文学批評 「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

 

 

f:id:akiya-takashi:20190201135637j:plain f:id:akiya-takashi:20190201135648j:plain f:id:akiya-takashi:20190201135712j:plain


<四国の森の兄と弟>

 四国の森と谷間を舞台とした大江健三郎の初期小説では、「僕=兄」と「弟」が定型のように現れ、「地形学的(トポグラフィック)な構造」空間のなかで行動をともにする。

 短編小説『飼育』(一九五八年)の冒頭はこうだ。

《僕と弟は、谷底の仮説火葬場、灌木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色(ぶどういろ)の光がなだれていた。僕は屈めていた腰を伸ばし、力のない欠伸(あくび)を口腔いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑みかけた。》

 中編小説『芽むしり仔撃ち』(一九五八年)でも、『飼育』同様に、兄の暴力と庇護、弟の恭順と柔和のもと、「僕ら」という仲睦まじさが基底に流れている。

《出発の日まで二週間の余裕があり、その間に親もとへ引取りを要請する最後の手紙が出され、院児たちは激しい期待をそれにかけた。一週間目に、かつて僕を告発した僕の父が軍靴をはき徴工用の帽子をかぶって、弟をつれてあらわれた時、僕は歓喜におそわれた。しかし父は、弟を疎開するための土地を探しあぐねて、そのあげく感化院の集団疎開に弟を便乗させることを考えついたというわけだった。僕は失望にうちひしがれた。それでも父が帰って行ったあとでは僕は弟とかたく抱きあったのだ。

 弟は僕ら少年の犯罪者たちの間へ入り、その服装を着せられたことで、始めの二三日、好奇心と喜びに異常なほど興奮していた。》

 十年後の長編小説『万延元年のフットボール』(一九六七年)には、「僕=兄」蜜三郎と、「弟」鷹四が登場するが、少年ではなく、青年を経て壮年になりつつある。すでに「戦争直後の数年間僕が弟にもっていた絶大な影響力」は懐かしみとなり、反撥、対抗意識、敵意の関係のはざまで、荒ぶる暴力的な弟と、和やかな傍観者の兄という対照で登場する。

《「いま、蜜(・)が東京でやっているすべてのことを放棄して、おれと一緒に四国へ行かないか? それは新生活のはじめ方として悪くないよ、蜜(・)!」と鷹四は、僕がたちどころにそれを拒否するのではないかという率直な懸念を示しながらも、結局は誘惑する力をこめていった。》

 これら三篇とも、小説の終局になると、兄と弟は死の匂いに浸りながら、解離したうえで、さらなる融合を目指そうとする。

『飼育』では、弟の掌の下で深く引きこむ眠りの中へ入って行った僕は、昼すぎに目ざめ、町役場の書記の橇による事故死を見とどけてから、弟を捜すために草原をおりて行った。

『芽むしり仔撃ち』では、疫病に罹っている愛犬を撲殺された弟は駆け去って行き、帰って来なかったが、洪水があった谷の岩の間で携帯品袋が発見される。

万延元年のフットボール』では、弟鷹四は自栽するが、兄蜜三郎はそのことから気づかされて新たな生へ向かう。

 

<小説の物語>

 いちおう『万延元年のフットボール』のあら筋を紹介しておくことにするが、その前に大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』から、少しだけ引用しておきたい。ここで、「二人の人物」とは蜜三郎と鷹四、「二つの作品」とは『飼育』と『芽むしり仔撃ち』のことだ。

《一九六七年に書いた『万延元年のフットボール』では、いわば二人の人物に分割された私自身が、さきの二つの作品によってかたち作られ始めた、森の中の集落の地形学的な構造のなかに帰って行き、その「場所」をあらためて認識してゆきます。そして集落がやはり洪水によって下方の村や町、小都市から切り離されている期間に、二人ながらに――兄弟の兄は傍観者として、弟は東京でなしとげえなかった革命的な達成をパロディ的にやりなおす行動者、あるいは演技者として――ひとつの悲劇を生きる過程が、小説の物語です。》

 さてあら筋である。

 

「僕」こと根所(ねどころ)蜜三郎は、脳に障害のある息子を養護施設に預け、野生動物の記録の翻訳を仕事にしている。妻菜採子(なつこ)はウィスキー依存となっていて、子供ができてから夫婦の性交渉はなくなっている。蜜三郎の大学時代の友人が、顔と頭を朱に塗りつぶして、肛門に胡瓜をさしこみ、素裸で縊死してしまう。死んだ友人の祖母が、サルダヒコのような、と言った。

 蜜三郎の弟鷹四は、一九六〇年の政治行動(日米安保条約改訂闘争)に参加した学生による転向劇の座員としてアメリカに渡ったが、放浪生活を切りあげて帰国する。鷹四は蜜三郎を新生活に導くため、二人の生まれ故郷の四国へ誘う。

 兄弟の曾祖父は谷間の村の庄屋であり、百年前の万延元年(一八六〇年。日米修好通商条約に調印した大老井伊直助、桜田門外の変で暗殺。批准のため遣米使節団派遣される)の一揆で、曾祖父と騒動を組織した弟が対立し、曾祖父が弟を銃で殺すことで騒動を治めたという噂があった(鷹四はこれを信じた)。また別の噂として、曾祖父が騒動の後で弟を高知に逃がし、弟は維新政府の高官になったというのもあった(蜜三郎はこちらを信じた)。

 蜜三郎と妻はバスで四国の森へ入るが、洪水で橋が壊れたままになっている。ずっと家を管理させていた、むかし鷹四の子守娘だった痩せ型のジンが、大食病によって体重百三十二キロの「日本一の大女」になっていた。

 鷹四は曾祖父の弟と、敗戦直後に復員して来たS次兄さんが朝鮮人集落と村の若者たちとの衝突で撲殺されたこととに自己同一性を求め、谷間の若者たちを組織して、フットボール・チームを作る。一方、蜜三郎は傍観者を自認している。村は「スーパー・マーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人のスーパーに経済的に支配されているが、鷹四はフットボール・チームの若者や村人を扇動して、万延元年の一揆に重ねあわせた、スーパーの略奪という「想像力の暴動」を実行する。

 曾祖父やその弟、S兄の「御霊」の扮装をした念仏踊りがある。鷹四は兄の妻菜採子と性交渉を持ったうえに、谷間の村の肉体派の娘を強姦しようとして殺害する(もしくは罪を背負う)。さらには、「本当の事を言おう」と、かつて白痴の妹が自殺した原因は、貴種流離譚を作りあげ、曾祖父とその弟以来の家系にひどく拡大した誇りを抱いていた自分との近親相姦による妊娠、堕胎、不妊手術のせいだと告白し、猟銃で頭を柘榴のように撃って自殺してしまう。

 谷間の村の象徴的存在だった根所家の倉屋敷が、鷹四から買いとったスーパー・マーケットの天皇の手で解体されると、地下倉が発見される。万延元年の一揆後、曾祖父の弟は、殺されも逃亡もせず、失敗した一揆の指導者の責任をとって、地下倉に三十年間、兄と手紙のやりとりをしながら非転向のままに、自己幽閉していたとわかる。そして、万延元年から十一年後の明治四年の廃藩置県のさい、大参事を自殺に追い込み、処罰はなしという成功裡の騒動で、「頑民総代」として官憲と交渉したひとりの猫背の大男の指導者は、曾祖父の弟が、突然地上に再現した姿に違いない、と推定させた。

 曾祖父の弟と鷹四は、自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んだ。自分のidentityを確かめて、自己統一をとげたのだ、と気づかせ、僕に新しい生き方を発見させる。

 

<「外部」と「歴史」>

 再び、大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』に戻る。

「歴史」について詳しく見てゆきたいのだが、その前段階として「外部」という重要概念を説明しているので、注意しておこう。

《『飼育』において、森のなかの村に突然入り込んで来たのは、戦っている敵国の、日本人とはあきらかに皮膚の色も違う異邦人の兵士でした。それは集落の「外部」の人間を、アレゴリー的にまで徹底している人物です。『芽むしり仔撃ち』では、都市の空襲による被害から逃げ出して来た、少年院に収容されていた少年たちが、「外部」からの人間としてやって来た者たちでした。》

 続いて『芽むしり仔撃ち』から『万延元年のフットボール』に入り込んで来たもの、それは「歴史」である。

《ところが『万延元年のフットボール』には「歴史」が荒あらしく入り込んで、この地形学的な構造のなかで起る出来事を二重構造にしたのです。万延元年(一八六〇)と一九六〇年とが百年をへだてて照応しあって、お互いに意味を喚起し続けるのです。》

《さて、「歴史」を『万延元年のフットボール』のなかへみちびき込むことをさせたきっかけ(・・・・)は、私がずっと耳にして生きて来た、土地の民話なのでした。小説の舞台のみならず、その主題にも浸透している集落の地形学的構造が、私の幼少時の目にうつる環境であったのに対して、私はそれらの民話を耳からとりいれる環境の構造として、成長してきたのです。それは『万延元年のフットボール』を書いている時点で、当の私にふたつのレヴェルで把握しなおされていたのでした。》

 そうして土地の民話的伝承と、祝祭的な踊りの歌とが説明されてゆく。

《第一は、祖母と母に聞かされて育った、この土地の民話的伝承です。『万延元年のフットボール』を書いた時、私はそのなかでも、ほぼ百年前に起った二度の百姓一揆を語りつたえるものに、とくに関心を集中していました。

 祖母は幼少女期に、この出来事に実際に関わった人々と同じ社会に生きました。したがって彼女の語る民話には、実際に会った人々についてのエピソード的な思い出話がつねに加えられるのでした。祖母には独特なナラティヴの才能があり、彼女は自分の人生で経験されたすべてのことを、かつて聞き覚えた民話のナラティヴのまま語ることができました。それは新しい民話を創造することでもあり、それとの結びつきにおいて、この地方に伝わって来た、もっと古い民話を再創造することにもなりました。

 しかも彼女は語り手(祖母)と聞き手(私)とがともにそのなかで生きている集落の地形学的な構造に、その民話のそれぞれを具体的に位置づけて語ったのです。それは祖母のナラティヴにリアリティーをあたえました。また、それは集落のいちいちに、民話的=神話的意味を確認しなおすことでもありました。》

 ついで、祝祭の踊りの音頭の「もどき」が語られる。

《もうひとつの動機は、一九四五年の敗戦の直後、戦中には自粛されていた秋祭りが、農民たちによって回復されたことに直接根ざしています。それを運営したもっとも活動的なメムバーは、軍隊から復員してきた若者たちで、かれらは農村の日常生活にあらためて入り込み適応してゆくよりも、まず非日常的な祝祭の気分で、一種の休暇を楽しもうとしていたのでした。

 さて、そのようにして小学校の校庭で行なわれた秋祭りの踊りで、屋台に上った農民の歌い手が、「もどき」と呼ばれる音頭を歌ったのです。それはこの地方に起った二度の百姓一揆の物語を叙事詩的に語るもので、特徴として、集落を囲む森の、また集落のなかの地名を、一揆の行列の進み具合にそくして、いちいち歌い込んでいました。「もどき」は、私にとって、まず集落の地形学的な構造の物語であり、祖母から聞いてきた民話的=神話的な物語の、祝祭的なナラティヴによるパフォーマンスでもあったのでした。》

 二つが統合されて、新生を吹き込んだ。

《私はこの二つの契機によって、『万延元年のフットボール』の、東京に出て行った兄弟をあらためて集落に呼び戻し、一九六〇年代の物語と百年前の物語とを、その地形学的な構造のなかで結びつける方法に辿りついたのでした。それは私にとって、作家としての再出発を意味していました。》

 この兄弟は、谷間の村という「場所」の内部で生まれ育ち、都市へ向けて出て行ったが、再び「外部」から訪れるものとして、「民話=神話的伝承」を祝祭のうちにとり戻して行く。

 

柳田国男折口信夫

 森をめぐる物語は、『万延元年のフットボール』(一九六七年)に続いて、ほぼ十年ごとに書かれた『同時代ゲーム』(一九七九年)、そして『M/Tと森のフシギの物語』(一九八六年)および『懐かしい年への手紙』(一九八七年)になると、ブレイク、イェーツ、ダンテなどの西洋的な物語を援用することで、「村=国家=小宇宙」の螺旋階段を地獄めぐりのように降りくだってゆくことになるのだけれど、『万延元年のフットボール』においては、柳田国男折口信夫の影響が大きい。小説の中で宣言されている。

 まず柳田国男については、第3章「森の力」で、僕と妻の菜採子が、迎えに来た鷹四のジープで森の谷間の村に入る時に、妻が「私もバスに乗って以来、この森の力は増大していると感じつづけていたの。私はその森の力に圧迫されて気が遠くなりそうだったもの」と言いだすと、鷹四が「森の恐怖をそのように敏感に感じとる人間は、発狂して森に逃げこむ人間と対極をなすかといえば、それはそうではなくて、むしろこのふたつの人間は、心理的にはひとつのタイプだと思うよ」と言ったことからである。

《僕は発狂した妻が森の奥へ駈けこむ光景を思いえがこうとして連想の鎖をたちきったのである。僕は柳田国男の《裸にして腰のまわりだけに襤褸を引き纏い、髪の毛は赤く、目は青くして光っていた》女について書いた文章を想起しつつあったのである。《山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常にたいせつな問題の端緒かもしれぬ》》

 これは柳田国男遠野物語』で提起された「山人」の、その後の「山人論」考察の成果である『山の人生』の「五 女人の山に入る者多き事」からである。何といっても森は狂気の場所なのだ。「産後の発狂」云々には妻菜採子の産後の精神不安からの連想があるうえ、のちに「御霊」となる鷹四の子を身籠ることへのおどろおどろしい予見さえ臭ってくる。

 第7章「念仏踊りの復興」では折口信夫の説がでてくる。妻が僕に、谷間の盂蘭盆会(うらぼんえ)の風習について説明をもとめたので、念仏踊りについて説明する。

《外部からこの窪地を襲って災厄をもたらす邪悪なものの典型がチョウソカベであり、それは谷間の民衆から絶対に拒否される敵であるが、窪地には、それとは異なったもう一種の邪悪なもの乃至は、邪悪をなすものが訪れる。しかもそれは谷間の人間にとって、それを拒否し外部へ押し戻すだけでは解決できない性格をもった存在である。なぜなら、もともとそれは谷間の民衆に属するものたちだからである。毎年、盂蘭盆会にそれらは森の高みから敷石道をつたう一列の行列をなして谷間に戻り、生きている人々に敬意をこめてむかえられる。僕は、折口信夫の論文によって、森から戻ってくるところのものが、すなわち森=他界から谷間=現世に働きかけて害をなすことのある「御霊」であることを教えられた。谷間に執拗な洪水が荒れたり、イモチが猖獗をきわめたりすると、それは「御霊」によるとされて、かれらを慰めるためにその盂蘭盆会に人々は熱情を燃やす。(中略)毎年、森から一列になって降りてくる盂蘭盆会の行列は、僕の家の前庭に辿りついて円陣を作って踊り、最後には倉屋敷に上りこんで座敷ボメをすませた後飲み食いしたので、盂蘭盆会の行列を見物することに限っていえば、僕は谷間のすべての子供たちのうち特権的な位置にあった。》

念仏踊りは万延元年の一揆を起点としてできあがった風習なの?」と妻が問う。僕は折口を援用した説明を加える。

《「いや、そういうことはない。それ以前から念仏踊りはおこなわれていたし、『御霊』は谷間に人間が住みはじめた時以来、存在しつづけてきただろう。一揆後、数年あるいは、数十年は曾祖父さんの弟の『御霊』もS兄さんの『御霊』同様に、行列のびりっかすのあたりでシゴかれる初歩的な『御霊』にすぎなかったにちがいない。折口信夫は、この新しい『御霊』のことを新発意(シンボチ)と呼んで、念仏踊りをつうじておこなわれる、そうした新入生の訓練を拷(シオ)りと定義していた。扮装をつけて激しく動きまわる念仏踊りは相当な重労働だから、『御霊』自身の訓練は別の話にしても、それに扮した村の若者にとっては確かに、充分シゴかれて訓練されることになるにちがいない。」

折口信夫の論文」というのは、折口最晩年の『民族史観における他界観念』であろう。僕の説明に直接該当する部分の前後も重要なので、長くなるが引用しておく。

「荒ぶる霊」という章には、「御霊」に関する折口論が集約されている。

《(前略)御霊は、――古くは――宮廷及び京師の市民に祟る悪霊の称であって、事実から言えば、神化していない人間の悪執である。霊気(リヤウケ)即、やや新しく、知識的な言い方だが、普通はもののけである。執念を、個人又は、ある一家・一族に持つものが其であって、此れの範囲が拡り、禍が一般的になったものが御霊(ゴリヤウ)である。古い歴史を持ったまま継続した「御霊」は、奈良から平安時代にかけて起ったものだから、奈良京・平安京の持ち主とも言うべき宮廷への怨念を、宮廷直轄の地とも言うべき京師の民・作物に表現したものである。人間或は物品に寄せて、悪念のなす所を示すことが、たたるの語義である。(中略)邪霊の、とりわけ人間死者のなす所と解せられるものは、皆御霊(ゴリヤウ)と謂われるようになった。多く土地百姓に祟り、疫病を行い、農業を妨げ、稲虫を生ぜしめた。必しも善人の不幸に横死したものばかりではなかった。却て多く凶悪・暴戻な者が、死んで農村・産業を災したものが数えきれない程である。近世まで之を御霊と言ったり言わなかったり、いろいろしているが、その傾向のものは、後から後から頻りに出た。御霊の類裔の激増する時期が到来した。戦争である。戦場で一時に、多勢の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言うべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるようになった。そうして、御霊信仰は、内容も様式も変って来た。戦死人の亡執を表現するのが、主として念仏踊りであって、亡霊自ら動作するものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。》

 ついで、「念仏踊り」の章が続くが、谷間の念仏踊りに瓜ふたつと言えよう。そして、宗教行事であると共に芸能演技である、霊魂を攻め虐げて完成させようとする目的と合致するという考察は、この小説の核ともなっている。

《村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顕す。道を降りながら行う念仏踊りは、縦隊で後進する。家に入ると、庭で円陣を作って踊ることが多い。迎えられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻って踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。(中略)一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものの意義から言えば、無縁亡魂を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行われる修練行だと言えぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊)の中心となるものに二つあって、才芸(音頭)又は新発意(シンボチ)と言う名で表している。新発意は先達(センダチ)の指導を受ける後達(ゴタチ)の代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。ここで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集って、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考えた信仰が、こういう形で示されているのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛えあげられることに当る。》

 

<曾我物語>

「御霊」といえば、平将門菅原道真崇徳院とともに、曾我十郎(兄)・五郎(弟)の曾我兄弟の御霊はまず外せないところだ。『曾我物語』をもとに書かれた曾我物、曾我狂言として歌舞伎、能、謡曲で演じられてきたのは知られるところで、江戸時代の流行は去ったとはいえ、今でもよく初春興行される『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』はつとに名高い。

万延元年のフットボール』で兄蜜三郎は次のような認識者としての言葉を寺の若い住職に発する。

《僕は根所家の人間のうちで、万延元年の事件から勇壮な暗示を受けとることを拒む側のタイプの血をうけついでいるんです。見る夢にしても、曾祖父さんのヒロイックな弟に自分を同一化するかわりに、恐れおののいて倉屋敷に閉じこもっているばかりか、曾祖父さんのように鉄砲を撃つほどのこともしない臆病な傍観者として惨めな夢を見る始末ですよ》

 曾我狂言における和事(わごと)の曾我十郎は兄蜜三郎ほどに臆病な傍観者ではないものの、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』での十郎の性根は、「立騒いで尾籠な弟」を「ジッと辛抱しやいのウ」といい留めるところにある。五郎が派手で、弟鷹四のようにヒロイックで仕所がある役のようにみえるのは荒事(あらごと)ゆえである。坂田藤十郎に代表される上方風の優雅で女性的な色男の表現で演じる和事と、市川團十郎に代表される江戸風の男性的で烈しい祭祀的な信仰の力と情念で演じる荒事の対照は、興行的な利点もさることながら、演劇的なバロックの美意識ともいえよう。

 もとになった『曾我物語』を紹介しておく。

 

 工藤大夫祐隆は後妻の連れ子と通じて子を産ませ、養子伊東祐継として伊東庄(いとうのしょう)を継がせた。嫡孫の河津次郎祐親は、箱根権現の別当に祐継を調伏させ、病に倒れた祐継を見舞って後事を託される。その死後、伊東庄に入って、姓を伊東に改め、祐継の子、工藤祐経に自分の娘を嫁がせたうえ、京の平重盛に仕えさせることで所領を奪った。

 工藤祐経は母の死にさいし、父の形見の譲り状によって、伊東庄が河津(伊東)次郎祐親のものではなく、自分の所有だと気づく。そのうえ、祐親の娘だった祐経の妻は実家に引取られてしまう。妻と領地とを奪われた祐経は、年来の家臣、大見の小弥太と八幡の三郎に、怨みを晴らしてくれまいかと持ちかけた。このころ伊藤の館には流人の身の源頼朝(佐殿(すけどの))がいたが、退屈を慰めようと三日三夜の宴ののち天城のあたりで狩りに興じた。二人の刺客は狩の帰りの河津三郎祐重(祐親の長男)を射る。祐重は首謀は工藤祐経であり、家臣の大見と八幡を見かけたと言い残して落命する。

 祐親には男の子が三人いた。兄は五歳の一万(後の十郎)、弟は三歳の箱王(後の五郎)、そして父の死の翌日に生れた御坊(後の伊東禅師)である。彼らの母は尼になる覚悟を固めていたが、舅の祐親の諭しで曾我太郎に長男、次男を連れて縁づく。

 その後、娘に通って子をなした頼朝を夜討ちにしようとした祐親は、頼朝が関東に覇権を唱えてのち討たれ、頼朝の誘いを断って平家方に加わった河津(伊東)一族は零落した。一方、工藤祐経は、頼朝の寵臣となって、伊東庄ほかの領地を賜わる。

 曾我兄弟は継父、曾我太郎の下で育ったが、九つと七つの年に、実の父を恋い、仇敵の工藤祐経を討つことを誓いあう。三年後、工藤祐経は、頼朝の行く末の仇となるべき者が二人いる、それは伊東入道(祐親)の孫たちである、と述べたため、幼い一万と箱王は由比の浜辺で斬られることになったが、梶原景季和田義盛畠山重忠らの命乞いで事なきをえた。

 兄の一万は十三の年に元服して曾我十郎祐成となった。弟の箱王は、やがて僧になるために箱根権現の別当に預けられた。翌年、頼朝が箱根権現に参詣する。箱王は工藤祐経に近づこうとしたが、祐経に気づかれて優しい言葉をかけられ、刀一振を与えられる。

 箱王は箱根を下りて、兄とともに北条に向かい元服することとした。北条時政烏帽子(えぼし)親(おや)となって、曾我五郎時致を名のらせた。十郎は情報を集めるために大磯の廓に通い、虎という遊女と親しむ。五郎もまた化粧坂の下の遊君に通う。

 頼朝の狩りの催しを聞いて兄弟は、浅間、三原野、那須と追うが、よい折りにめぐりあえない。頼朝が、富士野の狩場で盛大な狩りを催す。最後の夜、十郎は祐経の屋形に招じ入れられ、二人の遊女、手越の少将と黄瀬川の亀鶴が今様を歌って舞う。十郎と五郎は従者の鬼王・道三郎兄弟に形見を預け、曾我に帰らせた。曾我兄弟は祐経の寝所に押し入る。兄弟は二人の遊女を衣に包んで畳から引きおろすと、十郎が祐経を起こして名のりをあげ、祐経を斬った。庭に出て名のりをあげ、五十余人を斬ったあげく、十郎は討たれ、五郎は女装した五郎丸に召し捕られた。頼朝の前に据えられて、直接に事情を訊ねられたが、頼朝は祐経の子らに怨みを繰りかえさせないためにと五郎を斬らせた。

 大磯の虎は供養で曾我に現れ、兄弟の母と共に泣いた。箱根に登って仏事をいとなみ、善光寺へと旅立つ。

 

 丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で、《『曾我物語』を読んだ人など、専門家ならともかく普通の読者には滅多にゐないのも、当然のことである。そこで、とりあえず『曾我物語』の紹介からはじめることにしよう。忠臣蔵論なのになぜそんな道草を喰ふのかと怪しまれるかもしれないが、わたしの考へでは、あの事件はもともと江戸の曾我ばやりのせいで起つたものだつた》と言っているが、万延元年の一揆が曾我兄弟のせいで起ったとまで言うつもりはないものの、蜜三郎・鷹四兄弟に曾我十郎・五郎兄弟の影をみることはできよう。

 丸谷は筋を数ページにわたってかなり丁寧に紹介した後、《筋をたどっても、『曾我物語』を紹介したことにはならないだろう。大事な要素はこぼれ落ちてしまふのである。その肝要なものをいささか書き添へて見る》と言って、四つあげている。

第一に故事を引いた部分がすべてはぶいてある。第二に『曾我物語』の文体は美しい。第三に頼朝(体制一般)への怨みが見えがくれする。第四に『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。

 ここで、『万延元年のフットボール』にも共通してくるものが、第四の御霊信仰と第三の体制への怨み、であることは言うまでもない。

 はじめに第三の怨みから片付けてしまえば、一揆も一九六〇年の政治的闘争もスーパー・マーケットの略奪という「想像力の暴動」も、体制、権力者への憎しみと悪意から生れた謀反であるということにつきる。

 第四の御霊信仰に関しては、次の説明で十分だろう。

《そして第四に、これは柳田国男折口信夫によつて説かれて以来、次第に浸透して、今ではもう定説となつた考へ方だが、宗教論的な層で言へば、『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。御霊信仰の定義づけはむづかしいけれど、ここではとりあへず、非業の最期をとげた者、殊に政治的敗者の怨魂がたたつて疫病その他の災厄をもたらすといふ日本の古代信仰、と言つて置かう。アメリカの宗教学者ロバート・J・スミスが御霊をvengefulgod(復讐神)と訳してゐるのは、わかりやすくていいかもしれない。そして、死霊が怒つて禍をもたらすと考へる以上、それを何とかなだめようと企てるのは当然のことだつた。(中略)この信仰がそののちいつこうに衰へず、むしろ盛んになつたことは、菅原道真平将門後鳥羽院などの例によつて明らかである。(中略)

 曾我兄弟はまさしく後鳥羽院の同時代人だが、箱根権現の僧が『曾我物語』ないしその原型を作つたとき、自分で明確に意識してゐた(そして社会からも公認されてゐた)動機は、これによつて兄弟の死霊を慰め、世を災異から救いたいといふ願ひだつたらう。比丘尼(びくに)たちや瞽女(ごぜ)(鼓を手に曾我伝説を語った盲女)たちが語り歩いたのもこのためである。そのことは『曾我伝説』のほうぼうに痕跡をとどめてゐる。》

 果して若い兄弟の怨恨はたたる。このことを耳にした頼朝は兄弟を神に祀るが、本当のことを言えば頼朝の祀り方は足りなくて、十郎と五郎の霊はやがて源氏をたやしてしまうわけだが、『曾我物語』の作者は口をつぐんでいても、大衆は、

《ここには何か異様なものがあると思ったからこそ、曾我伝説に魅了されたのである。その異様なものの正体は、仇討といふ呪術的な儀式による一王朝の滅亡にほかならない。

 ここで思ひ出されるのは、ゴロウといふ名がゴリヨウと近いためますます尊崇されたといふ柳田国男の説である。これは説得力に富む意見だと言はなければならない。一般に呪術的な心理においては語呂合せが強力に作用するし、それに、鎌倉権五郎とか大人弥五郎とか、ゴロウといふ名の神を祀る習俗が全国に多い(柳田国男氏神と氏子』その他)からである。》

 

<曾我兄弟の首>

 驚いた事に、富士の裾野から遠く離れた四国の「地形学的な構造」の森に、「曾我十郎首塚」があるのだった。大江健三郎が生まれ育った旧大瀬村(現内子町)の成屋から小田川の渓谷を1.5キロほど東にのぼった乙成という集落の北側に「曾我十郎首塚」なるものが確かにあって、「乙成に伝わる曾我伝説」という看板が掲げられている。

《幼い時(兄五才弟三才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満二十二才満二十才になった一一九三年冨士の裾野で巻狩りをする御陣へ二人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事が出来た。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。

 曽我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘に漂着し中山町、程内を通って乙成(椎木駄馬)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。

 塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」、裏には「建久四年癸丑五月二八日於冨士野御狩場殺父之敵工藤祐経干時以公命仁田四郎忠常仇之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋干此」と記されている。

 乙成地区住民は先祖よりこの曾我十郎神社をお詣りし、地域の文化遺産として守っている。

 首塚ということで首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多く、そのお礼に小さな絵馬が多数奉納されている。》

 また、『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)に、こういう記事もある。

《五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有。」とある。曽我の首塚伝説は『大洲随筆』にも見えており、「曽我五郎時宗、同十郎祐成共に河野三郎祐泰が子也。祐泰かって工藤左衛門尉祐経が為にはかられ死す。兄弟孤と成りて曽我太郎祐信が家に養育せられ、成長して敵祐経をねらふ。時に建久四年、将軍頼朝富上野に狩し給ひ、此時兄弟御陣へ打入り敵祐経を打取りし事曽我物語及び東鑑などにも見えて人の知る所也。御所を騒がせし罪に依りて兄弟共に生捕られ終に首を刎られたり。その亡骸を富士の裾野に埋めて神霊と号す。此時、曽我の忠臣に鬼王といふ者有り。宇和島鬼ケ城の者也。兄弟討死の後再び本国へ帰へらんと志しが、此時十郎の首を盗取りて帰り、此所に埋めしとぞ。その塚は大瀬村字井山といふ所に有り。往還より十丁ばかり上りて谷間の中に二つ建てり。(下略)」とある。大瀬乙成の椎木駄馬の首塚がそれであるが、以前には盛大な祭りが行われていたし、とくに首から上の病気に霊験があるというので祈願者も多かったそうである。》

 ここで、鬼王(おにおう)といえば、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』では、源氏の重宝友切丸(ともきりまる)という名剣を持って駆けつける実事(じつごと)役だ。また、明治時代の河竹黙阿弥作による実録風歴史劇『夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)』では、曾我旅宿の場は「かたみ送り」といわれ、討入りの伴を願う忠僕の鬼王(おにおう)・団三郎(どうさぶろう)兄弟を母への形見を持たせて国へ帰すのだが、兄弟の忠誠心で泣かせる。

 富士の裾野から四国愛媛とは、遠いといえば遠いが、『平家物語』、『義経記』、『源平盛衰記』などを読めば、北は平泉から関東、北陸、紀伊、四国、中国地方、南は九州、奄美王島、硫黄島まで空間的な拡がりをもっているのだから、旧大瀬村乙成に十郎の首が運ばれたというのはあながち荒唐無稽ではあるまい。それよりも重要なのは、事実か否かよりも、首が「外部」から来たということ、雨乞いにせよなんにせよ、そのような「御霊」が所望されて「首塚」という形を成し、多くの信者を得て今に伝えられている、ということに違いない。

 先に引用した折口信夫『民族史観における他界観念』に、図らずも「曾我兄弟」の名前が出てくる。「他界と 地境と」という章で、賽(サイ)ノ河原(カハラ)が在る所に関しての余談としてではあるが、「曾我十郎首塚」のある人里離れた場所についての示唆となるだろう。

《賽ノ河原は、地獄の所属で、鬼・羅刹がここに、出没する。時として地蔵尊の示現があり、小い霊魂が、その庇護を蒙ると言う風に考えるのが普通で、如何にも、中世人の空想の近世にかけて育ったものらしく思われて来ている。而も現実の賽ノ河原と称するものが、処々にあることが、却て単純な、昔びとの虚構らしく思わせて、何の為に、こんな笑いを誘う値もないものを残したかと、気の知れなさを感じることもある。

 或は山中に在ることも、人離れた海岸などに在ることもある。稀には、人里近く寺の境内にあるものすらある。とりわけ甚しいのは、大和長谷寺の本堂脇にあるもので、そこには曾我兄弟の亡魂の現れたことなども説いている。思いつき易いことよりも、思いより難いことを考えた古人の思想が、寧不思議なのである。数多い賽ノ河原が、申し合せた様に、寂しい水浜・山陰にあって、相当の距離ある、ある部落と次の部落との間の空地――普通村境と言うべき所にあることが、常である。》

 大江は、ほぼ十年後に書いた『同時代ゲーム』で、「曾我十郎首塚」に筆を伸ばしている。メキシコの闘牛場で、胸と尻とを揺さぶりながら宙をにらみすえて歩いている女を見たとき、自分の幼・少年期のさかいめに、われわれの土地をひとりの三十女が震撼した日のことを思い出す。

《子供ら仲間とともに、僕は女が五挺の猟銃を持って立てこもった「杉十郎首塚」を偵察に行った。妹よ、僕はそのように記憶にとどめるのだが、しかしあの現場へは、とくに子供らの接近こそが禁じられていたものなのだ。(中略)女は撃ちつづけ、最初の獲物として谷間の駐在所の巡査を倒す。それはわれわれの土地の人間が、他所者(よそもの)の巡査にむけて、おまえの立っている所は「杉十郎首塚」から見て恰好の狙い場所だと、教えてやることをしなかったからだ。むしろ谷間と「在」の野蛮な復員兵どもは、この出来事の祭のような性格を盛りあげるために、巡査を犠牲羊としたのだといまの僕は思う。

 それに加えて僕が過去にむけて読みかえうることをいえば、「杉十郎首塚」は、われわれの土地におけるそれを他の土地の伝承にひきつけて考えるかぎり、曽我十郎首塚というべきものであろう。そして僕自身、子供心にすでに、杉と曽我とのふたつの言葉を二重うつしにしていたように思うのである。この窪地には、われわれの土地の創建期に植えられた杉の巨木がそびえて、その蔭には古い石塚があったのだ。

 そしてやはり子供の時分から僕が父=神主にスパルタ教育されたわれわれの土地の神話と歴史に対比して違和感を持っていたのが、この「杉十郎首塚」の並はずれた古さなのであった。それを僕が、曽我十郎の首が本当におさめられている塚だと思っていたというのではないが、それはやはり曽我伝説の時代にさかのぼる石塚のようには感じられて、そうだとすれば、石塚はやはりこの地帯の先住者によって建てられたものかと疑われたからだ。そのあとで創建者たちがやって来て、塚の脇に杉を植え、「杉十郎首塚」として意味づけの置き換えをはかったのだとすれば、この場所には先住者の問題が、永い間、谷間と「在」の人びとの意識のかげで生きていたのだ。

 そのように考えすすめると、あの猟銃によって武装した、絶望し忿怒した三十女は、人びとの心やましさの底流を表にひきずりだし、われわれの土地の全成員にそれを投げかえすことをめざして、「杉十郎首塚」に立てこもったのだと想像される。(中略)首塚の石積みからミイラになった躰を起し、女の背後によりそって立つ杉十郎。その巨大さは、夕暮の杉の巨木の眺めにかさなっているが、なによりそれは瀕死の「大猿」どもの族長のミイラであり、血筋の暗渠(あんきょ)をつうじて忿怒し絶望した女につらなる祖先のものなのであった……》

 この背後の巨大さは御霊ゆえであろう。

 

 ところで、『万延元年のフットボール』にも、アレゴリカルな劇中劇のように、兄ではなく「弟の首」ではあるけれども「首」が登場している。戦争のはじまった年の秋、小学生の蜜三郎が弟鷹四と、生れたばかりの妹をおぶったジンとその三人の子供たちと一緒に学芸会を見ているうちに、引きつけをおこして気絶したというエピソードだ。僕(蜜三郎)は、酔った妻の内部に起るべき疑惑(「ジンは、赤ん坊の異常が蜜(・)をつうじての遺伝じゃないかといったの」)の増殖を惧れて、突然襲いかかった悪霊の正体について、細心の注意を払って妻に話した。

《われわれの一米前に教壇をふたつ繋ぎあわせた舞台が作られて、高等科の生徒たちがそこで芝居をする。はじめ頭を手拭いで包んだ生徒たちが(それは谷間の高等科の数から推測すれば、ほんの十四、五人であった筈だが、子供の僕には小規模の群衆に見えた)田畑を耕作していた。すなわち、かれらは昔の百姓である。そのかれらが鍬を棄てて斧や鎌の類を武器に、戦う訓練をはじめる。指導者が出現する。かれは谷間の若者のひとりで子供の眼にもまことに美しい男である。かれの指揮のもと、武装した農民たちは、藩の実力者の首を取る訓練の練習をする。黒い包みが首に見たてられていて、二群にわかれた農民たちが、「贋の首」を奪いあう訓練をするのである。二幕目ではひとりの立派な装束の男があらわれて、農民たちに実力者の首をとってはならないと訓戒するが、猛りたった農民たちはそれを受けつけない。そこで男は、農民たちにそれでは実力者の首は自分が取るという。暗いところで待ちうけている農民たちの前を覆面の男が通りかかるのへ、立派な装束の男はやにわに斬りかかる。覆面の男の役は、ひとりの生徒が頭から黒い布をすっぽりかぶり、その上に黒い球をくくりつけているので、普通の子供たちより一段と背が高く見える恐しげな存在である。斬りつけられた男の「本当の首」が、鈍く重い大きな音をたてて舞台に転がり落ちると、斬りつけた男は隠れている農民たちに向って怒鳴るように、

 ――それ、弟の首ぞ! と叫ぶ。覆面を開いて死んだ若い指導者の首を認めた農民たちは恥じて激しく泣く……

 その筋書についてはジンが前もって教えてくれた上に、稽古の段階でこの芝居をたびたび見ていたので、からくりを熟知していたにもかかわらず僕は、石をつめた竹籠でつくられた「本当の首」が落ちた瞬間か、

 ――それ、弟の首ぞ! と怒鳴る声に驚かされた瞬間かに、あるいは僕の記憶の世界の実情にそのままそくしていえば、まさにそのふたつが合成されたもっとも危機的な瞬間に、恐怖にかられて泣き喚きながら床に墜落して、引きつけをおこし気を失った。そして再び意識を回復した時僕はすでに家に運びこまれていて、枕もとの祖母が母に、

 ――曾孫でも血のつながりは恐しいものですが! といっているのを聴きながら、恐怖心のあまりになお眼をつむり躰をこわばらせて気絶したままのふりをしていた。》

 この学芸会の台本は、郷土史の研究をしていた谷間の小学校の教頭が書いたものと小説中であかされているが、「曾我十郎首塚のある」土地の伝説の曾我十郎の首が、荒事の曾我五郎のようにヒロイックに振る舞った曾祖父の弟の首に転移したのではないか。それは、一教師の創作による御霊幻想というよりも、森の谷間の村の願望にかなった物語、いわばラカン精神分析の〈大文字の他者〉、〈象徴界〉の表徴化でもあったに違いない。

 歴史は、神話的構造を保ったまま繰り返されて物語をつづける。背後の巨大な御霊ゆえに、弟鷹四は、万延元年一揆の通奏底音ともいえる曾我伝説に自分を重ねあわせ、荒ぶる弟曾我五郎として祭祀のごとく暴れたのではないか。そして兄蜜三郎もまた和やかな兄曾我十郎として無意識に認識者を演じたのではないか。

                                   (了)

            **参考または引用**

 *大江健三郎『飼育』(新潮文庫

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫

大江健三郎万延元年のフットボール』(講談社

大江健三郎同時代ゲーム』(新潮社)

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(岩波書店

大江健三郎『懐かしい年への手紙』(講談社

大江健三郎『小説の神話宇宙に私を探す試み』(『大江健三郎・再発見』大江健三郎/すばる編集部編(集英社))

*『柳田国男全集4「山の人生」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集11「妹の力」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集14「氏神と氏子」』(ちくま文庫

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』 (文春新書)

折口信夫『民族史観における他界観念』(『折口信夫 天皇論集』安藤礼二編(講談社文芸文庫))

折口信夫『古代研究 民族編』(中央公論社

*『曽我物語(新編日本古典文学全集)』(小学館

丸谷才一忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま学芸文庫

渡辺保『増補版 歌舞伎手帳』(角川ソフィア文庫

郡司正勝『かぶき』(ちくま学芸文庫

*『助六由縁江戸桜 寿曽我対面 (歌舞伎オン・ステージ)』諏訪春雄編(白水社

*『曽我十郎五郎首塚』(旅南予協議会HP)

*『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』ジャック・アラン=ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店