し出される。大経師以春と手代助右衛門は、お取潰しを気にするだけで、おさんと茂兵衛の関係そのものには、ほとんど頓着していない。そもそも以春の怒りは、執心していた女中お玉(南田洋子。当初の企画では、香川京子がお玉で、木暮実千代がおさんだった)に袖にされ、しかもお玉と茂兵衛が通じているのではないかとの疑念による。『近松物語』は家が潰れることに右往左往する以春と助右衛門、岐阜屋道喜と母おこう(浪花千栄子)の悲喜劇でもある。

おさんと茂兵衛はおさんの母に、大経師の家だけでなく実家の岐阜屋までつぶしてしまうのか、と諭されてはじめて、「家」に思いをはせる。大経師を取り巻く高い階層の人物たち(鞠小路侍従(十朱久雄)、公卿の諸太夫(荒木忍)、院の経師以三(石黒達也)、)も、おさんの実家(岐阜屋道喜、おさんの母おこう)もみな、『浪華(なにわ)悲歌(エレジー)』撮影時に溝口が発した「かんきつ(・・・・)」という奇妙な語の面々である。

《「かんきつ(・・・・)だよ。かんきつ(・・・・)な人間を描いてもらいたいんだよ。かんきつ(・・・・)、みんなえげつない奴ばっかりだよ、この世の中は」と、しきりに、この「かんきつ」という言葉をいうのです。辞書をひいてみればわかったのでしょうが、奸譎という字であろうと思っただけで、後に正しくはかんけつと読むことを知りましたけれど、ねじけた、いつわりの多いという意味でわたしは、溝さんが歯をかむようにしていう語気からして、油断のならない、腹黒な、あるいは、手きびしい、非人情な世界という人間を書けという風に受けとりました。》(依田義賢依田義賢 人とシナリオ』)

 

木下千花は『溝口健二論 映画の美学と政治学』で「閉域と性愛」と題して、『近松物語』の閉塞的社会と性愛による解放について論じた。

《『近松物語』の「閉域」は大経師の屋敷であるとさしあたり述べた。しかし、おさん茂兵衛にとって屋敷からの脱出は「解放」として機能しない。この映画の中盤の息詰まる緊張感は、二人の道行きを常に追っ手に脅かされながらの逃避行として構築することによって生み出されている。おさん茂兵衛のシークェンスには、伏見の船宿で二人の間を勘ぐる女中、街道筋で通行人を詮議し二人を捜す所司代の役人たち、堅田の宿での役所への通報、と常に二人を監視し脅かす者の存在がある。さらに、伏見の船宿と街道の間には大経師の屋敷での初暦の売り出し、おさんの実家である下立売の岐阜屋のシークェンスをはさむことで、二人を捜し、追う側の対応も克明に伝えている。おさん茂兵衛の動向は大経師に伝えられて新たな戦略に帰結し、下立売りに送った金と手紙は届いて兄の感謝と母の心配の念を引き起こす、というように、二人は屋敷を出奔しても交換と承認のネットワークに絡め取られたままなのだ。すなわち、大経師の屋敷内に空間化されていた権力関係としがらみの閉域には、その実、「外部」などなかったのである(中略)

 負債と贈与のネットワークと封建的社会関係が出奔した後でもおさん茂兵衛を縛り続けるという構想は、原作や歴史学というよりは、明らかに溝口のものであった。『近松物語』の偉業は、あくまで映画の時空間の語りと演出(ミザンセヌ)によって、それが生み出す物語世界全体をさながら「閉域」に転換したことにある。

 このように物語世界全体が閉域と化してしまったとき、どこに脱出が、「外部」がありうるだろうか。性愛と死のなかに、というのが『近松物語』の明快な回答である。桑原武夫の『近松物語』論からは、この回答が同時代においてはっきりと認知されていたことが見て取れる。

「寝床の入れかわりでの結ばれが、湖上の小舟までもちこされ、そこで死ぬ前ならといって茂兵衛が以前からの愛着を告白する。その告白が劇の転回点となるのだが、あの発言は偶然ではなくて必然なのである。

 必然によって、愛するものは追手をよそに湖上に契る。何という大胆さ。しかし宿命であれば他に道はないのだ。そして、その契りを契機としておさんに新しい世界がひらける。それは愛慾ひとすじの世界と見えるが、しかも恋愛至上主義ではない。むしろ必死の生活至上主義とでもいおうか。二人は生きようとするのだが、あのさい生きるとは愛撫以外ではありえぬだけである。そうした生への意欲によって、二人は封建社会を批判する――捕えらえて刑場への引きまわしの場面で、しばられた馬上で茂兵衛と堅くにぎり合うおさんの手と、その明るい顔が封建の暗さにスポットライトをあて、その究極的批判となっている。」》

 

松浦寿輝は、『祇園囃子』(木暮実千代若尾文子)にフォーカスして、「横臥と権力――溝口健二」論を書いたが、その構造は『近松物語』にも適用しうる。

《虐げられた女たちに視線を向けることを彼が好んでいたとわれわれが言うとき、それは何も、異性が苦しむところを見ることに快感を覚えるサディストだったという意味ではない。ただ、権力に刺し貫かれた非対称的な人間関係を劇として造型することが溝口の情熱だったのであり、溝口映画の偉大さはひとえにこの情熱の強度にかかっているという点を確認しておきたいのだ。溝口映画が弱者に対する不正や抑圧を告発しているなどというのはジャーナリズムの建前論にすぎない。不均衡と非対称の視覚化に捧げられたこうした情熱にとっては、誰もが同じ権利を均等に分かち持つ平等社会など、劇的葛藤の強度を殺してしまう退屈このうえもない環境としてもっとも忌み嫌うところだったはずだからである。溝口の徹底的に反=民主主義的な視線によって権力の磁場が物質的に露呈する。彼の造型する空間には、非対称的な力の関係が絶えずぴりぴりと張りつめているのだ。(中略)

 彼の関心は、広い意味で封建的と形容されうるだろう権力の戯れにある。性別や生まれの貴賤や親から受け継いだ遺産の多寡であらかじめ振り分けられてしまっている強者と弱者とが繰り広げる葛藤の、誰も免れようのない残酷さと、その残酷さゆえの官能的な戦慄にある。彼が現代劇よりは時代劇を多く撮り、封建時代の権力者を描くことを好んだのは、このことのゆえである。「女の哀れ」が溝口の主題だったというのも、それがこうした意味での政治空間の一要素をなすかぎりにおいてのことだったにすぎない。溝口が執着するのは、『赤線地帯』の場合であろうと、性ではなくあくまで権力である。性は、金銭と同じく、溝口においては権力を露呈させるための口実でしかない。彼は、トリュフォーのように女をひたすら愛の対象として描きたかったのではなく、権力空間で必ず弱者の地位に置かれる力学的存在としての女に関心を持ったにすぎない。芸妓や娼婦のような、肉体を金銭に縛られた女性たちの自由と不自由、主体性と隷属の葛藤の主題へのあれほどの執着も、ここから来るものだ。そして、それが女だろうが男だろうが、個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える。》

 ラストシーンの引きまわしを見ながら、大経師の元使用人たちは、「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるのやろか」と噂するが、二人の顔、頭の作りは非リアリズムな歌舞伎舞台の美しさに仕立てられていて、「個人の意思と肉体が無慈悲な権力の磁場に絡め取られ、抜き差しならぬ闘いに疲れてゆるやかに敗北してゆくとき、溝口健二の映画的感性は、そこに官能的な、いやほとんど性的な戦慄を覚え、残酷な興奮にうち震える」明るい二人を、「愛死」に他ならないと噂する群衆を、下座音楽とともに表現しつくしている。

そこにあるのは、「普遍性」、「真実の生」に違いなく、J=L・ゴダールエリック・ロメールは、溝口健二への敬意を捧げた。

 

ゴダールは、「エキゾチズムという、魅力的だが低次元の段階を決定的に乗り越えて、より高い水準に達している」(ジャン=ジョゼ・リシュ『カイエ・デュ・シネマ』40号)との溝口評を引用してから、溝口の「偉大な映像作家の特質」である「効果と表現の簡潔さ」に感嘆した。

《溝口の撮る映画には、その各瞬間、各ショットの詩があらわれる。(中略)彼のヒロインたちはみんな同一人物であって、トマス・ハーディのアーバーヴィル家のテスに不思議と似通っている。彼女たちの身に、最悪の不幸がつぎつぎにふりかかる。溝口は、ラルフ・アビブ(訳注:通俗的な中級作品が多い)が少しばかりましな衣装をまとった程度の監督にすぎない黒澤とは違って、娼家に特殊な愛着を示しているが、美的なもののまやかしの魅力に閉じこもるようなことは決してしない。彼は、古い日本を再現する時、逸話や安っぽいけばけばしさを越えて、たとえば「フランチェスコ・神の道化師」(訳注:ロッセリーニ監督作品)のなかにしか見出せないような素晴らしく冴えた技巧で、われわれになまの真実を解きはなつ。今まで一度も、われわれは、中世がこれほど強烈な雰囲気をもって存在しているのを、この目で見たことはなかった。(中略)

 溝口健二の芸術は、「真実の生は別のところにある」、しかし生は、みずからの不思議な輝かしい美のなかにこそある、という二つの事柄を同時に証明してみせる点にある。》(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」)

 

ロメールは、《「近松物語」の監督が日本人のなかでも最も日本人的な人間であるか否かはわたしたちにとってどうでもいいことだ。というのも、そうしたことにもかかわらず――あるいは、そうしたことゆえにこそ――彼は最も普遍的な監督であるからだ。彼がわたしたちにとってきわめて近い存在に感じられるとしたら、それは彼が西洋の文化を剽窃したからではなく、はるかかなたの遠い地点からやって来て、わたしたちと同じ本質の概念にたどり着いたからだ。それを抽象化と呼ぼうが、総合化と呼ぼうが、表現主義と呼ぼうが、そうした名称はどうでもいいことだ》に続けて、

《十八世紀の有名な作家である近松の戯曲をもとにしたこの映画(「近松物語」)の主題は、どこかトリスタンとイゾルデを思わせる。裕福な経師の妻が、夫が女中に言い寄っている現場を押さえようとして、不運の連続で、逆に使用人の茂兵衛と不実を働いていると夫から非難されるはめになる。彼女は、その忠実な使用人に付き添われて、両親のもとに身を隠そうと、家を出る。だが、この時代に、姦通は法によって厳罰に処せられることになっていた。姦通した男女には磔の刑が待っているし、夫には妻とその愛人を告発することが義務づけられていた。そこで夫は逃げたふたりを密かに捜させ、わたしたち観客はふたりが山や森のすばらしい景色のなかを逃げまどうさまを見ていくことになる。許されないはずの愛をたがいが告白するのはこの逃避行の最中においてなのだ。一方、傲慢で放蕩者の経師は周囲に敵をつくってしまっていた。当局に通報がなされてしまい、逃げたふたりは捕まって磔にされ、夫の財産は没収されることになる。こうして続けざまに避けようもなく襲ってくる不幸――悪いほうへとばかり向かう偶然の一致と信じがたいような不手際によって引き起こされる不幸――は、わたしたちを鼻白みさせかねないところだが、そうしたものは並のものではない犠牲精神、そして、たがいの魂はあの世でまた再会できるのだから愛は死を乗り越えるのだという観念を称揚するためのものにすぎないのだ。》(エリック・ロメール「才能の普遍性」)

                             (了)

      *****引用または参考文献*****

*『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』(蓮實重彦山根貞男阿部和重井口奈己柳町光男山崎貴「シンポジウム 日本における溝口」、香川京子若尾文子「女優の証言」、田中徳三「助監督の証言」、蓮實重彦「言葉の力 溝口健二『残菊物語』論」他所収)(朝日新聞社

*『ユリイカ 特集 溝口健二あるいは日本映画の半世紀(1992.10)』(J=L・ゴダール「簡潔さのテクニック」保苅瑞穂訳、エリック・ロメール「才能の普遍性」谷昌親訳所収)(青土社

*『季刊リュミエール4 日本映画の黄金時代』(蓮實重彦「翳りゆく時間のなかで 溝口健二近松物語』論」所収)(筑摩書房

松浦寿輝『映画 1+1』(「横臥と権力――溝口健二」所収)(筑摩書房

四方田犬彦編『映画監督 溝口健二』(新曜社

木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局

溝口健二、佐相勉『溝口健二著作集』(キネマ旬報社

新藤兼人『ある映画監督 溝口健二と日本映画』(岩波新書

佐藤忠男溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー

依田義賢溝口健二の人と芸術』(田畑書店)

依田義賢依田義賢 人とシナリオ』(「シナリオ 近松物語」所収)(日本シナリオ作家協会

ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』財津理、齋藤範訳(法政大学出版局

*前田晃一「《レポート》映画講座 万田邦敏監督による「溝口健二論」」(神戸映画ワークショップ)

*宮嶋八蔵「日本映画四方山話」(「溝口健二監督の映画作法 近松物語」)

香川京子『愛すればこそ スクリーンの向こうから』勝田友巳編(毎日新聞社

*『桑原武夫全集3』(「映画論 「近松物語」の感動」所収)(朝日新聞社

*『キネマ旬報特別編集 溝口健二集成』(秋山邦晴「「近松物語」の一音の論理」所収)(キネマ旬報社

文楽床本『おさん茂兵衛 大経師昔暦』(国立劇場

*廣末保『近松序説』(未来社

水上勉近松物語の女たち』(「おさん――『大経師昔暦』」所収)(中公文庫)

*『日本古典文学大系 近松浄瑠璃集(上)』(「大経師昔暦」所収)(岩波書店

*『川口松太郎全集14』(「おさん茂兵衛」所収)(講談社

井原西鶴好色五人女』(「巻三 中段に見る暦屋物語」所収)(角川ソフィア文庫

映画批評 成瀬巳喜男『浮雲』論 ――デュラス/林芙美子/成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男浮雲』論

      ――デュラス/林芙美子成瀬巳喜男

                                

《この作品は、ある時代の私の現象でもあるのだ。よいものか、悪いものかは、読者がきめてくれるものであろうが、私は、この**のあと、非常に疲れた。めまぐるしく私の周囲の速度は早い。こんな地味な仕事をこつこつやっているうちに、歴史はぐるぐる変化してゆく。だが、私は、この作品は、私にとって、最も困難な仕事でもあった。四囲のこともかまわずに、この仕事にむきあっていた。いわゆる、誰の眼にも見逃されている、空間を流れている、人間の運命を書きたかったのだ。筋のない世界。説明の出来ない、小説の外側の小説。誰の影響もうけていない、私の考えた一つのモラル。そうしたものを意図していた。(中略)神は近くにありながら、その神を手さぐりでいる、私自身の生きのもどかしさを、この作品に描きたかったのだ。(中略)一切の幻滅の底に行きついてしまって、そこから、再び萌え出るもの、それが、この作品の題目であり、**といふ題が生まれた。……》

 マルグリット・デュラスを読む者の誰もが感じる作者の言葉ではないか。

 と欺いてもおかしくないこの言葉は、実は林芙美子浮雲』のあとがき(1951.3.3、下落合にて。芙美子は1951.6.29に死去)で、上記**には「浮雲」が入る。

 報道記者として南京(陥落の虐殺事件直後)、上海、漢口(一番乗り)、ジャワ、ボルネオなどに出向き、「ペン部隊」、「文芸銃後運動」に勤(いそ)しんだ芙美子について、田辺聖子は『ゆめはるか吉屋信子 秋灯机の上の幾山河』で、従軍作家としての吉屋信子林芙美子を比較しながら、芙美子の「報国文学」の本質を次のように断定した。

《いま芙美子の二冊の従軍記を読むと、小説よりも芙美子の資質がよくわかって面白いところがある。運命的な軍令一下、遮二無二つき進んでゆく男の、野性的生命力に触れて芙美子は甘美な戦慄を感じている。野性の中の人間味に恍惚とし、男たちのエネルギイに陶酔する。芙美子は 従軍記の体裁をとって〈兵隊〉と寝たのである。》

「<兵隊>と寝た」女と、ナチス・ドイツのパリ占領下、レジスタンスの一員として逮捕された夫アンテルムスの生還を待ち続けたデュラス(小説『かくも長き不在』『苦悩』、手記『戦争ノート』)とは正反対ではないかと言いたくもなろうが、絶筆となった『浮雲』を読んでみれば(成瀬巳喜男監督映画『浮雲』を観れば)、「小説の外側の小説」「一つのモラル」「神を手さぐりでいる、私自身の生きのもどかしさ」「一切の幻滅の底」と通奏すると気づかずにいられようか。

 だいいち、芙美子の『戦線』『北岸部隊』に支那兵の死体描写(《ダウンと、何かに乗りあげては突き進んでいますが、此狭い路では、何度となくアジア号は支那兵の死体の上を乗り越えて行きました。(『戦線』)》、《畑の中にはあっちにも支那兵の死体がごろごろしていた。なかには眼をあけているような死体もあった(中略)。此死体達は、犬よりもみじめな死にかたをしようとは夢にも思わなかっただろう。(中略)城内へ這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。(中略)此辺には往来の到る処、折りかさなった支那兵の死体ばかりだ。(『北岸部隊』)》)があっても日本兵は皆無なことは、藤田嗣治の戦争記録画「アッツ島玉砕」の累々たる死体の群れがアメリカ兵ばかりで、一つも日本兵の死体が描かれなかったと同じ戦意高揚の表現規制があったからとみるべき面もあろう(もちろんデュラスのレジスタンスと比較して、あまりに無邪気で腰が引けているとの非難を免れることはできない)。

 とりわけ『浮雲』は、事後とはいえ反戦的でさえある。ジャン・ドゥーシェが「成瀬について」で語っているように、《カップルの話を通して、一九四五年から一九五五年にかけて日本人を襲った精神的、道徳的悲しみを語っている映画なのだ。現在時が全面を支配しているのは、現在というものが、口にはされないあの大きな出来事から生まれているからだ。つまり敗戦のことである。敗戦は、ほとんど喚起されていないが、つねに明白に存在している。(中略)しかし敗戦が心理的構造を揺り動かす。男性は職を失い、自分の目にも社会的な正当性を失ってしまった。彼は煮え切らない男になり、とりわけ無責任になってしまう。ゆき子は逆に、アメリカ占領軍の兵士に身を売りさえしてまで、生きていくために戦っている。(中略)『浮雲』は間違いなく、日本人の精神性にかんするもっとも内奥の赤裸々な真実を、服従する心と傲慢な心という相対立する二つの側面に沿って語った証言なのである。》

 

 映画監督吉田喜重が、成瀬『浮雲』とデュラスを、別個の場で無関係に論じているのだが、並べてみればなんと似ていることだろう。(ちなみに、吉田の妻は『浮雲』で伊香保のバーの若妻おせいを演じた岡田茉莉子。)

 吉田は小津安二郎と成瀬を比較しながら、『浮雲』について次のように書いている。

《それでも、『浮雲』が、決して声高ではない成瀬の映画を、誰もが黙って見つづけてしまう、その名状しがたい魅力を、この作品がみずから解きあかしていると言えなくもない。

 人間を狂気に走らせる戦争と、敗戦後の日本の混乱。そうした激動期に男と女が出会い、別れ、そしてふたたび会い、また別離してゆく。それは女との死別のときまで続くのだが、こうした反復が強いられるなかに、誰しもが見出すものは、あの時代の日本の悲劇でもなければ、男と女との愛の行く方といったものでもない。

 それはあくまでも表面に浮かぶ上澄みでしかなく、真底は別離を心に決めながら、別れきれない人間の業といったものが深く秘められていたのである。

 小津の映画もまた、人生は別離であることを繰り返し描いてきた。それを非条理なものとは考えず、人間の自然なありようとして受け入れ、淡々と表現してきた。それをいま成瀬が、測り知れない人間の非条理な業として描くのを知ったとき、小津はみずからの視点が危うく揺らぐのを感じたに違いない。それが『浮雲』への称賛となって現れたのだろう。

 それにしても「業」という言葉の意味を、西欧の人びとにどのように伝えればよいのだろうか。もちろん「業」という言葉は仏教に由来するものであり、おそらく西欧の人びとにはキリスト教における、「原罪」という言葉に相等するのかもしれない。

 だが成瀬は宗教に依存し、救いを求めたりはしない。こうした人間の非条理なありようを限りなくオクターブを低く、むしろ沈黙のうちに見つめようとするところに、偉大なる影としての成瀬巳喜男の存在がある。》

 一方、デュラスについては次のような発言をした。

《「人間が抱く愛、それはデュラスの場合、セックスと同義語と言ってもよいのですが、彼女自身次のように述べています。『人間はセックスをとおして、みずからが孤独であることを思い知らされ、そしてセックスはわれわれを雷のように打ちのめす』のだと。そして彼女自身、そうした拷問に耐えて生きてゆくことこそ、それをデュラスはモラルと呼んでいるのです。

 第二次世界大戦のさなか、彼女の夫がドイツの収容所に送られ、何時その死の知らせが届くか、不安におののく日々、夫の悲報を聞かされ絶望に打ちのめされるのか、あるいは無事な生還を歓喜しながら迎えることができるのか、この相反する苛酷なはざまに身を置き、その苦痛に耐え続けながら、ついには待つことの不安に打ちのめされ、デュラスは別の男と関係をもってしまう。まぎれもなくこうした行為は裏切りであり、反モラル、非道徳のきわみであり、決して許されないと多くの人びとは批判するでしょう。しかし、夫の生死いずれかの知らせを待つことの苦痛に耐えきれない、その悲しき弱さこそが人間の偽らざるありようであり、それを裏切りという行為で示してしまうこともまた、夫へのかぎりない愛の反転した証しであり、それほど夫を愛したという自負の表れでもあったのではないか。おそらくデュラスは、このようにモラルのはざまをまぎれもなく生き抜くことこそ、生身の人間としての真のモラルと考える人だった……」》

 デュラスはインタビューで《「小説のなかでも映画のなかでも、あなたはセックスに大きな意味をあたえています。あなたご自身が、「セクシュアリティのなかに浸されていない小説は存在しない」と主張しています。」》を受けて、《「わたしの興味を引くのはセックス……人びとが脱色された官能のようなもののなかですることではない。エロティシズムの源泉にあるもの、欲望です。セックスでは鎮められないもの、おそらくは鎮めてはいけないもの、欲望は隠れた活動であり、その点で書くこと(エクリチュール)に似ています。人は書くように欲望する、いつも。

 だいいち、書く気になっているときのほうが、そのあと実際に書いているときよりもなお強く書くこと(エクリチュール)によって満たされていると感じます。欲望と官能の歓びのあいだには、書くことの最初のカオス、完全な、判読不能のカオスと、ページのうえで自由になるもの、明らかになるものの最終結果のあいだにあるのと同じ違いがあります。」》と答えた。

 芙美子もまた「書くように欲望する、いつも」だった。

 

 ところで、田辺聖子は『浮雲』について、《私は若いときから林芙美子のファンだった》と前置きしてから、次のように慶賀した。

《芙美子の代表作といえば、私は短編としては初期の『風琴と魚の町』、長編は晩年の、詩性とリアリズムが美しく融合し、芙美子の持てる佳(よ)きものが集大成された『浮雲』だろうと思う。いろんな男を見てきた芙美子は、インテリだけども元来がアナーキーな富岡という男をみごとに造型する。祖国の敗亡という運命に遭遇して呆然自失、為すすべもなく、雪崩(なだれ)おちてゆく何かを手放しで見ているだけ、といった荒廃の男。

 それこそ日本の敗残そのものの象徴である。

 芙美子はよく日本の<敗戦>を描き切った。それは、彼を愛した幸田ゆき子というヒロインを鏡として反映させたから、可能だったのかもしれない。ゆき子は富岡と違って、混乱の世を果敢に生きぬく。(中略)

 男と女の流転を前景に、敗戦前後の日本の崩壊がそのうしろに描き込まれている。芙美子の人生、芙美子の才華(さいか)のすべてはこの一作に結実した。》

 さらには富岡について、《再生の道を女に求め、どの女にも救われないで、孤独の深淵をのたうちまわっている。これは陰画の『源氏物語』であり、現代の光源氏ではないか。救いようのない虚無と孤独にたちすくんでいる男。その心象風景は寒々しく、やりきれずくらい。だが、人間の面白いところは、ふとした拍子に心が明るみ、また昂揚感と生きる気力をとりもどすことである。富岡にはそれが酒であり、新手の女である。その空しさを知りつつ、空しさにまた賭けてしまう……。底をついた男の本音を耳もとできく気がする。男の体臭のぷんぷん匂う、そしてそのやりきれなさが男そのものの魅力になっているのが<富岡>である。私はしみじみと富岡に共感する。》

 田辺は芙美子を「人間を描くのに、情が濃い」、「作品に熱っぽさを与える」と形容しているが、デュラスが、虚無的なのに情が濃い、極北の冷たさなのに芯は熱っぽい、ことの手袋の裏表だったのではないか。

 

 瀬戸内寂聴はデュラスについて、《私がデュラスに惹かれつづけて今も飽きないのは、デュラスの作品の行間から覗く、彼女の「極度の孤独」と「放心」とそれも上廻る「愛の密度」のせいである。(中略)「無」や「空」というと仏教用語が、デュラスの作品の中から漂ってくると感じるのは、私が出離者であることとは何の関係もない。

 この世で生きることは人間が孤独だということを思い知ることであるということを、デュラスは常に語っている。

 他者との理解など彼女はあり得ないと信じているのではないだろうか。彼女の作品の中から、女の極限状況から発せられるような恐怖の叫びがひびくのは、人間存在の闇をデュラスが見きわめてしまった恐怖からではないだろうか。

 デュラスの愛は死を呼びこむ。死の裏づけがあってはじめてデュラスは愛を認める。デュラスが何を書こうと、何にアンガージュしようと、デュラス自身の告白するように、たくさんの男たちと、激しい情熱的な性愛を持ったとしても、デュラスが常に充たされきれず、愛に渇き、孤独に沈潜していたことを私は信じずにはいられない。》と語った。

 一方、芙美子のことは、瀬戸内晴美前田愛『対談紀行 名作のなかの女たち』(「『放浪記』と林芙美子」)で、こう語っている。

《『放浪記』は非常にどん底を書きながら明るいでしょう。だけども、林芙美子は虚無的なんですね。その虚無的なものが、だんだん、だんだん沈殿(ちんでん)していって、どん底のときは明るいのに、功成り名遂げたときに非常に暗くなってきてますね。

浮雲』は、私は本当に傑作だと思うんですけれども、『浮雲』には明るさがまったくないんです。それはやはり、林芙美子の最期の死の影を感じつつ書いた、自分は意識しないけれども、もう死の前の作品で、そのとき林芙美子の行き着いた境地というのは非常に暗い虚無的な世界、救いのまったくない世界です。》

 要するに二人の本質は「アウトサイド(外側)」なのだ。

 

 ところで、デュラス『愛人 ラマン』も『浮雲』も仏印インドシナ)を舞台とし、どちらからもインドシナ・フルーツの爛熟が匂いたつ。

『愛人 ラマン』のデュラスは欲望する。フルーツのイマージュは世界を記述するために存在するだろう。

《エレーヌ・ラゴネルの身体は重い、まだ無垢だ、彼女の皮膚の滑らかさはさながらある種の果物のようだ、そんな皮膚の滑らかさは、感じとれるかとれないかの境い目にあるもの、すこし非現実的なもの、この世界をはみだした余計なものだ。》

 サイゴンの中華街チョロン地区の一室で《彼は言う、この国で、この耐えがたい緯度で何年もの年月をすごしたために彼女はこのインドシナの娘になってしまった。この国の娘たちのようなほっそりした手首をしているし、この国の娘たちの髪と同じように、まるで張りのある力のすべてを引き受けて身につけてしまったかのような、濃く、長い髪をしている。とりわけこの肌、全身の肌といつたら、この国で女や子供たちのために取っておく雨水を使っての水浴を経験してきた肌だ。彼は言う、フランスの女たちの身体の肌は、この国の女たちとくらべると、固く、ほとんどざらついている。彼はさらに言う、魚と果物だけの熱帯の貧しい食物も、それにいくらか役立っている。》

 一方の『浮雲』。

 義兄との不倫から抜けきりたい気持ちでタイピストとして仏印行きを決心した幸田ゆき子(高峰秀子の演技の凄み)が、サイゴンを経てダラットの高原に着いたのは昭和十八年だった。しかしじきに妻ある農林研究技官富岡と男女の仲になってしまう。

 戦後敦賀から東京へ引き揚げて来たゆき子は富岡を訪ね、諍いと未練の腐れ縁を繰りかえしてしまう。あげく、心中してしまうつもりでゆき子を伊香保に誘った富岡(有島武郎の長男で京大哲学中退の俳優森雅之のなんと太宰治に似ていることか)は温泉で知り合ったバーの若妻おせいとも関係してしまう(してしまう(・・・・・)こそ情痴の本質だ)。

 愛の象徴なのか二人は林檎を買い求め、皮をむく。

《マンゴスチーンを上品な果実とすれば、その正反対な果実に、臭気ふんぷんとしたドゥリアンと云う珍果のある事をも書かねばならぬ》といった雑文で富岡は稿料を稼ぐ(成瀬作品につきまとう「金銭」をめぐる葛藤)が、その半分はゆき子に送られて子供をおろす費用となってしまう。

 いかさま新興宗教から六十万円(映画では二十万円)を盗んだゆき子は富岡と島流しのように屋久島へ向かう。途中、鹿児島で買った林檎はまずく、富岡は芯をかっと吐き出す。胸を病み、熱に浮かされるゆき子に蜜の記憶があらわれる。《窓の外に、大きな樹の実の落ちる音がした。二人は、その音にもおびえる。井戸の底にでもいるような、静かな、高原のビアンホアのホテルの一夜は、ゆき子にとっては、夢の中にまで現われて来る。房々とした富岡の頭髪の手触りが、いまでもじいっと思いをこらすと、掌のなかに匂ってきた。》(喘ぐように息継ぎが多いが、吹っ切れた芙美子の文体。)

 ゆき子が、ああ生きたいとうめいているとき、小説の富岡は土砂降りの山の営林所で薯焼酎を飲みながら、八重岳の山容がアンコール・トムのバイヨン宮に似ていると話しだす。《山の石肌(いしはだ)には、巨大な、人面を現した石積の塔が聳(そび)えていてね、部屋々々の石柱は、傾き、石梁(せきりょう)は落ちかけて、この山石の、廃墟(はいきょ)の前庭には、巨(おお)きな樹が、倒れかけた擁壁を支えているし、ここの、杉のミイラと少しも変りはない。》

  やっと官舎に戻るとゆき子は冥府へ走り去っていた。

 

 さて、成瀬監督自身が高峰秀子との対談で『浮雲』のあらすじを紹介している(成瀬は高峰にあまりいい感じを持っていなかった、ただ演技だけはかっていた、だから普通のときはあまり話をしなかった(他の女優にも似たような逸話が残っている)、という「成瀬組」の打明け話を頭の片隅に置いたうえで)。

「[対談]『浮雲』について 成瀬巳喜男高峰秀子」から(東宝の正月文芸作撮影中の、東宝撮影所のセットに二人を訪ねて)。

《高峰 まさかあたしに、ゆき子の役がまわってくるとは思わなかったし、とてもむずかしくて演れそうもなかったので再三ご辞退したんですけど……でも女優だったら誰でも一度は演りたい役でしょうね。

成瀬 主人公のゆき子は、秀ちゃんより他にはいないよ。

高峰 あたし、いままで、情痴というと大ゲサだけど、べったりした恋愛ものに出たことがないの。富岡謙吾になる森さんと、仏印から東京、伊香保また東京、伊豆長岡から鹿児島へ行き、屋久島で病死するまで、二人がついたり離れたりする、大恋愛劇なんですもの。それに、森さんと一緒におふろに入ったり、接ぷんシーンをやったり、酔っぱらって、くだまいて口説いたり、生れて初めてのことばかりなんですもの……

 先生は、林さんの作品を『めし』『稲妻』『妻』『晩菊』と手がけられて、これで五度目、一人の監督さんが、一人の作家の作品を五回も手がけられるということは珍らしいことですね。

成瀬 余程、林さんの作風と肌が合うんでしょう。でも、恐らくこれが最後の作品になるでしょう。ほかのどの小説をもってきても同じでしょうから……

高峰 先生の作品は、いつも下町情緒で、淡々としていらっしゃるんですけど、『浮雲』は随分油っこい……

成瀬 『あにいもうと』も相当アクドイものだったけれど……ゆき子という主人公は、少女時代に義理の兄さんに犯され、農林省タイピストとして仏印に赴任し、そこで富岡と結ばれる。富岡を生涯の男として慕うが、帰国した男には妻があって結婚できない。この男と同棲するが、生活のためにパンパンになったり、再び義兄の世話になったりするが、結局屋久島で病死するまで離れられない。男の方も離婚できないまま同棲し、生活能力がないので女と心中しようとするが、バアの若妻にずるずると惹かれて死ねない。再起しようと発憤して屋久島に渡り、そこで女に死なれて初めて女の愛情というものをしみじみと感じる。というように、あちこちと場所がうつり、その間、ほとんどゆき子と富岡の二人の話ばかりなので、相当ねつっこいものになりますね。でも、一人の人間が、全然別個の境地に進むということは、なかなかできるものじゃないから、この映画もできあがってしまうと、案外ぼくのいつもの作品と同系統のものになってしまうかもしれない。》

 

 蓮實重彦は「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」で、《その中心になるのは、林芙美子の原作を田中澄江水木洋子などの女性脚本家の協力をえて脚色した作品である。それはまた、脚本家が書き込んだ文学的、演劇的な台詞を可能な限り削除し、言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとするサイレント映画を体験した成瀬巳喜男だけに可能な演出技法が見事に開花した一時期でもあった。》と述べているが、その実際は、田中澄江他編『成瀬巳喜男――透きとおるメロドラマの波光よ(映画読本)』の「[採録]『浮雲』撮影台本より」(伊香保の場面)から知ることができる。

《言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとする》演出技法は、とりわけ「視線」の演技に顕著である。日本に戻って来たゆき子が富岡の家を訪ねると、富岡の妻は彼女を隈なく見つめて値踏みする。フラッシュバックした回想のベトナムで、富岡は欲望の眼差しを現地の女中やゆき子に注ぐ。その眼差しは伊香保で知り合ったおせいと無遠慮なまでに交錯しあい、その互い違いの見つめ見つめられに、ゆき子の疑いの凄まじい視線が十字に交差する。屋久島の官舎で、病の床にありながらも、富岡と手伝婦が何か示しあわせているのではないかと疑いを向けずにはいられないゆき子のせっぱつまった凄惨な視線。

 実際、デュラスはインタビューで、《「他の視線と絶えず交差し、そして他の視線へと吸いこまれるひとつの視線。視線は、それによって登場人物と物語の現実が明らかにされる真の認識手段にとどまっています。たがいに重なり合う視線。登場人物のひとりひとりがだれかを見つめ、そのだれかから見つめられる。(中略)男女一組のあいだに情熱が燃えあがるのを目撃する、第三の人物の絶えざる存在という仮説を確認したいかのようですね。」》と聞かれて、次のように答えている(『私はなぜ書くのか』)。

《「わたしはつねに、愛は三人で実現すると考えていました。一方から他方へと欲望が循環するあいだ、見つめているひとつの目。精神分析は、原風景の執拗な繰り返しについて語ります。わたしは、ひとつの物語の第三の要素としての書かれた言葉(エクリチュール)を語るでしょう。だいいち、わたしたちは、自分がしていることと完全に一致することは決してありません。わたしたちは自分がいると信じているところに完全にいることはない。わたしたちとわたしたちの行動のあいだには、隔たりがある。そしてすべてが起こるのは外部において(・・・・・・)なのです。登場人物たちは、自分たちの眼前でさらにもう一度、展開する「原風景」から除外されていると同時に、そのなかに包含され、自分もまた見られるためにそこにいることを知りながら、見るのです。」》

 

 ミッシェル・フーコーとエレーヌ・シクススの対談「外部を聞く盲目の人デュラス」で、シクススは、《デュラスの作品でとても美しい言回しがあると思うと、それはきまって受動態、つまり、誰かが見つめられている、といった文章でなんです。《彼女》は見つめられ、見つめられているのを知らない。ここで視線は主体の上に投げかけられているんですが、主体は視線を受けとっていない。》と語ったが、成瀬映画の視線にも当て嵌まる。

 郷原佳以は「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」で、《デュラスの文体は、物語を書き込まないことによって、語らないことによって、むしろ、まるでト書きのように可能な限り文飾を削ぎ落として書くことによって、行間から恐ろしいほどの余韻を響かせる》と書いたが、成瀬の《言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとする》演出法に通じるところがある。

 またシクススは、《私は、デュラスの創り出すものを《貧素(pauvreté)》と呼んでもいいと思います。作品を読み進むにつれ、豊かさや巨大な構築物を徐々に棄ててゆくという作業があるんです。余計なものを次第次第に取り払ってゆき、舞台装置や装飾や物が順々に少なくなっていくんですね。》と論じたが、それは成瀬が心の底で望んでいたものに違いなく、屋久島での臨終場面のミニマライズな「撮影設計」に表れが見える。さらには高峰秀子の思い出のエピソードがある。高峰『わたしの渡世日記』の「イジワルジイサン」こと成瀬との『浮雲』撮影時の回想で、成瀬との最後の仕事になった松山善三脚本『ひき逃げ』撮影中の会話がある。イジの悪いほど喋らない彼が珍しく口を開いた。《「ねえ秀ちゃん」「へえ?」「ボクはね、いつか……装置も色もない、一枚の白バックだけの映画を撮ってみたいのよ」「白バック?」「なんにも邪魔のない、白バックの前で芝居だけをみせるの……。そのとき秀ちゃん演(で)てくれるかな?」「……」》

 実現しなかったとはいえ、削ぎ落とすことで響かせたいという思いが強かったのだ。

 

 ここで、郷原「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」に戻れば、《『ロル・V・シュタインの歓喜』を読んで驚喜したラカンが喝破したように、しかし、そこで指摘された事実自体についてはラカンに言われるまでもなくデュラスの読者であれば誰しも気づいていたように、デュラス的な愛を不可能なものとして成り立たせているのはある三角形、三項関係である。T・ビーチの舞踏会でロルの婚約者マイケル・リチャードソンがロルの眼の前でアンヌ=マリー=ストレッテルに吸い寄せられ、ロルの前から姿を消したこと。(中略)寄宿舎の友人エレーヌ・ラゴネルを自分の愛人の中国青年に抱かせ、自分はそれを見ていたいという少女の激しい欲望。(中略)こうした反復される三角形の主題は、なるほどデュラスとアンテルムスとマスコロの友愛に結ばれたトリオを想起させずにはおかないが、しかし、おそらくそれも含めていずれの三角形も、互いを追いかけ合うことで嫉妬の力学と戯れを作用させるような恋の三角関係とは別の位相にある。三角形があったとしても、三角関係はそこで脱臼されて「愛の物語」がいかにしても成就しない<外>へ、無限定の<外>へ開かれている。》

浮雲』においても、富岡・ゆき子・富岡の妻の三角形は、富岡・ゆき子・外国人ジョオ、富岡・ゆき子・おせい、富岡・ゆき子・義兄とくるくる回転し、富岡は、妻、おせい、ゆき子の三人の女たちに、つぎつぎと命を落とさせることしかできず、恋というよりは脱臼している。

<外>へということであれば、ベルナール・エイゼンシッツが「成瀬巳喜男におけるさまざまな移動――日本を縦断して」で論じているように、成瀬映画は、とりわけ芙美子作品では、たゆまず「遁走」「流浪」「放浪」「移動」する。『浮雲』でも富岡とゆき子の二人は、自分の過去を背負ってあてもなく何度も、並んで道を歩く。

 成瀬の《映画の筋書きは戦前においては、社会の網目のなかで、空間のなかに展開されるのと同じように厳密に展開していた。一九四五年以降は、歴史のなかでそれは展開されていく。成瀬は「国を挙げての記憶喪失」にはまったく加わらない。逆に、以後すべては戦争に端を発するように見えてくるのだ。》

 はじめから内地を離れた仏印で出会い、日本に戻ってからも都内を遁走するようにいく度も転居し、伊香保へ、伊豆の湯へ、ついには鹿児島、そして屋久島へと、時間の中に生きているのに、時間から逃げるように移動する(『めし』や『浮雲』では、使い古した靴の映像が、「遁走」「流浪」「放浪」「移動」する庶民の生活感と恋愛の徒労感を表象する)。

 

 ふたたび、成瀬と高峰の対談に戻る。

《高峰 割り合い長い映画になるようで……

成瀬 ぼくのものとしては、異例の作品となりそうで、二時間以上の長さになる予定です。それだけ長いとね、途中でどうしてもダレるでしょう。今、心配しているのは、富岡が病気のゆき子を連れて屋久島へ渡る連絡船に乗って鹿児島を離れていくシーンで、お客はここで終るんじゃないかと思われそうなんです。どうにかお客を立たせないように、いま一生懸命やっているんですがね。それにあれだけの長編小説を、二時間余りの映画の中に全部盛り込もうとするとストーリーを追うことと、セリフを言わせるだけでも一杯です。いま、シナリオを再整理しながら撮影している始末です。》(昭和29年12月24日)

 そうして成瀬は、「お客を立たせない」どころか、「金子正且 プロデューサーが語る、企画・キャスティング術」で金子が、《「いま見てもキレイですよねえ、『浮雲』のデコは。僕なんか日本映画最高の一本だと思います。」「――終わりに行けば行くほどキレイになるんですよね。」「そう、死ぬときなんかね。だから、あの役はやっぱりデコしかないと思ったんじゃないでしょうか。あの頃はもう三十ぐらいになって、ちょうど脂が乗り切っているという感じだし。」》と語った女優高峰秀子(《この仕事が終わって松山善三と結婚したら、女優をやめて女房業に専心したいと希(のぞ)んでいた》、愛称デコ)の最高に美しい顔であるうえに、《映画史上最も美しいクローズ・アップの一つ》(蓮實)となった。

(付け加えれば、林芙美子原作の「最後の作品」とはならなかった。八年後の昭和三十七年、同じく高峰で『放浪記』を撮っていて、興行的にはヒットしなかったものの、高峰は甲乙つけがたく、監督はむしろこちらに愛着を抱いていたという。)

 蓮實重彦は「寡黙なるものの雄弁――戦後の成瀬巳喜男」で、こう述べている。

《『浮雲』の最後で人が目にするものは、何の飾りけもない殺風景な風景で息を引き取ろうとする病床の若い女と、それをなすすべもなく無言で見まもるしかない中年の男性ばかりである。二人の間に、言葉はおろか、視線さえかわされることがない。男にできることといえば、東南アジアの熱帯雨林での最初の出会いを回想しながら、動こうともしない女の唇に口紅を塗ってやることぐらいだ。舞台は、日本の南端に位置する亜熱帯の孤島に設定されており、そこには電気さえ通っていない。戸外には夕暮れ近くの嵐が吹き荒れている。

 だが、アルコール・ランプに照らしだされる二人の翳りをおびた孤立ぶりは、これという装飾もない無味乾燥な室内装飾がそうであるように、そうした特殊な地理的条件とも、例外的な気象状況とも、原作となった小説の描写ともいっさい無縁である。彼らは、あらゆるものから見放されたかのような無防備で、同じ時間と同じ空間を共有しあう一組の男女としての時分を受け入れているにすぎない。そこには、それさえあれば映画が成立すると成瀬が信じている男と女が、途方もない豊かさを実現しうる希有の単純さとして露呈されている。だから『浮雲』を見るものは、その最後での二人の男女の孤立が、豊かな単純さへの確固たる意志が導きだした一つの実践的な形式であることを理解せざるをえない。

 成瀬巳喜男にとって、映画が成立するためには、何よりもまず、画面を構成するすべての要素が一組の男女に還元されねばならない。『浮雲』の最後で、女の身を気遣う近隣のものたちが、男の指示でことごとく部屋から遠ざけられているのは、そのためである。実際、ここでは、すべてが呆気ないほど簡素な構造におさまっており、画面に息づまるような震えを導入するのは、森雅之が床からたぐりよせてそっと枕元に置く何の変哲もないランプばかりなのだ。それが投げかける弱い光を受けとめながら、ことによると、成瀬巳喜男は、男と女をつつみこむこの光によって映画を定義しようとしているのかもしれないと人はつぶやく。

 実際、あくまでもつつましい動きで位置を変えるこの鈍い光源が死の床に横たわる高峰秀子の表情に微妙な照明を投げかけるとき、誰もがそう思わずにはいられない。視線を交わしあうことすらなくなった二人に向けられるキャメラが、それぞれの顔を微妙な陰影の推移の中に浮かび上がらせ、そこに、映画史上最も美しいクローズ・アップの一つが生まれ落ちることになるからである。二人の不運な境遇をここまでたどってきた者たちは、終わりを迎えつつある物語が煽りたてる情動の高まりを超えて、薄暗がりに浮かびあがる女の相貌のものいわぬ白さに無媒介的に惹きつけられる。》

 さらに蓮實は成瀬賛を次のように結ぶ。

成瀬巳喜男の的確な演出は、目をそむけずにはいられない凄惨な女の修羅場を、ありうべき現実の再現には到底おさまりがつかぬ透明な虚構として、何度でもスクリーンに推移させてみせるだろう。それが、世界で誰もやったことのない寡黙な雄弁さともいうべきもので映画をひときわ輝かせる。》

 

「寡黙な雄弁さ」。それを象徴するかのような「浮雲」の映像は、映画にはないが、原作では「浮雲」という語が二か所あらわれる。

《富岡が歩き出すと、ゆき子もそのまま、水溜(みずたま)りのなかへはいって来た。――富岡は孤独に耐えられない気持ちで、一人でさっさと歩きながらも、後から濡れた道をびちゃびちゃと歩いて来るゆき子の表情を、素通しにして、心で眺(なが)め、自分の孤独の道づれになって貰(もら)いたい気持ちになっていた。そのくせ、ゆき子と歩いている時は、何となく犯罪感がつきまとう気さえしてくる。

 自分の孤独を考えてゆきながら、その孤独に、ひどく戦慄(せんりつ)しているような、おびえを、富岡は感じていた。現在に立ち到(いた)って、何ものも所有しないと云う孤独には、富岡は耐えてゆけない淋(さみ)しさだった。自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有していないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるように、鮮(あざやか)かにうごいて来る。

 ゆき子と、二人きりで、いまのままの気持ちで、自殺してしまいたかった。――若い日本の男が、外国の女とかけおちをして、追手に反抗して、郊外の駅で劇薬をのんだ事件があったのを、富岡は思い出していた。

 人間と云うものの哀しさが、浮雲のようにたよりなく感じられた。まるきり生きてゆく自信がなかったのだ。二人は、何処へ行く当てもなく、市電の停留所までぶらぶら歩いた。》

屋久島へ帰る気力もない。だが、ゆき子の土葬にした亡骸(なきがら)をあの島へ、たった一人置いて去るにも忍びないのだ。それかと云って、いまさら、東京に戻って何があるだろうか……。

 富岡は、まるで、浮雲のような、己れの姿を考へていた。それは、何時、何処かで、消えるともなく消えてゆく、浮雲である。》

 これらがデュラス『モデラート・カンタービレ』や『北の愛人』の一文であってもなんの違和感もないだろう。そして、デュラス『破壊しに、と彼女は言う』や『インディア・ソング』のフィルムのシーンであったとしても。

 

<補遺>

 成瀬巳喜男の映画についての重要な言説、証言は、蓮實重彦山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)がほぼカバーしている。参考までに、蓮實の文章から断章的に引用しておく。

 

<蓮實「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」から>

・《『めし』、『お国と五平』、『おかあさん』、『稲妻』、『妻』、『あにいもうと』、『山の音』、『晩菊』、『浮雲』、『流れる』、『あらくれ』、『杏っ子』という彼の一九五〇年代の十二本をとってみると、たんに日本映画にとどまらず、世界的に見ても、この時期にこれほど充実した作品を撮り続けた映画作家はごく稀だということが、すぐにも明らかになるはずだ。これにとどまらず、この時期のそれぞれの作品に発揮されている演出的な手腕の確かさはいうまでもなく、現実把握の豊かな拡がりという点でも、比類なき映画作家の現存に眼も眩む思いがするほどだ。》(P6)

・《『めし』原節子よりも今井正監督の『青い山脈』(一九四九)の原節子を、『浮雲』の高峰秀子より木下恵介監督の『二十四の瞳』(一九五四)の高峰秀子を、より身近で、より現実的なものと感じとる感性というものが、ある時期まではまぎれもなく存在していたのである。》(P6)

・《成瀬巳喜男の作品には、悲劇的な題材をあつかった場合でも、その画面にはペシミズムとは無縁の透明感が漂っている。彼の外景撮影におけるやや逆光ぎみの光線への感性や、室内撮影における人物に向けられた照明へのこだわりは、サイレント期からつちかわれたキャメラへの揺るぎない確信からくるものである。》(P7)

・《成瀬巳喜男の演出は、物語をたくみに語ることとは別に、被写体となった人物の表情や、舞台となった地方の風景を捉えたショットそのものの生なましさによって、いわゆる社会的な題材のリアリズム性とは異なる映画ならではの現実をフィルムにおさめている。》(P14)

・《その中心になるのは、林芙美子の原作を田中澄江水木洋子などの女性脚本家の協力をえて脚色した作品である。それはまた、脚本家が書き込んだ文学的、演劇的な台詞を可能な限り削除し、言葉よりも視線や身振りの交錯ですべてを語ろうとするサイレント映画を体験した成瀬巳喜男だけに可能な演出技法が見事に開花した一時期でもあった。》(P16)

・《一九六九年、成瀬巳喜男が六三歳で他界したとき、やがて東宝の撮影所はほとんど貸しスタジオと化して、子会社の映画やテレビ向けの作品しか撮影されてはおらず、やがて東宝そのものも製作会社から配給会社へと変貌してゆく。こうした撮影所システムの崩壊や、新人監督の登場とともに、成瀬巳喜男が丹精こめて取りあげた作品は、映画界の前景からゆっくりと遠ざかってゆく。成瀬の作品が改めて「発見」されるのには、彼自身の死後、二十余年の歳月をまたねばならなかったのである。》(P18)

・《成瀬巳喜男は、「映画は、封切られてから、一、二週間で消えてしまう」という言葉で、その特徴が儚さにあることを強調したことがある。だが、その言明が彼の生涯で犯した唯一の誤りであったことが、いま明らかになろうとしている。》(P20)

 

<蓮實「寡黙なるものの雄弁――戦後の成瀬巳喜男」から>

「曖昧」

・《成瀬巳喜男の代表作とみなされている『浮雲』の位置は、一見したところ、きわめて曖昧である。中流以下の階級の素朴な生活描写に優れた手腕を発揮するといわれ、ときには「庶民劇」などという言葉でその作風を定義されているこの映画作家が、たとえば『おかあさん』や『稲妻』の舞台となる「庶民」の家庭などをこの作品にはまったく登場させていないからだ。また、『めし』の成功以後、『夫婦』、『妻』、あるいは『驟雨』などの作品で、結婚した男女間の微妙な心理の綾を分析することで、「夫婦もの」と呼ばれるべきジャンルを確立したとされる成瀬が、この作品では結婚という主題そのものを視界から遠ざけているからでもある。さらには、『女が階段を上る時』や『妻として女として』に代表される「水商売もの」の雇われ女将のように、男たちに媚を売ったり、彼らの欲望に弄ばれるようなこともないからである。だとするなら、『浮雲』は、成瀬巳喜男にとって例外的な作品とみなされるべきなのだろうか。》(P62)

・《豊かな陰影をこめて高峰秀子が演じている『浮雲』のヒロインは、落ち着くべき家庭もなく、夫と呼ぶべき男性も持てず、だからといって異性にへつらうこともない一本気な女として描かれている。彼女は、他人の家庭を崩壊させかねない自分の振る舞いに深く悩んだりすることもなく、妻のある男と二人だけの時間をすごしたいという執拗な意志をひたすらはぐくみ続ける。戦時中の仏印のジャングルから戦後の焼け野原まで、伊香保のうらぶれた旅籠から伊豆の温泉宿まで、そして雨季の屋久島の殺風景な宿舎へと、彼女はいっときもこの意志を見失わぬままに流浪し、そのあげくに病に倒れ、駆けつけた男に見とられて静かに息をひきとる。》(P62)

・《その死の床のまわりには亜熱帯の湿った嵐が吹き荒れ、「庶民劇」にふさわしい行商人が物を売り歩く下町の街並みもなければ、「夫婦もの」にふさわしい買い物帰りの女たちが無言で歩む一本道やたて込んだ細い路地もなく、「水商売もの」の舞台装置を彩る虚飾のネオンサインも輝いてはいない。こうして、その最後のイメージにおいて、『浮雲』のヒロインは成瀬巳喜男ならではの「庶民」からも、「夫婦」からも、「水商売」からも思い切り遠い世界へと孤独に旅だってゆくかにみえる。》(P63)

・《『浮雲』が示唆しているのは、成瀬巳喜男にとっての映画が、家庭を遠く離れた一組の男女だけで成立するという事実にほかならない。》(P63)

 

「二間続きの部屋」

・《部屋に落ちかかる照明の作品ごとの微妙な変化は、美学的な要請であると同時に、登場人物の経済的な背景をほとんど唯物論的に反映する視覚的な細部をかたちづくることになる。》(P66)

・《成瀬巳喜男の映画がしばしば舞台装置としているこの二間続きの生活空間は、日本のある時期のしかるべき和風の建築様式の再現ということもあろうが、それにもまして、監督がキャメラを向けようとする人物たちを、心理的というよりむしろ経済的に規定するものなのである。》(P66)

・《『浮雲』のヒロインが家庭を持たず、結婚とも無縁な存在だということは、彼女がこうした生活空間のなめらかな連続性の中に位置することを拒む人物だということを意味する。彼女は、そこから排斥されているというより、そうした空間に位置することを意図して回避しているかに見える。

 実際、高峰秀子は、まず、東南アジアの熱帯雨林の木洩れ日の中で、男との最初の愛を確かめあう。それは回想として語られる挿話にほかならず、物語そのものは、戦後の混乱期の日本の首都で、彼女が焼け跡の住居に男を訪ねるところから始まるのだが、玄関さきでのその妻との気づまりなやりとりの後に、戦争直後の荒廃しきった街路を誘いだした男とたどりながら、盛り場の小さな旅館で初めて二人だけの時間を見いだす。その小さな部屋に身をおいた男女に対して、生活の連続的な空間性をきわだたせる演出が行なわれていないことは、誰の目に

も明らかだろう。男に肩を寄せて並んで歩いていても、男とともに粗末なテーブルを囲んでみても、窓辺にたたずんで戸外に視線をはせてみても心の安定が見いだしがたいのは、成瀬巳喜男が、いまみた二間続きの構図の中にヒロインの人物像を描きだしてはいないからだ。》(P67)

・《実際、娼婦同然の生活に陥り、蝋燭しかない仮説のバラックに男を迎え入れたりする高峰秀子に向けられたキャメラは、照明からしても、奥行きの不在という点からしても、彼女を二間続きの日本間とはまったく異質の空間に位置づけている。不意に狭くるしい下宿に姿を見せて男を戸惑わせたりするときも、自殺するといって男を地方の宿に呼びつけるときも、死ぬ気で男とともに温泉町に逗留するときも、そこに二間続きの生活空間が姿を見せることはないだろう。》(P68)

・《ヒロインの思いつめたような表情にわずかな安堵感が漂うのは、鉄道や船を乗り継いで亜熱帯の孤島まで落ち延びようとするときからでしかない。実際、混雑した車内で男に身をあずけたまま眠りふけっている彼女を正面からとらえたショットは、ほんの短く挿入されているにすぎなくとも、充分すぎるほど美しい。長旅に疲れて眠りこけている男の存在をかたわらに感じながら、車窓を流れる風景に目をやっている女をとらえたショットも文句なくすばらしい。だから、島への出発を待つ鹿児島で病に倒れ、男に介抱されて力無く布団に横たわるしかないヒロインの無表情な相貌に初めてやすらぎの影がよぎるとき、見ている者は思わずほっとため息をつく。》(P68)

 

「生活空間を遠く離れて」

・《『浮雲』の最後で人が目にするものは、何の飾りけもない殺風景な風景で息を引き取ろうとする病床の若い女と、それをなすすべもなく無言で見まもるしかない中年の男性ばかりである。二人の間に、言葉はおろか、視線さえかわされることがない。男にできることといえば、東南アジアの熱帯雨林での最初の出会いを回想しながら、動こうともしない女の唇に口紅を塗ってやることぐらいだ。舞台は、日本の南端に位置する亜熱帯の孤島に設定されており、そこには電気さえ通っていない。戸外には夕暮れ近くの嵐が吹き荒れている。

 だが、アルコール・ランプに照らしだされる二人の翳りをおびた孤立ぶりは、これという装飾もない無味乾燥な室内装飾がそうであるように、そうした特殊な地理的条件とも、例外的な気象状況とも、原作となった小説の描写ともいっさい無縁である。彼らは、あらゆるものから見放されたかのような無防備で、同じ時間と同じ空間を共有しあう一組の男女としての時分を受け入れているにすぎない。そこには、それさえあれば映画が成立すると成瀬が信じている男と女が、途方もない豊かさを実現しうる希有の単純さとして露呈されている。だから『浮雲』を見るものは、その最後での二人の男女の孤立が、豊かな単純さへの確固たる意志が導きだした一つの実践的な形式であることを理解せざるをえない。

 成瀬巳喜男にとって、映画が成立するためには、何よりもまず、画面を構成するすべての要素が一組の男女に還元されねばならない。『浮雲』の最後で、女の身を気遣う近隣のものたちが、男の指示でことごとく部屋から遠ざけられているのは、そのためである。実際、ここでは、すべてが呆気ないほど簡素な構造におさまっており、画面に息づまるような震えを導入するのは、森雅之が床からたぐりよせてそっと枕元に置く何の変哲もないランプばかりなのだ。それが投げかける弱い光を受けとめながら、ことによると、成瀬巳喜男は、男と女をつつみこむこの光によって映画を定義しようとしているのかもしれないと人はつぶやく。》(P70)

・《実際、あくまでもつつましい動きで位置を変えるこの鈍い光源が死の床に横たわる高峰秀子の表情に微妙な照明を投げかけるとき、誰もがそう思わずにはいられない。視線を交わしあうことすらなくなった二人に向けられるキャメラが、それぞれの顔を微妙な陰影の推移の中に浮かび上がらせ、そこに、映画史上最も美しいクローズ・アップの一つが生まれ落ちることになるからである。二人の不運な境遇をここまでたどってきた者たちは、終わりを迎えつつある物語が煽りたてる情動の高まりを超えて、薄暗がりに浮かびあがる女の相貌のものいわぬ白さに無媒介的に惹きつけられる。》(P71)

・《成瀬巳喜男の演出が冴えわたるのは、キャメラ玉井正夫と、照明の石井長四郎と、美術の中古智のたぐい稀な技術的達成に支えられながら、光という単純な要素だけで男女をつつみこもうとする瞬間である。この寡黙な雄弁さともいうべきものが、映画だけに許された豊かな単純さにほかならず、成瀬巳喜男はそれに身をまかせる喜びを知っている数少ない映画作家の一人なのだ。》(P71)

・《物語の水準でいうなら、事態は必ずしも単純なものとはいえない。女の最期を見とるこの優柔不断な男にはれっきとした妻がいた身であり、行きずりの情事の相手となる女も一人や二人でなかったことを、見るものは知っているからである。だが、決して単純なものとはいえないこうした劇的状況の内部で、監督は、宿命的な出会いを演じた男女を、空間的にも時間的にも、あえて孤立させている。『浮雲』にとどまらず、彼の作品には、主人公たちの意志というより周囲の状況に身をまかせることで、一組の男女が不意に二人だけの空間と時間を見いだし、たがいの存在を身近に確かめあおうとする場面が決まって挿入されている。そんな二人にキャメラを向けるとき、成瀬巳喜男は、それこそが映画の豊かさの証左にほかならぬというかのように、そのシークェンスを特権的にきわだたせずにはいられないのである。》(P72)

 

・「病に倒れる」「看病」「木漏れ日の下での出会い」「並んで道を歩くという再会」「移動画面」「遁走」「たびかさなる転居」「父親の不在」「母系家族」「寝穢(いぎたな)く」「せっぱつまった関係」「ためらいを欠いた思い切りのよさ」(P74~。いくつかのキーワード)

 

「凄惨さ」

・《その一連の仕草にキャメラを向けるとき、女たちが演じ立てるおだやかな凄惨さともいうべきものへの成瀬巳喜男の異常な執着が生なましく目覚めるかのようだ。彼は、男なら逃げてしまうであろう気づまりな対話や居心地のよくない出会いを、思い切りよくはしたなさに徹してみせる女たちのためらいの不在を擁護するかのように、真正面から揺るぎなくキャメラにおさめる。》(P104)

・《成瀬巳喜男の的確な演出は、目をそむけずにはいられない凄惨な女の修羅場を、ありうべき現実の再現には到底おさまりがつかぬ透明な虚構として、何度でもスクリーンに推移させてみせるだろう。それが、世界で誰もやったことのない寡黙な雄弁さともいうべきもので映画をひときわ輝かせる。》(P104)

                                 (了)

 

          *****引用または参考文献*****

蓮實重彦山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』(蓮實重彦「二〇〇五年の成瀬巳喜男――序にかえて」、「寡黙なるものの沈黙」、ジャン・ドゥーシェ「成瀬について」、ベルナール・エイゼンシッツ成瀬巳喜男におけるさまざまな移動――日本を縦断して」、玉井正夫「成瀬さんの本領は、一歩歩いて振り返る、独特の振り返りのポジションですね」、中古智「美術監督の語る成瀬巳喜男」、吉田喜重「反転する光と影、あるいは人間の別離をめぐって――小津安二郎成瀬巳喜男」、他所収)(筑摩書房

高峰秀子『わたしの渡世日記』(文春文庫)

川本三郎成瀬巳喜男 映画の面影』(新潮社)

川本三郎林芙美子の昭和』(新書館

*スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のきらめき』(キネマ旬報

村川英編『成瀬巳喜男 演出術――役者が語る演技の現場』(ワイズ出版

*中古智/蓮實重彦成瀬巳喜男の設計――美術監督は回想する』(筑摩書房

田中澄江他編『成瀬巳喜男――透きとおるメロドラマの波光よ(映畫読本)』(「[対談]『浮雲』について 成瀬巳喜男高峰秀子」(「日刊スポーツニッポン」昭和29年12月24日)、「『浮雲』撮影台本より」、「金子正且 プロデューサーが語る、企画・キャスティング術」他所収)(フィルム・アート社)

林芙美子浮雲』(新潮文庫

*『日本文学全集41 岡本かの子林芙美子宇野千代』(筑摩書房

*『林芙美子全集16』(「「浮雲」あとがき」所収))(文泉堂出版)

*『マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家』(吉田喜重「モラルと反モラルのはざまで」、郷原佳以「三角関係の脱臼――書くことと愛、ブランショとデュラス」所収)(河出書房新社

*『ユリイカ 増頁特集 マルグリット・デュラス』(ミッシェル・フーコー/エレーヌ・シクスス「外部を聞く盲目の人デュラス」、ジャック・ラカンマルグリット・デュラス賛――ロル・V・シュタインの歓喜について」、瀬戸内寂聴「デュラス、愛と孤独」所収」(青土社

*デュラス『愛人 ラマン』清水徹訳(河出文庫

*デュラス『私はなぜ書くのか』聞き手レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ、北代美和子訳(河出書房新社

瀬戸内晴美前田愛『対談紀行 名作のなかの女たち』(「『放浪記』と林芙美子」所収)(角川選書

*『ちくま日本文学020 林芙美子』(「解説 慰藉の文学 田辺聖子」所収)(筑摩書房

田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子 秋灯机の上の幾山河』(朝日新聞社

田辺聖子『ほのかに白粉の匂い 新・女が愛に生きるとき』(「冷酷な男の色気――林芙美子浮雲』の富岡」所収)(講談社文庫)

菅聡子林芙美子『戦線』「北岸部隊」を読む ―戦場のジェンダー、敗戦のジェンダー」(「表現研究」92号)

林芙美子『戦線』(中公文庫)

林芙美子『北岸部隊』(中公文庫)

 

映画批評 小津安二郎『彼岸花』論

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    小津安二郎彼岸花』論

                       

<里見弴/小津安二郎

 映画『彼岸花』に白と赤の文字で「原作里見弴」と流れる。だが一緒に湯ヶ原に泊り込んで、テーマと人物設定を共通項に小津と相棒野田高梧が脚本を、里見が小説を書きあげたという。『文藝春秋』昭和三十三年六月号に小説『彼岸花』は発表され、早くも九月には映画が封切られている。

 小津的世界は尊敬した志賀直哉より、人情の機微をとらえた心理観察、会話のうまみ、骨董のような味わいから名人芸とされた里見に近い。

 

原節子山本富士子

 ヴェンダース吉田喜重蓮實重彦らに逆らって、小津作品はそれほど好きではないと発言することは危険である。そのうえ『晩春』における京の宿の月夜においてさえ、原節子に泥濘に浮く蓮の花のごとき美を感じられないから、と言ってしまえば身も蓋もないのだが、原は小津の娘といってもよい目鼻立ちではないか。

彼岸花』の魅力、それはひとえに二十七歳の山本富士子の大輪の花の華やぎ、茶目っ気による。

 

<『東京暮色』/『彼岸花』>

 成瀬監督作『浮雲』に感動してのメロドラマ、救いのない鬱勃とした『東京暮色』の失敗を厄払いするかのように、『彼岸花』は『夜の河』で演技開眼した大映の山本を三十五日間だけ松竹大船に借りてきて制作された。アドリブを許さない厳格なフォルマニスト小津が本来もっていたヒューモア・含蓄・遊び心が、「天下の美女」をえたハシャギとして小津初のカラー撮影でひき出される。

「山本君は非常にいい。さすがは大映の看板スターだ。演技の説明なんか口でいえるものではないので僕は黙っていたのだが、山本君はこちらの演出意図をすぐのみこんで僕のイメージに合った芝居をしてくれる。演技のカンがいいし、変なクセがなく素直だ。まだまだ伸びる人だね。僕はメロドラマのヒロインとしての山本君しかみたことがないが「彼岸花」では彼女から三枚目的なユーモラスな画をひき出してみようと試みたわけだ。これは成功したと思う。」

 

イーストマン/アグファ

 小説には《あのね、往きには気づかなかったんですけど、帰りの電車で、程ヶ谷へんからかしら、あっちこっち、真ッ盛りの彼岸花で》とあるが、映画では題名の由来がわからないほどだ。

 しかし赤が好きな小津は、構図上その色感が欲しいばかりに赤いケットルを文法を無視してショットごとに置きかえた。山本は赤色の帯、八掛、風呂敷包みで登場する。イーストマンの原色っぽいカラーを三度三度の天丼のようと嫌って、渋いアグフア・フイルムを採用した。

 

<「そうかい」/「もういいの」>

 たわいもないストーリーだ。後期作品で繰りかえされる複数の家族の交錯。

平山(佐分利信)、妻清子(田中絹代)と長女節子(有馬稲子)、次女久子。平山の京都での定宿の女将佐々木(浪花千栄子)と娘幸子(山本富士子)。平山の旧友三上(笠智衆)と家出した娘文子(久我美子)。節子は自分で選んだ谷口(佐田啓三)と結婚したいのに父が反対する。しかし母や幸子は理解し味方する。結局、父は説得されてしまう。

 監督いわく「親が自分の娘を嫁にやる場合、他人の娘の場合なら冷静になれるのに自分の娘となるといつまでも子供に思えて仕方がない……。つまり人生は矛盾の総和だといわれているが、そういった矛盾だらけの人生というものに焦点を合わせてみたい」

 小津はことさらのドラマを嫌っていたが『彼岸花』はホームドラマと名付けてよい。ゆえに日常些事のスナップ、社会的問題と無縁なブルジョア趣味との若手批判を受けるが、家族的エゴイズムを「そうかい」「もういいの」に象徴される反復とずれの連鎖のうちに人格へ作り上げたところにその成功があった。

 

フェルメールプルースト

 モーリス・パンゲ「小津安二郎の透明と深さ」から。

《小津の作品は、その透明さという点でフェルメールを想起させる。(中略)書きかけられた手紙、手に触れられた道具、開かれた窓、もっとも清澄なる形式の中で中断されたままであるそれらのイマージュは、我々の心の中に沈黙の涙を流し込む。我々の生は意味をもつのか、世界は現にあるがままで存在する価値があるのか。》

《小津にとって昭和の家庭は、より遠い目標に到達するための一手段であるにすぎない。彼が対象に執着するのは、あくまで対象それ自体が溶解していく深さを喚起するためなのだ。(中略)プルーストの作品と同じように小津の作品も、愛によって心が感ずるようになる時間の喚起である。》

 

<眼に見えるもの/音として響くもの>

 ドゥルーズ『シネマ2』の[ Sur  Ozu]から。

《小津は手法(モンタージュ=カット)の意味を変えてしまう。それは今や物語の筋の不在を証し立てるものとなる。すなわち映像=行為は消滅し、かわって、登場人物のあるがまま(・・・・・)の姿の純粋に視覚的な映像と彼が喋る(・・)事柄の音響的な映像、つまりシナリオの本質的部分をかたちづくる月並みきわまる人格と会話が現われることになる。(中略)視覚記号に非常に特殊な延長とは、このようなものである――時間を、思想を感知可能なものとすること、眼に見えるもの、音として響くものとすること。》

 

<「ほんま。筍、悪い方どすわ」/「トリックどすのや」>

 紅型に映える、声のよい山本のおきゃんな京都弁。

「ほんま。筍、悪い方どすわ」「違いまンなぁ京都とは。空の色まで……」「ギリギリギッチョン、ボ」「セングリセングリ妙なお婿さんばっかり探して来て」「今の話、みんな嘘どすのや。トリックどすのや」「へえ。一世一代の大芝居や。どうどす。うち、名優どっしゃろ」

 

<自分/人生>

 脚本・撮影・編集を論じきったドナルド・リチー小津安二郎の美学』はこう結ばれる。

《登場人物とひとときを過ごした私たちは、彼らと別れがたい思いにかられるのを知る。私たちは登場人物を理解し、その結果、愛するようになったのである。そしてこの理解によって私たちは自分をもっとよく知るようになり、そしてそのことによって、人生をもっとよく知るようになるのである。》

彼岸花』からわずか五年後の昭和三十八年、フリーを望んだ山本は五社協定大映を干されてテレビ・舞台ヘ移り、「芸術のことは自分に従う」をモットーとした小津は還暦を迎えた日に人生を終える。

 山本の出番の最終日、小津は里見邸で送別の宴を開いた。山本は小津に手紙を書く。

《皆様とお別れしまして京都に参る自動車の中で幸福感で一杯……温かなものが満ち溢れている様な……》

                               (了)

      *****引用または参考文献******

*モーリス・パンゲ『テクストとしての日本』竹内信夫他訳(「小津安二郎の透明と深さ」所収)(筑摩書房

*里見弴『初舞台・彼岸花』(講談社文芸文庫

蓮實重彦責任編集『季刊 映画リュミエール4』(ドゥルーズ「不変のフォルムとしての時間」松浦寿輝訳所収)(筑摩書房

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版会)

ドナルド・リチー小津安二郎の美学』山本喜久雄訳(フィルムアート社)

蓮實重彦『監督 小津安二郎 (増補決定版)』(筑摩書房

佐藤忠男小津安二郎の芸術(上下)』(朝日選書)

文学批評/映画批評 カズオ・イシグロ『日の名残り』論

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カズオ・イシグロ日の名残り』論

                                

[序 サルマン・ラシュディの『日の名残り』書評]

 

 サルマン・ラシュディによるカズオ・イシグロ日の名残り』の書評は、丸谷才一編著『ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内』の「執事が見なかったもの」という題で読むことができる。

カズオ・イシグロの新作は、表面だけ見ているとほとんど物音ひとつしない。とうに壮年期を過ぎた執事スティーブンスが一週間、イングランド西部へ車で休養にでかける。彼はのんびり車を走らせながら、風景を眺め、自分の生涯を顧み、一九五〇年代のイギリス映画から抜け出してきたような、田舎の陽気な人々につぎつぎに出会う。折り目のついたズボンをはき、母音をあいまいに発音する紳士に向かって、下層階級がうやうやしく帽子をぬぐような世界だ。事実、この作品の時期は一九五六年七月なのである。だが、時代をこえたもっと他の世界、ウッドハウスの小説の召使いジーヴズの主人ウースターや、テレビの人気番組「階上と階下(階上は金持ちを、階下は貧しい人々を指す)」の執事ハドソンや料理女ミセス・ブリッジェスの世界、ジョージ・エリオットの『牧師館物語』での執事と女中頭のベラミー夫妻などの世界の雰囲気も感じられる。

 たいした事件は何も起こらない。スティーブンス氏の小旅行の山は、ダーリントン・ホールの元女中頭だったミス・ケントンを訪ねる箇所で、ダーリントン・ホールとは、すでにダーリントン卿からファラディという、よく軽口をたたいて人をまどわせる陽気なアメリカ人に代わっているものの、いまなおスティーブンスが「設備のひとつ」として働いている大邸宅である。スティーブンスはミス・ケントンを説得して、またダーリントン・ホールへ復帰させたいとおもっている。その期待は実らず、彼はひきかえす。ささやかな出来事ばかりだが、では、最後にちかくウェイマスの桟橋で、年老いた執事が赤の他人の前で泣くことになるのはなぜなのか。その赤の他人がこの執事に向かって、のんびり休んで晩年を楽しんだらと言っているのに、この陳腐だとはしても賢明な忠告にスティーブンスが従えないのはなぜか。彼の晩年がめちゃくちゃになった原因は何なのだ。

 この小説は表面的には穏やかで表現も押さえられているものの、一皮むけば、地味ながら大きな動揺が隠れているのである。『日の名残り』は実をいうと、一見その祖先のようにみえる小説の形式をみごとにひっくり返した作品なのだ。ウッドハウスの世界には、死とか変化、苦痛、悪といったものが入っている。歴史の積み重ねのなかで神聖なものとなった主従関の紐帯、両者の生き方の規範、こういうものはすでに規範としての絶対性を失い、むしろ荒廃した自己欺瞞の源になっている。陽気な田舎者たちにしても、蓋をあけてみれば戦後の民主主義的な価値観や集団の権利の擁護者となっているのでは、スティーブンスやその同類は、すでに悲喜劇的な時代おくれと化してしまったのだ。

「自分が奴隷じゃ、品位なんか持てやしないよ」と、スティーブンスはデヴォン州で泊まった家で言われる。だがスティーブンスの生涯にとっては、品位とは自分を殺して職務に励み、自分の運命を主人の運命にゆだねることだったのだ。では、権力とわれわれの関係の実態はどういうものなのだろう。われわれは権力の召使なのか、主人なのか。イギリス的であるとはどういうことか? 偉大さとは何か? 品位とは何か?――こういう大問題を精妙に、しかも底には曇りのない現実的な目を秘めながらユーモラスに提示したのは、イシグロの小説の希有な手柄である。

 ここで語られているのは、実は自分の人生観の土台だった思想によって滅びた男の物語なのだ。スティーブンスは「偉大さ」という概念に固執している。彼はそれを抑制に似たものだと思っている。(イギリスの風景の偉大さは、アフリカやアメリカの風景の「これ見よがしの品のなさ」がないところにある、と彼は信じている。)偉大さとはこういうものだとしたのは、やはり執事だった彼の父である。だが、父子のあいだの愛情が壊れたのはまさに、この概念が二人のあいだに立ちはだかって怨みの元となり、気持ちが通じなくなったからだったのだ。

 スティーブンスに言わせると、執事が偉大かどうかは、「職業人としての自己を棄てずにいられる能力と決定的にかかわっている」。これがイギリス的性格につながるのである。ヨーロッパ諸国の人間やケルト民族は、ちょっとしたことでも「騒ぎたてる」性格のせいで、立派な執事にはなれない。だが、スティーブンスはこういう「偉大さ」に憧れていたばかりに、一回きりのロマンティックな愛のチャンスを逃してしまった。自分の役割に埋没していたために、彼はかつてミス・ケントンを他の男に走らせてしまったのである。「どうして、あなたはいつでも『嘘をついて』いなければならないの? なぜ?」彼女は絶望して問いつめた。彼の「偉大さ」の正体は仮面か、臆病さか、嘘にすぎないことが、あきらかになったのである。

 彼の最大の挫折をもたらしたのは、そのもっとも深い確信だった。主人は人類の幸福のために働いているのであり、自分の名誉はこの主人に仕えることにある、と彼は信じていた。ところが、ダーリントン卿は間抜けなナチ協力者という汚名を背負って生涯を終えた。安っぽい特価品のペテロのようなスティーブンスは、すくなくとも二度は卿を拒んだけれども、主人の失墜によって消すことのできない汚名を負った気持ちになった。ダーリントン卿もスティーブンスと同じく、みずからの倫理規範によって滅びたのである。彼はヴェルサイユ条約の苛酷さは紳士的でないと考えたからこそ、ナチ協力者の悲運に走ったのだった。理想主義もまた冷笑主義におとらず、決定的に破綻することがあるのだ。

 だが、すくなくともダーリントン卿はみずからの道を選ぶことができた。「わたしにはその権利もない」とスティーブンスは呻く。

「いいかね、わたしは『信じた』のだ……ところが、自分で過ちを犯したとさえ言えない。それでは品位などどこにあるとほんとうに言いたくなるよ」。彼の生涯は愚かしい過ちだったのだ。ただひとつそれを弁護できるものは、かれに破綻をもたらしたあの自己欺瞞の才能だけである。これは、美しいと同時に残酷な物語にとって、残酷だが美しい結論ではないか。

 イシグロの最初の長編『女たちの遠い夏』(筆者註:のち邦題は『遠い山なみの光』に改題)の舞台は戦後の長崎だったが、原爆にはふれていない。新作の時期は、ちょうどナセルがスエズ運河を国有化した月にあたっているのだが、スエズでの失敗はイギリスの終焉を表すひとつの事件だったにもかかわらず、イギリスの衰退をひとつの主題としているこの小説は、その危機にふれていない。日本を舞台にした第二作『浮世の画家』も、戦争協力、自己欺瞞、無意識の自己表出という主題をあつかい、その中で想起される建前と品位の概念をあつかっていた。イギリスと日本は、表面はそれぞれにいささか不可解でも、じつはそれほど隔たっていないのかもしれない。》

 

 丸谷才一ラシュディの書評を次のように讃えた。

《最後に彼が言ふ、日英両国の小説における沈黙の技法など、まことに興味深い話題であらう。それはアンダーステイトメント、つまり抑制のきいたものの言ひ方に通じる技法である。》 

 同じくらい精妙な技法として、イシグロについてよく言われる、そして本人も有効な小説の技法(手法)だとくりかえし語っている「信頼(信用)できない語り手」についての言及がないのはどうしたことだろう。

 

カズオ・イシグロの文学白熱教室」でイシグロ自身が語っている。

《それでは次に「物語を記憶を通じて語る」というテーマに入りたいと思う。 これは物語を語る上でフィクションで使われる一つの手法で、テレビドラマや映画とは全く違うものだ。紙の上でしか描くことができない。読者も小説を読まないとこれを体験できない。だから私は小説を読むべきだと言えるのだ。 

この体験は、小説という形だからこそ得られるもので、他の形では得られないからだ。こうして私はこの手法を用い始めた。筋書きに固執して時系列に話を展開することよりも、語り手の内なる考えや関係性を追って書き出した。ジャーナリストなら信頼できないことは最悪だ。だがフィクションでは信頼できないことで面白いことが起きる。 

例えば人間は何かを思い出す時、その記憶はゆがめられている。不愉快なことはすり替えている。自分を少し誇張したりもする。フィクションで記憶を取り入れることによって「なぜ人は信頼できないんだろう?」という疑問が湧き上がる。

 「どういう時に信頼できないのだろうか?」「何かを隠そうとする理由は何なのか?」「逃げ出そうとする理由は何なのか?」「なぜ物事を変えたいと思うのか?」 

私は「信頼できない」ことは、小説家にとって非常に力強いツールだと思った。私が言う「信頼できない」とは、私たちの現実の世界で起きていることだ。人は真剣な話、重要な話をする時、実は信頼できないのだ。10代になれば、あるいは大人になればなおさら、我々はある種の達人になっている。私たちに語りかけている人は信頼できる語り手じゃないと分かっている。 

 例えば学生時代の友人にばったり出会って、君はこう言う。「やあ、元気にやっているか?離婚したって聞いたよ」「ああ、でも離婚してよかった。これ以上最良な方法はなかったよ。前より自由になったし、人生も上向きになってきた」と友人が答えたとしよう。よほどの馬鹿者じゃない限り「ああ、よかった。大丈夫なんだな」と思う人はいないだろう。それは「方便」だと分かっているからだ。 

 人は本心を明かさず、少し飾って話すことが多い。そんなことから、私たちは社会で生きているだけで物事を読み取る達人にもなっているのだ。だからフィクションを書いている時、信頼できない語り手や信頼できない物語の進行役を用いると、読者は読み取るスキルを使うことになる。現実の世界で自分を取り巻く世界や人に対して使うように。 

 私が非常に興味を持っているのは、人が自分自身に嘘をつく才能だ。他人に嘘をつくつもりがなくても、本当ではないことを言ってしまう。そのような信頼できない状態は、フィクションを書くにあたって非常に有効で、フィクションにピタリとはまる手法だと思う。》

 

 デイヴィッド・ロッジは『小説の技巧』で、『日の名残り』を例にとって(もう一つはナボコフ『青白い炎』)「信用できない語り手」についての分析をした。 

 デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』の「信用できない語り手」から。

《「信用できない語り手」とはつねに、みずからが語るストーリーの一部を成す登場人物である。信用できない「全知の」語り手というのはほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であるということ――を再確認させるにすぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。

 信用できない語り手を用いることの意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるとい点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実演してみせるのだ。そうした欲求には、かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。カズオ・イシグロの作品の語り手にしても、決して悪人ではない。だが彼の人生は、自分と他人をめぐる真実を抑圧し回避することに基づいて進められてきたのだ。その語りは一種の告白だが、そこには、欺瞞に彩られた自己正当化や言い逃れがあふれている。最後の最後になって、自分についてある種の理解に到達するものの、その時にはもう、そこから何かを得るには手遅れだ。》

 

日の名残り』のライトモチーフのひとつは「信用できない語り手」による「盲目」性に違いなく、映画と小説を比較検討することでより明瞭になる。

 

 

[『日の名残り』を読む/見る]

 

 アンソニー・ホプキンスが執事スティーブンスを、エマ・トンプソンがミス・ケントンを演じたジェイムズ・アイヴォリー監督『日の名残り』(一九九三年)は優れた映画ではあるけれども、原作小説(一九八九年)と違って「信用できない語り手」の存在は感じられず(ということは「信用できない作者」もまた感じられない)、そこに「盲目」性はなく、はっきりと見えすぎている。あるいは、映画は見せすぎている、と表現すべきか。ラシュディの書評は、映画評であってもあってもおかしくない(正確に言えば、映画はラシュディ評のスエズ危機を語ってしまうなど抑制的ではない)。

 他にもいくつか重要な異同がある。旅に出るスティーブンスがアメリカ車フォードではなく、ドイツ車ダイムラーを主人から借りることも、かつてのナチス・ドイツとの因縁が感じられもするが、目をつぶろう。一人称小説に対して、映画はそうではないことから生じる差異が大きい。「信用できない語り手」がまさにそうだ。「省略」を脚本が補填しすぎている。映画でミス・ケントンがパブで結婚相手ミスター・ベンと逢引するシーンに、一人称小説なら屋敷で勤務中のスティーブンスが同席できるはずはないし、孫が出来るから家に戻ってきてほしいと別居して下宿先にいる妻ケントンをベンが訪ねてくるシーンを旅の途中のスティーブンスが見るはずもない。

 

 イシグロは対談で、映画を気に入っているが、小説とは「異なる芸術作品」で「いとこ」のよう、と形容しているけれども、これもまた抑制された語り口だろう。

《I was very pleased with the film……James Ivory’s The Remains of the Day which is a cousin of my The remains of the Day but it is a different work of art. It’s one I have a lot of affection for.》

 そのうえで、映画は互いの愛の感情を抑え過ぎた二人の物語となっているが、小説は自制、無私についての物語だとしている。

《In the movie, the relationship between the two main characters……was about emotional repression: they loved each other but they were just too repressed……in the book it’s not quite that, it’s about self-denial.》

 

 小説を映画と比較しながら読み進める(ページ数(P)は、カズオ・イシグロ日の名残り土屋政雄訳(早川epi文庫)による)。

 

 

「プロローグ」

 

<隠しても仕方ありますまい>

・(P11)《ところが、それから数日の間に、ファラディ様のお申し出に対する私の気持ちは一変し、頭の中では、西部地方への旅という考えがしだいに大きくふくらみはじめたのです。この急変の原因が――隠しても仕方ありますまい――ミス・ケントンからの手紙にあることは――クリスマス・カードを除けば、この七年間で初めての手紙にあることは――事実です。ただ、誤解なきように願いたいのは、私はミス・ケントンの手紙で職業意識を刺激された、ということなのです。》

⇒「隠しても仕方ありますまい」という素直そうな「露出」的告白によって、「何も隠してなどいない」「隠すような人間ではない」と読者を誘導し、この先の隠された真実を隠蔽する。あたかもフロイトの笑い話の、《あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」》(フロイト全集<8>「1905年――機知」(岩波書店))のような真実の露出をつうじた嘘。

 と同時に、察しのよい読者には、もしかすると「信頼できない語り手」(デイヴィッド・ロッジによる)ではないか、という気づきを与える。小説における隠蔽は完全に隠しきってはいけない、隠蔽ではないかと匂わせることで効果を発揮する。

 主人公である一人称の語り手、執事スティーブンスは、すぐに言訳を付け加えることを忘れない。「ただ、誤解なきように願いたいのは」「職業意識を刺激された」と。読者に、誤解するな、執事は誠実な人間の仕事なのだ、と注意する。

 

<明白な事実に盲目になっておりました>

・(P12)《じつは告白せねばなりませんが、私はこの数か月間に、仕事の上で小さな過ちをいくつか重ねてしまいました。取るに足りない些細な過ちとはいえ、これまでおよそ過ちというものに無縁であった私には、過つこと自体が心穏やかならざることでございまして、その原因についてあれこれと悲観的な考えを抱きはじめたのも、無理からぬこととご理解いただけましょう。こうした場合にとかくありがちなように、私もまた、明白な事実に盲目になっておりました。つまり、ミス・ケントンの手紙に触れるまで、私の目には単純な真実が見えていなかったのです。その真実とは、一連の過ちの原因は職務計画の不備にあって、それ以外のなにものにもない――これでございます。》

⇒読み進めても、仕事上の小さな過ち、一連の過ちが何であったのか、具体的には一向に語られない(ようやくそれらしきことがひとつだけ語られるのは半分以上過ぎてからの、銀のフォークの汚れの件にすぎない)。

 この小説のライトモチーフのひとつは「盲目」である。「信頼できない語り手」によって読者は「盲目」状態におかれたうえに、作者イシグロがあえて語らないこと、「黙説法(パラリプス)」(ジェラール・ジュネット)によって、読者は「盲目」なまま小説を読み進めざるを得ない。

 

 

<ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』>

 バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』は、アガサ・クリスティーアクロイド殺害事件』を基に、心理的な「盲目」について論じている。

《真実は、隠されている反面、読者に手のとどくものでなければならない、しかも読者の目につくところにあるのでなければならない》

⇒イシグロは、あえて冒頭の数頁で、「隠しても仕方ありますまい」に続けて、「私もまた、明白な事実に盲目になっておりました」、「私の目には単純な真実が見えていなかったのです」と読者にヒントを与えつつ挑発する。

《犯人が担う役割(・・)も隠れみのとなる。まずは職業という意味での役割だが、それが社会的な信用度の高い職業である場合にはなおさらである。》

⇒スティーブンスは執事の「偉大さ」「品格」をくどいほど長々と考察して、読者が抱いている執事の社会的信用度を補強する。

《作者は読者の関心を別の指標の方へと逸らそうとする。これはいわば逆向きの偽装である。本物を粉飾して見分けられなくするのではなく、いうなれば贋物をほんとうらしく際立たせ、そちらに注意を向けさせようとすることであるからだ。ここでは隠蔽のこの第二のメカニズムを転嫁(・・)と呼ぶことにする。》

⇒この先の国際会議、秘密会談における執事としての「偉大さ」「品格」を誇示することで、恋愛感情の自制、禁止の《偽装と転嫁は一体化となって機能する》。

《この作品のもっとも重要な隠蔽形式が、語り手と犯人を一体化したことに由来しているというのも事実である。ここでは犯人が、小説全体をつうじて、これ見よがしに読者の目に晒されている。バルトの的確な表現を借りれば、『アクロイド殺害事件』では読者は犯人をいくつもの「彼」の背後に捜そうとするが、犯人はじつは「私」の背後に隠れているのである(*)。((*)「ここでアガサ・クリスティーの小説を思い出してもいいだろう。語りの一人称の陰に犯人を隠すという妙案が売りもののあの小説である。そこでは読者は犯人を物語に登場するすべての「彼」の背後に捜す。ところが犯人は「私」の陰に潜んでいたのである。アガサ・クリスティーは、ふつう小説のなかでは「私」は証言者であり、「彼」が行為者であるということを熟知していたのだ」ロラン・バルト『零度のエクリチュール渡辺淳、沢村昴一訳(みすず書房))》

⇒一人称の映画も可能ではあるが、アイヴォリー監督は大衆的わかりやすさを選んで、キャメラを神の眼としたので、「隠蔽」はなく犯人もいない。

《この小説における発話のあり方はあるあいまいさ(・・・・・)を孕んでいる。そして、アガサ・クリスティーはそれを利用することを完璧に心得ていた。というのも、この小説は独白(モノローグ)的であるため、一人称の語り手はついには全知の語り手のように思われてくるのである。》《語り手の「私」の背後に犯人を隠すというこの手法は、しかしながら、別の二つの手法をともなっていなかったら機能していないだろう。互いに緊密に繋がっている二つの手法、いずれも読者の目を欺くのに不可欠な手法である。その第一は表現のテクニック、第二は物語る内容の取捨選択にかかわる手法である。そして後者がもたらす影響は、前者の場合よりもはるかに広範囲におよぶ。表現のテクニックとは、二重の意味にとれる言説の使用(・・・・・・・・・・・・・・)ということにほかならない。》

⇒「表現のテクニック」としての、ミス・ケントンの泣き声を聞いたときスティーブンスの胸に湧き上がる「不思議な感情」、「名状しがたい感情の渦」という恋愛感情なのかそうではないのかのグレーな多義的表現。

《この小説のトリックを機能させるのに不可欠な第二の手法は、省略による嘘(・・・・・・)である。(中略)省略による嘘はじつは、推理小説における真実隠蔽の四番目のテクニックとみることができる。いずれにしてもそれは先の三大手法(筆者註:偽装、転嫁、露出)にはない特性を実質的にもっている。つまり三大手法が、作品内の現実についての読者の認識を誤らせようとするのにたいして(それが極端なかたちでなされるのが露出の場合である)、省略による嘘は、この現実の一部を読者に伝達しないことで消去してしまうのである。》

⇒「五日目」の不在、「スエズ危機」などなかったかのような「省略」をどう分析すべきか。

《妄想的活動というのはつまるところ、既存の現実を抑圧することであるよりもむしろ、それになんらかの新しい現実を置き換えることであり、解釈はこうした置き換えの運動そのものなのである。》

⇒スティーブンスには「偉大な」「品格」ある執事という職業へのパラノイア性妄想のようなものがある。これがひとたび、二十年ぶりに再会するミス・ケントンに愛されるかもしれない私、に向かうと手紙はどう解釈されるかの症例となっている。しかも、あくまでも執事としての「職務計画」、「スタッフ編成」という「仕事、仕事」にすぎないと転嫁されつつ。

 

 イシグロは『私を離さないで』をミステリー的に読まれること、ネタバレ、タネアカシにばかり興味がゆくのは本意ではない、と発言しているが、『日の名残り』のミステリー性はもっと隠微なもので、いわば「見せ消ち」、メタファー(隠喩)のレベルである。

カズオ・イシグロの文学白熱教室」からメタファー(隠喩)について引用すれば、

《私が好むメタファーは、読者がそれが比喩だと気付かないレベルのものだ。物語に夢中になって物語の行き先ばかりに気を取られて、その背景を冷静に分析したりしないで済むような。そして本を閉じた時に、あるいは思い返した時に気付くかもしれない。人生に直接関係する何かの隠喩だったから、この物語に夢中になったのだと。そのようなメタファー、隠喩が力強く威力を発揮する。》

 

<私の空想の産物だとはとても思えない>

・(P18)《これほど明らかな職務計画の欠陥に、なぜもっと早く気づかなかったのか。不審に思われる方もあろうかと存じます。しかし、長い間真剣に考え抜いた事柄には、えてしてこうしたことが起こるものではありますまいか。なんらかの偶発的事件に接し、初めて「目からうろこが落ちる」ということが……。この場合がまさにそうでした。ミス・ケントンの手紙を読み、その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望――だと私は確信しております――が込められているのを感じなかったら、私は計画を見直さなかったかもしれません。もちろん、あと一人召使がいればどれほど重要な役割を果たせるかにも気づかず、最近のすべての問題がその一人の不在から発生している、という発見もなかったことでしょう。(中略)

 状況をこのように把握してしまえば、先日のファラディ様の御親切な提案を思い返すまでに、さほど時間はかかりませんでした。なにしろ、その自動車旅行がお屋敷のために大いに役立つ可能性が出てきたのですから。西部地方へ旅行して、途中、ミス・ケントンのもとに立ち寄れば、ダーリントン・ホールにもどりたいという願いがどの程度のものか、私から直接確かめることができます。もっとも、手紙を何度読み返してみても、私には、ミス・ケントンの願いが私の空想の産物だとはとても思えないのですが……。》

⇒小説では、ミス・ケントンの手紙は、もっぱら一人称の語り手スティーブンスの意識を通して語られる。「その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望――だと私は確信しております――が込められているのを感じなかったら」との「解釈」や、「もっとも、手紙を何度読み返してみても、私には、ミス・ケントンの願いが私の空想の産物だとはとても思えないのですが……」との「妄想」かもしれない何かを、読者はひとまず信用して小説を読み進める(このさきスティーブンスの口調が弱含みになってゆくたびに眉を顰めることとなるとは知らずに)。そもそも「目からうろこが落ちる」だったのだろうか、「現実を置き換えること」を密かに待ち望んでいたのではないのか。

 

 映画では冒頭でいきなりミス・ケントンが自分の声で手紙を読みあげ、何もかも疑いようなく曝け出してしまう。

《スティーブンス様

 長いご無沙汰をいたしました。

 ダーリントン卿がお亡くなりになって、跡継ぎの新伯爵は広大なダーリントン・ホールを維持することができず、お屋敷を取り壊して、石材を5000ポンドで売りに出すという記事を新聞で読みました。

“反逆者の屋敷 取り壊し”というひどい見出しもありました。

 ホットしたことに、ルイスという米国の富豪がお屋敷を救い、あなたもお屋敷に留まれるとか。1936年の会合に参加されたあのルイス下院議員ですか?

 そちらで働いていたあの頃を懐かしく思い出します。仕事は忙しく、あなたは気難しい執事でしたが、私の人生で一番幸せな日々でした。

使用人の顔もすっかり変わった事でしょう。あの頃のように大勢のスタッフも今は必要ないでしょう。

 私の近況は暗いものです。7年前にお便りをして以来、夫とは結局破局を迎える事になりそうです。現在は下宿住まいの身です。

 将来はどうなるのか。娘のキャサリンが結婚し、空虚な毎日です。この先の長い歳月、自分を何かに役立てたいと思うこの頃です。》                                                             

 さすがにダーリントン・ホールに戻りたい、とまでは語らせないとはいえ。

 

 ここで何気なく提示されているのは、屋敷の新しいアメリカ人の持主が、小説のファラディではなく、ルイス議員(小説では、一九二三年のダーリントン・ホールでの国際会議に出席して晩餐会で「アマチュア」警告発言をした)が横滑りしていることだ。(スティーブンスの父が転倒するシーンで、映画ではダーリントン卿があづまやで国際会議に向けて三人で打ち合わせをしていて、ルイス議員の素性が話題になる。小説ではペンシルベニア州出身としか語られないが、映画ではジョセフ・P・ケネディ(相場、不動産、禁酒法などで厖大な富を得た資産家で、ルーズベルトの大統領選資金援助をした功績から一九三八年から四十年まで駐英アメリカ大使となる。小説、映画とは違ってナチス・ドイツ融和政策主義だった。J・F・ケネディの父)の時間を前倒しさせた似姿としてルイスに重ねて描いていて、そこには英国貴族階級の成金への揶揄が色濃くにじむ。

《「アメリカからは同じ日にルイス下院議員が到着する」「どういう男かね?」「詳しくは知らんがペンシルベニア州の若手議員だ。有力な外交委員会の委員で富豪の御曹司という話だ」

「精肉業か?」「車両製造?」「繊維製品? 具体的に何を?」「とんだボロ儲けしたのさ」「私の聞いた話では化粧品で財を築いたと」》)。

 しかも国際会議は一九二三年ではなく、ミス・ケントンの記憶では一九三六年?にシフトされてしまった(小説にはない映画のラストの、ダーリントン・ホールの卓球台が置かれた部屋に鳩が迷い込んだシーンで、旅から戻ったスティーブンスにルイスが一九三五年の晩餐会の場所なのを覚えているか、と語りかけるので、正しくは一九三五年のようだ)。

 この一九二三年と一九三五年との、ナチス台頭前と後との、決して合体してはならない致命的に大きな歴史的差異は後述する。

 

  さらに映画では、小説で巧妙に省略されているスティーブンスのミス・ケントン(結婚後の名前ミセス・ベン)への出発の知らせと、現在のスタッフ不足、彼女のかつての仕事ぶりへの賛辞の返信までも明示されてしまう。

《ミセス・ベン

 10月3日の4時頃そちらの町へ。その前夜コリングバーンに一泊します。村の郵便局に連絡を入れておいて下さい。

 あなたの記憶力には今も驚かされます。現在の私の雇い主は政界を引退したあのルイス議員です。ご家族も間もなく屋敷に来られる予定です。そこで問題になるのがスタッフ不足です。

 ここで改めてあなたに賛辞を呈します。結婚で去られて以来、あなたに勝る有能な後任者はいませんでした。》

 

<体面を汚さない>

・(P20)《これほど服装にこだわる私を、鼻持ちならない気障(きざ)とみなす方もございましょうが、そうではありません。旅行中には、身分を明かさねばならない事態がいつ生じるかわかりません。そのようなとき、私がダーリントン・ホールの体面を汚さない服装をしていることは、きわめて重要なことだと存じます。》

⇒たしかに立派な服装は絶大な効果を地方の人々に与えることとなる。ダーリントン・ホールの体面を汚さないという感情は、執事であることを自慢したい自分の体面と綯交ぜになっている。

 

「The Paris Review」のインタビューから。

《――『日の名残り』の舞台がイギリスに定まったのはどのような経緯で?

イシグロ: 始まりは妻のジョークからでした。その日一作目の小説についてのインタビューをするためにジャーナリストが自宅に来ることになっていました。それで彼女はこう言ったのです。「その人が真面目なしかつめらしい質問をして来たら、あなた、私の執事のふりをするというのはどう? 可笑しくていいんじゃない」 私たちはそれを面白い発想だと思いました。以来私はメタファーとしての執事に取り憑かれることになりました。

――何のメタファーでしょうか?

イシグロ: 二つあります。ひとつは我々が感情を殺し、ある種凍結してしまうことのメタファーです。イギリスの執事はおそろしいほど控えめでなくてはなりません。また周囲で起こるどんなことに対しても個人的な反応は示してはなりません。英国人気質を掘り下げるだけではなく、我々にみな共通する部分、すなわち他人に深入りすることの恐れを描くには格好の方法に思えました。

 もうひとつは、大きな政治的な決断を他人に委ねてしまう人々の象徴としての執事です。彼は言います。「私にできることは主人に仕えるためにベストを尽くすことです。代理人を通じて社会に貢献をしていますが、私自身は大きな決断は下すつもりはありません」と。私たちの多くは、民主主義の社会に生きているいないにかかわらずそのような立場に立っています。私たちのほとんどは大きな決定がなされるところの住人ではありません。私たちは自らの仕事をし、それに誇りを抱き、そのささやかな貢献が上手に利用されることを願っています。》

 

アメリカ的ジョーク>

・(P23)《自動車旅行の目的地になぜ西部地方を選んだのか。理由には、サイモンズ夫人のご本から魅力的な情景描写の一つも拝借しておけばよかったものを、私はうっかり、かつてダーリントン・ホールで女中頭をしていた者がここに住んでいる、と申し上げてしまったのです。

 私のつもりでは、要するに、お屋敷が現在小さな問題を抱えていること、その理想的な解決策が昔の女中頭に見出せるかもしれないこと、私はその可能性を探りにいきたいこと……、そんなことを申し上げたかったのだと存じます。しかし、ミス・ケントンの名前を出したとたん、私はこの話を先に進めることがいかに不穏当であるかに気づきました。なぜと申しますに、ミス・ケントンがほんとうにお屋敷にもどりたがっているのかどうか、私は確実なことを何も知りません。(中略)

ファラディ様がこの好機を見逃されるはずがありません。にやりと笑うと、わざと重々しい口調でこう言われました。

「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい? その年でかい?」

 きまり悪いことこの上ない瞬間でした。ダーリントン卿でしたら、絶対に雇人をこのような目にはお遭わせにならなかったでしょう。いえ、ファラディ様のことを悪く言いたいのではありません。ファラディ様はアメリカの方で、なさり方がいろいろと違います。意地悪のつもりなど毛頭なかったことは、私がよく存じております。が、それにしても私にとってどれほど居心地の悪い一瞬だったか、ご想像いただけるでしょうか。

「君がそんな女たらしとは、ついぞ気がつかなかったよ」と、ファラディ様はつづけられました。「気を若く保つ秘訣かな? しかし、どんなものかな、そんないかがわしい逢瀬をぼくが取り持つというのは……」(中略)

 消え入りたいようなひとときでしたが、私にはファラディ様を非難するつもりは少しもありません。決して不親切な方ではなく、ただ、アメリカ的ジョークを楽しんでおられたのだと存じます。アメリカでは、その種のジョークが良好な主従関係のしるしで、親愛の情の表現だとも聞いています。》

⇒一方、映画では次のとおり、アメリカ的ジョークに聞こえない。そもそも映画の中のファラディならぬルイスは、あまりアメリカ的ではなく、英米の文明比較に乏しい。

《「昔勤めておりました女性スタッフがまた働きたいという意思を」

「彼女とはいい仲だったのか?」

「とんでもない。大変有能な人物です。保証いたします」

「お前をからかったんだよ。すまん」》

 これではアメリカ的ジョークになっていないし、親愛の情の表現も感じられない。

 アメリカ的ジョークは小説の一つの動線にもなっていて、途中何度かスティーブンスは試みては失敗し、そして小説の最後でスティーブンスの新たな生の動機付けにさえなるというアイロニーの種だが、ことごとく省略される。

 続いてスティーブンスは、ファラディの下品なジョークを語るが、映画では取りあげられない。

《たとえば、お屋敷に来られる予定だったある方について、奥様が同行なさるのかどうかをお尋ねしたときのことです。

「来たら困っちゃうな」と、ファラディ様はお答えになりました。「あの女を遠ざけておく方法はないかな、スティーブンス? そうだ、君がモーガンさんの厩に連れてって、あの藁の中でたっぷりもてなしてやるってのはどうだい? 君の好みのタイプかもしれないぜ」

 一瞬、何のことか私にはわかりませんでした。やがて、これは冗談だと気づき、自然な笑いを浮かべようと努力しましたが、ショックといいますか……私の感じた困惑の幾分かは、表情に残っていたに違いありません。》

日の名残り』は全編を通して、性的なことと宗教が慎重に避けられているが、ここには性的な話題がある(今一度は、サマセット州トーントンの町はずれにある馬車屋という宿に一泊した時の、下のバーでの農夫たちの会話の《「旦那、今夜はここの二階にお泊りかね?」 私がそうだと答えると、相手はいかにも気の毒そうにかぶりを振り、こう言いました。「ここじゃ、あんまり眠れないよ、旦那。なにしろ、この働き者のボブがね――と、宿の主人のほうに顎をしゃくりました――真夜中すぎまで下でがたごとやってるからね。それに朝は朝で、今度は、夜明け前から女房どのが亭主を怒鳴りつける声が響き渡るし……」(中略)ともあれ、昨夜、農夫たちが冗談半分で口にしていた、下からの騒音で眠れないだろうという予言は、残念ながら、まったく事実であったことを申し添えておかねばなりますまい。》のほのめかしと、スティーブンスのジョーク(「メンドリが時をつくる」)の失敗)。

 

日の名残り』にはP・G・ウッドハウスの大衆的人気作品、執事ジーヴズの影響があって、イシグロも参考にしたと語っている。

「The Paris Review」のインタビューから。

《――あなたはジーヴズ(訳注:イギリスの作家P・G・ウッドハウスが造形したキャラクター)のファンでしたか。

イシグロ: ジーヴズからの影響は大きいです。ジーヴズに限らず、映画の目立たないところで演じられてきた執事の姿、身のこなし、すべてから影響を受けています。彼らにはそこはかとない面白みがありました。どたばた喜劇的なユーモアではありません。普通なら気も狂わんばかりの表現を必要とされるような場面であっても彼らはそっけない台詞を口にするだけです。そこには哀愁も漂っていました。そしてその頂点にいたのがジーヴズです。》

 

 ウッドハウスについてはイーヴリン・ウォー吉田健一も頌として論じている。イーヴリン・ウォー「P・G・ウッドハウス頌」によれば、ウッドハウスは(ダウントン卿を思い起こさせるのだが)奇しくも「ヒトラーにひざまずいたという言いがかり」をつけられたという。

 映画では、かろうじて一九二三年の国際会議の準備で忙しい時に、ダーリントン卿から頼まれたスティーブンスがレジナルド・カーディナルに「生命の神秘」を教えようと試みる、ガチョウと魚のエピソードは採用された(同じくレオナルドとの紳士と淑女、アタッシュケースのエピソードは撮影されたのにカットされてしまう)。

 

 

「一日目――夜」

 

<どこまでもつづいている草地と畑>

・(P38)《私が見たものは、なだらかに起伏しながら、どこまでもつづいている草地と畑でした。大地はゆるく上っては下り、畑は生け垣や立ち木で縁どられておりました。遠くの草地に点々と見えたものは、あれは羊だったのだと存じます。右手のはるかかなた、ほとんど地平線のあたりには、教会の四角い塔が立っていたような気がいたします。

 夏のざわめきに包まれた丘の上で、顔にそよ風を受けながら立ちつくすのは、なんと気分のよいことでしたろう。あの場所で、あの景色をながめながら、私はようやく旅にふさわしい心構えができたように思います。》

⇒映画が脱落させてしまったものに、英国の美しい田園風景がある。その風景はたんに美しいだけでなく、英国的な品格や偉大さの証としてコノテーション(含意)するものだから、簡単に省略してよいものではない。

日の名残り』と似たような世界として、E・M・フォースター『ハワーズ・エンド』、イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』があって、どちらも吉田健一が翻訳している。両者とも映画化され、『ハワーズ・エンド』は『日の名残り』と同じアイヴォリー監督作品、アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンも出演し、トンプソンはアカデミー賞主演女優賞を受賞した。『ブライヅヘッドふたたび』にはエマ・トンプソンが出演している。P・G・ウッドハウスの執事ジーヴズものを愛読した吉田は、イシグロが人物造形を学んだというエミリー・ブロンテジェイン・エア』も翻訳している。

 吉田健一は一九七七年没だから、イシグロ作品(一九八二年~)を読むことはかなわなかったが、イギリスを舞台とした『日の名残り』を読んでいたら必ずや称賛したことだろう、とりわけ「時間」の扱いに。

 もう一人、読ませたかった人物に須賀敦子がいる。イタリア文学やフランス文学に比べればアングロサクソン系文学はそれほど読んでいないのかもしれないが、須賀は一九九八年没だからイシグロを読んでいてもおかしくないが、残されたエッセイや日記にも気配をみつけられない。イシグロが影響を受けた川端康成『山の音』のイタリア語翻訳者でもあった(イシグロの影響は原作よりも小津や成瀬の映画からだったのだろう)のに。

 

 ここでは、吉田健一イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』を評した文章(『書架記』中の「ブライヅヘツド再訪」)から、その風景描写の美しさ、場所の記憶についての文章を吉田健一訳で少しだけ見ておきたい。

《……我々の宿営地はその一つの緩かな傾斜を占めてゐてその向うの地面はまだ昔のままの姿で直ぐそこの地平線を目指して登って行き、そこと我々がゐる所との間に一筋の川が流れてゐた。――それはブライト川と言つて昔は時々お茶の時間を過しに出掛けて行つたここから二マイルばかり先のブライドススプリングスといふ農園にその水源地があつた。これは川下でアヴァン河に合流する前にかなり大きな川になつてそれがここでは堰き止められて三つの湖を作り、最初のは蘆に囲まれた水溜り程度のものだつたが後の二つはもつと大きくて雲や岸に生えてゐる椈の大木を映してゐた。ここの森に生えてゐるのは凡て樫か椈で樫の木は今まだ灰色の幹や枝を剥き出しにし、椈は出たばかりの芽で微かに緑の色で刷かれ、これが緑の木の間道や広い芝生と調和するやうに入念に工夫してあつた。》

 

<この品格は、おそらく「偉大さ」という言葉で表現するのが最も適切でしょう>

・(P41)《今朝のように、イギリスの風景がその最良の装いで立ち現われてくるとき、そこには、外国の風景が――たとえ表面的にどれほどドラマチックであろうとも――決してもちえない品格がある。そしてその品格が、見る者にひじょうに深い満足感を与えるのだ、と。

 この品格は、おそらく「偉大さ」という言葉で表現するのが最も適切でしょう。今朝、あの丘に立ち、眼下にあの大地を見たとき、私ははっきりと偉大さの中にいることを感じました。》

ラシュディがとりあげた、アフリカやアメリカで見られる騒がしいほど声高な主張の景観とは違った美しさと偉大さというわけだ。小説では、「品格」と「偉大さ」に対するスティーブンスの見解が、同業の執事たちとの逸話も交えながら数頁に渡って続くが、映画では父から繰り返し聞いていた、雇主に従ってインドへ行った執事のエピソード(インドの館で晩餐の準備に手落ちがないかを食堂へ確認に行くと、虎が食卓の下に寝そべっていたので、注意深くドアを閉め、主人に耳打ちして銃の使用の許可をもらうと、数分後、三発の銃声が聞こえてきた。

 やがて茶を注ぎ足しに現れた執事に、主人は「不都合はないか」と尋ねられると、「はい、ご主人様、なんの支障もございません」と答えた、「夕食はいつもの時刻でございます。そのときまでには、最近の出来事の痕跡もあらかた消えていると存じますので、どうぞ、ご心配なきように願います」)を、映画では使用人たちの食事の場面で父に披露させた。このエピソードは、国際会議の裏でのスティーブンスの父の死、秘密会談でのミス・ケントンの結婚報告にも動ずることなく、執事の仕事を静かに完遂した達成感に連なってゆく。

 一方で、映画ではみなに披露する類ではない内的なエピソードは省略された。しかし、むしろこちらのエピソードの方が、国家的な歴史上の大きな出来事対個人の人生という、この先のナチ協力問題とも絡み合ってくるのだが(スティーブンスには兄がいたが、まだ少年だった頃に南アフリカ戦争で戦死した。ボーア人の開拓村を襲撃して民間人を殺傷するという、非イギリス的な後味の悪い作戦で、指揮官の行動は軍事上の基本を無視して無責任きわまりなく、死んだ兵隊は、兄も含めて全員犬死だった。その戦争から十年ほどたち、父の心の傷が表面的には癒えたかに見えた頃、父が執事を勤める館の主人の招待客として指揮官が滞在することになった。父の感情は最大級の憎しみだったものの従者役として職務を遂行するが、下卑た醜い元指揮官は南アフリカ戦争での「華々しい」戦歴を父にとうとうと語り聞かせる。父は心情を隠しつづけ、義務の遂行になんの手抜かりもなかったので、指揮官は屋敷を立ち去るにあたって主人に執事の優秀さを誉め、高額のチップを残していったが、父はその場で、チップの全額を慈善事業に寄付してくれるよう主人に申し出た)。

 

<一人一人が深く考え>

・(P63)《私のように偉大さを分析しようとするのは、まったく無駄なことだと考える方がおられるのは承知しております。「持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない」と、ミスター・グレアムはいつも言っておりました。「それ以上のことは、言ってもあまり意味がない」と。しかし私は、この問題でそのような敗北主義に陥るべきではないと考えます。一人一人が深く考え、「品格」を身につけるべくいっそう努力することは、私ども全員の職業的責務ではありますまいか。》

⇒これも「徴候」である。(大きな歴史的出来事としてダーリントン卿のナチス協力について、個人的な出来事としてミス・ケントンからの恋心について)「思考」しなかった男スティーブンスのアイロニーとして機能する。『日の名残り』の各章の終り(その日の終り)は、作者がことさら主人公に主義主張を確認、強弁させ、その達成感と満足感の強さがかえって弱気や虚飾の揺らぎを嗅ぎ取らせる。

 

 

「二日目――朝」

 

<結婚生活がいま破綻しかかっていると察せられるのです>

・(P65)《それに、先日の手紙によりますと、「ミス・ケントン」と呼ぶことが必ずしも不適当ではないかもしれません。と申しますのは、悲しいことに、その結婚生活がいま破綻しかかっていると察せられるのです。もちろん、詳しい事情は何も書いてありませんし、また、ひとに聞かせるようなことでもありますまい。ただ、ヘルストンにあるベン家を出て、いまは近くのリトル・コンプトンという村で、知人のもとに身を寄せている、と書いてありました。

 結婚がこんな破局に至るというのは、もちろん悲劇的なことです。中年も相当な年になったいま、なぜこんな孤独でわびしい思いをしなければならないのか……と、その原因となった遠い過去の選択を、この瞬間も、ミス・ケントンは後悔とともに思い返しているのではありますまいか。そのような心境にあるミス・ケントンにとって、ダーリントン・ホールにもどれたらという思いが、大きな支えになっているのは、容易に想像できることです。たしかに、手紙のどこにも「もどりたい」の五文字は書いてありません。が、ダーリントン・ホールの日々への深い郷愁は文章の随所で感じられ、全体のニュアンスから伝わってくるメッセージは間違いようがありません。(中略)

 しかし、手紙にもどりましょう。ところどころに、現在の境遇に絶望しかかっているような調子が見えて、気になります。たとえば、ある箇所に「残りの人生をどう有意義に埋めていけるのか、私には想像もつきませんが……」とあったり、また、別の個所には「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」と会ったりします。》

⇒ほとんど妄想に近いとも言いたくなる。手がかりを重視して解釈を施す。思わせぶりでもある、他人事のように、自分のことは棚に上げ、あるいは自分が原因とは思わせもせず、主語も、相手も、時間も、多義性を作者は狙って書いているのだが、映画は多義性を表現しない。

「残りの人生をどう有意義に埋めていけるのか、私には想像もつきませんが……」、「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」は、スティーブンスの深層心理がミス・ケントンへ自己投影したものではないのか。それは再会の場面でスティーブンスに反射して、夕日のように照らすだろう。

 

<まるで落とした宝石でも捜しているかのように>

・(P68)《「あなたには悲しい思い出かも知れません。そうだったら、お許しください。でも、二人であなたのお父様を見たときのことは、いつまでも忘れられません。お父様は、まるで落とした宝石でも捜しているかのように、ずっと目を地面に向けたまま、あずまやの前を行ったり来たりしておられました」

 三十年以上も前のことです。私はともかく、ミス・ケントンが覚えていようとは思いがけないことでした。たしかに、ある晴れた日の夕方だったと存じます。(中略)

 私があの光景をいつまでも覚えているのには、これからお話しいたしますが、それなりの訳があります。それに、当時、ダーリントン・ホールに来たばかりだった父とミス・ケントンの特別な関係を考えますと、あの光景がミス・ケントンにも強い印象を残したのは、とくに意外ではないのかもしれません。

 ミス・ケントンと父は、どちらも一九二二年の春、ほぼ同時期にダーリントン・ホールにやってきました。同時期といいますのは、お屋敷がそれまでの女中頭と副執事を一度に失い――つまり、二人が結婚して退職したため――急いで二人を補充する必要に迫られたからです。》

⇒ミス・ケントンは一九二二年にやってきて翌二三年の国際会議を迎え、十数年間勤めた後、一九三六年に結婚のために去るのに、誰も指摘しないようだが、映画では国際会議が一九三五年に設定されているため、わずか二、三年の短い期間しか勤めていないことになってしまう。

 記憶をめぐる展開に、イシグロがプルーストから学んだ「1つのエピソードを次のエピソードにつなげていく」プルーストのやり方があって、このエピソードもその例だろう。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《ちょうどそのころ私はウイルスにやられ、何日か寝込むはめになりました。最悪期を脱し、もう寝てばかりいるのにうんざりしてきたとき、しばらくまえから寝具の中に紛れ込んでいて気になっていた何か重いものが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の第1巻であることに気づきました。せっかく手元にあるのだからと思い、手に取って読みはじめました。きっと、まだ熱が抜けきっていなかったせいもあったのでしょうか、すっかち「序章」と「コンブレー」の虜になり、何度も何度も読み返しました。単純に文章が美しかったこともありますが、それ以上に、1つのエピソードを次のエピソードへつなげていくプルーストのやり方に身震いするほど興奮したからだと思います。この作品では、出来事や場面の流れが通常の時間に従っていません。直線的な話の筋にも従っていません。そうではなく、いわば連想の脱線や記憶の気まぐれが推進力となって、話を次から次へつないでいきます。ときどき、はてなと考え込まされることがあります。あの瞬間とこの瞬間は一見無関係と思えるのに、なぜ語り手の心の中では隣り合うように存在しているのだろうか……。突然、目のまえに、私の2冊目の小説への取り組み方が開けてきました。これまでより自由に、胸躍るような方法です。この方法なら本の各ページを豊かにし、スクリーンでは捉えようのない内的な動きを読者に示せるのではないか。もし、語り手の思考の流れや記憶の漂流に従って話を展開していけるなら、ちょうど抽象画家がキャンバス上に形や色を配置していくように文章を書けるのではないか。2日前も出来事を20年前の出来事のすぐ隣に置き、両者の関係に注意を向けるよう読者を促すこともできるのではないか。そういう書き方なら、人が自らや自らの過去を理解しようとするとき、その理解を十重(とえ)二十重(はたえ)に覆って曇らせている自己欺瞞や否認の存在を暗に示せるのではないか……。私はそんなことを考えはじめました。 》

 

<私事を仕事に優先させたことなど一度もなかった>

・(P70)《もちろん、二人の雇人が互いに恋に落ちて、結婚しようというのですから、どちらがどれだけ悪いなどということは考えても仕方のないことですが、私がとくに眉をひそめたくなるのは、なかに、純粋に仕事に打ち込んでおらず、いわばロマンスを求めて職場から職場へと渡り歩く人々がいることです。この点では女中頭がとくに悪質で、この手合いは私どもの職業を汚すものと言えましょう。

 急いで付け加えておきますが、私はミス・ケントンのことを言っているのではありません。たしかに、最後はミス・ケントンも結婚のためにお屋敷をやめていきましたが、私の下で女中頭として働いている間は、まさに雇人の鑑でした。私事を仕事に優先させたことなど一度もなかったことは、私が保証いたします。

 本題からそれました。私は、いま、お屋敷かが女中頭と副執事を一度に失ったことを申し上げていたのでした。》

⇒「本題からそれました」というときが怪しい。作者の罠がある。本題からそれてなどいないのだ。主人公の抑圧された本心が漏れている、あるいは読者が察するよう手がかりを与えている。「私事を仕事に優先させたことなど一度もなかったことは、私が保証いたします」の悲喜劇。本心からなのか、気づいてもいないのか。

 映画では下記スクリプトのように、スティーブンスがミス・ケントンの採用面接で、使用人同士の結婚、とりわけロマンスを求める女中頭を諌めるシーンをわざわざ映し出すことで、最初から恋愛抑圧を地ならししている。

《「異性の客は招かぬよう。以前その方面のトラブルがあったので念のため。前の副執事と駆け落ちした者が。職場結婚ならとやかく言いません。ロマンスを求めて職場を渡り歩く不心得者がいるのです。失礼ながらそういう人が少なくない」

「確かに。使用人同士の結婚はいろいろ混乱を招きます」

「その通り」》

 しかも映画では、国際会議の最中に倒れて部屋で横になっている父がスティーブンスに、原作小説にはない、

《「ジム。母さんを愛せなかった。一度は愛していたが、他の男との事を知って愛は消えてしまった。息子には恵まれた。いい息子だ」》と語ることで、恋愛結婚の自制を促すかのように作用してしまう。

 

<「過ち自体は些細かもしれないが、その意味するところの重大さに気づかねばならない」>

・(P83)《しかし、よく考えてみますと、あの日、ミス・ケントンがあれほど大胆な口のきき方をしたかどうかは定かではありません。もちろん、長い年月いっしょに働いておりましたから、ときにはたいへん率直な意見の交換もいたしました。しかし、いまお話しているあの午後は、私どもの関係のごく初期のことですから、いくらミス・ケントンでも、あれほどずけずけと物を要ったとは思われません。たとえば、「過ち自体は些細かもしれないが、その意味するところの重大さに気づかねばならない」というようなくだりは、ほんとうにミス・ケントンが言ったことでしたろうか。考えれば考えるほど、ダーリントン卿ご自身の言葉だったような気がいたします。ビリヤード室の外でミス・ケントンとやり合ってから数か月ほどあと、私はご主人の書斎に呼ばれておりますので、あるいはそのとき言われた言葉だったのかもしれません。その数か月の間に父の転倒があり、父に関する状況は大きく変化しておりました。》

⇒すぐ続いて書斎でのダーリントン卿との会話となるが、いかに「ダーリントン卿が遠慮深く謙虚な性格であった」かがわかる。

「それでだな、スティーブンス、あれはなかったのかな、その……徴候は? つまり、お父上の負担をだな、少し軽くしてやったほうがよいと告げるような徴候は? こんどの転倒は別にしてだが……」、「過ち自体は些細なものかもしれないがな、スティーブンス、その意味するところの重大さにはもう気づかねばなるまい。お父上に全幅の信頼を置ける日は、もう過ぎ去りつつあるのだ。会議は成功させねばならん。ちょっとした失敗が命取りになるような任務には、お父上はもうつかせてはならんのではないかな?」

 そしてダーリントン卿が父の転倒現場を目撃していた描写があり、ダーリントン卿の提案を受けて早朝に、五十四年間、毎日、食卓で給仕していたという父の給仕とお盆を運ぶことの禁止伝える息子と父の職業的な品格ある会見(「簡単に、簡潔に話せ。朝中、おまえのおしゃべりを聞いているわけにはいかん」、「では、要点だけお話します、父さん」)があって、そしてまたミス・ケントンと窓から見下ろす印象的なシーンに戻ってゆく。

 銀器のなかに磨き粉がついたままのものがいくつかあった、ちり取りが廊下に出っ放しになっていた、踊り場と部屋のシナ人の置物が入れ替わっていた(みなスティーブンスの父の仕事)、父の鼻先からスープ・ボウルの上へ大きな水玉がぶら下がっているのを見てしまった。あの年齢の人には無理なほどの仕事を抱えすぎている、とのミス・ケントンの注進は映画でも二人の意地の張り合いを見せたいかのように採用されている(スープ・ボウルの件はスティーブンスが気づいて対処する)。

「些細な過ち」の意味するところの重大さはこの小説のメタファー(隠喩)でもあって、のちに秘密会談の場でレジナルド・カーディナルがスティーブンスに指摘したように、ダーリントン卿のナチス・ドイツとの関係性(「些細な過ち」が「重大な結果」となる)にオーヴァーラップしてゆくだろう。

 

<夕焼けの最後の光>

・(P93)《ミス・ケントンが手紙の中で言っているあの晴れた日の夕方というのは、この早朝の会見からすぐのことでした。いえ、同じ日の夕方だったかもしれません。客室が並ぶお屋敷の最上階に私が何の用事があって行ったのか、もう思い出せません。しかし、先ほども申し上げましたように、開いた各寝室の戸口から、夕焼けの最後の光がオレンジ色の束になって廊下へ流れ出している様は、いまでも鮮やかに思い出すことができます。そして、無人の客室の前を通っていく私を、窓に映った影法師のようなミス・ケントンが呼んだのでした。

 ダーリントン・ホールに来たばかりのミス・ケントンが、いつも父のことを気にし、父のことで何度も私に文句を言いにきたことを考えれば、あの夕方の記憶が、この三十数年間ずっとミス・ケントンの脳裡にとどまっていたのは、不思議ではないのかもしれません。二人で客室の窓から地上の父を見下ろしていたとき、ミス・ケントンには、たしかに多少の罪悪感があったに違いありますまい。

 芝生はもう大部分ポプラの影でおおわれていましたが、あずまやに向かう上り坂になった片隅だけは、まだ日に照らされていました。父は石段の前に立ち、風で髪を少し乱しながら、何事かじっと考え込んでいました。その石段をゆっくりと上り、上りおわると向きを変えて、今度は少し速く降りてきました。(中略)ほんとうに、「まるで落とした宝石でも捜しているかのように」父は地面を見据えたまま歩いていました。》

⇒ここには美しい夕暮の光景がある。映画では、石段ではなく敷石との境目ではあったものの、父の様子が再現された。小説の最後の夕暮、「日の名残り」は反復なのだ。あのときの、過ちにたじろぎ、取り戻そうと努める父の姿は、現在のスティーブンスの姿でもある。

 スティーブンスが推定するミス・ケントンの「多少の罪悪感」とは、むしろ自分へ向かうべきものではなかったか。ダーリントン卿が最後に罪悪感に苦しんだように、スティーブンスも密かな罪悪感におびえ、気づかない振りをしてきたが、旅の様々な場面で記憶は喚起される。イシグロは処女作からずっと「罪悪感」をテーマにしてきた。

カズオ・イシグロの文学白熱教室」から。

《人はいつも罪の意識を持っていたり、もっとこうすればよかったと思っているはずだ。だから私は同情も共感もする。「それを振り返りたくない。振り返らなくても別にいいだろ?」という自分たちに。「自分にできることはもうない。このままにしておこう」と。これは人間くさいことだ。》

 

<「この世に正義を」>

・(P99)《一九二三年の会議は、ダーリントン卿の長期にわたる計画が結実したものでした。見方によっては、卿は三年以上も前から、あの会議に向けて動きはじめておられたと言えるかもしれません。大戦の終わりに平和条約が調印されたとき、私の記憶では、卿がその条約にとくに大きな関心を示されたということはありませんでした。卿の関心を呼び覚ましたものは、条約そのものの分析より、カール=ハインツ・ブレマン様との友情だったと言ってさしつかえありますまい。(中略)

 ダーリントン卿ご自身も何度かベルリンを訪問されました。最初は、たしか一九二〇年の暮れ近くだったと思います。そのベルリン行きは、卿にとってじつに衝撃的なものだったようです。お屋敷にもどって数日間は、なにか、ひどく深刻に考え込んでおられました。楽しいご旅行だったかという私の問いかけに、「ショックだよ、スティーブンス。たいへんなショックだ。敗れた敵をあんなふうに扱うのは、わが国にとって不名誉このうえない。わが国の伝統とは、まったく相容れないやり方だ」と、お答えになったのを覚えております。(中略)

「ヘル・ブレマンは私の敵だった」(筆者註:ヘル=氏、様といった男子に対するドイツの敬称)と、ダーリントン卿は言われました。「だが、いつも紳士だった。二人は互いに鉄砲玉を浴びせ合いながら、尊敬もしあったのだ。紳士としてやるべきことをやっている相手に、私は悪意はもたない。戦場で一度彼に言ったことがある。『おい、いまは敵どうしだ。ありったけの力で叩き伏せてやる。だが、この戦争が終わったら、もう敵ではない。いつか、いっしょに飲もう』とな。なのに、なんたることだ。この条約は私を嘘つきにした。戦いが終わったら、もう敵ではない――私はそう言ったのだ。どうやら違ったようだ、などと、いまさらどの面(つら)下げて彼に言える?」

 その同じ夜、しばらくあとで、ダーリントン卿は重々しくかぶりを振りながら、こうも言われました。「私はこの世に正義を保つために、あの戦争を戦ったのだ。ドイツ民族への復讐に手を貸しているつもりはなかった」

 今日、ダーリントン卿についていろいろなことが言われております。卿の行動の動機について、愚にもつかない憶測がしきりに――あまりにもしきりに――飛び交っております。そうしたたわごとを聞くたびに、私はあの夜のがらんとした宴会場と、そこで卿が語られた琴線に触れるお言葉を思い出します。後年、卿の歩まれた道がどのように曲がりくねったものであったにせよ、卿のあらゆる行動の根幹に「この世に正義を」見たいという真摯な願いがあったことを、私は一度も疑ったことはありません。

 ハンブルクからベルリンへ向かう列車の中でブレマン様がピストル自殺されたのは、その夜から間もない頃でした。》

⇒この国際会議が一九二三年三月で、映画のような一九三五年ではなかったことは決定的に重要だ。なぜなら、一九三五年ではすでにヒットラーは政権奪取していたので、生臭い政治的判断が求められた(「四日目――夜」の一九三六年の秘密会談で描写され、イギリスはナチス・ドイツ宥和策をとる過ちを犯す)が、一九二三年三月時点ではミュンヘン一揆(一九二三年十一月)以前のいまだ馬の骨ともわからない人物だったから、ダーリントン卿のように「この世に正義を」という善良で真摯な願いを見ることはある程度無理からぬところがあったからだ(すでにこの時点で、ドイツの危険性を見過ごさなかった政治家もいたけれども)。

 

<アマチュアだ>

・(P147)《「卿はアマチュアだ。そして、今日の国際問題は、もはやアマチュア紳士の手に負えるものではなくなっている。私としては、ヨーロッパが早くそのことに気づいてほしいと願っているのですよ。上品で善意に満ちた紳士諸君、諸君にひとつお尋ねしましょう。諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか? 高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。ただ、ヨーロッパにいる皆さんがそれを知らないだけの話だ。わが善良なるダーリントン卿のような紳士は、困ったことに理解できないことにまで首を突っ込むのが義務だと心得ておられる。今回の会議にしたところで、この二日間はたわごとのオンパレードだった。善意から発してはいるが、ナイーブなたわごとばかりだ。ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです、皆さん。大問題を手際よく処理してくれるプロこそが必要なのです。それに早く気づかなければ、皆さんの将来は悲観的だ。そこで乾杯しましょう、皆さん。プロに! 乾杯!」

⇒読み進めるうちに、アメリカの議員ルイス(映画ではファラディと同一化)の「アマチュア」発言、この先でスティーブンスがダーリントン卿の客人スペンサー卿に政治的な質問をされて答えかねたこと、一九三六年の秘密会議でのカーディナルの忠告らと衝突して、社会的・政治的に大きな混乱の時期における「正義」「善意」「アマチュア」「理想主義」は、歴史のうねりのなかで複雑な思考を促し、罪悪感を残すだろう。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《次はどんな作品を?という質問が出ました。よくある質問です。しかし、この方の質問は、もう少し詳しく言うと、こんな具合でした。まず、私の小説には、社会的・政治的に大きな混乱の時期を生きた人の物語が多いと指摘し、その人物は自分の人生を振り返り、暗く恥ずべき記憶となんとか折り合いをつめようとする、と前置きして、これからもそういう物語を書いていくのですか、と尋ねました。》

 

<父にも匹敵する「品格」>

・(P154)《「ミスター・スティーブンス。お気の毒に、お父様は四分ほど前に亡くなられました」と言いました。

「そうですか」

 ミス・ケントンはしばらく自分の手を見つめていましたが、やがて私の顔を見上げ、

「ミスター・スティーブンス。お悔やみ申し上げます」と言いました。「もっと何か言ってさしあげられるとよろしいのでしょうけれど……」

「いや、その必要はありません。ありがとう、ミス・ケントン」

メレディス先生はまだお見えではありません」一瞬、ミス・ケントンは頭をたれ。その口から嗚咽がもれました。しかし、すぐに平静さをとりもどすと、落ち着いた口調で「上にいらして、お父さまに会われますか?」と私に尋ねました。

「いまは、とても忙しくてだめです。たぶん、しばらくしてから……」

「そうですか。では、私が目を閉じさせてあげてよろしいでしょうか、ミスター・スティーブンス?」

「そうしてくだされば、たいへんありがたい。お願いします、ミス・ケントン」

 ミス・ケントンは階段を上りはじめましたが、途中、私が呼び止めました。「ミス・ケントン。私を薄情だとは思わないでください。この瞬間にも上に行って、父の死顔を見たいのはやまやまですが、それはできません。父も、いま私に任務を果たしてもらいたいと望んでいるはずです」

「もちろんですわ、ミスター・スティーブンス」

「いま行けば、父の期待を裏切ることになると思います」

「もちろんですわ、ミスター・スティーブンス」(中略)

 もちろん、私が同世代の「偉大な」執事たち、たとえばミスター・マーシャルやミスター・レーンと肩を並べうるなどと――おそらく過てる寛大さからでしょうか、まさにそう言ってくださる向きもあることは存じておりますが――自分の口からそのような大それたことを申し上げるつもりは毛頭ありません。一九二三年の会議、とりわけあの夜が、私の執事人生の一大転機であったと申し上げるとき、それはあくまでも、私自身の卑小な執事人生においてのことであるのをご理解ください。あの夜、私にのしかかっていた重圧の大きさを考えるなら、もしかしたら私にも、あのミスター・マーシャルや、さらには父にも匹敵する「品格」をかいま見せた瞬間が――少しは――あったと申し上げても、あるいは自分自身を不当にあざむくことにはならないのかもしれません。さよう、なぜ否定する必要がありましょうか。悲しい思い出にもかかわらず、今日、私はあの夜を振り返るたびに、いつも大きな誇らしさを感じるのです。》

⇒こうしてまたスティーブンスは、「二日目――朝」も執事への誇りを確認して満足な眠りにつくのだけれども、そうすればするほど、倒れた父をミス・ケントンや焼き肉の臭いをさせたコックのミセス・モーティマーに任せて看取らなかったことへの「罪悪感」を、「品格」と交換し、「自分自身を不当にあざむく」転嫁で記憶から抹消したいと受け取ることはできないか。

 ここでイシグロは、会議の初めから終わりまで、ロンドン観光中に足にまめができて痛みで不機嫌な、ドイツに激しく敵対するフランス代表デュポンへのどたばたした対応(父の死の所見を書いて帰ろうとするメレディス医師をデュポンの治療へと導く冷静な「品格」)と、レジナルドとの自然界談義と、父の死とをブラック・ユーモアの色づけで、人間臭さと歴史の容赦ないダイナミックな動きを万華鏡のようにくるくる回転させて巧みに表現する。

 

 

「二日目――午後」

 

<長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった>

・(P165)《私どもにとりまして、議論も決定も、およそ重要な事柄はすべて、この国の大きなお屋敷の密室の静けさの中で決まるものでした。公衆の面前で華やかな式典とともに繰り広げられるたぐいのものは、しばしばそうしたお屋敷の中で何週間、何カ月にもわたってつづけられてきたことの結末であり、承認であるに違いあるにすぎません。この世界が車輪だという意味がおわかりでしょうか。それは、偉大なお屋敷を中心に回転している車輪なのです。中心で下された決定が順次外側へ放射され、いずれ、周辺で回転しているすべてに――貧にも富にも――行き渡ります。

 職業的野心を少しでももつ執事なら、誰でも車輪の中心を望み、そこへできるだけ近づきたいと願ったでしょう。繰り返しますが、私どもは理想主義的な世代であり、執事としてどれだけの技量があるかとともに、その技量をどのような目的に発揮したかを問わずにはいられない世代です。誰もが、よりよい世界の創造に微力を尽くしたいと願い、職業人としてそれが最も確実にできる方法は、この文明を担っておられる当代の偉大な紳士にお仕えすることだと考えたのです。(中略)

 いま申し上げましたように、私はこの問題をこうした観点から考えたことはありませんでした。これも、旅のもつ効用というのでしょうか――長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった事柄に、思いがけず、驚くほど斬新な視野が開かれるというのは……。それに、一時間ほど前のちょっとした出来事も、こんなことを考えるきっかけになったのだと存じます。小さいながら、私を落ち着かない気分にさせる出来事でした。》

⇒本当に「長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった」のだろうか。「思いがけず、驚くほど斬新な視野」ではなく、しがみついているだけではないのか。「ちょっとした出来事」「小さいながら」だったのではないか。

「車輪」「回転」職業的野心」に、アイヒマン的なものが登場しうる。

 

<あのダーリントン卿の下で働いていたんですね?>

・(P172)《そして、男は私がどこに雇われているのかを尋ねました。私が答えますと、男は首をひねり、眉にしわを寄せました。

ダーリントン・ホールですか」と、独り言のように言い、さらに「ダーリントン・ホールねえ。きっとすごいお屋敷なんでしょうね。おれみたいな馬鹿でも、どこかで聞いたような気がしますからね。ダーリントン・ホール……。待てよ、あのダーリントン・ホールか。ダーリントン卿のお屋敷か。旦那、そうなんですか?」

「さよう、ダーリントン卿が三年前に亡くなられるまでは、卿のお住まいでした。いまは、ジョン・ファラディ様という、アメリカ人の紳士がお住まいになっておられます」

「やっぱり、あんたはすごいんですね、あんな場所で働いているなんて。あんたみたいな執事は、いまのイギリスにはもう珍しいんじゃありませんか?」そして、つぎのように聞いてきたときは、明らかに口調が変わっていました。「じゃあ、旦那はあのダーリントン卿の下で働いていたんですね?」

 男は探るように私を見つめていました。

「いえ、アメリカ人のジョン・ファラディ様がダーリントン家からお屋敷を買われて、私はそのファラディ様に雇われております」

「じゃ、ダーリントン卿のことはご存じないわけだ。なんだ、そうですか。ちょっと、どんなふうだったかと思いましてね。いったいどんな野郎だったんだろうかって」

 私はそろそろ出発せねばならないと言い、男の手助けに大袈裟なほどの感謝をしました。》

⇒小説ではこの男、従卒の口から「ナチ」の名は出ないが、映画では従卒は登場せずに、手紙を受け取りに立ち寄った郵便局兼雑貨屋の主人に「ナチのシンパ」と言わせ、スティーブンスはキリストを知らないと答えたペテロとなる。

《「どちらから?」

ダーリントンだ」

「聞いた名前だ。ナチのシンパだったダーリントン卿の館が?」

「私は米国から来たルイス様に雇われている執事だよ。前の持ち主は知らない」》

 

<まがい物>

・(P175)《この三十分ほどの間、心に浮かんだある考えを私がじっくり検討できたのは、周囲の静けさによるものでしょう。これほど静かな場所でなかったら、あの従卒とのやりとりで私がとった奇妙な行動を、これほど深く考えることはなかったかもしれません。奇妙な行動と申しますのは、私がなぜ相手に誤った印象を与えようとしたか、ということです。私は、まるでダーリントン卿に雇われていたことがないように振舞いました。(中略)それに、ああしたことは、今日がはじめてではないことも認めねばなりません。今日の従卒とのやりとりは、何ヵ月か前にウェークフィールドご夫婦がお見えになったときのことと、何らかの――何であるかはわかりませんが――つながりがあるに違いありません。(中略)

「ねえ、スティーブンス。あなたならわかるでしょう。このアーチだけど、見かけはたしかに十七世紀よね。でも、どうかしら。ほんとうはつい最近つくられたものではなくって? たとえば、ダーリントン卿の時代に?」

「ありうることでございます、奥様」

「とても美しいわ。でも、おそらく、数年前につくられたまがい物ね。そうじゃなくって、スティーブンス?」

「たしかなことは存じません、奥様。しかし、ありうることでございます」

 夫人は急に声を低め、こうお尋ねになりました。

「ねえ、スティーブンス。ダーリントン卿ってどんな方だったの? あなたは、ダーリントン卿のもとで働いていたんでしょう?」

「いいえ、そうではございません、奥様」

「あら、私はてっきりそうだと思っていたわ。なぜそう思ったのかしら」

 ウェークフィールド夫人はまたアーチに向き直り、それに手を触れながら言われました。

「じゃあ、はっきりしたことはわからないわね。でも、私にはやはりまがい物に見えるわ、とてもうまくつくってあるけど、でもまがい物だわ」

⇒スティーブンスの思考、認識が旅のなかでの人との出会い、静かな美しい自然に触発されて深まってゆく様子が、回想の連鎖をともなって描かれる。

 映画にはウェークフィールド夫妻は登場しない。夫妻が帰ったあとファラディから、夫人が「あれも“まがい物”、これも“まがい物”と言い出して、とうとう君まで“まがい物”にされてしまったぞ、スティーブンス」、君が以前この屋敷で働いていたことはないと言い張ったので、気まずい思いをしたと愚痴をこぼされるが、スティーブンスは雇人が過去に他人のために働いていたという印象を与えることは好ましくない、離婚歴のあるご婦人の場合、新しい夫が同席している場で最初の結婚についてあれこれ言うことがはばかられるのと同様の職業的習慣であると釈明する、その釈明がまったく不十分であることに気づいていた、と自省しつつ。

 スティーブンスは一九三五年の秘密会談で、「まがい物」のアーチの下を持ち場としていて、あたかも「君まで“まがい物”」のメタファーとなる。

 

<でたらめをもうこれ以上聞きたくないという思い>

・(P181)《もちろん、今日では、ダーリントン卿について愚かしいことを言う人がたくさんいます。ですから、それが私の行動の背景にある、とお考えになる向きがあるかもしれません。私が卿との関係を恥ずかしく思い、関係が知れるのを恐れているのだ、と。しかし、それはまったくの的はずれであることを、ここであらためて申し上げておきたいと存じます。それに、今日、卿について言われていることの大部分は、事実に無知な人にしか考えつかないでたらめばかりなのです。思えば、そこにこそ、私の奇妙な行動の原因があるのかもしれません。つまり、卿についてのでたらめをもうこれ以上聞きたくないという思いが、私にああした行動をとらせたとは考えられないでしょうか。数か月前も先刻も、不快を避けるための最も簡単な手段が、ちょっとした嘘という方便だったのではありますまいか。考えれば考えるほど、その説明が当たっているような気がしてまいりました。たしかに、ああしたでたらめを繰り返し聞くことほど、最近、私の神経を逆なですることはないのですから……。

 ダーリントン卿は高徳の紳士でした。卿についてでたらめをふりまいている輩には想像もつかないような、道徳的巨人でした。そして、最後の一日までそのままの姿でおられたことを、私はよく存じております。そのような紳士との関係を、私がなぜ恥ずかしく思いましょう。そんな途方もない主張は聞いたことがありません。お考えください。私はダーリントン卿にお仕えしたことで、この世界という車輪の中心に、夢想もしなかったほど近づくことができたのです。私は三十五年間の歳月をダーリントン卿に捧げました。そして、その三十五年間、私こそ真の「名家に雇われて」いた執事だと申し上げてよかろうと存じます。これまでの執事人生を振り返るたびに、あの歳月にダーリントン卿のもとで成し遂げた諸々のことが、私に最も大きな満足感を与えてくれます。卿にお仕えできたことを私は誇りに思い、卿に対しては、私をお使いくださったことへの感謝しかありません。》

⇒しかし、「二日間――午後」もまた定型のように、ダーリントン卿のもとで働いていたことを否定した奇妙な行動を精神分析して、さまざまに気持ちが揺らぎつつも、「高徳の紳士」ダーリントン卿への賛辞と、この世界という車輪の中心にいた執事人生への、「偉大さ」と「品格」を達成した満足感と誇りと感謝で締めくくられる。

「まったくの的はずれ」と強がるときこそ怪しい。認識の深まり、反発、否定、逃走、自閉。見たいものしか見ないように、聞きたいことしか聞かない。認識したいことしか認識しない。思考していると思っている。

 

 

「三日目――朝」

 

<あながち私の独り善がりではないことがおわかりいただけましょう>

・(P192)《あの夜のご訪問は、ハリファックス卿と当時の駐英ドイツ大使リッベントロップ様の間で行なわれた、一連の「非公式」会談の初回でした。あの初めての夜、ハリファックス卿は警戒心もあらわにご到着になりました。お屋敷に案内されたあと、真っ先に発せられた言葉が、「おい、ダーリントン、私をどんな目に遭わせようというのかね。これは絶対後悔することになるな」だったことを覚えております。(中略)

「ところで、スティーブンス。先夜のハリファックス卿だがな、うちの銀器には目をむいておったぞ。あのあと、気分がすっかり変わったようだった」私は正確に覚えております。卿はあのとき、このとおりのお言葉を言われたのでした。ですから、あの夜、銀器の磨きぐあいがハリファックス卿とリッベントロップ様の会談に、小さいながら無視できない貢献をしたと申し上げても、あながち私の独り善がりではないことがおわかりいただけましょう。》

⇒一連の「非公式」会談とは、対ナチス・ドイツ宥和政策である。「これは絶対後悔することになるな」とのハリファックス卿の言葉は歴史的には正しかった。

 そして、「国際問題」「外交政策」に関与したはずのスティーブンスの「偉大な」上司への貢献が銀器の磨きぐあいだったとは。

 ここにはプルースト的連想がある。サマセット州トーントンの大通りに面した店でお茶→「マースデン」という地名の案内板→ギフェン社の銀器磨き用黒蝋燭→ダーリントン・ホールの銀器の見事さ→ハリファックス卿(チェンバレン首相とともに対ドイツ融和政策を推進)→リッベントロップ(当時の駐英ドイツ大使、のち外相)→ペテン師→ナチの歓迎→反ユダヤ主義→……。

 

<何か得体の知れない原因から生じている>

・(P201)《ここ数か月間に起こったこうした過ちは、当然のことながら、私の自尊心を傷つけました。しかし、それが単なる人手不足以上の、何か得体の知れない原因から生じていると信じる理由は何もありません。もちろん、人手不足自体も重大な問題ではありますが、ミス・ケントンがダーリントン・ホールにもどりさえすれば、そのような些細な過ちは、たちまち過去の笑い話になってしまうでしょう。ただ、ミス・ケントンの手紙の――昨夜も部屋で、あかりを消すまえに読み直してみましたが――どこを捜しても、昔の地位にもどりたいという意思が具体的に書かれていないことは、覚えておかねばなりますまい。もしかしたら、私が一執事としての希望的観測から、ミス・ケントンがそのように望んでいると勝手に解釈しているだけのことなのかもしれません。その可能性はたしかにあるようです。と申しますのは、昨夜、ミス・ケントンの手紙を読み直しながら、私はこの手紙のどこから復帰の願いを感じ取ったのかを捜そうとし、それをなかなか見つけることができないのに驚いたほどでしたから。》

⇒小説のはじめの方でしきりと出てきた「一連の過ち」「いくつかの小さな過ち」とは、たとえばファラディ様の銀器のフォークに汚れがあった過ちだったとようやくわかる。語り手スティーブンスの「それが単なる人手不足以上の、何か得体の知れない原因から生じていると信じる理由は何もありません」とは、「信じる理由は何もありません」ではあっても、信じない理由もまたない。「人手不足以上の、何か得体の知れない原因」とはつまり、かつてミス・ケントンに指摘されて見出していた、父スティーブンスと同じ老いに違いなかった。

 ミス・ケントンの手紙に関して言えば、驚くのはむしろ語りを聞かされる読者で、再会が近づくごとに、手紙の調子はトーンダウンしてゆく。

 

 

「三日目――夜」

 

ユダヤ人問題>

・(P207)《「ミスター・スティーブンス。私が怒っているのがおわかりになりませんの? あなたは平然とそこにすわって、まるで食料品の注文を出すような調子で言われましたけれど、何をなさったかわかっておられますの? ユダヤ人だからルースとセーラを解雇する? なんということを……。私にとても信じられませんわ」

「ミス・ケントン。事情は、たったいま、全部お話したではありませんか。ご主人様が決定を下されたのです。私やあなたがあれこれ議論するようなことではありません」

「でも、ミスター・スティーブンス、あなたはまったくお考えになったことがありませんの? そんな理由でルースとセーラを解雇するのは……そんなことは間違っているとは思われませんの? 私は我慢できません。そんなことがまかり通るお屋敷には、私もいたくはございません」

「ミス・ケントン、少し落ち着きなさい。あなたには自分の地位にふさわしい態度で振舞ってもらわねばなりません。これは単純明快な問題です。ご主人様が二人の雇用契約を破棄したいと言われている。それ以上、何を言う必要がありますか」(中略)

「申し上げておきますわ、ミスター・スティーブンス。明日、あなたが二人を解雇なさるのは間違っています。それは罪です。罪でなくてなんでしょう。そのようなお屋敷で、私は働く気はございません」

「ミス・ケントン。あなたに一言申し上げておきたい。このように大きな、次元の高い問題について、あなたは的確な判断を下せる立場にはありますまい。今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています。たとえばユダヤ人問題にしても、あなたや私のような立場の者には、理解できないことがいくつもあるのです。私どもに比べれば、ご主人様のほうが、いくぶんなりともよい判断を下せる立場におられるとは言えませんか? 私はもう休まねばなりません。ミス・ケントン。ココアをどうもありがとう。明朝十時半です。忘れずに、二人の者をよこしてください。」》

⇒スティーブンスの「今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています」、「ご主人様のほうが、いくぶんなりともよい判断を下せる立場におられる」とは、歴史的にみればダーリントン卿への皮肉にも聞えてくる。

 スティーブンスは「凡庸な悪」だったのか。ご主人様ヒットラーが決定したことに議論するようなことではないと、まるで食料品の注文を出すような調子でユダヤ人を移送したアイヒマンのような。

 ひとりひとりが意見を持つ、ときには不服従の権限を行使する、のちに田舎の居酒屋での村人ミスター・スミスの強い意見、カーライル医師のしつこい問いかけ、レジナルド・カーディナルの忠告で反復されるだろう。

 映画でも一連のユダヤ人メイド解雇事件は、小説にはない黒シャツを引き連れた反ユダヤ主義者ジェフリー卿の訪問シーンも見せながら再現されている(ダーリントン卿が友好の気持ちをもって、ドイツからの避難民エルサとアルマ(小説ではルースとセーラ)をメイドとして採用するという小説にはないシーンまで前置きに付け加えて)。

 

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン』>

 ここでアーレントエルサレムアイヒマン』を見ておこう。

《しかしほらを吹くことはよくある悪徳である。そしてアイヒマンの性格にある、より特殊な、しかもより決定的な欠陥は、ある事柄を他人の立場に立って見るということがほとんどまったくできないということだった。ヴィーンでのある挿話を彼が語ったその語り方ほど、この欠陥をよく示すものはなかった。自分も部下もユダヤ人もみんな<同じ目標を追っている>と彼は考えていた。そして何か困難が生ずると、ユダヤ人役員は<心の中を打ち明け>、<歎きや悲しみのすべてを>彼にぶちまけ、助力を求めるために彼のところに駆けつけてきた。ユダヤ人は移住を<熱望>し、そして彼アイヒマンは彼らに力を貸してやるためにそこにいた。たまたま時を同じくして、ナチ当局はドイツをユーデンライン(筆者註:ユダヤ人が存在しない地)にしたいという熱望を表明していたからである。両者の熱望は一致していた。そして彼アイヒマンは<双方を満足させる>ことができた。裁判の際に話がこのこととなると、彼は一歩も譲らなかった》

《彼自身も学校時代からすでに彼を悩ませていたに違いないある欠陥――軽い失語症――をおぼろげながら自覚していて、「官庁用語[Amtssprache]しか私は話せません」と弁解した。しかしここで肝腎なことは、彼が官庁用語でしか話せなくなった原因は、紋切り型の文句(クリシエ)ではない文以外は全然口にすることができなかったからだということである。(精神科医があのように<正常>で<好ましい>と見たのは、彼のこの紋切り型の文句だったのではなかろうか? 牧師がその魂をあずかっている人々の心にあってほしいと思うあの<前向きな側面>をエルサレムで示すべき絶好の機会があらわれたのは、彼の精神の健康や心理の安定を担当していた若い警察官が緊張をほぐすためと言って『ロリータ』を彼に渡したときだった。二日後、アイヒマンは明らかに憤激の体(てい)でその本を返した。「何とも不愉快な本だ!」――”Das ist aber ein sehr unerfreuliches Buch”と彼は看守に言った。) 判事たちがついに被告に向かって、彼の今まで述べてきたことはすべて<無意味なおしゃべり>にすぎないと言ったのはいかにも正しかった――この無意味さは意識的なもので、被告はそれによって醜悪な、しかし無意味ではない考えを覆い隠していると彼らが憶測したことは別として。このような憶測は、むしろ記憶の悪いほうだったアイヒマンが、彼にとって重要な事柄や出来事に言及するたびに、驚くほど一貫して一言一句たがわず同じ決まり文句や自作の紋切り型の文句をくり返したという事実によって打ち消されるように思える。(中略)彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する(・・・・)能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケ―ションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁[すなわち想像力の完全な欠如という防壁]で取り囲まれていたからである。》

《私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。しかも<悪人になってみせよう>というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヵ月にわたって警察で訊問に当たるドイツ・ユダヤ人と向き合って座り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や、出世しなかったのは自分のせいではないということを、くり返しくり返し説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終弁論において、「[ナチ]政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。まったく思考しないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。》

⇒スティーブンスもまた、他人の立場に立って見ることがほとんどできず、紋切り型の執事用語で事をすまし、「おセンチな恋愛小説」を隠す幼稚な反応も似ている。ユダヤ人召使解雇や叔母の死や結婚の報告で、ミス・ケントンは「偉大な」「品格」を求めることに熱心な執事という防壁で取り囲まれた、コミュニケ―ションの不可能なスティーブンスを見たのではなかったか。レジナルド・カーディナルは、自分はどう考えているかを訊いても「ご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」とくりかえすだけの、「まったく思考しない」スティーブンスを見たのでなかったか。

 

<「なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」>

・(P215)《「おっしゃっていることがわかりませんわ」そして、私が振り向くと、ミス・ケントンはこうつづけました。「あなたはなんの疑問もお持ちでないのだと思っていました。ルースとセーラを追い出すのが正しいことだと……。それを楽しんでいるふうにさえ見えましたわ、ミスター・スティーブンス」

「違いますね、ミス・ケントン。それは正しくありませんし、私に対して公平な見方とも言えません。あの件は、私にとってたいへん気の重いことでした。心にじつに重くのしかかる出来事でした。このお屋敷の中では絶対に起こってほしくないたぐいのことでしたからね」

「では、なぜ、あのときそう言ってくださらなかったのです、ミスター・スティーブンス?」

 私は笑いました。笑いながら、なんと答えたものか、しばらく迷っておりました。しかし私が答えを思いつくまえに、ミス・ケントンが、繕っていたクッションを脇に置き、こんなふうに言いました。

「あのとき、そのお考えを私と分かち合ってくださっていたら、私にはどれほどありがたかったのか知れません。二人の女中が解雇されたときの私の気持ちを、あなたはご存知だったはずですわ、ミスター・スティーブンス。言ってくだされば私がどれだけ救われたか、あなたにはおわかりになりませんでしたの? なぜ、なぜですの、ミスター・スティーブンス? なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」》

⇒重要なこととして、スティーブンスの「笑い」がある。(日本人的な)「自然な笑い」「作り笑い」であって、ミス・ケントンとのやりとりのあちこちで指摘、発見されるだろう、スティーブンスの内面の繕いとして。

 

<転機>

・(P231)《じつを申し上げますと、最近、私はこうした思い出にふけることが多くなっております。そして、数週間前に突然のように、またミス・ケントンに会えるかもしれないと思いはじめてからは、その思い出に、とくに二人の関係を中心としたものが多くなったような気がいたします。二人の関係がなぜあのような変化を遂げたのか……。さよう、一九三五年か三六年の頃でした。長い年月を同じお屋敷で働き、仕事上の呼吸が完璧に合うまでに築き上げられてきた二人の関係は、あの頃を境に、たしかに変化したのです。最後には、一日の終わりをココア会議でしめくくるという、長い間の習慣さえ放棄せざるをえなくなりました。が、いったい何があのような変化をもたらしたのか、どういう出来事の連続でああいう事態にまでなってしまったのか、私には、いまだに納得できる答えが見つかっておりません。

 ただ、最近では、ミス・ケントンが勝手に私の食器室に入ってきたあの夜のことが、もしかしたら決定的な転機だったのかもしれないと思うことがあります。(中略)

 しかし、こんなことは、所詮、後知恵というのかもしれません。自分の過去にそのような「転機」を捜しはじめたら、そんなものはいたるところに見えてくるでしょう。ココア会議の廃止だけではありません。食器室での例の一件にしても、そう見ようと思えば「転機」と言えなくはありますまい。あの夜、ミス・ケントンが花瓶を抱えて入ってきたとき、私が少しでも違う対応をしていたら、あのあとどうなっていたか……。憶測はいくらでもできます。(中略)

 しかし、いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう。あのとき、もしああでなかったら、結果はどうなっていただろう……。そんなことはいくら考えても切りがありますまい、しまいには気がおかしくなってしまうのが関の山です。「転機」とは、たしかにあるものかもしれません。いま思い返してみれば、あの瞬間もこの瞬間も、たしかに人生を決定づける重大な一瞬だったように見えます。しかし、当時はそんなこととはつゆ思わなかったのです。ミス・ケントンとの関係に多少の混乱が生じても、私にはその混乱を整理していける無限の時間があるような気がしておりました。何日でも、何ヵ月でも、何年でも……。あの誤解もこの誤解もありました。しかし、私にはそれを訂正していける無限の機会があるような気がしておりました。一見つまらないあれこれの出来事のために、夢全体が永遠に取返しのつかないものになってしまうなどと、当時、私は何によって知ることができたでしょうか。(中略)

 私はミス・ケントンに質(ただ)さねばなりません。結婚生活が破綻したと思われ、そうだとすれば住む家のないミス・ケントンです。ダーリントン・ホールでも昔の地位にもどるつまりがあるかどうか、確認せねばなりません。

 じつは、今晩もまた、あの手紙を読み返しておりました。どうやら、私はところどころで、実際に書いてある以上の意味をそこに読み込んでいたようです。だんだん、そんな気がしてまいりました。しかし、ミス・ケントンの強い郷愁が表に現われている部分も、たしかにいくつかあるのです。その考えは変わっておりません。たとえば、「三階の客室から見える景色が私のお気に入りでした。真下には芝生、遠くにはダウンズが見えて……」などと書いてある部分では、とくにそれが感じられます。

 しかし、これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません。明日になれば本人に確かめられることです。》

⇒「一見つまらないあれこれの出来事のために、夢全体が永遠に取返しのつかないものになってしまうなどと、当時、私は何によって知ることができたでしょうか」は、個人の小さな恋愛感情だけでなく、歴史的なとてつもなく大きい出来事、対ナチス・ドイツとの「転機」においても考えなければならない。

 スティーブンスの一人称の回想のすべてが、「憶測はいくらでもできます」、「いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう」、「これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません」の自己正当化に思えてくる。

 

<おセンチな恋愛小説>

・(p236)《「ミスター・スティーブンス、私にご本を見せてください」

 ミス・ケントンは腕を伸ばし、私の手からそっと本を引きはがしにかかりました。(中略)

「まあ、ミスター・スティーブンス。嫌らしいどころか、これは、ただのおセンチな恋愛小説ではありませんか」

 もはや我慢すべきでないと思ったのは、このときだと存じます。私が実際に何と言ったのか、正確には思い出せません。しかし、断固たる態度でミス・ケントンにお引取りを願い、それでこの夜の出来事を終わらせたことは覚えております。

 このちょっとした事件の原因となった本につきましては、いま少し申し上げておくべきかもしれません。その本は、たしかに「おセンチな恋愛小説」と言われても仕方のない内容のものでございまして、ご婦人のお客様のために、読書室やいくつかの客室に用意してあるうちの一冊でした。私がそれを読んでおりましたのには、明快な理由があります。それは、その種の本を読むことが、英語力を維持し、向上させるのに、ひじょうにすぐれた方法であるからにほかなりません。(中略)たしかに「おセンチな恋愛小説」を選びがちだったのは事実ですが、それは、その種の本がよい英語で書かれ、利用価値の高いエレガントな会話を含んでいたからにほかなりません。(中略)とはいえ、いま振り返って正直に申し上げますと、ときにはそれを読んで思いがけない楽しみを味わったことも、ないわけではありませんでした。もちろん、当時の私は、いくら問い詰められても「楽しんだ」などと認めることはなかったでしょうが、いまの私には、「別に恥ずかしいことではなかったのに」という思いがあります。紳士淑女が恋に落ち、相手への気持ちを最高に優雅な言葉で語り合う小説です。それを読んで心にわずかな喜びを感じたとしても、どこに悪いことがありましょう。》

⇒勉強熱心なスティーブンスに思えるが、本当に、英語力を維持し、向上させるためだろうか。その種の本がよい英語で書かれ、利用価値の高いエレガントな会話を含んでいるとして(疑わしいが)、スティーブンスがお客様との通常の会話で使うとは決して思えないではないか。ここで、アイヒマンが官庁用語しか使えなかったことが思い浮ぶ。また、アイヒマンが相手の気持ちを思いはかることができなかったことも連想される。

 ときには思いがけない楽しみを味わったこともあったとは、スティーブンスの恋愛への好奇心と禁欲との相克を白状している。

 

<不思議な感情>

・(P250)《それに、ああした事件とほぼ同じ頃に起こったもう一つのことも、何らかの意味で「転機」だったには違いありますまい。ミス・ケントンが叔母さんの死を知った日の午後のことでした。(中略)

「明日がお葬式です。お休みをいただいてさしつかえございませんでしょうか?」

「もちろんです、ミス・ケントン。なんとかやりくりできるでしょう」

「ありがとうございます、ミスター・スティーブンス。まことに申し訳ありませんが、少し一人だけにしていただけますか?」

「わかりました、ミス・ケントン」

 私は部屋から出ましたが、そのとき、まだお悔みも言ってなかったことに気づきました。ミス・ケントンにとって、叔母さんは母親も同然の人でしたから、死亡通知がどれほどの打撃だったかは容易に想像できます。私は廊下に出たものの、すぐに引き返して、お悔やみを言うべきではなかろうかと迷いました。が、いまノックしたら、ミス・ケントンが悲嘆にくれている場に踏み込むことになるのではありますまいか。この瞬間、私からほんの数フィートのところで、ミス・ケントンは泣いているかもしれないのです。そう考えたとき、心に不思議な感情が湧き上がり、私はしばらくの間、迷いながら廊下に立ちつづけました。しかし、やはりお悔みには別の機会を待つべきだと考えて、私はようやくその場を立ち去りました。》

⇒「不思議な感情(a strange feeling)」というあいまいな両義的表現が読者を欺く。

 その後、ようやく午後になってからミス・ケントンを見かけたスティーブンスは、それまでの数時間、彼女の悲しみを少しでも軽くしてやるには何を言い、何をしてあげればよいだろうかと考えていたというのに、新しい女中たちの仕事ぶりの監督不足だと、まるで子供が好きな子に意地悪をしてしまうように詰(なじ)ってしまう。

 ミス・ケントンはそっぽを向いて、《不可解な何事かを解こうと努力している表情がよぎりました。感情が激するより先に、気が滅入ってしまった感じでした。》と語るスティーブンスの心境はどうなっているのだろうか。

 

 

<「奴隷には品格も尊厳もあったもんじゃない」>

・(p266)《ミスター・スミスからはすべての抑制が取り払われたようです。身を乗り出し、こうつづけました。

「だいたい、ヒットラーと戦ったのだって、そのためだったんでしょう? ヒットラーの言うなりになっていたら、今頃、みんな奴隷ですよ。世界全体が、一握りの主人と何百万何千万の奴隷に分れちまう。いまさら言うまでもありませんが、奴隷には品格も尊厳もあったもんじゃないですからね。だからヒットラーと戦って、やっと守ったんだ。自由な市民でいる権利をね。それがイギリス人に生れた特権ってもんですよ。どこの誰に生れついたって、金持ちだって貧乏人だって、みんな自由をもってる。(後略)」(中略)

 そして――なぜあんなことを言ってしまったのか、いまもってわかりません。ただ、あの状況の中では、そのように発言することが私に求められているように感じたのです――こう言いました。「私自身は、国内問題より国際問題に重きを置いておりました。いわゆる、外交政策ですな」

外交政策」という一言の衝撃的な効果は、私が驚くほどのものでした。一瞬にして、全員に畏怖の表情が浮かびました。私は急いで付け加えました。「いや、別に高いポストについていたというわけではありません。私はいつも非公式の立場から行動しておりまして、私に多少の影響力があったとしても、やはり非公式の場面に限定されておりましたから」しかし、驚きに満ちた沈黙はそれから何秒間もつづきました。

「あの、旦那様」と、ようやくミセス・テイラーが口を開きました。「旦那様は、ミスター・チャーチルにお会いになったことがございますか?」

「ミスター・チャーチルですか? さよう、あの方は何度か屋敷に来られました。しかし、素直に申し上げますとな、ミセス・テイラー、私が大きな問題に取り組んでおりました頃には、ミスター・チャーチルはまださほど重要な人物ではありませんでしたし、将来を嘱望されているというほどでもありませんでした。当時は、ミスター・イーデンやハリファックス卿のほうが、屋敷に頻繁に来られましたな」(中略)

「ミスター・イーデンてのはどんな人ですね? 個人的には、ってことですが。あれは、なかなかまともな人じゃなかろうかって印象をもってるんですがね。身分の高い人にも低い人にも、金持ちにも貧乏人にも、分け隔てなく話しかける人だろう、って。違いますか?」

「さよう、だいたいにおいて正しい見方でしょうな。しかし、もちろん、ここ数年間はミスター・イーデンにお会いしておりませんので、もしかしたら、重圧のもとでずいぶん変わられたかもしれません。政治に携わる人は、ほんの数年で見違えるほど変わってしまいますからね。それは、私が政治の世界で見聞してきたことの1つです」

ラシュディが「ちょうどナセルがスエズ運河を国有化した月にあたっているのだが、スエズでの失敗はイギリスの終焉を表すひとつの事件だったにもかかわらず、イギリスの衰退をひとつの主題としているこの小説は、その危機にふれていない」と指摘したように、スエズ危機への言及は抑制されている。というよりも、ラシュディは抑制された表現(understatement)と控えめに言い、サザーランドは「意図的な空白」、「芸術的目的を持った盲点」であると指摘している。

 

 ジョン・サザーランド「なぜスティーブンスはスエズ危機を聞いたことがないのか?」(けっこういいかげんなところもあって、ダーリントン卿が死亡したのは一九五六年のスティーブンスの旅の三年前と語られているから一九五三年のはずなのに一九四六年と計算され、ミス・ケントンの不幸は夫がしばしば妻を捨てて別な女のもとに走っているから、などと根も葉もないフェイクも書かれている)から。

《スティーブンスの六日間というのは、八月の終わりか九月のはじめということになる。

 当時の不吉な事件の歩み――一九五六年の次のような大事件を思い出してみよう。まず七月二六日、エジプトで、ナセル大統領がスエズ運河の国有化を発表(それまではフランスとイギリスの分割統治)。七月三一日、イギリス、フランス、アメリカが経済的制裁による報復措置。八月一六日、ロンドンでのスエズ危機をめぐる国際会議が「ダレス計画」を発表。九月九日、ナセルがスエズ運河を国際管理下に置くダレス計画を拒否。九月一九日、スエズをめぐる第二回ロンドン会議。十月二九日、イスラエルがイギリスとフランスとの長期間の秘密調停のあとエジプトへ侵攻。十月三十日、イギリスとフランスがエジプトへ最後通告、翌日から爆撃開始。スエズ戦争に関する世論の反発(とアメリカの圧力)のため、アントニー・イーデンは一九五七年一月九日、ついに辞任。

 カズオ・イシグロは一九五六年には二歳、まだ長崎に住んでいた。しかし七月から九月にかけて、スエズ危機はイギリス最大の時事問題であった。ところが『日の名残り』のどこにも、そのことは言及されていない。それなのに、スティーブンスは「私は国内問題よりも、どちらかと言えば国際問題にかかわっていました」などと自慢する。この問題は一九三九年以来の最大の国際問題であるだけでなく、それは同時にスティーブンスの世界の終わりをも意味しているのだ。もしイギリスの戦後史の中で最大の分岐点があるとすれば――すなわち古い秩序が崩壊した瞬間があるとすれば――それは一九五六年の九月である。それなのになぜこの小説にこのような盲点があるのか?

 まず確かなのは、これは芸術的目的を持った盲点であるということだ。いかにもイシグロらしい間接描写によって、彼は自分の小説が主張する主要なポイントをそれとなく示している。スティーブンスが戻っていくのは黄金色の夕刻(ダーリントン邸における日の名残り)などではない。彼はもう先のない道を歩いている。自分では知らないけれども、彼にはもう「名残り」はない。残るのは「死体」という意味の「残り物」だけだ。第二に、イシグロは微妙なアイロニーをここで提示している。イーデンがスエズであのような狂気の冒険を計ったのは、ミュンヘンの悪魔たちにけしかえられたから、すなわち「宥和政策」などあってはならないという気持ちからだ、というアイロニーである。たしかにイーデンが繰り返し言っていたのは、ナセルはヒトラーのそっくりさんだということであった。しかし時代は一九三八年とは違って、外交、国際協力――言うなれば「宥和政策」――こそがまさに採用すべき正しい政策なのであった。まさに、一九二〇年代と一九三〇年代にはあれほど悲劇的に間違っていたダーリントン卿の話し合いと緊張緩和の政策が、一九五六年の秋にはあのものずばりの正しい政策だったのである。》

 このサザーランドの見解に賛同するか否かはともかく、「芸術的目的を持った盲点」というところには惹きつけられるものがある。けれども、ミュンヘン協定とスエズ危機との、宥和政策の無効/有効の逆転という歴史的アイロニーを感じさせるための「芸術的目的を持った盲点」と言われてもピンとこない。

 

 映画では、スエズ運河でヘマをやったと村人に言わせてしまうので「盲点」は消失した。スティーブンスがミス・ケントンに再会するのは、映画では十月三日頃だから、その時点ではイーデンはまだ強硬政策をとっておらず、ヘマをやったという結末はついていなかったのではないか。

《「チャーチル首相にお会いになった事は?」

「屋敷に来られた。1930年代の初めに何度か」

「あいつが戦争を」「彼のお蔭で戦争に勝てたんだぞ」「ドイツの鉱山ストライキを武力で抑圧した」「だが戦争に勝った」「だが戦後は引退すべきだった」

「イーデン首相は?」「スエズ運河でヘマを」

「イーデン首相にも何度か会った」》

 

<「この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」>

・(P281)《スペンサー様は、やや物憂げなご様子で肘掛椅子にすわり、そのままの姿勢でしばらく私をながめておられました。そして、こう言われました。

「さて、執事殿、君に尋ねたいことがある。じつは、先ほどからある問題について皆で話し合っているのだが、埒があかない。是非、君に助けてほしい。どうだろう、これほど貿易が停滞してしまったのには、やはりアメリカの債務状況が強く関係しているのだろうか。それとも、そんなことはまったくのでたらめで、じつは金本位制の廃止こそ問題の根幹にあるのだろうか」

 もちろん、この質問には少し驚きましたが、私はたちまち状況を飲み込みました。私に期待されているのは、明らかに、この質問に当惑して見せることに違いありますまい。(中略)

「まことに申し訳ございません」と私は申し上げました。「この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」

 お客様方はひそひそ笑いをつづけておられましたが、このときまでに、私は居間の状況をすっかり把握しておりました。掌握していたと言ってよいかもしれません。スペンサー様はつぎにこう言われました。

「では、少し別の問題で助けていただこうかな、執事殿。フランスとボルシェビキ・ロシアが軍備協定を結んだら、ヨーロッパの通貨問題は緩和するだろうか、それとも悪化するだろうか」

「まことに申し訳ございません。この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」

「やれやれ、この問題でも執事殿は助けてくれないのか」(中略)

「それなのに」とスペンサー様がつづけられました。「われわれは国の意思決定を、この執事殿や、その数百万のお仲間に委ねようと言い張っている。この議会政治という重荷を背負っているかぎり、さまざまな困難に少しも解決策を見出せないのは当たり前のことではないか。母親の会に戦争の指揮をとってくれと頼んだほうがまだましだ」

⇒このシーンは映画でも短いが効果的に再現された。

 ここにはジャン・ジャック・ルソーの「民意」「世論」「一般意思」や、「議会制民主主義」「ファシズム」という今日でも通用するテーマが問題提起されている。

「三日目――夜」もまたダーリントン卿崇拝と「忠誠心」で閉じてゆく。

 

 

「四日目――午後」

 

<圧倒的な解放感だった>

・(P296)《まったく突然に、医師はこんなことを言いました。

「無礼と思われたら困るんだが、もしかしたら、あなたはどこかのお屋敷の召使ということはありませんか?」

 この言葉を聞いたとき、私がまず感じたのは圧倒的な解放感だったことを告白せねばなりません。

「さようでございます。私はオックスフォード近くのダーリントン・ホールで執事をしております」

「そうじゃないかと思った。ほら、ウィンストン・チャーチルに会った、誰に会ったという件ね? 考えたんですよ。こいつは大嘘つきか、それとも……。そして、はっと思い当たったなんだ、簡単に説明がつくことじゃないか、ってね」

 カーライル医師は、曲りくねった急な上り坂に車を走らせながら、にっこり笑って私のほうを振り向きました。

「私には、どなたもあざむくつもりはなかったのでございます、カーライル様。しかし……」

⇒映画では小説と違ってカーライル医師は控え目ではなく、ダーリントン卿のナチスとのことがフレームアップされる。ペテロのスティーブンスはいったん知らないと答える。が、降りてガソリンを注ぎながら、あれは嘘だったと告白する。カーライル医師はスティーブンス自身の考えはどうだったのかをしつこく尋ねるが、これは秘密会談でのレジナルド・カーディナルの問いと同じ問いかけである。

 

《「ダーリントン? 英国を戦争に巻き込んだ、ナチ擁護派の貴族の?」

「その方は存じません」

「雇い主は米国人のルイス氏です」

ダーリントン卿はヒトラーと協定を結ぼうとした。その事で戦後、新聞社を名誉棄損で訴えた。エクスプレス紙かクロニクル紙か」

「存じません」

「裁判で負けた。反逆罪に問われて当然だった」

(中略)

「さっき申し上げた事は嘘です。私はダーリントン卿に仕えました。立派な方でした。真の紳士で、あの方に仕えた事は私の誇りです」

(中略)

「君も彼と同じ考えを? ダーリントン卿だよ」

「私は執事で、考えが合う合わないは関係ありません」

「だが信頼を?」

「心から。亡くなる前は、ご自分の過ちを認めておいででした。“相手を信じすぎた自分が間違ってた”と」

「なるほど」

「どうも。お手数をかけました」

(中略)

「しつこく聞いて申し訳ないが、君自身の気持ちは? 自分の過ちならあきらめもつくが、どのように

心の整理を?」

「私自身も私なりに過ちを犯したのです。その過ちを正したくて、この旅も実はそれが目的なのです」》

 あろうことか懺悔の旅とまでスティーブンスに言わせるが、原作小説では、旅の前にスティーブンスにそこまでの罪悪感、反省意識があったとは到底思えない。旅のなかで次第に意識が深まっていったはずだ。映画では「信用できない語り手」という伏線は表現されてこなかったから、このシーンを観た人は「信用できる語り手」スティーブンスの発言、自己正当化をまるごと信用してしまうだろう。しかしそれでは、最後に「ひび割れ」が入らない。

 

<ある一つの思い出が心から消えません>

・(P303)《とりわけ、ある一つの思い出が心から消えません。思い出というより、記憶の断片と言ったほうが適切でしょうか。ほんの一瞬のことが、この二十年間、なぜかいつも鮮明に思い出されるのです。それは、私が裏廊下に一人立っている記憶です。目の前には、ミス・ケントンの部屋の閉じたドアがあります。いえ、私はドアに向かって立っているのではありません。体が半ばドアのほうに向きかけて、はたしてノックしたものかどうか決断しかねているところなのです。このドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いている……。その思いにうたれた直後のことだったのを覚えております。この裏廊下での一瞬と、そのとき胸中に湧き起こってきた名状しがたい感情の渦のことは、私の脳裏にしっかりと刻み込まれ、いつまでたっても消えることがありません。

 しかし、私がなぜ裏廊下に一人立ち尽くしていたのか、どのような状況のもとでそういうことになったのかは、定かではありません。前後の様子を思い出そうとして、もしかしたら、これはミス・ケントンが叔母さんの死亡通知を受け取った直後のことではないか、と考えたこともあります。一人だけで悲しみにふけりたいというミス・ケントンを部屋に残し、廊下へ出たとたん、まだお悔みを言っていなかったことに気づいた。あのときのことではないか……と。しかし、さらによく考えてみますと、やはり違うのかもしれません。この記憶の断片は、ミス・ケントンの叔母さんの死から少なくとも数カ月たってから、全く別の脈絡の中で起こったことのようにも思われます。さよう、レジナルド・カーディナル様が不意にダーリントン・ホールに現われた、あの夜のことだったのかもしれません。》

⇒映画では、ミス・ケントンの叔母の死を知らせる手紙と、その直後に泣き声を聞いて廊下に立ち尽くすシーンは存在しない。ここにも「偽装と転嫁は一体となって機能する」の模範例がある。「胸中に湧き起こってきた名状しがたい感情(the peculiar sensation I felt rising within me.)」という多義的表現で読者を惑わす。

 

<「あなたのことをあれこれと話し合って時間を過ごしたことも多いのですよ」>

・(P315)《「ご存じかしら、ミスター・スティーブンス? 知合いと私にとって、あなたはとても重要な人物だったのですよ?」

「さようですか、ミス・ケントン?」

「そうですわ。あなたのことをあれこれと話し合って時間を過ごしたことも多いのですよ、ミスター・スティーブンス。たとえば、あなたが指で鼻をつまむ格好が私の知合いのお気に入りでしてね、ほら、食事時に、あなたが胡椒を振りかけるときになさるあの格好が……。私に会うと、やれと言ってききません。やってみせると、いつも大笑いしますわ」

「なるほど」

「それに、あなたが召使に与える“訓示”も気に入っているようですわ。あなたの演説口調の物真似では、私はもう名人クラスですもの。出だしのところをちょっとやってみせるだけで、二人とも笑い転げてしまいます」

⇒同じようなシーンが、二人の再会の場面でも現れる。

《そして、ミス・ケントンは、ドーセット州に住む娘さんの住所を私に教え、帰り道には是非立ち寄っていくようにと言いました。ドーセット州の辺りは、私の帰り道からだいぶはずれております。わたしはそのことを説明いたしましたが、ミス・ケントンはあとへ引かず、「キャサリンはあなたのことなら何でも聞いて知っているんですよ、ミスター・スティーブンス。立ち寄ってやってくだされば、大喜びしますわ」と言いつづけました。ミス・ケントンが本気であることを知り、私はたいへん感激いたしました。》

 この女心をどうとらえるべきか、生来の性格なのかはともかく、なぜかほっとするような、まるでブロンテ姉妹かジェーン・オースティンの小説のような奥行きを与えていることはたしかだ。

 

<好奇心をあからさまにする立場にはございません>

・(P320)《「残念ながら、私にはわかりかねます」

「残念ながらか、スティーブンス。ほんとうかな? ほんとうに残念ながらかな? 君は好奇心を刺激されるということがないのかい? いま、このお屋敷で決定的な大事が進行しているんだよ。君の好奇心はそれでも眠っているのかい?」

「私は、そうしたことに好奇心を抱く立場にはございません」(中略)

「好奇心が湧かないというのではございません。しかし、そのような問題につきまして、好奇心をあからさまにする立場にはございません」

「立場にない? そうか、君はそれが忠誠心だと思っているわけだ。違うかい? それが忠誠心だと思っているんだろう? 卿への? それとも国王へのかな?」

「申し訳ございません、カーディナル様。私にどうせよとのご提案でございましょうか?」(中略)

「君は平気かい? スティーブンス? ダーリントン卿が崖から転げ落ちようとしてるのを、黙って見ているつもりかい?」

「申し訳ございません。何のことを言っておられるのか、私にはよく理解できかねます」(中略)

「教えてくれないか、スティーブンス? もしかしたらぼくの言うことが正しいかもしれないとは――たとえどれほどわずかでも、その可能性があるとは――君にはまったく考えられないのかい? ぼくの言っていることに興味すら覚えないかい?」

「申し訳ございません、カーディナル様。私はご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」

⇒レジナルド・カーディナルによってダーリントン卿の客観的な姿が明かされるシーンは、カーディナルがベルギーで戦死し、新聞におぞましく書きたてられて裁判に負け、廃人同様だったダーリントン卿の居間にお茶を持って上ると悲劇的な光景だった、と再会したミス・ケントンに話されることで、一層の悲劇性を増す。

 

 映画はナチスをめぐる政治的なことに関しては小説にない補填までして主張している。

 たとえば、黒シャツを引き連れてダーリントン・ホールを訪問したジェフリー卿のユダヤ人、ジプシー、黒人に対する差別発言とドイツの収容所への強い言及が映像化されている。

《「ユダヤ人や黒人、その他の人種問題。私はナチの人種政策を擁護する。遅きに失したという感すら持っておる」

「しかし英国は……」

「懲罰システムなくして国家は統治できない。“刑務所”と“強制収容所”は呼び名の違いだけだ」》

 

 一九三六年の秘密会談で、駐英ドイツ大使リッベントロップとイギリス首相、外相らはチェコスロバキアをめぐる会話(一九三八年のズデーテン危機とミュンヘン協定を先取りしすぎているかもしれない)をしているけれども、これも映画だけの特別なシーンだ。

《「わが大英帝国を参戦させる気はない。英国から遠く離れた国の争いだ。その民族にも馴染みがない」

チェコスロバキアのために英国の若者を犠牲にするなど」

「ドイツにとってチェコはいわば裏庭。他国の介入する問題ではない」

「総統閣下は心から平和を望んでおられる。だが小国が大ドイツ帝国を愚弄すればお許しにはなりません」》

 

 

<不当に道草をくったはずがありません>

・(P326)《「ミスター・スティーブンス、先ほど私が申し上げたことを本気にしてはいけませんわ。わたしがただ愚かだったのですから」

「あなたが言われたことを本気になどしておりません。ミス・ケントン。と言うより、あなたが何のことを言っておられるのか、私には思い出すことすらできません。わが国の大事がいま二階で進行しているのです。ここであなたと軽口を叩き合っている暇はありません。あなたも、もうお休みになったほうがよろしい、ミス・ケントン」(中略)

 さよう、私の記憶に深く刻み込まれておりますのは、やはり、あの瞬間のことだったに違いありますまい。私は両手にお盆をもち、廊下の暗がりの中に立っておりました。そして、心に確信めいたものが湧いてくるのを感じておりました。この瞬間、ドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いているのだ……と。それを裏付ける証拠は、何もありません。もちろん、泣き声などが聞こえたわけではありません。が、あの瞬間、もしドアをノックし、部屋に入っていたなら、私は涙に顔を濡らしたミス・ケントンを発見していたことでしょう。当時もいまも、そのことは信じて疑いません。

 どれほどの間そこに立っていたものでしょうか。ずいぶん長い間立ち尽くしたようにも思いますが、実際はほんの数秒間だったに違いありますまい。わが国で知らぬ者のない著名な方々のご用で、私は二階へ急ぐ途中だったのです。不当に道草をくったはずがありません。》 

⇒ミス・ケントンが結婚の報告をしたのに、スティーブンスが素っ気ない言葉しかかけなかったすぐ後で、ダーリントン卿に命じられて酒蔵からとびきり上等のポートワインを持って上る途中の出来事だ。「不当に道草をくったはずがありません」の複雑な意味合いを、映画ではあろうことかドアを開けて部屋に踏み込み、悲嘆にくれて泣いているミス・ケントンを発見する。あげくのはては叔母の死亡の手紙を受け取った直後に、ミス・ケントンの仕事ぶりに手抜かりがあると詰るシーンを持って来てしまう抑制のなさ。

 

<アーチの下の持ち場>

・(P328)《ホールを横切り、私はまたアーチの下の持ち場にもどりました。そして、ほぼ一時間後にお客様がお帰りになるまで、そこで待機しつづけました。何事も起こらず、ただその場に立っていただけの一時間でしたが、あのときのことは、二十年たったいまになっても鮮明に思い出すことができます。ご想像のとおり、私はたしかに最初は気が滅入っておりました。が、立ちつづけている間に、じつに奇妙なことが起こったのです。いつの間にか、心の奥からしだいに大きな勝利感が湧き上がってきたのです。

 当時の私がこの感情をどのように分析したものか、いまでは覚えておりません。しかし、今日振り返りますと、説明は容易につくように思われます、私にとりまして、あの夜はきわめて厳しい試練でした。しかし、あの夜のどの一時点をとりましても、私はみずからの「地位にふさわしい品格」を保ちつづけたと、これは自信をもって申し上げられます。おそらく、あの夜の私なら、父も誇りに思ってくれたことでしょう。そして、私が注視しつづけた、ホールの向こうのドアの内側では――私がたったいま任務を遂行してきた部屋の中では――ヨーロッパで最も大きな影響力をもつ方々が、大陸の運命について意見を交わしておられたのです。あの瞬間、私がこの世界という「車輪」の中心にいたことを誰が疑いえましょう。そして、あの夜の私をうらやまぬ執事がどこにおりましょうか。》

⇒この「アーチ」はウェークフィールド夫人に「まがい物」と指摘されたそれである。「君まで“まがい物”」が真実であるかのように、まがい物のアーチの下に何時間も立ち尽くし、勝利と高揚感に浸るスティーブンス。一九二三年の国際会議では父の死、一九三六年の秘密会談ではミス・ケントンの結婚の報告という試練を乗り越えて、品格を守り、世界の車輪の中心にいたと自負するスティーブンス。その夜、命じられるままに、とびきり上等のポートワインを酒蔵から運んだだけなのに。

 

 

「六日目――夜」

 

<「私がそんなことを書いたはずがありませんわ」>

・(P338)《「ミスター・スティーブンス、一人で何を笑っておられますの?」

「いや……申し訳ありません、ミセス・ベン。ただ、あなたが手紙の中に書いておられたことを、ちょっと思い出したものですから。あれを読んだときは少し心配したものでしたが、いまでは無用の心配だったことがわかります」

「あら。どんなことを書いたのでしたかしら?」

「とくに申し上げるようなことではありません、ミセス・ベン」

「あら、教えてくださらなければいやですわ、ミスター・スティーブンス」

「さようですか、ミセス・ベン」と、私は笑いながら言いました。「たとえば、手紙のあるくだりで――さて、正確にはどうでしたか――『これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています』というようなことを書いておられました」

「ほんとうですかしら、ミスター・スティーブンス?」やはり笑いながら、ミス・ケントンが言いました。「私がそんなことを書いたはずがありませんわ」

「いえいえ、ほんとうに書かれたのですよ、ミセス・ベン。私ははっきり覚えています」

「いやですわ。でも、そんなふうに感じた日もきっとあったのでしょうね。でも、ミスター・スティーブンス、そんな日はすぐに過ぎ去っていきます。はっきり申し上げておきますわ。私の人生は、眼前に虚無となって広がってはありません。なんといっても、ほら、もうすぐ孫が生まれてきますもの。このあと、何人かつづくかもしれませんし」

「そうですとも、ミセス・ベン。あなた方にとってはすばらしいことでしょう」

 二人はしばらく黙ったまま、ドライブをつづけました。やがて、ミス・ケントンがこう言いました。

「あなたにとってはどうなのですか、ミスター・スティーブンス? ダーリントン・ホールでのあなたには、どんな将来が待ち受けているのでしょう?」

「さて、何が待ち受けているにせよ、それは虚無ではありますまい、ミセス・ベン。私などは、そうであってくれればと願わないでもないのですよ。しかし、とんでもない。仕事、仕事、また仕事でしょう」

 二人は同時に笑い出しました。

⇒読者の誰もが気づくように、「五日目」がない。より正確には、四日目の夜から六日目の午後までが省略されていて、スティーブンスの語りの時刻は、「四日目――午後」から「六日目――夜」に飛ぶ。

 結局、小説ではスティーブンスはミス・ケントン(ミセス・ベン)に、ダーリントン・ホールに戻る気はないか、と問うことをしなかった(夫を愛しているのか、は遠まわしにしつこく尋ねたのに、というのはそれがずっと最重要の気がかりだった)、ミス・ケントンが語る身の上話、家族の現状を知れば、問うまでもなく自明だったから、いつもの奇妙な笑いで自分の感情をごまかしている。

 しかし映画でははっきりと尋ねる。

《「人手不足でして」

「お手紙で読みました。それで私も、もう一度勤めをと」

「よかった」

「ところが事情が変わったんです。もし勤めるようならこの近辺でないと。娘のキャサリンに赤ん坊ができるんです。そばにいてやりたいんです。孫が大きくなるのを近くで見たいし……」

「わかります」》

 

<「結局、時計をあともどりさせることはできませんものね」>

・(P342)《「ミスター・スティーブンス、おそらくお尋ねになっているのは、私が夫を愛しているかどうかということですのね?」

「いえ、ミセス・ベン、私はそのような大それた……」

「お答えすべきだと思いますわ、ミスター・スティーブンス。おっしゃるとおり、もうこれから何年もお会いすることがないかもしれませんもの。ええ、ミスター・スティーブンス、私は夫を愛しています。最初は違いました。最初は、長い間、夫を愛することができなかったのだと思います。ダーリントン・ホールを辞めたとき、私にはほんとうに辞めるという気がなかったのだと思います。ただ、あなたを困らせたくて、きっと、辞めることもそのための計略の一つくらいに考えていたのでしょう。それが気がついてみると、突然、西部地方に来ていて、ほんとうに結婚しているのですもの、ひどいショックでしたわ。長い間、私は不幸でした。たいへん不幸でした。でも、時間が一年一年過ぎていき、戦争があり、キャサリンが大きくなり、そしてある日、私は夫を愛していることに気づきました。これだけ時間をともにすると、いつの間にか、その人にも慣れるのでしょうね。夫は優しい、堅実な人です。そうですわ、ミスター・スティーブンス。私は夫を愛せるほどに成長したのだと思います」

 ミス・ケントンはしばらく黙り込みました。そして。こうつづけました。

「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を――よりよい人生を――たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を――考えたりするのですわ。そんなときです。つまらないことにかっとなって、私が家出をしてしまうのは……。でも、そのたびに、すぐに気づきますの。私のいるべき場所は夫のもとしかないのだ、って。結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

 ミス・ケントンのこの言葉に、私はすぐに返事をしたとは思われません。聞いた言葉を噛み締めるのに一瞬を要しました。それに――おわかりいただけましょう――私の胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。いえ、いまさら隠す必要はありますまい。その瞬間、私の心は張り裂けんばかりに痛んでおりました。しかし、私はやがてミス・ケントンのほうを向き、笑みを浮かべてこう言いました。

「おっしゃるとおりです。ミセス・ベン。おっしゃるとおり、いまさら時計をあともどりさせることはできません。そのような考えがあなたとご主人の不幸の原因でありつづけるとしたら、私はこれから安心して眠ることさえできなくなります。さよう、ミセス・ベン、私どもは、みな、いま手にしているものに満足し、感謝せねばなりますまい。それに、うかがったかぎりでは、あなたには満足すべき十分な理由があるではありませんか。ミスター・ベンが隠退され、お孫さんが――おそらく、これから何人も――お生まれになるのです。あなた方お二人は、きわめて幸せな年月を迎えようとしておられます。愚かな考えを抱いて、当然やってくる幸せをわざわざ遠ざけるようなことをしてはなりますまい」

「ありがとうございます、ミスター・スティーブンス。そのように心がけますわ」

「ミセス・ベン。どうやらバスが来たようです」》

⇒ここで、スティーブンスは直接話法の会話のなかでは畏まって「ミセス・ベン」と言っているけれど、地の文ではミス・ケントンのままであって、地の文がスティーブンスの深層心理、欲望を表出しているととることができる。このような深層心理による言葉の露呈は他の場面でもあって、カーライル医師からカーライル様と呼ぶのはやめてくれないか言われても、執拗に「様(sir)」と呼んでしまう(翻訳では、文末のsirの訳が難しいので、あまりわからないが)職業上の習慣をみてとれる。

 人生とはそんなものかもしれないというエッセンスが詰まっている。次の言葉をもって、ミス・ケントンの恋心を見逃していたとする読みもある。「たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を」と呟いてはいるけれど、「愛していた」とまでは語っていないし、「たとえば」でもある。「そのような考えがあなたとご主人の不幸の原因でありつづけるとしたら」の「そのような考え」、「愚かな考えを抱いて」の「愚かな考え」もまたスティーブンスの手前勝手な解釈であるかもしれない。

「ミス・ケントンのこの言葉に、私はすぐに返事をしたとは思われません」とは、わずか二日前のことなのに遠い出来事を回想しているかのようではないか。

 

<夕方こそ一日でいちばんいい時間だ>

・(P345)《桟橋の色つき電球が点燈し、私の後ろの群衆がその瞬間に大きな歓声をあげました。いま、海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っております。しかし、三十分ほど前からこの桟橋に集まりはじめた人々は、みな、早く夜のとばりがおりることを待ち望んでいるかのようです。先ほどの人物の主張には、やはり、いくぶんかの真実が含まれているのかもしれません。しばらく前までこのベンチにすわり、私と奇妙な問答をしていったその男は、私に向かい、夕方こそ一日でいちばんいい時間だ、と断言したのです。たしかに、そう考えている人は多いのかもしれません。そうででもなければ、ただ桟橋のあかりがついたというだけで、あれだけの歓声が自然発生的に湧き上がるものでしょうか。(中略)

「おやおや、あんた、ハンカチがいるかね? どこかに一枚もっていたはずだ。ほら、あった。けっこうきれいだよ。朝のうちに一度鼻をかんだだけだからね。それだけだ。ほら、あんたもここにやんなさい」

「いえ、結構です。私は大丈夫でございます。申し訳ありません。きっと旅行でくたびれているのございましょう。申し訳ありません」

「あんたは、その何とか卿という人をよほど慕っていたんだね。亡くなってから三年たつって? その人のことがよほど好きだったに違いないな」

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気ある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意志でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」

⇒映画では、老人が、後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ、夕方が一番いい、と語るシーンは、撮られはしたがカットされてしまった。そして、なぜかミス・ケントンがベンチに坐って代役を務めた(二人の人物を一人に、二つの出来事を一つにするこの映画の手法)。「自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません」という重要な告白も、品格ある執事なら絶対にありえない人前で涙を流してハンカチを差し出されることもなく。

 

 イーヴリン・ウォーとの類似性は、吉田健一のエッセイ「ブライヅヘツド再訪」からも読みとれる。

《又この小説に差してゐる光が落日のものであるのは間違ひないことである。ウォオ自身が英国に差してゐるのが落日の光と見てこれを書いたので、その五年後の序文でこれが当つてゐなかったことを認めてゐても別な考へ方をするならば落日が一日の終りであることにならないのは夕日がその一日の一切を照し出すことを妨げない。これが斜陽の本当の意味であつてウォオが予想したことの性質は兎も角「ブライヅヘツド再訪」でこの光が小説の細部まで浮び騰がらせてゐる感じがするのは再びその作者が凡てを過去に置き、そのどのような記憶も逃すまいとしてこれを書いたことを我々に思ひ出させる。我々自身が落日を浴びた景色を眺めてゐる状態を考へるといいのでそれは豊かなものであるとともに眼がこの時のやうに正確に働くことはない。それは人間の精神が休息を喜ぶのに似てゐる。》

 

<ジョークの練習>

・(P353)《本腰を入れて、ジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません。人間どうしを温かさで結びつける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為とは言えますまい。

 主人が執事に望む任務としても、ジョークは決して不合理なものではないように思えてまいりました。(中略)ファラディ様は、まだ一週間はもどられません。まだ多少の練習時間がございます。お帰りになったファラディ様を、私は立派なジョークでびっくりさせて差し上げることができるやもしれません。》

⇒この小説の末尾のジョークに関するアイロニーもまた映画では扱われなかった。ダーリントン・ホールに戻ってきたスティーブンスは、迷い込んだ鳩が飛び出ていった窓を閉め(あたかもまた、仕事、仕事、仕事の執事に閉じこもるかのように)、ダーリントン・ホールを上へ上へと遠景撮影がどんどん引いて、見はるかす美しい田園風景でエンディングとなる。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《私が書き終えたばかりの物語は、イギリス人執事の話です。彼は誤った価値観によって人生を誤ったと悟りますが、すでに遅しです。執事として、人生最良の年月をナチ・シンパの主人に捧げてきました。自分の人生なのに、自分で道徳的・政治的責任を負わずにきたことによって、人生をいわば無駄にしたことを深く悔やみます。それだけではありません。完璧な召使いであろうとするあまり、大切に思う1人の女性がいながら、それを愛し、それに愛されることを自らに禁じます。

 

 私は書き上げた原稿を何度も読み返して、まずまず満足していました。同時に、何かが足りないという小さな思いを抑えられずにいました。

(中略)

 トム・ウェイツを聴いて、私は何をやるべきかを悟りました。イギリス人執事には最後まで感情の防壁を維持してもらい、その防壁によって自分からも読者からも自分自身を隠しきってもらう……。書いている途中のどこかで、私は無意識にそう決めていたのだと思います。いまやるべきことは、その無意識の決定を覆すことです。物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ覆そう。その一瞬を慎重に決め、まとった鎧に一筋のひび割れを起させよう。鎧の下にある大きくて痛ましい願いを、読者に垣間見てもらおう。》

 

 さて、イシグロが言う「物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ覆そう」とし、「まとった鎧に一筋のひび割れを起させよう」としたそれは、具体的にはいったいどこだろう。

 ミス・ケントンが孫娘を理由にダーリントン・ホールに戻ることを断った時だろうか。「もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を――よりよい人生を――たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を――考えたりするのですわ」という思いがけない言葉を聞いた時だったか。それとも、桟橋の老人の「夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」と声を掛けられ、執事の衣裳を脱いで「完全に一人だけでいるときしか」見せないはずの涙を流した時だろうか。桟橋の見知らぬ人々がジョークを言い合いながら人間的暖かさで結ばれているのに気づいた時だろうか。

 読者が自分の頭で思考することを求めているような気がしてならない。

  

 

[附 丸谷才一の『日の名残り』書評]

 

 丸谷才一の『日の名残り』書評は、『日の名残り土屋政雄訳(早川epi文庫)の解説として「旅の終り」という題で掲載された。丸谷はデイヴィッド・ロッジを高く評価しているが、彼の「信用できない語り手」について何ら言及していないのは、不思議と言えば不思議である。

ウッドハウスの滑稽小説に出て来るバーディ・ウースターとジーヴズは、ドン・キホーテサンチョ・パンサシャーロック・ホームズとワトソンと同じくらゐ有名な二人組である。呑気で人のいい貴族が社交界で失敗すると、賢明な執事が主人公を救ふといふのが、ジーヴズものの基本の型だつた。この型によつてウッドハウスは、第一次大戦の終りまでの、つまり最盛期のイギリス社会を楽しく諷刺した。
 イシグロの長篇小説『日の名残り』の主人公スティーブンスは執事である。彼は以前、政界の名士であるダーリントン卿に使へてゐて、有能な執事として自他ともに許してゐた。しかし彼には第二次大戦前夜から戦後にかけてのダーリントン卿の重大な失敗を救ふことなどもちろんできなかつたし、そして自分自身の私生活もまた失敗だつたと断定せざるを得ない。旅の終りにそのことを確認して、スティーブンスは海を見ながら泣く。夕暮である。桟橋のあかりがともる。『日の名残り』はそれゆゑ、まるでウッドハウスジーヴズもののきれいな裏返しのやうにわたしには見えた。
 つまりイシグロは大英帝国の栄光が失せた今日のイギリスを諷刺してゐる。ただしじつに温和に、優しく、静かに。それは過去のイギリスへの讃嘆ではないかと思はれるほどだ。ダーリントン・ホールはいまアメリカの富豪の所有に帰し、スティーブンスは彼に雇はれてゐるのだが、このアメリカ人は親切な男で、自分が帰国して留守のあひだ、数日イギリスを見物しろと執事にすすめる。その旅で彼が眺める田園風景と同じくらゐ、古いイギリスの倫理は肯定されてゐるやうだ。
 しかし物語は整然とそしてゆるやかに展開して(イギリスの読者たちはこの精妙な技術にホンダやソニーと同種の洗練を感じたかもしれない)、スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてこの残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかつた、といふ認識と重なりあふ。
 これは充分に悲劇的な物語で、現代イギリスの衰へた倫理と風俗に対する洞察の力は恐ろしいばかりだ。これだけ丁寧に歴史とつきあひながら、しかしなまなましくは決してなく社会をとらへる方法は、わたしを驚かす。殊に、登場人物に対する優しいあつかひがすばらしい。イシグロは執事、女中頭、貴族をユーモアのこもつた筆致で描きながら、しかし彼らの悲劇を物語つてゆく。
 あるいは、悲劇を語りながら、ユーモアを忘れない。わたしはその余裕のある態度を望み見て、イシグロが川端康成にではなくディケンズに師事してゐることを喜んだ。海を見ながら泣く執事に、見ず知らずの男は、今朝一ぺん鼻をかんだきりだと言つてハンカチを貸さうとする。執事はそれを断つてから、むやみに冗談を言ふことが好きなアメリカ人の雇ひ主のため、冗談の練習をしようと思ひ立つ。
 土屋政雄の翻訳は見事なもの。

 

 これはわたしが一九九〇年十一月に「週刊朝日」のために書いたカズオ・イシグロ日の名残り』の書評である。初出の題はわからないが、わたしの本『木星とシャーベット』に収めるときには『桟橋のあかり』といふ題をつけた。読み返してみて、大筋のところではこれでいいし、よくまとまつてゐると思ふので、敢へて再録し、その上で、枚数が足りないせいで言ひ残したことを付け加へよう。十年という歳月のせいでの変化は、たとへあるとしても僅かなはずだ。わたしは相変らず、このよく出来た長編小説に好意を寄せてゐる。

 イギリス小説史の専門家たちがよく使ふ「英国の状態」小説といふ術語がある。

 一八四〇年代のイギリスは、前世紀の経済的発展のせいで困つたことになつてゐたし、すくなくとも政治家たちや政治評論家たちはそのことに気がついてゐた。産業革命のためだ。これをカーライルは「英国の状態」問題と形容したが、この言葉は一種の流行語となり、派生語を生じた。このころに書かれた政治小説(たとへばディズレリーのもの)や社会問題小説(たとへばギャスケルのもの)が「英国の状態」小説と呼ばれるやうになつたのである。一つには、この種のことを取上げるのに肩ひじ張つた政治論や経済論よりも小説といふ女性的な形式のほうが具体的で好都合だといふ事情もあつたし、さらに、もともとイギリス小説は十八世紀以来、社会全体に対して関心をいだくものだつた。社会のなかで生きるといふ傾向の強い国民だし(従つてその反動で奇人も多くなる)、それに小説が大好きだから、自然かういふことになる。

 イギリス小説のそんな性格を十九世紀で最もよく見せるのがディケンズだとすれば、二十世紀ではE・M・フォースターだらう。そしてイシグロの『日の名残り』は、まさしく「英国の状態」小説ともいふべき、社会全体の展望の書となつてゐるが、イシグロの作品によつてまづ連想されるのはフォースターの『ハワーズ・エンド』である。その優しくて皮肉な洗練といひ、社会小説めかした野暮つたい構へを表面はちつとも見せないのに骨組はまさしく社会小説であることといひ、この長編小説は『ハワーズ・エンド』によく似てゐるのだ。

 そのための絶好の仕掛けは執事といふ主人公=語り手だつた。それはあの格式の高い、貴族支配の国の移り変りを物語るのに打つてつけのもので、どうして今まで誰もこの工夫に気づかなかつたのかといふ気がするけれど、多分みんながウッドハウスジーヴズに何となく遠慮したせいに相違ない。それとも、恐れをなした結果といふべきか。とすれば、イシグロの発明は、スリラーの方法を移入したグレアム・グリーン、少年冒険小説の設定を借用したゴールディングに近いといふことになる。彼は執事といふイギリス上流社会の特産品を滑稽小説から普通の小説へと奪還し、あの特殊な職業によつてイギリスの国運を占つた。

「従僕の眼に英雄なし」といふヘーゲルの名文句がある。ただし彼は、「それは英雄が英雄でないからではなく従僕が従僕だからだ」と言ひ添へる。服を着せたり長靴をぬがせたり、身のまはりを世話してくれる卑小な男にかかると、どんな歴史的人物も偉大なところが見えなくなる、欠点しか目につかない、といふわけだ。さういふ理屈で押し切ることで、ヘーゲルは彼の歴史哲学を構築した。そしてたいていの歴史小説は、英雄を従僕の眼で見る手法と、英雄崇拝的な民衆の眼で見る態度とをまぜあわせることで成立つてゐる。

 イシグロの方法はさうではない。彼のスティーブンスはダーリントン卿に心服してゐた。尊敬すべき大物だと信じ切つてゐた。つまりダーリントン卿は従僕にすら軽蔑されない偉大な存在だつた。さういふ、敬愛といふよりはむしろ畏怖の対象である貴族への評価が次第に崩れてゆく、そのいはば公的な悲劇となひまぜにして、この従僕はまた私的な悲劇を持つ。女との関係を回顧して、自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ。この公私両方の認識の深まり方につきあふのが『日の名残り』を読むといふことなのである。

 こんなふうに認識の深まり方に立会ふことは、普通あまり言はれてゐないけれど、小説の大切な味である。時として、主成分になる場合もあるだらう。たとへば『罪と罰』も『若い芸術家の肖像』も勘どころはそれなので、その探究の一歩一歩が、古風な宝さがしの物語に一喜一憂に近い、いや、ひよつとするとそれ以上の、楽しさをもたらすことになる。もちろんドストエフスキージョイスの主人公は学生で、知的な素質においてスティーブンスを遙かに抜く。しかしイシグロはごく普通の男の人生論的探究、知の宝さがしを描くといふ放れ業をきれいに見せてくれた。

 注目に価するのは、その一部始終の時間的構造である。まづ新しい雇ひ主であるアメリカ人がイギリス旅行をすすめてくれる所からはじまつて、スティーブンスの旅が逐一語られる。そのなかに彼の過去が織り込まれる。かつての主人のことも、女中頭とのあれこれのことも。その女との長い歳月の後に出会つて悲しい打明け話を聞き、それを思ひ出し、自分の生き方を悔いて、旅の終りに彼は泣く。現在から過去へ赴き、過去から大過去へとさかのぼつたり現在に引き返したりする入り組んだ時間の扱ひ方はまことに見事なもので、読者はすばらしい話術に引きまはされながら、つい時間といふものを存分に意識するやうになり、そのあふりで、さう言へばこの執事の生きてゐるいはば私的な時間は、もつと公的な時間である歴史のなかに包含されてゐて、その公私両方の時間をイシグロは上手に語つてゐるのだと気づくことになるだらう。

 彼が現在のイギリス人の生活とそれからこの一世紀の大英帝国の有為転変とをこんなにすつきりととらへることができるのは、もちろん彼の個人の才能も大きいけれど、外国系の作家なのでイギリスおよびイギリス人に対し客観的になることができるせいもかなりある。それから、その条件によつてイギリス小説の富を学びやすいといふこともある。話は逆ぢやないかと言はれさうだが、わたしの推論は筋が通つてゐるはずだ。ヘンリ・ジェイムズも、コンラッドも、外国系の作家であるせいでイギリス小説の伝統に深く学び、新しいものをそれに付け加へることができたといふ先例があるのだから。そして今、イシグロがイギリス小説に新しくもたらしたものは、時間といふもの、歴史といふものの、優美な抒情性かもしれない。わたしは、男がこんなに哀れ深く泣くイギリス小説を、ほかに読んだことがない。》

                                    (了)

    **********参考または引用*************

カズオ・イシグロ日の名残り土屋政雄訳(丸谷才一解説「旅の終り」所収)(早川epi文庫)

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内』(サルマン・ラシュディ「執事が見なかったもの」小野寺健訳所収)(光文社知恵の森文庫)

*Brian W. Shaffer and Cynthia F. Wong “Conversations with Kazuo Ishiguro” (univ. Press of Mississippi, 2008)

*The Remains of the Day, (1993) Movie Script

https://www.springfieldspringfield.co.uk/movie_script.php?movie=remains-of-the-day-the

ジェイムズ・アイヴォリー監督映画『日の名残り戸田奈津子訳(コレクターズ・エディション [AmazonDVDコレクション])

*『吉田健一集成3』(『書架記』「ブライヅヘツド再訪」所収)(新潮社)

*E・M・フォースター『ハワーズ・エンド吉田健一訳(河出書房新社

イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳(筑摩書房

*P・G・ウッドハウス『P・G・ウッドハウス選集1 ジーブズの事件簿』(イーヴリン・ウォー「P・G・ウッドハウス頌」、吉田健一「P・G・ウッドハウス」所収)岩永正藤、小山太一編訳(文藝春秋

カズオ・イシグロ『特急二十世紀の夜と、いくつかのブレークスルー ノーベル文学賞受賞記念講演』土屋政雄訳(早川書房

*ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』大浦康介訳(筑摩書房

*「カズオ・イシグロ・インタビュー ~The Art of Fiction 第196回」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)

*「カズオ・イシグロの文学白熱教室」(2015年7月放送)(NHKエンタープライズ

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』(「信用できない語り手」所収)柴田元幸斎藤兆史訳(白水社

*ジョン・サザーランド『現代小説38の謎』(「なぜスティーブンスはスエズ危機を聞いたことがないのか?」所収)川口喬一訳(理想社

ハンナ・アーレント『新版 エルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳(みすず書房

ロラン・バルト『零度のエクリチュール渡辺淳、沢村昴一訳(みすず書房

*W・S・チャーチル第二次世界大戦』佐藤亮一訳(河出書房新社

フロイトフロイト全集<8>1905年―機知 』中岡成文、太寿堂真、多賀健太郎訳(岩波書店

 

演劇批評 渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

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渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート

  ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

                             

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」から

《「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」の俗に「実盛(さねもり)物語」という芝居に奇妙な場面がある。小万(こまん)の息子太郎吉(たろきち)が、帰りかける実盛に「実盛やらぬ」というと、実盛がまた少年の太郎吉に向かって、

 

 四十近き某が、幼き汝に討たれなば、情と知れて手柄になるまい。若君と諸共に、信濃国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ、其時実盛討手を乞ひ受け、故郷へ帰る錦の袖、翻して討死せん。

 

 というのである。この若君とはこの場で生まれたばかりの赤ン坊にすぎない。この赤ン坊が太郎吉とともに実盛の指示通り、諏訪だか木曾だかで義兵をあげて木曾義仲となるのは、実に何十年か先の話である。なぜ何十年も先のことを実盛は予言できたのか。

 さらに太郎吉がいまここで勝負をしろというのに対して、実盛は戦場でお前に討たれてやるという。そうするとそばで聞いていた九郎助が、何十年もすぎてはあなたは白髪、皺だらけの老人になって太郎吉に見分けがつかないだろうという。そうすると実盛はこういう。

 

 其時こそ、鬢鬚(びんひげ)を墨に染め、若やいで勝負を遂げん、坂東声の首取らば、池の溜りで洗ふて見よ。戦(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参/\。

 互いに馬上でむんずと組み、両馬が間に落つるとも、老武者(おいむしゃ)の悲しさは、戦に仕労(しつか)れ、風にちぢめる古木の力も折れん。その時手塚、合点がてん、遂に首をも掻き落され、篠原の土となるとも、名は北国の巷(ちまた)に揚げん。

 

 占師でもない実盛が、なぜ何十年後の戦士の場所や状況まで、いま見てきたように語ることができるのか。自分一人が何十年後かにある場所へ行ってお前に討たれてやるというのならばまだしも、事態は戦争であり、実盛一人の力ではどうにもならぬ源平の合戦である。それを場所まで指定することがどうしてできるのだろうか。

 いうまでもなく北国加賀の篠原で齊藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれ、その白髪を墨で染めていたことが池の水で洗われてあきらかになったことは、何十年後かの歴史的な事実である。しかしその事実をなぜいま予言できたのか。

 これが実は歌舞伎の物語というものの力の秘密なのである。これを狂言綺語(きご)といい浄瑠璃作者の出鱈目荒唐無稽な遊びということは簡単であるが、決してそうではない。彼等はただ物語というものの力を信じていたにすぎぬ。物語の力とは、時空をこえて一つの事象をとりだして再現するものであり、再現によって歴史的な事実の裏側にひそむものの謎を解くものである。なぜ実盛は白髪を墨で染めて戦場へおもむいたのか。むろん歴史は、それが老人が老いをかくすためであったことを教えている。しかし浄瑠璃の作者はそんなことでは満足しない。その背後に何十年前かの琵琶湖のほとりの九郎助の住家でおこった秘密があるとする。そうなるといまここで上演されているドラマが篠原で白髪を染めて討死した事実の謎解きになる。歴史はただ再現できるものではなく、この謎解きの、真相の力によってはじめて再現可能になる。この時間空間を逆さまにした転倒こそが物語の力と私が呼ぶものである。

「実盛物語」を書いた作者の意識のレベルは、この転倒に示されている。》

 

《もっともこの一段が「実盛物語」と呼ばれる――つまり物語という通称が狂言名になった稀な例であるのは(このほかには「六弥太(ろくやた)物語」「藤弥太(とうやた)物語」位なものであろう)この件りにあるのではなく、実はその前の実盛が葵(あおい)御前に向かって前日の琵琶湖の湖上でおこった事件を物語るところから来ている。事件というのはほかでもない。平宗盛(むねもり)の竹生島参詣の御座船(ござぶね)が湖上を航行中に、湖を泳いでくる女とその女を追う船に出逢ったというのである。実盛は宗盛に随行して御座船に乗っていた。女はいずくのだれとも知れなかった(実は九郎助の養女で、瀬尾太郎の娘であり太郎吉の母小万であるが、その時はわからなかった)が、白旗をもっていた。源氏の旗である。かねて密(ひそ)かに源氏に心を寄せていた実盛は、この旗が平家の手に入っては一大事と考え、白旗をもつ女の片腕を水中へ切り落とした。腕も(むろん白旗も)、女は水中に没して後方が知れなくなったが、親子の縁によって、白旗を握った片腕は太郎吉の網にかかり、虫の息の女はこの家のそばの磯に打ち寄せられたというのである。

 実盛が語る「物語」の中味は大体右の通りだが、実盛が語るまでもなくこの事件の一部始終はすでに観客はこの前の場の御座船の場で見て知っているのである。

 歌舞伎の物語の双璧は、この「実盛物語」と「一谷嫩軍記」(あの「六弥太物語」をふくむ「一谷嫩軍記」である)の「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実が一谷の合戦で無官大夫敦盛を討った経緯を語る「物語」であるが、この熊谷の物語もまた前段の「組打」で観客はすべて目のあたりにしているのである。

 むろん舞台の上の葵御前や九郎助夫婦、太郎吉は前段でなにがおこったか知らない。熊谷が物語を聞かせる相手の藤の方(敦盛の生母)や相模(敦盛の身替りになった小次郎直家の母)は一谷合戦の一部始終を知らない。知らないからこそ実盛や熊谷は語って聞かせるのだが、観客はすべて見て知っている。それをもう一度わざわざやってみせるのは一体なぜなのか。そこにドラマの大きな「物語」のなかに仕込まれたメタ物語ともいうべきものがつくられ物語のもつ力が示されているからであり、一方物語を語る芸といったものが成立しているからである。

 語りの芸を「話芸」と呼んだのは関山和夫氏であるが、この芸の伝統は歌舞伎よりもはるかに古く、もちろん人形浄瑠璃の語りもその芸の一つの流れのうちにある。実盛や熊谷の物語はその芸の流れの原型をのこしたものだ。だからこそ、実盛は白扇、熊谷は軍扇を使う。扇こそ物語に欠くことのできぬものであり、彼等が「物語らんと座を構え」るのは、そういう芸の伝統を意識しているからにほかならない(ついでにいえば人形浄瑠璃にかぎらず能狂言、唄、浄瑠璃の大夫たちはすべて扇をもつものである)。

 物語りがそういうものであるとして、しかし歌舞伎の物語はもう一つ別な意味をもった。それは実盛や熊谷の場合をみればよくわかる。実盛や熊谷は、扇をもって、床の義太夫の語りにさまざまな動きをみせるのである。つまり、せりふの語りだけではなく、そこに動の要素、もっといえば義太夫のリズムにのった音楽の要素というものが入ってきている。この要素が大事だと私には思われる。この要素はなにを意味しているのか。すなわち物語の、その語りからの解放であり、身体化というべきものである。歌舞伎の物語の本義はここにある。

 熊谷の型には、比較的写実な九代目団十郎団十郎型と、人形の動きをとり入れた様式的な四代目芝翫芝翫型と二つの型がある。団十郎型は始終見るのだが、芝翫型は松緑が一度やったのを見たきりである。この芝翫型が私には大変面白かった。心理だの状況を無視したというか超越した、派手で、様式的な動きがあって、パッと飛び上ったりするのである。それをみていて思ったのは、歌舞伎の物語のもつ面白さというものは、決してなにかを再現しようとするものではなくて、むしろその再現をいかに絵として身体化し、再構成してしまうかということであった。

 同じことは実盛にもいえる。実盛にも二つの型があり、一つは団蔵の家に伝わる型であり、もう一つは三代目三津五郎から五代目彦三郎へ伝わり、さらに五代目菊五郎が完成した菊五郎型である。団蔵型は動きも地味で、肚を主体としている。菊五郎型は動きが派手でしかも洗練されている。両方見たことがあるが、菊五郎型の方が状況や心理をこえて、観客を陶酔させる魅力をもっている。

 熊谷の芝翫型、実盛の菊五郎型というものには、あきらかにドラマを逸脱して、ということは事件の状況の再現をこえてしまったところに面白さがあり、そのこえてしまったところが、実は身体にある種の音楽的な憑依(ひょうい)のおこる瞬間なのである。そこが歌舞伎の物語の芸の面白いところである。》

 

《そこで私はあの実盛の何十年後かを予言した物語の力のことに戻りたい。なぜならば、何十年後の戦争の予言が予言でもなんでもなくて、すべて目の前のドラマは何十年後かの北国篠原の合戦の謎解きであったように、この実盛や熊谷の物語も実は前の幕で行なわれた事件の再現なぞでは決してなくて、実はいまここで物語られるもののために前段の事件があったという気がするからである。物語の力とは、やはりこの時空をこえた転倒のうちにある。たしかに前場ではそれがドラマであり、現実であったかも知れないが、熊谷や実盛が物語るのをみていると、この物語こそ真実であり、要するにあの現実は虚構ではないかという気さえするのだ。北国篠原の合戦や一谷の合戦や竹生島参詣というような歴史的な出来事には実は一片の真実もふくまれていない。すべては影にすぎない。影でないものはいまここで行なわれている物語のなかにある。もっといえばパッと飛び上がり、派手な動きをしたりする役者の身体のしぐさのなかにある。これは物語というものの、通常私たちが考えている概念の解体であり、歌舞伎の上での演劇的な再生なのである。(後略)》

  

<未来による遡及的再構成>

ボルヘス『続審問』「カフカとその先駆者たち」

《かつてわたしは、カフカの先駆者たちを調べてみようと思い立ったことがある。彼のことを初めのうちは、美辞を連ねて称賛されるあの不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼と少しばかりつきあっているうちに、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がしたからである。》

 最初は、運動を否定するゼノアの逆説(パラドクス)である。飛んでいる矢は永遠に的に到達できない。アキレスは決して亀を追い越せない。この有名な命題の形式がまさしく『城』のそれと同じである。《運動する物体と矢とアキレスが文学における最初のカフカ的登場人物である。》

 第二のテクストは、類縁性とは形式と言うより語りの口調である。九世紀の唐の漢文作家韓愈が書いた寓意譚。我々は麒麟が超自然的存在であり、吉兆の動物であることは広く認められている。下々の女子供でも知っている。《しかし、この動物は家畜のなかに見当たらないし、たやすく見つかるものではないし、また分類に適さない。すなわちそれは馬や牛に似ていないし、狼や鹿にも似ていない。それゆえ麒麟を目のあたりに見ていながら、それが麒麟であることに確信がもてないようなことも起こりうるだろう。我々は鬣(たてがみ)のある動物なら馬であり、角の生えている動物なら牛であることを知っている。しかし、我々はどんな動物が麒麟であるかを知らない。」

 第三のテクストは、キュルケゴールのテクスト。《両作家の知的親近性は誰でも知っていることであるが、カフカと同じように、キュルケゴールにも、同時代の中産階級的主題に基づく宗教的寓話がたくさんあることは、わたしの知るかぎりまだ明らかにされたことはない。》一つは四六時中監視されながら、イングランド銀行紙幣を検査している贋金つくりの話である。もう一つは、デンマークの牧師たちが、北極へ探検旅行することは魂の救済にとって有益だろうと告げていたが、たぶん不可能であること、を認める。彼等は最後に、どのような旅行も、日曜ピクニックも、本物の北極探検になると宣言する。

第四の予示は、ブラウニングの物語詩「恐怖と疑念」である。《ある男が有名人の友達を持っている、あるいは持っていると思っている。彼はこの友人に一度も会ったことがないし、今までに助けてもらったこともない。しかし、友人は高潔な人格の持ち主だという評判だし、彼の書いた本物の手紙も出回っている。彼の立派な人柄に疑問を呈するものがあり、筆跡鑑定家たちは手紙を贋物だと言う。最後の行で男が問う――「もしもこの友が神だとしたら?」》

 二つの短編物語も含まれている。一つはレオン・ブロワの『不快な物語』にあるもので、《地球儀・地図帳・列車時刻表・トランクなどたくさん用意していながら、生まれた町をついに離れることなく生涯を終える人々を描いている。》もう一つは「カルカソンヌ」と題されたダンセイニ卿の物語である。《無数の戦士たちからなる軍団が巨大な城砦を出発し、数々の王国をたいらげ、多くの怪物を見、幾つもの砂漠と山岳を征服するが、ついにカルカソンヌに達することができない。一度この町を遠望したことがあったにもかかわらず。》(《第一の物語では、人々は町から離れないが、第二の物語では町に到達しない。》)

 ボルヘスは、わたしの間違いでなければ、列挙した異質のテクストは、どれもカフカの作品に似ているが、テクストどうしは必ずしも似ていない。この最後の事実は極めて重要である。《カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。ロバート・ブラウニングの「恐怖と疑念」はカフカの物語の予告編になっているが、われわれがカフカを読んだことがあれば、この詩のわれわれの読みは著しく洗練され変更される。ブラウニングは自らの詩を、いまわれわれが読むようには読まなかった。「先駆者」ということばは批評の語彙に不可欠であるが、そのことばに含まれている影響関係の論争とか優劣の拮抗といった不純な意味は除去されねばならない。ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す(・・・・)のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ。》

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』

《かつてボルヘスは、カフカについてふれながら、作家のなかには彼自身の先行者を生み出す力をもった者がいるといった。これは、新たなクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によって過去が遡及的に再構造化されるという論理である。真に創造的な行為は、未来の可能性という場を構造化しなおすだけではない。それは、先行する偶発的な痕跡を現在に向かう痕跡としてあらたに意味づけながら、過去をも構造化しなおすのである。》

(註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。」

 

柄谷行人トランスクリティーク

《カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだ――に帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。》

 

中井久夫『徴候・記憶・外傷』「統合失調症の精神療法」

《過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。》

 

・T・S・エリオット「伝統と個人的な才能」

《一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。》

 

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

《歴史をテクストと見なしさえすれば、現代の一部の作家たちが文学的テクストについて述べていることを、歴史についても言うことができる。過去は歴史のテクストの中に、写真版上に保たれているイメージに譬えられるようなイメージを置いてきた。写真の細部がはっきりあらわれてくるような強い現像液を処理できるのは未来だけである。マリヴォー、あるいはルソーの作品にはところどころに、同時代の読者には完全に解読できなかった意味がある。》

 

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』

ラカンはその著作の中で、時間のパラドックスに関連して、一度だけSFに言及している。すなわち最初のセミネールで、症候が「抑圧されたものの回帰」であることを説明するために、時間の逆行というノーバート・ウィーナーの隠喩を用いている――

 

  ウィーナーは、それぞれの時間的次元がたがいに逆向きに進行しているような、二人の人物を仮定する。たしかにこのことにはなんの意味もないが、こんなふうにして、なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において。どちらか一方が他方に向けてあるメッセージ――たとえば四角形――を送ったとすると、逆方向に向かっている人物には、四角形が見える前にまず四角形が消えるところが見えるだろう。われわれもまたそれと同じものを見ているのだ。症候ははじめわれわれの前に一つの痕跡としてあらわれる。その痕跡はあくまで痕跡のままでありつづけ、分析がかなり先まですすみ、われわれがその意味を実現してしまったときにはじめて理解されるのである。(Lacan『フロイトの技法論』)

 

 したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。このような捉え方は、無意識が本質的に想像的(・・・)なものであることを示唆している。無意識は、主体の歴史の「象徴的発展に同化されえなかった想像的固着」からなるのである。したがって無意識とは、「象徴界の中で実現されるであろう何か、より正確には分析における象徴的発達がなされたときには実現されてしまっている(・・・・・・・・・・・)であろう何か」である(同上)。したがって、「抑圧されたものはどこから回帰するのか」という問いにたいするラカン的な答えは、逆説的ながら、「未来からである」ということになる。症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘、発見されるのではなく、遡及的に構成されるのだ。つまり、分析が真実を生み出すのである。真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組である。われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去はつねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの痕跡の意味はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。歴史的断絶が起き、新しい支配的シニフィアンが出現するたびに、そのことが遡及的にあらゆる伝統の意味を変化させ、過去の物語を構造化し直して、その物語がまったく新しいふうに読めるようにするのである。

 だから、「なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において」。われわれは「追越す」ことによって、他者の中に、ある知識――われわれの症候の意味に関する知識――が存在していることをあらかじめ仮定するが、「未来への旅」とはまさにこの追越しのことに他ならないのではあるまいか、したがって、転移(・・)そのもののことに他ならないのではあるまいか。その[われわれが他者の中に仮定する]知識は幻想である。なぜなら、それは実際には他者の中に存在しているわけでもないし、他者が実際にそれを所有しているわけでもない。その知識は、われわれの――主体の――シニフィアンの働きによって後から構成されたものである。だがそれは同時に、必要不可欠な幻想である。なぜなら、逆説的だが、われわれは、他者はすでにその知識を所有しており、われわれはそれを発見するだけという幻想によってのみ、その知識をつくりあげることができるのだから。

 もし――ラカンがいうように――症候において、抑圧された内容が過去ではなく未来から回帰してくるのだとしたら、転移――無意識の現実(リアリテイ)の実現――はわれわれを過去にではなく未来に移動させなければならない。だとしたら「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならないのではあるまいか。この作業とはすなわち、われわれはシニフィアンの領域において、またその領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができるのだ、という事実をいわば幻覚的に演じてみせることである。

 過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集『真理という謎』の中に、たいへん興味深い論文が二篇ある。「結果はその原因に先立ち得るか」と「過去を変える」である。この二つの謎にたいするラカン的な答えは「イエス」だ。なぜなら、「抑圧されたものの回帰」である症候はまさにそうした原因(症候の隠された核、その意味)に先行する結果であり、症候に取り組むことによって、われわれはまさに「過去を変えて」いるのだ。われわれは過去の象徴的現実(リアリテイ)、すなわち長い間忘れ去られていた外傷的な出来事を生み出しているのだから。

 だとすると、SF小説の描く「時間のパラドックス」は、象徴的プロセスの基本構造、いわゆる内的な、内側に反転された8の字が幻覚的に「現実界(リアル)の中に出現」したものではないか、と考えたくなる。その基本構造とは、一つの循環運動であり、いわば一つの罠である。なぜ罠かというと、われわれは転移の中でわれわれ自身を「追越し」、われわれがすでにいた地点にいるのを後になって発見するという方法によってしか前進することができないのだ。パラドックスは次のような事実の中にある。――この余計な回り道、つまり、われわれ自身を追越して(「未来への旅」)、それから時間の方向を逆転させる(「過去への旅」)という余分な罠は、たんにいわゆる現実(リアリテイ)の中でこれらの幻想とは関わりなく起きる客観的プロセスにたいする主観的幻想/知覚ではない。むしろこの余分な罠は、いわゆる「客観的」プロセスそのものの内的条件・内的構成要素である。この余計な回り道をすることによってのみ、過去そのもの、すなわち事物の「客観的」な状態は、遡及的に、それがつねにそうだったものになるのである。

 したがって、転移は幻想だが、肝心なのは、われわれはこの幻想を迂回して直接に達することはできない、ということである。真理そのものからして、転移に固有の幻想を通じて(・・・)構成されている。「真理は誤解から生まれる」(ラカン)のである。この逆説的な構造がまだよくわからないようなら、SF小説をもう一つ例にとろう。ウィリアム・テンの有名な短編「モーニエル・マザウェイの発見」である。二十五世紀の優秀な美術史家が、歴史的に有名な画家モーニエル・マザウェイを訪問し、じかに(・・・)研究しようと、タイムマシンにのって現代にやってくる。マザウェイは、今はまったく評価されていないが、後に再発見されて二十世紀最大の画家と称されることになる。二十五世紀の美術史家はマザウェイ本人に会うが、彼は天才などではなく、ただのペテン師で、誇大妄想狂で、美術史家からタイムマシンを盗んで未来へ逃げてしまい、おかげで哀れな美術史家は現代に取り残されてしまう。そこで彼は仕方なく、逃亡したマザウェイになりすまし、マザウェイの名で、彼が二十五世紀にいたときに見た傑作の数々を描いた……。彼が探していた不遇の天才とは彼自身のことだったのである。》

  

<「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」>

 人形浄瑠璃寛延二年(1749年)十一月大阪竹本座。歌舞伎、宝暦七年(1758年)九月大阪嵐座。並木千柳(宗輔)、三好松洛作。『平家物語』『源平盛衰記』から脚色された全五段からなる時代物。今では二段目切「義賢最期」と三段目「御座船(「竹生島遊覧」)」、「実盛物語」が上演される。

 平治の乱源義朝(みなもとよしとも)を討った平家方はその首を後白河法皇に届けるが、平家の躍進を危ぶむ法皇は手厚く葬るよう命じ、源氏の白旗を義朝の弟、木曾義賢(きそよしかた)に授ける。清盛の上使が来訪、源氏の白旗を差し出せと命じるが、義賢が知らぬと突っぱねると、兄義朝の髑髏を足で踏めと迫った。義賢は兄の敵長田(おさだ)を斬り捨てる。義賢は百姓九郎助(くろすけ)に懐妊中の葵御前、九郎助の娘小万(こまん)に白旗を託し、武具は不要と素襖大紋(すおうだいもん)を身に着けて平家相手に奮戦したが壮絶な最期を遂げた(「義賢最期」)。

 

 九郎助は葵御前を伴って琵琶湖畔の九郎助住居に帰りついたが、小万は平家に追われて矢橋の浦で琵琶湖に飛び込み泳いで逃げようとした。折から平宗盛の御座船が竹生島参詣に遊覧中、同船していた斎藤(さいとう)別当(べっとう)実(さね)盛(もり)は小万を発見して船に救い上げたが。追手の船から「女が源氏の白旗を持っている。取り返せ」との声が届いた。飛騨左衛門が白旗を奪おうとしたので、実盛はとっさに白旗を持っていた手を水中に切り落とした(「御座船」)。

 

 九郎助の女房小よしが綿を繰っているところへ甥の仁惣太がやってきて、この家に葵御前が匿われているだろうと探りを入れるが、小よしは追い返す。葵御前が行方知れずになった小万を案じるところへ九郎助が孫の太郎吉と戻ってきて、湖畔で見つけた白絹を握った人間の片腕を見せた。太郎吉が指を開くと、白絹は源氏の白旗。一同は小万の腕ではないかと不安を覚える。

 そこへ平家の武将斎藤実盛と瀬尾十郎兼氏が葵御前詮議のためやってきた。九郎助は知らぬと突っぱねるが、実盛は甥の仁惣太が訴人した事実、平家の威光には逆らえぬ、さらに生まれる子が女なら助かると諭した。九郎助も諦めて出産するまで待って欲しいと懇願するが、瀬尾は胎内まで詮議すると息巻いた。

 葵御前が出産したと、小よしが錦に包んだ水子を持ってきた。実盛が何とか子を助けようと思いながら包みを開くと、中には女の片腕が入っていた。実盛はその腕を見てハッとし、驚き怒る瀬尾に向かい中国の故事に同じためしもあると言いくるめ、申し訳は自分がすると言い切った。瀬尾は冷笑し、帰ると見せて裏に潜んだ。

 実盛は葵御前と九郎助夫婦に向かい自分は平家に仕えているが元は源氏、旧恩を忘れていない、片腕は自分が矢橋の船中で切り落とした覚えがあると言い、確か名は小万と言ったと、事の次第を語る(「実盛物語」)。

 宗盛公の竹生島詣での帰途、口に白絹を咥えて泳いでくる女を見付けて助けあげたが、同船していた飛騨左衛門が白旗を奪い取ろうとしたため、白旗が平家に渡れば源氏は埋もれ木になると思い、非情ながら女の片腕を湖水に斬り落としたと物語る。

 近所の衆が小万の死骸を運んでくる。一同の愁嘆を見た実盛は、甲斐甲斐しい女だから、まだ腕に魂が残っている筈だと、片腕に再び白旗を持たせて死骸に繋ぐと小万は蘇生し、白旗が御台葵御前の手に戻ったことを知って喜び、太郎吉に言いたいことが…と言ったきり息絶えた。九郎助は小万が言いたかったのは筋目のことだろうと察し、実は小万は夫婦の間の子ではなく拾い子で、懐には金刺という銘を彫付けた合口(あいくち)と平家某の娘という書付があったと語った。

 俄に葵御前が産気づき、若君が誕生した。父義賢の幼名を貰って駒王丸と名付けられた。後の木曽義仲である。九郎助は太郎吉を駒王君の家来にしてほしいと頼み、実盛は小万の手に因み手塚太郎光盛と名付けた。葵御前は小万の父は平家ゆえ清盛の子であるかも知れず、成人して一つの功をたてた上でのことと言う。瀬尾が戻ってきて、駒王君誕生を平家に報告する、この女が白旗を奪ったのが憎いと小万の死体を足蹴にした。それを見た太郎吉は母の形見の合口を手に瀬尾に向かうと、意外にも瀬尾はかわさず、瀕死の痛みを堪えながら葵御前に「太郎吉は平家譜代の侍瀬尾十郎を討ち取った功で若君の家来にして欲しい」と懇願した(瀬尾のモドリ)。おどろく一同に向かい、実は小万は自分が若い頃に捨てた子であると告白した。瀬尾は太刀を抜くと太郎吉に持たせて、自らの手で首をかき斬る。

 太郎吉は勇みたち、実盛に親の敵と詰め寄るが、実盛は今討たれては情と知れて手柄にならぬ、若君と共に信濃へ逃れ、成人してのち義兵を挙げよと諭し、家来に馬曳けと命じ、平家に注進すると駆けだした仁惣太を討ち取った。太郎吉も綿繰り機に跨り(「綿繰馬」)実盛に向かう。九郎助は太郎吉が成人した時には実盛は老人になっていると指摘すると、実盛は「髪を黒く染めて勝負を遂げる、坂東声の首を取ったら池の水で洗ってみよ、戦の場所は北国篠原」と未来の戦いを予見して去っていく。

 

 

         *****参考または引用文献*****

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま文芸文庫)

文楽床本「第一七五回文楽公演 源平布引滝(平成二十三年五月」(国立劇場

戸板康二他『名作歌舞伎全集第四巻 源平布引滝』(東京創元新社)

ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』中山徹青土社

中井久夫『徴候・記憶・外傷』(「統合失調症の精神療法」所収)(みすず書房

柄谷行人トランスクリティーク』(岩波書店

*T・S・リッオット『エリオット選集第一巻』(「伝統と個人的な才能」所収)吉田健一訳(弥生書房)

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

 

文学批評 「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

  「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

 

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 須賀敦子は、『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)の五冊を生前に出版している。数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』『供述によるとペレイラは』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳したが、その前の一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版していた。さらに遡れば一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』『アッシジでのこと』などを執筆していた。

 作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集の詳細な年譜などによれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年には『アルザスの曲りくねった道』を構想しはじめ、翌一九九六年四月にアンゲロプロス監督映画『ユリシーズの瞳』を観てすぐにアルザス取材を編集者鈴木力に相談、五月には「私にとってはじめての虚構の人たちをつくることに、怖さと愉しみが半々で、なんとなく浮き立っています」と鈴木宛ての手紙に認める。六月、『ミセス』に『旅のあいまに6 Z――』として、創作ノートの女主人公「オディール・シュレベール」をなぞるような「オディール・ゼラー」について、素描のような乾いた文章を発表。九月にアルザスを編集者鈴木力と歩き回り、十月には序章を書き始めた。しかし十一月に癌の告知を受け、年明け一九九七年一月に入院となって体調すぐれず、七月、草稿三十枚ほどを鈴木に手渡す。一九九八年二月、見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったが、三月二十日に帰天。享年六十九歳。ついに小説『アルザスの曲りくねった道』を書き終えること叶わず、創作ノート1~7と未定稿約四十枚が残された。

 須賀の書かれなかった小説については、全集やムック本で解説されている。全集では第三巻(『ユルスナールの靴』『時のかけらたち』『地図のない旅』『エッセイ/1993~1969(「古いハスのタネ」収録)』)の堀江敏幸解説「夕暮の陸橋で」、第八巻(『書簡』『『聖心の使徒』所収エッセイほか』『荒野の師父らのことば抄』『ノート・未定稿(遺稿『アルザスの曲りくねった道』収録)』『年譜』)の松山巌解説「すべてが恩寵なら、あらゆる時代は、恩寵の時なのです」、他には湯川豊須賀敦子を読む』の「第六章 信仰と文学の間」、『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』の鈴木力「一九九六年九月、最後の旅」、池澤夏樹アルザスに着くまでの道」などがある。

 

アルザスの曲りくねった道』がどのような作品を目指していたかは、創作ノートからおおよそ窺える。

ノート1[太字は手書きで挿入された部分]

 アルザスのまがりくねった道

 アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に漠然と着想を得たものです。旅、人間が生きるということ。(アンゲロプロスの他の映画も、もういちど、見なおしてみるつもりです)

 Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。

「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。

 Zの肉体的特徴。性格。きれいな少女ではなかった。三人、年齢のはなれた姉がいた。一九一〇年代に少女であったということ。宗教的背景。土地の。家族の。

 (1909年生まれ。)→1920年に一一歳/黒ブチの眼鏡、白髪まじりのボッブ/スカートにブラウス/あるいはとっくりえりのセーターにカーディガン/パンプス? 猫背

 それを書いてゆく「わたし」。反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス。

 彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」。アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい。タブッキの『ペレイラが供述したこと』

 それから彼女が修道女として送られたリヨンという都市、フランスのなかでの特異な歴史、絹をとおしての日本とのつながりがあってもいい、ローヌとソーヌ川の話、どこの山から、どういう平野を通って、どこの海に流れこむかということを書く。

 彼女の戦争時代のこと。「わたし」の戦争時代。

 戦後、日本に派遣された話。

「わたし」の戦後。

 日本という国について、それから日本から見たフランス。

 第一次世界大戦から、第二次世界大戦にかけて、さらにその後のカトリックについて。

 私が現実に知っていた彼女とはずらせて、たとえば、シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく。内面の彼女と、外面の彼女のずれ。

 彼女の読書。大学は出ていない。バカローレアだけ。とくに、ペギー。

 そこから、ムニエやエスプリの運動など。「わたし」がアッシジで出会ったダニエル。

 シモーヌ・ヴェイユの博学はないけれど、それから、たとえばユダヤ人に対する偏見などもあるのだが、Zはすこしずつ、日本に来たことで文化の相違などについて理解してゆく。

 そして、さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる。リヨン。

[欄外の手書きメモ]

 ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー

歴史の背景をいくつかの本(たとえば、Flandreへの道とか――Claude Simon)から抜く

 負ける戦争の側から

 修道女たちが誰に(修練期に)指導されたかで、ほとんど生き方が変るということ。

 ほんとうはフランスのカトリシズムに惹かれるのだけれど、それはフランス人のためのものだということが(やや?)はっきりしている。フランスの若い人たちが腕を組んで足をひらいて、ミサにあずかっている姿勢を美しいと思うのだが――》

 ノート2、3、4にはヴェトナム(パリ大学で勉強していた頃、フランス植民地だったヴェトナム出身の女性が多くいた(『旅のあいまに』の『インセン In-seng』、『遠い朝の本たち』の『星と地球のあいだで』とエッセイ『マドモアゼル・ヴェ』に登場する聖心大学初級フランス語教師マドモアゼル・V(ヴィ)はサイゴンから来た人だった、『ヴェネツィアの宿』の『カラが咲く庭』にはヴェトナムのダラットの修道院にいたマリイ・ノエル院長と、精神の病気だったヴェトナム人修道女テレーズとのローマでの出会いが語られている)の記述。

 ノート4には、次の重要な言説がある。

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》

 ノート5、6はZ=オディールのプロフィール確認、7は聖女オディール伝説について。

シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」の二つの「芯」を胸に留めておきたい。

 残された「未定稿」は、序章のさらに序といったところで、あくまでも備忘録的なスケッチにすぎず、須賀らしい文体の香りをまだ纏っていない。

 

 須賀が『ヴェネツィアの宿』を他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるに違いない。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と発言したぐらいにすぎない。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験だった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意すべきである。

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

 ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』という一九七八年十月のコレージュ・ド・フランス講演録がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。

《『失われた時』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。》

 プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時を求めて』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 そして、バルトはプルーストから<私>のことへ移ろうとする。

《私がプルーストの作品・生涯から、小説(・・)と評論(・・)との矛盾を解消しうる――ともかくプルーストにはそれを解消することができた――新たな論理というテーマを取り出したのは、このテーマが私個人に関わるものだからです。なぜか? それをこれから説明したい。ですから、これからの話は<私>のことです。<私>とは、ここでは重く解されねばなりません。それは、一般読者の滅菌された代理人ではなく(代理とはすべて毒にも薬にもならぬ滅菌化だ)、良きにつけ悪しきにつけ何人とも置き換えることのできない者にほかならない。内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っているのです。》

 

 一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語った『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』では、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外に行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違うが、『明るい部屋』の写真をとおしてのバルトの母との思い出は、旅のむこうの声をとおしての須賀の母との思い出と通じあうものがある。バルト『明るい部屋』の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。》

 

「私」と「母」以外に「固有名詞」をもった人物(川端風の『白い方丈』の竹野夫人、モラヴィア風の『レーニ街の家』のカロラ、グイード、キアラ)が登場することから、須賀の『ヴェネツィアの宿』は「短編小説集」と呼ばれても違和感がないだろう。

なかでも『カティアが歩いた道』は、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語だが、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われていて、のちに『ユルスナールの靴』『トリエステの坂道』の空間と時間を、「靴」と「道」に託した文章に続いて、『アルザスの曲りくねった道』に流れこむ精神がみてとれる。『アルザスの曲りくねった道』の大河的全体像を想像するために、『カティアが歩いた道』に類似形を見ておくことは可能だろう。

 キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、「オディール・シュレベール」と多重映像化するカティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。なによりもここには、すでに小説のエクリチュールが、前半は自己省察的な明晰な文体で、後半は川端小説のような美しくも切ない抒情をともなって存在している。

 

 パリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、部屋のルームメイトはめまぐるしく替ったが、ドイツのアーヘン(ドイツ最西部で、ベルギー・オランダの境界に位置し、フランスとの境に位置するアルザス=ロレーヌと文化的、歴史的複合性は似ている)から来た「カティア・ミュラー」は子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだった。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。

 道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 松山巌による年表(『須賀敦子全集 第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れないのが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという虚構の名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、とさえ思われてくる。もはや、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、虚構の人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実、時系列の正確性を詮索、探究することは意味がない。

 

 再度ロラン・バルトだが、遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』で、小説的な嘘について書いている。

《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 しかし須賀敦子は、愛する父や母や知人を「小説的な嘘」をまじえて書くことによって、「愛するものについて語りそこなう」ことはなかった。『アルザスの曲りくねった道』の創作ノートには、なるほど「わたし」が頻出する。さきに引用したノート1だけでも、「彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く」「それを書いてゆく「わたし」」「反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス」「彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」」「「わたし」の戦争時代」「「わたし」の戦後」「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」。しかし、ここでの須賀の「わたし」は自伝的なそれとは違うし、「私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージ」とも違うだろう。

 

 バルトは『長いあいだ、私は早くから寝た』でダンテを語ってから、<私>のことに戻ってくる。

《ダンテは(またも有名な冒頭、またしても決定的典拠ですが)その作品[『神曲』]をワレラガ(・・・・)人生ノ道(・・・・)ノ半バニシテ(・・・・・・)……」と書き始めています。一三〇〇年、ダンテは三十五歳でした(彼はその二十一年後に死去)。私はそれよりはるかに歳をとっていますし、私に残されている余生が生涯の半分になるということはもはや決してありますまい。そもそも「われわれの生涯の半ば」というのが算術上の地点でないことは明らかで、私がこうしてお話している時に、どうして私の人生の全体の長さを知って、それを二等分することなどできましょう? むしろこれは、意味上の地点であり、おそらくは遅きに失するのでしょうが、新たな意味づけへの呼びかけ、変身の欲求が――人生を変えたい、過去を絶って新たに創始したい、ダンテが偉大な先導者ウェルギリウスの導きで暗キ森(・・・)のなかへと入ったように、入門者として指導に服したいという欲求が(私にとって、少なくともこの講演のあいだ、先導者はプルースト)――不意に私の人生に生じる瞬間のことをいうのでしょう。年齢とは、肝に銘ずべきことながら――肝に銘じるべきだというのも、それほどまでに誰しも他人の年齢に無関心でいるからで――年代的与件、ひと続きの歳月であるというのはごく部分的なことにすぎません。実際にはさまざまな年齢の区分、仕切りがあって、われわれはいわば人生を水門から水門へと経巡っていき、その航路の何個所かには、いくつか閾、段差、衝撃がある。年齢とは、漸進的なものではなく、突然変化するものなのです。それゆえ自分の年齢を見つめることは、その年齢がかなりの年配である場合、[“まだまだお若いじゃありませんか”といった]好意的な抗議をひきおこすはずの愛嬌などではなく、むしろ自発的な責務であって、この年齢にあって奮い立たせようという現実の力は何なのか、と問うべきなのです。そんな問が最近になって突然現われ、それがために私には現在が「私の人生の道の半ば」に当たる気がするのです。》

(あまり知られていないが、須賀はダンテ『神曲』の講読会を数年続け、人知れず翻訳も試みていた。)

《なぜ今がそうなのか?

「残された日が数えられる」、緩やかとはいえ不可逆な秒読みが始まる、そんな時間がやって来る(それこそ意識の問題だ)。自分が(・・・)死を免れないことは知っていた(・・・・・)(聞く耳をもった時から皆にそう言われてきた)が、突然、自分がそうなのだと感じる(・・・)(これは決して自然な感情ではない、自然なのは自分が死ぬことはないと思い込んでいることで、そこからあれほど多くの軽率な事故が起きている)。この明々白々たることが、それが身に滲みて体験された途端に、辺りの様相を一変させてしまう。何としても自分の仕事にひと区切りつけなければならないのだが、その仕切りの輪郭は、不確かとはいえ、もう出来上がっている(・・・・・・・・・・)ことが分かっていて(ここが新たな意識)、最後の仕切りなのだ。いやむしろ、仕切りは出来上がっていて、もはや<仕切りの外>はないというわけで、自分がそこに入れこもうとしている仕事がいわば厳粛なものに思えてくる。死に脅かされていた(あるいは、そう信じていた)病身のプルーストさながら、われわれは『サント=ブーブに反対する』のなかに概略引用されている聖ヨハネの言葉を見出すことになるのです――「まだ光のあるうちに仕事をせよ」と。

 それにまた(前のと同じ時期ながら)、自分のしてきたこと、仕事、著述が、同じことの繰返しとなる運命に思える時期がやって来る。何たること、相も変らず死ぬまで、私はさまざまな<主題>について論文を書き、講義や講演をしていくのか、その主題がほんの僅かに変わるだけで!(この<について>というのが私はいやなのです)。こんなことを感じるのは残酷なもので、私にはあらゆる新たなもの(・・・・・)、さらに言えば(・・)冒険(私は<突如として起こる>こと)への権利喪失を宣せられるに等しいからです。私の未来が、死に至るまで、まるで同じものをつなげた<ひと続きの列>に見えてくる。》

(バルトは当時六十二歳、二年後の一九八〇年三月に交通事故による不慮の死を遂げた。)

《最後に、ある事件(もはや単なる意識ではない)に遭遇することもあり、それが少しづつ堆積した土砂のような仕事に目印をつけ、切り込みを入れ、分節化し、そして私が「人生の半ば」と呼んだあの突然の変身、様相の一大転換を決定づけることになる。(中略)プルーストにとっての「人生の半ば」とは、生活の変革、新たな作品の創始がなされたのは更に数年後のことにすぎないとしても、間違いなく母親の死(一九〇五年)だった。残酷な喪、唯一の、何ものにも還元できないものとしての喪、私にはそれがプルーストの語っていた「個人の頂き」を形成しうるものに思えるのです。遅まきながら、このような喪が私には人生の半ばになることでしょう。おそらく「人生の半ば」とは、死がもはや単に恐ろしいというのではなく、現実であるということを発見する瞬間以外の何ものでもないのです。》

(バルトの母は、この講演の一年前、一九七七年十月に亡くなっている。)

《こうして辿ってくると、突然つぎのような明白な事実を思い知らされます。一方で、私にはもはやいくつもの人生を試みる時間がない。私の最後の人生、新たな人生(五十一歳にして二十歳の娘と結婚し、博物誌の新たな著作を書かんとしていたミシュレが言ったのは「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」)を選ばなくてはならない。他方で私は、同じことの繰返しによる仕事の磨滅と喪失とによって立ち至らされているこの闇の状態(中世神学でいう修道士の鬱(・)状態)を選ばなくてはならない。ところで私には、ものを書く人間、書くことを選んだ者にとって、新たな書き方の実践を発見する以外に<新たな生>はありえないと思えるのです。教養、理論、哲学、方法論、信条を変えることは、華々しく見えるが、実際にはごくありふれたことで、そうするのは息をするようなもので、熱中し、熱が冷め、また再び熱中するだけで、知性が世間の驚嘆を気にかけるかぎり、理知的改心は知性の衝動そのものにほかならない。しかし、新たな形式を探求し、発見し、実践すること、これこそは私がその決定的要因を挙げた新生(・・)に見合うものだと、私は考えるのです。》

 

 バルトは、自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望みを語ったあと、トルストイ戦争と平和』とプルースト失われた時を求めて』のある挿話を読み返すという読書体験と、それによる教訓の話をする。

《この、私の道半ばにして、この私という個人の頂きにあって、二つのテキストを再読する機会がありました(実は、あまりにしばしば読み返すために何時のことだったか申し上げられないのですが)。ひとつは、残念ながらもはや書かれることはないほどの大小説、トルストイの『戦争と平和』を読み返したこと。ここでは作品についてではなく、ある深い感動のことをお話しします。この感動が私にとって頂点に達したのは、ボルコンスキイ老公爵の死に際して、彼が娘のマリヤにかける最後の言葉のところ、愛の弁舌(駄弁)を振うこともなく愛し合っていたこの二人の胸を死の間際になって引き裂く愛情の迸りのところです。二つ目は『失われた時』のある挿話を読み返した(ことでこの作品がここで出てくるのは、この講演の冒頭とは全く別の次元のことで、私が今ここで自分を一体化させようというのは話者(・・)の方にであって、作家にではない)、それは祖母の死の条りです。これはすみずみまでも純粋な物語である。私が言いたいのは、ここでは苦痛が(『失われた時』の他の挿話と異なり)何ら註釈の対象とならず、永遠の距離を生む、到来する死の残忍さが、間接的な事象や出来事(シャンゼリゼのあずま屋への立ち寄りや、フランソワーズの振う櫛の下で揺れる哀れな頭)を通してのみ語られているだけに、苦痛がここでは純粋であるということです。》

須賀敦子の場合は、シモーヌ・ヴェイユ体験、ダンテ『神曲』の講読会、『ユルスナールの靴』に結実したユルスナールの読書(『ハドリアヌス帝の回想』における「霊性の闇」「老い」、『黒の過程』の「異端者」「求道者」「放浪者」)、戦火のバルカン半島が舞台のアンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に「自分さがし」「ヨーロッパ」「地つづき」「共通言語へのひりつくような渇き」を観たことだったに違いない。)

《この二つの読書体験、それらがいつも私の内に掻き立ててくれる感動から、私は二つの教訓をひき出した。まず確認したのは、これらの挿話を私が<真実の瞬間>として受けとっていることであり(そうとしか言いようがない)、突然、文学が(ほかでもない文学が)身を切られるような別離の悲哀、ある<叫び>と、完全に重なり合うのです。愛する者から遠く離れて、思い出なり予測なりで、別離を味わっている読者の肉体に、じかに、超越的なものが触れるわけで、まさにいかなる悪魔(ルユシフエール)が愛と死とを同時(・・)に創り出したのかと問いたくなる。この<真実>の瞬間は<レアリスム>とは何の関係もない(そもそも真実の瞬間など、どんな小説理論のなかにも見当たらない)。(中略) 第二の教訓、私が小説とのあの熱っぽい接触からひき出した第二の勇気と言うべきもの、それは書くべき作品が(こう言うのも、私が自分のことを<書きたいと思っている者>と見なしているからだが)、ある感情をそうとは述べずに(・・・・・・・・)積極的に提示するのを認めるべきだということです。》

小説が持つ能力を――情愛あふれる、愛する力を――発展させ、果たしてもらいたい三つの任務を説明した後でバルトは、《ニーチェ流の類型学からすれば、小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではないのです》と述べ、《そしてここでまた私は、最後になりますが、方法論に行き当たるのです。私が実際、もはや何かについて(・・・・)語る者の立場ではなく、何かをつくる(・・・)者の立場に身を置く――生産物を研究するのではなく、生産そのものを担いたい。言述についての言述は廃棄したい。世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる》と言う。

 バルトの「世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる」に、須賀の言葉「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」が、「小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではない」という信頼で重なりあう。

 

 ここで、創作ノートの「シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」を思い起こしたい。

 一九七〇年ごろのシモーヌ・ヴェイユ体験について書かれた『本に読まれて』の『世界をよこにつなげる思想』(初出はヴェイユ『カイエ4』月報(一九九二年))にはこんな文章がある。

《一九七二年に出版された筑摩叢書の、リースというイギリス人の書いた『シモーヌ・ヴェーユ』(山崎庸一郎訳)は、刊行年からみて、私が夫の死後イタリアから帰って、もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。ポスト・イットなどという、糊のついた便利なしおりがまだ市販されていなくて、じぶんで細く切った白い紙に、要点やら感想を書きいれたのが、降伏の旗のようにあちこちにはさんである。「多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、また神の愛する多くのものがそのそとにあります。わたしが愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。最近の二十の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります」

『神をまちのぞむ』からのこの引用は、このしるしをつけた二十年まえから今日にいたるまで、そしておそらくは私の生のつづくかぎり、ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。》

 

 アッシジと言えばヴェイユ『神をまちのぞむ』の有名な一節を思い起こすのが、ヴェイユを知る者なら自然だろう。ユダヤ人迫害を激化するナチス・ドイツ支配下のフランスを逃れたいという両親の嘆願を受入れ、アメリカへ渡る前に、ヴェイユ自ら「霊的自叙伝」と呼んだ、ペラン神父への長い手紙の一節にこうある、《一九三七年には、アッシジで素晴らしい二日間を過しました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀のロマネスクの小聖堂に、その類のない清純な素晴しさの中に、ひとりでおりましたとき、そこは聖フランチェスコがたびたびお祈りしたところですが、わたくしは何か自分よりも強いものに強いられて、生まれてはじめてひざまずきました。》

 しかし、ヴェイユは丘を降りて行き、最後まで洗礼を受けず、教会の入口にとどまって、聖職者となることを拒んだ。

 一九五七年に須賀が『聖心(みこころ)の使徒』に掲載した『アッシジでのこと』には、若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな若い文体ではあるけれども、熱く素直に語られている。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

 サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(中略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

 庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。》

 須賀は恥らいから秘すかのようにヴェイユのことに触れない。一行空けて、後半が待っている。

《丘を降りて汽車にのってからも、あれから三年たった今も、私には、あの時の時分のおどろきがわすれられない。(中略)夏休みも半ばをすぎ、パリに帰る日が近づいたある夕方、私は、カムパアナ家の人たちと、おわかれにアッシジの丘をのぼった。四月の雨の日の訪問からかぞえて八度目であった。私への名残りを惜しむかれらにくらべて、しかし、私の心は、もっと複雑だった。アッシジの町の後にそびえる、ロッカ・マジョオレの城跡のくずれかかった石の間を跳んで歩きながら、私は、ほんとうはどうすればいいのかわからないと思っていた。(中略)星が野が、町がこたえた。私たちのフランチェスコも、丘を降りて行った。だれでも一度は丘を降りなければならない。おまえのいのちは、この夏、ウムブリアの野にうまれた。うまれたばかりだから、わたしたちは大切にそだてた。しかし、もういいだろう。おまえにも丘をおりる時がきたのだ、と。月が登りはじめた。ひえびえとした九月の夜風が、荒れた城跡を白く吹きぬけて行った。もうあれから三年になる。あれ以来、まだ私はアッシジをたずねていない。私が丘を降りてからのはなしを、かれらは風のたよりにきいているかもしれない。そして、ひょっとしたら、いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ。》

 一九五七年の「いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ」は須賀の内部の深くにタネとして宿りつづける。実際、須賀はその後も何度かアッシジを訪ねている。創作ノートに「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」と記された一九六〇年三月のアッシジ行きは、(二年後に結婚する)ペッピーノ・リッカ宛書簡(岡本太郎訳、『須賀敦子全集 八巻』)で読むことができる。当時の須賀の人柄、自己省察、自覚、さまざまな思い、関心、感受性、悩み、苦しみ、愛の対象を見出せるので、長くなるが引用する(偶然にもダンテについて研究していたダニエルについては『コルシア書店の仲間たち』にも時系列に差異はあるものの「共同体」について語り合った場面がある)。須賀ははじめから「二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていた」のであり、それをどう乗り越えるかが長年の宿題だった。

 

三月八日 ローマ

 親愛なるペッピーノ、

 お手紙ありがとう、アッシジで受けとりました。

 さて、それではアッシジの滞在記です。私は三月二日、火曜日の夜に着きました。前に(たしか)あなたにお話ししたように、この町に行こうと決めた理由の一つは、シャルル・ド・フーコー神父の友愛会の精神についてさらに知り、理解を深めたかったからでした。そして「イエスの小さい姉妹の友愛会」があることを知っていたので、できれば彼女たちに会いたかったのです。(中略)

 夕食のテーブルで私は若いフランス人女性のダニエルと知り合ったのですが、彼女はパリの高等師範学校の学生で、ダニエル―神父の友だちで、今は「神曲」におけるダンテの愛の概念についての論文を書くためにローマに滞在中なのです。私たちはすぐに話はじめました。ああペッピーノ、私が心を開いて話のできるフランス人に出会うのはそうそうあることではないこと、おわかりでしょう。ひどい返事をしたり、いいかげんなことをたくさんいってしまうことがよくあるのですが、それも、彼らの、ある種の優越感に支えられた過度の好奇心に苛立たされるからなのです。でもダニエルとはまるでそんなことはありませんでした。夕食のあいだじゅう打ちとけて話ができたのです。私たちはおやすみのあいさつをいって、私はこの思いがけない出会いにうれしくなっていました。

 ダニエルにとってアッシジに来るのははじめてでした。そこで翌日私は案内役を買ってでたのです。私たちは一緒にサン・ダミアーノ教会に向かいました。小さい姉妹会のことをいってみますと、彼女も直接会ったことはなく、訪ねてみたいということでした。二人でなら思い切ってやってみられるかもしれません。

 大切なペッピーノ、ここで、アッシジに発つ数日前に起きた不思議な体験のことをお話ししたいと思います。体験、と私は呼んでいるものの、実際はただの夢なのですけれど。

 あたりはもうすっかり春です。どの丘も鮮やかな緑におおわれていて、桃の甘い花はまるでうれしさのあまり泣いているかのようです。私はひとり満ち足りた思いで歩いていました。

 すると突然、丘の上のひどく貧しい小屋が目に入りました。その脇には鶏小屋がありました。

 私はたずねました――あそこには誰が住んでいるかしら? 声が答えました――小さい兄弟たちだよ。

 私にはまるでショックのようなものでした。土の匂いを、鶏小屋や、桃の花や、草の匂いと一緒に感じたような気がします。そしてそういった一切が、彼らの生活の素朴さ、質素さのイメージであり、その根源的なかたちであるかのように私には思えたのです。それと同時に彼らの貧しさと、私の傲慢さを、私の自分自身の粉のような乏しさにもかかわらず、常にあらゆるものを批判しようとしてきた、どうしようもなく尊大な態度をはっきりと思い知ったのです。

 それでもこの自覚は不愉快なものではありませんでした。むしろ私はうれしく感じていました。こうしたことをすっかり理解することができてうれしかったのです。私は泣きだしました。苦い涙ではなかったことをよく覚えています。まるで胸を張って泣いているようでした。この、アッシジの平野を流れる小川のひとつのように。そしてあまりにもひどく泣いたおかげで目が覚めてしまいました。

 姉妹たちのもとでの冒険にもどりましょう。私たちは一時間ばかりいたように思います。時間を無駄にさせてしまってとても恥ずかしく感じていました。でも同時にすっかり魅了されてしまっていて、いとまを告げられずにいたのです。

 昼食の時間に間に合うように急いで道を上ってゆかなければなりませんでした。歩きながらダニエルはいいました。

 ねえ、あなたも彼女たちみたいになってみたいという気にならなかった? あんな純粋な生活を送ってみたいって?

 ええ、たしかに。でもね、小さい姉妹会の生活をそのまま送るというのは私のするべきこととは少しちがうように思うの。彼女たちの精神性は私になにか決定的なものをもたらしているのはたしかなのだけれど、私が生きるべき世界は彼女たちのとは少しちがうように思えるのよ。ダニエル、あなたはどう?

 私もよ。(中略)

 ダニエルは間違いなく、今までに私が会った若い女性の中でも、もっとも聡明な一人です。彼女の論理の明快さ、考える筋道の厳格さには本当に感心させられましたし、しかもとても気持ちの良い人なのです。それに私は彼女のうちに、あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思いがあることに気づきました。私はローマに帰って来ましたが、数日のうちには彼女ももどってくるはずです。私たちはできるだけ会って、一緒に勉強をしようと約束しました。あなたもいつか彼女に会って、多くのことを理解できるように手を貸せるのではないでしょうか。(中略)

 大切なペッピーノ、私に良きアッシジ滞在を願ってくれた、心から感謝します。たしかに、たくさん人に会ったりせずに、もっとゆっくり過ごすつもりでした。でもごらんのとおりまったくちがう結果になりました。でも、本質的なことは、私が再度、自分の毎日の歩みの方向を確認できたということなのです(ダニエルには、やっと生きはじめたように思う、といいました……)。(後略)

 またのお便りお待ちしています。あなたの、               敦子》 

 

 そして四十年後、アッシジという場所ではないが、より文化、宗教、戦争、ネーション=ステートが混淆したアルザスという「はざま」の地に、「あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思い」で、「自分の毎日の歩みの方向を確認できた」成熟を芯に、白いハスの花を咲かせるために帰って来た。

 

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》の「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」とは、須賀が翻訳したイタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』で、カルヴィーノが、ダンテ『神曲』の「地獄篇」に登場するウゴリーノを論じたボルヘスの文章を次のように論じたことから来る。

《現実の時間や歴史の時間のなかで、いくつかの選択肢のまえに立たされたとき、人は、そのひとつを選び、他の可能性を排除して、これを失う。だが、希望や忘却の時間に類似する芸術の曖昧な時間においては、そんなことはない。そういった時間のなかにいるハムレットは、精神が正常であると同時に狂人でもある。飢餓の搭に幽閉されたウゴリーノは、愛する息子たちの遺骸を食し、同時に食さない。揺れうごくこの不確かさ、この不安が、ウゴリーノの本質なのである。そこで、ふたつの可能な苦悩にさいなまれるウゴリーノを、ダンテは夢に描き、これからの何世代もが夢みるのだ。》

 雑誌「新潮」一九九六年一月号にぽつんと掲載された『古いハスのタネ』は、ダンテから十九世紀英国詩人ホプキンズへと、「宗教と文学」の関係をヴェイユ『カイエ』を思わす断章で並置してゆく、須賀には稀な難しい文章だ。

 ダンテについては、《ダンテの『神曲』は、巨大な天幕のようにキリスト教が<普遍的な宗教>として、西欧人の思想と生活のすべてを蔽(おお)っていた時代に書かれた、西欧中世を代表する文学(・・)作品だ。作者は、人間とはどういうものか、なにを追究して生きるか、というテーマを、比類ない力づよさ、写実性をもって描きあげる。だが、ダンテがあまりなんでもないふうに宗教の話をするので、後世の読者は、いや、学者さえも、おもわず文学と現実、詩と宗教をとりちがえて混同することがある》から始まる。

《枠組はどっぷり中世的、キリスト教的であっても、知識の分化が行なわれなかった時代に生きたダンテが、なによりも野心をあおられ、興味をそそられたのは、百科辞典的な知識の集成を物語に織りこむことだった。同時に、人間そのものを、また人間の知識や欲望を根底でささえているエネルギーについての話を、物語誌としてどのようにまとめ、どのような詩形式に表現すればよいか、といった巨視的な意図に、彼は支えられていた。

                      *

 ダンテが、彼の分身を最後には神の実在に沈潜させるというかたちでこの作品を結んでいるのも、知識の総合性を重んじた中世らしい発想だ。断片性を価値としてみとめる慣習は、近代になって生れた。

 それでも、あの有名な神秘の薔薇の白光に照らされ、歌にみちた<神によみせられるものたち>の幸福は、人類がかつて想像しえた、最高の歓喜の表現であることに変りはない。》

 須賀は、さきのウゴリーノの逸話を、トスカーナ育ちの友人が幼い頃、老農夫から語って聞かされた話として織りこみ、《現在の私たちが詩と呼び、宗教と呼ぶものが、ダンテの時代とは比べられぬほど、部分的で断片的であることに、私たちは気づく》、《一見、キリスト教にすべてが括られていたようなイタリアの中世に書かれたのではあっても、『神曲』は、すでに言葉の世界が、それとは別の山として、ひとり歩きをはじめたことを物語っている》という、自分の現在の思いに引きつけた重要な断章の後に、以下の一節と内心の吐露で結ぶ。

《『神曲』の地獄篇第二十六歌で、旅人ダンテはオデュッセウスに出会う。ダンテのオデュッセウスは、私たちの知っているホメロスの、ついには息子や妻のもとに帰りついてほっとするイサカの英雄ではなくて、道に迷ったまま、<老いて気も萎えた>オデュッセウスで、彼と彼の仲間たちを乗せた船はとうとう、<世界の果て>と中世人が信じていた、ジブラルタルの岩にさしかかる。(中略)

 それにしても、人間に許される以上を知ろうとした罪、その冒険に仲間を誘いこんだ罪で、地獄の最下層に閉じ込められているオデュッセウスと、宗教のみちびきとは別々に、太陽の光が射さない詩の世界にさまよい出たダンテとの相似性は見逃せない。ジブラルタルの岩の向こう側こそが、ダンテの文学がはじまる場であるように、私には思える。

                      *

 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。》

 

 そして唐突に、吉行淳之介の短編小説『樹々は緑か』が紹介される。

《数日まえ、吉行淳之介の『樹々は緑か』を学生たちと教室で読んだ。あまり知られていない短編で、こんなふうに始まっている。

<陸橋の上で、伊木一郎は立止って、眼下に拡がっている日暮の街に眼を向けた>

 なんてやわらかな始まりだろう、疲れていたのだろうか。夕方の授業で、三十人ほどの学生がいて、そのなかの、五、六人はいつもいっしょうけんめい聴いていて、それがかえって私を不安にする。聞かれても、聞かれなくても、教師は不安だ。

 さて、伊木は三十三歳で、夜間高校の教師をしている。たぶん下町を見下ろすらしいその橋のうえで、彼は自分の気持を測っている。街を覆う靄のなかに、とても降りて行けない気分か、それともちょっと勇ましく降りて行ける気分か。私も、しじゅう、ふたつのあいだを揺れている。行けばいいのか、行かないほうが彼にとって無事で済むのか。(中略)

 小説がその先、どういう展開になったのか、鮮明な記憶はない。なんとなく終ってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈絡もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。

 これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独――それはとりもなおさず生の孤独なのだが――に、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。

 もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。》

 

 創作ノートに「アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい」と、[欄外の手書きメモ]「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」がある。

「先年のストラスブール文学者会議」とは、一九九三年の、アルザスストラスブールで「世界の叫び」という題の下に開催されたシンポジウムで、ジャン=リュック・ナンシースーザン・ソンタグジャック・デリダサルマン・ラシュディらが参加している。

「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」とは、一九九七年二月三日朝日新聞夕刊の文化面、「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」のインタビュー記事「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」のことだ。須賀は、「ストラスブール文学者会議」の司会者だったアルザス育ちのジャン=リュック・ナンシー(スロラスブール大学教授)の声に、かねてからの「文学と宗教」への関心に加えて、戦争、希望、現実、神の不在に感応し、歴史的十字路であったアルザスを舞台に、「断片」を超えて「人間の尊厳」の下で総合的に書かれるべき、自らの小説の姿を野心的にだぶらせたのだろう。

《――科学文明への期待で幕を開けた二十世紀は、実際には戦争と強制収容所の世紀でした。民族紛争や貧困の問題も残されたままで、未来に希望が見えない状況があります。

「今世紀は破壊的で恐ろしい時代でした。教訓は、破壊や悲劇が未来のユートピアをめざすイデオロギーや、社会問題を解決しようとする計画によって起きたことでした。夢は破局に終わり、いまではだれも未来を信じなくなっています。その結果、私たちは二十世紀を幸福な時代として懐かしむことも、二十一世紀を夢見ることもできない状況におかれています。過去も未来も失ってしまった二重の喪失感があるのです」

――それが現在の人類の危機につながっているのですか。

「ヨーロッパでは、ローマ帝国が滅亡した時にも、ひとびとに大きな喪失感がありました。振り返ってみると、それは大きな歴史の一つの過程にすぎなかったのです。古い世界の秩序が崩れようとしているという意味では、現在も危機の時代といえますが、それは次の新しい世界が生まれる過程でもあるのです」

――新しい世界に希望を描くことはできますか。

「私は楽観主義者だとは思っていません。しかし、人類の将来については希望をもっています。人間が二十世紀の歴史から何も学ばなかったはずはないからです。ボスニアの戦争は確かにひどいものでした。しかし、民族浄化の危険に気づくことができたのは歴史に学んでいたからです。責任の追及は十分とはいえないが、ナチのホロコーストが見過ごされた時とは違っていたのです」(中略)

――現実の世界では、民族や宗教の違いをめぐる争いや暴力的な混乱が続いています。

「大きな時代の変化への恐れから、自分たちだけの狭い世界に戻ろうとする動きがあるのは確かです。平等や博愛といった言葉が中身のない空疎なものになっていることにも見られるように、危険な動きに対抗する思想がないという問題もあります。しかし、たとえば、民族にとらわれない開かれた歴史教育をめざす動きはフランスでも広がっています。二十一世紀の世界は開かれた方向に向かうと私は確信しています」

――新しい生きた思想や哲学が生まれないことには、知識人も責任があるのではないですか。

「もちろん責任はありますが、特権的な知識人が真理を教えるという時代は、間違った夢を信じた二十世紀の知識人とともに終わってしまったのです。新しい思想は、ひとがともに生きている現実に目を向ける中から生まれるはずです。それは知識人だけの役割ではないのです」

――新しい思想や哲学が生まれる可能性はあるのでしょうか。

「二十世紀の一番大きな出来事は、神が本当に死んだことだと私は思っています。神の死は十九世紀に宣告されていたけれど、影は残っていました。人間を超えた絶対的な神の不在は、人間の存在も変えてしまうのかもしれません。フロイトは人間は生まれていくものだと言っていますが、人間に代わる何かは、すでに生まれているのかもしれません」》

 

 プルーストには「決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです」とバルトは考察した。

須賀は、『アルザスの曲りくねった道』を書き始めることを念頭に、鈴木力への手紙に「ながいこと私のたゆたい・試行錯誤に、たぶんあきれながらもおつきあい下さりここまで待って下さったことについては、力さんをはじめ新潮社の方たちのご寛容に感謝の気持でいっぱいです。」と書き送った。

「文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」と言い、「教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える」と言う。

 バルトの「書きたいという欲求(・・・・・・・・・)」「内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っている」と同じく、右足にダンテ、左足にヴェイユという「歩き靴」を履いた須賀は、秘めた「生の孤独」のうちに時の天命が熟すのをずっと待ち、「さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる」。

「揺れ動く不確かさ」「思いの揺れ」「たゆたい・試行錯誤」を肯定的にとらえた須賀の白いハスの花『アルザスの曲りくねった道』は、ダンテの「神秘の薔薇の白光」と同じ輝きを放って「ジブラルタルの岩の向こう側」を照らすはずだった。

                          (了)

            *****参考または引用文献*****

*『須賀敦子全集 全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

湯川豊篇『新しい須賀敦子』(集英社

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』(新潮社)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

松山巌須賀敦子の方へ』(新潮社)

イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳(みすず書房

シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳(春秋社)

リチャード・リース『シモーヌ・ヴェーユ』山崎庸一郎訳(筑摩書房

*『朝日新聞 夕刊、一九九七年二月三日』(「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」)

文学批評  「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

 「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

    

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 須賀敦子は、生前五冊の本を出版している。

 六十一歳で刊行した『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)からはじまって、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)である。これらは、数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀敦子は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳出版している。しかしもっと評価されるべきなのは、ずっとはやくの一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版することで日本文学を彼の地に知らしめたことだろう。さらに遡れば、一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』、『アッシジでのこと』などのエッセイを書くことから、執筆活動は地味ながらスタートしていたといえる。

 須賀の作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集に収められた松山巌による詳細な年譜によれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年ごろ、その意思、構想を知人に相談し、創作メモも残している。翌一九九六年九月には小説の舞台となるアルザス地方を歩き回り、十月には序章を書き始めた(未定稿が、創作メモとともに全集に収められている)。しかし、すぐに体調悪化、年明け一九九七年一月に入院となって、体調すぐれず、一九九八年二月には見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったけれども、三月二十日に帰天。享年六十九歳、ついに小説『アルザスの曲がりくねった道』を書き終えること、叶わなかった。

 

<『ヴェネツィアの宿』/プルースト

ヴェネツィアの宿』は、文芸誌『文學界』に一九九二年から一年間にわたって連載発表された『古い地図帳』に加筆訂正、単行本として一九九三年に刊行された。

十二篇からなり、『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』『寄宿学校』『カラが咲く庭』『夜半のうた声』『大聖堂まで』(初出時は『待っている人』)『レーニ街の家』『白い方丈』『カティアが歩いた道』『旅のむこう』『アスフォデロの野をわたって』『オリエント・エクスプレス』である。エッセイとして読むと、どうにもまとまりなくばらばらにみえるが、旅の宿、父のこと、母のこと、親戚のこと、少女時代のこと、留学時代のこと(ローマ、パリ)、キリスト者としての体験、修道女のこと、自分を探すこと、京都での不思議な話、知人との出会い、音楽、歌声、などのテーマが、夫・家族・親しい知人の死とともにあらわれては消え、父の逸話が円環構造になっていたりと、決して一本調子ではなく、建築に興味があった人らしく構造的なのがわかる。読み進めれば、物理的時間の流れのとおりではなく、場所もあちこちに飛ぶ。作品それぞれの中でもまた追憶に向かいがちだ。過去時制を多用した文体で時間、空間が自在に往き来する回想小説と思って読めば、その構成の美意識がわかろうともいうものだ。

 どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをつねに考え、口にしてきた須賀の文章は、あらすじを書いても抜け落ちるものが多すぎるので、なるべく文章そのものを引用しつつ、文体の考察を主に魅力の秘密を解く鍵を探しながら、読解を試みたい。

 

冒頭の『ヴェネツィアの宿』は本の全体と結末をよく構想したうえで、細部のエピソードにいたるまで意図をもって書きこまれ、のちのいくつかテーマを予兆している。人物の登場のさせ方がさりげないうえ、ときにドラマチックさも計算されているのは、連載時の題名が、本の最後の最後に登場する父の「古い地図帳」からとってきていることからも、あきらかだ。

 書きだしは、《シンポジウムが開催されるヴェネツィアの空港に着いたのは、正午ちょっとまえだった。》 現在に近い過去であるにも関わらず、遠い昔のように過去時制の末尾を持つ、柔らかなひらがなを織り込んだ息の長い回想の文体が紡ぎだされてゆく。フェニーチェ劇場の広場に面した宿に向かうが、その夜は歌劇場の創立二〇〇周年を祝うガラ・コンサートで、入れなかった人たちのために、スピーカーから舞台の音が中継されている。《デイバッグを背負ったままで、男の子の胸に頭をもたせて聞きほれている少女》、《頭をあげたままうずくまる金色の髪の青年》、《用意よく小さな金属製の折りたたみ椅子にこしかけている夫婦らしい白髪の男女》、《四、五人つらなっている女子学生ふうの一群》のいきいきした描写に続いて、早くも光と音による追想がはじまる。

《そのうえを光と音がゆっくりと流れていて、まるで、どこか遠いところの川底で夢を見ているようだった。

 魔法のように目前にあらわれたその光景と、それを包んでいる音楽が、忘れかけていた古い記憶にかさなった。ある夏の夕方、南フランスの古都アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、ロマランの茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。》

 しかし、客観と自己省察の人は、ただ甘いだけの思い出に流れこんではゆかない。身なりはヒッピー風だったが、歌声はしっかりした音程だった。《あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私は、あのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。》

 中世とつながった時間の糸。アヴィニョンの噴水からヴェネツィアの広場までの長い時間、そして、ヴェネツィアの広場からこれを書くまでの長い時間。須賀作品は、ぶつりぶつりと断片化された時間の物語ではなく、それらがすべて一本の時間の糸でつながっていて、自在にたぐりよせられる。空間もあちこちに、「歩きつづける」場面が、時空をかえては、この本のテーマのひとつとしてあらわれるだろう。

 音楽に身をまかせたい気がしたが、いつにない疲れを覚え、五階の船室ふうの屋根裏部屋まで登る。暑気で部屋はなまぬるく、せまいベッドの、つめたい麻のシーツに身をよこたえたが、からだがほてって、だるい。アスピリンを一錠のんでから、正方形の小窓をあけると、音楽が、待っていたようにどっと流れこんできた。《ずっと、自分は音楽には入りこめない、音楽がこちらを向いてくれない、と思いこんできた。いや、音楽のもってくる感動があまり純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。》 この先も音楽と歌のテーマはしばしば顔をのぞかせるだろう。

 すこしとろとろとすると、教会の鐘の音で目がさめる。あらしのような拍手が追いかけた。私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかで目をとじて聴いていた。やがて、劇場の横の路地を通る人々の人声と靴音が窓を通して部屋にはいってきた。《私も音楽会帰りの群衆のひとりになって窓の下を歩いている、そう思えてしまうほどに、興奮した声のピッチが、キャビン・ベッドの周囲を跳ねまわった。》

 そうして、プルーストの小説冒頭のコンブレーのように記憶が「ピッチの声」とともによみがえり、反抗心もともなって父が記憶の門をあけて入ってくるのだった。

《パリで学生だった四十年ちかくもまえに、生活費をきりつめて、つぎつぎに出かけたピアノ演奏会の記憶が、満月の光だけの小部屋にひとつひとつ戻ってきた。若いサンソン・フランソワショパンを聞いて、楽屋まで会いに行ってしまった夜。(中略)帰り道には、私もこんなピッチの声で友人と印象を語りあったのだろうか。都心からカルチエ・ラタンの学生寮まで、凍りつく冬の夜を頬をほてらせて歩いて帰ったこともあった。父に手紙でその興奮を伝えると、二枚きりの、いつもの大きな字で書いた返事がきた。音楽もよいけれど、勉強はしているのだろうか。すこしはしゃぎすぎてるように思う。それを読んで、かなしかった。寒い毎日の図書館通いや、聞きとるだけでも大変な大学の講義のことは、心配かけまいと思ってわざと書かなかったのに。自分こそ、ヨーロッパ旅行をしたときは、それこそぜいたく三昧で遊びほうけていたくせに。》

 そこから、一九三五年の父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行の説明となって、ヴェネツィアに来たときは、どんな豪華なホテルに泊まったのだろうかとか、ベネチア、と彼はこの海の都の名を発音していて、ムラーノとか、ブラーノとかのガラス工場をたずねた話を聞いたことなどを思いだした。《レース編みをする女たちを見て、日本で待っている母を億っただろうか。家では子供がうるさくていつもいらいらしていたくせに、旅に出ると、私たちのことがなつかしかったのだろうか。三十歳になったばかりの父は、一時的にせよ大家族の家長の座から解放されて、ただ有頂天だったのではなかったか。》

 四角い小窓からは音が伝わらなくなって、枕がひんやりと頬にふれてほっとする感覚があった。大旅行中に、母を億っただろうか、とか、うるさい子供のことから解放されたのではないか、といった微笑ましいひとつの家族、幸福に結びついた家庭の話題を卓袱台返しするかのような思い出が、たった一行の空白で、戻ってくる。

《父がふたつの家庭をもっているのを知ったのは、私がはたちのときだった。いろいろ話したいことがあるから、帰ってきてください。戦後はずっと病身だった母から東京の大学の寮に手紙が来て、私は十一月のはじめの短い休暇に帰省した。》

 母も登場してくる。「私」が東京の大学の寮にいること、実家は夙川(しゅくがわ)であることもさりげなく語られてゆく。

《夕食のあと、ふたりだけになるのを待って、母がぽつりと言った。パパが家を出ちゃったの。会社にも出てないらしい。いやだなあ、と思った。(中略)病気だったの? 私は訊ねた。京大病院のお医者にかかってたみたい。(中略)こんどばかりは、はっきり、うらぎられちゃったみたい。そう言って母は小さな笑い声を立てた。》

 うまくひらがなを織りこんでの会話(とりわけ母の会話には、ひらがなと「……みたい」を甘いオブラートのように響かせて)を地の文にとけこませる文体は、須賀がギンズブルグを翻訳することや、『源氏物語』、谷崎から学んだことだが、文体については、のちほど詳しく論じたい。

 数日後、「私」は父が入院しているかもしれない京大病院を訪ねてみる。京都までひとりで行くのは、はじめてだった(年譜に拠れば、現実にはひとつ下の妹と一緒だったが、一人で行ったことにするほうがドラマチックな効果がでるのを狙っての表現にちがいない)。名を言うと、勘があたったが、病室に行くとベッドはからっぽで、看護婦さんが、いまお散歩に出られました、と言った。庭に降りると、広々としたポプラの並木道に出た。むこうから父が来た。ここからの文章は、いくらでも「私小説」の愁嘆場として告白調で書けるのに、じめじめせず、トスカーナの空のように澄んで乾いている。いつも自分の内面をあからさまには語らず、他の人の描写でそれを代弁するが、ここでは冷静な観察眼と洞察力をもった「私」が前面に出ての矜持さえあって、自分と他者との距離感が心地よい。

《すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。(中略)

 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。(中略)

 病気だったらうちで寝てればいいのに。それに大阪にだって病院はあるでしょう。父にむかってそう言いながら、私は彼の肩に半分かくれて、ちょっと膝を曲げたような姿勢で立っている女をにらんだ。背のたかい父とほとんど肩をならべるくらい彼女は上背があって、面長な色白の顔も、骨太な体格も、小柄で肌が小麦色の母とはすべてが対照的といってよかった。くすんだ色合いの彼女のきものは、すこしくたびれていて、うぐいす色の地に竹のもようのある羽織をはおっていた。》

 彼女はからだつきも着るものも、ほとんどすべての面で母とは違っているのに、どこか共通するものがあって、母とおなじように父のほうを向いて生きているうちに、父の好みに染まってしまったからではないか、と気づく。その人は、言葉づかいも、ものごしも、まっとうで、そのことがまた意表をついていた。《彼女が、そのときまで漠然とあたまに描いていた「いやらしい女」でなかったことに私は救われる思いだったけれど、自分がそう考えたことを、母には言えないとも思った。》

 須賀は、いつも結末がうまいが、ここでも最後の、「見送った」でも「見送らなかった」でもない、記憶をたぐり寄せながらの「見せ消ち」のような否定形が、深い余韻を残す。

《父は苦々しげに言った。よくも京都まで。子供なんかの来るところじゃない。

 ママのところに、はやく帰ってください。そう言って、私は父と別れた。ふりかえって、愛人といっしょに病棟の方に歩いていった父のうしろ姿を見送ったかどうかは、憶えていない。》

 

 他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるのではないか。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、須賀自身が十分に意識的だったかどうかはともかく、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないのか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。たとえば、森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、あるいは、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と語ったていどだ。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験であった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 ところで、ギンズブルグ『ある家族の会話』(原題『Lessico famigliare(レッシコ・ファミリアーレ)』須賀敦子訳、白水社)には、須賀が「自伝的小説」と名づけた内実に相当する作者の「まえがき」がある。

《この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったくない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことがあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。

 人名もそのまま用いた。この本を書くにあたり、私は架空の介入をまったく許容できなかった。本名を変えなかったのはそのためであり、また本人たちと彼らの名を切りはなして考えることが私にとって不可能だったからでもある。これを読んで自分の名が出てくることに反撥を感じる人はあるかもしれない。その人たちには申しわけない、としか私には言えない。

 また私は自分が憶えていたことだけしか書かなかった、したがってこの本をひとつの年代記として読む人は、多くの脱落を非難するだろう。だから題材は現実に即してはいても、やはり小説として読んでいただきたい。すなわち、小説が読者に提供することのできるもの以上、あるいは以下のいずれをも要求することなく読んでいただければさいわいである。

 それから、自分で憶えてはいてもわざと書かなかったこともたくさんある。とくに私自身にかかわることについては、省略した。

 自分についてはあまり書きたくなかったからである。というのも、いろいろな欠落、省略はあっても、この本は私についてのものがたりではなく、私の家族の歴史として書かれたものだからだ。最後にもうひとつ。私は幼いころ、さらに少女時代を通じて、当時私の周囲で共に暮していた人たちについて本を書きたいと思い続けてきた。部分的にはこの本がそれである。ただしそれは部分的でしかない。というのも記憶は時の経過についにあらがい得ず、しかも現実を土台にした本は、しばしば作者が見聞きしたすべてのことの、ほのかな光り、小さな破片でしかないからである。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意するべきである。

 

<『夏のおわり』/谷崎潤一郎細雪』論>

《夏になると、鬼藤の伯母を思い出す。(中略)どうして夏にばかり鬼藤の伯母を思い出すのか考えてみると、なんのことはない。子供のとき東京にいた私たちにとって、神戸に近い岡本という住宅地に住んでいたこの伯母に会うのが、夙川(しゅくがわ)の祖母のところに一家そろって「帰省」する夏休みと決まっていたからにすぎない。》

 時系列的に、京大病院に入院している父を訪れたことを母に報告する様子をつづいて語ることはせず、時間は「私が十六」という昭和二十年にまで遡るのだが、そこには父と母の馴れ初めや、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』を読んで感激したという「家族」のテーマがある(丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』で、須賀「『魔の山』を皆さんはおっしゃるけれども、私はブッデンブロークのあの家族というもののすごいのと、それから彼の文体、私はイタリア語で読んだんですけれども、構成というか、そういうものにとても感激したのがやっぱり『ブッデンブローク家の人々』だったんです。」)。

「風がちがうのよ」と編集者に語ったという阪神間の雰囲気が幸せな気分で書かれている。

《電車から見ていても、おなじ沿線の芦屋や夙川では、春を告げるのがミモザの黄色い花枝だったり、五月の垣根をいちめんにおおうのが白やピンクの蔓薔薇だったりして、とかく西洋ふうが目立ったのに比べると、岡本あたりでは、秋の日にすずなりの柿が夕陽に照っていたり、冬の終りに見事な梅の大木が咲き誇っていたりするのが、他の住宅地にはないちょっと古風な気品をそえていて、そのことがなんとなく、鬼藤の伯母たちの、どこかで時間のとまったような、それでいて、ふんわりした懐かしさを誘う暮しぶりによく合っていた。》

 この鬼藤の伯母という人は、九人きょうだいの末から二番目だった母の長姉で、十五歳ほどのひらきがあった。父と母がはじめて会ったのが、この伯母の家でだった。父方の祖父が設立した建築設備の会社の東京支店をまかされた鬼藤の伯父の結婚相手が母の姉で、長男が生まれたばかりの伯母を手伝いに鬼藤家に行っていた母を、父が見初めた。

 鬼藤家の長男の欣一兄さんは学徒動員で兵隊にとられ、私たち親子も空襲の激しくなった東京をあとにして夙川に移ったのだが、その後まもなく、会社の定年をむかえた伯父夫婦が播州平野のはずれにある小野という小さな町にあった鬼藤家代々の屋敷に引っこんでしまった。戦争が激化して、西宮の旧市街が爆撃され、夙川もあまり安全とはいえなくなった昭和二十年の三月の声をきくと、母は妹と弟を連れ、小野の伯父の屋敷に身を寄せた。私が十六、妹は十五歳で、弟が十一歳の小学校五年生だった。私は、父と、父の妹にあたる若い叔母といっしょに夙川に残り、療品廠という海軍の医薬品を扱う部門で働くことになっていて、月一回の休日には、神戸から電車やバスを乗りついで小野の母たちを訪ねる。小野の田舎ぐらしの描写がある。伯父を知るようになって驚いたのは、鬼藤の伯母らしいと思っていた彼女の動作や仕草の多くが、ほとんど伯父の敷き写しだったことだ

(男の敷き写しの女は、母、父の愛人についで三人目となる)。座敷に姿勢を正して正座し、けっして声を荒げることがない伯父の人となりが、鴎外の『ぢいさんばあさん』も引きあいにだされてほのぼのと語られる。

 しかし、そこから悲しい話に一転する。《いとこの子のかずちゃんが、もうすこしで二歳の誕生日をむかえるというときに小野で死んだのも、あの昭和二十年の夏だった。》

 鬼藤家の欣一兄さんの年子の妹で、名古屋にお嫁にいっていた奈緒姉さんは、夫を戦地に見送ったあと、小野の両親のところに一粒だねのかずちゃんを連れて帰ってきていた。妹はかずちゃんを溺愛した。そのかずちゃんが、消化不良とか疫痢とかいわれていた病気で死んだ。

 戦争が終った。もうすぐ九月というとき、母が原因不明の熱病にかかって何日も熱がさがらなかった。重態だとお医者に告げられても、私も妹もどうしてよいのかわからなかった。母の熱がさがりはじめて、伯父が、よかった、ほんとうに心配した、と言ったとき、何日も伯父の声を聞いていなかったような気がした。

 九月も半ばをすぎたころ、母のいちばんのお気にいりの甥だった鬼藤の欣一兄さんがフィリピンで戦病死したという公報がとどいた。九月の終りには奈緒姉さんも戦争から帰った夫に連れられて名古屋にひきあげたが、あんたの大事な跡取りを、とんでもないことしてしもうて、と伯父は両手をついて奈緒姉さんのつれあいにあやまったという。その冬、伯父は病気という病気もないままひっそりと亡くなった。

《伯父が死んで、鬼藤の伯母は、戦争中に夫をなくした末の妹を小野に呼びよせて、ふたり仲よく暮していたが、その叔母が五十そこそこで他界すると、伯母もあとを追うように死んでしまった。昭和二十八年のことで、留学中の私はフランスで伯母の訃報をきいた。二年後、日本に帰ってきたとき、母は私に伯母の最期について話をしてくれた。伯母さんは、あの広い家にひとり残されて、どうしていいか、わからなくなったのよね。そう話をむすんだ母は、戦争の末期、アメリカ軍が本土にも上陸するかも知れないという噂がひろまったとき手に入れた青酸カリを、伯母が大切にしまっていたのを憶えていた。》

 他の須賀作品もみなそうなのだけれども、『ヴェネツィアの宿』は追想の書であるとともに追悼の書でもある。その最初の、しかしあまりにもいくつもの死のはじまりがこの『夏のおわり』だった。

 はっきりとは書かずに省略するのが、都会人の控え目な流儀でもある(この「省略の文体」については、あらためて後述する)し、谷崎潤一郎細雪』の「ものがたり」としての終り方に学んだものでもあったろう。それは須賀作品の、とりわけ『ヴェネツィアの宿』の秘密を解く鍵になる。

 

 須賀の数ある書評のうちで、もっとも優れたものといっていいのが、『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』(『国語通信』1991年4月 春号、筑摩書房)という谷崎潤一郎の『細雪』論だ。この書評は『ヴェネツィアの宿』と同じように、書きだし(母と戦争で婚期のおくれていた叔母が帯がキュウキュウ音を立てるという箇所を読みあって、男の谷崎の気づきに感嘆していた)と末尾(いよいよ結婚のきまった叔母の文机のうえに、谷崎の『盲目物語』を見つけて、こんなにうつくしい本があるのかと息をのんだ)を私的な思い出で額縁のように封じるという構造的美意識をもつ。

《『細雪』をつらぬく主題は、これまでも指摘されてきたように、いろいろな意味での「逝く春を惜しむこころ」であり、雪子を惜しむこころであろう。しかし、私が、とくに興味をおぼえるのは、この主題を展開するにあたって作者がもちいた、語りの様式についての工夫である。

 谷崎が『文章読本』(一九七三)において「和文のやさしさを伝え」る文章と「漢文のカッチリした味を伝え」る文章(「源氏物語派と非源氏物語派」)、さらに西洋と日本の文章の性格の区分をおこなっていることに野口武彦」は注目し、このような「物語風」とナレーションが用いられた「古典回帰」時代の語り口について言及されるわけだが、『文章読本』の執筆から十余年を経て完成される『細雪』には、「文章」を超えた、ジャンル様式の面での、画期的な工夫がこらされているように、私には思える。というのは、この作品のなかで作者は、雪子と妙子のふたりの対照的な人物のストーリーを並行あるいは交差させるにあたって、「文章」の域をこえて、ストーリーの物語的な展開と、小説的なそれを、並行、交差させているからである。

 このような二重構造、すなわち、西欧の伝統的な「小説」のプロット的展開の構造と、『源氏物語』などを基点とする「ものがたり」風の展開は、いうまでもないが、「ものがたり」的、「日本人」「特有」の性格をもつ雪子と、その「反対」である「西洋人」のような妙子というふたりの人物のうえに築かれている。(中略)

 雪子についての叙述が、ドラマ性のうすい、日常のこまごました出来事や人物をとりかこむ事象の、どちらかというと平凡な浮沈(「繰り返し」の手法と秦恒平氏が谷崎の『芸談』、『陰翳礼讃』を引いて指摘した)を主とする平坦ともいうべき「ものがたり」的作法にしたがって話がはこばれる反面、妙子については、男から男への遍歴につれて変容し、水害、板倉の死、赤痢、出産につづく赤ん坊の死という、不可避的な時間のうえに設定される、高低の多い、ドラマ性を核とした構成がみられる。この二つの作法をないまぜにして物語を進行させている点に、私は谷崎の非凡な構築の才能を見るのである。》

 須賀は、以上のことをこころにとめて『細雪』の上、中、下の三巻を詳細に分析してゆく。

《妙子のプロットの結末が、彼女の出産、赤ん坊の死、という劇的な話題でしめくくられるのに対して、雪子の「ものがたり」は、彼女と貞之助夫妻の出発の、あっけないほどの幕切れで終る。このあっけなさを私は「小説」的な結びを周到に回避した作者の意図によるものと解したい。(中略)人生に挑んだ西洋的な妙子と、生の流れに身をゆだねる日本的な雪子という昭和初期に生きた対照的な姉妹の姿を、ストーリーの展開を単に異質な二つの性格描写といった安易な手法にゆだねることなく、西洋的な小説作法にのっとった「小説」的なプロットと、日本古来の「ものがたり」的な話の運びをないまぜにして織りあげるといった、構築力とふところの深さに、私はつよい感動をおぼえる。》

ヴェネツィアの宿』は、あえて分類すれば、冒頭と最後の父のことの二篇(『ヴェネツィアの宿』『オリエント・エクスプレス』、そのあいだにはさまれた、母のことの二篇(『夜半のうた声』『旅のむこう』)、少女時代の一篇(『夏のおわり』)、修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)、イタリア時代の二篇(『レーニ街の家』『アスフォデロの野をわたって』)、京都での一篇(『白い方丈』)からなり、それらが時系列的にはあらわれないから、とりとめないような、曲がりくねった道のどこを歩いているのかわからないような気がしてくるものだが、母のことの二篇、少女時代の小野での一篇、京都での不思議な一篇が「日本人」の性格をもつ日本的な「ものがたり」で、父のことの二篇、留学と修道会に関わることの四篇、イタリア時代の二篇が「西洋人」との西欧的な「小説」ともいえ、それらを並行あるいは交差させている。けれども、『細雪』が最後に、妙子の「小説」的なものが雪子の「ものがたり」的なものに吸収されて終ったのに対して、『ヴェネツィアの宿』は、生の流れに身をゆだねる母や鬼藤の伯母の「ものがたり」的なものが、人生に挑んだ父や修道女たちや「私」が「小説」的なものへと収斂するのであって、逆であることの現代的な強さ、構築力と深さにこそ人は感動をおぼえるのに違いない。

 

<『寄宿学校』/会話の文体>

『寄宿学校』は修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつである。作品の時間は『夏のおわり』の戦争終結をひきついだ少女時代であるが、舞台は東京のカトリック学校の寄宿学校に移り、外国人修道女が登場してくることによって、西洋小説のような雰囲気にかわる。そして最後は、半世紀後の雑司ケ谷墓地となる。

《Lord,lord,L-o-r-d,LORD.

 もう一時間もこれだけだ。何十回、繰り返したことだろう。四時、午後のお茶の時間のあと、上演の日が近づいた英語劇のリハーサルで、出演予定者が講堂にあつめられたのだが、そのあと私だけがシスター・フォイにつかまって、発音の練習をさせられている。(中略)ああ、できた。かんぺきです。ふいにシスター・フォイが歓声をあげ、あっという間に私は外国の匂いのする彼女の胸もとに抱きしめられている。できたじゃありませんか。もう大丈夫。さあ、もう一回、Lord,lord,lord.》

「私」が学校とどう関わってきたか、学校の母体はどういうものかがかっちりと説明される。寄宿学校の様子がどんなふうかは数人の修道女や寄宿生とのやりとりを、これまでは間接話法一辺倒だったのを直接話法も交えた会話で活写することで、このさきの何篇かのカトリックのテーマの背景が自然に理解されることとなる。

《六歳で入学し、やがて関西から東京へと移り、また、戦争で東京から関西にもどっても、ずっと同じ修道会が経営するカトリック学校に通いつづけた私は、戦争の終始とともに親元をはなれ、東京のキャンパスにある専門学校の英文科に入学した。両親は疎開をつづけるかたちで関西に残ったから、十六歳の私は、焼け残った校舎での寄宿舎生活をおくることになった。》

《学校の母体である修道会は、十九世紀のはじめにフランスで創立されたあと、時代の要請と修道女たちの献身にささえられて、まもなく世界各国にひろまり、日本には明治のおわりごろ、オーストラリアから派遣されたシスターたちが学校をはじめたのが起りである。》

 シスターたちとのエピソードをひとつひとつとりあげる紙数はないから、名前だけでもあげれば、英語劇の監督をする中年のオーストラリア人のシスター・フォイ、小柄だけど歩き方のきれいな生徒係のシスター・ヘレナ、「古典をお読みなさい。ホーマーとか、ダンテとか、シェクスピアとか。『風と共に去りぬ』はそれからでじゅうぶん」とつよいドイツなまりの英語で話すドイツ人のマイヤー院長、生粋のアイルランド人で聖歌隊の指揮をするがっしりと骨っぽい短気なシスター・フレンチ、レクリエイションにベースボールを導入して物議をかもしたアメリカ人のシスター・ダナム、修道院の事務や会計をとりしきっている金縁眼鏡の副院長シスター・シッケル、聖堂係のシスター・グテレス。

 神父さんだったお兄さんが、戦争中にユダヤ人をかばってヒトラー強制収容所にいれられ、そこで亡くなったという話をシスター・ヘレナから聞いたマイヤー院長と寄宿生との会話のたくみな表現だけ紹介しておこう。たとえば、この音楽の話。

《ある日、彼女は開口一番、ちょっときびしい声でたずねた。

「今日、十六番の教室で四時から五時までピアノを弾いていたのはだれですか?」

 私たちは顔をみあわせた。中学生がおそるおそる手をあげた。「はい、わたくしです」

 ふぉっふぉっふぉっと笑ってから、マイヤー院長は言った。

ショパン、すきですか?」

「はい」その子は、ピアノを弾いていたことを叱られるのではないと知って、ほっとした声でこたえた。しかし、油断は禁物、あっという間にマイヤーさんの顔から笑いが消えた。

ショパンばっかり弾いてると、音楽はわからない」きびしい声だった。「バッハを勉強なさい。バッハに音楽をならいなさい」

 どうして、ショパンではだめで、バッハでなければならないのか。ドイツ人どうしだからかな、と思ってみたりしたが、マイヤーさんはそういうことは超越しているように思えた。》

 副院長シスター・シッケルと聖堂係のシスター・グテレスに聖堂の準備室の鍵を紛失したのではないかと疑われて、修道院の焼け跡で、あるはずのない鍵を一時間も探させられ、《あれから半世紀近い時が過ぎたいまも、あの鍵がどうしてなくなったのか、あのあと見つかったのか、それならいったいどこにあったのか、とうとう私は知らずじまいだ》のあと一行あいて、その半世紀後の三月も終りに近いある日の午後、東京にながく住んでいるイタリアの友人と雑司ケ谷の墓地を荷風のお墓をたずねる場面となる。めざす荷風の墓碑はなかなか見つからなくて、迷いつづけたあげく、ふと、小さな鉄門のついた墓所と門についた紋章を見て、はっとした。それは、六歳のときから十六年間、なんだかんだと不平を言いながら勉強した学校の紋章だった。日本に来て、ふたたび故国に帰ることなく生涯を終えた修道女たちの墓所にちがいなかった。

《きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。(中略)葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。親しかった人の名もあり、知らない名もあった。おもわず姿勢をただしたのは、畏敬の気持からというのとは、すこしちがっていた。しゃんと背をのばしなさい。修道女たちがそういって注意する声がきこえそうだったのだ。まっすぐに立って、私たちの顔を見てはっきり挨拶なさい。

「おーい、そんなところでなにしてるの。荷風はこっちだったよ」

 友人の呼び声に、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思いながら、私は暗い小径を声の方角に歩いていった。》

 読者の情感の門も、きいっと心をえぐるような音をたててひらかれ、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思う作者の孤独な追悼のありかたに共感をおぼえずにはいられない。

 

 さて、フランス文学者の清水徹との対談『人生の時間 文学の時間』(一九九五年収録)(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、清水は、どうして書き始めたのか、と会話文の使い方を話題とした。

 清水は、須賀が七十年代の終りごろからギンズブルグ『ある家族の会話』の翻訳を雑誌に連載し、本が刊行されたと同時に、同じ雑誌に『ミラノ 霧の風景』の連載を始めたのが八五年末だから、作家がどうして書き始めたのかがいつも気になる自分にとって、外側のデータだけから類推すると、「ギンズブルグを翻訳したということが、須賀さんのエクリチュールの誕生を促したという結論になる」と指摘した。

 須賀は「そうと思います」と答えてから、だいたい自分のなかにある書く材料を、どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをギンズブルグを訳すことで発見があったうえ、そのころから文体論に興味をもちはじめ、七〇年代に『源氏物語』を原文で読みとおして、この物語はこの文体でしか書かれ得なかったと思って、ずいぶんほっとしました、「あの会話をふくめたまま動いていく長いセンテンスの魅力に感動したと思います。それまでは、漠然と一葉の文章が好きだったり、谷崎潤一郎の小説も好きだったりしました。彼も文体を探して歩いた時代がありますね。そんなものが、いろいろ混ざったのかもしれません」と答えている。続いて、

《清水 僕は須賀さんの書かれたもの面白いと感じた一つは、会話の使い方なんです。つまりフランス語で言うと、直接話法、間接話法、自由間接話法、最近は自由直接話法まで出てきています。日本語では自由間接話法はうまく書けなくて、自由直接話法はみんなが書いている。しかし大衆小説などの自由直接話法はずいぶんルーズなものなんですが、須賀さんのはそうじゃない自由直接話法なんですね。読んだ上では一見とても均質な文章なんですけど、描写の文章と作者の感想と会話の部分というのが、実は織り糸がそれぞれ違っているにもかかわらず、それら全体を巧みに流しこんだ文章だなと思ったんです。これは面白いと感じたんですが、その後ギンズブルグを読みまして、ハハァーと思ったんです。

須賀 ギンズブルグと『源氏物語』とがうまく合ったのかもしれません。谷崎もいわゆる『春琴抄』などの古典時代の作品では、会話の使い方を工夫しています。それと関西弁に魅せられている。私ももとは関西ですから、自分のなかに何か惹かれるものがあったんだと思います。」》

この『寄宿学校』と、前出の『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』に会話の文体の具体的な例があるのは、すでに引用したとおりである。

 

<『カラが咲く庭』/言葉で通じあうこと>

《部屋で手紙を書いていると、だれかがそっとドアをノックした。こんなおそくに、いったいだれだろうと開けてみると、韓国人のキムさんが、暗い廊下にぽつんと立っている。どうぞ、はいってください、と言うと、ちょっとだけね、もうこんな時間だから、とことわりながら、それでもうれしそうににっこりした。》

 こんな魅力的な文章ではじまる『カラが咲く庭』は、キムさんのノックの半年前、一九五八年の冬にローマからの奨学金の話に乗ることで、フランス留学から帰って三年間つづけた放送局の仕事をすっぱりやめ、日本をはなれることにしたからだった。

 ちょっと自嘲的な調子で自分のことや、寮の待遇の不満を強い口調で言うが、ほんとうは淋しがりやで、人に話しかけられるのを待っているような三十代の半ばをすこしすぎた、高校の歴史の先生をしていたというキムさんは、このごろイタリア語を聞こうとすると、頭が痛くなるのよ、とせつなそうにしながら、午前一時をまわるまで、二時間話しこんでいった。翌朝、四年前に二ヶ月半、ペルージャの外国人大学で勉強したとき下宿させてもらったカンバーナ家の人たちに誘われてフレジェーネ(ローマ北西部の海岸線の別荘地)の海の家に行き一週間、遊びほうけて帰ってみると、キムさんが神経科の病院にはいったという。さっそく、シスターたちにかけあって、ヴィラ・フィオリータ(「花ざかりの家」)という神経科の病院に、キムさんと同室だったチョイさんと見舞いに行ったが、薬で眠らされ、もうろうとして、あんまりかわいそうだった。学生寮に帰って、修道女たちと彼女を故国に送り返す交渉をはじめたが、そうですね、ばかりでまったくらちがあかない。以前、留学していたときに会ったことのあるアノージュさんというフランス人の神父が日本大使館で顧問をしているので相談すると、大使館の人たちが韓国の出先機関に連絡をとって、キムさんは無事にローマを発っていった。

なにをするにも修道女の監視の目がひかっている学生寮を出ようと、アノージュさんに相談すると、大学の近くで女子学生の寮を経営しているフランス人の修道女を紹介してくれた。院長のマリ・ノエルさんがすぐに会ってくれ、来週からいらっしゃいね、となった。朝、起きてすぐ、早く逃げ出すに限ると奨学金の寮をとび出してきたものの、新しい学生寮の受付でいわれた午後の時間まで、モダンなローマ終着駅、スタツィオーネ・テルミニの切符売り場のまえの白いベンチに腰かけた私は、ハンドバッグを抱えこみ、膝のまえに大きなスーツケースを置いて、ひたすら時間の経つのを待っている。

『カラが咲く庭』は、意志を通じあうことの不可能と可能がテーマに違いなく、また他の作品よりも、「私」の意見や感想が周囲の人物を通してではなく「私」を通して語られる。これまでの「私」のイメージを壊すように、自分の話をすると、激しい口調になったり、言葉が迸りもするが、「私=須賀敦子」と限定してしまう自伝にも回想にもエッセイにもとどまっていないことは、五つに分たれ、巧みに計算された構成、とりわけ最初と最後の情景によってあきらかだ。普遍的な問題である、言葉、会話、声によって意志を通じあうこと、他者を受容すること、西洋の個人主義を見きわめ折りあいをつけること、などの、よりよく生きることの核心におずおずと触れはじめている「私」がそこにいる。

《となりにすわっていた、先のとがった茶の靴をはいた痩せぎすの男が話しかけてきたが、なまりが強くて、これからシチリアパレルモに帰るところだ、というくらいしかわからない。いいかげんにあいづちをうっていると、コーヒーをおごるから、どこかに行こうと言いだした。じろじろとこちらのからだを見られると、それだけで、なにかを盗られたような気分になる。そんな、大きな荷物をもって、かわいそうに、と同情してみせる。ぼくが持ってあげよう。》 けっこうです、と邪険に答えたことさえ、まずかったと気づいて、返事をしないことにすると、あきらめて立って行った。

 かわりに、大きな籠をさげた、体格のいいおばさんがどしんと腰をおろす。「あんた、なに待ってるの?」すわった途端に話しかけてくる。こんどの相手は田舎っぽいおばさんだから、ひどい悪党ということでもないだろうと質問に答え、イタリア人じゃないわねえ、と言われて、日本人です、と応じて、「おばさんは、何を待ってるんですか?」と攻めに出ると、「アプリリアまで帰るところよ」と彼女はつづけた。

《「近いわよ。一時間とかからない。あんた、私といっしょに、うちに来ない? 駅のすぐ近くだから、私といっしょに十時半の電車に乗れば、うちでお昼を食べて、すぐにローマに帰っても、約束に間にあう」

 え、と私は驚いて彼女の顔を見た。駅で出会った見ず知らずの、しかも「生まれてはじめて」実物に接した日本人だというのに、いきなり自分の家の食事にさそうって、いったいどういう神経なのだろう。》 庭には花がいっぱいだし、いい家よ、あんたに見せたいの。「娘の部屋が空いてるから、あんたよかったら、うちに下宿しない?」 出会って十分も経たないうちに、途方もないところまでエスカレートしてしまう。たよりない顔をして、行きたいけれど、ここで待つことにすると返事をすると、そそくさと席を立ってしまった。

 あたらしい学生寮の生活は快適だった。中世神学の研究所に週二回の講義を聞きに行くほかは、個室で本を読んだり、手紙を書いたりした。薬学部の学生のルチャーナ、文学部のアレッサンドラやクラウディアと、夜おそくまで暗いテラスでしゃべることもあった。寮生は主流が南部または中部イタリアから来ている大学生で、外国人は、アメリカ人のジェーン、ポーランド人のタデウシュカ、フランス人のシャンタルと、ヴァチカン勤務のマリ・アンジュ、東洋人はジャワ生まれの中国人のサンサンと私のふたりだった。

 入寮前、すくない寮費のうめあわせに、ちょっとした仕事をしてもらうことになるかもしれないと、マリ・ノエル院長がほのめかしていたのに、いっこうはっきりしないので、私に仕事をください、と申し出ると、でもあなたはもう仕事をしています、といってつづけた、「アジアとかアフリカの、高い教育をうけた女の人がこういった寮にいてくれるだけで、イタリアの女子学生にとって、新しい世界がひらけることになります」

 納得のいかない顔をしているのを見て、「一週間に二度、一時間ずつ、私のところにきて、日本のことや、あなたがヨーロッパについて考えていることをしゃべってくれませんか。レッスンのようにして。あなた自身のことだっていい。それがあなたの寮費の一部になる」という、ちょっと変った提案をした。こうしてローマにいた二年足らず、週に二回ずつ会っては、じつにいろいろなことを話しあった。とくに熱を入れて話したのは、これからの西欧と非西洋世界がどういうふうに関わっていくかについてで、マリ・ノエルは西洋はあまりにも自分たちの文明に酔いしれていると言って、かなしそうな顔をした。

《私が自分の話をすることもあったが、そんなとき、思わず激しい口調になった。自分のなかに凍らせてあったものが、マリ・ノエルのまえにいると、あっという間に溶けていった。どうして、仕事をやめてまでローマに来たか、何が東京で不満だったのか。本を読んだりものを書いたりすることが人間にとってなにを意味するのか。

「そんなことが知りたくてまたヨーロッパに来たんです」「それはわかるけれど」とマリ・ノエルがいった。「あなたがいつまでもヨーロッパにいたのでは、ほんとうの問題は解決しないのではないかしら。いつかは帰るんでしょう?」

「もちろんです。もう、どこにいても大丈夫って自分のことを思えるようになれば」》

フランス人の個人主義を、彼女はきびしく批難することがあった。生まれつきのジャンセニストなので自分にきびしいあまり、他人までも孤立させてしまう、と。

《「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います」

 私の意志を超えて言葉が走った。

「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩きださないと、なにも始めたことにならないんです」

 こちらのけんまくにのまれて、マリ・ノエルはすこし茫然としている。開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた。》

「開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた」の内から外へ、外から内へ、と場面と情緒の転換が同期するうまさ。それは、この作品のラストで如何なく発揮される。

 二年目の冬に、テレーズという名の、木彫り人形を思わせる小柄なヴェトナム人の修道女が、からだが丈夫でないために、パリの修道院からあたたかいローマの寮に配属されてきた。イタリア語ができないので、いつもだまって、胸当てのついた、白くてすその長い、ごわごわした木綿のエプロンをつけてかいがいしく働くすがたが可憐だった。フランス語も、できるというほどではなくて、私と目があうと、溶けるような笑顔で笑ってみせたが、それが私にはつらくて、ヴェトナム語をぺらぺらしゃべる夢を見たりした。春になって、テレーズが病気になった、結核かもしれないという噂が広まったが、マリ・ノエルは暗い表情で首を横にふった。「神経の病気なの。ぜんぜん、口がきけなくなってしまったのよ」

 キムさんは、彼女の故郷の町には、いい神経科の病院がなくて、自宅の一室にとじこめられていると、チョイさんは話してくれた。西洋になんかやるんじゃなかった、とキムのおかあさんは、髪をかきむしって悲しんだとも聞いた。

《ある日の夕方、食事に行こうとして、修道院の庭に出ると、カラの花が濃いみどりの葉のかげに蒼白く咲いている噴水のそばに、小柄なヴェトナム人修道女のテレーズが、こっちを向いて立っていた。思わずフランス語で、よくなったの、と言いかけて、やめた。口がきけなくなった、とマリ・ノエルが話していたのを思い出したからだ。はたして、答えも、あの溶けるような笑顔も返ってこないで、テレーズは、私の視線を避けるように、つと横を向くと、そのままじっと、暗い木蔭に立ちつくしていた。修道衣の喉をおおう白い布だけが、夕方の光のなかでぼんやりと明るかった。》

 

<『夜半のうた声』/川端康成「そこから小説がはじまるんです」>

《やっぱりそうだったのねえ。その日、私が京都から帰って、父の愛人に会ってしまったことを話すと、病床の母はそう言って、淋しそうに笑った。どうもあの人はうそをついてると感じてはいたんだけれど、信じたくなかったのよね。》

 書きだしの一節でわかるように、一作目の『ヴェネツィアの宿』の後半部分、京大病院で父とその愛人に出会ったところの続きに他ならず、家に帰って母に報告するところからはじまる。『夏のおわり』『寄宿学校』『カラの咲く庭』の三篇をはさんで、ふたたび戻って来たことになる。

 母に、女の人のこともぜんぶ話してしまった夜から、母のとなりの座敷で寝ることにした。しゃべっていれば、せめてそのあいだだけでも母の気がまぎれると、妹と私は、せっせとばか話にせいをだした。廊下ですべってころんだ飼犬のベンのこと、戦後のヤミ市の時代に神戸から食料品を売りにきた台湾人のリンさんが山手に家を買って悠々自適なこと、それを知らせてくれた神戸で小さな洋装店をかまえている田口さんのところで、春になったら、またなにかいい洋服をつくってもらうといいわ、と母は言ってから、また父のことを思い出したのか、顔をかげらせて、だまってしまった。

 妹や弟が寝にいってしまうと、「背はどれくらいだった?」ふいに母がたずねた。「高い。パパと歩いていても、小さくみえなかった。どうして?」「うん、ちょっと……。骨太っていう感じ?」「わからない。まあ、そうかな。背の高い骨太の人なら、ママ、心あたりあるの?」「そういうこともないけれど」

《話がとぎれると、もう夜中なのに、母はときどき小さな声で歌をうたった。どの歌というのでもない、細い声のメロディーだけだったが、聞いていて私はこわくなった。こうしてうたっているときに、ひょいとわけがわからなくなったらどうしよう。

「ママ」と呼んでみた。「なにうたってるの」

 返事はなくて、母はうたいつづけた。まくらに顔をぴったりとつけて、私は声がやむのを待った。手が汗ばんでいるのがわかった。

 むすめのころ、わたしは歌が上手だったのよ、母はよくそう言って自慢した。》

 こうして、母の歌の話になる(ヴェネツィアの宿で聞いた音楽、アヴィニョンの歌声と通底しているだろう)のだけれども、麻布の家での幸福な歌の回想はたびたび父のことに戻って、母と父のいきさつを説明的ではなく語っていく。すこしは落着くかも知れないと祖母や大叔父が考えついた父の世界一周旅行から帰って二年、仕事はますますうわの空、責任の重い仕事をさせたらやる気を出すかもしれないというので、東京支店に勤務が決まった。関西の家から麻布に越してきたのは、私が九歳のときだった。

《三人の子供がそろってはしかだというのに、母はうれしそうに歌をうたいながら、ステップを踏んで畳のうえをくるくるまわっている。母の腕のなかの弟は、熱があるにもかかわらず、カンガルーの息子みたいにぬくぬくと幸福そうだった。(中略)

 イッツァロングウェイ、トゥティッペラリィ

 イッツァロングウェイ、トゥゴォ

 発疹が風にあたるといけないというので、すっぽり毛布にくるまれた三歳の弟はごきげんで、リィとかゴォという語尾のところだけ、口をとがらせて母にあわせる。そのたびに母は、いやあね、この子はパパに似て音痴だわ、といって笑う。(中略) 

 それ、いったいなんの歌なの? とたずねても、返事はいつも、パパに教えてもらったの、イギリスの古い歌ですって、欧州大戦のときの、と言うだけだった。》

シューベルトの子守歌は日本語だったので、意味がわかった。

 ネームレー、ネームレー

 ハーハーノームーネェーニィー

 ではじまったが、ハーハーノームーネーというところの、まるくのびる節まわしそのものが、ちっちゃな森の動物が母親の胸に抱かれているようで居心地がよかった。》

 母は天井に顔をむけたまま、話しつづけた。どうしても結婚しようって、あんまり熱心に頼むから、結婚してしまったのがまちがいだったのよ。わたしは三つも年うえだし、家のしきたりも違いすぎるから結婚はいやだっていったのに。あの人は、がんらいわがままなのよ。エゴイストなのよ。おばあちゃんに気ばかりつかって、いいことなにもなかったわ。毎晩のようにダンス・ホールに行こう行こうって、うるさくて困った時期があったのよ。自分たち親子だけで暮らしたい、と言いつづけた母の希望が麻布の家に移ることでやっと叶えられたのは、結婚して十年目だった。とうとう自分たちだけの生活を手に入れたのに、母は病気ばかりしていた。そのころの私にとって、父は気むずかしい暴君だったが、それでも、うっとうしい雲がすっと晴れたような瞬間が、ときにあった。父が朝の食卓で母をからかっている。おまえに値段がついているなんて、知らなかったなあ。子供たちのまえで「ママの醜態」をぶちまけてしまうと、母はまんざらでもなさそうに、いやあね、と笑って聞いている。父の帰りを待つあいだ、こたつで家計簿をつけていて、そのノートに顔をのせていねむりをしたものだから、数字がひたいに写ってしまったのだった。父がお酒を飲んでいる。母に長火鉢で燗をさせて。あら、あなた、よっぱらってるのね、と母が明るい声をあげる。自分のお酌で夫が酔ったことにうっとりしている。

 父が家を出て二年目になると、母も私たちも、そろそろがまんの限界に達していた。いちど、あの二人を会わせてしまおう、と決心して、まず、母を説得することからはじめた。「わたしの見たところでは、パパはほんとうにいやがってるんじゃない。帰るきっかけほしいんだと思う」 父がいなくなってから、親は甘える対象ではなくて、甘えられるものになってしまって、そのことが重かった。妹にも加勢をたのんだ。ちょっと無理をしないと、あの夫婦は相手が折れてくるのを永遠に待ってるだけなんだから。

 東京から母を迎えに行って、目黒にいた母の姉のところに一泊し、その夜は京都から出てくる父が麻布に泊まるはずなので、翌朝、父がでかけないうちに、母を麻布に連れてゆこう、という計画だった。子供のころ、妹といっしょに毎朝歩いて学校に通った道が秋の陽にかがやいていているのをタクシーの窓から眺め、横に座った母の着物の絹地が手にふれると、ひんやりした、という感覚の冴え。ここからの文章は、視覚と聴覚、行動と会話が、地に流しこんだ文体のなかでフーガを奏でている。リアリズムで、四畳半的湿っぽさがなく簡潔、突き放すようにそっけなく、私小説的告白から遠く離れているが、情緒は饒舌でもある。

《右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。

 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。

 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。》

 すぐこれにつづいて、夜半の母のうた声と響きあうような母の手紙からの数行でこの作品は閉じられる。

《とうとうパパが帰ってきました、と母から手紙がきたのは翌年の一月だった。十一月に麻布の家で母と話してから二ヶ月目だった。

 七日の昼に会社から電話をかけさせて、夕方、なんでもなかったように、ふつうの顔して、家にかえってきました。あきれたものです。でも、かたちだけだって、ぜんぜんないよりはましなのでしょう。》

 母への愛情に満ちている表現なのはもちろんのこと、父のことは悪く書いているようでも、心の底はそうではない、ということが、あからさまに言葉に書かず、書かないことでむしろ伝わってくる文章である。

 須賀が、なぜこのような文体で、およそ四十年前のことを書くことができたのかを考えるうえで、次の文章が糸口になるのではないか。それは、『小説のはじまるところ 川端康成『山の音』』(「ちくま日本文学全集」『川端康成』解説、筑摩書房)からである。

 

 一九六八年の冬の日に、ノーベル賞の授賞式をおえてイタリアに寄せられた川端夫婦と夕食のテーブルをかこんでいた。ミラノの出版社から依頼されて『山の音』をイタリア語に翻訳させていただけないかとお願いに行ったのを、大使館の方が夕食にさそってくださったのだった。食後、スウェーデンの気候、イタリアでの日本文学の読まれ方などを話しているうちに、話題が一年前に死んだ私の夫のことにおよんだ。

《あまり急なことだったものですから、と私はいった。あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。

 すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。

 そのあとほぼ一年かけて『山の音』を翻訳するあいだも、数年後に帰国して、こんどは日本語への翻訳の仕事をするようになっても、私はあのときの川端さんの言葉が気になって、おりにふれて考えた。「そこから小説がはじまるんです」。なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持も知らないで、とそのときはびっくりしたが、やがてすこしずつ自分でものを書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気づいた。ふたつの世界をつなげる『雪国』のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説の始まる時点であることに、あのとき、私は思い到らなかった。(中略)

 川端が長編を仕上げるのにながい時間をかけたのは、論理的な構想に欠陥があるためではなくて、抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れを作者が必要としたからなのだ、と。まず最初に、ひとつの章が書かれ、そのあとは、つぎつぎと連想をバネにして書きつがれていく。そして、川端の作品に時として見られる書きだしと結末の可能なずれは、連歌俳諧の運び方を見ればわかるだろう。日本古来の座の文学においては、これに参加した詩人たち自身も、最後の句がどのようになるかは、発句が詠まれた時点ではわからない。連想が詩のながれをどのように変えていくかを、ただ待つ以外に知る手だてはない。川端の場合も、これに似たことがいえる。作品にとりかかった時点では、その結末がみえていないことが多いのが、論理の必然性ではなく、「連想」のふくらみぐあいを待たなければならない作家にとって、これはほとんど当然といえよう。》

 須賀の『ヴェネツィアの宿』は長い年月をかけて書きあげたものではなく、一年間の連載だったし、発句にあたる『ヴェネツィアの宿』を書いた時点で、確実に最後の『オリエンタル・エクスプレス』を意識している西洋的な論理的構想による作品だが、しかし、書きはじめるまでの長い年月が同じような役を果たしたとは言えまいか。『夜半のうた声』の出来事からの、およそ四十年という時間が、待たなければならなかった年月に相当する。あるいは、須賀が『ミラノ霧の風景』を書きはじめるのが一九八五年で、これが書かれるのが一九九三年であるから、作家として書いてゆくことを意識した八年間という年月がある。控えめにみれば、須賀が家族のことを、とりわけ父と母のことを、自分とは何者かを探求する限りは書かないわけにはゆくまいと意識した時点から、さらにはずっとずっと、あり得ないほどに控えめにみて、第一作の『ヴェネツィアの宿』を書いてから、その続編ともいえる『夜半のうた声』までの連載三回分、逡巡のまわり道のような三か月が、「抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れ」だったのではないか。その「ふくらみ」こそが芳醇な文体の秘密であり、「内的な時の流れ」こそが客観性と距離感をもつ作品の「深さ」に到ったのに違いない。

 

<『大聖堂まで』/教会建築>

 パリ留学時代の二篇(『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつで、これらはキリスト者としての「私」の経験に深く関わっている。雑誌連載時の原題は『待っている人』、題名の意味はラスト・シーンでわかるのだけれど、これだけが本にされるとき題名を変えられているのは、考えがあってのことだろう。たしかに、ここでも回想が、小さな波と大きな波で押しよせてきて、過ぎた時間がある種の主役ではあるけれども、「待っている」という受け身は、気持から少しずれていたか、真意にそぐわないと思ったのだろう。

 一九七一年と一九五四年というふたつの時間があらわれ、それとなく対比されているともいえよう。ひとつはミラノからパリへの八〇〇キロの車での移動とノートル・ダム大聖堂、もうひとつはパリからシャルトルまでの八十キロの徒歩での巡礼とシャルトル大聖堂

 

 アルプスとジュラというふたつの山脈を越えるけれど、距離的にはミラノ―パリ間は八〇〇キロあまり、地図を見ながら走れば、なんということはないはずだった。モンブランの長いトンネルをすぎて、シャモニからジュネーブを抜け、フランスに入ったころには疲れが出て、ドールで一泊した。ディジョンで昼食をとると三時をまわっていて、はじめて車で行くパリには暗くならないうちに入りたいので、あわてて高速道路に乗って、パリ市内にさしかかると、ほどなく、リュクサンブール公園の横を走っているのに気づいた。学生のころ、この辺りに住んでいたリュ・デゼコルで車をとめて見まわすと、道をわたったところにオテル・ド・ラ・カリフォルニーがあった。《毎日その前を歩いて大学にかよった、なんの変哲もない学生街の安宿だが、貧乏学生のつめたいパリの日々に、カリフォルニアという名が、陽光にあふれる土地への郷愁をさそって、毎日その前を歩いて大学に通い、なんどか泊まってみたいなあと思ったことがある。》 そうだ、今夜の宿はここにしよう。行きあたりばったりに決めてはいっていくと、《カウンターにいた白髪のおばさんはちょっと帳簿をしらべただけで、にこりともしないで言った。運のいいひとねえ、あなたは。これが最後の空き部屋ですよ、マダム。屋根裏だけど、なにしろ観光シーズンですからね。聞きながして、荷物をひきずりながらとにかく無事に最上階にたどりついた。》

 このあたりの文章は、聞きながすまでに変化した今の「私」と、学生時代のパリでの感情の澱を、さりげなく細やかな形容で表現、対比している。

《旅行者の多いこの季節にすんなりと寝るところが決まったのは、受付のおばさんの言ったとおり、ひどくありがたいことだったから、私はすっかり気をよくして、靴をはいたままベッドの上うえに体を投げだすと、そのまま目をつぶった。

 一九七一年の七月で、秋にはいよいよ日本に帰ることが決まっていた。いったん引きあげてしまったら、いつまたヨーロッパに来られるかわからないから、出発までにフランスだけはもういちど見ておきたい。そう思っていたときに、ちょうどパリに住んでいる友人が来ないかとさそってくれたので、決心してミラノを出てきたのだった。(中略)

 とろとろとねむったのかも知れない。どこかの部屋で水を流す音に気がついて時計をみると、八時をすぎていた。》

 サン・ミシェル大通りに行き、簡単な夕食を手ばやにすませると、夏の観光客がごったがえす賑やかな大通りに出た。《つい、きのうまでミラノにいたのが、うそのように思えるいっぽう、パリにいるという実感がそれほど湧かないのは、どうしたことだろう。むかし、ソルボンヌの学生でこの道を急ぎ足に歩いていた自分と、十三年にわたったイタリア暮しをきりあげて、とうとう日本に帰ろうとしているいまの自分をへだてる時間のなかで、パリがかすかに変質したのではないだろうか。あす十六年ぶりで会うことになっている友人は、どんな顔をして迎えてくれるだろう。》

 ホテルに戻ると、部屋の空気が澱んで、変に重かった。ベッドのうえに立ち上がると、両手でいきおいよく窓をあけた。ここから、ノートル・ダムについての美しい文章になる。

《すぐそこ、といっていい距離に、白くかがやくパリの大聖堂ノートル・ダムが、まだ昼間の青が残った夜空を背に、溢れるような照明の光をあびて、ぽっかり宙に浮かんでいた。それも、セーヌ河沿いの花やかな南面を惜しげもなくこちらに向けて。後陣にちかいトランプセプト(袖廊)の突出部の中央に位置した薔薇窓の円のなかには、白い石の繊細な枠ぐみにふちどられた幾何もようの花びらが、凍てついた花火のように、暗黒のガラスの部分を抱いたまま、しずかにきらめいている。宇宙にむかって咲きほこる、神秘の白い薔薇。トランセプトとネフ(身廊)の屋根の稜線が十字に交差する点にしっかりと植え込まれたように、天を突いて屹立する、細身の、鋭い尖塔。精神の均衡と都会的な洗練の粋をきわめるパリの大聖堂が目の前にあった。

 なんでもないふつうの窓と思いこんで、力まかせにあけたものだから、その分だけ驚きは大きかった。ついさっきまで暮れなずんでいた背景の空には、もう暗い夜がいっぱいにひろがって、光のなかの薔薇窓は神秘に酔いしれて、いちだんとまばゆくきらめいた。十六年目のノートル・ダムは、もったいないほど美しかった。》

 東京で大学生だったころ、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったとあかされる。

 パリ留学の望みが思いがけなく叶って、セーヌ河畔の大聖堂のまえに立ったのは。一九五三年の八月も半ばすぎたころだった。初めてパリで迎えた朝、早い時間に寮を出て、大聖堂をめざした。

《それまで自分のなかではぐくみそだててきた夢幻のカテドラルと、目のまえに大きくそびえわだかまる現実のカテドラルとが、きらきらとふるえる朝の光のなかで、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった。腕に鳥肌がたったのは、あきらかに冷たい空気のせいだけではなかった。

 その日から、それはたいてい、よろこびではなくて、悲しいこと、がまんできないことのほうがだんぜん多かったのだが、自分ひとりで持ちきれない荷が肩にのしかかるのを感じると、私はその重さを測りに橋をわたってノートル・ダムに出かけた。》

 大聖堂がようやく自分にとって日常の風景になろうとしていた一年後(一九五四年)の六月の半ば、高校生と大学生をまじえた三万人のパリの学生のシャルトル大聖堂への巡礼に、父がフランス人、母が中国人で、ヴェトナム育ちのモニックにさそわれて、参加した時のことだ。二十世紀の教会史に大きな足跡をのこした詩人、シャルル・ペギイが呼びかけたシャルトルへの巡礼にならったもので、ペギイに流れを発したフランスのカトリック左派のデマゴジックな表現のひとつでもあった。《日本での学生時代にその運動の輪郭を手さぐりしていた私は、この巡礼に参加することで、いよいよ本物の「象」の表情ぐらいは摑めるかも知れないと期待は大きかった》とあるように、日本での学生時代からキリスト教左派の運動に関心を寄せていた「私」の姿が大きく前面にでてくる。つらく、重い希求とともに。

《はじめてのヨーロッパは、日本で予想していたよりずっときびしかった。言葉の壁はもちろん私を苦しめたが、それよりも根本的なのは、この国の人たちのものの考え方の文法のようなものへの手がかりがつかめないことだった。自分とおなじくらいの年齢で、自分に似た知的な問題をかかえているフランス人との対話が、いや、対話だけでなく、出会いさえが、パリの自分にはまったく拒まれているように思えて、私はいらだっていた。大学での比較文学の講義の愉しみとはべつに、こればかりは自分の手でさぐりあてなければ、どうしようもない。シャルトルへの巡礼は、そんな気持のなかで、ひとつの抜け道になるかも知れなかった。》

 パリ大司教のミサと、ドミニコ会の司祭の説教のあと、五十キロ先のランブイエまで列車で行き、翌朝、シャルトルまでの三十キロの道を歩きだす。歩きながら、そのときどきにあたえられたテーマ、どういう選択をしてここにいるのか、キリスト者は自分たちにとって、どんな意味をもっているか、を討論するが、自分のフランス語ではとても討論にはついていけないことに気づいた。いつのまにかみんなの議論からは遠いことを考えて歩いていた。

 東京で大学院にいたころ、ふたりのカトリックの女ともだちと毎日のように話しあった。話題はいつも、女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのかということに行きついた。はやく嫁に行け、いやなら修道院にはいればいい、と先輩に言われても、そんなんじゃないという気がした。《自分で道をつくっていくのでなかったら、なんにもならない。そのころ読んだ、サン=テグジュペリの文章が私を揺りうごかした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」シャルトルへの道で、私は自分のカテドラルのことを考え、そして東京にいるふたりの友人はどうしているだろうと思った。》

 含羞の人、須賀敦子にしては、生で直接的な言葉が飛び跳ねているのは、パリ留学時代の経験がそれだけ、つらく、重かったことの反動だったのだろう。

 ピクニックとお祭り騒ぎが一緒になったような巡礼の夜は、農家の納屋の乾草の山にもぐりこんで寝た。二日目には、南仏や、ノルマンディからのグループも合流してくる。三時を過ぎたころ、なだらかな地平線に、針のような尖塔のてっぺんが、見えてきて、一歩、一歩、シャルトルに近づいて行った。驚いたことに、私たちのグループがシャルトルに着いたときには、ミサはもうはじまっていて、カテドラルはすでに超満員で、扉の外にいるしかなかった。やっとシャルトルまで来たというのに、大聖堂に入れてもらえないとは、いったいどういうことなのだろう。天井の音楽のように美しいといわれるステンド・グラスも見られない。帰りの列車に乗りはぐれてしまうので駅に行こうと決めたとき、聖者たちの像を熱心に見ていたモニックが、長いひげを波のようになびかせ、口をすこしあけて、ほとほと弱ったという表情で、壁のくぼみに立っている洗礼者ヨハネ像を見つけ、気落ちして口をきく気もしない私を元気づけるように、「あの顔が、いまの私たちには、なによりもぴったりよねえ」と明るい声で言った。ヨハネは苦行しながらキリストが世に出るのを待ちわびたという。

《考えようによってヨハネは、生きることの成果ではなくて、そのプロセスだけに熱を燃やした人間という気がしないでもない。

 二日間、歩きつづけて大聖堂に入れなかった仲間たちといっしょに、駅への暗い坂道をおりていきながら、私は、待ちあぐねただけの聖者というのもわるくない、と思っていた。》

 

 さきに、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったというところがあった。なるほど、そこに書かれたカテドラルの詩学をもって須賀の作品は、いわば建築されるように書かれたと気づくのはそう難しいことではない。須賀の精神、および職人気質的な作品の構造と文体と装飾の堅固な土台になっているので、長くなるが引用したい。

《スライド写真で見たフランスやドイツのゴシックの教会建築が、激しい力で私を捉え、ヨーロッパをつくりあげた精神や思考の構造の整然とした複雑さに私は魅せられ、すっぽりのめりこんだ。日本人の自分にとってなじみのうすい石という素材を。まるで重量をもたない物体のように、縦横に使って組み立てていく。いくつもの層を重ねていきながら、底によこたわる思索の流れをすこしずつずらしていくことの愉楽。あるいは、繰り返しの遊びへの誘惑。威厳にみちた王たち、ながい髪を足までたらした聖女たち、悲しげな表情でキリストの降誕を待ちわびる旧約の聖者たちがいならぶ彫像のギャラリー。華麗であるだけの、繊細な柱廊のミニアチュア。ひとつひとつの秘密をさぐりたくて、私は図書室にこもり、大聖堂のファサードの写真を何日もかかって鉛筆で模写した。かたちを手でたどることによって、これを造った人たちの感覚が身につたわるかも知れない。なにがこんなに自分を駆りたてているのか、自分にもさっぱり摑めないまま、私はカテドラルの詩学を自分なりの方法で理解しようとした。線をヴォリュームに、平面を重みに変えるとは、いったいどういうことなのか。石で模様をつくるとは。このようなカテドラルをもった中世とはどんな時代だったのか。ひとびとはどんなことを考えていたのか。なにを信じてこんなものを造ったのか。そして、自分の目で見たとき、これらの建造物は、いったい、どんな力で迫ってくるものなのか。手で触ったら、どんな質感を伝えてくるのか。いつかきっと、自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう。ファサードを、内部空間の緊張を外から支えるというアルク。ブゥタン(飛び梁)を、人の手で切り出され、運ばれ、積み重ねられた石を、製法が職人といっしょに絶えてしまったというステンド・グラスの青を、どうしても自分の手でふれ、自分の目でたしかめなければ、その先のことがなにも見えないと思いこむほど、カテドラルが私を捉えた。》

 

<『レーニ街の家』/『白い方丈』>

 これら二作は小説として差しだされれば何の不思議も抱かないだろう。どちらも、登場する「私」は補助線にすぎない。しかし、二作の性格はだいぶ異なる。『レーニ街の家』はフィレンツェとミラノを舞台にしている。『白い方丈』は京都が舞台である。舞台の違いによる以上に、『レーニ街の家』では、イタリアの小説家アルベルト・モラヴィアのような西洋小説を書いてみせ、『白い方丈』では谷崎か川端のような日本の小説(ものがたり)を書いてみせている。

 

『レーニ街の家』のあら筋を紹介しよう。

《その夏、私は、期日までに済ませなければならない仕事もなく、いつもよりはゆとりのある休暇をすごしたくて、フィレンツェに行くことを思いついた。》 東京に帰って十五年、ずっと働きづめだった私は、知人の紹介でフィレンツェのアパートメントを八月いっぱいの約束で借りることができ、時計の存在を忘れたような気ままいっぱいの毎日をおくっていた。そんなある日、十年来親しくしていた女ともだちのラウレッタと大聖堂のまえで待合せ、かねて探していた、手で刺繍したリネンの手拭きを求めてふたりで専門店をまわったが見つからない。あと一軒だけまわってみようと中央駅に通じる人通りの多い道を歩いていると、声をかけられた。十五年以上もまえ、ミラノにいたころ親しくつきあっていた友人のカロラ・ディ・フィディオだった。彼女とひんぱんに往き来していたのは、私が夫を亡くして、暗闇しか見えないような時期だった。都心をはずれたレーニ街の、神経質な夫のグイード、小さなふたりの娘たち。ミラノの音楽院で勉強しているルイーザのヴァイオリンのレッスンに通ってきたところだという。カロラのうしろには、黒いちぢれ髪を肩のあたりまでのばした。色白で華奢なからだつきの美しい少女が、まるでおこっているように、とがった目つきでこちらを見ていた。会えてよかったわ、ミラノにもう来ないの、そうたずねるカロラに、あんなによくしてくれたのにミラノを離れてから手紙一本書いていない私は、ことばをにごした。あのころのことを思い出すのがいやだから、とまでは説明しなかった。「それで、キアラは元気なの。」「キアラはね、死んだの。」 カロラはもういちどにっこりしようとしたが、くちもとがゆがんだ。目だけが必死に笑おうとしていた。「事故だったの?」「病気。それからね、わたし、グイードとも別れちゃったのよ」 こんどはほんとうに彼女の顔がゆがんだ。「ごめん。おそくなるから、もう行くね。さよなら」 それだけだった。そそくさと抱擁をかわすと、彼女のおくれ毛の感触が頬にのこった。手拭きはけっきょく見つからず、ラウレッタとも別れて、アルノの河沿いの道をゆっくりと歩いた。キアラがいなくなったことで、カロラとグイードの結婚がだめになったのは、ごく自然な成行きのような気がしないではなかった。

 カロラは画家、グイードは彫刻家で、美術学校時代の同級生だった。夫とふたりで、はじめてカロラたちの一戸建てに招かれたのは寒い冬の夜で、キアラが七歳ぐらい、ルイーザが二、三歳だった。グイードは南のプリア地方出身で、政治的なことばをふんだんに織りこんでしゃべるグイードが食卓ではいばっていて、ルイーザが金きり声をあげると、グイードがカロラをにらんで、どうにかならないのか、と低い声でなじった。若い芸術家にしては、オリーブ農夫が題材のネオ・レアリズム的な作風だった。たずねると、おやじさんだとつぶやいた。きみたち北の人間にはわかりっこないよ、という言葉の苦々しさが、アトリエの裸電球の下で、黒い目と黒い髪の暗さをいっそう濃くしていた。今でも部屋に飾って大切にしているのは、イデオロギーの露出過多といった彫刻作品にくらべて、骨太な、彫刻家らしい立体性のある、子供がふたり描かれたデッサンだった。ふたりの女の子のうち、ヴェネツィアの名家に生まれ、ブロンドで背が高い、のんびり屋のカロラに似ているのは、おっとりしたブロンドのキアラのほうで、黒い髪のルイーザは、癇がつよくて気むずかしく、やきもちやきのところまでグイードに似ていた。

 夫が死んだあとも、散歩の感覚で行ける距離にあったこともあって、よく出かけた。彼らの家の居心地よさは、ものごとを理詰めにしない、口数のすくないカロラのゆったりした性格ゆえだった。

 ある日、夕食にいらっしゃい、と電話があって、その時間に行ってみると、カロラの姿がみえない。ピアノを弾いているとキアラが胸をはっていった。ピアノ上手なの、ママは。いまでも気分がくしゃくしゃすると、ママはピアノを弾くの。その夜、夕食にありついたのは、ニワトリがなかなか煮えなかったために二時間はすぎてからで、でも彼女がお米をぶちこんでつくったリゾットはおいしくて、パン切れをしゃぶっているうちに眠りこんでしまったルイーザも、ほっぺたに涙のあとをつけたまま、大きすぎるスプーンを口に運びはじめた。もうそのころから政治運動に巻き込まれてうわの空だったグイードは食事に帰らないことが多くて、カロラは、いいのよ、あのひとは、アトリエで寝るんだから、とあきらめる表情をした。

 八月の午後の街を二時間以上も歩きつづけ、サンタ・クローチェ教会まえの広場のベンチで休むことにすると、鳩の群れを、すそいっぱいにフリルのついた、目のさめるようなピンクのよそゆきを着た、髪の黒い、二歳ぐらいの女の子が、まるで雪かきでもするような格好で追いかけてくる。おどろいた鳩がいっせいにとびたつと、広場のすみのベンチにいる、母親らしい、黒いもめんのスカートに洗いざらしのTシャツを着た、くたびれた表情の女の顔をみてべそをかく、というのをくりかえしている。ぎっしり中味のつまった紙の袋を三つほど乗せた買物用カートをベンチに立てかけた女はときどき広場に通じる細い道に目をやっている。あわてていたせいで、カロラにキアラの死についてくわしくたずねなかったことを悔やんでいた。持病だった糖尿病が悪化したのだろうか。あたし、自分で注射できるの。あっけらかんと自慢するキアラの声が聞こえてきそうだった。グイードは、この娘のなかに知り合ったころのカロラを想い描いているのではないかと考えてしまうほど大切にしていた。そのキアラが死んだいま、グイードがカロラと別れるのは、当然の結末なのだろうとも思えたし、もうすこしカロラが辛抱できなかったのかという気もした。グイードは、いったいどこでなにをしているのだろう。太陽がかたむいて、広場に直接光が射さなくなったころ、肌のあさぐろい、痩せた、上背のある男が、十二、三ぐらいに見える半ズボンをはいた男の子を連れて広場にやってきた。男の子は両手に、いっぱいにつまった紙袋を持ち、父親らしい男は、ファイバー製の大きなスーツケースと、ロープでしばった重そうなボール箱を提げている。ベンチのまわりは、そのまま、まずしげな家の内部といってよかった。日焼けした男の顔や黒い髪から考えると、南イタリアから仕事をもとめて出て来た人たちなのだろうか。《光が徐々にうすらいでいくサンタ・クローチェの広場で、女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた。》

 ラスト・シーンの「女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた」の文章だけからでもわかるように叙情性にすぐれた文章である。だが、それだけにとどまることなく、イタリアの南北問題、貧困、階級、夫婦とふたりの娘という家族の愛情関係の線と密度と距離感、喪失、苦さが、薄明かりの下、明快なプロットをもって、醒めたリアリズムといきいきした会話で描かれている。

 

 次の『白い方丈』は、いかにも、よくできた「ものがたり」で、語りくちのうまさが魅力となっている。ひらがなこそ多用していないけれど、谷崎潤一郎蘆刈』を想わす息の長いやわらかな文体は幻想的で、禅寺の方丈の老師の時の流れを忘れ去った全宇宙を内在しているような存在そのものや、禅問答のような会話の受け応え、夢なのか現なのか、理解しようとする不条理な想像力を感じとるには原文を読むしかないので、ところどころ、そっくり引用する。

 京都の竹野よし子という聞いたことのない名の人から手紙をもらったのは、そろそろミラノの生活にも慣れてきた一九六〇年代の半ばごろだった。手紙の主は、私が数年まえにローマで知りあった商社員の名のKをあげ、戦前、伏見ではちょっと知られた造り酒屋だった実家に大学生のKさんが下宿していたので、と前置きしてから、手紙はこう結ばれていた。「じつは私、近々、そちらに行くことになるかもしれなくて心細く思っていましたところ、あなた様というお方がミラノにお住いとうかがい、いろいろとおたずねしたり、おねがいしたいことがございます。もしや、近々、日本にお帰りになるようなことがおありではございませんか。その節はどうぞどうぞおしらせいだきとうございます」 まるで谷崎の小説のなかから届いたような風情もあって、書き手である竹野夫人という人について、好奇心があおられた。谷崎の小説、と思ったのは、まったくの的外れではなかった。追うように、Kさんから手紙がとどいた。勝手に住所を教えたことをあやまったあと、夫人についての簡単な紹介をそえていた。伏見では名のとおった造り酒屋の跡とり娘で、親が選んだ滋賀の在の旧家の三男坊と、はたちになったばかりで結婚させられたが、平凡な夫とのあいだには子供はなく、戦後しばらくして、ちやほやしてくれた両親が亡くなると、自分の生活が空虚にみえて、心のやり場がない、適当に相手になってあげてください、未知の都会にいるあなたを想像して、子供みたいに愉しんでいるのです。

 ちょうどその年の秋に、日本に帰る予定を竹野夫人に知らせると、その節は京都をご案内したいと返事があった。帰国して、父に話すと、自分の車を運転手ともども貸してやるから、と勝手に決めてしまった。

 伏見の竹野家は、近所でひときわ目立つ黒く塗った門をもち、入ると農家の庭先のような、白砂を敷きつめた空間で、そのむこうの左半分が高いところに窓のある酒蔵で、右手の板塀で仕切られた中がこれといって特徴のない木造の和風建築だった。男衆だろうか老人が出てきて、名を告げると、へえ、お待ちでございますとだけいって、ひっこんでしまったが、ひっそりとして、この家にはだれも住んでいないのではないかと思えるほどだった。かなり経ってから、竹野夫人があらわれた。年格好は私より十ほど多い四十台の半ばぐらい、お召とはいってもかなりくたびれた着物すがたで、足もとの白足袋もきれいにつくろってあったけれど、洗いざらしだった。髪はひっつめて結っていて、女学校出のインテリふうだったが、ととのった面長の顔立ちだが、片方の目がかなり強度の斜視なのが表情を暗くしていて、戦争中に結核をわずらって死んだ父の妹を思い出した。

 夫人は大座敷に招じいれ、手早く薄茶を立てながら、自分がミラノに行くことになったいきさつを話しはじめた。ミラノの若いおじょうさんが、だれか禅の話をしに、イタリアに来てくれるような人を知らないか、と探していて、Kさんが、私にたのんで来られたのだと言う。うちのお寺の老師さんにと申されて、有名な禅宗の寺の名を口にした。それにしても、このいっぷう変った計画の仕掛人になりたがっている、ミラノの若いおじょうさんというのは、いったいだれのことだろう、格式のある禅寺の老師を竹野夫人といっしょに招待するというからには、かなりな財力がある人にちがいない、という私の疑問を察したのか、夫人がするりと答えてくれた。「ティルデさん、そのおじょうさんは、ティルデ・ドネリさんというお方どす。」 名を聞いて、私はおどろいて夫人の顔を見つめた。ティルデはローマにいたころ、大使館のレセプションなどでなんども会ったことのある女性だった。年齢は夫人とほとんどおなじくらいで、物事をいったん思いこむとゆずらない頑固なところがあって、人に好かれるというたちではなかった。日本の男性、とくに外交官となると、人をえらばずに好きになり、ひどく癇のつよい性格で、気に入らないことがあると、人前だろうとかまわずに泣きわめくというような噂があって、大使館員たちは慇懃に敬遠していた。のめりこまないほうがいい、と私は言いたかった。他人のことを考えて行動するような人柄とはとても思えなかった。全額負担の招待など、話がうますぎて、うさんくさかったし、長年イタリア人とつきあった経験が、実現する種類の話ではないとささやいていた。それをいま説明したところで、夫人は耳をかたむけないだろう。この人にとって大切なのは、この話が信頼できるものかどうかではなくて、自分が決めたことを、強引に実現にもっていくことなのだ。お点前がすんでほっとしたところで、竹野夫人が、当尾(とうのお)の浄瑠璃寺まで足をのばしてはどうだろうと、提案した、せっかく、お父さまのお車でおいでやしたんどす、すこし遠出をしてみてはいかがどすやろ。辺鄙なところ、と聞くと、その寺をみたくなったので、夫人にすべてをまかせることにした。夫人は、ちょっと用意がありますので、しばらくお待ちくださいますか、と座敷から出ていった。いまさらのように、まるで池の底にいるようなしずかさが気になった。お待たせして、とふたたび姿をあらわした夫人は、さっきと同じ着物、足袋もふだんのままだった。来週には、丹波から杜氏が到着する、仕込みのあいだは気苦労が多くて心配ばっかりといって胸もとに手をあてて軽く叩いた。車に乗り込むとき、運転手が彼女に、おっしゃったように、お荷物はトランクに入れました、と言うのをなにげなく聞きながしたが、その「荷物」があの風がわりな昼食につながろうとは思ってもみなかった。

 竹野夫人は、鄙びた浄瑠璃寺のこれも時の流れに忘れられたような池の端に立つと、しばらくあちこち見まわしていたが、やがて岬のようにまるく水際につきだした場所をえらぶと、手ばやく雛まつりのような緋もうせんを敷いてその上に私をすわらせ、自分も腰をおろした。紅葉のさかりをすぎた楓のまばらな枝のあいだから見上げると、淡い水色の空に白い雲がとぎれとぎれに走っていた。木の根が張っていて地面がでこぼこなうえに、池にむかってゆるく傾斜していたから、すわり心地はよくなかったが、せめてその感触が私を現実につなぎとめていたのかも知れない。山あいの空気は、もう冬の棘をふくんでいて、私は、軽いウール地のジャケットの下で肩をすぼめていた。奈良や京都市内の名所ならともかく、山ふかいここ当尾のあたりまで足をのばす人はめったになかったのか、あたりはしんとしずまりかえっていて、色とりどりの落葉が浮かぶ緑青(ろくしょう)色に濁った水面に、ときどき浮かび上がってはぷつんとはじける泡の音が聞えそうだった、緋もうせんの上には、ふたり分のおべんとうにちょうどよい大きさの、みごとな蒔絵の三段がさねのお重がひろげられ、その段のひとつひとつには、ていねいに面取りをした目のさめるような赤さの京人参や小芋や椎茸や湯葉、高野豆腐などのお煮しめ、みりんで照りつけ、梅酢漬けのはじかみ生姜をそえた甘鯛の西京漬け、ふんわりとレモン色に焼きあげた出し巻などが配色よくつめられ、三の重には、あの関西ふうの、黒ごまをふった指先ほどの小さい俵形のおにぎりの白が、正午をすぎたばかりの秋の陽をうけて、つやつやと光っていた。

「つめとおすけど、こんなん召しあがりますかしら。うちの蔵のをすこしだけ持ってまいりました」

 そう言って竹野夫人が、赤い縮緬の袱紗につつんだ、ぱちんと閉まる小さなふたのついた錫の銚子を取り出して冷酒をすすめるのを、私は夢のなかの出来事のように、ぼんやりと眺めていた。》

 有名な九体仏を見て、浄瑠璃寺をあとにし、老師のいる今日の禅寺にむかった。勝手を知りつくしたという感じの竹野夫人のあとから、黒光りのするつめたい廊下を何回も曲り、渡り廊下をこえ、部屋のひとつの、ふすまのそとで立ち止まった。夫人が声をかけると、中から、おう、というような返事がきこえた。

《夫人がゆっくりふすまをあけると、六畳ほどだろうか、日本間にしては変則的に横長な部屋のなかには、障子ごしに射しこむ白い陽光が洪水のようにあふれていて、その奥に、黒い、ちろちろと燃える燠のようによく動く老人の目が、白い羽二重のふとんをかけた炬燵のむこうから、さぐるようにこっちを見ていた。小柄な体を包んだ着物も白の羽二重で、まるで、ときならぬ雪景色のなかに迷いこんだようである。袖口からにゅっと突き出した、手首の骨がまるく盛り上った白い手が、炬燵の上に行儀よくそろえておかれている。

 初対面の挨拶をする私を見て、老師さんはあはは、というように、歯のない口をあけて笑ったかと思うと、まるで古くからの友人に対しているような、気易い声で言った。

「あんたか」

「はい」

 つられて笑いながら答えると、老師さんは、愉快そうに私をにらんでから、炬燵の上に頭をさげて見せた。

「なんやら、ご厄介になるようだな」》

八十をすぎた老師の小さなからだから出る、精力にあふれた笑い声に圧倒されて、私は、竹野夫人といっしょに、白い陽光にあふれた方丈を辞去した。

 ミラノに帰って一年が経ったが、なんの音沙汰もなかった。周囲の知人に、日本から老師が禅につて講演する話を聞いたことがあるかと訊ねてみたが、だれもがきょとんとしていた。夢を見ていたのかと思うほどに遠いことに思えはじめたある日、竹野夫人から手紙が来て、ティルデさんからなかなかはっきりした返事が来ないと思っていたら、先週、ふいに手紙が来て、いったん白紙にもどしてほしいといってきたのだけれど、どうしてとつぜん中止になるのか、手紙に書いてきた理由が納得できないので、私の意見をうかがいたく、筆をとった、ということだった。それによると、ティルデは日本の若い留学生と恋をして、家族の大反対にあい、老いた両親は、娘をドイツの女子修道院に二、三年のあいだ、閉じこめることに決めてしまった、というのである。ティルデの話はとてもほんとうとは考えられません、と私はすぐに返事を書いた。ティルデの精神状態が正常でないからとまで書いて、ぜんぶのイタリア人が彼女みたいではない、例外です、とイタリアを擁護したがっている自分が滑稽でもあった。

 夫が死んで二か月後に、こんどは母が大病をして一時、日本に帰っていた。何週間も母の危篤状態はつづいて、疲労の極にあった。ある晩のこと、電話が鳴って、私が出た。もしもし、もしもし、と聞きなれない声が呼びつづけ、もしもしというばかりでいやになって、受話器を置こうとしたとたん、相手の声がとびこんできた。「こちらは伏見の竹野と申しますが」「今朝の新聞で、あつこさんが日本文学の翻訳について書かれたエッセイを読ませていただいて、ご主人をなくされたことを知りましたが、ほんとうでございますか」「はい」 そう返事をしておいてから、私はいそいでつけくわえた。「ほんとうです、私、本人でございますが」「あっ」と小さな叫び声が受話器のむこうで聞こえたかと思うと、電話はぷっつり切れた。その後も、電話はかかってこなかった。どうして、なにも言わないで電話を切ってしまったのか、ずっとあとになっても、理解できなくて、気がめいることがあった。

《もしかしたら、電話に出た私が、本人ですと答えたあの瞬間まで、私は夫人の空想のなかでだけ生きつづけた、うつつを離れた存在にすぎなかったのではないか。遠い外国の都会に住む私という人間のイメージから芽が出て葉をしげらせ、枝がつぼみをむすんで、いくつかの物語が彼女のなかでつぎつぎと花をひらかせた。たとえば、あの夢のような浄瑠璃寺への遠出。彼女にとっておあつらえむきなことに、私までが父からの贈物やらぴかぴかのメルセデス・ベンツやらお抱え運転手という時代ばなれした小道具にかこまれて登場したものだから、夫人は完全に現実から遊離してしまう。彼女がおさないころ両親に連れられて観た南座の芝居の一場面を、あるいはかつて両親と遊んだ幸福にみちた紅葉狩りの場面を、私をなかに入れて再現してみたかったのではなかったか。青い池の水を顔に反射させて、黙々とお煮しめを口にはこぶ夫人の顔が目に浮かんだ。》

 そして、ミラノの美女、スフォルツェ城の近辺に住むティルデの物語が、夫人の夢をいやがうえにもかきたてたのだろう。夫人からのサインを彼女は敏感に受けとめて、禅の講義やミラノへの招待やらを発信し、ゲームをもりあがらせる。ディルデのドイツ修道院にとじこめられるという中世めいた物語は、京都製といった感じが濃厚な気もした。空想やら嘘や虚構が入りまじった果てに、私の夫が亡くなったと知り、お悔やみの電話をかけることにした。ところが、家族のだれかれではなく、ミラノにいるはずの私が電話口に出て、いきなり本人だと名のった。

《竹野夫人のゲームの軽やかな進行にとって、死の事実はどうみても重すぎる現実にちがいない。それまで快適にふくらんでいた夫人の想像の風船が、ナマの私の声を聞いた瞬間、パチン、と小さな音をたてて破れた。

「あはは」

 老師さんの笑い声が白い方丈にひびくのが、遠い廊下のむこうから聞えてきそうだった。》

 

<『カティアが歩いた道』/キリスト者

 この本のなかで、もっともエッセイらしい作品かもしれない。回想形式ではないが、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語となっているとはいえ、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われている。キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、カティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。

 

 前の年の夏にパリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、せせこましく混みあった部屋のルームメイトは日本人のユキ、フランス人のカトリーヌ、ギリシア人のエレーヌとめまぐるしく替った。こんどはドイツのアーヘンから来た、子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだったから、ひとまずはほっとした。「カティア・ミュラーです。たぶん、秋までパリにいるつもり」 ブロンドの長い髪のカティアの登場の仕方と、ささいな挙動で垣間見せる性格描写はたくみだ。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》 作者には珍しく、あの戦争についての意見が口にされている、自分の国への批判精神と、ドイツの人びとへの精神的な探求をもって。

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 けっきょく、カトリック信者、ミッションの人、須賀敦子は「戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教」のいきさつと内実をどこにも書き残さなかったのだが、そこには須賀の矜持、強い意志があるだろう。語らなかったが、その後、母も父も生前洗礼するのだから、須賀の説得力と生き方がどのようであったかは想像しうる。

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 須賀はトマス・アクイナスについても理解は深かった。

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

《透明な蜜を流したような四月の夕方だった。》 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。》

 足音が硬い石畳にはねかえるパリの対極のような、湿って、音のない、川端の小説のような美しくもせつない情景となるが、そこには会ってみると「なにも話すことがなかった」ふたりの、互いの歩いてきた道を認めあう何ものかがあって、幻影かもしれないが幸福のさくら色に染める。

《道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 伝記批評をするつもりはないが、松山巌による年表(『須賀敦子全集、第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れない、のが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、あの『白い方丈』のような、とさえ思われてくる。そして、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、ロマネスクな人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実を詮索することは、小説であろうがエッセイであろうが、思いを伝えることを第一義に考えるならば、必要ないのはもちろんのことである。

 上記の『アッシジでのこと』から、ごく一部分だけ引用してみたい。若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな、成熟していない文体ではあるけれども、カティアが見まもっていたパリの時間と比較して、熱く素直に語られているからだ。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。(後略)》

 

<『旅のむこう』/ロラン・バルト

 母の両親の地、豊後竹田を汽車で通過する娘の新婚旅行のひとこまではじまり、その新婚旅行からミラノへ翌日に帰ってしまう母の歎きの声で閉じるこの一篇については、趣を変えて、あら筋ではなく、母の声を野暮な人情解説ぬきで紹介することとしたい。母についての娘の思い出は、母が思い出を娘に語って聞かせることで、遡って娘が母を生きなおしているような様相さえ帯びてくるのは、《だれにも守ってもらえない婚家での苦労を一時でも忘れようとして、母は、つらい分だけ、まるで編み棒の先からついとすべり落ちた編目を拾うように、あるいはやがて自分自身をとじこめることになる繭のために糸を吐きつづける蚕のように、いまは透明になった時間の思い出を子供たちに話して、自分もそれに浸った。思い出をたどるときだけ、母は元気だったので、私たちは、母の思い出にそだてられた》からだろう。

 

《微禄だったけど、竹田の殿さんのおさむらいだったのよ。ママのうちは。

 それは、商家に嫁いで、なにもかも見当ちがいでとまどいつづけ、しゅうとめや、自分をかまってくれない夫への不満を、面とむかっては一言もいえない気弱な母が、二階の六畳間に来て私たち姉妹にだけ打ち明けるとき、まるで魔法のことばを口にのぼせて窮地を逃れる女の子みたいに繰り返すフレーズだった。これだけは奪うことができない、というように。》

《がむしゃらに母と母の兄たちを説きふせて結婚した父が、天にも登る心地で選んだ新婚旅行の目的地が、やはり別府だったからだ。黒っぽいコートを長めに着て、手袋をはめようとしている。耳かくしに結った母のスナップ・ショットがある。背景は山で、あ、私の写真なんて、というような羞じらいとほのかな媚びのまざった笑いを口もとに浮かべた表情がういういしい。ママ、きれい。すると、母は、ちょっとなつかしそうに目をつぶって笑う。

「いやあね、新婚旅行のときの写真よ。パパが撮ったのよ、別府で」》

《ほんの幼いころ、母は三度、悲しい思いをした。まず、四十になったばかりの父親をなくした。母は小学校の一年生で、先生に呼ばれて家に帰ると、お父さんはもう死んで、ふとんに寝かされていた。悲しかったわ。母はそう言った。(中略)

 明治天皇の死は三番目の悲しみで、そのまえに、もうひとつ、胸がはりさけそうだった、と彼女がくりかえした大きな悲しみがあった。それまで住んでいた川っぷち(大阪の、どの川だったのだろう)の官舎を出て、父がいつか母と口論したときに子供たちのまえで「場末」と呼んだ、遠い町の狭い家に越したからである。そのまえに、ながいこと家にいたスエという名の女中が、いとまをとって、ぽんぽん蒸気に乗って行ってしまった。

「ママの家はお父さんが死んで、貧乏になったから、スエはいられなくなったのよ」

 母は言った。

「ちぎれるように手をふって、スエは泣いてた。悲しくて、わたしも、姉さんたちも、おいおい泣いたわ」

 まるで、自分が泣いているのを、どこかで見ていたように、そのときの話をした。おそらくは、あとになって、姉たちや母親に聞いたことをとりまぜて、脚色を加えたのだろう。》

《どうして、ここの家の人たちは冗談をいわないのかしら。結婚したころ、わたしは、毎日がつまらなくて、どうしていいかわからなかったわ。そう母は言って嘆いた。母にとって、冗談は、おいしいものを食べるのとおなじぐらい、大切なのだった。そういえば、母の兄弟たちは、ひとりのこらず食いしんぼうで、季節ごとに祖母が漬けこむ野菜の話や、九州の人たちならだれでも好きだというメンタイコの話や、家がケガレルからと祖母がいやがるので、兄たちが庭で煮たというイノシシ料理の話などをすると、母の声は高くはずんだ。話してしまってから、母は、しまったというように首をすくめて、おばあちゃんには、こんな話をしてはだめよ、と、食べ物の話をきらう姑に私たちがしゃべるのを警戒して、注意した。》

《母は、もっとびっくりするようなことを言った。シナ語、とくに北京語は日本語よりもうつくしい、というのである。フランス語も日本語よりきれいなの? と私がたずねると、もちろん、と自信ありげだった。「どこの言葉がいちばんうつくしいか」など、私はそれまで考えてみたこともなかったのだが、「なんでも世界一」というふうにそのころ教えこまれていた日本の私たちが話している言葉より、もっとうつくしいものが世界にあると聞いて、いったいこれはどうしたことかと、衝撃をうけたが、まず、言葉がうつくしい、というのがどんなことなのか、私には意味がわからなかった。

「大きくなったら、フランス語をならおうかな」

 私がそう言うと、すぐになんでも熱中してしまう私を、母は心もとなさそうに見すえて言った。

「なにも、フランス語でなくたっていいのよ。北京語もすてきなんだから、どっちか勉強するといいわ」》

《私がだれかに写真をとってもらうとき、そばにいると、かならずといってよいほど、こう注意した。

「笑わないで、ちゃんとお口をしめて」

 それは、にこにこして相手に迎合したり、「女らしさ」によりかかろうとする私より、まじめな表情をした私のほうが、私らしいという考えに通じていたようで、私はながいこと、あの気弱でひっこみ思案の母が、そんなふうに世間いっぱんとは違ったものの考え方を大事にしているのを、理解できないでいた。》

《「洗礼をうけたら、悩みがなくなるなんて、私にはとてもしんじられない」(中略)

 母は、およそ母らしくないフランスの聖女の洗礼名にもらって、日曜日には、教会に行くようになったが、その後もときどき、ねえ、おまえたち、ほんとうに神さまのことを信じているの、などとたずねて、私たちをあわてさせた。

「なにも信じないよりはましだって、そう思って、わたしは洗礼をうけることにしたんだから」(中略)

「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」》

《二階の六畳間に行くと、たんすのまえにすわった母は私にもすわりなさいと言ってから、低い声でたずねた。

「フランスまで行ったのは、おまえ、どういうことだったの?」

 いつになく鋭い母の矛先を私はありきたりの冗談でかわそうとしたが、母は笑わないでつづけた。

「このところ、自分の生き方をサボってるみたいなおまえを見ていると、わたしはなさけなくなるわ」母は言った。「そんなために、おまえをフランスまで行かせたのではない気がするのよ」

 そして母はとどめを刺すように、こうつけくわえた。

「一日も早く、東京に行くなりなんなりして、自分の考えていたような仕事を見つけてちょうだい」》

《どうなだめても、母はメルセデス・ベンツで旅行するぐらいなら、家でお留守番する、と言いはった。いたたまれない気持で、私が妥協案を出した。ママと私は高山まで汽車で行く。高山から上高地までだけ、車にすればいい。母はやっと折れた。(中略)

 わっと思っていると、またトンネルを出る。小さな白いハンカチを口にあてた母のおかしそうに笑っている顔が、煙のなかから、出てくる。そして、また、消える。

「煙のなかから出てくるたびに、おまえの顔がすこしずつ、まえよりすすけているの。おかしかったわ」

 母はずっとあとまで、この旅行を思い出しては声をたてて笑った。

「おまえがふたつのときに、東京へ連れていったときから、ふたりだけで旅行したのは、あれがはじめてだったわね」》

《三週間の滞在はあっという間に終って、あしたは出発という日の夜に、横文字の苦手な母のためにいつもしたように、ミラノの家の住所を書いた封筒を一束、居間に持っていくと、母はその宛名をじっと見つめながら、言った。

「ミラノなんて、おまえは、遠いところにばかり、ひとりで行ってしまう。」》

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』(吉田一義訳(『現代詩手帳 臨時増刊 ロラン・バルト』一九八五年十二月、現代思潮社))という一九七八年十月の講演記録がある。ここには、小説を書くとはどういうことか、書こうとした小説とは何か、という問題がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。長くなるが、できるだけかいつまんで引用する。

《『失われた時を求めて』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。(中略)

 彼が迷っている二つの<方向>は、ヤコブソンによって明らかにされた対立の二項、暗喩(メタフォール)と換喩(メトニミー)との対立にあたる。暗喩は、「それは何なのか? それは何を意味しているのか?」という問を提示するあらゆる言述を支えており、これはあらゆる評論(・・)が問うところのものである。換喩の方は反対に、また別の、「私が述べているこれの後には何が続きうるのか? 私が物語っている挿話は何を産み出しうるのか?」という問を出すのであって、こちらは小説(・・)が問うところなのです。ヤコブソンは、子供たちが「ヒュッテ」という語にどんな反応を示すかを調べた、ある教室での実験のことに注意を喚起していました。ある子供たちは、ヒュッテとは小さな小屋だ(暗喩)と答え、他の子供たちは、それは焼けてしまった(換喩)と答えたという。プルーストは、ヤコブソンの述べる教室の子供たちがそうであったように、分裂した主体だったとも言えましょう。人生のひとつひとつの出来事は、それに注釈(解釈)を加えるか、それとも、物語る際のその前(・)と後(・)を示したり想像させるような筋立をつくるか、そのどちらかの機会になるとは、彼も承知しているところです。》

 そして、プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 ここからはプルーストの作品の伝記的解体を考察した後、ダンテ『神曲』の「ワレラガ人生ノ道ノ半バニシテ(・・・・・・・・・・・・・・)……」を引用してから、バルト自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望み、読書体験とそれによる教訓から、小説が持つ能力を発展させ、三つの任務を果たしてもらいたいと思う。

《一つは、私が自分の愛する人達のことを語ることができるようにしてもらいたいということで(サドは――そう、あのサドが、小説の本領は自分が愛する人達を描くところにあると述べていた)、私がその人達に愛していると言うことができることではない(それなら文字通り抒情詩の企てになってしまう)。私は小説にいわば自己中心主義の超克を期待しているのであって、それは、自分の愛する人達のことを語ることが彼らが<無駄>に生きた(そして大ていの場合、苦しんだ)のではないことを証言することになるからです。(中略)

 第二の任務は、私に情愛の提示を十全に、だが間接的に、可能にしてくれることにある。(中略)

 最後に、そして特に、小説は(不確かでまるで規準に当てはまらない形式を指して私がそう言うのも、私がこの形式を着想しておらず、それを思い出すか、望んでいるだけだからだが)、その書き方が媒介的である以上(小説はさまざまな介在者を通じてのみ思想や感情を提示する)、他者(読者)に圧力をかけることがない。その審理は、感情の真実を問うのであって、思想の真実を裁くものではない。》

 翌年の一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語っている『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』には、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外にも行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違いはするが、『明るい部屋』の写真をとおしての母の思い出は、『旅のむこう』の声をとおしての母の思い出と通じあうものがあるだろう。バルト『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房)の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。(後略)》

 

<『アスフォデロの野をわたって』/「回想=省略の文体」>

 須賀敦子のイタリア文学論のひとつ、『ナタリア・ギンズブルグの作品Lessico famigliareをめぐって』(「イタリア語 ことばの諸相」一九九二年、イタリア書房)は、須賀の作品に大きな影響を与えたギンズブルグのLessico famigliare、すなわち『ある家族の会話』を、文体という視点から具体的に論じたものだ。二つの語りの様式が、この作品には仕掛けられていて、一つは「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」、もう一つは「回想」の叙述における「回想=省略の文体」であると論じられている。前者の、「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」については、母の声による『夜半のうた声』に活かされている。ここでは後者の、「回想」の叙述における「回想=省略の文体」についてとりあげてみたい。

《ナタリアが「女のよく陥る自叙伝風の」エクリチュールを極力回避しようとしたのは、自己を中心とした、心理の吐露にかまけた作品としての回想記であり、自叙伝であったと考えられるが、このように言葉によって触発される記憶の詩法は、そのために、もっとも効果的な手法であった。作者がかつて退けた「女性」的要素が、ここで逆転して作品の大きな魅力となったのである。彼女の避けたのが、女性らしさそのものではなくて、くだくだしい心理描写をともなうような文体であったことが、これで理解される。要するに、感傷的で、自己顕示欲のあらわな表現が彼女には耐えられなかったのだ。

 しかし、それだけではない。彼女の文体には、もうひとつの強力な工夫がかくされている。それを、仮りに省略の詩学と呼んでみよう。すなわち、饒舌の対極に、彼女は省略/忌避による沈黙を置く。その例として、回想のなかでもっとも痛みに満ちていてよいはずの、夫レオーネの死を告げる箇所を読んでみよう。

 最初、彼の死は、戦後ナタリアが働きはじめたエイナウディ出版社主のジュリオの託して語られる。

(引用されたイタリア語原文、略)

 レオーネの肖像を壁にかけたのはジュリオ・エイナウディであって、彼女自身ではない。そんなところに、ナタリアの忌避が読みとれるだろう。そして、淡々と、彼の無惨な死が告げられるのだが、この文章が読者の心を打つのは、最後の”un gelido febbraio”という換喩的な表現によってである。作者は、そのこと自体ではなくて、彼が死んだ朝の冷たさをつけくわえることによって、彼女自身の恐ろしさを告げ、この文章を抒情的にむすぶのである。

 もうひとつ例をあげよう。ふたたびレオーネの死に関するものである。

(引用されたイタリア語原文、略)

 アブルッツォの流刑地から、たいへんな苦労をして子供たちといっしょに、「私」は、レオーネの待っているローマに着く。その「ほっとした」(tirai il fiato)から”felice”という形容詞を経て、ローマの緊迫した生活を語ったあと、作者は「彼には二度と会わなかった」(e non lo rividi mai piu)という、これ以上みじかくなり得ない表現で、夫との永劫の別れを読者に告げている。わずかに、しかし、決定的に感情を伝えるのは、feliceに対しておかれた、最後の”mai piu”という絶望的な副詞句で、あとはすべて、「行動で構築」され、感情のはげしさは、「省略」で表現されている。夫との再会のよろこびは、わずかに”tirai il fiato”にとどまり、彼が収容されたレジナ・チェリ刑務所への言及も、拷問のすえの酷たらしい死についても、まったく触れられていない。そして、直後におかれた段落は、大きく息を吸って、泣き声にならないのを確認したうえでのように、つぎの言葉ではじまる。

“Mi ritrovai con mia madre a Firenze.”

 省略が、他のどのような抒情的形容よりも、深い悲しみと強い衝撃を表明しうることを、ギンズブルグは知っていた。(中略)

 省略が用いられるのは、しかし、かならずしも喪失をあらわすためだけではない。つぎのような例はどうであろうか。

 兄たちは、彼ら自身の言動によることもあるが、通常、母親あるいは父親の言葉をとおして「私」の記憶にとどまる。しかし、それだけではない。たとえば、作者がレオーネと結婚することになった過程は、彼女あるいはレオーネの心理に関するかぎり、すべて省略されている。いや、読者にはほとんどなにも知らされないで、その代りに、父母による彼についてのコメントが置かれるのである。(中略)

「自分のことをくだくだと他人にしゃべらない」というナタリアの北イタリア人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ省略ということができる。》

 ギンズブルグを考察した「回想=省略の文体」を頭に入れたうえで、阪神間に生まれ育った人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ人だった須賀の『アスフォデロの野をわたって』を読みすすめる。『旅のむこう』は母についてだった。これは夫のことである。そして、先回りして言えば、最後となる次の『オリエント・エクスプレス』は父のことだ。

 

《昼さがりの風がレモンの葉裏をゆっくり吹きぬけると、濃い緑のところどころが季節はずれの淡い黄色で染め抜かれた木立にかすかなざわめきが走る。見上げると、光が乱反射して暗さを感じさせるほど青い七月の空の切れはしが、ちらちらと葉のあいだに揺れている。庭に面した隣家の窓からポンとぶどう酒の栓を抜く音が小さくひびいて、昼食のテーブルをかこんだ家族の会話がぱらぱらと聞こえてくる。》 南イタリア、地中海の光がきらめく、幸福な詩情で『アスフォデロの野をわたって』ははじまる。しかし、すぐ二、三行さきで、そこはかとした、とりとめない不安の影が、前作『旅のむこう』で、日本への新婚旅行で登場してきた、「窓側の席にすわった夫にそうささやくと、彼はだまってうなずいた」、「握手しないで、ただ笑って会釈しただけだった」夫ペッピーノに対して宿る。

《いいよ、ぼくはここのほうが落着く。そう言って三階の部屋で午睡に溺れているペッピーノのほうが正解だったかもしれない。二日まえの午後おそく、ソレントに近いこのペンションに着いて以来、彼はひまさえあれば額にうっすらと汗をかいて眠っている。

 こんなに眠ってばかりいるのは、ただ疲れているだけなのだろうか。私の知らないところで、からだのどこかが蝕まれているのではないか。四年前の秋にペッピーノと結婚したときから、日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安がずっと私のなかにわだかまりつづけていて、それが思ってもいないときにひょいとあたまをもたげることがあった。》

 この不吉な予感は、まるきり根も葉もないわけではなく、彼のひとつ違いの兄は二十一歳のとき結核で死に、妹も、兄の死んだ翌年、おなじ病気で逝った。さらに二年も経たないうちに父親が死んだ。ペッピーノ自身、決して丈夫なほうではなかった。彼はこれらを隠そうとしなかったし、彼の結婚をおくらせていた原因のひとつであることもうすうす感じていたが、過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、人生を変えられるはずだと私たちは信じようとして、結婚に向って走った。友人たちは口をそろえて結婚して彼が明るくなったといった。はじめて知りあったころは、ぼくはあんまり食べ物には興味がないんだ、とつまらなそうな顔をした彼が、いろいろ台所に註文をつけるようになって私をよろこばせ、しばらく会わなかった友人が、結婚してずいぶん元気そうになったじゃないか、などと言ってよろこんでくれたりすると、私はやはりあの不安は杞憂なのかもしれないとほっとするのだった。ソレントで十日間も夏休みをすごすことに決めたとき、仲間たちは彼が「変った」ことを祝福してくれた。ナポリ大学で政治学科の無給助手をしながら、アルバイトのほかに南北問題などの記事を新聞や雑誌に寄稿して生計をたてているロサリオは、ペッピーノが共同経営しているコルシア書店の地方にちらばったカトリック左派の協賛者のひとりで、北にやってくるとかならず書店に立ち寄ってあたらしい情報を仕入れ、また自分たちの近況を伝えて、帰って行った。

そのロサリオに、「夏ぐらいは、人間らしく休みなさいよ」と真剣な顔でさそいかけられると、平穏な生活から遠ざかるのが苦手な夫が、どういう風の吹きまわしだったか、すなおにうんと言った。ロサリオの見つけてくれたペンションは小ウィーンという、ソレントらしくない名だったが、清潔で静か、居心地はよかった。

 ロサリオの友人のモーターボートで遠出をしたとき、エレナというながい金髪の娘がいっしょに来て、婚約者なの、とロサリオにたずねると、うれしそうに白い歯をみせて笑った。彼女はコルシア書店に来たことがあるそうで、ロサリオとおなじナポリ大学の政治学科の学生だった。若い仲間のひとりが銛で仕とめたサン・ピエトロという聖者の名がついた魚に舌つづみをうちながら、教会論がとびだし、キリスト教民主党の批判に飛火して、ひとしきりの政治談議になった。陽にあたると疲れると言って、帰り道、ペッピーノはほとんど口をきかなかった。目だけはいつものように終始笑っていたけれど。ある日、ソレントの浜辺で、ずっと沖に見える島ともいえない岩山まで泳いで行こうということになって、私も泳げるので参加することにした。水がきらいだから、とまったく興味を示さないペッピーノは浜辺に残ったが、戻ってきて波打ち際にいる彼の姿が目にはいったとき、私は一瞬、胸をつかれて立ちつくした。わずか二、三日のうちに真っ赤に日焼けした、このところすこし肉のついた上体を波の動きにつれてゆらゆらと揺らせながら、ながながと水のなかに横たわっている。両手をひじのところで折って胸にあてて、上をむいた頭だけをこころもち上げて、しかもめがねをかけたままで。そばに行くと彼は私を見上げて笑った。赤ん坊じゃあるまいし、を追いかけるように、もうひとつのフレーズがあたまを駆けぬけた、死人じゃあるまいし。

 今日は、すこし遠いけれどペストゥムの遺跡を見に行こうとロサリオたちに言われて、なんとなく重い気持で車に乗った。ポンペイのようなヴェスビオ火山の噴火で埋まったローマ時代の遺跡のひとつだろうと思いこんでいたからだ。火山灰に埋まって命を落した人々の無惨な石膏の人形(ひとがた)はぜったいに見たくなかった。子供のときも、病院の裏口では死者が運び出されると聞いて目をあけないようにして通ったし、キリストの磔刑のさし絵のあるページが目にとびこんでこないように糊で貼りつけてしまって学校で物議をかもしたし、戦争のときも、米軍機の機銃掃射をうけて逃げまわった空襲のあとでさえ、私は死者の姿が目に入らないよう細心の注意を払うのを忘れなかった。《死は、なにがあっても目をそむけるべきもので、一生、死に手を触れないで済ませられるのなら、私はそのほうがよかった。》 車のなかでそんな話をすると、みんなが笑って、教えてくれた。ペストゥムは紀元前にはポセイドニアと呼ばれる、海神にささげられたギリシアの植民地で、いくつかの神殿をふくむ建築物がすばらしく、古代ギリシアの建物としてはどこよりもよく保存されていて、アテネのパルテノンに比べても、勝るとも劣らない、という。古い町の名が、ホメロスの詩への郷愁をさそった。

 ここからの二段落は、『ヴェネツィアの宿』のライト・モティーフのひとつ、「時」についての、詩的であることが哲学的でもある、情景と精神の融合した文章で、この描写がラストの省略の文体の、無言の背景になっている。

《ペストゥムの遺跡の夏枯れの野に、私はひとりで立っていた。着いて車を降りると、なんとなくみながそれぞれの方向に散ってしまったのだった。ゆっくりと傾きはじめた太陽がふいに速度をはやめて森のむこうの海に沈む時間で、オレンジをしぼったような光が、ふたつの神殿のうち他を圧して一段と高くみえるポセイドンの神殿をすっぽりと包み、言葉を失って立ちつくす私も同じ柑橘類の色に染まっていた。ギリシアの神殿に接するのはこれが最初だったが、完全なものがいつもそうであるように、しばらくのあいだはその偉大な調和がかもしだす静謐が、ほとんど人間の手を経ることなくそこに存在していると思わせるほど巧妙な錯覚の網で私をすっぽりと包みこんだ。

 私が見上げているのは、まぼろしの屋根を支える巨大なドリア様式の円柱列に抱かれた、たぐいまれな神々の空間で、明晰という言葉から人間が想像しうる最高の表現と思われるものが夕陽をいっぱいに受けてかがやいていた。柱の一本一本に並行して刻まれた垂直の縦溝が、時間と気候と人の手が刻んだ大小の傷に被われながらも、今日も海に落ちようとしている太陽の光線を、最後の微片にいたるまで逃すことなく荒廃した石の肌に吸いとろうと、根づよい生命のエネルギーのすべてを傾けていて、石に封じこめられた息づまるような精神の集中のとくとくと脈うつ鼓動が聞こえるようだった。》

 ロサリオの声がずっと遠くで聞こえて、廃墟のどこかにはペッピーノも、おなじ光のなかに佇立しているはずだった。みんなのところに行こう。それにしてもペッピーノはどこに行ってしまったのだろう。大きな大理石のかたまりの上によじのぼって、ロサリオはエレナと海を見ていた。ペッピーノは? と訊くと、なんだ、いっしょじゃなかったのか、という。ぼんやりとあたりを見まわした。なんの関連もなく、好きな「オデュッセイア」の一節があたまに浮かんだ。《アキレスは、アスフォデロの野を どんどん横切って行ってしまった》 「アスフォデロ」という言葉の意味が知りたくて、いくつか辞書を引いたが、いろいろな説があって、忘却を象徴する草ということだけわかった。ペッピーノの友人が訳したエイナウディ社の対訳版では、「忘却の野」と形容名詞になっていた。「アキレウスは、忘却の野をすたすた去って行った」

ほんの短い時間、ペッピーノの姿がみえなくなったことで、ロサリオがあわてたぐらい、私はとりみだし、《いわれのない不安に追われるようにして、廃墟に散らばる大小の石に足をとられながら、失くしものを探す子供のように、私は彼を探し歩いた。十日間の休暇は避暑客でごったがえすソレントについてほとんど縁のないままに終って、私たちは愉しかった日々のざわめきを陽焼けした皮膚にとどめただけで、また「人間らしくない」ミラノの日常にもどった。》 ペッピーノを探し歩いた結果を省略している。

学生運動のニュースが伝わってくるようになって、コルシア書店の将来をめぐって仲間たちの意見が対立しはじめた。ペッピーノは慣れているはずの書店のなかで転んで怪我をしたり、大切な用件を忘れたりすることがあって、自分でもふしぎがった。もうすぐクリスマスというある夜、ロサリオがエレナと連れだってメキシコに行ってしまったという報せをもってきた。メキシコの大学で仕事がみつかったんだよ、と言ったが、腑に落ちないのでさらに訊ねると、エレナはほかの男と結婚してたんだ、とぽつんと言った。これからの南イタリアについていっしょうけんめい論議していたロサリオが、大学でのキャリアと南部問題に明るい光を求めようとする情熱をなげうって、エレナといっしょになるだけのためにメキシコに行ってしまったのは、どう考えても彼らしくなかった。そして、翌年の三月の霧のたちこめた夜、ペッピーノがこんどはもっと思いがけない報せをもってかえってきた。ロサリオの訃報だった。心臓の発作で急死したという。それを聞いて、三十をすぎたばかりのロサリオの、なにか生きいそいでいたようなやり方がすこし理解できたように思った。

 ここまでもそうだったが、いっそうの「回想=省略の文体」が、抒情的なむすびとともに、痛々しいほどに生かされている。

《それからまた三か月経つか経たないうちにペッピーノが死んだ。ひと月まえから肋膜炎で床についていたのだったが、その病名を知ったときから。私は夜も昼も、坂道をブレーキのきかない自転車で転げ降りていくような彼をどうやってせきとめるか、そのことしか考えなかった。

 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとりで行ってしまった。

 がらんとしてしまったムジェロ街の部屋で朝、目がさめて、白さばかりが目立つ壁をぼんやりと眺めていると、暮れはてたペストゥムの野でどこかに行ってしまったペッピーノを、石につまずきながら探し歩いている自分が見えるような気のすることがあった。

 アスフォデロが花の名だったのか、ただ単に忘却を意味する普通名詞なのかは、いまだにはっきりしない。》

 

<『オリエント・エクスプレス』/愛するものについて語る>

 場所は、ロンドン、エディンバラミラノ中央駅、そして最後はオリエント・エクスプレスと東京。それぞれ、一行あけて四つに分たれている。時は、一九五九年のこと、書かれた時点から三十四年溯るとはいえ、ロンドンから東京まで、ところどころで父(「彼」とか「あの人」とか、客観的に名づけられもする)の回想が混じりつつも、直線的に流れる。これまでとはちょっと違った、前へ前へと、せっつかれるように時計が進む構成となっているのは、『ヴェネツィアの宿』の円環構造を閉じる大団円だからだろう。

 これ一篇を独立して読むことは、父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行のいきさつや、父のふたつの家、母の父への思い、父にまつわるあれこれを順に読んできた者にとってはすでに難しく、これまでのさまざまな父に関する言述が堆積した頭と心で、この『オリエント・エクスプレス』を読むことになる。

 

《「朝、九時にキングズ・クロス駅から『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパもおなじ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」

 行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった》という文章で、父の人となりはおおよそわかるが、これにつづく次の文章で、来し方の娘の父への感情が明言される。それを書いておいて、実は、というところが、この一篇の勘所である。

《フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受け入れる気持になった。》 「父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私」なのである。

 留学先のローマから友人をたずねて、ほんの二週間ほどの予定でイギリスに渡ったところ、ヴィクトリア駅の近くに快適なフラットをきた。それはよかった、金のことなら心配ないから、できるだけ長くロンドン生活を愉しみなさい、という、考えていたよりもはるかに機嫌のいい手紙だった。父からの航空便はどれも、《自分もかつてひと月あまり滞在したことのあるロンドンに娘がいること、しかもその旅行の費用は自分がすべて支えていることへの深いよろこびに文章が踊っていた。》 父の便りは、リージェント・ストリートかなにかの、足がすくむような専門店でワイシャツを買って送れだったり、ロンドン塔に行くまえに漱石を読んでおけと何冊かの岩波文庫が届いたり、《私自身も徐々に父の昂奮に巻き込まれたかたちで、父の手紙とローマから持って来た旅行案内とをハンドバッグに入れて、せっせと父のロンドンを歩きまわった。》 「父の昂奮に巻き込まれた」、「父のロンドン」という表現がせつない。《エディンバラに行ってください、という手紙が届いたときは、以前から自分でも行ってみたいと思っていた場所だったこともあって、私はたちまち素直なロボットみたいに家をとび出した。そしてキングズ・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持で待ちわびた。》 「三等車」、「八月十八日」を記憶の片隅にとどめておこう。

 東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは、午後のおそい時間だった。父に勧められた「ステイション・ホテル」の場面となる。前方にStation Hotelという赤いネオンのしるしがあるのが見え、ネオンの下まで行ってみると、薄暗い、トンネルのような通路が口を開いていて、ちょっと不安になった。《ほんとうにだいじょうぶなのかしら、という気持は、でも、すぐに、いや、そんなはずはない、あの人が泊まったホテルなんだから、という確信に払いのけられて、私は荷物を片手にその細い通路を歩きはじめた。》

 いきおいよくドアをあけると、豪奢なルネッサンスの宮廷のような、美しいシャンデリアが燦いていた。いまさら後戻りするわけにもいかず、赤い絨毯の海を渡り、フロントのカウンターのまえに立つと、でっぷりふとった、盛装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。《キングズ・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。》 「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、という表情が一瞬、老バトラーの顔をよこぎったが、身をのりだすようにして耳をかたむけてくれた。「どうも、私の予算にくらべて、こちらはりっぱすぎるようです」「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」 当然とはいえ、どれも私の予算をはるかに超えたものだった。「ほんとうにもうしわけないけれど……」もういちどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルを教えていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」 老バトラーの糸のように細くなり、贅沢な用箋に別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながら背のびしている私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさってだいじょうぶです。では、おじょうさん、よいご旅行を」

《それにしても、ステイション・ホテルがどういった格の宿なのか、説明もしてくれないなんて。薄暗い朝のあたたかいベッドのなかで、私は、父がうらめしかったが、同時に、三十そこそこで、そんな贅沢旅行をやってのけた若い父親の姿には、どこかいとおしささえ覚えた。高すぎるカウンターのまえで、あの立派な体格のバトラーに言い分をうまく伝えたいと、大汗をかいていた自分を思い出すとちょっとみじめな気もしたが、それでも、この話をしたら、きっとあの人はよろこぶだろう。そうも思った。女のくせに、そんなはずかしい真似をして、と口では叱りながら。》 「口では叱りながら」のあとは、あえて言葉にしない。

 バトラーにいわれたホテルに荷物をおき、街に出た。北国の八月はロンドンよりもっと日が長く、雨もよいのせいだろうか、いつまでも夜になりきれないでいるようにみえた。肩のはった骨太で背の高い男女が、幅のある歩調で、薄暮のなかをゆっくりと歩いて行く。八月というのに重たげな、でも質のいい毛織のジャケットをはおり、がんじょうな靴をはいて闊歩する人々の流れにまじって歩きながら、まるで声のない街にとじこめられたような気がしていた。《父はいったい、どんな顔をしてこの道を歩いたのだろう。私は、少し猫背な彼のうしろ姿が、人びとの群れにまじっているような気がした。》

 エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかった。《エディンバラのお城のそばで、と父はなんども私たちに話してくれた。ちょうどおまえたちぐらいの年齢の、学校の制服を着た女の子が、十人ほど、若い、きれいなシスターに連れられて遊びに来ていた。犬ころみたいに、芝生のうえをころがりまわっていて、なんだ、スコットランドまで来ても子供はおまえたちとおんなじだと思った。

 パパたちがお城の見物をして出てくると、ちょうどシスターも子供をあつめて帰るところだった。どうもひとり、人数が足りないらしい。その子の名をたてつづけに呼んでいた。透きとおった、きれいな声で。

 メアリーという名だったぞ。父は、これだけは忘れてない、といわんばかりに、力をこめて、言った。目をとじて、すこし音痴な声をはりあげ、メアリー、メアリーと若い修道女の声色をまねて、私たちを苦笑させることもあった。》 六ケ月にわたる父の外遊の思い出話のなかには、子供の出てくることがあった。ふと日本でミッション・スクールに通っている娘たちを思い出したのだったろうか。《どんなお天気だったの、その日は。そう訊いておけばよかった。プリンセス・ストリートを西に向って歩きながら、私は思った。》

 突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなかった。地図によると、たしかにエディンバラ城の方角だったが、城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。あれはほんとうにエディンバラ城だったのだろうか。山も岩もすべてが魔性のものに思えて、そのまま散歩を打ち切ってホテルに帰ったのだった。《それにしても、のどかな一幅の絵のような父のエディンバラ城と、私の見た霧のなかの岩山の、なんという隔たりだろう。》

 翌朝は、ガイド・ブックどおりに、いくつかの城をたずね、教会を見学し、美術館をおとずれたが、着いた日の夕方の奇怪な岩山の印象があまりに圧倒的だったので、なにもかもが色褪せてみえた。

 場面は変わり、十一年の時が流れている。

 一九七〇年の三月のある日、ミラノ中央駅にいそいだ。パリ発―イスタンブール行きの国際列車が、入るはずだった。「父上からのおことづけですが」そういって、父の会社の人と名のる会ったことのない人物からの電話が、ローマからミラノの家にあった。二年前に手術をうけた父の癌が、昨年の秋に再発して、もう手のほどこしようのないところまで来ていると、弟がつぎつぎと書いてくる手紙で知っていた。「近々お見舞いに日本に帰られるとのことで、お父様はたいへんおよろこびです」知らない人の声はいった。「それで、おみやげを持って帰ってほしいとおっしゃって、お電話するようお頼まれしたのですが」 十年に二、三度にすぎなかったが、日本に帰るたびに、みやげなんか持って帰るな、と叱り、すなおにありがとうといってくれない父が、こんどはおみやげを持って帰れとことづけする。しかも、父がほしいというのが、かつてそれに乗って旅をした、ワゴン・リ社の客車の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップが欲しいのだという。模型は玩具店ですぐに見つかったが、コーヒー・カップを手に入れる方法がわからないでいると、あちこち探すよりも、じかに列車まで行ったほうが、手っとりばやくないかな、と友人が提案してくれたので、取るものも取りあえず中央駅に出てきたのだった。乗客でもない者に、頒けてくれるのだろうか、と思うと、構内アナウンスが到着を告げたとき、喉がからからになって、息ぐるしいような気がした。《私がこうしているあいだにもひとり死に向っている父に、いましてあげられることは、これだけしかないのだ。夫が死んでふた月後の夏に、母の危篤で帰国したとき、父はすでに一回目の胃の手術を受けたあとだった。母の病状が一応、落着いたあと、父の看護をするために日本にとどまるべきか迷う私に、父はきっぱりいった。おれのために、いまさら、おまえの選んだ生き方を曲げるな。ミラノへ帰れ。》

 「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ」と、はじめてフランスに留学することがきまったとき、父は上気した声でくりかえしたけれど、夢のような列車の名は、あたまのなかを素通りしただけだった。生涯でたった一度になった父の外遊のみやげに、まだ幼かった息子のために買ってきたのは、ドイツのメルクリン社の電気機関車一式で、弟は座敷いっぱいに敷いたレールに、客車と機関車を走らせるのに夢中になって、父をよろこばせた。そのなかには、ワゴン・リ社の、青と金色の車体の寝台車もまじっていて、父は、なつかしそうに国際列車の話を、私たちに話して聞かせた。オリエント・エクスプレスには、若いときに旅をつづけた時間と空間への深い思いがこめられていて、その記憶が、大波のいくつかを乗り越えるうちにようやく仕事に自信をもつようになった父の晩年を、どこかで支えていたに違いない。《会社がひまになったら、とイタリアから私が帰るたびに、父はくりかえした。もう一回、ヨーロッパに行くぞ。》

 列車が停止した。凝縮されたヨーロッパそのものを見るようなうつくしい人々が降り立つ。客車の入口の黒い蝶ネクタイをつけた車掌長に出会った。「少々、おかしなお願いがあるんですけど」「なんなりと、マダム、おっしゃるとおりにいたしましょう」 威厳たっぷりだが人の好さがにじみでている、恰幅のいいその車掌長に、日本にいる父が重病で、若いとき、一九三六年に、パリからシンプロン峠を越えてイスタンブールまで旅したこと、そのオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、たのんで来たことなどを手みじかに話した。ひとつだけ、カップだけでいいから、頒けていただけるかしら、とたずねると、はじめは笑っていた顔をだんだんとかげらせたかと思うと、「わかりました。ちょっとお待ちいただけますか」と低い声でいって、車内に消えた。まもなく大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ包みをもってあらわれた。《ありがとう。そう言った私の声はかすれていた。お代は、とたずねる私に、彼は包みを開いて、白地にブルーの模様がはいったデミ・タスのコーヒー茶碗と敷皿を見せてくれながら、まったくなんでもないように、言った。

「こんなで、よろしいのですか。私からもご病気のお父様によろしくとお伝えください」

 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで。オリエント・エクスプレス……は?

 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィアトリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかけてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。

 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。》 

 雑誌連載時の題名、『古い地図帳』は、最後のこの場面からきた。

 

 うつくしくも、抑制された文章による感動的なクライマックスに水を差すつもりはないが、エディンバラのホテルから父に宛てた手紙を『須賀敦子全集 第8巻』で読むことができる。旅行に相当する部分を、抜き書きしておく。ユーモアに富んだ人柄が偲ばれる。

《十月十日 エジンバラ Royal British Hotel,Princes St.,Edinburgh,Scotland(父宛航空書簡

 ロンドンでは家の近くのトマス・クックで汽車の切符を買って、(もうヨーロッパには三等がないので二等です。それでも、往復七ポンドでした)昨日、一号車ですゝだらけになって旅行しました。(中略)エヂンバラについたのは、ちょうど六時半、クックできいてゐた、ノース・ブリティッシュ・ホテル(ステーションホテル)に行ってみると、いやなんだか立派なので、まづいな、と思って、とにかく値段をきくと47シリングが最低、とても贅沢すぎるので困るといふと、それではお向ひにいゝホテルがございますといふので、ほんたうにいゝホテルですかと念をおして、なるほどこれもなかなか立派なホテル(ロイヤル・ブリティッシュ)の三十七シリングの部屋におちついたわけです。

 エヂンバラはなるほど美しい町です。といっても何か、マクベスとか、あのまほうつかいの婆さん共が祖先といふだけあって、今でも、なんとなく妖怪的な要素あり。今朝、お城の丘にのぼって、霧が吹きよせてくる中で、全く全くふしぎな町だとおもひました。とても廿世紀後半とは思へません。女の人は、ロンドンでびっくりしていたら、いやもう、こゝでは、男の一間で消えてなくなったやうなもので、店の陳列棚も、タータンチェック以外の着るものは、あげるといって追っかけられてこられても必死になって逃げだしたいやうなものばかり。お城の半分は兵営になっていて、チェックのズボン(キルトではなく)をはいた兵隊がたくさん番してましたが、安物のゴム人形のやうな表情ではなはだ興ざめ。(後略) 敦子》

 父への手紙に書いてあることが事実だとするならば、『オリエント・エクスプレス』に書かれた旅行記には、いくつかの言い換え、誇張、修飾、逆にあえて書かなかったことなどがありそうだ。八月、三等車、老バトラーとの会話、人びとの服装、着いた夕方にエディンバラ城に向ったのか、などである。おそらくは、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップの入手、死に際の父の様子にも、多少とも嘘や脚色があるだろう。『ヴェネツィアの宿』十二篇のそこかしこに、それらはあるに違いない。しかし、それがどうしたというのか。

 ふたたびロラン・バルトだが、彼は遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))で、その秘密を説いている。奇しくもそれはミラノ中央駅から書きはじめられる。《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 須賀敦子は、愛する父や母のことを「小説的な嘘」をまじえて書くことによって「愛するもの」について語りきったのに違いない。

                                   (了)

             *****参考または引用文献*****

 *『須賀敦子全集、全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』、吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』、花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋