映画批評 小津安二郎『彼岸花』論

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    小津安二郎彼岸花』論

                       

<里見弴/小津安二郎

 映画『彼岸花』に白と赤の文字で「原作里見弴」と流れる。だが一緒に湯ヶ原に泊り込んで、テーマと人物設定を共通項に小津と相棒野田高梧が脚本を、里見が小説を書きあげたという。『文藝春秋』昭和三十三年六月号に小説『彼岸花』は発表され、早くも九月には映画が封切られている。

 小津的世界は尊敬した志賀直哉より、人情の機微をとらえた心理観察、会話のうまみ、骨董のような味わいから名人芸とされた里見に近い。

 

原節子山本富士子

 ヴェンダース吉田喜重蓮實重彦らに逆らって、小津作品はそれほど好きではないと発言することは危険である。そのうえ『晩春』における京の宿の月夜においてさえ、原節子に泥濘に浮く蓮の花のごとき美を感じられないから、と言ってしまえば身も蓋もないのだが、原は小津の娘といってもよい目鼻立ちではないか。

彼岸花』の魅力、それはひとえに二十七歳の山本富士子の大輪の花の華やぎ、茶目っ気による。

 

<『東京暮色』/『彼岸花』>

 成瀬監督作『浮雲』に感動してのメロドラマ、救いのない鬱勃とした『東京暮色』の失敗を厄払いするかのように、『彼岸花』は『夜の河』で演技開眼した大映の山本を三十五日間だけ松竹大船に借りてきて制作された。アドリブを許さない厳格なフォルマニスト小津が本来もっていたヒューモア・含蓄・遊び心が、「天下の美女」をえたハシャギとして小津初のカラー撮影でひき出される。

「山本君は非常にいい。さすがは大映の看板スターだ。演技の説明なんか口でいえるものではないので僕は黙っていたのだが、山本君はこちらの演出意図をすぐのみこんで僕のイメージに合った芝居をしてくれる。演技のカンがいいし、変なクセがなく素直だ。まだまだ伸びる人だね。僕はメロドラマのヒロインとしての山本君しかみたことがないが「彼岸花」では彼女から三枚目的なユーモラスな画をひき出してみようと試みたわけだ。これは成功したと思う。」

 

イーストマン/アグファ

 小説には《あのね、往きには気づかなかったんですけど、帰りの電車で、程ヶ谷へんからかしら、あっちこっち、真ッ盛りの彼岸花で》とあるが、映画では題名の由来がわからないほどだ。

 しかし赤が好きな小津は、構図上その色感が欲しいばかりに赤いケットルを文法を無視してショットごとに置きかえた。山本は赤色の帯、八掛、風呂敷包みで登場する。イーストマンの原色っぽいカラーを三度三度の天丼のようと嫌って、渋いアグフア・フイルムを採用した。

 

<「そうかい」/「もういいの」>

 たわいもないストーリーだ。後期作品で繰りかえされる複数の家族の交錯。

平山(佐分利信)、妻清子(田中絹代)と長女節子(有馬稲子)、次女久子。平山の京都での定宿の女将佐々木(浪花千栄子)と娘幸子(山本富士子)。平山の旧友三上(笠智衆)と家出した娘文子(久我美子)。節子は自分で選んだ谷口(佐田啓三)と結婚したいのに父が反対する。しかし母や幸子は理解し味方する。結局、父は説得されてしまう。

 監督いわく「親が自分の娘を嫁にやる場合、他人の娘の場合なら冷静になれるのに自分の娘となるといつまでも子供に思えて仕方がない……。つまり人生は矛盾の総和だといわれているが、そういった矛盾だらけの人生というものに焦点を合わせてみたい」

 小津はことさらのドラマを嫌っていたが『彼岸花』はホームドラマと名付けてよい。ゆえに日常些事のスナップ、社会的問題と無縁なブルジョア趣味との若手批判を受けるが、家族的エゴイズムを「そうかい」「もういいの」に象徴される反復とずれの連鎖のうちに人格へ作り上げたところにその成功があった。

 

フェルメールプルースト

 モーリス・パンゲ「小津安二郎の透明と深さ」から。

《小津の作品は、その透明さという点でフェルメールを想起させる。(中略)書きかけられた手紙、手に触れられた道具、開かれた窓、もっとも清澄なる形式の中で中断されたままであるそれらのイマージュは、我々の心の中に沈黙の涙を流し込む。我々の生は意味をもつのか、世界は現にあるがままで存在する価値があるのか。》

《小津にとって昭和の家庭は、より遠い目標に到達するための一手段であるにすぎない。彼が対象に執着するのは、あくまで対象それ自体が溶解していく深さを喚起するためなのだ。(中略)プルーストの作品と同じように小津の作品も、愛によって心が感ずるようになる時間の喚起である。》

 

<眼に見えるもの/音として響くもの>

 ドゥルーズ『シネマ2』の[ Sur  Ozu]から。

《小津は手法(モンタージュ=カット)の意味を変えてしまう。それは今や物語の筋の不在を証し立てるものとなる。すなわち映像=行為は消滅し、かわって、登場人物のあるがまま(・・・・・)の姿の純粋に視覚的な映像と彼が喋る(・・)事柄の音響的な映像、つまりシナリオの本質的部分をかたちづくる月並みきわまる人格と会話が現われることになる。(中略)視覚記号に非常に特殊な延長とは、このようなものである――時間を、思想を感知可能なものとすること、眼に見えるもの、音として響くものとすること。》

 

<「ほんま。筍、悪い方どすわ」/「トリックどすのや」>

 紅型に映える、声のよい山本のおきゃんな京都弁。

「ほんま。筍、悪い方どすわ」「違いまンなぁ京都とは。空の色まで……」「ギリギリギッチョン、ボ」「セングリセングリ妙なお婿さんばっかり探して来て」「今の話、みんな嘘どすのや。トリックどすのや」「へえ。一世一代の大芝居や。どうどす。うち、名優どっしゃろ」

 

<自分/人生>

 脚本・撮影・編集を論じきったドナルド・リチー小津安二郎の美学』はこう結ばれる。

《登場人物とひとときを過ごした私たちは、彼らと別れがたい思いにかられるのを知る。私たちは登場人物を理解し、その結果、愛するようになったのである。そしてこの理解によって私たちは自分をもっとよく知るようになり、そしてそのことによって、人生をもっとよく知るようになるのである。》

彼岸花』からわずか五年後の昭和三十八年、フリーを望んだ山本は五社協定大映を干されてテレビ・舞台ヘ移り、「芸術のことは自分に従う」をモットーとした小津は還暦を迎えた日に人生を終える。

 山本の出番の最終日、小津は里見邸で送別の宴を開いた。山本は小津に手紙を書く。

《皆様とお別れしまして京都に参る自動車の中で幸福感で一杯……温かなものが満ち溢れている様な……》

                               (了)

      *****引用または参考文献******

*モーリス・パンゲ『テクストとしての日本』竹内信夫他訳(「小津安二郎の透明と深さ」所収)(筑摩書房

*里見弴『初舞台・彼岸花』(講談社文芸文庫

蓮實重彦責任編集『季刊 映画リュミエール4』(ドゥルーズ「不変のフォルムとしての時間」松浦寿輝訳所収)(筑摩書房

ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版会)

ドナルド・リチー小津安二郎の美学』山本喜久雄訳(フィルムアート社)

蓮實重彦『監督 小津安二郎 (増補決定版)』(筑摩書房

佐藤忠男小津安二郎の芸術(上下)』(朝日選書)

文学批評/映画批評 カズオ・イシグロ『日の名残り』論

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カズオ・イシグロ日の名残り』論

                                

[序 サルマン・ラシュディの『日の名残り』書評]

 

 サルマン・ラシュディによるカズオ・イシグロ日の名残り』の書評は、丸谷才一編著『ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内』の「執事が見なかったもの」という題で読むことができる。

カズオ・イシグロの新作は、表面だけ見ているとほとんど物音ひとつしない。とうに壮年期を過ぎた執事スティーブンスが一週間、イングランド西部へ車で休養にでかける。彼はのんびり車を走らせながら、風景を眺め、自分の生涯を顧み、一九五〇年代のイギリス映画から抜け出してきたような、田舎の陽気な人々につぎつぎに出会う。折り目のついたズボンをはき、母音をあいまいに発音する紳士に向かって、下層階級がうやうやしく帽子をぬぐような世界だ。事実、この作品の時期は一九五六年七月なのである。だが、時代をこえたもっと他の世界、ウッドハウスの小説の召使いジーヴズの主人ウースターや、テレビの人気番組「階上と階下(階上は金持ちを、階下は貧しい人々を指す)」の執事ハドソンや料理女ミセス・ブリッジェスの世界、ジョージ・エリオットの『牧師館物語』での執事と女中頭のベラミー夫妻などの世界の雰囲気も感じられる。

 たいした事件は何も起こらない。スティーブンス氏の小旅行の山は、ダーリントン・ホールの元女中頭だったミス・ケントンを訪ねる箇所で、ダーリントン・ホールとは、すでにダーリントン卿からファラディという、よく軽口をたたいて人をまどわせる陽気なアメリカ人に代わっているものの、いまなおスティーブンスが「設備のひとつ」として働いている大邸宅である。スティーブンスはミス・ケントンを説得して、またダーリントン・ホールへ復帰させたいとおもっている。その期待は実らず、彼はひきかえす。ささやかな出来事ばかりだが、では、最後にちかくウェイマスの桟橋で、年老いた執事が赤の他人の前で泣くことになるのはなぜなのか。その赤の他人がこの執事に向かって、のんびり休んで晩年を楽しんだらと言っているのに、この陳腐だとはしても賢明な忠告にスティーブンスが従えないのはなぜか。彼の晩年がめちゃくちゃになった原因は何なのだ。

 この小説は表面的には穏やかで表現も押さえられているものの、一皮むけば、地味ながら大きな動揺が隠れているのである。『日の名残り』は実をいうと、一見その祖先のようにみえる小説の形式をみごとにひっくり返した作品なのだ。ウッドハウスの世界には、死とか変化、苦痛、悪といったものが入っている。歴史の積み重ねのなかで神聖なものとなった主従関の紐帯、両者の生き方の規範、こういうものはすでに規範としての絶対性を失い、むしろ荒廃した自己欺瞞の源になっている。陽気な田舎者たちにしても、蓋をあけてみれば戦後の民主主義的な価値観や集団の権利の擁護者となっているのでは、スティーブンスやその同類は、すでに悲喜劇的な時代おくれと化してしまったのだ。

「自分が奴隷じゃ、品位なんか持てやしないよ」と、スティーブンスはデヴォン州で泊まった家で言われる。だがスティーブンスの生涯にとっては、品位とは自分を殺して職務に励み、自分の運命を主人の運命にゆだねることだったのだ。では、権力とわれわれの関係の実態はどういうものなのだろう。われわれは権力の召使なのか、主人なのか。イギリス的であるとはどういうことか? 偉大さとは何か? 品位とは何か?――こういう大問題を精妙に、しかも底には曇りのない現実的な目を秘めながらユーモラスに提示したのは、イシグロの小説の希有な手柄である。

 ここで語られているのは、実は自分の人生観の土台だった思想によって滅びた男の物語なのだ。スティーブンスは「偉大さ」という概念に固執している。彼はそれを抑制に似たものだと思っている。(イギリスの風景の偉大さは、アフリカやアメリカの風景の「これ見よがしの品のなさ」がないところにある、と彼は信じている。)偉大さとはこういうものだとしたのは、やはり執事だった彼の父である。だが、父子のあいだの愛情が壊れたのはまさに、この概念が二人のあいだに立ちはだかって怨みの元となり、気持ちが通じなくなったからだったのだ。

 スティーブンスに言わせると、執事が偉大かどうかは、「職業人としての自己を棄てずにいられる能力と決定的にかかわっている」。これがイギリス的性格につながるのである。ヨーロッパ諸国の人間やケルト民族は、ちょっとしたことでも「騒ぎたてる」性格のせいで、立派な執事にはなれない。だが、スティーブンスはこういう「偉大さ」に憧れていたばかりに、一回きりのロマンティックな愛のチャンスを逃してしまった。自分の役割に埋没していたために、彼はかつてミス・ケントンを他の男に走らせてしまったのである。「どうして、あなたはいつでも『嘘をついて』いなければならないの? なぜ?」彼女は絶望して問いつめた。彼の「偉大さ」の正体は仮面か、臆病さか、嘘にすぎないことが、あきらかになったのである。

 彼の最大の挫折をもたらしたのは、そのもっとも深い確信だった。主人は人類の幸福のために働いているのであり、自分の名誉はこの主人に仕えることにある、と彼は信じていた。ところが、ダーリントン卿は間抜けなナチ協力者という汚名を背負って生涯を終えた。安っぽい特価品のペテロのようなスティーブンスは、すくなくとも二度は卿を拒んだけれども、主人の失墜によって消すことのできない汚名を負った気持ちになった。ダーリントン卿もスティーブンスと同じく、みずからの倫理規範によって滅びたのである。彼はヴェルサイユ条約の苛酷さは紳士的でないと考えたからこそ、ナチ協力者の悲運に走ったのだった。理想主義もまた冷笑主義におとらず、決定的に破綻することがあるのだ。

 だが、すくなくともダーリントン卿はみずからの道を選ぶことができた。「わたしにはその権利もない」とスティーブンスは呻く。

「いいかね、わたしは『信じた』のだ……ところが、自分で過ちを犯したとさえ言えない。それでは品位などどこにあるとほんとうに言いたくなるよ」。彼の生涯は愚かしい過ちだったのだ。ただひとつそれを弁護できるものは、かれに破綻をもたらしたあの自己欺瞞の才能だけである。これは、美しいと同時に残酷な物語にとって、残酷だが美しい結論ではないか。

 イシグロの最初の長編『女たちの遠い夏』(筆者註:のち邦題は『遠い山なみの光』に改題)の舞台は戦後の長崎だったが、原爆にはふれていない。新作の時期は、ちょうどナセルがスエズ運河を国有化した月にあたっているのだが、スエズでの失敗はイギリスの終焉を表すひとつの事件だったにもかかわらず、イギリスの衰退をひとつの主題としているこの小説は、その危機にふれていない。日本を舞台にした第二作『浮世の画家』も、戦争協力、自己欺瞞、無意識の自己表出という主題をあつかい、その中で想起される建前と品位の概念をあつかっていた。イギリスと日本は、表面はそれぞれにいささか不可解でも、じつはそれほど隔たっていないのかもしれない。》

 

 丸谷才一ラシュディの書評を次のように讃えた。

《最後に彼が言ふ、日英両国の小説における沈黙の技法など、まことに興味深い話題であらう。それはアンダーステイトメント、つまり抑制のきいたものの言ひ方に通じる技法である。》 

 同じくらい精妙な技法として、イシグロについてよく言われる、そして本人も有効な小説の技法(手法)だとくりかえし語っている「信頼(信用)できない語り手」についての言及がないのはどうしたことだろう。

 

カズオ・イシグロの文学白熱教室」でイシグロ自身が語っている。

《それでは次に「物語を記憶を通じて語る」というテーマに入りたいと思う。 これは物語を語る上でフィクションで使われる一つの手法で、テレビドラマや映画とは全く違うものだ。紙の上でしか描くことができない。読者も小説を読まないとこれを体験できない。だから私は小説を読むべきだと言えるのだ。 

この体験は、小説という形だからこそ得られるもので、他の形では得られないからだ。こうして私はこの手法を用い始めた。筋書きに固執して時系列に話を展開することよりも、語り手の内なる考えや関係性を追って書き出した。ジャーナリストなら信頼できないことは最悪だ。だがフィクションでは信頼できないことで面白いことが起きる。 

例えば人間は何かを思い出す時、その記憶はゆがめられている。不愉快なことはすり替えている。自分を少し誇張したりもする。フィクションで記憶を取り入れることによって「なぜ人は信頼できないんだろう?」という疑問が湧き上がる。

 「どういう時に信頼できないのだろうか?」「何かを隠そうとする理由は何なのか?」「逃げ出そうとする理由は何なのか?」「なぜ物事を変えたいと思うのか?」 

私は「信頼できない」ことは、小説家にとって非常に力強いツールだと思った。私が言う「信頼できない」とは、私たちの現実の世界で起きていることだ。人は真剣な話、重要な話をする時、実は信頼できないのだ。10代になれば、あるいは大人になればなおさら、我々はある種の達人になっている。私たちに語りかけている人は信頼できる語り手じゃないと分かっている。 

 例えば学生時代の友人にばったり出会って、君はこう言う。「やあ、元気にやっているか?離婚したって聞いたよ」「ああ、でも離婚してよかった。これ以上最良な方法はなかったよ。前より自由になったし、人生も上向きになってきた」と友人が答えたとしよう。よほどの馬鹿者じゃない限り「ああ、よかった。大丈夫なんだな」と思う人はいないだろう。それは「方便」だと分かっているからだ。 

 人は本心を明かさず、少し飾って話すことが多い。そんなことから、私たちは社会で生きているだけで物事を読み取る達人にもなっているのだ。だからフィクションを書いている時、信頼できない語り手や信頼できない物語の進行役を用いると、読者は読み取るスキルを使うことになる。現実の世界で自分を取り巻く世界や人に対して使うように。 

 私が非常に興味を持っているのは、人が自分自身に嘘をつく才能だ。他人に嘘をつくつもりがなくても、本当ではないことを言ってしまう。そのような信頼できない状態は、フィクションを書くにあたって非常に有効で、フィクションにピタリとはまる手法だと思う。》

 

 デイヴィッド・ロッジは『小説の技巧』で、『日の名残り』を例にとって(もう一つはナボコフ『青白い炎』)「信用できない語り手」についての分析をした。 

 デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』の「信用できない語り手」から。

《「信用できない語り手」とはつねに、みずからが語るストーリーの一部を成す登場人物である。信用できない「全知の」語り手というのはほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であるということ――を再確認させるにすぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。

 信用できない語り手を用いることの意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるとい点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実演してみせるのだ。そうした欲求には、かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。カズオ・イシグロの作品の語り手にしても、決して悪人ではない。だが彼の人生は、自分と他人をめぐる真実を抑圧し回避することに基づいて進められてきたのだ。その語りは一種の告白だが、そこには、欺瞞に彩られた自己正当化や言い逃れがあふれている。最後の最後になって、自分についてある種の理解に到達するものの、その時にはもう、そこから何かを得るには手遅れだ。》

 

日の名残り』のライトモチーフのひとつは「信用できない語り手」による「盲目」性に違いなく、映画と小説を比較検討することでより明瞭になる。

 

 

[『日の名残り』を読む/見る]

 

 アンソニー・ホプキンスが執事スティーブンスを、エマ・トンプソンがミス・ケントンを演じたジェイムズ・アイヴォリー監督『日の名残り』(一九九三年)は優れた映画ではあるけれども、原作小説(一九八九年)と違って「信用できない語り手」の存在は感じられず(ということは「信用できない作者」もまた感じられない)、そこに「盲目」性はなく、はっきりと見えすぎている。あるいは、映画は見せすぎている、と表現すべきか。ラシュディの書評は、映画評であってもあってもおかしくない(正確に言えば、映画はラシュディ評のスエズ危機を語ってしまうなど抑制的ではない)。

 他にもいくつか重要な異同がある。旅に出るスティーブンスがアメリカ車フォードではなく、ドイツ車ダイムラーを主人から借りることも、かつてのナチス・ドイツとの因縁が感じられもするが、目をつぶろう。一人称小説に対して、映画はそうではないことから生じる差異が大きい。「信用できない語り手」がまさにそうだ。「省略」を脚本が補填しすぎている。映画でミス・ケントンがパブで結婚相手ミスター・ベンと逢引するシーンに、一人称小説なら屋敷で勤務中のスティーブンスが同席できるはずはないし、孫が出来るから家に戻ってきてほしいと別居して下宿先にいる妻ケントンをベンが訪ねてくるシーンを旅の途中のスティーブンスが見るはずもない。

 

 イシグロは対談で、映画を気に入っているが、小説とは「異なる芸術作品」で「いとこ」のよう、と形容しているけれども、これもまた抑制された語り口だろう。

《I was very pleased with the film……James Ivory’s The Remains of the Day which is a cousin of my The remains of the Day but it is a different work of art. It’s one I have a lot of affection for.》

 そのうえで、映画は互いの愛の感情を抑え過ぎた二人の物語となっているが、小説は自制、無私についての物語だとしている。

《In the movie, the relationship between the two main characters……was about emotional repression: they loved each other but they were just too repressed……in the book it’s not quite that, it’s about self-denial.》

 

 小説を映画と比較しながら読み進める(ページ数(P)は、カズオ・イシグロ日の名残り土屋政雄訳(早川epi文庫)による)。

 

 

「プロローグ」

 

<隠しても仕方ありますまい>

・(P11)《ところが、それから数日の間に、ファラディ様のお申し出に対する私の気持ちは一変し、頭の中では、西部地方への旅という考えがしだいに大きくふくらみはじめたのです。この急変の原因が――隠しても仕方ありますまい――ミス・ケントンからの手紙にあることは――クリスマス・カードを除けば、この七年間で初めての手紙にあることは――事実です。ただ、誤解なきように願いたいのは、私はミス・ケントンの手紙で職業意識を刺激された、ということなのです。》

⇒「隠しても仕方ありますまい」という素直そうな「露出」的告白によって、「何も隠してなどいない」「隠すような人間ではない」と読者を誘導し、この先の隠された真実を隠蔽する。あたかもフロイトの笑い話の、《あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」》(フロイト全集<8>「1905年――機知」(岩波書店))のような真実の露出をつうじた嘘。

 と同時に、察しのよい読者には、もしかすると「信頼できない語り手」(デイヴィッド・ロッジによる)ではないか、という気づきを与える。小説における隠蔽は完全に隠しきってはいけない、隠蔽ではないかと匂わせることで効果を発揮する。

 主人公である一人称の語り手、執事スティーブンスは、すぐに言訳を付け加えることを忘れない。「ただ、誤解なきように願いたいのは」「職業意識を刺激された」と。読者に、誤解するな、執事は誠実な人間の仕事なのだ、と注意する。

 

<明白な事実に盲目になっておりました>

・(P12)《じつは告白せねばなりませんが、私はこの数か月間に、仕事の上で小さな過ちをいくつか重ねてしまいました。取るに足りない些細な過ちとはいえ、これまでおよそ過ちというものに無縁であった私には、過つこと自体が心穏やかならざることでございまして、その原因についてあれこれと悲観的な考えを抱きはじめたのも、無理からぬこととご理解いただけましょう。こうした場合にとかくありがちなように、私もまた、明白な事実に盲目になっておりました。つまり、ミス・ケントンの手紙に触れるまで、私の目には単純な真実が見えていなかったのです。その真実とは、一連の過ちの原因は職務計画の不備にあって、それ以外のなにものにもない――これでございます。》

⇒読み進めても、仕事上の小さな過ち、一連の過ちが何であったのか、具体的には一向に語られない(ようやくそれらしきことがひとつだけ語られるのは半分以上過ぎてからの、銀のフォークの汚れの件にすぎない)。

 この小説のライトモチーフのひとつは「盲目」である。「信頼できない語り手」によって読者は「盲目」状態におかれたうえに、作者イシグロがあえて語らないこと、「黙説法(パラリプス)」(ジェラール・ジュネット)によって、読者は「盲目」なまま小説を読み進めざるを得ない。

 

 

<ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』>

 バイヤール『アクロイドを殺したのは誰か』は、アガサ・クリスティーアクロイド殺害事件』を基に、心理的な「盲目」について論じている。

《真実は、隠されている反面、読者に手のとどくものでなければならない、しかも読者の目につくところにあるのでなければならない》

⇒イシグロは、あえて冒頭の数頁で、「隠しても仕方ありますまい」に続けて、「私もまた、明白な事実に盲目になっておりました」、「私の目には単純な真実が見えていなかったのです」と読者にヒントを与えつつ挑発する。

《犯人が担う役割(・・)も隠れみのとなる。まずは職業という意味での役割だが、それが社会的な信用度の高い職業である場合にはなおさらである。》

⇒スティーブンスは執事の「偉大さ」「品格」をくどいほど長々と考察して、読者が抱いている執事の社会的信用度を補強する。

《作者は読者の関心を別の指標の方へと逸らそうとする。これはいわば逆向きの偽装である。本物を粉飾して見分けられなくするのではなく、いうなれば贋物をほんとうらしく際立たせ、そちらに注意を向けさせようとすることであるからだ。ここでは隠蔽のこの第二のメカニズムを転嫁(・・)と呼ぶことにする。》

⇒この先の国際会議、秘密会談における執事としての「偉大さ」「品格」を誇示することで、恋愛感情の自制、禁止の《偽装と転嫁は一体化となって機能する》。

《この作品のもっとも重要な隠蔽形式が、語り手と犯人を一体化したことに由来しているというのも事実である。ここでは犯人が、小説全体をつうじて、これ見よがしに読者の目に晒されている。バルトの的確な表現を借りれば、『アクロイド殺害事件』では読者は犯人をいくつもの「彼」の背後に捜そうとするが、犯人はじつは「私」の背後に隠れているのである(*)。((*)「ここでアガサ・クリスティーの小説を思い出してもいいだろう。語りの一人称の陰に犯人を隠すという妙案が売りもののあの小説である。そこでは読者は犯人を物語に登場するすべての「彼」の背後に捜す。ところが犯人は「私」の陰に潜んでいたのである。アガサ・クリスティーは、ふつう小説のなかでは「私」は証言者であり、「彼」が行為者であるということを熟知していたのだ」ロラン・バルト『零度のエクリチュール渡辺淳、沢村昴一訳(みすず書房))》

⇒一人称の映画も可能ではあるが、アイヴォリー監督は大衆的わかりやすさを選んで、キャメラを神の眼としたので、「隠蔽」はなく犯人もいない。

《この小説における発話のあり方はあるあいまいさ(・・・・・)を孕んでいる。そして、アガサ・クリスティーはそれを利用することを完璧に心得ていた。というのも、この小説は独白(モノローグ)的であるため、一人称の語り手はついには全知の語り手のように思われてくるのである。》《語り手の「私」の背後に犯人を隠すというこの手法は、しかしながら、別の二つの手法をともなっていなかったら機能していないだろう。互いに緊密に繋がっている二つの手法、いずれも読者の目を欺くのに不可欠な手法である。その第一は表現のテクニック、第二は物語る内容の取捨選択にかかわる手法である。そして後者がもたらす影響は、前者の場合よりもはるかに広範囲におよぶ。表現のテクニックとは、二重の意味にとれる言説の使用(・・・・・・・・・・・・・・)ということにほかならない。》

⇒「表現のテクニック」としての、ミス・ケントンの泣き声を聞いたときスティーブンスの胸に湧き上がる「不思議な感情」、「名状しがたい感情の渦」という恋愛感情なのかそうではないのかのグレーな多義的表現。

《この小説のトリックを機能させるのに不可欠な第二の手法は、省略による嘘(・・・・・・)である。(中略)省略による嘘はじつは、推理小説における真実隠蔽の四番目のテクニックとみることができる。いずれにしてもそれは先の三大手法(筆者註:偽装、転嫁、露出)にはない特性を実質的にもっている。つまり三大手法が、作品内の現実についての読者の認識を誤らせようとするのにたいして(それが極端なかたちでなされるのが露出の場合である)、省略による嘘は、この現実の一部を読者に伝達しないことで消去してしまうのである。》

⇒「五日目」の不在、「スエズ危機」などなかったかのような「省略」をどう分析すべきか。

《妄想的活動というのはつまるところ、既存の現実を抑圧することであるよりもむしろ、それになんらかの新しい現実を置き換えることであり、解釈はこうした置き換えの運動そのものなのである。》

⇒スティーブンスには「偉大な」「品格」ある執事という職業へのパラノイア性妄想のようなものがある。これがひとたび、二十年ぶりに再会するミス・ケントンに愛されるかもしれない私、に向かうと手紙はどう解釈されるかの症例となっている。しかも、あくまでも執事としての「職務計画」、「スタッフ編成」という「仕事、仕事」にすぎないと転嫁されつつ。

 

 イシグロは『私を離さないで』をミステリー的に読まれること、ネタバレ、タネアカシにばかり興味がゆくのは本意ではない、と発言しているが、『日の名残り』のミステリー性はもっと隠微なもので、いわば「見せ消ち」、メタファー(隠喩)のレベルである。

カズオ・イシグロの文学白熱教室」からメタファー(隠喩)について引用すれば、

《私が好むメタファーは、読者がそれが比喩だと気付かないレベルのものだ。物語に夢中になって物語の行き先ばかりに気を取られて、その背景を冷静に分析したりしないで済むような。そして本を閉じた時に、あるいは思い返した時に気付くかもしれない。人生に直接関係する何かの隠喩だったから、この物語に夢中になったのだと。そのようなメタファー、隠喩が力強く威力を発揮する。》

 

<私の空想の産物だとはとても思えない>

・(P18)《これほど明らかな職務計画の欠陥に、なぜもっと早く気づかなかったのか。不審に思われる方もあろうかと存じます。しかし、長い間真剣に考え抜いた事柄には、えてしてこうしたことが起こるものではありますまいか。なんらかの偶発的事件に接し、初めて「目からうろこが落ちる」ということが……。この場合がまさにそうでした。ミス・ケントンの手紙を読み、その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望――だと私は確信しております――が込められているのを感じなかったら、私は計画を見直さなかったかもしれません。もちろん、あと一人召使がいればどれほど重要な役割を果たせるかにも気づかず、最近のすべての問題がその一人の不在から発生している、という発見もなかったことでしょう。(中略)

 状況をこのように把握してしまえば、先日のファラディ様の御親切な提案を思い返すまでに、さほど時間はかかりませんでした。なにしろ、その自動車旅行がお屋敷のために大いに役立つ可能性が出てきたのですから。西部地方へ旅行して、途中、ミス・ケントンのもとに立ち寄れば、ダーリントン・ホールにもどりたいという願いがどの程度のものか、私から直接確かめることができます。もっとも、手紙を何度読み返してみても、私には、ミス・ケントンの願いが私の空想の産物だとはとても思えないのですが……。》

⇒小説では、ミス・ケントンの手紙は、もっぱら一人称の語り手スティーブンスの意識を通して語られる。「その長い、抑えた調子の文章の合間に、間違いなくダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ、もどりたいという願望――だと私は確信しております――が込められているのを感じなかったら」との「解釈」や、「もっとも、手紙を何度読み返してみても、私には、ミス・ケントンの願いが私の空想の産物だとはとても思えないのですが……」との「妄想」かもしれない何かを、読者はひとまず信用して小説を読み進める(このさきスティーブンスの口調が弱含みになってゆくたびに眉を顰めることとなるとは知らずに)。そもそも「目からうろこが落ちる」だったのだろうか、「現実を置き換えること」を密かに待ち望んでいたのではないのか。

 

 映画では冒頭でいきなりミス・ケントンが自分の声で手紙を読みあげ、何もかも疑いようなく曝け出してしまう。

《スティーブンス様

 長いご無沙汰をいたしました。

 ダーリントン卿がお亡くなりになって、跡継ぎの新伯爵は広大なダーリントン・ホールを維持することができず、お屋敷を取り壊して、石材を5000ポンドで売りに出すという記事を新聞で読みました。

“反逆者の屋敷 取り壊し”というひどい見出しもありました。

 ホットしたことに、ルイスという米国の富豪がお屋敷を救い、あなたもお屋敷に留まれるとか。1936年の会合に参加されたあのルイス下院議員ですか?

 そちらで働いていたあの頃を懐かしく思い出します。仕事は忙しく、あなたは気難しい執事でしたが、私の人生で一番幸せな日々でした。

使用人の顔もすっかり変わった事でしょう。あの頃のように大勢のスタッフも今は必要ないでしょう。

 私の近況は暗いものです。7年前にお便りをして以来、夫とは結局破局を迎える事になりそうです。現在は下宿住まいの身です。

 将来はどうなるのか。娘のキャサリンが結婚し、空虚な毎日です。この先の長い歳月、自分を何かに役立てたいと思うこの頃です。》                                                             

 さすがにダーリントン・ホールに戻りたい、とまでは語らせないとはいえ。

 

 ここで何気なく提示されているのは、屋敷の新しいアメリカ人の持主が、小説のファラディではなく、ルイス議員(小説では、一九二三年のダーリントン・ホールでの国際会議に出席して晩餐会で「アマチュア」警告発言をした)が横滑りしていることだ。(スティーブンスの父が転倒するシーンで、映画ではダーリントン卿があづまやで国際会議に向けて三人で打ち合わせをしていて、ルイス議員の素性が話題になる。小説ではペンシルベニア州出身としか語られないが、映画ではジョセフ・P・ケネディ(相場、不動産、禁酒法などで厖大な富を得た資産家で、ルーズベルトの大統領選資金援助をした功績から一九三八年から四十年まで駐英アメリカ大使となる。小説、映画とは違ってナチス・ドイツ融和政策主義だった。J・F・ケネディの父)の時間を前倒しさせた似姿としてルイスに重ねて描いていて、そこには英国貴族階級の成金への揶揄が色濃くにじむ。

《「アメリカからは同じ日にルイス下院議員が到着する」「どういう男かね?」「詳しくは知らんがペンシルベニア州の若手議員だ。有力な外交委員会の委員で富豪の御曹司という話だ」

「精肉業か?」「車両製造?」「繊維製品? 具体的に何を?」「とんだボロ儲けしたのさ」「私の聞いた話では化粧品で財を築いたと」》)。

 しかも国際会議は一九二三年ではなく、ミス・ケントンの記憶では一九三六年?にシフトされてしまった(小説にはない映画のラストの、ダーリントン・ホールの卓球台が置かれた部屋に鳩が迷い込んだシーンで、旅から戻ったスティーブンスにルイスが一九三五年の晩餐会の場所なのを覚えているか、と語りかけるので、正しくは一九三五年のようだ)。

 この一九二三年と一九三五年との、ナチス台頭前と後との、決して合体してはならない致命的に大きな歴史的差異は後述する。

 

  さらに映画では、小説で巧妙に省略されているスティーブンスのミス・ケントン(結婚後の名前ミセス・ベン)への出発の知らせと、現在のスタッフ不足、彼女のかつての仕事ぶりへの賛辞の返信までも明示されてしまう。

《ミセス・ベン

 10月3日の4時頃そちらの町へ。その前夜コリングバーンに一泊します。村の郵便局に連絡を入れておいて下さい。

 あなたの記憶力には今も驚かされます。現在の私の雇い主は政界を引退したあのルイス議員です。ご家族も間もなく屋敷に来られる予定です。そこで問題になるのがスタッフ不足です。

 ここで改めてあなたに賛辞を呈します。結婚で去られて以来、あなたに勝る有能な後任者はいませんでした。》

 

<体面を汚さない>

・(P20)《これほど服装にこだわる私を、鼻持ちならない気障(きざ)とみなす方もございましょうが、そうではありません。旅行中には、身分を明かさねばならない事態がいつ生じるかわかりません。そのようなとき、私がダーリントン・ホールの体面を汚さない服装をしていることは、きわめて重要なことだと存じます。》

⇒たしかに立派な服装は絶大な効果を地方の人々に与えることとなる。ダーリントン・ホールの体面を汚さないという感情は、執事であることを自慢したい自分の体面と綯交ぜになっている。

 

「The Paris Review」のインタビューから。

《――『日の名残り』の舞台がイギリスに定まったのはどのような経緯で?

イシグロ: 始まりは妻のジョークからでした。その日一作目の小説についてのインタビューをするためにジャーナリストが自宅に来ることになっていました。それで彼女はこう言ったのです。「その人が真面目なしかつめらしい質問をして来たら、あなた、私の執事のふりをするというのはどう? 可笑しくていいんじゃない」 私たちはそれを面白い発想だと思いました。以来私はメタファーとしての執事に取り憑かれることになりました。

――何のメタファーでしょうか?

イシグロ: 二つあります。ひとつは我々が感情を殺し、ある種凍結してしまうことのメタファーです。イギリスの執事はおそろしいほど控えめでなくてはなりません。また周囲で起こるどんなことに対しても個人的な反応は示してはなりません。英国人気質を掘り下げるだけではなく、我々にみな共通する部分、すなわち他人に深入りすることの恐れを描くには格好の方法に思えました。

 もうひとつは、大きな政治的な決断を他人に委ねてしまう人々の象徴としての執事です。彼は言います。「私にできることは主人に仕えるためにベストを尽くすことです。代理人を通じて社会に貢献をしていますが、私自身は大きな決断は下すつもりはありません」と。私たちの多くは、民主主義の社会に生きているいないにかかわらずそのような立場に立っています。私たちのほとんどは大きな決定がなされるところの住人ではありません。私たちは自らの仕事をし、それに誇りを抱き、そのささやかな貢献が上手に利用されることを願っています。》

 

アメリカ的ジョーク>

・(P23)《自動車旅行の目的地になぜ西部地方を選んだのか。理由には、サイモンズ夫人のご本から魅力的な情景描写の一つも拝借しておけばよかったものを、私はうっかり、かつてダーリントン・ホールで女中頭をしていた者がここに住んでいる、と申し上げてしまったのです。

 私のつもりでは、要するに、お屋敷が現在小さな問題を抱えていること、その理想的な解決策が昔の女中頭に見出せるかもしれないこと、私はその可能性を探りにいきたいこと……、そんなことを申し上げたかったのだと存じます。しかし、ミス・ケントンの名前を出したとたん、私はこの話を先に進めることがいかに不穏当であるかに気づきました。なぜと申しますに、ミス・ケントンがほんとうにお屋敷にもどりたがっているのかどうか、私は確実なことを何も知りません。(中略)

ファラディ様がこの好機を見逃されるはずがありません。にやりと笑うと、わざと重々しい口調でこう言われました。

「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい? その年でかい?」

 きまり悪いことこの上ない瞬間でした。ダーリントン卿でしたら、絶対に雇人をこのような目にはお遭わせにならなかったでしょう。いえ、ファラディ様のことを悪く言いたいのではありません。ファラディ様はアメリカの方で、なさり方がいろいろと違います。意地悪のつもりなど毛頭なかったことは、私がよく存じております。が、それにしても私にとってどれほど居心地の悪い一瞬だったか、ご想像いただけるでしょうか。

「君がそんな女たらしとは、ついぞ気がつかなかったよ」と、ファラディ様はつづけられました。「気を若く保つ秘訣かな? しかし、どんなものかな、そんないかがわしい逢瀬をぼくが取り持つというのは……」(中略)

 消え入りたいようなひとときでしたが、私にはファラディ様を非難するつもりは少しもありません。決して不親切な方ではなく、ただ、アメリカ的ジョークを楽しんでおられたのだと存じます。アメリカでは、その種のジョークが良好な主従関係のしるしで、親愛の情の表現だとも聞いています。》

⇒一方、映画では次のとおり、アメリカ的ジョークに聞こえない。そもそも映画の中のファラディならぬルイスは、あまりアメリカ的ではなく、英米の文明比較に乏しい。

《「昔勤めておりました女性スタッフがまた働きたいという意思を」

「彼女とはいい仲だったのか?」

「とんでもない。大変有能な人物です。保証いたします」

「お前をからかったんだよ。すまん」》

 これではアメリカ的ジョークになっていないし、親愛の情の表現も感じられない。

 アメリカ的ジョークは小説の一つの動線にもなっていて、途中何度かスティーブンスは試みては失敗し、そして小説の最後でスティーブンスの新たな生の動機付けにさえなるというアイロニーの種だが、ことごとく省略される。

 続いてスティーブンスは、ファラディの下品なジョークを語るが、映画では取りあげられない。

《たとえば、お屋敷に来られる予定だったある方について、奥様が同行なさるのかどうかをお尋ねしたときのことです。

「来たら困っちゃうな」と、ファラディ様はお答えになりました。「あの女を遠ざけておく方法はないかな、スティーブンス? そうだ、君がモーガンさんの厩に連れてって、あの藁の中でたっぷりもてなしてやるってのはどうだい? 君の好みのタイプかもしれないぜ」

 一瞬、何のことか私にはわかりませんでした。やがて、これは冗談だと気づき、自然な笑いを浮かべようと努力しましたが、ショックといいますか……私の感じた困惑の幾分かは、表情に残っていたに違いありません。》

日の名残り』は全編を通して、性的なことと宗教が慎重に避けられているが、ここには性的な話題がある(今一度は、サマセット州トーントンの町はずれにある馬車屋という宿に一泊した時の、下のバーでの農夫たちの会話の《「旦那、今夜はここの二階にお泊りかね?」 私がそうだと答えると、相手はいかにも気の毒そうにかぶりを振り、こう言いました。「ここじゃ、あんまり眠れないよ、旦那。なにしろ、この働き者のボブがね――と、宿の主人のほうに顎をしゃくりました――真夜中すぎまで下でがたごとやってるからね。それに朝は朝で、今度は、夜明け前から女房どのが亭主を怒鳴りつける声が響き渡るし……」(中略)ともあれ、昨夜、農夫たちが冗談半分で口にしていた、下からの騒音で眠れないだろうという予言は、残念ながら、まったく事実であったことを申し添えておかねばなりますまい。》のほのめかしと、スティーブンスのジョーク(「メンドリが時をつくる」)の失敗)。

 

日の名残り』にはP・G・ウッドハウスの大衆的人気作品、執事ジーヴズの影響があって、イシグロも参考にしたと語っている。

「The Paris Review」のインタビューから。

《――あなたはジーヴズ(訳注:イギリスの作家P・G・ウッドハウスが造形したキャラクター)のファンでしたか。

イシグロ: ジーヴズからの影響は大きいです。ジーヴズに限らず、映画の目立たないところで演じられてきた執事の姿、身のこなし、すべてから影響を受けています。彼らにはそこはかとない面白みがありました。どたばた喜劇的なユーモアではありません。普通なら気も狂わんばかりの表現を必要とされるような場面であっても彼らはそっけない台詞を口にするだけです。そこには哀愁も漂っていました。そしてその頂点にいたのがジーヴズです。》

 

 ウッドハウスについてはイーヴリン・ウォー吉田健一も頌として論じている。イーヴリン・ウォー「P・G・ウッドハウス頌」によれば、ウッドハウスは(ダウントン卿を思い起こさせるのだが)奇しくも「ヒトラーにひざまずいたという言いがかり」をつけられたという。

 映画では、かろうじて一九二三年の国際会議の準備で忙しい時に、ダーリントン卿から頼まれたスティーブンスがレジナルド・カーディナルに「生命の神秘」を教えようと試みる、ガチョウと魚のエピソードは採用された(同じくレオナルドとの紳士と淑女、アタッシュケースのエピソードは撮影されたのにカットされてしまう)。

 

 

「一日目――夜」

 

<どこまでもつづいている草地と畑>

・(P38)《私が見たものは、なだらかに起伏しながら、どこまでもつづいている草地と畑でした。大地はゆるく上っては下り、畑は生け垣や立ち木で縁どられておりました。遠くの草地に点々と見えたものは、あれは羊だったのだと存じます。右手のはるかかなた、ほとんど地平線のあたりには、教会の四角い塔が立っていたような気がいたします。

 夏のざわめきに包まれた丘の上で、顔にそよ風を受けながら立ちつくすのは、なんと気分のよいことでしたろう。あの場所で、あの景色をながめながら、私はようやく旅にふさわしい心構えができたように思います。》

⇒映画が脱落させてしまったものに、英国の美しい田園風景がある。その風景はたんに美しいだけでなく、英国的な品格や偉大さの証としてコノテーション(含意)するものだから、簡単に省略してよいものではない。

日の名残り』と似たような世界として、E・M・フォースター『ハワーズ・エンド』、イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』があって、どちらも吉田健一が翻訳している。両者とも映画化され、『ハワーズ・エンド』は『日の名残り』と同じアイヴォリー監督作品、アンソニー・ホプキンスエマ・トンプソンも出演し、トンプソンはアカデミー賞主演女優賞を受賞した。『ブライヅヘッドふたたび』にはエマ・トンプソンが出演している。P・G・ウッドハウスの執事ジーヴズものを愛読した吉田は、イシグロが人物造形を学んだというエミリー・ブロンテジェイン・エア』も翻訳している。

 吉田健一は一九七七年没だから、イシグロ作品(一九八二年~)を読むことはかなわなかったが、イギリスを舞台とした『日の名残り』を読んでいたら必ずや称賛したことだろう、とりわけ「時間」の扱いに。

 もう一人、読ませたかった人物に須賀敦子がいる。イタリア文学やフランス文学に比べればアングロサクソン系文学はそれほど読んでいないのかもしれないが、須賀は一九九八年没だからイシグロを読んでいてもおかしくないが、残されたエッセイや日記にも気配をみつけられない。イシグロが影響を受けた川端康成『山の音』のイタリア語翻訳者でもあった(イシグロの影響は原作よりも小津や成瀬の映画からだったのだろう)のに。

 

 ここでは、吉田健一イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』を評した文章(『書架記』中の「ブライヅヘツド再訪」)から、その風景描写の美しさ、場所の記憶についての文章を吉田健一訳で少しだけ見ておきたい。

《……我々の宿営地はその一つの緩かな傾斜を占めてゐてその向うの地面はまだ昔のままの姿で直ぐそこの地平線を目指して登って行き、そこと我々がゐる所との間に一筋の川が流れてゐた。――それはブライト川と言つて昔は時々お茶の時間を過しに出掛けて行つたここから二マイルばかり先のブライドススプリングスといふ農園にその水源地があつた。これは川下でアヴァン河に合流する前にかなり大きな川になつてそれがここでは堰き止められて三つの湖を作り、最初のは蘆に囲まれた水溜り程度のものだつたが後の二つはもつと大きくて雲や岸に生えてゐる椈の大木を映してゐた。ここの森に生えてゐるのは凡て樫か椈で樫の木は今まだ灰色の幹や枝を剥き出しにし、椈は出たばかりの芽で微かに緑の色で刷かれ、これが緑の木の間道や広い芝生と調和するやうに入念に工夫してあつた。》

 

<この品格は、おそらく「偉大さ」という言葉で表現するのが最も適切でしょう>

・(P41)《今朝のように、イギリスの風景がその最良の装いで立ち現われてくるとき、そこには、外国の風景が――たとえ表面的にどれほどドラマチックであろうとも――決してもちえない品格がある。そしてその品格が、見る者にひじょうに深い満足感を与えるのだ、と。

 この品格は、おそらく「偉大さ」という言葉で表現するのが最も適切でしょう。今朝、あの丘に立ち、眼下にあの大地を見たとき、私ははっきりと偉大さの中にいることを感じました。》

ラシュディがとりあげた、アフリカやアメリカで見られる騒がしいほど声高な主張の景観とは違った美しさと偉大さというわけだ。小説では、「品格」と「偉大さ」に対するスティーブンスの見解が、同業の執事たちとの逸話も交えながら数頁に渡って続くが、映画では父から繰り返し聞いていた、雇主に従ってインドへ行った執事のエピソード(インドの館で晩餐の準備に手落ちがないかを食堂へ確認に行くと、虎が食卓の下に寝そべっていたので、注意深くドアを閉め、主人に耳打ちして銃の使用の許可をもらうと、数分後、三発の銃声が聞こえてきた。

 やがて茶を注ぎ足しに現れた執事に、主人は「不都合はないか」と尋ねられると、「はい、ご主人様、なんの支障もございません」と答えた、「夕食はいつもの時刻でございます。そのときまでには、最近の出来事の痕跡もあらかた消えていると存じますので、どうぞ、ご心配なきように願います」)を、映画では使用人たちの食事の場面で父に披露させた。このエピソードは、国際会議の裏でのスティーブンスの父の死、秘密会談でのミス・ケントンの結婚報告にも動ずることなく、執事の仕事を静かに完遂した達成感に連なってゆく。

 一方で、映画ではみなに披露する類ではない内的なエピソードは省略された。しかし、むしろこちらのエピソードの方が、国家的な歴史上の大きな出来事対個人の人生という、この先のナチ協力問題とも絡み合ってくるのだが(スティーブンスには兄がいたが、まだ少年だった頃に南アフリカ戦争で戦死した。ボーア人の開拓村を襲撃して民間人を殺傷するという、非イギリス的な後味の悪い作戦で、指揮官の行動は軍事上の基本を無視して無責任きわまりなく、死んだ兵隊は、兄も含めて全員犬死だった。その戦争から十年ほどたち、父の心の傷が表面的には癒えたかに見えた頃、父が執事を勤める館の主人の招待客として指揮官が滞在することになった。父の感情は最大級の憎しみだったものの従者役として職務を遂行するが、下卑た醜い元指揮官は南アフリカ戦争での「華々しい」戦歴を父にとうとうと語り聞かせる。父は心情を隠しつづけ、義務の遂行になんの手抜かりもなかったので、指揮官は屋敷を立ち去るにあたって主人に執事の優秀さを誉め、高額のチップを残していったが、父はその場で、チップの全額を慈善事業に寄付してくれるよう主人に申し出た)。

 

<一人一人が深く考え>

・(P63)《私のように偉大さを分析しようとするのは、まったく無駄なことだと考える方がおられるのは承知しております。「持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない」と、ミスター・グレアムはいつも言っておりました。「それ以上のことは、言ってもあまり意味がない」と。しかし私は、この問題でそのような敗北主義に陥るべきではないと考えます。一人一人が深く考え、「品格」を身につけるべくいっそう努力することは、私ども全員の職業的責務ではありますまいか。》

⇒これも「徴候」である。(大きな歴史的出来事としてダーリントン卿のナチス協力について、個人的な出来事としてミス・ケントンからの恋心について)「思考」しなかった男スティーブンスのアイロニーとして機能する。『日の名残り』の各章の終り(その日の終り)は、作者がことさら主人公に主義主張を確認、強弁させ、その達成感と満足感の強さがかえって弱気や虚飾の揺らぎを嗅ぎ取らせる。

 

 

「二日目――朝」

 

<結婚生活がいま破綻しかかっていると察せられるのです>

・(P65)《それに、先日の手紙によりますと、「ミス・ケントン」と呼ぶことが必ずしも不適当ではないかもしれません。と申しますのは、悲しいことに、その結婚生活がいま破綻しかかっていると察せられるのです。もちろん、詳しい事情は何も書いてありませんし、また、ひとに聞かせるようなことでもありますまい。ただ、ヘルストンにあるベン家を出て、いまは近くのリトル・コンプトンという村で、知人のもとに身を寄せている、と書いてありました。

 結婚がこんな破局に至るというのは、もちろん悲劇的なことです。中年も相当な年になったいま、なぜこんな孤独でわびしい思いをしなければならないのか……と、その原因となった遠い過去の選択を、この瞬間も、ミス・ケントンは後悔とともに思い返しているのではありますまいか。そのような心境にあるミス・ケントンにとって、ダーリントン・ホールにもどれたらという思いが、大きな支えになっているのは、容易に想像できることです。たしかに、手紙のどこにも「もどりたい」の五文字は書いてありません。が、ダーリントン・ホールの日々への深い郷愁は文章の随所で感じられ、全体のニュアンスから伝わってくるメッセージは間違いようがありません。(中略)

 しかし、手紙にもどりましょう。ところどころに、現在の境遇に絶望しかかっているような調子が見えて、気になります。たとえば、ある箇所に「残りの人生をどう有意義に埋めていけるのか、私には想像もつきませんが……」とあったり、また、別の個所には「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」と会ったりします。》

⇒ほとんど妄想に近いとも言いたくなる。手がかりを重視して解釈を施す。思わせぶりでもある、他人事のように、自分のことは棚に上げ、あるいは自分が原因とは思わせもせず、主語も、相手も、時間も、多義性を作者は狙って書いているのだが、映画は多義性を表現しない。

「残りの人生をどう有意義に埋めていけるのか、私には想像もつきませんが……」、「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」は、スティーブンスの深層心理がミス・ケントンへ自己投影したものではないのか。それは再会の場面でスティーブンスに反射して、夕日のように照らすだろう。

 

<まるで落とした宝石でも捜しているかのように>

・(P68)《「あなたには悲しい思い出かも知れません。そうだったら、お許しください。でも、二人であなたのお父様を見たときのことは、いつまでも忘れられません。お父様は、まるで落とした宝石でも捜しているかのように、ずっと目を地面に向けたまま、あずまやの前を行ったり来たりしておられました」

 三十年以上も前のことです。私はともかく、ミス・ケントンが覚えていようとは思いがけないことでした。たしかに、ある晴れた日の夕方だったと存じます。(中略)

 私があの光景をいつまでも覚えているのには、これからお話しいたしますが、それなりの訳があります。それに、当時、ダーリントン・ホールに来たばかりだった父とミス・ケントンの特別な関係を考えますと、あの光景がミス・ケントンにも強い印象を残したのは、とくに意外ではないのかもしれません。

 ミス・ケントンと父は、どちらも一九二二年の春、ほぼ同時期にダーリントン・ホールにやってきました。同時期といいますのは、お屋敷がそれまでの女中頭と副執事を一度に失い――つまり、二人が結婚して退職したため――急いで二人を補充する必要に迫られたからです。》

⇒ミス・ケントンは一九二二年にやってきて翌二三年の国際会議を迎え、十数年間勤めた後、一九三六年に結婚のために去るのに、誰も指摘しないようだが、映画では国際会議が一九三五年に設定されているため、わずか二、三年の短い期間しか勤めていないことになってしまう。

 記憶をめぐる展開に、イシグロがプルーストから学んだ「1つのエピソードを次のエピソードにつなげていく」プルーストのやり方があって、このエピソードもその例だろう。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《ちょうどそのころ私はウイルスにやられ、何日か寝込むはめになりました。最悪期を脱し、もう寝てばかりいるのにうんざりしてきたとき、しばらくまえから寝具の中に紛れ込んでいて気になっていた何か重いものが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の第1巻であることに気づきました。せっかく手元にあるのだからと思い、手に取って読みはじめました。きっと、まだ熱が抜けきっていなかったせいもあったのでしょうか、すっかち「序章」と「コンブレー」の虜になり、何度も何度も読み返しました。単純に文章が美しかったこともありますが、それ以上に、1つのエピソードを次のエピソードへつなげていくプルーストのやり方に身震いするほど興奮したからだと思います。この作品では、出来事や場面の流れが通常の時間に従っていません。直線的な話の筋にも従っていません。そうではなく、いわば連想の脱線や記憶の気まぐれが推進力となって、話を次から次へつないでいきます。ときどき、はてなと考え込まされることがあります。あの瞬間とこの瞬間は一見無関係と思えるのに、なぜ語り手の心の中では隣り合うように存在しているのだろうか……。突然、目のまえに、私の2冊目の小説への取り組み方が開けてきました。これまでより自由に、胸躍るような方法です。この方法なら本の各ページを豊かにし、スクリーンでは捉えようのない内的な動きを読者に示せるのではないか。もし、語り手の思考の流れや記憶の漂流に従って話を展開していけるなら、ちょうど抽象画家がキャンバス上に形や色を配置していくように文章を書けるのではないか。2日前も出来事を20年前の出来事のすぐ隣に置き、両者の関係に注意を向けるよう読者を促すこともできるのではないか。そういう書き方なら、人が自らや自らの過去を理解しようとするとき、その理解を十重(とえ)二十重(はたえ)に覆って曇らせている自己欺瞞や否認の存在を暗に示せるのではないか……。私はそんなことを考えはじめました。 》

 

<私事を仕事に優先させたことなど一度もなかった>

・(P70)《もちろん、二人の雇人が互いに恋に落ちて、結婚しようというのですから、どちらがどれだけ悪いなどということは考えても仕方のないことですが、私がとくに眉をひそめたくなるのは、なかに、純粋に仕事に打ち込んでおらず、いわばロマンスを求めて職場から職場へと渡り歩く人々がいることです。この点では女中頭がとくに悪質で、この手合いは私どもの職業を汚すものと言えましょう。

 急いで付け加えておきますが、私はミス・ケントンのことを言っているのではありません。たしかに、最後はミス・ケントンも結婚のためにお屋敷をやめていきましたが、私の下で女中頭として働いている間は、まさに雇人の鑑でした。私事を仕事に優先させたことなど一度もなかったことは、私が保証いたします。

 本題からそれました。私は、いま、お屋敷かが女中頭と副執事を一度に失ったことを申し上げていたのでした。》

⇒「本題からそれました」というときが怪しい。作者の罠がある。本題からそれてなどいないのだ。主人公の抑圧された本心が漏れている、あるいは読者が察するよう手がかりを与えている。「私事を仕事に優先させたことなど一度もなかったことは、私が保証いたします」の悲喜劇。本心からなのか、気づいてもいないのか。

 映画では下記スクリプトのように、スティーブンスがミス・ケントンの採用面接で、使用人同士の結婚、とりわけロマンスを求める女中頭を諌めるシーンをわざわざ映し出すことで、最初から恋愛抑圧を地ならししている。

《「異性の客は招かぬよう。以前その方面のトラブルがあったので念のため。前の副執事と駆け落ちした者が。職場結婚ならとやかく言いません。ロマンスを求めて職場を渡り歩く不心得者がいるのです。失礼ながらそういう人が少なくない」

「確かに。使用人同士の結婚はいろいろ混乱を招きます」

「その通り」》

 しかも映画では、国際会議の最中に倒れて部屋で横になっている父がスティーブンスに、原作小説にはない、

《「ジム。母さんを愛せなかった。一度は愛していたが、他の男との事を知って愛は消えてしまった。息子には恵まれた。いい息子だ」》と語ることで、恋愛結婚の自制を促すかのように作用してしまう。

 

<「過ち自体は些細かもしれないが、その意味するところの重大さに気づかねばならない」>

・(P83)《しかし、よく考えてみますと、あの日、ミス・ケントンがあれほど大胆な口のきき方をしたかどうかは定かではありません。もちろん、長い年月いっしょに働いておりましたから、ときにはたいへん率直な意見の交換もいたしました。しかし、いまお話しているあの午後は、私どもの関係のごく初期のことですから、いくらミス・ケントンでも、あれほどずけずけと物を要ったとは思われません。たとえば、「過ち自体は些細かもしれないが、その意味するところの重大さに気づかねばならない」というようなくだりは、ほんとうにミス・ケントンが言ったことでしたろうか。考えれば考えるほど、ダーリントン卿ご自身の言葉だったような気がいたします。ビリヤード室の外でミス・ケントンとやり合ってから数か月ほどあと、私はご主人の書斎に呼ばれておりますので、あるいはそのとき言われた言葉だったのかもしれません。その数か月の間に父の転倒があり、父に関する状況は大きく変化しておりました。》

⇒すぐ続いて書斎でのダーリントン卿との会話となるが、いかに「ダーリントン卿が遠慮深く謙虚な性格であった」かがわかる。

「それでだな、スティーブンス、あれはなかったのかな、その……徴候は? つまり、お父上の負担をだな、少し軽くしてやったほうがよいと告げるような徴候は? こんどの転倒は別にしてだが……」、「過ち自体は些細なものかもしれないがな、スティーブンス、その意味するところの重大さにはもう気づかねばなるまい。お父上に全幅の信頼を置ける日は、もう過ぎ去りつつあるのだ。会議は成功させねばならん。ちょっとした失敗が命取りになるような任務には、お父上はもうつかせてはならんのではないかな?」

 そしてダーリントン卿が父の転倒現場を目撃していた描写があり、ダーリントン卿の提案を受けて早朝に、五十四年間、毎日、食卓で給仕していたという父の給仕とお盆を運ぶことの禁止伝える息子と父の職業的な品格ある会見(「簡単に、簡潔に話せ。朝中、おまえのおしゃべりを聞いているわけにはいかん」、「では、要点だけお話します、父さん」)があって、そしてまたミス・ケントンと窓から見下ろす印象的なシーンに戻ってゆく。

 銀器のなかに磨き粉がついたままのものがいくつかあった、ちり取りが廊下に出っ放しになっていた、踊り場と部屋のシナ人の置物が入れ替わっていた(みなスティーブンスの父の仕事)、父の鼻先からスープ・ボウルの上へ大きな水玉がぶら下がっているのを見てしまった。あの年齢の人には無理なほどの仕事を抱えすぎている、とのミス・ケントンの注進は映画でも二人の意地の張り合いを見せたいかのように採用されている(スープ・ボウルの件はスティーブンスが気づいて対処する)。

「些細な過ち」の意味するところの重大さはこの小説のメタファー(隠喩)でもあって、のちに秘密会談の場でレジナルド・カーディナルがスティーブンスに指摘したように、ダーリントン卿のナチス・ドイツとの関係性(「些細な過ち」が「重大な結果」となる)にオーヴァーラップしてゆくだろう。

 

<夕焼けの最後の光>

・(P93)《ミス・ケントンが手紙の中で言っているあの晴れた日の夕方というのは、この早朝の会見からすぐのことでした。いえ、同じ日の夕方だったかもしれません。客室が並ぶお屋敷の最上階に私が何の用事があって行ったのか、もう思い出せません。しかし、先ほども申し上げましたように、開いた各寝室の戸口から、夕焼けの最後の光がオレンジ色の束になって廊下へ流れ出している様は、いまでも鮮やかに思い出すことができます。そして、無人の客室の前を通っていく私を、窓に映った影法師のようなミス・ケントンが呼んだのでした。

 ダーリントン・ホールに来たばかりのミス・ケントンが、いつも父のことを気にし、父のことで何度も私に文句を言いにきたことを考えれば、あの夕方の記憶が、この三十数年間ずっとミス・ケントンの脳裡にとどまっていたのは、不思議ではないのかもしれません。二人で客室の窓から地上の父を見下ろしていたとき、ミス・ケントンには、たしかに多少の罪悪感があったに違いありますまい。

 芝生はもう大部分ポプラの影でおおわれていましたが、あずまやに向かう上り坂になった片隅だけは、まだ日に照らされていました。父は石段の前に立ち、風で髪を少し乱しながら、何事かじっと考え込んでいました。その石段をゆっくりと上り、上りおわると向きを変えて、今度は少し速く降りてきました。(中略)ほんとうに、「まるで落とした宝石でも捜しているかのように」父は地面を見据えたまま歩いていました。》

⇒ここには美しい夕暮の光景がある。映画では、石段ではなく敷石との境目ではあったものの、父の様子が再現された。小説の最後の夕暮、「日の名残り」は反復なのだ。あのときの、過ちにたじろぎ、取り戻そうと努める父の姿は、現在のスティーブンスの姿でもある。

 スティーブンスが推定するミス・ケントンの「多少の罪悪感」とは、むしろ自分へ向かうべきものではなかったか。ダーリントン卿が最後に罪悪感に苦しんだように、スティーブンスも密かな罪悪感におびえ、気づかない振りをしてきたが、旅の様々な場面で記憶は喚起される。イシグロは処女作からずっと「罪悪感」をテーマにしてきた。

カズオ・イシグロの文学白熱教室」から。

《人はいつも罪の意識を持っていたり、もっとこうすればよかったと思っているはずだ。だから私は同情も共感もする。「それを振り返りたくない。振り返らなくても別にいいだろ?」という自分たちに。「自分にできることはもうない。このままにしておこう」と。これは人間くさいことだ。》

 

<「この世に正義を」>

・(P99)《一九二三年の会議は、ダーリントン卿の長期にわたる計画が結実したものでした。見方によっては、卿は三年以上も前から、あの会議に向けて動きはじめておられたと言えるかもしれません。大戦の終わりに平和条約が調印されたとき、私の記憶では、卿がその条約にとくに大きな関心を示されたということはありませんでした。卿の関心を呼び覚ましたものは、条約そのものの分析より、カール=ハインツ・ブレマン様との友情だったと言ってさしつかえありますまい。(中略)

 ダーリントン卿ご自身も何度かベルリンを訪問されました。最初は、たしか一九二〇年の暮れ近くだったと思います。そのベルリン行きは、卿にとってじつに衝撃的なものだったようです。お屋敷にもどって数日間は、なにか、ひどく深刻に考え込んでおられました。楽しいご旅行だったかという私の問いかけに、「ショックだよ、スティーブンス。たいへんなショックだ。敗れた敵をあんなふうに扱うのは、わが国にとって不名誉このうえない。わが国の伝統とは、まったく相容れないやり方だ」と、お答えになったのを覚えております。(中略)

「ヘル・ブレマンは私の敵だった」(筆者註:ヘル=氏、様といった男子に対するドイツの敬称)と、ダーリントン卿は言われました。「だが、いつも紳士だった。二人は互いに鉄砲玉を浴びせ合いながら、尊敬もしあったのだ。紳士としてやるべきことをやっている相手に、私は悪意はもたない。戦場で一度彼に言ったことがある。『おい、いまは敵どうしだ。ありったけの力で叩き伏せてやる。だが、この戦争が終わったら、もう敵ではない。いつか、いっしょに飲もう』とな。なのに、なんたることだ。この条約は私を嘘つきにした。戦いが終わったら、もう敵ではない――私はそう言ったのだ。どうやら違ったようだ、などと、いまさらどの面(つら)下げて彼に言える?」

 その同じ夜、しばらくあとで、ダーリントン卿は重々しくかぶりを振りながら、こうも言われました。「私はこの世に正義を保つために、あの戦争を戦ったのだ。ドイツ民族への復讐に手を貸しているつもりはなかった」

 今日、ダーリントン卿についていろいろなことが言われております。卿の行動の動機について、愚にもつかない憶測がしきりに――あまりにもしきりに――飛び交っております。そうしたたわごとを聞くたびに、私はあの夜のがらんとした宴会場と、そこで卿が語られた琴線に触れるお言葉を思い出します。後年、卿の歩まれた道がどのように曲がりくねったものであったにせよ、卿のあらゆる行動の根幹に「この世に正義を」見たいという真摯な願いがあったことを、私は一度も疑ったことはありません。

 ハンブルクからベルリンへ向かう列車の中でブレマン様がピストル自殺されたのは、その夜から間もない頃でした。》

⇒この国際会議が一九二三年三月で、映画のような一九三五年ではなかったことは決定的に重要だ。なぜなら、一九三五年ではすでにヒットラーは政権奪取していたので、生臭い政治的判断が求められた(「四日目――夜」の一九三六年の秘密会談で描写され、イギリスはナチス・ドイツ宥和策をとる過ちを犯す)が、一九二三年三月時点ではミュンヘン一揆(一九二三年十一月)以前のいまだ馬の骨ともわからない人物だったから、ダーリントン卿のように「この世に正義を」という善良で真摯な願いを見ることはある程度無理からぬところがあったからだ(すでにこの時点で、ドイツの危険性を見過ごさなかった政治家もいたけれども)。

 

<アマチュアだ>

・(P147)《「卿はアマチュアだ。そして、今日の国際問題は、もはやアマチュア紳士の手に負えるものではなくなっている。私としては、ヨーロッパが早くそのことに気づいてほしいと願っているのですよ。上品で善意に満ちた紳士諸君、諸君にひとつお尋ねしましょう。諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか? 高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。ただ、ヨーロッパにいる皆さんがそれを知らないだけの話だ。わが善良なるダーリントン卿のような紳士は、困ったことに理解できないことにまで首を突っ込むのが義務だと心得ておられる。今回の会議にしたところで、この二日間はたわごとのオンパレードだった。善意から発してはいるが、ナイーブなたわごとばかりだ。ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです、皆さん。大問題を手際よく処理してくれるプロこそが必要なのです。それに早く気づかなければ、皆さんの将来は悲観的だ。そこで乾杯しましょう、皆さん。プロに! 乾杯!」

⇒読み進めるうちに、アメリカの議員ルイス(映画ではファラディと同一化)の「アマチュア」発言、この先でスティーブンスがダーリントン卿の客人スペンサー卿に政治的な質問をされて答えかねたこと、一九三六年の秘密会議でのカーディナルの忠告らと衝突して、社会的・政治的に大きな混乱の時期における「正義」「善意」「アマチュア」「理想主義」は、歴史のうねりのなかで複雑な思考を促し、罪悪感を残すだろう。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《次はどんな作品を?という質問が出ました。よくある質問です。しかし、この方の質問は、もう少し詳しく言うと、こんな具合でした。まず、私の小説には、社会的・政治的に大きな混乱の時期を生きた人の物語が多いと指摘し、その人物は自分の人生を振り返り、暗く恥ずべき記憶となんとか折り合いをつめようとする、と前置きして、これからもそういう物語を書いていくのですか、と尋ねました。》

 

<父にも匹敵する「品格」>

・(P154)《「ミスター・スティーブンス。お気の毒に、お父様は四分ほど前に亡くなられました」と言いました。

「そうですか」

 ミス・ケントンはしばらく自分の手を見つめていましたが、やがて私の顔を見上げ、

「ミスター・スティーブンス。お悔やみ申し上げます」と言いました。「もっと何か言ってさしあげられるとよろしいのでしょうけれど……」

「いや、その必要はありません。ありがとう、ミス・ケントン」

メレディス先生はまだお見えではありません」一瞬、ミス・ケントンは頭をたれ。その口から嗚咽がもれました。しかし、すぐに平静さをとりもどすと、落ち着いた口調で「上にいらして、お父さまに会われますか?」と私に尋ねました。

「いまは、とても忙しくてだめです。たぶん、しばらくしてから……」

「そうですか。では、私が目を閉じさせてあげてよろしいでしょうか、ミスター・スティーブンス?」

「そうしてくだされば、たいへんありがたい。お願いします、ミス・ケントン」

 ミス・ケントンは階段を上りはじめましたが、途中、私が呼び止めました。「ミス・ケントン。私を薄情だとは思わないでください。この瞬間にも上に行って、父の死顔を見たいのはやまやまですが、それはできません。父も、いま私に任務を果たしてもらいたいと望んでいるはずです」

「もちろんですわ、ミスター・スティーブンス」

「いま行けば、父の期待を裏切ることになると思います」

「もちろんですわ、ミスター・スティーブンス」(中略)

 もちろん、私が同世代の「偉大な」執事たち、たとえばミスター・マーシャルやミスター・レーンと肩を並べうるなどと――おそらく過てる寛大さからでしょうか、まさにそう言ってくださる向きもあることは存じておりますが――自分の口からそのような大それたことを申し上げるつもりは毛頭ありません。一九二三年の会議、とりわけあの夜が、私の執事人生の一大転機であったと申し上げるとき、それはあくまでも、私自身の卑小な執事人生においてのことであるのをご理解ください。あの夜、私にのしかかっていた重圧の大きさを考えるなら、もしかしたら私にも、あのミスター・マーシャルや、さらには父にも匹敵する「品格」をかいま見せた瞬間が――少しは――あったと申し上げても、あるいは自分自身を不当にあざむくことにはならないのかもしれません。さよう、なぜ否定する必要がありましょうか。悲しい思い出にもかかわらず、今日、私はあの夜を振り返るたびに、いつも大きな誇らしさを感じるのです。》

⇒こうしてまたスティーブンスは、「二日目――朝」も執事への誇りを確認して満足な眠りにつくのだけれども、そうすればするほど、倒れた父をミス・ケントンや焼き肉の臭いをさせたコックのミセス・モーティマーに任せて看取らなかったことへの「罪悪感」を、「品格」と交換し、「自分自身を不当にあざむく」転嫁で記憶から抹消したいと受け取ることはできないか。

 ここでイシグロは、会議の初めから終わりまで、ロンドン観光中に足にまめができて痛みで不機嫌な、ドイツに激しく敵対するフランス代表デュポンへのどたばたした対応(父の死の所見を書いて帰ろうとするメレディス医師をデュポンの治療へと導く冷静な「品格」)と、レジナルドとの自然界談義と、父の死とをブラック・ユーモアの色づけで、人間臭さと歴史の容赦ないダイナミックな動きを万華鏡のようにくるくる回転させて巧みに表現する。

 

 

「二日目――午後」

 

<長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった>

・(P165)《私どもにとりまして、議論も決定も、およそ重要な事柄はすべて、この国の大きなお屋敷の密室の静けさの中で決まるものでした。公衆の面前で華やかな式典とともに繰り広げられるたぐいのものは、しばしばそうしたお屋敷の中で何週間、何カ月にもわたってつづけられてきたことの結末であり、承認であるに違いあるにすぎません。この世界が車輪だという意味がおわかりでしょうか。それは、偉大なお屋敷を中心に回転している車輪なのです。中心で下された決定が順次外側へ放射され、いずれ、周辺で回転しているすべてに――貧にも富にも――行き渡ります。

 職業的野心を少しでももつ執事なら、誰でも車輪の中心を望み、そこへできるだけ近づきたいと願ったでしょう。繰り返しますが、私どもは理想主義的な世代であり、執事としてどれだけの技量があるかとともに、その技量をどのような目的に発揮したかを問わずにはいられない世代です。誰もが、よりよい世界の創造に微力を尽くしたいと願い、職業人としてそれが最も確実にできる方法は、この文明を担っておられる当代の偉大な紳士にお仕えすることだと考えたのです。(中略)

 いま申し上げましたように、私はこの問題をこうした観点から考えたことはありませんでした。これも、旅のもつ効用というのでしょうか――長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった事柄に、思いがけず、驚くほど斬新な視野が開かれるというのは……。それに、一時間ほど前のちょっとした出来事も、こんなことを考えるきっかけになったのだと存じます。小さいながら、私を落ち着かない気分にさせる出来事でした。》

⇒本当に「長年にわたり徹底的に考え抜いたつもりだった」のだろうか。「思いがけず、驚くほど斬新な視野」ではなく、しがみついているだけではないのか。「ちょっとした出来事」「小さいながら」だったのではないか。

「車輪」「回転」職業的野心」に、アイヒマン的なものが登場しうる。

 

<あのダーリントン卿の下で働いていたんですね?>

・(P172)《そして、男は私がどこに雇われているのかを尋ねました。私が答えますと、男は首をひねり、眉にしわを寄せました。

ダーリントン・ホールですか」と、独り言のように言い、さらに「ダーリントン・ホールねえ。きっとすごいお屋敷なんでしょうね。おれみたいな馬鹿でも、どこかで聞いたような気がしますからね。ダーリントン・ホール……。待てよ、あのダーリントン・ホールか。ダーリントン卿のお屋敷か。旦那、そうなんですか?」

「さよう、ダーリントン卿が三年前に亡くなられるまでは、卿のお住まいでした。いまは、ジョン・ファラディ様という、アメリカ人の紳士がお住まいになっておられます」

「やっぱり、あんたはすごいんですね、あんな場所で働いているなんて。あんたみたいな執事は、いまのイギリスにはもう珍しいんじゃありませんか?」そして、つぎのように聞いてきたときは、明らかに口調が変わっていました。「じゃあ、旦那はあのダーリントン卿の下で働いていたんですね?」

 男は探るように私を見つめていました。

「いえ、アメリカ人のジョン・ファラディ様がダーリントン家からお屋敷を買われて、私はそのファラディ様に雇われております」

「じゃ、ダーリントン卿のことはご存じないわけだ。なんだ、そうですか。ちょっと、どんなふうだったかと思いましてね。いったいどんな野郎だったんだろうかって」

 私はそろそろ出発せねばならないと言い、男の手助けに大袈裟なほどの感謝をしました。》

⇒小説ではこの男、従卒の口から「ナチ」の名は出ないが、映画では従卒は登場せずに、手紙を受け取りに立ち寄った郵便局兼雑貨屋の主人に「ナチのシンパ」と言わせ、スティーブンスはキリストを知らないと答えたペテロとなる。

《「どちらから?」

ダーリントンだ」

「聞いた名前だ。ナチのシンパだったダーリントン卿の館が?」

「私は米国から来たルイス様に雇われている執事だよ。前の持ち主は知らない」》

 

<まがい物>

・(P175)《この三十分ほどの間、心に浮かんだある考えを私がじっくり検討できたのは、周囲の静けさによるものでしょう。これほど静かな場所でなかったら、あの従卒とのやりとりで私がとった奇妙な行動を、これほど深く考えることはなかったかもしれません。奇妙な行動と申しますのは、私がなぜ相手に誤った印象を与えようとしたか、ということです。私は、まるでダーリントン卿に雇われていたことがないように振舞いました。(中略)それに、ああしたことは、今日がはじめてではないことも認めねばなりません。今日の従卒とのやりとりは、何ヵ月か前にウェークフィールドご夫婦がお見えになったときのことと、何らかの――何であるかはわかりませんが――つながりがあるに違いありません。(中略)

「ねえ、スティーブンス。あなたならわかるでしょう。このアーチだけど、見かけはたしかに十七世紀よね。でも、どうかしら。ほんとうはつい最近つくられたものではなくって? たとえば、ダーリントン卿の時代に?」

「ありうることでございます、奥様」

「とても美しいわ。でも、おそらく、数年前につくられたまがい物ね。そうじゃなくって、スティーブンス?」

「たしかなことは存じません、奥様。しかし、ありうることでございます」

 夫人は急に声を低め、こうお尋ねになりました。

「ねえ、スティーブンス。ダーリントン卿ってどんな方だったの? あなたは、ダーリントン卿のもとで働いていたんでしょう?」

「いいえ、そうではございません、奥様」

「あら、私はてっきりそうだと思っていたわ。なぜそう思ったのかしら」

 ウェークフィールド夫人はまたアーチに向き直り、それに手を触れながら言われました。

「じゃあ、はっきりしたことはわからないわね。でも、私にはやはりまがい物に見えるわ、とてもうまくつくってあるけど、でもまがい物だわ」

⇒スティーブンスの思考、認識が旅のなかでの人との出会い、静かな美しい自然に触発されて深まってゆく様子が、回想の連鎖をともなって描かれる。

 映画にはウェークフィールド夫妻は登場しない。夫妻が帰ったあとファラディから、夫人が「あれも“まがい物”、これも“まがい物”と言い出して、とうとう君まで“まがい物”にされてしまったぞ、スティーブンス」、君が以前この屋敷で働いていたことはないと言い張ったので、気まずい思いをしたと愚痴をこぼされるが、スティーブンスは雇人が過去に他人のために働いていたという印象を与えることは好ましくない、離婚歴のあるご婦人の場合、新しい夫が同席している場で最初の結婚についてあれこれ言うことがはばかられるのと同様の職業的習慣であると釈明する、その釈明がまったく不十分であることに気づいていた、と自省しつつ。

 スティーブンスは一九三五年の秘密会談で、「まがい物」のアーチの下を持ち場としていて、あたかも「君まで“まがい物”」のメタファーとなる。

 

<でたらめをもうこれ以上聞きたくないという思い>

・(P181)《もちろん、今日では、ダーリントン卿について愚かしいことを言う人がたくさんいます。ですから、それが私の行動の背景にある、とお考えになる向きがあるかもしれません。私が卿との関係を恥ずかしく思い、関係が知れるのを恐れているのだ、と。しかし、それはまったくの的はずれであることを、ここであらためて申し上げておきたいと存じます。それに、今日、卿について言われていることの大部分は、事実に無知な人にしか考えつかないでたらめばかりなのです。思えば、そこにこそ、私の奇妙な行動の原因があるのかもしれません。つまり、卿についてのでたらめをもうこれ以上聞きたくないという思いが、私にああした行動をとらせたとは考えられないでしょうか。数か月前も先刻も、不快を避けるための最も簡単な手段が、ちょっとした嘘という方便だったのではありますまいか。考えれば考えるほど、その説明が当たっているような気がしてまいりました。たしかに、ああしたでたらめを繰り返し聞くことほど、最近、私の神経を逆なですることはないのですから……。

 ダーリントン卿は高徳の紳士でした。卿についてでたらめをふりまいている輩には想像もつかないような、道徳的巨人でした。そして、最後の一日までそのままの姿でおられたことを、私はよく存じております。そのような紳士との関係を、私がなぜ恥ずかしく思いましょう。そんな途方もない主張は聞いたことがありません。お考えください。私はダーリントン卿にお仕えしたことで、この世界という車輪の中心に、夢想もしなかったほど近づくことができたのです。私は三十五年間の歳月をダーリントン卿に捧げました。そして、その三十五年間、私こそ真の「名家に雇われて」いた執事だと申し上げてよかろうと存じます。これまでの執事人生を振り返るたびに、あの歳月にダーリントン卿のもとで成し遂げた諸々のことが、私に最も大きな満足感を与えてくれます。卿にお仕えできたことを私は誇りに思い、卿に対しては、私をお使いくださったことへの感謝しかありません。》

⇒しかし、「二日間――午後」もまた定型のように、ダーリントン卿のもとで働いていたことを否定した奇妙な行動を精神分析して、さまざまに気持ちが揺らぎつつも、「高徳の紳士」ダーリントン卿への賛辞と、この世界という車輪の中心にいた執事人生への、「偉大さ」と「品格」を達成した満足感と誇りと感謝で締めくくられる。

「まったくの的はずれ」と強がるときこそ怪しい。認識の深まり、反発、否定、逃走、自閉。見たいものしか見ないように、聞きたいことしか聞かない。認識したいことしか認識しない。思考していると思っている。

 

 

「三日目――朝」

 

<あながち私の独り善がりではないことがおわかりいただけましょう>

・(P192)《あの夜のご訪問は、ハリファックス卿と当時の駐英ドイツ大使リッベントロップ様の間で行なわれた、一連の「非公式」会談の初回でした。あの初めての夜、ハリファックス卿は警戒心もあらわにご到着になりました。お屋敷に案内されたあと、真っ先に発せられた言葉が、「おい、ダーリントン、私をどんな目に遭わせようというのかね。これは絶対後悔することになるな」だったことを覚えております。(中略)

「ところで、スティーブンス。先夜のハリファックス卿だがな、うちの銀器には目をむいておったぞ。あのあと、気分がすっかり変わったようだった」私は正確に覚えております。卿はあのとき、このとおりのお言葉を言われたのでした。ですから、あの夜、銀器の磨きぐあいがハリファックス卿とリッベントロップ様の会談に、小さいながら無視できない貢献をしたと申し上げても、あながち私の独り善がりではないことがおわかりいただけましょう。》

⇒一連の「非公式」会談とは、対ナチス・ドイツ宥和政策である。「これは絶対後悔することになるな」とのハリファックス卿の言葉は歴史的には正しかった。

 そして、「国際問題」「外交政策」に関与したはずのスティーブンスの「偉大な」上司への貢献が銀器の磨きぐあいだったとは。

 ここにはプルースト的連想がある。サマセット州トーントンの大通りに面した店でお茶→「マースデン」という地名の案内板→ギフェン社の銀器磨き用黒蝋燭→ダーリントン・ホールの銀器の見事さ→ハリファックス卿(チェンバレン首相とともに対ドイツ融和政策を推進)→リッベントロップ(当時の駐英ドイツ大使、のち外相)→ペテン師→ナチの歓迎→反ユダヤ主義→……。

 

<何か得体の知れない原因から生じている>

・(P201)《ここ数か月間に起こったこうした過ちは、当然のことながら、私の自尊心を傷つけました。しかし、それが単なる人手不足以上の、何か得体の知れない原因から生じていると信じる理由は何もありません。もちろん、人手不足自体も重大な問題ではありますが、ミス・ケントンがダーリントン・ホールにもどりさえすれば、そのような些細な過ちは、たちまち過去の笑い話になってしまうでしょう。ただ、ミス・ケントンの手紙の――昨夜も部屋で、あかりを消すまえに読み直してみましたが――どこを捜しても、昔の地位にもどりたいという意思が具体的に書かれていないことは、覚えておかねばなりますまい。もしかしたら、私が一執事としての希望的観測から、ミス・ケントンがそのように望んでいると勝手に解釈しているだけのことなのかもしれません。その可能性はたしかにあるようです。と申しますのは、昨夜、ミス・ケントンの手紙を読み直しながら、私はこの手紙のどこから復帰の願いを感じ取ったのかを捜そうとし、それをなかなか見つけることができないのに驚いたほどでしたから。》

⇒小説のはじめの方でしきりと出てきた「一連の過ち」「いくつかの小さな過ち」とは、たとえばファラディ様の銀器のフォークに汚れがあった過ちだったとようやくわかる。語り手スティーブンスの「それが単なる人手不足以上の、何か得体の知れない原因から生じていると信じる理由は何もありません」とは、「信じる理由は何もありません」ではあっても、信じない理由もまたない。「人手不足以上の、何か得体の知れない原因」とはつまり、かつてミス・ケントンに指摘されて見出していた、父スティーブンスと同じ老いに違いなかった。

 ミス・ケントンの手紙に関して言えば、驚くのはむしろ語りを聞かされる読者で、再会が近づくごとに、手紙の調子はトーンダウンしてゆく。

 

 

「三日目――夜」

 

ユダヤ人問題>

・(P207)《「ミスター・スティーブンス。私が怒っているのがおわかりになりませんの? あなたは平然とそこにすわって、まるで食料品の注文を出すような調子で言われましたけれど、何をなさったかわかっておられますの? ユダヤ人だからルースとセーラを解雇する? なんということを……。私にとても信じられませんわ」

「ミス・ケントン。事情は、たったいま、全部お話したではありませんか。ご主人様が決定を下されたのです。私やあなたがあれこれ議論するようなことではありません」

「でも、ミスター・スティーブンス、あなたはまったくお考えになったことがありませんの? そんな理由でルースとセーラを解雇するのは……そんなことは間違っているとは思われませんの? 私は我慢できません。そんなことがまかり通るお屋敷には、私もいたくはございません」

「ミス・ケントン、少し落ち着きなさい。あなたには自分の地位にふさわしい態度で振舞ってもらわねばなりません。これは単純明快な問題です。ご主人様が二人の雇用契約を破棄したいと言われている。それ以上、何を言う必要がありますか」(中略)

「申し上げておきますわ、ミスター・スティーブンス。明日、あなたが二人を解雇なさるのは間違っています。それは罪です。罪でなくてなんでしょう。そのようなお屋敷で、私は働く気はございません」

「ミス・ケントン。あなたに一言申し上げておきたい。このように大きな、次元の高い問題について、あなたは的確な判断を下せる立場にはありますまい。今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています。たとえばユダヤ人問題にしても、あなたや私のような立場の者には、理解できないことがいくつもあるのです。私どもに比べれば、ご主人様のほうが、いくぶんなりともよい判断を下せる立場におられるとは言えませんか? 私はもう休まねばなりません。ミス・ケントン。ココアをどうもありがとう。明朝十時半です。忘れずに、二人の者をよこしてください。」》

⇒スティーブンスの「今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています」、「ご主人様のほうが、いくぶんなりともよい判断を下せる立場におられる」とは、歴史的にみればダーリントン卿への皮肉にも聞えてくる。

 スティーブンスは「凡庸な悪」だったのか。ご主人様ヒットラーが決定したことに議論するようなことではないと、まるで食料品の注文を出すような調子でユダヤ人を移送したアイヒマンのような。

 ひとりひとりが意見を持つ、ときには不服従の権限を行使する、のちに田舎の居酒屋での村人ミスター・スミスの強い意見、カーライル医師のしつこい問いかけ、レジナルド・カーディナルの忠告で反復されるだろう。

 映画でも一連のユダヤ人メイド解雇事件は、小説にはない黒シャツを引き連れた反ユダヤ主義者ジェフリー卿の訪問シーンも見せながら再現されている(ダーリントン卿が友好の気持ちをもって、ドイツからの避難民エルサとアルマ(小説ではルースとセーラ)をメイドとして採用するという小説にはないシーンまで前置きに付け加えて)。

 

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン』>

 ここでアーレントエルサレムアイヒマン』を見ておこう。

《しかしほらを吹くことはよくある悪徳である。そしてアイヒマンの性格にある、より特殊な、しかもより決定的な欠陥は、ある事柄を他人の立場に立って見るということがほとんどまったくできないということだった。ヴィーンでのある挿話を彼が語ったその語り方ほど、この欠陥をよく示すものはなかった。自分も部下もユダヤ人もみんな<同じ目標を追っている>と彼は考えていた。そして何か困難が生ずると、ユダヤ人役員は<心の中を打ち明け>、<歎きや悲しみのすべてを>彼にぶちまけ、助力を求めるために彼のところに駆けつけてきた。ユダヤ人は移住を<熱望>し、そして彼アイヒマンは彼らに力を貸してやるためにそこにいた。たまたま時を同じくして、ナチ当局はドイツをユーデンライン(筆者註:ユダヤ人が存在しない地)にしたいという熱望を表明していたからである。両者の熱望は一致していた。そして彼アイヒマンは<双方を満足させる>ことができた。裁判の際に話がこのこととなると、彼は一歩も譲らなかった》

《彼自身も学校時代からすでに彼を悩ませていたに違いないある欠陥――軽い失語症――をおぼろげながら自覚していて、「官庁用語[Amtssprache]しか私は話せません」と弁解した。しかしここで肝腎なことは、彼が官庁用語でしか話せなくなった原因は、紋切り型の文句(クリシエ)ではない文以外は全然口にすることができなかったからだということである。(精神科医があのように<正常>で<好ましい>と見たのは、彼のこの紋切り型の文句だったのではなかろうか? 牧師がその魂をあずかっている人々の心にあってほしいと思うあの<前向きな側面>をエルサレムで示すべき絶好の機会があらわれたのは、彼の精神の健康や心理の安定を担当していた若い警察官が緊張をほぐすためと言って『ロリータ』を彼に渡したときだった。二日後、アイヒマンは明らかに憤激の体(てい)でその本を返した。「何とも不愉快な本だ!」――”Das ist aber ein sehr unerfreuliches Buch”と彼は看守に言った。) 判事たちがついに被告に向かって、彼の今まで述べてきたことはすべて<無意味なおしゃべり>にすぎないと言ったのはいかにも正しかった――この無意味さは意識的なもので、被告はそれによって醜悪な、しかし無意味ではない考えを覆い隠していると彼らが憶測したことは別として。このような憶測は、むしろ記憶の悪いほうだったアイヒマンが、彼にとって重要な事柄や出来事に言及するたびに、驚くほど一貫して一言一句たがわず同じ決まり文句や自作の紋切り型の文句をくり返したという事実によって打ち消されるように思える。(中略)彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する(・・・・)能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケ―ションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁[すなわち想像力の完全な欠如という防壁]で取り囲まれていたからである。》

《私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。しかも<悪人になってみせよう>というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヵ月にわたって警察で訊問に当たるドイツ・ユダヤ人と向き合って座り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や、出世しなかったのは自分のせいではないということを、くり返しくり返し説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終弁論において、「[ナチ]政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。まったく思考しないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。》

⇒スティーブンスもまた、他人の立場に立って見ることがほとんどできず、紋切り型の執事用語で事をすまし、「おセンチな恋愛小説」を隠す幼稚な反応も似ている。ユダヤ人召使解雇や叔母の死や結婚の報告で、ミス・ケントンは「偉大な」「品格」を求めることに熱心な執事という防壁で取り囲まれた、コミュニケ―ションの不可能なスティーブンスを見たのではなかったか。レジナルド・カーディナルは、自分はどう考えているかを訊いても「ご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」とくりかえすだけの、「まったく思考しない」スティーブンスを見たのでなかったか。

 

<「なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」>

・(P215)《「おっしゃっていることがわかりませんわ」そして、私が振り向くと、ミス・ケントンはこうつづけました。「あなたはなんの疑問もお持ちでないのだと思っていました。ルースとセーラを追い出すのが正しいことだと……。それを楽しんでいるふうにさえ見えましたわ、ミスター・スティーブンス」

「違いますね、ミス・ケントン。それは正しくありませんし、私に対して公平な見方とも言えません。あの件は、私にとってたいへん気の重いことでした。心にじつに重くのしかかる出来事でした。このお屋敷の中では絶対に起こってほしくないたぐいのことでしたからね」

「では、なぜ、あのときそう言ってくださらなかったのです、ミスター・スティーブンス?」

 私は笑いました。笑いながら、なんと答えたものか、しばらく迷っておりました。しかし私が答えを思いつくまえに、ミス・ケントンが、繕っていたクッションを脇に置き、こんなふうに言いました。

「あのとき、そのお考えを私と分かち合ってくださっていたら、私にはどれほどありがたかったのか知れません。二人の女中が解雇されたときの私の気持ちを、あなたはご存知だったはずですわ、ミスター・スティーブンス。言ってくだされば私がどれだけ救われたか、あなたにはおわかりになりませんでしたの? なぜ、なぜですの、ミスター・スティーブンス? なぜ、あなたはいつもそんなに取り澄ましていなければならないのです?」》

⇒重要なこととして、スティーブンスの「笑い」がある。(日本人的な)「自然な笑い」「作り笑い」であって、ミス・ケントンとのやりとりのあちこちで指摘、発見されるだろう、スティーブンスの内面の繕いとして。

 

<転機>

・(P231)《じつを申し上げますと、最近、私はこうした思い出にふけることが多くなっております。そして、数週間前に突然のように、またミス・ケントンに会えるかもしれないと思いはじめてからは、その思い出に、とくに二人の関係を中心としたものが多くなったような気がいたします。二人の関係がなぜあのような変化を遂げたのか……。さよう、一九三五年か三六年の頃でした。長い年月を同じお屋敷で働き、仕事上の呼吸が完璧に合うまでに築き上げられてきた二人の関係は、あの頃を境に、たしかに変化したのです。最後には、一日の終わりをココア会議でしめくくるという、長い間の習慣さえ放棄せざるをえなくなりました。が、いったい何があのような変化をもたらしたのか、どういう出来事の連続でああいう事態にまでなってしまったのか、私には、いまだに納得できる答えが見つかっておりません。

 ただ、最近では、ミス・ケントンが勝手に私の食器室に入ってきたあの夜のことが、もしかしたら決定的な転機だったのかもしれないと思うことがあります。(中略)

 しかし、こんなことは、所詮、後知恵というのかもしれません。自分の過去にそのような「転機」を捜しはじめたら、そんなものはいたるところに見えてくるでしょう。ココア会議の廃止だけではありません。食器室での例の一件にしても、そう見ようと思えば「転機」と言えなくはありますまい。あの夜、ミス・ケントンが花瓶を抱えて入ってきたとき、私が少しでも違う対応をしていたら、あのあとどうなっていたか……。憶測はいくらでもできます。(中略)

 しかし、いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう。あのとき、もしああでなかったら、結果はどうなっていただろう……。そんなことはいくら考えても切りがありますまい、しまいには気がおかしくなってしまうのが関の山です。「転機」とは、たしかにあるものかもしれません。いま思い返してみれば、あの瞬間もこの瞬間も、たしかに人生を決定づける重大な一瞬だったように見えます。しかし、当時はそんなこととはつゆ思わなかったのです。ミス・ケントンとの関係に多少の混乱が生じても、私にはその混乱を整理していける無限の時間があるような気がしておりました。何日でも、何ヵ月でも、何年でも……。あの誤解もこの誤解もありました。しかし、私にはそれを訂正していける無限の機会があるような気がしておりました。一見つまらないあれこれの出来事のために、夢全体が永遠に取返しのつかないものになってしまうなどと、当時、私は何によって知ることができたでしょうか。(中略)

 私はミス・ケントンに質(ただ)さねばなりません。結婚生活が破綻したと思われ、そうだとすれば住む家のないミス・ケントンです。ダーリントン・ホールでも昔の地位にもどるつまりがあるかどうか、確認せねばなりません。

 じつは、今晩もまた、あの手紙を読み返しておりました。どうやら、私はところどころで、実際に書いてある以上の意味をそこに読み込んでいたようです。だんだん、そんな気がしてまいりました。しかし、ミス・ケントンの強い郷愁が表に現われている部分も、たしかにいくつかあるのです。その考えは変わっておりません。たとえば、「三階の客室から見える景色が私のお気に入りでした。真下には芝生、遠くにはダウンズが見えて……」などと書いてある部分では、とくにそれが感じられます。

 しかし、これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません。明日になれば本人に確かめられることです。》

⇒「一見つまらないあれこれの出来事のために、夢全体が永遠に取返しのつかないものになってしまうなどと、当時、私は何によって知ることができたでしょうか」は、個人の小さな恋愛感情だけでなく、歴史的なとてつもなく大きい出来事、対ナチス・ドイツとの「転機」においても考えなければならない。

 スティーブンスの一人称の回想のすべてが、「憶測はいくらでもできます」、「いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう」、「これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません」の自己正当化に思えてくる。

 

<おセンチな恋愛小説>

・(p236)《「ミスター・スティーブンス、私にご本を見せてください」

 ミス・ケントンは腕を伸ばし、私の手からそっと本を引きはがしにかかりました。(中略)

「まあ、ミスター・スティーブンス。嫌らしいどころか、これは、ただのおセンチな恋愛小説ではありませんか」

 もはや我慢すべきでないと思ったのは、このときだと存じます。私が実際に何と言ったのか、正確には思い出せません。しかし、断固たる態度でミス・ケントンにお引取りを願い、それでこの夜の出来事を終わらせたことは覚えております。

 このちょっとした事件の原因となった本につきましては、いま少し申し上げておくべきかもしれません。その本は、たしかに「おセンチな恋愛小説」と言われても仕方のない内容のものでございまして、ご婦人のお客様のために、読書室やいくつかの客室に用意してあるうちの一冊でした。私がそれを読んでおりましたのには、明快な理由があります。それは、その種の本を読むことが、英語力を維持し、向上させるのに、ひじょうにすぐれた方法であるからにほかなりません。(中略)たしかに「おセンチな恋愛小説」を選びがちだったのは事実ですが、それは、その種の本がよい英語で書かれ、利用価値の高いエレガントな会話を含んでいたからにほかなりません。(中略)とはいえ、いま振り返って正直に申し上げますと、ときにはそれを読んで思いがけない楽しみを味わったことも、ないわけではありませんでした。もちろん、当時の私は、いくら問い詰められても「楽しんだ」などと認めることはなかったでしょうが、いまの私には、「別に恥ずかしいことではなかったのに」という思いがあります。紳士淑女が恋に落ち、相手への気持ちを最高に優雅な言葉で語り合う小説です。それを読んで心にわずかな喜びを感じたとしても、どこに悪いことがありましょう。》

⇒勉強熱心なスティーブンスに思えるが、本当に、英語力を維持し、向上させるためだろうか。その種の本がよい英語で書かれ、利用価値の高いエレガントな会話を含んでいるとして(疑わしいが)、スティーブンスがお客様との通常の会話で使うとは決して思えないではないか。ここで、アイヒマンが官庁用語しか使えなかったことが思い浮ぶ。また、アイヒマンが相手の気持ちを思いはかることができなかったことも連想される。

 ときには思いがけない楽しみを味わったこともあったとは、スティーブンスの恋愛への好奇心と禁欲との相克を白状している。

 

<不思議な感情>

・(P250)《それに、ああした事件とほぼ同じ頃に起こったもう一つのことも、何らかの意味で「転機」だったには違いありますまい。ミス・ケントンが叔母さんの死を知った日の午後のことでした。(中略)

「明日がお葬式です。お休みをいただいてさしつかえございませんでしょうか?」

「もちろんです、ミス・ケントン。なんとかやりくりできるでしょう」

「ありがとうございます、ミスター・スティーブンス。まことに申し訳ありませんが、少し一人だけにしていただけますか?」

「わかりました、ミス・ケントン」

 私は部屋から出ましたが、そのとき、まだお悔みも言ってなかったことに気づきました。ミス・ケントンにとって、叔母さんは母親も同然の人でしたから、死亡通知がどれほどの打撃だったかは容易に想像できます。私は廊下に出たものの、すぐに引き返して、お悔やみを言うべきではなかろうかと迷いました。が、いまノックしたら、ミス・ケントンが悲嘆にくれている場に踏み込むことになるのではありますまいか。この瞬間、私からほんの数フィートのところで、ミス・ケントンは泣いているかもしれないのです。そう考えたとき、心に不思議な感情が湧き上がり、私はしばらくの間、迷いながら廊下に立ちつづけました。しかし、やはりお悔みには別の機会を待つべきだと考えて、私はようやくその場を立ち去りました。》

⇒「不思議な感情(a strange feeling)」というあいまいな両義的表現が読者を欺く。

 その後、ようやく午後になってからミス・ケントンを見かけたスティーブンスは、それまでの数時間、彼女の悲しみを少しでも軽くしてやるには何を言い、何をしてあげればよいだろうかと考えていたというのに、新しい女中たちの仕事ぶりの監督不足だと、まるで子供が好きな子に意地悪をしてしまうように詰(なじ)ってしまう。

 ミス・ケントンはそっぽを向いて、《不可解な何事かを解こうと努力している表情がよぎりました。感情が激するより先に、気が滅入ってしまった感じでした。》と語るスティーブンスの心境はどうなっているのだろうか。

 

 

<「奴隷には品格も尊厳もあったもんじゃない」>

・(p266)《ミスター・スミスからはすべての抑制が取り払われたようです。身を乗り出し、こうつづけました。

「だいたい、ヒットラーと戦ったのだって、そのためだったんでしょう? ヒットラーの言うなりになっていたら、今頃、みんな奴隷ですよ。世界全体が、一握りの主人と何百万何千万の奴隷に分れちまう。いまさら言うまでもありませんが、奴隷には品格も尊厳もあったもんじゃないですからね。だからヒットラーと戦って、やっと守ったんだ。自由な市民でいる権利をね。それがイギリス人に生れた特権ってもんですよ。どこの誰に生れついたって、金持ちだって貧乏人だって、みんな自由をもってる。(後略)」(中略)

 そして――なぜあんなことを言ってしまったのか、いまもってわかりません。ただ、あの状況の中では、そのように発言することが私に求められているように感じたのです――こう言いました。「私自身は、国内問題より国際問題に重きを置いておりました。いわゆる、外交政策ですな」

外交政策」という一言の衝撃的な効果は、私が驚くほどのものでした。一瞬にして、全員に畏怖の表情が浮かびました。私は急いで付け加えました。「いや、別に高いポストについていたというわけではありません。私はいつも非公式の立場から行動しておりまして、私に多少の影響力があったとしても、やはり非公式の場面に限定されておりましたから」しかし、驚きに満ちた沈黙はそれから何秒間もつづきました。

「あの、旦那様」と、ようやくミセス・テイラーが口を開きました。「旦那様は、ミスター・チャーチルにお会いになったことがございますか?」

「ミスター・チャーチルですか? さよう、あの方は何度か屋敷に来られました。しかし、素直に申し上げますとな、ミセス・テイラー、私が大きな問題に取り組んでおりました頃には、ミスター・チャーチルはまださほど重要な人物ではありませんでしたし、将来を嘱望されているというほどでもありませんでした。当時は、ミスター・イーデンやハリファックス卿のほうが、屋敷に頻繁に来られましたな」(中略)

「ミスター・イーデンてのはどんな人ですね? 個人的には、ってことですが。あれは、なかなかまともな人じゃなかろうかって印象をもってるんですがね。身分の高い人にも低い人にも、金持ちにも貧乏人にも、分け隔てなく話しかける人だろう、って。違いますか?」

「さよう、だいたいにおいて正しい見方でしょうな。しかし、もちろん、ここ数年間はミスター・イーデンにお会いしておりませんので、もしかしたら、重圧のもとでずいぶん変わられたかもしれません。政治に携わる人は、ほんの数年で見違えるほど変わってしまいますからね。それは、私が政治の世界で見聞してきたことの1つです」

ラシュディが「ちょうどナセルがスエズ運河を国有化した月にあたっているのだが、スエズでの失敗はイギリスの終焉を表すひとつの事件だったにもかかわらず、イギリスの衰退をひとつの主題としているこの小説は、その危機にふれていない」と指摘したように、スエズ危機への言及は抑制されている。というよりも、ラシュディは抑制された表現(understatement)と控えめに言い、サザーランドは「意図的な空白」、「芸術的目的を持った盲点」であると指摘している。

 

 ジョン・サザーランド「なぜスティーブンスはスエズ危機を聞いたことがないのか?」(けっこういいかげんなところもあって、ダーリントン卿が死亡したのは一九五六年のスティーブンスの旅の三年前と語られているから一九五三年のはずなのに一九四六年と計算され、ミス・ケントンの不幸は夫がしばしば妻を捨てて別な女のもとに走っているから、などと根も葉もないフェイクも書かれている)から。

《スティーブンスの六日間というのは、八月の終わりか九月のはじめということになる。

 当時の不吉な事件の歩み――一九五六年の次のような大事件を思い出してみよう。まず七月二六日、エジプトで、ナセル大統領がスエズ運河の国有化を発表(それまではフランスとイギリスの分割統治)。七月三一日、イギリス、フランス、アメリカが経済的制裁による報復措置。八月一六日、ロンドンでのスエズ危機をめぐる国際会議が「ダレス計画」を発表。九月九日、ナセルがスエズ運河を国際管理下に置くダレス計画を拒否。九月一九日、スエズをめぐる第二回ロンドン会議。十月二九日、イスラエルがイギリスとフランスとの長期間の秘密調停のあとエジプトへ侵攻。十月三十日、イギリスとフランスがエジプトへ最後通告、翌日から爆撃開始。スエズ戦争に関する世論の反発(とアメリカの圧力)のため、アントニー・イーデンは一九五七年一月九日、ついに辞任。

 カズオ・イシグロは一九五六年には二歳、まだ長崎に住んでいた。しかし七月から九月にかけて、スエズ危機はイギリス最大の時事問題であった。ところが『日の名残り』のどこにも、そのことは言及されていない。それなのに、スティーブンスは「私は国内問題よりも、どちらかと言えば国際問題にかかわっていました」などと自慢する。この問題は一九三九年以来の最大の国際問題であるだけでなく、それは同時にスティーブンスの世界の終わりをも意味しているのだ。もしイギリスの戦後史の中で最大の分岐点があるとすれば――すなわち古い秩序が崩壊した瞬間があるとすれば――それは一九五六年の九月である。それなのになぜこの小説にこのような盲点があるのか?

 まず確かなのは、これは芸術的目的を持った盲点であるということだ。いかにもイシグロらしい間接描写によって、彼は自分の小説が主張する主要なポイントをそれとなく示している。スティーブンスが戻っていくのは黄金色の夕刻(ダーリントン邸における日の名残り)などではない。彼はもう先のない道を歩いている。自分では知らないけれども、彼にはもう「名残り」はない。残るのは「死体」という意味の「残り物」だけだ。第二に、イシグロは微妙なアイロニーをここで提示している。イーデンがスエズであのような狂気の冒険を計ったのは、ミュンヘンの悪魔たちにけしかえられたから、すなわち「宥和政策」などあってはならないという気持ちからだ、というアイロニーである。たしかにイーデンが繰り返し言っていたのは、ナセルはヒトラーのそっくりさんだということであった。しかし時代は一九三八年とは違って、外交、国際協力――言うなれば「宥和政策」――こそがまさに採用すべき正しい政策なのであった。まさに、一九二〇年代と一九三〇年代にはあれほど悲劇的に間違っていたダーリントン卿の話し合いと緊張緩和の政策が、一九五六年の秋にはあのものずばりの正しい政策だったのである。》

 このサザーランドの見解に賛同するか否かはともかく、「芸術的目的を持った盲点」というところには惹きつけられるものがある。けれども、ミュンヘン協定とスエズ危機との、宥和政策の無効/有効の逆転という歴史的アイロニーを感じさせるための「芸術的目的を持った盲点」と言われてもピンとこない。

 

 映画では、スエズ運河でヘマをやったと村人に言わせてしまうので「盲点」は消失した。スティーブンスがミス・ケントンに再会するのは、映画では十月三日頃だから、その時点ではイーデンはまだ強硬政策をとっておらず、ヘマをやったという結末はついていなかったのではないか。

《「チャーチル首相にお会いになった事は?」

「屋敷に来られた。1930年代の初めに何度か」

「あいつが戦争を」「彼のお蔭で戦争に勝てたんだぞ」「ドイツの鉱山ストライキを武力で抑圧した」「だが戦争に勝った」「だが戦後は引退すべきだった」

「イーデン首相は?」「スエズ運河でヘマを」

「イーデン首相にも何度か会った」》

 

<「この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」>

・(P281)《スペンサー様は、やや物憂げなご様子で肘掛椅子にすわり、そのままの姿勢でしばらく私をながめておられました。そして、こう言われました。

「さて、執事殿、君に尋ねたいことがある。じつは、先ほどからある問題について皆で話し合っているのだが、埒があかない。是非、君に助けてほしい。どうだろう、これほど貿易が停滞してしまったのには、やはりアメリカの債務状況が強く関係しているのだろうか。それとも、そんなことはまったくのでたらめで、じつは金本位制の廃止こそ問題の根幹にあるのだろうか」

 もちろん、この質問には少し驚きましたが、私はたちまち状況を飲み込みました。私に期待されているのは、明らかに、この質問に当惑して見せることに違いありますまい。(中略)

「まことに申し訳ございません」と私は申し上げました。「この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」

 お客様方はひそひそ笑いをつづけておられましたが、このときまでに、私は居間の状況をすっかり把握しておりました。掌握していたと言ってよいかもしれません。スペンサー様はつぎにこう言われました。

「では、少し別の問題で助けていただこうかな、執事殿。フランスとボルシェビキ・ロシアが軍備協定を結んだら、ヨーロッパの通貨問題は緩和するだろうか、それとも悪化するだろうか」

「まことに申し訳ございません。この問題につきましては、お役に立つことはかなわぬかと存じます」

「やれやれ、この問題でも執事殿は助けてくれないのか」(中略)

「それなのに」とスペンサー様がつづけられました。「われわれは国の意思決定を、この執事殿や、その数百万のお仲間に委ねようと言い張っている。この議会政治という重荷を背負っているかぎり、さまざまな困難に少しも解決策を見出せないのは当たり前のことではないか。母親の会に戦争の指揮をとってくれと頼んだほうがまだましだ」

⇒このシーンは映画でも短いが効果的に再現された。

 ここにはジャン・ジャック・ルソーの「民意」「世論」「一般意思」や、「議会制民主主義」「ファシズム」という今日でも通用するテーマが問題提起されている。

「三日目――夜」もまたダーリントン卿崇拝と「忠誠心」で閉じてゆく。

 

 

「四日目――午後」

 

<圧倒的な解放感だった>

・(P296)《まったく突然に、医師はこんなことを言いました。

「無礼と思われたら困るんだが、もしかしたら、あなたはどこかのお屋敷の召使ということはありませんか?」

 この言葉を聞いたとき、私がまず感じたのは圧倒的な解放感だったことを告白せねばなりません。

「さようでございます。私はオックスフォード近くのダーリントン・ホールで執事をしております」

「そうじゃないかと思った。ほら、ウィンストン・チャーチルに会った、誰に会ったという件ね? 考えたんですよ。こいつは大嘘つきか、それとも……。そして、はっと思い当たったなんだ、簡単に説明がつくことじゃないか、ってね」

 カーライル医師は、曲りくねった急な上り坂に車を走らせながら、にっこり笑って私のほうを振り向きました。

「私には、どなたもあざむくつもりはなかったのでございます、カーライル様。しかし……」

⇒映画では小説と違ってカーライル医師は控え目ではなく、ダーリントン卿のナチスとのことがフレームアップされる。ペテロのスティーブンスはいったん知らないと答える。が、降りてガソリンを注ぎながら、あれは嘘だったと告白する。カーライル医師はスティーブンス自身の考えはどうだったのかをしつこく尋ねるが、これは秘密会談でのレジナルド・カーディナルの問いと同じ問いかけである。

 

《「ダーリントン? 英国を戦争に巻き込んだ、ナチ擁護派の貴族の?」

「その方は存じません」

「雇い主は米国人のルイス氏です」

ダーリントン卿はヒトラーと協定を結ぼうとした。その事で戦後、新聞社を名誉棄損で訴えた。エクスプレス紙かクロニクル紙か」

「存じません」

「裁判で負けた。反逆罪に問われて当然だった」

(中略)

「さっき申し上げた事は嘘です。私はダーリントン卿に仕えました。立派な方でした。真の紳士で、あの方に仕えた事は私の誇りです」

(中略)

「君も彼と同じ考えを? ダーリントン卿だよ」

「私は執事で、考えが合う合わないは関係ありません」

「だが信頼を?」

「心から。亡くなる前は、ご自分の過ちを認めておいででした。“相手を信じすぎた自分が間違ってた”と」

「なるほど」

「どうも。お手数をかけました」

(中略)

「しつこく聞いて申し訳ないが、君自身の気持ちは? 自分の過ちならあきらめもつくが、どのように

心の整理を?」

「私自身も私なりに過ちを犯したのです。その過ちを正したくて、この旅も実はそれが目的なのです」》

 あろうことか懺悔の旅とまでスティーブンスに言わせるが、原作小説では、旅の前にスティーブンスにそこまでの罪悪感、反省意識があったとは到底思えない。旅のなかで次第に意識が深まっていったはずだ。映画では「信用できない語り手」という伏線は表現されてこなかったから、このシーンを観た人は「信用できる語り手」スティーブンスの発言、自己正当化をまるごと信用してしまうだろう。しかしそれでは、最後に「ひび割れ」が入らない。

 

<ある一つの思い出が心から消えません>

・(P303)《とりわけ、ある一つの思い出が心から消えません。思い出というより、記憶の断片と言ったほうが適切でしょうか。ほんの一瞬のことが、この二十年間、なぜかいつも鮮明に思い出されるのです。それは、私が裏廊下に一人立っている記憶です。目の前には、ミス・ケントンの部屋の閉じたドアがあります。いえ、私はドアに向かって立っているのではありません。体が半ばドアのほうに向きかけて、はたしてノックしたものかどうか決断しかねているところなのです。このドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いている……。その思いにうたれた直後のことだったのを覚えております。この裏廊下での一瞬と、そのとき胸中に湧き起こってきた名状しがたい感情の渦のことは、私の脳裏にしっかりと刻み込まれ、いつまでたっても消えることがありません。

 しかし、私がなぜ裏廊下に一人立ち尽くしていたのか、どのような状況のもとでそういうことになったのかは、定かではありません。前後の様子を思い出そうとして、もしかしたら、これはミス・ケントンが叔母さんの死亡通知を受け取った直後のことではないか、と考えたこともあります。一人だけで悲しみにふけりたいというミス・ケントンを部屋に残し、廊下へ出たとたん、まだお悔みを言っていなかったことに気づいた。あのときのことではないか……と。しかし、さらによく考えてみますと、やはり違うのかもしれません。この記憶の断片は、ミス・ケントンの叔母さんの死から少なくとも数カ月たってから、全く別の脈絡の中で起こったことのようにも思われます。さよう、レジナルド・カーディナル様が不意にダーリントン・ホールに現われた、あの夜のことだったのかもしれません。》

⇒映画では、ミス・ケントンの叔母の死を知らせる手紙と、その直後に泣き声を聞いて廊下に立ち尽くすシーンは存在しない。ここにも「偽装と転嫁は一体となって機能する」の模範例がある。「胸中に湧き起こってきた名状しがたい感情(the peculiar sensation I felt rising within me.)」という多義的表現で読者を惑わす。

 

<「あなたのことをあれこれと話し合って時間を過ごしたことも多いのですよ」>

・(P315)《「ご存じかしら、ミスター・スティーブンス? 知合いと私にとって、あなたはとても重要な人物だったのですよ?」

「さようですか、ミス・ケントン?」

「そうですわ。あなたのことをあれこれと話し合って時間を過ごしたことも多いのですよ、ミスター・スティーブンス。たとえば、あなたが指で鼻をつまむ格好が私の知合いのお気に入りでしてね、ほら、食事時に、あなたが胡椒を振りかけるときになさるあの格好が……。私に会うと、やれと言ってききません。やってみせると、いつも大笑いしますわ」

「なるほど」

「それに、あなたが召使に与える“訓示”も気に入っているようですわ。あなたの演説口調の物真似では、私はもう名人クラスですもの。出だしのところをちょっとやってみせるだけで、二人とも笑い転げてしまいます」

⇒同じようなシーンが、二人の再会の場面でも現れる。

《そして、ミス・ケントンは、ドーセット州に住む娘さんの住所を私に教え、帰り道には是非立ち寄っていくようにと言いました。ドーセット州の辺りは、私の帰り道からだいぶはずれております。わたしはそのことを説明いたしましたが、ミス・ケントンはあとへ引かず、「キャサリンはあなたのことなら何でも聞いて知っているんですよ、ミスター・スティーブンス。立ち寄ってやってくだされば、大喜びしますわ」と言いつづけました。ミス・ケントンが本気であることを知り、私はたいへん感激いたしました。》

 この女心をどうとらえるべきか、生来の性格なのかはともかく、なぜかほっとするような、まるでブロンテ姉妹かジェーン・オースティンの小説のような奥行きを与えていることはたしかだ。

 

<好奇心をあからさまにする立場にはございません>

・(P320)《「残念ながら、私にはわかりかねます」

「残念ながらか、スティーブンス。ほんとうかな? ほんとうに残念ながらかな? 君は好奇心を刺激されるということがないのかい? いま、このお屋敷で決定的な大事が進行しているんだよ。君の好奇心はそれでも眠っているのかい?」

「私は、そうしたことに好奇心を抱く立場にはございません」(中略)

「好奇心が湧かないというのではございません。しかし、そのような問題につきまして、好奇心をあからさまにする立場にはございません」

「立場にない? そうか、君はそれが忠誠心だと思っているわけだ。違うかい? それが忠誠心だと思っているんだろう? 卿への? それとも国王へのかな?」

「申し訳ございません、カーディナル様。私にどうせよとのご提案でございましょうか?」(中略)

「君は平気かい? スティーブンス? ダーリントン卿が崖から転げ落ちようとしてるのを、黙って見ているつもりかい?」

「申し訳ございません。何のことを言っておられるのか、私にはよく理解できかねます」(中略)

「教えてくれないか、スティーブンス? もしかしたらぼくの言うことが正しいかもしれないとは――たとえどれほどわずかでも、その可能性があるとは――君にはまったく考えられないのかい? ぼくの言っていることに興味すら覚えないかい?」

「申し訳ございません、カーディナル様。私はご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております」

⇒レジナルド・カーディナルによってダーリントン卿の客観的な姿が明かされるシーンは、カーディナルがベルギーで戦死し、新聞におぞましく書きたてられて裁判に負け、廃人同様だったダーリントン卿の居間にお茶を持って上ると悲劇的な光景だった、と再会したミス・ケントンに話されることで、一層の悲劇性を増す。

 

 映画はナチスをめぐる政治的なことに関しては小説にない補填までして主張している。

 たとえば、黒シャツを引き連れてダーリントン・ホールを訪問したジェフリー卿のユダヤ人、ジプシー、黒人に対する差別発言とドイツの収容所への強い言及が映像化されている。

《「ユダヤ人や黒人、その他の人種問題。私はナチの人種政策を擁護する。遅きに失したという感すら持っておる」

「しかし英国は……」

「懲罰システムなくして国家は統治できない。“刑務所”と“強制収容所”は呼び名の違いだけだ」》

 

 一九三六年の秘密会談で、駐英ドイツ大使リッベントロップとイギリス首相、外相らはチェコスロバキアをめぐる会話(一九三八年のズデーテン危機とミュンヘン協定を先取りしすぎているかもしれない)をしているけれども、これも映画だけの特別なシーンだ。

《「わが大英帝国を参戦させる気はない。英国から遠く離れた国の争いだ。その民族にも馴染みがない」

チェコスロバキアのために英国の若者を犠牲にするなど」

「ドイツにとってチェコはいわば裏庭。他国の介入する問題ではない」

「総統閣下は心から平和を望んでおられる。だが小国が大ドイツ帝国を愚弄すればお許しにはなりません」》

 

 

<不当に道草をくったはずがありません>

・(P326)《「ミスター・スティーブンス、先ほど私が申し上げたことを本気にしてはいけませんわ。わたしがただ愚かだったのですから」

「あなたが言われたことを本気になどしておりません。ミス・ケントン。と言うより、あなたが何のことを言っておられるのか、私には思い出すことすらできません。わが国の大事がいま二階で進行しているのです。ここであなたと軽口を叩き合っている暇はありません。あなたも、もうお休みになったほうがよろしい、ミス・ケントン」(中略)

 さよう、私の記憶に深く刻み込まれておりますのは、やはり、あの瞬間のことだったに違いありますまい。私は両手にお盆をもち、廊下の暗がりの中に立っておりました。そして、心に確信めいたものが湧いてくるのを感じておりました。この瞬間、ドアの向こう側で、私からほんの数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いているのだ……と。それを裏付ける証拠は、何もありません。もちろん、泣き声などが聞こえたわけではありません。が、あの瞬間、もしドアをノックし、部屋に入っていたなら、私は涙に顔を濡らしたミス・ケントンを発見していたことでしょう。当時もいまも、そのことは信じて疑いません。

 どれほどの間そこに立っていたものでしょうか。ずいぶん長い間立ち尽くしたようにも思いますが、実際はほんの数秒間だったに違いありますまい。わが国で知らぬ者のない著名な方々のご用で、私は二階へ急ぐ途中だったのです。不当に道草をくったはずがありません。》 

⇒ミス・ケントンが結婚の報告をしたのに、スティーブンスが素っ気ない言葉しかかけなかったすぐ後で、ダーリントン卿に命じられて酒蔵からとびきり上等のポートワインを持って上る途中の出来事だ。「不当に道草をくったはずがありません」の複雑な意味合いを、映画ではあろうことかドアを開けて部屋に踏み込み、悲嘆にくれて泣いているミス・ケントンを発見する。あげくのはては叔母の死亡の手紙を受け取った直後に、ミス・ケントンの仕事ぶりに手抜かりがあると詰るシーンを持って来てしまう抑制のなさ。

 

<アーチの下の持ち場>

・(P328)《ホールを横切り、私はまたアーチの下の持ち場にもどりました。そして、ほぼ一時間後にお客様がお帰りになるまで、そこで待機しつづけました。何事も起こらず、ただその場に立っていただけの一時間でしたが、あのときのことは、二十年たったいまになっても鮮明に思い出すことができます。ご想像のとおり、私はたしかに最初は気が滅入っておりました。が、立ちつづけている間に、じつに奇妙なことが起こったのです。いつの間にか、心の奥からしだいに大きな勝利感が湧き上がってきたのです。

 当時の私がこの感情をどのように分析したものか、いまでは覚えておりません。しかし、今日振り返りますと、説明は容易につくように思われます、私にとりまして、あの夜はきわめて厳しい試練でした。しかし、あの夜のどの一時点をとりましても、私はみずからの「地位にふさわしい品格」を保ちつづけたと、これは自信をもって申し上げられます。おそらく、あの夜の私なら、父も誇りに思ってくれたことでしょう。そして、私が注視しつづけた、ホールの向こうのドアの内側では――私がたったいま任務を遂行してきた部屋の中では――ヨーロッパで最も大きな影響力をもつ方々が、大陸の運命について意見を交わしておられたのです。あの瞬間、私がこの世界という「車輪」の中心にいたことを誰が疑いえましょう。そして、あの夜の私をうらやまぬ執事がどこにおりましょうか。》

⇒この「アーチ」はウェークフィールド夫人に「まがい物」と指摘されたそれである。「君まで“まがい物”」が真実であるかのように、まがい物のアーチの下に何時間も立ち尽くし、勝利と高揚感に浸るスティーブンス。一九二三年の国際会議では父の死、一九三六年の秘密会談ではミス・ケントンの結婚の報告という試練を乗り越えて、品格を守り、世界の車輪の中心にいたと自負するスティーブンス。その夜、命じられるままに、とびきり上等のポートワインを酒蔵から運んだだけなのに。

 

 

「六日目――夜」

 

<「私がそんなことを書いたはずがありませんわ」>

・(P338)《「ミスター・スティーブンス、一人で何を笑っておられますの?」

「いや……申し訳ありません、ミセス・ベン。ただ、あなたが手紙の中に書いておられたことを、ちょっと思い出したものですから。あれを読んだときは少し心配したものでしたが、いまでは無用の心配だったことがわかります」

「あら。どんなことを書いたのでしたかしら?」

「とくに申し上げるようなことではありません、ミセス・ベン」

「あら、教えてくださらなければいやですわ、ミスター・スティーブンス」

「さようですか、ミセス・ベン」と、私は笑いながら言いました。「たとえば、手紙のあるくだりで――さて、正確にはどうでしたか――『これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています』というようなことを書いておられました」

「ほんとうですかしら、ミスター・スティーブンス?」やはり笑いながら、ミス・ケントンが言いました。「私がそんなことを書いたはずがありませんわ」

「いえいえ、ほんとうに書かれたのですよ、ミセス・ベン。私ははっきり覚えています」

「いやですわ。でも、そんなふうに感じた日もきっとあったのでしょうね。でも、ミスター・スティーブンス、そんな日はすぐに過ぎ去っていきます。はっきり申し上げておきますわ。私の人生は、眼前に虚無となって広がってはありません。なんといっても、ほら、もうすぐ孫が生まれてきますもの。このあと、何人かつづくかもしれませんし」

「そうですとも、ミセス・ベン。あなた方にとってはすばらしいことでしょう」

 二人はしばらく黙ったまま、ドライブをつづけました。やがて、ミス・ケントンがこう言いました。

「あなたにとってはどうなのですか、ミスター・スティーブンス? ダーリントン・ホールでのあなたには、どんな将来が待ち受けているのでしょう?」

「さて、何が待ち受けているにせよ、それは虚無ではありますまい、ミセス・ベン。私などは、そうであってくれればと願わないでもないのですよ。しかし、とんでもない。仕事、仕事、また仕事でしょう」

 二人は同時に笑い出しました。

⇒読者の誰もが気づくように、「五日目」がない。より正確には、四日目の夜から六日目の午後までが省略されていて、スティーブンスの語りの時刻は、「四日目――午後」から「六日目――夜」に飛ぶ。

 結局、小説ではスティーブンスはミス・ケントン(ミセス・ベン)に、ダーリントン・ホールに戻る気はないか、と問うことをしなかった(夫を愛しているのか、は遠まわしにしつこく尋ねたのに、というのはそれがずっと最重要の気がかりだった)、ミス・ケントンが語る身の上話、家族の現状を知れば、問うまでもなく自明だったから、いつもの奇妙な笑いで自分の感情をごまかしている。

 しかし映画でははっきりと尋ねる。

《「人手不足でして」

「お手紙で読みました。それで私も、もう一度勤めをと」

「よかった」

「ところが事情が変わったんです。もし勤めるようならこの近辺でないと。娘のキャサリンに赤ん坊ができるんです。そばにいてやりたいんです。孫が大きくなるのを近くで見たいし……」

「わかります」》

 

<「結局、時計をあともどりさせることはできませんものね」>

・(P342)《「ミスター・スティーブンス、おそらくお尋ねになっているのは、私が夫を愛しているかどうかということですのね?」

「いえ、ミセス・ベン、私はそのような大それた……」

「お答えすべきだと思いますわ、ミスター・スティーブンス。おっしゃるとおり、もうこれから何年もお会いすることがないかもしれませんもの。ええ、ミスター・スティーブンス、私は夫を愛しています。最初は違いました。最初は、長い間、夫を愛することができなかったのだと思います。ダーリントン・ホールを辞めたとき、私にはほんとうに辞めるという気がなかったのだと思います。ただ、あなたを困らせたくて、きっと、辞めることもそのための計略の一つくらいに考えていたのでしょう。それが気がついてみると、突然、西部地方に来ていて、ほんとうに結婚しているのですもの、ひどいショックでしたわ。長い間、私は不幸でした。たいへん不幸でした。でも、時間が一年一年過ぎていき、戦争があり、キャサリンが大きくなり、そしてある日、私は夫を愛していることに気づきました。これだけ時間をともにすると、いつの間にか、その人にも慣れるのでしょうね。夫は優しい、堅実な人です。そうですわ、ミスター・スティーブンス。私は夫を愛せるほどに成長したのだと思います」

 ミス・ケントンはしばらく黙り込みました。そして。こうつづけました。

「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を――よりよい人生を――たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を――考えたりするのですわ。そんなときです。つまらないことにかっとなって、私が家出をしてしまうのは……。でも、そのたびに、すぐに気づきますの。私のいるべき場所は夫のもとしかないのだ、って。結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

 ミス・ケントンのこの言葉に、私はすぐに返事をしたとは思われません。聞いた言葉を噛み締めるのに一瞬を要しました。それに――おわかりいただけましょう――私の胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。いえ、いまさら隠す必要はありますまい。その瞬間、私の心は張り裂けんばかりに痛んでおりました。しかし、私はやがてミス・ケントンのほうを向き、笑みを浮かべてこう言いました。

「おっしゃるとおりです。ミセス・ベン。おっしゃるとおり、いまさら時計をあともどりさせることはできません。そのような考えがあなたとご主人の不幸の原因でありつづけるとしたら、私はこれから安心して眠ることさえできなくなります。さよう、ミセス・ベン、私どもは、みな、いま手にしているものに満足し、感謝せねばなりますまい。それに、うかがったかぎりでは、あなたには満足すべき十分な理由があるではありませんか。ミスター・ベンが隠退され、お孫さんが――おそらく、これから何人も――お生まれになるのです。あなた方お二人は、きわめて幸せな年月を迎えようとしておられます。愚かな考えを抱いて、当然やってくる幸せをわざわざ遠ざけるようなことをしてはなりますまい」

「ありがとうございます、ミスター・スティーブンス。そのように心がけますわ」

「ミセス・ベン。どうやらバスが来たようです」》

⇒ここで、スティーブンスは直接話法の会話のなかでは畏まって「ミセス・ベン」と言っているけれど、地の文ではミス・ケントンのままであって、地の文がスティーブンスの深層心理、欲望を表出しているととることができる。このような深層心理による言葉の露呈は他の場面でもあって、カーライル医師からカーライル様と呼ぶのはやめてくれないか言われても、執拗に「様(sir)」と呼んでしまう(翻訳では、文末のsirの訳が難しいので、あまりわからないが)職業上の習慣をみてとれる。

 人生とはそんなものかもしれないというエッセンスが詰まっている。次の言葉をもって、ミス・ケントンの恋心を見逃していたとする読みもある。「たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を」と呟いてはいるけれど、「愛していた」とまでは語っていないし、「たとえば」でもある。「そのような考えがあなたとご主人の不幸の原因でありつづけるとしたら」の「そのような考え」、「愚かな考えを抱いて」の「愚かな考え」もまたスティーブンスの手前勝手な解釈であるかもしれない。

「ミス・ケントンのこの言葉に、私はすぐに返事をしたとは思われません」とは、わずか二日前のことなのに遠い出来事を回想しているかのようではないか。

 

<夕方こそ一日でいちばんいい時間だ>

・(P345)《桟橋の色つき電球が点燈し、私の後ろの群衆がその瞬間に大きな歓声をあげました。いま、海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っております。しかし、三十分ほど前からこの桟橋に集まりはじめた人々は、みな、早く夜のとばりがおりることを待ち望んでいるかのようです。先ほどの人物の主張には、やはり、いくぶんかの真実が含まれているのかもしれません。しばらく前までこのベンチにすわり、私と奇妙な問答をしていったその男は、私に向かい、夕方こそ一日でいちばんいい時間だ、と断言したのです。たしかに、そう考えている人は多いのかもしれません。そうででもなければ、ただ桟橋のあかりがついたというだけで、あれだけの歓声が自然発生的に湧き上がるものでしょうか。(中略)

「おやおや、あんた、ハンカチがいるかね? どこかに一枚もっていたはずだ。ほら、あった。けっこうきれいだよ。朝のうちに一度鼻をかんだだけだからね。それだけだ。ほら、あんたもここにやんなさい」

「いえ、結構です。私は大丈夫でございます。申し訳ありません。きっと旅行でくたびれているのございましょう。申し訳ありません」

「あんたは、その何とか卿という人をよほど慕っていたんだね。亡くなってから三年たつって? その人のことがよほど好きだったに違いないな」

ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気ある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意志でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」

⇒映画では、老人が、後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ、夕方が一番いい、と語るシーンは、撮られはしたがカットされてしまった。そして、なぜかミス・ケントンがベンチに坐って代役を務めた(二人の人物を一人に、二つの出来事を一つにするこの映画の手法)。「自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません」という重要な告白も、品格ある執事なら絶対にありえない人前で涙を流してハンカチを差し出されることもなく。

 

 イーヴリン・ウォーとの類似性は、吉田健一のエッセイ「ブライヅヘツド再訪」からも読みとれる。

《又この小説に差してゐる光が落日のものであるのは間違ひないことである。ウォオ自身が英国に差してゐるのが落日の光と見てこれを書いたので、その五年後の序文でこれが当つてゐなかったことを認めてゐても別な考へ方をするならば落日が一日の終りであることにならないのは夕日がその一日の一切を照し出すことを妨げない。これが斜陽の本当の意味であつてウォオが予想したことの性質は兎も角「ブライヅヘツド再訪」でこの光が小説の細部まで浮び騰がらせてゐる感じがするのは再びその作者が凡てを過去に置き、そのどのような記憶も逃すまいとしてこれを書いたことを我々に思ひ出させる。我々自身が落日を浴びた景色を眺めてゐる状態を考へるといいのでそれは豊かなものであるとともに眼がこの時のやうに正確に働くことはない。それは人間の精神が休息を喜ぶのに似てゐる。》

 

<ジョークの練習>

・(P353)《本腰を入れて、ジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません。人間どうしを温かさで結びつける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為とは言えますまい。

 主人が執事に望む任務としても、ジョークは決して不合理なものではないように思えてまいりました。(中略)ファラディ様は、まだ一週間はもどられません。まだ多少の練習時間がございます。お帰りになったファラディ様を、私は立派なジョークでびっくりさせて差し上げることができるやもしれません。》

⇒この小説の末尾のジョークに関するアイロニーもまた映画では扱われなかった。ダーリントン・ホールに戻ってきたスティーブンスは、迷い込んだ鳩が飛び出ていった窓を閉め(あたかもまた、仕事、仕事、仕事の執事に閉じこもるかのように)、ダーリントン・ホールを上へ上へと遠景撮影がどんどん引いて、見はるかす美しい田園風景でエンディングとなる。

 

ノーベル文学賞受賞記念講演」から。

《私が書き終えたばかりの物語は、イギリス人執事の話です。彼は誤った価値観によって人生を誤ったと悟りますが、すでに遅しです。執事として、人生最良の年月をナチ・シンパの主人に捧げてきました。自分の人生なのに、自分で道徳的・政治的責任を負わずにきたことによって、人生をいわば無駄にしたことを深く悔やみます。それだけではありません。完璧な召使いであろうとするあまり、大切に思う1人の女性がいながら、それを愛し、それに愛されることを自らに禁じます。

 

 私は書き上げた原稿を何度も読み返して、まずまず満足していました。同時に、何かが足りないという小さな思いを抑えられずにいました。

(中略)

 トム・ウェイツを聴いて、私は何をやるべきかを悟りました。イギリス人執事には最後まで感情の防壁を維持してもらい、その防壁によって自分からも読者からも自分自身を隠しきってもらう……。書いている途中のどこかで、私は無意識にそう決めていたのだと思います。いまやるべきことは、その無意識の決定を覆すことです。物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ覆そう。その一瞬を慎重に決め、まとった鎧に一筋のひび割れを起させよう。鎧の下にある大きくて痛ましい願いを、読者に垣間見てもらおう。》

 

 さて、イシグロが言う「物語の終わりに近いどこかで、一瞬だけ覆そう」とし、「まとった鎧に一筋のひび割れを起させよう」としたそれは、具体的にはいったいどこだろう。

 ミス・ケントンが孫娘を理由にダーリントン・ホールに戻ることを断った時だろうか。「もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を――よりよい人生を――たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたのいっしょの人生を――考えたりするのですわ」という思いがけない言葉を聞いた時だったか。それとも、桟橋の老人の「夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」と声を掛けられ、執事の衣裳を脱いで「完全に一人だけでいるときしか」見せないはずの涙を流した時だろうか。桟橋の見知らぬ人々がジョークを言い合いながら人間的暖かさで結ばれているのに気づいた時だろうか。

 読者が自分の頭で思考することを求めているような気がしてならない。

  

 

[附 丸谷才一の『日の名残り』書評]

 

 丸谷才一の『日の名残り』書評は、『日の名残り土屋政雄訳(早川epi文庫)の解説として「旅の終り」という題で掲載された。丸谷はデイヴィッド・ロッジを高く評価しているが、彼の「信用できない語り手」について何ら言及していないのは、不思議と言えば不思議である。

ウッドハウスの滑稽小説に出て来るバーディ・ウースターとジーヴズは、ドン・キホーテサンチョ・パンサシャーロック・ホームズとワトソンと同じくらゐ有名な二人組である。呑気で人のいい貴族が社交界で失敗すると、賢明な執事が主人公を救ふといふのが、ジーヴズものの基本の型だつた。この型によつてウッドハウスは、第一次大戦の終りまでの、つまり最盛期のイギリス社会を楽しく諷刺した。
 イシグロの長篇小説『日の名残り』の主人公スティーブンスは執事である。彼は以前、政界の名士であるダーリントン卿に使へてゐて、有能な執事として自他ともに許してゐた。しかし彼には第二次大戦前夜から戦後にかけてのダーリントン卿の重大な失敗を救ふことなどもちろんできなかつたし、そして自分自身の私生活もまた失敗だつたと断定せざるを得ない。旅の終りにそのことを確認して、スティーブンスは海を見ながら泣く。夕暮である。桟橋のあかりがともる。『日の名残り』はそれゆゑ、まるでウッドハウスジーヴズもののきれいな裏返しのやうにわたしには見えた。
 つまりイシグロは大英帝国の栄光が失せた今日のイギリスを諷刺してゐる。ただしじつに温和に、優しく、静かに。それは過去のイギリスへの讃嘆ではないかと思はれるほどだ。ダーリントン・ホールはいまアメリカの富豪の所有に帰し、スティーブンスは彼に雇はれてゐるのだが、このアメリカ人は親切な男で、自分が帰国して留守のあひだ、数日イギリスを見物しろと執事にすすめる。その旅で彼が眺める田園風景と同じくらゐ、古いイギリスの倫理は肯定されてゐるやうだ。
 しかし物語は整然とそしてゆるやかに展開して(イギリスの読者たちはこの精妙な技術にホンダやソニーと同種の洗練を感じたかもしれない)、スティーブンスが信じてゐた執事としての美徳とは、実は彼を恋ひ慕つてゐた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。そしてこの残酷な自己省察は、彼が忠誠を献げたダーリントン卿とは、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかつた、といふ認識と重なりあふ。
 これは充分に悲劇的な物語で、現代イギリスの衰へた倫理と風俗に対する洞察の力は恐ろしいばかりだ。これだけ丁寧に歴史とつきあひながら、しかしなまなましくは決してなく社会をとらへる方法は、わたしを驚かす。殊に、登場人物に対する優しいあつかひがすばらしい。イシグロは執事、女中頭、貴族をユーモアのこもつた筆致で描きながら、しかし彼らの悲劇を物語つてゆく。
 あるいは、悲劇を語りながら、ユーモアを忘れない。わたしはその余裕のある態度を望み見て、イシグロが川端康成にではなくディケンズに師事してゐることを喜んだ。海を見ながら泣く執事に、見ず知らずの男は、今朝一ぺん鼻をかんだきりだと言つてハンカチを貸さうとする。執事はそれを断つてから、むやみに冗談を言ふことが好きなアメリカ人の雇ひ主のため、冗談の練習をしようと思ひ立つ。
 土屋政雄の翻訳は見事なもの。

 

 これはわたしが一九九〇年十一月に「週刊朝日」のために書いたカズオ・イシグロ日の名残り』の書評である。初出の題はわからないが、わたしの本『木星とシャーベット』に収めるときには『桟橋のあかり』といふ題をつけた。読み返してみて、大筋のところではこれでいいし、よくまとまつてゐると思ふので、敢へて再録し、その上で、枚数が足りないせいで言ひ残したことを付け加へよう。十年という歳月のせいでの変化は、たとへあるとしても僅かなはずだ。わたしは相変らず、このよく出来た長編小説に好意を寄せてゐる。

 イギリス小説史の専門家たちがよく使ふ「英国の状態」小説といふ術語がある。

 一八四〇年代のイギリスは、前世紀の経済的発展のせいで困つたことになつてゐたし、すくなくとも政治家たちや政治評論家たちはそのことに気がついてゐた。産業革命のためだ。これをカーライルは「英国の状態」問題と形容したが、この言葉は一種の流行語となり、派生語を生じた。このころに書かれた政治小説(たとへばディズレリーのもの)や社会問題小説(たとへばギャスケルのもの)が「英国の状態」小説と呼ばれるやうになつたのである。一つには、この種のことを取上げるのに肩ひじ張つた政治論や経済論よりも小説といふ女性的な形式のほうが具体的で好都合だといふ事情もあつたし、さらに、もともとイギリス小説は十八世紀以来、社会全体に対して関心をいだくものだつた。社会のなかで生きるといふ傾向の強い国民だし(従つてその反動で奇人も多くなる)、それに小説が大好きだから、自然かういふことになる。

 イギリス小説のそんな性格を十九世紀で最もよく見せるのがディケンズだとすれば、二十世紀ではE・M・フォースターだらう。そしてイシグロの『日の名残り』は、まさしく「英国の状態」小説ともいふべき、社会全体の展望の書となつてゐるが、イシグロの作品によつてまづ連想されるのはフォースターの『ハワーズ・エンド』である。その優しくて皮肉な洗練といひ、社会小説めかした野暮つたい構へを表面はちつとも見せないのに骨組はまさしく社会小説であることといひ、この長編小説は『ハワーズ・エンド』によく似てゐるのだ。

 そのための絶好の仕掛けは執事といふ主人公=語り手だつた。それはあの格式の高い、貴族支配の国の移り変りを物語るのに打つてつけのもので、どうして今まで誰もこの工夫に気づかなかつたのかといふ気がするけれど、多分みんながウッドハウスジーヴズに何となく遠慮したせいに相違ない。それとも、恐れをなした結果といふべきか。とすれば、イシグロの発明は、スリラーの方法を移入したグレアム・グリーン、少年冒険小説の設定を借用したゴールディングに近いといふことになる。彼は執事といふイギリス上流社会の特産品を滑稽小説から普通の小説へと奪還し、あの特殊な職業によつてイギリスの国運を占つた。

「従僕の眼に英雄なし」といふヘーゲルの名文句がある。ただし彼は、「それは英雄が英雄でないからではなく従僕が従僕だからだ」と言ひ添へる。服を着せたり長靴をぬがせたり、身のまはりを世話してくれる卑小な男にかかると、どんな歴史的人物も偉大なところが見えなくなる、欠点しか目につかない、といふわけだ。さういふ理屈で押し切ることで、ヘーゲルは彼の歴史哲学を構築した。そしてたいていの歴史小説は、英雄を従僕の眼で見る手法と、英雄崇拝的な民衆の眼で見る態度とをまぜあわせることで成立つてゐる。

 イシグロの方法はさうではない。彼のスティーブンスはダーリントン卿に心服してゐた。尊敬すべき大物だと信じ切つてゐた。つまりダーリントン卿は従僕にすら軽蔑されない偉大な存在だつた。さういふ、敬愛といふよりはむしろ畏怖の対象である貴族への評価が次第に崩れてゆく、そのいはば公的な悲劇となひまぜにして、この従僕はまた私的な悲劇を持つ。女との関係を回顧して、自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ。この公私両方の認識の深まり方につきあふのが『日の名残り』を読むといふことなのである。

 こんなふうに認識の深まり方に立会ふことは、普通あまり言はれてゐないけれど、小説の大切な味である。時として、主成分になる場合もあるだらう。たとへば『罪と罰』も『若い芸術家の肖像』も勘どころはそれなので、その探究の一歩一歩が、古風な宝さがしの物語に一喜一憂に近い、いや、ひよつとするとそれ以上の、楽しさをもたらすことになる。もちろんドストエフスキージョイスの主人公は学生で、知的な素質においてスティーブンスを遙かに抜く。しかしイシグロはごく普通の男の人生論的探究、知の宝さがしを描くといふ放れ業をきれいに見せてくれた。

 注目に価するのは、その一部始終の時間的構造である。まづ新しい雇ひ主であるアメリカ人がイギリス旅行をすすめてくれる所からはじまつて、スティーブンスの旅が逐一語られる。そのなかに彼の過去が織り込まれる。かつての主人のことも、女中頭とのあれこれのことも。その女との長い歳月の後に出会つて悲しい打明け話を聞き、それを思ひ出し、自分の生き方を悔いて、旅の終りに彼は泣く。現在から過去へ赴き、過去から大過去へとさかのぼつたり現在に引き返したりする入り組んだ時間の扱ひ方はまことに見事なもので、読者はすばらしい話術に引きまはされながら、つい時間といふものを存分に意識するやうになり、そのあふりで、さう言へばこの執事の生きてゐるいはば私的な時間は、もつと公的な時間である歴史のなかに包含されてゐて、その公私両方の時間をイシグロは上手に語つてゐるのだと気づくことになるだらう。

 彼が現在のイギリス人の生活とそれからこの一世紀の大英帝国の有為転変とをこんなにすつきりととらへることができるのは、もちろん彼の個人の才能も大きいけれど、外国系の作家なのでイギリスおよびイギリス人に対し客観的になることができるせいもかなりある。それから、その条件によつてイギリス小説の富を学びやすいといふこともある。話は逆ぢやないかと言はれさうだが、わたしの推論は筋が通つてゐるはずだ。ヘンリ・ジェイムズも、コンラッドも、外国系の作家であるせいでイギリス小説の伝統に深く学び、新しいものをそれに付け加へることができたといふ先例があるのだから。そして今、イシグロがイギリス小説に新しくもたらしたものは、時間といふもの、歴史といふものの、優美な抒情性かもしれない。わたしは、男がこんなに哀れ深く泣くイギリス小説を、ほかに読んだことがない。》

                                    (了)

    **********参考または引用*************

カズオ・イシグロ日の名残り土屋政雄訳(丸谷才一解説「旅の終り」所収)(早川epi文庫)

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内』(サルマン・ラシュディ「執事が見なかったもの」小野寺健訳所収)(光文社知恵の森文庫)

*Brian W. Shaffer and Cynthia F. Wong “Conversations with Kazuo Ishiguro” (univ. Press of Mississippi, 2008)

*The Remains of the Day, (1993) Movie Script

https://www.springfieldspringfield.co.uk/movie_script.php?movie=remains-of-the-day-the

ジェイムズ・アイヴォリー監督映画『日の名残り戸田奈津子訳(コレクターズ・エディション [AmazonDVDコレクション])

*『吉田健一集成3』(『書架記』「ブライヅヘツド再訪」所収)(新潮社)

*E・M・フォースター『ハワーズ・エンド吉田健一訳(河出書房新社

イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』吉田健一訳(筑摩書房

*P・G・ウッドハウス『P・G・ウッドハウス選集1 ジーブズの事件簿』(イーヴリン・ウォー「P・G・ウッドハウス頌」、吉田健一「P・G・ウッドハウス」所収)岩永正藤、小山太一編訳(文藝春秋

カズオ・イシグロ『特急二十世紀の夜と、いくつかのブレークスルー ノーベル文学賞受賞記念講演』土屋政雄訳(早川書房

*ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』大浦康介訳(筑摩書房

*「カズオ・イシグロ・インタビュー ~The Art of Fiction 第196回」(『THE PARIS REVIEW』2008年春号収録)

*「カズオ・イシグロの文学白熱教室」(2015年7月放送)(NHKエンタープライズ

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』(「信用できない語り手」所収)柴田元幸斎藤兆史訳(白水社

*ジョン・サザーランド『現代小説38の謎』(「なぜスティーブンスはスエズ危機を聞いたことがないのか?」所収)川口喬一訳(理想社

ハンナ・アーレント『新版 エルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳(みすず書房

ロラン・バルト『零度のエクリチュール渡辺淳、沢村昴一訳(みすず書房

*W・S・チャーチル第二次世界大戦』佐藤亮一訳(河出書房新社

フロイトフロイト全集<8>1905年―機知 』中岡成文、太寿堂真、多賀健太郎訳(岩波書店

 

演劇批評 渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

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渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」に関するノート

  ――「実盛物語」の「未来による遡及的再構成」

                             

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』「物語 歴史の再生」から

《「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」の俗に「実盛(さねもり)物語」という芝居に奇妙な場面がある。小万(こまん)の息子太郎吉(たろきち)が、帰りかける実盛に「実盛やらぬ」というと、実盛がまた少年の太郎吉に向かって、

 

 四十近き某が、幼き汝に討たれなば、情と知れて手柄になるまい。若君と諸共に、信濃国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ、其時実盛討手を乞ひ受け、故郷へ帰る錦の袖、翻して討死せん。

 

 というのである。この若君とはこの場で生まれたばかりの赤ン坊にすぎない。この赤ン坊が太郎吉とともに実盛の指示通り、諏訪だか木曾だかで義兵をあげて木曾義仲となるのは、実に何十年か先の話である。なぜ何十年も先のことを実盛は予言できたのか。

 さらに太郎吉がいまここで勝負をしろというのに対して、実盛は戦場でお前に討たれてやるという。そうするとそばで聞いていた九郎助が、何十年もすぎてはあなたは白髪、皺だらけの老人になって太郎吉に見分けがつかないだろうという。そうすると実盛はこういう。

 

 其時こそ、鬢鬚(びんひげ)を墨に染め、若やいで勝負を遂げん、坂東声の首取らば、池の溜りで洗ふて見よ。戦(いくさ)の場所は北国篠原、加賀の国にて見参/\。

 互いに馬上でむんずと組み、両馬が間に落つるとも、老武者(おいむしゃ)の悲しさは、戦に仕労(しつか)れ、風にちぢめる古木の力も折れん。その時手塚、合点がてん、遂に首をも掻き落され、篠原の土となるとも、名は北国の巷(ちまた)に揚げん。

 

 占師でもない実盛が、なぜ何十年後の戦士の場所や状況まで、いま見てきたように語ることができるのか。自分一人が何十年後かにある場所へ行ってお前に討たれてやるというのならばまだしも、事態は戦争であり、実盛一人の力ではどうにもならぬ源平の合戦である。それを場所まで指定することがどうしてできるのだろうか。

 いうまでもなく北国加賀の篠原で齊藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれ、その白髪を墨で染めていたことが池の水で洗われてあきらかになったことは、何十年後かの歴史的な事実である。しかしその事実をなぜいま予言できたのか。

 これが実は歌舞伎の物語というものの力の秘密なのである。これを狂言綺語(きご)といい浄瑠璃作者の出鱈目荒唐無稽な遊びということは簡単であるが、決してそうではない。彼等はただ物語というものの力を信じていたにすぎぬ。物語の力とは、時空をこえて一つの事象をとりだして再現するものであり、再現によって歴史的な事実の裏側にひそむものの謎を解くものである。なぜ実盛は白髪を墨で染めて戦場へおもむいたのか。むろん歴史は、それが老人が老いをかくすためであったことを教えている。しかし浄瑠璃の作者はそんなことでは満足しない。その背後に何十年前かの琵琶湖のほとりの九郎助の住家でおこった秘密があるとする。そうなるといまここで上演されているドラマが篠原で白髪を染めて討死した事実の謎解きになる。歴史はただ再現できるものではなく、この謎解きの、真相の力によってはじめて再現可能になる。この時間空間を逆さまにした転倒こそが物語の力と私が呼ぶものである。

「実盛物語」を書いた作者の意識のレベルは、この転倒に示されている。》

 

《もっともこの一段が「実盛物語」と呼ばれる――つまり物語という通称が狂言名になった稀な例であるのは(このほかには「六弥太(ろくやた)物語」「藤弥太(とうやた)物語」位なものであろう)この件りにあるのではなく、実はその前の実盛が葵(あおい)御前に向かって前日の琵琶湖の湖上でおこった事件を物語るところから来ている。事件というのはほかでもない。平宗盛(むねもり)の竹生島参詣の御座船(ござぶね)が湖上を航行中に、湖を泳いでくる女とその女を追う船に出逢ったというのである。実盛は宗盛に随行して御座船に乗っていた。女はいずくのだれとも知れなかった(実は九郎助の養女で、瀬尾太郎の娘であり太郎吉の母小万であるが、その時はわからなかった)が、白旗をもっていた。源氏の旗である。かねて密(ひそ)かに源氏に心を寄せていた実盛は、この旗が平家の手に入っては一大事と考え、白旗をもつ女の片腕を水中へ切り落とした。腕も(むろん白旗も)、女は水中に没して後方が知れなくなったが、親子の縁によって、白旗を握った片腕は太郎吉の網にかかり、虫の息の女はこの家のそばの磯に打ち寄せられたというのである。

 実盛が語る「物語」の中味は大体右の通りだが、実盛が語るまでもなくこの事件の一部始終はすでに観客はこの前の場の御座船の場で見て知っているのである。

 歌舞伎の物語の双璧は、この「実盛物語」と「一谷嫩軍記」(あの「六弥太物語」をふくむ「一谷嫩軍記」である)の「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実が一谷の合戦で無官大夫敦盛を討った経緯を語る「物語」であるが、この熊谷の物語もまた前段の「組打」で観客はすべて目のあたりにしているのである。

 むろん舞台の上の葵御前や九郎助夫婦、太郎吉は前段でなにがおこったか知らない。熊谷が物語を聞かせる相手の藤の方(敦盛の生母)や相模(敦盛の身替りになった小次郎直家の母)は一谷合戦の一部始終を知らない。知らないからこそ実盛や熊谷は語って聞かせるのだが、観客はすべて見て知っている。それをもう一度わざわざやってみせるのは一体なぜなのか。そこにドラマの大きな「物語」のなかに仕込まれたメタ物語ともいうべきものがつくられ物語のもつ力が示されているからであり、一方物語を語る芸といったものが成立しているからである。

 語りの芸を「話芸」と呼んだのは関山和夫氏であるが、この芸の伝統は歌舞伎よりもはるかに古く、もちろん人形浄瑠璃の語りもその芸の一つの流れのうちにある。実盛や熊谷の物語はその芸の流れの原型をのこしたものだ。だからこそ、実盛は白扇、熊谷は軍扇を使う。扇こそ物語に欠くことのできぬものであり、彼等が「物語らんと座を構え」るのは、そういう芸の伝統を意識しているからにほかならない(ついでにいえば人形浄瑠璃にかぎらず能狂言、唄、浄瑠璃の大夫たちはすべて扇をもつものである)。

 物語りがそういうものであるとして、しかし歌舞伎の物語はもう一つ別な意味をもった。それは実盛や熊谷の場合をみればよくわかる。実盛や熊谷は、扇をもって、床の義太夫の語りにさまざまな動きをみせるのである。つまり、せりふの語りだけではなく、そこに動の要素、もっといえば義太夫のリズムにのった音楽の要素というものが入ってきている。この要素が大事だと私には思われる。この要素はなにを意味しているのか。すなわち物語の、その語りからの解放であり、身体化というべきものである。歌舞伎の物語の本義はここにある。

 熊谷の型には、比較的写実な九代目団十郎団十郎型と、人形の動きをとり入れた様式的な四代目芝翫芝翫型と二つの型がある。団十郎型は始終見るのだが、芝翫型は松緑が一度やったのを見たきりである。この芝翫型が私には大変面白かった。心理だの状況を無視したというか超越した、派手で、様式的な動きがあって、パッと飛び上ったりするのである。それをみていて思ったのは、歌舞伎の物語のもつ面白さというものは、決してなにかを再現しようとするものではなくて、むしろその再現をいかに絵として身体化し、再構成してしまうかということであった。

 同じことは実盛にもいえる。実盛にも二つの型があり、一つは団蔵の家に伝わる型であり、もう一つは三代目三津五郎から五代目彦三郎へ伝わり、さらに五代目菊五郎が完成した菊五郎型である。団蔵型は動きも地味で、肚を主体としている。菊五郎型は動きが派手でしかも洗練されている。両方見たことがあるが、菊五郎型の方が状況や心理をこえて、観客を陶酔させる魅力をもっている。

 熊谷の芝翫型、実盛の菊五郎型というものには、あきらかにドラマを逸脱して、ということは事件の状況の再現をこえてしまったところに面白さがあり、そのこえてしまったところが、実は身体にある種の音楽的な憑依(ひょうい)のおこる瞬間なのである。そこが歌舞伎の物語の芸の面白いところである。》

 

《そこで私はあの実盛の何十年後かを予言した物語の力のことに戻りたい。なぜならば、何十年後の戦争の予言が予言でもなんでもなくて、すべて目の前のドラマは何十年後かの北国篠原の合戦の謎解きであったように、この実盛や熊谷の物語も実は前の幕で行なわれた事件の再現なぞでは決してなくて、実はいまここで物語られるもののために前段の事件があったという気がするからである。物語の力とは、やはりこの時空をこえた転倒のうちにある。たしかに前場ではそれがドラマであり、現実であったかも知れないが、熊谷や実盛が物語るのをみていると、この物語こそ真実であり、要するにあの現実は虚構ではないかという気さえするのだ。北国篠原の合戦や一谷の合戦や竹生島参詣というような歴史的な出来事には実は一片の真実もふくまれていない。すべては影にすぎない。影でないものはいまここで行なわれている物語のなかにある。もっといえばパッと飛び上がり、派手な動きをしたりする役者の身体のしぐさのなかにある。これは物語というものの、通常私たちが考えている概念の解体であり、歌舞伎の上での演劇的な再生なのである。(後略)》

  

<未来による遡及的再構成>

ボルヘス『続審問』「カフカとその先駆者たち」

《かつてわたしは、カフカの先駆者たちを調べてみようと思い立ったことがある。彼のことを初めのうちは、美辞を連ねて称賛されるあの不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼と少しばかりつきあっているうちに、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がしたからである。》

 最初は、運動を否定するゼノアの逆説(パラドクス)である。飛んでいる矢は永遠に的に到達できない。アキレスは決して亀を追い越せない。この有名な命題の形式がまさしく『城』のそれと同じである。《運動する物体と矢とアキレスが文学における最初のカフカ的登場人物である。》

 第二のテクストは、類縁性とは形式と言うより語りの口調である。九世紀の唐の漢文作家韓愈が書いた寓意譚。我々は麒麟が超自然的存在であり、吉兆の動物であることは広く認められている。下々の女子供でも知っている。《しかし、この動物は家畜のなかに見当たらないし、たやすく見つかるものではないし、また分類に適さない。すなわちそれは馬や牛に似ていないし、狼や鹿にも似ていない。それゆえ麒麟を目のあたりに見ていながら、それが麒麟であることに確信がもてないようなことも起こりうるだろう。我々は鬣(たてがみ)のある動物なら馬であり、角の生えている動物なら牛であることを知っている。しかし、我々はどんな動物が麒麟であるかを知らない。」

 第三のテクストは、キュルケゴールのテクスト。《両作家の知的親近性は誰でも知っていることであるが、カフカと同じように、キュルケゴールにも、同時代の中産階級的主題に基づく宗教的寓話がたくさんあることは、わたしの知るかぎりまだ明らかにされたことはない。》一つは四六時中監視されながら、イングランド銀行紙幣を検査している贋金つくりの話である。もう一つは、デンマークの牧師たちが、北極へ探検旅行することは魂の救済にとって有益だろうと告げていたが、たぶん不可能であること、を認める。彼等は最後に、どのような旅行も、日曜ピクニックも、本物の北極探検になると宣言する。

第四の予示は、ブラウニングの物語詩「恐怖と疑念」である。《ある男が有名人の友達を持っている、あるいは持っていると思っている。彼はこの友人に一度も会ったことがないし、今までに助けてもらったこともない。しかし、友人は高潔な人格の持ち主だという評判だし、彼の書いた本物の手紙も出回っている。彼の立派な人柄に疑問を呈するものがあり、筆跡鑑定家たちは手紙を贋物だと言う。最後の行で男が問う――「もしもこの友が神だとしたら?」》

 二つの短編物語も含まれている。一つはレオン・ブロワの『不快な物語』にあるもので、《地球儀・地図帳・列車時刻表・トランクなどたくさん用意していながら、生まれた町をついに離れることなく生涯を終える人々を描いている。》もう一つは「カルカソンヌ」と題されたダンセイニ卿の物語である。《無数の戦士たちからなる軍団が巨大な城砦を出発し、数々の王国をたいらげ、多くの怪物を見、幾つもの砂漠と山岳を征服するが、ついにカルカソンヌに達することができない。一度この町を遠望したことがあったにもかかわらず。》(《第一の物語では、人々は町から離れないが、第二の物語では町に到達しない。》)

 ボルヘスは、わたしの間違いでなければ、列挙した異質のテクストは、どれもカフカの作品に似ているが、テクストどうしは必ずしも似ていない。この最後の事実は極めて重要である。《カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。ロバート・ブラウニングの「恐怖と疑念」はカフカの物語の予告編になっているが、われわれがカフカを読んだことがあれば、この詩のわれわれの読みは著しく洗練され変更される。ブラウニングは自らの詩を、いまわれわれが読むようには読まなかった。「先駆者」ということばは批評の語彙に不可欠であるが、そのことばに含まれている影響関係の論争とか優劣の拮抗といった不純な意味は除去されねばならない。ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す(・・・・)のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ。》

 

ジジェク『オペラは二度死ぬ』

《かつてボルヘスは、カフカについてふれながら、作家のなかには彼自身の先行者を生み出す力をもった者がいるといった。これは、新たなクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によって過去が遡及的に再構造化されるという論理である。真に創造的な行為は、未来の可能性という場を構造化しなおすだけではない。それは、先行する偶発的な痕跡を現在に向かう痕跡としてあらたに意味づけながら、過去をも構造化しなおすのである。》

(註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。」

 

柄谷行人トランスクリティーク

《カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだ――に帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。》

 

中井久夫『徴候・記憶・外傷』「統合失調症の精神療法」

《過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。》

 

・T・S・エリオット「伝統と個人的な才能」

《一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。》

 

ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

《歴史をテクストと見なしさえすれば、現代の一部の作家たちが文学的テクストについて述べていることを、歴史についても言うことができる。過去は歴史のテクストの中に、写真版上に保たれているイメージに譬えられるようなイメージを置いてきた。写真の細部がはっきりあらわれてくるような強い現像液を処理できるのは未来だけである。マリヴォー、あるいはルソーの作品にはところどころに、同時代の読者には完全に解読できなかった意味がある。》

 

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』

ラカンはその著作の中で、時間のパラドックスに関連して、一度だけSFに言及している。すなわち最初のセミネールで、症候が「抑圧されたものの回帰」であることを説明するために、時間の逆行というノーバート・ウィーナーの隠喩を用いている――

 

  ウィーナーは、それぞれの時間的次元がたがいに逆向きに進行しているような、二人の人物を仮定する。たしかにこのことにはなんの意味もないが、こんなふうにして、なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において。どちらか一方が他方に向けてあるメッセージ――たとえば四角形――を送ったとすると、逆方向に向かっている人物には、四角形が見える前にまず四角形が消えるところが見えるだろう。われわれもまたそれと同じものを見ているのだ。症候ははじめわれわれの前に一つの痕跡としてあらわれる。その痕跡はあくまで痕跡のままでありつづけ、分析がかなり先まですすみ、われわれがその意味を実現してしまったときにはじめて理解されるのである。(Lacan『フロイトの技法論』)

 

 したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。このような捉え方は、無意識が本質的に想像的(・・・)なものであることを示唆している。無意識は、主体の歴史の「象徴的発展に同化されえなかった想像的固着」からなるのである。したがって無意識とは、「象徴界の中で実現されるであろう何か、より正確には分析における象徴的発達がなされたときには実現されてしまっている(・・・・・・・・・・・)であろう何か」である(同上)。したがって、「抑圧されたものはどこから回帰するのか」という問いにたいするラカン的な答えは、逆説的ながら、「未来からである」ということになる。症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘、発見されるのではなく、遡及的に構成されるのだ。つまり、分析が真実を生み出すのである。真実とはすなわち、症候にその象徴的位置と意味をあたえるシニフィアンの枠組である。われわれが象徴秩序の中に入るやいなや、過去はつねに歴史的伝統という形であらわれ、それらの痕跡の意味はあたえられない。その意味は、シニフィアンのネットワークの変容にともなってつねに変化しつづける。歴史的断絶が起き、新しい支配的シニフィアンが出現するたびに、そのことが遡及的にあらゆる伝統の意味を変化させ、過去の物語を構造化し直して、その物語がまったく新しいふうに読めるようにするのである。

 だから、「なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだ――ただし、まったく異なる領域において」。われわれは「追越す」ことによって、他者の中に、ある知識――われわれの症候の意味に関する知識――が存在していることをあらかじめ仮定するが、「未来への旅」とはまさにこの追越しのことに他ならないのではあるまいか、したがって、転移(・・)そのもののことに他ならないのではあるまいか。その[われわれが他者の中に仮定する]知識は幻想である。なぜなら、それは実際には他者の中に存在しているわけでもないし、他者が実際にそれを所有しているわけでもない。その知識は、われわれの――主体の――シニフィアンの働きによって後から構成されたものである。だがそれは同時に、必要不可欠な幻想である。なぜなら、逆説的だが、われわれは、他者はすでにその知識を所有しており、われわれはそれを発見するだけという幻想によってのみ、その知識をつくりあげることができるのだから。

 もし――ラカンがいうように――症候において、抑圧された内容が過去ではなく未来から回帰してくるのだとしたら、転移――無意識の現実(リアリテイ)の実現――はわれわれを過去にではなく未来に移動させなければならない。だとしたら「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならないのではあるまいか。この作業とはすなわち、われわれはシニフィアンの領域において、またその領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができるのだ、という事実をいわば幻覚的に演じてみせることである。

 過去は、シニフィアン共時的な網の中に取り込まれ、その中に入っていったときに、はじめて存在する。つまり、歴史的過去の織物=構造の中で象徴化されたときに存在する。だからこそ、われわれはつねに「過去を書き換えて」いるのである。つまり、一つ一つの要素を新しい織物=構造の中に取り込むことによって、それらの要素一つ一つに、それぞれの象徴的重みを遡及的にあたえているのである。この作業が、それらが「どのようなものであったことになる」のかを決定するのだ。オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集『真理という謎』の中に、たいへん興味深い論文が二篇ある。「結果はその原因に先立ち得るか」と「過去を変える」である。この二つの謎にたいするラカン的な答えは「イエス」だ。なぜなら、「抑圧されたものの回帰」である症候はまさにそうした原因(症候の隠された核、その意味)に先行する結果であり、症候に取り組むことによって、われわれはまさに「過去を変えて」いるのだ。われわれは過去の象徴的現実(リアリテイ)、すなわち長い間忘れ去られていた外傷的な出来事を生み出しているのだから。

 だとすると、SF小説の描く「時間のパラドックス」は、象徴的プロセスの基本構造、いわゆる内的な、内側に反転された8の字が幻覚的に「現実界(リアル)の中に出現」したものではないか、と考えたくなる。その基本構造とは、一つの循環運動であり、いわば一つの罠である。なぜ罠かというと、われわれは転移の中でわれわれ自身を「追越し」、われわれがすでにいた地点にいるのを後になって発見するという方法によってしか前進することができないのだ。パラドックスは次のような事実の中にある。――この余計な回り道、つまり、われわれ自身を追越して(「未来への旅」)、それから時間の方向を逆転させる(「過去への旅」)という余分な罠は、たんにいわゆる現実(リアリテイ)の中でこれらの幻想とは関わりなく起きる客観的プロセスにたいする主観的幻想/知覚ではない。むしろこの余分な罠は、いわゆる「客観的」プロセスそのものの内的条件・内的構成要素である。この余計な回り道をすることによってのみ、過去そのもの、すなわち事物の「客観的」な状態は、遡及的に、それがつねにそうだったものになるのである。

 したがって、転移は幻想だが、肝心なのは、われわれはこの幻想を迂回して直接に達することはできない、ということである。真理そのものからして、転移に固有の幻想を通じて(・・・)構成されている。「真理は誤解から生まれる」(ラカン)のである。この逆説的な構造がまだよくわからないようなら、SF小説をもう一つ例にとろう。ウィリアム・テンの有名な短編「モーニエル・マザウェイの発見」である。二十五世紀の優秀な美術史家が、歴史的に有名な画家モーニエル・マザウェイを訪問し、じかに(・・・)研究しようと、タイムマシンにのって現代にやってくる。マザウェイは、今はまったく評価されていないが、後に再発見されて二十世紀最大の画家と称されることになる。二十五世紀の美術史家はマザウェイ本人に会うが、彼は天才などではなく、ただのペテン師で、誇大妄想狂で、美術史家からタイムマシンを盗んで未来へ逃げてしまい、おかげで哀れな美術史家は現代に取り残されてしまう。そこで彼は仕方なく、逃亡したマザウェイになりすまし、マザウェイの名で、彼が二十五世紀にいたときに見た傑作の数々を描いた……。彼が探していた不遇の天才とは彼自身のことだったのである。》

  

<「源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)」>

 人形浄瑠璃寛延二年(1749年)十一月大阪竹本座。歌舞伎、宝暦七年(1758年)九月大阪嵐座。並木千柳(宗輔)、三好松洛作。『平家物語』『源平盛衰記』から脚色された全五段からなる時代物。今では二段目切「義賢最期」と三段目「御座船(「竹生島遊覧」)」、「実盛物語」が上演される。

 平治の乱源義朝(みなもとよしとも)を討った平家方はその首を後白河法皇に届けるが、平家の躍進を危ぶむ法皇は手厚く葬るよう命じ、源氏の白旗を義朝の弟、木曾義賢(きそよしかた)に授ける。清盛の上使が来訪、源氏の白旗を差し出せと命じるが、義賢が知らぬと突っぱねると、兄義朝の髑髏を足で踏めと迫った。義賢は兄の敵長田(おさだ)を斬り捨てる。義賢は百姓九郎助(くろすけ)に懐妊中の葵御前、九郎助の娘小万(こまん)に白旗を託し、武具は不要と素襖大紋(すおうだいもん)を身に着けて平家相手に奮戦したが壮絶な最期を遂げた(「義賢最期」)。

 

 九郎助は葵御前を伴って琵琶湖畔の九郎助住居に帰りついたが、小万は平家に追われて矢橋の浦で琵琶湖に飛び込み泳いで逃げようとした。折から平宗盛の御座船が竹生島参詣に遊覧中、同船していた斎藤(さいとう)別当(べっとう)実(さね)盛(もり)は小万を発見して船に救い上げたが。追手の船から「女が源氏の白旗を持っている。取り返せ」との声が届いた。飛騨左衛門が白旗を奪おうとしたので、実盛はとっさに白旗を持っていた手を水中に切り落とした(「御座船」)。

 

 九郎助の女房小よしが綿を繰っているところへ甥の仁惣太がやってきて、この家に葵御前が匿われているだろうと探りを入れるが、小よしは追い返す。葵御前が行方知れずになった小万を案じるところへ九郎助が孫の太郎吉と戻ってきて、湖畔で見つけた白絹を握った人間の片腕を見せた。太郎吉が指を開くと、白絹は源氏の白旗。一同は小万の腕ではないかと不安を覚える。

 そこへ平家の武将斎藤実盛と瀬尾十郎兼氏が葵御前詮議のためやってきた。九郎助は知らぬと突っぱねるが、実盛は甥の仁惣太が訴人した事実、平家の威光には逆らえぬ、さらに生まれる子が女なら助かると諭した。九郎助も諦めて出産するまで待って欲しいと懇願するが、瀬尾は胎内まで詮議すると息巻いた。

 葵御前が出産したと、小よしが錦に包んだ水子を持ってきた。実盛が何とか子を助けようと思いながら包みを開くと、中には女の片腕が入っていた。実盛はその腕を見てハッとし、驚き怒る瀬尾に向かい中国の故事に同じためしもあると言いくるめ、申し訳は自分がすると言い切った。瀬尾は冷笑し、帰ると見せて裏に潜んだ。

 実盛は葵御前と九郎助夫婦に向かい自分は平家に仕えているが元は源氏、旧恩を忘れていない、片腕は自分が矢橋の船中で切り落とした覚えがあると言い、確か名は小万と言ったと、事の次第を語る(「実盛物語」)。

 宗盛公の竹生島詣での帰途、口に白絹を咥えて泳いでくる女を見付けて助けあげたが、同船していた飛騨左衛門が白旗を奪い取ろうとしたため、白旗が平家に渡れば源氏は埋もれ木になると思い、非情ながら女の片腕を湖水に斬り落としたと物語る。

 近所の衆が小万の死骸を運んでくる。一同の愁嘆を見た実盛は、甲斐甲斐しい女だから、まだ腕に魂が残っている筈だと、片腕に再び白旗を持たせて死骸に繋ぐと小万は蘇生し、白旗が御台葵御前の手に戻ったことを知って喜び、太郎吉に言いたいことが…と言ったきり息絶えた。九郎助は小万が言いたかったのは筋目のことだろうと察し、実は小万は夫婦の間の子ではなく拾い子で、懐には金刺という銘を彫付けた合口(あいくち)と平家某の娘という書付があったと語った。

 俄に葵御前が産気づき、若君が誕生した。父義賢の幼名を貰って駒王丸と名付けられた。後の木曽義仲である。九郎助は太郎吉を駒王君の家来にしてほしいと頼み、実盛は小万の手に因み手塚太郎光盛と名付けた。葵御前は小万の父は平家ゆえ清盛の子であるかも知れず、成人して一つの功をたてた上でのことと言う。瀬尾が戻ってきて、駒王君誕生を平家に報告する、この女が白旗を奪ったのが憎いと小万の死体を足蹴にした。それを見た太郎吉は母の形見の合口を手に瀬尾に向かうと、意外にも瀬尾はかわさず、瀕死の痛みを堪えながら葵御前に「太郎吉は平家譜代の侍瀬尾十郎を討ち取った功で若君の家来にして欲しい」と懇願した(瀬尾のモドリ)。おどろく一同に向かい、実は小万は自分が若い頃に捨てた子であると告白した。瀬尾は太刀を抜くと太郎吉に持たせて、自らの手で首をかき斬る。

 太郎吉は勇みたち、実盛に親の敵と詰め寄るが、実盛は今討たれては情と知れて手柄にならぬ、若君と共に信濃へ逃れ、成人してのち義兵を挙げよと諭し、家来に馬曳けと命じ、平家に注進すると駆けだした仁惣太を討ち取った。太郎吉も綿繰り機に跨り(「綿繰馬」)実盛に向かう。九郎助は太郎吉が成人した時には実盛は老人になっていると指摘すると、実盛は「髪を黒く染めて勝負を遂げる、坂東声の首を取ったら池の水で洗ってみよ、戦の場所は北国篠原」と未来の戦いを予見して去っていく。

 

 

         *****参考または引用文献*****

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま文芸文庫)

文楽床本「第一七五回文楽公演 源平布引滝(平成二十三年五月」(国立劇場

戸板康二他『名作歌舞伎全集第四巻 源平布引滝』(東京創元新社)

ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

スラヴォイ・ジジェク『オペラは二度死ぬ』中山徹青土社

中井久夫『徴候・記憶・外傷』(「統合失調症の精神療法」所収)(みすず書房

柄谷行人トランスクリティーク』(岩波書店

*T・S・リッオット『エリオット選集第一巻』(「伝統と個人的な才能」所収)吉田健一訳(弥生書房)

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

 

文学批評 「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

  「須賀敦子の『アルザスの曲りくねった道』を巡って」

 

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 須賀敦子は、『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)の五冊を生前に出版している。数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』『供述によるとペレイラは』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳したが、その前の一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版していた。さらに遡れば一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』『アッシジでのこと』などを執筆していた。

 作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集の詳細な年譜などによれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年には『アルザスの曲りくねった道』を構想しはじめ、翌一九九六年四月にアンゲロプロス監督映画『ユリシーズの瞳』を観てすぐにアルザス取材を編集者鈴木力に相談、五月には「私にとってはじめての虚構の人たちをつくることに、怖さと愉しみが半々で、なんとなく浮き立っています」と鈴木宛ての手紙に認める。六月、『ミセス』に『旅のあいまに6 Z――』として、創作ノートの女主人公「オディール・シュレベール」をなぞるような「オディール・ゼラー」について、素描のような乾いた文章を発表。九月にアルザスを編集者鈴木力と歩き回り、十月には序章を書き始めた。しかし十一月に癌の告知を受け、年明け一九九七年一月に入院となって体調すぐれず、七月、草稿三十枚ほどを鈴木に手渡す。一九九八年二月、見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったが、三月二十日に帰天。享年六十九歳。ついに小説『アルザスの曲りくねった道』を書き終えること叶わず、創作ノート1~7と未定稿約四十枚が残された。

 須賀の書かれなかった小説については、全集やムック本で解説されている。全集では第三巻(『ユルスナールの靴』『時のかけらたち』『地図のない旅』『エッセイ/1993~1969(「古いハスのタネ」収録)』)の堀江敏幸解説「夕暮の陸橋で」、第八巻(『書簡』『『聖心の使徒』所収エッセイほか』『荒野の師父らのことば抄』『ノート・未定稿(遺稿『アルザスの曲りくねった道』収録)』『年譜』)の松山巌解説「すべてが恩寵なら、あらゆる時代は、恩寵の時なのです」、他には湯川豊須賀敦子を読む』の「第六章 信仰と文学の間」、『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』の鈴木力「一九九六年九月、最後の旅」、池澤夏樹アルザスに着くまでの道」などがある。

 

アルザスの曲りくねった道』がどのような作品を目指していたかは、創作ノートからおおよそ窺える。

ノート1[太字は手書きで挿入された部分]

 アルザスのまがりくねった道

 アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に漠然と着想を得たものです。旅、人間が生きるということ。(アンゲロプロスの他の映画も、もういちど、見なおしてみるつもりです)

 Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。

「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。

 Zの肉体的特徴。性格。きれいな少女ではなかった。三人、年齢のはなれた姉がいた。一九一〇年代に少女であったということ。宗教的背景。土地の。家族の。

 (1909年生まれ。)→1920年に一一歳/黒ブチの眼鏡、白髪まじりのボッブ/スカートにブラウス/あるいはとっくりえりのセーターにカーディガン/パンプス? 猫背

 それを書いてゆく「わたし」。反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス。

 彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」。アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい。タブッキの『ペレイラが供述したこと』

 それから彼女が修道女として送られたリヨンという都市、フランスのなかでの特異な歴史、絹をとおしての日本とのつながりがあってもいい、ローヌとソーヌ川の話、どこの山から、どういう平野を通って、どこの海に流れこむかということを書く。

 彼女の戦争時代のこと。「わたし」の戦争時代。

 戦後、日本に派遣された話。

「わたし」の戦後。

 日本という国について、それから日本から見たフランス。

 第一次世界大戦から、第二次世界大戦にかけて、さらにその後のカトリックについて。

 私が現実に知っていた彼女とはずらせて、たとえば、シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく。内面の彼女と、外面の彼女のずれ。

 彼女の読書。大学は出ていない。バカローレアだけ。とくに、ペギー。

 そこから、ムニエやエスプリの運動など。「わたし」がアッシジで出会ったダニエル。

 シモーヌ・ヴェイユの博学はないけれど、それから、たとえばユダヤ人に対する偏見などもあるのだが、Zはすこしずつ、日本に来たことで文化の相違などについて理解してゆく。

 そして、さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる。リヨン。

[欄外の手書きメモ]

 ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー

歴史の背景をいくつかの本(たとえば、Flandreへの道とか――Claude Simon)から抜く

 負ける戦争の側から

 修道女たちが誰に(修練期に)指導されたかで、ほとんど生き方が変るということ。

 ほんとうはフランスのカトリシズムに惹かれるのだけれど、それはフランス人のためのものだということが(やや?)はっきりしている。フランスの若い人たちが腕を組んで足をひらいて、ミサにあずかっている姿勢を美しいと思うのだが――》

 ノート2、3、4にはヴェトナム(パリ大学で勉強していた頃、フランス植民地だったヴェトナム出身の女性が多くいた(『旅のあいまに』の『インセン In-seng』、『遠い朝の本たち』の『星と地球のあいだで』とエッセイ『マドモアゼル・ヴェ』に登場する聖心大学初級フランス語教師マドモアゼル・V(ヴィ)はサイゴンから来た人だった、『ヴェネツィアの宿』の『カラが咲く庭』にはヴェトナムのダラットの修道院にいたマリイ・ノエル院長と、精神の病気だったヴェトナム人修道女テレーズとのローマでの出会いが語られている)の記述。

 ノート4には、次の重要な言説がある。

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》

 ノート5、6はZ=オディールのプロフィール確認、7は聖女オディール伝説について。

シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」の二つの「芯」を胸に留めておきたい。

 残された「未定稿」は、序章のさらに序といったところで、あくまでも備忘録的なスケッチにすぎず、須賀らしい文体の香りをまだ纏っていない。

 

 須賀が『ヴェネツィアの宿』を他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるに違いない。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と発言したぐらいにすぎない。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験だった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意すべきである。

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

 ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』という一九七八年十月のコレージュ・ド・フランス講演録がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。

《『失われた時』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。》

 プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時を求めて』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 そして、バルトはプルーストから<私>のことへ移ろうとする。

《私がプルーストの作品・生涯から、小説(・・)と評論(・・)との矛盾を解消しうる――ともかくプルーストにはそれを解消することができた――新たな論理というテーマを取り出したのは、このテーマが私個人に関わるものだからです。なぜか? それをこれから説明したい。ですから、これからの話は<私>のことです。<私>とは、ここでは重く解されねばなりません。それは、一般読者の滅菌された代理人ではなく(代理とはすべて毒にも薬にもならぬ滅菌化だ)、良きにつけ悪しきにつけ何人とも置き換えることのできない者にほかならない。内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っているのです。》

 

 一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語った『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』では、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外に行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違うが、『明るい部屋』の写真をとおしてのバルトの母との思い出は、旅のむこうの声をとおしての須賀の母との思い出と通じあうものがある。バルト『明るい部屋』の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。》

 

「私」と「母」以外に「固有名詞」をもった人物(川端風の『白い方丈』の竹野夫人、モラヴィア風の『レーニ街の家』のカロラ、グイード、キアラ)が登場することから、須賀の『ヴェネツィアの宿』は「短編小説集」と呼ばれても違和感がないだろう。

なかでも『カティアが歩いた道』は、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語だが、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われていて、のちに『ユルスナールの靴』『トリエステの坂道』の空間と時間を、「靴」と「道」に託した文章に続いて、『アルザスの曲りくねった道』に流れこむ精神がみてとれる。『アルザスの曲りくねった道』の大河的全体像を想像するために、『カティアが歩いた道』に類似形を見ておくことは可能だろう。

 キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、「オディール・シュレベール」と多重映像化するカティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。なによりもここには、すでに小説のエクリチュールが、前半は自己省察的な明晰な文体で、後半は川端小説のような美しくも切ない抒情をともなって存在している。

 

 パリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、部屋のルームメイトはめまぐるしく替ったが、ドイツのアーヘン(ドイツ最西部で、ベルギー・オランダの境界に位置し、フランスとの境に位置するアルザス=ロレーヌと文化的、歴史的複合性は似ている)から来た「カティア・ミュラー」は子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだった。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。

 道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 松山巌による年表(『須賀敦子全集 第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れないのが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという虚構の名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、とさえ思われてくる。もはや、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、虚構の人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実、時系列の正確性を詮索、探究することは意味がない。

 

 再度ロラン・バルトだが、遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』で、小説的な嘘について書いている。

《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 しかし須賀敦子は、愛する父や母や知人を「小説的な嘘」をまじえて書くことによって、「愛するものについて語りそこなう」ことはなかった。『アルザスの曲りくねった道』の創作ノートには、なるほど「わたし」が頻出する。さきに引用したノート1だけでも、「彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く」「それを書いてゆく「わたし」」「反戦の理論として、また、西洋に憧れて宗教をえらんだ「わたし」が、人間としての生き方に目ざめてゆくプロセス」「彼女の生家をたずねてアルザスに行く「わたし」」「「わたし」の戦争時代」「「わたし」の戦後」「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」。しかし、ここでの須賀の「わたし」は自伝的なそれとは違うし、「私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージ」とも違うだろう。

 

 バルトは『長いあいだ、私は早くから寝た』でダンテを語ってから、<私>のことに戻ってくる。

《ダンテは(またも有名な冒頭、またしても決定的典拠ですが)その作品[『神曲』]をワレラガ(・・・・)人生ノ道(・・・・)ノ半バニシテ(・・・・・・)……」と書き始めています。一三〇〇年、ダンテは三十五歳でした(彼はその二十一年後に死去)。私はそれよりはるかに歳をとっていますし、私に残されている余生が生涯の半分になるということはもはや決してありますまい。そもそも「われわれの生涯の半ば」というのが算術上の地点でないことは明らかで、私がこうしてお話している時に、どうして私の人生の全体の長さを知って、それを二等分することなどできましょう? むしろこれは、意味上の地点であり、おそらくは遅きに失するのでしょうが、新たな意味づけへの呼びかけ、変身の欲求が――人生を変えたい、過去を絶って新たに創始したい、ダンテが偉大な先導者ウェルギリウスの導きで暗キ森(・・・)のなかへと入ったように、入門者として指導に服したいという欲求が(私にとって、少なくともこの講演のあいだ、先導者はプルースト)――不意に私の人生に生じる瞬間のことをいうのでしょう。年齢とは、肝に銘ずべきことながら――肝に銘じるべきだというのも、それほどまでに誰しも他人の年齢に無関心でいるからで――年代的与件、ひと続きの歳月であるというのはごく部分的なことにすぎません。実際にはさまざまな年齢の区分、仕切りがあって、われわれはいわば人生を水門から水門へと経巡っていき、その航路の何個所かには、いくつか閾、段差、衝撃がある。年齢とは、漸進的なものではなく、突然変化するものなのです。それゆえ自分の年齢を見つめることは、その年齢がかなりの年配である場合、[“まだまだお若いじゃありませんか”といった]好意的な抗議をひきおこすはずの愛嬌などではなく、むしろ自発的な責務であって、この年齢にあって奮い立たせようという現実の力は何なのか、と問うべきなのです。そんな問が最近になって突然現われ、それがために私には現在が「私の人生の道の半ば」に当たる気がするのです。》

(あまり知られていないが、須賀はダンテ『神曲』の講読会を数年続け、人知れず翻訳も試みていた。)

《なぜ今がそうなのか?

「残された日が数えられる」、緩やかとはいえ不可逆な秒読みが始まる、そんな時間がやって来る(それこそ意識の問題だ)。自分が(・・・)死を免れないことは知っていた(・・・・・)(聞く耳をもった時から皆にそう言われてきた)が、突然、自分がそうなのだと感じる(・・・)(これは決して自然な感情ではない、自然なのは自分が死ぬことはないと思い込んでいることで、そこからあれほど多くの軽率な事故が起きている)。この明々白々たることが、それが身に滲みて体験された途端に、辺りの様相を一変させてしまう。何としても自分の仕事にひと区切りつけなければならないのだが、その仕切りの輪郭は、不確かとはいえ、もう出来上がっている(・・・・・・・・・・)ことが分かっていて(ここが新たな意識)、最後の仕切りなのだ。いやむしろ、仕切りは出来上がっていて、もはや<仕切りの外>はないというわけで、自分がそこに入れこもうとしている仕事がいわば厳粛なものに思えてくる。死に脅かされていた(あるいは、そう信じていた)病身のプルーストさながら、われわれは『サント=ブーブに反対する』のなかに概略引用されている聖ヨハネの言葉を見出すことになるのです――「まだ光のあるうちに仕事をせよ」と。

 それにまた(前のと同じ時期ながら)、自分のしてきたこと、仕事、著述が、同じことの繰返しとなる運命に思える時期がやって来る。何たること、相も変らず死ぬまで、私はさまざまな<主題>について論文を書き、講義や講演をしていくのか、その主題がほんの僅かに変わるだけで!(この<について>というのが私はいやなのです)。こんなことを感じるのは残酷なもので、私にはあらゆる新たなもの(・・・・・)、さらに言えば(・・)冒険(私は<突如として起こる>こと)への権利喪失を宣せられるに等しいからです。私の未来が、死に至るまで、まるで同じものをつなげた<ひと続きの列>に見えてくる。》

(バルトは当時六十二歳、二年後の一九八〇年三月に交通事故による不慮の死を遂げた。)

《最後に、ある事件(もはや単なる意識ではない)に遭遇することもあり、それが少しづつ堆積した土砂のような仕事に目印をつけ、切り込みを入れ、分節化し、そして私が「人生の半ば」と呼んだあの突然の変身、様相の一大転換を決定づけることになる。(中略)プルーストにとっての「人生の半ば」とは、生活の変革、新たな作品の創始がなされたのは更に数年後のことにすぎないとしても、間違いなく母親の死(一九〇五年)だった。残酷な喪、唯一の、何ものにも還元できないものとしての喪、私にはそれがプルーストの語っていた「個人の頂き」を形成しうるものに思えるのです。遅まきながら、このような喪が私には人生の半ばになることでしょう。おそらく「人生の半ば」とは、死がもはや単に恐ろしいというのではなく、現実であるということを発見する瞬間以外の何ものでもないのです。》

(バルトの母は、この講演の一年前、一九七七年十月に亡くなっている。)

《こうして辿ってくると、突然つぎのような明白な事実を思い知らされます。一方で、私にはもはやいくつもの人生を試みる時間がない。私の最後の人生、新たな人生(五十一歳にして二十歳の娘と結婚し、博物誌の新たな著作を書かんとしていたミシュレが言ったのは「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」)を選ばなくてはならない。他方で私は、同じことの繰返しによる仕事の磨滅と喪失とによって立ち至らされているこの闇の状態(中世神学でいう修道士の鬱(・)状態)を選ばなくてはならない。ところで私には、ものを書く人間、書くことを選んだ者にとって、新たな書き方の実践を発見する以外に<新たな生>はありえないと思えるのです。教養、理論、哲学、方法論、信条を変えることは、華々しく見えるが、実際にはごくありふれたことで、そうするのは息をするようなもので、熱中し、熱が冷め、また再び熱中するだけで、知性が世間の驚嘆を気にかけるかぎり、理知的改心は知性の衝動そのものにほかならない。しかし、新たな形式を探求し、発見し、実践すること、これこそは私がその決定的要因を挙げた新生(・・)に見合うものだと、私は考えるのです。》

 

 バルトは、自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望みを語ったあと、トルストイ戦争と平和』とプルースト失われた時を求めて』のある挿話を読み返すという読書体験と、それによる教訓の話をする。

《この、私の道半ばにして、この私という個人の頂きにあって、二つのテキストを再読する機会がありました(実は、あまりにしばしば読み返すために何時のことだったか申し上げられないのですが)。ひとつは、残念ながらもはや書かれることはないほどの大小説、トルストイの『戦争と平和』を読み返したこと。ここでは作品についてではなく、ある深い感動のことをお話しします。この感動が私にとって頂点に達したのは、ボルコンスキイ老公爵の死に際して、彼が娘のマリヤにかける最後の言葉のところ、愛の弁舌(駄弁)を振うこともなく愛し合っていたこの二人の胸を死の間際になって引き裂く愛情の迸りのところです。二つ目は『失われた時』のある挿話を読み返した(ことでこの作品がここで出てくるのは、この講演の冒頭とは全く別の次元のことで、私が今ここで自分を一体化させようというのは話者(・・)の方にであって、作家にではない)、それは祖母の死の条りです。これはすみずみまでも純粋な物語である。私が言いたいのは、ここでは苦痛が(『失われた時』の他の挿話と異なり)何ら註釈の対象とならず、永遠の距離を生む、到来する死の残忍さが、間接的な事象や出来事(シャンゼリゼのあずま屋への立ち寄りや、フランソワーズの振う櫛の下で揺れる哀れな頭)を通してのみ語られているだけに、苦痛がここでは純粋であるということです。》

須賀敦子の場合は、シモーヌ・ヴェイユ体験、ダンテ『神曲』の講読会、『ユルスナールの靴』に結実したユルスナールの読書(『ハドリアヌス帝の回想』における「霊性の闇」「老い」、『黒の過程』の「異端者」「求道者」「放浪者」)、戦火のバルカン半島が舞台のアンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』に「自分さがし」「ヨーロッパ」「地つづき」「共通言語へのひりつくような渇き」を観たことだったに違いない。)

《この二つの読書体験、それらがいつも私の内に掻き立ててくれる感動から、私は二つの教訓をひき出した。まず確認したのは、これらの挿話を私が<真実の瞬間>として受けとっていることであり(そうとしか言いようがない)、突然、文学が(ほかでもない文学が)身を切られるような別離の悲哀、ある<叫び>と、完全に重なり合うのです。愛する者から遠く離れて、思い出なり予測なりで、別離を味わっている読者の肉体に、じかに、超越的なものが触れるわけで、まさにいかなる悪魔(ルユシフエール)が愛と死とを同時(・・)に創り出したのかと問いたくなる。この<真実>の瞬間は<レアリスム>とは何の関係もない(そもそも真実の瞬間など、どんな小説理論のなかにも見当たらない)。(中略) 第二の教訓、私が小説とのあの熱っぽい接触からひき出した第二の勇気と言うべきもの、それは書くべき作品が(こう言うのも、私が自分のことを<書きたいと思っている者>と見なしているからだが)、ある感情をそうとは述べずに(・・・・・・・・)積極的に提示するのを認めるべきだということです。》

小説が持つ能力を――情愛あふれる、愛する力を――発展させ、果たしてもらいたい三つの任務を説明した後でバルトは、《ニーチェ流の類型学からすれば、小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではないのです》と述べ、《そしてここでまた私は、最後になりますが、方法論に行き当たるのです。私が実際、もはや何かについて(・・・・)語る者の立場ではなく、何かをつくる(・・・)者の立場に身を置く――生産物を研究するのではなく、生産そのものを担いたい。言述についての言述は廃棄したい。世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる》と言う。

 バルトの「世界は、もはや対象という形ではなく、書くという形、つまり実践という形で私のところにやって来ることになる」に、須賀の言葉「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」が、「小説(・・)は芸術(・・)の側に位置するのであって、司教職(・・・)の側に身を置くのではない」という信頼で重なりあう。

 

 ここで、創作ノートの「シモーヌ・ヴェイユを芯にして、つくってゆく」と「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」を思い起こしたい。

 一九七〇年ごろのシモーヌ・ヴェイユ体験について書かれた『本に読まれて』の『世界をよこにつなげる思想』(初出はヴェイユ『カイエ4』月報(一九九二年))にはこんな文章がある。

《一九七二年に出版された筑摩叢書の、リースというイギリス人の書いた『シモーヌ・ヴェーユ』(山崎庸一郎訳)は、刊行年からみて、私が夫の死後イタリアから帰って、もういちど生活の方向をたてなおそうとしていた時代に読んだらしい。ポスト・イットなどという、糊のついた便利なしおりがまだ市販されていなくて、じぶんで細く切った白い紙に、要点やら感想を書きいれたのが、降伏の旗のようにあちこちにはさんである。「多くのものが教会のそとにあります。わたしが愛していて棄てたくないと考えている多くのもの、また神の愛する多くのものがそのそとにあります。わたしが愛するのでなければ、それらのものは存在しないはずだからです。最近の二十の世紀をのぞいて、過去の巨大な拡がりをなす、すべての世紀、有色人種の住むすべての国々、白人の国々におけるすべての世俗的な生活、その国々の歴史のなかで、マニ教やアルビジョワ派のように異端として非難されるすべての伝統、ルネサンスから出て、あまりにもしばしば堕落しているとしても、全然無価値とは言いがたいすべてのもの、そういうものが教会のそとにあります」

『神をまちのぞむ』からのこの引用は、このしるしをつけた二十年まえから今日にいたるまで、そしておそらくは私の生のつづくかぎり、ずっと私のなかで、ヴェイユに大きく呼応するはずの部分である。教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える。》

 

 アッシジと言えばヴェイユ『神をまちのぞむ』の有名な一節を思い起こすのが、ヴェイユを知る者なら自然だろう。ユダヤ人迫害を激化するナチス・ドイツ支配下のフランスを逃れたいという両親の嘆願を受入れ、アメリカへ渡る前に、ヴェイユ自ら「霊的自叙伝」と呼んだ、ペラン神父への長い手紙の一節にこうある、《一九三七年には、アッシジで素晴らしい二日間を過しました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀のロマネスクの小聖堂に、その類のない清純な素晴しさの中に、ひとりでおりましたとき、そこは聖フランチェスコがたびたびお祈りしたところですが、わたくしは何か自分よりも強いものに強いられて、生まれてはじめてひざまずきました。》

 しかし、ヴェイユは丘を降りて行き、最後まで洗礼を受けず、教会の入口にとどまって、聖職者となることを拒んだ。

 一九五七年に須賀が『聖心(みこころ)の使徒』に掲載した『アッシジでのこと』には、若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな若い文体ではあるけれども、熱く素直に語られている。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

 サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(中略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

 庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。》

 須賀は恥らいから秘すかのようにヴェイユのことに触れない。一行空けて、後半が待っている。

《丘を降りて汽車にのってからも、あれから三年たった今も、私には、あの時の時分のおどろきがわすれられない。(中略)夏休みも半ばをすぎ、パリに帰る日が近づいたある夕方、私は、カムパアナ家の人たちと、おわかれにアッシジの丘をのぼった。四月の雨の日の訪問からかぞえて八度目であった。私への名残りを惜しむかれらにくらべて、しかし、私の心は、もっと複雑だった。アッシジの町の後にそびえる、ロッカ・マジョオレの城跡のくずれかかった石の間を跳んで歩きながら、私は、ほんとうはどうすればいいのかわからないと思っていた。(中略)星が野が、町がこたえた。私たちのフランチェスコも、丘を降りて行った。だれでも一度は丘を降りなければならない。おまえのいのちは、この夏、ウムブリアの野にうまれた。うまれたばかりだから、わたしたちは大切にそだてた。しかし、もういいだろう。おまえにも丘をおりる時がきたのだ、と。月が登りはじめた。ひえびえとした九月の夜風が、荒れた城跡を白く吹きぬけて行った。もうあれから三年になる。あれ以来、まだ私はアッシジをたずねていない。私が丘を降りてからのはなしを、かれらは風のたよりにきいているかもしれない。そして、ひょっとしたら、いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ。》

 一九五七年の「いつ私が帰ってくるかも、知っているかもしれないのだ」は須賀の内部の深くにタネとして宿りつづける。実際、須賀はその後も何度かアッシジを訪ねている。創作ノートに「「わたし」がアッシジで出会ったダニエル」と記された一九六〇年三月のアッシジ行きは、(二年後に結婚する)ペッピーノ・リッカ宛書簡(岡本太郎訳、『須賀敦子全集 八巻』)で読むことができる。当時の須賀の人柄、自己省察、自覚、さまざまな思い、関心、感受性、悩み、苦しみ、愛の対象を見出せるので、長くなるが引用する(偶然にもダンテについて研究していたダニエルについては『コルシア書店の仲間たち』にも時系列に差異はあるものの「共同体」について語り合った場面がある)。須賀ははじめから「二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていた」のであり、それをどう乗り越えるかが長年の宿題だった。

 

三月八日 ローマ

 親愛なるペッピーノ、

 お手紙ありがとう、アッシジで受けとりました。

 さて、それではアッシジの滞在記です。私は三月二日、火曜日の夜に着きました。前に(たしか)あなたにお話ししたように、この町に行こうと決めた理由の一つは、シャルル・ド・フーコー神父の友愛会の精神についてさらに知り、理解を深めたかったからでした。そして「イエスの小さい姉妹の友愛会」があることを知っていたので、できれば彼女たちに会いたかったのです。(中略)

 夕食のテーブルで私は若いフランス人女性のダニエルと知り合ったのですが、彼女はパリの高等師範学校の学生で、ダニエル―神父の友だちで、今は「神曲」におけるダンテの愛の概念についての論文を書くためにローマに滞在中なのです。私たちはすぐに話はじめました。ああペッピーノ、私が心を開いて話のできるフランス人に出会うのはそうそうあることではないこと、おわかりでしょう。ひどい返事をしたり、いいかげんなことをたくさんいってしまうことがよくあるのですが、それも、彼らの、ある種の優越感に支えられた過度の好奇心に苛立たされるからなのです。でもダニエルとはまるでそんなことはありませんでした。夕食のあいだじゅう打ちとけて話ができたのです。私たちはおやすみのあいさつをいって、私はこの思いがけない出会いにうれしくなっていました。

 ダニエルにとってアッシジに来るのははじめてでした。そこで翌日私は案内役を買ってでたのです。私たちは一緒にサン・ダミアーノ教会に向かいました。小さい姉妹会のことをいってみますと、彼女も直接会ったことはなく、訪ねてみたいということでした。二人でなら思い切ってやってみられるかもしれません。

 大切なペッピーノ、ここで、アッシジに発つ数日前に起きた不思議な体験のことをお話ししたいと思います。体験、と私は呼んでいるものの、実際はただの夢なのですけれど。

 あたりはもうすっかり春です。どの丘も鮮やかな緑におおわれていて、桃の甘い花はまるでうれしさのあまり泣いているかのようです。私はひとり満ち足りた思いで歩いていました。

 すると突然、丘の上のひどく貧しい小屋が目に入りました。その脇には鶏小屋がありました。

 私はたずねました――あそこには誰が住んでいるかしら? 声が答えました――小さい兄弟たちだよ。

 私にはまるでショックのようなものでした。土の匂いを、鶏小屋や、桃の花や、草の匂いと一緒に感じたような気がします。そしてそういった一切が、彼らの生活の素朴さ、質素さのイメージであり、その根源的なかたちであるかのように私には思えたのです。それと同時に彼らの貧しさと、私の傲慢さを、私の自分自身の粉のような乏しさにもかかわらず、常にあらゆるものを批判しようとしてきた、どうしようもなく尊大な態度をはっきりと思い知ったのです。

 それでもこの自覚は不愉快なものではありませんでした。むしろ私はうれしく感じていました。こうしたことをすっかり理解することができてうれしかったのです。私は泣きだしました。苦い涙ではなかったことをよく覚えています。まるで胸を張って泣いているようでした。この、アッシジの平野を流れる小川のひとつのように。そしてあまりにもひどく泣いたおかげで目が覚めてしまいました。

 姉妹たちのもとでの冒険にもどりましょう。私たちは一時間ばかりいたように思います。時間を無駄にさせてしまってとても恥ずかしく感じていました。でも同時にすっかり魅了されてしまっていて、いとまを告げられずにいたのです。

 昼食の時間に間に合うように急いで道を上ってゆかなければなりませんでした。歩きながらダニエルはいいました。

 ねえ、あなたも彼女たちみたいになってみたいという気にならなかった? あんな純粋な生活を送ってみたいって?

 ええ、たしかに。でもね、小さい姉妹会の生活をそのまま送るというのは私のするべきこととは少しちがうように思うの。彼女たちの精神性は私になにか決定的なものをもたらしているのはたしかなのだけれど、私が生きるべき世界は彼女たちのとは少しちがうように思えるのよ。ダニエル、あなたはどう?

 私もよ。(中略)

 ダニエルは間違いなく、今までに私が会った若い女性の中でも、もっとも聡明な一人です。彼女の論理の明快さ、考える筋道の厳格さには本当に感心させられましたし、しかもとても気持ちの良い人なのです。それに私は彼女のうちに、あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思いがあることに気づきました。私はローマに帰って来ましたが、数日のうちには彼女ももどってくるはずです。私たちはできるだけ会って、一緒に勉強をしようと約束しました。あなたもいつか彼女に会って、多くのことを理解できるように手を貸せるのではないでしょうか。(中略)

 大切なペッピーノ、私に良きアッシジ滞在を願ってくれた、心から感謝します。たしかに、たくさん人に会ったりせずに、もっとゆっくり過ごすつもりでした。でもごらんのとおりまったくちがう結果になりました。でも、本質的なことは、私が再度、自分の毎日の歩みの方向を確認できたということなのです(ダニエルには、やっと生きはじめたように思う、といいました……)。(後略)

 またのお便りお待ちしています。あなたの、               敦子》 

 

 そして四十年後、アッシジという場所ではないが、より文化、宗教、戦争、ネーション=ステートが混淆したアルザスという「はざま」の地に、「あらゆる凡庸なことどもを乗り越えて、真の神聖さにたどり着こうとする大きな思い」で、「自分の毎日の歩みの方向を確認できた」成熟を芯に、白いハスの花を咲かせるために帰って来た。

 

《●CalvinoのBorges論にある、DanteのUgolinoの解釈

 現実

 宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて

 これを小説の芯にする》の「宗教の答えは一本だが、文学の答えはsimultaneousに多岐であり得ることについて これを小説の芯にする」とは、須賀が翻訳したイタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』で、カルヴィーノが、ダンテ『神曲』の「地獄篇」に登場するウゴリーノを論じたボルヘスの文章を次のように論じたことから来る。

《現実の時間や歴史の時間のなかで、いくつかの選択肢のまえに立たされたとき、人は、そのひとつを選び、他の可能性を排除して、これを失う。だが、希望や忘却の時間に類似する芸術の曖昧な時間においては、そんなことはない。そういった時間のなかにいるハムレットは、精神が正常であると同時に狂人でもある。飢餓の搭に幽閉されたウゴリーノは、愛する息子たちの遺骸を食し、同時に食さない。揺れうごくこの不確かさ、この不安が、ウゴリーノの本質なのである。そこで、ふたつの可能な苦悩にさいなまれるウゴリーノを、ダンテは夢に描き、これからの何世代もが夢みるのだ。》

 雑誌「新潮」一九九六年一月号にぽつんと掲載された『古いハスのタネ』は、ダンテから十九世紀英国詩人ホプキンズへと、「宗教と文学」の関係をヴェイユ『カイエ』を思わす断章で並置してゆく、須賀には稀な難しい文章だ。

 ダンテについては、《ダンテの『神曲』は、巨大な天幕のようにキリスト教が<普遍的な宗教>として、西欧人の思想と生活のすべてを蔽(おお)っていた時代に書かれた、西欧中世を代表する文学(・・)作品だ。作者は、人間とはどういうものか、なにを追究して生きるか、というテーマを、比類ない力づよさ、写実性をもって描きあげる。だが、ダンテがあまりなんでもないふうに宗教の話をするので、後世の読者は、いや、学者さえも、おもわず文学と現実、詩と宗教をとりちがえて混同することがある》から始まる。

《枠組はどっぷり中世的、キリスト教的であっても、知識の分化が行なわれなかった時代に生きたダンテが、なによりも野心をあおられ、興味をそそられたのは、百科辞典的な知識の集成を物語に織りこむことだった。同時に、人間そのものを、また人間の知識や欲望を根底でささえているエネルギーについての話を、物語誌としてどのようにまとめ、どのような詩形式に表現すればよいか、といった巨視的な意図に、彼は支えられていた。

                      *

 ダンテが、彼の分身を最後には神の実在に沈潜させるというかたちでこの作品を結んでいるのも、知識の総合性を重んじた中世らしい発想だ。断片性を価値としてみとめる慣習は、近代になって生れた。

 それでも、あの有名な神秘の薔薇の白光に照らされ、歌にみちた<神によみせられるものたち>の幸福は、人類がかつて想像しえた、最高の歓喜の表現であることに変りはない。》

 須賀は、さきのウゴリーノの逸話を、トスカーナ育ちの友人が幼い頃、老農夫から語って聞かされた話として織りこみ、《現在の私たちが詩と呼び、宗教と呼ぶものが、ダンテの時代とは比べられぬほど、部分的で断片的であることに、私たちは気づく》、《一見、キリスト教にすべてが括られていたようなイタリアの中世に書かれたのではあっても、『神曲』は、すでに言葉の世界が、それとは別の山として、ひとり歩きをはじめたことを物語っている》という、自分の現在の思いに引きつけた重要な断章の後に、以下の一節と内心の吐露で結ぶ。

《『神曲』の地獄篇第二十六歌で、旅人ダンテはオデュッセウスに出会う。ダンテのオデュッセウスは、私たちの知っているホメロスの、ついには息子や妻のもとに帰りついてほっとするイサカの英雄ではなくて、道に迷ったまま、<老いて気も萎えた>オデュッセウスで、彼と彼の仲間たちを乗せた船はとうとう、<世界の果て>と中世人が信じていた、ジブラルタルの岩にさしかかる。(中略)

 それにしても、人間に許される以上を知ろうとした罪、その冒険に仲間を誘いこんだ罪で、地獄の最下層に閉じ込められているオデュッセウスと、宗教のみちびきとは別々に、太陽の光が射さない詩の世界にさまよい出たダンテとの相似性は見逃せない。ジブラルタルの岩の向こう側こそが、ダンテの文学がはじまる場であるように、私には思える。

                      *

 文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。》

 

 そして唐突に、吉行淳之介の短編小説『樹々は緑か』が紹介される。

《数日まえ、吉行淳之介の『樹々は緑か』を学生たちと教室で読んだ。あまり知られていない短編で、こんなふうに始まっている。

<陸橋の上で、伊木一郎は立止って、眼下に拡がっている日暮の街に眼を向けた>

 なんてやわらかな始まりだろう、疲れていたのだろうか。夕方の授業で、三十人ほどの学生がいて、そのなかの、五、六人はいつもいっしょうけんめい聴いていて、それがかえって私を不安にする。聞かれても、聞かれなくても、教師は不安だ。

 さて、伊木は三十三歳で、夜間高校の教師をしている。たぶん下町を見下ろすらしいその橋のうえで、彼は自分の気持を測っている。街を覆う靄のなかに、とても降りて行けない気分か、それともちょっと勇ましく降りて行ける気分か。私も、しじゅう、ふたつのあいだを揺れている。行けばいいのか、行かないほうが彼にとって無事で済むのか。(中略)

 小説がその先、どういう展開になったのか、鮮明な記憶はない。なんとなく終ってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈絡もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。

 これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独――それはとりもなおさず生の孤独なのだが――に、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。

 もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。》

 

 創作ノートに「アルザスの自然、政治的背景、それがたとえば先年のストラスブール文学者会議にかかわってもよい」と、[欄外の手書きメモ]「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」がある。

「先年のストラスブール文学者会議」とは、一九九三年の、アルザスストラスブールで「世界の叫び」という題の下に開催されたシンポジウムで、ジャン=リュック・ナンシースーザン・ソンタグジャック・デリダサルマン・ラシュディらが参加している。

「ジャン・リュック・ナンシー 朝日夕刊、2月3日 清水克雄インタビュー」とは、一九九七年二月三日朝日新聞夕刊の文化面、「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」のインタビュー記事「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」のことだ。須賀は、「ストラスブール文学者会議」の司会者だったアルザス育ちのジャン=リュック・ナンシー(スロラスブール大学教授)の声に、かねてからの「文学と宗教」への関心に加えて、戦争、希望、現実、神の不在に感応し、歴史的十字路であったアルザスを舞台に、「断片」を超えて「人間の尊厳」の下で総合的に書かれるべき、自らの小説の姿を野心的にだぶらせたのだろう。

《――科学文明への期待で幕を開けた二十世紀は、実際には戦争と強制収容所の世紀でした。民族紛争や貧困の問題も残されたままで、未来に希望が見えない状況があります。

「今世紀は破壊的で恐ろしい時代でした。教訓は、破壊や悲劇が未来のユートピアをめざすイデオロギーや、社会問題を解決しようとする計画によって起きたことでした。夢は破局に終わり、いまではだれも未来を信じなくなっています。その結果、私たちは二十世紀を幸福な時代として懐かしむことも、二十一世紀を夢見ることもできない状況におかれています。過去も未来も失ってしまった二重の喪失感があるのです」

――それが現在の人類の危機につながっているのですか。

「ヨーロッパでは、ローマ帝国が滅亡した時にも、ひとびとに大きな喪失感がありました。振り返ってみると、それは大きな歴史の一つの過程にすぎなかったのです。古い世界の秩序が崩れようとしているという意味では、現在も危機の時代といえますが、それは次の新しい世界が生まれる過程でもあるのです」

――新しい世界に希望を描くことはできますか。

「私は楽観主義者だとは思っていません。しかし、人類の将来については希望をもっています。人間が二十世紀の歴史から何も学ばなかったはずはないからです。ボスニアの戦争は確かにひどいものでした。しかし、民族浄化の危険に気づくことができたのは歴史に学んでいたからです。責任の追及は十分とはいえないが、ナチのホロコーストが見過ごされた時とは違っていたのです」(中略)

――現実の世界では、民族や宗教の違いをめぐる争いや暴力的な混乱が続いています。

「大きな時代の変化への恐れから、自分たちだけの狭い世界に戻ろうとする動きがあるのは確かです。平等や博愛といった言葉が中身のない空疎なものになっていることにも見られるように、危険な動きに対抗する思想がないという問題もあります。しかし、たとえば、民族にとらわれない開かれた歴史教育をめざす動きはフランスでも広がっています。二十一世紀の世界は開かれた方向に向かうと私は確信しています」

――新しい生きた思想や哲学が生まれないことには、知識人も責任があるのではないですか。

「もちろん責任はありますが、特権的な知識人が真理を教えるという時代は、間違った夢を信じた二十世紀の知識人とともに終わってしまったのです。新しい思想は、ひとがともに生きている現実に目を向ける中から生まれるはずです。それは知識人だけの役割ではないのです」

――新しい思想や哲学が生まれる可能性はあるのでしょうか。

「二十世紀の一番大きな出来事は、神が本当に死んだことだと私は思っています。神の死は十九世紀に宣告されていたけれど、影は残っていました。人間を超えた絶対的な神の不在は、人間の存在も変えてしまうのかもしれません。フロイトは人間は生まれていくものだと言っていますが、人間に代わる何かは、すでに生まれているのかもしれません」》

 

 プルーストには「決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです」とバルトは考察した。

須賀は、『アルザスの曲りくねった道』を書き始めることを念頭に、鈴木力への手紙に「ながいこと私のたゆたい・試行錯誤に、たぶんあきれながらもおつきあい下さりここまで待って下さったことについては、力さんをはじめ新潮社の方たちのご寛容に感謝の気持でいっぱいです。」と書き送った。

「文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」と言い、「教会の中か、そとか、というような性急な選択をすることはない、いまの私にはそんなふうに思える。それを決めるのは、おそらくは、私ではないはずだとさえ思える」と言う。

 バルトの「書きたいという欲求(・・・・・・・・・)」「内なるものが私の内で語りたいと欲し、一般性や科学と対峙して、その内心の叫びを聞かせたいと願っている」と同じく、右足にダンテ、左足にヴェイユという「歩き靴」を履いた須賀は、秘めた「生の孤独」のうちに時の天命が熟すのをずっと待ち、「さいごに、ユリシーズのように、彼女も出発点にもどる」。

「揺れ動く不確かさ」「思いの揺れ」「たゆたい・試行錯誤」を肯定的にとらえた須賀の白いハスの花『アルザスの曲りくねった道』は、ダンテの「神秘の薔薇の白光」と同じ輝きを放って「ジブラルタルの岩の向こう側」を照らすはずだった。

                          (了)

            *****参考または引用文献*****

*『須賀敦子全集 全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

湯川豊篇『新しい須賀敦子』(集英社

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『考える人 特集 書かれなかった須賀敦子の本』(新潮社)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

松山巌須賀敦子の方へ』(新潮社)

イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』須賀敦子訳(みすず書房

シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳(春秋社)

リチャード・リース『シモーヌ・ヴェーユ』山崎庸一郎訳(筑摩書房

*『朝日新聞 夕刊、一九九七年二月三日』(「未来へ! 二〇世紀の「知性」に聞く」「喪失感の時代越え 目覚める人類の自己意識」)

文学批評  「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

 「『ヴェネツィアの宿』でひらかれる須賀敦子の小説」

    

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 須賀敦子は、生前五冊の本を出版している。

 六十一歳で刊行した『ミラノ 霧の風景』(一九九〇年)からはじまって、『コルシア書店の仲間たち』(一九九二年)、『ヴェネツィアの宿』(一九九三年)、『トリエステの坂道』(一九九五年)、『ユルスナールの靴』(一九九五年)である。これらは、数年にわたって雑誌に書いた作品を一冊にまとめたものであったり、書きおろしであったり、十二か月の雑誌連載であったり、さまざまである。

 他によく知られた『遠い朝の本たち』『時のかけらたち』『本に読まれて』『イタリアの詩人たち』『地図のない旅』『霧のむこうに住みたい』『塩一トンの読書』『こうちゃん』は、死後の一九九八年から二〇〇三年までに世に出たものだ。

 須賀敦子は、イタリア文学の翻訳者としてさきに知られ、ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』『マンゾーニ家の人々』、アントニア・タブッキ『インド夜想曲』『遠い水平線』、イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウンベルト・サバウンベルト・サバ詩集』などを一九八五年から翻訳出版している。しかしもっと評価されるべきなのは、ずっとはやくの一九六三年から、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』、川端康成『山の音』、漱石、鴎外、一葉、鏡花などをイタリア語に翻訳出版することで日本文学を彼の地に知らしめたことだろう。さらに遡れば、一九五七年から一九六八年にかけて、限られたカトリック信者を読者とする『聖心(みこころ)の使徒』(日本祈祷の使徒会)という雑誌に、『シエナの聖女』、『アッシジでのこと』などのエッセイを書くことから、執筆活動は地味ながらスタートしていたといえる。

 須賀の作品は、しばしば「小説風の自伝的エッセイ」などと、たんなる「エッセイ」ですまない形容を重ねた表現で紹介されるが、その早すぎた晩年、須賀が小説を書こうとしていたのは知られるところだ。全集に収められた松山巌による詳細な年譜によれば、死が三年後に来るとは知りえなかった一九九五年ごろ、その意思、構想を知人に相談し、創作メモも残している。翌一九九六年九月には小説の舞台となるアルザス地方を歩き回り、十月には序章を書き始めた(未定稿が、創作メモとともに全集に収められている)。しかし、すぐに体調悪化、年明け一九九七年一月に入院となって、体調すぐれず、一九九八年二月には見舞いに来た松山巌に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と語ったけれども、三月二十日に帰天。享年六十九歳、ついに小説『アルザスの曲がりくねった道』を書き終えること、叶わなかった。

 

<『ヴェネツィアの宿』/プルースト

ヴェネツィアの宿』は、文芸誌『文學界』に一九九二年から一年間にわたって連載発表された『古い地図帳』に加筆訂正、単行本として一九九三年に刊行された。

十二篇からなり、『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』『寄宿学校』『カラが咲く庭』『夜半のうた声』『大聖堂まで』(初出時は『待っている人』)『レーニ街の家』『白い方丈』『カティアが歩いた道』『旅のむこう』『アスフォデロの野をわたって』『オリエント・エクスプレス』である。エッセイとして読むと、どうにもまとまりなくばらばらにみえるが、旅の宿、父のこと、母のこと、親戚のこと、少女時代のこと、留学時代のこと(ローマ、パリ)、キリスト者としての体験、修道女のこと、自分を探すこと、京都での不思議な話、知人との出会い、音楽、歌声、などのテーマが、夫・家族・親しい知人の死とともにあらわれては消え、父の逸話が円環構造になっていたりと、決して一本調子ではなく、建築に興味があった人らしく構造的なのがわかる。読み進めれば、物理的時間の流れのとおりではなく、場所もあちこちに飛ぶ。作品それぞれの中でもまた追憶に向かいがちだ。過去時制を多用した文体で時間、空間が自在に往き来する回想小説と思って読めば、その構成の美意識がわかろうともいうものだ。

 どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをつねに考え、口にしてきた須賀の文章は、あらすじを書いても抜け落ちるものが多すぎるので、なるべく文章そのものを引用しつつ、文体の考察を主に魅力の秘密を解く鍵を探しながら、読解を試みたい。

 

冒頭の『ヴェネツィアの宿』は本の全体と結末をよく構想したうえで、細部のエピソードにいたるまで意図をもって書きこまれ、のちのいくつかテーマを予兆している。人物の登場のさせ方がさりげないうえ、ときにドラマチックさも計算されているのは、連載時の題名が、本の最後の最後に登場する父の「古い地図帳」からとってきていることからも、あきらかだ。

 書きだしは、《シンポジウムが開催されるヴェネツィアの空港に着いたのは、正午ちょっとまえだった。》 現在に近い過去であるにも関わらず、遠い昔のように過去時制の末尾を持つ、柔らかなひらがなを織り込んだ息の長い回想の文体が紡ぎだされてゆく。フェニーチェ劇場の広場に面した宿に向かうが、その夜は歌劇場の創立二〇〇周年を祝うガラ・コンサートで、入れなかった人たちのために、スピーカーから舞台の音が中継されている。《デイバッグを背負ったままで、男の子の胸に頭をもたせて聞きほれている少女》、《頭をあげたままうずくまる金色の髪の青年》、《用意よく小さな金属製の折りたたみ椅子にこしかけている夫婦らしい白髪の男女》、《四、五人つらなっている女子学生ふうの一群》のいきいきした描写に続いて、早くも光と音による追想がはじまる。

《そのうえを光と音がゆっくりと流れていて、まるで、どこか遠いところの川底で夢を見ているようだった。

 魔法のように目前にあらわれたその光景と、それを包んでいる音楽が、忘れかけていた古い記憶にかさなった。ある夏の夕方、南フランスの古都アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、ロマランの茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。》

 しかし、客観と自己省察の人は、ただ甘いだけの思い出に流れこんではゆかない。身なりはヒッピー風だったが、歌声はしっかりした音程だった。《あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私は、あのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。》

 中世とつながった時間の糸。アヴィニョンの噴水からヴェネツィアの広場までの長い時間、そして、ヴェネツィアの広場からこれを書くまでの長い時間。須賀作品は、ぶつりぶつりと断片化された時間の物語ではなく、それらがすべて一本の時間の糸でつながっていて、自在にたぐりよせられる。空間もあちこちに、「歩きつづける」場面が、時空をかえては、この本のテーマのひとつとしてあらわれるだろう。

 音楽に身をまかせたい気がしたが、いつにない疲れを覚え、五階の船室ふうの屋根裏部屋まで登る。暑気で部屋はなまぬるく、せまいベッドの、つめたい麻のシーツに身をよこたえたが、からだがほてって、だるい。アスピリンを一錠のんでから、正方形の小窓をあけると、音楽が、待っていたようにどっと流れこんできた。《ずっと、自分は音楽には入りこめない、音楽がこちらを向いてくれない、と思いこんできた。いや、音楽のもってくる感動があまり純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。》 この先も音楽と歌のテーマはしばしば顔をのぞかせるだろう。

 すこしとろとろとすると、教会の鐘の音で目がさめる。あらしのような拍手が追いかけた。私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかで目をとじて聴いていた。やがて、劇場の横の路地を通る人々の人声と靴音が窓を通して部屋にはいってきた。《私も音楽会帰りの群衆のひとりになって窓の下を歩いている、そう思えてしまうほどに、興奮した声のピッチが、キャビン・ベッドの周囲を跳ねまわった。》

 そうして、プルーストの小説冒頭のコンブレーのように記憶が「ピッチの声」とともによみがえり、反抗心もともなって父が記憶の門をあけて入ってくるのだった。

《パリで学生だった四十年ちかくもまえに、生活費をきりつめて、つぎつぎに出かけたピアノ演奏会の記憶が、満月の光だけの小部屋にひとつひとつ戻ってきた。若いサンソン・フランソワショパンを聞いて、楽屋まで会いに行ってしまった夜。(中略)帰り道には、私もこんなピッチの声で友人と印象を語りあったのだろうか。都心からカルチエ・ラタンの学生寮まで、凍りつく冬の夜を頬をほてらせて歩いて帰ったこともあった。父に手紙でその興奮を伝えると、二枚きりの、いつもの大きな字で書いた返事がきた。音楽もよいけれど、勉強はしているのだろうか。すこしはしゃぎすぎてるように思う。それを読んで、かなしかった。寒い毎日の図書館通いや、聞きとるだけでも大変な大学の講義のことは、心配かけまいと思ってわざと書かなかったのに。自分こそ、ヨーロッパ旅行をしたときは、それこそぜいたく三昧で遊びほうけていたくせに。》

 そこから、一九三五年の父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行の説明となって、ヴェネツィアに来たときは、どんな豪華なホテルに泊まったのだろうかとか、ベネチア、と彼はこの海の都の名を発音していて、ムラーノとか、ブラーノとかのガラス工場をたずねた話を聞いたことなどを思いだした。《レース編みをする女たちを見て、日本で待っている母を億っただろうか。家では子供がうるさくていつもいらいらしていたくせに、旅に出ると、私たちのことがなつかしかったのだろうか。三十歳になったばかりの父は、一時的にせよ大家族の家長の座から解放されて、ただ有頂天だったのではなかったか。》

 四角い小窓からは音が伝わらなくなって、枕がひんやりと頬にふれてほっとする感覚があった。大旅行中に、母を億っただろうか、とか、うるさい子供のことから解放されたのではないか、といった微笑ましいひとつの家族、幸福に結びついた家庭の話題を卓袱台返しするかのような思い出が、たった一行の空白で、戻ってくる。

《父がふたつの家庭をもっているのを知ったのは、私がはたちのときだった。いろいろ話したいことがあるから、帰ってきてください。戦後はずっと病身だった母から東京の大学の寮に手紙が来て、私は十一月のはじめの短い休暇に帰省した。》

 母も登場してくる。「私」が東京の大学の寮にいること、実家は夙川(しゅくがわ)であることもさりげなく語られてゆく。

《夕食のあと、ふたりだけになるのを待って、母がぽつりと言った。パパが家を出ちゃったの。会社にも出てないらしい。いやだなあ、と思った。(中略)病気だったの? 私は訊ねた。京大病院のお医者にかかってたみたい。(中略)こんどばかりは、はっきり、うらぎられちゃったみたい。そう言って母は小さな笑い声を立てた。》

 うまくひらがなを織りこんでの会話(とりわけ母の会話には、ひらがなと「……みたい」を甘いオブラートのように響かせて)を地の文にとけこませる文体は、須賀がギンズブルグを翻訳することや、『源氏物語』、谷崎から学んだことだが、文体については、のちほど詳しく論じたい。

 数日後、「私」は父が入院しているかもしれない京大病院を訪ねてみる。京都までひとりで行くのは、はじめてだった(年譜に拠れば、現実にはひとつ下の妹と一緒だったが、一人で行ったことにするほうがドラマチックな効果がでるのを狙っての表現にちがいない)。名を言うと、勘があたったが、病室に行くとベッドはからっぽで、看護婦さんが、いまお散歩に出られました、と言った。庭に降りると、広々としたポプラの並木道に出た。むこうから父が来た。ここからの文章は、いくらでも「私小説」の愁嘆場として告白調で書けるのに、じめじめせず、トスカーナの空のように澄んで乾いている。いつも自分の内面をあからさまには語らず、他の人の描写でそれを代弁するが、ここでは冷静な観察眼と洞察力をもった「私」が前面に出ての矜持さえあって、自分と他者との距離感が心地よい。

《すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。(中略)

 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。(中略)

 病気だったらうちで寝てればいいのに。それに大阪にだって病院はあるでしょう。父にむかってそう言いながら、私は彼の肩に半分かくれて、ちょっと膝を曲げたような姿勢で立っている女をにらんだ。背のたかい父とほとんど肩をならべるくらい彼女は上背があって、面長な色白の顔も、骨太な体格も、小柄で肌が小麦色の母とはすべてが対照的といってよかった。くすんだ色合いの彼女のきものは、すこしくたびれていて、うぐいす色の地に竹のもようのある羽織をはおっていた。》

 彼女はからだつきも着るものも、ほとんどすべての面で母とは違っているのに、どこか共通するものがあって、母とおなじように父のほうを向いて生きているうちに、父の好みに染まってしまったからではないか、と気づく。その人は、言葉づかいも、ものごしも、まっとうで、そのことがまた意表をついていた。《彼女が、そのときまで漠然とあたまに描いていた「いやらしい女」でなかったことに私は救われる思いだったけれど、自分がそう考えたことを、母には言えないとも思った。》

 須賀は、いつも結末がうまいが、ここでも最後の、「見送った」でも「見送らなかった」でもない、記憶をたぐり寄せながらの「見せ消ち」のような否定形が、深い余韻を残す。

《父は苦々しげに言った。よくも京都まで。子供なんかの来るところじゃない。

 ママのところに、はやく帰ってください。そう言って、私は父と別れた。ふりかえって、愛人といっしょに病棟の方に歩いていった父のうしろ姿を見送ったかどうかは、憶えていない。》

 

 他ならぬヴェネツィアからはじめたのには理由があるのではないか。しかもヴェネツィアの宿のベッドでのうつらうつらした回想からはじめたのは、須賀自身が十分に意識的だったかどうかはともかく、時の水門を開くべく構想された「小説」としての妙があるからではないのか。

 紅茶に浸したマドレーヌと同じように、ヴェネツィアサン・マルコ寺院の敷石を無意志的回想の舞台としたプルーストのそれがすぐに思い浮かぶ。須賀自身はプルーストの読書体験についてはわずかしか語っていない。たとえば、森まゆみとの対談『夏だから過激に古典を』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、「日本の学校教育のせいだと思うけど、学生に『源氏物語』のことを聞くと、「読みました」って言う。でも、部分だけ。全部読むと、おもしろいと思うんだけど。学校の先生とかに、ここはこう読むんですと言われて読むのではね……。本というのは個人的な体験でしょう。間違えてもいいから、自分で読むことが大事なんです。そして、楽しみながらおもしろく読まなきゃ。プルーストもそう、本当に自由にここは好き、あそこは嫌、という感じで巻き込まれて読むのこそ、若い人の特権だと思うんですけどね」と語り、あるいは、丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』(『須賀敦子全集 別巻』所収)で「いや、私はプルーストはすごく好きだし、あの人の文体というものにはある意味で影響されたと思うんですよ。それだけに、あまりベスト3に入れたくないというのかな」と語ったていどだ。

 しかし須賀の書くことの出発点、文体の発見となったナタリア・ギンズブルグ体験というものがある。ギンズブルグはプルーストのイタリア語翻訳者であるだけでなく、ギンズブルグにおけるプルースト体験が、須賀におけるギンズブルグ体験であった。《彼女が訳したプルーストの『スワンの道』までも、つぎつぎと読んだが、いきいきとした彼女の文体に私はいつも魅了されるのだった》と『私のなかのナタリア・ギンズブルグ』に書いているが、『トリエステの坂道』の『ふるえる手』では、もう少し詳しく説明している。

《ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説『ある家族の会話』をはじめて読んだのはもう二十年もまえのことで、そのころ私はミラノで暮していた。日本の文学作品をイタリア語に訳す仕事をはじめてまもないころだったが、まだ自分が母国の言葉でものを書くことを夢みていた。ただ、周囲がイタリア語ばかりのなかでは、自分の中の日本語が生気を失って萎れるのではないか、そればかりが気がかりだった。こんなことでは、とても自分の文体をつくることなど考えられない。かといって、イタリア語でものを書くというのも、とても越えられない大きな壁のように見えた。ちょうどそのころ、書店につとめていた夫がナタリアの小説を持って帰ってくれた。表紙カヴァーにエゴン・シーレの絵がついた美しいエイナウディ社の本で、そのころ評判になっていた。第二次世界大戦に翻弄されながら、対ファシスト政府と対ドイツ軍へのレジスタンスをつらぬいたユダヤ人の家族と友人たちの物語が、はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。いったいこれはなんだろう。それまで読んだことのない本に思えた。

 あるとき、私は、著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った箇所を声を出して読んでいたという話をあたまの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族だぐらいにしか考えなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。》

 ところで、ギンズブルグ『ある家族の会話』(原題『Lessico famigliare(レッシコ・ファミリアーレ)』須賀敦子訳、白水社)には、須賀が「自伝的小説」と名づけた内実に相当する作者の「まえがき」がある。

《この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったくない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことがあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。

 人名もそのまま用いた。この本を書くにあたり、私は架空の介入をまったく許容できなかった。本名を変えなかったのはそのためであり、また本人たちと彼らの名を切りはなして考えることが私にとって不可能だったからでもある。これを読んで自分の名が出てくることに反撥を感じる人はあるかもしれない。その人たちには申しわけない、としか私には言えない。

 また私は自分が憶えていたことだけしか書かなかった、したがってこの本をひとつの年代記として読む人は、多くの脱落を非難するだろう。だから題材は現実に即してはいても、やはり小説として読んでいただきたい。すなわち、小説が読者に提供することのできるもの以上、あるいは以下のいずれをも要求することなく読んでいただければさいわいである。

 それから、自分で憶えてはいてもわざと書かなかったこともたくさんある。とくに私自身にかかわることについては、省略した。

 自分についてはあまり書きたくなかったからである。というのも、いろいろな欠落、省略はあっても、この本は私についてのものがたりではなく、私の家族の歴史として書かれたものだからだ。最後にもうひとつ。私は幼いころ、さらに少女時代を通じて、当時私の周囲で共に暮していた人たちについて本を書きたいと思い続けてきた。部分的にはこの本がそれである。ただしそれは部分的でしかない。というのも記憶は時の経過についにあらがい得ず、しかも現実を土台にした本は、しばしば作者が見聞きしたすべてのことの、ほのかな光り、小さな破片でしかないからである。》

 須賀は、『ナタリア・ギンズブルグ 人と作品についての試論』(「イタリア学会誌」一九七〇年十月 イタリア学会)で「自伝的小説」という彼女の命名について語っている。

《なお、最初にこの作品を、小説ふうの自伝と書いたが、この「小説ふう」という少々曖昧でもある形容詞を、もう少し掘り下げて検討する必要があるように思われる。ギンズブルグのこの作品は、単に「自伝」と片付けてしまうには、文学的、創作的意図があまりにも明白であって、しかもそれが成功しているため、私は、なにか適当な形容詞をこれに付け加える必要にかられた。そして、作者は、自分自身のことより、自分の家族のこと、自分の周囲に生きた人びとのことを主として書いているのであるから(いろいろな事件がおきた時の、作者自身の感想、あるいは、その時、彼女がとった行動などについては、殆んどふれられていない)、この作品が自伝というジャンルに厳密にあてはまるかどうかも疑問なのである。「登場人物は、みな、実在の人たちで、私は何一つ、つくり事はこの作品に入れなかった」と序文の中で作者自身いっているが、またすぐその後で、「実際にあったことしか書かなかったのであるけれど、小説として読んでいただいてよいと思う」ともことわっている。私小説という日本文学固有の、トリヴィアルな告白体といったイメージを与える用語を、この地中海的な大らかな作品にあてはめることを私は意識的に避けながら、やはりこの『レッシコ・ファミリアーレ』は、小説ふうの自伝と定義されるのがふさわしいと思う。》

 これは須賀の作品、とりわけ『ヴェネツィアの宿』と同じではないのか。いっけん自分のことについて書いているような場面でも、作者自身のこと、作者自身の感想よりも、家族のこと、周囲に生きた人びとのことを主に書いていることに注意するべきである。

 

<『夏のおわり』/谷崎潤一郎細雪』論>

《夏になると、鬼藤の伯母を思い出す。(中略)どうして夏にばかり鬼藤の伯母を思い出すのか考えてみると、なんのことはない。子供のとき東京にいた私たちにとって、神戸に近い岡本という住宅地に住んでいたこの伯母に会うのが、夙川(しゅくがわ)の祖母のところに一家そろって「帰省」する夏休みと決まっていたからにすぎない。》

 時系列的に、京大病院に入院している父を訪れたことを母に報告する様子をつづいて語ることはせず、時間は「私が十六」という昭和二十年にまで遡るのだが、そこには父と母の馴れ初めや、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』を読んで感激したという「家族」のテーマがある(丸谷才一三浦雅士との鼎談『読書歓談・私が選ぶベスト3』で、須賀「『魔の山』を皆さんはおっしゃるけれども、私はブッデンブロークのあの家族というもののすごいのと、それから彼の文体、私はイタリア語で読んだんですけれども、構成というか、そういうものにとても感激したのがやっぱり『ブッデンブローク家の人々』だったんです。」)。

「風がちがうのよ」と編集者に語ったという阪神間の雰囲気が幸せな気分で書かれている。

《電車から見ていても、おなじ沿線の芦屋や夙川では、春を告げるのがミモザの黄色い花枝だったり、五月の垣根をいちめんにおおうのが白やピンクの蔓薔薇だったりして、とかく西洋ふうが目立ったのに比べると、岡本あたりでは、秋の日にすずなりの柿が夕陽に照っていたり、冬の終りに見事な梅の大木が咲き誇っていたりするのが、他の住宅地にはないちょっと古風な気品をそえていて、そのことがなんとなく、鬼藤の伯母たちの、どこかで時間のとまったような、それでいて、ふんわりした懐かしさを誘う暮しぶりによく合っていた。》

 この鬼藤の伯母という人は、九人きょうだいの末から二番目だった母の長姉で、十五歳ほどのひらきがあった。父と母がはじめて会ったのが、この伯母の家でだった。父方の祖父が設立した建築設備の会社の東京支店をまかされた鬼藤の伯父の結婚相手が母の姉で、長男が生まれたばかりの伯母を手伝いに鬼藤家に行っていた母を、父が見初めた。

 鬼藤家の長男の欣一兄さんは学徒動員で兵隊にとられ、私たち親子も空襲の激しくなった東京をあとにして夙川に移ったのだが、その後まもなく、会社の定年をむかえた伯父夫婦が播州平野のはずれにある小野という小さな町にあった鬼藤家代々の屋敷に引っこんでしまった。戦争が激化して、西宮の旧市街が爆撃され、夙川もあまり安全とはいえなくなった昭和二十年の三月の声をきくと、母は妹と弟を連れ、小野の伯父の屋敷に身を寄せた。私が十六、妹は十五歳で、弟が十一歳の小学校五年生だった。私は、父と、父の妹にあたる若い叔母といっしょに夙川に残り、療品廠という海軍の医薬品を扱う部門で働くことになっていて、月一回の休日には、神戸から電車やバスを乗りついで小野の母たちを訪ねる。小野の田舎ぐらしの描写がある。伯父を知るようになって驚いたのは、鬼藤の伯母らしいと思っていた彼女の動作や仕草の多くが、ほとんど伯父の敷き写しだったことだ

(男の敷き写しの女は、母、父の愛人についで三人目となる)。座敷に姿勢を正して正座し、けっして声を荒げることがない伯父の人となりが、鴎外の『ぢいさんばあさん』も引きあいにだされてほのぼのと語られる。

 しかし、そこから悲しい話に一転する。《いとこの子のかずちゃんが、もうすこしで二歳の誕生日をむかえるというときに小野で死んだのも、あの昭和二十年の夏だった。》

 鬼藤家の欣一兄さんの年子の妹で、名古屋にお嫁にいっていた奈緒姉さんは、夫を戦地に見送ったあと、小野の両親のところに一粒だねのかずちゃんを連れて帰ってきていた。妹はかずちゃんを溺愛した。そのかずちゃんが、消化不良とか疫痢とかいわれていた病気で死んだ。

 戦争が終った。もうすぐ九月というとき、母が原因不明の熱病にかかって何日も熱がさがらなかった。重態だとお医者に告げられても、私も妹もどうしてよいのかわからなかった。母の熱がさがりはじめて、伯父が、よかった、ほんとうに心配した、と言ったとき、何日も伯父の声を聞いていなかったような気がした。

 九月も半ばをすぎたころ、母のいちばんのお気にいりの甥だった鬼藤の欣一兄さんがフィリピンで戦病死したという公報がとどいた。九月の終りには奈緒姉さんも戦争から帰った夫に連れられて名古屋にひきあげたが、あんたの大事な跡取りを、とんでもないことしてしもうて、と伯父は両手をついて奈緒姉さんのつれあいにあやまったという。その冬、伯父は病気という病気もないままひっそりと亡くなった。

《伯父が死んで、鬼藤の伯母は、戦争中に夫をなくした末の妹を小野に呼びよせて、ふたり仲よく暮していたが、その叔母が五十そこそこで他界すると、伯母もあとを追うように死んでしまった。昭和二十八年のことで、留学中の私はフランスで伯母の訃報をきいた。二年後、日本に帰ってきたとき、母は私に伯母の最期について話をしてくれた。伯母さんは、あの広い家にひとり残されて、どうしていいか、わからなくなったのよね。そう話をむすんだ母は、戦争の末期、アメリカ軍が本土にも上陸するかも知れないという噂がひろまったとき手に入れた青酸カリを、伯母が大切にしまっていたのを憶えていた。》

 他の須賀作品もみなそうなのだけれども、『ヴェネツィアの宿』は追想の書であるとともに追悼の書でもある。その最初の、しかしあまりにもいくつもの死のはじまりがこの『夏のおわり』だった。

 はっきりとは書かずに省略するのが、都会人の控え目な流儀でもある(この「省略の文体」については、あらためて後述する)し、谷崎潤一郎細雪』の「ものがたり」としての終り方に学んだものでもあったろう。それは須賀作品の、とりわけ『ヴェネツィアの宿』の秘密を解く鍵になる。

 

 須賀の数ある書評のうちで、もっとも優れたものといっていいのが、『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』(『国語通信』1991年4月 春号、筑摩書房)という谷崎潤一郎の『細雪』論だ。この書評は『ヴェネツィアの宿』と同じように、書きだし(母と戦争で婚期のおくれていた叔母が帯がキュウキュウ音を立てるという箇所を読みあって、男の谷崎の気づきに感嘆していた)と末尾(いよいよ結婚のきまった叔母の文机のうえに、谷崎の『盲目物語』を見つけて、こんなにうつくしい本があるのかと息をのんだ)を私的な思い出で額縁のように封じるという構造的美意識をもつ。

《『細雪』をつらぬく主題は、これまでも指摘されてきたように、いろいろな意味での「逝く春を惜しむこころ」であり、雪子を惜しむこころであろう。しかし、私が、とくに興味をおぼえるのは、この主題を展開するにあたって作者がもちいた、語りの様式についての工夫である。

 谷崎が『文章読本』(一九七三)において「和文のやさしさを伝え」る文章と「漢文のカッチリした味を伝え」る文章(「源氏物語派と非源氏物語派」)、さらに西洋と日本の文章の性格の区分をおこなっていることに野口武彦」は注目し、このような「物語風」とナレーションが用いられた「古典回帰」時代の語り口について言及されるわけだが、『文章読本』の執筆から十余年を経て完成される『細雪』には、「文章」を超えた、ジャンル様式の面での、画期的な工夫がこらされているように、私には思える。というのは、この作品のなかで作者は、雪子と妙子のふたりの対照的な人物のストーリーを並行あるいは交差させるにあたって、「文章」の域をこえて、ストーリーの物語的な展開と、小説的なそれを、並行、交差させているからである。

 このような二重構造、すなわち、西欧の伝統的な「小説」のプロット的展開の構造と、『源氏物語』などを基点とする「ものがたり」風の展開は、いうまでもないが、「ものがたり」的、「日本人」「特有」の性格をもつ雪子と、その「反対」である「西洋人」のような妙子というふたりの人物のうえに築かれている。(中略)

 雪子についての叙述が、ドラマ性のうすい、日常のこまごました出来事や人物をとりかこむ事象の、どちらかというと平凡な浮沈(「繰り返し」の手法と秦恒平氏が谷崎の『芸談』、『陰翳礼讃』を引いて指摘した)を主とする平坦ともいうべき「ものがたり」的作法にしたがって話がはこばれる反面、妙子については、男から男への遍歴につれて変容し、水害、板倉の死、赤痢、出産につづく赤ん坊の死という、不可避的な時間のうえに設定される、高低の多い、ドラマ性を核とした構成がみられる。この二つの作法をないまぜにして物語を進行させている点に、私は谷崎の非凡な構築の才能を見るのである。》

 須賀は、以上のことをこころにとめて『細雪』の上、中、下の三巻を詳細に分析してゆく。

《妙子のプロットの結末が、彼女の出産、赤ん坊の死、という劇的な話題でしめくくられるのに対して、雪子の「ものがたり」は、彼女と貞之助夫妻の出発の、あっけないほどの幕切れで終る。このあっけなさを私は「小説」的な結びを周到に回避した作者の意図によるものと解したい。(中略)人生に挑んだ西洋的な妙子と、生の流れに身をゆだねる日本的な雪子という昭和初期に生きた対照的な姉妹の姿を、ストーリーの展開を単に異質な二つの性格描写といった安易な手法にゆだねることなく、西洋的な小説作法にのっとった「小説」的なプロットと、日本古来の「ものがたり」的な話の運びをないまぜにして織りあげるといった、構築力とふところの深さに、私はつよい感動をおぼえる。》

ヴェネツィアの宿』は、あえて分類すれば、冒頭と最後の父のことの二篇(『ヴェネツィアの宿』『オリエント・エクスプレス』、そのあいだにはさまれた、母のことの二篇(『夜半のうた声』『旅のむこう』)、少女時代の一篇(『夏のおわり』)、修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)、イタリア時代の二篇(『レーニ街の家』『アスフォデロの野をわたって』)、京都での一篇(『白い方丈』)からなり、それらが時系列的にはあらわれないから、とりとめないような、曲がりくねった道のどこを歩いているのかわからないような気がしてくるものだが、母のことの二篇、少女時代の小野での一篇、京都での不思議な一篇が「日本人」の性格をもつ日本的な「ものがたり」で、父のことの二篇、留学と修道会に関わることの四篇、イタリア時代の二篇が「西洋人」との西欧的な「小説」ともいえ、それらを並行あるいは交差させている。けれども、『細雪』が最後に、妙子の「小説」的なものが雪子の「ものがたり」的なものに吸収されて終ったのに対して、『ヴェネツィアの宿』は、生の流れに身をゆだねる母や鬼藤の伯母の「ものがたり」的なものが、人生に挑んだ父や修道女たちや「私」が「小説」的なものへと収斂するのであって、逆であることの現代的な強さ、構築力と深さにこそ人は感動をおぼえるのに違いない。

 

<『寄宿学校』/会話の文体>

『寄宿学校』は修道会と留学に関わることの四篇(『寄宿学校』『カラが咲く庭』『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつである。作品の時間は『夏のおわり』の戦争終結をひきついだ少女時代であるが、舞台は東京のカトリック学校の寄宿学校に移り、外国人修道女が登場してくることによって、西洋小説のような雰囲気にかわる。そして最後は、半世紀後の雑司ケ谷墓地となる。

《Lord,lord,L-o-r-d,LORD.

 もう一時間もこれだけだ。何十回、繰り返したことだろう。四時、午後のお茶の時間のあと、上演の日が近づいた英語劇のリハーサルで、出演予定者が講堂にあつめられたのだが、そのあと私だけがシスター・フォイにつかまって、発音の練習をさせられている。(中略)ああ、できた。かんぺきです。ふいにシスター・フォイが歓声をあげ、あっという間に私は外国の匂いのする彼女の胸もとに抱きしめられている。できたじゃありませんか。もう大丈夫。さあ、もう一回、Lord,lord,lord.》

「私」が学校とどう関わってきたか、学校の母体はどういうものかがかっちりと説明される。寄宿学校の様子がどんなふうかは数人の修道女や寄宿生とのやりとりを、これまでは間接話法一辺倒だったのを直接話法も交えた会話で活写することで、このさきの何篇かのカトリックのテーマの背景が自然に理解されることとなる。

《六歳で入学し、やがて関西から東京へと移り、また、戦争で東京から関西にもどっても、ずっと同じ修道会が経営するカトリック学校に通いつづけた私は、戦争の終始とともに親元をはなれ、東京のキャンパスにある専門学校の英文科に入学した。両親は疎開をつづけるかたちで関西に残ったから、十六歳の私は、焼け残った校舎での寄宿舎生活をおくることになった。》

《学校の母体である修道会は、十九世紀のはじめにフランスで創立されたあと、時代の要請と修道女たちの献身にささえられて、まもなく世界各国にひろまり、日本には明治のおわりごろ、オーストラリアから派遣されたシスターたちが学校をはじめたのが起りである。》

 シスターたちとのエピソードをひとつひとつとりあげる紙数はないから、名前だけでもあげれば、英語劇の監督をする中年のオーストラリア人のシスター・フォイ、小柄だけど歩き方のきれいな生徒係のシスター・ヘレナ、「古典をお読みなさい。ホーマーとか、ダンテとか、シェクスピアとか。『風と共に去りぬ』はそれからでじゅうぶん」とつよいドイツなまりの英語で話すドイツ人のマイヤー院長、生粋のアイルランド人で聖歌隊の指揮をするがっしりと骨っぽい短気なシスター・フレンチ、レクリエイションにベースボールを導入して物議をかもしたアメリカ人のシスター・ダナム、修道院の事務や会計をとりしきっている金縁眼鏡の副院長シスター・シッケル、聖堂係のシスター・グテレス。

 神父さんだったお兄さんが、戦争中にユダヤ人をかばってヒトラー強制収容所にいれられ、そこで亡くなったという話をシスター・ヘレナから聞いたマイヤー院長と寄宿生との会話のたくみな表現だけ紹介しておこう。たとえば、この音楽の話。

《ある日、彼女は開口一番、ちょっときびしい声でたずねた。

「今日、十六番の教室で四時から五時までピアノを弾いていたのはだれですか?」

 私たちは顔をみあわせた。中学生がおそるおそる手をあげた。「はい、わたくしです」

 ふぉっふぉっふぉっと笑ってから、マイヤー院長は言った。

ショパン、すきですか?」

「はい」その子は、ピアノを弾いていたことを叱られるのではないと知って、ほっとした声でこたえた。しかし、油断は禁物、あっという間にマイヤーさんの顔から笑いが消えた。

ショパンばっかり弾いてると、音楽はわからない」きびしい声だった。「バッハを勉強なさい。バッハに音楽をならいなさい」

 どうして、ショパンではだめで、バッハでなければならないのか。ドイツ人どうしだからかな、と思ってみたりしたが、マイヤーさんはそういうことは超越しているように思えた。》

 副院長シスター・シッケルと聖堂係のシスター・グテレスに聖堂の準備室の鍵を紛失したのではないかと疑われて、修道院の焼け跡で、あるはずのない鍵を一時間も探させられ、《あれから半世紀近い時が過ぎたいまも、あの鍵がどうしてなくなったのか、あのあと見つかったのか、それならいったいどこにあったのか、とうとう私は知らずじまいだ》のあと一行あいて、その半世紀後の三月も終りに近いある日の午後、東京にながく住んでいるイタリアの友人と雑司ケ谷の墓地を荷風のお墓をたずねる場面となる。めざす荷風の墓碑はなかなか見つからなくて、迷いつづけたあげく、ふと、小さな鉄門のついた墓所と門についた紋章を見て、はっとした。それは、六歳のときから十六年間、なんだかんだと不平を言いながら勉強した学校の紋章だった。日本に来て、ふたたび故国に帰ることなく生涯を終えた修道女たちの墓所にちがいなかった。

《きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。(中略)葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。親しかった人の名もあり、知らない名もあった。おもわず姿勢をただしたのは、畏敬の気持からというのとは、すこしちがっていた。しゃんと背をのばしなさい。修道女たちがそういって注意する声がきこえそうだったのだ。まっすぐに立って、私たちの顔を見てはっきり挨拶なさい。

「おーい、そんなところでなにしてるの。荷風はこっちだったよ」

 友人の呼び声に、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思いながら、私は暗い小径を声の方角に歩いていった。》

 読者の情感の門も、きいっと心をえぐるような音をたててひらかれ、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思う作者の孤独な追悼のありかたに共感をおぼえずにはいられない。

 

 さて、フランス文学者の清水徹との対談『人生の時間 文学の時間』(一九九五年収録)(『須賀敦子全集 別巻』所収)で、清水は、どうして書き始めたのか、と会話文の使い方を話題とした。

 清水は、須賀が七十年代の終りごろからギンズブルグ『ある家族の会話』の翻訳を雑誌に連載し、本が刊行されたと同時に、同じ雑誌に『ミラノ 霧の風景』の連載を始めたのが八五年末だから、作家がどうして書き始めたのかがいつも気になる自分にとって、外側のデータだけから類推すると、「ギンズブルグを翻訳したということが、須賀さんのエクリチュールの誕生を促したという結論になる」と指摘した。

 須賀は「そうと思います」と答えてから、だいたい自分のなかにある書く材料を、どういう文体で、どういうふうに書けばよいのかをギンズブルグを訳すことで発見があったうえ、そのころから文体論に興味をもちはじめ、七〇年代に『源氏物語』を原文で読みとおして、この物語はこの文体でしか書かれ得なかったと思って、ずいぶんほっとしました、「あの会話をふくめたまま動いていく長いセンテンスの魅力に感動したと思います。それまでは、漠然と一葉の文章が好きだったり、谷崎潤一郎の小説も好きだったりしました。彼も文体を探して歩いた時代がありますね。そんなものが、いろいろ混ざったのかもしれません」と答えている。続いて、

《清水 僕は須賀さんの書かれたもの面白いと感じた一つは、会話の使い方なんです。つまりフランス語で言うと、直接話法、間接話法、自由間接話法、最近は自由直接話法まで出てきています。日本語では自由間接話法はうまく書けなくて、自由直接話法はみんなが書いている。しかし大衆小説などの自由直接話法はずいぶんルーズなものなんですが、須賀さんのはそうじゃない自由直接話法なんですね。読んだ上では一見とても均質な文章なんですけど、描写の文章と作者の感想と会話の部分というのが、実は織り糸がそれぞれ違っているにもかかわらず、それら全体を巧みに流しこんだ文章だなと思ったんです。これは面白いと感じたんですが、その後ギンズブルグを読みまして、ハハァーと思ったんです。

須賀 ギンズブルグと『源氏物語』とがうまく合ったのかもしれません。谷崎もいわゆる『春琴抄』などの古典時代の作品では、会話の使い方を工夫しています。それと関西弁に魅せられている。私ももとは関西ですから、自分のなかに何か惹かれるものがあったんだと思います。」》

この『寄宿学校』と、前出の『ヴェネツィアの宿』『夏のおわり』に会話の文体の具体的な例があるのは、すでに引用したとおりである。

 

<『カラが咲く庭』/言葉で通じあうこと>

《部屋で手紙を書いていると、だれかがそっとドアをノックした。こんなおそくに、いったいだれだろうと開けてみると、韓国人のキムさんが、暗い廊下にぽつんと立っている。どうぞ、はいってください、と言うと、ちょっとだけね、もうこんな時間だから、とことわりながら、それでもうれしそうににっこりした。》

 こんな魅力的な文章ではじまる『カラが咲く庭』は、キムさんのノックの半年前、一九五八年の冬にローマからの奨学金の話に乗ることで、フランス留学から帰って三年間つづけた放送局の仕事をすっぱりやめ、日本をはなれることにしたからだった。

 ちょっと自嘲的な調子で自分のことや、寮の待遇の不満を強い口調で言うが、ほんとうは淋しがりやで、人に話しかけられるのを待っているような三十代の半ばをすこしすぎた、高校の歴史の先生をしていたというキムさんは、このごろイタリア語を聞こうとすると、頭が痛くなるのよ、とせつなそうにしながら、午前一時をまわるまで、二時間話しこんでいった。翌朝、四年前に二ヶ月半、ペルージャの外国人大学で勉強したとき下宿させてもらったカンバーナ家の人たちに誘われてフレジェーネ(ローマ北西部の海岸線の別荘地)の海の家に行き一週間、遊びほうけて帰ってみると、キムさんが神経科の病院にはいったという。さっそく、シスターたちにかけあって、ヴィラ・フィオリータ(「花ざかりの家」)という神経科の病院に、キムさんと同室だったチョイさんと見舞いに行ったが、薬で眠らされ、もうろうとして、あんまりかわいそうだった。学生寮に帰って、修道女たちと彼女を故国に送り返す交渉をはじめたが、そうですね、ばかりでまったくらちがあかない。以前、留学していたときに会ったことのあるアノージュさんというフランス人の神父が日本大使館で顧問をしているので相談すると、大使館の人たちが韓国の出先機関に連絡をとって、キムさんは無事にローマを発っていった。

なにをするにも修道女の監視の目がひかっている学生寮を出ようと、アノージュさんに相談すると、大学の近くで女子学生の寮を経営しているフランス人の修道女を紹介してくれた。院長のマリ・ノエルさんがすぐに会ってくれ、来週からいらっしゃいね、となった。朝、起きてすぐ、早く逃げ出すに限ると奨学金の寮をとび出してきたものの、新しい学生寮の受付でいわれた午後の時間まで、モダンなローマ終着駅、スタツィオーネ・テルミニの切符売り場のまえの白いベンチに腰かけた私は、ハンドバッグを抱えこみ、膝のまえに大きなスーツケースを置いて、ひたすら時間の経つのを待っている。

『カラが咲く庭』は、意志を通じあうことの不可能と可能がテーマに違いなく、また他の作品よりも、「私」の意見や感想が周囲の人物を通してではなく「私」を通して語られる。これまでの「私」のイメージを壊すように、自分の話をすると、激しい口調になったり、言葉が迸りもするが、「私=須賀敦子」と限定してしまう自伝にも回想にもエッセイにもとどまっていないことは、五つに分たれ、巧みに計算された構成、とりわけ最初と最後の情景によってあきらかだ。普遍的な問題である、言葉、会話、声によって意志を通じあうこと、他者を受容すること、西洋の個人主義を見きわめ折りあいをつけること、などの、よりよく生きることの核心におずおずと触れはじめている「私」がそこにいる。

《となりにすわっていた、先のとがった茶の靴をはいた痩せぎすの男が話しかけてきたが、なまりが強くて、これからシチリアパレルモに帰るところだ、というくらいしかわからない。いいかげんにあいづちをうっていると、コーヒーをおごるから、どこかに行こうと言いだした。じろじろとこちらのからだを見られると、それだけで、なにかを盗られたような気分になる。そんな、大きな荷物をもって、かわいそうに、と同情してみせる。ぼくが持ってあげよう。》 けっこうです、と邪険に答えたことさえ、まずかったと気づいて、返事をしないことにすると、あきらめて立って行った。

 かわりに、大きな籠をさげた、体格のいいおばさんがどしんと腰をおろす。「あんた、なに待ってるの?」すわった途端に話しかけてくる。こんどの相手は田舎っぽいおばさんだから、ひどい悪党ということでもないだろうと質問に答え、イタリア人じゃないわねえ、と言われて、日本人です、と応じて、「おばさんは、何を待ってるんですか?」と攻めに出ると、「アプリリアまで帰るところよ」と彼女はつづけた。

《「近いわよ。一時間とかからない。あんた、私といっしょに、うちに来ない? 駅のすぐ近くだから、私といっしょに十時半の電車に乗れば、うちでお昼を食べて、すぐにローマに帰っても、約束に間にあう」

 え、と私は驚いて彼女の顔を見た。駅で出会った見ず知らずの、しかも「生まれてはじめて」実物に接した日本人だというのに、いきなり自分の家の食事にさそうって、いったいどういう神経なのだろう。》 庭には花がいっぱいだし、いい家よ、あんたに見せたいの。「娘の部屋が空いてるから、あんたよかったら、うちに下宿しない?」 出会って十分も経たないうちに、途方もないところまでエスカレートしてしまう。たよりない顔をして、行きたいけれど、ここで待つことにすると返事をすると、そそくさと席を立ってしまった。

 あたらしい学生寮の生活は快適だった。中世神学の研究所に週二回の講義を聞きに行くほかは、個室で本を読んだり、手紙を書いたりした。薬学部の学生のルチャーナ、文学部のアレッサンドラやクラウディアと、夜おそくまで暗いテラスでしゃべることもあった。寮生は主流が南部または中部イタリアから来ている大学生で、外国人は、アメリカ人のジェーン、ポーランド人のタデウシュカ、フランス人のシャンタルと、ヴァチカン勤務のマリ・アンジュ、東洋人はジャワ生まれの中国人のサンサンと私のふたりだった。

 入寮前、すくない寮費のうめあわせに、ちょっとした仕事をしてもらうことになるかもしれないと、マリ・ノエル院長がほのめかしていたのに、いっこうはっきりしないので、私に仕事をください、と申し出ると、でもあなたはもう仕事をしています、といってつづけた、「アジアとかアフリカの、高い教育をうけた女の人がこういった寮にいてくれるだけで、イタリアの女子学生にとって、新しい世界がひらけることになります」

 納得のいかない顔をしているのを見て、「一週間に二度、一時間ずつ、私のところにきて、日本のことや、あなたがヨーロッパについて考えていることをしゃべってくれませんか。レッスンのようにして。あなた自身のことだっていい。それがあなたの寮費の一部になる」という、ちょっと変った提案をした。こうしてローマにいた二年足らず、週に二回ずつ会っては、じつにいろいろなことを話しあった。とくに熱を入れて話したのは、これからの西欧と非西洋世界がどういうふうに関わっていくかについてで、マリ・ノエルは西洋はあまりにも自分たちの文明に酔いしれていると言って、かなしそうな顔をした。

《私が自分の話をすることもあったが、そんなとき、思わず激しい口調になった。自分のなかに凍らせてあったものが、マリ・ノエルのまえにいると、あっという間に溶けていった。どうして、仕事をやめてまでローマに来たか、何が東京で不満だったのか。本を読んだりものを書いたりすることが人間にとってなにを意味するのか。

「そんなことが知りたくてまたヨーロッパに来たんです」「それはわかるけれど」とマリ・ノエルがいった。「あなたがいつまでもヨーロッパにいたのでは、ほんとうの問題は解決しないのではないかしら。いつかは帰るんでしょう?」

「もちろんです。もう、どこにいても大丈夫って自分のことを思えるようになれば」》

フランス人の個人主義を、彼女はきびしく批難することがあった。生まれつきのジャンセニストなので自分にきびしいあまり、他人までも孤立させてしまう、と。

《「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います」

 私の意志を超えて言葉が走った。

「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩きださないと、なにも始めたことにならないんです」

 こちらのけんまくにのまれて、マリ・ノエルはすこし茫然としている。開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた。》

「開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園児の子供たちの声がとびこんできた」の内から外へ、外から内へ、と場面と情緒の転換が同期するうまさ。それは、この作品のラストで如何なく発揮される。

 二年目の冬に、テレーズという名の、木彫り人形を思わせる小柄なヴェトナム人の修道女が、からだが丈夫でないために、パリの修道院からあたたかいローマの寮に配属されてきた。イタリア語ができないので、いつもだまって、胸当てのついた、白くてすその長い、ごわごわした木綿のエプロンをつけてかいがいしく働くすがたが可憐だった。フランス語も、できるというほどではなくて、私と目があうと、溶けるような笑顔で笑ってみせたが、それが私にはつらくて、ヴェトナム語をぺらぺらしゃべる夢を見たりした。春になって、テレーズが病気になった、結核かもしれないという噂が広まったが、マリ・ノエルは暗い表情で首を横にふった。「神経の病気なの。ぜんぜん、口がきけなくなってしまったのよ」

 キムさんは、彼女の故郷の町には、いい神経科の病院がなくて、自宅の一室にとじこめられていると、チョイさんは話してくれた。西洋になんかやるんじゃなかった、とキムのおかあさんは、髪をかきむしって悲しんだとも聞いた。

《ある日の夕方、食事に行こうとして、修道院の庭に出ると、カラの花が濃いみどりの葉のかげに蒼白く咲いている噴水のそばに、小柄なヴェトナム人修道女のテレーズが、こっちを向いて立っていた。思わずフランス語で、よくなったの、と言いかけて、やめた。口がきけなくなった、とマリ・ノエルが話していたのを思い出したからだ。はたして、答えも、あの溶けるような笑顔も返ってこないで、テレーズは、私の視線を避けるように、つと横を向くと、そのままじっと、暗い木蔭に立ちつくしていた。修道衣の喉をおおう白い布だけが、夕方の光のなかでぼんやりと明るかった。》

 

<『夜半のうた声』/川端康成「そこから小説がはじまるんです」>

《やっぱりそうだったのねえ。その日、私が京都から帰って、父の愛人に会ってしまったことを話すと、病床の母はそう言って、淋しそうに笑った。どうもあの人はうそをついてると感じてはいたんだけれど、信じたくなかったのよね。》

 書きだしの一節でわかるように、一作目の『ヴェネツィアの宿』の後半部分、京大病院で父とその愛人に出会ったところの続きに他ならず、家に帰って母に報告するところからはじまる。『夏のおわり』『寄宿学校』『カラの咲く庭』の三篇をはさんで、ふたたび戻って来たことになる。

 母に、女の人のこともぜんぶ話してしまった夜から、母のとなりの座敷で寝ることにした。しゃべっていれば、せめてそのあいだだけでも母の気がまぎれると、妹と私は、せっせとばか話にせいをだした。廊下ですべってころんだ飼犬のベンのこと、戦後のヤミ市の時代に神戸から食料品を売りにきた台湾人のリンさんが山手に家を買って悠々自適なこと、それを知らせてくれた神戸で小さな洋装店をかまえている田口さんのところで、春になったら、またなにかいい洋服をつくってもらうといいわ、と母は言ってから、また父のことを思い出したのか、顔をかげらせて、だまってしまった。

 妹や弟が寝にいってしまうと、「背はどれくらいだった?」ふいに母がたずねた。「高い。パパと歩いていても、小さくみえなかった。どうして?」「うん、ちょっと……。骨太っていう感じ?」「わからない。まあ、そうかな。背の高い骨太の人なら、ママ、心あたりあるの?」「そういうこともないけれど」

《話がとぎれると、もう夜中なのに、母はときどき小さな声で歌をうたった。どの歌というのでもない、細い声のメロディーだけだったが、聞いていて私はこわくなった。こうしてうたっているときに、ひょいとわけがわからなくなったらどうしよう。

「ママ」と呼んでみた。「なにうたってるの」

 返事はなくて、母はうたいつづけた。まくらに顔をぴったりとつけて、私は声がやむのを待った。手が汗ばんでいるのがわかった。

 むすめのころ、わたしは歌が上手だったのよ、母はよくそう言って自慢した。》

 こうして、母の歌の話になる(ヴェネツィアの宿で聞いた音楽、アヴィニョンの歌声と通底しているだろう)のだけれども、麻布の家での幸福な歌の回想はたびたび父のことに戻って、母と父のいきさつを説明的ではなく語っていく。すこしは落着くかも知れないと祖母や大叔父が考えついた父の世界一周旅行から帰って二年、仕事はますますうわの空、責任の重い仕事をさせたらやる気を出すかもしれないというので、東京支店に勤務が決まった。関西の家から麻布に越してきたのは、私が九歳のときだった。

《三人の子供がそろってはしかだというのに、母はうれしそうに歌をうたいながら、ステップを踏んで畳のうえをくるくるまわっている。母の腕のなかの弟は、熱があるにもかかわらず、カンガルーの息子みたいにぬくぬくと幸福そうだった。(中略)

 イッツァロングウェイ、トゥティッペラリィ

 イッツァロングウェイ、トゥゴォ

 発疹が風にあたるといけないというので、すっぽり毛布にくるまれた三歳の弟はごきげんで、リィとかゴォという語尾のところだけ、口をとがらせて母にあわせる。そのたびに母は、いやあね、この子はパパに似て音痴だわ、といって笑う。(中略) 

 それ、いったいなんの歌なの? とたずねても、返事はいつも、パパに教えてもらったの、イギリスの古い歌ですって、欧州大戦のときの、と言うだけだった。》

シューベルトの子守歌は日本語だったので、意味がわかった。

 ネームレー、ネームレー

 ハーハーノームーネェーニィー

 ではじまったが、ハーハーノームーネーというところの、まるくのびる節まわしそのものが、ちっちゃな森の動物が母親の胸に抱かれているようで居心地がよかった。》

 母は天井に顔をむけたまま、話しつづけた。どうしても結婚しようって、あんまり熱心に頼むから、結婚してしまったのがまちがいだったのよ。わたしは三つも年うえだし、家のしきたりも違いすぎるから結婚はいやだっていったのに。あの人は、がんらいわがままなのよ。エゴイストなのよ。おばあちゃんに気ばかりつかって、いいことなにもなかったわ。毎晩のようにダンス・ホールに行こう行こうって、うるさくて困った時期があったのよ。自分たち親子だけで暮らしたい、と言いつづけた母の希望が麻布の家に移ることでやっと叶えられたのは、結婚して十年目だった。とうとう自分たちだけの生活を手に入れたのに、母は病気ばかりしていた。そのころの私にとって、父は気むずかしい暴君だったが、それでも、うっとうしい雲がすっと晴れたような瞬間が、ときにあった。父が朝の食卓で母をからかっている。おまえに値段がついているなんて、知らなかったなあ。子供たちのまえで「ママの醜態」をぶちまけてしまうと、母はまんざらでもなさそうに、いやあね、と笑って聞いている。父の帰りを待つあいだ、こたつで家計簿をつけていて、そのノートに顔をのせていねむりをしたものだから、数字がひたいに写ってしまったのだった。父がお酒を飲んでいる。母に長火鉢で燗をさせて。あら、あなた、よっぱらってるのね、と母が明るい声をあげる。自分のお酌で夫が酔ったことにうっとりしている。

 父が家を出て二年目になると、母も私たちも、そろそろがまんの限界に達していた。いちど、あの二人を会わせてしまおう、と決心して、まず、母を説得することからはじめた。「わたしの見たところでは、パパはほんとうにいやがってるんじゃない。帰るきっかけほしいんだと思う」 父がいなくなってから、親は甘える対象ではなくて、甘えられるものになってしまって、そのことが重かった。妹にも加勢をたのんだ。ちょっと無理をしないと、あの夫婦は相手が折れてくるのを永遠に待ってるだけなんだから。

 東京から母を迎えに行って、目黒にいた母の姉のところに一泊し、その夜は京都から出てくる父が麻布に泊まるはずなので、翌朝、父がでかけないうちに、母を麻布に連れてゆこう、という計画だった。子供のころ、妹といっしょに毎朝歩いて学校に通った道が秋の陽にかがやいていているのをタクシーの窓から眺め、横に座った母の着物の絹地が手にふれると、ひんやりした、という感覚の冴え。ここからの文章は、視覚と聴覚、行動と会話が、地に流しこんだ文体のなかでフーガを奏でている。リアリズムで、四畳半的湿っぽさがなく簡潔、突き放すようにそっけなく、私小説的告白から遠く離れているが、情緒は饒舌でもある。

《右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。

 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。

 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。》

 すぐこれにつづいて、夜半の母のうた声と響きあうような母の手紙からの数行でこの作品は閉じられる。

《とうとうパパが帰ってきました、と母から手紙がきたのは翌年の一月だった。十一月に麻布の家で母と話してから二ヶ月目だった。

 七日の昼に会社から電話をかけさせて、夕方、なんでもなかったように、ふつうの顔して、家にかえってきました。あきれたものです。でも、かたちだけだって、ぜんぜんないよりはましなのでしょう。》

 母への愛情に満ちている表現なのはもちろんのこと、父のことは悪く書いているようでも、心の底はそうではない、ということが、あからさまに言葉に書かず、書かないことでむしろ伝わってくる文章である。

 須賀が、なぜこのような文体で、およそ四十年前のことを書くことができたのかを考えるうえで、次の文章が糸口になるのではないか。それは、『小説のはじまるところ 川端康成『山の音』』(「ちくま日本文学全集」『川端康成』解説、筑摩書房)からである。

 

 一九六八年の冬の日に、ノーベル賞の授賞式をおえてイタリアに寄せられた川端夫婦と夕食のテーブルをかこんでいた。ミラノの出版社から依頼されて『山の音』をイタリア語に翻訳させていただけないかとお願いに行ったのを、大使館の方が夕食にさそってくださったのだった。食後、スウェーデンの気候、イタリアでの日本文学の読まれ方などを話しているうちに、話題が一年前に死んだ私の夫のことにおよんだ。

《あまり急なことだったものですから、と私はいった。あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。

 すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。

 そのあとほぼ一年かけて『山の音』を翻訳するあいだも、数年後に帰国して、こんどは日本語への翻訳の仕事をするようになっても、私はあのときの川端さんの言葉が気になって、おりにふれて考えた。「そこから小説がはじまるんです」。なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持も知らないで、とそのときはびっくりしたが、やがてすこしずつ自分でものを書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気づいた。ふたつの世界をつなげる『雪国』のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説の始まる時点であることに、あのとき、私は思い到らなかった。(中略)

 川端が長編を仕上げるのにながい時間をかけたのは、論理的な構想に欠陥があるためではなくて、抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れを作者が必要としたからなのだ、と。まず最初に、ひとつの章が書かれ、そのあとは、つぎつぎと連想をバネにして書きつがれていく。そして、川端の作品に時として見られる書きだしと結末の可能なずれは、連歌俳諧の運び方を見ればわかるだろう。日本古来の座の文学においては、これに参加した詩人たち自身も、最後の句がどのようになるかは、発句が詠まれた時点ではわからない。連想が詩のながれをどのように変えていくかを、ただ待つ以外に知る手だてはない。川端の場合も、これに似たことがいえる。作品にとりかかった時点では、その結末がみえていないことが多いのが、論理の必然性ではなく、「連想」のふくらみぐあいを待たなければならない作家にとって、これはほとんど当然といえよう。》

 須賀の『ヴェネツィアの宿』は長い年月をかけて書きあげたものではなく、一年間の連載だったし、発句にあたる『ヴェネツィアの宿』を書いた時点で、確実に最後の『オリエンタル・エクスプレス』を意識している西洋的な論理的構想による作品だが、しかし、書きはじめるまでの長い年月が同じような役を果たしたとは言えまいか。『夜半のうた声』の出来事からの、およそ四十年という時間が、待たなければならなかった年月に相当する。あるいは、須賀が『ミラノ霧の風景』を書きはじめるのが一九八五年で、これが書かれるのが一九九三年であるから、作家として書いてゆくことを意識した八年間という年月がある。控えめにみれば、須賀が家族のことを、とりわけ父と母のことを、自分とは何者かを探求する限りは書かないわけにはゆくまいと意識した時点から、さらにはずっとずっと、あり得ないほどに控えめにみて、第一作の『ヴェネツィアの宿』を書いてから、その続編ともいえる『夜半のうた声』までの連載三回分、逡巡のまわり道のような三か月が、「抒情の連想がじゅうぶんなふくらみをもつのに必要な、内的な時の流れ」だったのではないか。その「ふくらみ」こそが芳醇な文体の秘密であり、「内的な時の流れ」こそが客観性と距離感をもつ作品の「深さ」に到ったのに違いない。

 

<『大聖堂まで』/教会建築>

 パリ留学時代の二篇(『大聖堂まで』『カティアが歩いた道』)のうちのひとつで、これらはキリスト者としての「私」の経験に深く関わっている。雑誌連載時の原題は『待っている人』、題名の意味はラスト・シーンでわかるのだけれど、これだけが本にされるとき題名を変えられているのは、考えがあってのことだろう。たしかに、ここでも回想が、小さな波と大きな波で押しよせてきて、過ぎた時間がある種の主役ではあるけれども、「待っている」という受け身は、気持から少しずれていたか、真意にそぐわないと思ったのだろう。

 一九七一年と一九五四年というふたつの時間があらわれ、それとなく対比されているともいえよう。ひとつはミラノからパリへの八〇〇キロの車での移動とノートル・ダム大聖堂、もうひとつはパリからシャルトルまでの八十キロの徒歩での巡礼とシャルトル大聖堂

 

 アルプスとジュラというふたつの山脈を越えるけれど、距離的にはミラノ―パリ間は八〇〇キロあまり、地図を見ながら走れば、なんということはないはずだった。モンブランの長いトンネルをすぎて、シャモニからジュネーブを抜け、フランスに入ったころには疲れが出て、ドールで一泊した。ディジョンで昼食をとると三時をまわっていて、はじめて車で行くパリには暗くならないうちに入りたいので、あわてて高速道路に乗って、パリ市内にさしかかると、ほどなく、リュクサンブール公園の横を走っているのに気づいた。学生のころ、この辺りに住んでいたリュ・デゼコルで車をとめて見まわすと、道をわたったところにオテル・ド・ラ・カリフォルニーがあった。《毎日その前を歩いて大学にかよった、なんの変哲もない学生街の安宿だが、貧乏学生のつめたいパリの日々に、カリフォルニアという名が、陽光にあふれる土地への郷愁をさそって、毎日その前を歩いて大学に通い、なんどか泊まってみたいなあと思ったことがある。》 そうだ、今夜の宿はここにしよう。行きあたりばったりに決めてはいっていくと、《カウンターにいた白髪のおばさんはちょっと帳簿をしらべただけで、にこりともしないで言った。運のいいひとねえ、あなたは。これが最後の空き部屋ですよ、マダム。屋根裏だけど、なにしろ観光シーズンですからね。聞きながして、荷物をひきずりながらとにかく無事に最上階にたどりついた。》

 このあたりの文章は、聞きながすまでに変化した今の「私」と、学生時代のパリでの感情の澱を、さりげなく細やかな形容で表現、対比している。

《旅行者の多いこの季節にすんなりと寝るところが決まったのは、受付のおばさんの言ったとおり、ひどくありがたいことだったから、私はすっかり気をよくして、靴をはいたままベッドの上うえに体を投げだすと、そのまま目をつぶった。

 一九七一年の七月で、秋にはいよいよ日本に帰ることが決まっていた。いったん引きあげてしまったら、いつまたヨーロッパに来られるかわからないから、出発までにフランスだけはもういちど見ておきたい。そう思っていたときに、ちょうどパリに住んでいる友人が来ないかとさそってくれたので、決心してミラノを出てきたのだった。(中略)

 とろとろとねむったのかも知れない。どこかの部屋で水を流す音に気がついて時計をみると、八時をすぎていた。》

 サン・ミシェル大通りに行き、簡単な夕食を手ばやにすませると、夏の観光客がごったがえす賑やかな大通りに出た。《つい、きのうまでミラノにいたのが、うそのように思えるいっぽう、パリにいるという実感がそれほど湧かないのは、どうしたことだろう。むかし、ソルボンヌの学生でこの道を急ぎ足に歩いていた自分と、十三年にわたったイタリア暮しをきりあげて、とうとう日本に帰ろうとしているいまの自分をへだてる時間のなかで、パリがかすかに変質したのではないだろうか。あす十六年ぶりで会うことになっている友人は、どんな顔をして迎えてくれるだろう。》

 ホテルに戻ると、部屋の空気が澱んで、変に重かった。ベッドのうえに立ち上がると、両手でいきおいよく窓をあけた。ここから、ノートル・ダムについての美しい文章になる。

《すぐそこ、といっていい距離に、白くかがやくパリの大聖堂ノートル・ダムが、まだ昼間の青が残った夜空を背に、溢れるような照明の光をあびて、ぽっかり宙に浮かんでいた。それも、セーヌ河沿いの花やかな南面を惜しげもなくこちらに向けて。後陣にちかいトランプセプト(袖廊)の突出部の中央に位置した薔薇窓の円のなかには、白い石の繊細な枠ぐみにふちどられた幾何もようの花びらが、凍てついた花火のように、暗黒のガラスの部分を抱いたまま、しずかにきらめいている。宇宙にむかって咲きほこる、神秘の白い薔薇。トランセプトとネフ(身廊)の屋根の稜線が十字に交差する点にしっかりと植え込まれたように、天を突いて屹立する、細身の、鋭い尖塔。精神の均衡と都会的な洗練の粋をきわめるパリの大聖堂が目の前にあった。

 なんでもないふつうの窓と思いこんで、力まかせにあけたものだから、その分だけ驚きは大きかった。ついさっきまで暮れなずんでいた背景の空には、もう暗い夜がいっぱいにひろがって、光のなかの薔薇窓は神秘に酔いしれて、いちだんとまばゆくきらめいた。十六年目のノートル・ダムは、もったいないほど美しかった。》

 東京で大学生だったころ、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったとあかされる。

 パリ留学の望みが思いがけなく叶って、セーヌ河畔の大聖堂のまえに立ったのは。一九五三年の八月も半ばすぎたころだった。初めてパリで迎えた朝、早い時間に寮を出て、大聖堂をめざした。

《それまで自分のなかではぐくみそだててきた夢幻のカテドラルと、目のまえに大きくそびえわだかまる現実のカテドラルとが、きらきらとふるえる朝の光のなかで、たがいに呼びあい、求めあって、私の内部でひとつに重なった。腕に鳥肌がたったのは、あきらかに冷たい空気のせいだけではなかった。

 その日から、それはたいてい、よろこびではなくて、悲しいこと、がまんできないことのほうがだんぜん多かったのだが、自分ひとりで持ちきれない荷が肩にのしかかるのを感じると、私はその重さを測りに橋をわたってノートル・ダムに出かけた。》

 大聖堂がようやく自分にとって日常の風景になろうとしていた一年後(一九五四年)の六月の半ば、高校生と大学生をまじえた三万人のパリの学生のシャルトル大聖堂への巡礼に、父がフランス人、母が中国人で、ヴェトナム育ちのモニックにさそわれて、参加した時のことだ。二十世紀の教会史に大きな足跡をのこした詩人、シャルル・ペギイが呼びかけたシャルトルへの巡礼にならったもので、ペギイに流れを発したフランスのカトリック左派のデマゴジックな表現のひとつでもあった。《日本での学生時代にその運動の輪郭を手さぐりしていた私は、この巡礼に参加することで、いよいよ本物の「象」の表情ぐらいは摑めるかも知れないと期待は大きかった》とあるように、日本での学生時代からキリスト教左派の運動に関心を寄せていた「私」の姿が大きく前面にでてくる。つらく、重い希求とともに。

《はじめてのヨーロッパは、日本で予想していたよりずっときびしかった。言葉の壁はもちろん私を苦しめたが、それよりも根本的なのは、この国の人たちのものの考え方の文法のようなものへの手がかりがつかめないことだった。自分とおなじくらいの年齢で、自分に似た知的な問題をかかえているフランス人との対話が、いや、対話だけでなく、出会いさえが、パリの自分にはまったく拒まれているように思えて、私はいらだっていた。大学での比較文学の講義の愉しみとはべつに、こればかりは自分の手でさぐりあてなければ、どうしようもない。シャルトルへの巡礼は、そんな気持のなかで、ひとつの抜け道になるかも知れなかった。》

 パリ大司教のミサと、ドミニコ会の司祭の説教のあと、五十キロ先のランブイエまで列車で行き、翌朝、シャルトルまでの三十キロの道を歩きだす。歩きながら、そのときどきにあたえられたテーマ、どういう選択をしてここにいるのか、キリスト者は自分たちにとって、どんな意味をもっているか、を討論するが、自分のフランス語ではとても討論にはついていけないことに気づいた。いつのまにかみんなの議論からは遠いことを考えて歩いていた。

 東京で大学院にいたころ、ふたりのカトリックの女ともだちと毎日のように話しあった。話題はいつも、女が女らしさや人格を犠牲にしないで学問をつづけていくには、あるいは結婚だけを目標にしないで社会で生きていくには、いったいどうすればいいのかということに行きついた。はやく嫁に行け、いやなら修道院にはいればいい、と先輩に言われても、そんなんじゃないという気がした。《自分で道をつくっていくのでなかったら、なんにもならない。そのころ読んだ、サン=テグジュペリの文章が私を揺りうごかした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」シャルトルへの道で、私は自分のカテドラルのことを考え、そして東京にいるふたりの友人はどうしているだろうと思った。》

 含羞の人、須賀敦子にしては、生で直接的な言葉が飛び跳ねているのは、パリ留学時代の経験がそれだけ、つらく、重かったことの反動だったのだろう。

 ピクニックとお祭り騒ぎが一緒になったような巡礼の夜は、農家の納屋の乾草の山にもぐりこんで寝た。二日目には、南仏や、ノルマンディからのグループも合流してくる。三時を過ぎたころ、なだらかな地平線に、針のような尖塔のてっぺんが、見えてきて、一歩、一歩、シャルトルに近づいて行った。驚いたことに、私たちのグループがシャルトルに着いたときには、ミサはもうはじまっていて、カテドラルはすでに超満員で、扉の外にいるしかなかった。やっとシャルトルまで来たというのに、大聖堂に入れてもらえないとは、いったいどういうことなのだろう。天井の音楽のように美しいといわれるステンド・グラスも見られない。帰りの列車に乗りはぐれてしまうので駅に行こうと決めたとき、聖者たちの像を熱心に見ていたモニックが、長いひげを波のようになびかせ、口をすこしあけて、ほとほと弱ったという表情で、壁のくぼみに立っている洗礼者ヨハネ像を見つけ、気落ちして口をきく気もしない私を元気づけるように、「あの顔が、いまの私たちには、なによりもぴったりよねえ」と明るい声で言った。ヨハネは苦行しながらキリストが世に出るのを待ちわびたという。

《考えようによってヨハネは、生きることの成果ではなくて、そのプロセスだけに熱を燃やした人間という気がしないでもない。

 二日間、歩きつづけて大聖堂に入れなかった仲間たちといっしょに、駅への暗い坂道をおりていきながら、私は、待ちあぐねただけの聖者というのもわるくない、と思っていた。》

 

 さきに、ヒルデブラント神父の「教会建築史」がいちばんの愉しい講義で、いつか自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう、と思ったというところがあった。なるほど、そこに書かれたカテドラルの詩学をもって須賀の作品は、いわば建築されるように書かれたと気づくのはそう難しいことではない。須賀の精神、および職人気質的な作品の構造と文体と装飾の堅固な土台になっているので、長くなるが引用したい。

《スライド写真で見たフランスやドイツのゴシックの教会建築が、激しい力で私を捉え、ヨーロッパをつくりあげた精神や思考の構造の整然とした複雑さに私は魅せられ、すっぽりのめりこんだ。日本人の自分にとってなじみのうすい石という素材を。まるで重量をもたない物体のように、縦横に使って組み立てていく。いくつもの層を重ねていきながら、底によこたわる思索の流れをすこしずつずらしていくことの愉楽。あるいは、繰り返しの遊びへの誘惑。威厳にみちた王たち、ながい髪を足までたらした聖女たち、悲しげな表情でキリストの降誕を待ちわびる旧約の聖者たちがいならぶ彫像のギャラリー。華麗であるだけの、繊細な柱廊のミニアチュア。ひとつひとつの秘密をさぐりたくて、私は図書室にこもり、大聖堂のファサードの写真を何日もかかって鉛筆で模写した。かたちを手でたどることによって、これを造った人たちの感覚が身につたわるかも知れない。なにがこんなに自分を駆りたてているのか、自分にもさっぱり摑めないまま、私はカテドラルの詩学を自分なりの方法で理解しようとした。線をヴォリュームに、平面を重みに変えるとは、いったいどういうことなのか。石で模様をつくるとは。このようなカテドラルをもった中世とはどんな時代だったのか。ひとびとはどんなことを考えていたのか。なにを信じてこんなものを造ったのか。そして、自分の目で見たとき、これらの建造物は、いったい、どんな力で迫ってくるものなのか。手で触ったら、どんな質感を伝えてくるのか。いつかきっと、自分もヨーロッパに行って、ゴシックのカテドラルをたずねて歩こう。ファサードを、内部空間の緊張を外から支えるというアルク。ブゥタン(飛び梁)を、人の手で切り出され、運ばれ、積み重ねられた石を、製法が職人といっしょに絶えてしまったというステンド・グラスの青を、どうしても自分の手でふれ、自分の目でたしかめなければ、その先のことがなにも見えないと思いこむほど、カテドラルが私を捉えた。》

 

<『レーニ街の家』/『白い方丈』>

 これら二作は小説として差しだされれば何の不思議も抱かないだろう。どちらも、登場する「私」は補助線にすぎない。しかし、二作の性格はだいぶ異なる。『レーニ街の家』はフィレンツェとミラノを舞台にしている。『白い方丈』は京都が舞台である。舞台の違いによる以上に、『レーニ街の家』では、イタリアの小説家アルベルト・モラヴィアのような西洋小説を書いてみせ、『白い方丈』では谷崎か川端のような日本の小説(ものがたり)を書いてみせている。

 

『レーニ街の家』のあら筋を紹介しよう。

《その夏、私は、期日までに済ませなければならない仕事もなく、いつもよりはゆとりのある休暇をすごしたくて、フィレンツェに行くことを思いついた。》 東京に帰って十五年、ずっと働きづめだった私は、知人の紹介でフィレンツェのアパートメントを八月いっぱいの約束で借りることができ、時計の存在を忘れたような気ままいっぱいの毎日をおくっていた。そんなある日、十年来親しくしていた女ともだちのラウレッタと大聖堂のまえで待合せ、かねて探していた、手で刺繍したリネンの手拭きを求めてふたりで専門店をまわったが見つからない。あと一軒だけまわってみようと中央駅に通じる人通りの多い道を歩いていると、声をかけられた。十五年以上もまえ、ミラノにいたころ親しくつきあっていた友人のカロラ・ディ・フィディオだった。彼女とひんぱんに往き来していたのは、私が夫を亡くして、暗闇しか見えないような時期だった。都心をはずれたレーニ街の、神経質な夫のグイード、小さなふたりの娘たち。ミラノの音楽院で勉強しているルイーザのヴァイオリンのレッスンに通ってきたところだという。カロラのうしろには、黒いちぢれ髪を肩のあたりまでのばした。色白で華奢なからだつきの美しい少女が、まるでおこっているように、とがった目つきでこちらを見ていた。会えてよかったわ、ミラノにもう来ないの、そうたずねるカロラに、あんなによくしてくれたのにミラノを離れてから手紙一本書いていない私は、ことばをにごした。あのころのことを思い出すのがいやだから、とまでは説明しなかった。「それで、キアラは元気なの。」「キアラはね、死んだの。」 カロラはもういちどにっこりしようとしたが、くちもとがゆがんだ。目だけが必死に笑おうとしていた。「事故だったの?」「病気。それからね、わたし、グイードとも別れちゃったのよ」 こんどはほんとうに彼女の顔がゆがんだ。「ごめん。おそくなるから、もう行くね。さよなら」 それだけだった。そそくさと抱擁をかわすと、彼女のおくれ毛の感触が頬にのこった。手拭きはけっきょく見つからず、ラウレッタとも別れて、アルノの河沿いの道をゆっくりと歩いた。キアラがいなくなったことで、カロラとグイードの結婚がだめになったのは、ごく自然な成行きのような気がしないではなかった。

 カロラは画家、グイードは彫刻家で、美術学校時代の同級生だった。夫とふたりで、はじめてカロラたちの一戸建てに招かれたのは寒い冬の夜で、キアラが七歳ぐらい、ルイーザが二、三歳だった。グイードは南のプリア地方出身で、政治的なことばをふんだんに織りこんでしゃべるグイードが食卓ではいばっていて、ルイーザが金きり声をあげると、グイードがカロラをにらんで、どうにかならないのか、と低い声でなじった。若い芸術家にしては、オリーブ農夫が題材のネオ・レアリズム的な作風だった。たずねると、おやじさんだとつぶやいた。きみたち北の人間にはわかりっこないよ、という言葉の苦々しさが、アトリエの裸電球の下で、黒い目と黒い髪の暗さをいっそう濃くしていた。今でも部屋に飾って大切にしているのは、イデオロギーの露出過多といった彫刻作品にくらべて、骨太な、彫刻家らしい立体性のある、子供がふたり描かれたデッサンだった。ふたりの女の子のうち、ヴェネツィアの名家に生まれ、ブロンドで背が高い、のんびり屋のカロラに似ているのは、おっとりしたブロンドのキアラのほうで、黒い髪のルイーザは、癇がつよくて気むずかしく、やきもちやきのところまでグイードに似ていた。

 夫が死んだあとも、散歩の感覚で行ける距離にあったこともあって、よく出かけた。彼らの家の居心地よさは、ものごとを理詰めにしない、口数のすくないカロラのゆったりした性格ゆえだった。

 ある日、夕食にいらっしゃい、と電話があって、その時間に行ってみると、カロラの姿がみえない。ピアノを弾いているとキアラが胸をはっていった。ピアノ上手なの、ママは。いまでも気分がくしゃくしゃすると、ママはピアノを弾くの。その夜、夕食にありついたのは、ニワトリがなかなか煮えなかったために二時間はすぎてからで、でも彼女がお米をぶちこんでつくったリゾットはおいしくて、パン切れをしゃぶっているうちに眠りこんでしまったルイーザも、ほっぺたに涙のあとをつけたまま、大きすぎるスプーンを口に運びはじめた。もうそのころから政治運動に巻き込まれてうわの空だったグイードは食事に帰らないことが多くて、カロラは、いいのよ、あのひとは、アトリエで寝るんだから、とあきらめる表情をした。

 八月の午後の街を二時間以上も歩きつづけ、サンタ・クローチェ教会まえの広場のベンチで休むことにすると、鳩の群れを、すそいっぱいにフリルのついた、目のさめるようなピンクのよそゆきを着た、髪の黒い、二歳ぐらいの女の子が、まるで雪かきでもするような格好で追いかけてくる。おどろいた鳩がいっせいにとびたつと、広場のすみのベンチにいる、母親らしい、黒いもめんのスカートに洗いざらしのTシャツを着た、くたびれた表情の女の顔をみてべそをかく、というのをくりかえしている。ぎっしり中味のつまった紙の袋を三つほど乗せた買物用カートをベンチに立てかけた女はときどき広場に通じる細い道に目をやっている。あわてていたせいで、カロラにキアラの死についてくわしくたずねなかったことを悔やんでいた。持病だった糖尿病が悪化したのだろうか。あたし、自分で注射できるの。あっけらかんと自慢するキアラの声が聞こえてきそうだった。グイードは、この娘のなかに知り合ったころのカロラを想い描いているのではないかと考えてしまうほど大切にしていた。そのキアラが死んだいま、グイードがカロラと別れるのは、当然の結末なのだろうとも思えたし、もうすこしカロラが辛抱できなかったのかという気もした。グイードは、いったいどこでなにをしているのだろう。太陽がかたむいて、広場に直接光が射さなくなったころ、肌のあさぐろい、痩せた、上背のある男が、十二、三ぐらいに見える半ズボンをはいた男の子を連れて広場にやってきた。男の子は両手に、いっぱいにつまった紙袋を持ち、父親らしい男は、ファイバー製の大きなスーツケースと、ロープでしばった重そうなボール箱を提げている。ベンチのまわりは、そのまま、まずしげな家の内部といってよかった。日焼けした男の顔や黒い髪から考えると、南イタリアから仕事をもとめて出て来た人たちなのだろうか。《光が徐々にうすらいでいくサンタ・クローチェの広場で、女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた。》

 ラスト・シーンの「女の子のピンクの晴れ着だけが、ひらひらと舞っていた」の文章だけからでもわかるように叙情性にすぐれた文章である。だが、それだけにとどまることなく、イタリアの南北問題、貧困、階級、夫婦とふたりの娘という家族の愛情関係の線と密度と距離感、喪失、苦さが、薄明かりの下、明快なプロットをもって、醒めたリアリズムといきいきした会話で描かれている。

 

 次の『白い方丈』は、いかにも、よくできた「ものがたり」で、語りくちのうまさが魅力となっている。ひらがなこそ多用していないけれど、谷崎潤一郎蘆刈』を想わす息の長いやわらかな文体は幻想的で、禅寺の方丈の老師の時の流れを忘れ去った全宇宙を内在しているような存在そのものや、禅問答のような会話の受け応え、夢なのか現なのか、理解しようとする不条理な想像力を感じとるには原文を読むしかないので、ところどころ、そっくり引用する。

 京都の竹野よし子という聞いたことのない名の人から手紙をもらったのは、そろそろミラノの生活にも慣れてきた一九六〇年代の半ばごろだった。手紙の主は、私が数年まえにローマで知りあった商社員の名のKをあげ、戦前、伏見ではちょっと知られた造り酒屋だった実家に大学生のKさんが下宿していたので、と前置きしてから、手紙はこう結ばれていた。「じつは私、近々、そちらに行くことになるかもしれなくて心細く思っていましたところ、あなた様というお方がミラノにお住いとうかがい、いろいろとおたずねしたり、おねがいしたいことがございます。もしや、近々、日本にお帰りになるようなことがおありではございませんか。その節はどうぞどうぞおしらせいだきとうございます」 まるで谷崎の小説のなかから届いたような風情もあって、書き手である竹野夫人という人について、好奇心があおられた。谷崎の小説、と思ったのは、まったくの的外れではなかった。追うように、Kさんから手紙がとどいた。勝手に住所を教えたことをあやまったあと、夫人についての簡単な紹介をそえていた。伏見では名のとおった造り酒屋の跡とり娘で、親が選んだ滋賀の在の旧家の三男坊と、はたちになったばかりで結婚させられたが、平凡な夫とのあいだには子供はなく、戦後しばらくして、ちやほやしてくれた両親が亡くなると、自分の生活が空虚にみえて、心のやり場がない、適当に相手になってあげてください、未知の都会にいるあなたを想像して、子供みたいに愉しんでいるのです。

 ちょうどその年の秋に、日本に帰る予定を竹野夫人に知らせると、その節は京都をご案内したいと返事があった。帰国して、父に話すと、自分の車を運転手ともども貸してやるから、と勝手に決めてしまった。

 伏見の竹野家は、近所でひときわ目立つ黒く塗った門をもち、入ると農家の庭先のような、白砂を敷きつめた空間で、そのむこうの左半分が高いところに窓のある酒蔵で、右手の板塀で仕切られた中がこれといって特徴のない木造の和風建築だった。男衆だろうか老人が出てきて、名を告げると、へえ、お待ちでございますとだけいって、ひっこんでしまったが、ひっそりとして、この家にはだれも住んでいないのではないかと思えるほどだった。かなり経ってから、竹野夫人があらわれた。年格好は私より十ほど多い四十台の半ばぐらい、お召とはいってもかなりくたびれた着物すがたで、足もとの白足袋もきれいにつくろってあったけれど、洗いざらしだった。髪はひっつめて結っていて、女学校出のインテリふうだったが、ととのった面長の顔立ちだが、片方の目がかなり強度の斜視なのが表情を暗くしていて、戦争中に結核をわずらって死んだ父の妹を思い出した。

 夫人は大座敷に招じいれ、手早く薄茶を立てながら、自分がミラノに行くことになったいきさつを話しはじめた。ミラノの若いおじょうさんが、だれか禅の話をしに、イタリアに来てくれるような人を知らないか、と探していて、Kさんが、私にたのんで来られたのだと言う。うちのお寺の老師さんにと申されて、有名な禅宗の寺の名を口にした。それにしても、このいっぷう変った計画の仕掛人になりたがっている、ミラノの若いおじょうさんというのは、いったいだれのことだろう、格式のある禅寺の老師を竹野夫人といっしょに招待するというからには、かなりな財力がある人にちがいない、という私の疑問を察したのか、夫人がするりと答えてくれた。「ティルデさん、そのおじょうさんは、ティルデ・ドネリさんというお方どす。」 名を聞いて、私はおどろいて夫人の顔を見つめた。ティルデはローマにいたころ、大使館のレセプションなどでなんども会ったことのある女性だった。年齢は夫人とほとんどおなじくらいで、物事をいったん思いこむとゆずらない頑固なところがあって、人に好かれるというたちではなかった。日本の男性、とくに外交官となると、人をえらばずに好きになり、ひどく癇のつよい性格で、気に入らないことがあると、人前だろうとかまわずに泣きわめくというような噂があって、大使館員たちは慇懃に敬遠していた。のめりこまないほうがいい、と私は言いたかった。他人のことを考えて行動するような人柄とはとても思えなかった。全額負担の招待など、話がうますぎて、うさんくさかったし、長年イタリア人とつきあった経験が、実現する種類の話ではないとささやいていた。それをいま説明したところで、夫人は耳をかたむけないだろう。この人にとって大切なのは、この話が信頼できるものかどうかではなくて、自分が決めたことを、強引に実現にもっていくことなのだ。お点前がすんでほっとしたところで、竹野夫人が、当尾(とうのお)の浄瑠璃寺まで足をのばしてはどうだろうと、提案した、せっかく、お父さまのお車でおいでやしたんどす、すこし遠出をしてみてはいかがどすやろ。辺鄙なところ、と聞くと、その寺をみたくなったので、夫人にすべてをまかせることにした。夫人は、ちょっと用意がありますので、しばらくお待ちくださいますか、と座敷から出ていった。いまさらのように、まるで池の底にいるようなしずかさが気になった。お待たせして、とふたたび姿をあらわした夫人は、さっきと同じ着物、足袋もふだんのままだった。来週には、丹波から杜氏が到着する、仕込みのあいだは気苦労が多くて心配ばっかりといって胸もとに手をあてて軽く叩いた。車に乗り込むとき、運転手が彼女に、おっしゃったように、お荷物はトランクに入れました、と言うのをなにげなく聞きながしたが、その「荷物」があの風がわりな昼食につながろうとは思ってもみなかった。

 竹野夫人は、鄙びた浄瑠璃寺のこれも時の流れに忘れられたような池の端に立つと、しばらくあちこち見まわしていたが、やがて岬のようにまるく水際につきだした場所をえらぶと、手ばやく雛まつりのような緋もうせんを敷いてその上に私をすわらせ、自分も腰をおろした。紅葉のさかりをすぎた楓のまばらな枝のあいだから見上げると、淡い水色の空に白い雲がとぎれとぎれに走っていた。木の根が張っていて地面がでこぼこなうえに、池にむかってゆるく傾斜していたから、すわり心地はよくなかったが、せめてその感触が私を現実につなぎとめていたのかも知れない。山あいの空気は、もう冬の棘をふくんでいて、私は、軽いウール地のジャケットの下で肩をすぼめていた。奈良や京都市内の名所ならともかく、山ふかいここ当尾のあたりまで足をのばす人はめったになかったのか、あたりはしんとしずまりかえっていて、色とりどりの落葉が浮かぶ緑青(ろくしょう)色に濁った水面に、ときどき浮かび上がってはぷつんとはじける泡の音が聞えそうだった、緋もうせんの上には、ふたり分のおべんとうにちょうどよい大きさの、みごとな蒔絵の三段がさねのお重がひろげられ、その段のひとつひとつには、ていねいに面取りをした目のさめるような赤さの京人参や小芋や椎茸や湯葉、高野豆腐などのお煮しめ、みりんで照りつけ、梅酢漬けのはじかみ生姜をそえた甘鯛の西京漬け、ふんわりとレモン色に焼きあげた出し巻などが配色よくつめられ、三の重には、あの関西ふうの、黒ごまをふった指先ほどの小さい俵形のおにぎりの白が、正午をすぎたばかりの秋の陽をうけて、つやつやと光っていた。

「つめとおすけど、こんなん召しあがりますかしら。うちの蔵のをすこしだけ持ってまいりました」

 そう言って竹野夫人が、赤い縮緬の袱紗につつんだ、ぱちんと閉まる小さなふたのついた錫の銚子を取り出して冷酒をすすめるのを、私は夢のなかの出来事のように、ぼんやりと眺めていた。》

 有名な九体仏を見て、浄瑠璃寺をあとにし、老師のいる今日の禅寺にむかった。勝手を知りつくしたという感じの竹野夫人のあとから、黒光りのするつめたい廊下を何回も曲り、渡り廊下をこえ、部屋のひとつの、ふすまのそとで立ち止まった。夫人が声をかけると、中から、おう、というような返事がきこえた。

《夫人がゆっくりふすまをあけると、六畳ほどだろうか、日本間にしては変則的に横長な部屋のなかには、障子ごしに射しこむ白い陽光が洪水のようにあふれていて、その奥に、黒い、ちろちろと燃える燠のようによく動く老人の目が、白い羽二重のふとんをかけた炬燵のむこうから、さぐるようにこっちを見ていた。小柄な体を包んだ着物も白の羽二重で、まるで、ときならぬ雪景色のなかに迷いこんだようである。袖口からにゅっと突き出した、手首の骨がまるく盛り上った白い手が、炬燵の上に行儀よくそろえておかれている。

 初対面の挨拶をする私を見て、老師さんはあはは、というように、歯のない口をあけて笑ったかと思うと、まるで古くからの友人に対しているような、気易い声で言った。

「あんたか」

「はい」

 つられて笑いながら答えると、老師さんは、愉快そうに私をにらんでから、炬燵の上に頭をさげて見せた。

「なんやら、ご厄介になるようだな」》

八十をすぎた老師の小さなからだから出る、精力にあふれた笑い声に圧倒されて、私は、竹野夫人といっしょに、白い陽光にあふれた方丈を辞去した。

 ミラノに帰って一年が経ったが、なんの音沙汰もなかった。周囲の知人に、日本から老師が禅につて講演する話を聞いたことがあるかと訊ねてみたが、だれもがきょとんとしていた。夢を見ていたのかと思うほどに遠いことに思えはじめたある日、竹野夫人から手紙が来て、ティルデさんからなかなかはっきりした返事が来ないと思っていたら、先週、ふいに手紙が来て、いったん白紙にもどしてほしいといってきたのだけれど、どうしてとつぜん中止になるのか、手紙に書いてきた理由が納得できないので、私の意見をうかがいたく、筆をとった、ということだった。それによると、ティルデは日本の若い留学生と恋をして、家族の大反対にあい、老いた両親は、娘をドイツの女子修道院に二、三年のあいだ、閉じこめることに決めてしまった、というのである。ティルデの話はとてもほんとうとは考えられません、と私はすぐに返事を書いた。ティルデの精神状態が正常でないからとまで書いて、ぜんぶのイタリア人が彼女みたいではない、例外です、とイタリアを擁護したがっている自分が滑稽でもあった。

 夫が死んで二か月後に、こんどは母が大病をして一時、日本に帰っていた。何週間も母の危篤状態はつづいて、疲労の極にあった。ある晩のこと、電話が鳴って、私が出た。もしもし、もしもし、と聞きなれない声が呼びつづけ、もしもしというばかりでいやになって、受話器を置こうとしたとたん、相手の声がとびこんできた。「こちらは伏見の竹野と申しますが」「今朝の新聞で、あつこさんが日本文学の翻訳について書かれたエッセイを読ませていただいて、ご主人をなくされたことを知りましたが、ほんとうでございますか」「はい」 そう返事をしておいてから、私はいそいでつけくわえた。「ほんとうです、私、本人でございますが」「あっ」と小さな叫び声が受話器のむこうで聞こえたかと思うと、電話はぷっつり切れた。その後も、電話はかかってこなかった。どうして、なにも言わないで電話を切ってしまったのか、ずっとあとになっても、理解できなくて、気がめいることがあった。

《もしかしたら、電話に出た私が、本人ですと答えたあの瞬間まで、私は夫人の空想のなかでだけ生きつづけた、うつつを離れた存在にすぎなかったのではないか。遠い外国の都会に住む私という人間のイメージから芽が出て葉をしげらせ、枝がつぼみをむすんで、いくつかの物語が彼女のなかでつぎつぎと花をひらかせた。たとえば、あの夢のような浄瑠璃寺への遠出。彼女にとっておあつらえむきなことに、私までが父からの贈物やらぴかぴかのメルセデス・ベンツやらお抱え運転手という時代ばなれした小道具にかこまれて登場したものだから、夫人は完全に現実から遊離してしまう。彼女がおさないころ両親に連れられて観た南座の芝居の一場面を、あるいはかつて両親と遊んだ幸福にみちた紅葉狩りの場面を、私をなかに入れて再現してみたかったのではなかったか。青い池の水を顔に反射させて、黙々とお煮しめを口にはこぶ夫人の顔が目に浮かんだ。》

 そして、ミラノの美女、スフォルツェ城の近辺に住むティルデの物語が、夫人の夢をいやがうえにもかきたてたのだろう。夫人からのサインを彼女は敏感に受けとめて、禅の講義やミラノへの招待やらを発信し、ゲームをもりあがらせる。ディルデのドイツ修道院にとじこめられるという中世めいた物語は、京都製といった感じが濃厚な気もした。空想やら嘘や虚構が入りまじった果てに、私の夫が亡くなったと知り、お悔やみの電話をかけることにした。ところが、家族のだれかれではなく、ミラノにいるはずの私が電話口に出て、いきなり本人だと名のった。

《竹野夫人のゲームの軽やかな進行にとって、死の事実はどうみても重すぎる現実にちがいない。それまで快適にふくらんでいた夫人の想像の風船が、ナマの私の声を聞いた瞬間、パチン、と小さな音をたてて破れた。

「あはは」

 老師さんの笑い声が白い方丈にひびくのが、遠い廊下のむこうから聞えてきそうだった。》

 

<『カティアが歩いた道』/キリスト者

 この本のなかで、もっともエッセイらしい作品かもしれない。回想形式ではないが、パリ留学時代から、書かれた現在に近い時点までの、三十年以上の時をへだてての静かな再会の物語となっているとはいえ、須賀の内面の関心にもっとも近かった問題、「よりよく生きること」と「深さ」のテーマが扱われている。キリスト教に関係して、エディット・シュタインについて多くのページがさかれ、シモーヌ・ヴェイユやトマス・アクイナス(「アクイナスのトマ」)の名も見える。キリスト者としての自分の立ち位置と、生き方という課題が、カティアを鏡にして、「歩くこと」を象徴に語らせつつも、街角の心象風景と労働司祭による講義の場面とともに、思想の言葉がストレートに文字となっている。

 

 前の年の夏にパリ、ベルナルダン街の寮に来て、七ヶ月のあいだに、せせこましく混みあった部屋のルームメイトは日本人のユキ、フランス人のカトリーヌ、ギリシア人のエレーヌとめまぐるしく替った。こんどはドイツのアーヘンから来た、子供みたいに赤く上気した、丸い、しもぶくれの顔の、学生というよりは、元気なパン屋のおばさんという感じだったから、ひとまずはほっとした。「カティア・ミュラーです。たぶん、秋までパリにいるつもり」 ブロンドの長い髪のカティアの登場の仕方と、ささいな挙動で垣間見せる性格描写はたくみだ。

 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまってフランスに来た、と言う。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。いきなり本題に突入したようだった。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから、国をはなれたほうがいいと思った、と言う。十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。《戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていた私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。》 作者には珍しく、あの戦争についての意見が口にされている、自分の国への批判精神と、ドイツの人びとへの精神的な探求をもって。

 同じ部屋に暮らしてみると、カティアは手ごたえのある同居人だった。《なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、深い共感をおぼえた。おなじような感慨がカティアの側にあることも、おおよそ知れた。》

 カティアは「歩き靴」を持っていた。重たそうな革の、底の厚い編み上げ靴は、見とれるほどに、堂々としたりっぱなものだった。《あるまぶしさのようなものを覚えたのは、それが、歩くことを通して子供たちに土地のつながりの感覚をおぼえさせるという、ヨーロッパの人間が何世紀にもわたって大事にしてきた、文化の伝統の一端をまざまざと象徴しているように思えたからだった。》 「歩くこと」のテーマが、須賀らしく具体的な「物」を手がかりに語られてゆく。そのころ、私は自分にとって異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだのなかに浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手に、よくパリの街を歩いた。詩人ネルヴァルが首をつって自殺したのは、このあたりだという、サン・ジャックの塔のそばを、つめたい雨の夜に通りすぎることもあった。

 カティアはほとんどいつも、夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、ぶあつい哲学書を読みふけっていた。一八九一年に、東部ドイツのユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学フッサールの助手をつとめるなどしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて高校の教諭になった。ナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心するが、迫害が波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくすも、ドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年にアウシュヴィッツガス室で死をむかえた。五〇年代初頭に、シュタインの著作集がミュンヘンで刊行されると、高い学識と深い思索に裏づけられた劇的な生涯は、感動をもって内外のキリスト教徒に迎えられた。《彼女の名声が、カトリックの神学を現象学の立場から解釈しようとした哲学者としてよりも、ユダヤ人でありながらキリスト教をえらび、それでもなお、ユダヤの血をうけているために死ななければならなかったという悲劇性によって増幅された事実は、否定できない。やはりユダヤ人でキリスト教を求め、戦争中に病死したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユデマゴーグ性には欠けるかも知れないけれど、非キリスト教世界にむかって教会の門が開かれることを切実に望んでいた一部のキリスト教徒にとっては、シュタインも、時の流れを象徴するひとつの重い存在だった。》

 カティアがシュタインについて興味をもつようになったのは、靴なおしをしている女性の影響で、その人はもとシュタインとおなじ修道院にいたのだけれども、彼女があんなふうにして死んだあと、修道院の生活が無力におもえて、ふつうの人間の暮しをしながら、深い精神生活を生きられないかと、修道院を出たのだという。その人がカティアに、シュタインの本をおしえ、南フランスでおなじような生き方をしているグループの人びとを紹介してくれた。でも、私はまず、まっすぐに南仏には行かないで、ここでしばらく本を読みながら、自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの。須賀にとって、カティアを語ることは、シュタインを語ることでもあり、そしてまた自分を語ることへ螺旋のように戻ってくることでもあった。

《きょうは、何巻目を読み終る予定だといって、にこにこしているカティアの顔を見ると、私はなにかしなければとあせった。ヨーロッパに来たのは、文学の勉強をするためだけではないはずだった。戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教を、自分のこれからの人生のなかでどのように位置づけるのか、また、ヨーロッパの女性が社会とどのようにかかわって生きるのか、学問以外にも知りたいことは山のようにあった。》

 けっきょく、カトリック信者、ミッションの人、須賀敦子は「戦後の混乱のなかで両親の反対をおして選びとったキリスト教」のいきさつと内実をどこにも書き残さなかったのだが、そこには須賀の矜持、強い意志があるだろう。語らなかったが、その後、母も父も生前洗礼するのだから、須賀の説得力と生き方がどのようであったかは想像しうる。

 毎週金曜日の夜、フォーブル・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと旧約聖書の勉強会があると、寮で学生の世話をしているシュザンヌが教えてくれた。行ってみたら、なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。

 ここからはシンパシーと落胆、あせりと寂寥にみちている。昼間は工場などで働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだったが、ドミニコ会のおもだった神学者たちは、くじけることなく反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、非合法的な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した、とあるように立場を明示している。寮から目的地までの道のりを歩いていくことにしたが、迷ってはいないかと、なんども道の名を街燈の明りでたしかめ、足音が硬い石畳にはねかえるのを聞きながら、歩いたが、八時に出て、着いたのは九時を過ぎていた。よごれたシャツを着た労働司祭が、駅の待合室のように殺風景な部屋でひっそりとミサをあげていて、四、五人の参会者たちが石の床にひざまずいて祈っている。司祭が、今日の工場労働者をガリラヤのイエスのもとにあつまった群衆にたとえ、彼らの側に立つことの意味を説いた。《そして、なんの脈絡もなく、薔薇窓やステンド・グラスの華麗なカテドラルを造って、彼らの時代の歓喜にみちた信仰を美しいかたちで表現しようとした中世の職人たちのことが、こころに浮かんだ。》 ミサがすむと、聖書の講義があった。悲しみのなかで、神を信じつづけたヨブの歎きがその日のテーマだったが、科学的、歴史的方法を用いた講義は、従来の教会ばんざい式の感傷に流れない客観性に裏づけられていて、こころづよかった。寮から歩いてきた長い道の寒々とした暗さが、そのまま、人生のよろこびに見棄てられたヨブの悲しみに思えて、熱心にノートをとっている人たちをぼんやりと眺めていた。《帰りは地下鉄に乗ることにしたが、サン・ジャックという駅の名を見て、さっきミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者のアクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いないことに気づいた。アリストテレス的な神学理論を展開して危険人物視されたトマは、これもイタリア人で、プラトン派の神学者だったボナヴェントゥラと、サン・ジャック街を夜っぴて行ったり来たりしながら論争したという話をどこかで読んだことがあった。彼らは、今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ。夜のミサには、その後、二、三度、通っただけでやめてしまった。》 須賀はトマス・アクイナスについても理解は深かった。

《一年近い時間をパリですごして、大学の硬直したアカデミズムに私は行きづまりを感じていた。教会のほうも、もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった。岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた。》

「歩き靴」といっしょにドイツから持ってきた、見るからに固そうな黒パンを朝食に食べていたカティアが、夏休みには、イタリアに行ってみようという考えにたどりついた私に、私もペルージャの外国人大学でイタリア語をならったことがあるからと、イタリア語の手ほどきをしてくれた。カティアにならった動詞活用のおかげで、ペルージャで初級をとばして、中級に編入されたが、夏休みが終ってパリに帰ると、カティアは旅に出たあとだった。だいぶ経ってから、絵はがきが南仏からとどいた。いつかあなたに話した、アーヘンの靴なおしをしている女性に紹介されたグループに自分は入ろうと考えている、と書いてあった。それきりカティアの音信はとだえた。

「まさかとは思いましたが、もしかすると先生のことかもしれないと思って」大学の廊下ですれちがった、フィリピンから帰ったばかりの若い同僚が言った、「そのドイツ人のおばさん、カティア・ミュラーっていうんです。ぼくのいた山の町の学校の校長先生です」 近辺の住民に尊敬されているそのドイツ人の先生は、南仏のミッションのグループからフィリピンに派遣されていて、パリでルームメイトだった日本人の「アツコ」にイタリア語を教えたことがあると聞いて、先生じゃないかと思ったんです。来週、ある国際機関に招かれてカティアが日本を訪問するという。予定がつまっている彼女の日本での最後の日の夕方、市ヶ谷の土手を、レセプションのあるホテルまで、東京の春を満喫してほしくて、歩いて送ることにした。

《透明な蜜を流したような四月の夕方だった。》 カティアの髪は銀髪になって、もう、七十をいくつかすぎている勘定だった。フィリピンで事故にあった後遺症だといって、杖をついているのが痛々しかったが、彼女の白いスニーカーを見て、「歩き靴」が記憶の底にちらついた。「桜なんて、ほんとうはどっちでもいいのよ」カティアがひくい声でいった。「あなたに会えただけで、私は満足しているの」 カティアは、杖をついていないほうの手を私の肩にまわした。むかしとおなじ、産毛におおわれた、まるい、肉のやわらかい、ずっしりと重い手だった。

《四谷に近い女子高の塀がつづくあたりまで来ると、塀のむこうに、赤い大きな太陽がゆっくりと、沈みはじめた。

「ずっとフィリピンにいるつもり?」

 私がたずねると、カティアはふふっというように笑ってから、しずかな声でいった。

「神様のおぼしめしのまま、よ」

 粗末なワイン・カラーのじゅうたんを敷いたせまい部屋の小さな机にむかって、むさぼるように哲学書に読みふけっていたカティアの姿が目に浮かんだ。会うまでは、あれも話そう、これもたずねようと思っていたのに、会ってみると、ベルナルダン街の部屋で向いあって朝食を食べていたときとおなじぐらい、なにも話すことがなかった。カティアはカティアなりの道を選んで、いまはやすらいでいる。》

 足音が硬い石畳にはねかえるパリの対極のような、湿って、音のない、川端の小説のような美しくもせつない情景となるが、そこには会ってみると「なにも話すことがなかった」ふたりの、互いの歩いてきた道を認めあう何ものかがあって、幻影かもしれないが幸福のさくら色に染める。

《道がカーブになったあたりで土手に上ると、そこだけ樹木が密生していて、深い森に来たようだった。地面が湿っているのを敬遠してか、その辺りだけは花見客の姿が途だえ、紅白の幕もなかった。人影のない薄闇をとおして見ると、空気がさくら色に染まって、音のない音楽のなかを手さぐりで迷い歩いている気がした。地面に散り敷いた花が、あたりをぼんやり照らしている。

「もう時間がないわ」

 かすれたようなカティアの声にわれにかえると、花に呆けた私がおかしいのか、目じりにしわをよせて、笑っている。ちっとも変っていないね。すっかりやさしい老女になった彼女は、そう言うと、さもおかしそうにくつくつと笑いつづけた。》

 

 伝記批評をするつもりはないが、松山巌による年表(『須賀敦子全集、第八巻』)をみると、一九五三年の夏に須賀はパリに到着し、十一月、妹良子、結婚の記事のまえに、こんな記載がある。《この時期から、シャルル・ペギー、エマニュエル・ムニエなどの新しい神学をさらに学ぶ。シモーヌ・ヴェイユや、エディット・シュタイン、サン=テグジュベリの著作に親しむ。》 翌一九五四年四月には、聖週間に学生の団体旅行に参加し、ローマ、アッシジフィレンツェを訪れている。《四月末、冷たい雨の日の午後、アッシジへ行く。サクロ・コンヴェントの広場、サンタ・マリア・ミネルヴァ、サン・ルッフィーノなどを巡る。小さな聖キアラの庭に心を奪われる。夕刻にフィレンツェに向かう。》 三年後、パリから帰国後の一九五七年に、『アッシジでのこと』という一文を『聖心(みこころ)の使徒』に発表している。また、六月には、《シャルル・ペギーの呼びかけではじめられた、シャルトル大聖堂への学生巡礼に参加》とある。そして、七月には、ペルージャの外国人大学中級に入学し、九月末にはパリにもどったのは、この一篇のとおりであるが、同時期に並行して行われていた、エディット・シュタインを読むことと、イタリアのアッシジ訪問の件と、シャルトル巡礼の件は、見事なまでに、この一篇からは消えている。小説において、何を書くかはもちろん大切だが、何を書かないかも重要だという創作術を須賀はよく知っていた。それらを、このカティアをめぐる一連の文章に混ぜあわせれば、ドラマチックさは激減し、それ以上に、論理と感情の道筋は混乱するだろうから。シュタインはカティアだけに、イタリアはカティアにイタリア語を習って行くペルージャだけに集中させ、サン・ジャック街の労働司祭によるミサと講義は扱うがシャルトル巡礼には触れない、のが文学的効果を生む、それは嘘をつくことではなく、読者に深くとどくためである、と須賀はわかっていた。こうして考えてゆくと、カティアという存在自体が、須賀の思いを語らせるために、カティアという名前で造形された小説の人物ではないのか、すべてはフィクションではないか、あの『白い方丈』のような、とさえ思われてくる。そして、それが事実か勝手な妄想か、カティアは実在したのか、ロマネスクな人物なのか、約三十年後の春に彼女は日本を訪問し、桜咲く四谷の土手を須賀といっしょに散策したのか、といった伝記的事実を詮索することは、小説であろうがエッセイであろうが、思いを伝えることを第一義に考えるならば、必要ないのはもちろんのことである。

 上記の『アッシジでのこと』から、ごく一部分だけ引用してみたい。若い須賀に決定的ともいえる影響を与え、次のイタリア留学の熾火になったに違いないアッシジ訪問が、硬く、息の短い、体言止めまである文体、回想の過去時制ではなく現在時制で断定されがちな、成熟していない文体ではあるけれども、カティアが見まもっていたパリの時間と比較して、熱く素直に語られているからだ。

《雨が降っていた。聖週間にパリをたち、御復活祭をローマにむかえてまもないころだった。ポルティウンコラに近い、アッシジの駅から、四キロへだてた丘のうえに、サクロ・コンヴェルトの印象的な、白い廻廊が、灰色の空を背に長くつらなってみえた。それが、私の、はじめてのアッシジだった。(中略)

サン・ルフィーノを出て、小さな坂道を降ると、サンタ・キアラに出る。この街にはめずらしい感じの、堂々としたゴチック建築。(略)旅行者の「私」は、いつの間にか、ややほんとうに近い「私」に席をゆずっていた。どうしてか私にはわからない。けれども私は、たしかに、サン・ダミアノには、今でも聖(サン)フランチェスカと聖(サン)キアラが、まだそっくりあの時のままの生活をふたりしてつづけているとしか思えない。(中略)

 ふたりのよろこびは自らを包みきれなくなって、いわゆる、「聖キアラの庭」で昇華する。案内の若い修道士(フラテ)はうれしそうに云われた。ここで聖フランチェスカが太陽の讃歌をつくられたのだということです、と。

庭とは名ばかり、三方を高い石の壁にかこまれた一坪ほどの細長い空間である。(中略)

 この小ささ、そしてこの豊けさ。一週間まえあとにしてきた勉強が、パリの美しさ全部が、私の頭の中で廻転しはじめ、淡い音をたてて消えてしまった。力づよい朝の陽光にたえられず、橙々色にしぼんでしまう月見草の花のように。講義、図書館、音楽会、展らん会、議論。私にとってあれはみな、幻影にしかすぎぬものなのではなかったのだろうか。私の現実は、ひょっとすると、このウムブリアの一隅の、小さな庭で、八百年もまえに、あのやさしい歌をうたった人につよくつながっているのではないだろうか。私も、うたわなければならぬのではないだろうか。

 しばらくやんでいた雨が、またぱらつきはじめた。案内の修道士(フラテ)が、金魚の水溜りに浮んでいた二三枚の葉をとりのけてやりながらつぶやいた。雨だよ、たくさんあたっておたのしみ。(後略)》

 

<『旅のむこう』/ロラン・バルト

 母の両親の地、豊後竹田を汽車で通過する娘の新婚旅行のひとこまではじまり、その新婚旅行からミラノへ翌日に帰ってしまう母の歎きの声で閉じるこの一篇については、趣を変えて、あら筋ではなく、母の声を野暮な人情解説ぬきで紹介することとしたい。母についての娘の思い出は、母が思い出を娘に語って聞かせることで、遡って娘が母を生きなおしているような様相さえ帯びてくるのは、《だれにも守ってもらえない婚家での苦労を一時でも忘れようとして、母は、つらい分だけ、まるで編み棒の先からついとすべり落ちた編目を拾うように、あるいはやがて自分自身をとじこめることになる繭のために糸を吐きつづける蚕のように、いまは透明になった時間の思い出を子供たちに話して、自分もそれに浸った。思い出をたどるときだけ、母は元気だったので、私たちは、母の思い出にそだてられた》からだろう。

 

《微禄だったけど、竹田の殿さんのおさむらいだったのよ。ママのうちは。

 それは、商家に嫁いで、なにもかも見当ちがいでとまどいつづけ、しゅうとめや、自分をかまってくれない夫への不満を、面とむかっては一言もいえない気弱な母が、二階の六畳間に来て私たち姉妹にだけ打ち明けるとき、まるで魔法のことばを口にのぼせて窮地を逃れる女の子みたいに繰り返すフレーズだった。これだけは奪うことができない、というように。》

《がむしゃらに母と母の兄たちを説きふせて結婚した父が、天にも登る心地で選んだ新婚旅行の目的地が、やはり別府だったからだ。黒っぽいコートを長めに着て、手袋をはめようとしている。耳かくしに結った母のスナップ・ショットがある。背景は山で、あ、私の写真なんて、というような羞じらいとほのかな媚びのまざった笑いを口もとに浮かべた表情がういういしい。ママ、きれい。すると、母は、ちょっとなつかしそうに目をつぶって笑う。

「いやあね、新婚旅行のときの写真よ。パパが撮ったのよ、別府で」》

《ほんの幼いころ、母は三度、悲しい思いをした。まず、四十になったばかりの父親をなくした。母は小学校の一年生で、先生に呼ばれて家に帰ると、お父さんはもう死んで、ふとんに寝かされていた。悲しかったわ。母はそう言った。(中略)

 明治天皇の死は三番目の悲しみで、そのまえに、もうひとつ、胸がはりさけそうだった、と彼女がくりかえした大きな悲しみがあった。それまで住んでいた川っぷち(大阪の、どの川だったのだろう)の官舎を出て、父がいつか母と口論したときに子供たちのまえで「場末」と呼んだ、遠い町の狭い家に越したからである。そのまえに、ながいこと家にいたスエという名の女中が、いとまをとって、ぽんぽん蒸気に乗って行ってしまった。

「ママの家はお父さんが死んで、貧乏になったから、スエはいられなくなったのよ」

 母は言った。

「ちぎれるように手をふって、スエは泣いてた。悲しくて、わたしも、姉さんたちも、おいおい泣いたわ」

 まるで、自分が泣いているのを、どこかで見ていたように、そのときの話をした。おそらくは、あとになって、姉たちや母親に聞いたことをとりまぜて、脚色を加えたのだろう。》

《どうして、ここの家の人たちは冗談をいわないのかしら。結婚したころ、わたしは、毎日がつまらなくて、どうしていいかわからなかったわ。そう母は言って嘆いた。母にとって、冗談は、おいしいものを食べるのとおなじぐらい、大切なのだった。そういえば、母の兄弟たちは、ひとりのこらず食いしんぼうで、季節ごとに祖母が漬けこむ野菜の話や、九州の人たちならだれでも好きだというメンタイコの話や、家がケガレルからと祖母がいやがるので、兄たちが庭で煮たというイノシシ料理の話などをすると、母の声は高くはずんだ。話してしまってから、母は、しまったというように首をすくめて、おばあちゃんには、こんな話をしてはだめよ、と、食べ物の話をきらう姑に私たちがしゃべるのを警戒して、注意した。》

《母は、もっとびっくりするようなことを言った。シナ語、とくに北京語は日本語よりもうつくしい、というのである。フランス語も日本語よりきれいなの? と私がたずねると、もちろん、と自信ありげだった。「どこの言葉がいちばんうつくしいか」など、私はそれまで考えてみたこともなかったのだが、「なんでも世界一」というふうにそのころ教えこまれていた日本の私たちが話している言葉より、もっとうつくしいものが世界にあると聞いて、いったいこれはどうしたことかと、衝撃をうけたが、まず、言葉がうつくしい、というのがどんなことなのか、私には意味がわからなかった。

「大きくなったら、フランス語をならおうかな」

 私がそう言うと、すぐになんでも熱中してしまう私を、母は心もとなさそうに見すえて言った。

「なにも、フランス語でなくたっていいのよ。北京語もすてきなんだから、どっちか勉強するといいわ」》

《私がだれかに写真をとってもらうとき、そばにいると、かならずといってよいほど、こう注意した。

「笑わないで、ちゃんとお口をしめて」

 それは、にこにこして相手に迎合したり、「女らしさ」によりかかろうとする私より、まじめな表情をした私のほうが、私らしいという考えに通じていたようで、私はながいこと、あの気弱でひっこみ思案の母が、そんなふうに世間いっぱんとは違ったものの考え方を大事にしているのを、理解できないでいた。》

《「洗礼をうけたら、悩みがなくなるなんて、私にはとてもしんじられない」(中略)

 母は、およそ母らしくないフランスの聖女の洗礼名にもらって、日曜日には、教会に行くようになったが、その後もときどき、ねえ、おまえたち、ほんとうに神さまのことを信じているの、などとたずねて、私たちをあわてさせた。

「なにも信じないよりはましだって、そう思って、わたしは洗礼をうけることにしたんだから」(中略)

「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」》

《二階の六畳間に行くと、たんすのまえにすわった母は私にもすわりなさいと言ってから、低い声でたずねた。

「フランスまで行ったのは、おまえ、どういうことだったの?」

 いつになく鋭い母の矛先を私はありきたりの冗談でかわそうとしたが、母は笑わないでつづけた。

「このところ、自分の生き方をサボってるみたいなおまえを見ていると、わたしはなさけなくなるわ」母は言った。「そんなために、おまえをフランスまで行かせたのではない気がするのよ」

 そして母はとどめを刺すように、こうつけくわえた。

「一日も早く、東京に行くなりなんなりして、自分の考えていたような仕事を見つけてちょうだい」》

《どうなだめても、母はメルセデス・ベンツで旅行するぐらいなら、家でお留守番する、と言いはった。いたたまれない気持で、私が妥協案を出した。ママと私は高山まで汽車で行く。高山から上高地までだけ、車にすればいい。母はやっと折れた。(中略)

 わっと思っていると、またトンネルを出る。小さな白いハンカチを口にあてた母のおかしそうに笑っている顔が、煙のなかから、出てくる。そして、また、消える。

「煙のなかから出てくるたびに、おまえの顔がすこしずつ、まえよりすすけているの。おかしかったわ」

 母はずっとあとまで、この旅行を思い出しては声をたてて笑った。

「おまえがふたつのときに、東京へ連れていったときから、ふたりだけで旅行したのは、あれがはじめてだったわね」》

《三週間の滞在はあっという間に終って、あしたは出発という日の夜に、横文字の苦手な母のためにいつもしたように、ミラノの家の住所を書いた封筒を一束、居間に持っていくと、母はその宛名をじっと見つめながら、言った。

「ミラノなんて、おまえは、遠いところにばかり、ひとりで行ってしまう。」》

 

 須賀敦子と同じように、晩年に小説を書こうとしたが、不慮の交通事故死で世を去り(一九八〇年、六十五歳)、書き終えられなかった人として、ロラン・バルトがいる。

ロラン・バルトに、『長いあいだ、私は早くから寝た』(吉田一義訳(『現代詩手帳 臨時増刊 ロラン・バルト』一九八五年十二月、現代思潮社))という一九七八年十月の講演記録がある。ここには、小説を書くとはどういうことか、書こうとした小説とは何か、という問題がある。

《この講演の題として私が掲げた文章がお分かりになった方もおられることでしょう。「長いあいだ、私は早くから寝た。ときには、蝋燭が消えると、すぐに目が閉じて、<眠るんだな>と思う間もないことがあった。そして、三十分後、そろそろぐっすり眠らなければならない頃だと考えては、目が覚める……」これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは、私はプルースト<について>の講演をしようというのでしょうか? そうでもあり、そうでもない。こう言ってよければ、むしろ「プルーストと私」ということになりましょう。何という自惚れ!》といった諧謔からはじまって、書物を書きたいと思い、それに成功したプルーストについて語ってゆく。長くなるが、できるだけかいつまんで引用する。

《『失われた時を求めて』に先立って、一冊の書[『楽しみと日々』]、翻訳、論考など、数多くのものが書かれています。あの大作が本当に書き始められたのはようやく一九〇九年の夏のあいだのことですが、その時点からは周知のごとく、書物を未完の危険にさらしかねない死と闘いながらの脇目もふらぬ疾走となるのです。どうやらこの一九〇九年に(ある作品の開始時期を正確に特定しようとするのは無駄だとしても)、決定的な躊躇の時期があったようだ。実際プルーストは、二つの道、二つのジャンルの十字路にあって、二つの<方向>に引裂かれていたのであって、ちょうど話者(・・)が、ジルベルトとサン=ルーが結婚するまでの非常に長いあいだ、スワン家の方がゲルマント家の方に到達することを知らないのと同じで、両方向が一緒になるかもしれぬことなど知る由もなかった――その二つの方向とは、(批評の)評論(・・)の方向と小説(・・)の方向だったのです。(中略)

 彼が迷っている二つの<方向>は、ヤコブソンによって明らかにされた対立の二項、暗喩(メタフォール)と換喩(メトニミー)との対立にあたる。暗喩は、「それは何なのか? それは何を意味しているのか?」という問を提示するあらゆる言述を支えており、これはあらゆる評論(・・)が問うところのものである。換喩の方は反対に、また別の、「私が述べているこれの後には何が続きうるのか? 私が物語っている挿話は何を産み出しうるのか?」という問を出すのであって、こちらは小説(・・)が問うところなのです。ヤコブソンは、子供たちが「ヒュッテ」という語にどんな反応を示すかを調べた、ある教室での実験のことに注意を喚起していました。ある子供たちは、ヒュッテとは小さな小屋だ(暗喩)と答え、他の子供たちは、それは焼けてしまった(換喩)と答えたという。プルーストは、ヤコブソンの述べる教室の子供たちがそうであったように、分裂した主体だったとも言えましょう。人生のひとつひとつの出来事は、それに注釈(解釈)を加えるか、それとも、物語る際のその前(・)と後(・)を示したり想像させるような筋立をつくるか、そのどちらかの機会になるとは、彼も承知しているところです。》

 そして、プルーストがこの迷いからどのような決意で抜け出したのか、またなぜ彼が根本的に『失われた時』へと没入していったのかは知る由もないが、

《彼が選びとった形式は分っている――『失われた時』の形式それ自体がそうだと。小説か? 評論か? そのどちらでもないし、その両方だとも言えよう。私はこれを、第三の形式(・・・・・)と呼びたい。》として、この三番目のジャンルについて考えみる。

《私がこの考察の冒頭に『失われた時』の最初の文章を据えたのは、それが五十ページばかりの挿話を開くもので、この挿話こそが、チベットのマンダラさながら、プルーストの作品全体を一望のもとに収めているからです。この挿話は何を物語っているのか? 眠りです。(中略)

 それは、時(・)の水門を開くことにある。時の論理(クロノロジー)が揺さぶられると、理知的なものであれ物語的なものであれ、さまざまな断章が、物語(・・)や論理(・・)がもつ父祖伝来の法則を免れたある脈絡を形づくることとなり、そしてこの脈絡が評論(・・)でも小説(・・)でもない第三の形式を無理なく産み出していく。その作品の構造は、文字通り、ラプソディ風(・・・・・・)、つまり(その語源からして)断章を織り継いだものとなるのです。》

 ここからはプルーストの作品の伝記的解体を考察した後、ダンテ『神曲』の「ワレラガ人生ノ道ノ半バニシテ(・・・・・・・・・・・・・・)……」を引用してから、バルト自身の「新生(ヴィタ・ノーヴァ)」への望み、読書体験とそれによる教訓から、小説が持つ能力を発展させ、三つの任務を果たしてもらいたいと思う。

《一つは、私が自分の愛する人達のことを語ることができるようにしてもらいたいということで(サドは――そう、あのサドが、小説の本領は自分が愛する人達を描くところにあると述べていた)、私がその人達に愛していると言うことができることではない(それなら文字通り抒情詩の企てになってしまう)。私は小説にいわば自己中心主義の超克を期待しているのであって、それは、自分の愛する人達のことを語ることが彼らが<無駄>に生きた(そして大ていの場合、苦しんだ)のではないことを証言することになるからです。(中略)

 第二の任務は、私に情愛の提示を十全に、だが間接的に、可能にしてくれることにある。(中略)

 最後に、そして特に、小説は(不確かでまるで規準に当てはまらない形式を指して私がそう言うのも、私がこの形式を着想しておらず、それを思い出すか、望んでいるだけだからだが)、その書き方が媒介的である以上(小説はさまざまな介在者を通じてのみ思想や感情を提示する)、他者(読者)に圧力をかけることがない。その審理は、感情の真実を問うのであって、思想の真実を裁くものではない。》

 翌年の一九七九年にバルトが書いた、いっけん写真論にみえるが母の思い出を語っている『明るい部屋』と日記風の『パリの夜』には、あきらかにロマネスクな物語が織りあげられている。母子家庭で、ずっと一緒に過ごしたバルトにとっての母と、捩じれがあったとはいえ父と母がいて、早くに家を出、海外にも行ってしまった須賀にとっての母は、その母性の密着度があまりにも違いはするが、『明るい部屋』の写真をとおしての母の思い出は、『旅のむこう』の声をとおしての母の思い出と通じあうものがあるだろう。バルト『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房)の第二部から、小説的なエクリチュールをごく一部となるが書きだしておく。

《ところが、母の死後まもない、十一月のある晩、私は母の写真を整理した。母を《ふたたび見出そう》と思ったのではない。《写真を見てある人のことを思い出すよりも、その人のことを考えるだけにしておくほうが、もっとよく思い出せる、そうしたたぐいの写真》(プルースト)に、私は何も期待していなかった。思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも耐えがたい特徴の一つなのであるから、映像に頼ってみたところで、母の顔立ちを思い出すこと(そのすべてを私の心に呼びもどすこと)はもはや決してできないだろう、ということはよくわかっていた。(中略)

 かくして私は、母を失ったばかりのアパルトマンで、ただ一人、灯火のもとで、母の写真を一枚一枚眺めながら、母とともに少しずつ時間を溯り、私が愛してきた母の顔の真実を探し求め続けた。そしてついに発見した。

 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。(中略)

 私は少女を観察して、ついに母を見出した。少女の顔の明るさ、その手の無邪気なポーズ、出しゃばるわけでもなく隠れるわけでもなく、ただ素直に身を置いたその位置、そして「善」が「悪」から区別されるように、彼女をヒステリックな小娘や大人のまねをしてしなをつくるかわいいだけの女の子から区別する、その表情、それらすべてが至高の純真無垢(・・・・)の姿を表わしていた(ここでは、この純真無垢(イノサンス)という語を、語源に従って、《人を傷つけることを知らない》という意味にとっていただきたい)。それらすべてが、この写真の少女のポーズを、ある維持しがたい逆説的な姿勢、母が生涯維持してきた姿勢に変えていた。すなわち、やさしさを主張するということ。この少女の映像から私は善意を見てとった。(後略)》

 

<『アスフォデロの野をわたって』/「回想=省略の文体」>

 須賀敦子のイタリア文学論のひとつ、『ナタリア・ギンズブルグの作品Lessico famigliareをめぐって』(「イタリア語 ことばの諸相」一九九二年、イタリア書房)は、須賀の作品に大きな影響を与えたギンズブルグのLessico famigliare、すなわち『ある家族の会話』を、文体という視点から具体的に論じたものだ。二つの語りの様式が、この作品には仕掛けられていて、一つは「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」、もう一つは「回想」の叙述における「回想=省略の文体」であると論じられている。前者の、「家族用語」によって話が運ばれる「言葉の記憶=饒舌の文体」については、母の声による『夜半のうた声』に活かされている。ここでは後者の、「回想」の叙述における「回想=省略の文体」についてとりあげてみたい。

《ナタリアが「女のよく陥る自叙伝風の」エクリチュールを極力回避しようとしたのは、自己を中心とした、心理の吐露にかまけた作品としての回想記であり、自叙伝であったと考えられるが、このように言葉によって触発される記憶の詩法は、そのために、もっとも効果的な手法であった。作者がかつて退けた「女性」的要素が、ここで逆転して作品の大きな魅力となったのである。彼女の避けたのが、女性らしさそのものではなくて、くだくだしい心理描写をともなうような文体であったことが、これで理解される。要するに、感傷的で、自己顕示欲のあらわな表現が彼女には耐えられなかったのだ。

 しかし、それだけではない。彼女の文体には、もうひとつの強力な工夫がかくされている。それを、仮りに省略の詩学と呼んでみよう。すなわち、饒舌の対極に、彼女は省略/忌避による沈黙を置く。その例として、回想のなかでもっとも痛みに満ちていてよいはずの、夫レオーネの死を告げる箇所を読んでみよう。

 最初、彼の死は、戦後ナタリアが働きはじめたエイナウディ出版社主のジュリオの託して語られる。

(引用されたイタリア語原文、略)

 レオーネの肖像を壁にかけたのはジュリオ・エイナウディであって、彼女自身ではない。そんなところに、ナタリアの忌避が読みとれるだろう。そして、淡々と、彼の無惨な死が告げられるのだが、この文章が読者の心を打つのは、最後の”un gelido febbraio”という換喩的な表現によってである。作者は、そのこと自体ではなくて、彼が死んだ朝の冷たさをつけくわえることによって、彼女自身の恐ろしさを告げ、この文章を抒情的にむすぶのである。

 もうひとつ例をあげよう。ふたたびレオーネの死に関するものである。

(引用されたイタリア語原文、略)

 アブルッツォの流刑地から、たいへんな苦労をして子供たちといっしょに、「私」は、レオーネの待っているローマに着く。その「ほっとした」(tirai il fiato)から”felice”という形容詞を経て、ローマの緊迫した生活を語ったあと、作者は「彼には二度と会わなかった」(e non lo rividi mai piu)という、これ以上みじかくなり得ない表現で、夫との永劫の別れを読者に告げている。わずかに、しかし、決定的に感情を伝えるのは、feliceに対しておかれた、最後の”mai piu”という絶望的な副詞句で、あとはすべて、「行動で構築」され、感情のはげしさは、「省略」で表現されている。夫との再会のよろこびは、わずかに”tirai il fiato”にとどまり、彼が収容されたレジナ・チェリ刑務所への言及も、拷問のすえの酷たらしい死についても、まったく触れられていない。そして、直後におかれた段落は、大きく息を吸って、泣き声にならないのを確認したうえでのように、つぎの言葉ではじまる。

“Mi ritrovai con mia madre a Firenze.”

 省略が、他のどのような抒情的形容よりも、深い悲しみと強い衝撃を表明しうることを、ギンズブルグは知っていた。(中略)

 省略が用いられるのは、しかし、かならずしも喪失をあらわすためだけではない。つぎのような例はどうであろうか。

 兄たちは、彼ら自身の言動によることもあるが、通常、母親あるいは父親の言葉をとおして「私」の記憶にとどまる。しかし、それだけではない。たとえば、作者がレオーネと結婚することになった過程は、彼女あるいはレオーネの心理に関するかぎり、すべて省略されている。いや、読者にはほとんどなにも知らされないで、その代りに、父母による彼についてのコメントが置かれるのである。(中略)

「自分のことをくだくだと他人にしゃべらない」というナタリアの北イタリア人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ省略ということができる。》

 ギンズブルグを考察した「回想=省略の文体」を頭に入れたうえで、阪神間に生まれ育った人らしい控え目な(羞恥心に根ざした)表現を基底にもつ人だった須賀の『アスフォデロの野をわたって』を読みすすめる。『旅のむこう』は母についてだった。これは夫のことである。そして、先回りして言えば、最後となる次の『オリエント・エクスプレス』は父のことだ。

 

《昼さがりの風がレモンの葉裏をゆっくり吹きぬけると、濃い緑のところどころが季節はずれの淡い黄色で染め抜かれた木立にかすかなざわめきが走る。見上げると、光が乱反射して暗さを感じさせるほど青い七月の空の切れはしが、ちらちらと葉のあいだに揺れている。庭に面した隣家の窓からポンとぶどう酒の栓を抜く音が小さくひびいて、昼食のテーブルをかこんだ家族の会話がぱらぱらと聞こえてくる。》 南イタリア、地中海の光がきらめく、幸福な詩情で『アスフォデロの野をわたって』ははじまる。しかし、すぐ二、三行さきで、そこはかとした、とりとめない不安の影が、前作『旅のむこう』で、日本への新婚旅行で登場してきた、「窓側の席にすわった夫にそうささやくと、彼はだまってうなずいた」、「握手しないで、ただ笑って会釈しただけだった」夫ペッピーノに対して宿る。

《いいよ、ぼくはここのほうが落着く。そう言って三階の部屋で午睡に溺れているペッピーノのほうが正解だったかもしれない。二日まえの午後おそく、ソレントに近いこのペンションに着いて以来、彼はひまさえあれば額にうっすらと汗をかいて眠っている。

 こんなに眠ってばかりいるのは、ただ疲れているだけなのだろうか。私の知らないところで、からだのどこかが蝕まれているのではないか。四年前の秋にペッピーノと結婚したときから、日々を共有するよろこびが大きければ大きいほど、なにかそれが現実ではないように思え、自分は早晩彼を失うことになるのではないかという一見理由のない不安がずっと私のなかにわだかまりつづけていて、それが思ってもいないときにひょいとあたまをもたげることがあった。》

 この不吉な予感は、まるきり根も葉もないわけではなく、彼のひとつ違いの兄は二十一歳のとき結核で死に、妹も、兄の死んだ翌年、おなじ病気で逝った。さらに二年も経たないうちに父親が死んだ。ペッピーノ自身、決して丈夫なほうではなかった。彼はこれらを隠そうとしなかったし、彼の結婚をおくらせていた原因のひとつであることもうすうす感じていたが、過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、人生を変えられるはずだと私たちは信じようとして、結婚に向って走った。友人たちは口をそろえて結婚して彼が明るくなったといった。はじめて知りあったころは、ぼくはあんまり食べ物には興味がないんだ、とつまらなそうな顔をした彼が、いろいろ台所に註文をつけるようになって私をよろこばせ、しばらく会わなかった友人が、結婚してずいぶん元気そうになったじゃないか、などと言ってよろこんでくれたりすると、私はやはりあの不安は杞憂なのかもしれないとほっとするのだった。ソレントで十日間も夏休みをすごすことに決めたとき、仲間たちは彼が「変った」ことを祝福してくれた。ナポリ大学で政治学科の無給助手をしながら、アルバイトのほかに南北問題などの記事を新聞や雑誌に寄稿して生計をたてているロサリオは、ペッピーノが共同経営しているコルシア書店の地方にちらばったカトリック左派の協賛者のひとりで、北にやってくるとかならず書店に立ち寄ってあたらしい情報を仕入れ、また自分たちの近況を伝えて、帰って行った。

そのロサリオに、「夏ぐらいは、人間らしく休みなさいよ」と真剣な顔でさそいかけられると、平穏な生活から遠ざかるのが苦手な夫が、どういう風の吹きまわしだったか、すなおにうんと言った。ロサリオの見つけてくれたペンションは小ウィーンという、ソレントらしくない名だったが、清潔で静か、居心地はよかった。

 ロサリオの友人のモーターボートで遠出をしたとき、エレナというながい金髪の娘がいっしょに来て、婚約者なの、とロサリオにたずねると、うれしそうに白い歯をみせて笑った。彼女はコルシア書店に来たことがあるそうで、ロサリオとおなじナポリ大学の政治学科の学生だった。若い仲間のひとりが銛で仕とめたサン・ピエトロという聖者の名がついた魚に舌つづみをうちながら、教会論がとびだし、キリスト教民主党の批判に飛火して、ひとしきりの政治談議になった。陽にあたると疲れると言って、帰り道、ペッピーノはほとんど口をきかなかった。目だけはいつものように終始笑っていたけれど。ある日、ソレントの浜辺で、ずっと沖に見える島ともいえない岩山まで泳いで行こうということになって、私も泳げるので参加することにした。水がきらいだから、とまったく興味を示さないペッピーノは浜辺に残ったが、戻ってきて波打ち際にいる彼の姿が目にはいったとき、私は一瞬、胸をつかれて立ちつくした。わずか二、三日のうちに真っ赤に日焼けした、このところすこし肉のついた上体を波の動きにつれてゆらゆらと揺らせながら、ながながと水のなかに横たわっている。両手をひじのところで折って胸にあてて、上をむいた頭だけをこころもち上げて、しかもめがねをかけたままで。そばに行くと彼は私を見上げて笑った。赤ん坊じゃあるまいし、を追いかけるように、もうひとつのフレーズがあたまを駆けぬけた、死人じゃあるまいし。

 今日は、すこし遠いけれどペストゥムの遺跡を見に行こうとロサリオたちに言われて、なんとなく重い気持で車に乗った。ポンペイのようなヴェスビオ火山の噴火で埋まったローマ時代の遺跡のひとつだろうと思いこんでいたからだ。火山灰に埋まって命を落した人々の無惨な石膏の人形(ひとがた)はぜったいに見たくなかった。子供のときも、病院の裏口では死者が運び出されると聞いて目をあけないようにして通ったし、キリストの磔刑のさし絵のあるページが目にとびこんでこないように糊で貼りつけてしまって学校で物議をかもしたし、戦争のときも、米軍機の機銃掃射をうけて逃げまわった空襲のあとでさえ、私は死者の姿が目に入らないよう細心の注意を払うのを忘れなかった。《死は、なにがあっても目をそむけるべきもので、一生、死に手を触れないで済ませられるのなら、私はそのほうがよかった。》 車のなかでそんな話をすると、みんなが笑って、教えてくれた。ペストゥムは紀元前にはポセイドニアと呼ばれる、海神にささげられたギリシアの植民地で、いくつかの神殿をふくむ建築物がすばらしく、古代ギリシアの建物としてはどこよりもよく保存されていて、アテネのパルテノンに比べても、勝るとも劣らない、という。古い町の名が、ホメロスの詩への郷愁をさそった。

 ここからの二段落は、『ヴェネツィアの宿』のライト・モティーフのひとつ、「時」についての、詩的であることが哲学的でもある、情景と精神の融合した文章で、この描写がラストの省略の文体の、無言の背景になっている。

《ペストゥムの遺跡の夏枯れの野に、私はひとりで立っていた。着いて車を降りると、なんとなくみながそれぞれの方向に散ってしまったのだった。ゆっくりと傾きはじめた太陽がふいに速度をはやめて森のむこうの海に沈む時間で、オレンジをしぼったような光が、ふたつの神殿のうち他を圧して一段と高くみえるポセイドンの神殿をすっぽりと包み、言葉を失って立ちつくす私も同じ柑橘類の色に染まっていた。ギリシアの神殿に接するのはこれが最初だったが、完全なものがいつもそうであるように、しばらくのあいだはその偉大な調和がかもしだす静謐が、ほとんど人間の手を経ることなくそこに存在していると思わせるほど巧妙な錯覚の網で私をすっぽりと包みこんだ。

 私が見上げているのは、まぼろしの屋根を支える巨大なドリア様式の円柱列に抱かれた、たぐいまれな神々の空間で、明晰という言葉から人間が想像しうる最高の表現と思われるものが夕陽をいっぱいに受けてかがやいていた。柱の一本一本に並行して刻まれた垂直の縦溝が、時間と気候と人の手が刻んだ大小の傷に被われながらも、今日も海に落ちようとしている太陽の光線を、最後の微片にいたるまで逃すことなく荒廃した石の肌に吸いとろうと、根づよい生命のエネルギーのすべてを傾けていて、石に封じこめられた息づまるような精神の集中のとくとくと脈うつ鼓動が聞こえるようだった。》

 ロサリオの声がずっと遠くで聞こえて、廃墟のどこかにはペッピーノも、おなじ光のなかに佇立しているはずだった。みんなのところに行こう。それにしてもペッピーノはどこに行ってしまったのだろう。大きな大理石のかたまりの上によじのぼって、ロサリオはエレナと海を見ていた。ペッピーノは? と訊くと、なんだ、いっしょじゃなかったのか、という。ぼんやりとあたりを見まわした。なんの関連もなく、好きな「オデュッセイア」の一節があたまに浮かんだ。《アキレスは、アスフォデロの野を どんどん横切って行ってしまった》 「アスフォデロ」という言葉の意味が知りたくて、いくつか辞書を引いたが、いろいろな説があって、忘却を象徴する草ということだけわかった。ペッピーノの友人が訳したエイナウディ社の対訳版では、「忘却の野」と形容名詞になっていた。「アキレウスは、忘却の野をすたすた去って行った」

ほんの短い時間、ペッピーノの姿がみえなくなったことで、ロサリオがあわてたぐらい、私はとりみだし、《いわれのない不安に追われるようにして、廃墟に散らばる大小の石に足をとられながら、失くしものを探す子供のように、私は彼を探し歩いた。十日間の休暇は避暑客でごったがえすソレントについてほとんど縁のないままに終って、私たちは愉しかった日々のざわめきを陽焼けした皮膚にとどめただけで、また「人間らしくない」ミラノの日常にもどった。》 ペッピーノを探し歩いた結果を省略している。

学生運動のニュースが伝わってくるようになって、コルシア書店の将来をめぐって仲間たちの意見が対立しはじめた。ペッピーノは慣れているはずの書店のなかで転んで怪我をしたり、大切な用件を忘れたりすることがあって、自分でもふしぎがった。もうすぐクリスマスというある夜、ロサリオがエレナと連れだってメキシコに行ってしまったという報せをもってきた。メキシコの大学で仕事がみつかったんだよ、と言ったが、腑に落ちないのでさらに訊ねると、エレナはほかの男と結婚してたんだ、とぽつんと言った。これからの南イタリアについていっしょうけんめい論議していたロサリオが、大学でのキャリアと南部問題に明るい光を求めようとする情熱をなげうって、エレナといっしょになるだけのためにメキシコに行ってしまったのは、どう考えても彼らしくなかった。そして、翌年の三月の霧のたちこめた夜、ペッピーノがこんどはもっと思いがけない報せをもってかえってきた。ロサリオの訃報だった。心臓の発作で急死したという。それを聞いて、三十をすぎたばかりのロサリオの、なにか生きいそいでいたようなやり方がすこし理解できたように思った。

 ここまでもそうだったが、いっそうの「回想=省略の文体」が、抒情的なむすびとともに、痛々しいほどに生かされている。

《それからまた三か月経つか経たないうちにペッピーノが死んだ。ひと月まえから肋膜炎で床についていたのだったが、その病名を知ったときから。私は夜も昼も、坂道をブレーキのきかない自転車で転げ降りていくような彼をどうやってせきとめるか、そのことしか考えなかった。

 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとりで行ってしまった。

 がらんとしてしまったムジェロ街の部屋で朝、目がさめて、白さばかりが目立つ壁をぼんやりと眺めていると、暮れはてたペストゥムの野でどこかに行ってしまったペッピーノを、石につまずきながら探し歩いている自分が見えるような気のすることがあった。

 アスフォデロが花の名だったのか、ただ単に忘却を意味する普通名詞なのかは、いまだにはっきりしない。》

 

<『オリエント・エクスプレス』/愛するものについて語る>

 場所は、ロンドン、エディンバラミラノ中央駅、そして最後はオリエント・エクスプレスと東京。それぞれ、一行あけて四つに分たれている。時は、一九五九年のこと、書かれた時点から三十四年溯るとはいえ、ロンドンから東京まで、ところどころで父(「彼」とか「あの人」とか、客観的に名づけられもする)の回想が混じりつつも、直線的に流れる。これまでとはちょっと違った、前へ前へと、せっつかれるように時計が進む構成となっているのは、『ヴェネツィアの宿』の円環構造を閉じる大団円だからだろう。

 これ一篇を独立して読むことは、父のヨーロッパからアメリカにかけての一年近い大旅行のいきさつや、父のふたつの家、母の父への思い、父にまつわるあれこれを順に読んできた者にとってはすでに難しく、これまでのさまざまな父に関する言述が堆積した頭と心で、この『オリエント・エクスプレス』を読むことになる。

 

《「朝、九時にキングズ・クロス駅から『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパもおなじ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」

 行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった》という文章で、父の人となりはおおよそわかるが、これにつづく次の文章で、来し方の娘の父への感情が明言される。それを書いておいて、実は、というところが、この一篇の勘所である。

《フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受け入れる気持になった。》 「父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた私」なのである。

 留学先のローマから友人をたずねて、ほんの二週間ほどの予定でイギリスに渡ったところ、ヴィクトリア駅の近くに快適なフラットをきた。それはよかった、金のことなら心配ないから、できるだけ長くロンドン生活を愉しみなさい、という、考えていたよりもはるかに機嫌のいい手紙だった。父からの航空便はどれも、《自分もかつてひと月あまり滞在したことのあるロンドンに娘がいること、しかもその旅行の費用は自分がすべて支えていることへの深いよろこびに文章が踊っていた。》 父の便りは、リージェント・ストリートかなにかの、足がすくむような専門店でワイシャツを買って送れだったり、ロンドン塔に行くまえに漱石を読んでおけと何冊かの岩波文庫が届いたり、《私自身も徐々に父の昂奮に巻き込まれたかたちで、父の手紙とローマから持って来た旅行案内とをハンドバッグに入れて、せっせと父のロンドンを歩きまわった。》 「父の昂奮に巻き込まれた」、「父のロンドン」という表現がせつない。《エディンバラに行ってください、という手紙が届いたときは、以前から自分でも行ってみたいと思っていた場所だったこともあって、私はたちまち素直なロボットみたいに家をとび出した。そしてキングズ・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持で待ちわびた。》 「三等車」、「八月十八日」を記憶の片隅にとどめておこう。

 東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは、午後のおそい時間だった。父に勧められた「ステイション・ホテル」の場面となる。前方にStation Hotelという赤いネオンのしるしがあるのが見え、ネオンの下まで行ってみると、薄暗い、トンネルのような通路が口を開いていて、ちょっと不安になった。《ほんとうにだいじょうぶなのかしら、という気持は、でも、すぐに、いや、そんなはずはない、あの人が泊まったホテルなんだから、という確信に払いのけられて、私は荷物を片手にその細い通路を歩きはじめた。》

 いきおいよくドアをあけると、豪奢なルネッサンスの宮廷のような、美しいシャンデリアが燦いていた。いまさら後戻りするわけにもいかず、赤い絨毯の海を渡り、フロントのカウンターのまえに立つと、でっぷりふとった、盛装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。《キングズ・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。》 「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、という表情が一瞬、老バトラーの顔をよこぎったが、身をのりだすようにして耳をかたむけてくれた。「どうも、私の予算にくらべて、こちらはりっぱすぎるようです」「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」 当然とはいえ、どれも私の予算をはるかに超えたものだった。「ほんとうにもうしわけないけれど……」もういちどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルを教えていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」 老バトラーの糸のように細くなり、贅沢な用箋に別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながら背のびしている私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさってだいじょうぶです。では、おじょうさん、よいご旅行を」

《それにしても、ステイション・ホテルがどういった格の宿なのか、説明もしてくれないなんて。薄暗い朝のあたたかいベッドのなかで、私は、父がうらめしかったが、同時に、三十そこそこで、そんな贅沢旅行をやってのけた若い父親の姿には、どこかいとおしささえ覚えた。高すぎるカウンターのまえで、あの立派な体格のバトラーに言い分をうまく伝えたいと、大汗をかいていた自分を思い出すとちょっとみじめな気もしたが、それでも、この話をしたら、きっとあの人はよろこぶだろう。そうも思った。女のくせに、そんなはずかしい真似をして、と口では叱りながら。》 「口では叱りながら」のあとは、あえて言葉にしない。

 バトラーにいわれたホテルに荷物をおき、街に出た。北国の八月はロンドンよりもっと日が長く、雨もよいのせいだろうか、いつまでも夜になりきれないでいるようにみえた。肩のはった骨太で背の高い男女が、幅のある歩調で、薄暮のなかをゆっくりと歩いて行く。八月というのに重たげな、でも質のいい毛織のジャケットをはおり、がんじょうな靴をはいて闊歩する人々の流れにまじって歩きながら、まるで声のない街にとじこめられたような気がしていた。《父はいったい、どんな顔をしてこの道を歩いたのだろう。私は、少し猫背な彼のうしろ姿が、人びとの群れにまじっているような気がした。》

 エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかった。《エディンバラのお城のそばで、と父はなんども私たちに話してくれた。ちょうどおまえたちぐらいの年齢の、学校の制服を着た女の子が、十人ほど、若い、きれいなシスターに連れられて遊びに来ていた。犬ころみたいに、芝生のうえをころがりまわっていて、なんだ、スコットランドまで来ても子供はおまえたちとおんなじだと思った。

 パパたちがお城の見物をして出てくると、ちょうどシスターも子供をあつめて帰るところだった。どうもひとり、人数が足りないらしい。その子の名をたてつづけに呼んでいた。透きとおった、きれいな声で。

 メアリーという名だったぞ。父は、これだけは忘れてない、といわんばかりに、力をこめて、言った。目をとじて、すこし音痴な声をはりあげ、メアリー、メアリーと若い修道女の声色をまねて、私たちを苦笑させることもあった。》 六ケ月にわたる父の外遊の思い出話のなかには、子供の出てくることがあった。ふと日本でミッション・スクールに通っている娘たちを思い出したのだったろうか。《どんなお天気だったの、その日は。そう訊いておけばよかった。プリンセス・ストリートを西に向って歩きながら、私は思った。》

 突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなかった。地図によると、たしかにエディンバラ城の方角だったが、城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。あれはほんとうにエディンバラ城だったのだろうか。山も岩もすべてが魔性のものに思えて、そのまま散歩を打ち切ってホテルに帰ったのだった。《それにしても、のどかな一幅の絵のような父のエディンバラ城と、私の見た霧のなかの岩山の、なんという隔たりだろう。》

 翌朝は、ガイド・ブックどおりに、いくつかの城をたずね、教会を見学し、美術館をおとずれたが、着いた日の夕方の奇怪な岩山の印象があまりに圧倒的だったので、なにもかもが色褪せてみえた。

 場面は変わり、十一年の時が流れている。

 一九七〇年の三月のある日、ミラノ中央駅にいそいだ。パリ発―イスタンブール行きの国際列車が、入るはずだった。「父上からのおことづけですが」そういって、父の会社の人と名のる会ったことのない人物からの電話が、ローマからミラノの家にあった。二年前に手術をうけた父の癌が、昨年の秋に再発して、もう手のほどこしようのないところまで来ていると、弟がつぎつぎと書いてくる手紙で知っていた。「近々お見舞いに日本に帰られるとのことで、お父様はたいへんおよろこびです」知らない人の声はいった。「それで、おみやげを持って帰ってほしいとおっしゃって、お電話するようお頼まれしたのですが」 十年に二、三度にすぎなかったが、日本に帰るたびに、みやげなんか持って帰るな、と叱り、すなおにありがとうといってくれない父が、こんどはおみやげを持って帰れとことづけする。しかも、父がほしいというのが、かつてそれに乗って旅をした、ワゴン・リ社の客車の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップが欲しいのだという。模型は玩具店ですぐに見つかったが、コーヒー・カップを手に入れる方法がわからないでいると、あちこち探すよりも、じかに列車まで行ったほうが、手っとりばやくないかな、と友人が提案してくれたので、取るものも取りあえず中央駅に出てきたのだった。乗客でもない者に、頒けてくれるのだろうか、と思うと、構内アナウンスが到着を告げたとき、喉がからからになって、息ぐるしいような気がした。《私がこうしているあいだにもひとり死に向っている父に、いましてあげられることは、これだけしかないのだ。夫が死んでふた月後の夏に、母の危篤で帰国したとき、父はすでに一回目の胃の手術を受けたあとだった。母の病状が一応、落着いたあと、父の看護をするために日本にとどまるべきか迷う私に、父はきっぱりいった。おれのために、いまさら、おまえの選んだ生き方を曲げるな。ミラノへ帰れ。》

 「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ」と、はじめてフランスに留学することがきまったとき、父は上気した声でくりかえしたけれど、夢のような列車の名は、あたまのなかを素通りしただけだった。生涯でたった一度になった父の外遊のみやげに、まだ幼かった息子のために買ってきたのは、ドイツのメルクリン社の電気機関車一式で、弟は座敷いっぱいに敷いたレールに、客車と機関車を走らせるのに夢中になって、父をよろこばせた。そのなかには、ワゴン・リ社の、青と金色の車体の寝台車もまじっていて、父は、なつかしそうに国際列車の話を、私たちに話して聞かせた。オリエント・エクスプレスには、若いときに旅をつづけた時間と空間への深い思いがこめられていて、その記憶が、大波のいくつかを乗り越えるうちにようやく仕事に自信をもつようになった父の晩年を、どこかで支えていたに違いない。《会社がひまになったら、とイタリアから私が帰るたびに、父はくりかえした。もう一回、ヨーロッパに行くぞ。》

 列車が停止した。凝縮されたヨーロッパそのものを見るようなうつくしい人々が降り立つ。客車の入口の黒い蝶ネクタイをつけた車掌長に出会った。「少々、おかしなお願いがあるんですけど」「なんなりと、マダム、おっしゃるとおりにいたしましょう」 威厳たっぷりだが人の好さがにじみでている、恰幅のいいその車掌長に、日本にいる父が重病で、若いとき、一九三六年に、パリからシンプロン峠を越えてイスタンブールまで旅したこと、そのオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、たのんで来たことなどを手みじかに話した。ひとつだけ、カップだけでいいから、頒けていただけるかしら、とたずねると、はじめは笑っていた顔をだんだんとかげらせたかと思うと、「わかりました。ちょっとお待ちいただけますか」と低い声でいって、車内に消えた。まもなく大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ包みをもってあらわれた。《ありがとう。そう言った私の声はかすれていた。お代は、とたずねる私に、彼は包みを開いて、白地にブルーの模様がはいったデミ・タスのコーヒー茶碗と敷皿を見せてくれながら、まったくなんでもないように、言った。

「こんなで、よろしいのですか。私からもご病気のお父様によろしくとお伝えください」

 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで。オリエント・エクスプレス……は?

 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィアトリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかけてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。

 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。》 

 雑誌連載時の題名、『古い地図帳』は、最後のこの場面からきた。

 

 うつくしくも、抑制された文章による感動的なクライマックスに水を差すつもりはないが、エディンバラのホテルから父に宛てた手紙を『須賀敦子全集 第8巻』で読むことができる。旅行に相当する部分を、抜き書きしておく。ユーモアに富んだ人柄が偲ばれる。

《十月十日 エジンバラ Royal British Hotel,Princes St.,Edinburgh,Scotland(父宛航空書簡

 ロンドンでは家の近くのトマス・クックで汽車の切符を買って、(もうヨーロッパには三等がないので二等です。それでも、往復七ポンドでした)昨日、一号車ですゝだらけになって旅行しました。(中略)エヂンバラについたのは、ちょうど六時半、クックできいてゐた、ノース・ブリティッシュ・ホテル(ステーションホテル)に行ってみると、いやなんだか立派なので、まづいな、と思って、とにかく値段をきくと47シリングが最低、とても贅沢すぎるので困るといふと、それではお向ひにいゝホテルがございますといふので、ほんたうにいゝホテルですかと念をおして、なるほどこれもなかなか立派なホテル(ロイヤル・ブリティッシュ)の三十七シリングの部屋におちついたわけです。

 エヂンバラはなるほど美しい町です。といっても何か、マクベスとか、あのまほうつかいの婆さん共が祖先といふだけあって、今でも、なんとなく妖怪的な要素あり。今朝、お城の丘にのぼって、霧が吹きよせてくる中で、全く全くふしぎな町だとおもひました。とても廿世紀後半とは思へません。女の人は、ロンドンでびっくりしていたら、いやもう、こゝでは、男の一間で消えてなくなったやうなもので、店の陳列棚も、タータンチェック以外の着るものは、あげるといって追っかけられてこられても必死になって逃げだしたいやうなものばかり。お城の半分は兵営になっていて、チェックのズボン(キルトではなく)をはいた兵隊がたくさん番してましたが、安物のゴム人形のやうな表情ではなはだ興ざめ。(後略) 敦子》

 父への手紙に書いてあることが事実だとするならば、『オリエント・エクスプレス』に書かれた旅行記には、いくつかの言い換え、誇張、修飾、逆にあえて書かなかったことなどがありそうだ。八月、三等車、老バトラーとの会話、人びとの服装、着いた夕方にエディンバラ城に向ったのか、などである。おそらくは、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップの入手、死に際の父の様子にも、多少とも嘘や脚色があるだろう。『ヴェネツィアの宿』十二篇のそこかしこに、それらはあるに違いない。しかし、それがどうしたというのか。

 ふたたびロラン・バルトだが、彼は遺筆となった『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))で、その秘密を説いている。奇しくもそれはミラノ中央駅から書きはじめられる。《数週間前、私はイタリアにごく短期間の旅行をしました。夜、ミラノの駅は寒く、霧がかかり、薄汚れていました。列車が出ようとしていました。それぞれの車輛には黄色いプレートが掛けられ、《ミラノ―レッチェ》と記されておりました》からはじまって、スタンダールのイタリアは、彼にとって、一つの幻想(ファンタスム)だったが、そのイタリア旅日記は失敗に終っていると述べている。《イタリアへの愛を語ってはいるが、それを伝えてくれないこれらの「日記」(これは少なくとも私自身の読後感ですが)だけを読んでいると、悲しげに(あるいは、深刻そうに)、人はつねに愛するものについて語りそこなうと繰り返すのももっともだと思うでしょう。しかし、二十年後、これも愛のねじれた論理の一部である一種の事後作用により、スタンダールはイタリアについてすばらしい文章を書きます。それは、私的日記が語っていたが、伝えてはくれなかったこの喜び、あの輝きでもって、読者である私(私だけではないと思いますが)を熱狂させます。この感嘆すべき文章とは『パルムの僧院』の冒頭の数ページのことです。(中略)スタンダールは、若かった頃、『ローマ、ナポリフィレンツェ』を書いた頃、《……嘘をつくと、私はド・グーリ氏のようだ。私は退屈する》と書くことができました(RNF六四)。彼はまだ知らなかったのです。真実からの迂回であると同時に――何という奇跡でしょう――彼のイタリア熱の、ようやくにして得られた表現であるような嘘が、小説的な嘘があるということを。》

 須賀敦子は、愛する父や母のことを「小説的な嘘」をまじえて書くことによって「愛するもの」について語りきったのに違いない。

                                   (了)

             *****参考または引用文献*****

 *『須賀敦子全集、全八巻および別巻』(河出書房新社

*ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、須賀敦子訳(白水社

ロラン・バルト『長いあいだ、私は早くから寝た』、吉田一義訳(『現代詩手帖 一九八五年十二月臨時増刊 ロラン・バルト』(思潮社))

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』、花輪光訳(みすず書房

ロラン・バルト『人はつねに愛するものについて語りそこなう』(『テクストの出口』、沢崎浩平訳(みすず書房))

湯川豊須賀敦子を読む』(新潮社)

*『三田文学 2014冬 特集須賀敦子』(三田文学編集部)

*『文學界 平成11年5月号 没後1年特別企画「須賀敦子の世界」』(文藝春秋

文学批評 「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

  「丸谷才一『笹まくら』、橋姫、七夕」

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 丸谷才一の長編小説のなかで『笹まくら』(1966年)が最高傑作である、と考える読者はかなりいるのではないだろうか。おそらくその人は、処女長編の『エホバの顔を避けて』(1960年)を著者が習作と呼んでいたとは思わずにすぐれた作品だと感嘆し、対(つい)であるかのように、ほぼ10年ごとに発表された『たつた一人の反乱』(1972年)はまだしも、それ以降の『裏声で歌へ君が代』(1982年)、『女ざかり』(1993年)、『輝く日の宮』(2003年)、『持ち重りする薔薇の花』(2011年)は、モダンな技芸と文明批評との融合によって脳が活性化し、うまい、と膝を打っても、胸高ならすものは感じなかったに違いない。評論、書評、エッセイストとしての丸谷の言うことはいつも正鵠を射るものであるだけに、模範解答、表現形態である小説がつまらないとは言いだしにくい、というのが本音という人もいよう。

 没後も含めて、そう多くはない丸谷才一論を読み進めれば、著者の心情に反して『エホバの顔を避けて』の評判はおおむね高く、『笹まくら』に至ってはいっそうの高みにある。かといって、中後期の長編小説群が失敗作と評されることはまずないが、小説を読む面白さが、夢みるような、身につまされるような経験にあるのだとすれば、少なくとも後者が物足りない。『笹まくら』は二度、三度と読み直すことで、味わいが幾重にも響いてくるのに対して、それら諸作品は再読の気分を起させない。いや、それは、丸谷が生涯にわたって認識していたことで、読者の文化・文明の成熟レベルが追いつかないと知りつつの「たった一人の反乱」、啓蒙活動であったのだ、とも言いうるのだけれど。

 そういった感想を抱いてしまう理由を、はからずも松浦寿輝が、2013年の『エホバの顔を避けて』復刻版(KAWADEルネサンス)の巻末文『栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』で代弁してくれている。

《わたしは丸谷才一のあらゆる作品の何にもまして『エホバの顔を避けて』を愛さずにはいられない。この異形の長編の著者は、その完成の後、これはもう衆目の一致するところの掛け値なしの傑作と呼ぶほかない長編『笹まくら』を書く。(中略)わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹まくら』を心から賞嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、第三長編の『たつた一人の反乱』以降、『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』と続く――先に述べた表現を繰り返すなら――上質な「市民小説」の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えたためしがない。》

 松浦は続ける。《実際、彼自身は『エホバの顔を避けて』を習作でしかないと考え、彼なりの「近代市民小説」の試みの方を自身の本領として、それに自信と矜持を持っていたようだ。》《ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間なのである。そんな男にはひょっとしたら「市民」の資格はないのだろうか。そうかもしれないが、それならそれでいっこう構わない。本音をいうならわたしは、「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていないからである。事実、『エホバの顔を避けて』には、「文明」的な「社交」を楽しむ「近代的市民」など、ただの一人も登場していないではないか。》

 ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間ではないけれども、感じるところはほぼ一緒なのである。さらに言えば、「国家」「戦争」「反乱」はあっても「市民からの逃走」が、「近代市民」「祝祭・呪術論」はあっても「前近代的土着」がなくなったことが理由であるに違いない(この国の総理大臣や経団連会長の顔を思い浮かべるとき、丸谷はパロディストとして、騎士物語に対するセルバンテスのような批評意識によって『ドン・キホーテ』のように書いたとしか思えない)。

 しかし、あまり結論めいたことを急がないで、『笹まくら』の多様な魅力を解きほぐしてゆくべきだろう。

『笹まくら』(1966年夏)執筆以前に、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』の共訳やグレアム・グリーン『不良少年(ブライトン・ロック)』などの英語文学の翻訳があった。処女小説にはその作家のすべてがあるというのと同じように、これまで発表してきた評論をまとめて刊行した処女文芸評論集『梨のつぶて』(1966年秋)に評論家としてのすべてがあることは、目次を見るだけで一目瞭然である。

 文明論としての「未来の日本語のために」「津田左右吉に逆らって」「日本文学のなかの世界文学」「実生活とは何か、実感とは何か」、日本論としての「舟のかよひ路」「家隆伝説」「吉野山はいずくぞ」「鬼貫」「空想家と小説」「菊池寛の亡霊が」「梶井基次郎についての覚書」「小説とユーモア」、西欧論として「「嵐が丘」とその付近」「サロメの三つの顔」「ブラウン神父の周辺」「若いダイダロスの悩み」「西の国の伊達男たち」「エンターテインメントとは何か」「グレアム・グリーンの文体」「父のいない家族」である。

 これから、丸谷および『笹まくら』を論じるにあたって、思いつくまま順不同にあげれば、①国文学、②英文学、③パスティーシュ、④言葉と文体、⑤意識の流れと内的独白、⑥サスペンスとミステリー、⑦スリラーと逃亡、⑧小説と時間、⑨名前、⑩官能的なもの、⑪徴兵忌避と国家論、⑫ユーモアとアイロニー、⑬エンターテインメント、⑭精神風俗、⑮近代と前近代、⑯市民社会と社交と市民小説、⑰モダニズム、⑱神話、⑲祝祭と呪術と御霊信仰、⑳座としての連歌、などの様々な鏡にくるくると万華鏡のように映しだすことは容易であるけれども、丸谷が嫌った月並みな態度は避け、いくつかの重要な言葉を言霊(ことだま)のように「選択」し、丸谷の批評の言葉を「引用」し、「編集」するという「アンソロジスト丸谷才一にならった態度で『笹まくら』の雲母のような多層な煌めきを剥がしてみたい。

 

<『笹まくら』の粗筋>

『笹まくら』の粗筋を、物理的時間軸(ストーリー)のとおりに知ってどうにかなるものではないのだけれど、一応の最低限として共有しておく。

小説の時間(プロット)は「人間的時間」とでもいったもので、はじめに元恋人阿貴子の死亡通知を受け取る現在がある。猥雑に主人公を押し流す現在の時間に、無意識的記憶の過去が一行空けもなく不意に湧きあがったかと思うと、いくども交錯し、クラゲのように揺らぎ、たゆたい、また不安であったり甘やかであったりするスリリングな過去が紡ぎだされては、目の前の社会は容赦なく先へと進み、ときには記憶の過去のなかでさえ思い出は時間の流れに翻弄される笹舟のように行きつ戻りつ、サスペンスの組紐のような物語が織られてゆく。

 

 神道系の私立大学職員で、若い妻陽子のいる平穏な市民浜田庄吉のもとへ、二十年前に恋人だった年上の女阿貴子の死亡通知が四国宇和島から届く。浜田は、東京青山の町医者の息子で、旧制の官立高等工業学校を卒業して無線会社に勤務していた二十歳の昭和十五年秋から五年間、徴兵忌避者だった。

 杉浦健次と名前を変えた徴兵忌避者は、はじめはラジオや時計の修理、ついで砂絵師となって、九州から奥羽、伊豆、北陸、山陰、朝鮮、北海道、和歌山、山陽、四国まで各地を転々とした。憲兵に怯えつつも、隠岐での阿貴子との恋と官能もある、不安でスリリングな「笹まくら」の日々は、阿貴子の実家がある宇和島での八月十五日の終戦で幕を閉じる。その日を境に杉浦健次は浜田庄吉に戻り、後妻に行くと告げる阿貴子との別れの後、浜田は東京へ戻って大学職員に社会復帰した。

 一方、戦後二十年がたち、日本社会の変化を映すように反動化しはじめた学内で、浜田は過去の逃亡の陰口をきく声を耳にしたり、あるいは逆に政治的に利用しようとする動きがあったり、課長への昇進話と高岡の付属高校への左遷話といった学内政治の波に翻弄されたりで、小心翼々、希望と絶望のあいだを揺れ動き、内面は現在と過去を頻繁に往き来する。

 そんなある日、万引きで逮捕された妻陽子を引き取って家に帰る途中で浜田は、泣き寝入る妻の自由な顔に魅惑されて自由(・・)という観念に、悲しい心の高揚を感じていた。徴兵忌避者として家族にも友人にも知らせずに家を出て、東京駅から宮崎へ向かう自由な反逆者。さようなら。しかしそれが何に対する、どれほどの決定的な別れの挨拶(あいさつ)なのかは、二十歳(はたち)の若者にはまだよく判(わか)っていなかった。

 

 小説は、プルースト失われた時を求めて』のように円環を形成して、ウロボロスのような螺旋を描く。ドラマチック・アイロニーのうちに、あれがそうだったのか、あれはどうだったか、とスリリングな時間を構成しなおせ、プロットとストーリーを合体させてミステリアスを解消し、カタルシスを完成させよ、とばかりに再読を促す。

 

<西の国の伊達男たち>

 のちに評論集『梨のつぶて』に収録される『西の国の伊達男たち』で丸谷は、T・S・エリオットについて、『荒地』の詩の一行の重層的な読み方からはじめて、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の多言語的方法との影響関係を論じ、もっとも有名な評論『伝統と個人的な才能』の言わんとするところを述べ、ジョイスユリシーズ』についての評論(『ユリシーズ、秩序、神話』)における、ホメロス叙事詩とのパラレリズム(並行的使用)についての《現代史といふ空虚と混乱にみちた広大な展望を支配し、秩序づけ、意味と形式とを与へる手段》という重要な考察をとりあげた。

 ついで、ジョイスと典型的な文学的流浪者(エグザイル)であったエズラ・パウンドも加えての、ヨーロッパの西(アメリカ、アイルランド)から来た三人が、《真のアヴァンギャルドは古典主義者だといふ命題の正しさを身をもつて證しすることができた。そして彼らの作品は、世紀末から第一次世界大戦を経て、西欧の没落を意識してゐるヨーロッパの、あらゆる不安とあらゆる願ひの、最も正確で最も美しい表現となることができたのである》と伊達男たちを顕彰した。

 ここで、エリオットの『伝統と個人的な才能』から重要な箇所を引用する。

《この歴史的な感覚は、過去が過去であるというだけでなくて、過去が現在に生きているということの認識を含むものであり、それは我々がものを書く時、自分の世代が自分とともにあるということのみならず、ホメロス以来のヨーロッパ文学全体、及びその一部をなしている自分の国の文学全体が、同時に存在していて、一つの秩序を形成していることを感じさせずには置かないものなのである。この歴史的な感覚は、時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる。そしてそれは同時に、時間の流れの中で彼が占めている位置と、彼自身が属している時代に対して、彼を最も敏感にする者なのである。》

『笹まくら』はそういった歴史的な感覚による表現であって、さらには、現在と過去との人間的な「時間」をめぐる構造となっているのは、エリオットの《時間的なものばかりでなくて、時間を越えたものに対する感覚であり、そして又、時間的なものと時間を越えたものを一緒に認識する感覚でもあって、それがあることが文学者に伝統というものを持たせる》ということの果実となっている。

 さて、「西の国の伊達男たち」が活躍したのは二十世紀初頭だが、その八~十世紀もの昔、ヨーロッパの西のアメリカ、アイルランドの反対側、ユーラシア大陸の東の日本に「東の国の伊達な男たち」がいた。いや驚嘆すべきことに多くの女たちもいたのだから、「東の国の伊達男・伊達女たち」がいたと言い直さなければなるまい。それがどういった男と女たちだったかは、これから名前をあげてゆく。

 

<「笹まくら」>

 まず、俊成卿女(しゆんぜいきようのじよ)。

『笹まくら』という小説の題は、フランス語教師の桑野助教授が読んでいた『新訂俊成卿女家集(しゆんぜいきようのじよのかしゆう)』の和歌から来る。

「嫌いなのは『万葉集』。戦争中、はやりすぎたのの反動かもしれないけれど」と応じた桑野は、「これは鎌倉時代?」と問う浜田に、「ええ。新古今時代。藤原俊成の養女。一名、越野禅尼ともいって、十二世紀から十三世紀にかけての歌人です」と、ボードレール学者はまるで文学辞典の項目のように答えた。浜田はページをめくり、目にとまった一首を、声を出して読んでみた。

《「これもまたかりそめ臥(ぶ)しのさゝ枕(まくら)一夜の夢の契(ちぎ)りばかりに。むずかしい歌ですね」》

 桑野は、そうむずかしくはない、刈り、節、笹と竹づくしになっていて、笹枕というのは草枕とおんなしで、旅寝、寝ると言っても、旅さきでのかりそめの恋、万葉時代なら、実際に、笹の密生しているところに頭を置いて寝たのかもしれませんね、とおしゃべりする合間に、浜田が口をはさんで、「かさかさする音が不安な感じでしょうね。やりきれない、不安な旅……」と、笹の音から不安な旅を連想し、戦争中の徴兵忌避者としての体験がこもったまずいことを言ってしまい、和歌山で馬上の憲兵に遭遇した記憶へと運ばれていく。

(なお、俊成卿女の代表作といえば、『新古今和歌集』や『千五百番歌合』の、「下燃えに思ひ消えなむ煙だにあとなき雲のはてぞかなしき」「おもかげの霞める月ぞやどりける春やむかしの袖の涙に」「橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の袖の香ぞする」「梅の花あかぬ色香も昔にておなじかたみの春の夜の月」「風かよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」の複雑精妙な艶麗があげられよう。)

 丸谷は『新々百人一首』の「はしがき」で、「百人一首」との縁からはじまって、「笹まくら」という題との関係を回想している。

 もともとの『百人一首』との縁が、姉たちの取る歌がるた、父の詠みあげる読み札だったのは、たいていの日本人に共通する文学の初体験かもしれないが、わたしがいささか違うのは、中学二年生か三年生のころ萩原朔太郎の詩に夢中になって、とりわけ次の詩に夢中になっていたことである、と言う。

《       旅よりある女に贈る

 

山の頂上にきれいな草むらがある、

その上でわたしたちは寝ころんで居た。

眼をあげてとほい麓の方を眺めると、

いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。

空には風がながれてゐる、

おれは小石をひろつて口にあてながら、

どこといふあておなしに、

ほうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

 

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。》

 後年そのことを思い出して、あれは詩人が大弐三位(だいにのさんみ)の「有馬やま猪名(いな)の笹原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」の影響下に書いたものではないか、そして幼いわたしもまた、大弐三位の作と萩原朔太郎の作とを二重写しにして文学的感銘を受けていたのではないか、と思う。十代のころ、日本文学史を縦断するものとしての藤原定家詩学を漠然と感じ取っていて、やがて『日本文学史早わかり』に結集するような勅撰集重視の考え方を抱懐するようになったのだし、『別冊 百人一首』のような書を編むことになったのだろう、

《いや、もつとさかのぼつて言へば、ごく初期の長編小説に版元の反対を押し切つて『笹まくら』といふ題をつけたのもこれと関係があるに決まつてゐる。すべては猪名の笹原の風にはじまる》との述懐だ。

 萩原朔太郎が伊達男だったことに異論ある者はまずいないだろう。

 桜咲く隠岐の島を舞台にした阿貴子との逢いびきを、隠岐へ流された貴種後鳥羽院との二重写しで描いたことは『後鳥羽院』の「あとがき」に書いてある(《わたしが国学院大学をやめた年の春、彼一流の優しいいたわり方で、野坂昭如が山陰へ連れ出してくれたとき、皆生の宿で、とつぜん隠岐へゆこうという話になったのである。(中略)あの島でわたしがいちばん感動したのは、陵の隣りの、後鳥羽院を祀る隠岐神社の花ざかりにたまたま出会ったことである。あの満開の桜は「ながながし日もあかぬ」と言いたいくらいきれいだった。わたしはこの景色を『笹まくら』に取入れることにして、徴兵忌避者と家出娘とに隠岐神社で花見をさせたのだが、あとで気がついてみると、野坂も『受胎旅行』のなかで、どうしても子供を授からない夫婦にこのお宮の花を眺めさせていた。》)が、坂を登ったところの景観と新枕は、朔太郎も加えての(さらには本歌どりによる大弐三位をも加えての)多重写しで腕を振るったことは間違いあるまい。

隠岐(おき)神社の桜は美しかった。ひろびろとしていて開放的な神域も、隠岐造りと呼ばれる端正ですっきりした様式の本殿その他も、そして銅ぶきの本殿がせおっている低い山の縁も、みなこの白い桜のためにあるような気がしてくる。

「いいお宮ですね」と杉浦は言った。「こういう商売をしてますから、ずいぶんたくさん、ほうぼうのお宮を見ましたが、ここがいちばん気に入ったな。何かこう……」と露天商らしい言葉を探したが、それがどうしてもみつからないので仕方なく、「晴れやかで悲しくて」》

 この「晴れやかで悲しくて」は丸谷の声であろうが、後鳥羽院の歌の、晴れやかで悲しくて官能的な調べであるとともに、朔太郎の草むらの詩のそれでもある。二人は、桜に堪能してから、三郎岩を見に行った。坂を一里ばかり歩かなければならない。砂利を敷いた道は途中でなくなり、あとはもう放牧の牛たちが五六十頭、草を食べたり、間の抜けた声で鳴いたりしている山のなかの径(みち)を登るしかない。これを登れば、海と岩を臨む地点に達することができる。三郎岩の眺めは大したことはなかったが、見晴らしのきく平らなところに坐(すわ)ってぼんやりと、ずいぶん長いあいだ休んだ。立上り、牛たちのいるほうへ降りて行くと、黒と白の斑(まだ)らの大きな牛が不意に出て来て、阿貴子が両手で顔を覆(おお)いながらよろめき、牛はただのそのそと通り過ぎて行った。

《女の白い顔は男の顔のすぐそばにあった。二つの顔が近づき、二つの口が逢(あ)い、男の左腕は女の枕(まくら)となった。(中略)童貞の男は処女でない女の指図に従い、すべてはうまく行った。女がもう一度、しかし前よりも激しく言葉にならない言葉を言った。思いがけなく近いところで、のんびりと牛が鳴いた。一匹が、また一匹が。牛たちにおそらく見まもられながら、青い四月の天の下で、彼は牡牛(おうし)になり彼女は牝牛(めうし)となる。》

  

<『後鳥羽院』の「あとがき」>

 実は、『後鳥羽院』の「あとがき」は、挨拶やいきさつであるとともに、丸谷の文芸批評の見取り図のような趣さえある。『笹まくら』の舞台となった神教系の大学のモデルは、断るまでもなく国学院大学だが、桑野助教授などを思わす錚々たる同僚(1960~70年ごろに海外文学を翻訳、紹介、批評した気鋭の文学者たち)がいて興味深い。少し長くなるが、ここに出てくる固有名詞は新旧の伊達男列伝でもあるので、紹介する。

《これはひょっとすると、わたしと国学院大学との関係を記念するために書かれた本かも知れない。(中略)一つには、何といっても故菊池武一教授の寛容な人柄のせいで、外国語研究室に数多くの優れた同僚がいたためである。そこにはたとえば安藤次男さんがいた。故橋本一明がいた。中野孝次がいた。菅野昭正がいた。清水徹がいた。飯島耕一がいた。これに加うるに、まえまえからの知りあいである篠田一士や川村二郎や永川玲二がいた。(中略)しかし、わたしが『新古今』に熱をあげることになったのは、今となっては遠い昔のある日、何かの用で菊池さんのお宅に伺った際、書架にあった「日本歌学大系」の端本を見て、借りて帰ったのがきっかけのような気がしてならない。そのなかの「東野州聞書」に書きとめてある、

     藤原定家

 生駒山あらしも秋の色に吹く手染の絲のよるぞ悲しき

の正徹の分析にたちまち心をとらえられたのである。それは当時わたしが、永川玲二、高松雄一小池滋、沢崎順之助、その他の同僚たちと一緒にジョイスの『フィネガンズ・ウィイク』を読みながら、主として彼らのおかげで発見することができた『フィネガンス・ウェイク』解読の方法と何一つ変るところがないように感じられた。このときわたしは日本の中世文学を理解し、それと同時に西欧の二十世紀文学を理解したのではないだろうか。あるいは、明治維新以後百年の文学の歪みを知ったのではなかろうか。エリオットの言う「伝統」という概念の真の理解は、まことに奇妙なことに、あるいは当然なことに、わたしの場合「日本歌学大系」によってもたらされたのである。わたしは夢中になって中世の歌論を読み、『新古今』を読んだ。あるいは、ジョイス=エリオットの方法によるものとしての『新古今』を読んだ。わたしがホメロス以後、ないし柿本人麿以後の文学の正統に近づくためには、ただこの態度しかなかったのである。(中略)図書館の書架でたまたま手にした『後鳥羽院御百首』の室町期の古注によって、小学教科書で教わって以来、久しいあいだ疑問としていた、

                     後鳥羽院

  我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ

の謎がとけたのも、このころだったような気がする。そしてこの歌にこだわることは、必然的に、折口信夫の学問へとわたしを導いて行ったし、『女房文学から隠者文学へ』というかけ値なしの傑作はわたしと『新古今』との関係をいっそう深いものにしてくれた。それは日本文学史全体のなかに後鳥羽院と定家とを据えることによって、実は彼らを世界文学のなかにまことに正しく位置づけていたのである。》

 

<貴種流離>

「笹まくら」という枕詞と折口信夫『女房文学から隠者文学へ』と「徴兵忌避」から、当然のように、折口の学説であるヤマトタケル在原業平光源氏源義経などの「貴種流離」が連想されるだろう。丸谷は『後鳥羽院』の「隠岐を夢みる」で、折口は自分を後鳥羽院になぞらえていたのではないかと言う。第一に、この帝が和歌に長けていたこと、詩人として優れ、批評家として有能で、文学運動の指導者として成功した。第二に、宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけったこと(折口も門弟たちを集めて君主のように振る舞って喜んでいたと聞く)、もともと彼には王権への憧れがあって、少年時代、母が実の母かどうかを疑って悩んでいたというのは、むしろ父母が実の父母ではなくてほしいという願望の抑圧された表現だろうし、貴種流離譚という学説は、自分が漂泊の王子でありたいという渇望を核にして生れたものだろう。そして第三に、折口が最も憧れたものは後鳥羽院承久の乱後における、国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのない悲劇的境遇であった。

 ヤマトタケルにおけるオトタチバナヒメ義経における静御前のような救いの女阿貴子を登場させ、後鳥羽院を祀る隠岐神社に二人を向かわせて結ばせたのは、貴種流離めいた小説を書き続けた丸谷の思い入れだったのだろう。それに、杉浦が阿貴子に庇護されたのが四国の宇和島だったのは、蛮社の獄で収監され、脱獄して各地を転々とした高野長英が伊予宇和島藩主の第八代伊達宗城(むねなり)(後妻に行くと阿貴子が告げた「天赦園」を建造したのは宗城(むねなり)の養父七代伊達宗紀(むねただ)(春山))の庇護を受けた地であったことも作用したかもしれないし、さらにこれは深読みにすぎるだろうが、流離の人物と土地の名として種田山頭火(短編小説『横しぐれ』に登場する)の松山や尾崎放哉の小豆島も思い浮かべたかもしれない。

 さて、ここでは、流離を「追われる者」という視点から考えてみたい。

 知られるように、英文学者としてスタートした丸谷は、小説執筆前にグレアム・グリーンの小説『不良少年(ブライトン・ロック)』(1952年)、『負けた者がみな貰う』(1956年)、『ここは戦場だ』(1958年)を翻訳していて、さらに、『エンターテインメントとは何か』(『近代文学』3月号)と『グレアム・グリーンの文体』(『英文法研究』1959年11月号)というグレアム・グリーン論を書いている(どちらも『梨のつぶて』に収録)が、『エンターテインメントとは何か』をみてゆく。

 書き出しの三行で読者を引き付けるのは、丸谷才一の「書評三原則」の一つだった、と鹿島茂は回顧している(『書物の達人』)が、書評ばかりではなく、評論にも適応していたらしい。

グレアム・グリーンがその長編小説をノヴル(novel)とエンターテインメント(entertainment)とに分けていることは周知の事実だが、この国の人々はほとんど、ノヴルはまじめな純文学、エンターテインメントは大衆向けの娯楽読物と考えて、それで安心しているらしい。》 

 ところがこのさき、丸谷にしては珍しく、論旨が定まらず、もやもやしている。実際、最終章に来て、《だが、ここまで記してきても、ぼくはまだ語り終えたという気持になれない。たぶん問題はそれほど錯綜しているのだろうし、グリーンがそれほど韜晦しているのだろう》と呟いているくらいだ。だからここでは、「追われる者」についての部分に限定してとりあげることとするが、それでも、丸谷がグリーンから学んだ躊躇、揺れ動く苦悩、人間性の把握は、丸谷の内面の声のようでもあるだけに、のちにノヴルでもエンターテインメントでもある『笹まくら』に高い次元で活かされたことは間違いない。

 初めの三行を受け、欧米の批評家たちは見解を異にし、ノヴルとエンターテインメントとを同一の次元において、この作家の世界を認識し、鑑賞し、分析することに、丸谷はおおむね賛成し、《エンターテインメントと銘打たれているグリーンの作品群が、ノヴルと銘打たれている彼の作品群と比較して、いくぶん異った味わいを漂わせていることはたしかだが、しかし決定的な品質の相違はぼくには見出し得なかったからである。ましてこの国のいわゆる中間小説のような愚劣さ低級さなど、彼のエンターテインメントのどの一篇にもなかった。(中略)第一、ノヴルにもスリラー的な要素、探偵小説的な技法が極めて多く用いられていることは言うまでもないし、エンターテインメントにもノヴルの場合と同じように、観念が追及され、主題が展開され、文学的一世界が構築されていることは、すこし注意して読めば誰にだって判るはずだ》としている。

 ハイネマン版でエンターテインメントと銘打たれている作品のなかでは、『恐怖省』が最もすぐれている。戦時下のロンドン、妻を殺して獄に送られ、特赦によって世間に出た主人公アーサー・ラウは、何者かが自分を殺そうとしていると確信し、私立探偵レニット氏の事務所へとおもむく。説明を聞いた探偵は一笑に附す。ラウが苛立って、「あなたは今まで、探偵としての生涯で、殺人とか殺人者とかにかかわりあったことは一度もないんですか?」と訊ねると、「率直に申しまして、ないんですよ。一度もありません」とレニット氏は答えてから、けだるそうにたしなめた。「ねえ、人生ってものは探偵小説とは違うんですよ」

 丸谷は、手さぐりで、自分に言い聞かせるような口調をもって続ける。

《ぼくはこの対話を、いわばグリーンの方法への鍵ともなるべき重要なものだと考えたい。グリーンは、人生は探偵小説とは違うということを知っている。しかもグリーンは、レニット探偵の単純で楽天的な知り方とはずいぶん異り、はるかに高い次元でそのことを知っているのである。もしそうでないならば、こういうスリラー仕立ての発端は彼にとって可能だったろうか? この作家は、探偵小説が読者たちに提供する人生のイメージが究極的には偽りのものにすぎぬということと同時に、ぼくたちの人生はある意味で探偵小説と酷似しているということをも知っているのだ。》

《彼は幼いころにマジョリー・ボウエンの長編小説『ミラノの蝮(まむし)』を読み、そこから、人間とは他人から隔絶された孤独な存在であるということ、人間性は白地に黒(ブラツク・アンド・ホワイト)ではなくて灰いろ地に黒(ブラツク・アンド・グレイ)であるということを、学んだ。この少年は、悪に憑かれた暗澹たる人間存在を、一女流作家の通俗的な作品を契機として発見したのである。そして、そのような状況を鋭く追及することによっての、そこからの脱出――それが彼の文学の宿命となったのだし、幼児におけるそのような認識は、彼の主題を決定するとともに、方法をある程度まで規定するようになったと思われる。彼は、極めてスリラー的、探偵小説的な作風を選んだ。》

《彼は、探偵小説の虚偽を――つまり人生は探偵小説とは違うことを――最初から見抜いていた。それは、コナン・ドイルからアガサ・クリスティーにいたる数多くの探偵小説作家に共通する誤謬なのだが、人間悪という重要な事実を、ストーリーのための単なる道具立てとしてしか利用せず、そこから出発してその巨大な課題を究明しようとする文学的努力を、いささかも試みなかったことに起因している。(中略)探偵小説におけるこのような虚偽と欺瞞を、グリーンは批判しようとしたのだ、とぼくは考える。つまり彼は、『シャーロック・ホームズ』に代表されるヴィクトリア時代ふうの娯楽読物(エンターテインメント)に対し、痛烈なパロディを投げつけたのである。(中略)パロディストであるグリーンの批評の方法は、観念的にはたえず神の存在を意識しながら制作することであり、技法的には、探偵小説の定跡である追う者(探偵)に視点を置いた構成に叛逆して、追われる者(犯罪者)に視点を置くこととなる。それは当然、いわゆるスリラーの色彩を濃くもつことになるのだが、このような視点の設定が、人間悪を自己の内部の存在としてとらえるために最適なものであることは、論ずるまでもあるまい。そして、そのような作品のなかのあるものに、エンターテインメントという高度に逆説的な、皮肉きわまる命名をおこなうことは、グリーンのような韜晦癖のある作家の場合、むしろ極めて自然なことだろう。》

 繰り返すようだが、「この作家」とは丸谷才一のことでもあり、グリーンと同じような批評的方法と追われる者に視点を置く構成によって書かれた小説が『笹まくら』だ。

 加えるに、流離というと普通は空間的な土地をめぐる流離をイメージするが、『笹まくら』においては、グリーンも『ブライトン・ロック』などで技法的に用いたように、時間的をめぐる流離でもあることは、小説のページを数度繰るだけでわかる。そういった時間の流れの感覚は、さきにエリオット『伝統と個人的な才能』から引用したとおりである。

 

<橋姫>

 岩国の錦帯橋で、杉浦は阿貴子に自分が徴兵忌避者であることを告白する。いったいに『笹まくら』は阿貴子との逃避行の場面場面が、せつなくもスリリングで美しい。映像美に溢れた雨の錦帯橋の場面の後ろには、おそらく「橋姫」の影が控えているだろう。

 隠岐で結ばれた二人は、隠岐からまず松江へゆき、憲兵特高がこわいので下関へはゆかず、津和野(つわの)、山口、宇部(うべ)。阿貴子のせいで子供たちがよく集まり、砂絵の売れ行きは増したが、杉浦は、ゆきずりに拾った恋人が穿鑿しなくなったこと(本当の名前が杉浦とは違うのではないか、ずっと東京の人だったような気がする、砂絵師にしては言葉がインテリくさい)にかえって怯(おび)えていた。

《岩国は雨だった。小雨がつづいた二日目の朝、二人は宿屋から傘を借りて錦帯橋を見に行った。錦川の水は青みがかった灰いろで、槍倒(やりこか)しの松はもう死に絶えそうになっており、約三百年も前に造られた木の橋は、その極端な人工性によって自然とのあいだに調和を作ろうと、今も懸命に努めている。意外なことに、橋を通る人は誰もいない。彼はそのことに驚きながら、今をのがしたらもう機会はないと考えた。二人は中央の反橋(そりばし)で欄干によりかかり、下流のほうを眺めた。男は不意に別れ話をはじめ、女は、あたしが嫌いになったのかと問い返し、いや、そうじゃないという答えを得た。じゃあ、どうしてなの? 男はさまざまの理由を並べ、一つ一つしりぞけられた。たとえば、砂絵なんてものはせいぜい一人分の生活費しか稼げないし、宮崎の婆さんに仕送りもしなくちゃならない、という理由は、このところ砂絵はよく売れているし、それにあたしの分はあなたに金を出させていないはずだ、というふうに。女は、もうしばらくいっしょにいたいと言って涙を浮べ、番傘の黄いろい光に染められた憂(うれ)い顔が彼の心を激しくゆすぶった。そして彼はとつぜん、告白している自分に気がついたのである。》

 丸谷は『後鳥羽院』のなかで、「橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙」後鳥羽院(『新古今和歌集』冬歌)から「橋姫」を論じ、「七夕説話」との共通点にも言及している。

 橋姫は『新古今』時代の代表的な題材で、宇治の女を詠む流行は、たくさんの名歌を残している。たとえば、「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしくうぢの橋ひめ」藤原定家、「はしひめの袖の朝霜なほさえてかすみふきこす宇治の川風」俊成卿女、などいくらでもあげられる。

 発生的には古代信仰にかかわる話なので、民俗学のほうを調べなければなるまいということで、《柳田国男によれば、「橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀ってゐた美しい女神のことで」、宇治橋に限らず、諸国の数々の橋に橋姫がいた痕跡があるし(たとえば甲斐の国玉(くだま)の大橋、近江の瀬田橋、青梅街道の淀橋、伊勢の神宮宇治橋)》というふうにあたってゆく。『新古今』時代の歌人たちは、何よりも『古今』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらん宇治の橋姫」読人しらず、に魅せられたらしい。また、『源氏物語』の「総角(あげまき)」の「中絶えしものならなくに橋姫の片敷く袖や夜半に濡らさん」という匂宮の歌を介して、「宇治十帖」の世界が寄り添っていた気配がある。

 さらに丸谷は「宇治」と「憂(う)し」との言葉の重層性に言及したあと、モダニズムの定義を展開して「七夕説話」と「橋姫」の共通点に到る。

《二十世紀のヨーロッパに広く見られる現象だが、文学者たちは写実主義から脱出する手がかりを神話に求め、競ってさまざまの神話を枠組としながら彼らの世界を表現した。(中略)歴史主義という近代の病患に犯されぬ限り、人間は常に普遍的なものを尊んできたし、それゆえ神話はこれほど久しいあいだ、何千年の昔から人間の魂をとらえてきたのだ。二十世紀文学の神話的方法は、こういう健全な人間観を再認識し、健全な文学観を再建するための試みにすぎない。

 とすれば、わが王朝の歌人たちが一種の神話的方法を採用したのはいささかも驚くに当らない話だろう。その最も代表的なものは七夕説話で、『古今集』の歌人はたとえば織女の心になって、

  ひさかたの天の河原の渡し守きみ渡りなば梶かくしてよ

と詠み、そして『新古今集』の歌人はたとえば、表むき七夕の歌と見せかけながら、

  七夕のと渡る舟のかぢの葉にいく秋かきつ露の玉づさ

という実は恋歌を詠んだ。そしてわたしの見たところ、『新古今』歌人たちが七夕説話に次いで重んじたものは橋姫伝説にほかならない。

 当然、七夕と橋姫という二つの神話の共通点を探しだすのが必要な手つづきになるわけだが、これは至って易しい。いずれも恋愛神話であり、いずれも悲劇的な設定であると答えればそれで要は尽しているのである。》

 それから丸谷は、第三の共通点として、いっしょに暮している男女ではなく、ときどき逢う仲だという風俗的な視点も考察し、高群逸枝の「擬制婿取婚」と平安後期の白拍子・遊女好みの影響にまで及んでいて、橋の女には複合的、多層的なイメージであって、それはまた、《変転の諸相を隈なく探ることによって普遍的な人間を捉えるという神話的方法の精髄なのである》とした。なるほど阿貴子もそのような女だった。

 

<七夕>

「笹まくら」という言葉、あるいは「橋姫」「七夕」という言葉の力については、村上春樹丸谷才一の短編小説『樹影譚』を論じるなかで、「呪文=ただの言葉」が人の運命を変え、存在を揺るがし、あるいは命さえも奪ってしまう、言霊(ことだま)とでも言うべきそれは、丸谷才一のライトモチーフのひとつなのかもしれない、と語っている(『若い読者のための短編小説案内』)。

《「笹まくら」にしても、徴兵忌避者・杉浦の逃避行が、仮寝の「笹まくら」という言葉に凝縮されてしまうことによって、そこにほとんど圧倒的と言ってもいいような、前近代への吸収作用が生まれでてくる。明治維新(もちろん徴兵制もそこには含まれています)という一見して堅く地均(じなら)しされた土壌のすぐ下に、我々の精神の影の原風景が息づいていることを、たったひとつの言葉の響きから、我々ははっと気づかされることになります。その吸収のすさまじいダイナミズムは、すでに意味を終了してしまったかとも思えていた戦争中の浜田庄吉→杉浦健次の神話的変身譚を、今はさえない中年の主人公・浜田が大学の事務員を勤めている現代まで、さあっと一気に敷衍してしまうことになる。》

 夫婦で出かけた網代の寮で、妻の陽子が七夕の折り紙を買って来たこと(それは小説の最後で、これもまた万引きしたものではなかったのかという浜田の疑念の対象になる)から回想が灯火管制の七夕に溶けこむ。昭和二十年七月の宇和島の七夕を祝う場面には、匂やかでせつない耳の快楽が奏でられていて、こんな小さな宇宙にも夢と現実の天の川が流れている。

 阿貴子が町で短冊紙(たんざくがみ)をようやくみつけてきて、「七夕のとわたる舟のかぢの葉に いく秋かきつ 露の玉づさ」と書き、「しちせきの……」と読んだ。「たなばたの、じゃないかな?」「しちせきの、と読むのよ。母さんにそう教わったんですから」。杉浦は『古今集』か何かの歌だろうな、誰の歌なんだろう、阿貴子はしゃしゃあと「読み人しらず」と答える。夕食が終ってしばらくすると、阿貴子の母が、そろそろ七夕様をしようかと言った。窓際(まどぎわ)に机が置かれて、西瓜や瓜や、空の丼(どんぶり)や小鉢が並べられ、阿貴子が薬罐から水をついだ。

《そよ風が渡るにつれて竹の葉が揺れ、糸で吊(つる)した色紙や短冊や紙の果物が揺れる。砂絵の砂のこぼれ落ちる音が聞こえるようでもある。空の明るさを背景にする黒い笹や黒い紙を見ながら、そしてかすかな音を聞きながら、三人は西瓜を食べた。蚊取線香は机の下で焚(た)いてあるのだが、ときどき蚊の音がする。西瓜の匂いのせいだろうか、竹の葉の匂いのせいだろうか、今朝の阿貴子の肢体の思い出がなまなましく迫ってくる。今夜は城山のサイレンが鳴らなければいいが、と阿貴子の母が言った。杉浦が、この部屋にも置いてあるラジオのスイッチを押し、小さな音で聞えるようにした。ラジオのダイヤルの灯りが洩(も)れぬよう、阿貴子が風呂敷をかぶせた。ラジオ・ドラマがとぎれ、アナウンサーが沈痛な声で言った。どうやら今夜は仙台と宇都宮の番らしい。阿貴子の母は、北の方でよかったと呟いた。ラジオ・ドラマがまたはじまった。母に催促されて、阿貴子が丼や小鉢の水を捨て、新しい水をついだ。これは牽牛(けんぎゅう)・織女が渡りやすいように天の川の水をきれいにするという意味なのか、どうか、杉浦は訊ねたかったが、我慢して口には出さない。去年、同じことを質問して、そういうしきたりなのだとしか答えてもらえなかったことを思い出したからである。真桑瓜を一きれ食べると、阿貴子の母はもうやすむことにすると言って下へ降りて行った。杉浦は瓜を食べるのをやめ、阿貴子の乳房を服の上から触り、乳首が硬くなってくるとスナップをはずした。白い顔がそばに寄って来て、息をはずませながら彼の唇を探す。》

 丸谷は『新々百人一首』で「七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ」を詳しく論じている。もちろん丸谷才一は杉浦健次ではないから、「読み人しらず」でも「しちせき」でも『古今集』でもなく、「藤原俊成(ふじわらのとしなり)」であり「たなばた」であり『新古今和歌集』である。秋は男女がはじめて関係する季節であったらしいこと、日本の七夕祭について書くことは民俗学的方法が手に余る難しいことで、折口信夫の説を紹介しながら、中国の乞巧奠(きこうでん)の移入というだけでは説明のつかない要素が多いことをあげている。一首は華麗な縁語的世界、天の川の系列の天界の層(「七夕」「門(と)」「渡る」「舟」「梶」「露」)と恋文の系列の地上・人間の世界の層(「梶の葉」「書く」「露」)の二層によって形づくられていて、久保田淳が『新古今集』の部立では秋歌になっているが「この歌、実は恋の歌」と説くのは正しいとしている。

 折口の説を後押ししようと『笹まくら』で描写された宇和島の七夕の習慣についても紹介している。

《たとへば四国の宇和島では、いくつかの盥(たらひ)に洗面器に水を張って、一晩ぢゆうしきりに水を取替へる。これをするのはたいてい女である。こんなことは中国ではどうもしないらしいし、すくなくともわたしの探した範囲では見つからなかつた。宇和島のこの習俗は、普通、星を水に映して祭るのだと考えられてゐるやうだが、そのためなら水を取替へるのはをかしい。ところがこれはミソギに奉仕する水の女には符合するのである。》

 ついで丸谷は、折口信夫が『たなばた供養』のなかで言う、七夕には衣を貸すという風俗に言及したあと、小南一郎の『中国の神話と物語り』と西村享の『王朝びとの四季』をあげながら、オージー(祭、乱痴気騒ぎ)によるカーニヴァル的な祝祭、七夕の日に男女相会う、性の解放という習俗が平安朝以前からあったのではないかと考え、さらには柳田国男盂蘭盆会の笹竹からはじまって、ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の世界と「死と再生」へ、モダニズム的思考によって歩んでゆく。

《なほ、日本の七夕祭の古層としては、これは柳田国男の説だが、盂蘭盆会(うらぼんえ)の古形の一環として死者の霊を迎へるといふ気持があつたらしい。これでゆけば、笹竹を飾るのは魂の依代(よりしろ)といふことになるわけだ。死者の霊を祭ることと性の解放とが同じ日におこなはれるのは、近代人の意識から言へば不思議な話だが、「死と再生」が古代人にとつて最も重要な図式であつたことを考へれば、ある程度、納得がゆくかもしれない。ずいぶん遠いところから、しかも時代としてはついこのあひだのところから、例を引くことになるけれど、たとへばアイルランドの通夜(ウエイク)では、死者の棺のかたはらで種々の猥褻なゲームがおこなわはれ、さらには贋の司祭(藁の服を着て縄のストラをかけてゐる)が贋の結婚式を司る。そしてマライア・エッジワース(一七六七~一八四九)によれば、通夜(ウエイク)ののち関係する男女は「婚礼によつて関係する男女よりも多い」といふ(エバンズ『アイルランドの習俗』)。このことは、折口、西村、柳田、小南の説を参照しながら原始のころの日本の秋のはじめを想像するに当り、いろいろと参考になるだろう。》

 七夕における「死と再生」。『笹まくら』がなぜ香奠の話、阿貴子(恋のはじまる秋(アキ)子)の死の知らせからはじまり、浜田庄吉の自由な生への逃走、杉浦健次への再生で終るのかはすでにあきらかであろう。

『笹まくら』には、東と西の伊達男・伊達女たちによる、伝統と個人的才能、方法と主題との、幸福な婚姻がある。

                                     (了)

            ******参照または引用文献******

*『丸谷才一全集 第一巻~十二巻』(文芸春秋

丸谷才一『エホバの顔を避けて』(KAWADEルネサンス)(巻末文、松浦寿輝栄光ある孤立――『エホバの顔を避けて』』)(河出書房新社

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)

丸谷才一『梨のつぶて』(晶文社

*『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編、川本三郎湯川豊岡野弘彦鹿島茂、関容子(集英社新書

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)

*『エリオット選集 第一巻』(『伝統と個人的な才能』吉田健一訳、所収)(彌生書房)

鶴見俊輔高野長英』(朝日選書)

グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳(早川書房

文学批評 「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

「『万延元年のフットボール』にあらわれた御霊(ごりょう)曾我兄弟」

 

 

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<四国の森の兄と弟>

 四国の森と谷間を舞台とした大江健三郎の初期小説では、「僕=兄」と「弟」が定型のように現れ、「地形学的(トポグラフィック)な構造」空間のなかで行動をともにする。

 短編小説『飼育』(一九五八年)の冒頭はこうだ。

《僕と弟は、谷底の仮説火葬場、灌木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。谷底はすでに、夕暮と霧、林に湧く地下水のように冷たい霧におおいつくされていたが、僕たちの住む、谷間へかたむいた山腹の、石を敷きつめた道を囲む小さい村には、葡萄色(ぶどういろ)の光がなだれていた。僕は屈めていた腰を伸ばし、力のない欠伸(あくび)を口腔いっぱいにふくらませた。弟も立ちあがり小さい欠伸をしてから僕に微笑みかけた。》

 中編小説『芽むしり仔撃ち』(一九五八年)でも、『飼育』同様に、兄の暴力と庇護、弟の恭順と柔和のもと、「僕ら」という仲睦まじさが基底に流れている。

《出発の日まで二週間の余裕があり、その間に親もとへ引取りを要請する最後の手紙が出され、院児たちは激しい期待をそれにかけた。一週間目に、かつて僕を告発した僕の父が軍靴をはき徴工用の帽子をかぶって、弟をつれてあらわれた時、僕は歓喜におそわれた。しかし父は、弟を疎開するための土地を探しあぐねて、そのあげく感化院の集団疎開に弟を便乗させることを考えついたというわけだった。僕は失望にうちひしがれた。それでも父が帰って行ったあとでは僕は弟とかたく抱きあったのだ。

 弟は僕ら少年の犯罪者たちの間へ入り、その服装を着せられたことで、始めの二三日、好奇心と喜びに異常なほど興奮していた。》

 十年後の長編小説『万延元年のフットボール』(一九六七年)には、「僕=兄」蜜三郎と、「弟」鷹四が登場するが、少年ではなく、青年を経て壮年になりつつある。すでに「戦争直後の数年間僕が弟にもっていた絶大な影響力」は懐かしみとなり、反撥、対抗意識、敵意の関係のはざまで、荒ぶる暴力的な弟と、和やかな傍観者の兄という対照で登場する。

《「いま、蜜(・)が東京でやっているすべてのことを放棄して、おれと一緒に四国へ行かないか? それは新生活のはじめ方として悪くないよ、蜜(・)!」と鷹四は、僕がたちどころにそれを拒否するのではないかという率直な懸念を示しながらも、結局は誘惑する力をこめていった。》

 これら三篇とも、小説の終局になると、兄と弟は死の匂いに浸りながら、解離したうえで、さらなる融合を目指そうとする。

『飼育』では、弟の掌の下で深く引きこむ眠りの中へ入って行った僕は、昼すぎに目ざめ、町役場の書記の橇による事故死を見とどけてから、弟を捜すために草原をおりて行った。

『芽むしり仔撃ち』では、疫病に罹っている愛犬を撲殺された弟は駆け去って行き、帰って来なかったが、洪水があった谷の岩の間で携帯品袋が発見される。

万延元年のフットボール』では、弟鷹四は自栽するが、兄蜜三郎はそのことから気づかされて新たな生へ向かう。

 

<小説の物語>

 いちおう『万延元年のフットボール』のあら筋を紹介しておくことにするが、その前に大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』から、少しだけ引用しておきたい。ここで、「二人の人物」とは蜜三郎と鷹四、「二つの作品」とは『飼育』と『芽むしり仔撃ち』のことだ。

《一九六七年に書いた『万延元年のフットボール』では、いわば二人の人物に分割された私自身が、さきの二つの作品によってかたち作られ始めた、森の中の集落の地形学的な構造のなかに帰って行き、その「場所」をあらためて認識してゆきます。そして集落がやはり洪水によって下方の村や町、小都市から切り離されている期間に、二人ながらに――兄弟の兄は傍観者として、弟は東京でなしとげえなかった革命的な達成をパロディ的にやりなおす行動者、あるいは演技者として――ひとつの悲劇を生きる過程が、小説の物語です。》

 さてあら筋である。

 

「僕」こと根所(ねどころ)蜜三郎は、脳に障害のある息子を養護施設に預け、野生動物の記録の翻訳を仕事にしている。妻菜採子(なつこ)はウィスキー依存となっていて、子供ができてから夫婦の性交渉はなくなっている。蜜三郎の大学時代の友人が、顔と頭を朱に塗りつぶして、肛門に胡瓜をさしこみ、素裸で縊死してしまう。死んだ友人の祖母が、サルダヒコのような、と言った。

 蜜三郎の弟鷹四は、一九六〇年の政治行動(日米安保条約改訂闘争)に参加した学生による転向劇の座員としてアメリカに渡ったが、放浪生活を切りあげて帰国する。鷹四は蜜三郎を新生活に導くため、二人の生まれ故郷の四国へ誘う。

 兄弟の曾祖父は谷間の村の庄屋であり、百年前の万延元年(一八六〇年。日米修好通商条約に調印した大老井伊直助、桜田門外の変で暗殺。批准のため遣米使節団派遣される)の一揆で、曾祖父と騒動を組織した弟が対立し、曾祖父が弟を銃で殺すことで騒動を治めたという噂があった(鷹四はこれを信じた)。また別の噂として、曾祖父が騒動の後で弟を高知に逃がし、弟は維新政府の高官になったというのもあった(蜜三郎はこちらを信じた)。

 蜜三郎と妻はバスで四国の森へ入るが、洪水で橋が壊れたままになっている。ずっと家を管理させていた、むかし鷹四の子守娘だった痩せ型のジンが、大食病によって体重百三十二キロの「日本一の大女」になっていた。

 鷹四は曾祖父の弟と、敗戦直後に復員して来たS次兄さんが朝鮮人集落と村の若者たちとの衝突で撲殺されたこととに自己同一性を求め、谷間の若者たちを組織して、フットボール・チームを作る。一方、蜜三郎は傍観者を自認している。村は「スーパー・マーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人のスーパーに経済的に支配されているが、鷹四はフットボール・チームの若者や村人を扇動して、万延元年の一揆に重ねあわせた、スーパーの略奪という「想像力の暴動」を実行する。

 曾祖父やその弟、S兄の「御霊」の扮装をした念仏踊りがある。鷹四は兄の妻菜採子と性交渉を持ったうえに、谷間の村の肉体派の娘を強姦しようとして殺害する(もしくは罪を背負う)。さらには、「本当の事を言おう」と、かつて白痴の妹が自殺した原因は、貴種流離譚を作りあげ、曾祖父とその弟以来の家系にひどく拡大した誇りを抱いていた自分との近親相姦による妊娠、堕胎、不妊手術のせいだと告白し、猟銃で頭を柘榴のように撃って自殺してしまう。

 谷間の村の象徴的存在だった根所家の倉屋敷が、鷹四から買いとったスーパー・マーケットの天皇の手で解体されると、地下倉が発見される。万延元年の一揆後、曾祖父の弟は、殺されも逃亡もせず、失敗した一揆の指導者の責任をとって、地下倉に三十年間、兄と手紙のやりとりをしながら非転向のままに、自己幽閉していたとわかる。そして、万延元年から十一年後の明治四年の廃藩置県のさい、大参事を自殺に追い込み、処罰はなしという成功裡の騒動で、「頑民総代」として官憲と交渉したひとりの猫背の大男の指導者は、曾祖父の弟が、突然地上に再現した姿に違いない、と推定させた。

 曾祖父の弟と鷹四は、自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んだ。自分のidentityを確かめて、自己統一をとげたのだ、と気づかせ、僕に新しい生き方を発見させる。

 

<「外部」と「歴史」>

 再び、大江のエッセイ『小説の神話宇宙に私を探す試み』に戻る。

「歴史」について詳しく見てゆきたいのだが、その前段階として「外部」という重要概念を説明しているので、注意しておこう。

《『飼育』において、森のなかの村に突然入り込んで来たのは、戦っている敵国の、日本人とはあきらかに皮膚の色も違う異邦人の兵士でした。それは集落の「外部」の人間を、アレゴリー的にまで徹底している人物です。『芽むしり仔撃ち』では、都市の空襲による被害から逃げ出して来た、少年院に収容されていた少年たちが、「外部」からの人間としてやって来た者たちでした。》

 続いて『芽むしり仔撃ち』から『万延元年のフットボール』に入り込んで来たもの、それは「歴史」である。

《ところが『万延元年のフットボール』には「歴史」が荒あらしく入り込んで、この地形学的な構造のなかで起る出来事を二重構造にしたのです。万延元年(一八六〇)と一九六〇年とが百年をへだてて照応しあって、お互いに意味を喚起し続けるのです。》

《さて、「歴史」を『万延元年のフットボール』のなかへみちびき込むことをさせたきっかけ(・・・・)は、私がずっと耳にして生きて来た、土地の民話なのでした。小説の舞台のみならず、その主題にも浸透している集落の地形学的構造が、私の幼少時の目にうつる環境であったのに対して、私はそれらの民話を耳からとりいれる環境の構造として、成長してきたのです。それは『万延元年のフットボール』を書いている時点で、当の私にふたつのレヴェルで把握しなおされていたのでした。》

 そうして土地の民話的伝承と、祝祭的な踊りの歌とが説明されてゆく。

《第一は、祖母と母に聞かされて育った、この土地の民話的伝承です。『万延元年のフットボール』を書いた時、私はそのなかでも、ほぼ百年前に起った二度の百姓一揆を語りつたえるものに、とくに関心を集中していました。

 祖母は幼少女期に、この出来事に実際に関わった人々と同じ社会に生きました。したがって彼女の語る民話には、実際に会った人々についてのエピソード的な思い出話がつねに加えられるのでした。祖母には独特なナラティヴの才能があり、彼女は自分の人生で経験されたすべてのことを、かつて聞き覚えた民話のナラティヴのまま語ることができました。それは新しい民話を創造することでもあり、それとの結びつきにおいて、この地方に伝わって来た、もっと古い民話を再創造することにもなりました。

 しかも彼女は語り手(祖母)と聞き手(私)とがともにそのなかで生きている集落の地形学的な構造に、その民話のそれぞれを具体的に位置づけて語ったのです。それは祖母のナラティヴにリアリティーをあたえました。また、それは集落のいちいちに、民話的=神話的意味を確認しなおすことでもありました。》

 ついで、祝祭の踊りの音頭の「もどき」が語られる。

《もうひとつの動機は、一九四五年の敗戦の直後、戦中には自粛されていた秋祭りが、農民たちによって回復されたことに直接根ざしています。それを運営したもっとも活動的なメムバーは、軍隊から復員してきた若者たちで、かれらは農村の日常生活にあらためて入り込み適応してゆくよりも、まず非日常的な祝祭の気分で、一種の休暇を楽しもうとしていたのでした。

 さて、そのようにして小学校の校庭で行なわれた秋祭りの踊りで、屋台に上った農民の歌い手が、「もどき」と呼ばれる音頭を歌ったのです。それはこの地方に起った二度の百姓一揆の物語を叙事詩的に語るもので、特徴として、集落を囲む森の、また集落のなかの地名を、一揆の行列の進み具合にそくして、いちいち歌い込んでいました。「もどき」は、私にとって、まず集落の地形学的な構造の物語であり、祖母から聞いてきた民話的=神話的な物語の、祝祭的なナラティヴによるパフォーマンスでもあったのでした。》

 二つが統合されて、新生を吹き込んだ。

《私はこの二つの契機によって、『万延元年のフットボール』の、東京に出て行った兄弟をあらためて集落に呼び戻し、一九六〇年代の物語と百年前の物語とを、その地形学的な構造のなかで結びつける方法に辿りついたのでした。それは私にとって、作家としての再出発を意味していました。》

 この兄弟は、谷間の村という「場所」の内部で生まれ育ち、都市へ向けて出て行ったが、再び「外部」から訪れるものとして、「民話=神話的伝承」を祝祭のうちにとり戻して行く。

 

柳田国男折口信夫

 森をめぐる物語は、『万延元年のフットボール』(一九六七年)に続いて、ほぼ十年ごとに書かれた『同時代ゲーム』(一九七九年)、そして『M/Tと森のフシギの物語』(一九八六年)および『懐かしい年への手紙』(一九八七年)になると、ブレイク、イェーツ、ダンテなどの西洋的な物語を援用することで、「村=国家=小宇宙」の螺旋階段を地獄めぐりのように降りくだってゆくことになるのだけれど、『万延元年のフットボール』においては、柳田国男折口信夫の影響が大きい。小説の中で宣言されている。

 まず柳田国男については、第3章「森の力」で、僕と妻の菜採子が、迎えに来た鷹四のジープで森の谷間の村に入る時に、妻が「私もバスに乗って以来、この森の力は増大していると感じつづけていたの。私はその森の力に圧迫されて気が遠くなりそうだったもの」と言いだすと、鷹四が「森の恐怖をそのように敏感に感じとる人間は、発狂して森に逃げこむ人間と対極をなすかといえば、それはそうではなくて、むしろこのふたつの人間は、心理的にはひとつのタイプだと思うよ」と言ったことからである。

《僕は発狂した妻が森の奥へ駈けこむ光景を思いえがこうとして連想の鎖をたちきったのである。僕は柳田国男の《裸にして腰のまわりだけに襤褸を引き纏い、髪の毛は赤く、目は青くして光っていた》女について書いた文章を想起しつつあったのである。《山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常にたいせつな問題の端緒かもしれぬ》》

 これは柳田国男遠野物語』で提起された「山人」の、その後の「山人論」考察の成果である『山の人生』の「五 女人の山に入る者多き事」からである。何といっても森は狂気の場所なのだ。「産後の発狂」云々には妻菜採子の産後の精神不安からの連想があるうえ、のちに「御霊」となる鷹四の子を身籠ることへのおどろおどろしい予見さえ臭ってくる。

 第7章「念仏踊りの復興」では折口信夫の説がでてくる。妻が僕に、谷間の盂蘭盆会(うらぼんえ)の風習について説明をもとめたので、念仏踊りについて説明する。

《外部からこの窪地を襲って災厄をもたらす邪悪なものの典型がチョウソカベであり、それは谷間の民衆から絶対に拒否される敵であるが、窪地には、それとは異なったもう一種の邪悪なもの乃至は、邪悪をなすものが訪れる。しかもそれは谷間の人間にとって、それを拒否し外部へ押し戻すだけでは解決できない性格をもった存在である。なぜなら、もともとそれは谷間の民衆に属するものたちだからである。毎年、盂蘭盆会にそれらは森の高みから敷石道をつたう一列の行列をなして谷間に戻り、生きている人々に敬意をこめてむかえられる。僕は、折口信夫の論文によって、森から戻ってくるところのものが、すなわち森=他界から谷間=現世に働きかけて害をなすことのある「御霊」であることを教えられた。谷間に執拗な洪水が荒れたり、イモチが猖獗をきわめたりすると、それは「御霊」によるとされて、かれらを慰めるためにその盂蘭盆会に人々は熱情を燃やす。(中略)毎年、森から一列になって降りてくる盂蘭盆会の行列は、僕の家の前庭に辿りついて円陣を作って踊り、最後には倉屋敷に上りこんで座敷ボメをすませた後飲み食いしたので、盂蘭盆会の行列を見物することに限っていえば、僕は谷間のすべての子供たちのうち特権的な位置にあった。》

念仏踊りは万延元年の一揆を起点としてできあがった風習なの?」と妻が問う。僕は折口を援用した説明を加える。

《「いや、そういうことはない。それ以前から念仏踊りはおこなわれていたし、『御霊』は谷間に人間が住みはじめた時以来、存在しつづけてきただろう。一揆後、数年あるいは、数十年は曾祖父さんの弟の『御霊』もS兄さんの『御霊』同様に、行列のびりっかすのあたりでシゴかれる初歩的な『御霊』にすぎなかったにちがいない。折口信夫は、この新しい『御霊』のことを新発意(シンボチ)と呼んで、念仏踊りをつうじておこなわれる、そうした新入生の訓練を拷(シオ)りと定義していた。扮装をつけて激しく動きまわる念仏踊りは相当な重労働だから、『御霊』自身の訓練は別の話にしても、それに扮した村の若者にとっては確かに、充分シゴかれて訓練されることになるにちがいない。」

折口信夫の論文」というのは、折口最晩年の『民族史観における他界観念』であろう。僕の説明に直接該当する部分の前後も重要なので、長くなるが引用しておく。

「荒ぶる霊」という章には、「御霊」に関する折口論が集約されている。

《(前略)御霊は、――古くは――宮廷及び京師の市民に祟る悪霊の称であって、事実から言えば、神化していない人間の悪執である。霊気(リヤウケ)即、やや新しく、知識的な言い方だが、普通はもののけである。執念を、個人又は、ある一家・一族に持つものが其であって、此れの範囲が拡り、禍が一般的になったものが御霊(ゴリヤウ)である。古い歴史を持ったまま継続した「御霊」は、奈良から平安時代にかけて起ったものだから、奈良京・平安京の持ち主とも言うべき宮廷への怨念を、宮廷直轄の地とも言うべき京師の民・作物に表現したものである。人間或は物品に寄せて、悪念のなす所を示すことが、たたるの語義である。(中略)邪霊の、とりわけ人間死者のなす所と解せられるものは、皆御霊(ゴリヤウ)と謂われるようになった。多く土地百姓に祟り、疫病を行い、農業を妨げ、稲虫を生ぜしめた。必しも善人の不幸に横死したものばかりではなかった。却て多く凶悪・暴戻な者が、死んで農村・産業を災したものが数えきれない程である。近世まで之を御霊と言ったり言わなかったり、いろいろしているが、その傾向のものは、後から後から頻りに出た。御霊の類裔の激増する時期が到来した。戦争である。戦場で一時に、多勢の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言うべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるようになった。そうして、御霊信仰は、内容も様式も変って来た。戦死人の亡執を表現するのが、主として念仏踊りであって、亡霊自ら動作するものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。》

 ついで、「念仏踊り」の章が続くが、谷間の念仏踊りに瓜ふたつと言えよう。そして、宗教行事であると共に芸能演技である、霊魂を攻め虐げて完成させようとする目的と合致するという考察は、この小説の核ともなっている。

《村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顕す。道を降りながら行う念仏踊りは、縦隊で後進する。家に入ると、庭で円陣を作って踊ることが多い。迎えられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻って踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。(中略)一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものの意義から言えば、無縁亡魂を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行われる修練行だと言えぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊)の中心となるものに二つあって、才芸(音頭)又は新発意(シンボチ)と言う名で表している。新発意は先達(センダチ)の指導を受ける後達(ゴタチ)の代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。ここで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集って、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考えた信仰が、こういう形で示されているのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛えあげられることに当る。》

 

<曾我物語>

「御霊」といえば、平将門菅原道真崇徳院とともに、曾我十郎(兄)・五郎(弟)の曾我兄弟の御霊はまず外せないところだ。『曾我物語』をもとに書かれた曾我物、曾我狂言として歌舞伎、能、謡曲で演じられてきたのは知られるところで、江戸時代の流行は去ったとはいえ、今でもよく初春興行される『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』はつとに名高い。

万延元年のフットボール』で兄蜜三郎は次のような認識者としての言葉を寺の若い住職に発する。

《僕は根所家の人間のうちで、万延元年の事件から勇壮な暗示を受けとることを拒む側のタイプの血をうけついでいるんです。見る夢にしても、曾祖父さんのヒロイックな弟に自分を同一化するかわりに、恐れおののいて倉屋敷に閉じこもっているばかりか、曾祖父さんのように鉄砲を撃つほどのこともしない臆病な傍観者として惨めな夢を見る始末ですよ》

 曾我狂言における和事(わごと)の曾我十郎は兄蜜三郎ほどに臆病な傍観者ではないものの、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』での十郎の性根は、「立騒いで尾籠な弟」を「ジッと辛抱しやいのウ」といい留めるところにある。五郎が派手で、弟鷹四のようにヒロイックで仕所がある役のようにみえるのは荒事(あらごと)ゆえである。坂田藤十郎に代表される上方風の優雅で女性的な色男の表現で演じる和事と、市川團十郎に代表される江戸風の男性的で烈しい祭祀的な信仰の力と情念で演じる荒事の対照は、興行的な利点もさることながら、演劇的なバロックの美意識ともいえよう。

 もとになった『曾我物語』を紹介しておく。

 

 工藤大夫祐隆は後妻の連れ子と通じて子を産ませ、養子伊東祐継として伊東庄(いとうのしょう)を継がせた。嫡孫の河津次郎祐親は、箱根権現の別当に祐継を調伏させ、病に倒れた祐継を見舞って後事を託される。その死後、伊東庄に入って、姓を伊東に改め、祐継の子、工藤祐経に自分の娘を嫁がせたうえ、京の平重盛に仕えさせることで所領を奪った。

 工藤祐経は母の死にさいし、父の形見の譲り状によって、伊東庄が河津(伊東)次郎祐親のものではなく、自分の所有だと気づく。そのうえ、祐親の娘だった祐経の妻は実家に引取られてしまう。妻と領地とを奪われた祐経は、年来の家臣、大見の小弥太と八幡の三郎に、怨みを晴らしてくれまいかと持ちかけた。このころ伊藤の館には流人の身の源頼朝(佐殿(すけどの))がいたが、退屈を慰めようと三日三夜の宴ののち天城のあたりで狩りに興じた。二人の刺客は狩の帰りの河津三郎祐重(祐親の長男)を射る。祐重は首謀は工藤祐経であり、家臣の大見と八幡を見かけたと言い残して落命する。

 祐親には男の子が三人いた。兄は五歳の一万(後の十郎)、弟は三歳の箱王(後の五郎)、そして父の死の翌日に生れた御坊(後の伊東禅師)である。彼らの母は尼になる覚悟を固めていたが、舅の祐親の諭しで曾我太郎に長男、次男を連れて縁づく。

 その後、娘に通って子をなした頼朝を夜討ちにしようとした祐親は、頼朝が関東に覇権を唱えてのち討たれ、頼朝の誘いを断って平家方に加わった河津(伊東)一族は零落した。一方、工藤祐経は、頼朝の寵臣となって、伊東庄ほかの領地を賜わる。

 曾我兄弟は継父、曾我太郎の下で育ったが、九つと七つの年に、実の父を恋い、仇敵の工藤祐経を討つことを誓いあう。三年後、工藤祐経は、頼朝の行く末の仇となるべき者が二人いる、それは伊東入道(祐親)の孫たちである、と述べたため、幼い一万と箱王は由比の浜辺で斬られることになったが、梶原景季和田義盛畠山重忠らの命乞いで事なきをえた。

 兄の一万は十三の年に元服して曾我十郎祐成となった。弟の箱王は、やがて僧になるために箱根権現の別当に預けられた。翌年、頼朝が箱根権現に参詣する。箱王は工藤祐経に近づこうとしたが、祐経に気づかれて優しい言葉をかけられ、刀一振を与えられる。

 箱王は箱根を下りて、兄とともに北条に向かい元服することとした。北条時政烏帽子(えぼし)親(おや)となって、曾我五郎時致を名のらせた。十郎は情報を集めるために大磯の廓に通い、虎という遊女と親しむ。五郎もまた化粧坂の下の遊君に通う。

 頼朝の狩りの催しを聞いて兄弟は、浅間、三原野、那須と追うが、よい折りにめぐりあえない。頼朝が、富士野の狩場で盛大な狩りを催す。最後の夜、十郎は祐経の屋形に招じ入れられ、二人の遊女、手越の少将と黄瀬川の亀鶴が今様を歌って舞う。十郎と五郎は従者の鬼王・道三郎兄弟に形見を預け、曾我に帰らせた。曾我兄弟は祐経の寝所に押し入る。兄弟は二人の遊女を衣に包んで畳から引きおろすと、十郎が祐経を起こして名のりをあげ、祐経を斬った。庭に出て名のりをあげ、五十余人を斬ったあげく、十郎は討たれ、五郎は女装した五郎丸に召し捕られた。頼朝の前に据えられて、直接に事情を訊ねられたが、頼朝は祐経の子らに怨みを繰りかえさせないためにと五郎を斬らせた。

 大磯の虎は供養で曾我に現れ、兄弟の母と共に泣いた。箱根に登って仏事をいとなみ、善光寺へと旅立つ。

 

 丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で、《『曾我物語』を読んだ人など、専門家ならともかく普通の読者には滅多にゐないのも、当然のことである。そこで、とりあえず『曾我物語』の紹介からはじめることにしよう。忠臣蔵論なのになぜそんな道草を喰ふのかと怪しまれるかもしれないが、わたしの考へでは、あの事件はもともと江戸の曾我ばやりのせいで起つたものだつた》と言っているが、万延元年の一揆が曾我兄弟のせいで起ったとまで言うつもりはないものの、蜜三郎・鷹四兄弟に曾我十郎・五郎兄弟の影をみることはできよう。

 丸谷は筋を数ページにわたってかなり丁寧に紹介した後、《筋をたどっても、『曾我物語』を紹介したことにはならないだろう。大事な要素はこぼれ落ちてしまふのである。その肝要なものをいささか書き添へて見る》と言って、四つあげている。

第一に故事を引いた部分がすべてはぶいてある。第二に『曾我物語』の文体は美しい。第三に頼朝(体制一般)への怨みが見えがくれする。第四に『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。

 ここで、『万延元年のフットボール』にも共通してくるものが、第四の御霊信仰と第三の体制への怨み、であることは言うまでもない。

 はじめに第三の怨みから片付けてしまえば、一揆も一九六〇年の政治的闘争もスーパー・マーケットの略奪という「想像力の暴動」も、体制、権力者への憎しみと悪意から生れた謀反であるということにつきる。

 第四の御霊信仰に関しては、次の説明で十分だろう。

《そして第四に、これは柳田国男折口信夫によつて説かれて以来、次第に浸透して、今ではもう定説となつた考へ方だが、宗教論的な層で言へば、『曾我物語』は御霊(ごりょう)信仰の物語である。御霊信仰の定義づけはむづかしいけれど、ここではとりあへず、非業の最期をとげた者、殊に政治的敗者の怨魂がたたつて疫病その他の災厄をもたらすといふ日本の古代信仰、と言つて置かう。アメリカの宗教学者ロバート・J・スミスが御霊をvengefulgod(復讐神)と訳してゐるのは、わかりやすくていいかもしれない。そして、死霊が怒つて禍をもたらすと考へる以上、それを何とかなだめようと企てるのは当然のことだつた。(中略)この信仰がそののちいつこうに衰へず、むしろ盛んになつたことは、菅原道真平将門後鳥羽院などの例によつて明らかである。(中略)

 曾我兄弟はまさしく後鳥羽院の同時代人だが、箱根権現の僧が『曾我物語』ないしその原型を作つたとき、自分で明確に意識してゐた(そして社会からも公認されてゐた)動機は、これによつて兄弟の死霊を慰め、世を災異から救いたいといふ願ひだつたらう。比丘尼(びくに)たちや瞽女(ごぜ)(鼓を手に曾我伝説を語った盲女)たちが語り歩いたのもこのためである。そのことは『曾我伝説』のほうぼうに痕跡をとどめてゐる。》

 果して若い兄弟の怨恨はたたる。このことを耳にした頼朝は兄弟を神に祀るが、本当のことを言えば頼朝の祀り方は足りなくて、十郎と五郎の霊はやがて源氏をたやしてしまうわけだが、『曾我物語』の作者は口をつぐんでいても、大衆は、

《ここには何か異様なものがあると思ったからこそ、曾我伝説に魅了されたのである。その異様なものの正体は、仇討といふ呪術的な儀式による一王朝の滅亡にほかならない。

 ここで思ひ出されるのは、ゴロウといふ名がゴリヨウと近いためますます尊崇されたといふ柳田国男の説である。これは説得力に富む意見だと言はなければならない。一般に呪術的な心理においては語呂合せが強力に作用するし、それに、鎌倉権五郎とか大人弥五郎とか、ゴロウといふ名の神を祀る習俗が全国に多い(柳田国男氏神と氏子』その他)からである。》

 

<曾我兄弟の首>

 驚いた事に、富士の裾野から遠く離れた四国の「地形学的な構造」の森に、「曾我十郎首塚」があるのだった。大江健三郎が生まれ育った旧大瀬村(現内子町)の成屋から小田川の渓谷を1.5キロほど東にのぼった乙成という集落の北側に「曾我十郎首塚」なるものが確かにあって、「乙成に伝わる曾我伝説」という看板が掲げられている。

《幼い時(兄五才弟三才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満二十二才満二十才になった一一九三年冨士の裾野で巻狩りをする御陣へ二人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事が出来た。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。

 曽我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘に漂着し中山町、程内を通って乙成(椎木駄馬)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。

 塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」、裏には「建久四年癸丑五月二八日於冨士野御狩場殺父之敵工藤祐経干時以公命仁田四郎忠常仇之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋干此」と記されている。

 乙成地区住民は先祖よりこの曾我十郎神社をお詣りし、地域の文化遺産として守っている。

 首塚ということで首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多く、そのお礼に小さな絵馬が多数奉納されている。》

 また、『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)に、こういう記事もある。

《五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有。」とある。曽我の首塚伝説は『大洲随筆』にも見えており、「曽我五郎時宗、同十郎祐成共に河野三郎祐泰が子也。祐泰かって工藤左衛門尉祐経が為にはかられ死す。兄弟孤と成りて曽我太郎祐信が家に養育せられ、成長して敵祐経をねらふ。時に建久四年、将軍頼朝富上野に狩し給ひ、此時兄弟御陣へ打入り敵祐経を打取りし事曽我物語及び東鑑などにも見えて人の知る所也。御所を騒がせし罪に依りて兄弟共に生捕られ終に首を刎られたり。その亡骸を富士の裾野に埋めて神霊と号す。此時、曽我の忠臣に鬼王といふ者有り。宇和島鬼ケ城の者也。兄弟討死の後再び本国へ帰へらんと志しが、此時十郎の首を盗取りて帰り、此所に埋めしとぞ。その塚は大瀬村字井山といふ所に有り。往還より十丁ばかり上りて谷間の中に二つ建てり。(下略)」とある。大瀬乙成の椎木駄馬の首塚がそれであるが、以前には盛大な祭りが行われていたし、とくに首から上の病気に霊験があるというので祈願者も多かったそうである。》

 ここで、鬼王(おにおう)といえば、『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』では、源氏の重宝友切丸(ともきりまる)という名剣を持って駆けつける実事(じつごと)役だ。また、明治時代の河竹黙阿弥作による実録風歴史劇『夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)』では、曾我旅宿の場は「かたみ送り」といわれ、討入りの伴を願う忠僕の鬼王(おにおう)・団三郎(どうさぶろう)兄弟を母への形見を持たせて国へ帰すのだが、兄弟の忠誠心で泣かせる。

 富士の裾野から四国愛媛とは、遠いといえば遠いが、『平家物語』、『義経記』、『源平盛衰記』などを読めば、北は平泉から関東、北陸、紀伊、四国、中国地方、南は九州、奄美王島、硫黄島まで空間的な拡がりをもっているのだから、旧大瀬村乙成に十郎の首が運ばれたというのはあながち荒唐無稽ではあるまい。それよりも重要なのは、事実か否かよりも、首が「外部」から来たということ、雨乞いにせよなんにせよ、そのような「御霊」が所望されて「首塚」という形を成し、多くの信者を得て今に伝えられている、ということに違いない。

 先に引用した折口信夫『民族史観における他界観念』に、図らずも「曾我兄弟」の名前が出てくる。「他界と 地境と」という章で、賽(サイ)ノ河原(カハラ)が在る所に関しての余談としてではあるが、「曾我十郎首塚」のある人里離れた場所についての示唆となるだろう。

《賽ノ河原は、地獄の所属で、鬼・羅刹がここに、出没する。時として地蔵尊の示現があり、小い霊魂が、その庇護を蒙ると言う風に考えるのが普通で、如何にも、中世人の空想の近世にかけて育ったものらしく思われて来ている。而も現実の賽ノ河原と称するものが、処々にあることが、却て単純な、昔びとの虚構らしく思わせて、何の為に、こんな笑いを誘う値もないものを残したかと、気の知れなさを感じることもある。

 或は山中に在ることも、人離れた海岸などに在ることもある。稀には、人里近く寺の境内にあるものすらある。とりわけ甚しいのは、大和長谷寺の本堂脇にあるもので、そこには曾我兄弟の亡魂の現れたことなども説いている。思いつき易いことよりも、思いより難いことを考えた古人の思想が、寧不思議なのである。数多い賽ノ河原が、申し合せた様に、寂しい水浜・山陰にあって、相当の距離ある、ある部落と次の部落との間の空地――普通村境と言うべき所にあることが、常である。》

 大江は、ほぼ十年後に書いた『同時代ゲーム』で、「曾我十郎首塚」に筆を伸ばしている。メキシコの闘牛場で、胸と尻とを揺さぶりながら宙をにらみすえて歩いている女を見たとき、自分の幼・少年期のさかいめに、われわれの土地をひとりの三十女が震撼した日のことを思い出す。

《子供ら仲間とともに、僕は女が五挺の猟銃を持って立てこもった「杉十郎首塚」を偵察に行った。妹よ、僕はそのように記憶にとどめるのだが、しかしあの現場へは、とくに子供らの接近こそが禁じられていたものなのだ。(中略)女は撃ちつづけ、最初の獲物として谷間の駐在所の巡査を倒す。それはわれわれの土地の人間が、他所者(よそもの)の巡査にむけて、おまえの立っている所は「杉十郎首塚」から見て恰好の狙い場所だと、教えてやることをしなかったからだ。むしろ谷間と「在」の野蛮な復員兵どもは、この出来事の祭のような性格を盛りあげるために、巡査を犠牲羊としたのだといまの僕は思う。

 それに加えて僕が過去にむけて読みかえうることをいえば、「杉十郎首塚」は、われわれの土地におけるそれを他の土地の伝承にひきつけて考えるかぎり、曽我十郎首塚というべきものであろう。そして僕自身、子供心にすでに、杉と曽我とのふたつの言葉を二重うつしにしていたように思うのである。この窪地には、われわれの土地の創建期に植えられた杉の巨木がそびえて、その蔭には古い石塚があったのだ。

 そしてやはり子供の時分から僕が父=神主にスパルタ教育されたわれわれの土地の神話と歴史に対比して違和感を持っていたのが、この「杉十郎首塚」の並はずれた古さなのであった。それを僕が、曽我十郎の首が本当におさめられている塚だと思っていたというのではないが、それはやはり曽我伝説の時代にさかのぼる石塚のようには感じられて、そうだとすれば、石塚はやはりこの地帯の先住者によって建てられたものかと疑われたからだ。そのあとで創建者たちがやって来て、塚の脇に杉を植え、「杉十郎首塚」として意味づけの置き換えをはかったのだとすれば、この場所には先住者の問題が、永い間、谷間と「在」の人びとの意識のかげで生きていたのだ。

 そのように考えすすめると、あの猟銃によって武装した、絶望し忿怒した三十女は、人びとの心やましさの底流を表にひきずりだし、われわれの土地の全成員にそれを投げかえすことをめざして、「杉十郎首塚」に立てこもったのだと想像される。(中略)首塚の石積みからミイラになった躰を起し、女の背後によりそって立つ杉十郎。その巨大さは、夕暮の杉の巨木の眺めにかさなっているが、なによりそれは瀕死の「大猿」どもの族長のミイラであり、血筋の暗渠(あんきょ)をつうじて忿怒し絶望した女につらなる祖先のものなのであった……》

 この背後の巨大さは御霊ゆえであろう。

 

 ところで、『万延元年のフットボール』にも、アレゴリカルな劇中劇のように、兄ではなく「弟の首」ではあるけれども「首」が登場している。戦争のはじまった年の秋、小学生の蜜三郎が弟鷹四と、生れたばかりの妹をおぶったジンとその三人の子供たちと一緒に学芸会を見ているうちに、引きつけをおこして気絶したというエピソードだ。僕(蜜三郎)は、酔った妻の内部に起るべき疑惑(「ジンは、赤ん坊の異常が蜜(・)をつうじての遺伝じゃないかといったの」)の増殖を惧れて、突然襲いかかった悪霊の正体について、細心の注意を払って妻に話した。

《われわれの一米前に教壇をふたつ繋ぎあわせた舞台が作られて、高等科の生徒たちがそこで芝居をする。はじめ頭を手拭いで包んだ生徒たちが(それは谷間の高等科の数から推測すれば、ほんの十四、五人であった筈だが、子供の僕には小規模の群衆に見えた)田畑を耕作していた。すなわち、かれらは昔の百姓である。そのかれらが鍬を棄てて斧や鎌の類を武器に、戦う訓練をはじめる。指導者が出現する。かれは谷間の若者のひとりで子供の眼にもまことに美しい男である。かれの指揮のもと、武装した農民たちは、藩の実力者の首を取る訓練の練習をする。黒い包みが首に見たてられていて、二群にわかれた農民たちが、「贋の首」を奪いあう訓練をするのである。二幕目ではひとりの立派な装束の男があらわれて、農民たちに実力者の首をとってはならないと訓戒するが、猛りたった農民たちはそれを受けつけない。そこで男は、農民たちにそれでは実力者の首は自分が取るという。暗いところで待ちうけている農民たちの前を覆面の男が通りかかるのへ、立派な装束の男はやにわに斬りかかる。覆面の男の役は、ひとりの生徒が頭から黒い布をすっぽりかぶり、その上に黒い球をくくりつけているので、普通の子供たちより一段と背が高く見える恐しげな存在である。斬りつけられた男の「本当の首」が、鈍く重い大きな音をたてて舞台に転がり落ちると、斬りつけた男は隠れている農民たちに向って怒鳴るように、

 ――それ、弟の首ぞ! と叫ぶ。覆面を開いて死んだ若い指導者の首を認めた農民たちは恥じて激しく泣く……

 その筋書についてはジンが前もって教えてくれた上に、稽古の段階でこの芝居をたびたび見ていたので、からくりを熟知していたにもかかわらず僕は、石をつめた竹籠でつくられた「本当の首」が落ちた瞬間か、

 ――それ、弟の首ぞ! と怒鳴る声に驚かされた瞬間かに、あるいは僕の記憶の世界の実情にそのままそくしていえば、まさにそのふたつが合成されたもっとも危機的な瞬間に、恐怖にかられて泣き喚きながら床に墜落して、引きつけをおこし気を失った。そして再び意識を回復した時僕はすでに家に運びこまれていて、枕もとの祖母が母に、

 ――曾孫でも血のつながりは恐しいものですが! といっているのを聴きながら、恐怖心のあまりになお眼をつむり躰をこわばらせて気絶したままのふりをしていた。》

 この学芸会の台本は、郷土史の研究をしていた谷間の小学校の教頭が書いたものと小説中であかされているが、「曾我十郎首塚のある」土地の伝説の曾我十郎の首が、荒事の曾我五郎のようにヒロイックに振る舞った曾祖父の弟の首に転移したのではないか。それは、一教師の創作による御霊幻想というよりも、森の谷間の村の願望にかなった物語、いわばラカン精神分析の〈大文字の他者〉、〈象徴界〉の表徴化でもあったに違いない。

 歴史は、神話的構造を保ったまま繰り返されて物語をつづける。背後の巨大な御霊ゆえに、弟鷹四は、万延元年一揆の通奏底音ともいえる曾我伝説に自分を重ねあわせ、荒ぶる弟曾我五郎として祭祀のごとく暴れたのではないか。そして兄蜜三郎もまた和やかな兄曾我十郎として無意識に認識者を演じたのではないか。

                                   (了)

            **参考または引用**

 *大江健三郎『飼育』(新潮文庫

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫

大江健三郎万延元年のフットボール』(講談社

大江健三郎同時代ゲーム』(新潮社)

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(岩波書店

大江健三郎『懐かしい年への手紙』(講談社

大江健三郎『小説の神話宇宙に私を探す試み』(『大江健三郎・再発見』大江健三郎/すばる編集部編(集英社))

*『柳田国男全集4「山の人生」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集11「妹の力」』(ちくま文庫

*『柳田国男全集14「氏神と氏子」』(ちくま文庫

柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』 (文春新書)

折口信夫『民族史観における他界観念』(『折口信夫 天皇論集』安藤礼二編(講談社文芸文庫))

折口信夫『古代研究 民族編』(中央公論社

*『曽我物語(新編日本古典文学全集)』(小学館

丸谷才一忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫

渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』(ちくま学芸文庫

渡辺保『増補版 歌舞伎手帳』(角川ソフィア文庫

郡司正勝『かぶき』(ちくま学芸文庫

*『助六由縁江戸桜 寿曽我対面 (歌舞伎オン・ステージ)』諏訪春雄編(白水社

*『曽我十郎五郎首塚』(旅南予協議会HP)

*『愛媛県史 民俗』(愛媛県生涯学習センターHP データベース「えひめの記憶」)

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』ジャック・アラン=ミレール編、小出浩之他訳(岩波書店