文学批評 「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

  「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

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 丸谷才一の長編小説のなかで『笹まくら』(1966年)が最高傑作である、と考える読者はかなりいるのではないだろうか。おそらくその人は、処女長編の『エホバの顔を避けて』(1960年)を著者が習作と呼んでいたとは思わずにすぐれた作品だと感嘆し、対(つい)であるかのように、ほぼ10年ごとに発表された『たつた一人の反乱』(1972年)はまだしも、それ以降の『裏声で歌へ君が代』(1982年)、『女ざかり』(1993年)、『輝く日の宮』(2003年)、『持ち重りする薔薇の花』(2011年)は、モダンな技芸と文明批評との融合によって脳が活性化し、うまい、と膝を打っても、胸高ならすものは感じなかったに違いない。評論、書評、エッセイストとしての丸谷の言うことはいつも正鵠を射るものであるだけに、模範解答、表現形態である小説がつまらないとは言いだしにくい、というのが本音という人もいよう。

 没後も含めて、そう多くはない丸谷才一論を読み進めれば、著者の心情に反して『エホバの顔を避けて』の評判はおおむね高く、『笹まくら』に至ってはいっそうの高みにある。かといって、中後期の長編小説群が失敗作と評されることはまずないが、小説を読む面白さが、夢みるような、身につまされるような経験にあるのだとすれば、少なくとも後者が物足りない。『笹まくら』は二度、三度と読み直すことで、味わいが幾重にも響いてくるのに対して、それら諸作品は再読の気分を起させない。いや、それは、丸谷が生涯にわたって認識していたことで、読者の文化・文明の成熟レベルが追いつかないと知りつつの「たった一人の反乱」、啓蒙活動であったのだ、とも言いうるのだけれど。

 そういった感想を抱いてしまう理由を、はからずも松浦寿輝が、2013年の『エホバの顔を避けて』復刻版(KAWADEルネサンス)の巻末文『栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』で代弁してくれている。

《わたしは丸谷才一のあらゆる作品の何にもまして『エホバの顔を避けて』を愛さずにはいられない。この異形の長編の著者は、その完成の後、これはもう衆目の一致するところの掛け値なしの傑作と呼ぶほかない長編『笹まくら』を書く。(中略)わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹まくら』を心から賞嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、第三長編の『たつた一人の反乱』以降、『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』と続く――先に述べた表現を繰り返すなら――上質な「市民小説」の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えたためしがない。》

 松浦は続ける。《実際、彼自身は『エホバの顔を避けて』を習作でしかないと考え、彼なりの「近代市民小説」の試みの方を自身の本領として、それに自信と矜持を持っていたようだ。》《ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間なのである。そんな男にはひょっとしたら「市民」の資格はないのだろうか。そうかもしれないが、それならそれでいっこう構わない。本音をいうならわたしは、「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていないからである。事実、『エホバの顔を避けて』には、「文明」的な「社交」を楽しむ「近代的市民」など、ただの一人も登場していないではないか。》

 ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間ではないけれども、感じるところはほぼ一緒なのである。さらに言えば、「国家」「戦争」「反乱」はあっても「市民からの逃走」が、「近代市民」「祝祭・呪術論」はあっても「前近代的土着」がなくなったことが理由であるに違いない(この国の総理大臣や経団連会長の顔を思い浮かべるとき、丸谷はパロディストとして、騎士物語に対するセルバンテスのような批評意識によって『ドン・キホーテ』のように書いたとしか思えない)。

 しかし、あまり結論めいたことを急がないで、『笹まくら』の多様な魅力を解きほぐしてゆくべきだろう。

『笹まくら』(1966年夏)執筆以前に、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』の共訳やグレアム・グリーン『不良少年(ブライトン・ロック)』などの英語文学の翻訳があった。処女小説にはその作家のすべてがあるというのと同じように、これまで発表してきた評論をまとめて刊行した処女文芸評論集『梨のつぶて』(1966年秋)に評論家としてのすべてがあることは、目次を見るだけで一目瞭然である。

 文明論としての「未来の日本語のために」「津田左右吉に逆らって」「日本文学のなかの世界文学」「実生活とは何か、実感とは何か」、日本論としての「舟のかよひ路」「家隆伝説」「吉野山はいずくぞ」「鬼貫」「空想家と小説」「菊池寛の亡霊が」「梶井基次郎についての覚書」「小説とユーモア」、西欧論として「「嵐が丘」とその付近」「サロメの三つの顔」「ブラウン神父の周辺」「若いダイダロスの悩み」「西の国の伊達男たち」「エンターテインメントとは何か」「グレアム・グリーンの文体」「父のいない家族」である。

 これから、丸谷および『笹まくら』を論じるにあたって、思いつくまま順不同にあげれば、①国文学、②英文学、③パスティーシュ、④言葉と文体、⑤意識の流れと内的独白、⑥サスペンスとミステリー、⑦スリラーと逃亡、⑧小説と時間、⑨名前、⑩官能的なもの、⑪徴兵忌避と国家論、⑫ユーモアとアイロニー、⑬エンターテインメント、⑭精神風俗、⑮近代と前近代、⑯市民社会と社交と市民小説、⑰モダニズム、⑱神話、⑲祝祭と呪術と御霊信仰、⑳座としての連歌、などの様々な鏡にくるくると万華鏡のように映しだすことは容易であるけれども、丸谷が嫌った月並みな態度は避け、いくつかの重要な言葉を言霊(ことだま)のように「選択」し、丸谷の批評の言葉を「引用」し、「編集」するという「アンソロジスト丸谷才一にならった態度で『笹まくら』の雲母のような多層な煌めきを剥がしてみたい。

 

<『笹まくら』の粗筋>

『笹まくら』の粗筋を、物理的時間軸(ストーリー)のとおりに知ってどうにかなるものではないのだけれど、一応の最低限として共有しておく。

小説の時間(プロット)は「人間的時間」とでもいったもので、はじめに元恋人阿貴子の死亡通知を受け取る現在がある。猥雑に主人公を押し流す現在の時間に、無意識的記憶の過去が一行空けもなく不意に湧きあがったかと思うと、いくども交錯し、クラゲのように揺らぎ、たゆたい、また不安であったり甘やかであったりするスリリングな過去が紡ぎだされては、目の前の社会は容赦なく先へと進み、ときには記憶の過去のなかでさえ思い出は時間の流れに翻弄される笹舟のように行きつ戻りつ、サスペンスの組紐のような物語が織られてゆく。

 

 神道系の私立大学職員で、若い妻陽子のいる平穏な市民浜田庄吉のもとへ、二十年前に恋人だった年上の女阿貴子の死亡通知が四国宇和島から届く。浜田は、東京青山の町医者の息子で、旧制の官立高等工業学校を卒業して無線会社に勤務していた二十歳の昭和十五年秋から五年間、徴兵忌避者だった。

 杉浦健次と名前を変えた徴兵忌避者は、はじめはラジオや時計の修理、ついで砂絵師となって、九州から奥羽、伊豆、北陸、山陰、朝鮮、北海道、和歌山、山陽、四国まで各地を転々とした。憲兵に怯えつつも、隠岐での阿貴子との恋と官能もある、不安でスリリングな「笹まくら」の日々は、阿貴子の実家がある宇和島での八月十五日の終戦で幕を閉じる。その日を境に杉浦健次は浜田庄吉に戻り、後妻に行くと告げる阿貴子との別れの後、浜田は東京へ戻って大学職員に社会復帰した。

 一方、戦後二十年がたち、日本社会の変化を映すように反動化しはじめた学内で、浜田は過去の逃亡の陰口をきく声を耳にしたり、あるいは逆に政治的に利用しようとする動きがあったり、課長への昇進話と高岡の付属高校への左遷話といった学内政治の波に翻弄されたりで、小心翼々、希望と絶望のあいだを揺れ動き、内面は現在と過去を頻繁に往き来する。

 そんなある日、万引きで逮捕された妻陽子を引き取って家に帰る途中で浜田は、泣き寝入る妻の自由な顔に魅惑されて自由(・・)という観念に、悲しい心の高揚を感じていた。徴兵忌避者として家族にも友人にも知らせずに家を出て、東京駅から宮崎へ向かう自由な反逆者。さようなら。しかしそれが何に対する、どれほどの決定的な別れの挨拶(あいさつ)なのかは、二十歳(はたち)の若者にはまだよく判(わか)っていなかった。

 

 小説は、プルースト失われた時を求めて』のように円環を形成して、ウロボロスのような螺旋を描く。ドラマチック・アイロニーのうちに、あれがそうだったのか、あれはどうだったか、とスリリングな時間を構成しなおせ、プロットとストーリーを合体させてミステリアスを解消し、カタルシスを完成させよ、とばかりに再読を促す。

 

<西の国の伊達男たち>

 のちに評論集『梨のつぶて』に収録される『西の国の伊達男たち』で丸谷は、T・S・エリオットについて、『荒地』の詩の一行の重層的な読み方からはじめて、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の多言語的方法との影響関係を論じ、もっとも有名な評論『伝統と個人的な才能』の言わんとするところを述べ、ジョイスユリシーズ』についての評論(『ユリシーズ、秩序、神話』)における、ホメロス叙事詩とのパラレリズム(並行的使用)についての《現代史といふ空虚と混乱にみちた広大な展望を支配し、秩序づけ、意味と形式とを与へる手段》という重要な考察をとりあげた。

 ついで、ジョイスと典型的な文学的流浪者(エグザイル)であったエズラ・パウンドも加えての、ヨーロッパの西(アメリカ、アイルランド)から来た三人が、《真のアヴァンギャルドは古典主義者だといふ命題の正しさを身をもつて證しすることができた。そして彼らの作品は、世紀末から第一次世界大戦を経て、西欧の没落を意識してゐるヨーロッパの、あらゆる不安とあらゆる願ひの、最も正確で最も美しい表現となることができたのである》と伊達男たちを顕彰した。

 ここで、エリオットの『伝統と個人的な才能』から重要な箇所を引用する。

《この歴史的な感覚は、過去が過去であるというだけでなくて、過去が現在に生きているということの認識を含むものであり、それは我々がものを書く時、自分の世代が自分とともにあるということのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学全体、及びその一部をなしている自分の国の文学全体が、同時に存在していて、一つの秩序を形成していることを感じさせずには置かないものなのである。この歴史的な感覚は、時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる。そしてそれは同時に、時間の流れの中で彼が占めている位置と、彼自身が属している時代に対して、彼を最も敏感にする者なのである。》

『笹まくら』はそういった歴史的な感覚による表現であって、さらには、現在と過去との人間的な「時間」をめぐる構造となっているのは、エリオットの《時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる》ということの果実となっている。

 さて、「西の国の伊達男たち」が活躍したのは二十世紀初頭だが、その八~十世紀もの昔、ヨーロッパの西のアメリカ、アイルランドの反対側、ユーラシア大陸の東の日本に「東の国の伊達な男たち」がいた。いや驚嘆すべきことに多くの女たちもいたのだから、「東の国の伊達男・伊達女たち」がいたと言い直さなければなるまい。それがどういった男と女たちだったかは、これから名前をあげてゆく。

 

<「笹まくら」>

 まず、俊成卿女(しゆんぜいきようのじよ)。

『笹まくら』という小説の題は、フランス語教師の桑野助教授が読んでいた『新訂俊成卿女家集(しゆんぜいきようのじよのかしゆう)』の和歌から来る。

「嫌いなのは『万葉集』。戦争中、はやりすぎたのの反動かもしれないけれど」と応じた桑野は、「これは鎌倉時代?」と問う浜田に、「ええ。新古今時代。藤原俊成の養女。一名、越野禅尼ともいって、十二世紀から十三世紀にかけての歌人です」と、ボードレール学者はまるで文学辞典の項目のように答えた。浜田はページをめくり、目にとまった一首を、声を出して読んでみた。

《「これもまたかりそめ臥(ぶ)しのさゝ枕(まくら)一夜の夢の契(ちぎ)りばかりに。むずかしい歌ですね」》

 桑野は、そうむずかしくはない、刈り、節、笹と竹づくしになっていて、笹枕というのは草枕とおんなしで、旅寝、寝ると言っても、旅さきでのかりそめの恋、万葉時代なら、実際に、笹の密生しているところに頭を置いて寝たのかもしれませんね、とおしゃべりする合間に、浜田が口をはさんで、「かさかさする音が不安な感じでしょうね。やりきれない、不安な旅……」と、笹の音から不安な旅を連想し、戦争中の徴兵忌避者としての体験がこもったまずいことを言ってしまい、和歌山で馬上の憲兵に遭遇した記憶へと運ばれていく。

(なお、俊成卿女の代表作といえば、『新古今和歌集』や『千五百番歌合』の、「下燃えに思ひ消えなむ煙だにあとなき雲のはてぞかなしき」「おもかげの霞める月ぞやどりける春やむかしの袖の涙に」「橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする」「梅の花あかぬ色香も昔にておなじかたみの春の夜の月」「風かよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」の複雑精妙な艶麗があげられよう。)

 丸谷は『新々百人一首』の「はしがき」で、「百人一首」との縁からはじまって、「笹まくら」という題との関係を回想している。

 もともとの『百人一首』との縁が、姉たちの取る歌がるた、父の詠みあげる読み札だったのは、たいていの日本人に共通する文学の初体験かもしれないが、わたしがいささか違うのは、中学二年生か三年生のころ萩原朔太郎の詩に夢中になって、とりわけ次の詩に夢中になっていたことである、と言う。

《       旅よりある女に贈る

 

山の頂上にきれいな草むらがある、

その上でわたしたちは寝ころんで居た。

眼をあげてとほい麓の方を眺めると、

いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。

空には風がながれてゐる、

おれは小石をひろつて口にあてながら、

どこといふあておなしに、

ほうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

 

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。》

 後年そのことを思い出して、あれは詩人が大弐三位(だいにのさんみ)の「有馬やま猪名(いな)の笹原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」の影響下に書いたものではないか、そして幼いわたしもまた、大弐三位の作と萩原朔太郎の作とを二重写しにして文学的感銘を受けていたのではないか、と思う。十代のころ、日本文学史を縦断するものとしての藤原定家詩学を漠然と感じ取っていて、やがて『日本文学史早わかり』に結集するような勅撰集重視の考え方を抱懐するようになったのだし、『別冊 百人一首』のような書を編むことになったのだろう、

《いや、もつとさかのぼつて言へば、ごく初期の長編小説に版元の反対を押し切つて『笹まくら』といふ題をつけたのもこれと関係があるに決まつてゐる。すべては猪名の笹原の風にはじまる》との述懐だ。

 萩原朔太郎が伊達男だったことに異論ある者はまずいないだろう。

 桜咲く隠岐の島を舞台にした阿貴子との逢いびきを、隠岐へ流された貴種後鳥羽院との二重写しで描いたことは『後鳥羽院』の「あとがき」に書いてある(《わたしが国学院大学をやめた年の春、彼一流の優しいいたわり方で、野坂昭如が山陰へ連れ出してくれたとき、皆生の宿で、とつぜん隠岐へゆこうという話になったのである。(中略)あの島でわたしがいちばん感動したのは、陵の隣りの、後鳥羽院を祀る隠岐神社の花ざかりにたまたま出会ったことである。あの満開の桜は「ながながし日もあかぬ」と言いたいくらいきれいだった。わたしはこの景色を『笹まくら』に取入れることにして、徴兵忌避者と家出娘とに隠岐神社で花見をさせたのだが、あとで気がついてみると、野坂も『受胎旅行』のなかで、どうしても子供を授からない夫婦にこのお宮の花を眺めさせていた。》)が、坂を登ったところの景観と新枕は、朔太郎も加えての(さらには本歌どりによる大弐三位をも加えての)多重写しで腕を振るったことは間違いあるまい。

隠岐(おき)神社の桜は美しかった。ひろびろとしていて開放的な神域も、隠岐造りと呼ばれる端正ですっきりした様式の本殿その他も、そして銅ぶきの本殿がせおっている低い山の縁も、みなこの白い桜のためにあるような気がしてくる。

「いいお宮ですね」と杉浦は言った。「こういう商売をしてますから、ずいぶんたくさん、ほうぼうのお宮を見ましたが、ここがいちばん気に入ったな。何かこう……」と露天商らしい言葉を探したが、それがどうしてもみつからないので仕方なく、「晴れやかで悲しくて」》

 この「晴れやかで悲しくて」は丸谷の声であろうが、後鳥羽院の歌の、晴れやかで悲しくて官能的な調べであるとともに、朔太郎の草むらの詩のそれでもある。二人は、桜に堪能してから、三郎岩を見に行った。坂を一里ばかり歩かなければならない。砂利を敷いた道は途中でなくなり、あとはもう放牧の牛たちが五六十頭、草を食べたり、間の抜けた声で鳴いたりしている山のなかの径(みち)を登るしかない。これを登れば、海と岩を臨む地点に達することができる。三郎岩の眺めは大したことはなかったが、見晴らしのきく平らなところに坐(すわ)ってぼんやりと、ずいぶん長いあいだ休んだ。立上り、牛たちのいるほうへ降りて行くと、黒と白の斑(まだ)らの大きな牛が不意に出て来て、阿貴子が両手で顔を覆(おお)いながらよろめき、牛はただのそのそと通り過ぎて行った。

《女の白い顔は男の顔のすぐそばにあった。二つの顔が近づき、二つの口が逢(あ)い、男の左腕は女の枕(まくら)となった。(中略)童貞の男は処女でない女の指図に従い、すべてはうまく行った。女がもう一度、しかし前よりも激しく言葉にならない言葉を言った。思いがけなく近いところで、のんびりと牛が鳴いた。一匹が、また一匹が。牛たちにおそらく見まもられながら、青い四月の天の下で、彼は牡牛(おうし)になり彼女は牝牛(めうし)となる。》

  

<『後鳥羽院』の「あとがき」>

 実は、『後鳥羽院』の「あとがき」は、挨拶やいきさつであるとともに、丸谷の文芸批評の見取り図のような趣さえある。『笹まくら』の舞台となった神教系の大学のモデルは、断るまでもなく国学院大学だが、桑野助教授などを思わす錚々たる同僚(1960~70年ごろに海外文学を翻訳、紹介、批評した気鋭の文学者たち)がいて興味深い。少し長くなるが、ここに出てくる固有名詞は新旧の伊達男列伝でもあるので、紹介する。

《これはひょっとすると、わたしと国学院大学との関係を記念するために書かれた本かも知れない。(中略)一つには、何といっても故菊池武一教授の寛容な人柄のせいで、外国語研究室に数多くの優れた同僚がいたためである。そこにはたとえば安藤次男さんがいた。故橋本一明がいた。中野孝次がいた。菅野昭正がいた。清水徹がいた。飯島耕一がいた。これに加うるに、まえまえからの知りあいである篠田一士や川村二郎や永川玲二がいた。(中略)しかし、わたしが『新古今』に熱をあげることになったのは、今となっては遠い昔のある日、何かの用で菊池さんのお宅に伺った際、書架にあった「日本歌学大系」の端本を見て、借りて帰ったのがきっかけのような気がしてならない。そのなかの「東野州聞書」に書きとめてある、

     藤原定家

 生駒山あらしも秋の色に吹く手染の絲のよるぞ悲しき

の正徹の分析にたちまち心をとらえられたのである。それは当時わたしが、永川玲二、高松雄一小池滋、沢崎順之助、その他の同僚たちと一緒にジョイスの『フィネガンズ・ウィイク』を読みながら、主として彼らのおかげで発見することができた『フィネガンス・ウェイク』解読の方法と何一つ変るところがないように感じられた。このときわたしは日本の中世文学を理解し、それと同時に西欧の二十世紀文学を理解したのではないだろうか。あるいは、明治維新以後百年の文学の歪みを知ったのではなかろうか。エリオットの言う「伝統」という概念の真の理解は、まことに奇妙なことに、あるいは当然なことに、わたしの場合「日本歌学大系」によってもたらされたのである。わたしは夢中になって中世の歌論を読み、『新古今』を読んだ。あるいは、ジョイス=エリオットの方法によるものとしての『新古今』を読んだ。わたしがホメロス以後、ないし柿本人麿以後の文学の正統に近づくためには、ただこの態度しかなかったのである。(中略)図書館の書架でたまたま手にした『後鳥羽院御百首』の室町期の古注によって、小学教科書で教わって以来、久しいあいだ疑問としていた、

                     後鳥羽院

  我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

の謎がとけたのも、このころだったような気がする。そしてこの歌にこだわることは、必然的に、折口信夫の学問へとわたしを導いて行ったし、『女房文学から隠者文学へ』というかけ値なしの傑作はわたしと『新古今』との関係をいっそう深いものにしてくれた。それは日本文学史全体のなかに後鳥羽院と定家とを据えることによって、実は彼らを世界文学のなかにまことに正しく位置づけていたのである。》

 

<貴種流離>

「笹まくら」という枕詞と折口信夫『女房文学から隠者文学へ』と「徴兵忌避」から、当然のように、折口の学説であるヤマトタケル在原業平光源氏源義経などの「貴種流離」が連想されるだろう。丸谷は『後鳥羽院』の「隠岐を夢みる」で、折口は自分を後鳥羽院になぞらえていたのではないかと言う。第一に、この帝が和歌に長けていたこと、詩人として優れ、批評家として有能で、文学運動の指導者として成功した。第二に、宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけったこと(折口も門弟たちを集めて君主のように振る舞って喜んでいたと聞く)、もともと彼には王権への憧れがあって、少年時代、母が実の母かどうかを疑って悩んでいたというのは、むしろ父母が実の父母ではなくてほしいという願望の抑圧された表現だろうし、貴種流離譚という学説は、自分が漂泊の王子でありたいという渇望を核にして生れたものだろう。そして第三に、折口が最も憧れたものは後鳥羽院承久の乱後における、国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのない悲劇的境遇であった。

 ヤマトタケルにおけるオトタチバナヒメ義経における静御前のような救いの女阿貴子を登場させ、後鳥羽院を祀る隠岐神社に二人を向かわせて結ばせたのは、貴種流離めいた小説を書き続けた丸谷の思い入れだったのだろう。それに、杉浦が阿貴子に庇護されたのが四国の宇和島だったのは、蛮社の獄で収監され、脱獄して各地を転々とした高野長英が伊予宇和島藩主の第八代伊達宗城(むねなり)(後妻に行くと阿貴子が告げた「天赦園」を建造したのは宗城(むねなり)の養父七代伊達宗紀(むねただ)(春山))の庇護を受けた地であったことも作用したかもしれないし、さらにこれは深読みにすぎるだろうが、流離の人物と土地の名として種田山頭火(短編小説『横しぐれ』に登場する)の松山や尾崎放哉の小豆島も思い浮かべたかもしれない。

 さて、ここでは、流離を「追われる者」という視点から考えてみたい。

 知られるように、英文学者としてスタートした丸谷は、小説執筆前にグレアム・グリーンの小説『不良少年(ブライトン・ロック)』(1952年)、『負けた者がみな貰う』(1956年)、『ここは戦場だ』(1958年)を翻訳していて、さらに、『エンターテインメントとは何か』(『近代文学』3月号)と『グレアム・グリーンの文体』(『英文法研究』1959年11月号)というグレアム・グリーン論を書いている(どちらも『梨のつぶて』に収録)が、『エンターテインメントとは何か』をみてゆく。

 書き出しの三行で読者を引き付けるのは、丸谷才一の「書評三原則」の一つだった、と鹿島茂は回顧している(『書物の達人』)が、書評ばかりではなく、評論にも適応していたらしい。

グレアム・グリーンがその長編小説をノヴル(novel)とエンターテインメント(entertainment)とに分けていることは周知の事実だが、この国の人々はほとんど、ノヴルはまじめな純文学、エンターテインメントは大衆向けの娯楽読物と考えて、それで安心しているらしい。》 

 ところがこのさき、丸谷にしては珍しく、論旨が定まらず、もやもやしている。実際、最終章に来て、《だが、ここまで記してきても、ぼくはまだ語り終えたという気持になれない。たぶん問題はそれほど錯綜しているのだろうし、グリーンがそれほど韜晦しているのだろう》と呟いているくらいだ。だからここでは、「追われる者」についての部分に限定してとりあげることとするが、それでも、丸谷がグリーンから学んだ躊躇、揺れ動く苦悩、人間性の把握は、丸谷の内面の声のようでもあるだけに、のちにノヴルでもエンターテインメントでもある『笹まくら』に高い次元で活かされたことは間違いない。

 初めの三行を受け、欧米の批評家たちは見解を異にし、ノヴルとエンターテインメントとを同一の次元において、この作家の世界を認識し、鑑賞し、分析することに、丸谷はおおむね賛成し、《エンターテインメントと銘打たれているグリーンの作品群が、ノヴルと銘打たれている彼の作品群と比較して、いくぶん異った味わいを漂わせていることはたしかだが、しかし決定的な品質の相違はぼくには見出し得なかったからである。ましてこの国のいわゆる中間小説のような愚劣さ低級さなど、彼のエンターテインメントのどの一篇にもなかった。(中略)第一、ノヴルにもスリラー的な要素、探偵小説的な技法が極めて多く用いられていることは言うまでもないし、エンターテインメントにもノヴルの場合と同じように、観念が追及され、主題が展開され、文学的一世界が構築されていることは、すこし注意して読めば誰にだって判るはずだ》としている。

 ハイネマン版でエンターテインメントと銘打たれている作品のなかでは、『恐怖省』が最もすぐれている。戦時下のロンドン、妻を殺して獄に送られ、特赦によって世間に出た主人公アーサー・ラウは、何者かが自分を殺そうとしていると確信し、私立探偵レニット氏の事務所へとおもむく。説明を聞いた探偵は一笑に附す。ラウが苛立って、「あなたは今まで、探偵としての生涯で、殺人とか殺人者とかにかかわりあったことは一度もないんですか?」と訊ねると、「率直に申しまして、ないんですよ。一度もありません」とレニット氏は答えてから、けだるそうにたしなめた。「ねえ、人生ってものは探偵小説とは違うんですよ」

 丸谷は、手さぐりで、自分に言い聞かせるような口調をもって続ける。

《ぼくはこの対話を、いわばグリーンの方法への鍵ともなるべき重要なものだと考えたい。グリーンは、人生は探偵小説とは違うということを知っている。しかもグリーンは、レニット探偵の単純で楽天的な知り方とはずいぶん異り、はるかに高い次元でそのことを知っているのである。もしそうでないならば、こういうスリラー仕立ての発端は彼にとって可能だったろうか? この作家は、探偵小説が読者たちに提供する人生のイメージが究極的には偽りのものにすぎぬということと同時に、ぼくたちの人生はある意味で探偵小説と酷似しているということをも知っているのだ。》

《彼は幼いころにマジョリー・ボウエンの長編小説『ミラノの蝮(まむし)』を読み、そこから、人間とは他人から隔絶された孤独な存在であるということ、人間性は白地に黒(ブラツク・アンド・ホワイト)ではなくて灰いろ地に黒(ブラツク・アンド・グレイ)であるということを、学んだ。この少年は、悪に憑かれた暗澹たる人間存在を、一女流作家の通俗的な作品を契機として発見したのである。そして、そのような状況を鋭く追及することによっての、そこからの脱出――それが彼の文学の宿命となったのだし、幼児におけるそのような認識は、彼の主題を決定するとともに、方法をある程度まで規定するようになったと思われる。彼は、極めてスリラー的、探偵小説的な作風を選んだ。》

《彼は、探偵小説の虚偽を――つまり人生は探偵小説とは違うことを――最初から見抜いていた。それは、コナン・ドイルからアガサ・クリスティーにいたる数多くの探偵小説作家に共通する誤謬なのだが、人間悪という重要な事実を、ストーリーのための単なる道具立てとしてしか利用せず、そこから出発してその巨大な課題を究明しようとする文学的努力を、いささかも試みなかったことに起因している。(中略)探偵小説におけるこのような虚偽と欺瞞を、グリーンは批判しようとしたのだ、とぼくは考える。つまり彼は、『シャーロック・ホームズ』に代表されるヴィクトリア時代ふうの娯楽読物(エンターテインメント)に対し、痛烈なパロディを投げつけたのである。(中略)パロディストであるグリーンの批評の方法は、観念的にはたえず神の存在を意識しながら制作することであり、技法的には、探偵小説の定跡である追う者(探偵)に視点を置いた構成に叛逆して、追われる者(犯罪者)に視点を置くこととなる。それは当然、いわゆるスリラーの色彩を濃くもつことになるのだが、このような視点の設定が、人間悪を自己の内部の存在としてとらえるために最適なものであることは、論ずるまでもあるまい。そして、そのような作品のなかのあるものに、エンターテインメントという高度に逆説的な、皮肉きわまる命名をおこなうことは、グリーンのような韜晦癖のある作家の場合、むしろ極めて自然なことだろう。》

 繰り返すようだが、「この作家」とは丸谷才一のことでもあり、グリーンと同じような批評的方法と追われる者に視点を置く構成によって書かれた小説が『笹まくら』だ。

 加えるに、流離というと普通は空間的な土地をめぐる流離をイメージするが、『笹まくら』においては、グリーンも『ブライトン・ロック』などで技法的に用いたように、時間的をめぐる流離でもあることは、小説のページを数度繰るだけでわかる。そういった時間の流れの感覚は、さきにエリオット『伝統と個人的な才能』から引用したとおりである。

 

<橋姫>

 岩国の錦帯橋で、杉浦は阿貴子に自分が徴兵忌避者であることを告白する。いったいに『笹まくら』は阿貴子との逃避行の場面場面が、せつなくもスリリングで美しい。映像美に溢れた雨の錦帯橋の場面の後ろには、おそらく「橋姫」の影が控えているだろう。

 隠岐で結ばれた二人は、隠岐からまず松江へゆき、憲兵特高がこわいので下関へはゆかず、津和野(つわの)、山口、宇部(うべ)。阿貴子のせいで子供たちがよく集まり、砂絵の売れ行きは増したが、杉浦は、ゆきずりに拾った恋人が穿鑿しなくなったこと(本当の名前が杉浦とは違うのではないか、ずっと東京の人だったような気がする、砂絵師にしては言葉がインテリくさい)にかえって怯(おび)えていた。

《岩国は雨だった。小雨がつづいた二日目の朝、二人は宿屋から傘を借りて錦帯橋を見に行った。錦川の水は青みがかった灰いろで、槍倒(やりこか)しの松はもう死に絶えそうになっており、約三百年も前に造られた木の橋は、その極端な人工性によって自然とのあいだに調和を作ろうと、今も懸命に努めている。意外なことに、橋を通る人は誰もいない。彼はそのことに驚きながら、今をのがしたらもう機会はないと考えた。二人は中央の反橋(そりばし)で欄干によりかかり、下流のほうを眺めた。男は不意に別れ話をはじめ、女は、あたしが嫌いになったのかと問い返し、いや、そうじゃないという答えを得た。じゃあ、どうしてなの? 男はさまざまの理由を並べ、一つ一つしりぞけられた。たとえば、砂絵なんてものはせいぜい一人分の生活費しか稼げないし、宮崎の婆さんに仕送りもしなくちゃならない、という理由は、このところ砂絵はよく売れているし、それにあたしの分はあなたに金を出させていないはずだ、というふうに。女は、もうしばらくいっしょにいたいと言って涙を浮べ、番傘の黄いろい光に染められた憂(うれ)い顔が彼の心を激しくゆすぶった。そして彼はとつぜん、告白している自分に気がついたのである。》

 丸谷は『後鳥羽院』のなかで、「橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙」後鳥羽院(『新古今和歌集』冬歌)から「橋姫」を論じ、「七夕説話」との共通点にも言及している。

 橋姫は『新古今』時代の代表的な題材で、宇治の女を詠む流行は、たくさんの名歌を残している。たとえば、「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」藤原定家、「はしひめの袖の朝霜なほさえてかすみふきこす宇治の川風」俊成卿女、などいくらでもあげられる。

 発生的には古代信仰にかかわる話なので、民俗学のほうを調べなければなるまいということで、《柳田国男によれば、「橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀ってゐた美しい女神のことで」、宇治橋に限らず、諸国の数々の橋に橋姫がいた痕跡があるし(たとえば甲斐の国玉(くだま)の大橋、近江の瀬田橋、青梅街道の淀橋、伊勢の神宮宇治橋)》というふうにあたってゆく。『新古今』時代の歌人たちは、何よりも『古今』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫」読人しらず、に魅せられたらしい。また、『源氏物語』の「総角(あげまき)」の「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」という匂宮の歌を介して、「宇治十帖」の世界が寄り添っていた気配がある。

 さらに丸谷は「宇治」と「憂(う)し」との言葉の重層性に言及したあと、モダニズムの定義を展開して「七夕説話」と「橋姫」の共通点に到る。

《二十世紀のヨーロッパに広く見られる現象だが、文学者たちは写実主義から脱出する手がかりを神話に求め、競ってさまざまの神話を枠組としながら彼らの世界を表現した。(中略)歴史主義という近代の病患に犯されぬ限り、人間は常に普遍的なものを尊んできたし、それゆえ神話はこれほど久しいあいだ、何千年の昔から人間の魂をとらえてきたのだ。二十世紀文学の神話的方法は、こういう健全な人間観を再認識し、健全な文学観を再建するための試みにすぎない。

 とすれば、わが王朝の歌人たちが一種の神話的方法を採用したのはいささかも驚くに当らない話だろう。その最も代表的なものは七夕説話で、『古今集』の歌人はたとえば織女の心になって、

  ひさかたの天の河原の渡し守きみ渡りなば梶かくしてよ

と詠み、そして『新古今集』の歌人はたとえば、表むき七夕の歌と見せかけながら、

  七夕のと渡る舟のかぢの葉にいく秋かきつ露の玉づさ

という実は恋歌を詠んだ。そしてわたしの見たところ、『新古今』歌人たちが七夕説話に次いで重んじたものは橋姫伝説にほかならない。

 当然、七夕と橋姫という二つの神話の共通点を探しだすのが必要な手つづきになるわけだが、これは至って易しい。いずれも恋愛神話であり、いずれも悲劇的な設定であると答えればそれで要は尽しているのである。》

 それから丸谷は、第三の共通点として、いっしょに暮している男女ではなく、ときどき逢う仲だという風俗的な視点も考察し、高群逸枝の「擬制婿取婚」と平安後期の白拍子・遊女好みの影響にまで及んでいて、橋の女には複合的、多層的なイメージであって、それはまた、《変転の諸相を隈なく探ることによって普遍的な人間を捉えるという神話的方法の精髄なのである》とした。なるほど阿貴子もそのような女だった。

 

<七夕>

「笹まくら」という言葉、あるいは「橋姫」「七夕」という言葉の力については、村上春樹丸谷才一の短編小説『樹影譚』を論じるなかで、「呪文=ただの言葉」が人の運命を変え、存在を揺るがし、あるいは命さえも奪ってしまう、言霊(ことだま)とでも言うべきそれは、丸谷才一のライトモチーフのひとつなのかもしれない、と語っている(『若い読者のための短編小説案内』)。

《「笹まくら」にしても、徴兵忌避者・杉浦の逃避行が、仮寝の「笹まくら」という言葉に凝縮されてしまうことによって、そこにほとんど圧倒的と言ってもいいような、前近代への吸収作用が生まれでてくる。明治維新(もちろん徴兵制もそこには含まれています)という一見して堅く地均(じなら)しされた土壌のすぐ下に、我々の精神の影の原風景が息づいていることを、たったひとつの言葉の響きから、我々ははっと気づかされることになります。その吸収のすさまじいダイナミズムは、すでに意味を終了してしまったかとも思えていた戦争中の浜田庄吉→杉浦健次の神話的変身譚を、今はさえない中年の主人公・浜田が大学の事務員を勤めている現代まで、さあっと一気に敷衍してしまうことになる。》

 夫婦で出かけた網代の寮で、妻の陽子が七夕の折り紙を買って来たこと(それは小説の最後で、これもまた万引きしたものではなかったのかという浜田の疑念の対象になる)から回想が灯火管制の七夕に溶けこむ。昭和二十年七月の宇和島の七夕を祝う場面には、匂やかでせつない耳の快楽が奏でられていて、こんな小さな宇宙にも夢と現実の天の川が流れている。

 阿貴子が町で短冊紙(たんざくがみ)をようやくみつけてきて、「七夕のとわたる舟のかぢの葉に いく秋かきつ 露の玉づさ」と書き、「しちせきの……」と読んだ。「たなばたの、じゃないかな?」「しちせきの、と読むのよ。母さんにそう教わったんですから」。杉浦は『古今集』か何かの歌だろうな、誰の歌なんだろう、阿貴子はしゃしゃあと「読み人しらず」と答える。夕食が終ってしばらくすると、阿貴子の母が、そろそろ七夕様をしようかと言った。窓際(まどぎわ)に机が置かれて、西瓜や瓜や、空の丼(どんぶり)や小鉢が並べられ、阿貴子が薬罐から水をついだ。

《そよ風が渡るにつれて竹の葉が揺れ、糸で吊(つる)した色紙や短冊や紙の果物が揺れる。砂絵の砂のこぼれ落ちる音が聞こえるようでもある。空の明るさを背景にする黒い笹や黒い紙を見ながら、そしてかすかな音を聞きながら、三人は西瓜を食べた。蚊取線香は机の下で焚(た)いてあるのだが、ときどき蚊の音がする。西瓜の匂いのせいだろうか、竹の葉の匂いのせいだろうか、今朝の阿貴子の肢体の思い出がなまなましく迫ってくる。今夜は城山のサイレンが鳴らなければいいが、と阿貴子の母が言った。杉浦が、この部屋にも置いてあるラジオのスイッチを押し、小さな音で聞えるようにした。ラジオのダイヤルの灯りが洩(も)れぬよう、阿貴子が風呂敷をかぶせた。ラジオ・ドラマがとぎれ、アナウンサーが沈痛な声で言った。どうやら今夜は仙台と宇都宮の番らしい。阿貴子の母は、北の方でよかったと呟いた。ラジオ・ドラマがまたはじまった。母に催促されて、阿貴子が丼や小鉢の水を捨て、新しい水をついだ。これは牽牛(けんぎゅう)・織女が渡りやすいように天の川の水をきれいにするという意味なのか、どうか、杉浦は訊ねたかったが、我慢して口には出さない。去年、同じことを質問して、そういうしきたりなのだとしか答えてもらえなかったことを思い出したからである。真桑瓜を一きれ食べると、阿貴子の母はもうやすむことにすると言って下へ降りて行った。杉浦は瓜を食べるのをやめ、阿貴子の乳房を服の上から触り、乳首が硬くなってくるとスナップをはずした。白い顔がそばに寄って来て、息をはずませながら彼の唇を探す。》

 丸谷は『新々百人一首』で「七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ」を詳しく論じている。もちろん丸谷才一は杉浦健次ではないから、「読み人しらず」でも「しちせき」でも『古今集』でもなく、「藤原俊成(ふじわらのとしなり)」であり「たなばた」であり『新古今和歌集』である。秋は男女がはじめて関係する季節であったらしいこと、日本の七夕祭について書くことは民俗学的方法が手に余る難しいことで、折口信夫の説を紹介しながら、中国の乞巧奠(きこうでん)の移入というだけでは説明のつかない要素が多いことをあげている。一首は華麗な縁語的世界、天の川の系列の天界の層(「七夕」「門(と)」「渡る」「舟」「梶」「露」)と恋文の系列の地上・人間の世界の層(「梶の葉」「書く」「露」)の二層によって形づくられていて、久保田淳が『新古今集』の部立では秋歌になっているが「この歌、実は恋の歌」と説くのは正しいとしている。

 折口の説を後押ししようと『笹まくら』で描写された宇和島の七夕の習慣についても紹介している。

《たとへば四国の宇和島では、いくつかの盥(たらひ)に洗面器に水を張って、一晩ぢゆうしきりに水を取替へる。これをするのはたいてい女である。こんなことは中国ではどうもしないらしいし、すくなくともわたしの探した範囲では見つからなかつた。宇和島のこの習俗は、普通、星を水に映して祭るのだと考えられてゐるやうだが、そのためなら水を取替へるのはをかしい。ところがこれはミソギに奉仕する水の女には符合するのである。》

 ついで丸谷は、折口信夫が『たなばた供養』のなかで言う、七夕には衣を貸すという風俗に言及したあと、小南一郎の『中国の神話と物語り』と西村享の『王朝びとの四季』をあげながら、オージー(祭、乱痴気騒ぎ)によるカーニヴァル的な祝祭、七夕の日に男女相会う、性の解放という習俗が平安朝以前からあったのではないかと考え、さらには柳田国男盂蘭盆会の笹竹からはじまって、ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の世界と「死と再生」へ、モダニズム的思考によって歩んでゆく。

《なほ、日本の七夕祭の古層としては、これは柳田国男の説だが、盂蘭盆会(うらぼんえ)の古形の一環として死者の霊を迎へるといふ気持があつたらしい。これでゆけば、笹竹を飾るのは魂の依代(よりしろ)といふことになるわけだ。死者の霊を祭ることと性の解放とが同じ日におこなはれるのは、近代人の意識から言へば不思議な話だが、「死と再生」が古代人にとつて最も重要な図式であつたことを考へれば、ある程度、納得がゆくかもしれない。ずいぶん遠いところから、しかも時代としてはついこのあひだのところから、例を引くことになるけれど、たとへばアイルランドの通夜(ウエイク)では、死者の棺のかたはらで種々の猥褻なゲームがおこなわはれ、さらには贋の司祭(藁の服を着て縄のストラをかけてゐる)が贋の結婚式を司る。そしてマライア・エッジワース(一七六七~一八四九)によれば、通夜(ウエイク)ののち関係する男女は「婚礼によつて関係する男女よりも多い」といふ(エバンズ『アイルランドの習俗』)。このことは、折口、西村、柳田、小南の説を参照しながら原始のころの日本の秋のはじめを想像するに当り、いろいろと参考になるだろう。》

 七夕における「死と再生」。『笹まくら』がなぜ香奠の話、阿貴子(恋のはじまる秋(アキ)子)の死の知らせからはじまり、浜田庄吉の自由な生への逃走、杉浦健次への再生で終るのかはすでにあきらかであろう。

『笹まくら』には、東と西の伊達男・伊達女たちによる、伝統と個人的才能、方法と主題との、幸福な婚姻がある。

                                     (了)

            ******参照または引用文献******

*『丸谷才一全集 第一巻~十二巻』(文芸春秋

丸谷才一『エホバの顔を避けて』(KAWADEルネサンス)(巻末文、松浦寿輝栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』)(河出書房新社

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

丸谷才一『梨のつぶて』(晶文社

*『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編、川本三郎湯川豊岡野弘彦鹿島茂、関容子(集英社新書

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

*『エリオット選集 第一巻』(『伝統と個人的な才能』吉田健一訳、所収)(彌生書房)

鶴見俊輔高野長英』(朝日選書)

グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳(早川書房