文学批評 「見果てぬ夢としての荷風『腕くらべ』」

       「見果てぬ夢としての『腕くらべ』」

    

f:id:akiya-takashi:20190201104017j:plain


                

 小説『腕くらべ』は、『濹東綺譚』や『断腸亭日乗』に比べて冷遇されている。荷風を読む悦びが『断腸亭日乗』、『日和下駄』といった日記、随筆により多くあることを否む気はないものの、『腕くらべ』の二十二章は、荷風文学全体を含むかのように豊潤であり、ロマンティシズム、戯作者的逃走、写実主義、風俗社会批評、漢文素養にもとづく詩精神、花柳小説といった荷風に対して見立てつくされたあれこれがそれぞれの章に割りあてられた多面体となっている。あたかも閨房で、女を見おろしながら、おのれの意識の支配下におかれた女の肉体と精神のように、小説のすみずみが永井荷風という男の手の内にある。見事なところはもちろんのこと、うまくいかなかったところもまた、荷風文学の過去・現在・未来を見せつけている。

『腕くらべ』は大正五年から七年にかけて、雑誌『文明』連載に大幅加筆して知友に配布した限定五十部の私家版ののち、主に閨房描写の削除補訂を経て流布本が発売されるという経緯を持つ。私家版の新版は戦後の昭和二十九年になってようやく刊行され、昭和三十七年の『荷風全集6』の底本となった。ここに引用するのは『荷風全集6』をもととした岩波文庫の新版である。

 花柳小説『新橋夜話(しんきようやわ)』の流れをくみ、『四畳半襖の下張』の書割り描写を髣髴とさせる一章から十一章までと、『おかめ笹』へ流れこむ十二章から二十二章までからなる。あたかも二折の月次(つきなみ)屏風のように対照的だ。人は、後半の筋の乱れをもって失敗作と咎め、また別な人は後半部こそ趣があると誉めもするが、観劇をうまく散りばめたこの小説は、日本の劇の性格、すなわち浄瑠璃にみる錯綜性と場面展開の妙、話の類型化こそがかえって存分に楽しませる、と知ったうえでの構成に違いない。通し狂言のごとく段ごとに悲喜劇ばかりか息抜きの踊りまではさみ、幕の内弁当のように趣向を変えて飽きさせず、たとえば八章「枕のとが」は戦後発表された『問はずがたり』を、十二章「小夜時雨(さよしぐれ)」は『雨瀟瀟』を連想させるといったしだいである。

 どれか一章をまるごと取りだして評を加えるとなれば、駒代が一昼夜でつぎつぎと三人の男に翻弄され、枕をともにせざるを得ずに芸者としての喜怒哀楽を骨身で味わいつくす八章「枕のとが」に食指がのびるが、ここは私家版ならではの美文のさわりからなる三章「ほたる草」を選びたい。

「ほたる草」にわけいって露に濡れる前に、一章と二章からいくつかの断片を引いて、理解の一助としよう。しかしその前に、『腕くらべ』という小説の題が作者永井荷風のこの作品に対する自負をあらわしていると思い知らねばなるまい。「はしがき」にある《おのれ志いまだ定(さだま)らざりし二十(はたち)の頃よりふと戯(たわむ)れに小説といふもの書きはじめいつか身のたつきとなして数(かぞう)ればこゝに十八年の歳月をすごしけり。あゝ十八年曽我兄弟は辛苦をなめて十八年親の敵(あだ)を打つて名を千載(せんざい)に伝へおのれはいたづらなる筆をなめて十八年世の憎しみを受け人のそしりをのみ招(まね)ぎけり。(中略)十八年がこの歳月わが拙(つたな)き文市に出る度毎に贖(あがな)ひ給ひける方々へいさゝか御礼のしるしまで新に一本をつゞりて笑覧に供せんものと思ひ立ちける》の韜晦にもかかわらず、荷風の作家としての腕前を、女と男の腕くらべにかこつけて見せつけている。

  

『一 幕あい』 

 

 幕間(まくあい)に散歩する人達で帝国劇場の廊下はどこもかしこも押合うような混雑。丁度表の階段をば下から昇ろうとする一人の芸者、上から降りて来る一人の紳士(しんし)に危(あやう)くぶつかろうとして顔を見合せお互にびっくりした調子。》

 

<散歩する人達>

 小説冒頭は「幕間」の場面からはじまるが、たまたま選ばれた時間ではない。幕間に偶然出あった男と女は、七年ばかり前に男女の一幕があったからこその新たな世話物をはじめるのだから、思い入れたっぷりな劇仕立てに違いあるまい。荷風は二十一歳のとき一年ばかり歌舞伎座作者見習いとして拍子木を打ったことがあり、幕間というものを肌で知っていた。なるほど、気をつけてみれば、『腕くらべ』の章と章との幕間のたくみな呼吸といったらない。

「押合うような混雑。」と体言止めではじめ、「お互にびっくりした調子。」と重ねる。ト書きのような簡潔さで登場人物を並べたて、「帝国劇場」の一語で都市と社会性をあらわしてしまう。

 芸者は下から昇り、紳士は――といってもこの時代の彼らの倫理性は役者や骨董屋と何ら変わらないのだけれども――上から降りて来なくてはならない。これが逆であっては、社会の階層を芸者はその腕ひとつで昇り、男は戯れに色里に降りるというわかりやすい社会階層構造を小説の冒頭の一節で象徴できない。

「危(あやう)くぶつかろうとして顔を見合せ」といったところにも、あらゆる機会をとらえようとする芸者の本能が働いていて、さり気ない一文にこそ荷風の本領があった。

  

《「あら、吉岡(よしおか)さん。」

「おや、お前は。」

「何てお久振(ひさしぶり)なんでしょう。」

「お前、芸者をしていたのか。」

「去年の暮から……また出ました。」》

 

<お久振(ひさしぶり)

 出逢いで声をかけるのは芸者駒代である。七年前の男の名前を憶えている。一方、男は女の名を自分から口にしない。いきいきした駒代の様子。男吉岡にはひとめで芸者とわかる。素人らしい丸髷ではなく潰島田(つぶし)であったのか、その垢ぬけた品ゆえか。

 ついで電鈴(ベル)、早くも拍子木(ひようしぎ)の音、合方(あいかた)の三味線(しやみせん)、立廻(たちまわり)でもあるのか付板(つけいた)を叩(たた)く響(ひびき)、せわしい幕間の時間経過が耳のよい荷風の筆力で小気味よい。

  

《中肉中丈(ちゆうぜい)、眼のぱっちりした下ぶくれの頬には相変らず深い笑靨(えくぼ)が寄り、右の糸切歯(いときりば)を見せて笑う口元には矢張何処(どこ)やら子供らしい面影が失(う)せずにいる。》

 

<面影>

 荷風好みの女の造作に違いない。ここにはすでに『濹東綺譚』(昭和十一年脱稿)のヒロインお雪の面差しがありはしないか。お雪は《年は二十四、五にはなっているであろう。なかなかいい容貌(きりよう)である。鼻筋の通った円顔は白粉焼(おしろいやけ)がしているが、結立(ゆいたて)の島田の生際(はえぎわ)もまだ抜上(ぬけあが)ってはいない。黒目がちの眼の中も曇っていず唇(くちびる)や歯ぐきの血色を見ても、その健康はまださして破壊されてもいないように思われた》のであり、《お雪は片靨(かたえくぼ)を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。少し下唇(くちびる)の出た口尻(じり)の右側に、おのずと深く穿(うが)たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、その夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。》

 このように荷風は口唇的なもの、しかも歯ぐきにまでも、おそらくは性愛の道具を匂わせて筆が及び、永遠女性の特徴をしるしておきながら、着物と髪型については出の効果を狙ってまだ触れないという熟達。

  

『二 逸品』 

 

襖(ふすま)を明けたのは駒代である。

 髪はつぶしに結(ゆ)い銀棟(ぎんむね)すかし彫(ぼり)の櫛(くし)に翡翠(ひすい)の簪(かんざし)。唐桟柄(とうざんがら)のお召(めし)の単衣(ひとえ)。好みは意気なれどそのため少しふけて見えると気遣(きづか)ってか、半襟(はんえり)はわざとらしく繍(ぬい)の多きをかけ、帯は古代の加賀友禅(かがゆうぜん)に黒繻子(くろじゅす)の腹合(はらあわせ)、ごくあらい絞(しぼり)の浅葱縮緬(あさぎちりめん)の帯揚(おびあげ)をしめ、帯留(おびどめ)は大粒な真珠に紐(ひも)は青磁色(せいじいろ)の濃いのをしめている。》

 

半襟(はんえり)はわざとらしく繍(ぬい)の多きをかけ

 女は商品である。その価値は欲望を満足させるフェティッシュな価値に他ならない、というのがこの小説のひとつの本質だ。

 帝国劇場の階段からここまで、女の髪と着物について言及しなかったのは、ひとえにこの出を派手やかに書きたかったからだろう。女という「こしらえ」商品の衣裳と小物の色鮮やかさは、客への並べ立てであり、あたかも呉服屋の番頭が客の前で反物を座敷一杯に延べ、帯とあわせてみせるようだ。半襟(はんえり)、帯揚帯留に注意を向けるさまは、男性作家らしからぬ観察眼だが――豊かな語彙は、紅葉の血筋を引く作家なら、荷風しかり、鏡花しかり、文筆家修行のうちに身についた――、のちにしめる(・・・)ことの反対のとく(・・)ことのために機能する。

 

 《現在駒代の身の上はまるで抱(かか)えか見世借(みせが)りか又は遊び半分の勤めか、その辺の事情で、口に出して野暮らしく聞く必要はない。衣服(きもの)の着こなし座敷の様子万事を綜合(そうごう)して日頃芸者を見馴れたものの眼力で一見して推察してしまおうと思っている。》

 

<眼力>

 腕くらべはもうはじまっている。腕のみせどころ、それは眼力からであり、作者荷風の分身として吉岡は元手をかけている。

 

 《「外(ほか)の芸者はどうしたろう。もう来ないのかな。」

「まだ十一時前ですが。」と時計を出して見たが、江田は丁度その時電話だという知らせに席を立つ駒代の後姿を見送って、声をひそめ、

「なかなかいいですな。逸品(いっぴん)ですぜ。」

「ははははは。」

「誰も来ない方がいいでしょう。ところで僕もこの辺のところで消えてしまいましょう。」

「なに、それにや及ばんよ。何も今夜にかぎった事じゃない。」

乗掛(のりかか)った舟でさ。当人だってもうその気でしょう。恥をかかせるのは罪です。」江田は自分の前にあった杯を二ツとも一度に片付け、遠慮なしに吉岡の煙草入(たばこいれ)から葉巻を一本取出しマッチをすりながら立掛(たちか)けた。」》

 

<恥をかかせるのは罪>

 吉岡が切廻している会社の株式係の一人、江田の近代日本の一面を象徴する幇間(おたいこ)めいた下卑た生態を、二ツの杯と葉巻一本という小道具でそれとなく見せつける巧さ。

 第二章はこれで幕を引き、場面を移して本題の三章に入る。

 

 『三 ほたる草』

 

箱屋(はこや)から掛った電話の返事をして駒代はそのまま座敷へ行こうとするのを帳場にいたおかみ、

「あ、ちょいと、駒ちゃん。」

 すると駒代は甘ったれた声をしながらも、素早(すばや)く先(せん)を越したつもりで、

「おかみさん、頂いてもいいでしょうか。」

「ああ、伺ってご覧よ。」とおかみも馴れたもので煙草を一服しながら万事もう咄(はなし)はついているといった調子、「いつだってお泊りになる事はないんだから……。」》

 

<ちょいと>

 ほたる草とはつゆ草のこと。季節は夏。露を宿らし、水の流れを背にしたほたる草は濡れ場にふさわしい。 要(かなめ)としての「電話」をうまく使って浄瑠璃のヲクリのように場面展開してゆく。

 箱屋からの電話に駒代がどんな返事をしたかは省略しておいて、しかしこの返事が書かれていないことでいっそう駒代とおかみの会話が謎をふくみ、微妙にずれつつ、心に残る。

 三章は主として駒代の視線で語られるのだが、ときに作者が男の眼で割りこむ。

「ちょいと」という声はこのあとも頻出し、いかに「ちょいと」で芸者生活がまわっているかわかる。

「甘ったれた声をしながらも、素早(すばや)く先(せん)を越したつもりで」にみる芸者の頭の回転の早さと身についた媚の先天性。

「頂いてもいいでしょうか」の意味は、ある註釈によれば、お座敷を下って他の座敷に廻ってもよいか、箱屋からの電話は別の座敷からの引きあいである、とされているけれど、それにしては「万事もう咄はついている」とか、はたまた「いつだってお泊りになる事はないんだから……」ともあり、枕席に付随した男女の深い仲と金銭事をちらつかす花柳界の隠語であろうか、などと思いめぐらすまもなく、駒代の内省に移ってしまう。

 おかみの煙草によるゆったりとした間(ま)が、逸る男女の気持ちを引き立たせる。当人たちにとっては大事でも、おかみにとってはありふれて手慣れたものなのだ。

  

《駒代は早速返事につまってしまった。勿論以前に出ていた吉岡さんの事だから、今更別に否応(いやおう)いうべき処ではない。吉岡さんなら全く結構なのである。然し久振(ひさしぶ)りで呼ばれて直ぐその晩にそうなってしまっては、お茶屋の手前何となく昔の丸抱(まるがかえ)の子供時分と同じように安っぽく思われやしないかと、唯(ただ)その事が気にかかったのだ。駒代は実のところ吉岡さんの方にその心持があるのかどうかという事もまだ考えてはいなかったのである。何しろ久振偶然芝居で出逢ったその帰りの事、もし吉岡さんの方にその気があって呼んでくれたのなら、何も初めての女ではなし、待合のおかみさんなどにそういわずとも、直接(じか)にちょいと目(め)まぜか何かで知らせてさえくれれば、どんなに私の顔がよくなるか知れやしないのに……と少しむっとした気にもなった。》

 

<その>

「今更別に否応(いやおう)いうべき処ではない」、「全く結構なのである」、「その晩にそうなってしまっては」といった、中心のない、すきまだらけの省略の美学。「その心持」、「その気」、「そういわずとも」の遠まわしな表現は駒代の打算を通過した観念であるが、ここでは「駒代は実のところ吉岡さんの方にその心持があるのかどうかという事もまだ考えてはいなかったのである」に、腕くらべのはじまりは男の側からの呼び水であったと強調される。

「安っぽく思われやしないか」、「どんなに私の顔がよくなるか知れやしないのに」に如実なごとく、駒代はブランド価値をおとしめまいと意識し、そこにこそ粋がなりたつ。

 このあとも駒代は箱屋と連絡をとろうとせず、電話への返事は気がかりのまま残る。

  

《「それじゃ、おかみさん、時間にはいただかして頂戴よ。」

いい捨ててそのまま駒代は二階のお座敷へ立戻(たちもど)ると、電気燈が杯盤狼藉(はいばんろうぜき)たる紫檀(したん)の食台(ちゃぶだい)の上に輝いているばかりで吉岡さんも江田さんも誰の姿も見えない。厠(はばかり)へでもお立ちなのであろうと気はついたけれど、何だか自分ながら訳も分らず妙に捨気味(すてぎみ)な自暴(やけ)なような気になって、打捨(うっちゃ)って置けというように、そのまま燈火(あかり)の下に坐ってしまった。》

 

<時間>

「それじゃ」に集約されているのだろうか。いつだって泊まることのない吉岡だから、短く枕を交したら、「時間にはいただかして頂戴よ」というわけで、あながちさきの「頂いてもいいでしょうか」を、座敷を下るとした註釈は間違っていないことになるが、まだよくわからない。

「時間には」という語が大事であって、この小説はずっと時間の意識が働いており、そこに演劇性が認められる。

 このあたりからは駒代の心象風景が写実の筆で叙情の影をおとす。座敷へ戻った駒代が見るものは電気燈が照らす杯盤狼籍とした紫檀の食台だが――食に興味の薄い荷風は料理について書かない――、のちの自分の裸にされた姿を予告し、燈火の下に導かれる。

  

《すると普段の手癖(てくせ)になっているのですぐ帯の間の化粧鏡を取出し鬢(びん)を撫(な)でて白粉紙(おしろいがみ)で顔を拭(ふ)きながら、ぼんやり鏡の面(おもて)を見ている中(うち)、駒代はどういう訳ともなく日頃絶えず胸の底に往来(おうらい)しているいつもの屈托(くつたく)に暮れてしまった。

 色恋(いろこい)の浮いた苦労ではない。深く煎(せん)じ詰めて行ったらあるいは屈托のもとになっているかも知れないが、とにかく駒代自身で自分の苦労はそんな浮いたものじゃないと堅く信じている。駒代の思(おもい)に暮れるのはこの身の行末(ゆくすえ)という事である。今年二十六といえばこれから先は年々に老(ふ)けて行くばかり、今の中にどうとか先の目的(めあて)をつけなければと、唯訳もない心細さと、じれったさである。》

 

<浮いたものじゃない>

 沈む。身を締めつける帯という境界から、化粧鏡という思いだすための小道具を取りださせ、鬢を撫でて白粉紙で顔を拭く「手癖(てくせ)」で「屈托(くつたく)」へと、「捨気味(すてぎみ)な自暴(やけ)なような」職業の業を染みいらせ沈潜させた。

 荷風は駒代を、それこそ将棋の駒のようにおのれの手練れによってせわしく動かしつづけるのだが、ひとたび坐りこませてしまうと、空間軸と時間軸が入れかわって、荷風文学の魅力である暮れ方にひたる。荷風の女は、動の時は俗まみれではつらつとしているのに、静となると未来ではなく、近代のロマネスクな憂鬱を背負って過去へと澱む。

「浮いた」という語を駒代は嫌う。どんなに浮いた女も、自分は違うと「堅く信じている」のが常であろう。『腕くらべ』を駒代が男から自立してゆく物語と読む人もいるが、そのおめでたさは荷風の精神の対極に位置するに違いない。過去を思えばひるがえって未来が浮かぶが、それが「行末」というような言葉にたどりついてしまう芸者の身である。

  

《十四の時から仕込まれ十六でお酌のお弘(ひろ)めそれから十九の暮に引かされて二十二の時に旦那(だんな)の郷里なる秋田へ連れて行かれ、三年目に死別(しにわか)れた。その日まで駒代は全く世の中も知らず人の心も知らず自分の身の始末さえ深く考えた事はなかった。》

 

<世の中も知らず人の心も知らず>

 典型。十四、十六、十九、二十二、そして今二十六と、ほぼ三年ごとに転機を迎え、引かされた旦那と死別するといった花柳界の女の経歴の型、貴種流離譚ならぬ賤女流離譚は安心して物語を読ませるためのセオリーであった。それにしても、この時代に限らず、昔の女も男も早熟で――というより、戦後こそが引き延ばしの異常さで、現代の性の早熟うんぬんなどは肉体だけの先祖がえりにすぎない――短い寿命を二倍三倍濃縮されて生きた。

 荷風は町育ちゆえ、女がたとえ田舎育ちに設定されたとしても、あるいは田舎に住んだとしても、描写のために地方などあえて取材することなく、町の臭いだけで浮き沈みさせた。荷風文学に地方風景は『断腸亭日乗』の、どこか南仏地中海めいた岡山疎開経験以外はほとんど出て来ず、たとえそれらしく出て来たとしてもお座なりという頑固さである。

 

 《旦那の死んだ後(のち)も秋田の家にいようと思えばいられない事はなかったかも知れない。しかしそうするには尼(あま)になっているよりもなお一倍身をないものとあきらめてしまわなければならない。田舎の金持の一家親族どこを見ても自分とはまるっきり異(ちが)った人の中に唯一人取残されて、これから先(さき)一生を終えようという事はとても町育(まちそだち)の女の忍び得られる処でない。いっそ死のうかと思った末はもう慾(よく)も徳もなく東京へ逃帰(にげかえ)って来た。帰っては来たものの駒代は上野の停車場へつくと共に早速身の落付(おちつ)け処に困ってしまった。上野の停車場なので最初抱えられて行った新橋の芸者家(げいしゃや)より外にはこの広い東京中にさしづめ尋ねべき家は一軒もない。駒代はこの時生れて始めて女の身一ツの哀れさ悲しさを身にしみじみ知りそめたと共に、これから先その身の一生は死ぬなり生きるなり何方(どっち)になりとその身一人でどうにともして行かなければならないのだという事を深く深く感じたのであった。》

 

<身>

 ステレオ・タイプな新派風場面の連続で、「いっそ死のうかと思った末は」、「上野の停車場」、「この広い東京中に」が、口あたりよく時代がかった「しみじみ」、「深く深く」の言い回しとともにあらわれているけれども、文が低徊しないのは筆力であろう。

「身」というものに女がどれほど翻弄されてしまうか、くどいほど説明したがる荷風であって、「身をないものと」、「身の落付け処」、「女の身一ツ」、「身にしみじみ」、「その身の一生」、「その身一人で」と文体をよくも損なわないほどに多用した。荷風小説のヒロインは徒党を組まず、もたれず、身一つで生き抜くのであり、荷風自身の投影もあったうえに、肉体と精神がひとつになった「身」という言葉で持ち重りのする女こそが、扱いやすかったともいえよう。

 

 《以前養女に抱えられていた家へ行けば当分の宿は勿論これから先の事も何とか世話がしてもらわれるであろう。駒代はそう思うと同時に訳もない女の意地で、七年前には立派に引いて出たその家へ今この途法(とほう)に暮れ果てた身のさまを見せるのはいかにも辛(つら)い。死んでもあすこへは行きたくない……駒代は既に新橋へ向う電車に乗りながら唯ただ思案にくれてしまったその横合(よこあい)から、突然女の声で、しかも駒三といった昔の名を呼びかけたものがある。びっくりしてその方を見るとその時分秋田の旦那が行きつけた待合の女中お竜という女である。聞けば幾年間辛抱のかいあって、つい去年の暮から南地(なんち)へ新しい店を出したというので、駒代は無理やりにすすめられるのを幸い一先(ひとまず)お竜の家(うち)へ身をおちつけ、やがて今の家――尾花家(おばなや)の十吉という老妓(ろうぎ)の家からワケで出ることになったのであった。》

 

<女の意地>

「立派に引いて出た」という「女の意地」から芸者の上りはなりたっている。だから駒代は吉岡に引かれたのちに三度目としてまた芸者に戻ることを怖れる心理の伏線が張られている。

 無意識に新橋へ向かう電車に乗る駒代だが、本当に無意識なのだろうか。荷風は偶然の出会いから筋を動かす慣用的な手法を気軽にもちいるのだが、まわりくどくならずに物語の中へ読者をつき動かす劇的テンポを付与し、人生とはけっこうそんなものだと、ロマンティストであるけれども事大主義ではない、冷徹な現実主義者の荷風は知っていた。

  

《突然耳元近く、若い芸者の声で、「あら、いやよゥ――あなた――よして頂戴よゥ。」それと共に、あはははははと二、三人で笑う皺枯(しわが)れたお客の声。駒代はびっくりして四辺(あたり)を見廻した。

「あら、また、あなた――助兵衛(すけべえ)ねぇ――ほんとうに――。」

再びお客の笑う声につれて女も共に他愛なく笑う。それは三坪(みつぼ)ばかりの小庭を間に丁度向合(むかいあわせ)になった隣の待合(まちあい)の二階から聞えるのであった。》

 

<声>

 この部分は流布本にはないが、他の削除部分に比べ、この程度の描写を削除する理由は乏しいから、むしろ私家版で追加されたと考えるのが素直かもしれない。

 二度にわたる芸者の声がなくても意味はつながるし、追憶から現実に引き戻す効果は一節あとの女中の声が役を果たしはするのだが、音が映像を呼んで効いている。具体的説明のなきまま、「いやよゥ」、「よして頂戴よゥ」、と聴きとる確かな耳で生態を描ききる荷風の、伊達に授業料をつぎこんでいない腕前。

 隣の待合の二階から聞えてくることで、閉じた座敷が拡がって、上下の空間に開かれる。上から降りてきた男、上からの電燈の光、上からの客の声。隣の待合の二階から、といった芝居割を荷風は『夏すがた』でも使っている。

 

 《駒代は突然何という訳もなく、ああ芸者はいやだ、芸者になれば何をされても仕様がない……そう思うと私見たようなものでも一時は大家(たいけ)の奥様と大勢の奉公人から敬われた事もあったのにと覚えず涙ぐまれるような心持になる……

 丁度その時急(いそが)しそうに廊下を走って来た女中が、「あら、駒代さん、ここにいたの。」と座敷の杯盤(はいばん)を取片付(とりかたづ)けながら、「あちら、あの離れのお座敷ですよ。」

「そう。」といったが、駒代は俄(にわか)に胸がはずんで顔がほてって来るような気がした。然し静に立上り褄(つま)を取って二階の梯子を下りかける時には駒代は早くもまるで違った心持になっていた。今までの滅入(めい)った気は忽(たちま)ち消えてしまって、一度商売に出たからには愚図愚図(ぐずぐず)してはいられない。》

 

<涙ぐまれる>

 涙ぐみやすい駒代は、芸者はいやだ、と思うこともあるものの、あとで詳しく読んでゆくが、六章「ゆいわた」では歌舞伎役者を色にして押しも押されもせぬ芸者の身の上の深い味に感じいりもする。

 江田もしくは吉岡から、おかみ、そして女中へと話がとおっていて、こんなことは何のためらいもない花柳界の日常沙汰と知る。

女中は走って来なければならず、取片付けながらそれとなく仕切らなければ様にならない。伝染するように駒代は胸がはずみ、熱をおびてくる。『腕くらべ』は女の体温が一つのテーマとなっている。

 褄をとればたちまち違った心持になるのが、芸者というものだ。

  

《早くお客を見付けていい芽をふかせなければというような商売気(しょうばいげ)一方の考(かんがえ)になって、折曲(おれまが)った縁側づたい、その端(はず)れなる杉戸を明けると、真暗な板敷の水屋(みずや)、それから三畳敷(さんじょうじき)ばかりの次の間(ま)があって、境の襖(ふすま)は一ぱいに明けてあるが既に立廻(たてまわ)した二枚折の屏風(びょうぶ)が奥の間の様子を遮(さえぎ)っていた。惜気もなく穴をあけた網代の天井から電気燈がぶら下がっていて、立昇る葉巻の烟を照らすのが屏風の上から見えるばかりであった。

駒代は丸抱(まるがかえ)で稼がせられた七年前の月日が急に逆戻りして来たような気になった。今度弘(ひろ)めをしてからもうかれこれ半年近くなるが、駒代はそれとなく身体(からだ)に貫目(かんめ)をつけて大きな鳥を得ようがため、あっちこっちの待合で何か言われても皆体(てい)よく逃げていたので、実の処今夜という今夜までまだ一度も屏風を立廻したお座敷をつとめた事はなかったのである。》

 

<見取り図>

「折曲(おれまが)った縁側」、「端(はず)れなる杉戸」、「板敷の水屋(みずや)」、「次の間(ま)」、「網代の天井」とあるようにここは場末ではなく新橋であり、見取り図を書くのは荷風の得意とするところだった。

 またしても「電気燈」。「ぶら下っていて、立昇る葉巻の烟を照らす」の垂直感覚。「二枚折の屏風」が、これからの隠微な春情をしらせる。

少なくとも半年近くは男を断っていた駒代。たとえそれが「浮いた」女と思われずに「身体に貫目をつけて」大きな鳥を得るためという打算であったとしても、のちに登場する菊千代の淫蕩さ、だらしなさとは対照的で、愛しむべきある種の潔癖さを持っている。荷風は菊千代の肉体を弄ぶ悦楽は悦楽として、彼なりの永遠の女性像として駒代の姿を描いたともいえよう。

「丸抱(まるがかえ)で稼がせられた七年前」、「今夜弘(ひろ)めをしてからもうかれこれ半年近くなる」といったぐあいに、女は身体で時間を記憶している。

 

 《駒代は屏風の影なる次の間から、「あなた」とか何とか声をかけようかとも思ったが、いい後(おく)れてしまうとそのまま黙って這入(はい)って行くのもバツが悪るいように思われ、どうしたものかと、その場に立ちすくむ折から、好塩梅(よいあんばい)に屏風の中からは次の間に人の来た気配(けはい)を知って、「おい、お蝶か。」

 女中の名を呼んだのをこなたは機会(しお)に、

「何か御用……。」と屏風を片寄せながら坐った。

吉岡はもう浴衣(ゆかた)に着換えて夜具の上に胡坐(あぐら)をかき口に葉巻を啣(くわ)えていたが振返って、

「うむ。お前か……。」とにったり笑う。》

 

<どうしたものか>

 ニュアンス。駒代の性格が「いい後れてしまう」や「バツが悪るい」や「立ちすくむ」にあらわれている。

 一方、吉岡の性格は「胡坐をかき」や「「葉巻を啣え」や「にったり笑う」にあきらかなうえ、「うむ。お前か」のひきよせる呼吸と呼称は効果的だ。

 短い言葉のやりとりながら、すでにもう女と男の腕くらべは、微妙な間のとりかた、先手後手ではじまっている。「どうしたものか」、「好塩梅(よいあんばい)」、「気配(けはい)」、「こなたは機会(しお)に」といった、時間、空間のニュアンスを愉しむ都会性のうえに成り立っている。

  

《駒代は再び胸がはずんで顔が熱くなるような心持、だまって枕元に坐ったなり自然伏目(ふしめ)になる。

「どうした。久振だな。」と吉岡は軽く駒代の肩に手を置いた。駒代はその場の気まり悪るさを胡魔(ごま)かすためか、袂(たもと)に入れた巻煙草入(まきたばこいれ)の小袋をさぐりながら、

「何だか変ねえ、あんまり遠(と)うどうしくなるとつい妙になっちまうわねぇ。」

吉岡はじっと女の襟元から横顔を眺め入って、声もおのづと優しく、

「駒代、お前今夜ゆっくりして行くか。」》

 

遠(と)うどうしくなる

 距離感。「胸がはずんで顔が熱くなる」女の性。「自然伏目」になった女こそ可愛く、遊びなれているはずが思いのままにしてみたいと思いこむ男の性。このあたり絶妙なかけひき、とも読みとれる。

 伏目のけなげな女心をときほぐそうと、わざと浮いた調子で「軽く駒代の肩に手を置いた」吉岡の触れあいの距離感は百戦錬磨ゆえに自然である。「気まり悪るさを胡魔かす」駒代の「つい妙になっちまうわねぇ」を口にだすあざとさ。 

 襟元から横顔への微妙な線は女の美しさそのものであり、眺め入るうちに吉岡とておぼれてゆき、「いつだってお泊りになることはないんだから……。」だったはずの習慣を破ってまで誠意をみせつけることとなる。

 

《駒代は別に何とも返事はしなかったが、煙草入への袋の紐(ひも)の結ばったのを解くためそれを口にくわえたなり半ば顔を此方に男の顔を見上げて唯にっこり、

「お宅の方(ほう)はお構いなさらないの。」

家(うち)はかまわん。しかしもう書生の時見たように乱暴なまねも出来ないな。やっぱりあの時分は面白かったな。」と今度は手を握った。

「ほんとねえ。随分方々遊び歩きましたわね……どうでしょう今あんなに幾日も遊んで歩いたら。」と駒代は始めて巻莨(まきたばこ)に火をつけ、ちょっとまた男の顔を見て、「お宅の奥様に恨まれるわねえ、きっと。」

「女房か。女房はもう乃公(おれ)の道楽にゃ呆返(あきれかえ)っているから、何ともいやせんよ。」》

 

<ちょっとまた男の顔を見て>

 女は解くことの手始めとしてまず袋の紐を解く。紐を口にくわえたなり男の顔を見上げる艶っぽさを戯作者荷風は、省略からなる巧みな会話文のうちに浮世絵風に切りとる。

 家のことを聞かれて動揺するまでもなく、肩に手を置くことから次には手を握ることへ進む吉岡。会話と身体表現の駆け引き。荷風小説において家庭婦人は添え物にすぎず、男にとって障害とはならないように、主体性なく飾っておくべきモノだった。

 駒代はいくたび男の顔を見上げ、あるいは見入ることだろう。「巻莨(まきたばこ)に火をつけ、ちょっとまた男の顔を見て」コケティッシュに嫌(いや)みと探りの言葉を投げかける手管の凄み。のちの性愛での、見入ることができずに目を閉じてしまう女の生態へのまたしても伏線であろう。

 

 《「それじゃ、方々の芸者衆……。」と駒代はもう気まりのわるい処を通り越したのか、すこし横坐りに半身(はんみ)を夜具の方へ載せ掛けて、「何かいわれたっていいわ。言われたら私の方からあべこべにそういってやるから、ねえ。あなた。」

「何がさ。……」

「私とあなたとは外(ほか)の芸者衆より私の方がずっと古いお馴染(なじみ)なんですもの。ねえ。」

「十年越しか。ははははは。」》

 

<気まりのわるい処を通り越した>

「お前」、「あなた」のあいだがら。気まりわるい処を通り越せば女の度胸は男よりすわる。一線を越えた駒代はバロック風に「すこし横坐りに半身を夜具の方へ載せ掛けて」誘いつつ拒み、「お宅」や「外の芸者衆」の目と口に言及しながら、いなしつつなびく。女の「何かいわれたっていいわ」と男の「何がさ」の交わらないふりをした絡み。

 

 《「今夜はなんだか私頭がいたいわ。芝囲の中で蒸されたせいかしら……。」と駒代は言いながらやがて帯揚(おびあげ)の結んだ端(はし)を帯の間から引出して解きかけたが急に、「おお、痛い。」

「どうしたんだ。」

「ほどけないのよ。あんまりきゅッと結んだもんだから。おお痛い……指の先が真赤(まっか)になったわ。」とその手を男に見せながら、「わたし、それァきゅっとしたのが好きなのよ。息がつけない位きゅっと〆めないと嫌(いや)な心持なの。」

 駒代は頤(あご)を咽喉(のど)へ押付(おしつ)けるようにしてしきりに帯揚の結目(むすびめ)を解こうとしたが、なかなか解けないらしい。》

 

<きゅっと〆めないと嫌(いや)

 頭が痛いと弱さを訴え、身体を蒸し料理のように差しだして給仕する女の戦術。身を〆めるものをひとつひとつ自分から解いてゆく、そのとっかかりとしての帯揚。真赤になった指先をみずから男に見せるのもまた、見せることの事はじめ。「きゅっとしたのが好きなのよ」で男はすでに淫らさへと心が傾き、「息がつけない位きゅっと〆めないと嫌(いや)な心持なの」と聞いて駒代を〆めてみたいと男は思いはじめている。

「頤(あご)を咽喉(のど)へ押付(おしつ)けるようにして」などと観察するのは、いかにも駒代の視線から書き進めてきて、ひょいと男の好色がはみでてしまっている。ストイックな駒代を好ましく思っている男の、襟元、咽喉、頤、口元に集中しがちな視線が、たしかにそこにある。

 

《「どうしたんだ。お見せ。」と吉岡は夜具からいざり出した。

「随分きゅっと堅いでしょう。」と駒代は結目を男にまかして帯の間に入れた紙入(かみいれ)、手帳、懐中鏡(かいちゅうかがみ)、楊枝入(ようじいれ)なぞさまざまなものを抜出した。

「成程堅い。毒だぜお前。」

「やっと解けたわ。すみません。」

 駒代は大きく肩で息をした後(のち)つと立上る。足元にぱたりと帯留(おびどめ)の落ちたのもその儘(まま)壁の方によって後向(うしろむき)になり帯の結目に手をかけた。》

 

<帯の結目>

「夜具からいざり出した」の表現で、吉岡はもう立上ろうとしていないと教える。「結目を男にまかして」駒代もうぶではない。

 女の帯の間というのはやはり外界と肉との境界という以上に、現実と想像が象徴的に交錯するところなのであろう、閨房でのあとしまつにも役立つに違いない紙入、逸品としてのおのが外見を確かめる懐中鏡、唇という周縁部を開いて突き立てもする楊枝などが隠されている。

「毒」という言葉が多くの意味を静かに残す。大きく息をしてから「つと立上る」女の見せ場。今にも女を横たえたいのに、じらすように立ち上り、下から男に見上げさせておいて、なおかつ後ろ向きになって帯の結び目に手をかけるストリップティーズの見返り様式美。

 大正から昭和にかけて帯留が流行したことを教えるのだが、その帯留が足元にぱたりと「落ちた」ことを象徴に、駒代も吉岡の腕の中に椿の花のように仮死となって落ちてゆくのだが、のちに二十一章「とりこみ」では、歌舞伎役者瀬川(せがわ)一糸(いっし)にちなんだ糸車の帯留が壊れて不吉に落ち、真珠の帯留にしめ替えられる。

 

 《男は烟草(たばこ)を吸いながら駒代の腰から胴中(どうなか)をくびれるほどにした長い長い緋羽二重(ひはぶたえ)のしごきの一巻(ひとまき)一巻に解きほどかれて敷いた着物の裾(すそ)の上に渦巻(うずま)くのをじっと眺めていたが、七年前まだ二十(はたち)になるかならずの時にもこういう場合には割合に年増(としま)らしくませた取(とり)なしに馴(な)れていた駒代、相応に苦労もして今は正に二十五、六、女の中での女になりきった身は定めしまた一倍、昔にくらべてどんな様子かと思うと、遊馴(あそびな)れただけに吉岡は始めて逢(あ)う女よりも一層激しい好奇心にわれとわが胸の轟(とどろ)くのを覚え、長いしごきの解けきるのが待ち遠しい程に思われた。》

 

<解けきるのが待ち遠しい>

 読点の少ない文体はここにきて主体を駒代から吉岡に移し、男の舐めるような視線が渦を巻く。視る人荷風の色彩感覚は全体としてはうす墨色なのだが、女の衣裳に限っては色の組み合わせまで書きこまずにはいられない。「腰から胴中をくびれるほどにした長い長い緋(ひ)羽二重(はぶたえ)のしごきの一巻(ひとまき)一巻に解きほどかれて」からはじまる荷風の、助詞を口あたりよく除いた息の長い美文は女の身体に巻きついて、男の欲望を引きのばし待ち遠しくさせ、かたや女の手管を目からも耳からも表現しつつ、女体の噎せた匂いと体温で火照った情痴を品落ちることなく書かせたら、まず右に出るものはいない。

 

 《駒代はやがてしごきを解きおわってくるりとこちらへ向直(むきなお)ると裾の重みでお召(めし)の単衣(ひとえ)はおのずとやさしい肩先からすべり落ちてぱっと電燈を受けた長襦袢(ながじゅばん)一枚、夏物なれば白ちりめんの地を残して一面に蛍草(ほたるぐさ)に水の流れ、花は藍染(あいぞめ)、葉は若緑に浅葱(あさぎ)で露の玉を見事に絞(しぼ)り抜いたは、この土地なれば定めしゑり円(えん)が自慢の品滅法(めっぽう)に高そうなものといつもならば気障(きざ)の一つも言える処、今は早やそんな余裕もない吉岡は、手も届かば矢庭に引寄せようとむやみにあせり立つ。》

 

<電燈を受けた長襦袢(ながじゅばん)一枚

くるりとこちらへ向直(むきなお)る」とは芸の見せどころであって、裾の重みで肩先から着物をすべり落とすたくみさは、いざとなれば女はこれほどにヒロインとなってみごと演じきってみせる。

「ぱっと電燈を受けた」とまたしても電燈が示され、口あたりのよい流れる文体で長襦袢の白ちりめんの地から蛍草(ほたるぐさ)、藍染(あいぞめ)、若緑、浅葱(あさぎ)、露の玉、絞り、と普通の男性作家にはあるまじき視覚と触覚で読み手の胸を高鳴らせ、しかし、この土地(新橋、銀座あたり)ならば「ゑり円」と具体化する。「長襦袢一枚」とわざわざ「一枚」の存在感を強調する効果。

 ここにいたっても掌中にしたはずの女を長襦袢と同列の商品として値踏みせずにはいられない吉岡はもしかしたら不幸なのかもしれず、その冷徹さは荷風自身の不幸でもあったろう。

 流布本では「手も届かば」以降が削除され、かわって「葉巻の灰の落ちるのも知らずに、女の姿を眺めていた。」で章を閉じるが、もちろん吉岡は我を忘れて眺めいるというより、離れて見たいという視覚欲望と、近づいて手に触れたいという触覚欲望との葛藤で、「むやみにあせり立つ」というところまで、すでに駒代に操られてしまっている。

 

《それとも心付かぬか、駒代はぬぎ捨てた着物立ったなりに踵(かかと)で静に後(うしろ)へ押遣(おしや)る傍(かたわら)、今まで気づかずにいた女物らしい浴衣の寝衣(ねまき)。それと見ればやはり女気のあたら大事な長襦袢を汗にするでもないと慾を出し、

「ああ浴衣があったわ。」とひとり言(ごと)。吉岡はまたもや身支度に手間どれてはと少しやけな調子で、

「いいじゃないか。」といったが、駒代は博多の伊達巻(だてまき)の端(はし)既にとけかかったのをそのまま手早く解きすてると共にこちらに向いたなりで肌襦袢重ねたままに蛍草の長襦袢ぱっと後へぬぎすてたので、明(あかる)い電燈をまともに受けた裸身(はだかみ)雪を欺くばかり。吉岡は我を忘れて、駒代が浴衣を取ろうと折りかがんで伸(のば)す手をいきなり摑(つか)んでぐっと引寄せた。》

 

裸身(はだかみ)雪を欺くばかり

 欺く。「ぬぎ捨てた着物立ったなりに踵(かかと)で静に後(うしろ)へ押遣(おしや)る」とは、上体を見られていることを意識した所作に違いないが、荷風はこの世界の女の気持ちの動きが年増女のようにわかっていて、こんなときでも女は欲得の勘定を忘れない。荷風の意地悪さはこんなところにも如実で、女を性的道具として物語る冷徹さよりもむしろ、本音をみせつけてしまう孤独ないやらしさは、荷風嫌いの理由ともなろう。

 このあたり、吉岡/駒代/吉岡/駒代/吉岡と、此方、彼方に視線はめまぐるしく入れかわり、演出の見せ場としての、「こちらに向いたなりで肌襦袢重ねたままに蛍草の長襦袢ぱっと後へぬぎすてたので」という駒代の拒みつつ誘うふるまいを、吉岡は男の強引さでたち切ってしまう、ある種の型で魅了する。

 電燈という人工の光が「雪を欺く」女の肌を照明するのは、『四畳半襖の下張り』と同じ構図だ。

「吉岡は我を忘れて」とあるように、女の方がまだ客観を忘れていない。

 

《不意に引かれて女は、

「あらあなた。」と思わずよろめき、むっちりと堅肥(かたぶと)りの肌身横ざまに倒しかけるをこなたは丁度よく腕の間に受け留めたなり抱きすくめ、少しもがくのを耳に口よせて、

「駒代、七年ぶりだな。」

「あなた、これっきりじゃひどくってよ。後生ですから。」と女はもう駄目と思ってか蔽(おお)うものもない裸身の耻(はずか)しさに早や目をつぶった。》

 

<耳に口よせて>

「思わずよろめき」、「少しもがく」の嬌態は男の腕の間に陥ちたかにみせる術であろうか。女は動き、男は受けとめるという図式。「むっちりと堅肥(かたぶと)りの肌身」は荷風好みである。

「七年ぶりだな」と、耳に口よせて熟達の男が過去を口にしつつ現在の打算に興じるそのとき、女は「これっきりじゃひどくってよ」と、未来を不安のうちに計算している。愛らしい女に目をつぶらせて作家の筆はいまや思いのままだ。

  

《それなり二人は言葉を絶した。男の顔は強い酒でも呑んだように一際(ひときわ)赤く腕や頸(くび)の青筋が次第に高く現れて来る。女はもう死んだよう、男の腕に頸(うなじ)を支えさせた顔殆(ほと)んど倒(さかさ)にして銀杏返(いちょうがえし)の輪もぶらぶらとするばかり。乳房あらわなる胸の動悸(どうき)のみ次第に高く烈(はげ)しくさせると、それにつれて結んだ唇はおのずと柔(やわらか)に打開けて綺麗な歯の間からほの見せた舌の先何ともいえぬほど愛らしい。》

 

<言葉を絶した>

「それなり二人は言葉を絶した」とはじめる。息づかいに没入してゆく。「吉岡」「駒代」という固有名詞から「男」「女」に転調することで作家は、男女を読者の頭の中の誰かれに変質させた。

 珍しいことに男の肉体に赤や青を見る。興奮が血液によって表層に色をつけ生へと膨張するのに対して、「女はもう死んだよう」と小さな死を、「銀杏返(いちょうがえし)の輪もぶらぶらとするばかり」の小道具の象徴で歌麿の浮世絵のように形式美をもってアクロバティックな肢体さえほのめかす。

 男の「頸の青筋が次第に高く現れて来る」の映画的クローズアップ技法と同期して、女の乳房もあらわな「胸の動悸のみ次第に高く烈しくさせる」のだけれども、対比させたり、同期させたり、あるいは暗示したり象徴したりを具体的で細密な身体や衣裳で、しかもリズム感ある文体で読み手の官能までたかまらせるところが荷風荷風たるゆえんであって、警戒する女性読者には荷風ほど女をなぐさみものにする男はないということとなり、愛読する男もまた同類と断罪される。

「顔殆(ほと)んど」、「乳房あらわなる」、「舌の先何とも」にみる音曲めいたなめらかさだが、「結んだ唇」が「柔(やわらか)に打開けて」、「ほの見せた舌の先」は女の秘部を夢見させるようであり、男の赤と青も陽物を思わせ、女の闇と赤に配色された浮世絵的美意識である。

  

《男はつと顔をよせて軽くその上に自分の唇を押つけた。女の頸を支えた片方の腕は既にぬけるほどの重さを覚えるまでも男はじっとそのままにしていたが、やがて唇のみか乳房の先耳朶(みみたぶ)のはし、ねむった瞼(まぶた)の上、頤(おとがい)の裏なぞおよそ軟(やわらか)い女の身中にもまた一層軟く滑(なめらか)な処を選んで、かわるがわるその唇を押つけた。》

 

<一層軟く滑(なめらか)な処を選んで

 女は腕が「ぬけるほどの重さ」のものとなりきれる。動きまわる性格の女がいまや静となって男の意のままと化し、唇/乳房/耳朶/瞼/頤、と快楽の対象は上がり下がりして、選んでは確かめずにいられない男ははたして自分の意志を操っているのか操られているのか。

「乳房の先」、「耳朶(みみたぶ)のはし」、「瞼(まぶた)の上」、「頤(おとがい)の裏」と官能器官の先端、周縁部、「一層軟く滑(なめらか)な」ところにまで具体の筆がおよぶところに荷風の経験が活きている。

  

《女の呼吸(いき)づかいはその度々(たびたび)に烈しく、開かれた口と鼻からは熱しきった呼吸がほとばしり出て男の肩にかかる。駒代は遂に苦しむような声と共に横にした片足をば我知らず踏伸(ふみのば)して身を反(そら)すと共に今まではただ畳の上に投出していた両手に男の身を此方からも抱きかけたが、熱い呼吸の烈しさいよいよ烈しく再び唸(うな)るような声を出すにつれてその手には恐しいほどな総身の力をこめてきた。》

 

<総身の力>

 もうすっかり女からは主体が失われている。小さな死のはずなのに「総身の力」をこめてくる。呼吸は熱い。性愛の熱力学。「苦しむような声」、「唸るような声」が言葉よりも饒舌だ。

「片足をば我知らず踏伸して」や「畳の上に投出していた両手」とあるように、男の視線は女の顔や胴から足先や手にまでのびる余裕がではじめ、歌麿春画の男のように、女の足の親指の反り返りまで情熱が行きつくのを見届けたいと願っている。

 帯揚をきゅっと〆めないと気がすまない女は無意識に、男をも恐ろしいほどな力をこめて〆めないではいられず、ただこれだけで女の淋しさを感じとらせ、しかし早くも本能的に離すまいとしがみついているのかと怖れさせもするだろう。

 

《ぱたりと櫛(くし)が落ちた。その音に駒代はふと瞼を半目に開いて見て始めて座敷中の明さに心付いたのか、声を顫(ふる)わして、

「あなた。電気を消して、よゥ。」

しかし男の接吻(せっぷん)にその声は半(なかば)にして遮(さえぎ)られた。女はもう蔽(おお)うものなき身の耻(はずか)しさを気にするよりも今はかえっていよいよ迫るわが息づかいの切なさ。男が手を下すをこちらからせがむらしい様子。吉岡は静にその腕から女の身を下へと寝かして麻の掻巻(かいまき)を引きよせたがしかし電燈は決して消さなかった。吉岡はおのれという男性の力のもとに女がむしろ死を叫ぶまで総身の快感に転々悶々(もんもん)するその裸体とその顔その表情とをはっきりと隈(くま)なく熟視しようと思ったのである。これまで経験した中での一番濃厚な実況やら、またこれまで見た浮世絵師の絵本の中での一番不自然な形やらを、われとわが眼にゆっくりと目撃しようと冀(ねが)ったのである。》

 

隈(くま)なく熟視

 男は女の言葉を、口という開口部ごと塞ぐ。「男が手を下すをこちらからせがむらしい様子」と思いこむ男の身勝手さ。しかしこれこそ男の願いだった。満足するように「麻の掻巻(かいまき)を引きよせた」男は、「電燈は決して消さなかった」。ここにきて電燈が活き、女はすべてを「熟視」され、「目撃」される。「男性の力のもとに女がむしろ死を叫ぶまで」の遊戯性。

「その裸体とその顔その表情とを」のリズムのよさは、ここにきてまた読点を省略しての男の滑らかで手慣れた行為とあいまって、「実況」、「浮世絵師の絵本」、「不自然な形」を好色に呼び起こす。もうここでは、駒代はすっかり消えてなくなり、作者荷風の「隈(くま)なく熟視」のためにだけ文が存在している。「われとわが眼にゆっくりと目撃しようと冀(ねが)ったのである」という悦楽の時間の引き延ばしを司る、近代小説家としての荷風の腕によって。

 

 ***

ところで『腕くらべ』は、いわゆる役者買いの花柳小説でもある。女形の歌舞伎役者瀬川(せがわ)一糸(いっし)を間に挟んでの、女と女の意趣返しという腕くらべが観劇の場を額縁として繰りひろげられる。

十三章「帰り道」に一糸のプロフィール紹介があり、明治末から大正初期にかけての歌舞伎界と世相の関係、役者の生態を示しているので引用しておく。それは江戸文化と近代日本の新旧時代交錯の象徴だった。

《一糸は瀬川の家に養われた役者として今でも女形(おんながた)を勤めているのであるが、一時女形は女のするべきはずのもので、これを男がするのは女歌舞伎御禁止のためにやむをえず生じた江戸時代の野蛮な遺風であるといったような議論が盛に新聞や雑誌に出た頃には、ただ訳もなく女形がいやで、昔気質(むかしかたぎ)の養父とは度々衝突して、いっそ役者なんぞは止(よ)してしまおうかと考えた事もあり、また新派の組合に加入して洋行でもして見ようかと思った事さえあるが、しかしそれもこれも要するに根柢(こんてい)のない一時の野心、新聞かぶれの出来心に過ぎないので、演劇に対する世間の議論が下火になれば、忽ちそんな事は忘れるともなく忘れてしまって一糸はやはり子供の時から習い覚えた女形の役者として、毎月あっちこっちの興行にいそがしく、自分では別にさしたる苦心をしたというでもなく、舞台の年功をつむ中(うち)、いつか世間から一廉(ひとかど)の役者らしく扱われ、自分もどうやらその気になりかけて来た時、丁度一時世間を熱狂させた女優の流行も漸(ようや)く衰え、日本の芝居にはやはり女形は男でなければならぬような議論がちょいちょい聞え出すのに、また訳もなく気が強くなり、急に自分の女形たる事に値打以上の値打があるように思いなして、自然興行ごとの役不足にだんだん奥役を困らせるようになって来るのであった。》

 

『五 昼の夢』

 

《すると出合頭(であいがしら)に、駒代よりもなお更びっくりしたのは、団扇(うちわ)片手の浴衣がけ、誰もいないと思って間毎(まごと)間毎(まごと)の普請(ふしん)でも見歩いていたらしい綺麗な男である。年は二十七、八、剃(そ)った眉(まゆ)の痕(あと)へ墨を引き、髪を五分刈にした中肉中丈(ちゅうぜい)、すぐに役者と知れる様子、芸名瀬川(せがわ)一糸(いつし)という女形である。

 「あら兄(にい)さん。」

 「駒代さんか。冗談じゃない。びっくりさせるじゃないか。」と一糸は片手を胸に殊更動悸(どうき)を押える風(ふう)をしてほっと大きな息をついた。

 駒代はこの前新橋から出ていた時分一糸とは踊の師匠花柳(はなやぎ)の稽古場で知合っていた。その時分一糸はまだ修行最中の少年であったが、二度目に駒代が芸者になってついこの春歌舞伎座の新橋演芸会の折楽屋で逢(あ)った時には既に立派な名題(なだい)役者になって大勢の芸者から兄さん兄さんといわれていた。(中略)

「兄さん、びっくりして。ご免なさいよ。」

 「まだ胸がどきどきしているじゃないか。嘘じゃない。そら触って御覧。」と一糸は無造作に駒代の手を取ってその胸を押さえさせた。

 駒代は俄に顔を赤くしながら、「ほんとに堪忍して頂戴よ。」》

 

<すぐに役者と知れる様子>

 荷風の風俗小説家としての優れた特徴は、登場人物を型、タイプとして抽出し、捉える態度、その記号を的確、精細に表現する力量である。「すぐに役者と知れる様子」とはどういうことか。「綺麗な男である。年は二十七、八、剃(そ)った眉(まゆ)の痕(あと)へ墨を引き、髪を五分刈にした中肉中丈(ちゅうぜい)」というだけで、化粧や鬘をのせる商売と察しがつくし、なるほど「女形」だとわかる、女以上に女っぽい柔和な所作が、「手を胸に殊更動悸(どうき)を押える風(ふう)をしてほっと大きな息をついた」とか、「無造作に駒代の手を取ってその胸を押さえさせた」で補強される。

 会話文のいきいきとした巧さは、駒代の性格をもうそれだけで示す端的な言葉遣いと、「立派な名題(なだい)役者になって大勢の芸者から兄さん兄さんといわれていた」一糸の、世話物の男女の出逢いの場数を踏んだ、「冗談じゃない。」、「嘘じゃない。」の会話だけで十分だ。

しかも場面が森ヶ崎(現在の大森南、当時の海辺の別荘地)の「三春園」という贔屓客の連込み宿であるという駘蕩な緩い雰囲気が、「団扇(うちわ)片手の浴衣がけ、誰もいないと思って間毎(まごと)間毎(まごと)の普請(ふしん)でも見歩いていたらしい」のゆったりとした間(ま)の空気感に漂う。

瀬川一糸のモデルは、十五世市村羽左衛門とも(相磯凌霜(あいそりょうそう)『腕くらべ余話』)、三世坂東(ばんどう)秀調(しゅうちょう)とも(吉田精一永井荷風』)言われるが、荷風は一人のモデルから作中人物の造形をしないことを自慢していたから、若いころ歌舞伎座作者部屋で働いたときの歌舞伎界の裏表の見聞を基に(荷風『書かでもの記』)、ちょうどそのころ荷風と結婚し、半年で離婚し、しかしその後も付き合いがあった新橋巴家(ともえや)の八重次(のちの藤蔭静枝)から艶聞を聞かされていたはずの羽左衛門、合評会などで交流があった秀調(彼の父金子翁と八重次とは親しかったので結婚式で八重次の仮親元となった。荷風『矢はずぐさ』)、作劇を依頼されたものの黙阿弥のようには上手く書けず苦しむことになったり、八重次との結婚では仲人を務めてもらうなど、生涯に渡って蜜のごとき親しさだった二世市川左団次近藤富枝荷風と左団次』)らのミックスチャーと考えるのが妥当で、これ以上にモデル探しをしても荷風の言葉どおり虚しく、それは駒代のモデルについても事情は同じだ。

  

『六 ゆいわた』

 

《「あら。」といったまま駒代は嬉しいやら、耻(はずか)しいやら、余りの意外に少時(しばし)座敷へは這入(はい)りも得なかった。

 一昨日(おととい)の間昼中(まひるなか)、人気(ひとけ)のない三春園の廊下で、何方(どっち)から、どうしたともどうされたとも分らず、駒代は唯(ただ)ただ嬉しい夢を見た。しかし相手は何をいうにも引手(ひくて)あまたの芸人衆の事、大方その場かぎりの冗談であろう。よし唯の一度その場かぎりの冗談にしても芸者しているこっちの身に取ってはこれにました冥利(みょうり)はないと思っている矢先、まだ三日とたたぬ中(うち)、突然向(むこう)からちゃんとお座敷にして人知れず呼んでくれるとは、全く思いもよらない、何という親切な実情(じつ)のある仕打(しうち)であろう。そう思うともう嬉涙(うれしなみだ)が眼の中一ぱいになって駒代はどうする事も、何(なん)という事も出来なくなった。(中略)

 この様子に、瀬川はすっかり嬉しくなってしまった。同時にまた意外な好奇心にも駆られ始めた。瀬川は駒代をばこれほど初生(うぶ)な気まじめな芸者とは思っていなかったのである。二十四、五の年合(としあい)から見ても一人や二人芸人の肌を知らないはずはない。一昨日(おととい)の昼日中三春園でその場の冗談から思わずああいう訳になって見れば、何ぼ何でもそのまま打捨(うっちゃ)って知らぬ顔も出来まいと、いわば芸人の義理半分またお詫(わび)半分にお座敷へ呼んでやった。お座敷へ来て自分の顔を見れば何の憶(おく)する気色(けしき)もなく、「あら兄さん随分ねえ。」ぐらいの事はいうに違いないと思っていた。ところが全く予想外な駒代の様子、もうぞっこん自分に迷込んでしまったらしい様子にこっちは男の自惚(うぬぼれ)が手つだって無上(むしょう)に嬉しくなり、唯一遍の冗談でこの位の結果を現わすなら、この上こうもしてやったら先(さき)はどんなに逆上(のぼせ)るだろうと思うと、もう面白半分瀬川は調子にのって、これまでの経験で覚えのある秘術のありたけを為尽(しつく)さずにはいられなかった。

駒代はもう夢に夢見る心地というも愚(おろか)。端(はて)は狐(きつね)にでも化(ばか)されているのではないかというような気もして口もきけず手も出せず、ただただうれしい有難いの一念が身にしみるばかりである。瀬川は何から何まで痒(かゆ)い処へ手が届くように、すっかり後(あと)の始末までそれとなく手伝ってやった後、さて自分も姿をととのえて風通(とおし)のいい次の間(ま)の窓の側(そば)へ坐った。》

 

<夢に夢見る>

『腕くらべ』という作品全体が「夢」ともいえるのであって、昭和になって『正宗谷崎両氏の批評に答う』で書いているように、《当時を顧ると、時世の好みは追々芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺留と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。》という夢になりつつある世界、芸者を取り巻く客や歌舞伎役者への餞別だったに違いない。

荷風の筆は、駒代と瀬川の間を自在に行き来して、たんなる作者の随筆的感想文に終ることなく、駒代の心理を描写したかと思うと、なめらかに瀬川の心理に這入り込んで、生態を描写する。駒代の「どうしたともどうされたとも分らず」、「唯(ただ)ただ嬉しい夢を見た」、「もう夢に夢見る心地」というのが、「その場かぎりの冗談にしても芸者しているこっちの身に取ってはこれにました冥利(みょうり)はない」なのである。

「何という親切な実情(じつ)のある仕打(しうち)」で「ただただうれしい有難いの一念」とは、客商売をしている女の側が反動のように色悪の男にほだされてしまうという形を「初生(うぶ)な気まじめな芸者」の身の上に置いたのであり、役者一糸の「男の自惚(うぬぼれ)が手つだって無上(むしょう)に嬉しくなり」、「もう面白半分」という酷薄な内面を風刺的にみせつける。「これまでの経験で覚えのある秘術のありたけ」、「何から何まで痒(かゆ)い処へ手が届くように、すっかり後(あと)の始末までそれとなく手伝ってやった」は春本『四畳半襖の下張』に通じる。

荷風が冴えているのは、甘い調子で運んでおいて、「手伝ってやった後、さて自分も姿をととのえて風通(とおし)のいい次の間(ま)の窓の側(そば)へ坐った。」と決めるところである。

「ゆいわた」とは結綿(ゆいわた)で、若い女性向けの島田髷の一種だが、この章を読んでも題の理由がわからないのは、幾度かの私家版、流布本による削除添削の影響か、まさかとは思うが初心な駒代の様子を指したものか。

  

『八 枕のとが』

 

《兄さんのところへ行こうにも、それにしては一夜の中(うち)立てつづけに二人まで男をかえて汚しぬいた身体。あから様にそうとも打明けられず、知らぬ振りしてこのまま今夜一夜をまかせ切るのは何となく済まない気がしてならないのであった。何ぼ商売とはいいながら自分ながら思い出すと耻(はずか)しくなって帳場の燈火に人から顔見られるのが辛くてならない。鏡台の前に坐って白粉(おしろい)つけ直せば直すほどその顔はかえってきたならしく、掻けばかくほど乱れた髪はなお乱れて来るような気がする。(中略)

兄さんはやはり疲れたのかもう一人で寝ていた。しかも自分の来るのを心待(こころまち)に待っていてくれたものと見えて、女の枕を置いた夜具の片方を明(あ)け、そこへと片腕だけ長く伸(のば)してすやすや寝入っているのは、すぐとそのまま手枕(てまくら)にせよとの心やりか。ああ嬉しい親切と思うにつけて折角のそれもこの身のつかれ。溜息と共にまたしても一倍口惜しくなるのは対月のお客に浜崎の旦那が念入りな攻め抜きよう。いっそ精魂つかれ果ててこれなり死んじまったらと駒代は今方あだし男にその身を弄(もてあそ)ばれた口惜しさの仕返しとでもいうように狂気の如く瀬川一糸の寝姿をば女の身ながらまるで男のように犇(ひし)と上から抱きしめ、びっくりして目をさますその顔にさめざめとわが顔押当てて泣入った。》

 

<とが>

《いわゆる芸者遊びは、およそ三種に大別できるかと思う。客が単数か、もしくは複数の芸者をよんで浅酌をかたむけながら絃歌をたのしんでさっと引き揚げる平(ひら)の座敷と、宴席ならびに枕席である。むろん平の座敷から枕席に移行するばあいもめずらしくない。さきに挙げた『腕くらべ』の冒頭にちかい吉岡と駒代の艶冶(えんや)な場面などがその一例だが、だいたい以上の三種に分類してあやまりあるまい。(中略)荷風の花柳小説では新橋を取り上げている『腕まくら』においてもほぼ枕席に終始していて、里見弴の表ないし明に対して、裏または暗の面が展開される。》という野口冨士男『わが荷風』の卓見に抗うかのように、駒代は心中では枕芸者ではないと自負している。役者買いに伴って必要となる金銭、経費を捻出するための枕席を、「何ぼ商売とはいいながら自分ながら思い出すと耻(はずか)しくなって」しまう。

「何となく済まない気がしてならないのであった。」、「帳場の燈火に人から顔見られるのが辛くてならない。」という、気がして「ならない」に、駒代の咎(とが)(罪)の意識があって、すれからしとは遠い駒代への作者の愛情が注ぎこまれている。そんな女の魅力は荷風文学の魅力そのものなのだが、荷風が書いた女はみな駒代と同じタイプの、たった一人の女に違いない。

鏡、化粧、髪は「一夜の中(うち)立てつづけに二人まで男をかえて汚しぬいた身体」の女心を正直に表徴する。「鏡台の前に坐って白粉(おしろい)つけ直せば直すほどその顔はかえってきたならしく、掻けばかくほど乱れた髪はなお乱れて来るような気がする。」の江戸端歌「鬢のほつれは 枕のとがよ」にあるような哀歓。

 枕つながりで、「自分の来るのを心待(こころまち)に待っていてくれたものと見えて、女の枕を置いた夜具の片方を明(あ)け、そこへと片腕だけ長く伸(のば)してすやすや寝入っているのは、すぐとそのまま手枕(てまくら)にせよとの心やりか。」というように、一糸にいかにも女形らしい艶めいた姿態をとらせ、「これなり死んじまったら」と駒代は自分を劇化する。

荷風はあたかもアメリカ、マンハッタン滞在時代に、毎夜のように『トリスタン』、『ワルキュウル』などの多くのワーグナー歌劇や『カルメン』、『フェードル』、『トスカ』、『ロメオ・エ・ジュリエット』などを観劇した(荷風『西洋日誌抄』)記憶と知識の上に、女形の「瀬川一糸の寝姿をば女の身ながらまるで男のように犇(ひし)と上から抱きしめ」という、男女を女男が襲うといった心理的倒錯も加えて、色事の舞台を死と性、罪と罰の狭間に脚色する。

 

 『十六 初日 

 

《駒代は楽屋で着到の大太鼓(おおだいこ)が鳴る時分既に本家茶屋の一間(ひとま)に詰めかけて、茶屋の出方(でかた)の中で顔の知れたもの三、四人に祝儀(しゅうぎ)をやり、また瀬川の男衆(おとこしゅう)綱吉(つなきち)というのを呼んでこれには過分の祝儀、まだその上に楽屋の頭取と口番(くちばん)には瀬川の部屋へ女房気取で自由に出入がしたいためにまた相応の心付(こころつけ)。そして今度瀬川が初役の十次郎をつとめるという事から新橋中(じゅう)の知合を運動して引幕(ひきまく)一張(ひとはり)を贈ったのでそのため大道具へも渡りをよくした始末である。

 駒代は朋輩(ほうばい)の花助をさそって東の鶉(うずら)の三に陣取って、今方(いまがた)馬盥が切れた後(のち)場内満員となった景気を見ると、これは誰の力でもない、瀬川一糸一人の人気のためだという気がするのである。そしてこの大(たい)した人気の役者に思い思われた女は誰あろう此処(ここ)にこうしている私だよと思うともういても立ってもいられないほど嬉しくもあり、また晴れて夫婦になれるのは何時(いつ)の事だろうと思えば忽(たちま)ち果敢(はかな)いような悲しい心持になるのであった。》

 

<思い思われた女>

 銀行勤めは性に合わなかった荷風だが、精神の独立を保つ土台となる経済的観念は強く、ゆえに金銭、財布には細かかった。ゾラ、モーパッサンのフランス自然主義文学に引かれていた時期もあったことから、金銭と性格と女と運命を小説の車輪としてもいた。

当然、駒代にも金銭のこと、慾と虚栄が哀しいかなついて回る。九章「おさらい」では《それに何より安心なのは今度は万事の費用を吉岡さんと、それから吉岡さんには内々で新規(しんき)に出来た他(ほか)の旦那とこの両方から出してもらえることである。そして芸の方にかけては専門の瀬川一糸がついていて、舞台の呼吸を教え、演芸の当日には瀬川の弟子が後見(こうけん)につくというので、駒代はもう立派な役者にでもなったような心持。》であり、十三章「帰りみち」では、歌舞伎『三千歳』における吉原遊妓の寮のような別荘で、粋人劇作家倉山南巣(なんそう)に一糸は、《何しろ家のお袋と来たら何とかいいましたよね先生――(ー)掛取(かけとり)や京の女のおそろしい組ですからね、丸式(まるしき)のことと来たら到底(とても)お話にゃならないんです。》と語るのだが、荷風梨園の懐事情にも詳しかったのだろう(「掛取(かけとり)や京の女のおそろしき」は荷風と俳句で親しかった巌谷(いわや)小波(さざなみ)作、「丸式」とは金銭の意)。

ここ新富座(しんとみざ)での興行でも、「三、四人に祝儀(しゅうぎ)をやり、また瀬川の男衆(おとこしゅう)綱吉(つなきち)というのを呼んでこれには過分の祝儀、まだその上に楽屋の頭取と口番(くちばん)には瀬川の部屋へ女房気取で自由に出入がしたいためにまた相応の心付(こころつけ)。そして今度瀬川が初役の十次郎をつとめるという事から新橋中(じゅう)の知合を運動して引幕(ひきまく)一張(ひとはり)を贈った」という散財が役者買いの金銭的実態であって、九章「おさらい」の「新規(しんき)に出来た他(ほか)の旦那」とは、十一章「菊尾花」に登場する色の黒い骨董商、海坊主のことで、《海坊主は茶屋の女将(おかみ)に、誰か相応の女で役者に入れ上げて金がほしくてならないとか、借金で首がまわらないとかいうものはいないかといつも物色するのである。》という金を餌(えさ)にした世界に駒代は沈没し、のちの十九章「保名」では金持芸者君竜に一糸の継母もろとも乗り換えられて、《すると継母のお半(はん)は何がさて置き君竜の財産を頼母しく思ったため、わざわざ浜町の方へ出向いて来て何分にもどうぞ倅(せがれ)をよろしくと頼み、やがて返礼に来た君竜をば下へも置かずもてなした処から》と雪崩れてゆく。

荷風の思い違いだろうが、この文章の直前に《一番目は『絵本太功記(たいこうき)』の馬盥(ばだらい)に十段目》とあるけれども、明智光秀(劇中では武智光秀)の息子十次郎が登場する「十段目」は名高い「絵本太功記(たいこうき)十段目」の通称「太十(たいじゅう)」で間違いないものの、「馬盥(ばだらい)」は同じ明智光秀ものとはいえ、鶴屋南北『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)』のよく上演される「馬盥(ばだらい)」ではないか。『絵本太功記(たいこうき)』に光秀が眉間を割られる場面はあっても「馬盥(ばだらい)」で酒を飲まされる屈辱の場面はないはずだ。)

  

『十八 きのうきょう』

 

《瀬川はどうでも勝手にしろという風にごろりと横になった。こうなっては惚(ほ)れた弱味のある女の方から是非どうか行って下さいと頼むより外(ほか)はない。色の紛櫌(いきさつ)には馴れている瀬川一糸、始めからそうなるとはとうに見越している。よしまた女の方が何でも彼(か)でも放すまいと執拗(しつこ)く出ればこっちも我儘(わがまま)一ぱい無理に振切って出て行くまでの事、その場ではいくら愛想づかしをいいもしまたいわれもした処で、これまでになった暁には女というものはカラ意気地のないもの。半年一年そのままに放棄(うつちや)って置いても折を見てこっちから優しく仕掛ければすぐころりとなるのは『梅暦(うめごよみ)』の米八(よねはち)仇吉(あだきち)の条(くだり)を見て知るまでもない事と、瀬川は先(さき)の先まで承知している上に、内心実(じつ)の処は少しもう飽(あき)が来ている。何かいい代りの出逢(であい)次第、駒代とは手を切ろう――きっぱり片がつかなくとも唯(ただ)この上余り深くならないようにしたい、今では大分借金もありそうな駒代にこの上半年一年と繋(つなが)っていた日には厭(いや)でも応でも末は女房に背負込(せおいこ)まなければなるまい、それも是非ないハメになれば因縁ずくだと諦(あきら)めるまでだとちゃんと度胸を据えている事とて、これは到底相撲(すもう)にはならない訳である。》

 

相撲(すもう)

「相撲」にちなんだ言葉、イメージが繰りひろげられる。「ごろりと横になった」、「何でも彼(か)でも放すまいと執拗(しつこ)く出ればこっちも我儘(わがまま)一ぱい無理に振切って出て行く」、「放棄(うつちや)って」、「仕掛ければすぐころりとなる」、「手を切ろう」、「背負込(せおいこ)まなければなるまい」の決り手づくし。

結果として、傍から見れば役者買いに見えたかもしれないが、駒代は一糸と出逢い、惚れて、結び結ばれ、夫婦になろうと願ったものの適わなかったという訳で、役者の冗談と芸者冥利という持ちつ持たれつの役者買いではなかったことは認識しておく必要がある。

為永春水(ためながしゅんすい)原作の歌舞伎『春色ごよみ』の米八(よねはち)、仇吉(あだきち)と丹次郎(たんじろう)もどきという、もはや存在しない深川辰巳(たつみ)芸者の「いきな女」と「いい男」というのは江戸戯作、人情本の世界であって、さきの『正宗谷崎両氏の批評に答う』と同じ態度の夢の文学に違いなく、功利的、打算的な登場人物たちによる花柳界風俗の崩壊と足並みに歌舞伎役者も連なる。

ここにあるのも人間の型、タイプで、それはステレオ・タイプであると卑下されがちだが、谷崎潤一郎が『「つゆのあとさき」を読む』で、日本の古典文学ばかりでなく英仏文学をも読みこんでいた実作者の批評精神からの次の指摘は『腕くらべ』においても真実を衝いている、《少くともかくの如き作品に対してが、「性情が描けていない」とか、タイプだけしか出ていない》とかいう風にばかり見たがらないで、作者がいかに材料を扱っているか、その扱い方にも眼をつけるべきだ。芸術品の持ち味はどういう所にころがっているか分らないもので、何も性格を描くばかりが能ではない。大勢の人物を登場せしめてそれを書き分ける時なぞ、タイプだけ出ていれば沢山で、そう一人々々の性格まで書けるはずもなく、そんな必要もない。それにまた、もともとタイプ以上に人間が描けるかどうかも疑問である。西洋流に内部へ細かく掘り下げて行くのもいいが、そのためにかえってうそ(・・)らしくなったり、独り合点になったり、イヤ味になったり、やに(・・)ッ濃くなったりする嫌いがないでもない。昔の作家が人間を人形の距離にまで遠ざけ、ありは全く機械の如く扱ったのも一理があると考えられる。》

  

《時候は全く違うが、昼間一日芝居の人込(ひとごみ)からやがてこの露深い夜深(よふけ)の空、月の光は澄みながら狭霧(さぎり)につつまれた人家の屋根、夜深けた街に吹き通う夜風の肌ざわり、向うの河岸通(かしどおり)を流して行く新内(しんない)の撥音(ばちおと)、またその辺の待合の植込越しなる二階の燈影(ほかげ)――あたり一帯の様子が気のせいか、忘れようとて忘れられぬ初(はじめ)ての夜に似ている。そう思うと駒代は歩いていながらも一度にわっとせき来る涙。あわててハンケチに顔を蔽(おお)い、窃(そつ)とあたりを見廻したが、幸に広大な農商務省の建物に片側は真暗(まっくら)な往来。いつもならば丁度時間も場所も送迎いの芸者の車。日吉(ひよし)、大清(だいせい)、新竹(しんたけ)、三原(みはら)、中美濃(なかみの)なんぞの提灯(かんばん)星の如くなるを、どうした拍子か後にも先にも見渡す往来は寂として、唯采女橋(うねめばし)の方から自働車が一台と、ぶらぶら歩いて来る芸者二、三人が大分酔っているらしい高話と笑声(わらいごえ)。駒代は急いで木挽町(こびきちょう)の四角(よつかど)を左へ折れるが早いか、見当り次第に何処という事なく唯灯(あかり)のない真暗(まっくら)な路地へ身をかくし、両袖を顔に押当てたままその場に蹲踞(しゃが)んで思うさま泣きたいだけ泣いてしまおうと試みた。(中略)駒代は路地の暗闇(くらやみ)に一泣き泣いている中何の訳もなくふと自分は一生涯泣いて暮すように生れて来たのかも知れないと思うと、また更に悲しくなってこの間兄さんとお揃(そろ)いに誂(あつら)えたばかりの長襦袢(ながじゅばん)の袖(そで)をも絞るほどにしてしまった。》

 

長襦袢(ながじゅばん)の袖(そで)をも絞るほどに

けだるい抒情性とロマンティシズムに富んだ『ふらんす物語』の流れをくむ場面で、「濡れる」水のイメージ、「涙」のテーマを流麗な文体で、思い出という時間操作のもと、女の流転、人生の春夏秋冬の一断面を詩情豊かに綴る。

「露深い夜深(よふけ)の空」、「狭霧(さぎり)につつまれた」、「向うの河岸通(かしどおり)」、「一度にわっとせき来る涙。」、「両袖を顔に押当てたままその場に蹲踞(しゃが)んで思うさま泣きたいだけ泣いてしまおう」、「一泣き泣いている中」、「自分は一生涯泣いて暮すように生れて来たのかも知れない」、「長襦袢(ながじゅばん)の袖(そで)をも絞るほどにしてしまった」が、映画カメラの長廻しのような明暗の照明をたなびかせるように、「月の光は澄みながら」、「夜深けた街」、「二階の燈影(ほかげ)」、「片側は真暗(まっくら)な往来」、「提灯(かんばん)星の如く」、「灯(あかり)のない真暗(まっくら)な路地へ身をかくし」、「駒代は路地の暗闇(くらやみ)に」と駒代の心中の明暗を表象する。

 この場面だけでなく駒代はよく泣く。『腕くらべ』の最後の二つの章を見るだけでも、二十一章「とりこみ」で駒代は、《夢中に芝居を出て一目散に家へ帰り、二階へ上るが否や鏡台の前へ突伏(つっぷ)した。》であり、最終二十二章「何やかや」は、《すると突然嬉しいのやら悲しいのやら一時(じ)に胸が一ぱいになって来て暫(しば)し両袖に顔を掩(おお)いかくした。》なのだ。

 三章「ほたる草」で、吉岡によってしっぽりと濡れた蛍草の長襦袢だが、今度は役者一糸と「お揃(そろ)いに誂(あつら)えたばかりの長襦袢(ながじゅばん)」の袖(そで)を涙で濡らすことになって、帯留のエピソードと同じように男を変えて反復される。

 
『十九 保名』

 

《二、三日たつと『都(みやこ)新聞』に「狂乱(きょうらん)心(こころ)の駒代」という見出しで一段半ほどの艶種(つやだね)が出た。去年の秋歌舞伎座の演芸会で保名(やすな)の狂乱今年の春は隅田川(すみだがわ)、二度つづいての狂乱に当りを取りめっきり売出して今では新橋中(じゆう)この名妓(めいぎ)ありと誰知らぬはなき尾花家の駒代が、しかも芝居の初日の夜、大事な大事な浜村屋の太夫(たゆう)を横取りせられ寝ようとすれど寝られねば日の出るまでも待ち明かす、あらうつつなの妹背川(いもせかわ)、土人形(つちにんぎょう)にあらざれば悋気(りんき)もせずにおとなしゅうこのままだまっちゃいられぬと、舞のお扇子(せんす)踏みしだき狂い狂いし一夜の始末、すべて保名の浄瑠璃『深山桜兼及樹振(みやまのはなとどかぬえだぶり)』の文句をもじった記者先生が筆のいたずら。しかしこれだけの事なら元より真偽は不明な新聞の記事。浮いた家業の仲間には更に珍しいはずもないので、普通(あたりまえ)ならば噂(うわさ)されるそばから直ぐに忘れられてしまうのであるが、不思議にも今度の事のみは湯屋(ゆや)、髪結(かみゆい)、茶屋の箱部屋(はこべや)、師匠の稽古場なんぞおよそ芸者の集る処には日を経るに従っていよいよ噂が噂を産んで行くのであった。(中略)する中(うち)に誰がいい出すともなく浜村屋の太夫は来年の春先先代菊如(きくじょ)の名を襲(つ)ぐ折に君竜さんを女房にするとの噂が立始めると、現にもう取かわされた結納(ゆいのう)の品物まで見て来たような事をいい出すものも出て来る。二人の夫婦約束は以前君竜が芸者に出ていた時分からとうにできていたのだと伝えるものもあった。(中略)

 駒代はこの噂を聞くと共にいよいよもう自分は駄目だと覚悟した。》

 

<寝ようとすれど寝られねば>

「保名」は、安部の保名が恋人の榊(さかき)の前(まえ)の最期を哀しんで、紫縮緬の病鉢巻に片肌を脱ぎ、形見の小袖を抱いて乱れ心で物狂い踊る艶麗な清元の舞踊で、「小袖(こそで)物狂(ものぐるい)」、「保名(やすな)狂乱(きょうらん)」ともいわれ、恋の狂乱と春の野辺のけだるい風情が簡単なようで難しい傑作であるが、健気で一途な駒代の心根を象徴している。

そのうえ、『西遊日誌抄』の明治四十年(一九〇七年)に《七月九日。イデスと別杯をくむ。この夜の事記するに忍びず。彼の女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二、三人もあればいかにもして旅費を才覚しこの冬来らざる中に巴里に渡りそれより里昴(リヨン)に下りて再会すべしといふ。ああ然れども余の胸中には最早や芸術の功名心以外何物もあらず、イデスが涙ながらの繰言(くりごと)聞くも上の空(そら)なり。》とノスタルジックに書き残し、のちのちまで対談などで忘れがたき良き性格の第一の女として回顧(「荷風ないしょ話」「荷風思出草」)した、アメリカでのイデスとの恋愛の、荷風による冷徹な旅立ちがイデスを保名の心境におとしめたという罪の意識があったに違いない。

さらには清元の稽古に熱心だった荷風の思い入れも加わっての「保名」だったろう(荷風は薗八節の稽古にも熱心で、十二章「小夜(さよ)時雨(しぐれ)」では駒代に薗八節の「鳥辺山(とりべやま)」を語らせた)。

「寝ようとすれど寝られねば」、「あらうつつなの妹背(いもせ)」、「土人形(つちにんぎょう)」、「悋気(りんき)もせずにおとなしゅう」などは「保名」のパロディー、揶揄、カリカチュアとなっていて、戯作者としての技量がいかんなく発揮されている。

「噂」、「立ち聞き」、「のぞき(垣間見)」、「ふと耳に這入った」といった『源氏物語』のある種の下世話さと同じ動力エンジンを、戦前の市民風俗、社会の中心にいた芸者という女の感官と細腕で廻させた。

(細かいことだが、『深山桜兼及樹振(みやまのはなとどかぬえだぶり)』ではなく『深山桜及兼樹振(みやまのはなとどかぬえだぶり)』の間違いではないか。)

 

 

『腕くらべ』は荷風の変曲点に位置する。かの『断腸亭日乗』は、アメリカ、フランス滞在日誌に手を加えて雑誌『文明』に『腕くらべ』と同時連載していた日記形式の『西遊日誌抄』を受けて、大正六年(一九一七年)の「大正六年丁巳九月起筆 荷風歳卅九」という記載に続く《九月十六日。秋雨連日さながら梅雨の如し、夜壁上の書幅を掛(か)け替ふ。》ではじまる。その年には《十二月四日。『腕くらべ』印刷校正下摺(したずり)はじまる。》ともあって、同じく十二月には私家版五十部が配布される。『腕くらべ』と『断腸亭日乗』はこの時点で交錯した。

谷崎は『「つゆのあとさき」を読む』で、『腕くらべ』を書いた頃の荷風は齢四十近くであったはずで、《真に己の身に附いた技巧を見事に完成し、整頓させた趣がある》ものの、題材が花柳界という世界に限られ、結局紅葉あたりの綺麗事の境地から一歩も進んでおらず、以後次第に写実主義に転ぜられる。《私はこの数年間が荷風氏の芸術の沈滞期であったと思う。少なくともわれわれの眼には、「腕くらべ」を頂点として、氏の創作力は下り坂になりつつあるように見えた》のだが、《「腕くらべ」は作者の過去の業績の総決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齢五十を越えてからの作者の飛躍を示している》と『つゆのあとさき』を讃えた。

断腸亭日乗』に、「わが終焉の処にせむ」、「余生を送らむ」、「余命いくばくもなきを知り」と書き連ね、『矢はずぐさ』(大正五年)と『書かずもの記』(大正七年)に、韜晦かもしれないが気弱な心境を書き残した荷風が、人生の半ばのすべてを注ぎ込むことで、すでに「失われた時を求めて」になりつつあった、夢みたことの変曲点こそが『腕くらべ』だった。

大正六年(一九一七年)にはロシア革命が起り、翌年、第一次世界大戦終結した。一方、日本は『つゆのあとさき』が刊行される昭和六年の満州事変に向かって軍靴の足音が次第に高くなる。『腕くらべ』は荷風自身の変曲点であるとともに、世界と日本の変曲点に位置する見果てぬ夢として百年後の読者の前にある。

                                   (了)

        ******引用または参考文献******

永井荷風『腕くらべ』(岩波文庫

永井荷風『腕くらべ』(新潮文庫

永井荷風『つゆのあとさき』(岩波文庫

永井荷風『濹東綺譚』(岩波文庫

永井荷風荷風随筆集』(『書かでもの記』『矢はずぐさ』『正宗谷崎両氏の批評に答う』所収)(岩波文庫

永井荷風『すみだ川・新橋夜話』(岩波文庫

永井荷風『雨蕭蕭・雪解』(岩波文庫

*『荷風全集28対談・座談』(「『摂州合邦辻』の比較合評」「荷風ないしょ話」「荷風思出草」など所収)(岩波書店

*『荷風全集1初期作品集』(『歌舞伎座の春狂言』など所収)(岩波書店

永井荷風『摘録 断腸亭日乗』(『西遊日誌抄』所収)(岩波文庫

野口冨士男『わが荷風』(講談社文芸庫)

磯田光一永井荷風』(講談社文芸文庫

*相磯凌霜(あいそりょうそう)『荷風余話』小出昌洋編集(『腕くらべ 余話』所収)(岩波書店

秋庭太郎『新考 永井荷風』(春陽堂書店

吉田精一永井荷風』(新潮社)

*菅野昭正『永井荷風巡歴』(岩波書店

*吉野俊彦『「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算』(日本放送協会

松本哉『女たちの荷風』(ちくま文庫

近藤富枝荷風と左団次』(河出書房新社

丸谷才一選『花柳小説名作選』(「対談解説野口冨士男丸谷才一」所収)(集英社文庫

谷崎潤一郎谷崎潤一郎随筆集』(『「つゆのあとさき」を読む』所収)(岩波文庫