映画批評 「エリック・ロメールについて(ノート)」

  「エリック・ロメールについて(ノート)」

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ロメールとバルト>

 ロラン・バルトが「ヌーヴェル・オプセルヴァトワール」誌に連載した「クリニック」の中に「ペルスヴァル」という短文がある(1979年3月)。エリック・ロメール監督の映画「聖杯伝説」 Perceval le Gallois (1978年)を観ての時評だが、ロメール映画の特徴をバルトらしい戯れの官能と道徳観で捉えている。

ペルスヴァル

 映画館では、タバコの煙は観客の迷惑になるおそれがあるので、禁煙になっている。しかし、わたしが感動し、大好きで、賞賛している映画を観ているときに、わたしの背後で笑い声を出すことを禁じる法律はない。とはいえ、その笑い声はわたしを傷つけているのだが。なぜなら、その夜に観客が笑っていた――と聞えた――のは、そのロメール映画のなかで、まさにわたしが好きな、感性にふれることがらだったからである。物語の技法や、ほかとは違うけれども明晰な言語の味わい、韻をふんだ言葉の魅力、人物の性格の立体感、文学と映像のきわめて繊細な関係、そして、ようするに、ある気品、親切心、善意などだったのである。

 たしかに『ペルスヴァル』には、わざと滑稽にした場面もいくつかある。だが、観客の笑いが、嘲笑や粗野な感情のようなものから生じているときには、また感受性や純粋さを笑っているときには、また気づかずに作者を笑っているときには、野蛮さが顔を出してくる。(後略)》

 

 ロメールの映画を見る時の不思議な幸福感はどこから来るのか。見ている時はもちろんのこと、見終えてからも余韻が残り、思い起こせば、見る前からすでに幸福感に包まれていたと気づく。ときに、ロメール作品はみな同じようではないか、と言いたてられ、しかしその本人から、見ていない作品があるとどうしても見たくなる、と言い訳される。この感覚は何かに似ている。バルトを読むときのそれではないのか。

 

 エリック・ロメール。1920年生まれ、1950年ごろから『カイエ・デュ・シネマ』などで映画評論を開始し、1960年代から映画を撮り続けて、89歳で没する2010年まで活躍した。

主要作品。

・「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)(「モンソーのパン屋の女の子」 La Boulangère de Monceau (1963年)、「シュザンヌの生き方」La Carrière de Suzanne (1963年)、「コレクションする女」 La Collectionneuse (1967年)、「モード家の一夜」 Ma nuit chez Maud (1969年)、「クレールの膝」 Le Genou de Claire (1970年)、「愛の昼下がり」 L'Amour l'après-midi (1972年)。

・「O侯爵夫人 」La Marquise d'O... (1976年)、「聖杯伝説」 Perceval le Gallois (1978年)。

・「喜劇と格言劇」シリーズ (Comédies et proverbes)(「飛行士の妻」 La Femme de l'aviateur (1981年)、「美しき結婚」 Le Beau Mariage (1982年)、「海辺のポリーヌ」 Pauline à la plage (1983年)、「満月の夜」 Les Nuits de la pleine lune (1984年)、「緑の光線」 Le Rayon vert (1986年)、「友だちの恋人」 L'Ami de mon amie (1987年))。

・「レネットとミラベル 四つの冒険」 Quatre aventures de Reinette et Mirabelle (1987年)。

・「四季の物語」シリーズ (Les Contes des quatre saisons)(「春のソナタ」 Conte de printemps (1990年)、「冬物語 」 Conte d'hiver (1992年)、「夏物語 」Conte d'été (1996年)、「恋の秋 」 Conte d'automne (1998年))。

・「木と市長と文化会館 または七つの偶然」 L'Arbre, le Maire et la Médiathèque (1993年)、「パリのランデブー」 Les Rendez-vous de Paris (1995年)、「グレースと公爵」 L'Anglaise et le Duc (2001年)、「三重スパイ 」Triple agent (2004年)、「我が至上の愛アストレとセラドン」 Les Amours d'Astrée et de Céladon (2006年)。

 

ロラン・バルト。1915年生まれ、1950年代半ばから、記号論、神話批評、テクスト論、ロマネスクな作家として活躍し、コレージュ・ド・フランスで講義していた1980年、64歳で交通事故により死去。

 主要著作。

『零度のエクリチュール』 Le Degré zéro de l'écriture (1953年) 、『ミシュレ』 Michelet par lui-même (1954年) 、『神話作用』 Mythologies (1957年)、『ラシーヌ論』 Sur Racine(1963年)、『エッセ・クリティック』 Essais Critiques (1964年) 、『モードの体系─その言語表現による記号学的分析』 Système de la mode (1967年) 、『S/Z─バルザック「サラジーヌ」の構造分析』 S/Z (1970年) 、『記号の国』 L'Empire des signes (1970年) 、『サド、フーリエロヨラSade,Fourier,Loyola(1971年)、『テクストの快楽』 Le Plaisir du texte (1973年) 、『彼自身によるロラン・バルトRoland Barthes par Roland Barthes (1975年) 、『恋愛のディスクール・断章』 Fragments d"un discours amoureux (1977年) 、『明るい部屋─写真についての覚書』 La Chambre claire (1980年) 。

 

 ロメールとバルトはほぼ同世代で、バルトが早世する1980年までの約20年間をパリで活躍した。バルトはロメールの「六つの教訓話シリーズ」、「O侯爵夫人」、「聖杯伝説」までは観ている。

 それにも関わらず、互いの著書や言説に交流の様子はほとんど見受けられない。かといって、まったくの疎遠というわけではなく、微妙に交錯する。ロメール(本名ジャン=マリ・モリス・シェレール)の弟ルネ・シェレールはパリ第八大学の哲学教授で、バルトと現代思想の盟友だったドゥルーズと親しく、その解説書も出している。シェレールは、フーリエに関する研究、著作を発表しているが、バルトの代表作には『サド・フーリエロヨラ』がある。シェレールはバルト同様に同性愛者(ロメール自身も秘密めいている)で、少年愛について書いている。

 バルト『明るい部屋』の写真論は、写真について論じる際には外せない名著だが、写真の人バルトは、ドゥルーズとは違って映画については数えるほどしか語っていない。その一つが冒頭に引用した「聖杯伝説」についての「ペルスヴァル」だ。ヒッチコック映画論のメルクマークとなった『ヒッチコック』の、ロメールとの共著者クロード・シャブロルの映画については、短文「右と左の映画― クロード・シャブロルの神話作用」(1959年)を残しているが、総じてバルトの「第三の意味」に代表される映画論は記号論に傾いていて、ロマネスクな魅力に乏しい。

 

 従って、ロメールとバルトの類似は、バルトの映画論以外のところに求めるべきだろう。一つは、「パスカル」への執着。一つは、バルト「恋愛のディスクール・断章」の言説との類似。しかし、そういったテーマより重要なのは、「優雅さと淫らさ」、「典雅さと卑猥さ」、「慎みと淫らさ」、「偶然と選択」、「偶然と必然」、「摂理と機会(chance)」といった「二項対立」の「軽さ」のニュアンス、「美の味わい」。

 

 また、世代的にドイツ哲学への関心が強かったこともあげられよう。

 ロメールは、インタヴューに応えて次の発言をしている。(「エリック・ロメール、確かな証拠」(「現代の映画シリーズ」より、ロメール/聞き手ジャン・ドューシェ、坂本安美訳)

「そうですね、私がそれほどフランス的伝統の中にいるものかどうかはわかりません。イギリスの伝統、というかむしろイギリス小説の中にいるとも言えるでしょうし。機知、喜劇性、つまり滑稽さ、ユーモア、なんと呼んだらいいのかわかりませんが私の書く台詞に存在するそうしたものは、フランスの作家たちよりもシェークスピアに近いものがあるように思えます(筆者註:あとで言及されるジョージ・メレディス『我意の人』などもイメージされているだろう)。(…)ともあれ、大いに影響を受けたのは、外国からでした。古代ギリシア・ローマ(古典古代)文化からの影響や、ドイツ、イギリスからの影響……、でも外国人たちがあまり私の作品を好きでないのは、それをフランス的だと彼らが思っているからなのかもしれません。実際のところはそんなにフランス的ではないのかもしれないのに……。

(…)ドイツに関して言えば、ヌーヴェル・ヴァーグの他の映像作家たちと同様、ドイツの文学よりも、哲学や音楽に惹かれていました。哲学の面では、私たちは全員、同じ学派に属していました。観念論派、こう言ってよければ先験的観念論、つまりヘーゲル、そしてマルクス主義者ではありませんでしたが、マルクスを経由してカントの後継者たちの学派に属していました。作家主義政策というものにしても同じことでしょう。私たち皆が考えていたこと、強く主張していたことは、理念の優位ということでした。なぜなら私たちは作家についての考えを持っており、作家とはその作品より重要であると考えていたのです。」

 バルトもまた「彼自身によるロラン・バルト」の「いくつかの位相[を経て]」で、ドイツ的なものとして、比較的初期に、マルクスブレヒトのテクスト連関(さまざまのあや[フィギュール]、隠喩、語としての思考が織りなす楽譜)による社会的神話論ジャンルを、後期にはニーチェによる道徳性ジャンルをあげているが、「道徳性」というのも二人に通底している。

 

 

<「モード家の一夜」>

 ロメールヒッチコック的な「姦通と告白」のサスペンスをめぐる「モード家の一夜」は、雪舞う地方都市クレルモン=フェランで、四人の男女が「誘惑と拒絶」を「優雅さと卑猥さ」のエスプリで戯れながら、シネマの虚構を官能的に演じる。

 ありふれたカトリック信者の主人公「私」が、教会で一人の女性を見初め、幾度もの「偶然と機会」によって彼女と出会う。私は、神の恩寵、摂理であるかのように、彼女=フランソワーズが妻になると確信する。

 14年ぶりに偶然再会した友人ヴィダルと、その友人の魅力的な女性モードとの三人は、パスカル『パンセ』の「賭けの断章」をめぐって、信仰と結婚について語り合う。通俗的だが内省的な「言葉と欲望」、「内省と会話」は、ほとんどすべてのロメール作品にあらわれる(「愛の昼下がり」の主人公夫婦の、「クレールの膝」の主人公と女流作家の、「海辺のポリーヌ」の四人の、「満月の夜」のパスカル・オジエとファブリス・ルシーニの、「春のソナタ」の哲学教師の、といった様に)「ずれと揺らぎ」から成る。

 主人公は二人の問いを遊戯のような台詞でかわしながら、モードと一夜を過ごすことになる。第一の女は、彼が結婚すべき女、生涯の伴侶であり、第二の女は、彼をまどわす官能的な誘惑者である。恋人に語る恋愛の言葉よりも、第二の女や友人に感情や行動を説明する会話を通して、潜在的な三角関係が見え隠れする。「摂理」によって定められた未来の妻を想いながら第二の女と「寝る」という姦通の罪を犯すのか、「選択と意志」が、ミュッセ風の感性のうちに試される。ロメール映画では、男は「落ちる」ぎりぎりのところまで行くけれども、けっして第二の女と「寝る」ことはない。

 求婚されたフランソワーズの思わぬ告白、数年後のモードとの再会による偶然の秘密の現われ、深層心理的な嘘、それらを観客として享受する知性と感性の悦び。

 パスカル『パンセ』における「無限と無」の間に宙吊りとなった人間存在の日常的な危機を、ブルジョワ的な中庸の美徳で演じるラシーヌ的な古典的恋愛心理劇。バルトが「ペルスヴァル」で賞賛した《物語の技法や、ほかとは違うけれども明晰な言語の味わい、韻をふんだ言葉の魅力、人物の性格の立体感、文学と映像のきわめて繊細な関係、そして、ようするに、ある気品、親切心、善意などだった》という「幸福感」が「モード家の一夜」のモノクロ映像に眩しい。

 

「六つの教訓話」シリーズ (Six contes moraux)の 第四作「モード家の一夜」 Ma nuit chez Maud (1969年)。日本語版字幕、採録シナリオも引用。

キャスト:ジャン・ルイ・トランティニャン(私)、フランソワーズ・ファビアン(モード)、マリー・クリスティーヌ・バロー(フランソワーズ)、アントワーヌ・ヴィテーズ(ヴィダル)。(ロメールのはじめてのプロ俳優起用作品。)

キャメラ:(いつもの)ネストール・アルメンドロス

 

(クレルモン=フェランの郊外に建つ私の家。)

 私は車で教会のミサに参加する。同席していた金髪の若い女(フランソワーズ)に見とれる。

・教会・中

 司祭と参列者 主よ、我は主を受くるに価せず、ただ御言葉だけで心いえん。

 

 フランソワーズがバイクで家路につくのを車で追うが、クリスマス飾りの街で見失う。翌日の夕方、ある直感が私を襲う。

・市内の街路

(私のナレーション、オフでかぶる)

私 12月21日の、あの日、ある直感が私を襲った。唐突に、鮮明に、決定的に。フランソワーズが私の妻になる、と。

 

 バイクに乗ったフランソワーズが横を通り過ぎるが、前の車に遮られて後を追えない。

・本屋

(私が中に入っていく。『確率論講義』と題された本を開く。)

・別の本屋

パスカル著『パンセ』本文がアップでとらえられる。)

「聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどする。君は信じるようになり、愚かにすらなる。これが信仰への障害となる情欲を減らす道だ。」

 

 レストランで偶然、友人のヴィダルに14年ぶりに会う。ヴィダルは大学で哲学を教えている。私は、南米から戻って、10月からミシュラン社にいる、と話す。

・レストラン・2階

私 よくこの店へ来るのか?

ヴィダル 初めてだよ。

私 僕も初めて来た。

ヴィダル それなのに出会うとは、不思議だな。

私 不思議じゃないよ。我々の軌道が交差するのは、例外的な場合に於いてのみだ。僕は数学をかじってる。我々は2か月以内にまた出会うはずだ。

ヴィダル そうかい?

私 情報を整理するとそうなる。情報は必要な要素だ。住所も勤務先も知らない人間と出会う確率は、当然、予測できるはずがない。数学に興味は?

ヴィダル 哲学者には数学の知識が必要だ。どんな研究にも必要だ。パスカルの“賭”は数学そのもの。だからこそパスカルは驚くほど現代的なんだ。数学者と形而上学者は同一だ。

私 パスカルか……。

ヴィダル どうした。

私 いま読み直しているところだ。

ヴィダル それで?

私 失望したね。

ヴィダル よく説明してくれ。

私 何ていうか……。書いてあることは何もかも陳腐で、目新しさがない。まるで無意味だ。僕もカトリック信者なのだがカトリック観念が全く違う。彼の唱える厳格主義には賛成できん。彼の論理でいくと僕は無神論者だ。君は今も共産主義

ヴィダル だから彼の賭の論理が現実的に思える。はたして物事には意味があるのだろうか。僕はいつもパスカルと同じ心境にいる。仮定A―社会生活や政治活動は無意味だ。仮定B―全て意味がある。BはAより正しい。などとは断言できない。きっと間違ってる。正しい可能性は、仮定Aが90%、Bが10%だ。だが僕としては、仮定Bに賭けないわけにはいかん。仮定Bこそ、生きる意味を与えてくれる唯一の道だからだ。反対に、もし仮定Aに賭けたとしよう。そうしたら僕の人生は無意味になる。だから生きる証として仮定Bに賭けるわけだ。もちろん失敗する可能性は90%もあるがね。

私 つまり数学的に見ると、確率への期待だな。仮定Bの場合、確率としては低いが君に人生の意義を与え得る可能性は無限だ。パスカルにとっての永遠なる救済と同じだ。

ヴィダル ゴーリキーレーニンマヤコフスキーロシア革命に際して言った言葉だが、「ある状況に直面したら、千にひとつの可能性でも、つかめ」。たとえ千にひとつの可能性であっても、つかまないよりマシなのだ。

 

 カフェを出た後、私とヴィダルはレオニード・コーガンのバイオリン・コンサートに出かける。その後、レストランで夜食をとる二人は、また明日会おうと約束する。私は24日の真夜中のミサに誘い、ヴィダルはその後で女友達のモードの家に行こうと提案する。モードは離婚して、娘を引き取りに行くところで、素晴らしい女性だ、と言う。

 モードの家。三人は一緒に食事をとりながらパスカルについて語り合う。

・モードの家・食卓

(奥のテーブルで食事する3人。)

ヴィダル よく分かるよ。僕も無神論者だ。だがキリスト教徒の矛盾点こそ興味深い。

モード 弁証法は苦手よ。

ヴィダル パスカルは読んだろう?

モード 「人間は考えるアシだ」「2つの無限…」覚えてないわ。

ヴィダル 「クレオパトラの鼻が…」

モード 嫌いな作家よ。

ヴィダル 2対1か。

モード あなたも嫌い?

私 読んだが……。

ヴィダル 憎んでる。やましい心があるからだろう。ニセ信者め。偽善者だ。

モード 黙ってよ。

私 僕は、パスカルの風変わりなキリスト教観念が好きじゃない。教会からも非難されてる。

ヴィダル されてなんかいない。

私 されたよ。パスカルは聖人じゃない。

モード そうよ!

(我を忘れて言い合いを始める3人。)

モード 待って! あんたの言うことなんか聞いてないわ。

(私に)

モード で、何と言ったの?

私 別に……。キリスト教を理解する別の方法があるはずだ。パスカルは偉大な科学者だが、なぜ自ら科学を非難したのか。

ヴィダル してない。

私 晩年は、してる。

ヴィダル 非難したのではない……。

私 表現がまずかった。たとえば食べ物だが、会話に夢中だと料理のことは忘れる。このうまい酒のことも忘れる。

ヴィダル クレルモンだけの酒だ。

モード まさか。

ヴィダル カトリック信者専用だ。

モード よしてよ。

私 この酒はクレルモン人のパスカルも飲んだはずだ。彼は食事療法をしていた。気の毒に。だから彼を非難したくないが、彼は酒の味など分らなかった。病気だから体に良い物しか食べなかった。味にはまるで音痴だったんだ。

ヴィダル そのことは彼の姉のジルベルトも書いている。「彼は決して“おいしい”と言わない」と……。

私 でも僕は味が分かる。ものの良し悪しは理解しないといかん。

ヴィダル 些細なことだ。

私 とんでもない、大事なことだ。もうひとつ、彼の理論で驚いたのは、結婚はキリスト教義で位が低いという。

モード たしかに結婚の地位は低いと思うわ。もっと別の意味で……。

ヴィダル パスカルの言う通りだ。君も僕も結婚はしたい。だが結婚は秘蹟のなかで聖体より位が低い。

私 僕もミサで女性を見かけて同じことを考えた。

ヴィダル 僕も女を探しにミサへ行こう。

モード 党の女よりは美人よ。

ヴィダル 君の言いかたはほんとうにブルジョワ的だ。

モード 確かにそうね。で、その美人は?

私 美人とは言ってない。まあ、かなり美人かもしれないな。まだ若い女で、夫と一緒に参列していた。

モード 愛人かも。

(中略)

(モードがマリーを寝室に連れていく。ヴィダル、立ち上って本棚の前に。)

ヴィダル パスカルがあるはずだが……。趣味が似ているからな。僕が言いたかったことは“賭”の断章に書かれていることだ。

(本を見つけ、ページを開く。)

ヴィダル 「勝つ運に対し負ける運が無限ではない時は、ためらわずに全て出すこと。賭けることを余儀なくされたら、生を防御しようという考えは捨てねばならぬ」等々だ。

(ヴィダル、私に本を見せる。)

私 パスカルにとって可能性は常に無限なのだ。ゼロでない限りはね。だが無限はゼロに等しい。この論理は信者にしか分らん。

ヴィダル だが信じれば可能性は無限と言える。だから賭ける。

私 もし勝てる確率が無限であればね。

ヴィダル そう思うのか? だが君は賭のために何も捨てない。

私 捨てることもある。

ヴィダル 酒を捨てるか?

 

 ヴィダル達は、私が結婚という妄想に取り憑かれていると笑う。

 何人かの女と親交を持ち、結婚も望んだが、簡単には寝なかった、無意味だからだ、と言う私にヴィダルは、旅先で二度と会えない美女と知り合ったら、欲望を抑えられることができるか、と聞く。そんなことは一度も起きなかったと答える私に、ヴィダルが、どこか様子が変だ、誰かを思ってる、恋をしたのか、と尋ねる。モードは、話してちょうだい、聞かせてよ、私のことも話すから、と言う。

モード キリスト教徒は結婚まで純潔なの?

私 答える気はない。

ヴィダル 理論と現実は違う。

モード 純潔を守った人を知ってるわ。

ヴィダル ハゲかせむしだろう。

モード バカ言わないで。

私 話のタネになるのはまっぴらだ。それに過去のことだし……。

モード 怒らないで。あなた、いい人ね。ほんとうよ。率直だわ。

ヴィダル ものは言いようだ。

私 そんなに変人? うれしくないな。僕のキリスト教観と女性関係は別問題だ。全く異質だよ。

ヴィダル だが共存する問題だ。

私 むしろ反撥している。また君たちを驚かすかもしれないが、女の尻を追いかけることより、数学をする方が神から遠ざかる行為だ。パスカルも同じことを言っている。飽食のほかは、晩年には数学さえ非難した。

ヴィダル 分かる気がする。どうも君の方が僕よりパスカル思想だな。

私 かもしれない数学は神に背くもので、無益だ。知的な暇つぶしではあるが、いい趣味ではない。

モード なぜ?

私 なぜなら抽象的で非人間的だからだ。

ヴィダル じゃあ、女は? パスカルと女について書いてみたい。パスカルは女にとても興味があった。だが彼の恋愛論は疑わしいもんだ。

モード 窓を開けてよ。煙がすごいわ。

(窓を開けようとヴィダルが立ち上がる。)

ヴィダル はたして彼は女を知っていたのだろうか。変な意味じゃないよ。“知る”といっても、いろいろに解釈できる。

 

 会話はとめどない。外では雪が降り出していた。そしてヴィダルが帰って行く。雪道は危険だから泊まるようにと諭された私とモードは二人きりになっても話は尽きない。モードは、宗教には興味がない、ある晩なりゆきでヴィダルと寝たが、好みではない、とも語る。そして彼らは金髪のカトリック娘のこと、不貞、離婚などを語りあう。夫には愛人が、モードには恋人いて、夫の愛人はカトリックの誠実な娘だったが、二人は結婚せず、モードの恋人は雪道の交通事故で死んだのだった。

 一夜を共に過ごすことになった私とモード。ベッドで眠るモードに対して私はソファで眠るが、結局ベッドへ移ってモードの横に身を横たえる。朝方、モードが私をまさぐると、私は優柔不断な態度をとりながら断る。「はっきりしない人は嫌い」とモードは怒るのだった。

 翌日、カフェへ足を運んだ私は自転車に乗るフランソワーズを発見し、追いかけて話しかける。自分の主義ではないけれど、知り合いになりたい、機会を逸したくない、と。

 ヴィダルと山へ遊びに行くのに付き合って、という昨夜のモードとの約束を守って、雪の降り積もる山でモードとヴィィダルに会った私は、彼女とキスをするが、友情の証だ、と言う。私はモードの家で夕食をとりながら、恋愛、結婚、道徳、宗教について語り合い、町を去るモードに、さよなら、を言う。

 モードの家を出た後、夜の街でフランソワーズを見つけた私はフランソワーズを車に乗せて家まで送るが、雪で車が動けなくなってしまい、フランソワーズの学生相手の貸しアパートに泊まることになる。

 二人はアパートで宗教観、恋愛観を語り、恋人同士のように過ごす。やがて私はアパートの空いた部屋で眠るのだった。

 翌日、私はフランソワーズに求愛するが、私を失望させるからそんなことは言わないで欲しい、と応える。

・教会

(フランソワーズと私は一緒に並んで座り、話を聞いている。)

神父 (…)たとえ聖人でも、何らかの形で、生きることの難しさを抱えているのです。人間としての存在の悩みを抱え、情熱と、弱さと、優しさを持ちながら、キリストの使徒としての使命に生きるのです。

 

 夜の街路で、フランソワーズと私が一緒に歩いていると偶然ヴィダルと出会う。ヴィダルとフランソワーズが握手をかわす。二人は知り合いだった。

 遠くに教会が見える高台で、私はフランソワーズに求婚する。フランソワーズには最近まで恋人がいたのだった。ヴィダルではないと言う。その人は妻子のある身だった。私のことを愛しているが、彼には、つい最近、再会した、と言う。

私 よく会うの?

フランソワーズ 彼は町を去った。すべて終わったの。もう会うこともないわ。

(再びフランソワーズの肩を優しく抱いて)

私 フランソワーズ……。僕はいつまでも待つよ。君のことを愛せなくなったからじゃない。そんな資格はない。打ち明けてくれて、うれしかった。ほんとうだ。君に負い目があったんだ。僕にも長く続いた関係がある。これで対等になれた。

フランソワーズ 相手は独身でしょ。それにアメリカでのことでしょ。

私 実は君に会った朝も、女性の家から出てきた。彼女と寝た。

フランソワーズ もうやめましょう。

(画面、フェード・アウト)

フランソワーズ 二度と話すのはよして。

 

 5年後、妻となったフランソワーズと私は、息子を連れて海岸の坂道を波打際へ降りて行く。反対に、下から昇ってくる女がいる。モードだ。5年ぶりに再会した二人は会話を交わす。足場が悪く遅れていたフランソワーズと息子が追いつく。フランソワーズとモード、しばらく互いをみつめあう。

・海辺

私 僕の妻だ。

モード 会ったことがあるわ、おめでとう。なぜ知らせてくれないの?

(中略)

(子供と一緒にフランソワーズが先に波打際へ降りていく。)

モード 彼女だったのね、気づくべきだったわ。フランソワーズだなんて。

私 彼女の話はしなかった。

モード 金髪でカトリック……。私よく覚えてるわ。

モード なぜ嘘を?

私 あなたの家へ行った晩の翌日に知り合った。

モード 晩? 夜だったわ。私たちの夜。忘れもしないわ。あなたは彼女の話ばかり。彼女は私のことを? また隠す気ね。でもむし返すのはやめるわ。もう遠い過去。

私 あなたは全然、変わらない。

モード あなたもよ。

私 なのに何もかも遠く感じる。

モード 色々なことがあったからよ。私も再婚したの。

私 おめでとう。

モード でもうまくいかないの。ダメだわ。どうして私って、男運がないのかしら。会えてうれしいわ。意外なことも知って……。私がお邪魔なようね。

(砂浜をさらに登っていくモード。私は波打際に向かう。波打際ではフランソワーズと息子が砂遊びをしている。)

私 よろしくって。今夜、ご主人と帰る。知り合いとは意外だった。彼女が町を去った頃に、僕は君を知ったんだ。僕たちは変わらないと言ってた。彼女もだ。5年ぶりでも人は全く変わらない。知らん顔したくなかった。いい人だし。君と会った時、僕は彼女の家から出てきた……。

(オフでナレーションがかぶさる。)

私 何もなかった、と言いかけて、妻の当惑が、僕の秘密を知ったからでなく、自分の秘密への不安だと気づいた。何もかも今、分かった。今になって……。だから反対のことを言った。

(フランソワーズと子どもの横に坐る。)

私 僕の最後の火遊びさ。こんな所で会うとはね。

フランソワーズ おかしいわ。でもどうせ遙か昔のことだわ。もう忘れましょう。

私 そうとも、つまらんことだ。泳ごう。

(子供に)

フランソワーズ いらっしゃい。

(3人で手をつなぎ、息子を真ん中にぶらさがらせて海へと走りだす。)

(FIN)

 

 

ロメールの映画論>

「六つの教訓話」シリーズはテクストとして刊行されている(本の邦訳名は『六つの本心の話』)が、その「序」はロメール映画の特徴を提示している。

《この“短編(コント)集”が《モロー moraux》と呼ばれる理由のひとつは、物理的(フィジーク)なアクションをほとんど欠いているからというものである。すべては語り手の頭の中で起こるのだ。誰か別人によって語られたならば、その物語は違うものになっていたか、あるいはまったく存在していなかったはずだ。わたしの主人公たちは、どこかドン・キホーテのように、長編小説(ロマン)の登場人物を気どっているが、おそらくロマンなどどこにもないのだ。一人称による説明(コマンテール)の存在は、映像や台詞によって翻訳できない内面の思考を示す必要からというよりも、主人公の視点を明確に位置づけ、さらにその視点そのものを作家であり映画監督であるわたし自身の見据える対象となす必要から要請されたものだった。》

 

 その中の「モード家の一夜」のテクスト(邦訳名は「モードの家に泊まった夜」)で、《ぼくはクレルモン=フェランにいた。二か月前からミシュランの技術者として働いていた。》に先立つ、映画にはない「序」のような短い文章には、ロメールの態度が宣言されている。そこにバルトと共通した幸福感の秘密があるに違いない。

《この物語の中ですべてを語るつもりはない。それに、これは物語と言うより、ただまったく任意に選ばれた一連の出来事、偶然生じたこと、単なるめぐり合わせにすぎない。多かれ少なかれ、普段の生活でも似たようなことは起こるし、ぼく好みの観点からしか語っていない。

 ある流れに沿って生じる出来事を構成し、その出来事そのものが物語ることのできるような外観を提示するにとどめておきたいと思う。自分の感情、意見、信条は重視しない。とは言え、そうしたぼくの内面こそ、ここで長々と語られる主題だ。ぼくはそれをそのままの形で伝え、共感を求めてもいなければ正当化もしていない。》

 

 ロメールはインタヴューや対談で、映画について饒舌に語る。

「偶然」

「(…)要するに、私たちは決定論主義者ではなく、つまりこう言ってよければ、因果性というものを私は信じておらず、それを求めてはいないのです。人がそう言うとき、あるいは私がそう言ってしまうときにいらだつのは、「それが原因となっている」という言葉です。でもなぜそこにひとつの原因があるべきなのでしょうか? なぜ是が非でも原因を見つけなければならないのでしょうか?」

 

「映画音楽」

「私は、いわゆる映画音楽というものを否定しているのです。」

「話している言葉の上に音楽が被さるのが好きではないということで、話しているのが聞こえているときは、それだけを聞きたいし、音楽を聞くときは、音楽だけを聞きたいのです。音楽は私にとって、決して背景にはならないものです。」

「音楽、そして芸術的な効果について触れられましたが、テキストというものも存在しているわけで、自分の書いた台詞に執着する限り、その台詞が聞き取れるようにするべきだと思っています。」

 

「空間造形」

「(…)ズームで動かし、彼女のところで止まるというアイディア、それは、何らかの効果、官能的な効果を生むわけです。」

「私の俳優たちの身振りや態度は極めて大切なもので……、たとえば、しぐさ、手のしぐさは、私にとって、顔の表情と同じぐらい大切なものです。クローズ・アップを好まないのもまさにそのためです。クローズ・アップで撮られている作品を見ていると、登場人物たちは身体全体で表現しているのに、顔しか見えないため、欲求不満になることがあります。」

 

「軽さ」

「私の場合は、一時間四五分が観客を退屈させない限度なのです。『パリのランデブー』の場合も、いくらかの即興的な要素が入っており、上映時間がやや気掛かりでしたが、これもいつもの長さにおさまっていました。フランスには古典劇の伝統というものがあり、ラシーヌの五幕韻文の戯曲もその長さはほぼ一定です。シェークスピアの場合はそれよりやや長い。しかし、私はフランス人なので(笑)、フランス古典劇のようにいつも同じ長さになるのです。」

低予算なこともあって、何度も撮り直した画面に関与する記録係を設けず、ワン・テイクで撮ろうとするアマチュア的な態度が、ロメールの軽さを生む。

 

「物語」

蓮實重彦「フランスであなたの映画が小津安二郎に似ているといわれて驚いたことがあります。ライトのコンセプトをとっても、切り返しショットの多用という点でも、空間設計という点でも、あなたの映画は小津とはまるで違っているのですが。」との問いに対して。)

「結婚が問題になっているとか、話が単純だとか、日常的だとか、そうしたことがつい類似を語らせてしまうのでしょう。もちろん、私は、小津の映画を素晴らしいと思っていますが、彼を発見したのは溝口よりも遥かにあとになってからで、そのころ私はすでに映画を撮り始めていましたから、彼からの影響は考えられません。そうした誤解が起こるのは、多くの人が物語に影響されてしまうからでしょう。映画というと、人びとは、いまなお物語にしか興味を示そうとしないのです。」

 

 ドゥルーズは映画に関する名著『シネマ』で、ロメールの「選択」と「彷徨」、「パスカルの賭」に言及している。

「選択と彷徨」

《「1-第七章 感情イメージ――質、力、任意空間」

 この思想は哲学と映画のあいだに貴重な諸関係の総体を織り上げる。ロメールにおいてもまた、もろもろの実存様態のストーリー、すなわち選択と、偽なる選択と、選択の意識とのストーリーの全体が、『教訓物語』シリーズを支配している(とりわけ[その中の]『モード家の一夜』。さらに最近になって、[『喜劇と箴言』シリーズの]『美しき結婚』のなかで、結婚することを選択する娘が登場するのだが、その娘は、永遠や無限についてのパスカル的意識をもって、また永遠や無限への同じ要求をもって、結婚しないことを他の時期に選択しえたはずであるにもかかわらず、その選択と同様な仕方で今度は結婚することを選択するがゆえに、そのことを触れ回る)。》

《「1-第十二章 行動イメージの危機」

 ロメール(『教訓物語』シリーズ)と、トリュフォー(『二十歳の恋』、『夜霧の恋人たち』、『家庭』の三部作)における、分析的になった彷徨、すなわち心の分析手段となった彷徨。》

 

パスカルの賭」

《「2-第七章 思考と映画」

 すでにパスカルの賭の意味とはそういうものだった。問題は神の存在あるいは非在の間で選択することではなかった。そうではなく、神を信じるものの存在様式と、神を信じないものの存在様式との間で選択することだった。さらにより多数の存在様式が考慮の対象になった。神の存在を定理とみなすものの様式(信心家)があり、選択するすべを知らぬ人、選択できない人の様式もあった(確信のない人、懐疑論者)……。要するに選択は、非選択から選択にわたり、またそれ自体選択することと選択肢ないことの間で行なわれるのだから、思考そのものと同じほど大きい領域にかかわるのである。キュルケゴールは、そこからあらゆる結果を導き出す。選択は、選択と非選択(そしてそれらのあらゆるヴァリアント)の間にあるのだから、親密な心理的意識を超えて、また相対的な外部世界を超えて、われわれを外部との絶対的な関係に委ねるのだが、それだけが、われわれに世界と自我を再び獲得させてくれるのだ。先にわれわれは、キリスト教的発想をもつ映画がいかにこのような概念を単に適用するのに甘んじることなく、ドライヤー、ブレッソン、あるいはロメールにおいて、映画作品の最高の主題として発見しているか見た。つまりそこでは、決定不可能なものの決定として思考と選択とが一致するのだ。(中略)ロメールにしても、「生の道」におけるキュルケゴール的な段階をとりあげている。たとえば『コレクションする女』の美学的段階、『美しき結婚』の倫理的段階、『モード家の一夜』あるいは『聖杯伝説』の宗教的段階。》

 

 ロメールは、『美の味わい』中の「ある批評家への手紙――『教訓話』シリーズについて」と「映画作品と、話法の三つの面――間接/直接/超間接」で、演劇と映画の、台詞、話法について詳しく論じている。たとえば「六つの教訓話」シリーズの第一作「モンソーのパン屋の女の子」、第二作「シュザンヌの生き方」ではナレーション(オフ・ヴォイス)(「内的独白」)を多用したが、第四作「モード家の一夜」では、《主人公がいろいろな人を相手に、自分のことを長々と説明するので、それ以上の打明け話を傍白で付け加えたりすれば、観客はうんざりしてしまったことでしょう》として、始めと終わりの二カ所にとどめているが、そのことをドゥルーズもまた映画イメージの重要な構成要素として解説した。

「話法」

《「2-第九章 イメージの構成要素」

 サイレントは言語行為を、字幕として讀ませるがゆえに、間接話法におく。それに対して、トーキーの本質は、オフ・ヴォイスの場合も含めて、言語行為の視覚的イメージへの帰属を維持しつつ、言語行為を視覚的イメージと相互作用させることで、直接話法に近づけることだった。だが、今や現代的映画とともに、自由間接話法とよぶことができるような、非常に特殊な声の用法が出現し、直接話法と間接話法の対立を乗り越える。これは間接話法と直接話法との混合ではなく、様々な形態のもとにある独自で還元不可能な次元である。(中略)そのようにしてロメールは、自分の実践を説明する際、しばしばこういっていた。『教訓物語(コント)』は、まず間接話法で書かれてからダイアローグの状態に移行したテクストを演出したものであって、オフ・ヴォイスは消え、語り手が他人と直接的関係に入ることさえあるが(たとえば『クレールの膝』の女性作家)、それは直接話法が元の間接話法の痕跡をたもち、一人称に固定されないという条件においてなのだ、と。『教訓物語』のシリーズと『喜劇と格言劇』のシリーズ以外では、二本の偉大な映画、『O侯爵夫人』と『聖杯伝説』が、クライストにおけるように、あるいは登場人物が自分自身のことを三人称で語る中世の物語におけるように(「彼女は泣く」と歌うブランシュフルール)、映画に自由間接話法の力能を与えるにいたっている。》

 

 

<バルトの『恋愛のディスクール』とパスカル『パンセ』>

 ロメールは『美の味わい』の「ある批評家への手紙――『教訓話』シリーズについて」で次のように書いている。

《私はこの『教訓話』シリーズを、六つの交響的変奏曲のようなものとして構想したからです。音楽家と同じように、私は最初のモチーフを変化させ、それを遅くしたり速めたり、引き延ばしたり縮めたり、肉を付けたり削ぎ落としたりするのです。一人の女性と結ばれようとするまさにその時に、別の女性に心を惹かれる男性を見せるというこのアイデアを出発点として、私は様々な状況を、様々な筋立てを、様々な結末を、さらには様々な人物の性格までをも、作り上げることができました。》

 バルトの『恋愛のディスクール・断章』がロメール映画に似ているのは、上記のような交響的変奏、断章という軽やかさ、せせらぎ、の醸す感性から来る。

 

「みだらさ」

《「恋愛のみだらさ」 OBSCÈNE みだらさ

 現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。

あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、セックスよりはむしろ情愛の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。「感傷的老少年」(フーリエ)が恋ゆえに死ぬとしたら、情婦のかたわらで脳充血の発作を起したフェリックス・フォール大統領ほどにもみだらに見えることだろう。》

 

「選択」

《「どうすればよいのか」 CONDUITE 行動

 熟慮のフィギュール。いかに振舞えばよいかという、多くは無益な問題を、恋愛主体は苦悩とともに問いつづける。なんらかの選択を前にするたびに、何をなすべきか、いかに振舞うべきかを自問してやまないのである。

どこまでつづけるべきであるのか。ウェルテルの友、ウィルヘルムは、確実な行為の学たる「倫理」の人である。たしかに倫理とはひとつの論理なのだ。これか、あれか、である。いずれか一方を選べば(印をつければ)、そのとき再びこれか、あれかがあらわれてくる。以下同様に、こうした二者択一のめまぐるしい連続から、ついには純粋行為――一切の悔悟も動揺もないもの――が立ちあらわれてくるところまで、おまえはシャルロッテを愛している。少しでも希望があるのならおまえは行動する(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。まったく希望がなければ行動しない(・・・・・・・・・・・・・・・・)。「健全」なる主体のディスクールとはそうしたものなのだ。要するにあれか(・・・)、これか(・・・)なのである。ところが、恋愛主体はこう答える(ウェルテルがそうしているように)、わたしは二つの選択肢の間に滑り込もうとするのだ、と。つまり、希望はまったくないけれど(・・・・・・・・・・・・)、それでもなおわたしは(・・・・・・・・・・)……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでもつづけるのだ(・・・・・・・・・・・)。》

 

「できごと」

《「できごと、障害、困難」 CONTINGENCES 不測のできごと

 ささいなできごと、偶然のできごと、不測のできごと、ばかばかしく、とるにたらない、くだらぬできごと、恋愛の生に影をおとすさまざまの襞。悪意の偶然がたくらんだかのようなこれらのできごとを核として、その反響が、恋愛主体の幸福嗜好を妨げることになる。

 偶然のできごとにあってわたしを捉え、わたしの中で反響しているものは、原因ではなく構造である。まるでテーブル・クロスごと食卓の上のものが引き寄せられるようにして、恋愛関係の全構造が、わたしのもとへ引き寄せられてくる。その不都合も、その罠も、その袋小路も、なにもかもすべてが(螺鈿ペン軸についた小さなレンズの中に、パリが、エッフェル塔が、見えるようなものだ)。わたしは非難を口にせず、疑いを差しはさむこともなく、原因を探ることもしない。恐怖とともに、自分の捉えられている状態の拡がり(・・・)をながめているのだ。わたしは怨みっぽい人間でなく、宿命論者なのである。》

 

「出会い」

《「大空のなんと青かったことか」 RENCONTRE 出会い

 このフィギュールは、最初の陶酔のすぐあとにくる時間、恋愛関係にさまざまな困難が生じる以前の、あの至福の時間にかかわるものである。

 恋愛のディスクールとは、部屋の中を飛ぶハエの飛行にも似て、およそ予測不能な運動をする無数のフィギュール群にほかならない。しかしながらわたしは、少なくとも回想的かつ想像的には、一定の規則的生成を恋愛に与えることができる。この歴史的(・・・)幻想によってわたしは、恋愛をしばしばひとつの冒険譚に仕立て上げるのである。そのとき恋愛がたどるコースには三つの段階(あるいは三つの幕)があるように思われる。第一は瞬間的なもので、「捕捉」とよばれるだろう(わたしがひとつのイメージに拉致される)。これに一連の出会い(デート、電話、手紙、小旅行)がつづき、その中でわたしは、愛する人の完全さ、つまりはわたしの欲望に対する適合性を「探査」するのだ。それははじまりの甘美さであり、まさしく相聞牧歌のための時間である。このしあわせな時間の特殊性(その囲い)は、「その後」と対比される(少なくとも記憶の中で)ことであきらかになる。「その後」とは、長々とつづく心痛、傷心、苦悩、悲嘆、うらみ、絶望、困惑、そして数々の罠である。そうしたものに捕らえられたわたしは、あの人を襲い、わたしを襲い、わたしたちがはじめてお互いを見出したあの奇跡の出会いを襲う、失墜の脅威のもとで生きつづけることになるであろう。》

 

「パリの夜」

 パスカルをくりかえし読むバルトがいる。(バルト『偶景』から。)

《パリ、一九七九年九月二日

 きのうの午後、ユールトから帰る。飛行機は愚かな客で一杯だ。子供、家族連れ、私の隣りで紙袋に吐いた女、システラを持ち帰る若者。座席に小さくなって、ベルトさえはずさず、身動きせず、一時間の間、私はパスカルの『パンセ』を少し読んだ。《人間のみじめさ》の行間から、私の悲しみ全体、ママのいないUでも私の《胸ふたぐ気持》がよみがえってきた。(こうしたことはまったく書くことができない。パスカルの簡潔さと緊張を思うと……)着くと、どんよりと曇っていた。》

《一九七九年九月三日

 ドュー・マゴがまた店を開けたので、フロールの客が少なくなっている。中はほとんど空だ。私は、中で、パスカルの『パンセ』を読む。何度も顔を上げながら、しかし、収穫がないわけではない。遠くない所に、騒いでいる一群(前に見たことがある)。流行りのタイプのホモたちだ。(中略)私はフロールに行って、葉巻をふかしながら、またパスカルの『パンセ』を読み始めた。私が見知っている、背の高い、褐色の髪の男娼(ジゴロ)がやって来て、私に挨拶をした。》

《一九七九年九月十日

 きのうの夕方、フロールでパスカルの『パンセ』を読んでいた。私の脇に細身の青年がいた。》

 

 

<附:パスカル『パンセ』「第三章 賭の必要性について」>

二三三

 無限。無。

(中略)

 今は、自然の光にしたがって話そう。

 もし神があるとすれば、神は無限に不可能である。なぜなら、神には部分も限界もないので、われわれと何の関係も持たないからである。したがって、われわれは、神が何であるかも、神が存在するかどうかも知ることができない。そうだとすれば、だれがいったいこの問題の解決をあえて企てようとするであろうか。それは神と何の関係も持たないわれわれではない。

 それならば、キリスト者が自分たちの信仰を理由づけることができないからといって、だれにそれを責めることができよう。彼らは、自分たちでは理由づけることができないという宗教を公然と信じている。 彼らは、それを世に説くにあたって、それを愚かなもの、〈愚かさ〉と宣言しているのである。 それなのに、君は、彼らがそれを証明しないからといって、不平を言うのか。もしも彼らがそれを証明したとするならば、彼らは言葉を守らなかったことになるだろう。証明を欠いていればこそ、彼らは分別を 欠かないのである。――よろしい。しかし、このことは、宗教をそういうものとして提供する人たちを許してやり、それを理由なしに提出するという非難から彼らを免れさせてやるかもしれないが、それを 受ける人たちを許すことにはならない。――それではこの点を検討して、「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌(こんとん)がある。この無限の距離の果てで賭(かけ)が行なわれ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちのどちらを退けることもできない。

 したがって、一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は 、そのことについて何も知らないからなのだ。――いや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。 正しいのは賭けないことなのだ。

――そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが 君にとって利益が少ないかを考えてみよう。君には、失うかも知れないものが二つある。真と幸福である。 また賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福とである。そして君の本性が避けようとするものは二つ、誤りと悲惨とである。君の理性は、どうしても選ばなければならない以上、どちらのほうを選んでも傷つけられはしない。これで一つの点がかたづいた。ところで君の至福は。神があるというほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。――これは、すばらしい。そうだ、賭けなければいけない。だが僕は多く賭けすぎていはすまいか。 ――そこを考えてみよう。勝つにも負けるにも、同じだけの運があるのだから、もし君が一つの生命の 代わりに二つの生命をもうけるだけだとしても、それでもなお賭けてもさしつかえない。ところがもし、 三つの生命がもうけられるのだったら、賭けなければいけない(なぜなら、君はどうしても賭けなければならない のだから)。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、損得の運が同等であるという勝負で、三つの 生命をもうけるために君の生命を賭けなかったとしたら、君は分別がないことになろう。ところが、ここには、 永遠の生命と幸福があるのだ。それならば、仮に無数の運のうちでただ一つだけが君のものだとしても、君が二つの生命を得るために一つの生命を賭けてもまだ理由があることになろう。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、無数の運のうちで一つが君のものだという勝負で、もしも無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであるならば、君が三にたいして一つの生命を賭けることを拒むのは、無分別と言うことになろう。ところが、ここでは、無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであり、勝つ運が一つであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭(か)けるものも有限なものである。これでは、確率計算など全部いらなくなる。どこでも無限のあるところ、そして勝つ運一つに対して負ける運が無限でない場合には、ぐずぐずしないで、すべてを出すべきだ。したがって、賭けることを余儀なくされている場合には、無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。

 なぜなら、もうけられるかどうかは不確実なのに、賭けの危険を冒すことは確実であると言ったところで、 また、人が危険に身をさらす確実さ(・・・)と、もうけるものの不確実さ(・・・・)とのあいだにある無限の距離が、確実に危険にさらすところの有限な幸福と不確実な無限と同等なものにすると言ったところで、なんにもならない。それは そういうことにはならないのである。賭をする者は、だれでも、不確実なもうけのために、確かなものを賭けるのである。と言っても、有限なものを不確実にもうけるために、有限なものを確実に賭けることは、理性にもとってはいないのである。人が危険に身をさらすことのこの確実さと、もうけの不確実さとのあいだに、無限の距離があるわけではないのである。それは誤りである。ほんとうの話は、もうける確実さというものと、損する確実さというものとのあいだにこそ無限があるのである。ところで、もうけることの不確実さは、もうける運と損する運とのあいだの比率に応じて、賭けるものの確実さと釣り合うのである。したがって、双方の運が等しければ、賭けは対等に行われるのである。その場合、賭けるものの確実さは、もうけるものの不確実さと等しいことになる。両者のあいだに無限の距離があるなどとは、とんでもないことである。それだから、勝ち負けの運が同等で、無限をもうけるために有限をかけるというわれわれの主張は、無限の力を持ってくるのである。

 これには証明力がある。もし人間がなんらかの真理をつかむことができるとするならば、これがまさにそれである。

――僕はそれを認め、それに同意する。だが、それにしても、勝負の内幕を見通す方面がないものだろうか。 ――あるとも。聖書とかその他のものがある。――それはそうだ。だが、僕の手は縛られ、口はふさがれている。賭をしろと強制され、自由の身ではない。僕は放してもらえない。しかも、僕は信じられないようにできている。君はいったい僕にどうしろというのだ。

――まったくだ。だが、理性が君を信じるほうへつれてきているのに、君にそれができないのだから、君には信じる力がないのだということを、せめて悟らなくてはいけない。したがって、神の証拠を増やすことによってではなく、君の情欲を減らすことによって、自分を納得させるように努めたまえ。君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒されたいとのぞんで、その薬を求めている。以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まずやり始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行うことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。――だが僕のおそれているのは、まさにそれなのだ。――それはまたどうしてか。君に何か損するものがあるというのか。だが、これが信仰への道であることを君に納得させるのに役立つことは、君の大きな障害になっている情欲をこれが減らしてくれるということである。(後略)》

                           (了)

         *****引用または参考文献*****

エリック・ロメール『美の味わい』(「ある批評家への手紙――『教訓話』シリーズについて」、「映画作品と、話法の三つの面――間接/直接/超間接」所収)梅本洋一武田潔訳(勁草書房

エリック・ロメール『六つの本心の話 Six Contes Moraux』(「モードの家に泊まった夜」所収)細川晋訳(早川書房

*『モード家の一夜採録シナリオ、日本語字幕=松浦美奈、シナリオ採録暉峻創三ユーロスペース

蓮實重彦『映画狂人のあの人に会いたい』(ロメール/蓮實対談「パリの実践的映画論」所収)(河出書房新社

蓮實重彦『映画狂人万事快調』(「エリック・ロメール」、「ロメールの『海辺のポリーヌ』は嘘みたいに面白い」、「『海辺のポリーヌ』」所収)(河出書房新社

蓮實重彦『映画時評2009-2011』(優雅な卑猥さ生んだ「軽さ」――映画監督エリック・ロメールを悼む)所収)(講談社

山田宏一『友よ、映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(「エリック・ロメールの映画美学――バルベ・シュベールに聞く」所収)(平凡社ライブラリー

*『ヌーヴェル・ヴァーグ“新しい波”の奇蹟』(木下千花エリック・ロメール 言葉多き者は災いの元なり」所収)(ネコ・パブリッシング)

*『ユリイカ 特集エリック・ロメール(2002.11)』(ロメール「芸術だけが過去の世界を見せてくれる(インタヴュー 新作「グレースと公爵」をめぐって」、蓮實重彦エリック・ロメール または偶然であることの必然」、「エリック・ロメール、確かな証拠(「現代の映画シリーズ」より、ロメール/聞き手ジャン・ドューシェ、坂本安美訳)」(青土社

*『ユリイカ ヌーヴェル・ヴァーグ30年(臨時増刊1989.12)』(金井美恵子エリック・ロメールの《瞬間》」、ロバート・フィリップ・コーカー「ヌーヴェル・ヴァーグとメロドラマ」所収)(青土社

エリック・ロメールクロード・シャブロルヒッチコック』木村建哉、小河原あや訳(小河原あや「ヒッチコック、新たな波――ロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」所収)(インスクリプト

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳(みすず書房

ロラン・バルトロラン・バルト映画論集』(「右と左の映画 クロード・シャブロルの神話作用」所収)諸田和治編訳(ちくま学芸文庫))

ロラン・バルト『偶景』沢崎浩平、萩原芳子訳(「パリの夜」所収)(みすず書房

*『ロラン・バルト著作集10 新たな生のほうへ 1978-1980』(「クロニック」中に「ペルスヴァル」所収)石川美子訳(みすず書房

パスカル『パンセ』前田陽一、由木康訳(中公文庫)

ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』財津理、齋藤範訳(法政大学出版局

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一、石原陽一郎、江澤健一郎、他訳(法政大学出版局

ネストール・アルメンドロスキャメラを持った男』武田潔訳(筑摩書房

ルネ・シェレールドゥルーズへのまなざし』篠原洋治訳(筑摩書房

*マキシム・フェルステル『欲望の思考 ルネ・シェレール入門』関修訳(富士書店)