文学批評 「水上勉『雁の寺』『五番町夕霧楼』『越前竹人形』を吉田健一と読む」

 「水上勉『雁の寺』『五番町夕霧楼』『越前竹人形』を吉田健一と読む」

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「英国三部作」(『英国の文学』『シェイクスピア』『英国の近代文学』)などの批評、『時間』『変化』といった形而上学的でもある散文、洒脱な随筆、『金沢』『東京の昔』をはじめとした小説、英仏文学の翻訳で知られたケンブリッジ帰りの吉田健一と、若狭から京都に流れついた情緒纏綿たる水上勉との接点などありようがない、どこにもなかったと思われる向きが多いのではないだろうか。ところが、推理作家として出発した水上勉が、昭和36年の『雁の寺』によって直木賞を得てから、何枚書いているかは語るのも恥ずかしいとまで自嘲した昭和37年から38年にかけての『五番町夕霧楼』『越前竹人形』を発表する多作の時期と重なるように、吉田健一は「オール読物」「小説新潮」「別冊文藝春秋」「小説中央公論」などの大衆文学雑誌ないし中間小説雑誌を対象として、「読売新聞」夕刊の昭和36年3月から40年6月まで、毎月初旬に連続二日にわたる「大衆文学時評」を連載し、水上文学の素晴らしさを顕彰し続けた。

 吉田は水上勉の小説を通して常日頃考えていた小説論を語ったに過ぎないのかもしれないが、その一致によって水上はそれまでの単なる推理小説家、大衆作家(中間小説家)を越えて、「世界の優れた小説家達の仲間入り」を果したのだった。

 のちに水上は吉田健一への追悼文でこう書いている。《『越前竹人形』の第一回目の激賞も忘れられない時評だった。私は、それから吉田さんが時評をやめられても、吉田さんのお顔を念頭にうかべて、先生に合格するかな、どうかな、と考えて雑誌社に原稿をわたすようにした。道が見えたという意味は、私の道がはっきりしたというのではなくて、小説を書く心構えといったようなものを教わったというにつきる。迷いは正直今日もあるが、根本的なことは、『凡てが確かにそこにあるといふ』小説。『読者がどの一部を取つても堪能できる』小説。それへ向かうことだった》(『吉田健一と私』)。

 水上勉の小説に言及した吉田健一の「大衆文学時評」(『吉田健一著作集ⅩⅤ 大衆文学時評』(集英社))を読み解きながら、水上の小説の魅力についてみてゆく。「大衆文学時評」では『雁の寺』『五番町夕霧楼』『越前竹人形』以外の水上のいくつかの小説、例えば『雁の寺』続編となる『雁の村』『雁の森』『雁の死』についても好意的に扱っているが、ここではさきの三作に限定する。さらには『吉田健一著作集ⅩⅤⅠ 作者の肖像』に収められた『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』(昭和44年9月、河出書房新社)の解説と、『五番町夕霧楼』(昭和41年4月、新潮文庫)の解説文にも目を通すこととする。

「大衆文学時評」は昭和36年4月からはじまるが、それは「四月号」(おおよそ前々月の2月に刊行される)という意味であるとともに、実際に「読売新聞」の夕刊に掲載されたのは3月7日と8日の二回にわたっているという時系列関係にある。ともかくも、吉田は連載冒頭で次のように高らかな宣言をする。

《読める作品に出会ふといふのはこの頃の所謂、文学と付き合つてゐる限り、滅多にないことである。これは批評、小説その他、一切を含めての話であつて、それでさういふ作品があれば、一も二もなくそれを傑作、或は少くとも佳作と決めたくなる。誤解がないやうに、その反対の、読めない作品の筆頭に週刊誌に載る小説類を挙げて置く。次は所謂、純文学の小説と大学の先生達が書く各種の論文だらうか。併しここで扱ふ作品は読めるものばかりであつて、それが先ず不思議な感じがする。読めるから傑作であることにはならなくて、それが文学の出発点である筈だつたことを改めて思ひ出すのである。或は、外国の雑誌を読んでゐれば当り前であることが日本の文学界で通用してならない理屈はどこにもないことに気が付く。》

 従って、吉田健一を通して水上勉の小説を考えるとは、本来小説とは何かという大きな問題の論考となり、粗筋の紹介、感想、印象批評、お説教にすぎない人生論、政治の問題からは遠く離れた、小説の本質論が主となるのは当然といえよう。

 

<『雁の寺』――凡てが確かにそこにある>

 冒頭で「読めるものばかり」を扱うと前置きをしておいて、さっそく翌月に『雁の寺』を扱うことになるのだが、吉田は『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』解説で『雁の寺』を取りあげ、「粗筋」をアイロニカルに紹介しているので引用しておこう。

《それがどういふ話かといふことをこの頃お馴染みの前号までの粗筋式に書けば、これは画家の女だつたものが画家の死後に禅寺の住職のものになり、その女に愛慾とも憧憬とも付かない感情を抱いた寺の小僧に住職が巧妙な具合に殺され、小僧が寺の襖から母の雁が一羽ゐる部分を剥ぎ取つて姿を消すといふ、見方によつては探偵小説擬ひのものであるが、これを読んでさういふことを考へる位ならばわざわざ水上氏の小説を読むことはない。》

 さて「大衆文学時評」の昭和36年5月からである。

《今月の傑作は水上勉氏が「別冊文藝春秋」に書いた「雁の寺」である。そしてこれは推理小説としてはといふ意味で言つてゐるのでもないので、傑作には常に傑作といふ一種類しかない。推理小説といふ分類に従へば、これは所謂、完全犯罪を扱つたものである。併しそれも、人間が人間を殺し始めて以来、実際には完全犯罪といふものが何百回、何千回行はれて来たか解らないことを思ふならば、日本の推理小説界でその完全犯罪が妙な具合に誇張されて考へられてゐるのが不思議に感じられるだけのことで、この小説の前にも、例へばアガサ・クリスティイの或る作品でのやうに、さういふ行為がそつなく描かれた所で、それ自体がどうといふことはない。読者に筋を追つて行かせる小説である点では完全犯罪も、犯人が見付かる小説でも同じことなのである。「雁の寺」が優れてゐるのは、そのやうなことによるのではない。

 言ふまでもないことかも知れないが、これは先ず第一に、一篇の優れた小説である。これは或は小説で完全犯罪を扱ふ場合にも、先ず満されなければならない条件なのではないかとも思はれて、例へば、我々は「雁の寺」を読んでゐて、その中の誰が殺されるのかなどといふことを考へない。そんなことを初めから読者に思はせてゐれば完全犯罪も書き難くなる訳で、その挙句に犯罪の方は成功しても、小説はそれでは台なしである。「雁の寺」で描かれてゐる寺の住職も、その女も、又その女を前に囲つてゐた画家の生涯と死も、何れもこの小説の幅一杯に拡がつて行く感じでそこにその銘々の位置を占めてゐるもので、従つてそこにはその他にも人物や、草や木や裸の椎の木に止る鳶や、又、京都の衣笠山の麓にある寺があつて、一口に言へば、この世界は我々が住んでゐるのと地続きになつてゐる。誰が殺されるかといふことよりも、ここにゐる人達が現在どんな風にその現在の瞬間を生きて互に交渉してゐるかを我々は刻々に知らされて、そのことで満足し、それ故にその先が読みたくなる。》

 百五十枚ほど書きすすんだところで筆がとまり、最後の和尚殺しの場面を書けずに編集者を困らせたあげく、この小説はこのまま発表してくれませんかと頼んだけれども、すでに表紙に推理小説と刷り込んであるというので、経文を唱えながら必死に書き継いだのが、和尚殺しのくだりだったという内情とか、推理小説ではなく「人間を書け」と師に言われ、文学仲間たちに「人間を書いてみせる」と宣言して書いたとか、そういった美談的な逸話とは関係がない。現在、この小説に推理を求めるものはいないだろうし、完全犯罪の出来にケチをつけるものもいないだろう。吉田は、当時においても水上の小説の価値はそんなところにはなかった、ということを小説の基本概念に遡って説明しているだけのことだ。

《その題に背かず、この小説に出て来る雁の絵の襖も見事である。文学作品で絵や音楽の効果を描くといふのは、誰もが試みることでありながら、実は相当な危険が伴ふことなので、それはもし我々がそれを読んでそこに絵、或は音楽を感じなければ、その小説の世界はその個所からも脱落して行くからである。併し「雁の寺」の絵ではさういふことがない。内陣で香を焚けば、その煙の中で動くやうに見える雁であり、女が、鳴き声が聞える気がすると言つた通りの雁である。母親に可愛がられた記憶がない寺の小坊主は、母親の雁が子供の雁に餌を食べさせてゐる絵の所だけを破り捨てて、寺を出て行く。そしてこれが如何に大きなことであるかを知るには、例へば漱石がその小説でモナ・リザの絵だとか、上野の音楽会だとかに就て書いてゐるのが読むに堪へないものであることを思ひ出せば足りる。(中略)

 凡てが確かにそこにあるといふ、このことが大きいのである。心理小説だから心理を、推理小説だから推理をといふのは、後から便宜的に付けた名称に訳もなく縛られてゐることを示すばかりであつて、何小説だらうと、識者がそのどの一部を取つても堪能することが出来るのでなければ、それは小説ではない。現実を、それが作者の頭にしかない架空のものであつても、その現実のまま描くのが、この小説といふ多少ふしだらな形式の唯一の特色なので、それがなければこの形式は意味をなくし、もしあれば、他にどのやうな欠陥があつてもこの形式は認めなければならなくなる。「雁の寺」は小説である。》

「何小説だらうと、識者がそのどの一部を取つても堪能することが出来るのでなければ、それは小説ではない」というだけなら他の批評家でも言えるだろうが、それに重ねて「現実を、それが作者の頭にしかない架空のものであつても、その現実のまま描くのが、この小説といふ多少ふしだらな形式の唯一の特色なので、それがなければこの形式は意味をなくし、もしあれば、他にどのやうな欠陥があつてもこの形式は認めなければならなくなる」と捩じるところが、詩や散文にも造詣が深い吉田ならではの離れわざであって、水上の小説はその芸当に耐えうる硬度と柔軟性を合せ持つ範例となっている。

ラスコリニコフにとつても、さうだつた。そのことから、水上勉氏がドストエフスキイであるなどと考へるのは早合点も甚しいものである。近松を日本のシェイクスピアと呼ぶ類であるが、ドストエフスキイも殺しの場面を幾つか書いてゐて、彼が書いたものも小説だつた。といふのは、「雁の寺」でも死骸は死骸の扱ひを受けてゐるので、これも我々に満足を覚えさせる。「罪と罰」を推理小説の部類に入れるものもあつて、「雁の寺」も一種の推理小説であり、この頃書かれるものの大部分はこれと違つて、無駄な装飾が多過ぎる。どぎつい効果といふやうなものを狙つてゐる積りなのだらうが、それならば、推理小説をその為に書くのは矛盾であつて、恐怖はかういう小説と最も縁がないものである。併し「雁の寺」の襖に描かれた雁の絵は無駄ではないし、小坊主が竹の小刀で根切りをして取つてゐる草も、この小説から省くことは出来なくて、それはその二つともこの小説の世界に属するものだからである。水上勉氏が日本の推理小説の新風であるなどと言ふ必要はない。氏はこの一作によつて世界の優れた小説家達の仲間入りをしてゐる。》

 ドストエフスキイシェイクスピアを持ち出す幅の広い、しかしながら抑制された文章を読むとき、同じ読売新聞で吉田の後を襲って「大衆文学時評」を担当した「貝殻一平」という著名の筆者(実は、まだ有名ではなかった丸谷才一ペンネーム)の第一回(昭和40年7月)の冒頭の文章が参考になる。それは、

《先月までの吉田健一の大衆文学時評の最上の功績は娯楽読み物の地位を高めたことではない。「純文学」を刺激していわゆる純文学論争の下地を作ったことでもない。彼が三年間にわたって、毎月毎月、この新聞のこの面に書きつづけた批評の真の主題は、日本の小説の感受性を、自然主義私小説とによって形づくられた狭くるしい枠から解放することであった。しかも彼はその離れわざに、見事に成功したのである。》の一端を見る気がする。

 いま僕は離れわざといふ言葉を使った。しかし、娯楽読み物について語ることによって文学について語るという吉田の方法は、文学について語ることによってじつは政治を論ずるという、ある種の批評の方法より、はるかに正統的だろう。また、文学について語るふりをしながら、じつは自分がどんなに偉いかという自慢話しかしない態度にくらべれば、はるかに実質的だろう。》

 

<『雁の寺』――嘘はどこにもない>

 吉田の『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』解説では、「日本の小説の感受性を、自然主義私小説とによって形づくられた狭くるしい枠から解放する」鍵となる小説の「嘘」について論じられる。

《小説で嘘を書いてはならないといふ明治以来の日本で行はれてゐる奇妙な考へを取り上げてそれが小説の定義そのものを無視したものとして否定するのは容易であるが、これに就ては別な見方をすることも出来る。その嘘といふのが何を指すかに凡てが掛つてゐて、ただ事実をありのままに書くのだけでなければ小説でないといふのならばこれを弁護する余地はなくても、もし書いてあることがその通りであることが必要であるといふことになれば、もしその通りでなければ嘘だといふのならば確かに嘘を書いてはならない。その違ひは小説である小説とただ小説の積りで書いたのに過ぎないものを比較すれば非常にはつきり感じられて、どうかすると我々は一篇の小説と称するものを初めから終りまで読んでそこで色々なことが起つたことになつていながら、その凡てが活字とともに我々の頭の中を吹き抜けて行くことがある。どこかで何かが起つたと小説で書いてある時はそこでそれが起らなければならない。

 これは当り前なことのやうであつて少しもさうではなくて、例へば恋愛小説の傑作といふのは二人以上のものが恋愛に陥つた所を我々に見せてくれるものである。それが恋愛小説といふものなので、幾つかの名前を並べて恋愛といふ字を使ふだけのことならば字を知つてさへゐれば誰にでも出来るが、傑作、或は恋愛小説と称するに足るものであつて始めて何人かの人間のどれもがその銘々の人間であり、それが恋をし、又恋をしてゐて我々はそこに嘘がないと感じる。或は更に具体的な例を挙げるならば、水上勉氏が京都のどこかに寺があり、その寺ではどの部屋の襖にも一面に雁の画が書いてあるといふことを扱へば事実その通りに金粉を掃いた襖に雁が枝に止つたり、はばたいたり、飛び立ち掛けて白い腹を夕空に輝かせたりしてゐる所が我々の前に現れる。そしてその絵を書いた画家がそこまでその絵を見せに女を連れて来る。

 

 「わしが死んだらの、ここは雁の寺や、洛西(らくせい)に一つ名所がふえる」

  酒気をおびていたので南獄は、里子の首すじに手をやりながら微笑していった。

 「啼(な)き声(ごえ)がきこえるようやわね」

 と、里子は本堂のうす暗い光の中で恍惚(こうこつ)とつぶやいた。……

 

 この一節から小説といふものに就てのかういふ一般論が引き出せる。我々がそこを読んでその里子といふ女とともに雁の鳴き声が聞えるやうだと感じるのはその前にその雁の絵を作者とともに見てゐるからであり、それならば雁の絵は、又その絵が襖に書いてある寺はこの小説の背景、或は道具立てではなくてそこに登場する人物と同様に、対等にこの小説の一部をなすものなので、この場合もそこに嘘があつてはならなくて嘘は確かにどこにもない。》

 この解説では、水上の小説の書き出しの見事さも紹介されていて、見事さの理由を、そこに小説があり、次々と人物がただ登場するということに止らなくて、さまざまな物の細部や人物の挙動といった読者の意識に上る凡てが動力となるとされる。

《水上氏の場合は書き出しからそこに小説があり、例へば「雁の寺」ならばそれがかういふ一節である。

 

  鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本南獄(なんがく)が、丸太町東洞院(ひがしのとういん)の角にあった黒板塀(くろいたべい)にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは昭和八年の秋である。

 

 これがそのまま南獄の死に際の場面に続き、それで孤峯庵の住職とそこの小僧の慈念が、そしてその次に里子が現れ、併しこれは前に書いたやうにたださういふ人物が登場するといふことに止らなくて黒板塀に囲まれた屋敷も、住職が黒い被布の裾から覗かせてゐる紫衣の襞も、或は縁先に立つて庭の方を向いてゐた慈念が名前を呼ばれて首だけ廻して部屋の中を見る様子も話が進展するのとともに我々の意識に上り、かうして我々に意識される凡てによつて話が進展する。》

 

<『五番町夕霧楼』――現実ということ>

「大衆文学時評」の昭和37年11月は、「文藝朝日」の陳舜臣「アルバムより」を紹介しながらの、毎月、雑誌という狭い枠の中で、形式まで推理小説とか、その折々の流行による編集部の注文に従って決められた種類の短編ばかり読まされていることに改めて不満を感じないではいられない、という注文を引き継いで、

《「別冊文藝春秋」に載つている水上勉氏の「五番町夕霧楼」に就ても同じことが言へる。これには紙数の不足はないかも知れないが、金閣寺焼失の経緯をそのまま小説風に書くといふ制限は、水上氏にもどうにもなるものではない。この小説で真実と認められる唯一の箇所は、女が死んで、その硬直した死骸を女の父親が背負ふと、死骸の両手が万歳をしたやうな恰好になるといふ描写である。そしてこれは恐らく、水上氏のそれこそ、創作である。雑誌の編集者が小説家よりも小説のことをよく知つてゐると思ひ始めたのは、いつ頃からのことなのだらうか。》

「大衆文学時評」ではそこまでだが、『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』解説で吉田は、「現実」ということについて語らずにはいられない。

《水上氏が書く小説を読んでゐると現実といふことが言ひたくなる。それが一般に受け取られてゐるのと如何に違つた具合のもので、その見本が欲しければこれを優れた文学作品に求めなければならないのだといふやうなことであるが、それを提供するといふ意味を通り越して例へば次に挙げる「五番町夕霧楼」からの一節は美しい。これは夕子が五番町の女郎屋で働くことになつてそこのおかみのかつ枝に連れられて故郷の近くの船着場から船に乗つて出て行く所である。

 

 「奥さん、浄昌寺がみえます」

 と、舟が崖ぞいの小さな入江を出たころ、夕子がぽつんといった。かつ枝はその声に救われたように微笑んだ。

 「あのお寺はんは、うちらァのいた三つ股のお寺はんどしたんや。きれいどっしゃろ。百日紅(さるすべり)が咲いとります」

  みると、三左衛門と夕子の妹が手をふっている浜の上から、急勾配になってせり上る段々畑があり、樽泊の村は、その斜面に、貝殻がこぼれ落ちたように、とびとびに藁屋根やトタン屋根をみせていた。……

 

(中略)

 或る時に或る所にあるものがその際の現実であるならばその現実の内容はそれを認めるもの次第であつて、もしその精神の働きが鈍くて何も認めることが出来なければ現実はそこに存在せず、他の時や場所と区別が付かない程度のことしか認められなければやはりそこに現実はない。そしてそこにあるものを認めれば認める程それがその時にそこにあるものであることが明確になつてこれを現実と呼ぶ他なくなり、それならば現実は我々の精神の働きによつて生じるものであるとともに、それは作者が一篇の小説で生じさせることが出来るものでもある。例へば所謂、実際にあつたことと小説で作者が設定することとこの場合にどう違うのだらうか。我々が読む新聞に載つてゐることの大部分は実際にあつたことの記事であつて、そこで読んだことが我々の頭を掠め、せいぜいの所で或る特定の時間以内に起つた出来事の集積、或は我々の目に留まつたその一部で終ることになるか、或は我々の精神の働き方によつてはそこに現実が生じることもあり、作者がそのやうにその精神を小説で働かせればその小説も現実である。これが小説を嘘でなくて又嘘がないものにし、それが小説、又延ては文学の魅力であるならば確かに小説でも嘘を書いてはならない。》

「或る時に或る所にあるものがその際の現実であるならばその現実の内容はそれを認めるもの次第であつて、もしその精神の働きが鈍くて何も認めることが出来なければ現実はそこに存在せず、他の時や場所と区別が付かない程度のことしか認められなければやはりそこに現実はない」という認識論は、「我々の精神の働き方」の重要性を喚起しているわけだが、「精神の働きが鈍くて何も認めることが出来なければ」、小説は嘘ばかりとしか理解できないことになりもして、しかしその人にとってはそれだけのものでしかなかったということに過ぎないから相手にしないことだ。

《従つて「五番町夕霧楼」の主人公である夕子といふ女がゐたのかゐなかつたのかといふことになればこの女は確かにゐたのであり、そして我々がこの小説に惹かれる毎にそこにゐる。これが大事なことなのであつて、そこの所を素通りして淪落の女だの、可憐だの公娼制度がどうのだのといふ方向に話を持つて行くのは要するにこの小説と縁がないことで頭を使つてゐるに過ぎない。例へば公娼制度といふのは政治の問題であり、小説を政治の材料に使ふのは少しも構はないが、それならばそれは政治の材料であつて小説でなくなり、夕子を可憐と見るのは体裁がよくてもその時に既にそこに夕子はゐない。》

「夕子といふ女がゐたのかゐなかつたのかといふことになればこの女は確かにゐたのであり、そして我々がこの小説に惹かれる毎にそこにゐる」ということが正統的なのであって、そこから後の「政治の材料であつて小説でなくなり」とは、さきの「貝殻一平」の文章後半部の、政治を論ずる方法のことであり、また「夕子を可憐と見るのは体裁がよくてもその時に既にそこに夕子はゐない」というのは、自慢話と同じ態度による底の浅い解釈への嫌悪から来る。

《「五番町夕霧楼」でのありやうは甚造が夕子に惹かれてこれを囲う話を持ち出し、夕子が肺病であると聞いて興味を失ひ、檪田正順は国宝の鳳閣を焼くことを思ひ立ち、その炎が京都の北の夜空を赤く染め、故郷の寺で自殺した夕子の硬直した死骸をその父親が背負ふと夕子の両手が万歳をした恰好のままになつてゐる。

 これは陰惨でも、憎むべきことでも、世の中がいやになることでもなくて事実その通りにこの一連の事件が起つたのであり、檪田正順はさういふ名前の一箇の生きた人間であるから鳳閣を焼き、甚造もさうであるから夕子が肺が悪いと解つた後は逃げることばかり考へ、夕子は正順が放火に成功したので安心して死ぬ。我々は自然を眺めてそれがいいとも悪いとも思はなくてただそれが自然であることを認め、それが自然といふものの姿であることに打たれて、もし憎むべきこと、醜いことがあるならばそれは人間に同じ素直な態度で接しないことであつて、人間を人間と認めることで我々も人間であることを得てゐる。併しこれではお説教になる。水上氏が書くやうな小説を読んでゐると妓楼の内庭の夜明りに赤い南天の実まで見えるからそれがそこにあるのと同様に人物に対する我々の眼も冴え、又逆に一人の人間を人間と認めるから夜明りに内庭の南天の実まで見えてくる。》

「水上氏が書くやうな小説を読んでゐると妓楼の内庭の夜明りに赤い南天の実まで見えるからそれがそこにあるのと同様に人物に対する我々の眼も冴え、又逆に一人の人間を人間と認めるから夜明りに内庭の南天の実まで見えてくる」には瑞々しくも透徹した眼がある。

 

<『五番町夕霧楼』――物語と小説>

 吉田は新潮文庫『五番町夕霧楼』の「解説」で、これを「物語の域に達した現代小説のひとつである」と賞賛しているが、水上の物語性は、『説経節を読む』(岩波現代文庫)の中の「さんせい太夫」を、若狭から京都の禅寺に九歳で「貰われた」自らの辛い小坊主時代を引き寄せながら書かずにはいられなかった土着の「根(ね)」から生えているものに違いない。

 ここでも吉田はいつものように思考命題の提示から始める。

《昔は物語というものがあったが、小説という別な形式が出来て物語は一応、跡を絶った。その物語と小説がどう違うかに就ては、物語は多分に伝奇的でお伽(とぎ)噺(ばなし)を思わせる事柄(ことがら)をこれもお伽噺風に、ただそのことを伝えるという趣旨で書いてあるのに対して、小説では写実が主になっているというように一般に見られている。そうなのかも知れない。併(しか)し物語が曾(かつ)て広く行なわれたのは、その背後には何世紀もの伝統があり、伝統は人間の生活本能に則した題材を選んでこれを物語に仕立て、それ故(ゆえ)にそれを聞くもの、或(あるい)は読むものは自分が現実に生きているのと同じ意味で物語の世界を信じ、そこにも自分が生きているのを見出したという事情によってである。(中略)

 事実、変ったのは描写の方法だけであって、物語を求める人間に物語を与える仕事を小説が引き継ぎ、小説がそれを果した時に我々はそこに一篇の物語を見る思いをする。水上氏の『五番町夕霧楼』は物語の域に達した現代小説の一つである。》

 理由を説明して行く吉田は「我々」という表現を多用する。読みながら誰しもが「我々」の一員になりたくなるに違いない。

《これは多くの物語にある通りに、一人の若い女が京に上る。そしてその行く先が戦後の西陣の五番町であり、この遊郭(ゆうかく)にある女郎屋の一軒であっても、そのことによって我々は所謂(いわゆる)、小説というもので散々付き合わされて来た常識では考えられない悪夢に引き込まれる心配はない。所謂、小説では現実を現実以上に醜くて息苦しく書いて見せなければならないというのは写実の約束よりはその衰弱であって、水上氏はそこまで写実、或はそうした写実主義と付き合ってはいない。氏はただありのままにこの五番町の町を描いて行く。それで、そのありのままということの問題になるのであるが、これが型に嵌(はま)っていることでないのは言うまでもない。水上氏は氏の眼に映った通りの、つまり、この小説の女主人公を迎えた通りの五番町を描いていて、それが明るくて賑(にぎ)やかな感じがし、夜になれば明るさと喧噪(けんそう)が増し、朝が来るとそこの上に晴れた空が拡(ひろ)がり、如何(いか)にも人間が住む人臭い町になっているのは、遊郭というものを型に嵌って写実的に描くというのがどういうことだろうと、作者の目的がその小説に出て来る一人の女を迎えたそういう人臭い町をそこに出現させることにあるからであり、その生き生きした有様が再び我々に物語の世界を思わせる。

 こういう場所でこのような商売をしている人達(ひとたち)が伝統的に人がよくて素直であるということも、この小説が物語の形を取るのを手伝っていて、水上氏はそのことに着眼してこういう題材を選んだのかも知れない。我々はここで生命そのものが素直に、濁りを知らずに流れるものであることを思い出すべきである。夕霧楼で働く女達の純真な生き方には我々の心を洗うものがあって、それは水上氏の目的が嘘(うそ)を書くことではなくて生命を書くことにあったからだと言える。》

「小説では現実を現実以上に醜くて息苦しく書いて見せなければならないというのは写実の約束よりはその衰弱であって、水上氏はそこまで写実、或はそうした写実主義と付き合ってはいない」というような捉え方には、東西文学に通じた吉田らしい平然とした語り口がある。

「作者の目的がその小説に出て来る一人の女を迎えたそういう人臭い町をそこに出現させることにあるからであり、その生き生きした有様が再び我々に物語の世界を思わせる」には、水上が『説経節を読む』で読み解いた「さんせう太夫」における民衆の残酷性への迎合やくどい酩酊はなく、むしろ水上が分析したような森鷗外山椒大夫』に近い巧みな処理があるだろう。

「我々はここで生命そのものが素直に、濁りを知らずに流れるものであることを思い出すべきである。夕霧楼で働く女達の純真な生き方には我々の心を洗うものがあって、それは水上氏の目的が嘘(うそ)を書くことではなくて生命を書くことにあったからだと言える」には、水上文学の「生命の流れ」、「水のイメージ」との親近性に対する直観があったのかもしれない。

《我々にとって大切なのはこの小説で確かに鳳閣という三層楼の建物が焼けることであって、この事実、であるよりは現実がそれが現実であることによって檪田をこの小説の女主人公と緊密に結び付け、そのことから逆に我々は自分が生きて行く上で何か正常で人間的なものを求めて拒否され続けて来た檪田が最後に寺を焼き、その炎で温まることを考えるのが物語に出て来てもいい素朴な性格を帯びた出来事であることを納得する。併しそれは女主人公の死も決定する。これも、ありのままに受け取って構わないことのようであって、その何よりの証拠に、夕子は紛れもなく病院を出て故郷の寺の墓地で毒を飲んで死に、幾日かたってその死骸(しがい)が発見された時、既に硬直していて、父親が背負うと死骸の両手が伸びたままで万歳をしている恰好(かっこう)になったということも我々は疑わない。こうして作者の頭にあることを言葉で現実に変えるのが写実である。水上氏が現代小説の写実の方法で物語の素朴な世界を築いたというのはこのことを言う。》

 確かにそこにいる夕子が「故郷の寺の墓地で毒を飲んで死に、幾日かたってその死骸(しがい)が発見された時、既に硬直していて、父親が背負うと死骸の両手が伸びたままで万歳をしている恰好(かっこう)になったということも我々は疑わない」という「作者の頭にあることを言葉で現実に変えるのが写実である。水上氏が現代小説の写実の方法で物語の素朴な世界を築いたというのはこのことを言う」のであるとは、この小説を読んで、モデルとなった金閣寺焼失事件の真相や男性主人公の心理があまり書かれていなかったなどと、小説を実録として読みたがる声からはどこまでも遠いところにある。

 

<『越前竹人形』――谷崎潤一郎『『越前竹人形』を読む』>

 吉田健一の『雁の寺』時評が水上勉を「世界の優れた小説家達の仲間」に押し出したとすれば、昭和38年9月の毎日新聞に発表された谷崎潤一郎『『越前竹人形』を読む』での絶賛が、それを不動のものにしたと言って過言ではあるまい。「大衆文学時評」での吉田の扱いを見る前に、谷崎評に触れておく。ここで谷崎は『越前竹人形』の「眼目」をわが身に引き付けて見事に指摘している。

 赤坂の病院に検査入院してから熱海に帰ってきた谷崎は、机の上に水上勉からの寄贈本を見つける。その名は『雁の寺』の作者としてかねてから聞き及んではいたが、まだ読んでもいない。いつもの癖でパラパラとめくっては見るが、最後まで読みとおすことはめったになく、大概十ページ前後で放り出してしまうのが常なのに、竹人形というものと、越前は満更ゆかりのない土地ではなかったこともあってかついふらふらと読んで行った。文章もどちらかといえば平凡だが、女主人公の玉枝の来歴が語られる第三章に至って惹き入れられ、腰を据えて本気で読み始めた。読んで行くうちに、やや古風な京都弁が自作『夢の浮橋』(昭和34年)に出て来る京都弁に似ていることに気づく(どちらも京都の旧家育ちである中央公論社伊吹和子氏が直したとのちに知る)ばかりか、幼少の時に母を失った喜助が亡き母に似た玉枝を恋い慕うところが『夢の浮橋』に似通っていると思う。

《私は初めに、読者の好奇心をそそるような書き方はしていない。文章もやや平凡でたどたどしいといったが、第三、四章あたりから次第に生彩を帯びて来る。第九章で、京都の美術商の鮫島(さめじま)が訪ねて来て、竹藪の中で玉枝に出遇うところは圧巻である。

  「家内でござります」

  と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、(中略)瞬間息をのんだ。

  美貌だったからだ。すらりと背の高い玉枝は、肉づきのいい固太りの軀(からだ)をしていた。白い肌が、青みどりの竹の林を背景にして、ぬけ出てきたようにみえる。それに切長(きれなが)の心もちつり上った眼は、妖(あや)しい光をたたえて鮫島をみつめていた。

  (この男に、こんな美しい妻がいたのか……)

 鮫島はわれを忘れてみとれた。あいさつの声もでなかった。櫛の歯のように生えている竹林にさし込んでいる陽(ひ)は、苔(こけ)のはえた地面に雨のようにそそぐかにみえた。玉枝は黄金色の光の糸を背に、竹の精のように佇(たたず)んでいた。

 鮫島ではないが、私もここで思わず息を飲んだ。「竹の精」という想像はいかにも美しい。この一言でその場の光景が金色(こんじき)を放って目に浮かぶ。》

 谷崎は、京都の「兼徳」の番頭崎山忠平が登場し、玉枝がひょんなことから忠平の種を宿すことになって、喜助に内緒で処分するために京都へ出かけて行くあたりから、丁寧に筋を紹介してゆく。穿った見方かもしれないけれど、谷崎には伏見あたりで遊んだなつかしい思い出の風景もさることながら、松子夫人とのあいだの水子への悔恨が櫓の音のように通奏底音として鳴り響いていたのではないか。宇治川観月橋(かんげつきょう)を渡って向島に辿り着いた玉枝は、再び向島から中書島へと渡舟で戻る。

《「橋のみえる渡し場には客の影はなかった。川へつき出た桟橋に和船が一そうつながれている。」――以下十七章の終りに至る八ページがこの物語の眼目であって、作者がこの小説を意図した所以(ゆえん)もここにある。私もここまで引っ張って来られて「なるほど」と頷き、感心し、唸ったのであるが、中書島水郷の描写が今少し精密であったら一層よかったのではないか、少し結末を急ぎ過ぎたきらいはないか、という気がする。(中略)

  宇治の水は深い。早瀬のように流れが早い。馴れた船頭でなければ、渡りきれないということを子供心にきいていたが、いま、玉枝の眼にうつる流れは、海のように青々と深味をましてせまってくるように思われる。舟べりに水しぶきがたって、舟は竿(さお)をつくたびに左右にかしぐ、無口な性格らしい老船頭は、竿を力いっぱい川底につき出しては舟をすすめてゆくが、ふり向きもしない。……

 

  「どないしたンや。痛いのんかいな。痛いのんかいな」

 と船頭の声がする。玉枝は遠くにそれをきいた。この時、川浪にゆれた舟が大きくかたむき、はずみに、下腹の胎児がぐるりと一回転して下降する気がした。……玉枝は舟板に手をつかえ、紫いろに深まってゆく川面がせり上ってくるのを瞶(みつ)めたまま気を失った。

 

  (中略)

  「おっちゃん、恩にきますえ」

  玉枝は冷たい風に冷えてくるぬれた裾をつまみながら、老船頭の漕ぐ櫓(ろ)の音をきいた。舟はあかね色の水しぶきのとぶ宇治川をぬける。

「さ、小舎(こや)へ帰(い)んで、火ィを焚(た)いてやろ。おまはんのからだは冷えきったあるがな」

船頭は櫓を早めた。

 全体の叙述がおおまかで、こせつかないように書かれているのだから、このあたりの景色などを特に絵画的にこまごまと描写するのも如何かと思うが、やはり私の好みからいえば少し物足りないのである。次に、

  船頭は櫓を早めた。

で十七章は終り、十二月十七日の夕刻、玉枝が越前武生在の竹神部落へ帰って来るところから十八章が始まっているが、むしろこの十七章を以て全編の終りとし、十八章以下は省略した方が余韻がありはしないだろうか、これも一考の価値があるように思われる。》

 京都山崎、水無瀬の川岸と渡船場を舞台にした谷崎『蘆刈』(昭和7年)に風光描写がこまごまとあるかというとむしろ『越前竹人形』のほうが筆を割いているくらいであるが、「叙述がおおまかで、こせつかないように書かれている」ところは同じように茫々とした情緒を醸し出している。「宇治の水は深い。」との一語と、すぐ後の「早瀬のように流れが早い。」だけで写実の真実性が目の前に迫ってくる。

「十八章以下は省略した方が余韻がありはしないだろうか」うんぬんは、『源氏物語』の最終巻『浮舟』から学んだと思しき谷崎『細雪』の終り方を彷彿とさせる指摘であるが、水上には十七章で留めおくような離れ業は到底かなわぬことであったろうし、まめな水上はそういう性格でもあるまい。

 谷崎が意識的であったどうか知るよしもないが、水上作品には「川」が数多く登場し(作品名だけでも『貴船川』『京の川』『高瀬川』『箒川』『名塩川』『銀の川』)、それらはみなといってよいほどに、女の生命が、人生が、業が、哀しくも夢のように流れ去る無常の象徴なのを感じて、この宇治川の場面を眼目と捉えたのかもしれない。

《だがまあ、何のかのというものの、私は近頃これほど深い興味を以て読み終ったものはなかった。めったに若い人の作品を読んだことのない私であるから、知った風なことはいえないけれども、かつて深沢七郎君の「楢山節考(ならやまぶしこう)」を読んで以来の感激である。そういえばあのたどたどしい書きぶりも「楢山節考」に似ている。そしてどちらも西洋臭いところがなく、純然たる日本の田舎の世界である。私はまだ水上君の他の作品を読んでいないのであるが、聞くところに依ると、従来の君の作本は「雁の寺」を始めとして推理小説が多いという。しかし今度のこの作品は推理小説めいたところのないのがいい。推理小説だから悪いと決った訳ではないが、推理ということに囚(とら)われ過ぎると、どうしても調子の低い、不自然なものになりがちである。忠平とのいきさつや流産のところなど、扱いように依ってはもっとあくどくエロに書けるのに、わざとそれを避けているのもいい、作者がそれを意識していたかどうかは分らないが、何か古典を読んだような後味が残る。筋に少しの無理がなく自然に運ばれているのもいい。玉枝を竹の精に喩(たと)えてあるせいか、何の関係もない『竹取物語』の世界までが連想に浮んで来るのである。》

 手放しと言ってよいほどの絶賛である。それとともに、大正4年に『お艶殺し』を発表した三十歳の谷崎は、森鷗外が「谷崎があゝ云ふ調子の低いものを書いてはいけない、あゝ云ふものを書くやうになつてはおしまひである」と言ったのを間接的に知るが、それと同じ類の忠告を推理小説絡みで水上にしているところが面白い。

 

<『越前竹人形』――言葉に動かされている/人生肯定>

 吉田健一「大衆文学時評」の昭和38年2月から。

《併し今月の作品で一番見事と思はれたのは、水上勉氏が「文藝朝日」に書いてゐる「越前竹人形」だつた。水上氏は他に「小説現代」に「那智瀧情死考」、「別冊文藝春秋」に「越後つついし親不知」を書いてゐて、「文藝朝日」のは未完の形になつてゐるが、他の二つが多分に実録ものの感じがして小説に無理に仕立てたのが余計だといふ気がするのに対して、「越前竹人形」は材料がどうだらうと、嘘で通して読者の現実の方を嘘にする小説の世界である。竹の種類に実際にこれだけのものがあるかどうかも考へる必要がない。この小説には女竹(めだけ)、黒竹(くろちく)その他の竹が風に吹かれてゐて、それも、我々がその存在を信じるのは、登場人物にとつてそれが実在するからなのである。つまり、ここで水上氏は生きた人間を動かしてゐる。材料が特異でなどと思ふものは氏の文章をもう一度、注意して読むといい。凡ては言葉の仕業で、我々もその言葉に動かされてゐるのである。》

「ここで水上氏は生きた人間を動かしてゐる。材料が特異でなどと思ふものは氏の文章をもう一度、注意して読むといい。凡ては言葉の仕業で、我々もその言葉に動かされてゐるのである」とあるが、水上勉が自ら設立に関わった人形劇団のための人形劇台本の草稿が近年になって発見されていて、「嘘で通して読者の現実の方を嘘にする小説の世界」というメビウスの輪のような夢を、映画の俳優とは違う「竹の精」のような人形を動かすことで叶えたいとの願いはわからないでもない。

「大衆文学時評」の昭和38年6月から。

《「文藝朝日」に水上勉氏が連載してゐた「越前竹人形」が完結した。連載は三回に亙つてゐて、これは越前の一寒村で竹細工で暮しを立ててゐた男が死んだ後、その息子が家業を継いで父親が贔屓にしてゐた金沢の女郎と結婚して幸福に一生を終る話である。確かに、作者が設定して行く状況では、女は結核患者であり、結婚してから別な男との間に出来た子を堕す為に京都まで出て行き、その無理で病状が悪化して死に、その夫は仕事を一切止めて、やがて自殺する。併しこの小説も哀歌ではない。その第一回を読んだ時、主人公の喜助の家を囲む竹林の描写の美しさに打たれたが、美は力でもあつて、喜助に知られずに子を堕してしまふ為に京都まで出掛けて行く女の行動は、読者の気持を暗くするには生き生きし過ぎてゐて、偶然、流産して無事に越前の村に帰つて来た女を迎へる主人公の喜びは、京都まで掛け金を取りに行つて戻つて来た妻に対する正真正銘の感情である。

 女は喜助との村での生活に幸福を見出し、喜助はこの女を得て竹人形を作る仕事に打ち込んで、その何れにも偽りはない。これを読んでゐて、文学に苦痛はないといふワイルドの言葉を思ひ出したが、それは文学では人生ならば苦痛であることが扱はれてゐても、その結果が苦痛を與へないといふことであるのに対して、水上氏のこの小説は、文学にはもつと積極的に人生を肯定するものがあるのではないかといふ方向に考へを誘ひ、この小説は寧ろ、イエイツがリヤ王も、ハムレツトも陽気な人間であると言つたのと結び付く。この問題はかういう時評の一部を割いて取り上げるには大き過ぎるものかも知れない。併し前にダレルの「アレクサンドリア四部作」を読んだ時、又今度この「越前竹人形」を読み終つて、文学の根柢にある人生肯定といふ問題が二度とも頭の中で或るはつきりした形を取つた。兎に角、この「越前竹人形」が水上氏が書いた「雁の寺」以来の傑作であることは疑ひの余地がない。》

 ワイルド、イエイツ、ローレンス・ダレルといった世界文学の中の水上勉、という吉田の批評の面目躍如である。「作者が設定して行く状況では、女は結核患者であり、結婚してから別な男との間に出来た子を堕す為に京都まで出て行き、その無理で病状が悪化して死に、その夫は仕事を一切止めて、やがて自殺する」けれども、「併しこの小説も哀歌ではない」のであって、「越前の一寒村で竹細工で暮しを立ててゐた男が死んだ後、その息子が家業を継いで父親が贔屓にしてゐた金沢の女郎と結婚して幸福に一生を終る話である」といった「人生肯定」の大きな古典的物語の世界をそこに出現させる。

 

<『越前竹人形』――夢を見させてくれる>

『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』解説から。

《小説といふのは現実の世界を言葉で築く技術である。そして現実が現実であるのが科学的に実証出来るかどうかといふことと縁がないものならば、又そこに例へばポオの怪奇な小説の現実が成立するのであるが、それならば小説の世界は小説家の腕次第で所謂、物語にまで及び、小説での現実が他の凡ての現実を置き換へると見える程際立つた性質のものであればある程小説は物語に近づいて行く。水上氏に「越前竹人形」といふ傑作がある。そこに物語風の怪奇に属することは何もなくて、我々は福井県の一隅にある竹の名所で知られた村に連れて行かれ、そこで仕事をしてゐる竹細工の名人の生涯と死に付き合されて、この小説でも物語の観念から遠い暗さや貧しさを話の材料に提供されるのであるが、ここでも我々の眼はあるものをあるがままに見るやうに作者の言葉に鍛へられて先づこの村に、マダケ、ハチク、モウソウダケ、メダケなどの竹が茂つてゐる有様が我々の頭の中一杯にその緑を拡げる。

(中略)

 ここで飛躍して夢を見させてくれると言つてはいけないだらうか。曾て戦前に幻滅の悲哀などといふ合ひ言葉が用ゐられて以来、又戦後はそれに輪を掛けて夢といふのが何かあるまじきもの、又現代人とかいぐものにはない筈のものと考へられるやうになつてゐるが、もし野蛮人も同様に精神の働きの鈍さを補ふ為に一々何か物体を持つて来なければ考へを進めることが出来ないといふのでないならば精神の的確な働きでただそれだけで一つの首尾一貫したものの輪郭を辿るのが夢みるといふことであり、その結果が夢である。それで数学は夢であり、「越前竹人形」も夢であつて、それが余りにも鮮明なものであるので悪夢と反対の意味でそれが我々の頭から離れない。もしこの小説の主人公が作つた翁と媼の人形を我々が我々の生活で具体的に見たことがないならば我々はそれをこの「越前竹人形」といふ夢物語で見たので、玉枝は我々が実際に会つた人間以上に濃い影を落して我々の印象に残る。》

 これを受けて吉田健一は、「小説」「嘘」「写実」「現実」「物語」「言葉」といった主題をめぐる水上勉論を振り返る。

《この点から「雁の寺」も「五番町夕霧楼」も考へ直すことが我々に許される。前者は雁の絵が襖に書いてある寺が中心になつた話、後者は京都の色街での出来事を扱つたもので、その材料からすれば一応は暗いことが多くて我が国で写実とか呼ばれて小説になくてはならないことになつてゐる性格を備へたものであるが、もしその写実といふのが現実といふもののあり方を伝へることであるならば何れの小説も現実そのものぼ域に達してゐて、その現実は我々がそれに親しんで知つてゐる通りただそこにあるものであり、そこにあることで我々に存在することの喜びを教へるものであることで二篇の小説とも我々が一般に写実と呼んでゐる種類の気を滅入らせるばかりのものでなくなり、明確に見るといふ精神の働きがその隅々に及んで我々を夢みる状態に置く。それは我々が不注意に我々の生活での毎日を過すのが夢も同然であるといふのと反対の意味で夢であつて、さういふ夢物語であることに掛けて「雁の寺」も「五番町夕霧楼」も「越前竹人形」と変るところはない。(中略)兎に角、水上氏は夢みること、又それを正確にやる為に言葉を使ふことが出来る少数のものの一人で、それは氏が文学者であるといふことになる。》

「明確に見るといふ精神の働きがその隅々に及んで我々を夢みる状態に置く」とは、水上勉の出身地であって、人一倍そのことに拘った若狭、丹後といった半島と日本海の暗さを、吉田が翻訳したポール・ヴァレリーレオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説』の地中海的に明晰かつ詩的な光で照らしだすかのようであるが、「水上氏は夢みること、又それを正確にやる為に言葉を使ふことが出来る少数のものの一人で、それは氏が文学者であるといふことになる」という結語は、この先も不滅のものだ。

                                 (了)

           ******参考または引用文献*****

水上勉『雁の寺・越前竹人形』(新潮文庫

水上勉『五番町夕霧楼』(「解説」吉田健一)(新潮文庫

*『吉田健一著作集ⅩⅤ 大衆文学時評』(集英社)(旧漢字を新漢字に改訂して引用)

*『吉田健一著作集ⅩⅤⅠ 作者の肖像』(『日本文学全集』第二集、第二三巻『水上勉』(河出書房新社)「解説」所収)(集英社)(旧漢字を新漢字に改訂して引用)

篠田一士編『谷崎潤一郎随筆集』(『『越前竹人形』を読む』所収)(岩波文庫

谷崎潤一郎『雪後庵夜話』(中央公論社

谷崎潤一郎吉野葛蘆刈』(岩波文庫

水上勉『私版 京都図絵』(作品社)

水上勉説経節を読む』(岩波現代文庫

*角地幸男『ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一』(新潮社)

*長谷川郁夫『吉田健一』(新潮社)

*『丸谷才一全集12 選評、時評、その他』(貝殻一平の筆名による読売新聞「大衆文学時評」所収)(新潮社)

*『ポール・ヴァレリー全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ論考』(『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説』(吉田健一訳)所収)(筑摩書房