文学批評 「古井由吉『槿』の花散らす天使」

  「古井由吉『槿』の花散らす天使」

  

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 講談社文芸文庫に『槿』が収められるにあたって古井由吉は、「著者から読者へ 朝顔に導かれて」という短文を「あとがき」のように添えた。「槿(あさがお)」という表題にした理由や、主人公が四十を越したばかりの端境(はざかい)にあることの意味を説明しつつ、作品を短く引用しながら小説の読みどころを示唆しているのだが、最後の寄り道のような逸話がなぜか脳裏に残った。

《まだ連載中のことだったが、装丁者の菊池信義と、古い歌や物語の跡を回る旅の中で、京都の妙心寺の天球院を訪ねて、狩野山楽の襖絵「籬(まがき)に朝顔図」を拝見した。籬とは言いながら、天から降りかかるような、おびただしい朝顔だった。ただ圧倒され天球院を辞して、道々、妙なことを考えた。ゲーテの「ファウスト」の最終場面で天使たちが空からやはりおびただしい薔薇の花を降らせ、花は馥郁たる香を放ちながら、メフィストフェレスの肌に触れると炎となって燃えあがるが、あれが朝顔ならどうだろう、と。》

 

リルケ『ドゥイノの悲歌』>

 そのときはそれきりだったが、後日、ドイツ、フランスの詩を古井が翻訳、紹介した『詩への小路』を読んでいると、ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの悲歌(ドゥイノ・エレギー)』訳文からいきなり「天使」が舞い降りてきた。

《誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。》

 この部分を古井は大江健三郎との対談「詩を読む、時を眺める」で語っていて、古井文学の秘密を解き明かす鍵ともなっている。

古井 リルケの『ドゥイノの悲歌』の第一歌に、《美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる(領域である)。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。》とあります。これが僕にとってのこの『詩への小路』を書く時のモットーでした。

「美」と「恐ろしきもの」を、「明晰」と「混沌」と言い換えてもいいんです。「美」なり「明晰」なりをつきつめたあげくに、正反対のものへ転じかかる境目を指してもいるようです。(後略)》

 また、同じく第一歌の後半について、こうも語っている。

古井 壮年期に『ドゥイノの悲歌』の《薔薇や何やら、もっぱら約束を語る物たちに、人間の未来にかかわる意味をもはや付与しないとは。》の部分を読んだ時は、目に入る物、聞く物が約束を含まないのならどんなにひどいことだろう、これを受け止めるのはきついなと思ってました。ところが、そう思い続けると、変なものでもう死を先取りしたようなつもりでその事実を柔らかに受け止められるようになった。ひょっとすると傍から見ればグロテスクなんじゃないかと思うほどの妙な充足感がある。

 時間というものが大きなスケールで、こんなちっぽけな人間の中にも渦巻き始めてるんじゃないかと思うんですよ。だから、死の思いにも耐えられる。(後略)》

  

 古井は『ドゥイノの悲歌』の訳文ごとのエッセイに、「天使」とは何かについて折を見ては触れるけれども、それほど明快に解釈しなおし、提示しようとはしない。それは『ドゥイノの悲歌』を読みこみ、かつリルケ自身が、「ヴィトルト・フォン・フレヴィッチ宛(1925年11月13日)悲歌について」の手紙に、《『悲歌』の「天使」とキリスト教の天使との間には少しも関係がありません。》とか《此岸というものもなければ彼岸というものもありません(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。あるのはただ大いなる統一体だけ(・・・・・・・・・・・・・・・)で、そこに私たちを凌駕する存在である「天使」が住んでいるのです。》と書いているゆえに当然のことなのであって、むしろ第一歌訳文のあとのエッセイに、《詩の冒頭に天使があり、天使に呼びかけようとしている。これが訳者にとって、結局、最大の難儀であった。天使、天球、秩序。そして秩序も世界も宇宙も、荘厳も装飾も、すべてコスモスである。文様も文章も、詩もこの内に入るのだろう。天球を頂いて、天球をおのずと映そうとして叶わぬ心の、悲歌であるようなのだ。》というエッセイこそが、「あらゆる天使は恐ろしい」という「天使」の解釈に他ならない。

だからこそ、「美」と「恐ろしきもの」、「明晰」と「混沌」をつきつめたあげくに、「正反対のものへ転じかかる境目」に、恐ろしい「天使」を感じ、人間の中に渦巻く「時間」と「死」の思いを小説にし続けている。その代表作としての『槿』を読んで行く。

 

<小説『槿』の筋>

 古井文学の本質は筋にはなく、要約したところで小説の内容を表現できないのは、誰しもが言うところだが、大体の筋によって全体を鳥瞰しておくことは、「いつ」「どこで」の喪失と、反復、変奏に魅力をもった古井の小説を重層的に読み解く助けになるだろう。

 登場人物は文筆を生業とする四十代の杉尾という男と、三十歳の入口と出口の二人の女、井出(いで)伊子(よしこ)と萱島(かやしま)國子。行きつけの飲み屋の、七年前一度きり寝た四十がらみの女将(おかみ)。杉尾の妻。さらには学生時代の二人の旧友、森沢と癌の疑いで入院し、後に精神病院へ移る石山である。

 杉尾は献血で見知った伊子を気分が悪くなったというので背負って家まで運ぶ。男に見られると息をつめ静もりかえるためにかえって男を呼びこみ、痴漢につけられる性質の伊子は、「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはいけない、避けられないと思ったんです」と杉尾に救いを求め、しだいに関係は濃密になる。

 雨の日に杉尾は、付き合いもなくなっていた学生時代の旧友の通夜に出て、自殺したらしい旧友の妹國子に会うがほとんど覚えていない。離婚を経験している國子は、高校生のときに寝間で犯され、犯人は大学生だった兄の友人の杉尾だと思いこんでいて、確認を迫るが、杉尾に記憶はない。何かを知っている石山は病院からしきりに國子へ電話をかけてくる。國子から電話の内容を聞かされた杉尾は、呼びだされてホテルの一室で國子に会うが、横たわった國子に指一本触れない。

 一方、女将が住むアパートの二つ真上にあたる部屋の風呂場で若い女が殺されていたと知らされた杉尾は、上の部屋の女の生活音の愚痴を聞かされたあと、放火による火事のサイレンを聴きながら女将と寝ることになる。

 杉尾は伊子から、國子と以前から知りあいだったことを知らされる。旧友たちの間では、杉尾が國子を犯して捨てた男と噂されていたと森沢に教えられる。國子の妄想が伊子を通じて杉尾に向けられ、伊子が仲介して、ホテルの一室で國子と引き合わせられる。二十年前、すでに精神的におかしくなっていた兄が庇った國子を犯した男は、杉尾なのか、家のまわりをうろついていた石山なのか、あるいは死んだ人か。二人の記憶を対峙されるうちに、事を察知した國子が「あたしは、あなたに、抱かれましたね」と問うと、杉尾は黙ってうなずく。「ありがとう」と言う國子に促されて杉尾は別の部屋で待っていた伊子を抱き、その足で精神病棟の石山のところへ行くと、石山は昔のことを話しはじめ……。

 

<『槿』と『ロベルト・ムージル』>

 ドイツ文学翻訳者としての古井の代表作は、ロベルト・ムージルの『愛の完成』、『静かなヴェロニカの誘惑』とヘルマン・ブロッホ『誘惑者』でが、とりわけムージルについては『ロベルト・ムージル』という本を刊行している。それは古井の小説作法の開示にもなっているのだが、ムージルの深い影響の下にあるばかりでなく、本書にある《真に現代作家らしいものをあたえるのは、熱狂的にせよ、ひややかにせよ、体験の拡大への突破口をうかがう、あのほとんどエロティックな緊張である》との共通感覚、認識の一致があるゆえだろう。

『槿』は24章からなる。これはという文章を順に《 》で引用し、次いで『ロベルト・ムージル』論の「観念のエロス」から、『槿』読解の道標となる部分を「 」で拾い上げつつ、断章のように読む。

 

<1章 腹をくだして朝顔の花を眺めた――存在の沈黙と予感>

《腹をくだして朝顔の花を眺めた。十歳を越した頃だった。厠の外に咲いていたのではない。

 寝冷えをしたのか、明け方近くにうなされて目をひらいた。膝が汗ばんでいた。親たちの床の間から足音を忍ばせ暗い廊下をつたって幾度も厠に通った。ただ渋るばかりになり困りはて長いこと蒲団の中で息をひそめていた。そのうちに夜が白んで疼きも間遠に、心地よい萎えにかわり、うつらとしかけたとき、何を苦しがってか雨戸を一枚だけあけて庭へ出た。

 薄霧がこめて地にしっとりと露が降りていた。濡れた草のにおいが線香のにおいと似ていると思った。縁先の鉢植の前に尻を垂れて初めは花を見てもいなかった。ただ腹の内を測っていた。熱っぽい素肌に朝じめりの涼けがつらいほどに快い。その快さがまた疫痢か何かを誘う、身の毒と戒められていた。

 やがてぽっかりと白い、あまりにもみずみずしくて刻々と腐れていくような花の輪に引きこまれた。それだけの記憶だ。しばらくは立ちあがれず、萎えた膝の上に薄くなった腹を押しつけて眺めていた。

 しかし四十を越した杉尾の眉間の奥に、ある日、あの朝鼻を近づけて嗅いだわけでもない花弁の、色には似あわず青く粘る臭気がひろがった。たちまち身の内に満ちるとやがて草も露も、炊立ての飯も汁も浅漬けも、そして人の肌までも同じ青く粘る精に染まった。粘りながらやはりどこか線香の鋭さを含んでいた。暗い糞壺の底にほの白く蠢き湧き返っていた、蛆どもの生命まで、思い浮べていた。あの朝、十歳の小児が露に濡れて、自分は生き存(ながら)えられないような体感を抱えこんで股間には重苦しい力を溜めていた。》

 

「何かほのかなものを前方に見て、それにたいして静寂と不安と、自分の存在の沈黙のようなものを感じている。何かしら予感している。その何かについてのいろいろな説明、説明できないものにたいする説明が、作中に重ねられる。喧噪のただ中を流れるささやかなひと節の旋律とか、心の奥深くにひそむ感情ともまだ言えぬ感情とか、感情という明確な形をとる前の何ものかとか。」

 

 1章冒頭は、古井自身が「著者から読者へ 朝顔に導かれて」で、《「腹をくだして朝顔の花を眺めた」という始まりは、なにぶん大胆であった》と吐露しているとおりであるうえに、「厠の外に咲いていたのではない」と否定しておいて、極度の高み、緊張感が漲った凝縮度の高い文章が続く、小説全体の小宇宙となっている。

 時制(テンス)としては過去形。場所は、言葉にはしていないが糞尿のにおいさえしたであろう厠の外。「薄霧」と「霜」と「朝じめり」の水に濡れた官能、衰弱の予感と張りつめた静けさの「白」、そして「渋る」「ひそめいていた」「疼き」「萎え」「腐れていく」といった負のイメージが、「膝が汗ばんでいた」「尻を垂れて」「薄くなった腹」という具体的な姿態とともに「青く粘る精に染まった。粘りながらやはりどこか線香の鋭さを含んで」いる文体で描写される。かつて哲学者がこの世はエーテルに満ちていると論じたような静かで冷ややかな空間を滑る「足音」。「自分は生き存(ながら)えられないような体感を抱えこんで」と、「股間には重苦しい力を溜めていた」という「死と性」のイメージが、十歳の小児から四十を越した男への「時間」の中に流れこむ。何ものかを言葉にしようと、語れないものを語ろうと、感官と感情が内面と外面の境目をせせらぎのように洗う。

 

<1章 裸体の動作を感じた――融合感と微妙な感覚>

《気がつくと、向いのソファーの上で女は靴を脱いだ両脚を尻の脇に引寄せて横坐りの恰好になり、襟をややひろげて胸で息をついていた。目がひらききり感情の色はなしに潤んでいた。芋でも喰いはじめそうな場違いなくつろぎに、杉尾はちょっと目を瞠ったが、驚きもしなかった。

 やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。》

 

「深い融合感がある。しかもべったりと融け合うのではなくて、細い接触と釣合いとによってかろうじて保たれているらしい。男女の結びつきの微妙な感触をあらわして、みごとだと思います。」

 

「べったりと融け合うのではなくて、細い接触と釣合いとによってかろうじて保たれている」肉体感覚を持った文体が引きだす、病院で献血のために隣の寝台に横たわった井出伊子の、重心を腰まわりから下においた脚や足や尻の肉感と艶っぽさの漂う官能は、まだなにも起きておらず、結びついてもいないのに、はやくも性の熾火、叙情性、エロティックな恐ろしさのにおいを漂わす。融合感と微妙な感覚による「時間」の独特の表現意識が、副詞の意識的な使い方のもとで書かれている。さきざきくりかえしテーマとなるのだが、時間と出来事の表現感覚についての、平出隆との対談(「「楽天」を生きる」)を見ておく。

「エッセイズム」が話題となって古井は、

古井 (前略)起こった・起こらなかったということをきちんと定めて書き進めるのが小説の常道です。だけど、起こる・起こらないの未定の状態の中で小説を持続させるという行き方もあるのではないか。つまり人が死んだというのは、いたのがいなくなったんだから確かに何事かが起こったに違いない。しかし死んだ人はともかく、生き残った人間にとって、この出来事というのもかなり起こった・起こらないの未定な状態にあることになるんです。ずっととどまりっきりの部分もある。

平出 出来事そのもののあやしさということですね。

古井 あやしさと、その未定状態の中にあるいろいろな認識や感覚や感受性の豊かさを汲み取りたい。(後略)》

 対談は言語表現へ展開し、古井は語る。

《ところが、死にながら生きる、生きながら死ぬという観念に、僕の場合、「ようやく」という副詞が一つ加わるわけです。死ぬことによってようやく生きる。生きることによってようやく死ぬということを見る。この「ようやく」が一つ入ってくると小説になるんですね。》、《無時間的なものに追い込まれた書き手が、せめて言葉の中で時間を取り戻そうとする時、副詞が多くなるんです。》、《日本の私小説のよくできた文章というのは、やっぱり副詞を排除し、排除したあげく形容詞が甘くなっているという状態なんじゃないかしら。》

 

<1章 あれは五月、今はもう八月も末だ――パラグラフごとの時間>

《玄関を出ると真直に伸びる道の、もう表通りに近いあたりに、女の背が見えた。棒杭のように立って、風に吹かれていた。歩き出してしまったので、一本道なので、杉尾はいきなり振向かれるのを恐れながらことさら足音を響かせて近づき、女の脇を抜けたかと思ったとき背中に焦りがあらわれ、うしろへ残った腕の、ちょうど採血の跡の上を摑まれた。思わず肘を折り、身をそむけようとすると、凄まじい力が細い指先にこもった。

 見ると、目をゆるくつぶり、瞼までも蒼く、髪の硬く立った額をかすかに前後に揺すっていた。顔が気味の悪いほど大きく見えた。貧血ではないという。

 そのまま、二人は風の中に立っていた。しばらくして、傘を忘れてきたことに気がついた。

 

 女を背負ったのは、これが初めてか、と杉尾はかしげた。記憶のかぎり、たしかに一度もない。(中略)

 この女は何者だ、としばらくして考えた。接吻もしたことがないのに、背の重みを重みとも感じていない自分は、また何事だ。ここまで目撃者は誰々だ、酒場の人間たちに、車の運転手、それきりか。情痴関係もなし、面識もなし、病院の前で、風の中に寄り添って長いこと立っているところを、記憶に留めた者はいるかもしれない。いや、あれは五月、今はもう八月も末だ。腕の鈍い痛みの影は、これは昨日、あれからまた一度呼出されて血を採られた跡である。》

 

「小説が循環するような感じもします。直線的な時間の展開には、作者は無頓着でもあるようです。無頓着というより、意識的にそれをはずしている。控え目にいえば、直線的な展開を必須のこととは思っていないようです。これも小説の基本に抵触するはずのことなのですが。

 また、ムージルの場合、前回の『愛の完成』と今回の小説において特に著しいのですが、パラグラフごとに時間がある。その内部で時間がそれぞれプロセスを経ている。ひとつの高まり、ひとつの極まりを見て、またくずおれるということがくりかえされる。同じ反復を読まされているような印象は払いがたいのですが、微妙に展開はします。」

 

 1章の献血の場面のあと、リルケ『マルテの手記』のノートルダム・デ・シャンの街角の女のような空気が流れ、風の中に立つ献血帰りの気分の悪くなった女がいる。一行空けて、その井出伊子を背負って家まで送り届けているのかと思って読むと、二頁ほど読み進めるうちに、「あれは五月、今はもう八月も末だ」という文章が出てきて面食らう。しかも、「腕の鈍い痛みの影は、これは昨日、あれからまた一度呼出されて血を採られた跡である」と続くから、さっきの出来事は、いったいいつのことなのか、と混乱をきたす。

 同じ過去時制ではあっても、出来事がいくつかあり、それらに時差があって、「その三カ月後、八月末の献血の翌日」というような前置きなしに、文章の流れのまま、「いつ」が揺らぐから注意して読まねば間違えるし、あえて間違えるように書いているのかもしれない(現に、いくつかの時評は単純にひと続きの時間と誤読している)。

 

<2章 むっちりと白い、女の足袋が見えた――出来事の背後に開くもの> 

《世話役の声に中年男どもが謹厳な顔つきにもどってざわざわと居ずまいを正した。仲間の尻について杉尾は焼香を済まし、いくらか痺れのきた足をそろそろと選んで、いつのまにか暗い庭に向かって閉ざされた硝子戸の前まで出て立ち止まった。塀の隅に蒼い光が細く霧のように立ちこめて、その中にぽかりぽかりと、白いものが浮んだ。目を凝らすと、焼香のにおいを分けて、覚えのある髪のにおいが寄添って来た。

「街燈の明るさにだまれて、夜更けに咲(ひら)くのがあるんですの」

木槿ですか」思わずささやき声になった。

「はい。落ちますと汚くてね。今夜はとくに大きく咲いていますわ。雨はやみましたようですね。お帰りを心配してました」

 その時、硝子戸の下の縁のあたりに、こちらを向いて立つ男の、足を杉尾は目にとめた。一瞬、庭の闇の中に佇んでいるように見えた。しかも萎え凋んで、てんでの向きに奇妙なふうに捩れながら、猿の足のように、折り曲げた指で地を摑んでいた。背すじをかすかにざわめかせて横目で眺めるうちに、その足のまわりから廊下の床の接ぎ目が浮んで、かたわらにむっちりと白い、女の足袋が見えた。拇指の股を締めて、こころもち爪先立ちになっていた。》

 

「人妻が旅先でほかの男と関係を結ぶ、これは出来事です。時も場所もある。誰でもその行為の影響を思います。ところがムージルは、その出来事そのものは何事でもないとする。出来事によってその背後に開くものが重大であり、それに照らせば、当の相手とか状況とか、当の女の肉体でさえもただの表層に過ぎなくなる、という。」

 

 出来事としては、焼香を済まして、女と語る、という平板さであるが、その背後に木槿(むくげ)が咲き、「ざわざわと」「そろそろと」「ぽかりぽかりと」の反復語に揺らぐうちに、カメラ・アングルを足もとに落すことで、人の顔と名前は失われ、視線と意識は足と絡みあい、ほどけ、「覚えのある髪のにおい」という、読者の「覚え」をまさぐらせる表現を放り投げたかと思うと、「萎え凋んで、てんでの向きに奇妙なふうに捩れながら、猿の足のように、折り曲げた指で地を摑んでいた」という怪奇的な様子と、二人なのか三人なのか、三人としたらそれは誰なのか、謎をかけ、伏線となり、「廊下の床の接ぎ目が浮んで」という細部と「拇指の股を締めて、こころもち爪先立ちになっていた」という徴候が静寂と不安のゴシック・ロマンの闇にやってきて、「美」と「恐ろしきもの」、「明晰」と「混沌」が「正反対のものへ転じかかる境目」で立ちつくさざるを得ない。

 

<5章 私自身の何かが、誘い出すらしいんです――一対一を破る愛>

《「なんだか、私自身の何かが、誘い出すらしいんです」井出はつづけた。

 外へ向かって絶対に叫び立てない。驚きなり恐れなり怒りなり、強い感情の動きを、普通の女性のように、とっさに表に出して騒がない。逆に一瞬空虚になって、すっと吸いこんで、こちらが悪びれたみたいに目を逸らす。動揺をつつみこんで、おのずと、相手の行為を人目から庇っている。(中略)

 物陰へ視線を誘いこまれさえしなければ、汚されることもない。相手もどこまでも粘りつくわけでもなく、しばらくすると用を思出したみたいな、実直な足取りで遠ざかる。それでも部屋にもどると芯から犯された気がして、湯に入って髪まで洗わずにいられなくなる。鏡をのぞくと、鬼のような面相をしている。そのくせ目の芯が、とろんと怯えている。これが惹き寄せる。男たちにとっては、物陰などへ駆けこまなくても、ひたすら見えぬふりをして進む女の怯えの前で存分に、醜いあわれな姿を露出させるだけで、満たされるのかもしれない。》

 

「ここではいわゆる裏切りということが、姦淫を去って、現実の束縛からも離れ、現実の外へひろがっていく、そういう心の動きとしてイメージされているのです。だから、相手の存在はどうでもいい。もし相手の存在を重んじるのだとしたら、そのひろがりはないわけです。一人の男から離れてもう一人の男のほうへ自分を収斂させていくだけの話ですから。

 しかも、もっとラディカルなことに、愛といったら一対一でしょう、対幻想なんていう言葉もある。ところがここでは、一対一の結びつきを破ることによって、あるいはもっと空漠としたものの中に融かしてしまうことによって、もう一つの大きな愛をもとめる。」

 

 1章で「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはいけない、避けられないと思ったんです」と言った伊子が求め、あるいは見知らぬ男たちに求める関係性は、見るものと見られるもの、内と外が浸透しあって、一対一の結びつきから現実の外へと卵の白身のようにどろっと流れだし、現実の外へひろがる愛となる。それをしもドストエフスキーの小説の娼婦の愛と比較することは許されるだろうか。

関係性の障害は自同律の障害でもあるが、ひときは徴候に敏感であるがゆえとも言え、共感覚や神秘的な合一へと変化しさえするだろう。そのとき、どうでもいい存在だった見知らぬ男は、まるはな蜂が花の色とにおいに引き寄せられるように誘い出される。

 

<7章 来ないでください――パラドックス

《やがて痛みを抜くような声で萱島は喋りはじめ、杉尾をここに呼びだすことになった旅の経緯から、亭主に逃げられ兄に死なれたことまで切れ目なしに喋りつづけ、声がまたひとりきりになって二十年も前の話にもどり、杉尾に送られて帰った夜はせっかくおさまっていた兄の病がまた暴れ出して、身に覚えもないことで夜っぴき責められ、門の前でいきなり抱き寄せられかけたときの驚きがまだ身体の内にあったのでよけいにふせぎきれなくて、守ってやろうとするそのお前が勝手に外に出て汚されてきてと罵られ、お前の汚れがこの家の不幸の源だとまで決めつけられ、そうかと思うといかにもやさしく、俺があいつを呼んで、いまからでも遅くはない、抱いてくれるように頼んでやるから心配するなとささやかれ、これにはとうとう堪えられなくて自分の部屋に走りこみ、追ってきて喚く兄の前で戸を一所懸命に押さえこみながら、もう裸にされてしまった、自分でもとても守れない身体になった気がして、そのうちにどう思ったのかあらあらしい足音を立てて家じゅう妹を探してまわりはじめた兄のことを、戸の前を通り過ぎるそのたびに、死んでくれればいい、もう来ないでほしいと……。

「来ないでください、そこに坐っていて」話の中から、いきなり杉尾に呼びかけたものだった。「来てもかまいませんけど、来るなら部屋を出て行くまでひと言も、口をきかないでください」

 そして目をつぶり、全身が静まった。》

 

「これがムージルの小説の随所に出てくるパラドックスなのです。別れの際に、強い融合への憧れが生じる。だからといって、別れるのをやめるわけではない。離れる際でのみ合一の予感が満ちあげてくる。身を投げ出したいという心は一瞬高まるが、それが引いていくと、ヨハネスの存在が自分にのしかかる死体みたいに、充足の実現を妨げる異物として感じられる。けれども、もう一度くりかえすのです。」

 

『槿』は、誘いつつ拒む、索引されつつ反撥する、という二つの力の執拗な拮抗と、都会的な均衡ゆえに狂気へ逸脱しないきわどい釣合いから成立っていて、そのもつれ、錯綜に感応できないと、これといって起伏がなくのっぺりとして、似た出来事が執拗にくりかえされるつまらない小説、内省的で、なにやら難解だった、で終ってしまうから、読者を試しているとも言える。誘いつつ禁じ、防御する他者という存在の磁場と距離感を感じとる能力、積層的な過去の時間を発掘し、ひらかれた未来を想像する予感の力も試される。

 1章の最後ですでに、パラドックス、来いという命令と、来るなという禁止とが撞着的に現れているので振り返る。杉尾は気分が悪くなった伊子を木造アパートの二階の部屋まで背負って送り届ける。伊子は服が汚れてしまったからと、台所の奥に消え、水を浴びる音がした。

 

《女は浴衣を着て出てきた。よくも拭かずにあがってきたのか首も襟も、髪までがしっとり濡れていた。敷居のあたりに膝を半端に屈めて立っていたが、思いきって蒲団の隅から身をゆるやかに忍びこませると、硬い仰臥の姿勢でしばし一人きりになり、それから動かぬ杉尾のほうへ、訝るような目をやった。

「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはいけない、避けられないと思ったんです」

 言葉とうらはらに、男の沈黙に押されて、やめて、と哀願する光が目に差した。杉尾は頤をわずかに横へ振った。》

 

<7章 指一本触れてもいない――何も起こらなかった>

《まだ同じ恰好で横たわっている。足首を戒めて、死んでいる。杉尾は横断歩道を渡り、人の流れの中に足を速めた。

「これで、杉尾さんと、寝たんですわね」椅子から立ちあがったとき、身じろぎもせぬ寝床から和んだ声が流れた。「故人には、嘘をついてましたとあやまりますわ。ほんとに抱かれてしまいましたので、もう隠しはしません、とうなだれます」

 訝るよりも先に、杉尾は死者と逢うような物言いにおそれた。すでに壁のほうへさがりながら、どうか間違ったことはなさらないでください、と哀願していた。まちがいという、身に似つかぬ言葉がひとりでに口から出てきた。

「ご心配なさらないで」声が笑いをふくんだ。「そんなこと、もう考えませんから。死んだつもりで、お呼び立てしたのではありませんか。助かりましたわ。どうか安心してお帰りになって。あたし、もうしばらく、杉尾さんが遠くなるまで、死んでます、このまま」

 そうつぶやくと足首を重ねなおし、やや力をこめて片側へ捩り、濃い目つきで杉尾を見つめて、起きたら食べて湯に入ってまた眠る予定をあどけない口調で話した。杉尾はうなずいた。ひと言ごとにあたふたと、やましげにうなずいていた。部屋を出た時には女の素肌の、すこしざらついた感触をありありと身に覚えていた。下腹にまだ陰気に濡れた感触を、隠すようにしていた。

 しかし寝てはいない、指一本触れてもいない。

 いまさら憮然として杉尾は地下鉄の階段にさしかかり、足取りはゆるめず、まるで悪夢から覚めたみたいな取り乱した安堵ぶりを自分で笑おうとしたとき、向かいから人の流れを縫って井出伊子、と似た格好の女が掛けあがってきて脇をすり抜け、(後略)》

 

「それよりも、「出来事」はどのようにして起るか、たどってみましょうか。ふた晩目に、男が扉の前に忍んでくる。女は床につく前で、もう着物を脱ぎおえていた。そして部屋の内を見まわして、これまでここに泊まった大勢の客たちの存在を思ううちに、さまざまな人間の足に踏まれたこの絨毯の上に身を投げ出したいという欲望にとらえられる。実際に床に膝をついて、這いつくばり、扉の外を思い浮べる。扉一枚隔てた向こうには男が来ている。

(『愛の完成』からの引用略)

 その間に男は去って行く。そして、これがすでに不実なのだ、と女は悟る。男に肉体を押しひらかれる感覚を、現実のこととして思い浮べる。だいぶして、もう一度、男は忍んでくる。女は扉のところまで這っていって、錠をはずしたい、という欲望に駆られる。しかし、どうしてもできない。そのうちに、男はまた立ち去る。

 ここがヤマ場と思われるのです。次の夜、実際に事は起ってしまうのですが、そのときはもう一種、自分を離れた、ひろびろとした剥離感の中で、出来事を受け入れるというふうになる。精神の緊張としてのヤマ場は、むしろこの何も起らなかった晩のほうにある。」

 

 萱原國子とホテルの部屋で二時間近くも過してから地下鉄に向かう道々、改行もなしに、天使が指先で悪戯したかのようにすうっと時計の針は回ったかと思うと、はらりと戻る文章の妙。

「足首を戒めて、死んでいる」、「そうつぶやくと足首を重ねなおし、やや力をこめて片側へ捩り、濃い目つきで杉尾を見つめて」の足首の捻れたエロティシズムに不安になりながら、「これで、杉尾さんと、寝たんですわね」という女と、「部屋を出た時には女の素肌の、すこしざらついた感触をありありと身に覚えていた。下腹にまだ陰気に濡れた感触を、隠すようにしていた」と卑猥さすら感じさせておいて、「しかし寝てはいない、指一本触れてもいない」と断定する男の、病む魂の静けさと精神の緊張感は、おそらくは何も起こらないことによって、前半のヤマ場に違いない。

 

<8章 索漠とひろがる空間の中にぽつんとうち捨てられて――現実面からメタフィジックのほうへ>

《しかし花か、とそこまで来て杉尾は眉をひそめ、舞台の上から思いを逸らせた。花は近年、気味が悪い。妙に色が濃くて肉が厚く、気候の変化にしぶとい、しぶとくうつろい残る。枝についたまま、腐るまで散らずに粘る。

 二月の末から日和がつづき、杉尾が坐業に就く前に出かける公苑では梅の一部が咲きはじめ、残りも一両日のうちにひらくかと思われた頃、天候がもどった。早咲きはこれでひとたまりもない、咲きかけも枯れるかもしれない、と杉尾は思った。たまたま五日ばかりで散歩にも出なかった。次に来てみると花はしかし変らず咲いていた。花弁の縁がいくらか枯れているが、紅いは紅いなり白いは白いなりに濃い艶を見せて、梅にしてはぼてぼてと枝についている。半開きのもそっくり半開きのままでいた。また三日ほどおいて来てみるとやはりうつろわずにいる。さすがに呆れて、健気なものと眺めようとしたが、しかし濃い艶はあたりへ照らない。あたりの空気を染めず、賑わいもなく哀しみもなく、ひとりで盛っている。樹下にはほとんど落花の跡も見えなかった。

 暮れようと明けようとおそらく、照りも霞みもしない。それ自身の、依怙地な匂いを集めている。

 そんなことに悩まされていたのか、この無風流者が、と杉尾は苦笑して、ひそめていた眉をほどき、舞台の上へまた心をやると、舞いは佳境にさしかかり、索漠とひろがる空間の中にぽつんとうち捨てられて、さすがに袖の流れにかすかな恍惚をそよがせ、ときたま戦慄もつかのま走り、ああ、それでも咲いているな、風に揺れている、とようやく惹きこまれたところへ、またしてもうつろわぬ、冷い艶が念頭にふさがって、こいつは照らない、霞みも褪せもせず、ただもう真剣に、ひたすら時を凝らしている、と息をついて払いのけたとたんに女の髪の、頭痛と吐気と、苦悶の匂いが額の奥でふくらんで、鼻孔を抜けて客席の人いきれの上へぽっかり掛かり、笛の声に揺がず、白く静まった。》

 

「至るところで現実面からメタフィジックのほうへ平然と移っていくでしょう。臆面もなく、と憎まれ口をたたきたいぐらいに。それをくりかえしやっている。ところが、私どもの使っている日本語の書き言葉、現代日本語というのは、どうもまだメタフィジックな感情のあやを表した体験が不十分のようで、どうしても具体の現実、自然主義的な位相に縛られる。そこを超えると文章ががたがたと壊れる。」

 

 題名が『槿』であるように花のイメージはひろがり、朝顔木槿、梅、辛夷、連翹、桜が影を落としては消え、なかば幻覚的に揺らいで、具体の現実、自然主義的な位相からメタフィジックな世界にワープするが、しかし現代日本語の文章ががたがたと崩れることはなく、観念的な哲学小説やアンチ・ロマンにもならずに、地上数センチを感情の綾とともに進む。

逆に、メタフィジックから現実面にワープすることも、くりかえし行われる。たとえば、1章冒頭の朝顔を眺める場面は内省的で、重苦しく、のっけから非日常の妄想、観念的な世界に沈んでしまっては、その後の小説の展開が難しかろうと思っていると、古井のバランス感覚は、ひょいと、いとも簡単に頁をめくるように日常へ飛翔して、まるで小津安二郎の映画の中年トリオの会話のような、とりとめもなく、馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい、しかし地に足のついた文明批評と悪戯っぽい色事も入り混じって、さもありなん、という現実に臆面もなく着地するところがそれだ。

 

《「一日の仕事に就く時が切ないのは、年が行くほどに切なくなるのは、これはあたり前の話だが、しかし」杉尾と同年配の男が嘆いた。「毎日毎日、あきもせずに、切ながっているのも、子供っぽく感じないか。これも疲れのしるしなんだが。たとえば一日の仕舞いの、歯を磨くとか、寝巻に替えるとか、枕の位置を定めるとか、そんなことを長年の物臭さがいまさら憂鬱に感じるようになると、あんがいこれが、危ない兆候なんだそうだ」

「おい、まめにはするもんだな、三白眼(さんぱくがん)の女を知ったよ」また別の友人が燥(はしゃ)ぎ出した。》

 三十も越して本人が三白(さんぱく)に気づいていなかったのを教えてあげた、という与太話から、

《しかし妙な話を杉尾は思出した。女は初めて抱かれた男に手を引かれて、三途の川を渡るという。そうだろうか。》

と、ここではなんのことかわかるわけもないが、のちに少女の萱野國子を寝間で犯した男(つまりは初めての男)は誰だったのかという記憶の探求に結びつく円環構造、ミステリー、サスペンス仕立てにもなっている。日常と非日常をまたぎ、時間は揺らぎ、謎をかけられ、仄めかされ、異化されて、また平然と戻るばかりか、七年前の女将との一度きりの秘密の仄めかしさえあることに気づくのは、小説を読むことの愉しみではないか。三途の川の連想の続きは、

《ひょっとして、無縁の男女が偶然の行逢いにより、情の薄いまじわりにより、まだ生きながらに、どんな風にしてか、手を携えて三途の川を渡ってしまう、そしてそれぞれに身だけは日常へもどって、すでに往生しているとも知らずに、別々に生きながらえる、そんなことは、ありはしないか。

「あんたらも、ようやく年が寄りはじめたわね」

 小鉢の並ぶ台のむこうから、これも四十を越した女将(おかみ)が前に並ぶ男どもをしげしげと眺めた。うっすらと笑いながらまた黙りこんで白いことはいまでも白い丸顔を、涼風に吹かれるみたいに、ゆらりゆらりと揺すった。

「おい、俺たちの誰かと、一度ぐらい、寝たことがあるのではないか。もう時効だから、話してしまえ」

 誰かが欠伸(あくび)をついた。杉尾は露じめりの上に尻を低く垂れる心地で、小鉢の上からたじろがぬ笑みが、何とはなしに幽(かそけ)く、またふくらむのを眺めた。》

 最後の一行、「誰かが欠伸(あくび)をついた。」と「杉尾は露じめりの上に尻を低く垂れる心地で、小鉢の上からたじろがぬ笑みが、何とはなしに幽(かそけ)く、またふくらむのを眺めた。」のあるかないかの瞬間に、メタフィジックが忍びこむ。

 

<10章 水鳥の姿が浮んだ――ユニオ・ミスティカ(神との神秘な合一)>

《両腕に抱えあげると、それなりの重さがまた不思議に感じられた。蒲団の中へ寝かせたときにも、されるがままに身体のかたちを変えて、反応らしいものもあらわさなかった。しばらく眺めて、一度は着のままそのわきへ添った。それから、床の中にいっこうに温もりの来ないことを怪しんで、服を脱いで素肌を寄せた。水気を帯びて吸いついてくる冷たさに思わず目をつぶると一面に、冬枯れの葦の立つ光景がひろがった。風がふっと止んで、いましがた葦の底のどこかで一点、何かが首をひょいともたげたけはいに、耳を澄ませた。近かった、と不安が刻々つのってきた。つめていた息をゆっくりと抜いて、硬くなった肘枕をつきなおそうとすると、女が大きな目をあけてこちらを見ていた。表情の影もなくて、ただまともから見つめていた。それが苦しいばかりに、乳房からやがて股間へ手を滑らせたが、目はかすみもしなかった。上へ回って膝を割り、唇にかるく触れると、かすかな息が洩れて女は目をつぶり、かわりに眉間にまた翳をためて、腰を片側へそむけながら迎えた。やはり水を浴びたらしい湿りが太腿のつけねにもあった。

 しまいまで肌の芯が温もりきらずにいた。男の身体を押しのけようとこわばる下腹から、動きが止んで細かい波が短く走るたびに、また別の冷たさが差してくる。そのたびにまた葦の底の、水鳥の姿が浮んだ。ひょいともたげた首をそのまままだ人に勘づかれぬ静かさの中へ差し伸べている。自身は虚になり、逆に周囲の葦の穂ごとに不安がふくらんでいくのを感じている。それが飽和してつかのま凝(こご)る瞬間を、翅に力をためて待っている。》

 

「ヨーロッパの神秘主義には、ユニオ・ミスティカといって、神との神秘な合一の観念ないしは体験があります。偶然だとか状況だとか緒現実だとか、そういうものに左右されない、あるいは場所もない、時もない、姿もない、出来事もない、そういう虚無の中で、神と一つになる。しかし神との合一に、人の側のほうに、人格がのこされたらおかしなことになる。もし人格が保たれるとしたら、合一により自分が神となってしまう。それはやはり異端です。

 ムージルが目の前に見ているのは、おそらくそのユニオ・ミスティカと同質のものだと思うのです。ただ、肉体の行為を通して、そこに至ろうとする、精神的ではあるが、かなり官能的でもある、ひとつの冒険となります。」

 

水と熱の感覚を伴った、すべらかに伝わる触感が優位で、「水気を帯びて吸いついてくる冷たさ」、「乳房からやがて股間へ手を滑らせた」、「唇にかるく触れると」、「水を浴びたらしい湿りが太腿のつけねにもあった」、「肌の芯が温もりきらずにいた」に濡れた詩的ひろがりをもつ水鳥の喩は、肉体の行為を通して」の、「美」と「恐ろしきもの」、「明晰」と「混沌」の精神的で官能的な感覚で、キリスト教の神がそこに存在しなくとも、「男女の交わりの一番の恍惚は忘我と変貌です(エッセイ『人生の色気』)」という「虚無の中で、神と一つになる」変貌の「ユニオ・ミスティカ」である。

 

 のちの23章で、國子と決着をつけた杉尾は、別な部屋で待っていた伊子とまじわるが、「はっきりと見えてますよ」と呟く伊子に訪れる「場所もない、時もない、姿もない、出来事もない」忘我もまた、一対一の愛を超えて外部へひろがる被愛妄想を伴った離人的かつ統合失調的な「ユニオ・ミスティカ」と同質のものではないか。

 

《「ほんとうに、見えているのか」

「はっきりと見えてますよ」

「影ではないか」

「真昼間のことでしたから、ここよりも明るい」

「隅々まで明るく」

「ほんとに、あっけらかんと」

「似てはいないな」

「まるで違うわ」

「いまもどこかにいるわけだ」

「死にましたよ。あたしが、瞼をおろしてやって。知りもせずに。あなたに逢う三年前」

 深く沈んだのがまたおもむろに浮きあがり、のけぞりぎみに押しあげた乳房が男の胸板に触れてひんやりと固く、腰がかすかにくねり、動かないで、とまたいましめた。

「あぶないときなの。むかし、そのことは心配したのよ。何があったのか、なかったのか、目をさますともうわからなくなっていたくせに。人の顔も浮べないで。夏のあいだ、ふた月もなかった。ようやく始まったとき、手洗いにしゃがんで、裏の林で首をくくった、自分のことを思ったんだわ。やはり、何のせいとも知らずに。首をくくったほうも、これで済んだと手洗いで息をついたほうも……。

 あれで糸が切れました。なかごろの何年かはほんとうに、影もなかったの。平気で男の人に抱かれていた。それから郷里のほうと切れて、男の人とのことが、どうしてあんなことが我慢できたのかと思われてきて、夜道で変な人たちにつきまとわれるようになって、悪い夢の中では、起ることはさまざまなんだけれど、あたしはいつでも厭あなふうに、お腹が腫れていた。あなたに、初めに恥しいところを見られたので、もう抱かれていまう、とそう思ったとき、年の瀬でしたけれどある晩、あたしはもう十年も、妊娠しているんです。ほんのすこし、根が残って、とまっている、と人がささやくの、次に男の人と寝たら、まとまるだろう、と」

 そのままにしていて、とやや迫ったつぶやきが、動きもせずにいる男に向かって押出され、にわかに剛い感触になった掌が、長い指の先に力をこめて男の背を撫ぜさすり宥めながら、腰がひとりでにうねりはじめた。》

 

<11章 何かあったのでしょうか――記憶の連続性の喪失>

《夜半になり、井出伊子にやはりこちらから電話を掛けるべきかと思いはじめた頃、それよりも先に、萱島國子から電話があった。

「夜分、申訳ありません。石山さんという方、ご存知ですね。入院なすっているそうですね。昨日、お見舞いに行かれたそうで」

 だしぬけに畳みかけてきた。いったん床に就いたのがなにやら思いあまって、受話器を取った様子なのが声の爛れに感じ分けられた。杉尾は杉尾で、昨日と決めつけられたとたんに、咎められるだけのいわれがあるような気になった。

「何の病気なんでしょうか」ようやく息を静めて萱島はたずねた。「あちらこちら検診のためとおっしゃってましたけど」

「癌の疑いがあるそうです」ひきつづき気おされたかたちで杉尾は率直に答えてしまってから、これはもしや取返しのつかぬ失敗(しくじり)をやったのではないかと畏れた。

「そうでしたの」とつぶやいた相手の声にはしかし、死病を耳もとでささやかれた驚きよりも、むしろあてはずれの、腑に落ちぬような余韻があった。

「何かあったのでしょうか」杉尾は折返したずねた。

「いえ」相手はためらった。「じつは、お電話をいただきまして、石山さんから、昨晩と今夜と二度、どちらも宵の口でしたが、病院からだそうで、どうも、どういうおつもりのお電話だか。死んだ兄のお通夜に来てくださったそうですが、お名前にあまり記憶もなくて、兄とほとんどつきあいもなかったとご本人も最後にそうおっしゃってました。それならなぜお通夜に、ましてや……」》

 

「体験にはそのつど時と場所があって、その時と場所の記憶から、体験の実体が後まで感じ取られる。ところが一人はそうであるのに、もう一人にはそういう記憶が薄れている場合、先々何かが起って、二人が対決するようなことがあれば、これでは話が噛み合わないことになる。それだけならまだしも、男女の関係は心理的にも相互のものだから、一方の記憶が確かでも、他方のそれが薄れていれば、二人しての体験としては、消えることもあり得る。出来事に時間も場所もなくなるという現象は日常の次元でも起る。」

 

『槿』のメインテーマには、登場人物たち、とりわけ萱島國子と杉尾の記憶の分離と連続性/非連続性、二人の言葉と妄念、「いつ」「どこで」、喪失という問題が横たわっている。そこに國子の妄想が乗り移ったような伊子の言葉と、精神を病む石山が電話で焙りだす過去の出来事が、縺れ、絡みあい、真と偽、実と虚の境目が反転し、互いが互いに内包される。主役ともなった電話からの声、媒介による伝達の不可能性は、最後の24章では、病む石山による紙の小切れの束に書かれた、杉尾の妻からのメモの意味を読みとることの不可能性で露わになる。自己同一性も自己連続性も怪しいというのに、他者との関係が加われば、それも一対一であるばかりではなく、一対二にも三にもなる関係の中で、本来の孤絶的なものは消え去り、ついては読者も排除されずに音叉のように共振して耳鳴りはやまない。

 

 それは小説の終盤、23章で、

 

《「そこを動かないで」あと半歩のところまで寄って立ち止まり、あらためて顔を仰いで、

「あなたは、あたしを、抱きましたね」とたずねた。

 杉尾が答えかねていると、「それでは、あたしは、あなたに、抱かれましたね」とたずね変えた。

「昔でも今でも」そうつぶやいて、顔が静まった。「昔でなくても、今でなくても、何処でなくても」

 答えるかわりに杉尾は、抱き寄せはしないというしるしを背に守って両手を伸ばし、女の腰のくびれにあてがうと、萱島はその手を上から押さえて腰骨の縁の窪みにそわせ、ほんのわずか内へ導きかけて手首をいましめた。

「ほかのことは、何もなかった。誰も来なかった。誰も、水など飲んでいなかった。ささやきなど、しなかった。ただ、抱かれただけ……あなたに、そうですね。あたしは、そのこともまたじきに忘れて、生きつづけますので、どうか、この部屋の中だけのことですから、返事をしてください。二度とたずねませんので」

 抱きました、たしかに、と答えてもいまさらまんざら嘘言にもならない。そう杉尾は思ったが、口に出すのはおそれられ、黙ってひとつうなずき、まだ淡く張りつめた相手の目の内にその影が落ちたかどうか、覚束ないような心地から、いましめられた手の親指に、内股の温みのほうへ向けて、わずかに力をこめた。

「ありがとう……故人はもう、夢にもあらわれません」》

 

 と、二人の間で円環が閉じたことにされるのだが、その無理やりさ、非合理でありながらも当事者たちにとっては合理的で相互に了解されたものに違いないのは、『ロベルト・ムージル』の次のような記憶に関する考察から導き出された「出来事に時間も場所もなくなる」に相当する。

 

「体験にはそのつど時と場所があって、その時と場所の記憶から、体験の実体が後まで感じ取られる。ところが一人はそうであるのに、もう一人にはそういう記憶が薄れている場合、先々何かが起って、二人が対決するようなことがあれば、これでは話が噛み合わないことになる。それだけならまだしも、男女の関係は心理的にも相互のものだから、一方の記憶が確かでも、他方のそれが薄れていれば、二人しての体験としては、消えることもあり得る。出来事に時間も場所もなくなるという現象は日常の次元でも起る。」

 

 また、「萱島はその手を上から押さえて腰骨の縁の窪みにそわせ、ほんのわずか内へ導きかけて手首をいましめた」、「いましめられた手の親指に、内股の温みのほうへ向けて、わずかに力をこめた」と、ここでは「足」ではなく、クロソウスキー(彼と弟バルテュスの母はリルケの愛人だったとも伝えられている)の『ディアーナの水浴』で、誘いつつ禁じるディアーナ(アルテミス)に襲いかかったアクタイオーンの欲情の手のようなエロティックな「手」がクローズアップされているのは、この場面が後半のヤマ場であって、杉尾の隠微な内面の葛藤を、手の動きの表現によってことさら意味を持たせようとしたからではないか。

 

<18章 少女は両手で膝を抱えこんで――官能性がひそむ>

《ここでは見つかるので、と少女はささやいて杉尾の先に立ち、ひきつづき濃いにおいをまつわりつかせながら静かな物腰で庭の隅の植込みの陰に導いて、自分から低くしゃがみこんだ。杉尾は尻を垂れてしまうのも落着かず、土の上に片膝をついて暗い庭を隔てた家の内をまた窺った。縁側の廊下をくりかえし、苦悶の色を目に留めた男の姿が、母親らしい人に後を付かれて早足で通り過ぎたが、妹を探しもとめる声の次第に切羽詰まった調子にしては、硝子戸の外をちらりとものぞこうとしなかった。

 ひとまず安堵して脇に目をやると、少女は両手で膝を抱えこんで、じっとうつむきこむ裾のほうからまた、生温いものが立ち昇ってきた。頤に指先をあてて顔を仰向けさせると、近くからうらめしげに杉尾を見つめる目の光がおぼろなようになり、はずかしい、とつぶやいた。初めにすっと入って来られたとき、あまり恐かったもので、と膝をまたいっそう固く抱え込み上半身をゆるくくねらせて、はずかしい、はずかしいの、どうにかして、と訴えてきた。

 そのまま、どうにもならない恥を二人して下に庇いあうようにして長いこと、家の内の呼び声に耳をやり唇を合わせていた。唇だけで濃く、ときおりゆるやかに動かして、触れ合っていた。しかしそれだけだった。誰に見られたわけでもない。お互いをさえ見ないようにしていた。》

 

「この作家は形や姿のない無限の感情の中へ分け入ることに巧みな人ですが、また描写力もある。ヴェロニカの姿態が見えます。(中略)女性として一種稀薄になった、きわめて精神的に見える存在の奥に、強い官能性がひそむ。少しなえた、青い影みたいになった姿が、かえって強い官能性を感じさせる。そのとき、官能性をもつというより、官能性をうしろに、まるでとりついた病いみたいにひきずっているという感じ、それは目に浮かびます。」

 

 頼りなげな少女國子の、「女性として一種稀薄になった、きわめて精神的に見える存在の奥に、強い官能性がひそむ。少しなえた、青い影みたいになった姿」を、病いみたいに引き摺る震えのまま描写する文章力が、アンバランスな肉体性を現出させ、しかもその濃いにおいは、原初的な野生のにおいの衝動を惹き起す。

『槿』を読んでいると、古井が服(着物)の描写をまったくしていないことに気づく。女が何を着ていたか、どんな柄だったかの描写が完璧なまでに皆無である。ただあるのは國子の兄が白い浴衣のようなものを着ていたという朧な回想ぐらいだ。しかし古井は、「小説のエロティシズムにとって大事なのはフェティシズムです。着物がなくなったのは大きいですね。昔の作家を見てごらんなさい。女性の着物のことを、細かに書くでしょう。よくこれだけ見分けて記憶しているものだと、感心します。やっぱり、文学にはフェティシズムは必要です。(『人生の色気』)」と書いていて、ならば、『槿』における古井のフェティシズムの対象は、ここまで見て来たように、足であろう。「物」としてつけ加えるとすれば、駅のコインロッカーからホテルまで運んでくるように國子から託される「白い鞄」、家まで送るタクシーの中で女将が端にかるく肘をかけていた物、のちにベッドの真ん中に、重さでシーツに醜い皺を寄せて、伊子の「白い鞄」と並べて置かれる物が、妄念の象徴を担っているが、それでも鞄の描写は「白」というのと「女物とはかぎらぬ」以外にはなく、抽象性を高めている。

 

<19章 歩きまわる気配――言葉のうねりによる肉感>

《家の内には水の流れ落ちる音が満ちて、ひっきりなしに歩きまわるけはいがあった。それでも何人かの、長い廊下をたどるさざめきと聞えてきて、そんな廊下などこの家にありはしないのに、とひとりで苦笑するうちにまたまどろんだようで、かわるがわる扉を細くあけて寝床をのぞく白い顔が夢に見えて、やがて枕のわきの、蒲団の角を掠めて通り過ぎかかるものがあり、床の中から腕がついと伸びて、後に残った足首を摑んだ。思いがけない抵抗があり、それにつれて手にもけわしい力がこもり、息もつかず争いあったあと、足を取らせたまま女の身体が静まり、腰も屈めず、どこか遠くでも見つめる様子になり、どうしたものか、とこちらは手がかえって離せずに、まだなかば夢心地に深刻らしく、いかにも深刻らしく思案するうちに、ふと温みをふくんだ、裾がふわりと腕の上へ降りかかり、穢(な)れたにおいにつつまれて、足首がそっと手を振りほどいた。

「大丈夫かしら、いまだから言うのだけれど、あの夏、最初のとき」寝床の外へゆっくりと出た裸体が普段着をかぶりかけてつぶやいた。「あの年は暑かったけれど、暑いあいだずっと、あたし、妊娠したと思いこんでいたのよ。肌寒いような日が来て、病院を探そうと家を出たその途中で、ああと感じて引き返したんだわ。じめじめと雨が降っていた。ひどいものが出たわ。一生もう、駄目かと思った。あなたはあの後で葉書一本寄越さなかったので、あたしも疑い出した初めから、知らせるつもりはまるでなかった。一緒に寝ていて、ひとりでうなされるような人に……」

 服をかぶって裾をととのえ、下着は手の内にまるめて持ったまま片膝をついて、暗幕のやや赤っぽく透ける窓の下の、雨が吹きこんだというあたりを、染みでも探るように眺めていた。》

 

「人物を配して、その動きとか肢体を描いて、その絡みの中に色を出すというなじみの形のほかに、観念の絡みとか、うねりなどに、おとらぬ肉感をあたえることもできる。このくだりはこういう意味だと言ってしまえば、まことに観念の世界なのですが、言葉のうねりがたいそう色っぽい肉感をふくむ。」

 

 妻との交情を書くのは、知らず私小説的な風合いを帯び、下品になりがちなある種の冒険であろうから、そこを「妻」という語を使わずに、ローアングルからのなかば夢幻的な映像で、省略と切り詰めた文体で、しかし柔らかく拡がり、行間を読ます粘着質の言葉のうねりによって、生臭いのか生臭くないかの境目で、「裾がふわりと腕の上へ降りかかり、穢れたにおいにつつまれて、足首がそっと手を振りほどいた。」のようにエロティシズムを描く。と、相手の追想が急にこちらに流れ込んで混乱させたかと思うや、「服をかぶって裾をととのえ、下着は手の内にまるめて持ったまま片膝をついて」現実世界に蝸牛の角のようにすうっと、逃げるように潜んでしまう。

 

<21章 女の嫉妬と男の後暗さをひとつに捏ねるみたいな――対象を容赦なく相対化し、分解していく>

萱島は狂ってはいない。むしろ、十近く年下の井出とこういう関係になったことを知ったとたんに、それまでの妄想ふくみの気分を払い落として、的確に楔を打込んできたぐらいのものだ。まずやましい井出を無理やり自分の代理人に仕立てて、事実かとも思わせる一方で、妄想ならばどうにも対抗のしようのない、やりどころもない嫉妬の中へ追いこんでおいて、杉尾がどうせその井出を抱くだろう、女の嫉妬と男の後暗さをひとつに捏ねるみたいなまじわりに付くだろう、と睨んでいた。電話で井出は嘘をつきおおせたと思っているかもしれないが、あれでたやすく口を割らされている。男に抱かれたばかりの裸体の声を、聞き耳を立てた女が逃がすわけもない。泣き崩れた井出を宥めはげましていたようだった。ひそかに微笑んでいたかもしれない。どうかお気になさらないで、あたしのことでご自分をお苦しめにならないで、このことではあたしのほうが貴女に申訳ないと思っているんですから、ただ昔のことをひと言、認めたと聞き出してくださればそれであたしのほうは片づくんです、今のあの人のことは、あたし、貴女がどうなさろうと、よくは思い浮べられないぐらいなの。直接に会って話すなんて、そうおっしゃるけど、こうと知った以上は貴女の手前、出来ないではありませんか。》

 

「現実の男女関係ではもちろん紆余曲折、いろいろなニュアンスをふくんで、一直線ではなくて、とぐろを巻いたり循環したりするものですが、局所局所では見えるものではないでしょうか。あるいは、こういう欲求はだれのエロスにもあって、現実ではほかのさまざまな力が加わり、おおよそ人が見るようないきさつになるのではないか。

 相手には覆われない、むしろ対象を容赦なく相対化し、分解していくエロス、自我をも解体して、ひたすら純粋に無限になろうとする、ほとんどエロティックではないエロス、そういう欲求は、たいていの男女の間にも内在しているのではないかと思います。」

 

 幻覚は幻覚として女たち二人、國子にも伊子にも自覚されてはいる。杉尾の内的独白のようではあるが、國子の声が混ざることで、果たして誰の独白なのか、という錯覚を覚える。杉尾と國子との間の不確かで不連続な記憶、小川のせせらぎのように記憶の岸辺を洗う出来事、杉尾に対して國子ばかりではなく、電話で石山が國子に教示する秘め事、國子から伝え聞いた伊子の嫉妬、國子の妄想が伊子に執りついたかのような繰り言、それらが溢れ出た下水のように流れ込んだ杉尾の性欲と魂胆、病んだものが病んでいないはずのものを、生き延びているものが死んだはずのものを、そういった男と女のすべてが容赦なく相対化され、分解されて行く無限の時間にエロスがある。

 

<22章 鍵を、間違えないでね――見知らぬ時間がひろがっている>

《思わず手に取らされた鍵を眺めて、まだ頑なにそむけている頭の脇にあらわれた扉の番号と見くらべ、さらに左右の扉の続きぐあいを確める杉尾の目つきが、おのずと陰惨なようになった。井出は頭をもとにもどして部屋の番号をまたふさぎ、哀願の色をたたえた目で、廊下のさらに奥のほうをおそるおそる示した。そして杉尾が身をやや斜めに反らしてそちらの扉の並びをひとつずつ目でたどり、あいだ八室隔ったその扉を芯の静まった、敵意に似た気持で見つめていると、背広の襟へ手を伸ばして、手の甲で撫ぜていたかと思うと細くて固い、もうひとつの鍵の柄を内懐へ滑りこませ、振向かれて問われぬ先に扉を背で押して部屋の中へ退きはじめた。

「鍵を、間違えないでね」

 遠くから愛撫を求めるような、ささやきが背後で聞えた。扉の間からこちらへ頭を差し出しているのを杉尾はちらりと見やっただけで歩きつづけた。ゆっくりとした大股の歩みのひと足ごとにまた、憎み恐れが薄れて敵に近づいていく静かさが滴って、この先の部屋でいま待っている女を、自分はそれほど憎み恐れていたのだろうか、と淡い訝りに吹かれ、わずかな道のりのあいだ、背後の部屋の女の存在を一度は完全に忘れた。

 扉の前に立って息を入れ、自分がどこからどの道を通って来たともない。ただここに立つ存在と感じられてくるのを待って三度はっきりと叩き、はてと手の中で汗にぬらつく鍵の柄を眺めやり、その手でまた内懐の固いものを上から触れて、これはあちらの部屋の鍵かといまになって意識したように、ここからはすでに黒い影となって扉の列の間からぽつんと差し出されている頭のほうへ目をやると、前の扉が内へひらき、廊下よりもまだ薄暗くした部屋の奥へノッブを握りしめて腰を引きかけた女と、逆手に握りしめた鍵の柄を胸にあてた男とがいきなりまともに顔を見合わせ、同時にすっと同じ方向へ、女はすぐ脇の白い壁へ、視線を振った。ひと息おいて遠くで黒い影がゆらりと揺れて壁に吸いこまれ、どの扉だったかも見分けがつかなくなった。》

 

「こうして自然な時間の流れ、あるいは自然な人間のつかみ方をまず、この小説は揺すっていくのです。現在の愛の結びつきは、はたして二人が知り合う以前の時間と関係のないものなのか、あるいは現在の愛情の結びつきの先へ、それとはまた違った荒涼とした時間が伸びているのではないか。仮にいつまでもひとつの結びつきを守るとしても、その前方に見知らぬ時間がひろがっていることには変りがない、と。」

 

 なおも正気の側にとどまろうと努める杉尾は分別の男だが、作者はあえて、軽い催眠状態、夢と目覚めの境目のきわどい釣合いの磁場にとどめる。白い鞄がフェティッシュな対象だと書いたが、鍵も思いもかけぬ淫らさとなる。「鍵を、間違えないでね」とささやいて、スリリングな官能の扉を開かせようとする女、徴候を触知しようと見知らぬ時間のひろがりを手探りでおずおずと歩む男、いくつか隔たった部屋の扉の向こうで待つ女がいる。萱島國子との出来事は、登場人物たちはもちろん、読者もその渦中となって、時間に共鳴する。男と女の間の微妙な距離感、空気のあり方、関係性の障害が、小説の時間構造への関心によって、断章的なパラグラフの中にさらに細かな過去時制を発生させ、波のような時制の眩暈に酔いつつも不確定なサスペンスとしての見知らぬ時間がひろがる。

 

<24章 一斉に傾いて舞いかかってくる――超現実の相があらわれる>

《「ああ、奥さんからの、言づけを忘れるところだった」

 そう言って懐から、汚くまるめられた、紙の小切れの束を取り出して、太い指でゆっくり選り分け、三枚を机越しに手渡した。

 相沢氏から電話あり、と一枚目に大きな角ばった、頑張った少年の手みたいな鉛筆の文字で書かれてあった。氏とあるが相沢なる名で思いつくのは、例の酒場の女将しかいない。二枚目にも同様の文字で、今日のうちなら、店の方へ連絡、とそれだけあり、三枚目には、困っておられて、いろいろ話しました、とあって、これは無用と言われたのか、線で消されてあった。

「これだけですか」たずねる声がややけわしくなった。二人は気弱げな笑みを並べた。

「君の来るのが遅いので、午後から来ると森沢は言っていたもので、君の自宅のほうへ、電話させてもらったんだよ。そうしたらあちらにも、なにか急な言づけがありそうな様子なので、遠慮されておられたけれど、こちらから聞き出した。病院からとは言っていない」

 面目なさそうに、いつのまにか女の手に握られた紙の束を石山は取りもどし、ひどく緩慢な手つきで皺々のを一枚ずつめくり、老眼ぎみの目で頼りなげに眺めやり、ああ、まだこんなに沢山、とうろたえた声でつぶやいて、三枚そろそろと抜き出してこちらに渡すと、残りを横から女がまたひったくった。

 片づきました、例の件、と一枚目にあった。二枚目には、すぐ上の女性でした、その上が例の部屋で、と先細りに流れ、そして三枚目にはまた大きな、心なしか一段と太く轢るような文字で、自分で身の始末をつけた、と男の口調でじわっと書きこまれ、そう伝えればわかります、と横へ稚拙にはみ出して添えられてあった。

(中略)

 唐突な説教に杉尾はおのずと深くひとつうなずいて、男女の残った物置小屋を抜け、井出伊子も一心に訴えていたような話だったなと首をかしげると、にわかにまた身の四方から青やら紫やら数を増して、風にあおられ、ちぎれかけては揺れもどり、穢(な)れた花弁をよけいにみずみずしく、ゆらゆらといっぱいにひろげながら、一斉に傾いて舞いかかってくる。その蕊(ずい)の生白い、米の飯の粘りを思わせるにおいを鼻先からわずかに払って、それでも女に逢いに行く様子の、頑なに黙りこんだ腕を左右に垂らし、落着きはらった足取りで、昏くなった渡り廊下へ降りて行った。》

 

「全体は下降としても、くりかえし、流れが逆巻いて波頭を盛り上げるのと同じに、ほとんど瞬時の運動、ひとふしの調べほどにかすかになりながら、超現実の相があらわれる、そこが見どころではないかと思います。

 また下降のはてには現実があり幻滅があり、そこでようやく出来事が、それまでの試みを裏切るかたちで、ひえびえと起る、そのような結末は、作品の末尾の外へのぞかせています。それでも作品は、時間の一方的な流れに沿って展開する質のものではない。末尾が頭へつながるかたちで、全体が、第一者のヴェロニカに則すればひとつのもどかしい、現実によっては答えられぬ求めとして、第二者のヨハネスおよび第三者の読者の目にはひとつの不可解な出来事として円環します。そして読み返すと、随所にすこしずつ異なった色調あるいは音調がある。そんな構造です。」

 

 錯乱しつづける石山は狂気の退屈さの中にいるが、自明性の喪失、自己自身との関係の障害に苦しんでいるのは、石山ではなく、國子や伊子だったのではないか。國子と伊子と杉尾は三位一体のトライアングルを成し、心的異常と回復が、音楽におけるリトルネロのように互いが互いを追いかけあう反復と変奏形式によって、ついにウロボロスのような円環をなす。折りたたまれ、ひろげられ、「すこしずつ異なった色調あるいは音調がある」観念に収斂しようとはしない襞のような陰翳が変容と反復によって翳と深みをまし、天使によって、象徴的な意味さえ帯びた朝顔が、「にわかにまた身の四方から青やら紫やら数を増して、風にあおられ、ちぎれかけては揺れもどり、穢(な)れた花弁をよけいにみずみずしく、ゆらゆらといっぱいにひろげながら、一斉に傾いて舞いかかってくる。」

 ようやく「昏くなった渡り廊下へ降りて行った」男は、「われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい」と心の底で呟く。そのとき、舞いかかってくる朝顔は、炎となって燃えあがらずに、青や紫に染めあげながら肌を濡らすだろう。

                                 (了)

          *****引用または参考文献******

古井由吉『槿』(「付録 文芸時評集:河野多惠子篠田一士、菅野昭正、高橋英夫西尾幹二、川村二郎、川西政明」)(福武書店

古井由吉『槿』(古井「著者から読者へ 朝顔に導かれて」、松浦寿輝解説「「間」を描いた「本格小説」」所収)(講談社文芸文庫

ムージル『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』古井由吉訳(岩波文庫

古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店

古井由吉『詩への小路』(書肆山田)

古井由吉『神秘の人びと』(岩波書店

古井由吉『人生の色気』(新潮社)

大江健三郎古井由吉対談集『文学の淵を渡る』(新潮社)

古井由吉『小説家の帰還 古井由吉対談集』(江藤淳吉本隆明平出隆「「楽天」を生きる」、松浦寿輝「「私」と「言語」の間で」、養老孟司大江健三郎)(講談社

リルケ『マルテの手記』望月市恵訳(岩波文庫

リルケリルケ書簡集Ⅱ』富士川英郎、高安国世訳(「ヴィトルト・フォン・フレヴィッチ宛(1925年11月13日)悲歌について」所収)(人文書院

ピエール・クロソウスキーディアーナの水浴』宮川淳豊崎光一訳(美術出版社)

柄谷行人『畏怖する人間』(「閉ざされたる熱狂――古井由吉論」所収)(講談社文芸文庫

清水徹『鏡とエロスと同時代文学論』(「生と死と性と 古井由吉」所収)(筑摩書房

斎藤環『文学の徴候』(「内因性の文学 古井由吉」所収)(文藝春秋