文学批評/オペラ批評 シェイクスピア『オセロー』からヴェルディ『オテロ」へ――穢れ(アブジェクト)の忌避/浄化

 

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『オセロー』から『オテロ』へ、脱落するもの、それは穢れ(アブジェクト)である。かわって強化されたもの、それはロマンティシズムである。穢れ、おぞましさは、忌避/浄化される。

 

 作曲家ヴェルディと台本(リブレット)作者ボーイトの共作によるオペラ『オテロ』(1887年初演ミラノ・スカラ座)において、シェイクスピア『オセロー』(1604年初演ロンドン)の第一幕が省略され、その第二幕からオペラの幕が開くことに穢れの脱落が顕著に表れている。

(以下、『オセロー』、「オセロー」表記はシェイクスピアの戯曲と主人公を、『オテロ』、「オテロ」はヴェルディのオペラとタイトル・ロールを指す。オセロ/オセロー、シェイクスピアシェークスピア、イアーゴー/イアーゴ/イヤーゴー/ヤーゴ、デズデモーナ/デズデーモナなど表記に揺れがあるが、統一せず引用原典のままとした。)

                        

 加藤浩子は『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』の「第十四章 シェイクスピアが開いた新しい道――晩期作品」で、《《オテッロ》および《フォルスタッフ》。アッリッゴ・ボーイトという優秀な台本作者を得て、生涯の目標だったシェイクスピア作品のオペラ化を《マクベス》以来四十年ぶりに実現。劇と音楽が徹底的に連動したドラマティックなオペラを創り、イタリア・オペラのひとつの頂点を築いた》とし、『オテロ』は、《かつてヴェルディがオペラ化を考えた『リア王』に比べれば短く、シンプルで、オペラ化しやすい題材でもあった。オペラ化に当たってヴェルディとボーイトは、内容や登場人物をさらに切り詰めて簡潔にし、人物に関しては象徴化に近いことまでしている。五幕で構成されている原作の第一幕はカットされ、重要人物のひとりだったデスデーモナの父ブラバンショーも削られた。さらに作者たちは、「天使」のようなデスデーモナ、「悪魔」のようなヤーゴを強調するために性格的なソロを書き加えている(ヤーゴの<クレード>と、デスデーモナの<アヴェ・マリア>)。それゆえ、本作が、ヴェルディが口にしていた「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところだろう》と書いている。

 また島田雅彦は『オペラ・シンドローム』の「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」で、《私はロッシーニ的な、スーパーフラットに登場人物が書き割りされる能天気な作品にも魅力を感じます。でも、やはり陰影の濃い人物像が表現されるロマンチックな作品、とりわけ『オテロ』に心が躍ります。それは、たんに複雑な物語だからよいという理由からではありません。シェイクスピアの原作は言葉の洪水であり、その言葉数の多さによって、複雑な人間の心理を観客に伝達しました。音響効果も照明効果もなかったころの芝居ですから、それは当然です。しかし、オペラでは、言葉を八割がた削り、そのぶんの描写は音楽が請け負ってきた。つまり、オペラの構造の柱となるのは物語だとしても、そこに音楽的リアリティが十分に組み合わされなければ、物語は伝わらないのです。

 たとえば第一幕のラストで、夫婦の愛が高らかに歌われつつも、どこか不安が観客の胸に募ってくるのは、セリフとはべつのニュアンスが音楽を通して伝わってくるからに他なりません。あるいは、イアーゴが巧みな口車を弄(ろう)しても、音楽がそれを嘘だと告げている。物語の流れや、個々のキャラクターも、音楽の起伏がシミュレーションしていくのです。そうした、矛盾しあうダブル、トリプルのメッセージを発信できること。これがオペラのメリットであり、最大の魅力です。それを改めて気づかせてくれたのが、『オテロ』という作品なのです》と書いた。

 加藤と島田の意見には賛成だが、オペラ化によってシェイクスピア劇のかなりの部分が削ぎ落とされてしまったのもまた事実で、の最も象徴的な「穢れ」の忌避と浄化を考察してゆきたい。

 

 ここで、穢れ、おぞましさというアブジェクト(abject)は、クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』の、《おぞましきものに化するのは、清潔とか健康の欠如ではない。同一性、体系、秩序を攪乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまり、どっちつかず、両義的なもの、混ぜ合わせである。言い換えれば、良心にあふれた裏切者や嘘つきや犯罪者、人助けだと言い張る破廉恥な強姦者や殺人者……。およそどんな犯罪でも、法の脆さを目立たせるので、アブジェクトとなる。だが計画的な犯罪、狡猾な殺人、偽善に満ちた復讐はなおさら法の脆さを人前に晒すために、より一層アブジェクトである》、《おぞましきもの(アブジェクト)は倒錯[頽廃]と類縁関係をもっており、私が抱くおぞましさ(アブジェクション)の感情には超自我に根差している。アブジェクトは倒錯的[頽廃的]だ。なぜならそれは禁止や法則や掟に見切りをつけることも引き受けることもせずに、その向きを変え、道を誤らせ、堕落させるからである》にはイアーゴーの姿が重ね合わさるが、それだけではすまない。

 

<『オセロー』第一幕の削除>

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕は三場からなる。場所はヴェニス

 ヴェニス公国に仕える北アフリカ出身のムーア人傭兵将軍オセローは、元老院議員ブラバンショーの娘デズデモーナと愛し合い、ひそかに結婚する。オセロの旗手を務めるイアーゴーは、オセローが自分を差し置いてキャシオーを副官にしたことや、妻エミーリアを寝取った噂があることなどからオセローに恨みを持っていた。イアーゴーはデズデモーナに片思いを寄せていたロダリーゴーをそそのかし、一緒にブラバンショーの自宅に来て押し寄せ、露骨で卑猥な言葉で告げ口する。

 おりしもトルコ海軍が、ヴェニス公国領のキプロス(サイプラス)島を侵略したとの知らせを受けて、ヴェニス元老院では議員たちが深夜の会議を開いていた。ブラバンショーは、オセローを連れてその場に駆けつけ、娘のデズデモーナをたぶらかしたオセローの罪を裁いてくれるよう申し出る。トルコ軍に対抗するにはオセローの指揮を必要とするヴェニスの支配階級はオセローを断罪することをためらう。魔法によって娘を惑わしたに違いないと非難するブラバンショーに対して、オセローは歴戦の冒険譚を語ることでデズデモーナの愛を得たと雄弁に語り、イアーゴーに連れて来られたデズデモーナも、オセローへの愛を証言すると、フラバンショーも諦め、結婚を認めるしかなかった。

 キプロス島行きを命じられたオセローに、デズデモーナも同行を願い、ヴェニス大公たちも戦地への妻の同伴を認めた。ロダリーゴーは失望するが、人種、年齢(オセローは四十歳近く、デズデモーナは恐らく十代)、出自、育ちも違う二人が続くはずがない、とイアーゴーに説得されてキプロス島へ向かう。

 

『オセロー』第一幕をオペラでカットした意味あいには次のようなもの考察がある。

 シュテファン・クンツェ「英雄の没落」から。

《たとえば、イアーゴーの側からすれば、身をもって味わわねばならなかった冷遇(オテロが自分の女房を寝とったのではないか、という疑いは払拭されることがなかった)、オテロの側からすれば、デズデモーナを誘惑しかどわかしたがために背負いこむことになった罪、はてまたデズデモーナの側からは、父親ブラバンショ―を欺いたこと、つまりは彼女の不幸な頑固さ、これらがその動機となる。シェークスピアは、何といっても、以上の動機や人間関係をくり広げるために、ヴェネツィアを背景とする第1幕をまるごと必要としたのだ。芝居において重要でありながら、オペラにおいてはまったく表に出てこない動機は、オテロアウトサイダーであった、ということである。オテロはその膚の色ゆえに蔑視される成上り者であり、結果として彼は不信に傾く。そのうえ、オテロとデズデモーナは、すでにその年齢の差からして不釣合な組合せなのである(第2幕、四重唱を見よ)。これらすべては、オペラでは副次的な意味しかもっていない。ボーイトとヴェルディが、シェークスピアの第1幕を削除したのも、偶然のことではないのだ。オペラは、シェークスピアの第2幕から始まる。残ったのは、結局のところ、イアーゴーのずる賢く悪魔的な態度と、オテロの破滅である。オテロ、あるいはデズデモーナの測ることのできる罪は――今上に挙げたモティーフはすべていっしょに響き合っているにもかかわらず――まじめにとりあげられず、イアーゴーの筋の通った動機もまたしかりである。》

 

 エドガー・イステル「ヴェルディシェークスピアの《オテロ》」(1917年)から。

《前史が簡単であればあるほど、導入部が短ければ短いほど、ひとつの題材が音楽的(・・・)表現にとって価値あるものとなるのだ。そしてまたここにひとつ、シェークスピアの作品は五幕だが、第1幕以外はいずれの幕も不可欠である、という事情が加わってくる。じっさいこの第1幕のさまざまな事件が切り離されてみると、五幕物のオペラにだんだん耐えられなくなっているわれわれの感性にとっては、この幕を削除することの絶対的必要性が既定のものとなってしまう――もちろん、導入部のきわめて重要なポイントを取り出し、つづく幕のうちへとうまくそれらを有機的に編み入れてゆくことがその前提である。これを成しとげうるのは作劇法を踏まえた第一級の劇作品であるだろうが、ボーイトはじっさいにそれをやってのけたのだ。ボーイトはハンスリックに一度こう語ったという(《音楽写生帳》)。「自分の頭とヴェルディの頭を悩まして、オペラを長くすることなしに、シェークスピアのこの第1幕をどうやって救済すべきかを考えた」(原註:ヴェルディは1889年3月11日、ロンドンにいるボーイトにあてて次のような手紙を書き送った。このオペラを作った者たちはシェークスピアの祖国において、第1幕を削除したことで避難されるでしょう。(筆者註:ロンドン初演は1889年7月4日、リュケイオス劇場))。(中略)

 第1幕を削除した結果、公爵、ブラバンショー、グラシアーノ、そして二人の議員が消えてしまった。これらのうちシェークスピアにおいてあとでふたたび現れるのはグラシアーノだけであるが、ボーイトは、シェークスピアにおいてヴェネツィアの使者として重要な役割を演じるロドヴィーコとこのグラシアーノをじつに効果的に一体化する。(中略)こうして、ボーイトの台本においては、オテロの結婚の前史や家族の反対(これはすでにジラルディの話(筆者註:種本になった1565年ヴェニス刊のジラルディ・チンティオ『百話集』)で述べられていた)について、デズデモーナがオテロを愛したのはその冒険譚のゆえであり、逆にオテロは同情ゆえにデズデモーナを愛するようになったということしか知らされないことになる。つまり<罪>、父親に対してデズデモーナが背負いこんだ<罪>、そしてイアーゴの復讐の根拠のうちでひとつの役割を果すことになる<罪>(筆者註:妻エミーリアがオテロと同衾したとの噂を指すであろう)もまた完全に省かれている。デズデモーナはシェークスピアにおけるよりもさらに汚れなき者として現れ、真の天使となり、この天使に対置させられるのがイアーゴに現れる人間の姿をした悪魔(たとえばたんに悪魔的人間というのでなく)なのである。このようにしてボーイトはまたイアーゴをも無傷のままに救い出し、シェークスピアにあるいくぶんか安っぽい仕返しは放棄する。悲劇の登場人物の性格はそのままに保たれているが、エミーリアだけは例外で、上品になって現れてくる。》

 

 シェイクスピア『オセロー』の第一幕には喜劇的要素(ロマンティック・コメディ)があり、若い恋人たちに叩き起こされる老父といったコメディア・デラルテの伝統や、ミハイル・バフチンラブレー的祝祭(カルニバル)、「グロテスク」が溢れ返っているから、削除によって他にもイアーゴーのスカトロジー、猥褻さが薄まっている。

 

<『シェイクスピアはわれらの同時代人』>

 ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』の「『オセロー』の二つの逆説」は鋭い指摘が多く、とくに戯曲にあってオペラに欠落するものをみれば、ヴェルディのオペラがいかに「穢れ」を忌避/浄化させたかがわかる。

 ただし、コットの『オセロー』論はシェイクスピアの演劇論であり、オペラに対する理解、関心は心もとない。また、デズデモーナのハンカチに対する探究が欠落している。ハンカチに関しては後述するとして、オペラ理解の不十分さは次のような記述から推定される。

 コットは、《オペラの第二幕では、キプロスの島民たちのコーラスがデズデモーナをたたえて歌う。また第三幕のフィナーレにはバレーの踊り手たちを含む全登場人物が現われる。シェイクスピアの全作品の中で、『オセロー』は大がかりな上演に最も適していた。この嫉妬深い東洋人についてのバレー付きオペラは、しだいに歴史的スペクタクルとして上演されるようになり、舞台上のヴェニスは《ほんもののように》されるのであった。》と書いているが、第三幕のバレー場面は、1894年のパリ・オペラ座でのフランス語初演のために、バレー付のグランド・オペラを好むフランスの観客のためにヴェルディが作曲して特別に加えたもので、今でもまずは上演、演出されない。また、オペラでは戯曲第一幕のヴェニスの場面は上演されないので、ボーイトが拘った舞台上の場所の一致、キプロス島の場面だけである。

 

 ヤン・コットの論考は次の文章で始まる。

《『オセロー』という劇にはわれわれ現代人にとって不快なところがたくさんある。》

 これこそが、シェイクスピア『オセロー』の本質である。正しくは『ヴェニスムーア人オセローの悲劇(The Tragedie of Othello,the Moore of Venice)』との題名を持つこの劇は、白/黒、男/女、上/下、規範/逸脱、キリスト教/回教(ムーア人、トルコ)、淑女/娼婦、貴族階級/軍人、異性愛/同性愛、内部/外部といった、現代まで続く歴史的で普遍的な二項対立の不快さに満ちている。

 ただし「不快」という感想は月並でもある。漱石は「作物の批評」で、《オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。(今はその理由を説明する余地がないから略す)もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合(そうごう)と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際(てぎわ)がある。読者はそれを見ればいい。》と言っている。

 問題は、「不快」「不愉快」を、戯曲からオペラを作るにあたって、いかに処理したのかであり、そこに逆説的に「不快」の回避の本質が透けてくる。

 

《この舞台の上では『ハムレット』や『リア王』の場合のように、世界の関節が外れ、混沌が戻り、自然の秩序そのものがおびやかされるのである。》

 オペラでは関節が嵌められ、混沌はなく、自然の秩序が乱れることはない。そうでなければ、物語の流れをたやすく理解して心地良く音楽に身を委ねることがかなわない。

 

<イアーゴーの注釈/獣性/ひきがえる/蝿>

《イアーゴーは批評家たちにとってはいつも最も厄介な存在であった。ロマン派の批評家たちにとっては、彼は要するに悪の天才なのであった。だがメフィストフェレスといえども、その行動には理由がなければならない。とりわけ劇場ではそうだ。イアーゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。イアーゴーはまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。この点についてコールリッジの「無動機の悪意についての動機捜し」という言葉は急所を突いている。妨げられた野望、自分の妻についての嫉妬、デズデモーナについての嫉妬。あらゆる男や女についての嫉妬、――こんなふうに彼の憎悪はたえずそれをふくらませる餌にうえており、けっして満たされることがない。(中略)

 悪魔的なイアーゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。》

 台本作者ボーイトは「《オテロ》登場人物の注釈」を書きとめていて、中でもイアーゴーとデズデモーナに関する注釈が興味深い。イアーゴーについて、《この邪悪な力を演じようと取り組む出演者がつい陥りやすい、ひどい間違い、いちばん安易な思い違いは、イアーゴを人間の形をした悪魔と想定し、メフィストファレス的な仮面をつけさせ、サタンの目付きをさせてしまうことだ。そのような演者は、シェークスピアもこのオペラも、どちらも理解していないということを立証しているようなものだ。イアーゴの言葉はどれもひとりの人間から――不逞のやからではあるが、ともかくひとりの人間から――発せられるのだ》と演者に注意を与えているにも関わらず、彼が造形したオペラのイアーゴーはマキャベリ主義者でもユダでもなく「悪魔」に昇華している。また、デズデモーナへの注釈で、《決して色目を使わぬこと、胴体と腕を使った身振りをしないこと、大股でそっくり返って歩かないこと、いわゆる<効果(うけ) Wirkungen>を追い求めないこと》と書いているが、こちらは台本の目論見どおりに、聖母マリアから天使になるよう指示している。

 

《オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉といっしょに崩壊してゆく。というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。それは、イアーゴーのものだ。イアーゴーの台詞の意味論的世界において際立っているのは、物や動物の名で嫌悪や恐怖や不快感を起こすものが、挑発的な言葉や重要な手がかりになる言葉として使われていることである。イアーゴーの台詞には、にかわ、餌、網、毒、薬、浣腸、ピッチや硫黄、悪疫といったものが出てくる。(中略)

 これよりもさらに際立っているのは、イアーゴーの台詞に現われる獣性への言及だ。たとえば、弱く無力な動物(「身投げだと! そいつは猫や盲の子犬に任せておきな!」(第一幕第三場)、愚かさや醜さの象徴ないし寓話としての動物(めんどり、ひひ)、肉欲や好色の象徴として(「……山羊のように好色で、猿のように淫乱で、さかりのついた狼のように催していて」(第三幕第三場)といった例がある。(中略)

 今やオセローは、女郎買いや繁殖、火や硫黄、紐、ナイフ、毒といったことをあげて、のべつ幕なしにわめくことになる。彼はイアーゴーと同じように獣性に関する言葉を使うのだ。(中略)彼はイアーゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。それはあたかも、彼自身が猿や山羊や雑種犬やさかりのついた雌犬などのイメージをほんの片時もふり切ることができないかのようだ。「……おれを山羊ととりかえる」と彼はいう。(第三幕第三場) 威儀を正してロドヴィーコを迎えている時でさえ、彼は自らをおさえることができない――「サイプラスへようこそ。山羊や猿同然だ!」(第四幕第一場)(中略)

リア王』には虎やはげたかのようや猪のように堂々たる猛獣が現われる。『オセロー』に現われるのは爬虫類や昆虫だ。この悲劇の事件は、少なくとも激情で時を計るかぎり、長い二夜の間に起こる。主要人物たちがしだいに奥深く吸い込まれてゆくこの劇の内的風景は――すなわち、彼らの夢や性的固定観念や恐怖の中に現われる風景は――闇の風景なのである。太陽も星も月も見えぬ大地、蜘蛛やとかげや蛙がたくさんいる土牢――そういう風景である。

    ……おれはいっそひきがえるになって、土牢の湿気を吸って生きていたい。(第三幕第三場)

 さらにまた――

    その泉、おれの命の流れを豊かにするもからすもただその泉のまま、そこから投げ出されてしまうのか、それともそこを汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまりにしておくのか。(第四幕第二場)》

 好色な女性を表現するのに、「膣に張り付くひきがえる」「膣に食らいつくひきがえる」といった好色、色欲を暗示する図像がある。オペラにこのような人間を貶める不快感、嫌悪感に満ちた身の毛もよだつおぞましい比喩表現の歌詞はなく、清潔に漂白されている。

                                                                         

《   こちとらの網は小さいが、生捕りにするのはキャシオーという大きな蝿さ。(第二幕第一場)

 これはこの悲劇の中でいちばん意味深長なイメージである。蝿と蜘蛛、蜘蛛と蝿。キャシオーもロダリーゴもオセローも、イアーゴーにとってはみな蠅である。大小の差はあっても要するに蝿だ。白いデズデモーナもまた、黒い蝿になってしまうのである。オセローはイアーゴーのもっている固定観念をすべて引き継ぐのである。

   デズデモーナ 私の貞潔はおわかりでしょうね。

   オセロー ああ、わかっている、屠殺場の蝿さながら、卵を生んだらたちまちはらむ、そんな貞潔ぶりだ。(第四幕第二場)》

 

「蝿」について、河合祥一郎は『新訳 オセロー』の「訳者あとがき」で「穢れ」に絡めて解説している。

《オセローは、デズデモーナを「美しい本」「純白の紙」などと形容する一方で、彼女が犯したとされる罪の穢れを蛙や蝿を引き合いに出して糾弾する。そのとき「夏の屠畜場の蝿」という表現が出てくるが、これに対しても注釈が必要だろう。肉食の歴史の長いイングランドにおいて、食肉の小売販売をする「肉屋」(butcher)という語には「動物を屠(ほふ)る者」の意味もあった。肉を売るものは自ら食肉解体作業を行っていたのである。特別な設備などはなく、戸外で行うために、特に夏場は蝿が群がった。その蝿に対する嫌悪感を表明しているのである。

 当時の衛生事情は劣悪であった。下水設備も整備されておらず、排便にはおまるが用いられ、その中身の処分もいい加減で、家の外にまき散らすことすらあったという。ロンドンの街には蝿やネズミや蚤(のみ)が繁殖し、ペストが蔓延して、膨大な数のロンドン市民がばたばたと倒れていた。「穢れ」に対する恐怖や憎悪は、命に関わるものとして今日より遙かに切実であったことは想像に難くない。

 白いデズデモーナの美しさは外見だけのもので、なかは穢れて腐っているのだと思い込んだオセローの心のなかに、当時の悪臭を放つ穢れの強烈なイメージが入り込むのである。》

 

<穢れたデズデモーナ>

《彼女は登場する前からすでに人々の話題になっている。彼女は黒人と駆け落ちしたと皆が叫んでいる。ここですでにこの女のイメージは動物的なエロティシズムの世界において示されているのである――

    ……年とった黒い雄羊が、お宅の白い雌羊の上に乗っかってますぜ。(第一幕第一場)

『オセロー』の導入部は荒々しいものである。イアーゴーとロダリーゴーはブラバンシオーを怒らせようとしている。だがこれだけでは、動物の比喩があれほどしつこく使われることは説明できない。こういう比喩は明らかに意図して使われているのだ。オセローとデズデモーナが結ばれるのは、最初から動物の交尾として表現される。

    ……お宅ではお嬢さんにアフリカ産の馬を乗っからせるんですな。お孫さんにはいななくやつ、親類縁者には駿馬や子馬がほしいんですな。(第一幕第一場)

 オセローは黒く、デズデモーナは白い。ヴィクトル・ユゴーは、先に引用した一節の中で、黒と白、昼と夜の対照のもつ象徴性について書いていた。だがシェイクスピアはロマン派の詩人たちよりも具体的であった――もっと物質的であり肉体的であった。『オセロー』に現われる肉体は苦しめられるだけでなく、互いに惹きつけ合いもするのである。

    ……お宅のお嬢さんとムーアとが、背中の二つある獣になってるところだ。(第一幕第一場)

 白と黒と二つの背中をもった獣というイメージは、性行為の表現としては、およそ荒々しく激しいものである。だが同時にここには現代的なエロティシズムの雰囲気が漂っている。すなわち純粋な動物性への憧れや、性的タブーの打破や、あらゆる変態行為への執着がこの劇にもある。そしてこういう特徴をもつ現代的エロティシズムの世界が、これほどしばしば黒と白の関係を軸にしているのは当然である。》

 差別問題はオペラでも「回教徒」「ムーア人」という台詞が単発的な単語として語られはするが、「野蛮人の分厚い唇」(第一幕第一場)という台詞以外はあからさまな侮蔑、肉体性に乏しく、まして交尾する動物の比喩などない(せいぜいが、第二幕第五場のオテロ「とぐろを巻きつつ、蛇は私にからみついている」と、第三幕第五場のイアーゴ「こは蜘蛛の巣、そこにお前の心は落ちては嘆き、捕われては死ぬる」だがありふれた比喩に過ぎない)。

 また、ヴェルディが「父と娘」というテーマに拘ったのは有名で、『シモン・ボッカネグラ』『リゴレット』『ルイーザ・ミラー』、そして『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』(フィナーレで、今際の際のヴィオレッタに恋人アルフレードの父ジェルモンが「娘のあなたを胸に抱くために来たのです」と約束を果たす)に容易に見てとれるが、ヴェルディはオペラ『オテロ』ではデズデモーナの父ブラバンショーを抹消することで、見事なまでに「父と娘」のテーマを消した(斜め裏返しに見ると、シェイクスピア劇にもオペラにも「母の不在」が顕著だ)。

 

《ハイネは、デズデモーナが湿った手をしているという点を気にしていた。彼は、湿った手をした女は多情だとイアーゴーが考えたのはおそらくある程度正しかったのだと思って、悲しくなったことがあると書いている。(中略)

 デズデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっているが、一方、男という男は――イアーゴーもキャシオーもロダリーゴーも――デズデモーナのとりこになっているのである。彼らはこの女が発散させる官能的雰囲気の中にとどまっているのだ。

   (イアーゴー)……あの女が飲む葡萄酒といえども、要するにただの葡萄酒でできているだけさ。もしあれが祝福された女なら、ムーアになど惚れるわけがないよ。……キャシオーの手のひらをいじくりまわしてたのを見なかったのかい。……二人とも唇を近づけてたから、息と息とが抱き合うほどだったぜ。(第二幕第一場)》

 戯曲『オセロー』では、デズデモーナの湿った手は、オセローがデズデモーナに、ハンカチはどこにやった、母親がエジプトの女から貰ったもので魔法が織り込んである、と告げる直前に現われる(第三幕第四場)。

デズデモーナ 御気分はよろしくて?

オセロー 大丈夫だ。(傍白)心を偽るのは、こうもつらいものか! デズデモーナ、おまえは?

デズデモーナ 元気でしてよ。

オセロー 手を。掌(てのひら)が湿っているな。

デズデモーナ まだ若いのですもの、それに憂いも知りませんし。

オセロー 気前がよく、ものにこだわらぬ気質を現しているのだ、温い、温くて、そして湿っている。この様子では、人を遠ざけて内に籠(こも)り、精進潔斎、断食苦行、ひたすら神の御前に祈り勤めねばなるまい。それ、ここに年若い多情の悪魔がひそんでいる、そいつが往々謀叛を起すのだ。いい手をしている。人見知りをしない手だ。》

 穢れを感じさせない表現だからか、オペラ『オテロ』でもデズデモーナの湿った手が、同じ状況設定で登場する。

デズデーモナ 気が晴れていらっしゃいますの、私の心の気高き夫よ。

オテロ ありがとう、妻よ、お前の象牙のように白い手をお寄こし。

しっとりとしたあたたかさが甘美な美しさを滲ませているね。

デズデーモナ この女はまだ苦しみの跡も、歳の轍(わだち)も知らないのですわ。

オテロ だが、ここには無分別なおとなしい悪魔が巣くうているのだ、

そいつが愛らしい象牙のような小さな爪を輝かしているのだ。

やさしい態度で祈ったり、敬虔な情熱を示したりしながら……》(第三幕第二場)

 ハンカチに関して後に詳述するが、女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出すことをデズデモーナの不貞にからめて仄めかしている。

 

「湿った手」のように、表層的には穢れを感じさせず、ドラマ上はひとつのクライマックスである(観客の覗き見、盗み聞き欲望を満足される)ことからオペラでも残った場面として、オセローがイアーゴーの手引きで、キャシオーがハンカチを持っているという不貞の確証を得る第三幕第四/五場(劇では第四幕第一場)がある。

 イステルの解説を引用すれば、《最初は大きな声でデズデモーナのことを、次に小声でビアンカ(筆者註:キャシーの愛人で娼婦。劇ではこの場面に登場するが、オペラでは会話の話題にのぼるだけで顔を見せない処理が施されているから、煩くはならない代わりに、デズデモーナがオセローから罵られた「娼婦」問題の不徹底さともなる)のことを話すというイアーゴの策略も同じである。ハンカチの話はしかしシェークスピアよりもはるかにうまく構想されている。ビアンカのことは完全に覗き、ハンカチの模様を写しとるという小説的モティーフも同様に省かれる。イアーゴはこっそりとカッシオのところにハンカチを置いておき、カッシオは何も知らずにそれをイアーゴに見せる。イアーゴは様子をうかがうオテロの眼に当然はいるような位置にハンカチをもちあげる。オテロはこっそりと近づき、柱の陰からごく間近に見て、それが自分の与えたハンカチであることを確信する。元大尉のカッシオが新しい恋人を手に入れることについてイアーゴが口にする戯れ言葉、そしてカッシオのうわついた笑い、それらがオテロの怒りをさらに増す。》

 しかし、覗き見、窃視は観客にとっても心地良い穢れなだけで、穢れが窃視と緊密なことは、いみじくもクリステヴァが指摘している。《恐怖症はしばしば窃視症へと脱線してゆく。窃視症は対象関係の構成にとって構造的に不可欠であり、対象がアブジェクトの方向へ揺れ動いてゆくたびに現われる。それが真の意味の倒錯となるのは、主体/客体の不安定さを象徴化する作業に失敗した場合に限られる。窃視症はアブジェクションのエクリチュールの同伴者である。》

 なお、この場面には、オセローが窃視、盗聴から「不貞」「証拠」の記号を次々と綴じてゆく、臨場感に満ちたラカンの「クッションの綴じ目」的な面白さがある。つまりクッションの綴じ目 point-de-capiton の介入によってただのつまらぬ会話が「不貞の証拠」に再構造化される。偶発的な痕跡を意味づけながら、特定の意味(ここでは「不貞」「証拠」)で構造化しなおすのである(筆者註:ポワン・ド・キャピトン point de capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。クッションの綴じ目は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。ここでは、現実はイアーゴとカッシオの戯れ言葉、うわついた笑い、ボタンは不貞、証拠)。

 

<「かつてアレッポで」>

《オセローはデズデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。彼はデズデモーナを殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。その結果、善悪の結着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである、もはやオセローは口の中でものをいうような煮え切らないことはしない。彼は必死になって人生の――彼の人生の――意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

    それからまたこのこともお伝えを、かつてアレッポで、ターバンを巻いたトルコ人が、不当にもヴェニスの市民に手をかけ、御政体を悪しざまに申しました時、私はこの外道の犬めののど首をつかみ、打ちすえてやったのです――これ、こんなふうに(第五幕第二場)》

『オセロー』原文をもう少し遡ってみよう。

オセロー ……ただどうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずしえ愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。それ、話にもあること、無知なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴(しずく)ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、潸然(さんぜん)と涙を流していたと、そう書いていただきたい――それからもう一言、いつであったか、アレッポの町で、ターバンを巻いたトルコの不頼漢が、ヴェニス人に暴行を働き、この国に悪罵の限りを尽しているのを見かけたことがあるが、そのとき、この手で、その外道の犬(circumcised dog)の咽喉(のど)もとを引きつかみ、こうして刺し殺してやったと。(みずからを刺す)》(circumcised dog :ユダヤ人と回教徒のトルコ人は「割礼(circumcision)」を受けるので、ここではトルコ人を割礼を受けた「外道の犬」と呼んだ)

 この一節は『オテロ』では完全に欠落している。オセローの自己の意義付、物語化、当時の政治・宗教的正義感、偏見、「割礼された犬」であるトルコ/ユダヤ/ムーア(さらにはインディアン)という「他者」の排除。最後に、本来は偏見によって排除される「他者」のはずなのに内部に変質、混合したオセローは、混濁した自分を刺すことで、己に割礼を施す。メビウスの輪のように捩れたオセローに、観客は己も捩れた意識も持主、存在ではないかと思い当たる。婚礼の衣裳のシーツが、黒人の割礼の血によって苺のような赤い血で染まり、白人の女の経帷子となる、という「不快さ」。

 T・S・エリオットはこの台詞を引用して、《私には、オセロがこの台詞で自分を元気付けよう(・・・・・・)としているのだとしか思えない。彼は現実から逃れたいので、この時はもうデズデモナのことは忘れて自分のことだけを考えているのである。人間の美徳の中で、謙譲ということが一番達し難いものなのであり、自分のことをよく思いたいという欲望ぐらい、根強いものはない。それでオセロは、倫理的ではなくて美的(・・)な態度を取り、その時の環境に基いて芝居をすることで自分を悲壮な人物に仕立てているのである》と論じたが、「かつてアレッポで……」と語り自刃するオセローの姿には、クリステヴァの、《アブジェクト[唾棄すべき、おぞましきもの]が主体を要請すると同時に粉砕もするのが事実なら、主体が自己の外に自分を認知しようとする空しい試みに疲れはて、自分自身のうちに不可能性を発見する場合に、言い換えれば、主体が自分自身アブジェクト以外ではありえぬ(・・・・)のを発見して、不可能性とは自分の存在(そんざい)そのものであるのを悟る場合に、アブジェクトは最高度に経験されることが分かる。自己のアブジェクション[棄却行為、おぞましさ]とは、主体のある経験、つまり彼の対象がことごとく、彼の固有な存在の基礎となっている発端の喪失にしか根拠を置いていないことが主体に暴露されるような、そういった経験の最高の形態なのであろう》が重なる。

 八割がた削られたシェイクスピアの台詞の複雑さには、ナボコフの短編小説『いつかアレッポで』(『かつてアレッポで』)の多重に錯綜した味わい、という文学の核心があったが、オペラでは多層化を嫌い夾雑物に過ぎないと削除された。

 

<デズデモーナの白いハンカチ>

 十七世紀の終りに、イギリスの批評家トマス・ライマーが『悲劇管見』(1693年)で、《この劇の教訓は確かに非常にためになるものである。第一にこれは、あらゆる良家の子女に対して、両親の許しもえずに黒人のもとへ走ったりするとどんなことになるか、警告を与えるものである。第二にこれは世の良妻すべてに対して、ハンカチによく気をつけるようにという注意を発している。第三にこれは世の夫たちに、悲劇を生むような嫉妬をいだく前に、科学的な証拠をつかめと教えている。……だが悲劇的な部分は、味も香もない血なまぐさい笑劇以外の何ものでもない》と揶揄し、「ハンカチの悲劇(the Tragedy of the Handkerchief)」と一笑に付したのはよく知られている。

 

 まず、デズデモーナのハンカチが、シェイクスピア『オセロー』でどのように登場するかを見ておく。

イアーゴー ……ただお伺いしておきたいことが一つ、お気づきにならなかったでしょうか、苺の模様のあるハンカチーフ(a handkerchief Spotted with strawberries)をよく奥様がお使いになっているのを?

オセロー それなら、おれがやったやつだ、初めての贈物がそれだった。

イアーゴー  そこまではぞんじません。ただそのハンカチーフが――あれは確かに奥様のものに違いありません――実はそれで、きょうキャシオーが髯(ひげ)を拭いているのを見たのです。》(第三幕第三場)

 

(以下は、石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」論による(引用に際しては適宜、簡略化した)。)

聖母マリアと処女王エリザベス>

 そもそも、白いハンカチの象徴するものは何だったのか。

ルネサンス期のフランドルの絵画「受胎告知」のなかに、錫製のケトルや手洗い盆の横に、リネンのタオルが描きこまれている作品がある(例・祭壇画「受胎告知」の中央、一四二五~一四三〇年、ロベルト・カンピン作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵/三翼の祭壇画「犠牲の子羊」の左翼背後の「受胎告知」。一四三二年、ヴァン・エイク作、ゲント、サン・パヴィオン大聖堂蔵)。

「受胎告知」のなかの真白なリネンのタオルは、水差しやケトルの水で手を清めたあと、手を拭くための日用品であるが、罪なくして子をみごもり、罪なくして子を出産した聖母マリアの処女性、純潔を象徴している。出産後、聖母マリアは、生まれたばかりの赤子を白いリネンでくるみ、授乳する。さらに、ふっくらとした幼児に成長したイエスを抱き授乳する聖母マリアの膝にしばしば白いリネンが広げられている。(例・「聖母子の肖像を描くルカ」、一四五〇年頃、ロヒール・ヴァン・ウェイデン作、ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵/「聖ヨセフのいる聖家族」、一五一三年頃、ヨース・ヴァン・クレーヴ作、ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)。聖母の処女性と純潔を象徴する白いリネンは、赤子を包む布となり、授乳のときの布になり、十字架にかけられた命を断たれたイエスの遺骸を包む聖骸布となる。白い布で覆われたマリアの膝は、白い布で覆われた祭壇にほかならず、ここには、ミサの聖体拝領が暗示されているという。》

 

エリザベス女王の側近たちが誇らしげに見せびらかす白いハンカチはエリザベス女王のエンブレムのようだ。詩人たちが処女王を賛美する恋愛詩を書いて女王に捧げたように、画家が聖母マリアのシンボルを女王の肖像画に描きこみ女王への崇敬の念を表わしたように、女王の臣下たちは白いハンカチを持つ自分の肖像画を描かせて処女王を賛美し、女王への忠誠を誓っているのであろう。エリザベスは年齢を経るごとに、結婚から遠ざかるほどに、真珠やサファイヤや不死鳥やペリカンや太陽といった聖母マリアのシンボルを自分の肖像画にちりばめ、ヴァージン・クイーン、処女王としてのイメージを強めてゆく。女王の肖像画のなかで、女王に添えられたモノ、女王が手にするモノは女王のシンボルである。(中略)プロテスタントの信仰を国教としたイギリスから聖母像は姿を消したが、エリザベス女王は聖母の象徴を肖像画に描き込ませ、聖母像の喪失で空虚になった人民の心のなかに、聖母マリアの成り代わりとして入りこみ、かつて聖母が信者に熱愛されたように、国民の敬愛を集めようとした。(中略)聖母マリアのシンボルはエリザベス女王のなかで生き続けており、貴族たちのみならず、民衆もまた、白いハンカチが処女王エリザベスを象徴していることを知っていたのだ。このイメージ作戦は成功し、処女王の伝説が広く宣伝され、統治のための最高の策となった。》

《ハンカチは一五三〇年頃にはじめてイギリスにおめみえし、エリザベス女王の時代に大流行した。ハンカチは結婚や婚約に際して、しばしば男性から女性に贈られた。(中略)エリザベス女王時代のハンカチは入念に織り上げられた生地に繊細な刺繍がほどこされ、ときには真珠などの宝石が縫い込まれた高級品である。ロンドンのヴィクトリア・アルバート博物館には、一六〇〇年頃の、縁が絹糸で刺繍され、その縁がさらに銀糸のボビン・レースで縁どりされた白いリネンのハンカチが所蔵されている。》

 

<漏れやすい女性の身体>

《ハンカチには処女性や清らかさと反対の意味も含まれていた。ハンカチは身体から出る汗、鼻汁、血液などをぬぐう機能を持つ。女性は男性より「湿っぽく」(watery)、液体(分泌物)を「漏らし」、恥ずべき液体を身体から出す。「女性の身体は液体が漏れやすく」、したがって女性は信頼できないとする社会通念がまかりとおり、女性はさまざまな恥ずべき液体を身体から漏らし、女性はそれを制御できない、そのために一族の家系や地位や名誉を傷つける危険な存在になりかねないと考えられていた。》

 デズデモーナの不貞を疑うオセローは、彼女の手を「湿っている」(miost)と表現し、そこに「年若い多情の悪魔」(a young and sweating devil)を見て、デズデモーナの身体を「漏れやすい器」へと還元し、デズデモーナは、淫らな、穢れた女性に変貌し、ついには《汚ならしいひきがえるが交わって子をふやす水たまり》と化す。

 

<異文化への興味/新婚初夜の血染めのハンカチ/「額の角」/「名誉殺人」>

シェイクスピアが生きた時代のイギリスでは、イタリアで発祥したルネサンスが遅ればせながら花開き、商業演劇の勃興と隆盛を招き、大航海の成功が異文化と外国人への興味をかきたてた。(中略)アラビア語とイタリア語で書かれたレオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』の英訳版が出版されたのは一六〇〇年だった。レオ・アフリカーヌスはムーア人ムーア人を主人公にした『オセロ』は、イギリスの異文化への興味が高揚するただなかで創作され、上演された。レオ・アフリカーヌス著『アフリカの地理史』はシェイクスピアが読んだと思われる地誌書のひとつである。このなかで、あるアフリカ部族の結婚にまつわる風習が紹介されている。(中略)

 このなかで言及されている血痕のついたナプキンは無論、花嫁の純潔の証拠である。このような慣習は古くからの伝統で、ナプキンの代わりに、血痕のついた白いシーツを花嫁の純潔のあかしとする風習の国や地方もある。》

 オセローがデズデモーナに、「額の辺りが痛むのだ」と言い、デズデモーナがハンカチを取りだして額に当てようとすると、オセローが「そのナプキンでは小さすぎる」とハンカチを振り払い、落ちたハンカチが、侍女エミーリアが拾い上げる印象的な場面(第三幕第三場)は、『オテロ』の第二幕第四場にも生かされている。

 シェイクスピアの時代の観客は、「額の辺りが痛むのだ」(a pain upon my forehead here)に、妻を寝とられた夫の額には角がはえ、頭痛に苦しむ、を読みとった。『オセロー』第四幕第一場でも、イアーゴーがオセローに「額がお痛みになりませんか?(have you not hurt your head? )」と問うと、オセローは妻に不義をされて角が生えるという意味を持たせたと思い、「おれをからかう気か?」(Dost thou mock me?)と返す。

「寝とられ男の額の角」という概念は、地中海一帯にあった「名誉殺人」という風習と一体だ。オセローはアフリカ北西部モーリタニア出身のムーア人で、当時の文化先進国、植民国家ヴェネツィア共和国の傭兵将軍になり、キリスト教に改宗、ヨーロッパ化した。しかしイアーゴーの奸計にひっかかり、妻を疑い始めるや、ヨーロッパ化の下地から、スペインや北アフリカなどの地中海地域の原初的な部分が滲み出てくる。家族の女性の貞潔さに基づく「名誉」観念であり、「たとえ事実がなくても」妻が不貞の噂を立てられたら男は妻を殺してもいい、穢された名誉は名誉を穢した女性の血でのみ雪(そそ)がれる「名誉殺人」の風習による悲劇が発生する。

 

 河合祥一郎は「寝取られ幻想」、「男性性の喪失」でオセローとイアーゴーの行為を次のように解読しているが、さらには北ヨーロッパとは異なる地中海一帯の「名誉殺人」という概念で強化されるだろう。

シェイクスピアは、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『から騒ぎ』、『シンベリン』、『冬物語』などの他の作品においても、妻が不倫を働いたという、あらぬ疑いを抱いて苦しむ夫たちを描いている。

「寝盗られ幻想」とでも呼ぶべきこの妄想は、当時の男性中心主義的な文化に蔓延していた一種の病だった。英語で「寝盗られ亭主」のことをcuckoldと呼ぶが、これは他の鳥の巣に卵を産みつける習性のある鳥のカッコウ(cuckoo)に由来する。知らないあいだに妻に浮気をされて他の男の子供を宿しても、寝盗られ亭主は自分の子供だと思って育てることになるためだ。『から騒ぎ』第一幕第一場で、ヒアローの父親である知事レオナートは「こちらが娘さんですか」と尋ねられると、「これの母親が、わしが父親だと何度も申しておりました」と答えるが、これなども、寝盗られたかもしれない可能性を踏まえての発言である。

 どうしてエリザベス朝の夫たちは、妻に不貞を働かれるのではないかと、そこまでおびえなければならなかったのかと驚くほど、この「寝盗られ幻想」はさまざまな言説に蔓延していた。シェイクスピア以外のエリザベス朝劇作家の戯曲でも、「寝盗られ亭主」は多数描かれており、寝盗られ亭主の額には角が生えるという迷信が広く信じられていた。『お気に召すまま』のような恋愛喜劇においてさえ、結婚すれば夫は角を生やすものなどと、結婚生活が必ずしも幸せなものにならないことが揶揄されている。

 エリザベス朝時代の男性がそのような強迫観念に悩まされていた原因を推察すれば、当時の社会では男性に過度の男性性が求められていたためであろう。身分のある男性は帯剣し、いつでも剣を抜いて自らの男ぶりを証明しなければならなかった。強い男性性の発露が求められるあまり、結婚とは、妻を完全に従属させることだという発想が生まれ、自分は妻を完全に従属させ得ていないのではないかという不安からそうした幻想が生まれたと考えられる。》

《なぜイアーゴーはエミーリアを殺してしまうのか(筆者註:オペラでは殺されない)。それは、彼が口封じのために自分の女房さえ殺すことをなんとも思わない悪党にすぎないからだというのが、これまでの一般的な理解だった。あるいはまた、卑劣で残虐な悪の権化に、なぜそんなひどいことをするのかと尋ねても仕方ないとも考えられてきた。しかし、そのように「悪」というレッテルを貼ってしまっては、イアーゴーの心の内は見えない。その複雑な心理を丁寧に考えてみることにしよう。

〈正直な軍人〉と〈悪党〉という二つの仮面を持つこの男は、仮面の背後に、ひた隠しに隠してきた素顔を持っている。それは、「絶対的男性性を失った男」としての醜くも情けない顔だ。他人の目を欺く〈正直な軍人〉という仮面の背後にあるのは、確かに〈悪党〉という眼光鋭い顔であるが、それも結局のところ素顔ではなく、自分の目を欺くために我知らず着けている仮面にすぎない。彼は社会のみならず自分に対しても嘘をつき、自分の男性性は完璧だと思い込もうとしているのだ。ところが、エミーリアが自分を裏切ろうとしたとき、虚勢は足元から崩れる。「悪魔の神学」を気取る〈悪党〉なら、女房も思いどおりに操るぐらいでなければならないが、自分の女房に裏切られても仕方のない「男性性を失った男」としての素顔が露見してしまうのだ。そして、素顔をさらけ出した彼は、自分を裏切る妻を暴力によって否定しようとする。女房は夫に属するものであるという父権制の思い込みに基づいて、彼は妻の不忠に対して、発作的に、絶対的男性として振る舞う――それが、エミーリア殺害である。》

 

「男性性の喪失」は、イアーゴーだけのことではなく、自害するオセローも含めて、ヴェニス公国の有り様、とくには軍隊の同性愛的傾向が底流にあるだろう。

 イステルは、オペラでは同性愛描写が控えめになったと指摘している。

《この場(第二幕第五場)はかなり忠実にシェークスピア(第三幕第三場)に従っている。(中略)オテロが証拠を要求するので、イアーゴはカッシオの夢の話――音楽的に見てヴェルディの傑作である――を、今日われわれが礼儀と考えているものに適合するかたちで語って聞かせる(シェークスピアにおいては、いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている)。》

 持って回っているが、具体的には男世界の軍隊にありがちな「いくぶんリアルに過ぎセクシャルな細部にわたり過ぎている」同性愛的問題をオペラは「礼儀と考えているものに適合するかたちで」忌避しているというわけだ。もっと言えば、実はイアーゴーはオセローへの同性愛的嫉妬からデズデモーナを排斥させたとの解釈もある。

 戯曲『オセロー』では、

イアーゴー ……眠っていながら、こんなことを申しました、「デズデモーナ、気をつけなければいけない、二人のことはだれにも知られないように。」そのうち、わたしの手を取り、強く握りしめて、「ああ、かわゆくてたまらぬ!」と叫んだかと思うと、いきなり強く私に接吻するではありませんか。それがまるでわたしの唇にはえている接吻を根こそぎ捥(も)ぎとろうとでもするような激しさでした。それから自分の脚をわたしの太腿の上に乗せて、深い溜息をもらし、またもや接吻です。かと思うと、急に大声をあげて、「おまえをムーアの手に委ねた運命が呪わしい!」と罵(わめ)き出す始末です。》

 オペラ『オテロ』では、

イアーゴ ……夜のことでございました。カッシオは眠り、私は彼の傍におりました。

とぎれとぎれの声が内心の喜びを伝えてくれたのです。

唇は熱っぽい夢に身をゆだねて、ゆっくり、ゆっくり動きました。

そうして言ったのです、悲しげな音調をひびかせて;

“やさしいデズデモーナ! 私たちの愛は誰にも知れておりません。

中尉深く用心を重ねましょう! 天上の恍惚がわが身すべてにあふれています”と。

やさしい夢がなおさだかならず続きました。けだるい不安をもって;

心に描く像(すがた)に口づけするかのように、彼はそれから言いました;

“あのムーア人にお前を与えた不実な運命を私は呪う”と。》

 

<苺が刺繍されたハンカチ>

シェイクスピアが種本にしたイタリアのジラルディ・チンティオの『百話集』(一五八五年)の第三巻第七話にある小品では、ムーア人が妻に贈るハンカチには「ムーア風」の装飾が施されていると記されているだけである。それを、シェイクスピアは意図的に苺の装飾に変えている。この変化は劇の意味を決定的に変える。

『イメージ・シンボル事典』によると、苺(薔薇科に属する)は、薔薇と同様に、愛の神と聖母マリアのエンブレムである。三枚の葉に白い花をつけ、熟すと赤くなる苺の実は聖母マリアのシンボルにふさわしい。白は純潔の、赤は神の愛の色だからである。苺は熟していないときは冷えて乾いているが、熟したときには汁が多くみずみずしい。キリスト教の解釈では、苺は正義のシンボル、聖母マリアはしばしば、苺が刺繍された衣服をまとって描かれた。

 オセロが「愛と記念の誓い」としてデズデモーナに贈ったハンカチは、デズデモーナの手を離れるやいなや、デズデモーナの不貞のあかしとしてイヤゴーに利用され、オセロはデズデモーナ殺害に突っ走る。ハンカチは不可思議な意味あいと魔法の力を強めながら、まるでブラックホールのように、ハンカチに関わった人たちを飲み込んでゆく。その一方で、赤い苺の刺繍のあるハンカチは、血痕のついたナプキンと同様に、デズデモーナの貞節を訴えつづける。》

 ところが、ヴェルディオテロ』では英語の「苺(strawberries)」がイタリア語の「花(fior)」に変質してしまう。

イアーゴ 時折ごらんになりまするか、

デズデモーナ様のお手に、

花のふちどりをしたヴェールよりも織物を(un tessuto trapunto a fior e più sottil d'un velo)?

オテロ それは私があれに与えたハンカチじゃ、愛のはじめてのしるしとして。

イアーゴ そのハンカチを、昨日、

(それは確かですぞ)カッシオが手にしているのを見ましたので。》(第二幕第五場)

 さらには、デズデモーナのハンカチでキャシオー(カッシオ)が髯(男性性のシンボル)を拭いている、とまでは歌われない。

 

<魔法>

 オセローは「風邪をひいたらしい、洟(はな)が出て仕方がない。ハンカチを貸してくれ」と言うが、デズデモーナはオセローから贈られたハンカチを出すことができず、今は「ここにない」と答える。

オセロー なんということだ。あのハンカチーフはおれの母親があるエジプトの女から貰ったものだ。その女は魔法使で、よく人の心を読みあてたものだが、それが母にこう言った、これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことができよう。が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気(いやけ)の影がさし、その心は次々にあだな思いを漁(あさ)り求めることになろう、と。母はそれを今はの際(きわ)におれに手渡し、ましさいわいにして妻をめとるときがきたなら、その女に与えるようにと言いのこしていったのだ。おれはそのとおりにした。大事にしてくれなければ困る、そのおのれの目のように大切に扱ってもらいたい。無くしたり、人にやってしまったりしようものなら、それこそ取返しがつかぬ、この上ない禍(わざわい)が起るのだ。

デズデモーナ 本当にそのような?

オセロー 本当なのだ。あれには魔法が織りこんである。二百年の齢(よわい)を重ねた巫女(みこ)が、神のお告げを語る恍惚夢遊(こうこつむゆう)の間に、その縫取りをしたという、それだけではない、蚕を神前に浄めて、その糸を吐かしめ、さらにそれを、特別の秘法をもって乙女の心臓より絞りとった薬液に漬けて染めあげたものだ。》(第三幕第四場)

第一幕で、デズデモーナの父ブラバンショーに、ムーアが魔法で娘をたぶらかし、結婚を強要した、とオセローは言いがかりをつけられたにも関わらず、ここでオセローは魔法の逸話を持ち出してデズデモーナを不安にさせる。

オペラでは、シェイクスピアのように鼻風邪ではなく、ふたたび持病の頭痛を口実にして、額を巻くためのハンカチを貸してくれと言う。貰ったハンカチは持ち合わせていない、とデズデモーナが答えると、

オテロ デズデモーナ、それを失くしたのなら承知せぬぞ! おい!

ある力をもった魔女が神秘な糸で織り出したもので、

そこには不思議な力をもった高い呪いがひそんでいるのだ。

注意するのだぞ! 失くしたり、あるいは人にくれたりするとひどい目に会うのだぞ!》(第三幕第二場)

 ここには、魔女は出てきても、苺模様の糸を染めた乙女の心臓の血は登場しないから、処女性を象徴するところまではいかない。

 

 以上みてきたように、ヴェルディとボーイトはシェイクスピアの穢れの不快感を浄化した。加藤浩子がヴェルディの『オテロ』について、《「シェイクスピアの精神」を具現しているかどうかについては、意見が分かれるところ》と保留しつつも、ヴェルディ・オペラの魅力を一言で言いきった、《襟首を摑まれてドラマのなかに投げ込まれる快感が、初めから終わりまで驚異的な緊張感とともに続くのだ》は、穢れの削除によってこそ成り立ったとも言えよう。

 もっとも、不快感の忌避、浄化をヴェルディとボーイトに責を負わせることはできない。歴史的に宮廷文化観賞としてオペラが不快感を与えるわけがなく、不快感を躊躇わず、逆に売りもののように前面に出したオペラは、1920年代のベルク『ヴォツェック』やショスタコーヴィッチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』まで待たねばならなかった。『オテロ』が1887年ミラノ初演であり、『ヴォツェック』が1925年ベルリン初演、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が1934年レニングラード(現ペテルスブルク)初演であったことを考えると、第一次世界大戦を挟んだ19世末から20世紀前半の文化・思想の、なんと破壊的、飛躍的であったことか

                               (了)

       *****引用または参考文献*****

シェイクスピア『オセロー』福田恆在訳(新潮文庫

アッティラ・チャンパイ、ディートマル・ホラント編『名作オペラブックス17 ヴェルディ オテロ』(リブレット対訳、シュテファン・クンツェ「英雄の没落」、「ヴェルディとボーイトの往復書簡より 《オテロ》についての手紙」、エドガー・イステル「ヴェルディシェイクスピアオテロ》」、ボーイト「《オテロ》登場人物の注釈」等所収)大津陽子、檜山哲彦訳(音楽之友社

石井美樹子「『オセロ』――デズデモーナの白いハンカチ」(神奈川大学人文学会誌2007.9.24)

*八鳥吉明「服飾と身体の交錯――Othelloにおけるハンカチ再考」(名古屋大学英文学会2010.3.30)

シェイクスピア『新訳 オセロー』河合祥一郎訳(角川文庫)

*加藤浩子『ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品』(平凡社新書

*ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』蜂谷昭雄、喜志哲雄訳(白水社

島田雅彦『オペラ・シンドローム』(「主役を操る悪役~ヴェルディオテロ』」所収)(日本放送出版協会

*芝紘子『地中海世界の<名誉>観念』(岩波書店

河合祥一郎ハムレットは太っていた』(白水社

*本橋哲也『本当はこわいショイクスピア <性>と<植民地>の渦中へ』(講談社選書メチエ

ナボコフナボコフの一ダース』(「いつかアレッポで」所収)中西秀男訳(サンリオ文庫

*T・S・エリオット『エリオット選集2』(「シェイクスピアに対するセネカの克己主義の影響』吉田健一訳所収)(彌生書房)

吉田健一吉田健一集成1』(「シェイクスピア」所収)(新潮社)

リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ、イタリアの心ヴェルディを語る』田口道子訳(音楽之友社

*『夏目漱石全集10』(「作物の批評」所収)(ちくま文庫

ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力 <アブジェクション>試論』枝川昌雄訳(法政大学出版局

*フランソワ・ラロック『シェイクスピアの祝祭の時空』中村友紀訳(柊風舎)

*ジョージ・スタイナー『悲劇の死』喜志哲雄、蜂谷昭雄訳(ちくま学芸文庫

*ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアカーニヴァル バフチン以後』岩崎宗治、加藤洋介、小西章典訳(法政大学出版局

岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』(中公新書

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳(河出文庫

 

文学批評 多和田葉子とカフカ/ベンヤミン/ツェラン ――多和田『百年の散歩』を読むための引用モザイク

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多和田葉子カフカ(1883~1924年)、ベンヤミン(1892~1940年)、ツェラン(1920~1970年)を尊敬し、さまざまな刺激を受けている。

 ユダヤ系のドイツ語作家である三人は、それぞれチェコプラハ、ドイツのベルリン、旧ルーマニア領(現ウクライナ)のチェルノヴィッツで生れた。カフカは四十歳で結核死、ベンヤミンナチスに追われスペイン・フランス国境で自死、父母を強制収容所で失っているツェランセーヌ川に飛び込んだ。三人とも死後に名声を高める。

 

・ハンナ・アレントは『暗い時代の人々』のなかで、ベンヤミンの《最大の誇りが「大部分引用句から成る作品を書くこと――想像しうるかぎりの気ちがいじみた寄木細工の手法――」であり》と紹介している。

 この「引用」「寄木細工(断片、モザイク)」という多和田文学にもあてはまる方法論、思考で進めて行く。

 

・1961年、ツェランの「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」でカフカベンヤミンツェランの三人の言葉と魂が出会う。

 ツェランは彼の数少ない詩論ともいえる講演の後半で、次のように語った。

《詩がおのれに出会うすべてのものに対してはらおうとする心づかいは、つまり細部とか輪郭とか構造とか色彩とか、さらには「こきざみなふるえ」とか「ほのめかし」とかに対する詩のひときわ鋭敏な感覚は、思うに、日々その完璧さの度合いを加えていく機器類と覇をきそう(あるいは鎬(しのぎ)をけずる)眼力の成果ではなくて、むしろわたしたちすべての日付を記憶しつづける集中力なのです。

「心づかい」――ここにヴァルター・ベンヤミンカフカ論からマールブランシュの言葉を引くことをお許しください――「心づかいとは魂のおのずからなる祈りである」》

 正確に言うと、マールブランシュの言葉は「魂のおのずからなる祈り」だけで、「心づかい」と結びつけたのはベンヤミンである。

 原典は、《マールブランシュが「魂の自然な祈り」とよんでいる、あのよく行き届いた心づかいこそ、いかにもかれにふさわしかった》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン著作集』(晶文社))であるが、「心づかい(Aufmerksamkeit)」は、「注意深さ」とか、少し違ったニュアンスを感じさせる訳もある。

《「私が私のお祈り台に膝ついて/ほんのちょっぴり祈ろうとすると/せむしの小人がそばに立って/とめどなしに喋り出す/かわいい子供よお願いだから/せむしの小人にも祈っておくれ!」そう、この民謡は終わる。この民謡の深みにおいて、カフカは、「神話的に予感する知」[『万里の長城の建設にさいして』のブロートとの後記]も「実存的神学」も、彼に与えることのない基盤と触れあっている。それはユダヤの民衆の基盤であるのと同じくらい、ドイツの民衆のそれでもあるのだ。もしカフカが祈らなかったとすれば――実際のことはわれわれには知る術もないが――それでも彼にはマールブランシュ(一六三八~一七一五年。フランスの哲学者)が「魂の自然な祈り」と呼ぶものが最高度に身についていた。すなわち注意深さが。そして彼はそのなかに、聖者が祈りのなかに包みこむように、すべての被造物を包みこんだのである。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』(『ベンヤミン・コレクション』)

 いずれにしろ、土星の徴の下に生れたようなメランコリーとアイロニーからなる三人の「心づかい」は多和田に深く影響している。

 

・「希望」という語の周りを三人は回遊していて、多和田の文学世界に道標の灯をともす。

《希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。》(ベンヤミンゲーテの『親和力』』)

 しかし、その「希望」は屈折している。

《『訴訟』(筆者註:日本では『審判』名が流通)から読み取れるのは、この訴訟手続きはいつも被告人にとって希望がない、ということである――彼らに無罪宣告への希望が残されている場合でさえ、希望がないのである。カフカの被造物として唯一彼らにおいてのみ美を発現させるのは、この希望のなさなのかもしれない。この解釈は少なくとも、マックス・ブロート(一八八四~一九八六年。プラハのドイツ語作家。カフカの遺稿編者)によって伝えられたある短い会話と非常によく合致するだろう。「私が思い出すのは」、と彼は書いている、「今日のヨーロッパと人類の堕落というテーマに端を発した、カフカとのある会話のことである。『われわれとは』、そう彼は言った、『神の頭のなかに湧いてくる虚無的な考え、自殺でもしようかという思いつきなんだ』。この言い方は私に最初、グノーシス派の世界像を思い起させた。つまり、悪しき造物主デミウルゴスとしての神、この神の堕罪としての世界、である。『いやまさか』、と彼は言った、『われわれの世界はたんに神の不機嫌、調子の悪い一日にすぎないんだよ』。『それじゃわれわれが知っている、世界というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか』。彼は微笑んだ。『ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。――ただわれわれにとって、ではないんだ』」[「詩人フランツ・カフカ」一九二一年]。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

ベンヤミンの遺筆には、収集、所有していたクレーの絵への言及がある。

《「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」と題されたクレー(一八七八~一九四〇年。ドイツ(スイス系)の画家、版画家)の絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たち(・・・)の眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼(・)はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集め繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)

 多和田は「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」という批評で、《<過去を歴史的に関連づけることは、それを《もとあったとおりに》認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである。歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思いがけず歴史の主体の前にあらわれてくる過去のイメージを、捉えることだ>》(ベンヤミン『歴史の概念について(『歴史哲学テーゼ』)』)を最初に掲げてから、ベンヤミンの「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」の文章から適宜引用しつつ論考しているが、多和田葉子『献灯使』の冒頭に登場する「無名(むめい)」は「新しい天使(アンゲルス・ノーブス)」に似ていないか。

《無名(むめい)は青い絹の寝間着を着たまま、畳の上にべったり尻をつけてすわっていた。どこかひな鳥を思わせるのは、首が細長い割に頭が大きいせいかもしれない。絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。瞼をうっすら閉じ、空中を耳で探るように頭を動かして、外の砂利道を踏みしめる足音を鼓膜ですくいとろうとする。足音はどんどん大きくなっていって突然止まる。引き戸が貨物列車のようにガラガラ走りだし、無名が眼を開くと、朝日が溶けたタンポポみたいに黄色く流れ込んでくる。無名は両肩を力強く後に引いて胸板を突き出し、翼をひろげるように両手を外まわりに持ち上げた。》

 

カフカ

・《「掟の前」(筆者註:「掟の門(前)」)という寓話のことを考えてみるがいい。この寓話を『田舎医者』のなかで読んだ読者も、おそらくはその内部にある雲のように摑(つか)みどころのない箇所に出くわしたことだろう。しかし彼はそのとき、カフカが自分で解釈を企てる場合にこの寓話から生じてくる、終わりの見えないあの一連の吟味に匹敵することをやってみただろうか。作者の解釈は『訴訟』のなかで僧の口を通して行なわれる。しかもそれは小説のなかの際立った箇所でなされるので、小説全体がこの寓話を展開したものにほかならないのだと、推測することさえできるほどだ。「展開する」という言葉には、しかし二重の意味がある。つぼみが展開して花開くとすれば、大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。そしてこの「展開」の第二のあり方が寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにして、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うものなのだ。けれどもカフカの寓話は第一の意味において、すなわちつぼみが花になるように展開する。》(ベンヤミンフランツ・カフカ』)

 

・《カフカの小説にオドラデクのように全く未知の何かが突然登場するのはむしろ例外で、よく知っているつもりの物や情況が急にぶれだして、分からなくなる場合の方が多い。》(多和田のカフカ集(『ポケットマスターピース01 カフカ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ))の解説「カフカ重ね書き」)

カフカの書く会話には独特の緊張感がある。》(同前)

フロイトが記憶のメタファーとして注目したWunderblock(マジック・メモ)の場合は、表面のシートをボードから剥がすと書いた文字はシートからは消えるが、文字の圧力でできた微かな痕跡が下のボードに残り、光にかざしてよく見ると、無数の線が重なり合っているのが肉眼で見える。カフカの小説を読んでいると、このマジック・メモのボードを思い出す。いくつもの物語が重なって、編み目のようになっている。読者はその中から一つの層を読むのである。つまり、カフカはいろいろなモチーフをデザイン感覚で配置したわけではなく、いくつもの物語を一つの表面に重ね書きしたのである。》(同前)

《マジック・メモのボードを真剣に見つめるように熟読していると、奥から線が何本も浮かび上がってきて一つの映像を結ぶのだ。やっと分かった、と思って喜んでも、よく見るとどこかずれていて、ぴったりは重ならない。そのずれが、時の経過と共に揺れながら幅を広げ、もう一度読んでいると、別の像が浮かび上がる。しかも、それも思った像とはぴったりは重ならない。ずれが読者をひきつけては振り落とす。》(同前)

カフカの小説には必ずと言っていいほど、エロスの層がある。『流刑地にて』の場合は、多くの画家の手で美術史に残された聖セバスティアヌスの姿がちらつく。》(同前)

《わたしは『変身』にも禁じられた性の引き起こす罪と罰の層を見てしまう。グレゴール・ザムザが本当に愛しているのは妹だが、それは近親相姦という「汚れた」罪であるから罰せられなければならない。》(同前)

《けがれの感覚と罪の意識はカフカの小説のいたるところに彫り込まれ、そこにはいつも性の問題が絡んでいる、ただその絡み方が特殊なので、カフカはあまり色気のない作家であるように誤解されることが多い。『訴訟』も例外ではない。(中略)話はどこまでも逮捕の話から脱線して、性の領域にのめりこんでいく。逮捕された事件が主旋律で、女性関係が副旋律なのではない。Kは性欲を持つがゆえに有罪判決を受けそうになっているのだ。この判決は父的な神から降りてくるので、法律の力で無罪を証明するのは不可能である。カフカは、法律にふれていないのに逮捕されるKを小説に書くことで、性を有罪とする判決が全くのナンセンスであることをあきらかにしたとも言える。》(同前)

カフカの文学は、映像的であるという印象を与えながらも一つの映像に還元できないところに特色がある。『変身』のグレゴール・ザムザの姿も言語だけに可能なやり方で映像的なのであって、映像が先にあってそれを言語で説明しているわけではない。言語がその度に新しい映像を脳内に喚起するように描かれているのである。頭の中で自分なりの映像を思い浮かべるのは読書の楽しみの一つである。読む度に違った映像が現れては消え、それが人によってそれぞれ違うところが面白いのである。》(同前)

 

ベンヤミン

ベンヤミンの「パサージュ」的性格。

《わたしはパリでのある午後のことを考えている。その午後のおかげで、わたしは自分の人生に対する認識を得たのだが、認識は電光のように、霊感のような烈しさでわたしに襲いかかってきたのだった。人びとにたいするわたしの伝記的な関係が、わたしの友人・朋輩にたいする、恋人・愛人にたいする関係が、そのきわめて生々しく、隠微なからみ合いにいたるまで明らかになったのは、ほかならぬこの午後のことであった。わたしは自分につぶやく、それはパリのほかではありえなかったのだと。パリでこそ、壁や河岸が、停留所が、コレクションや瓦礫が、格子や四つ角の小さな広場が、路地[パサージュ]や新聞売場が比類のないことばを教えてくれる。だから、人間にたいするわたしの関係は、わたしたちがあの事物の世界に沈み込んで、まわりを孤独で包まれるために、一種の深い眠りの底にまで達するのだ。そこで待ちうけている夢の像が、それらの関係の真の相貌を啓示するのである。……さて、問題のその午後、わたしはサン・ジェルマン・デ・プレ近くのカフェ・デ・ドュー・マーゴの奥の部屋に腰かけて――誰だったかわすれたが――人を待っていた。そのとき突然、有無を言わせぬような力で、自分の生涯の図式を描こうという考えに捉えられたのである。》(ベンヤミン『ベルリン年代記』)

 自分の人生の図式は「迷宮」であって、入口はたくさんあり、ベンヤミンはそれをパサージュ(アーケード、通路、路地)と呼ぶ。

《これらの入口をわたしは知り合いの原型(ウベアカントシャフト)と呼ぼう。その入口のひとつひとつが……わたしの出会ったひとりの人間との知り合いの図形的象徴なのである。知り合いの原型の数だけ、迷宮へのさまざまの入口がある。……すなわちそれは、さまざまの年齢において繰り返しわたしを友人や裏切者や恋人や弟子や師へ導いてゆく通路なのである。それこそ、あのパリの午後にわたしの目前に現れたわたしの生涯の見取図が、教えていたものなのであった。こうして都会を背景にして、かつてわたしの周辺にいた人びとが、集まって図模様をつくるのである。……そこに事物の世界が同じように深い象徴となって凝縮したことがあった。》(同前)

 今村仁司によれば、《パサージュとは、さまざまの流れ・道・方向の凝集点であり、移行と分枝の場所である。》

 

・初期からの「モザイク」「迂回」「引用」「アレゴリー」への偏執。

《意図の連続するところにトラクタート(筆者註:スコラ哲学の入門的概念で、引用文に満ちた教育的な語り)の第一の特徴がある。思考は根気よくたえず新たに考えを起こし、まわりまわってふたたび事象そのものへもどっていく。このようにたえず息をつくことこそ、観想のもっとも本来的なあり方である。というのは、観想にとっては、同じひとつの対象を省察しながら異なった感覚段階を次々と踏んでいくことが、そのたえず新たなる開始の原動力となっていると同時に、その間欠的なリズムの正当性の根拠にもなっているからである。モザイクは、どのような勝手きままなやり方で細分しようとも、その尊厳が失われてしまうということもない。哲学的省察もまた、飛躍的高揚の喪失を恐れたりしないのである。モザイクも省察し、個々のもの、一つ一つ違ったものが寄り集まってできている。……思考細片は基本的構想でもって直接はかることが不可能であればあるほど、その価値はいよいよ決定的なものになり、そしてモザイクの光彩がガラスの溶塊の質に依存しているのとちょうど同じように、表現の生彩は、思考細片のこの価値にかかっている。事柄の細部にまで正確に沈潜してはじめて、真理の内容が完全にとらえられる。》(ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』)

 

・《シンボルにおいては、没落の聖化とともに、変容した自然の顔貌が、救済の光のもとで、一瞬みずからを啓示するのに対して、アレゴリーにおいては、歴史の死相が、凝固した原風景として見る者の眼の前にひろがっている。歴史に最初からつきまとっている、すべての時宜を得ないもの、痛苦に満ちたもの、失敗したものは、一つの顔貌、というより一つの髑髏の形を取って、はっきり現れてくる。このような髑髏には、たとえ表現の「シンボル」的な自由が一切欠けていようとも、また、形姿の古典的調和や人間的な要素がことごとく欠けていようとも、人間存在そのものの本来の姿ばかりでなく、個々の人間の伝記的な歴史性が、この自然に委ねられた最も荒涼たる形の内に、意味深長な謎として現れている。これがアレゴリー観照の核心であり、歴史を世界の受難史として見るバロックの世界解釈の核心である。世界は、その凋落の宿駅においてのみ意味を持つ。》(同前)

 

・《むしろ「閾」の上に、境界線の上にあって、どちら側にも完全に帰属することのできないものの、まさに岐路=危機(クリーゼ)的な存在のありようが、彼の心を捉えて放さないのである。》(川村二郎『アレゴリーの織物』)

《どこからどこまでを真実、どこからどこまでを虚偽と分ち得るような文章ではなく、真と偽は織り合せられて一枚のゴブラン織と化している。》(同前)

 

・《過去が伝統として伝えられるかぎり、それは権威を持つ。権威が歴史的に現われるかぎり、それは伝統となる。ヴァルター・ベンヤミンは、その生涯に生じた伝統の破産と権威の喪失との回復不能性を知り、過去を論ずる新しい手法を発見せねばならぬという結論に達した。過去の伝達不能性は引用可能性によって置き換えられること、そして過去の権威の代りに、徐々に現在に定着し、現在から「心の平和」、すなわち現状に満足する精神なき平和を奪い去る不思議な力が生じていることを発見したとき、かれは過去を論ずる新しい手法についての巨匠となったのである。》(ハンナ・アレント『暗い時代の人々』の「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」)

ゲーテ論以降、引用文はあらゆるベンヤミンの著作の中心をなしている。まさにこのことがかれの著述をあらゆる種類の学術的著述から区別している。学術的著述においては、引用文の機能は意見を表明し、証拠の文献を提示することであって、それゆえ引用文は注へと安全に追放される。こうしたことはベンヤミンにとっては問題外であった。かれがドイツ悲劇に関する研究をすすめていたとき、かれは「きわめて体系的かつ明瞭に配列された六〇〇以上の引用文」の収集を自慢にしている(『書簡集』第一巻、三三九ページ)。のちのノートと同様に、この収集も研究を書き表わしやすくする意図を持った抜き書きの寄せ集めではなく、作品の主要部分をなすものであり、そこでは書くことそのものは二次的な意味しか持っていない。主要な仕事となったのは、それらの文脈から断片を引き裂き、それらが相互に例証しあうように、またいわば自由に浮遊している状態においてそれらの存在理由を証明できるように新たな仕方で配列することであった。明らかにそれは一種のシュルレアリスムモンタージュである。完全に引用文だけから成る著作、すなわちきわめて巧妙に組み立てられているためいかなる本文をもつける必要のないような著作を作り出したいというベンヤミンの考えは、その極端さとさらに加えてその自己破壊性とにおいて、それに似た衝動から生じた同時代のシュルレアリスム的実験のどれよりも気まぐれなものとみえるかもしれないが、しかしそうではなかった。》(同前)

 

《彼の文章は普通のかたちで生みだされるものとは思えない。互いにつながりをもらないのだ。それぞれの文が最初の一文か、最後の一文といった調子で書かれている。(『ドイツ悲劇の根源』のプロローグには、「著述家は文章ごとに立ち止まり、文章ごとに再出発しなくてはならない」という言葉がある)。心理の動き、歴史の動きもタブロー画として描かれる。思想は極限的なかたちで言い表わされ、視点がくるくる変わる。彼の思考と著述のスタイルは、アフォリズムなどという不正確な言いかたをしないで、ストップ・モーション風バロックと呼ぶほうがいいかもしれない。》(スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』)

 

ツェラン

ツェランの言葉。

《もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けてきて、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました――すべての出来事に「豊かにされて」。

 それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました――語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。

 これは、わかっていただけると思います、出来事、試み、どこかへ行く道の途上にあること、でした。これは、方向を得ようとする試みでした。そして、その意味を問われるなら、その問いの中には時計の針の動く方向についての問いも含まれると答えざるを得ない気がします。

 というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けて(・・・・・)であって、時をとびこえて(・・・・・)ではありません。

 詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に——おそらくは心の岸辺に——流れ着くという(かならずしもいつも期待に満ちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです——何かをめざすものです。

 何をめざすのでしょう?なにか開かれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。そのような現実こそが詩の関心事、とわたしは思います。

 そしてまた、このような考え方は、わたし自身ばかりでなくもっと若い世代の詩人たちの努力にも付き添っている考え方ではないかと思います。この努力とは、人間のこしらえものでしかない天の星々を頭上に頂いて、したがってこれまでに予想だにされなかった意味での無天幕(テント)状態の下を、つまり身の毛のよだつばかりの大空の下を、現実に傷つきつつ現実を求めながら、みずからの存在とともに言葉へ赴く者の努力のことです。》(ツェラン「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(一九五八年))

 

・《わたしの最も尊敬するドイツ語詩人パウル・ツェランは、晩年ずっとパリに住んでいたが、ドイツ語でしか詩を書かなかった。(中略)ツェランは、当時ルーマニア領のチェルノヴィッツでドイツ語を話すユダヤ人の両親から生まれた。「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」と言って、自ら命を絶つまでずっと、自分の母親や友人たちを殺害した人間たちの使っていた言語であるドイツ語でしか詩を書かなかった。語学の才能は優れていて、フランス語がよくできただけでなく、マンデリシタームの詩などもロシア語から訳している。いろいろな言語の聞こえてくる東欧的環境で、マイノリティの言語ドイツ語を主言語として成長していった環境は、プラハカフカとも通じるところがある。ツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉は時々引用されるが、「一つの言語で」という時の「一つの言語で」というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の「ドイツ語」の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合わされているのである。だから、この「一つの言語」というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く「一つの」言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。よく知られている例を一つ挙げると、ツェランの「葡萄酒と喪失、二つの傾斜で」で始まる詩では。「傾斜(Neige)」という言葉が出てきたかと思うと、突然「雪」が出てくる。意味的には、「傾斜」と「雪」は繋がらない。しかし、ドイツ語の「Neige(傾斜)」と全く同じスペルが、フランス語では雪という意味の単語になるので、両者は密接な関係にある。語源的には関係ないし、発音は全く違うが、見た目が同じなのである。わたしたちの無意識がどれほどこのような「他人のそら似」的な単語間の関係に支配されているかということは、フロイトの『夢判断』などを読めばよく分かる。(中略)

 ツェランを読めば読むほど、一つの言語というのは一つの言語ではない、ということをますます強く感じる。だから、わたしは複数の言語で書く作家だけに特に興味があるわけではない。母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、「外」とか「中」とか言えなくなることもある。》(多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』の「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」)

 言語論において、カフカベンヤミンツェランが出会っている。

 

・《『閾から閾へ』という詩集のタイトルにモンガマエがすでに二回も顔を出す。「閾」という字の場合には、「門」との意味的な繋がりは一目瞭然、門も閾も、ある境界を表わしている。しかし、その境界を越えようとしているのでないことは、この題名を見てもすぐに分かる。閾を越えるのではなく、ある閾から別の閾へと彷徨うのだ。

  詩集を開けると、最初の詩にすぐミンガマエの付く漢字「聞」が出てくる。「ぼくは聞いた」という詩で、こんな風に始まる。

  ぼくは聞いた、水の中には/石と波紋があると、/そして水の上方には言葉があって、/それが石のまわりに波紋を描かせていると。

「聞」という字では、門の下には耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい。同じ詩の次の連では、境界のところに立ち止まらずに先へ進むポプラが出てくる。

  ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、/ポプラの手が水の奥をつか もうとするのを見た、/ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。

 閾の向こう側に水の世界がある。「ぼく」はポプラが異質の世界に入っていくのを見ているが、ポプラの後をあわてて追って行きはせずに、観察者の位置に留まっている。

  ぼくはぼくのポプラのあとを追わなかった、/ぼくはただ地面から、きみの目のかたちと/気品をそなえたあのパンのかけらを拾っただけだ。/ぼくはきみの首から唱え言の鎖を外して、/パンのかけらがいまよこたわるテーブルの縁を飾った。

「ぼく」は水の中に入ってはいかず、閾のところに踏みとどまって、魔法の遊戯を始める。パンのかけらと鎖を使って、石と輪を描き、水の中の世界をテーブルの上に再現する。此の呪術的遊戯は、翻訳という作業と似ていないこともない。翻訳者は水の中に消えていく身体である。(中略)

「薔薇七つ分だけ遅れて」と名付けられた一連の詩は聴覚について語っていると言っていいほどで、耳をすまして聞くということが境界というものから切り離しては考えられない行為であることを何度も思い出させられる。日本語の中だけで、毎日漢字を使って暮らしていた頃、わたしは自覚はしていなかったけれども、それを当然のこととして了解していたような気がする。「門前の小僧、習わぬ経を読む」という諺があるが、門の中に入らずに門の前に立ってお経を聞いている小僧の姿が、なんだか「聞く」行為そのものを体現しているように思える。しかし、ドイツ語の中で暮らしていると、hören(聞く)は、むしろZugehören(所属する)に繋がり、耳をすませると、境界のところに留まっていることができなくなる。

 第三の詩「閃光」には、「閃」というやはりモンガマエの漢字が登場する。門の下に人がひとり立っている。それまで、わたしは、なぜ門の下に人が立つと、閃くものがあるのか、考えてみたこともなかった。もしかしたら、門の下、つまり境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現われてくるものが見えやすいのかもしれない。

「閃光」に当たるドイツ語の単語leuchtenは、この漢字と深い関わりがあるように思える。この単語を発音してみると、一瞬だが真ん中にich(わたし)という単語が聞こえる。Ichという単語の出てこないこの詩の中で、「わたし」は、閃光の中にほんの一瞬、壊れかけた形で現われるだけである。(中略)

 五番目の詩「斧をもてあそびながら」の最初の一行にはStundenという単語が出てくるが、これを訳してみると、「時間」となり、またモンガマエが現われる。「間」という字のモンガマエの中には、昔は太陽ではなく月があったそうだ。門からのぞいて見たら、月の光が見えたというのが、「間」の感覚なのかもしれない。

 ツェランの詩は、ひとつの閉じられた空間に閃光が保存してあるような詩ではなく、門のような詩なのだという気がしてきた。しばらくして、ショーレムの「宗教的権威と密教」の中で、やはり「門」のイメージに出くわした。彼に言わせれば、聖典密教的解釈は厳密になればなるほど、それまでに姿を変えたテキストが言葉の意味そのものにおいて価値を認められ続けるチャンスは大きくなるわけだが、その際、言葉の意味は門を形成し、神秘家はその門をくぐり抜けて進むが、門は常に開いたままにしておくのである。

  ツェランの詩は入れ物ではなく門である。わたしたちは読む度に門をひとつ通り抜けていく。門はいつも開いているのか。そう思って見ると、「開」という漢字も出てくる。(中略)

  ひとつの言葉を記述することは、ひとつの門を開くことかもしれない。漢字のような文字を読むということは、言葉(Wort)を読むことに繋がり、文章(Satz)を読むことではない。(中略)

 ツェランの言葉が門のようだと思った時に、ベンヤミンが「言葉に忠実な翻訳」をアーケード(筆者註:パサージュ)と比較していたことを思い出した。本当の翻訳というものは、光を通すもので、原文を隠したり、原文に当たる光を遮ったりするのではなく、言葉自身の媒介によってより強くなり、原書に純粋言語を投げかけると言うのである。これは、言葉に忠実に訳すことによって可能になるのであり、文ではなく単語が翻訳の原点となる要素であるということになる。なぜなら、文は原書の言語の前に立ち塞がる壁であり、ひとつひとつの単語への忠実さはアーケードを形作るのであるから。ツェランの詩はアーチの連なる通路のようなものかもしれない。

「薔薇七つ分だけ遅れて」の最後の門を潜り抜けようと思う。モンガマエの付く七つ目の漢字は「闇」で、これは「暗闇から暗闇へ」と「客」という二つの詩に出てくる。この字は考えて見ると不思議な字で、門の下に音があるとどうして闇になるのかわからない。ツェランの詩を読んでいるうちにやっと、この漢字が理解できたような気がした。

  きみは目を見開いた――ぼくは自分の暗闇がよみがえるのを見る。/ぼくは暗闇の奥を見る――/そこもぼくのもの、そこもよみがえる。(一行空)

  このような暗闇は彼岸へ渡るだろうか? 覚めたままで?/誰の光がぼくの後を、渡し守の見つかるところまで、ついて来てくれるだろうか?

 この詩を読んでから、「闇」という字について次のように考えるようになった。言葉では表わせない闇は、門の向こう側にあるように思えるが、門の下に音が立っているのが邪魔になって、門の向こうに何があるのか見ることはできない。しかし、その音という媒介が消えてしまえば、向こう側と繋がっているものがなくなってしまう。音は門を塞ぐと同時に、こちらとあちらを繋ぐ媒介でもある。耳を澄ませば音が聞こえて見えない向こう側に繋がる。(中略)

 モンガマエという主部が、この場合、翻訳が文学としての身体を有していることを目に見えるようにしてくれている。翻訳は原文を真似して作った模造人間ではない。翻訳の中で原文が新しい身体を授かるということかもしれない。原文の中に隠されたある意味が翻訳可能性によって目に見えるようになる、という「翻訳者の使命」の中にあるベンヤミンのことばも思い出される。(訳は、パウル・ツェラン『閾から閾へ』飯吉光夫訳、思潮社、一九九〇年より)》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」」)

                                                              

・多和田には、ほぼ同じ内容の文章があるが、「暗闇から暗闇へ」を受けての結びが違う。

《闇は、門や閾のところに立った音と関係あるのであって、光の欠乏ではない。わたしたちはいつか(過去のある時点とは限らないある門を抜けて、<ここ>に来てしまって、それ以前に自分がいたところを思い出そうとして振り返っても、それが見えない。門の下に音が経っているので、それが邪魔になって、その向う側が見えない。だからと言って音を邪魔者とばかり見做すのは間違っている。その音が媒介となって、わたしたちは向う側とつながっている。だから、門のところへ行って、その音に触れれば何か向う側のことが表現できるような気がする。もちろん、その音は音楽など具体的な音とは限らない。映像と出会う前の、もしかしたら胎内に出現してから外界で目を開くまでの世界と通じる何かかもしれない。その音に触るためには、闇が必要になってくる。でもそれは、理性を無くす必要があるという意味ではない。光が闇の反対ではない限り、理性が<向う側>の敵であるという風には思えない。

 この闇と関わっている時、わたしは詩と関わっている気がする。(この関わるという字にももちろんモンガマエが付いている)相手がいわゆる小説でも、わたしにとっては、詩であることがある。わたし自身は、いわゆる詩を書きたいと思ったことはなかった。読む方も、昔は詩を読むより、長編小説を読むのが好きだった。ところが、ドイツに来た時、言葉がばらばらになってしまって、断片を書き記していくしか表現の方法がなくなった。この急変した自分の言葉の状況を、わたしは詩と呼んだ。日本語という暗闇から、ドイツ語という暗闇に飛行する途中、わたしは翻訳者になることができず、じぶんの身体をばらばらにしてしまった。身体と切り離せない言葉も当然ばらばらになってしまった。それがわたしの今の仕事の出発点だったため、そのうち、いわゆる小説ばかり書くようになってからも、自分では詩を書いているつもりのことが多い。》(「モンガマエツェランとわたし」(『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』))

 

・「門」といえば、カフカ『訴訟(審判)』および短篇集『田舎医者』の中の「掟の門(前)」を思わずにはいられない。ここでもカフカベンヤミンツェランの三人が門の閾で出会う。

《「(前略)もう彼は余命いくばくもなかった。死を前にしたとき、彼の頭の中では、今まで長いあいだの経験が全部集って、これまでまだ門番にたずねたことのない一つの問いとなった。硬直してゆく体をもう起こすことができなかったので、彼は門番に合図をしてみせた。門番は男のほうにふかく身をかがめなければならなかった。というのも背丈のちがいがこの男にとってたいへん不便な状態に変ってしまっていたからである。『おまえは今さら何を知りたいのだ?』と番人がたずねた、『よくもまああきないものだな』『みんな掟を求めているというのに』と男は言い、『この長年のあいだわたしのほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこなかったのは、いったいどうしたわけなのでしょうか?』 すでに臨終が迫っているのを見てとった門番は、消えてゆく聴覚にもとどくように、大声でどなった、『ここはおまえ以外の人間の入れるところではなかったのだ。なぜなら、この門はただおまえだけのものときめられていたのだ。さあわしも行って、門をしめるとしよう』」》カフカ『審判』)

 

多和田葉子

多和田葉子『百年の散歩』(初出二〇一四年六月号~二〇一六年十月号(「新潮」))を読むために。

 

・《編集部 先生の文学創作活動において、カフカはどのような意義をもつのでしょうか。

多和田 カフカの文学では言語そのものの魔術性と超現実主義的な要素がお互いに作用しあっていて、ドイツ語文学の中では例外的な存在だと思います。カフカは中学生の時から好きでしたが、後にヴァルター・ベンヤミンのおかげで、再発見することができました。わたしは世界各国を旅してきましたが、カフカはいろいろな文化圏で若い人に読まれています。日本やアメリカだけでなく、中国やイスラム圏でも熱心なカフカの読者と出会うことができました。

(中略)

編集部 先生の創作活動は詩、エッセイ、散文、戯曲、放送劇と幅広く、ピアニストの高瀬アキさんと一緒にベルリン日独センターでデュオ・パフォーマンスの公演をされたこともあります。一番好きな創作ジャンルを特定することは可能でしょうか。そして、文学者として最も大きな影響を受けたのは、どのジャンルでしょうか。

 多和田 戯曲を読むのは昔から好きで、シェイクスピアチェーホフギリシャ悲劇から始まって、クライスト、ビューヒナー、ハイナー・ミュラー など読みました。でも詩や散文などを読んだり書いたりするのも戯曲と同じくらい好きです。 どのテキストも自分に合った形式を見つける 必要があります。だからいろいろなジャンルで創作するのです。》(ベルリン日独センターでの多和田葉子書下ろし舞台劇『カフカ開国』公演に向けてのインタビュー)

 

・《多和田 私はどちらかというと、実際の土地そのものを現実に映し出すことができるとは思っていないほうで、その土地の名前とか、そこで生まれた物語とか、そういうものが言葉のレベルでつなぎあわされて、編みあわされて、それでできた都市というのが、どうしても頭の中にまた別に出来てしまう。》(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸))

 

・《この映画は、引用というかけらから成り立っている。ここで言う引用とは、自分の正しさを証明するためにすでに権威を認められている人の言葉を借用する引用のことではない。この映画に姿を現わす引用は、同じひとつのものの中にある<違い>を示す役割を果たしている。同じひとつのドイツの中に東と西があり続けるように、ヘーゲルのひとつの文章の内部にもいくつもの文章が存在する。翻訳という作業がその事実を目に見えるように、あるいは耳に聞こえるようにしてくれる。同じバッハの音楽の中にも、異質な音楽がいくつも含まれている。だから、BACHという名前の綴りが、B、A、C、H、という四つの音としてばらばらになった時、それらを統合する絶対の法則があると思い込み続けることができなくなる。バッハもお互いに調和し合わない要素が集まって構成されているのであって、その一部は全体から解き放されて引用されることで、輝きを増す。

 引用が引用であり続けるためには、作者が一度口の中でよく噛んでから、自分の言葉にして吐き出してしまったのではいけない。それぞれの文章、音楽、場面が別々の世界からやってきたものであることが強調されなければいけない。だからこの映画では、いろいろな書物の表紙がしつこいほど映し出される。ブランデルブルク門の下で売られる本、図書室に並ぶ本、二か国語で朗読されるヘーゲル、地面に落ちた本、そしてホテルの部屋に備え付けの聖書。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「新ドイツ零年」はゴダール監督映画(1991年))。

 

・《いろいろなイメージが混ざり合って別のイメージに発展していくのは当然だけれども、全体の統一ということを重視しすぎて、その結果、作品があまりにも「滑らかで」「自然な感じ」になってしまったのではもったいない、といつも思う。もともと別々だったイメージや物の見方がぶつかりあって作品が出来上がっていったのだから、その衝突の際についた傷跡があるはずで、そういう傷跡、縫い目、破れ目、ちぐはぐ、不調和などが残っていなければ、文学として面白くない。それが全く残っていないのを「完成度が高い」と言って満足するのはアサハカ。すらすらと読めてしまえる作品、矛盾を感じさせない作品、それがいろいろな過程を経て「書かれた」ものであることを感じさせない作品を読んでいるとタイクツ。》(多和田葉子『カタコトのうわごと』の「筆の跡」(ドイツで活躍する韓国出身の画家、宋賢淑の絵を鑑賞して))

 

・《ここでは何か裏話を話すそうなのですけれど、私は裏表の無い人間なので、全部表の話になります。私は3年前にハンブルクからベルリンに引越しまして、ベルリンと言えばプロイセン、今はもうプロイセンではありませんけれども、昔プロイセンだったわけで、そのプロイセン文化といえばやはり秩序を重んじ責任感を大切にして、笑ったりおいしいものを食べている文化ではなくて、非常に厳しい軍国主義的な文化でもあったわけです。でも、そういうイメージも消えて、今のベルリンは若いアーチストたち、ダンサーとか、それから小説家もたくさん集まって住んでいます。この前ノーベル文学賞をもらったヘルタ・ミュラーもそうですが、いろいろな国から作家が集まって住んでいる非常に楽しい町になりました。ドイツはイギリスやフランスと比べても遅れて慌てて近代化したわけで、そういうことでお手本にしやすいということで、日本の近代化のお手本になったところだと思います。私が日本を離れて非常に感じることは、江戸時代から明治維新に向かってのギャップというか、そこを飛び越えるとき、人々はどうやって飛び越えたんだろうか、それが非常に気になってくるわけです。その間の谷間というか狭間、江戸文化と明治の文化は非常に深いものなのではないか。そういう時に小説の言葉を新しく創り出していくということが、どれだけ難しいことだったのかということを、何度も思いました。

 そういうことを考えているときに今度坪内逍遙大賞をいただけるということで、100年前に早稲田の大学出版部から出たシェイクスピアの『ハムレット』の逍遙訳をちょっと読んでいたんですけども、その訳を読んで、少し驚きました。その出だしの部分がこんな感じです。「何者じゃ、あいや、そのものこそ。待て、名宣らしめ。今上万歳。バーナードどのか。なかなか。」これを読んでいると、演劇の言葉というのは、翻訳ですけれども、小説の言葉がバッタリと途切れてしまって新しい言葉を生み出さなければならなかったのと比べて、もしかしたらもうちょっと持続性があるんじゃないか、近代が来てからも江戸時代の演劇の言葉をある程度活かして、またそれが何かその流れが続いているんじゃないか、という演劇の言葉と小説の言葉のあいだの違いを感じたわけです。ということは、小説の言葉もまた演劇の言葉から学ぶところが多いということと、外国の演劇を訳す試みを通して、今の日本の小説の言葉を生み出すことが出来るかも知れないというのが、今の私の考えていることです。そういうことを考えながら、去年チェーホフの『桜の園』の翻訳ではなく翻案を作ったのですけれども、それがまた来年シアターカイで11月に上演されることになりました。私と演劇とのつながりは割に深いというか長いもので、私の両親も実はこの早稲田大学の文学部を出ているので、二代目早稲田なのですが、私が三歳のときに、これは私の父と母の話ですから本当かどうかわかりませんけれども、サルトルの『凶器と天才』の芝居を観に行こうということになって、私を連れて行ってくれました。連れて行ったといっても、子供を預かってくれる場所が劇場にあって、そこに預けるつもりで連れて行ったけれども、私はそこに行くのはいやだと言って、芝居をじーっと、何を考えているか分からないけれども、観ていたということです。翌日、ひどい熱を出して幼稚園を休んでしまったのですが、それが私のはじめての演劇体験でした。(後略)》(「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【受賞者挨拶】【大賞】多和田葉子

                     

・《  最近の文学の「フラットな空間」

キャンベル 最近の文学作品には、教室であったり、グラウンドであったり、トラックが何台も走っている郊外の幹線道路の橋の下であったりというような〝白い〟空間がよくあります。ディテールに入り、そこから敷衍していくようなことが少ない気がするんですね。白い透明な中に人々は自分の状況に不安を募らせ、関わり、離散する。

 でも、多和田さんの小説に現れるのはディテールです。看板、外国語、隣の席のちょっと声のいがらっぽい中年女性の声というようなもの。

多和田 コラージュみたいな方法なんです。断片の集まりを滑らかにミックスするのではなく、個々の材質をそのまま残す感じです。

キャンベル 乗り物にたとえればニューヨークの地下鉄みたいな感覚ですね。

多和田 今ある関係性をはずして、個々のディテールを切り取ってきて一つの面に並べて貼ったとき、異質なものたちが同じ平面で隣り合わせになります。都市ってそういう場所じゃないですか。そういう都市のかたちはすでに百年くらい前には基礎ができていたと思うんですが、大戦とか冷戦とかがあってベルリンの場合、長い間、見えにくくなっていた。それが今新たにコラージュとして現れていると思うのですが、シュールリアリズム時代のコラージュとは違って、ネットによる平板化時代のただ中で接触面のない無数のミクロの集まりみたいな感じもあります。

キャンベル 『百年の散歩』の表紙がそうですね。

多和田 フランス語で話している人たち、トルコ語の看板、ロシア語の新聞などが目や耳に飛び込んでくる。同質ではないものが共存しているのに、グローバル化とかインターネットの普及のせいで、そのままでは必ずしもデコボコな感じがしない。立体性があるはずなのに、のっぺりしているように見えてしまう今の時代。先ほどの白い空間というのは、いろんな人がいるのに、ボコボコしていない空間ではないですか。

キャンベル 平坦に調整されている。

多和田 私の作品はその逆です。もちろん調整しないわけではないんですが、異質感が出る方向に調整していくんです。

キャンベル 多和田さんのいくつもの小説の基本的な姿勢にもつながるお話ですね。『百年の散歩』の主人公は歩くことを通していろんなことが視界に入り、そこにちょっとした気づきやこだわりを得る。「遊歩者」という言葉を僕は用いますが、なぜ散歩を描くことにしたのでしょうか。

多和田 散歩していると、たとえその街に住んでいても、なんだか自分が旅人みたいな気がしてくることがありますよね。「大都市の散歩者」は「家族の一員」であることを一時やめている、と考えてもいいかもしれません。一般に、小説には家族を描いたものが多いですね。家族の一員として親との葛藤、子どものこと、パートナーとの関係などを描く。でも都市で暮らす人の半数以上は一人暮らしです。しかもベルリンという街は、人々が家族代々暮らしてきた街ではなく、移民たちが流れ込んできてはまた流れて出ていく街です。だからベルリンに祖先のお墓がある人も少ないです。日本でも大都市はそうだと思います。ところが福島に三度ほど行ってみて分かったのは、原発事故がなければ、祖先のお墓のすぐ側に暮らし続けていた人たちがたくさんいる、ということです。江戸時代からお墓とか家とか田んぼとかを守ってきて、それが当たり前だったのに、急に知らない土地に引っ越さなければならなくなったことがどれだけショックだったかが私にもだんだん分かってきました。お墓ごと引っ越す人がいるという話や、お墓が流されたことで鬱病になってしまった、という話も聞きました。

キャンベル 位牌もですね。

多和田 そうです。つまり死者の存在が自分の存在の基盤になっているわけですね。私はもちろん祖先のお墓のようなものがベルリンにあるわけではありません。でもベルリンの街を散歩していると、街の死者たちがよみがえってくる気がすることがあります。ベルリンは特に第二次世界大戦や冷戦の痕跡が多く残っていて、その頃生きていた人たちの亡霊がその辺をさまよっている。私などは遠い国から来た人間ですが、死者たちとの関係においてベルリン人だという気がしてきたんです。ドイツは街というものを記憶や歴史の書き込まれた書物のように考えているので日常的に歴史をふりかえるようにできるんですね。有名なのは「躓きの石」といわれる金色の四角い小さなプレートで、戦時中にユダヤ人が住んでいた家の前の歩道に一人につき一枚、はめ込んであるんです。プレートにはその人の名前、生まれた年、強制収容所の場所と連行された年、死んだ年などが刻まれています。近所を散歩しているとその数の多さに驚きます。もし日本でこれに相当するプロジェクトを始めたら、日本で暮らしている人たちの歴史観に大きな変化が起きるんじゃないかな。

   都市の散歩者のゆううつ

キャンベル 一九二〇年代のモダニズムの時代、ヴァルター・ベンヤミンの友人でもあったフランツ・ヘッセルという人がいました。裕福なユダヤ人として生まれたヘッセルは、常に歩いている。その記録として戦前の一九二九年に『Spazieren in Berlin(ベルリンの散歩)』を記しました。都会に溶け込めない無名者として都会を歩き、微細な変化を舐めるように観察していきます。

 少し紹介します。〈ひとごみで賑わう街をゆっくり歩くことはとくに愉しい〉と書き出した上で、〈しかし、私の敬愛するベルリン市民は、(略)散歩者にとても厳しい〉といいます。それはなぜかというと、〈どんなに器用に人々を避けようとしても、散歩者は謹厳実直な彼らから冷たいまなざしを向けられる〉からです。〈まるで私がスリであるかのような〉、つまり犯人であるかのような目で見られている。この街では〝しなければならない〟ことと〝してはいけない〟ことの二択しかない。で、散歩というのはそのどちらでもないのに、〈どこかに向かって歩く。でなければ歩いてはいけない〉狭間に散歩者は置かれているわけです。いかがでしょうか。時代を超えて『百年の散歩』の語り手にも通じるようなところがあるように思います。

 ヘッセルと同時代の日本は昭和初期、関東大震災を経て昭和五年ぐらいまでに首都は復興を遂げたと言われています。その東京を舞台にたくさんの小説が書かれますが、多和田さんのベルリンとはかなり違う。経験し、描いている主体のあり方から違うのです。

 一つの例として、丹羽文雄の昭和九年の短篇小説「海面」を紹介します。主人公は銀座にある店のママのヒモのような状態で暮らす若い物書きで、精神のバランスを崩します。明治末期から「銀ブラ」は文学のテーマとしてあるのですが、主人公・周一は銀座通りを南北に何度も、何時間もかけて歩くわけです。ひたすら歩いている場面の描写が続き、自分に言い聞かせるように周一は言います。「歩くんだ、歩くんだ。何でもいい、歩き殺してしまうんだ」。三人称ですけれども、限りなく一人称に近い、主人公に寄り添った描写が続きます。自分の肉体と精神がだんだん遊離していくのを人々に揉まれながら感じている。

(中略)

キャンベル 「海面」は、復興に賑わう銀座という、新奇な建築や色鮮やかな飾り窓が並ぶ通りを歩いているはずなのに、ひとつとして描写されません。

 対して『百年の散歩』には、今日何度も触れますが、ディテールに神なのか悪魔なのかいろんなものが潜んでいて、それこそ丁寧に一つずつ封筒を開いていくと、たくさんの感動や疑問を投げかけてきます。この連作短篇小説は、章ごとに通りの名前がついています。つまり地域によって章立てがなされているわけですけど、カール・マルクス通り付近を歩きながら、ある店の前に足を止めるんですね。その箇所を読んで頂けますか。

多和田(朗読) 《トルコ料理屋の看板が何軒か視界に入る。これだけ数があると競争も激しいだろう。ドイツ語ではあまり使われない「Y」、ドイツ語でもよく使われはするけれど一つの単語の中で繰り返されることはない「Ü」が次々現れて、視界を覆う。ニンニクと串焼き羊肉の焼ける匂いに混ざって神経を刺激する。羊、筆字、イスラムのラム。お腹はすいたけれど、展覧会を観たあとであの人といっしょに食事するのが楽しみなので我慢する。食べるつもりはなくてもメニューというのは読んでいて面白いものだ。》

キャンベル 一種の心内語といいましょうか、ここで主人公が後に振り返っているのか、そのとき感じているのか。圧倒的なディテール描写です。その直後にイギリス人観光客風のミス・マープルみたいな女性が、「このランチ、よさそうね」と英語で話しかけてくる。ちょっと困って通り過ぎてから振り返ると、ミス・マープルは人が通る度に声をかけていた。実はあの女はお店の人なんじゃないかという、ちょっと意地悪な主人公の読みが。

多和田 でも、これは本当にあったことなんですよ。もう絶対にお店の人だと思いました。だから私は、ノンフィクション作家なんです(笑)。

 ただ、本当のことは毎秒無数に起こっているし、その中からごく少数のことを選ばなければ、文章を書くことはできません。人によって解釈の異なることもたくさん起こっている。私は自分が面白いと思う方向に極端な解釈をしてしまう傾向があって、誰かと一緒に同じ状況を目にして、あとでその時の話をするとあまりにも違うので驚くことがあります。だから、ノンフィクションであっても常にフィクションであるとも言えます(笑)。》(【対談】「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル

                                                                                                                                                                

・《沼野 多和田さんは初期から一貫して言葉遊びを追求しておられましたが、今回ベルリンを舞台にした『百年の散歩』は、特に顕著だと思います。言葉についての小説という側面が強いですね。

多和田 そうですね。それは舞台であるベルリンが人の移動の多い大都市であることにも関連しています。小さな村なら、そこに住んでいる人のことはみんな知っている。そこにたまにふらっとどこかから謎の人物がやってくる、という小説はありますが、それはせいぜい一人、二人です。でも都市を散歩している時は、右にいるのも左にいるのもみんな知らない人ばかり。しかも、たとえば私がベルリンを歩いていたら、日本語をしゃべっている人とすれ違う可能性は大変低い。いろいろな言語が飛び交うなかで理解できない会話もたくさん耳に入ってくるし、フランス語がドイツ語に聞こえたり、ロシア語が日本語に聞こえたり、という混乱も起こる。広告やポスターなどが自分の知らない言語で書かれていることもある。すると文字そのものに妙に存在感が出て来る。》

沼野 『百年の散歩』では、いろんな通りの名前がほとんど主人公のように各章のタイトルになっていて、それらの通りを散策するなかで「わたし」は「あの人」と呼ばれる誰かをいつも待っているんですね。待ちながら散歩をしてレストランやカフェに入ったりしている。そういう意味ではフラヌール(遊歩者)小説とも言えるんじゃないでしょうか。その一方でやはり言葉が主体という面もあって、ドイツ語がそのまま出てきたり、ドイツ語から日本語の連想が始まったりする。読者はついていけるのかな、と心配になる箇所もあるくらいです。例えばさくらんぼはドイツ語でキルシェンですが、このキルシェンからキルヒェ(教会)という言葉を連想して、さらに日本語の意味が付加されて「桜教会」という言葉が出てきちゃうとかね。これも、言葉の好きな人にとってはとても面白い話ですね。

多和田 全部説明してあるわけではないので、読者にとっては謎の言葉遊びもあるかもしれません。でも、散歩をしている私にも、町で目に入るトルコ語などは全く分からないわけですから、小説を読む時も、分からない部分があってもいいんじゃないかな。謎は穴ですよね。新しいアイデアが浮かんできたり、時には自分自身の記憶が蘇ってくることもあるんじゃないかと。だから、理解できないということを私の場合、楽しく感じてしまうのではないかと思います。》

多和田 ナボコフは自分にとって重要な作家だと感じたのは『賜物』を読んだ時です。『賜物』ももちろん今回のコレクション(筆者註:ロシア語原典を底本に新訳された新潮社刊「ナボコフ・コレクション(全5巻)」)に収録されるんでしたね。これも、文字に注目し、言葉遊びしながら目の前の光景と記憶が入り交じる都市空間散歩文学ですが、その中でもすごく好きな場面がひとつあるので、ここで読んでみます。

「ちょうどそのとき、引っ越し用トラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木々の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通り過ぎたのだった」(『賜物』)。

 つまり引っ越し屋のトラックから、前面が鏡張りになった戸棚が下ろされて、その鏡に空や樹木が映っているわけですよね。戸棚が動くと、樹木が鏡の中を飛んでいくように見える。空は映画のスクリーンみたいに四角く切り取られていて、一体移動しているのは何なのか分からなくなる。そういった複雑な移動の感覚を、ごく日常的な場面で捉えている。これは私自身もすごくやってみたいことで、ナボコフを読んでいていいなあと思うのは、そういうところです。》([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義

 

・《「今回は私が元々好きな、特に人の名前が付いている通りを選んで、本人の作品を見たり読んだりしながら歩いてみようかなと思って。例えば普通は20秒も見れば見た気になる美術館の絵が3分後にはまた違って見え、さらに15分粘ると全然違うものが見えたりするでしょ。そんな風に自分が空っぽになるまで粘りに粘り、住み慣れた町で目にしたものを全て小説化したらどうなるかという、一つの実験です」》

《〈わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた〉〈店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる〉……。

「カント通り」の書き出しである。「なく」「いと」など、音たちは文字に定着するまでに自由な浮遊を許され、また、目の前の事物を言葉に置き換えると、そこには当然、ズレが生じた。

「周囲の音を完璧に記述することはほぼ不可能ですよね。でもそれを書いた瞬間、それは自分の世界になるし、どこまでが頭の中でどこからが外界かわからなくなる感じも含めて、私はものを書く行為だと思うのです」

 さて、その喫茶店であの人を待つわたしは、壁際に座る女性客を勝手に〈ナタリー〉と名付け、注文したグリーンピースのスープを眺めては、同名の自然保護団体から指弾される日本の捕鯨について考えたりする。そんな時、耳に飛び込んできたのが、〈しぇるしぇ〉というフランス語だ。〈脳の正面にいるゴールキーパーの手をすり抜けて、入ってきたこの「しぇるしぇ」をどうしていいのかわからないまま、わたしはスープを食べた〉

「ベルリンにいると、東京より多くの言葉が耳に入ってくる気がします。まず店で大声を出すのを恥じる日本人と何でもタブーなく話すベルリン人では声量が違う(笑い)。ほかにもベルリンが東京と違う点として、町なかには大戦が昨日終わったのかと思うほど歴史の跡が残され、人名の付く通りが多い。それは、銅像よりは日常的に名前を口にするとか、さりげない想い方がよしとされるから。

 そもそもベルリン自体が歴史に翻弄された町なので、移民排斥的な空気も比較的薄い。人に何か言われる前に口を噤むようになったら、町も人もお終いです」》

マルティン・ルター通りやローザ・ルクセンブルク通りで夢想はなおも続き、彼女と違って山や森の生活に憧れるあの人が、結局、姿を現わすことはなかった。

〈森の中を散策していても、言葉が浮かんで来ない〉〈町はわたしの脳味噌の中そっくりで、店の看板に書かれた言葉が連想の波をたえず引き起こし、おしゃべり好きの通行人のぺらぺらがオペラになり〉〈言葉は本当は世界とは何の関係もないんだというしらじらとした妙に寂しい気持ち〉〈傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだ〉

 そんな彼女のやせ我慢が、多くのモノや言葉に囲まれながら何一つ手に入らない都会人の孤独を浮かび上がらせて胸に迫り、秀逸だ。

「作物を育てている実感の中を生きている農村の真っ当さから切り離された都会人は、給料はここからもらう、トマトはあそこで買う、と生産の実感すらない。その何でもあって何もない虚しさの一方には町特有の楽しさもあって、常に揺らぎ、移ろう、町という運動体全体を小説ともつかない形でとらえようとした私は、線を引くことに何の意味があるのかと思うわけです。

 そもそもフランスやドイツという国以前にパリやベルリンといった町が屹立し、点と点が緩やかに連携するのがヨーロッパの理想で、線と対立は何も産みません。

私自身、1982年の渡独当時は日本とドイツという国に囚われていましたが1989年にベルリンの壁が崩壊。EUへと動く中、21世紀は町や村の時代だと確信するに至った。日本も韓国や中国や台湾や、北朝鮮とだって連携するに越したことはなく、お隣同士が線を引き、喧嘩することほど、危険でつまらないことはないんです」》(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』(構成橋本紀子))

 

・《松浦 古井さんの作品に『楽天記』というものがありますが、楽天という言葉自体、幾重にも屈折したアイロニーが畳み込まれたように感じます。一種の楽天主義というものが日本人の心にあって、吊橋も道路を歩いているような感覚でスタスタ歩いてしまっているところがあるのかもしれないですね。

 多和田さんの『地球にちりばめられて』や『献灯使』も、破局のあとの世界を描いているわけだけど、多和田さんの想像力は吊橋の先にあるところまで行っていて、そこから振り返ってリアリズムを持って描いているような気がしたんです。ただ、そうした世界を描きながらも、悲壮感はおろか、案外明るい感じで描いていらっしゃる。

多和田 危機が非常に大きくなってくると、人間のドラマみたいな枠を超えちゃうんですよね。

松浦 多和田さんの作品は暗い状況を描いているはずなのに、人を元気づけるような、非常に生命力にあふれているところがあります。》(トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催))

 

多和田葉子の小説冒頭はとっつきにくい。例えば『百年の散歩』の最初に位置する「カント通り」の冒頭、《わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。/店の中は暗いけれども、その暗さは暗さと明るさを対比して暗いのではなく、泣く、泣く泣く、暗さを追い出そうという糸など紡がれぬままに、たとえ照明はごく控えめであっても、どこかから明るさがにじみ出てくる。お天道様ではなく、舞台のスポッとライトでもなく、脳から生まれる明るさは、暗い店内を好むのだ。》のように、安易なわかりやすさを求める読者は、言葉と思考の滑らかさの関節をあえて外す多和田の仕掛けに躓きがちだ。だから、《多和田葉子カフカの『変身』を「変身(かわりみ)」とルビを振って訳している(すばる)。かつて「理想の教室」(みすず書房)シリーズで、野崎歓カミュの『異邦人』を「よそもの」と訳し、合田正人サルトルの『嘔吐』を「むかつき」と訳したときにはどこか腑(ふ)に落ちるような感じがあったが、「変(かわり)身(み)」には違和感しかなかった。「かわりみ」という言葉の持つ語感と小説とが一致しないからだ。第一文を読んで、これはもうまともな日本語ではないと思った。まともでない小説をまともに乱れた日本語で読みたいと思うのは、贅沢な望みなのだろうか。》などと文芸時評(「産経新聞(2015年5月号))する近代国文学者さえいて、「まとも」とは文学に受験国語の模範解答を求める気分からか、と問いたい。

 

・以下、『百年の散歩』の10の連作から引用する。なるべく、上記対談に現れなかったベルリン(《ユグノー派の人々がフランスから逃れてこの土地にやってきた時には、まだBerlinという都市があったわけではなく、いくつかの村が集まっていただけだった、と楽しーの運転手は語り始めた。まるで最近の出来事を語るような口調だけれども、実際はもう三百年も前の話だ。「Berlinを都市にしたのはフランス人ですよ。今でもベルリン人の五人に一人にはフランスの血が流れている。わたしのようにね」と言った》(「カント通り」))のモザイクを。

 

・《カント通りに足を踏み入れる時、わたしは期待に満ちている。ツォー駅をバス停のある側に出て右に曲がり、二つ目の通りがカント通りだ。大手デパートのスポーツ用品館が左手にあるせいか、通りをはさんで向かい側にあるショーウインドウの前を通る時、そこに飾ってある色とりどりのプラスチックのオブジェがすべてスポーツ用品に見えてしまう。握って振りまわしたり、上下に動かしたりするためのミニ・ダンベルのように見えるその商品は、実は身体に入れたり出したりして遊ぶために製造された品であることを遅くともパステルカラーのペニスがずらりと並び、黒い革の下着を着たマネキン人形が乳房を鎖に押しつけているところまで来ると思い出す。あ、そう、そう、これは有名なお色遊びのお店でした。そのすぐ隣が「ベッド院」ではなく「FUTON」という名前のベッド屋で、ここで売られているのは、分厚い布団がマットレスの代わりに入っている高さ十五センチの家具で、ドイツでは広く普及している。布団なのに、「バルセロナ」とか「ボローニャ」という名前のついたものばかりが並んでいるので、せめて一つくらい日本の地名はないものかと、別に日本が恋しいわけでもないのにむきになって捜していくうちにやっと見つけた。「Hokkaido」。北海道は、布団の名前として、ふさわしいだろうか。なんだか冷えてきた。わたしはカント通りに向かって伸び始めた期待の芽を鋏で截ち切り、まわれ右して、反対側にある動物園に向かって歩きはじめた。》(「カント通り」)

 

・《住宅のように見える建物の中でも、どうやら「営業」が行われているらしい。扉の前に立って煙草を吸っている女がいる、主婦が自分の家の前で煙草を吸うはずがない。この人は、禁煙の職場で働いているのだ。視線は煙に乗って、ぼんやり夢見るようにその場を離れる。鴉色のマスカラがばたばた羽ばたいて、バルカン半島をめざして飛び立っていった。煙草が燃え尽きると休憩時間も終わって、女は建物の中に戻っていった。》(「カール・マルクス通り」) 

 

 ・《ガラスの壁を覆いつくすように紫色の蘭が飾ってあった。全く同じ色とかたちの蘭だけがこれだけたくさんあると、ぞっとする。同じ顔のクローンが何十人も並んでいるある映画の一場面を思い出した。一つとして同じ色とかたちの見当たらない店内だから余計不気味に見えるのかもしれない。紫色の蝶が身をよじって悶えているようにも見える蘭。プラスチックでできているのかなと思って近づいていくと、ある距離まで来たところで、ふいに死にゆくものの湿り気が感じられ、本物だということがわかった。》(「マルティン・ルター通り」)

 

・《伝記物は、幼年時代という一枚の色褪せた写真から始まることが多い。正装した両親の間に立ってカメラのレンズを見つめる子供を包む音のない世界。ところがこの伝記は子供時代など後まわしにして、いきなり1937年に飛び込む。レネーの作品が国立ギャラリーで差し押さえをくらった、と書いてある。政府自体が犯罪者になっていく。そんな時代にレネーは一体どんな絵を描いていたのだろう、と思って拾い読みしていくと、画家ではなく彫刻家だった、と書いてある。レネーが半分ユダヤ人であったことには驚かなかったが、彫刻家というのは予想外で、忙しくページをめくる指の動きがとまった。何かかさばるものが明確な形をとらないまま、わたしの行く手をふさいだ。作品の写真はないのかと五百ページ以上もある厚い本の中をめくって探すと、ブロンズの子馬が載っていて、その隣にベルリン映画祭のトロフィーになっている黄金の熊がいた。》(「レネー・シンテニス広場」)

 

・《広場のまわりを走る歩道にはところどころ、リボンのように文章が置かれている。置かれているというより埋め込まれている。どれもローザ・ルクセンブルクが書いたものだ。他に読んでいる人がいないので気恥ずかしいが、こっそり横目で読むわけにはいかない。一行がとても長いので、行に沿ってじりじりと歩を進め、おろおろと二行目の頭に戻るしか読みようがない。しかも、テキストは通りに対して斜めに配置されているので、通行人の流れに対して斜めに身を置くことになる。仕事から帰って買いものに行く人、ジムに行く人、食事に行く人、そんな人たちがお金を動かしながら一つの大きな経済運河になって流れていく。立ち止まって歩道に刺青された文章を読もうとしている極道のわたしに通行人が次々ぶつかり、流れが乱れる。わたしが最初に読むことになった文章の中でローザが批判している相手はベルンシュタインという名前。資本主義のにがい海に白ワインを一滴注ぐだけで社会主義の甘い海に変貌するとベルンシュタインが思っているのは舌音痴だ、とローザは言いたいのだ、とわたしは勝手に理解したが、なにしろ半分以上が工事現場の木の板の下敷きになって読めないので、そこは想像で補うしかない。》(「ローザ・ルクセンブルク通り」)

 

・《わたしはあわてて後を追った。揺れる巻き毛が石の色から栗毛に変わり、栗毛から今度はどんどん明るい金髪になっていって、それに合わせてふっくらしていた腕や脚がひきしまって、筋肉がもりもり育った頃には、わたしたちはもう公園を出て並木道を走っていて、自転車を追い抜かし、ベンツを追い抜かし、少女の脚になまめかしい曲線が見え始めた頃には駅前を走り抜け、キオスクの前でビールを飲んでいた男たちがはっと目を見張るのが見え、赤信号を無視して渡ったところから少女の金髪が白髪に変わり、それでも現在を目指して走り続ける少女はやがてプーシキン通りの終わるところまで来て、冷戦時代は撃たれずには越えることのできなかった橋をいともやすやすと渡り、ふくらはぎに青い筋が浮き上がって、踵の肌がすりきれてきたのに速度を落とさず、皺の刻まれた額から汗が流れているのに、笑いながら、あえぎながら、七十五歳になった少女はクロイツベルク区に駆け込んでいった。》(「プーシキン並木道」)

 

・《噴水に一番近い正面の席に腰かけた。すると女性の姿は視界から消えて、わたしと水だけになった。水は浅い。もしもライン川の深さが一ミリしかなくなったら、そこに生きる人魚たちもプランクトンみたいに小さくなるだろう。オペラグラスではなくて顕微鏡で観るオペラがあってもいい。》(「リヒャルト・ワーグナー通り」)

 

・《コルヴィッツは胸をかきむしり、額を地面に打ちつけて、うめき声をあげた。冷たくなった息子の亡骸を膝の上に抱き上げ、自分の身体をかぶせて体温で暖めようとした。死体の胸に耳を押し当て戻らない鼓動をいつまでも待った。天を仰ぎみてごうごうと泣き、声がかれて出なくなるとただ身体をふるわせ続けた。このまま彫刻になってしまいたい。これまでデッサンや版画をたくさん仕上げてきたが、本来自分は絵描きではなく彫刻家であるという自覚が若い頃からあった。彫刻になってしまう以外に苦しみから逃れる道はない。

 気がつくと十字架からおろされたイエスを慈悲で包むマリアの像に変身していた。マリアはイエスの死には責任がない。十字架からおろされたイエスの死体を無限無条件の慈悲で包み込むだけだ。マリアになることでコルヴィッツはやっと自分自身を責めるのをやめることができた。そのかわり、それはもう一人の人間の一回きりの仕草ではなく、たとえば「ピエタ」という一言でかたづけられてしまうかもしれない。》(「コルヴィッツ通り」)

 

・《自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど、友だちが見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩きまわれるのが大都市だ。》(「トゥホルスキー通り」)

 

・《町は官能の遊園地、革命の練習舞台、孤独を食べるレストラン、言葉の作業場。未来みたいな町の光景に囲まれていれば、未来はすぐに手に入るものだと思いこんでしまう。人を激しく待つ時は特にそうなのだ。待ち合わせをしてうまく会えたとしても、それからもちょろちょろと流れ続けていく時間を忍耐強く生きなければならないことなど念頭にない。今すぐ、ごっそりと全部欲しいのだ。傷つくことなど全く恐れていない。身体ごと飛びついていく。はねつけられたら、さっと離れていけばいい。傷つく必要なんてない。何度ふられても町には次の幸せがそこら中にころがっているのだから。》(「マヤコフスキーリング」)

 

 そして最後に、ナボコフ『賜物』をも連想させるモザイク。

・《それにしてもマヤコフスキーがガラス板の向こう側に立っているのが不思議だった。写真だから仕方ないのか。二次元世界の住人なのか、三次元世界の住人なのか、はっきりしない。よく見極めようとして一歩あゆみ寄ると、見たことのない顔が向こう側から私を観察していた。それは詩人の顔ではなく、ガラスに映ったわたし自身の顔だった。睫を震わし、唇をかすかに開けて苦しげに呼吸する人間の顔だった。わたし以外の人間はここにはいない。》(「マヤコフスキーリング」)

                              (了)

       *****引用または参考文献*****

多和田葉子『百年の散歩』(新潮社)

多和田葉子『カタコトのうわごと』(「翻訳者の門――ツェランが日本語を読む時」「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」「「新ドイツ零年」と引用の切り口」「筆の跡」所収)(青土社

多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(「パリ 一つの言語は一つの言語ではない」所収)(岩波書店

*『新潮(2018年4月号)』([対談]「「半他人」たちの都市と文学」多和田葉子ロバート・キャンベル所収)(新潮社)

*『新潮(2018年1月号)』([対談]「言語を旅する移民作家」多和田葉子沼野充義所収)(新潮社)

*『文藝(1999年春号)』(多和田葉子インタヴュー「両国のモザイク細工――皺からの文学」(ききて堀江敏幸)所収)(河出書房新社

*『週刊ポスト(2017年5月19日号)』(【著者に訊け】多和田葉子氏 連作長編『百年の散歩』、構成橋本紀子所収)(小学館

*「文芸時評 ファイアウォールとしての文学」石原千秋(「産経新聞(2015年5月号))

トークイベント「危機の時代、文学の言葉」佐伯一麦多和田葉子松浦寿輝古井由吉(「群像」講談社主催、文:吉川明子)(2019年4月)

*「第二回早稲田大学坪内逍遙大賞祝賀会(2009年11月13日)」【祝賀会 受賞者挨拶】

*『ポケットマスターピース01 カフカ』(多和田葉子解説「カフカ重ね書き」)多和田葉子編・他訳(集英社文庫ヘリテージシリーズ)

カフカ『審判』辻瑆訳(岩波文庫

モーリス・ブランショカフカからカフカへ』山邑久仁子訳(書肆心水)      

*『現代詩手帖 特集現代詩と現代詩以後(1994年5月号)』(多和田葉子「モンガマエツェランとわたし」所収)(思潮社

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン・コレクション』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫

ヴァルター・ベンヤミンベンヤミン著作集』野村修、川村二郎、高木久雄、小寺昭次郎他訳(晶文社

*川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』川村二郎、三城満禧訳(法政大学出版局

*『現代思想 ベンヤミン 生誕100年記念特集(1992年12月臨時増刊)』(今村仁司ベンヤミンにおける歴史の概念」等所収)(青土社

今村仁司ベンヤミンの<問い> 「目覚め」の歴史哲学』(講談社選書メチエ

*野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー

*ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(「ヴァルター・ベンヤミン 一八九二~一九四〇」所収)阿部齊訳(ちくま学芸文庫

スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』(晶文社

鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社

パウル・ツェランパウル・ツェラン詩文集』(「「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」「子午線 ゲオルク・ビューヒナー賞受賞の際の講演」所収)飯吉光夫編・訳(白水社

*『ユリイカ 特集ツェラン(1992年1月号)』(青土社

*平野嘉彦『土地の名前、どこにもない場所としての ツェラーンのアウシュヴィッツ、ベルリン、ウクライナ』(法政大学出版局

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』(「ナボコフ・コレクション」)沼野充義訳(新潮社)

 

オペラ批評 ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』とホルバイン『大使たち』――「切れた絃」と「歪んだ髑髏」

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 2011年4月、ウィーン国立歌劇場初演となるドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』は、各国に生中継された。ソプラノ、アンナ・ネトレプコにとってタイトル・ロールのデビューであり、メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ演じる侍女ジョヴァンナ・セイモーとの、人気、美貌、実力を兼ね備えた歌姫(ディーヴァ)たちの共演だった。

 この1830年初演のオペラはドニゼッティ出世作だったにも関わらず、その後ほとんど上演されなくなっていた(ウィーン歌劇場もMETも2011年が初演)のを、1957年4月にミラノ、スカラ座でのルキノ・ヴィスコンティ演出によるマリア・カラス初演で再び脚光を浴びるようになり(カラスはベルカントの技術と演技力によって、同じくドニゼッティの『ランメルモールのルチア』やベッリーニ『ノルマ』などの復活に貢献した)、その後レイラ・ジェンチェル、モンセラート・カバリェ、レナータ・スコットエディタ・グルベローヴァ、マリエラ・デヴィーアなどによる「ドニゼッティルネサンス」が興隆して今日に至る。

 半年後の2011年9月、ニューヨーク、メトロポリタンオペラ(MET)の2011~2012年シーズン・オープニングを飾ったのも『アンナ・ボレーナ』だった。ウィーンで評判だったネトレプコとガランチャによる再演予定だったが、ガランチャが第二子懐妊のため降板、エカテリーナ・グバノヴァがジョヴァンナを演じている。

 このとき、メトロポリタンオペラとメトロポリタン美術館とが、” Anna Bolena & Hans Holbein:MET MEETS MET”と銘うって、『アンナ・ボレーナ』をテーマとしたレクチャーを開催している。メトロポリタン美術館のキュレーター、アインズワースがハンス・ホルバイン(一時期、ヘンリー8世の宮廷画家だった)の肖像画を基に、ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリン(イタリア語名アンナ・ボレーナ、以下同)、その侍女で3番目の王妃となるジェーン・シーモア(ジョヴァンナ・セイモー)、ヘンリー8世(エンリーコ)らが登場する16世紀イングランドテューダー朝の歴史的背景を解説したあと、本プロダクションの衣裳担当ティラマーニがホルバインの肖像画、スケッチ、デッサンから素材の質感など細部にこだわって作り上げた舞台衣裳のレクチャーだった。

 しかし、フランス王フランソワ1世がヘンリー8世とアン・ブーリンとの再婚を容認すると伝えるとともに、宗教改革を穏便にするようイギリスの教会を説得するために派遣したフランス大使をホルバインが描いた『大使たち』への言及はなかったようだ。

 

ドニゼッティテューダー朝(女王)三部作』>

 傍系にも関わらず、不当に悪名高いリチャード3世から権力を奪取して薔薇戦争終結させたヘンリー7世(在位1485~1509年)に始まるテューダー朝は、イギリス・ルネサンスに相当する。国内外の政治権力闘争に宗教改革が錯綜し、王冠後継者を切望する王の結婚と離婚、世継ぎ生産機械としての王妃のすげかえ、愛憎の色恋、女王の誕生、側近・寵臣たちの権力闘争と失脚のドラマ、が幾多の残虐非業の死とともに生起したが、文化的に遅れていた二流の島国が世界に冠たる大英帝国へと飛翔する大変換の時代でもあった。

 ヘンリー8世(在位1509~1547年)は、早逝した兄アーサーの妃としてスペイン王室から嫁いでいたキャサリン・オブ・アラゴンを、父ヘンリー7世の命で王妃として迎えた。だがキャサリン男児を産まないと、フランス宮廷から帰国してキャサリンの侍女になっていたアン・ブーリンを寵愛し、キャサリンと離婚して王妃にしようとした。ここで理解しておかなくてはならない日本との違いが三つある。一つめは、愛人、側室の子である庶子に王位継承権はなく、あくまでも正式の「妻」が産んだ嫡子でなくては後継者になれないことだ。現にアンの姉(妹説もあり)メアリー・ブーリンはヘンリーの愛人として男子と女子を生んでいた(小説・映画『ブーリン家の姉妹』)が継承権はなかった。アンは妻となれない限りは愛人としての肉体関係をも拒んで、かえって王を焦らしたとされる。二つめは、カトリック信者にとって「離婚」は容易なことではなく、ましてカトリック教徒イギリス王の離婚をローマ教皇が簡単に許すはずはなかった(兄嫁だったキャサリンとは「婚姻無効」だったという申し出を教皇にしたのだが、かつて父ヘンリー7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免取消を要請した)。三つめは、王位継承権は男に限られてはおらず、女(及び女系)にも可能なことである(しかしヘンリー8世は、まだ権力基盤が確固としていなかったテューダー朝の安定のために男の世継ぎを望んでいた)。

 ローマ教皇が離婚を許さないと、アンと密かに結婚(1533年)し、教皇に破門されるや国家ごとローマ・カトリック教会から離脱して、イギリス国教会が成立する(1534年)。

 ところが再婚したアンは、のちのエリザベス女王を産んだ(1533年)もの、その後は流産、死産つづきで(魔術のせいともされ、のちにアンの罪状の一つとされた)、ヘンリー8世の心は、「反復」するかのようにアンの侍女ジェーン・シーモアに移ってしまう。1536年、アンは五人の男との不貞(兄(弟説もあり)のジョージ・ブーリンも含まれる)という濡れ衣を着せられて断頭台に送られる(映画『1000日のアン』)。

 3番目の妻となったシーモア王太子エドワードを出産するが産褥死、ヘンリー8世はさらに3人の妻を迎えた。5番目の妻キャサリン・ハワードはアンの従妹だったが、やはり姦通罪で処刑されている。

 ヘンリー8世(晩年の肥満した肖像画のイメージと、6度妻を娶った好色性、残虐さのみ言いたてられるが、若いころは長身で非常にハンサムであり、エラスムスが聡明で活発な精神を持ち、万能な天才である、と称賛したように、ルネサンス国王としての内政・外交の統治能力は高かったという評価もある)の後継者となったエドワード6世(在位1547~1553年)はわずか15歳で病没してしまい、最初の妻キャサリンが産んだ王女がメアリー1世(1553~1558年)となる。メアリー1世はカトリック教徒であり続け、プロテスタント化が進んでいたイングランドカトリックに引き戻した(プロテスタントへの苛酷な弾圧から「ブラディ(血まみれ)メアリー」(真っ赤なトマトジュース・ベースのカクテル名でもある)と呼称される)が、在位5年で病没し、アン・ブーリンが産んだ王女がエリザベス1世(在位1558~1603年)となる。王冠は過去の愛憎を嘲笑うかのように「斜め交差」で引き継がれていった。ヘンリー8世によるローマ・カトリック教会からの離脱によって、これまでのようにカトリック国フランス、スペインから王家の血縁を求めることが好ましくなくなり、プロテスタント系の神聖ローマ帝国、ドイツから迎えることで、のちのハノーヴァー朝、そして血統的にはほとんどドイツ系といえる現在のウィンザー朝に連なっていったという意味でも一つの変曲点だった。

 

 イタリアの作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(1797~1848年)には、この時代を描いた「テューダー朝(女王)三部作」と呼ばれるオペラがある。『アンナ・ボレーナ』、『マリア・ストゥアルダ』、『ロベルト・デヴェリュー』がそれで、根幹となるのはエリザベス女王の一生(3歳時に姦通罪で処刑された母アン・ブーリン王妃、ライバルのスコットランド女王メアリー・スチュアートへの死刑執行、処女王エリザベスの寵臣とのメロドラマ)である。

 

 以下、METのHPの”Synopsis”と、加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』の「あらすじ」から(適宜変更しつつ)引用する。

 

<『アンナ・ボレーナ』>

 原作:イッポリート・ピンデモンテ『エンリーコ8世、またはアンナ・ボレーナ』及びアレッサンドロ・ペポリ『アンナ・ボレーナ

 台本:フェリーチェ・ロマーニ

 初演:1830年12月26日、ミラノ、カルカーノ劇場

 イングランド、1536年。政治的および宗教的激変の10年ののち、ヘンリー8世(イタリア語名エンリーコ、以下同)は最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンを除くことに成功し、女王として長年の愛人、アン・ブーリンアンナ・ボレーナ)を戴冠した。 しかし、アンは王女エリザベス(エリザベッタ)の誕生後、流産、死産を繰り返し、男子の王位後継者を産むことができないでいた。

第一幕

 1536年、イングランドウィンザー城。宮廷の人々が国王夫妻の噂話をしている。エンリーコ(ヘンリー8世)の心が他の女に移って、アンナ(アン)王妃への愛情が薄れているらしい。王妃の信頼厚い女官(侍女)ジョヴァンナ・セイモー(ジェーン・シーモア)が入ってくる。続いて王妃が現れ、悩みがあることをジョヴァンナに打ち明ける。王妃は皆を元気づけようと、小姓(宮廷楽士)のスメトン(実在の人物マーク・スミートン)に歌わせる。その歌詞は、幸せな想い出に彩られた初恋を思い出させた。それはヘンリーと結婚するために諦めたペルシーとの恋だった。

  実は、ジョヴァンナこそが王の新しい愛人だった。彼女は王妃を裏切っているという良心の呵責にさいなまれ、一人寝室で悶々としていた。そこへ王が現れて情熱的に愛を語り、結婚と栄誉を約束する。ジョヴァンナは、王がアンナ王妃を陥れようとしていることを知って動揺するが、今さら後戻りできないところまで来てしまっていることに気づく。

 アンナ王妃の兄(弟説もあり)ロシュフォール卿(ロッチフォード、実名ジョージ・ブーリン)がウィンザー公園でばったりリッカルド・ペルシー卿(リチャード・パーシー)に会って驚く。彼はアンナの昔の恋人で、エンリーコ王に追放を解かれて戻ったばかりだった。アンナの苦悩を噂に聞いていたペルシーは、ロシュフォールに彼女の様子を尋ねるが、ロシュフォールは答えをはぐらかす。ペルシーは、アンナと別れて以来、つらい人生を歩んできたことを打ち明ける。王の狩りの一行がやって来る。アンナ王妃と女官たちも到着する。王は王妃を冷たい態度で迎え、ペルシーに向かって、恩赦の礼なら王妃に述べよと言う。実は、王は王妃に罠を仕掛けるためにペルシーを呼び戻したのだった。そして再会の挨拶を交わす二人の気持ちが揺れる様子を観察して、残忍な楽しみに浸った。王は二人を見張るよう部下のエルヴィに命じる。

 王妃に恋をしている小姓のスメトンは、以前に盗んだ彼女の小さな肖像画を王妃の居室に戻しに来た。アンナ王妃が兄ロシュフォールと共にやって来たので、スメトンは姿を隠す。兄のたっての願いとあって、王妃はペルシーに会うことを承諾してしまう。ペルシーが現れて、今でも愛していると告白する。アンナは自分が王に憎まれていることは認めるものの、毅然とした態度でペルシーの求愛を拒み、彼の愛情を受けるにふさわしい女性を見つけてほしいと懇願する。それなら自殺すると言ってペルシーが剣を抜いたところへ、突然、王が現れる。スメトンが出てきて姿を現し王妃の身の潔白を訴えるが、隠し持っていた王妃の肖像画をうっかり落としてしまうと、王はここぞとばかりに奪い取る。王はそれこそ王妃とスメトンの不倫の証拠ではないかと言い立てる。アンナ、ペルシー、スメトンは逮捕される。 

第二幕

 アンナ王妃はロンドン塔に幽閉されている。ジョヴァンナが訪ねて来て、王が再婚できるようにすれば、処刑は免れられると言う。そのためには、ペルシーを愛していることを認め、自分が罪を犯したと認めればよいと勧める。しかし、王妃は彼女の意見を退け、自分の後釜に座ろうとしている女に対する憎しみを露わにする。ジョヴァンナが、自分がその愛人であることを明かすと、王妃はショックを受けて彼女を拒絶するが、ジョヴァンナの必死の訴えを聞き入れ、責められるべきは王であると言って彼女を許す。

 スメトンは、王妃の愛人だと証言すれば王妃の命を救える、と信じ込まされて、虚偽の自白をするが、かえって王妃を窮地に追い込む結果となる。アンナ王妃とペルシー卿が裁判の場に引き出される。王妃は「死ぬ覚悟はできているが、裁判にかけられる屈辱を与えないでほしい」と王に懇願する。さらに王と対峙したペルシーは、王妃になる前、アンナはもともと自分の妻だったと主張する。王はその言葉を信じないが、それなら王妃の座には、もっとふさわしい女が就くだろうと勝ち誇る。ペルシーとアンナは連れて行かれる。ジョヴァンナが王妃の命乞いをするが、王は耳を貸さない。裁判の判決が出た。国王夫妻の婚姻は解消され、アンナならびに共犯者は死刑に処されることになった。

 アンナ王妃は錯乱状態に陥っている。彼女の意識は嫁いだ日に戻って、少女時代のペルシーへの想いを語る。共に処刑されるペルシー、ロシュフォール、スメトンが連れて来られる。スメトンは自分のせいで王妃が死ぬことになったことを悔いる。エンリーコ王が新しい王妃ジョヴァンナを迎えることを知らせる鐘と大砲の音が響くと、アンナはふと正気を取り戻す。そして王と新王妃に対する激しい言葉を口にしながら処刑場へ向かう。》

 

<『マリア・ストゥアルダ』>

 原作:フリードリヒ・シラーの戯曲『マリア・ストゥアルト』

 台本:ジュゼッペ・バルダーリ

 初演:1835年12月30日、ミラノ、スカラ座

あらすじ

《一六世紀末のイングランド。亡命してきたスコットランド女王マリア・ストゥアルダメアリー・スチュアート)は、イングランド女王エリザベッタ(エリザベス)により、フォザリンゲイ城に幽閉されていた。母国で政争に敗れたマリアは、父のいとこにあたるエリザベッタの庇護を求めてイングランドに渡ったのだが、エリザベッタにしてみれば、イングランドの王位継承権を持ち、宗教上もプロテスタントの自分と対立しているカトリックを信奉しているマリアは危険な存在だった。さらに悪いことには、かつての寵臣レイチェステル(レスター)伯はいまやマリアに恋いこがれており、彼女を助け出そうと、エリザベッタにマリアとの会見を提案する。

 エリザベッタの訪問を知らせるためフォザリンゲイ城を訪れたレスター伯は、マリアとの再会を喜ぶが、マリアは不吉な予感にとらわれる。続いて現れたエリザベッタは、あからさまにマリアを見下すので、自制していたマリアも怒りを爆発させ、エリザベッタを「私生児」と罵る。憤激したエリザベッタは復讐を決意し、側近のセシル卿の勧めもあってマリアの死刑執行令状に署名。マリアの命乞いをするレスターに、嫉妬をつのらせるエリザベッタは、恋人の処刑に立ち会うようレスターに命じる。マリアはエリザベッタを許すと告げ、処刑台に向かうのだった。》

 

<『ロベルト・デヴェリュー』>

 原作:フランソワ・アンスロの戯曲『英国のエリザベッタ』

 台本:サルヴァトーレ・カマラーノ

 初演:1837年10月28日、ナポリ、サン・カルロ歌劇場

あらすじ

《一六世紀末のロンドン。女王エリザベッタ(エリザベス)は、アイルランドの反乱を平定するために恋人のロベルト・デヴェリュー(ロバート・デヴルー)を派遣したが、ロベルトは命令に反して和睦を結び、反逆罪に問われていた。エリザベッタはロベルトを救おうと彼と面会し、万一の場合の身の安全を保障する指輪を与えるが、彼の心が自分から離れていることに気づいて嫉妬する。

 果たしてロベルトにはサラという恋人がいた。しかし彼女は、ロベルトのアイルランド戦役中に、女王の命令でロベルトの友人でもあるノッティンガム公爵に嫁いでいた。人目を忍んで再会したサラとロベルトはもう会わないことを誓うが、ロベルトは愛の証に女王から贈られた指輪をサラに渡し、サラは愛の告白を刺繍したハンカチをロベルトに贈る。

 議会はロベルトに、反逆罪で死刑を言い渡した。逮捕されたロベルトの持ち物からサラのハンカチが発見され、嫉妬のあまり逆上したエリザベッタは死刑執行令状に署名する。ロベルトの助命を願い出たノッティンガム公爵も妻の心を知って衝撃を受け、妻が女王のもとへロベルトの助命を乞いに行くのを妨げる。絶望し、処刑台へ曳かれていくロベルト。

 苦悶するエリザベッタのところに、指輪を手にしたサラが現れた。エリザベッタは処刑を中止させようとするが時すでに遅く、処刑を告げる大砲の音が聞こえる。狂乱するエリザベッタは、苦悶の果てに、メアリー・スチュアートの息子のジャコモ(ジェームズ)に王座を譲ることを宣言する。》

 

<ホルバイン『大使たち』>

 以下、ホルバイン『大使たち』を所蔵するロンドン、ナショナル・ギャラリーHPの紹介文を補記する。

 

 ハンス・ホルバインは1497~8年の冬にドイツ南部のアウクスブルクで生まれ、父であるハンス・ホルバイン(父)から手ほどきを受けた。1519年にバーゼルの芸術家ギルドのメンバーになり、多くの旅をして、ルツェルン、北イタリア、フランスに足跡を残している。板絵だけでなく、木版画フレスコ画も制作した。デューラーが究めた科学的遠近法を習得し、文化都市バーゼルの富裕な市民をパトロンとして、宗教画や肖像画を手がけていた。しかしプロテスタントによる聖像破壊運動が激しくなると教会からの注文がなくなり、バーゼル市民で『痴愚神礼讃』を著したエラスムスの紹介でイギリスに渡り、『ユートピア』の著者で人文主義者のトマス・モアの知遇をえて、肖像画家として成功するが、さまざまな分野の熟練したアーティストとして、ジュエリーや金属細工もデザインしている。

 イギリスで2つの期間(1526~28年と1532~43年)を過ごし、テューダー宮廷の貴族たちを描いた。有名なヘンリー8世の肖像画や『大使たち』は2度目の時期にあたる。大法官(総理大臣に相当)トマス・モアはヘンリー8世の離婚問題に反対したため斬首刑となってしまう(映画『わが命つきるとも』)が、1536年、国王の側近トマス・クロムウェルが宮廷画家に取り立て、欧州各国の宮廷に派遣して妃候補の肖像画を描かせた。王はドイツのユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アン・オブ・グレーブスを、肖像画の美しさから花嫁に迎えたが、実際に到着したアンが肖像画とあまりに違うので激怒した。1540年1月に行われたこの結婚は6ヵ月で離婚(王との実際の床入りがなかったことが婚姻無効の離婚理由となりえた)となり、クロムウェルは保守派との確執もあって失脚、斬首のうえ、トマス・モア同様にロンドン橋に首が晒された。不興を買ったホルバインは追放となり、1543年にロンドンのペストで亡くなった。

 

『大使たち』

 16世紀の最も熟練した肖像画家ホルバインによる2人の肖像画は、描かれた人物たちの富と地位を誇示するだけではない。それはヨーロッパの宗教的激変の時に描かれた。ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を教皇が無効にしないため、王はローマ・カトリック教会と訣別した。絵の中央、テーブルの上のさまざまなオブジェクトは、政治情勢の複雑さをほのめかしている。絵の具によるさまざまなテクスチャは、ホルバインの卓越した技術の見せどころでもある。

 ホルバインは署名の下に日付を記入したので、1533年に取り組んでいたと知ることができる。当時のアーティストは絵に署名しなかったが、ここでの署名は彼がこの作品を特に誇りに思っていたことを示唆している。

 肖像画が描かれたのと同じ年に、ヘンリー8世は2番目の妻となるアン・ブーリンと結婚した。王はローマ教皇の権力を回避し、イングランド国教会をローマから独立したものに確立して、国教会の長ともなった(「上告禁止法」、「首長令(国王至上法)」)。

 しかし、フランス国王フランソワ1世にとっては、カトリック・ヨーロッパの宗教的および政治的関係の崩壊は心配の種だった。左の人物は、その状況についてフランソワ1世に報告することを任された大使ジャン・ド・ダントヴィル (Jean de Dinteville)で、最も信頼できる廷臣の1人である彼は、フランソワ1世の代理で結婚式に出席している。これは彼のイギリスへの2回目の外交使節であり、さらに3回イギリスを訪れて君主間でメッセージを伝えた。右の人物は彼の親友であるラヴァールの司教、ジョルジュ・ド・セルヴ (Georges de Selve)で、彼もまた外交使節団の一員だった。 4年前、彼は神聖ローマ皇帝カール5世がカトリックプロテスタントを和解させようとしたシュパイアーの国会に出席している。描かれたとき、ダントヴィルの剣の鞘のラテン語の碑文と、セルヴが寄りかかっている本の側面から、それぞれ29歳と25歳であることが見てとれる。

 ダントヴィルは、6月のアン・ブーリン戴冠式と、9月の娘エリザベスの誕生のためにロンドンに滞在する必要があった(フランソワ1世はエリザベスのゴッドファーザーだった)。残された通信記録は、ダントヴィルが長期の滞在に不満だったことを明らかにしているが、この肖像画はセルヴとの友情とイギリスでの任務を記念している。

 ルネサンス肖像画には、楽器、硬貨、本、花などのオブジェクトが含まれていることが多く、趣味、知性、文化、婚姻状況、宗教的情熱をほのめかして、描かれた人物の描写を豊かにした。これらのオブジェクトは、16世紀半ばのヨーロッパの宗教的および政治的混乱に関する視覚的な表象として解釈されてきたが、音楽、数学、地理学、天文学のいずれかに関係し、これら4つの学科は、中世の大学で「四学」 (quadrivium) を構成するもので、2人の高度な教養、知性を表現するために描かれたものと考えられる。

 一番上の棚には、時間、高度、星やその他の天体の位置を測定するために使用される機器が表示されている。左端には天球儀があり、星や惑星の位置を表示している。各面に文字盤が付いた多面的な箱のようなオブジェクトは、多面体文字盤と呼ばれ、日時計の一種である。このようなオブジェクトは、ヘンリー8世付きの王室天文官ニコラス・クラッツァーによって作成された(クラッツァーが多面体の文字盤を作成していることを示すホルバインの肖像画は、パリのルーブル美術館にある)。技術的な機器類は非常に貴重であり、数学と科学に対する人物たちの理解力を示している。

 下の棚は主に音楽に捧げられている。リュートの11本の絃のうち、1本が切れている。リュートの隣りにフルートのセットがある。「音楽をよくしない限り教養ある人士とは、少なくともフランス人とは見なされなかった」ことを思えば、楽器が画面中央に鎮座しているのも不思議はない。ホルバイン(あるいはダントヴィル)がなぜ絃の1本を切らせたか、の最も一般的な見方は「被造物の沈黙(即ち死)を象徴する」というものであろう。あるいは切れた1本の絃は「あらゆる音階が響き止む、という意味での死」を象徴するばかりでなく、同時に政治的な象徴をも含むものであるという説もある。1本の絃でも切れた時は、その1本のために(ちょうど音楽がそうであるように)外交というものは台なしになってしまう、という象徴だともされる。

 左端には、地球儀が置かれており、その前の方で半開きになっている書物は、天文学者であり地理学者でもあったペトルス・アピアヌスによる “Kauffmanns Rechnung” (1527年)である。

 右隣で両開きになっている書物は、ヨハン・ワルター作曲の讃美歌集 “Geystlich Gesangk Buchleyn” (1524年)で、讃美歌集には、マルティン・ルターの讃美歌および十戒パラフレーズが一字一句克明に写されている。「Mensch willtu leben seliglich und bei Gottheit bliben ewiglich,sollte du halten die Zehn Gebot die uns gebent unser Gott(我らの主が与え給うた十の戒めを守るならば、我らは幸多く生き、永遠に神の御許にとどまるであろう)」。(3年後に、アンが十戒のひとつの「姦淫するなかれ」を破ったとして生を絶たれたことを想えば、アイロニカルな予言となっている。)

 ホルバインの信じられないほどの技術的スキルも見ることができる。ダントヴィルのピンクのサテン・チュニックの光沢はまばゆいばかりで、その滑らかさは彼の黒いマントの裏地にある濃厚で密度の高いオオヤマネコの毛皮と対照的である。ホルバインは、その周縁に一本一本の毛を描き、贅沢で柔らかな質感を与えている。ダントヴィルの短剣の鞘からぶら下がっている金のタッセルは、金メッキ技術を使用して作成された。彼は個々の紐を茶色がかった色で塗り、油媒染剤(接着剤のように機能する粘着性の物質)の層で覆い、次に金を固定した。

 ルネサンス肖像画は、人生の弱さ、または「Memento mori」(死を忘るな)を思い出させるためにしばしば依頼された。2人が立っている床のモザイク模様は、ウェストミンスター寺院の内陣のそれを模写したものであるとされる。男の足の間に浮かんでいるように見える歪んだ細長いオブジェクトは、右下隅から絵を見上げた場合にのみ正しく見ることができて、その形は大きな髑髏(頭蓋骨)であることがわかる。これはanamorphos(歪像(アナモルフォーシス))と呼ばれる効果で、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにあるヘンリーの息子エドワード6世の珍しい肖像画にも見られる。画の左上に同じように隠されているのは、緑のダマスク織のカーテンに固定された十字架の磔刑像で、キリストの犠牲、人類の贖罪を通じての救いの普遍的な希望を表現しているのかもしれない。

 

<「髑髏」>

「髑髏(頭蓋骨)」に関する千足伸行「ホルバインの《大使たち》」の解説(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))を紹介する。

《むしろより妥当と思われるのはこれを古くからあるモットー「Memento mori」(死を忘るな)、あるいは「Vanitas」(生の空しさ)を造型化した一連の作品の中で、イコノグラフィックな意味での傍系のひとつと見ることである。もしこの頭蓋骨が現在のようなanamorphoseとしてでなく、正常な形で他の様々な静物的なモチーフと同列に描かれていたとしたらこれは明らかにやがて17世紀のオランダ静物画で盛行を見ることになるいわゆるVanitas Still-lifeの系列に属するものと言える。一般論として、当時のドイツ人に限らずひろく「ルネサンス人は生そのものの中にVanitas的な観念を浸透させていた」が、特に北ヨーロッパではHans BaldungやDürer、N.M.Deutschなどが死を擬人化することにより、生の空しさないしは死の勝利という観念をその芸術の前面におし出している。このような芸術的風土に加えてすでにのべたようにホルバイン自身も《死の舞踏》をテーマとした従来の数ある絵画や彫刻の中でも「ある意味では最も完璧な表現」と言われる木版の連作をバーゼル時代に手がけている(ただしここでも従来の聖書的、キリスト教的死生観にもとづいた《死の舞踏》とは異なった、ホルバイン一流の世俗性と、風刺的、警世的傾向の勝った表現が目立っている)。Waetzoldtによればホルバインの死に対する態度は《偶者の船》(Das Narrenschiff)におけるSebastian Brant、あるいは《偶神礼賛》におけるエラスムスのそれに近かったということであるが、たしかにホルバインは死そのものを直接的に描くというより死を通じて何かを語ろうとするかのようである。彼は(少くとも《死の舞踏》で見る限り)いわば死を自己の人生観、社会観あるいは宗教観を語り伝えるスポークスマンとしている。《大使達》における「死」の精神にしても、(たとえばバーゼルにある1521年の《墓の中のキリスト》のような)恐怖や苦痛、終局などの観念と結びついた凄惨な死の形相を伝えることにあるのではなく、むしろ上述の《死の舞踏》の延長線上にあるようである。しかもこのVanitas的イメージ、奇嬌な頭蓋骨を中にして立つダントヴィル、セルヴの両名は当時それぞれ29歳と25歳、人生の春ともいうべき時期にあった。青春、あるいは美、力、豊かさなどのイメ一ジと死のイメージとの際立ったコントラスト、これはいわばVanitas的なイコノグラフィーの常識である。(中略)ここには他のこの種の作品には見られない何かユニークな象徴性がひそんでいるのではないだろうか。これについて思い出されるのはD.Piperの次のような言葉である。「それ(問題の頭蓋骨)はあたかも(絵を見る)我々と(絵の中の)二人の人物の間にさしかけられて(・・・・・・・)(suspended)いるかのようである。」死は常に我々に「さしかけられて」ありながら我々はこれを直視しえない、あるいはすることを忘れている、という事実をこの一見しただけではにわかには識別し難い頭蓋骨は語っていないだろうか。すべてがホルバイン特有の明晰で客観的な描写を得、それぞれがいわば自己の世界、自己の空間に定着している中にあって、この謎のような頭蓋骨のみは絵の中の世界からも、絵の外の世界からも浮き立ったもうひとつの世界に漂っているかのようである。このようなanamorphose的な表現を与えられてこそ、この頭蓋骨は「正常な」頭蓋骨のもつ「静物」的な物質性をはなれ、非物質化されたひとつの象徴的存在、「死を忘るな」(Memento mori)の象徴的、暗喩的な表象にまで高められてはいないだろうか。ここに注文主ダントヴィル、当時ロンドンの気候が体に合わず、病み勝ちで、「かつていた大使の中でも最も憂欝な」とみずからを語ったダントヴィルの指示がどの程度まで入っていたか、あるいはここではすべてがホルバインの創意だったのかこれらについては客観的には知る由もない。ただここで思い出したいのはダントヴィルの帽子の内べりにつけられた小さな頭蓋骨のバッヂである。「死を忘るな」あるいは「生の空しさ」とはおそらくこの「憂欝な」貴族外交官のモットーであったに違いない。こうした観点に立てば、二人の間の台架の上の日時計も単に学術用の日時計という以上に世の無常、移ろい易さという象微性をおびてくるように思われる(周知のようにこうした場合普通は日時計よりも砂時計が好んで用いられる。ホルバインの《死の舞踏》でもこれはいわば「死」のアトリビュートのようにしばしば現われる)。こうした見方をさらに発展させれば、画面の中の地球儀は地上の(政治的)権力を、天球儀は天上(=神)、すなわち教会の権力の象徴ともとれる(これには政治家ダントヴィルと高僧セルヴへの含みもあったかも知れない。またこれら天球儀と地球儀、そして死あるいは無常の象徴としての頭蓋骨が構図的に見てほぼ同一垂直線上にある、ということもこの際注意したい)。》

 

<「狂乱の場(Mad scene)」>

アンナ・ボレーナ』(1830年)には、聖書の解釈をめぐってヘンリーと議論さえできた知的なアン・ブーリンと、ルネサンス王ヘンリー8世(作曲し、リュートも弾きこなした)が担っていた政治的、宗教的、人文芸術的な要素はほとんどなく、わずかにリュート演奏の場面に、のちのエリザベス女王の宮廷で音楽が花開いた萌芽を見てとれるくらいだ。そこにあるのは、本作が初演された1830年頃のフランス7月革命、イタリア統一運動(リソルジメント)のロマン派的な「死と愛」「死へのあこがれ」という芳香の兆しである(わずか数年後ではあるが、『ランメルモールのルチア』(1835年)のルチアの「狂乱の場」、『ロベルト・デヴェリュー』(1837年)のエリザベス女王の狂乱ではロマン派色がより強くなる)。

アンナ・ボレーナ』のロマン派的な香り、いわゆる「狂乱の場」に戻ろう。ここで、スメトンの「arpa」(イタリア語でハープ)という歌詞が登場するが、舞台演出ではテューダー朝当時に流行した(その後、急激に廃れ、ハープに代わっていった)ルネサンスリュートをスメトンに弾かせるように、時代考証的には「リュート」の意と了解してよいだろう(英語字幕も「lute」)。

 

第二幕第3場:ロンドン塔

 衛兵たちに付き添われたペルシーとロシュフォール卿。王の部下エルヴィが、国王は寛大にも2人を助命すると告げる。しかし、アンナが処刑されると知ったペルシーは、「罪のない彼女が死んで、罪ある私が生きる事を望むほど私が卑劣な男だと思っているのか!」と叫び、赦免を拒否する。ペルシーは、君は生きるのだ、とロシュフォールにすすめるが、ロシュフォールも死を選び、2人は兵士たちに囲まれ退場する。

 アンナが閉じ込められた牢獄で侍女たちはアンナが錯乱してしまったと嘆いている。

 獄中からアンナが現れ、深い物思いにふける。侍女たちが周りを取り囲むと、錯乱のうちに過去を想い、歌う(「あなたたち泣いているの?」Piangete voi? と「優しかったあの場所に連れて行って」Al dolce guidami)。

 人々が嘆き悲しんでいると、エルヴィと廷臣たちがやってくる。アンナは正気を取り戻し、「何というときに私は錯乱から覚め正気に戻ったの!」と嘆く。

 牢獄から、ロシュフォール、ペルシー、スメトンが連行されてくる。

 スメトンは、国王の甘言に乗せられて、不埒な欲望の虚偽告白をしてしまった私を呪ってください、と打ちあけると、アンナは、

「スメトン!…こちらにいらっしゃい… 立ちなさい、何してるの? ハープの調弦はしないの? 一体誰がその絃を切ってしまったの?」

と語りかけ、また幻想の世界に入ってゆく。

「深く暗い響きが 断ち切られた呻き声のように…響いてくるわ…消え去る命のつぶやき…それは私の傷ついた心、天に最後の祈りを強く求める私の心の…みなさん、聞こえるでしょ…」

「天よ、私の長い苦悩に 最期の休息を与えください、 そして、この最期の鼓動が せめて希望に結びつきますように!」

 遠くの方から何発かの号砲と鐘の音が聞こえてくることで次第に正気に戻ったアンナは、ジョヴァンナの戴冠の祝宴、民衆の歓迎の騒ぎと知ると、

「黙りなさい…止めなさい! これからです!ああ!今からです!罪を成就する アンナの血は、これから流されるのです!」

「邪悪な夫婦よ、最初で最後の復讐は 今この恐ろしい瞬間に成就される事はない… 口を開けて私を待つ墓場に  唇に許しを携えて降りてゆくのです… 慈悲深い神の御前で、和の心が 寛大で恵み深い気持ちを持てるように…」(「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniqua」)と歌いながら、処刑に向かう(幕)。

 

 MET公演のインタビューでネトレプコは、「狂乱の場」のアンナは本当には狂ってはいないと思って歌っている、と語っている。最後の歌詞は、再婚する王エンリーコと侍女ジョヴァンナを「邪悪な夫婦」と呪いつつも、しかし神の前で寛大な気持を持てるように許すかのごとき言葉で処刑へ向かうが、音楽は罪を成就するアンナが流すだろう血の燃える憤怒と自尊心で力動し、ドニゼッティ音楽は心はやる四重唱、五重唱ばかりでなくアリアもまた凄みがあると教える。2009年のMETでネトレプコが演じたドニゼッティランメルモールのルチア』の「狂乱の場」のルチアは、よりロマン派色が強く出て、完全に物狂いとなっているが、『アンナ・ボレーナ』のアンナが自身を処刑台の死へと追い詰めてゆくのは、「狂乱」というよりも、誇り高さと、自分はこのように生きてきたのだ、というルネサンスの女の知的でいきいきとした勇気によって、音楽が言葉を裏切って錯乱にみせるのであり、中世から近世へと向かう変曲点そのものだった女の自我が漲り、「死への欲動」ではあっても「狂乱の場」と名づけるのは誤りに違いない。

 

<ホルバインの予言性>

 アン・ブーリンの死の3年前に描かれたホルバインの『大使たち』は、『アンナ・ボレーナ』の最後のアンナ(アン)の死を表象している。それはリュートの「切れた絃」による生の断絶と不調和、「歪んだ髑髏」による死への欲動に象徴されている。

 ジャック・ラカン(『精神分析の四基本概念』)によると、『大使たち』(『使節たち』)に描かれた奇妙なモノは、絵を鑑賞し終えてから振り返ったとき視ることのできるもので、

《先回「虚栄vanitas」との共鳴や繋がりを指摘したこの絵(タブロー)、着飾り凍りついたように立ちつくす二人の人物の間に、当時の見方からすれば、技芸と科学の虚栄を思い出させるあらゆる物を配したこの魅惑的な絵(タブロー)、この絵(タブロー)の秘密が示されるのは、この絵(タブロー)から少し離れてもう一度振り返ったときだからです。そのとき、この浮かんでいる不思議な対象が何を意味しているかが解ります。この対象は髑髏という形で我われ自身の無を映し出すのです。》

 

 スラヴォイ・ジジェクは『ラカンはこう読め』で、『大使たち』の歪像(アナモルフォーシス)(anamorphose)に関連して論じる。

《この欲望の対象=原因の状態は、歪像(アナモルフォーシス)と同じ状態である。絵のある部分が、正面から見ると意味のない染みにしか見えないのに、見る場所を変えて斜めから見ると、見覚えのある物の輪郭が見えてくる。それが歪像だ。だがラカンの言わんとしていることはもっと過激だ。すなわち、欲望の対象=原因は、正面から見るとまったく見えず、斜めから見たときにはじめて何かの形が見えてくる。文学におけるその最も美しい例は、シェイクスピアの『リチャード二世』の中で、戦に出陣する不運な王を心配している女王を慰めようとする、家来ブッシーのセリフの中にある。

 

  悲しみは、ひとつの実体が二十の影をもっています。

  それは影にすぎないのに、悲しみそのもののように見えます。

  というのも、悲しみの眼は涙に曇っているため、

  ひとつの物がいくつもの物体に分かれて見えるのです。

  正面から見るとただの混沌しか見えないのに、

  斜めから見るとはっきりと形が見えてくる、

  そんな魔法の鏡のように、お妃さまも

  国王陛下のご出陣を斜めからご覧になっているので、

  実際には存在しない、悲しみの幻影を見てしまわれるのです。[第二幕第二場]

 

 これが<対象a>だ。それは物質としてのまとまりをもたない実体であり、それ自身は「ただの混沌」であって、主体の欲望と恐怖によって斜めにされた視点から見たときにはじめて明確な形をとる。「実際には存在しない幻影」として。<対象a>は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。絵画史における最も有名な歪像の例であるホルバインの『大使たち』の主題が死であったことを思い出そう。絵の下のほう、虚飾にみちた人物たちの間に長く延びている、染みのようなものを脇のほうから見ると、頭蓋骨が見えてくる。ブッシーの慰めの言葉は、後のほうのリチャードの独白と並べて読むことができる。リチャードはそこで、王冠の真ん中の空洞には<死神>がいるという。その<死神>は隠れた主人=道化で、それがわれわれに王を演じさせ、われわれの威厳を楽しみ、最後にはわれわれの膨れあがった体を針で刺して、われわれを無にしてしまう。

 

  死すべきひとりの人間にすぎない

  王のこめかみを取り巻いている中空の王冠の中では

  死神という道化師が支配権を握り、

  王の威厳を馬鹿にし、王の栄華を嘲笑っているのだ。

  束の間の時を与えて、一幕の芝居を演じさせる。

  王として君臨し、畏れられ、睨むだけで人を殺し、

  城壁のように命を守っているこの肉体が、

  難攻不落の金属の壁であるかのように思い込み、

  むなしいうぬぼれに膨れあがっていると、

  さんざんいい気分にさせておいた死神は、小さな針でその城壁に穴を開け、

  王よ、さらば、というしだいだ。[第三幕第二場]

 

 ふつうは以下のように言われる。すなわち、リチャードは、「王の二つの身体」(筆者註:「自然的身体」と「政治的身体」。「自然的身体」は普通の肉体のことで、衰え、過ちも犯す。「政治的身体」は不可視の抽象的身体で、愚行も失敗も犯さず、政体の持続性や威厳を代表する)の区別を受け入れること、そして王のカリスマを奪われたただの人間として生きることが、どうしてもできないでいるのだ、と。しかしこの劇の教訓は、この作業が、ごく簡単なように見えるが、じつは究極的には実行不可能だということである。簡単にいえば、リチャードは自分が王であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づきはじめる。しかし、この実体のない幽霊を追い払った後に、生身のわれわれという単純な現実が残るわけではない。つまり、カリスマの歪像と実体のある現実とを単純に対置することはできない。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、それは、王冠を譲り渡せというヘンリー(筆者註:のちのヘンリー4世)の要求に対して、要するに「私はそれをする『私』を知らない」と答えるときのリチャードの立場に他ならない。

 

  ヘンリー・ボリングブルック 王冠譲渡に同意されるのですね。

  王リチャード2世 ああ、いや。ない、いやある。私はもはや無にすぎぬ。

  だから「ない」はない。あなたに譲ることにしよう。

  さあ、よく見るがいい。私が私でなくなるさまを。

  私の頭から、この重い冠をとって、さしあげよう。

  私の手から、この厄介な錫杖をとって、さしあげよう。[第四幕第一場] 》

 

 1533年、ホルバインは『大使たち』を描きあげ、3年後の1536年のアンの斬首を「切れた絃」と「歪んだ髑髏」(そして左上に隠された「キリストの磔刑図」も)で予言した。

 300年後の1830年、ドニゼッティは『アンナ・ボレーナ』で予言を音楽と言葉で舞台化した。

 アンナは自分が王妃であることを歪像、つまり「実体のない影」がもたらした効果だということに気づいていた。すべての現実は歪像、すなわち「実体のない影」の効果であり、正面から見るとただの混沌しか見えない。だから象徴的同一化を奪われ、「王妃の座から追われ」た後には何ひとつ残らない。王妃の王冠の中にいる<死神>はたんなる死ではなく、無へと還元された主体自身であり、王冠を譲り渡せというヘンリー8世の要求に対して、「私はそれをする『私』を知らない」と答えた「王の二つの身体」のリチャード2世とは違っている。

 2011年、ウィーン歌劇場のプロダクション(演出エリック・ジェノヴェーズ)でネトレプコは、「邪悪な夫婦よ」 Coppia iniquaの最後のハイを歌い終えながら黒髪をかきあげ、背を向けて段を上り、観客に頭を向けてあおむけに横たわると、自ら血を象徴するかのような赤いショールを首から頭にふわりと被せる。と、幼いエリザベス王女が奥から歩み寄り、上から斧の刃のような黒い扉がゆっくりと首のあたりに下りてきて幕となる。METのプロダクション(演出デイヴィッド・マクヴィカー)では、アンナが黒髪を巻いて力強い襟首を晒し、舞台奥で頭(こうべ)を垂らすというよりも、ぐいと差し出す。と、舞台上部に剣を持った処刑人の姿が現れて、赤い横断幕が舞うようにひらりと垂れ落ちる。

 アンナは、「私はそれをする『私』を知っていた」。

                                                                              (了)

         *****引用または参考文献*****

*『対訳 アンナ・ボレーナ』河原廣之訳(おぺら読本出版)

*『Donizetti: Anna Bolena [Blu-ray] 』Anna Netrebko、Elīna Garanča (Deutsche Grammophon)

*『Donizetti: Anna Bolena [HD] 』Anna Netrebko、Ekaterina Gubanova (MET)

*「METライブビューイング 《アンナ・ボレーナ》 インタビュー」

https://www.youtube.com/watch?v=Cj9anDe3doo

*Synopsis:Anna Bolena, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/anna-bolena

*Synopsis:Maria Stuarda, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/maria-stuarda

*Synopsis:Roberto Devereux, ”The Metropolitan Opera” HP

https://www.metopera.org/user-information/synopses-archive/roberto-devereux

*”The Ambassadors” , Hans Holbein the Younger, ”The National Gallary” HP

https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/hans-holbein-the-younger-the-ambassadors

千足伸行「ホルバインの《大使たち》」(「西洋美術館年報」(発行年1968-03-01))

*海津忠雄『ホルバインの生涯』(慶應大学出版会)

*加藤浩子『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書

*香原斗志「これぞ究極の愛憎物語! 劇的すぎる英国王室の史話はオペラで楽しめる」(GQ)

https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200910-elisabeth

*グリエルモ・バルブラン、ブルーノ・ザノリーニ『ガエターノ・ドニゼッティ ロマン派音楽家の生涯と作品』高橋和恵訳(東成学園昭和音楽大学

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』小出浩之他訳(岩波書店

スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め』鈴木晶訳(紀伊國屋書店

*フィリッパ・グレゴリー『ブーリン家の姉妹(上)(下)』加藤洋子訳(集英社文庫

石井美樹子『イギリス・ルネサンスの女たち』(中公新書

石井美樹子『薔薇の王朝 王妃たちの英国を旅する』(知恵の森文庫)

石井美樹子『図説 エリザベス1世』(ふくろうの本、河出書房新社

*指昭博編『ヘンリ8世の迷宮 イギリスのルネサンス君主』(昭和堂

*キャロリー・エリクソン『アン・ブリンの生涯』加藤弘和訳(芸立出版)

*ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール(上)(下)』宇佐川晶子訳(早川書房

*ヒラリー・マンテル『罪人を召し出せ』宇佐川晶子訳(早川書房

*エルンスト・H・カントローヴィチ『王の二つの身体』小林公訳(平凡社

大澤真幸『<世界史>の哲学 近世編』(講談社

 

文学批評 ナボコフと『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見る

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《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》

 こう主張するナボコフロシア文学講義』の『アンナ・カレーニナ』論(ナボコフは、「アンナ・カレーニナ」表記は誤りで、「アンナ・カレーニン」であると強く主張しているが、ここでは、ナボコフの文章からの引用では「アンナ・カレーニン」のママとし、地の文では一般的な「アンナ・カレーニナ」を用いる)は、文学に対する態度の基本的な指南書でもある。

 国語義務教育と受験国語で、作品の「あらすじ」を書け、「作者の言いたいことは何か」を述べよ、に洗脳されてしまった私たちは、ナボコフの忠告に耳を傾け、コペルニクス的転回によって、『アンナ・カレーニナ』を読みなおさねばならない。とりわけ、思想性と神秘的宗教性ゆえに疎んじられがちなリョーヴィンと、健気なキティとの「リョーヴィン―キティ」エピソード(ナボコフは「銀河」と形容した)を幸福な気分に照らされながら仰ぎ見よう。

 

 ナボコフによれば、

《伯爵レオ(ロシア語でレフ、またはリョフ)・トルストイ(一八二八~一九一〇)は、休息を知らぬ頑健な男で、生涯にわたって自分の官能的な気質と極端に傷つきやすい良心との間で引き裂かれていた。彼のなかの放蕩者が都会の肉欲の喜びを求めるのと同じ程度に情熱的に、彼のなかの禁欲主義者は静かな田園の道を歩もうとしたが、欲望はともすれば道を踏み誤らせるのだった。

 青年時代に、この放蕩者は更生の機会をつかんだ。その後、一八六二年に結婚してから、トルストイは家庭生活に暫くの平安を見出し、財産のぬかりない管理と――ヴォルガ地方に豊かな土地を持っていた――自分の最良の執筆とに二股をかけた。巨大な『戦争と平和』(一八六九)や不滅の『アンナ・カレーニン』を生み出したのは、この六〇年代と七〇年代前半のことである。更に七〇年代末以後、四十歳を越してから、彼の良心が勝利をおさめた。倫理が美学や個性を圧倒し、そのあげくには、妻の幸福や、平和な家庭生活や、高度の文学的成果などをいけにえとして、彼が道徳的必然性と考えたものに捧げることとなる。道徳的必然性とはすなわち、合理的なキリスト教道徳に従って生きること――個人主義的な芸術の色鮮やかな冒険ではなくて、人類一般の簡素な厳しい生活である。》

 ナボコフは、《私は偉大な作家たちの尊敬すべき生涯をいじくりまわすのは嫌いだし、それらの生活を垣根ごしに覗き見するのも嫌いだ。いわゆる「人間的良心」というやつの俗悪さも嫌いだし、時の回廊から聞えるスカートの衣擦れや忍び笑いも嫌いなのだ。どんな伝記作者も私の私生活の片鱗すら捉えることはできないだろう》と断っている。

 どこかの図書館で「ロシア文学」の書架を眺めれば、ドストエフスキー関連に比べて、トルストイ関連は十分の一もあるかどうかで、しかもその内容は、「伝記」と「人生論」ばかりというところに、トルストイの読まれ方の偏りがある。

 ナボコフは講義冒頭から、トルストイを擁護しながら、断言する。

イデオロギーの毒は、つまり、いかさま改革者が発明した術語を使うならば、「メッセージ」は、前世紀(筆者註:19世紀)の中葉からロシアの小説に影響を与え始め、今世紀(筆者註:20世紀)の中葉に至ってそれを殺した。一目見た限りでは、トルストイの小説はその教義にひどく侵されているように見えるかもしれない。だが、実のところ、トルストイイデオロギーはたいそう穏やかで、漠然としていて、現実政治から遠く、一方、トルストイの芸術は非常に強力で、猛烈に輝かしく、独創的かつ普遍的であるから、お説教をたやすく乗り越えてしまう。長い目で見るなら、思想家としてのトルストイが関心を抱いたのは生と死の問題であった。とどのつまり、どんな芸術家もこの問題を扱うことを避けるわけにはいかない。》

 ナボコフは続ける。

《けれども、これだけは言っておかなければならない。人々にたいするドストエフスキーの自己満足的な憐れみ――虐げられた人々への憐れみは、純粋に情緒的なものであって、その一種特別な毒々しいキリスト信仰は、彼がその教義から遙かにかけ離れた生活を送ることを決して妨げはしなかった。一方、レオ・トルストイはその分身のリョーヴィンと同じように、自分の良心が自分の動物的性情と取引することをほとんど生理的に許せず――その動物的性情がより良き自己にたいしてかりそめの勝利を収めるたびに、ひどく苦しんだのである。》

 

《多くの人は矛盾した感情を抱いてトルストイに接する。人はトルストイのなかの芸術家を愛するが、同じ人間のなかの説教者にはひどく退屈するのである。しかしそれと同時に、芸術家トルストイから説教者トルストイを分離することはむずかしい――どちらも同じゆったりとした深い声、どちらも同じ、たくさんの幻影あるいは想念を担う頑健な肩なのだから。人はできることなら、トルストイの草履(サンダル)がけの足の下の名誉ある説教台を蹴とばして、数ガロンのインク、何千枚もの原稿用紙と一緒に、彼を石の小屋か無人島に――アンナの白いうなじにかかるカールした黒い髪を観察するトルストイの邪魔になるような、倫理的・教育的なことどもから遠く離れた場所に、閉じこめてしまいたいと思う。だが、それはできない相談なのだ。トルストイは均質であり、単一の存在であって、片や、美しい黒土を、白い肌を、青い雲を、緑の野を、紫色の雷雲を満足げに眺める男と、片や、小説は罪深いものであり、芸術は不道徳なものであるという意見をあくまで主張する男、この両者のあいだに、殊に晩年において繰りひろげられた戦いは、やはり同一人物の内部での戦いなのである。事物を描く場合であろうと、説教をする場合であろうと、トルストイはあらゆる障害を押し切って、真理に到達しようと奮闘した。》

 ナボコフは、戦争や結婚生活や、作者の倫理的・宗教的見解について、《生まじめな作者が噛んで含めるように説明する重苦しい時間》は、トルストイの魔力が消え失せ、《私たちのすぐそばに座って、私たちの生活に参加していた親しい人物たちは別の部屋に連れて行かれて》しまい、《アンナやキティの感情や動機のもつ永遠のスリルはない》と認めてはいる。

小説『アンナ・カレーニナ』の映画やドラマ、あるいはバレエでは、「ヴロンスキー―アンナ」エピソードのドラマチックな姦通の悲劇にだけ集中し、トルストイの良心の分身ともいえるリョーヴィンの説教臭さに関わりたくないゆえに、「リョーヴィン―キティ」エピソードの幸福な結婚への道は画にならないとばかりに省略してしまいがちだが、ナボコフはその安易で単純な潔さを戒めてはいないか。

「ヴロンスキー―アンナ」エピソードと「リョーヴィン―キティ」エピソードは、『アンナ・カレーニナ』という偉大なロマネスク建築の重厚な屋根を支える左右の太い梁であり、左右から均等にもたれあう力こそが神の天空のような天井を支えているのだ。

 

 ナボコフはアンナを次のように紹介する。

《世界文学において最も魅力的な女主人公の一人、アンナは、若く、美しく、基本的に善良な、そして基本的に破滅を運命づけられた女性である。非常に若かった頃、善意の伯母の口ききで、すばらしい経歴をもつ将来有望な役人と結婚したアンナは、ペテルブルクの社交界でも最も活気のある交際範囲のなかで、満足した生活を送っている。小さな息子を熱愛し、二十歳年上の夫を尊敬し、もちまえの生き生きとした楽観的な性質で、生活のもたらす表面的な楽しみのすべてを味わっている。

 モスクワへ旅行したときに出逢ったヴロンスキーに、アンナは激しい恋をする。この恋は彼女のまわりのすべてを変えてしまう。見るもののすべてが違った光のなかで見える。ペテルブルクの鉄道駅での有名な場面では、モスクワから帰って来る彼女を迎えに来たカレーニンを見て、その巨大で不恰好な耳の大きさやかたちにアンナは突然気がつく。それまで夫を批判的に見たことがなかったから、その耳にも気づかなかったのである。》

 ナボコフの「註釈」によると、キティの目に映るアンナは、《肉の引き締った頸筋と真珠[ジ(・)ェームチュク]の首飾りも魅惑的なら……生気[オジ(・)ヴレーニエ]にあふれた美しい顔も魅惑的だったが、その魅惑にはどことなく残酷[ジ(・)ェストーコエ]で、恐ろしい[ウジ(・)ャースノエ]ところがあった。この「ジ」の繰返し(音声学的にはpleasureのsと一致する)――アンナの美しさの不吉な、蜂のようにぶんぶん唸る特質》とは、いかにも『Lolita』(“Lolita,light of my life,fire of my loins.My sin,my soul.Lo-Lee-ta:the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap,at three,on the teeth.”にみるlとtの愛らしい響き)の作者らしい言語との戯れに違いない。

 

《ちょっと見たところ、アンナは夫以外の男と恋に落ちたから社会によって罰せられた、というふうに見えるかもしれない。そのような「道徳」はもちろん全く「非道徳」的であり、ついでに言うなら全く非芸術的である。なぜなら同じ社会の上流夫人たちは好きなだけ、但しこっそりと、黒いヴェールをかぶって情事を楽しんでいたからである(エンマがロドルフと遠乗りをするときの青いヴェールを、レオンとルーアンで媾曳(あいびき)をするときの黒いヴェールを思い出してみるといい)。だが率直で不幸なアンナは、このたぐいの偽りのヴェールを身につけない。社会の掟は仮初であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。ここでトルストイが伝えようとする本当の教訓の要点が明らかになる。すなわち、愛がもっぱら肉体的愛であるということはあり得ない。なぜならその場合、愛は利己的であり、利己的であることによって、愛は何かを創造する代りに破壊するのだ。従って、そのような愛は罪深い。そしてこの要点を芸術的にできるだけ明瞭に示すため、トルストイは驚くべき形象の流れのなかで、二つの愛を描き分け、生き生きとしたコントラストをつけて並べてみせた。片方にはヴロンスキー―アンナの肉体的愛(官能性豊かな、しかし不吉で、精神的に不毛な情緒のただなかでの戦い)、他方には、リョーヴィン―キティの(トルストイの用語によるなら)真正のキリスト教的愛。ここにも豊かな官能性はあるが、それは責任とやさしさと真実と家族の喜びという純粋な雰囲気のなかで、バランスがとれ、調和している。》

 

「ヴロンスキー―アンナ」エピソードについてはたくさん書かれてきたから、ここでは「リョーヴィン―キティ」エピソードの魅力をとりあげたい。

 

トルストイのこの小説は八つの「編」から成り、どの編も平均して三十の章から成る。いずれも四ページ前後の短い章である。作家は主な仕事として二つの線を――リョーヴィン―キティの線と、ヴロンスキー―アンナの線を追うが、二次的、中間的な第三の線、すなわちオブロンスキー―ドリーの線がある。これはさまざまな方法によって二つの主要な線を結びつけるための線であるから、この小説の構造のなかでは独特な役割を演じる。(中略)

 この小説に描かれた事件の始まりは一八七二年二月であり、終りは一八七六年七月――全部で四年半という時間の流れである。小説の舞台はモスクワからペテルブルクへ移り、四つの田舎の領地を転々とする。(中略)

 八つの編の最初の編の主要主題は、オブロンスキーの家の揉めごと(そこから小説がはじまる)であり、第二主題は、キティ―リョーヴィン―ヴロンスキーの三角関係である。

 この二つの主題、二つの拡大されたテーマ――オブロンスキーの浮気と、ヴロンスキーへののぼせ上りがアンナのために断ち切られたときのキティの傷心と――は、悲劇的なヴロンスキー―アンナの主題への序奏である。ヴロンスキー―アンナの主題は、オブロンスキー―ドリーの揉めごとやキティの傷心のようには滑らかには解決されないだろう。ドリーが五人の子供たちのために気紛れな夫を間もなく赦してしまうのは、彼女が夫を愛しているからであり、またトルストイが、子供をもつ夫と妻は神の掟によって永遠に結ばれていると考えるからである。キティは、ヴロンスキーに失恋してから二年後にリョーヴィンと結婚し、トルストイの考える完璧な結婚生活を始める。だが、十ヵ月の説得ののちにヴロンスキーの情夫となったアンナは、自分の家庭生活の崩壊に直面し、物語の始まりから四年経って自殺するのである。》

  

 この講義で最も重要な言葉は、リョーヴィンの信仰誕生の場面で、ふと目にした青い甲虫の動きに目を凝らしてのものだろう。その場面は後述するが、

《作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》

 

 ならば、《形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。》に従って、ナボコフが引用した形象の妙を順に見てゆこう。

 この考え方の対極にあるのが、ナボコフが教訓的メッセージと嫌ったトーマス・マンは、『アンナ・カレーニナ論』で、作品の周りを、リョーヴィンの批判的精神、良心と異端的頑固さ、モラル、肉体的なもの、ルソー主義、思想の動き、民衆の教育、十九世紀の科学とイデー、人生の意義、神、真理、善の問題、といった概念の衛星で周回し続ける。

 

<「マフに落ちた細い霜の針」>

 第一編第九章のスケートの場面は詩的比喩の宝庫だ。(この講義でナボコフが引用する文章は、この小説のガーネット訳にナボコフが手を加えたものであり、教室での朗読に適するよう、多少省略したり、言い換えたりしてある――編者。なお、ナボコフはガーネット訳をきわめて貧弱だとし、ところどころで誤りを指摘、訂正している。[ ]はナボコフの註記)。

 

《[リョーヴィンは]小道をスケート場へ向って歩きながら、自分に言い聞かせるのだった。《興奮してはいけない、落着いていなければ。何をそわそわしているんだ。どうしたというんだ。黙れ、この馬鹿者め》と、自分の心に向って叫んだ。そして落着こうとすればするほど、ますます息苦しくなってきた。だれか知人が向うからやって来て声をかけたが、リョーヴィンはそれが誰なのか見分けすらつかなかった。橇滑りの山に近づくと、橇を上げ下ろしする鎖ががらがら鳴り、滑り落ちる手橇の音がかしましく、陽気な人声が響きかわした。更に何歩か歩くと目の前にスケート場がひらけ、滑っている人びとの中に、すぐ彼女の姿が認められた。

 心臓をしめつける歓喜と恐怖の思いから、彼女がそこにいることはすぐ知れたのである。彼女は一人の婦人と話を交しながら、スケート場の向う端に立っていた。その身なりにも、姿勢にも、どこといって少しも変ったところはなかった。しかしリョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった……》

 

《キティの従兄(いとこ)のニコライ・シチェルバツキーは、短いジャケツに細いズボンという恰好で、スケート靴のままベンチに腰を下ろしていたが、リョーヴィンの姿を見つけると大声で呼びかけた。

「よう、ロシア一のスケーター! いつ来たんです。すばらしい氷ですよ、さあ、早くスケートをお着けなさい」

「ぼく、スケートがないんですよ」リョーヴィンは答え、彼女の前でそんなに大胆かつ無造作な態度をとるニコライにびっくりしながらも、彼女のほうは見ずに、しかも一刻たりとも彼女の姿を視界から見失わなかった。太陽が近づいて来るのが感じられた。(中略)彼女の滑り方は全く危なげであった。彼女は紐でつるした小さなマフから両手を出して、万一に備えていたが、リョーヴィンの方を向いて、彼の姿を認めると、自分の臆病を恥じるような笑みを見せた。カーブが終ると、弾力のある片足で一蹴りして、まっすぐに従兄の方へ滑りこんで来た。そして従兄(いとこ)の手につかまると、笑顔でリョーヴィンに会釈した。彼女はリョーヴィンが思っていた以上に美しかった……だが、予期せぬことのようにいつも彼を驚かすのは、彼女のつつましい、落ち着いた、誠実そうな目の表情だった……

「もうずっと前から来ていらして?」キティは彼に手を差しのべながら言った。「あら、すみません」と付け足したのは、マフから落ちたハンカチを彼が拾って渡したのだった[トルストイは作中人物を鋭く監視する。作中人物を喋らせ、動かすが、その言葉や行動は、作者が作った世界のなかでそれ自体の反応を生み出す。このことがお分りだろうか。よろしい]。

「あなたがスケートをなさるなんて、知りませんでした。とてもお上手ですね」

 キティは注意深く彼の顔を見つめたが、それはなぜ相手がどぎまぎしたか、その原因を見きわめようとするふうだった。

「あなたにほめていただくなんて、光栄ですわ。だって、こちらでは今でも、あなたがすばらしいスケーターでいらしたという評判ですもの」黒い手袋をはめたかわいい手で、マフに落ちた細い霜の針を払いおとしながら、キティは言った[再びトルストイの冷徹な目]。

「ええ、昔はずいぶん夢中になって滑ったものでした。なんとか完璧を期そうと思いましてね」

「あなたは何事も夢中になってなさるのね」キティは微笑しながら言った。「お滑りになるところを、ぜひ拝見したいわ。さあ、スケートをおつけになって。ご一緒に滑りましょうよ」

《一緒に滑る? そんなことがあっていいものだろうか》リョーヴィンはキティの顔を眺めながら思った。

「すぐ、はいて来ます」彼は言った。

 そしてスケートをつけに行った。》

 

 この「マフに落ちた細い霜の針」こそ、ナボコフが重視した形象の「細部」である。ナボコフは「注釈ノート」(第一編しかないが、全編に渡って残して欲しかった)に、「(40)スケート場」の註釈に続いて、次の註釈を加えた。

《(41)雪の重みで巻毛のような枝をすべて垂らしている庭園の白樺の老樹は、新しい荘重な袈裟で飾り立てられたように見えた。

 すでに述べたように、トルストイの文体は、実用的(「寓意的」)比喩が豊富である一方、主として読者の芸術的感覚に訴える詩的直喩や隠喩がふしぎなほど見あたらない。この白樺の木は例外である(少し先に「太陽」や「ばら」の比喩が出てくる(筆者註:《太陽が近づいて来るのが感じられた》、《リョーヴィンにとっては、この群衆の中から彼女を見つけることは、刺草(いらくさ)の中からばらの花を探すように、いとも容易だった》)。これらの老樹はまもなくキティのマフの毛皮の上に少量の輝かしい霜の針を落すだろう。

 リョーヴィンが求婚の最初の段階でこの象徴的な白樺の老樹を意識したことは、この小説の最後の部分で激しい夏の嵐に悩まされる別の白樺の林(それについて最初に語るのは兄のニコライである)と比較してみれば、たいそう興味深い。》

 

<「白い腕が透いて見えるレースの袖」>

 アンナのレースは印象的だった。

 舞踏会の場面、《アンナは、キティがあれほど望んでいた紫の衣装ではなく、胸を大きくあけた黒いビロードの衣装をつけ、古い象牙のように磨きあげられた豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、きゃしゃな、丸みをおびた腕をあらわにしていた。この衣装はすべてベニス・レースで縁取りがしてあった。その頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、黒リボンのベルトの上にもとめてあって、白いレースのあいだからのぞいていた。》

 夜汽車の席についてイギリス小説のページを切っても、《ほかならぬ自分自身が生きて行きたい思いでいっぱいだった》アンナは身が入らない。ヴォロゴヴァ駅で停車した汽車から、脱いだばかりのケープとプラトーク(ショール)を身につけて吹雪のプラットホームに出る。そこでアンナはあとを追って乗車していたヴロンスキーから《心の中で願いながらも、理性で恐れていたまさにそのことを》聞くが、このプラトークはきっと白いカシミア・レースだったろう。

 駆け落ちから首都に戻って、劇場に出かけたアンナは《パリで仕立てた、ビロードをあしらった、明るい色の胸あきのひろい、絹の衣装を着て、高価な白いレースの髪飾りをつけていたが、それは顔をくっきり浮きださせて、そのきわだった美貌を、さらに効果的にしていた。》 遅れて入ったヴロンスキーは桟敷を見まわす。《それはレースで縁どられた、日のさめるほど美しい、傲然とほほえんでいる顔であった。》 けれども偽善的な社交界は人目につく女にさらし者の気持を味わわせるのだった。

 最後の一日のジョイスに先立つ「意識の流れ」にも一瞬レースが点減する。アンナはプラットホームを歩きながら、自分に苦しみを強いる何ものかにたいして語りかける。

《小間使いふうの二人の女が振り返ってアンナを眺め、その衣装について何やら声高に品定めをした。「本物よ」と、二人はアンナが身につけていたレースのことを言った。》

 ささいなものと普遍的なもの、精神的愛情と肉体的情熱のあいだを往き来する本物の女。と、貨物列車が入って来た。手首から赤い手提を外すのに手間取るアンナ。膝をつく。《ここはどこ? 私は何をしている? なんのために?》

 

 ローマン・ヤコブソンが、「トルストイはアンナの自殺を描こうとして、主に、その手提について書いている」と換喩的方法の例としてあげたアンナの赤い手提の描写は、細部の力による喚起力を示している。

《細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である》と語った。

 ナボコフは、 一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提に注目する。片方が破れた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。

《アンナの赤い手提は、トルストイがすでに第一篇第二十八章で描写している。「玩具のような」「ごく小さな」と形容されたその手提は、しかし次第に大きくなる。ペテルブルクへ帰る日、モスクワのドリーの家を出ようとして、アンナは奇妙な涙の発作におそわれ、上気した顔を小さな手提に押しあてる。このとき手提に入れたのは、ナイトキャップや、バチストのハンカチなどである。この赤い手提を再び開くのは鉄道の車輛に落ち着いてからで、そのときは小さな枕や、イギリスの小説や、そのページを切るためのペーパーナイフなどを取り出し、そのあと、赤い手提はかたわらでうたたねする女中の手に預けられる。四年半後に(一八七六年五月)アンナが汽車に跳びこんで命を絶つとき、この手提は彼女が最後に投げ捨てる品物であり、そのときは手首から外そうとして少し手間どるほどの大きさである。》

 

 ナボコフは、アンナだけでは不公平とばかりに、第一編第二十二章の舞踏会のために着飾ったキティのレースについてこそ言及しなかったが(代わって引用すれば、《その化粧をはじめ髪の結い方や、その他さまざまな舞踏会のしたくは、キティにとってひじょうな努力と苦心のたまものだったにもかかわらず、今彼女がばら色の衣裳に細かい網目のチュール・レースを重ね、おおらかな気どりのない態度で舞踏会へはいって行くのを見ると、こうしたリボンの花飾りや、レースや、さまざまなしたくのはしばしにいたるまで、なにもかも、本人や家人たちにとっては少しも苦心を要するものではなく、彼女は初めからこの高い髪型を結い、二枚の葉のついたばらをさし、チュール織りのレースをまとってこの世に生れでたのではないかと思われるほどだった》)、トルストイらしいグルメな場面のキティのレースを嬉しそうに訳しなおした。

 

《さて、リョーヴィンがキティに振られてから二年経ち、ここはオブロンスキーが手配した夕食会の席である。まず、つるつる滑る茸(きのこ)についての短い一節を訳し直してみよう。

 

「熊をお撃ちになったんですって?」キティは、つるつる滑って言うことを聞かぬ茸をフォークで突き刺そうと、一所懸命試みながら、白い腕が透いて見えるレースの袖を震わせて訊ねた[偉大な作家の輝かしい視線は、作家に生きる力を与えられた人形たちのしぐさを、いつも注意深く追うのである]。「お宅の近くにはほんとに熊がいますの?」魅力的な小さな頭を半ば彼の方へ向けて、にこやかに言い足した。(第四編、第九章)》

 

 次に、食事後の有名なチョークの場面を引用してから、コメントを残している。

《この場面はどうも少しやりすぎである。もちろん愛は奇蹟を生み出し、心と心のあいだの深淵に橋を架け、かずかずの優しいテレパシーを実現するとはいえ――これほど詳細にわたる心の読み取りは、ロシア語の原文においれさえ大して説得力をもつものではない。それにしても、この二人のしぐさは魅力的であり、この場面の雰囲気は芸術の立場から見て真実である。》

 そう、「芸術の立場から見て真実である」ことが大切なのだ。

 

<「イヤリングをはずして」>

 キティのお産の場面は作品の偉大な章のひとつで、さりげない「細部」描写の見事さに感嘆せずにはいられない。

トルストイは自然な生活を信奉していた。自然――又の名は神――の掟として、人間の牝はお産のとき、例えば豚や鯨よりも大きな苦痛を味わわなければならない。従ってその苦痛を軽減することにトルストイは断然反対だった。(中略)

 少量の阿片(それも大して役に立たなかったのだが(筆者註:アンナは情緒不安定のため、最後の方では日常的に阿片(モルヒネ)を使用していた))以外には、当時、出産の苦痛をやわらげるための、いかなる麻酔剤も使用されていなかった。時は一八七五年であり、全世界の女性は二千年前と同じやり方で子供を産んでいたのである。トルストイのテーマはここでは二重になっていて、一つは自然のドラマの美しさということ、もう一つはリョーヴィンの目から見た同じドラマの神秘と恐怖ということである。入院だの、麻酔だのといった現代的出産風景は、この偉大な第七編第十五章の成立を不可能にしただろうし、自然な苦痛をやわらげることはキリスト教徒としてのトルストイの目には間違いと映るに相違ない。キティはもちろん自宅でお産をし、リョーヴィンはその間、家のなかをうろうろ歩きまわる。

  

 もう遅い時刻なのか、まだ早いのか、彼には見当がつかなかった。ろうそくはもうすっかり燃えつきていた。……リョーヴィンは腰を下ろし、医者の話を聞いていた……とつぜん、なんとも形容のしがたい叫び声が起った。その叫び声はあまりにも恐ろしかったので、リョーヴィンは飛びあがることもできず、じっと息を殺したまま、おびえたような、もの問いたげなまなざしで医者の顔を見た。医者は小首をかしげて、聞き耳を立て、これでよしというような微笑を浮べた。何もかもあまりに異常だったので、リョーヴィンはもう何事にも驚かなかった……彼は爪先立ちして寝室へ駆けて行き、産婆[エリザヴェータ]とキティの母親のうしろをまわって、枕許の自分に決められた場所に立った。叫び声は静まったが、今度はなにやら様子が変っていた。何が変化したのか、彼は見もしなければ、分りもせず、見たいとも分りたいとも思わなかった……汗ばんだ頬や額に乱れた髪がねばりついて、腫れぼったい、疲れきったキティの顔は、夫の方へ向けられ、彼の視線を探していた。持ちあげた両手は、彼の手を求めていた。汗ばんだ両手で、キティは夫の冷たい手をつかむと、それを自分の顔に押しあて始めた。

「行っちゃいや、ねえ、行っちゃいや! 私こわくないわ、そう、こわくなんかないわ! ママ、イヤリングをはずして。じゃまだから……」[これらのイヤリング、ハンカチ、手袋についた霜の針など、この小説の初めから終りまでにキティがもてあそぶ小さな品々の目録を作ること]。それからキティは突然、夫を自分のそばから押しのけた。

「だめ、ああ、たまらない! 死にそうだわ、死にそうだわ!」キティは叫んだ。

 リョーヴィンは頭をかかえて、部屋の外へ走り出した。

「大丈夫、なんでもないわよ、何もかもうまくいってるわ!」ドリーがうしろから声をかけた[ドリー自身はこれを七回も経験したのだ]。

 しかし、みんながなんと言おうとも、彼は今こそもう何もかもお終いだと思った。彼は戸口の柱に頭をもたせかけ、隣の部屋に突っ立ったまま、今までついぞ聞いたこともないような叫びと咆哮を聞いていた。そして、これはかつてキティであったものが叫んでいるのだということも知っていた。もうとうに彼は赤ん坊などどうでもよくなっていた。いや、今ではその赤ん坊を憎んでいた。それどころか、もう妻の命さえどうでもよかった。ただこの恐ろしい苦痛が終ってくれることだけを願っていた。

「先生! これは一体どうしたんです。ねえ、どうしたんです。ああ、たまらない!」出てきた医者の手をつかんで、リョーヴィンは言った。

「もう終りですよ」医者は言った。医者の顔つきは非常に真剣だったので、リョーヴィンは終り(・・)という言葉を、死ぬという意味にとった[もちろん医者の言葉は、「もうじきすむ」という意味である]。

 

 ここから、この自然現象の美しさを強調する部分が始まる。ついでながら注目していただきたいのは、文学的フィクションの全歴史を一つの発展過程として見るとき、それは次第に生命のより深い層へとメスを入れて行く作業だったということである。例えば紀元前九世紀のホメロス、あるいは紀元後十七世紀のセルバンテスが、このようにすばらしい分娩の細部を描くということは全く考えられない。問題は、ある種の出来事や感情が何らかの道徳や美学に適合するかどうか、ということではないのだ。私が言いたいのは、芸術家も科学者と同じように、芸術や科学の発展過程のなかにあって、つねに探究をつづけ、先行者と比べて、より多くを理解し、より鋭く明るい目でいっそう奥まで見通すということである。それこそが芸術の成果なのだ。》

 

<「燭台に灯る小さな炎」>

アンナ・カレーニナ』は生と死の大河であるからには、「出産小説」でもある(対称的に、リョーヴィンの兄ニコライの敬虔な臨終場面がある、そしてもちろんアンナの死も)。

 まず、ふたりの死んだ子供を数えれば七人の子持ちのオブロンスキーの妻ドリーが、夫の浮気騒動(和解させようと、オブロンスキーの妹アンナがペテルブルクからモスクワに汽車でやってきたのが、物語の始まりだった)の二ヶ月後に出産する(第二編第二章)が、その様子は、《先日やっと産褥(さんじょく)を離れたばかりなのに(冬の終りに女の子を生んだのである)》だけと極めてあっさりしている。

 次いで、アンナがヴロンスキーとの子供を出産する(第四編十七章)が、出産の場面こそないものの、主治医に、産褥熱で百のうち九十九までは助からない、と言われるほど重篤となる場面のドラマを、ナボコフはカレーニンの人物像の一端として簡単に紹介している。《アンナがヴロンスキーの子供を産んだあと、ひどく具合が悪くなって、臥せっているその枕許で、差し迫った彼女の死を覚悟した(そうはならないのだが)カレーニンは、ヴロンスキーを赦すと言い、真のキリスト教徒の卑下と寛容の気持をこめて彼と握手する。あとではいつもの冷ややかで不愉快な人格に戻るのだが、このときばかりは差し迫った死がこの場を照らし出し、アンナは無意識のうちにヴロンスキーとこの男を同じように愛していると思う。どちらもアレクセイという名の二人の男は、二人とも愛する配偶者として彼女の夢のなかで共存するのである。》

 そして、キティの出産の臨場感ある描写だ。

《我を忘れて、リョーヴィンは寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは産婆の顔だった。その顔は前よりもっと気むずかしく、きびしい表情を浮べていた。キティの顔はそこにはなかった。さっきまでキティの顔があった場所では、見るも恐ろしい何か別のものが切迫した表情を浮べ、すさまじい音を発していた[いよいよ美の局面の始まりである]。心臓が今にも張り裂けるような気がして、リョーヴィンはベッドの木枠に顔を押しあて、突っ伏した。恐ろしい叫び声はやまなかった。それはますます恐ろしくなっていったが、やがて恐怖の頂点に達したかのように、突然ぴたりとやんだ。リョーヴィンは自分の耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声は確かに静まり、静かなざわめきと、衣ずれの音と、あわただしい息づかいが聞えた。それから、とぎれがちではあるが、生き生きとした、優しい幸福そうなキティの声が、静かに「すんだわ」と言った。

 彼は顔をあげた。異様に美しい、おだやかな顔をした妻が、両手をぐったりと掛けぶとんの上に投げ出して、無言のまま彼を見つめ、ほほえもうとして、ほほえめずにいた。

 と、急にリョーヴィンは、この二十二時間を過してきた精神的な、恐ろしい、この世ならぬ世界から、たちまち元の住みなれた世界へ、しかし、今や新しい耐えがたいほどの幸福の光に輝いている世界へ、舞い戻ってきたような気がした。張りつめていた絃はすっかり断ち切られた、思いもかけなかった喜びの呻きと涙が猛烈な力で彼の身内にわき起り、その全身を震わせた……彼はベッドの前にひざまずいて、握りしめた妻の手を唇に引き寄せ、幾度となくそれに接吻した。するとその手はかすかに指を動かして、夫の接吻に答えるのだった。[この章全体はすばらしい形象の連鎖である。わずかな比喩表現があるとしても、それは直接的な描写に溶けこんでいる。さて、このあとは直喩による最終弁論といったところだろうか]。そのあいだもベッドの裾の方では、産婆の器用な手の中で、ちょうど燭台にともる小さな炎のように、一個の人間の生命が揺れ動いていた。それはこれまで全く存在していなかったものであるが、これからは……生きつづけ、自分に似た人間を産み出すだろう。(第七編、第十五章)

 

 のちにアンナの自殺の章で、彼女の死に関連して炎のイメージを私たちは見るだろう。死とは魂の解放(分娩)である。従って、子供の出産と魂の出産(死)とは、同じ神秘と恐怖と美の言葉によって表現される。この点でキティのお産とアンナの死とが結びつくのである。》

 

 ここでナボコフはアンナの自殺とキティの出産という、死と生を、炎のイメージで照応させている。こういった照応は、先に述べたスケート場の「白樺」に関する註釈や、後に出てくる森の「雷」による樫の梢の変形と競馬でのフルフルの背骨の変形との比較要請に、繊細な芸術家としての食指が動いている。

 

<「青い甲虫」>

《次に、リョーヴィンにおける信仰の誕生を、信仰誕生の苦痛を見てみよう。

 

 リョーヴィンは自分の思いに、というよりむしろ、それまで一度も味わったことのない精神的状態に耳をすましながら、広い道を大股で歩いていた。

[その前に一人の百姓との会話があり、その百姓が別の百姓について、あいつは自分の腹を肥やすことばかり考えていると言い、人は自分の腹のためではなく、真理のために、神のために、自分の魂のために生きなければいけないと言ったのである]。

《果しておれはすべての解決を見出したのだろうか、おれの悩みはもう終ってしまっただろうか》と、埃っぽい街道を歩きながらリョーヴィンは考えた……興奮のあまり息が切れ、歩きつづける気力がなくなったので、街道をそれて森へ入り、やまならしの木陰の、まだ刈られていない草の上に腰を下ろした。汗ばんだ頭から帽子をとり、片肘をついて、瑞々しい大きな葉をひろげている森の草の上に身を横たえた[ガーネット夫人はこの草を偏平足で踏みつけてしまった。「羽毛のように軽い草」ではない]。《そうだ、頭をはっきりさせて、よく考えてみなければ》と彼は考えながら、目の前のまだ人に踏まれていない草をじっと見つめ、かもじ草の茎をのぼって行く途中で、エゾボウフウの葉に行手をさえぎられている青い甲虫の運動に目を凝らした。《初めから順序立てて考えよう》[自分の精神状態について]彼は心のなかで呟き、小さな甲虫の邪魔にならぬようエゾボウフウの葉をとりのけ、甲虫が先へ進めるように別の葉を折り曲げてやった。《おれを喜ばせるものは何か。おれは何を発見したか》……《おれはただ自分でも知っていたことをはっきり認識しただけなのだ……おれは虚偽から解放されて、ほんとうの主人を見出したのだ》。(第八編、第十二章)

 

 しかし、私たちが注目しなければならないものは、そのような思想(・・)ではない。何はともあれ銘記すべきは、文学作品とは思想(・・)のパターンではなくて形象(・・)のパターンであるということなのだ。作品のなかの形象の魔力と比べれば、思想など何ほどのものでもない。ここで私たちを引きつけるのは、リョーヴィンの考えや、レオ・トルストイの考えではなくて、その考えの曲り目や、転換や、表示などをはっきりと跡づける、あの小さな甲虫なのである。》

 

 虫ということでは、第四編第五章で「蛾」が飛び交う。ナボコフ研究家でもある若島正が、『知のたのしみ 学のよろこび』という大学生向けの本のなかの、「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」で紹介している。

《ここは離婚を決意したカレーニンが、ペテルブルグにある有名な弁護士(名前は与えられていない――ここも巧みなところで、つまり弁護士はカレーニンにとってあくまで「弁護士」でしかないのである)の事務所に相談にやってくる場面だ。したがって、この章はカレーニンの視点で始まる。待合室は客で満杯で、自分から見れば身分下の人間たちとこうして恥ずかしい相談事のために同室しているのが、カレーニンのいらだちをつのらせる。(中略)

 そのとき、読者にとってはまったく予期しないことが起こる。突然、部屋の中に蛾が飛ぶのだ。

 

「どうぞお掛け下さい」弁護士は書類が積まれた書物机のそばにある肘掛椅子を指さして、机の後ろに陣取ると、短い指に白い柔毛がはえている小さな両手をもみ合わせて、首を傾げた。しかし彼が落ち着く間もなく、一匹の蛾が机の上に飛んできた。弁護士は、思ってもみないすばやさで、両手で蛾をつかまえてから、また前の姿勢に戻った。

 

(中略)この時点から、カレーニンと弁護士との力関係が微妙に変化する。そしてそれと同時に、視点もカレーニンから弁護士へと微妙に移動する。カレーニンの目から見る限り、離婚をめぐるごたごたは悲劇でしかないが、弁護士の目から見ればむしろ喜劇である。そこでこの第四部第五章は、トルストイにしては珍しく、彼の喜劇的才能を充分に発揮する方向へ進んでいく。その喜劇的な舞台まわしを務めるのが、この章で部屋の中をなんと三度も飛ぶことになる蛾なのだ。

 

 愉快でたまらないという表情を見せると依頼人が感情を害するかと思い、弁護士はカレーニンの足に視線を落とし、鼻先に飛んできた蛾を見て、つかまえようと手を出しかけたが、カレーニンの身分に対する遠慮から思いとどまった。

(中略)

「料金は値切りませんからとあの女に言っておけ!」と彼は言って、またカレーニンに戻った。

 ふたたび席に着く前に、彼はこっそり蛾をつかまえた。「この分じゃ、夏までにはおれのビロードもだいなしになるぞ!」と彼は眉をしかめながら考えた。

(中略)

 弁護士はうやうやしくお辞儀をしながら依頼人を送り出し、一人きりになると、愉快な気分にひたった。そしてひどく上機嫌になったおかげで、主義に反して、値切ろうとしたご婦人に料金をまけてやったし、蛾をつかまえるのもあきらめた。今度の冬になったら、シゴーニンのところみたいに、家具をフラシ天に張りかえようとついに決心したのである。

 

 われわれ読者はカレーニンの視点に立ってこの弁護士事務所に入っていったのだが、知らないうちに、出ていくときには、これで家具の張り替えができるとすっかりご満悦の弁護士の視点に立っている。これが蛾の効果だ。》

 

 そして若島はこう締めくくった。《小説を語るときには、細部を具体的に語ること。その心がけは、わたしがつねづね実践しようとしているもので、その意味では、神の存在に始まって世の中のほとんどすべての観念を信じない、リョーヴィンに似たわたしにとって、それが唯一信じられる生きた<思想>だと言えるのかもしれない。

 たとえ『アンナ・カレーニナ』のあらすじをすっかり忘れてしまったとしても、私は弁護士事務所の部屋の中を飛んでいた蛾のことをけっして忘れはしないだろう。そして、たとえその記憶だけを墓の中へ持っていったとしても、『アンナ・カレーニナ』が偉大な小説だったという思いは消えはしないだろう。》

 

<「雷」>

《いよいよ私たちはリョーヴィンの物語の最終部分――リョーヴィンの最終的な回心――にさしかかったが、ここでも形象を注意深く見守り、思想の積み重ねは放っておくことにしよう。言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない(・・・・・・)。

 リョーヴィンの領地で、客をまじえた家族一同が遠足に出掛ける。やがて帰りの時刻になる。

 

 キティの父親と、リョーヴィンの異父兄セルゲイは、荷馬車に乗って、帰ってしまった。残りの人たちは足を速めて、徒歩で家路に向った。

 しかし雨雲は白くなったり黒くなったりしながら見る間に頭上に迫って来たので、雨にならぬうちに家まで帰り着くには、もっと足を速めなければならなかった。煤をまぜた煙のようにまっ黒な低く垂れこめた先頭の雲は、恐ろしい速さで空を走っていた。家まであと二百歩ばかりのところで、一陣の風がまき起り、今にも驟雨が来そうな気配になった。

 子供たちはこわさと嬉しさがまじりあった叫び声をあげながら、先に立って駆け出した。ドリーは足にまといつくスカートと苦闘しながら、子供たちからいっときも目を放さずに、もう歩くというより駆け出していた。男たちは帽子を抑えながら大股に歩いていた。一行がやっと入口の階段のところまで来たとき、いきなり大粒の雨が鉄樋の端にあたって飛び散った。子供たちと、それにつづいて大人たちは、にぎやかな話し声を響かせながら、屋根びさしの下へ駆けこんだ。

「キティは?」頭巾や膝掛けなどを持って玄関の控え室で一行を出迎えた家政婦に、リョーヴィンは訊ねた。

「ご一緒だとばかり思っておりましたが」と老婆は答えた。

「じゃ、ミーチャは?」

「きっと森でございましょう、婆やと一緒に」

 リョーヴィンは膝掛けをひったくると、森めざして駆け出した。

 このわずかな間に、雨雲は完全に太陽を呑みこみ、あたりは日蝕のように暗くなった。風はあくまで己れを主張するかのように、執拗にリョーヴィンを立ち止まらせ[アンナの夜汽車の場面と同じ、風についての情緒的思いこみ。だが直接的な形象はまもなく比喩に変化するだろう]、菩提樹の葉や花をひきちぎり、白樺の枝を醜く異様なまでにあらわにし、アカシヤも、草花も、ごぼうも、雑草も、木々の梢も、何もかも一様に一方へ押し倒そうとした。庭で働いていた女中たちは金切声をあげながら、下男部屋のひさしの下へ逃げこんだ、降りそそぐ豪雨の白い帷(とばり)は、はやくも遠くの森と近くの畑の半分を覆って、見る見るうちにキティのいる森へと迫った。細かい雫に砕け散る雨の湿気が、大気の中に感じられた。

 頭をかがめ、頭巾をむしりとろうとする風と戦いながら[情緒的思い込みはまだつづいている]、リョーヴィンは走りつづけて森に近づき、樫の大木の蔭に何か白いものを認めたと思った。その瞬間、不意にあたりがぱっと明るくなって、地面が燃えあがり、頭上で空の丸天井が音を立てて裂けたかと思われた。一瞬くらまされた目をあけて、リョーヴィンはぞっとした。自分と森とを隔てている厚い雨の帷を透して、まっさきに見えたのは、森の中央の馴染み深い樫の青々とした梢だが、その位置が奇妙に変ってしまっているのである[競馬場で、障害物を跳び越えた馬が背骨を折ったとき、ヴロンスキーが「自分の姿勢が崩れた」と感じる、あの場面と比較せよ]。(第二編、第二十章)

《雷にやられたのかな》リョーヴィンが思う暇もなく、樫の梢はみるみる落下の速度を速めながら、ほかの木立の蔭に隠れた。と、ほかの木々に倒れかかる巨木のめりめりという轟音が耳に達した。

 稲妻と、雷鳴と、冷水を一瞬身に浴びたような感じは、リョーヴィンの中で恐怖という一つの印象に溶け合った。

「ああ神さま! あれたちの上に落ちませんように!」彼は口走った。

 すでに倒れてしまった樫の木の下敷きに妻子がならないようにという願いが、どんなに無意味なものかということはすぐ気づいたが、リョーヴィンはこの無意味な祈りのほかになすべきことを知らず、もう一度その言葉を称えた。……

 森の向う端にある古い菩提樹の木蔭から、妻子はリョーヴィンを呼んでいた。黒っぽい服(それはさきまで薄い色の服だった)を着た二つの人影が、何かの上にかがみこむようにしていた。それがキティと婆やだった。リョーヴィンが二人のそばへ走り寄ったときには、雨はすでに小降りになり、空は明るくなり始めていた。婆やの服は裾だけが濡れずにいたが、キティの服はずぶ濡れで、ぴったりと体にはりついていた。雨はもうやんだのに、二人はまだ雷が落ちたときと同じ姿勢で、緑色の幌をかぶせた乳母車の上にかがみこむように立ちすくんでいた。

「生きているんだね? 無事なんだね? ああ、よかった!」と彼は言い、水の入った、脱げそうになる靴で、水たまりの中をぴちゃぴちゃと駆け寄った……[彼は妻に腹を立てる]。二人は赤ん坊の濡れたおしめを集めた[雨に濡れたのか? その点ははっきりしない。神の怒りを思わせる豪雨が可愛い赤ん坊の濡れたおしめへと変形されてしまったことに注意せよ。自然の力は家庭生活の力に屈伏した。情緒的思いこみは幸福な家族の微笑みに席をゆずった]。(第八編、第十七章)》

 

 ナボコフトルストイの「時間」の扱いの素晴らしさを繰りかえし顕彰した(そればかりか実際の時間的データさえも解説して見せる)が、この場面のリョーヴィンは、下記の《トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる》のとおり、美しく巧みな自然描写と雷の下で、はっきりと目の前を、私の時間、時計に合わせて早すぎも遅すぎもなく、動きまわっているではないか。

《この作家が発見したことの一つで、不思議にも従来批評家たちが決して気づかなかったことがある。その発見というのは――トルストイはもちろん自分の発見を意識しなかったのだが――私たちの時の概念と非常に快適かつ正確に一致する生活描写の方法ということである。私の知る限りでは、トルストイは自分の時計を読者たちの無数の時計に合せた唯一の作家なのだ。(中略)トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる。(中略)してみれば年輩のロシア人たちが夜お茶を飲みながら、トルストイの作中人物のことをまるで実在の人物のように語るのも、もっともなことであろう。トルストイの主人公たちは、彼らにしてみれば、自分たちの友人に似ている人物であり、あたかも本当にキティやアンナと踊ったことがあるかのように、あるいは例の舞踏会でナターシャと出会ったかのように、あるいは行きつけのレストランでオブロンスキーと食事をしたかのように、はっきりと目の前に見える人物たちなのである。》

 何より心に留めおくべきなのは、そこに一緒にいるかのように幸せな気分が醸し出されることであろう。

 トルストイは、《他の作家たちのように遠くを通りすぎるのではなく、いつも私たちに歩調を合わせてくれる》のであり、《このことに関連して興味深いのは、トルストイが絶えず自分の個性を意識し、絶えず作中人物の生活に踏みこみ、絶えず読者に語りかけるにもかかわらず、彼の最高傑作のなかの何章かでは、作者の姿が見えなくなっているということである。つまりフロベールがあれほど激しく作家に要求した理想的に冷静な作者のあり方――決して姿を見せず、この世界の神のごとく遍在すること――に到達しているのである(筆者註:『アンナ・カレーニナ』はフロベールボヴァリー夫人』の二十年後に書かれた)。こうして私たちはしばしば、トルストイの小説が独りでに書かれているような感じを味わう。》

 その感じを味わってほしい。

 

<「銀河」>

 続いてナボコフは、キティが赤ん坊にお湯を使わせる場面(第八編第十八章)と、リョーヴィンが子供部屋を出て、一人きりになると、テラスに立ち止まって、暗い空を眺めながら思索するラストシーン(第八編第十九章)を引用する。

 ここに一ヵ所だけあげれば、

《リョーヴィンは、庭の菩提樹から規則正しく落ちる雫の音に耳を傾けながら、馴染み深い三角形の星座と、そのまんなかを通っている銀河とその多くの支流を眺めていた。[ここで一つの喜ばしい比喩が現れる。愛と洞察力に満ちた比喩である]。稲妻がひらめくたびに、銀河ばかりか、明るい星までが見えなくなるが、稲妻が消えると、まるで狙い誤たぬ手に投げ返されでもしたように、また元の場所に現れるのだった[この喜ばしい比喩がお分りだろうか]。(中略)

「あら、まだいらっしゃらなかったの」同じテラスを通って客間へ行こうとしていたキティの声が不意に耳に入った。「どうなさったの、何かいやなことでも?」キティは星明りで夫の顔をじっとのぞきこみながら言った。

 しかしそのとき稲妻が再び星の光を隠し、彼を照らさなかったら、キティは夫の顔をはっきり見分けることはできなかっただろう。稲妻の光で夫の表情を見きわめ、それが幸福そうな静かな表情であることを見てとると、キティはにっこり笑った[これがさきほど注目した喜ばしい比喩の実用的な後続効果である]。》

 ナボコフは、またしても神秘性と宗教性に接近する小説末尾の、《しかし今やおれの生活は、全生活は、おれにどんなことが起ろうと、それとは一切無関係に、生活の一分一分が、以前のように無意味でないばかりか、疑う余地なき善の意義をもっているのだ。おれにはその善の意義を生活に与える力があるのだ!》まで引用してから、

《こうして小説は終るが、この神秘的な調子はトルストイが創った作中人物の、というよりもむしろ、トルストイ自身の日記の一節のように私には見える。リョーヴィン―キティの家庭生活の物語は、この作品の背景であり、この作品のいわば銀河なのである。》と締めくくる。

 

 プルーストが「銀河」の「星や空」について言及している。短い「トルストイ」論のはじめで、《いまやバルザックトルストイの上に持ち上げられている。沙汰の限りだ。(中略)バルザックはやっとのことで大作家の印象を与えている、トルストイにあってはすべてがごく自然に大きい、山羊のかたわらの象の糞のように。》とバルザックを揶揄した後で、

《『アンナ・カレーニナ』の穫り入れ、狩猟、スケート等の大きな情景は、専用の大きな表面のようなものであり、残余に間隔をあけ、さらに広大な印象をもたらしている。ウロンスキイの二つの会話にはさまれた夏じゅう、見渡すかぎり刈りこまなければならない緑の牧草地であるかのようだ。この宇宙のなかの別のものを、もっとも個別的な諸情景を、競馬に出場する騎手の感情を(おお!、わが美女、わが美女)、窓ぎわの賭博マニアの感情を、野営地のにぎやかさを、狩猟好きの小地主の生活のにぎやかさを、ドイツの都会にいてロシヤの領主の結構な生活について語っている老シチェルバーツキイ公爵のにぎやかさを(遅く起床する、水のほとりの章、等)、『戦争と平和』における貴族の浪費家(ナターシャの兄)のにぎやかさを、老ボルコンスキー公爵のにぎやかさを、人々はこもごもに賞翫することになる。この作品は観察のではなく知的構築の作品である。観察によって決まったそれぞれの特徴は、小説家が明らかにしたひとつの法則、合理的もしくは非合理的法則の外装、証拠、実例にすぎない。力強さと生動感の印象は、まさしく、それが観察されたものではなく、それぞれのしぐさ、ことば、行為はひとつの法則の意味であるがゆえに、人びとは多数の法則のただ中に活動していると感じていることに由来しているのである。(中略)無尽蔵と見えるかような創造のなかで、ともかくトルストイは同じことを繰り返し、ごくわずかなテーマだけを、手を変え品を変え、別な小説のなかでは同じ形で、自家薬篭中のものにしたかに見える。レーヴィンがひとつの定点として注目している星や空は、ピエールが見た彗星、アンドレイ公爵の青い大空といくぶんかは同じものである。》

 そして記憶の作家プルーストは投げかける。《しかし、それにもまして、はじめはウロンスキイのために遠ざけられ、のちにキティーによって愛されたレーヴィンは、ピエールの兄のためにアンドレイ公爵から離れるものの、また元のさやに納まるナターシャを彷彿とさせる。馬車に乗って過ぎてゆくキティーと戦線の車中のナターシャにとって、同一の思い出が「ポーズを取って」いたのではあるまいか。》

 プルーストもまた『アンナ・カレーニナ』の「リョーヴィン―キティ」銀河を見ていたのだった。

                               (了)

         *****引用または参照文献*****

ウラジーミル・ナボコフナボコフロシア文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』小笠原豊樹訳(河出文庫

トルストイアンナ・カレーニナ木村浩訳(新潮文庫

*『世界文学大系37 トルストイ』(トーマス・マンアンナ・カレーニナ論』大山定一訳所収)(筑摩書房

トルストイアンナ・カレーニナ』望月哲男訳・解説(光文社古典新訳文庫

京都大学文学部編『知のたのしみ 学のよろこび』(若島正「蛾をつかまえる――『アンナ・カレーニナ』を読む」所収)(岩波書店

若島正「霜の針、蝋燭のしみ――『アンナ・カレーニナ』を読みなおす」(Chukyo English literature (25), 1-16, 2005-03-1)

*『プルースト全集15』(「トルストイ」所収)(筑摩書房

*『ロシア・フォルマリズム文学論集1』(ローマン・ヤコブソン「芸術におけるリアリズムについて」北岡誠司訳所収)(せりか書房

*『河上徹太郎全集2』(「アンナ・カレーニナ」所収)(勁草書房

*『小島信夫批評集成5 私の作家遍歴Ⅱ』(「目を細めるアンナ」等の『アンナ・カレーニナ』論所収)(水声社

文学批評 吉田修一『悪人』論 ――ドストエフスキー『罪と罰』から欠落したもの

 

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 吉田修一『悪人』に、ドストエフスキー罪と罰』の殺人場面の象徴である斜めからの夕日の光を照らす。と、そこには車のライトに照らし出された峠の絞殺と、パトカーの赤いライトに照らし出された灯台の未遂現場しかない。

 両者の差異を見ることで、『悪人』の怖さを解読する。

『悪人』には『罪と罰』と同じモチーフがあるが、それ以上に欠落したものも多い。「ないないづくし」ともいえるくらいだ。その欠落、「ない」ことに、『悪人』の真の怖さがある。より現代的でニヒルな怖さが。

 どのように怖いか、川上弘美が語っている。

《小説は、鳥瞰(ちょうかん)から始まる。国道の峠道をはるか上空から辿るうちに、いつの間にか視点は国道を走行する者のものとなる。

 四頁め。視点はぐっと一人の男に近づいてゆく。男は理容店をいとなんでいる。日曜日、男は鋏を使いながら、つれない妻のことや福岡に出て保険の外交員として働いている娘のことを思う。

 十頁め。視点は福岡にいる男の娘の周囲に移動する。仕事の倦怠。歓心をかいたい男のこと。意地悪な同僚のこと。読んでいると体が震える心地になってくる。恐ろしいことが書いてあるわけではない。歪みのない描写があるばかりだ。けれど、いやな予感がある。

 三十九頁め。男があらわれる。長崎からやってきたのだ。車を使って。金色に髪を染めている。視点が男に据えられるのはほんの三頁ほどである。怖い。怖いだけではなく、なんというか、しっかりとした手触りがある。

 四十七頁め。女が死ぬ。テレビのニュースが、その死を告げる。死んだ女の最後のぬくもりも血の匂いも、まだ感じられない。作中のどの女が死んだのかも、わからない。ひどく怖い。怖いけれど、どこか妙に気持ちいい。手触りの、ためだろうか。言葉を使って、そこにないものをはっきりとそこにあらわせる。

 優れた小説なのだと思う。殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく。

 殺されたという事実。殺したという事実。その事実の中にはこれほどの時間と感情の積み重なりと事情がつまっているのだということが鮮やかに描かれたこの小説を読みおえたとき、最後にやってきたのは、身震いするような、また息がはやまって体が暖まるような、そして鼻の奥がすんとしみるような、不思議な感じだった。

 芥川龍之介の「藪の中」読後の気分と、それは似ていた。よく書いたものだなあ、と思う。》

 最後にやってきた《芥川龍之介の「藪の中」読後の気分と、それは似ていた》とは、登場人物たちのポリフォニックな声と視点、矛盾しあう心象と記憶、善と悪の境界、加害者と被害者の交錯、といった重層的・錯綜的な意味合いではなかろうか。

(実のところ、なぜか川上の指摘は正確さにかけていて、早くも三頁めには、《この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ。》と殺された女の名前が出て来るし、十二頁めでその男は三瀬峠のカーブの路肩にあらわれているが、全体の色調として外れているわけではない。)

 

罪と罰』に言及した「辻原登書評『悪人』」がある。小説家辻原は『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』で、『罪と罰』を数回にわたって学生達に講義している「ドストエフスキー読み」でもある。

《◇渦巻くように動き、重奏する響き

 すべての「小説」は「罪と罰」と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひとつを前にしている。

 渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。

 脊振(せふり)山地を南北に貫く国道263号線の県境の山中にある三瀬(みつせ)峠。佐賀と長崎と福岡を結ぶ道路がここで交わる。峠道は鬱蒼(うっそう)とした樹々におおわれている。トンネルがある。

 二〇〇二年一月六日、九州北部で珍しく積雪のあった日、長崎の若い土木作業員が、福岡に暮らす若い女性保険外交員を絞殺し、この三瀬峠に遺棄したとして長崎県警に逮捕された。

 ……とこのように語り出された物語の鳥瞰(ちょうかん)的視点は、JR久留米駅近くの理髪店、被害者の実家の内部へと一気に急降下する。いましも、福岡の保険会社の寄宿舎にいる佳乃(よしの)が母親に電話を掛けてきたところで、屈託ない長話になる。数時間後に彼女は殺される。

 この殺人には二人の男が絡んでいる。大学生の男が彼女をクルマで三瀬峠まで乗せ、首を絞め、ドアの外へ蹴り出し、そのあと土木作業員が……。

 二人の男は見知らぬ同士で、被害者だけが二人を知っている。いったい何があったのか。

 警察の捜査を中心に、被害者と二人の男に関わりのある人々が、作者のストーリィ・テリングの才腕によって闇の中から次々と呼び出され、息せき切って、渦巻くように動き出す。日常(リアル)をそのまま一挙に悲劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致という至難の業がここに完璧に実現した。

 主題(内容)とは、惹(ひ)かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とはそれをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。

   祐一はまるで逃げるように病院を出て行った。駐車場へ向かう祐一の姿が、月明かりに照らされていた。すぐそこにある駐車場へ向かっているはずなのに、美保の目には、彼がもっと遠くへ向かっているように見えた。夜の先に、また別の夜があるのだとすれば、彼はそこ(・・)(傍点評者)へ向かっているようだった。

 そこ(・・)に待っているのは、すべての視点をひとつに束ね、引き受ける作者のそれである。殺人者祐一はラストで、作者の終末からの視点、哀しみと慈しみにみちたまなざしの中へと迎えられ、消えてゆく。

 祐一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだが、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貧しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激しく変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛(たた)えた視点、つまり神の視点を獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。

 最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛(かいしゅん)のはてから絞り出される祐一の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコーリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。》

  

<「土地」>                                                                       

罪と罰』の冒頭は、「観念と狂気の都市、ペテルブルク」「黙示録の都市、ペテルブルク」「酷暑の七月」(亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)からなる。

《七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろとK橋の方へ歩きだした。

 彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建ての建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸(なんど)に近かった。(中略)

 通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルグ人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、――こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。》

 

 川上弘美書評の《小説は、鳥瞰から始まる》、とは「土地」を見る神の目に読者を同一化させる。

 吉田は「波 E magazineNami インタビュー」の「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る 【前篇】」でこんなことを言っている。

《――吉田さんと小説の打合せをすると、必ず土地とか地図の話になりましたね。

吉田 そのへんは相変わらずですよ。『湖の女たち』でもそうでしたけど(注・地名は変えているが琵琶湖周辺が舞台)、小説を書く時、土地がいちばん味方になってくれるんですよ。土地は裏切らない、みたいな(笑)。

 ――地図は普通の地図をご覧になる?

吉田 最近は Google マップとかも見ます。昔はぴあMAPとか好きでした。

 ――ストリートビューなんかも?

吉田 大好きで止まんなくなります。

 ――Google マップは『東京湾景』の頃にはなかったのに、吉田さんの小説は俯瞰や高低差があるというか、三次元的に土地を捉えている感じを受けます。

吉田 「パーク・ライフ」で、風船にカメラをつけて公園を写すところがあるんです。まだドローンがない時に書いたのが自慢(笑)。僕の地図というか、街の見方は高度も入っている気はします。》

 

 小説冒頭はこうだ。

《263号線は福岡市と佐賀市を結ぶ全長48キロの国道で、南北に脊振(せふり)山地の三瀬(みつせ)峠を跨(また)いでいる。

 起点は福岡市早良(さわら)区荒江交差点。取り立てて珍しい交差点ではないが、昭和四十年代から福岡市のベッドタウンとして発展してきた土地柄にふさわしく、周囲には中高層のマンションが建ち並び、東側には巨大な荒江団地がひかえている。(中略)

 この荒江交差点を起点に早良街道とも呼ばれる263号線が真っすぐに南下する。街道沿いにはダイエーがあり、モスバーガーがあり、セブンイレブンがあり、「本」と大きく書かれた郊外型の書店が並ぶ。ただ、何店舗かあるコンビニだけを注意して見ていくと、荒江交差点を出てしばらくは通りに面して直接店舗の入口があるのだが、それが野芥(のけ)の交差点を過ぎた辺りから、店先に一、二台分の駐車場がつくようになり、その次のコンビニでは五、六台分、そのまた次のコンビニでは十数台分と駐車場の規模が広がって、室見川(むろみがわ)と交わる辺りまでくると、いよいよ大型トラックも楽に数台停められる広大な敷地の中に、小箱のようなコンビニの店舗が、ぽつんと置かれたようになってしまう。》

 ダイエーモスバーガーセブンイレブンといったありきたりすぎる固有名詞と、コンビニの駐車場の規模が、日本中どこにでもあるデ・ジャヴな「土地」を、しかし「観念と狂気の都市」でも「黙示録の都市」でもない郊外のうすら寒い日常を裸でさらけ出す。

 ここで突然、「時間」の要素が割り込む。「酷暑の七月」ではなく、雪がちらつく「真冬の夜」、どこか忙しいがぽっかりと生活活動が真空になる年末年始という季節感とともに。

「土地」は、欲望の脈打つ動脈のようにぷっくらと膨れあがり、どくどく蠢く。わずか三頁めで、「事後の物語」となってしまうのだが、そこから「事前」と「事後」のショットが「回想」を交えさせて「時間」を往き来する。

《二〇〇二年一月六日までは、三瀬峠と言えば、高速の開通で遠い昔に見捨てられた峠道でしかなかった。

 敢えて特徴づけるとしても、トラック運転手にとっての節約の峠道、暇を持て余した若者たちにとっての胡散臭い心霊スポットのある峠道、そして地元の人にとっては、事業費五十億円を投じた巨大トンネルが開通した県境の峠道でしかなかったのだ。

 しかし、九州北部で珍しく積雪のあったこの年の一月初旬、血脈のように全国に張り巡らされた無数の道路の中、この福岡と佐賀を結ぶ国道263号線、そして佐賀と長崎とを結ぶ高速・長崎自動車道が、まるで皮膚に浮き出した血管のように道路地図から浮かび上がった。

 この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ。

 九州には珍しい積雪のあった日で、三瀬峠が閉鎖された真冬の夜のことだった。》

 

 主人公清水祐一と友人柴田一二三(ひふみ)が待ち合わせする長崎市近郊の漁港辺りのパチンコ店も、どこにでもある「土地」だった。流木のような祐一。

《パチンコ店「ワンダーランド」は、街道沿いに忽然とある。海沿いの県道が左へ大きくカーブした途端、下品で巨大な看板が現れ、その先にバッキンガム宮殿を貧相に模した店舗が建っている。

 誰が見ても醜悪な建物だが、市内のパチンコ店に比べると、出玉の確立が高いので、出末はもちろん、平日でも大きな駐車場には、まるで砂糖にたかる蟻のように、多くの車が停められている。》

 祐一は佐賀にいる光代とメールでつながる。思い出される単調な風景に、寂しさがつのる。

《祐一は車で何度か走ったことのある佐賀の風景を思い描いた。長崎と違い、気が抜けてしまうほどの平坦な土地で、何処までも単調な街道が伸びている。(中略)

 道の両側には本屋やパチンコ店やファーストフードの大型店が並んでいる。どの店舗も大きな駐車場があり、たくさん車は停まっているのに、なぜかその風景の中に人だけがいない。

 ふと、今、メールのやり取りをしている女は、あの町を歩いている人だ、と祐一は思った。とても当り前のことだが、車からの景色しか知らない祐一にとって、あの単調な町を歩くとき、風景がどのように見えるのか分からなかった。歩いても歩いても景色はかわらない。まるでスローモーションのような景色。いつまでもいつまでも打ち上げられない流木が見ているような景色。(中略)

 寂しいと思ったことはなかった。寂しいというのがどういうものなのか分かっていなかった。ただ、あの夜を境に、今、寂しくて仕方がない。寂しさというのは、自分の話を誰かに聞いてもらいたいと切望する気持ちかもしれないと祐一は思う。これまでは誰かに伝えたい自分の話などなかったからだ。でも、今の自分にはそれがあった。伝える誰かに会いたかった。》

 

<部屋>

 ラスコーリニコフとソーニャの部屋は饒舌な表象を纏っている。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《小説の第一部で作者は五階建てアパートの最上階にあるラスコーリニコフの屋根裏部屋は「戸棚」を思わせた、と書き、その後、三度にわたって「船室」をイメージしている。ロシアの文化学者トポロフは、この「船室」の比喩に難破船救出のイメージを重ね、「救済のモチーフ」が込められているという。ところが、彼の屋根裏部屋はやがて新たな比喩に出会うことになる。彼の下宿を訪ねてきた母親のプリヘーリヤが思わずこう声をあげるのだ。

「おまえの部屋、ほんとにひどいったらないわね、ロージャ、まるで棺桶ですよ」

 屋根裏部屋と棺桶の対比は、ラスコーリニコフと「ラザロの復活」の話の導入とみなすのが妥当である(「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」)。

 しかしここでは、別の文脈での解釈を試みているチホミーロフの意見を紹介したい。彼によれば、ラスコーリニコフの部屋と棺桶の対比は別の意味をもっており、主人公の青年は、「悪霊」につかれた男のイメージとして読めるという。

「イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、家に住まないで墓場を住まいとしていた」(「ルカによる福音書」八章二十七節)

 棺と部屋のイメージ的な連関は何もラスコーリニコフの屋根裏部屋に限られるわけではない。印象的なのは何よりも、ソーニャの住んでいるアパートの形状に対する作者のこだわり方である。これははたして何を意味しているのだろうか。むろん、ドストエフスキーが執筆当時、このような部屋をじっさいに目にしていた可能性もあるが、主人公ラスコーリニコフの部屋を「戸棚」「船室」、さらには「棺桶」と二重写しさせてきた手法を思い起こした場合、そこに何かしら不吉な暗示を感じないわけにはいかない。

「ソーニャの部屋はどこか物置小屋を思わせるところがあり、たいそう不均衡な方形をなしていて、そのせいか、なにかしらいびつな印象を与えた。窓が三つある運河に面した壁が、斜めに部屋を区切るような感じで、そのため一つの角が恐ろしくとがり、どこか奥の方までつづいていたので、ろうそくのとぼしい灯では、はっきりと見きわめられなかった。逆にもういっぽうの角は、ぶざますぎるほど間のびしていた」

 わたしは、ここに墓地のイメージを見てとる。それはなぜか。

 わたしの直感では、この長細い台形に二重写しされているのは棺である。》

 

 ひきかえて『悪人』に出てくる「部屋」は無味乾燥で、人間の匂いが乏しい。何もないことが怖いのだ。

 母が祐一の祖母房枝と姉妹にあたる矢島憲夫(のりお)は、解体業を営み、そこで祐一を働かせている。

《潰れた座布団に腰を下ろすと、憲夫は部屋の中をぐるりと見渡した。古い土壁には、すっかり黄ばんでしまったセロハンテープで、いくつかの車のポスターが貼ってあり、床には同じく車関係の雑誌があちこちに積まれている。

 正直、それ以外、何もない部屋だった。若い女のポスターがあるわけでもなし、テレビも、ラジカセもない。

 あるとき房枝が、「祐一の部屋はここじゃなくて、自分の車の中やもん」と言っていたが、この部屋を見ると、房枝の言葉が大げさではなかったのがよく分かる。》

 光代の部屋は、「不自由のない部屋だった」、「居心地のいい部屋だった。」

《家賃四万二千円の2DK。2DKと言えば聞こえはいいが、六畳間が二つ、襖(ふすま)で仕切られているだけの間取りのアパートで、光代たち姉妹のほかは、すべて小さな子供のいる若夫婦ばかりだ。》

 それだけである。あえて付け加えれば、佐賀駅で待ち合わせした光代と祐一が入る「個性的なことを強調するが故に個性を消されてしまった」ラブホテルの一室がこの小説の世界を表象している。

《狭いエレベーターで二階へ上がると、目の前に「フィレンツェ」と書かれたドアがあった。

 噛み合わせが悪いのか、祐一が何度か鍵を回してやっとドアが開く。開いたとたん、眩(まぶ)しいほどの色が目に飛び込んでくる。壁は黄色く塗られ、ベッドにオレンジ色のカバーがかけられ、白い天井が丸く刳(く)り貫(ぬ)かれてフレスコ画もどきの絵がはめ込んであるが、新鮮味だけがない。

 中に入って光代は後ろ手でドアを閉めた。強い暖房と通気の悪い空気のせいで、汗が滲(にじ)み出しそうだった。》

 

<夕日と車のライト>

 ドストエフスキー作品では、夕日が大きな意味をなす。『罪と罰』の第一部第一章。ラスコーリニコフの家の門からちょうど七百三十歩にある老婆の家へ下見に出かけたラスコーリニコフ

《老婆は思案しているらしく、しばらく黙っていたが、やがてわきへ身をひいて、奥の部屋のドアを指さし、客を通しながら、言った。

「お入りなさい、学生さん」

 青年が通されたのは、小さな部屋だった。黄色い壁紙がはってあり、ゼラニウムの鉢植(はちうえ)がいくつかおいてあって、窓にモスリンのカーテンが下がっていたが、ちょうどそのとき入日をまともに受けて、明るく染まった。《あのときも、きっと、こんなふうに日がさしこむにちがいない!……》だしぬけにこんな考えがラスコーリニコフの頭に浮かんだ。》

 第一部第五章、子供時代に馬が鞭や鉄棒で滅多打ちされて殺される場面を夢に見て、老婆殺しを決行しようとしていた自分を嫌悪し、堪えられぬ、と思う。

《彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください。わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》

 橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映(ゆうば)えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々(もろもろ)の魔力から、妖術(ようじゅつ)から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!》

 ところが、この直後に、運命に絡めとられ、遠まわりすることで、夕方七時にはリザヴェータが不在だと偶然に聞き知り、ついに決行に及んでしまう。 

 第三部第六章、老婆殺人を思い起こす夢の中では夕日ではないが、斜めから差し込む赤い月の光がある。

《彼はそっと、爪先立(つまさきだ)ちで客間へ入った。月の光が部屋中に冷たくさしこんでいた。すっかりもとのままだ。椅子(いす)、鏡、黄色いソファ、額の絵。大きな、まるい、銅のように赤い月がじっと窓をのぞきこんでいた。》

 辻原登は『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』で、この部分を引用した後、《夕日は斜めの光、『罪と罰』あるいはドストエフスキーの作品の中では最も重要なモチーフです。斜めの光。作品の重要な場面には斜めの光が差しています》と指摘する。ついで、『悪霊』の第二部付録の「スタブローギンの告白」の少女凌辱事件において、夕日が斜めに差し込んでこなければこの場面は成立しないとし、《この斜光は、何度も言うように楽園や神、自由、不死、永遠、そういう場所からやって来る非物質的な、形而上的な光です。この光が斜めに差して魂へと届く。そこでは何が起きているかというと、残酷な殺人や、少女凌辱、おぞましい醜悪な行為が行われている。ドストエフスキー的な展開になります》と語ってから、よく知られる柳田國男『山の人生』冒頭「山に埋もれたる人生ある事」の、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が子供を二人まで鉞(まさかり)で斫(き)り殺す文章に差し込む夕日について語ってゆく。悪を照らし出す光であると同時に、人間を聖化する光。

 

 ところが、吉田修一『悪人』に夕日はない。三瀬峠の佳乃殺人現場では増尾アウディのテールランプとルームライト、祐一のスカイラインのヘッド・ライトであり、灯台での光代殺人未遂場面ではパトカーの赤いライトと警官たちの懐中電灯の交差する光に過ぎない。悪を照らすでもなく、聖化する夕日の光ではなく、無機質なだけにより怖ろしい光。

「第四章 彼は誰に出会ったか?」、祐一は増尾と佳乃の乗ったアウディを追う。

 

《どれくらい走ったのか、男の車が急停車したのは峠の頂上に差し掛かる場所だった。祐一は慌ててブレーキを踏んで、ライトを消した。真っ暗な闇の中、赤いテールランプが、まるで巨大な森の赤い眼光のようだった。

 祐一はハンドルを握ったまま、じっと森の赤い眼を見つめていた。峠だけが呼吸しているようだった。次の瞬間、車のルームライトがついた。光の中、佳乃と男の影が動いた。あっという間だった。ドアが開き、佳乃が降りようとした。その背中を男が蹴ったのだ。路肩に崩れ落ち、後頭部をガードレールで強打した。(中略)

 男の車が去って、どれくらい経ったのか、祐一は恐る恐る車のライトをつけた。光は佳乃が蹲った場所まで届かなかったが、それでも冬の月光よりも役には立った。

 サイドブレーキを下ろし、かすかに足をアクセルに乗せた。峠の道を照らす青いライトが、水が染みるような速度で、佳乃の元へ近づいていく。

 ライトがはっきりと佳乃の姿を捕らえたとき、青白い光の中で佳乃は怯え、光の中を見ようと、必死に目を細めていた。

 再びサイドブレーキを引いて、祐一は運転席のドアを開けた。佳乃が身構えるように、バッグを抱ききかえる。

「大丈夫?」(中略)

 何もかもが一瞬の出来事だった。血の気が引いた。ライトの前にしゃがみ込んでしまった佳乃の顔を、強いライトが照らし、髪の毛一本一本が逆立っていた。

「ご、ごめん。……」

 痛みに顔を歪めた佳乃が、やっと抜けた指を握り、奥歯を噛み締めている。

「人殺し!」》

「最終章 私が出会った悪人」の灯台の管理小屋の場面、保護された派出所の窓から逃げ帰ってきた光代。

《光代の肩を抱いて、管理小屋に入ろうとすると、ふと足を止めた光代が、麓から一列になって林道を上がってくるパトカーの赤いライトに気づく。赤いライトの列は、確実に灯台に近づいていた。いくつものサイレンがこだまする。祐一は光代の背中を押した。(中略)

 管理小屋のガラス窓から、赤いライトが差し込んでくる。差し込む赤いライトが、泣き濡れた光代の頬を染める。赤いライトに気づいた光代が、祐一にしがみつこうとする。警官たちの足音が近づいてくる。

「俺は……、アンタが思うとるような、男じゃない」

 祐一はしがみつこうとする光代のからだを乱暴にベニヤ板の上に倒した。

 光代の短い悲鳴が響く。警官たちの懐中電灯が、ガラス窓の向こうで交差している。そのとき祐一は光代のからだに馬乗りになり、その冷たい首筋に手をかけた。

 目を見開いた光代が、何か叫ぼうとする。祐一は目を閉じた。光代の首筋にかけた手に力を込めた。背後でドアが開く。いくつもの懐中電灯が、そんな二人の姿をとらえた。》

 

<観念、思想、イデオロギー、宗教>

罪と罰』の「ナポレオン主義」「非凡人と凡人の二つの階層論」「プルードン理論」「フーリエ主義」といった、ラスコーリニコフによる老婆殺しの「事前」に鬱屈していた観念、イデオロギー、あるいは空想、妄想は、「事後」にラスコーリニコフの口から予審判事ポリフィーリーへの弁明やソフィーへの告白で饒舌なまでに繰りかえし説明されるのだが、『悪人』の祐一には大上段の観念、思想も、自分を語る言葉も欠落している。入退院を繰り返す祖父の面倒見、偶然の運命的な殺人行為、不器用な心優しさ、母親に見捨てられた家庭環境による情状酌量を鑑みて、親鸞の「悪人正機」に思いを馳せるむきもあろうが、「悪人」とは、の問いかけはあっても、「悪人なおもて」ということでもなさそうである。

 同様に、『罪と罰』で、ソフィーや第四部第四章の「ラザロの復活」といった「事後」のキリスト教、宗教のモチーフも『悪人』には決定的に欠落している。あえて言えば、祖母房枝が被害にあった悪質な健康食品セミナーの勧誘と押し売りに卑俗な社会現象がみてとれるといったところか。

 ここにも、「ない」ことの不毛がある。そして繰り返すが、近代的な人間意識が「ない」ことの現代的な怖さが。

 

<事前の物語なのか事後の物語なのか>

 亀山郁夫『『罪と罰』ノート』に、《思えば、『罪と罰』を事前の物語として読むか、事後の物語として読むか、で根本から意味は変わる。老女殺害は、早くも第一部で起ってしまう。圧倒的な数の読者にとって『罪と罰』は、事後の物語であるはずである。すなわち、主人公ラスコーリニコフは真に生まれ変われるのか。しかし、もしこのように『罪と罰』を事後の物語としてのみ読むならば、老女殺害の動機を探ることにはあまり意味がないことになる。》

 第一部は、全体の約六分の一にすぎない。

 

 一方、『悪人』は全体約四百頁のわずか三頁めで、《この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ》とあるからには、圧倒的に事後の物語である。しかし、殺人に至る事前の物語が事後の物語に回想的に挿入され、殺人そのものは三百頁めでようやく描写されるというミステリアスに読者を引っ張る構成になっている。しかも、事前の物語における殺害動機は不透明で、事後の物語でも主人公祐一ははじめて人に信じられる経験を持ちはしても、真に生まれ変わるというところまで物語は進まない。

 

<夢>

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《ドストエフスキーの小説には、夢の記述がひんぱんに登場する。しかし、この『罪と罰』ほど夢の記述が多い小説はほかにない。登場人物たちのそれぞれが、夢を見ることで異界との触れあいをもつ。(中略)『罪と罰』の読者にとって、迫害され、惨殺される百姓馬のモチーフほど衝撃的な場面はない。フロイトユングも存在していない時代、ドストエフスキーがどこまで、「科学的な」夢の解析に通じていたかわからないが、彼は自分なりの直観にしたがって小説と夢の調和的な関係を築きあげていった。そして、老女殺害を計画するラスコーリニコフを、恐ろしいサディズムに興じる酔っ払いたちを見つめる少年時代の時分だけではなく、荒れ狂う若者たちに重ネワわせていた。》

 

 しかし、祐一はまったくと言ってよいほど夢をみない。唯一は、灯台の場面。

《光代は寝袋を出ると、まだ二人の体温の残る寝袋をベニヤ板の上にきちんと畳んだ。祐一がペットボトルの水でうがいをする音につられて外へ出ると、目の前に日を浴びた眩(まぶ)しい海が広がり、カモメが低い空を飛んでいく。

「きれかねぇ」

 思わず見とれて呟いた。口の中の水を足元に吐き出した祐一が、「そういえば、昨日の夜、夢見た」と照れ臭そうに言う。

「夢? どんな?」

 光代は裕一の手からペットボトルを奪った。

「光代と一緒に暮らしとる夢。ほら、昨日、寝る前に二人で話したろ? 住むならどんな家がいいかって。そこに住んどる夢」

「どっち? 一戸建て? マンションのほう?」

「マンションのほう。……でも夢の中で、光代にベッドから蹴り落とされたけど」

 祐一がそう言って短く笑う。光代はペットボトルの水を一口飲むと、「だって、寝袋の中でほんとに蹴ったもん」と言い返した。》 

なんとも慎ましい夢なのだが、この夢はファッションヘルスで知り合って、その気になった祐一がアパートを借りた途端、姿をくらました女、美保とのエピソードを思い起させる。友人の柴田一二三(ひふみ)が語る。

《要するに女とは何の約束もしとらんのですよ。ただ、ヘルスの部屋で、こういう暮らしがしてみたいって女の夢物語を聞いとっただけ。祐一って、本当に昔からそういうところがあるんですよ。起承転結の起と結しかないっていうか、承と転は自分勝手に考えるだけで、その考えたことを相手に告げもせん。自分の中では筋道が通っとるのかもしれんけど、相手には伝わらんですよ。「こんな仕事辞めて、祐一くんみたいな人と、小さなアパートで暮らせたらいいなぁ」って女に言われて、まずアパートを借りてしまうんですよ、アイツは。》

 幼くして別れて暮らすことになった母親と一緒に住みたい、という隠れた願望があるのだろう。

 

<運命/偶然>

《橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映(ゆうば)えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々(もろもろ)の魔力から、妖術(ようじゅつ)から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!》

 この後、「偶然」という「運命」が介入してくるのだが、辻原登が頁を割いているので、『罪と罰』本文引用は略して、辻原の解説のみ引用する。

《ところが、ここに偶然が介入します。(中略)

 なぜラスコーリニコフは遠回りをするのか。彼自身、犯行後に考えてみたけれどもわからなかった。自由になったのだから、普通なら疲れていたら真っすぐ下宿に帰って、寝て、新しく人生を始めようとするのに、なぜか彼は遠回りになるセンナヤ広場に向かった。理由が自分でもわからない。ラスコーリニコフにはわからない。作者の問題です。

 なぜ作者は彼を遠回りさせたのか。センナヤ広場を通ることによって、老婆の義理の妹のリザヴェータが町人夫婦と会話しているのを立ち聞きすることになります。リザヴェータは義理の姉にいじめ抜かれていますが、天使のような人で一切不平を言わない。ところが、周りの人たちがあまりに気の毒に思って、自分で商売ができるように手伝ってくれます。

 彼女たちの仕事は質屋ですが、同時に倒産したり、一家離散で夜逃げした人たちが残した家財道具などをまとめて安く買って、それを中古品として販売するような商売をしています。雑貨を売っていた町人夫婦にセンナヤ広場でリザヴェータが会って、その商売の件で<明日の夕方七時に私のうちにいらっしゃい。それはお姉さんには黙っていらっしゃい、わかるとまたいじめられるから>と言われて、<じゃあ、行きます。七時ですね>と応えるのを、ラスコーリニコフが聞く。(中略)

 ここで、ラスコーリニコフは再びあの計画を実行することを決めます。なぜドストエフスキーラスコーリニコフに遠回りさせたのか、それは、リザヴェータがいないことを偶然に聞くという犯行のきっかけをラスコーリニコフに与えるために、つまりストーリーのために遠回りをさせた。この偶然がラスコーリニコフの運命になります。》

 さて、辻原は自身の『冬の旅』は『罪と罰』を意識して書いた小説だが、書き方はまるで違う、と前置きしてから、

《殺人を犯すラスコーリニコフは、小説の冒頭から内面を持った人間で、さまざまなことを考えて、虫けらのような老婆を殺しても自分は許されるという、弁論を用意し、実際に殺人を犯すところから始まります。

 私が考えたのは、人間は最初から内面なんか持っていない、持っているかのように書くのが近代小説で、それはフィクションだ。実際にはわれわれは確固たる内面を持っていて、あらかじめ存在しているわけではない。

 人が人を殺そうとするとき、自由な選択によってその行為が成されているのだろうか。自由な選択ができる人間というのは、確固とした内面を持っていることが前提になる。内面が他者の目に見えるものになったとき、それを行動という。行動には動きや声がある。内面の自由な選択、それが動機と呼ばれる。しかし、どうもこの人間観はうさん臭い。近代の最大のフィクションではないだろうか。現実の裁判も、こうした人間観にもとづいている。》

 

 川上弘美が「怖い」と言ったのは、近代的な「内面」「動機」「自由」の欠落ゆえだろう。

 吉田『悪人』の犯罪は、もとより確信犯ではなく、偶然の運命に導かれている。『罪と罰』と違うのは、導かれたのが犯人の祐一ではなく、裕福な大学生増田が尿意をもよおして、祐一と佳乃が待ち合わせしていた東公園に立寄ったことだった。立小便という、それだけのことが祐一の殺人のきっかけだった。そして光代が餃子を食べてニンニク臭かったことがさらなる誘引となって。

 無罪放免された増尾が、天神にある行きつけのカフェに友人たちを集めて、戦果報告する場面から。

《「あの夜さ、なんか無性にイライラしとってさ、お前らそういうことない? これといった理由もないとに、なんかこうムカムカきて、一ヵ所にじっとおれんような夜とか」

 増尾の言葉に集まった若い男たちが頷く。

「な? あるやろ? あの夜がまさにそうで、とにかく車でもかっ飛ばそうと思うて出かけたわけよ。途中、小便しとうなって東公園に寄ったら、そこであの女と偶然ばったり」

「あの女と面識あったと?」

 一番近くに座っていた男が、テーブルに身を乗り出すようにして訊いてくる。

「ああ、あった。 なぁ? 鶴田とかも知っとるよな? ほら、天神のバーで知り合うた、保険会社で働いとるとかいう、女三人組で、なんか垢抜(あかぬ)けん奴ら。あんとき一緒やったヤツもおるやろ?」

 増尾の問いかけに、何人かがやっと思い出したように、「ああ」と声を漏らす。

「あの中の一人。なんかそのあともしつこうメールとか送ってきてさ。あ、そうそう、さっき調べたらあの女からのメールまだ残っとった。見るや?」

 三瀬峠で殺された女からのメールを見るか? と自慢げな増尾に訊かれて、みんながテーブルに身を乗り出してくる。一瞬、鶴田は虫唾が走るような嫌悪感を覚えたのだが、集団の勢いに押されて、何も言い出すことができなかった。

 ポケットから出した携帯を弄(いじ)りながら、「でな、とにかくあの夜、この女と偶然会うて、車に乗せたっちゃん。まぁ、それが間違いの始まりで……」と増尾が話を続ける。

「なんかさ、どよーんとした目つきで俺のことを見るわけ。どっか連れてって、て目で。こっともムシャクシャしとるし、この尻軽女どっかに連れてって一発かませばすっきりするかなぐらいの気持ちで車に乗せたんやけど、乗せたとたん、餃子(ギョーザ)食うてきたらしく、息は臭かし、一気にテンション下がってさ。結局、三瀬峠まで走ったあと、いい加減、我慢できんようになって、置き去りにしてやった」》

(ところで、尿意を催して東公園の公衆便所に入った増尾は、個室から出てきた同世代の男の素性を理解し、酔いに任せて「しゃぶらせちゃろか?」と笑いかけるが、「フン、おめぇがしゃぶれ」と鼻で笑われ、さらに苛立ちが増す。吉田の小説にはゲイがよく登場するが、『悪人』にはフェラチオの場面が多い。祐一はその公衆便所で男に背後に立たれたことがある。はじめてのホテルで光代の喉に祐一は性器を突き刺した。鶴田はエロビデオのフェラチオシーンで精を放つ。)

 

<佳乃とリザヴェータ/光代とソーニャ>

 追われる男を愛する女、殺人者と救済する女ということでは光代はソーニャに相当する。運命、偶然によって殺されてしまった佳乃は、老婆の妹で、不在なはずが居合わせて殺されるリザヴェータに相当する。

リザヴェータの意外な裏事情を知ると、佳乃が出会い系サイトで不特定多数と性的関係を持っていたことと結びついて興味深い。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《リザヴェータがたえず妊娠しているという、酒場で耳にした話がある(「しかし、学生がおどろき、大笑いした点というのは、リザヴェータがひっきりなしに妊娠しているという事実だった……」)。(中略)

 ヴィスバーデン版、すなわち『罪と罰』(この段階では「告白」)一人称形式による「中編小説」として書かれつつあった段階で、ドストエフスキーは、このリザヴェータに、妊娠六ヵ月目というディテールを付け加えていたのである。そしてその「妊娠」の理由について彼は、ザメートフの原型であるバカービンとリザヴェータが「できていた」事実をナスターシャに暴露させている。そこでのやりとりを紹介しよう。

「なに? やつが? そんなばかな?」ラズミーヒンは叫んだ。

「そうなの。彼女、あの人に下着まで縫ってやっていた。で、やっぱり一文もくれてやらなかったけれどね」

「そんなことぜったいにあるもんか」ラズミーヒンは叫んだ。「彼女には、別の男もいたんだぜ。知ってるんだ」

「ええ、もしかして三番目もいたかもよ、いや、もしかして四番目だって」ナスターシャはそう言って笑いだした。「なんでも言うことをきく女だったのよ……いろんな遊び人があの人を弄んだの。見つかった赤ちゃんは、そいつらのよ……」

「赤ちゃんて?」

「解剖の結果わかったの。六月目だったんだって。男の子でね。死んでたそうよ」

 現在わたしたちが読むことのできる最終稿とくらべ、恐ろしくリアルな描写といわざるをえない。リザヴェータに対し、検死が行われたという事実は、最終稿ではむろん一行も触れられていない。》

 

 ラスコーリニコフがソーニャを訪ね、すべてを「告白」する。と、ソーニャとリザヴェータが同一化する。

《「つまり、ぼくはその男(・)の親しい友人だということになるわけだ……知っているとすればね」ラスコーリニコフはもう目をそらすことができないように、執拗に彼女の顔に目をすえたまま、話をつづけた。「その男はリザヴェータを……殺す気はなかった……老婆が一人きりのときをねらって……行った……ところがそこへリザヴェータがもどって来た……男はそこで……彼女も殺したんだ」

 さらにおそろしい一分がすぎた。二人はじっと目を見あったままだった。

「これでもわからないかね?」と彼は不意に、鐘楼からとび下りるような気持で、尋ねた。

「い、いいえ」とほとんど聞きとれぬほどにソーニャはささやいた。

「ようく見てごらん」

 そう言ったとたんに、また先ほどのあの感覚が、不意に彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た、そして不意にその顔にリザヴェータの顔を見たような気がした。彼はあのときのリザヴェータの顔の表情をまざまざと思い出した。彼が斧を構えてにじりよったとき、彼女は片手をまえにつき出して、壁のほうへ後退(あとずさ)りながら、まるで子供のような恐怖を顔にうかべて、彼におびえた目を見はったのだった。それはちょうど小さな子供が急に何かにおびえたとき、じっと不安そうにおびえさせたものに目を見はり、ながら、いまにも泣き出しそうになって、小さな手をつき出して相手を近づけまいとしながら後退る、あの様子にそっくりだった。ほとんどそれと同じ状態がいまのソーニャにも起った。やはりさからう力もなく、やはり恐怖の表情をうかべて、彼女はしばらく彼を見つめていたが、不意に、左手をまえにつき出して、指をわずかに相手の胸にふれながら、ゆっくりベッドから立ちあがり、すこしずつ身をそらし、相手にすえつけた目はしだいにすわってきた。彼女の恐怖が不意にラスコーリニコフにもつたわった。まったく同じような恐怖が彼の顔にもあらわれ、同じようにソーニャの顔に目をすえはじめた。その顔には同じような子供っぽい(・・・・・)微笑さえうかんでいた。

「わかったかね?」と、彼はとうとう囁(ささや)くように言った。

「ああ!」という悲痛な叫びが彼女の胸からほとばしった。》

 

 ラスコーリニコフの告白の冷静さに比べて、『悪人』の祐一の告白はあまりに幼い。

 灯台を見に行く途中、呼子(よぶこ)の海沿いに立つ民宿兼レストランの二階で、光代は仕事をさぼり、丸一日自由な時間を得たことに、知らず知らずに興奮して、イカの美味に熱弁を奮うが、

《ふと前を見ると、祐一が肩を震わせ、目を真っ赤にしている。慌てて、「ど、どうしたと?」と声をかけた。

 テーブルの上で祐一の拳が強く握りしめられ、音を立てるほどに震えている。

「……俺、……人、……殺してしもた」

「え?」

「……俺、ごめん」

 一瞬、祐一が何を言ったのか分からず、光代はまた、「え? 何?」と素っ頓狂な声を上げた。

 祐一は俯いたまま、テーブルで拳を握りしめるだけで、それ以上のことを言わない。涙目で肩を震わせ、「俺、……人殺してしもた」と漏らしたきり、それ以上のことを言わない。安物のテーブルに、硬く握りしめられた祐一の拳があった。本当にすぐそこにあった。(中略)

「……本当はもっと早う、話さんといけんやった。けど、どうしても話せんやった。光代と一緒におったら、何もなかったことになりそうな気がした。何もなくなるわけないとし……。今日だけ、あと一日だけ光代と一緒におりたかった。昨日、車の中で話そうと思うた。でも、ちゃんと最後まで話せるか自信がなかった」(中略)

 白い皿には色鮮やかな海藻が盛られ、見事なイカが丸一匹のっている。イカの身は透明で、下に敷かれた海藻まで透かして見える。まるで金属のような銀色の目が、焦点を失って虚空を見つめている。まるで自分だけでも、この皿から逃れようと、何本もの脚だけが生々しくのた打っている。(中略)

「……あの晩、ちゃんと待ち合わせしとったとに、あの女、別の男とも同じ場所で会う約束しとって。『今日、あんたと一緒におる時間ない』って言われて、その男の車に乗ってしもうて、そのままどっかに行ってしもうた。……俺、バカにされたようで悔しくて、その車、追いかけて……」》

 皿の上のイカが、虚空を見つめている銀色の目が、のた打つ脚が、告白する祐一のようでもある。

 光代と佳乃は同一化したか。光代と佳乃は、二人とも同じように首を絞められはする。しかし、光代への絞殺未遂は確信からであり、その動機は様々な解釈(あえて光代を逃亡共犯者ではなく被害者に仕立てたのか)が可能であり、佳乃殺しと違って衝動的なものではない。祐一の告白はどこまで真実なのか嘘なのか計り知れないところがあるけれども、内面も動機も光代の首を締める祐一の手に存在する。母親への愛憎・確執から、自分が母の被害者ではなく、母への復讐の「加害者」である、という烙印を押したという読みも匂わせている。

 ここに「佳乃-母―光代」の三角形を見ることができる。

 そして、深層心理的な母殺しがある。

 映画では申し訳程度(駄目な母親像)に残された母への「回想」を見てゆく前に、『悪人』ならではのテーマをおさえておく。

「嘘」と「灯台」だ。

 

<嘘>

「第一章 彼女は誰に会いたかったか?」は、川上弘美が《十頁め。視点は福岡にいる男の娘の周囲に移動する。仕事の倦怠。歓心をかいたい男のこと。意地悪な同僚のこと。読んでいると体が震える心地になってくる。恐ろしいことが書いてあるわけではない。歪みのない描写があるばかりだ。けれど、いやな予感がある。》という「彼女」こと佳乃の無邪気な「嘘」の連続だ。ほとんど毎頁のような他愛もない嘘によって彼女は運命に近づく。「咄嗟」が運命を決定してゆく。祐一の殺人もまた咄嗟の行為ではなかったか。

《その晩、増尾からメルアドを訊かれたのは事実だった。だが、それ以来、何度か彼とデートをしているという佳乃の話は嘘(うそ)だった。》

《天神のバーで知り合ったとき、佳乃は三人の中で自分だけがメルアドを訊かれたことを誇りに思っていた。その誇りがつい、「ねぇ、増尾くんからメールきた?」という沙里の質問に、「うん、きたよ。今週末会う」という咄嗟(とっさ)の嘘をつかせてしまった。》

《もちろん増尾が沙里のことを嫌っているなど真っ赤な嘘だった。ただ、ときどき佳乃はなんでもすぐ真に受ける眞子に、他愛もない嘘をつき、その反応を楽しむことがあったのだ。》

《佳乃はまたポテトサラダに箸を伸ばした眞子を眺めながら、「仲町鈴香のこと、あの子、増尾くんのことが好きらしいっちゃんね。それで私にライバル心持っとるんよ」と言った。

 咄嗟に出た嘘だったが、これが思わぬ索制になりそうだった。万が一、増尾と同じ学校に通う友人から、鈴香が何か知り得たとしても、この嘘が鈴香の真実を嫉妬からの負け惜しみに変えてくれる。》

《「どこで待ち合わせしとうと?」

 前を歩く眞子に訊かれ、佳乃は一瞬迷って、「えっと、吉塚駅前」と嘘をついた。まさか二人がこっそりとあとをつけてくるわけもないのだが、これから増尾と会うと嘘をついているので、なんとなく警戒したのだ。》

 

「第四章 彼は誰に出会ったか?」の、時間が遡った殺人事件当夜、祐一は「早く嘘を殺さないと、真実の方が殺されそうで怖かった」と嘘をつく佳乃の喉を押さえつける手に力を込める。

《「人殺し!」

 祐一が肩に手を置いた途端、佳乃がそう叫んだ。祐一は思わず手を引いた。

「人殺し! 警察に言ってやるけんね! 襲われたって言ってやる! ここまで拉致(らち)されたって! 拉致られて、レイプされそうになったって! 私の親戚に弁護士おるっちゃけん。馬鹿にせんでよ! 私、あんたみたいな男と付き合うような女じゃないっちゃけん! 人殺し!」

 佳乃が叫ぶ。まったくの嘘なのに、祐一はなぜか膝が震えて止まらなかった。

 佳乃はそれだけ言い放つと、痛む指を握って歩き出した。車の周囲を離れれば、街灯もない峠道で、すぐに佳乃の姿は闇に呑まれる。「ちょ、ちょっと、待てって」と祐一は声をかけたが、それでも佳乃は歩いていく。

 佳乃の足音が遠ざかる闇の中へ、祐一はたまらずに駆け込んだ。

「嘘つくな! 俺は何もしとらんぞ!」(中略)

「人殺し! 助けて! 人殺し!」

 佳乃の悲鳴が峠の樹々を揺らす。佳乃が声を上げるたび、祐一は恐ろしさに身が震えた。こんな嘘を誰かに聞かれたら……。

 祐一は目を閉じていた。佳乃の喉を必死に押さえつけていた。恐ろしくて仕方なかった。佳乃の嘘を誰にも聞かせるわけにはいかなかった。早く嘘を殺さないと、真実の方が殺されそうで怖かった。》

 

灯台

 はじめに「灯台」という単語が登場するのは、第一章「彼女は誰に会いたかったか?」の、博多湾の埋め立て地に建つラブホテルで、祐一が佳乃の半裸の写真をとろうとして、「三千円ならいいよ」と言われ、携帯のボタンを押し、門限があるからと佳乃に言われたときだ。このときにはまだ「灯台」がキーワードだと読者は知らない。

《ホテルの駐車場から遠くに福岡タワーが見えた。首を伸ばして眺めようとする祐一を、「ちょっと、急いでって」と佳乃が急(せ)かした。

「福岡タワーの展望台に上ったことあるね?」

 面倒臭そうに、「子供のころ」と答えた佳乃が、早く車に乗りこむように、と顎(あご)でしゃくる。祐一は、「あれ、灯台みたいやね」と言おうとしたが、佳乃はすでに助手席に乗り込んでいた。》 

 

 次に「灯台」が出て来るのは第三章「彼女は誰に会ったか?」で、事件から九日が経っていた。祐一にメールが来る。

《<こんにちは。覚えてますか? 二ヵ月くらい前にちょっとだけメールをやりとりした者です。私は佐賀に住んでいる双子の姉で、そのときあなたと灯台の話で盛り上がったんだけど、もう忘れちゃいましたか? 急なメールでごめんなさい>》

 そこから二人のメールは「灯台」の話題をめぐる。

《<私も。ねえ、あれからどこか新しい灯台行った?>

<最近ぜんぜん行っとらん。週末も家で寝てばっかり>

<そうなんだ。ねえ、どこだっけ? 前に薦(すす)めてくれた奇麗な灯台って>

<どこの灯台? 長崎? 佐賀?>

<長崎の。灯台の先に展望台がある小さな島があって、そこまで歩いて行けるって。そこから夕日見たら泣きたくなるくらい奇麗だって>

<ああ、それやったら樺島(かばしま)の灯台やろ。うちから近いよ>(中略)

《佐賀にもある? 奇麗な灯台

 すぐに送られてきたメールに、<あるばい。佐賀にも>と祐一は送り返した。

<でも唐津のほうやろ? うち市内のほうやけん>》

 

 逃避行の末、二人は有田で車を乗り捨て、なかなか踏ん切りがつけられない祐一に、「灯台に行こうよ」と提案したのは光代だった。電車とバスを乗り継いでやって来た。

灯台は断崖の下に広がる海を見下ろしていた。鎖の張られた手すりの向こうに道はなく、真下から激しい波音が聞こえる。眼前の風景を眺めていると、ここが行き止まりというよりも、この先、どこへでも行ける気がした。》

 

<母>

 まず、祐一の祖母房枝を巡って。

《この房枝と、今はほとんど寝たきりの夫、勝治(かつじ)の間には、重子(しげこ)、依子(よりこ)という二人の娘がいる。長女重子は現在、長崎市内で洒落(しゃれ)た洋菓子店を営む男と所帯を持ち、二人の息子はそれぞれ大学に通わせたあと独り立ちさせている。房枝によれば、「ぜんぜん心配のいらんほうの娘」になる。一方、次女の依子が祐一の母親なのだが、こちらがどうも落ち着かない。若いころ、市内のキャバレーに勤めていた男と結婚し、すぐに祐一を産んだはいいが、祐一が小学校に上がるころには男が出奔、仕方なく祐一を連れて実家に戻り、その後、祐一を房枝たちに押しつけて家を出た。今では雲仙の大きな旅館で仲居をしているらしいが、祐一にとっては、そんな両親に連れ回されるよりも、造船所で長年勤め上げた祖父と祖母に育てられ、結果的にはとかったのではないかと憲夫は思っている。なので祐一が中学に上がるとき、彼らが祐一を養子にすると言い出したとき、憲夫は真っ先に賛成したのだ。》

《房枝は自分が作り与える食事で、一人の少年が一端の男に成長していく姿を、呆れながらも感嘆の思いで眺めてきた。

 男の子に恵まれなかったこともあるが、娘たちのときには味わえなかった何か、女の本能のようなものを、孫を育てていくうちに感じている自分に気づいた。

 もちろん当初は、実の親である次女の依子にどこか遠慮していたところもあった。しかし、その依子がまだ小学生の祐一を置いて、男と姿を消してからは、これで自分が祐一を育てられるのだと、娘の不貞を嘆きながらも、力の漲ってくる思いがあった。房枝は五十歳になろうとしていた。

 男に捨てられた依子に連れられて、この家にやってきたとき、祐一はすでに母親を信じていないように見えた。口では、「お母さん、お母さん」と甘えてみせるのだが、その目はもう依子を見ていなかった。》

 

 つい数日前に出会ったばかりなのに、仕事が終るころには居ても立ってもいられなくなって、車で佐賀に向かい、わずかな時間、紳士服「若葉」の駐車場に入って、車の中で抱き合った。朝早い祐一につらい思いをさせたくないという光代の気持ちから、十時を回ったころ長崎へ戻る帰り道で信号待ちの祐一は回想する。

《あれはまだ祖父母の家に連れて来られる前、おふくろと市内のアパートに住んでいた。ある日、「今からお父さんに会いに行くよ」と、とつぜんおふくろが言った。喜んで支度をして、一緒に路面電車に乗った。「駅に着いたら汽車に乗り換えるけんね」とおふくろは言った。「遠いと?」と尋ねると、「ものすごー、遠いよ」と答えた。

 混んだ路面電車で、おふくろは吊り革を摑んだ。俺はそのスカートを摑んだ。電車が走り出すと、前に座っている男たちが、互いの肩を突き合いクスクスと笑い出した。剃(そ)り忘れたおふくろの腋毛を笑っているらしかった。おふくろは顔を真っ赤にして腋をハンカチで隠した。暑い日だった。混んだ電車は大きく揺れて、おふくろのハンカチがずれるたびに、男たちが笑いを堪えた。

 JRの駅について、汽車に乗り換えた。揺れる路面電車で必死に腋を隠していたおふくろは、水を浴びたように汗だくだった。切符を買おうと混んだ窓口に並んでいるとき、俺は、「ごめんね」と謝った。おふくろはきょとんとして首を捻り、「暑かねぇ」と微笑むと、俺の鼻に浮んだ汗を、そのハンカチで拭ってくれた。》

 とつぜん背後でクラクションを鳴らされて我に返った祐一は発車してラジオをつけると、三瀬峠の殺人事件で指名手配されていた男が名古屋で捕まって、取り調べを受けているとのニュースが流れる。

 祐一は、石橋佳乃を三瀬峠へ連れて行ったあの男が、今日名古屋で捕まった、と呟いているのに、なぜか昔、一緒に親父に会いに行った日の情景が思い出される。

《親父が出ていったばかりのころ、おふくろは毎晩のように泣いていた。心細くて横に座ると、俺の頭を撫でながら、「嫌なことはぜ~んぶ忘れてしまおうねぇ。一緒にぜ~んぶ忘れてしまおうねぇ」とますます声を上げて泣いた。

 おふくろと一緒に乗った列車の窓からは、海が見えた。座ったのが山側の座席で、海側の座席にはお揃いの帽子をかぶった小学生の兄弟とその両親が座っていた。首を伸ばして、海を見ようとすると、うとうとしていたおふくろが目を覚まし、「ほら、ちゃんと座っときなさいよ。危ないけん」と頭を押さえた。「着いたら、海ならいくらでも見られるけん」と。

 どれくらい乗っていたのか、気がつくと、おふくろと同じようにうとうとしていた。

「ほら、降りるよ」と、とつぜん腕を摑まれて、寝ぼけたまま列車を降りた。駅からしばらく歩いた。着いたところはフェリー乗り場だった。

「ここから船に乗って、向こうに行くけんね」

 フェリー乗り場の駐車場には、たくさんの車が並んでいた。この車も全部、一緒にフェリーに乗るのだとおふくろは教えてくれた。

 列車の中でおふくろが言った通り、目の前には海があり、遠くに対岸の灯台が小さく見えた。灯台を見たのはあのときが初めてだった。》 

 ポケットで携帯が鳴って、警察の人が来ていると、祖母が震える声で伝えて来て、反射的に祐一は電話を切った。別れたばかりの光代に会いに佐賀に戻り、光代に「あのまま高速に乗って帰るはずやった。けど、昔のこと思い出してしもうて「子供のころ、おふくろと一緒に親父に会いに行ったことがあって……、そのときのこと」と言葉をつなぐ。

 

 憲夫の言葉(独白なのか、祐一逮捕後の刑事による質問への答えなのか、こういった断章を吉田は巧みにはさんでポリフォニックな効果を出す)。

《あの日、祐一はフェリー乗り場に置き去りにされたとですよ、結局、翌朝までじっと一人で待っとったらしかです。切符ば買いに行くって言うて、そのまま逃げた母親ば、フェリー乗り場の桟橋の柱に隠れて、朝までずっと待っとったらしかです。

 翌朝、係員に見つけられたとき、祐一はそれでも動こうとせんやったって。「母ちゃんがここにおれって言うたもん!」って、その人の腕に噛みついたって。

 置き去りにする前に、母親が言うたらしかとですよ。「向こうに灯台の見えるやろう?」って、「あの灯台ば見ときなさい」って。「そしたらすぐお母さん、切符買うて戻ってくるけんね」って。》

 結局、母親が連絡して来たのは一週間後で、児童相談所家庭裁判所の世話になって、祖父母が二人を引き取って、それからまたすぐ母親が男作って逃げ出して。

 それでも親子とは不思議で、祐一は年に一回あるかないか、祖母に内緒で母に会って食事をしているという。

 

《「置き去られるもの」 中沢けい 『悪人』書評

 過去の出来事が奇妙な形で凝固し、その人の行動規範を作ってしまうことがある。『悪人』の登場人物・清水祐一はフェリー乗り場で母親に置き去りにされた経験をもつ。突然の「置き去り」の原因がわからない。自分が何か悪いことをしたから、母親に嫌われたのではないか…。少年は加害と被害の関係を反転させてみる。しかし、憶測は現実に追いつくことはない。この居心地の悪さが、彼の生を大きく左右する。

 後年、母親の抱く罪悪感を知った祐一は、「欲しゅうもない金」を彼女から毟り取るようになる。加害と被害の反転が形にされたのである。それは善意ではない、単なる独りよがりかもしれない。彼はこの矛盾について他人の理解を求めなかった。だが、たとえそれが矛盾に満ちた行為であったにせよ、過去の関係を清算し、再び出会いたいという願いの現われでなかったと誰が言えよう。

 清水祐一は「置き去られる人」である。懇意にしていたヘルス嬢にも、出会い系サイトで知り合った保険外交員の女にも彼は捨てられる。そして、その度に彼は「加害者」に転じようとするのだ。後者はこの小説の駆動軸である殺人事件となる。だが、激情と混乱のなかで祐一が殺害行為に及んだのは確かだとしても、被害と加害の反転という「不気味」な範型は、はっきりと顔を覗かせている。

 そんな祐一が「一緒におって! 私だけ置いてかんで!」という女の叫びをいかに聞いたか。既に殺人事件は起きてしまっており、捜査の網は確実に狭まっている。彼は「置き去る人」になろうとしていた。女の首を絞める。逮捕後の供述では、自分は変質者であり、女は利用しただけだと答える。彼はやっと出会えた人にいま自分ができることを考えていた。「あの人は悪人やったんですよね?」ラストを締めくくる女の語りに浮かぶ疑問符は、みずからに向けた説得に近い。皮肉に結ばれた一本の線が悲しい。

 ところで、忘れてならないのは、登場人物のほとんどが実は「置き去られるもの」だと言えることである。非人格の「悪人」がどこかにいるのではないか。この作品は「何か」から置き去りにされていく現代人の寂しさと苛立ちを、「皮膚に浮き出した血管のように」脈打たせている。吉田修一の目はひどく抽象的なものを追うが、小説家の本来の姿とはそういうものかもしれない。『悪人』はその命題をも問う力編となった。》

 

 東公園で、どうだったか。

《佳乃は一度も振り返らずに、男の車に乗ってしまった。走り出した車は紺色のアウディで、どんなローンを組んだとしても、祐一には手の出なかったA6だった。

 がらんとした公園沿いの並木道を、男の車が走り出す。凍えた地面に白い排気ガスがはっきりと見えた。

 自分が置き去りにされたのだと、祐一はそこで初めて気づいた。それほどあっけない一幕だった。置き去りにされたと思うと、とつぜん全身の皮膚を破るような血が立った。怒りでからだが膨張するようだった。

 祐一はアクセルを踏み込んで、車を急発進させた。(中略)

 祐一は更にスピードを上げ、男の車の横を走った。ハンドルを握りながら、車の中を窺うと、助手席に座った佳乃が、満面の笑みを浮かべて喋(しゃべ)っていた。一言、謝ってほしかった。約束を破ったのは佳乃なのだから、一言謝ってほしかった。》

 母への「回想」が、三瀬峠の「嘘」に割り込む

《「嘘つくな! 俺は何もしとらんぞ!」

 叫びながら駆け込むと、立ち止まった佳乃が振り返り、「絶対に言うてやる! 拉致されたって、レイプされたって言うてやる!」と叫び返してくる。真冬の峠の中なのに、山全体から蝉の声が聞こえた。耳を塞ぎたくなるほどの鳴き声だった。

 自分でも何に怯えているのか分からなかった。ここまで拉致された。レイプされた。佳乃の言葉はまったくの嘘なのに、まるで自分がそれを犯してしまったようで、血の気が引いた。必死に、「嘘だ! 濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ!」と、心の中で叫ぶのだが、「誰が信じてくれる? 誰がお前のことなんか信じてくれる?」と真っ暗な峠が囁(ささや)きかけてくる。

 そこには暗い峠道しかなかった。証人がいなかった。俺がここで何もしていないということを証明してくれる者がいなかった。婆さんに、「俺は何もやっとらん!」と弁解する自分の姿が見えた。「俺は何もやっとらん!」と、自分を取り囲む人々に叫び続ける自分の姿が見えた。そのときふいに「母ちゃんはここに戻ってくる!」とフェリー乗り場で叫んだ、幼い自分の声が蘇(よみがえ)った。誰も信じてくれなかったあのときの声が。(中略)

「……俺は何もしとらん」

 佳乃の両肩を強く押さえた。痛みに声を漏らす佳乃が、それでも噛みつくように、「誰があんたのことなんか信じるとよ!」と叫ぶ。

「人殺し! 人殺し! 人殺し!」》

 

 ここには、「象徴的」な意味での「母殺し」がある。

罪と罰』に「母殺し」を見てとる読みがある。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《カリャーキンが興味深い指摘を行っている。ナポレオン主義の理論にしたがって老女を殺し、「偶然」にリザヴェータを殺したラスコーリニコフの行為は、母殺しであるというのだ。

「たとえ偶発的であるにせよ、世界の文学にこれほどの規模をもった母殺しの小説がほかにあるだろうか」(中略)

 そこに現われるのは、彼があるとき呪わしいものと感じた母―ドーニャ―ラスコーリニコフの三角形に代わる、リザヴェータ―ソーニャ―ラスコーリニコフの新しい三角形である。そして彼は、現実のレベルではリザヴェータを、象徴的なレベルにおいては母親をそれぞれ殺すのである。》

 

<もっと早く会っていれば>

『悪人』では祐一が。そしてラストシーンで光代が。

 祐一はニュースで男が捕まったと知り、祖母から警察の人が来ていると連絡が入ると、母とフェリー乗り場に行って見た灯台を思い出して、光代のアパートに舞い戻ったのだが、

《アパートの階段から、暗い車内でハンドルに突っ伏している祐一が見えた。車のライトが汚れたポリバケツを照らしている。

 光代は階段を下りたところで思わず足を止めた。目の前の光景が幻覚のように思えたのだ。会いたいと思う気持ちが、こんな光景を見せているのではないかと。

 それでもゆっくりと近寄ると、足元で砂利が鳴った。光代は運転席のガラスを指先で叩いた。叩いた瞬間、祐一がビクッと起き上がる。「どうしたと?」と光代は声を出さずに尋ねた。その口元を見つめている祐一の目が、どこかとても遠い場所を見ているようだった。

 光代はもう一度ガラスを叩いた。叩きながら「どうしたと?」と目で尋ねた。それに答えるように祐一が目を逸らす。光代はまたガラスを叩いた。しばらくハンドルを握ったまま俯(うつむ)いていた祐一がゆっくりとドアを開ける。光代は一歩あとずさった。

 車を降りてきた祐一が、何も言わずに光代の前に立つ。光代はその顔を見上げながら、「どうしたと?」とまた訊いた。

 通りを車が一台走っていく。路肩の雑草がその風圧で激しく揺れる。そのときだった。祐一がとつぜん光代を抱きしめた。あまりにとつぜんで、光代は短い声を上げた。

「俺、もっと早う光代に会とればよかった。もっと早う会っとれば、こげんことにはならんやった……」

 抱きしめる祐一の胸から声がする。》

 

 最終章。逃避行の終着、灯台で。

《「ねぇ、一つだけはっきりさせとっていい?」

 光代の言葉に、祐一が少し緊張する。

「祐一が、私を連れて逃げとるんじゃないんやけんね。私が祐一に頼んで一緒に逃げてもろうとるんやけんね。誰に訊かれても、そう言うとよ」

 光代の言葉をどう理解すればいいのか分からないようで、祐一が眉間に皺を寄せる。光代はまるで自分が別れの言葉を発したような気分になって、思わず祐一の胸に顔を押しつけた。

「私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に終わって、あっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年……。私、今まで何しとったとやろ? なんで今まで祐一に会えんかったとやろ? 今までの一年とここで祐一と過ごす一日やったら、私、迷わずここでの一日ば選ぶ……」

 祐一に髪を撫でられながら、光代はそこまで言うと、絶え切れずに鼻を啜(すす)った。ポケットから出されたばかりの祐一の手が、まるで毛布のように温かい。

「俺だって、光代との一日ば選ぶよ。あとはもうほんとに何もいらん。……でも、俺、なんもしてやれん。光代のこと、いろんな所に連れてってやりたかったけど、どこにも連れてってあげられん」

 光代は裕一の胸に頬を押しつけた。

「……俺ら、あと何日くらい一緒におられるやろか」

 祐一が寂しそうにそう呟く。その直後だった。断崖に張られた鎖の上に、粉雪が一つ落ちて、とけた。》

 小説中で、もっとも抒情的な場面といってよい。

 

罪と罰』ではソーニャが。第五部第四章。ソーニャへの告白の場面。

《もういつからか忘れていた感情が、波のようにおしよせて、たちまち彼の心をやわらげた。彼はそれにさからわなかった。涙が二粒彼の目からこぼれでて、睫毛(まつげ)にたれ下がった。

「じゃ、ぼくを見すてないでくれるね、ソーニャ?」と彼はすがるような気持で彼女を見まもりながら、言った。

「ええ、ええ、いつまでも、どこまでも!」とソーニャは叫んだ。「あなたについて行くわ、どこへでも! ああ、神さま!……わたしはどこまで不幸なのでしょう!……どうして、どうしてもっと早く来てくださらなかったの! ああ、悲しい!」

「だから、来たじゃないか」

「いま頃(ごろ)! ああ、いまさらどうしよう!……いっしょに、いっしょに!」彼女はわれを忘れたようにこうくりかえすと、また彼を抱きしめた。「流刑地(るけいち)へだってあなたといっしょに行くわ!」

 

 ラスコーリニコフからの直接の言葉はないが、シベリアの収容所での、寄り添う二人が言葉以上に語る。これもまた美しい場面だ、ドストエフスキーにしては甘すぎるくらい甘い。しかも『悪人』とは違って、自首、判決の事後であり、未来が見えている。

《不意に彼のそばにソーニャがあらわれた。彼女は足音を殺してそっと近よると、彼のよこに腰を下ろした。まだひじょうに早く、朝の冷たさがまだやわらいでいなかった。彼女は古いみすぼらしい外套(がいとう)を着て、緑色のショールをかぶっていた。顔にはまだ病後のやつれがのこっていて、痩せて、蒼白(あおじろ)く、頬(ほお)がこけていた。彼女は愛想よく嬉しそうに、にっこり彼に微笑(ほほえ)みかけたが、いつもの癖で、おずおずと手をさしのべた。

 彼女はいつも彼におずおずと手をさしのべた。ときには払いのけられるのではないかとおそれるように、ぜんぜん手を出さないことさえあった。彼はいつもさも嫌(いや)そうにその手をとり、いつも怒ったような顔をして彼女を迎え、どうかすると、会ってもはじめから終りまでかたくなに黙りこんでいることもあった。彼女はすっかり彼におびえて、深い悲しみにしずみながらもどって行ったことも、何度かあった。しかしいまは二人の手は解けなかった。彼はちらと素早く彼女を見ると、何も言わないで、俯(うつむ)いてしまった。彼らは二人きりだった。誰も見ている者はなかった。看守はそのとき向うをむいていた。

 どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突きとばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝(ひざ)を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真(ま)っ蒼(さお)になった。彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に愛していることを、そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった……》

 

ボードレール悪の華』>

 川上弘美書評の《ひどく怖い。怖いけれど、どこか妙に気持ちいい。手触りの、ためだろうか。言葉を使って、そこにないものをはっきりとそこにあらわせる。》とは、吉田修一ボードレール悪の華』を愛読して来たことと関係があるだろう。

 

「作家の読書道 第二十八回 吉田修一さん」(WEB本の雑誌)から。

《【人生を変えた詩集】

――本に興味を持ち始めたのはいつごろですか?

吉田 : 小学校や中学でも読んではいたんですけど、好きで読んでいるというより、あるから読んでいるという感じでした。高校1年のころ、新潮文庫なんかに入っている詩集を読み始めたんですよ。文章というものがおもしろいなあと思ったのは、そのときが最初だったと思います。どちらかというと体育会系の人間だと思っていたので、そういうのに手が出なかったんですけど、たまたま手にとった何冊かがおもしろくて、「自分はこういうものをおもしろいと思えるんだなあ」と発見したというか。ランボーボードレール萩原朔太郎中原中也など手当り次第に読んでいました。

――初めて詩集を手にしたときの状況をお聞かせください。

吉田 : たぶん放課後にどこかへ行こうとしてたんでしょうね。学校の図書室で待ち合わせをしていて、友達が来ないのでぶらぶらしていたときです。それから図書室へよく行くようになりました。誰でも読んでいるような有名な詩集ばかりですけど。たぶんあれを読んでいなかったら、小説なんか書いていないだろうし、ほんとに文章というか文学がまさか好きになれるとは思っていなかったので、あの経験はけっこう大きかったかもしれませんね。

――その中で核をなすもの、これははずせない1冊は?

吉田 : この1冊というのはないんですけど、当時引いた線が最も多いのはボードレールですね。

――今でもときどき読み返しますか?

吉田 : 年に何度か、気がつくとパラパラとめくってますね。煮詰まっているときに多いです。》

 

「【人気作家にきく】『アンジュと頭獅王』吉田修一さんインタビュー・前編|「本が人生に与えてくれるもの」」から。

《――高校時代は?

吉田 文科系ではなかったですね。水泳部に所属していて、自分では運動部系の人間だと思っていました。ただ、部活の前になぜか部員が図書室で集まるという習慣があり、図書室はたまり場でした。そのとき、自分でも驚くほどの強烈な読書体験をしました。

――何が起きたのですか?

吉田 いつものように、部活の友達を待っているときです。退屈のあまり、一冊の詩集を手に取ってパラパラめくっていたところ、詩の一行が突然、ストンと心に入ってきたのです。ビックリしました。自分が文学、それも詩を読んで感動する人間であるとは思ってもいなかったから。それから、ボードレールランボーなどをむさぼるように読み始めました。大学時代も、よく詩集を読みました。たまに昔読んだ詩集をめくることがあるのですが、線が引いてあるのです。どうして、そんなところに線を引いたのか、今となってはよく分からないのですが、当時の自分には大切だったんでしょう。》

 

<「悪」あるいは「悪人」>

吉田は「波 E magazineNami インタビュー」の「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る 【後編】」でこんなことを言っている。

《――前号で〈人間の生(なま)っぽい感じ〉という話がありました。『さよなら渓谷』は酷い犯罪をおかした男と、その被害者だった女の物語です。これも恋愛小説といえば恋愛小説ですが、この時期から、より犯罪のウエイトが重くなっていくのは、生の人間を出しやすいから、なのでしょうか?

吉田 犯罪をおかす時の人間がいちばん魅力があるから、と言ったら変ですかね。言い換えると、その人間が犯罪をおかす時をいちばん見てみたいんですよ。今度の『湖の女たち』もいろんな罪をおかす人たちが出てきますが、なんで僕がこんなに犯罪者に惹かれるのか、ちょっとわかんないです。犯罪自体ではなくて、そこに漂う空気に、懐かしいとも居心地がいいとも違うけど、惹かれるんですよ。

 ――正確には、犯罪よりも、犯罪によって歪んでしまう人間関係に突っ込んでいかれます。

吉田 『さよなら渓谷』は男女間でしたが、男同士だって、本気と冗談の間で、ふざけて揉み合っているうちに、本当に殺し合いみたいになる瞬間ってありますよね。境目を越えてしまって、関係や感情ががらりと変わる。あの変り目みたいなものを書きたいのかもしれません。
 今になって思い返してみると、さっきの(前号参照)「十年大丈夫」じゃないけど、まず『悪人』をチャレンジとして書いてみて、続けて『さよなら渓谷』が書けた時は、「あ、大丈夫だ、こういうタイプのものを書いていけるな」という自信がつきました。

 ――「こういうタイプ」というのは?

吉田 もちろん自分が書いているものだから、まったく関係なくはないんだろうけど、ほぼ自分とは関係のない小説。〈他人の物語〉を自分が引き受けられる、ということですかね。まだ『悪人』は、場所にしろ人物にしろ、自分に近いものがあるんですよ。でも『さよなら渓谷』は、二三回温泉に行ったことがあるだけの土地だし、こういう関係ももちろん経験がない。だけど、これを書けたことで、新聞や雑誌で気になった事件を小説にしていくことができるんだ、と思えたんです。》

 もうひとつ大事なことは、『悪人』の登場人物たちの生っぽさである。

《――『長崎乱楽坂』にせよ『7月24日通り』や『悪人』(07年)にせよ、長崎があるのはやっぱり得ですよね、作家として。

吉田 これはもう本当に得。で、いま思うと、肉体労働者の生活が近くにあったのも得。やはり、地方の街で、ああいう人たちの近くで育つと、人間の生(ナマ)っぽい感じがよくわかるんですよ。もちろん東京のサラリーマンの家庭にも生っぽいところはあるのでしょうけど。
 作家になってしばらく経った時、東京の都心の道を歩いていたら、いわゆる肉体労働系のお兄ちゃんたちが屯(たむろ)ってた。そしたら、そのお兄ちゃんたちを「怖い」と言う人がいたんです。逆に僕は、背広のサラリーマンの人たちが集まっていると体が固まるんですよ。もし、こっちに肉体労働者の人たち、あっちに丸の内のサラリーマンたちがいて、どちらかに混じって弁当を食べなきゃいけないと言われたら、間違いなく肉体労働者の方で食べます。刷り込みみたいに馴染みがあって、落ち着くんですよね。
 その彼らを「怖い」と言われた時、「あ、なるほど」と思った。もう作家になっていたから、「こういうことをちゃんと書いていけばいいんだな」って。》

 

<追われる男と愛する女>

『悪人』『罪と罰』に共通する「追われる男と愛する女」というモチーフは、グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』に似ているという意見もあるが、愛する女ローズには自己犠牲の女ながらも、追われる男ピンキーは根っからの不良で殺しも厭わず、彼の幼時体験が影響しているとはいえ、宗教性、「追う者と追われる者」というグリーン定番の追う者(『ブライトン・ロック』では無邪気な女アイダ)、内面描写の連続、カメラ・アイなどが『悪人』とは違う。

吉田修一:ノンフィクションライターの清水潔さんと、以前に対談でご一緒させて頂いたことがあるんです。ノンフィクションライターの方が事件の記事を書く時はあらゆることを隅々まで調べるから、完全に“追う”側の立場でいるそうなんです。それで言うと僕は完全に“追われる側”として書いているなと。犯人側として書くか、犯人を追う側として書くか、事件という題材を扱うにしてもアプローチの仕方って全然違うんですよね。

吉田修一:小説なので、もちろん色んな視点を持って書くので、必要な時にどちらも行き来はできるですけど、やっぱり基本的には断罪されていく側の人間に気持ちは付いているんでしょうね。

吉田修一:僕ももちろん地続きなんですよ。僕は、さっきも言ったように“犯罪者側”としての立ち位置であることが基本なので、自分と同じような生活…例えばふらっと居酒屋に行くような男が、あるきっかけでその後に犯罪者になるという可能性については非常にフラットなんでしょうね。違和感がまったく無いというか。だから、犯罪を犯した人間を書くと言っても、自分をわざわざ無理矢理はめ込もうとしなくても、ごく自然な生活環境でいることができるんです。やっぱり、根本的な部分で『犯罪者』を書こうとしていないんですよね。普通に、誰しもに有り得ることであるということであって。

吉田修一:善と悪に関しては、表裏一体というより繋がっているもので、いつでも入れ替わりが可能なものなんじゃないかと思っています。この小説の中では、罪を犯してしまった人たちはそうなりたくて進んだわけではなく、何かのきっかけでそのどちらかが入れ替わってしまっただけで。善と悪は、対峙する人によってそれぞれの解釈が違っているし、すごく…曖昧なものだと思いますね。

(「吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線」(『HARDEST』interview by CHINATSU MIYOSHI 2016年12月3日) 》

 

<映画で落とされたもの/回想>

『悪人』単行本の帯に浅田彰の推薦文がある。

《新聞連載小説とはかくも面白いものだったのか! 様々な視点を交代させて高速回転する万華鏡のように進む物語。その全体を見下ろす視点はない。作者は登場人物たちの行き交う道を自ら移動しつつ彼らの姿に目を凝らす。実のところ、したたかな「悪人」である作者の視線は常にクールで時に意地悪だ。だが、その「悪意」に、普通の人たちを上から温かく見守っているつもりの知識人の「善意」のような嘘はない。言い換えれば、それは誰もが善人であり悪人でもある現実をじっと見つめる正真正銘の作家の視線なのだ。デビューから十年。吉田修一は作家としてなんと大きく飛躍したことだろう! 浅田彰 

 映画化された『悪人』から欠落したものは、小説『悪人』の魅力を半減している。「ポリフォニー」、「回想」、「母殺し」などだ。かわって映画では、祖母房枝の悪質健康食品押売りからの回復、佳乃の父佳男の大学生増田への復讐行為を大きくとりあげて、家族愛の回復に月並化した。

 浅田が顕彰した「様々な視点を交代させて高速回転する万華鏡のように」というポリフォニックなもの、川上弘美の言う《殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく》が、辻原登の《被害者と二人の男に関わりのある人々が、作者のストーリィ・テリングの才腕によって闇の中から次々と呼び出され、息せき切って、渦巻くように動き出す。(中略)視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる》が、映画化にあたって、商業的な上映時間の制約と、観客の分りやすさと引き換えに失われてしまった(映画ゆえではなく(外さない映画はいくらでもある)監督の性向からだろう)。

 

 映画で外されたエピソード、心中の描写、回想には以下のようなものがある。

 谷本沙里が寝る前に浮かぶ情景、埼玉出身の仲町鈴香の心の中、佳乃の上司で生命保険会社営業所長の寺内吾郎は警察署で死体の身元確認を求められて佳乃に間違いないと証言するがその心中、二ヵ月前に携帯サイトで知り合った佳乃(=ミア)と関係して金を払った進学塾講師林完治は事情聴取を受けるがそのいきさつ、双子の妹珠代は姉光代が高校時代につきあっていた大沢くんに意外な執着を示していたことを盗み見た日記から知るエピソード、光代が高速バスジャックに遭いかけたこと、友人柴田一二三から見た祐一。谷本沙里、珠代以外は映画に登場すらしない。

 同じく登場しない金子美保は祐一の性分、人となり、最近のいきさつを知るうえで最も重要だった。2年前まで長崎のファッションヘルスで働いていて、祐一は毎晩のようにやってきては、「ぶたまん」やケーキや手作り弁当を持参するようになる。祐一は一緒に住むことを勝手に考えてアパートまで借りてしまうのだが、美保は怖くなって店をやめ、行方をくらましてしまった。祖父を入院させるために祐一が連れて行った病院で、体調を崩して入院していた美保は偶然の再会に、許しの気持ちから声をかける。ところが祐一は青ざめ、逃げるように出て行ってしまう。

 母依子が、働き始めて何年か経っていた祐一と島原市内で食事して、アパートまで車で送ってくれたとき、車の中で急に泣き出してしまい、《お母ちゃんだけが悪かとやけん、いくらでも恨んでよかとよって。母ちゃんはこの十字架ば背負うて生きていくしかなかとやけんって。》と泣いて泣いて、やっと泣き止んだら、それまで小遣いに千円渡そうとしても受け取らなかったのに、顔を合わせれば、毟り取って行くようになったという依子の回想を受けて、美保が事件の後でテレビのワイドショーや雑誌をみて、祐一が母から「欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」、「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」と言っていたことを思い出す。最後まで一緒にいて殺されかけた光代に、《なんか引っかかるとですよ。「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」って言うたときのあの人の顔が。》と繋がる。

 

罪と罰』は、はじめ一人称告白体形式として書かれ、紆余曲折を経てその放棄と三人称への移行という重大な転換があった。創作ノートに次のように書いている。

「自分からの物語であり、彼からのではない。もし告白だというのなら、ほんとうにぎりぎりの極限まですべてを明らかにしなければならない。物語の一瞬一瞬がことごとく明瞭になるように。NB。参考までに。告白だと所によって純真さを欠き、何のために書かれたのかを心に描くことがむずかしくなる。ただし作者からだと過剰にナイーブで率直であることが必要だ。一見したところ、だれが見ても新しい世代の一員となるような、全知の過誤を犯すことのない存在を提示してくれる作者を想定することが必要だ。」(亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)

(ここで「自分」=作者ドストエフスキー、「彼」=ラスコーリニコフ。)

 吉田修一『悪人』は、冒頭から一人称告白体、内面描写を慎重に避けているが、途中から脇役人物の告白、心情描写を挟み込む。そして最後に他ならぬ祐一の内面描写が出て来るのだが、吉田らしくもない失敗だろう。どこか安易な種明かし、底の浅い作為の匂い、取り繕った嘘、情緒に訴える話のまとまりを感じてしまう。馬込光代を脅迫して精神的に追い詰めていた、苦しむところを見ることで性的に興奮しとった、今は俺の言葉を信じてくれる人はおると分かった、とかのいじらしい(偽?)告白がなくても、ここまでの文章で祐一の、この言葉では表現し尽せない複雑な内面、裏表は十二分にわかるではないか。

 

《李監督とともに自作の脚色に初挑戦した吉田に、自らの代表作の映画化を振り返ってもらった。(取材・文:編集部)

「祐一や光代が主役になれるのはこの2時間だけなんですよね」

 TVドラマの「東京湾景」「春、バーニーズで」や、映画「7月24日通りのクリスマス」「パレード」等、これまでに多数の映像化作品がある吉田だが、映像化の企画に自ら関わり、自作を脚色するのは今回が初めてだった。

「今回の脚色に際して、小説の『悪人』を映画の『悪人』に変えようとは思ってませんでした。ただ物語のなかで起こる事件とその周りにいる人たちというのが頭のなかにあって、それを文章で表現したら小説になり、シナリオにしたら映画になるという感覚でした。そういう意味では、小説のこの部分を絶対に削りたくないとかそういうことはまったくなくて、文章化された小説のどこを拾い上げていくかということを考えて書きましたね」

 小説では事件に至る経緯や祐一の葛藤を描いた前半部分に多くのページを割いていたが、映画では前半はコンパクトにまとめられ、小説の後半で描かれる祐一と光代の逃避行に比重が置かれている。

「『悪人』という小説は前半が長いし、回想が多いので、李監督とは脚本執筆の最初の段階からなるべく回想シーンはやめようという共通した認識があったんです。監督としても、回想は使わないでなるべく時間をまっすぐに流したいと思っていたようです。その流れのなかで、祐一を中心にしたストーリーを組み立てていきました。僕自身も最初に脚本を書くと決まったときに、前半部分を映画で見たいかと自分に問いかけたときに、それほど見たいとは思いませんでした。だから、脚本は第一稿から、事件の日から書いてました」

 映画は後半からクライマックスにかけて、主に祐一と光代の逃避行が中心に描かれるが、事件に巻き込まれていく祐一の祖母に扮した樹木希林と、祐一に殺される佳乃の父親に扮した柄本明の演技が強烈な印象を残す。

「やっぱり樹木さん、柄本さんのシーンは画として強かったと思いますね。シナリオも最初は祐一と光代が中心でしたが、最終的に、樹木さんのおばあちゃんと、柄本さんのお父さんが入ってきて、全体に占める割合が大きくなったんですよね。あれは、僕らが最初に考えていたときよりも分量的にはかなり増えていて、自分たちでは逆に上手くいったと思っているんです」

 祐一や光代がどんな人間なのかを常に考えながら脚本を書いていたという吉田。彼らの存在は、この現代において何を象徴しているのだろうか。

「祐一が実際にこの世界で生きていたとしたら、残念ながら一度も主役になれない人間だと思うんです。それは、場所や性格のせいもあるし、いろんなことでそうなると思うんです。実生活で、たとえあの劇中の事件を起こしていたとしても、たぶん新聞に3行くらいでてすぐに忘れられてしまうでしょう。それは光代も同じだと思います。

    (「映画.com」2010年9月10日更新)》

 

 最後に、吉田修一の「運命/偶然/回想」に対する粋な計らいを紹介しよう。それとない描写なので、気づかずに読みすごしてしまった人もいるのではないか。

 最終章「私が出会った悪人」で、佳乃の父佳男は久留米から福岡に出て来て、娘を峠に置き去りにした大学生増尾に復讐しようとするが、逆に痛めつけられてしまう。

《「俺は何もしとらんぞ!」

 苛立ったような、怯えた表情で、増尾がそう言い捨てて、走り去っていく。佳男はますます白くなる視界の中で、逃げていく増尾の背中を睨んだ。

「待て……、佳乃に謝れ……」

 叫んでいるはずなのに、口からは白い息しか出てこない。走って逃げていく増尾の姿を、吹雪が掻(か)き消してしまう。冷たい粉雪が一つ、佳男のまつげに落ちて、とける。

「佳乃……、お父ちゃん、負けんぞ……」

 薄れていく意識の中、よちよち歩きの幼い佳乃の姿が浮かんでくる。……ここはどこだ? どこのフェリー乗り場だ? 向こうには海が広がっている。広い駐車場を佳乃が駆けていく。》

「運命」なのに違いない。

 幼いころ、佳乃と裕一はフェリー乗り場で出会っていた、それを知ることもなく被害者と加害者になった、と吉田修一は作りこんだ。

 灯台からコンビニに買い出しにいった光代の帰りが遅かった。麓の街の明かりの中を、パトカーの赤いライトが何台も走り抜ける。

《幼いころ、母親に置き去りにされ、じっと眺めていた対岸の灯台がふと思い出された。

 あのとき母親は、「すぐに戻ってくるけんね」と告げて姿を消した。祐一はその言葉を信じた。でも、いくら待っても、母親は戻ってこなかった。きっと自分が何か悪さをしたからだろうと思った。それが何だったのか必死に考えた。でも、いくら考えても、母を怒らせた理由が見つからなかった。

 あれは最終のフェリーが出ようとしたころだった。待ちくたびれて岸壁沿いを一人で歩いていると、駐車場のほうから一人の女の子が駆け寄ってきた。歩けるようになって間もないのか、勢いのついた自分の足を、どう扱えばいいのか分からないようだった。駆け寄ってきた女の子を、祐一は抱きとめた。ほっとした女の子の顔を、祐一は未だに覚えている。あとを追いかけて来た父親が、娘を抱え上げようとすると、女の子が手に握っていたちくわを、祐一のほうに差し出した。祐一は断ったが、その父親が、「さっき買うたばっかりやけん、食べんね」と手渡してくれた。祐一は礼を言って受けとった。

 考えてみれば母親がいなくなり、翌朝、フェリー乗り場の係員に発見されるまでの間、唯一口にしたのがあのちくわだった。》

 必ずや、夕日の斜めの光がちくわを照らしていたに違いない。

                               (了)

          *****引用または参考文献*****

吉田修一『悪人』(朝日新聞社

吉田修一・李相日『悪人 シナリオ版』(朝日文庫

*「川上弘美書評『悪人』」(読売新聞 2007年4月8日)

*「辻原登書評『悪人』」(毎日新聞 2007年5月20日朝刊)

*「吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線」(『HARDEST』interview by CHINATSU MIYOSHI 2016年12月3日)

*「中沢けい書評『悪人』」(「すばる」2007年7月号 掲載)

*「悪人:インタビュー」(「映画.com」2010年9月10日更新)

ドストエフスキー罪と罰 (上)(下)』工藤精一郎訳(新潮文庫

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』(平凡社新書

辻原登『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』(朝日新聞出版)

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男、鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

小林秀雄ドストエフスキイの作品』(全集第六巻)(新潮社)

*『ドストエフスキー全集 別巻 ドストエフスキー研究』唐木順三編(筑摩書房

江川卓『謎とき『罪と罰』』(新潮選書)

*「作家の読書道 第二十八回 吉田修一さん」(WEB本の雑誌 2004年)

*「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る」(波 E magazineNami インタビュー 2019年9、10月)

*「【人気作家にきく】『アンジュと頭獅王』吉田修一さんインタビュー・前編|「本が人生に与えてくれるもの」」(小学館 Hugukumuはぐくむ 2019年10月12日)

グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳(早川epi文庫)

 

 

文学批評 二人の万菊 ――吉田修一『国宝』と三島由紀夫『女方』

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 三島由紀夫女方』(昭和22年、1957年)と吉田修一『国宝』(平成30年、2018年)は歌舞伎の世界を描いた小説で、前者は短篇、後者は長編であり、どちらにも主役、脇役の違いこそあれ、名女形の「万菊(まんぎく)」が登場する。前者の万菊の芸名は「佐野川万菊」で、あきらかに成駒屋の六世中村歌右衛門がモデルだ。後者もモデルは同じく歌右衛門、三島作品を十分に意識しての「小野川万菊」であろう。

 劇評家渡辺保の『国宝』書評「歌舞伎と小説のあいだ」には、女形についての問題提起、本質の考察がある。そこから三島と吉田の両作品を読み比べると、歌舞伎と女形に関する二人の理解度の差、渡辺の考察の意味合いがはっきりしてくる。

(だがその前に、「女方」なのか「女形」なのか、表記の混乱を解いておきたい。渡辺保『歌舞伎のことば』によれば、《今は女形と書くが、古くは女方と書く。この「方(かた)」は立方(たちかた)(踊り手)、地方(ぢかた)(伴奏者)、囃子(はやし)方(鼓や太鼓、笛の演奏者)、あるいは道化方(三枚目の役者)の「方」と同じで、その部署を担当する者という意味である。すなわち女方といえば、女性の役を担当する役者という意味になる。それがいつ頃から女形になったのかはよくわかっていない。しかしどうしてそうなったのかは興味深い。女形の歴史のなかで「方」(機能)から「形」(フォーム)への変化があったに違いないからである》とあり、戸板康二も同様である。三島が「女形」ではなく「女方」を使用した理由はわからないが、ここでは、一般表記としては「女形」を用い、引用文の表記が「女方」の場合はそれに従うこととする。)

 

 

吉田修一『国宝』>

 

渡辺保『国宝』書評――「歌舞伎と小説のあいだ」>

《ストーリー・テラーの名手吉田修一の長編小説である。さすがによく出来ていて、次から次へ読者の興味を惹く事件が展開する。》、《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》

 ここまではあらすじ紹介と頌であるが、《しかしそう思って読みながら私はかすかな違和感をもった。》と、歌舞伎劇評家の感想は転回する。

《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。

 まあそれは小説だからと思いながら通り過ぎて、二度目に違和感を感じたのは、万菊とならぶ名女形姉川鶴若が借金からどんな役にでも出たいといって「先代萩」の腰元に出るところである。》 

かりにも万菊の政岡に八汐を勤めたほどの人が、いくら金に困ったとはいえ、腰元に出るというのは、役者には格も身分もあるのでおかしい、無理である(本当のところは渡辺の記憶違いで、腰元ではなく台詞のある侍女、澄(すみ)の江で出たのだが、たとえ侍女でも渡辺の指摘は変わらないであろう)。

 それでも、そんなことは枝葉末葉だと思っていたが、このかすかな違和感が実はもっと大事なことに繋がっていることに気づいた時にはもうラストシーンであった。

《花井半二郎は今や功成り名遂げて、歌舞伎界を背負って立つ名女形になっている。その半二郎が歌舞伎座の舞台で得意の「阿古屋」を演じる。その幕切れ。阿古屋をはじめ舞台の役者全員がきまった瞬間、半二郎が突然舞台から客席の通路へ降り、後方の扉に向かう。慌てて案内係が扉を開けると絢爛豪華な阿古屋の遊女姿のまま、歌舞伎座のロビーを横切り、正面玄関を出て劇場の外へ出る。歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。

 こう書くと半二郎は自分を失ったのではないかと思われるだろう。そうではない。その前から彼は自分を見つめているなにかを感じていて、そのなにかに惹かれて外へ出たのである。本来虚構である女形が現実を越えた瞬間なのである。

 ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。そしてこの奇想天外なラスト・シーンこそ、この長編小説を締めくくるにふさわしい凄惨な迫力を持っている。

そのことに感心しつつ、これは小説だから認められることであって実は女形の名人たちが達する心境とは違うという思いがした。》

ここからは「女形」論である。「女形」(歌右衛門雀右衛門芝翫玉三郎など)について、「型」について、長きにわたって幾つもの著作を現わして来た著者の到達地からの批評である。

《どう違うのか。女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。

 この違いを理解するには、小野川万菊と、半二郎の親友でありライバルでもあった五代目花井百虎の二人の女形の最後の姿を見ればいい。

 万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ街で人知れず孤独死した。白虎は病気で足を失いながら壮絶な最期の舞台を演じる。万菊は老いて全てを捨てて自由になった。しかしその自由は普通の老人の自由であり、白虎は身体を失って身体を超えることが出来なかった。この二人の獲得し、あるいは獲得しようとした自由さは現実的でありだれにも分かる。それに比べれば半二郎は最後まで舞台を捨てず身体を失うこともなかったが、現実の街に消えて行った。この自由さも二人の自由さと同じく現実的で分りやすい。しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 この《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》こそが肝であって、詳しくは後述とするが、吉田『国宝』と三島『女方』の差異は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくく書けているかに極まるからだ。

 渡辺は続ける。

《ラスト・シーンで晴海通りを自動車のライトに照らされながら歩く花井半二郎の姿を読みながら、ヤクザの世界からここまで生きて来た人間すなわち立花喜久雄の顔はよく見える。しかし女形花井半二郎の顔が私には見えなかった。なぜだろうか。おそらく江戸時代から女形役者が営々と築き上げて来た女形の、芸によって自由になるというあの自由と半二郎の自由が微妙に違うからだろう。しかしその女形本来の方法論に従えば半二郎は晴海通りへ出ることは出来ない。折角この小説のラスト・シーンにふさわしい幕切れが不可能になる。それでは物語としては完結しない。むずかしいところである。

 むろん私の抱いた違和感は、歌舞伎を愛してきた私個人の感想に過ぎない。それを別にすれば「国宝」上下二巻は長編小説としてその展開のスピード感、その人間描写の的確さにおいて、読者を引きつける魅力をもった力作だろう。》

 

<関容子『歌右衛門合せ鏡』>

 万菊に焦点をあてたい。

《万菊は富も名誉も舞台も捨てて、山谷のドヤ外で人知れず孤独死した。》という結末は、ドラマティックに奇を衒いすぎではないかという疑問を別にすれば、小説のなかの万菊は、あたかもそこに歌右衛門がいるかのように、こそばゆいほど特徴をとらえて活写され、また女形についての解説にもなっているので、順を追ってみてゆきたい。

 

 その前に、現実の歌右衛門の死の様子は、関容子『歌右衛門合せ鏡』の「雪月花」から窺い知ることができる。平成十三年、世田谷の閑静な住宅街岡本町の屋敷での穏やかな臨終で、引用するのは「情景」という言葉がぴったりの見事なエッセイのはじめの部分にすぎない。

歌右衛門の命日は三月三十一日。

 夜七時のニュースでいつもより早い満開の桜に、突然季節が後戻りして雪が降りしきるという、絵空事のような光景をテレビが映し出し、うっとりと見とれていたら、続いてすぐに「二十世紀を代表する名優の死」が報じられてびっくりした。

 あとで伺った有紀子さん(筆者註:養子の長男梅玉(ばいぎょく)夫人)の話だと、その日も成駒屋はいつものようにベッドの中で邦楽のテープに聴き入っていた。退院後、初めのうちは興行中の歌舞伎のビデオを観てあれこれ駄目出しをしていたが、だんだんとそれが大儀になり、観れば苛立(いらだ)って病状が悪くなる。有紀子さんは考えて、「昔のお父様のビデオだけ」をかけることにしてみたら、だいぶ状態が落着いた。

 臨終の日、朝からうつらうつらとしながらも、『道成寺』や『将門(まさかど)』や『茨木』のテープに耳を傾けて、なぜ清元の『隅田川』がかからないのか、と成駒屋は思ったかもしれない。あたしが一番好きなのを知ってるくせに……。しかしお念仏を唱える子供の甲高い声があまりに悲しいので、わざとはずしたのだった。

 夕方になり、ちょうど『関扉』のテープを流し始めて、〽墨染の立ち姿……と常磐津が語るころ、雪が降り出し、そのとき、容態が急変する。

 歌舞伎座では、四月興行に出る『頼朝の死』の舞台稽古の最中だった。頼家役の梅玉さんに知らせはあったが、もちろん帰るわけには行かない。その序幕で役の終る成駒屋古参の弟子、歌江さんをかげに呼び、

「化粧道具、持ってる?」

 と、小声で訊いた。役者が化粧道具を持たないはずはないが……歌江さんは思って、すぐにハッとする。成駒屋がかねがね、

「いいかい、あたしの死化粧は歌江にね」

 と言い遺していることは察しがついていた。あ、いよいよその日が来たのだと思い、素踊りのときに使うパンケーキ類の入った化粧ポーチを小脇に、師匠の家に急いだ。

 成駒屋はこのお弟子の化粧の技術に信頼を寄せていた。歌舞伎のときは従来の顔のし方だが、素踊りや舞台挨拶、新派やモダンな新作ものに出演するときはいつも、

「ねえ、顔はどうしたらいいんだい?」

 と相談した。肌色のパンケーキを選び、役柄によっては付け睫毛をしたり、そこに金粉をあしらったりするのを、成駒屋がとても面白がってくれたという。

 歌江さんが岡本町に着く。

「あ、歌江さん。お父様、歌江さんですよ。歌江さんが来ましたよ」

有紀子さんの声が届いたのか、ベッドの横の血圧を示す計器の数字がパパパパッと六十ぐらいまで上昇したが、そのうちだんだんと下っていって、それがお別れだった。

 しばらくみんな別室に出されたが、また呼び入れられて遺体の着換えをしたのは、有紀子さんと、梅玉夫妻の長女なぎささん、それに歌江さんの三人だけだった。黒紋付を着せ、羽織袴はその上からそっと掛けるだけにした。

 病床に五年もいたというのに不思議なほど面やつれしていない、きれいな肌だ、そう思いながら歌江さんは心をこめてパンケーキを塗り、きわ墨で眉を引いた。きわ墨というのは、和紙に卵黄を塗り、乾いたらこれをローソクの火であぶり、その油煙から出る煤を別の和紙に移し取る。これで眉を引くと自然に描ける。最後に口紅を薄くさす。そこに昔の成駒屋がよみがえった。

 弔問の客が次々と集り始めるころ、雪はとっくにやんで、月が輝いていた。

 対面した客たちが成駒屋の顔の美しさに息を呑んで感嘆し、口々に讃えていた。》

 全てを捨てて自由になる、とはドヤ外で人知れず死ぬといった「事件」ではなく、舞台から降りた女形歌右衛門のゆるやかな死に臨む精神の自由さに近いのではないか。

 

<「第四章 大阪二段目」>

 さて吉田『国宝』に戻ると、万菊の初登場は「第四章 大阪二段目」、京都南座の楽屋で丹波屋の二代目花井半二郎が息子俊介と部屋子(へやご)候補の喜久雄の二人を万菊に挨拶に行かせる場面で、すぐに(歌右衛門が一番好きだったという)清元『隅田川』の班女(はんにょ)の前(まえ)に世界が転回してしまう二人がいる。

《万菊の物言いも物腰も柔らかすぎて、喜久雄はちょっと拍子抜けで、遊園地の化け物屋敷に入ったとたん、一斉に電気がついたような感じでございます。

 ただ、次の瞬間、ちらっと向けられた万菊の視線に、喜久雄はいきなり射抜かれます。どう説明すればよいのか、その目だけが笑っておらず、更に申しますと、半二郎と俊介の角度からは笑っているように見えるのに、なぜか喜久雄の位置からだけは、その色が違って見えるのでございます。お

 背筋がゾクッといたしまして、喜久雄は目を逸らします。逸らした先では、奇妙なほど長い万菊の手指が薄い太腿のうえでぴったりと揃っておりまして、今にも蛇のように動き出し、こちらへ這(は)ってきそうであります。(中略)

 そうこうしているうちに、昔からの贔屓(ひいき)だという小説家が万菊の楽屋へ挨拶にまいりまして、「では、そろそろ」と立ち上がった半二郎に、喜久雄もついて出ようといたしますと、

「喜久雄さんでしたっけ? ちょっと」

 と、万菊が喜久雄だけを呼び止めます。

 恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」

 ますます混乱する喜久雄ですが、運よく件(くだん)の小説家が現れましたので、これ幸いとばかりに罠(わな)から解放された獣の子の如く慌てて俊介を追うのでございます。(中略)

 もの悲しい清元の三味線が、青く染まった夕暮れの隅田川に流れます。

〽 実に人の親の 心は闇にあらねども

  子を思う道に迷うとは

 広い劇場のなか、どこかにぽっかりと穴が空いているようで、今にもそこから何かが出てきそうな、そんな無気味さで客席全体が震え上がりそうになったまさにそのとき、まるで人魂(ひとだま)のように、我が子を探し狂女となった小野川万菊が、花道に現れるのでございます。

 班女の前はそろりそろりと花道を舞台へ向かいます。その姿、その色、その陰影、まるでこの世のものとは思われず、円山応挙(まるやまおうきょ)が描いた幽霊がそこに現れたかと思うほどのおどろおどろしさでございます。

 気がつけば、喜久雄はその怪奇な世界に引き摺(ず)り込まれておりまして、現実とも夢とも違う、なにやら生ぬるく湿った場所に一人立たされているようでありまして、それはまた他の客たちも同じこと、誰もが万菊を見つめる亡霊の一人となっているのでございます。

「こんなもん、女ちゃうわ。化け物(もん)や」

 あまりに強烈な体験に喜久雄の心は拒否反応を示すのですが、次第にその化け物がもの悲しい女に見えてまいります。

「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」

 喜久雄が万菊の魔力を断ち切るように、隣の俊介に目を向けますと、やはり何かに憑(つ)かれたように舞台を凝視しております。

「……こんなもん、ただの化け物やで」

 何かから逃れるように笑い飛ばした喜久雄の言葉に、このとき俊介は次のように応えます。

「たしかに化け物や。そやけど美しい化け物やで」と。

 実はこの日、二人が目の当たりにした小野川万菊の姿が、のちの二人の人生を大きく狂わせていくことになるのでございますが、当然このときはまだ、二人ともそれを知る由もございません。》

 

 ここで、《恐る恐る振り返れば、万菊にまじまじと見つめられ、

「ほんと、きれいなお顔だこと」

 どう反応してよいのか分からず、喜久雄は居心地悪くて仕方ありません。

「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」》の万菊の忠告と、《「……いや、こんなもん、女形でもないわ。女形いうもんは、もっとうっとりするくらいきれいなもんや。それが女形や」》という「美しい女形と美しくない女形」は、「女形論」の中心命題である。

 この万菊の言葉は、俊介と喜久雄が中堅どころとなった下巻「第十二章 反魂香(はんごんこう)」の『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』「奥庭狐火(おくにわきつねび)の場」の人形振りの稽古で反復される。

《「人形振りに関しては、喜久雄さんのほうが一枚も二枚も上手ですよ」

 稽古中、わざとなのか無意識なのか、万菊は喜久雄の名前をよく出します。

「……あの喜久雄さんってのはね、言ってみりゃ、いい意味でも悪い意味でも、本人が文楽の人形みたいな人ですからね。ある意味、このお役には打ってつけなんですよ。でもね、ずっと綺麗な顔のままってのは悲劇ですよ。考えてごらんなさいな、晴れやかな舞台が終わって薄暗い物置の隅に投げ置かれたって、綺麗な顔のまんまなんですからね。なんでも笑い飛ばせばいいって今の世のなかで、そりゃ、ますます悲劇でしょうよ」》

 

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)で、歌右衛門と三島は女形の美しさについて迷うことなく一致している。

《「歌右衛門  女の人に近ければ近い程、私は魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近付こうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの。」

三島  勿論、そう。戦後の若い女形の間違いというのは、そこから来ていると思うんだ。ああいうところから、歌舞伎というものを間違える原因が出て来る。劇評家がそういうものを褒めたということは、いけないことだ。」》

 

 美しい女形と美しくない女形。女と女形

折口信夫全集 かぶき讃』に収録されている『役者の一生』(昭和17年)は、四世沢村源之助の一生を振り返りながらの女形論ともいえるものだが、さきの『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』における「女と女形」の二人と同一見解が述べられている。

女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さという事もあろうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かった。岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。(中略)

 この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧、恥じてよい美しさである。(中略)

 要は、芸によって美しく見えるということが、平凡でも肝腎なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思わせるということに対しては、条件をつけて考えねばならぬと思う。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違った男である。そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである。それだからこそ、松蔦のような女形では、そぐわないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れていたからよいけれど、あれがもっと前だったら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかったであろう。

 東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になった。亡くなった(筆者註:5世)歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになって化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂わば邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があったからでもあるが、それを又人々が喜んだのだった。思えば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのように、素に持っていた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持って居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作ったので、一つは晩年体も次第に利かなくなったことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になった。だから歌右衛門という役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思う。梅幸も美しい女形であって、その唯一つの欠点は下唇の突き出ている事だけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあったのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。こうして美しい東京の女形は、女優にだんだん近いものになってしまった。

 だが大阪には今に、きたない女形がいる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といっても今の中村梅玉であろう。(中略)

 これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又歌舞妓芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろに芝居を作ってしまうようなところがある。》

 

 いみじくも折口信夫が指摘したように女形は、「現実の女であってはならない」「一種の記号のようなもの」「幻想のようなもの」であることを慧眼なロラン・バルトも見抜いた。

 バルト『記号の国(表徴の帝国)』の文楽についての論考はよく知られるところだが、女形についても短いながら本質をついた批評を残している。それはバルトが、学生時代にギリシャ演劇グループで活動し、長じてはブレヒト劇を論じ、かの『ラシーヌ論』で歴史に残る論争を引き起こした劇評家でもあったことから来たものに違いない。

『記号の国』の女形の写真のキャプションにはこうある。

《東洋の女装男優は、「女性」を模倣するのではなく、記号化する。》

「書かれた顔」という章では、次のように書いている。

《歌舞伎の女形は(女性の役は男性によって演じられる)、女装した少年が微妙なニュアンスや、真実らしい外観や、犠牲をはらっての偽装などを駆使して演じるのではない。女形とは純然たるシニフィアンであり、その下にあるもの(・・・・・・・・)(真実)は秘されておらず(用心ぶかく隠されているのではなく)、ひそかに示されているのでもない(西欧の女装男優が、豊満な胸のブロンド女に扮しても、その下品な手や大きな足によって、女性ホルモンによる胸ではないことをかならず露見させてしまうようなときに、実体の男性的な特徴にたいして道化的な目くばせがなされるのだが)。真実はただ不在化されている(・・・・・・・・)のである。俳優は、その顔において女性をよそおっているのではなく、まねているのでもなく、ただ女性を意味しているだけだ。マラルメの言ったように、もしエクリチュールが「観念の身ぶり」から生みだされるのだとすれば、日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない。だから、五〇歳の男優(非常に高名で尊敬されている)が、恋をしておどおどしている若い女の役を演じるのを見ても、まったく驚くことではなくなる。つまり、目だった(・・・・)ことではないのである(西欧では信じられないことだ。女装男優それ自体がすでに、よく思われておらず、あまり許容されてもおらず、まったく反良識的な存在となっているからである)。なぜなら歌舞伎においては、女らしさとおなじように若さも、その真実を必死で追いもとめるべき自然な本質ではないのだった。規範の洗練やその正確さ――生体の類型(若い女性の現実の身体を思わせるもの)を模倣しつづけることにはいっさいかかわりない――は、女性的な現実すべてをシニフィアンの微妙な回折のなかに吸収して消し去ってしまうという効果――正しい結果――をもたらしている。「女性」は、意味されているが表現されておらず、ひとつの観念になっている(ひとつの性質ではない)。そのようなものとして、「女性」は、分類の戯れのなかへと、そして純然たる差異という真実のなかへと帰着してゆく。西欧の女装男優はひとりの女性であろうとしているが、東洋の女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない。》

 ここには、「女形とは純然たるシニフィアン」であり、「日本の女形とは女らしさの身ぶりなのであって、剽窃ではない」、「女形は「女性」の記号を組み合わせてゆくこと以外には何も求めていない」といった「記号の国」日本らしい「女形」に悦び、愛した、バルトの姿が見てとれる。

 

<「第十章 怪猫(かいびょう)」>

 次の万菊の登場は「第十章 怪猫(かいびょう)」。喜久雄という《部屋子の弟子に三代目半二郎の名跡まで盗られて、失意のまま見世物小屋の芸人にまで落ちた元丹波屋の若旦那》俊介の復活劇を企む興行会社三友の社員竹野に同行しての、別府近郊の芝居小屋の場となる。

《幕が開き、小さな舞台で早速始まったのは、先日竹野が三朝温泉の小屋で見た『有馬の猫騒動』で、猫の飼主であるお藤の方をいじめる老女岩波たちの田舎芝居を見る万菊の顔が、みるみる苦痛に歪(ゆが)んでまいります。

 しばしご辛抱を、と祈るような竹野の思いとは裏腹に、この田舎芝居に酔客たちからの「千両役者! 後家殺し!」のふざけたかけ声。思わず竹野、「うるさい」と怒鳴りそうな気持ちを必死に抑えます。

 それでも稚拙な立ち回りが終わりますと、万菊も落ち着いてきまして、扇子で顔を扇(あお)ぎながら舞台を静かに見つめております。

 そしていよいよ、のちに化け猫と化す召使お仲が舞台に現れたときでございます。緩みきっていた客席の空気が、前回と同じようにまたピンと張り、小屋のなかの時間だけが止まったのでございます。(中略)

 テケテン、テケテン、テケテン。

 舞台では主人がなぶり殺しにした老女岩波への復讐が始まります。床をのたうち回る老女岩波を操る化け猫。しかしそこには踊りの基礎がなければできない、しっかりとした所作があるのでございます。

 舞台をみつめる万菊の大きな手が、化け猫の舞をなぞるように動き出したのはそのときで、まるで万菊までが何かに憑かれたように、客席で手をふり、首を傾(かし)げ、ときに周囲を睨み、一心不乱に踊っているのでございます。

 舞台の俊介、そして客席の万菊。この二人の共演に気づいているのは自分だけ、そう思った瞬間、竹野の体には寒気がするほどの鳥肌が立つのでございます。

 客たちの意識を根こそぎさらっていくような迫力の芝居が終わり、幕がおりた直後であります。静まり返っていた客席に、とつぜん火がついたような拍手。たった今、自分が目にしたものを理解できず、誰もがその場でさまよっているのでございます。

 鳴り止(や)まぬ拍手のなか、竹野は万菊の元へ駆け寄りまして外へと連れ出しますと、どうでしたかと問うのも無粋極まりなく、黙ってその顔を見つめれば、万菊も黙って頷(うなず)きます。

「楽屋へまいりましょう」

 まだ小屋のなかで鳴り響いている拍手が、古い温泉街の路地に漏れております。

 裏口に回って声をかけますと、楽屋なら奥です、と一座の若い衆が案内してくれます。廊下の壁にずらりと並んでおりますのは、この地を訪れた人気ストリッパーたちの写真でございます。

 廊下の奥、土間の先に小上がりがありまして、数人の役者たちがこちらに背を向けて鏡台に向かっております。

 その一人、汗だくの背中を裸電球に照らされているのが紛れもない俊介で、

「すいません」

 声をかけた竹野に振り向いた途端、その目が万菊の姿を捉えたのでございます。

 その俊介の目は、万菊ではなく、その先にいる誰かを見ているようでありました。そしてとても長い沈黙が伸びたのでございます。

 まず口を開いたのは万菊でした。

「このあたしが丹波屋のお兄さんに代わって、まずは礼を言わせてもらいますよ。ほんとにあなた、生きててくれてありがとう」

 小上がりにそっと揃えらえた万菊の指を、俊介はじっと見つめております。

「……今の舞台、しっかり見せてもらいましたよ。……あなた、歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ」

 一瞬、俊介の視線が揺れます。

「……でも、それでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」

 これほど熱のこもった万菊の震えた声を、竹野は初めて聞いたのでございます。》

 

 かくして俊介は明治座の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の中老尾上(おのえ)に抜擢され、万菊が脇に回った岩藤(いわふじ)で復帰することになる。

しばらく経って俊介が喜久雄のいる劇場を訪ねてきたのは、上の稽古場で万菊に直接稽古をつけてもらう約束があるとのことで、直接稽古をつけてもらえる俊介を羨んでいる自分に気づく。

《喜久雄が足音を忍ばせるように廊下を進めば、地方(じかた)の三味線が奏でているのは『娘道成寺(むすめどうじょうじ)』、遠い昔、この演目を俊介と演じ、喝采を浴びたころのことが鮮明に浮かんでまいります。

「ちょっとあなた、そう動かすから粗く見えるんですよ。いいかい、こうやってチョン、こう回ってチョン。ほら、見てごらんなさいな。踊っているあいだ、あなたの袖口(そでぐち)は落ちて腕が丸見えだけど、あたしの袖口は手首に吸いついてるみたいだろ」

 再び地方の三味線が鳴りまして、万菊の指導通りに踊る俊介の袖口が今度はしっかりと手首に吸いつきます。

「……いいかい、これだって技術じゃあないんですよ。若い娘になりきってれば、二の腕を晒すなんて恥ずかしくってできゃしないんだからね。踊っててそうなるってことは、そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」》

 歌右衛門が実際に「そりゃあなたが娘になっていないってことですよ」と指導したかどうかはわからないが、『娘道成寺』に関する歌右衛門の「一人の女」というよく知られた言葉、解釈がある。

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』、関容子『歌右衛門 合せ鏡』などに記述があるが、後者から引用しよう。

歌右衛門 合せ鏡』の「芝居の話 役々のこと」のなかで、『道成寺』の話になった。道成寺の後見の逸話、引き抜きについて、成駒屋型の後(のち)ジテの鐘入りの般若隈の難しさ、「いわゆる妖怪変化じゃなくて、女が嫉妬するとこういう顔になりますよ、ということを表わしているわけなのよね。どこまでも一人の女の物語として、ずうっと通して踊るわけですよね」を受けて、

成駒屋が「一人の女」ということを強調しているのにはわけがあった。先ごろ渡辺保さんとの対談(「歌舞伎」)で、〽恋の手習い……以下のクドキの文句が、娘、遊女、人妻と三人の女になっている、という佐々醒雪の説の話が出て、

「そりゃあ、学者が歌詞を解釈してあれこれ考えるのはいいんだけれども、踊るほうの心持はあくまでも一人の娘、でなけりゃあ踊れません。何しろ、あなた、娘道成寺なんだからね、って渡辺さんに申しましたのよ」

 ということだった。

 醒雪は、〽誓紙さへ偽りか……と誓紙をかわすのは遊女、〽ふっつり悋気せまいぞ……とたしなむ……のは人妻、という解釈をしているのだが、

「娘だってあなた、遊女の真似っこして、誓紙交わしっこしたりするかもしれないし、別に女房じゃなくたって焼餅くらい焼くんだからね」》

 すぐ続いて、渡辺保の『国宝』書評の《最初に違和感を感じたのは、主人公の立花喜久雄が芸名花井半二郎になって、その目標とも仰ぐ名女形小野川万菊が「加賀見山」の岩藤と「二人道成寺」を踊るところ。小説だからなんでもいいだろうが、「道成寺」の後に「加賀見山」が上演されることになっている。私がこの上演順になぜ違和感を感じたかというと、この二本を上演する場合は順序が逆だからである。時代物の義太夫狂言が先へきて踊りが最後に来るというバランスのせいもあるが、もっと大事なのは、小野川万菊が悪女の岩藤で殺された後に、キレイになって「道成寺」を踊ってこそ女形の色気があり、観客も喜ぶ。そうでないと万菊自身も観客も後味が悪いのである。》と似たような逸話が出てくる。

成駒屋玉三郎に『先代萩』の政岡を教えることになり、それを聞いた勘九郎(筆者註:18代目勘三郎勘九郎時代)さんが、「俺、八汐に出ても政岡を教えるところに一緒に行ってみたいな」と呟いたことを、ある日成駒屋にそっと話してみると、

「そんなずるっこしいこと考えちゃいけないよぅ」

 と厳しく言われた。そのまま引き退っては勘九郎さんのためによくないと思い、そうでしょうか、もし私が女優だったら、尊敬する大女優がお稽古をつけるところを群衆の一人にでも志願して見ていたいという気になると思います、勘九郎さんは、純粋な気持だと思います……と、口答えをした。

 すると成駒屋は「フーン」と笑って、

「たしかあの子は『先代萩』のあとで『娘道成寺』を踊るんじゃなかった? 花子の前に悪人の八汐で出ちゃあ御見物の感じがよくないから、そのうち政岡をちゃんと教えてあげるよ」

 と言ってくださったのだが、役者はその役がつかなければ教わりに行くことができないものだから、ついにその機会はなかった。》

 

<「第十章 悪の華」>

「第十章 悪の華」で、復帰する俊介(芸名花井半弥)が小野川万菊と共に『二人道成寺(ににんどうじょうじ)』を舞う明治座初日。万菊が出て行ったばかりの花道の出入り口である鳥屋(とや)へ向かった喜久雄は、舞台を一望できる覗き窓に顔を寄せた。

《〽 しどけなり振り アア、恥ずかしや

 〽 さりとては さりとては

 鳴り止(や)まぬ万菊への拍手のなか、花道には同じく白拍子花子に扮した俊介を載せたセリが浮き上がってきたところ、丹波屋本流の登場を十年も待ちわびた人々の拍手とかけ声が、万菊へのそれを超えて響きます。

〽 恋をする身は 浜辺の千鳥

 夜毎夜毎に 袖絞(そでしぼ)る しょんがえ

 万菊と並び立った俊介の美しさ、扇子をくわえるそのしどけなさ、また広げた懐紙を手鏡に見立てて髪を整えるその色香、何もかもが、十年前に同じ演目で共演した俊介とは明らかに違っております。(中略)

 その上、共演しているのは稀代(きたい)の立女形(たておんながた)の小野川万菊、若い俊介を自由に躍らせているように見えて、肝心の見せ場では、わざと調子を崩すような動きを見せて、客たちの視線をすべて自分のほうに向けます。

 またその少し崩した型の美しいこと、悩ましいこと。

 それを目の当たりにした俊介の動きにもさすがに焦りが見え隠れ、しかしその焦りを、可憐な嫉妬を抱く乙女のような指先の震えに変えてみせるのでございますから見事。》

 

 渡辺保歌右衛門 名残りの花』には、渡辺が『国宝』で違和感を抱いた大事なこと、《女形は型(演出)によって女になる。修業を重ねて型を身体化する。型は身体に生きてほとんど無意識になる。無心。無心になった女形は、その身体からも、芸からも、型からも、役からも、自分自身の人生からさえも解放されて自由になる。たとえば晩年の歌右衛門はほとんど無意識に芝居を運んでいるように見えて、その自由さによって一つの濃密な世界を作って現実を越えた。》についてさらに理解を届ける文章が吉田千秋の舞台写真とともにある。

白拍子花子(しらびょうしはなこ) 京鹿子娘二人道成寺(きょうがのこむすめににんどうじょうじ)」の項の「黒の振袖」では無意識、無心について。

《花道の暗闇に歌右衛門の花子の姿がうかんでいる。三枚ともに「道行」のなかでは有名なポーズ。右が「あじな娘と」、中が「笑わば笑え」。左が「田の面(も)に落つる雁の声」である。

 こうしてみると黒地に金銀色糸の枝垂れ桜に霞の縫取り(刺繍)の衣裳が歌右衛門に実によく似合っているのがわかる。

 本来「道行」は、のちの乱拍子と同じ赤の振袖で踊るのが本当である。「道行」を黒地に変わり模様(散り桜と花駒と二通り)の振袖にしたのは六代目菊五郎らしい。梅幸は散り桜であった。

 歌右衛門も私の見た限り二回、赤で踊っている。一度は、昭和二十五年(一九五〇)年六月の東劇ではじめて「道行」を踊ったとき、もう一度は昭和三十年六月新橋演舞場歌舞伎座梅幸と競演になったとき。この二回の赤は、古風で、目の醒めるような美しさであった。まるで江戸の娘を描いた錦絵を見るような、はなやかさであった。

 それから幾星霜。この写真を見ると、この黒地を歌右衛門が自分のものにしていることがわかる。姿がうき立っているのは、一つは歌右衛門が振袖の模様を、散り桜から赤と同じ枝垂れ桜に霞の模様にした工夫による。しかしもう一つは歌右衛門が大きく成熟して、芸がかわり、衣裳をおのれの身体の一部にしたからである。

 しかも、よく見ると三枚ともスーッと自然にきまっていて、身体のどこにも力が入っていない。それでいて見る者に強い印象を与える。

 昔の写真と比べれば一目瞭然としているが、昔は力が入っていて、こんなに軽くない。形を気にしている意識が露骨に出ていて、形そのもののためにきまっている。ところが、この三枚は、いずれもフワッときまっていて透明無比、きまりであることさえも忘れる。無心に踊っていて、それが自然にいい形になる。形をきめるのでなく、おのずから形になる。無意識のうちに形ができて五分のスキもなく「絵」になっている。

 この無心が歌右衛門最後の「娘道成寺」の心境だった。》

 そして「玉手御前(たまてごぜん) 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の項の「芸の風格」では、《一つの濃密な世界を作って現実を越えた》、行き着くところまで行き着いた余裕、自然さ、自由について。

《今にも降りかかる、大輪の牡丹の艶やかさである。

 円熟した歌右衛門晩年の玉手御前の魅力が、この一枚の写真に余すところなく写っている。艶やかな丸髷、目の鋭さ、小さな口もとの色気、ちぎられた襦袢の赤い疋田(ひった)の片袖、不安定に傾けた体と左手、右手の頭巾に添う指先の繊細さ。そういうものが全て一つに溶け合って、その情感、その持ち味、そしてなによりもその芸の風格が見事である。

 しかし、よく見ると目もとの鋭さに表れているように、彼女は闘っているのがわかる。父合邦とも母おとくとも、いや息子俊徳丸への恋を非難する世間全体と闘っている。この画面にあふれる身体の緊張感はそこから生まれる。しかし闘っているのは玉手御前だけではない。歌右衛門もまた闘っている。女形という特異な仕事に対する社会の無理解、老いてなお若い女を演じることへの社会の無理解。歌右衛門は自分の存在を賭けて闘っている。その闘いのために歌右衛門は、いま、身を起そうとしているのだ。

 しかしこの円熟した美しさにはもう一つ、正反対の意味もある。すなわち行き着くところまで行き着いた余裕。指先も、左手も、ほとんど無意識に動いている。その無意識な姿に玉手という女の全てが語り尽くされている。玉手ばかりではない。歌右衛門の全てが語られている。しとやかで、艶やかで、しかもどこか鋭く、孤独になにかに向っている。大名の奥方の気品、匂うような気高さと、全く正反対なはしたないほどのエロティシズム。真っ盛りでありながら、いまにも崩れそうなものが滲んでいる。極彩色の大胆さとおさえた地味な色彩、繊細さと力強さ、人工と自然。そういう正反対なものが渾然一体となって、ここにある。

 そういうことがおこるのは、これがどこまでも人工的な技巧を重ねたつくりものでありながら、その一方でつくっても決して出来ぬものに到達しているからである。

 歌右衛門は人生最後の瞬間にその自然さに到達した。ここには邪恋に狂い、社会と闘う姿とはまるで関係のない女の、艶やかな内面の味がある。私がそういうものを見たのは、歌右衛門の最晩年だった。すなわちこの写真のときと、この後半年後に演じた京都南座の顔見世のときだけだった。

 そこには物語からも、歌右衛門の人生からもはなれて、一人の女がいて、幸せな光明に包まれている。芸に風格が出来たのである。

 風格はつくって出来るものではない。おのずから成る。風格とはそういうものだろう。》

 

<「第十六章 巨星墜つ」>

 ドヤ街の安旅館での人知れぬ死の不自然な描写については、最後の数ヵ月ほどに交流のあった者から伝わってきた「ここにゃ美しいもんが一つもないだろ。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ」などという声など、《こればかりは本人が誰にも語らずに亡くなっているため、藪のなかなのでございます》と言訳されても、これまでの万菊の言動や振舞いからは、番町の高級マンションで風呂にも入らなくなった万菊がゴミのなかで暮していたとか、狐につままれたようである。もちろん、奇怪な死を迎えた歌舞伎役者は空襲、殺人事件、自死など幾人もいるが、『歌右衛門合せ鏡』に描かれた歌右衛門の最後の情景こそが、万菊にもふさわしい。あえて言えば、「第十九章 錦鯉」で《今日の舞台での縄に繋がれた雪姫の姿など、それがそのまま水槽の錦鯉となった喜久雄にも重なって、ならばこそ「できることなら、ここから逃がしてやりたい」という雪姫への思いは、知らず知らずのうちに喜久雄本人へも向けられていたのかもしれません》とばかりに見るも忍びなく、竹野を「ありゃ、正気の人間の目じゃねえよ……。なあ、いつから……」と驚かせた三代目半二郎こと喜久雄ならば「いつまでも舞台に立っていてえんだよ。幕を下ろさないでほしいんだ」とは言ったものの、まだわかろうというものだが……。

 

 渡辺は《しかし歌右衛門の自由さは、芸によって得られた舞台の上の自由である。女形たちの死に場所は舞台にしかなく、舞台以外のところでの自由とは本質的に違うのではないだろうか。その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》と評したが、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》という点において、吉田『国宝』は新聞連載ということもあってか、読者に分かりやすくしようと作為している。

 一方、次に見てゆく三島『女方』は、分りにくいことを分りやすくせず、分りにくいままに書けている。登場する万菊は最初から最後まで、《その自由さは精神的なものであって、だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》 そこに吉田とは比べようのない、三島の幼いころから骨身に染みついた歌舞伎理解と文学的深さを感じずにはいられない。

 

 しかし、『国宝』は「本作を読みおえたとき、小説を読了したのではなく、通し狂言の序幕から大切りまでを見終えたような気分になったのは、私ばかりではあるまい。歌舞伎の情熱と絢爛は、小説として再成されたのである」(「中央公論文芸賞浅田次郎選評)という悦びにおいては三島『女方』の辛気臭さとは比べものにならない。

 また「多くの役者の印象を撹拌して、いかにもそれらしい俳優を次々と作り出した」(同前)には、二代目中村鴈治郎、二代目中村扇雀、(ほぼ盲目となった)十三代目仁左衛門、六代目中村歌右衛門、(映画帰りの)中村雀右衛門中村富十郎坂東玉三郎尾上菊五郎劇団、(両足切断した)澤村田之助などあれこれ思い浮かぶから歌舞伎好きには堪らない。

 とりわけ、いわゆる「芸道物」として魅力的だ。

 渡辺が指摘した《長崎のヤクザの息子立花喜久雄が、不思議な運命の廻り合わせで歌舞伎の女形になり、ついに「人間国宝」に指定される名優になるまで。その苦難に満ちた人生の物語である。歌舞伎の幕内、人気役者の周囲、そして芸の苦労がよく調べてあって赤裸々に書かれている。なかでも出色なのは喜久雄の母マツと師匠四代目花井百虎の夫人幸子の二人である。(中略)次々と起こる事件、サスペンスのなかでもこの人間描写が的確である。》に加えて、喜久雄だけでなく俊介との「それぞれ魅力的な二人」「どこにでもいそうで、どこにもいない歌舞伎役者」(「中央公論文芸賞林真理子選評)の主役を作りあげることで物語の色彩豊かな絹糸を撚りあげた。

さらには、はじめ喜久雄の幼馴染の同棲相手でありながら、失踪する俊介を支えて梨園の妻となった春江も、「「芸道物化」の鍵となるのは女性である」(木下千花溝口健二論 映画の美学と政治学』「第5章 芸道物考」)からには忘れてはならず、「第二十章 国宝」で、錦鯉みたいな喜久雄に言及した竹野に、「竹野さん、何を今さらやわ。この世界に何年おんの? うちはな、もう体の芯から役者の女房やわ。旦那が光熱やろうと、両足失おうと、……たとえ気ぃふれたとしても、その背中、泣きながらでも押して舞台に立たせます。ひどい話や。ひどい女房や。せやけど、それでも役者には舞台で拍手浴びてほしいねん」と気丈な言葉で応えた春江だった。

 そこには溝口健二監督の芸道物の傑作『残菊物語』の世界がある。現に、吉田自身が(「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)次のように答えている。

《――それにしても、どうして歌舞伎を描こうと思ったんでしょう。

吉田 最初のきっかけは、仲のいい映画監督と歌舞伎の話になったことでした。数年後に朝日でまた連載をやることになっていて『悪人』からちょうど10年ぶりの作品になるから、何かスケールの大きいものを描きたいというのがあって、まったく自分が知らないところに飛び込んで、これまでとは違うものを描きたいとなんとなく思っていたところに、歌舞伎っていうのがピタッとハマったんですよね。決定打になったのは、それからしばらくして溝口健二の『残菊物語』を観たんです。『残菊物語』は、『国宝』の俊介と同じで、一度は落ちぶれた歌舞伎役者が旅回りをして復活する話なんですけど、その時に踊って見せるのが『積恋雪関扉』で「スゴイ!」と思って、あれでヤラれちゃいましたね。花魁かんざしをいっぱいつけた墨染が、くっくっくっと首を人形みたいに動かして踊るのを観た時に、何だろう、これはと惹きつけられた。その時の自分は歌舞伎がどういうものかもわからない今以上のド素人だったけれど、一流の踊りっていうのは、こういうものかと思わせるものがあったんです。だから入り口は、実は映画でした。

――それで『国宝』でも、喜久雄が初めて登場するシーンに『積恋雪関扉』を選んだんですね。侠客たちの新年会の席で墨染を堂々と演じてのける14歳の美少年。不世出の女形の片鱗を感じさせる印象的な場面です。

吉田 そうですね。あれはもう、本当に『残菊物語』が自分が歌舞伎に感銘を受けたスタートだったからそうしたんですけど、作家としても、あそこで生まれて初めて歌舞伎の舞台というものを描写するわけですよ。そのプレッシャーたるや相当なもので、どうすれば歌舞伎っぽく見えるのかって本当に何度も描き直しをしました。》

 

 

 

三島由紀夫女方』>

 

<「幻滅と嫉妬と破滅」/「美とナルシシスムと悪」>

《雪はコンクリートの暗い塀を背に、見えるか見えぬかといふほどふつてゐて、二三の雪片が樂屋口の三和土(たたき)の上に舞つた。

「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。

「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」

 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。

 見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。

 しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。》

 

女方』の末尾である。この場面は『女方』第一章と照応するだろう。

《「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。と、舞臺の奥で、「三國一の聟取り済ました。シャンシャンシャン。お目出たう存じまする」といふ官女たちの聲がする。床(ゆか)の浄瑠璃が「お三輪はきつと見返りて」と力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。

 ここを見るたびに、増山は一種の戦慄を感じた。明るい大舞臺と、きらびやかな金殿(きんでん)の大道具と、美しい衣裳と、これを見守る數千の觀客との上を、一瞬、魔的な影がよぎる。それはあきらかに万菊の肉體から發してゐる力だが、同時に万菊の肉體を超えてゐる力でもある。彼のしなやかさ、たをやかさ、優雅、繊細、その他もろもろの女性的な諸力を具へた舞臺姿から、かうしたとき、増山は、暗い泉のやうなものの迸(ほとばし)るのを感じる。それが何であるかはわからない。舞臺俳優の魅力の最後のものであるあの不可思議な惡、人をまどはし一瞬の美の中へ溺れさせるあの優美な惡、それがその泉の正體だと増山は思ふことがある。しかしさう名付けても、それだけでは何も説き明かされない。

 お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。

「奧は豊かに音樂の、調子も秋の哀れなり」

 お三輪が自分の破局へむかつて進んでゆくあの足取には、同じやうに戦慄的なものがあつた。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。そこでは苦悩と歡喜とが豪奢な西陣織の、暗い金絲の表と、明るい絲のあつまる裏面とのやうに、表裏をなしてゐたのである。》

 

 両者に共鳴する「幻滅と嫉妬と破滅」は、「美とナルシシスムと悪」という三つの要素の複合体と表裏を織りなす三島文学のエッセンスに違いない。

 

 昭和24年に『中村芝翫(しかん)論』を書きあげていた二十四歳の三島由紀夫(大正14年(1925年)1月14日生まれの三島由紀夫は、「昭和」とともに歩んだ人だった。なぜなら、翌大正15年は12月25日をもって昭和元年となり、正月を迎えるとすぐに昭和2年になったから、昭和の年数を数えること、それは三島の年齢を数えることに等しかった、少なくとも昭和45年までは)が、はじめて成駒屋本人に逢ったのは、昭和26年4月六世中村歌右衛門襲名の半年後の11月と遅かった。

 

<六世中村歌右衛門三島由紀夫対談>

『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)というのがあって、三島の短編小説『女方』の複雑な感情の理解となる。

《 「お軽の扮装で初対面」

司会 先生の歌右衛門贔屓(びいき)というのは、有名ですけれども、いつ頃から。

三島 とにかく楽屋に伺うようになる前が随分長いんですよ。それで僕が芝居を初めて観たというのは、中学に入った十三の年なんです。羽左衛門(うざえもん)と六代目(菊五郎)の「忠臣蔵」の時。小学校の間は、芝居を観ると教育に悪いというので、観せてくれなかった。それで初めは俳優さんの名前もよく知らないし、歌右衛門さんのことも、余り印象に残っていないのですが、その後、例えば「鏡獅子」の“胡蝶”に梅幸さんと一緒に出ていらしたのなどは、拝見しているわけですよ。それでだんだん贔屓が出来て、いろいろ踊りの役なんかで、きれいだなと思っていた。いつから本当にファンになったのかしらね。やっぱり戦争が済んだ後の、東劇の「千本」(義経千本桜)の道行(みちゆき)かもしれないな。

歌右衛門 高麗屋さんの時ですか。

三島 そうそう、高麗屋さんの忠信(ただのぶ)でね。他には「寺子屋」とか、吉右衛門の「佐倉宗五郎」が出たでしょう、あの時の道行は一番決定的でしょうね。時代が転換して、本当に新らしい時代になって、みんなが華やかなものに憧れていた時に、パッと出たという感じがしたのが、あの道行の静(しずか)でしょうね。それからはもっぱら成駒屋さんを観に行くというふうにしていて、僕は初めは楽屋には絶対行かない、といっていたのですよ。舞台のイメージだけでね。そのうちにある時「文芸」という雑誌が「成駒屋さんに会ってくれ」「それなら扮装したところでお目に掛かりましょう」といって、道行のお軽の紫の矢絣(やがすり)着て、かつら付けたところに行って、歌右衛門さんと握手したかなんかだったな。

司会 いつ頃ですか。

三島 襲名してからですね。「新歌右衛門丈と会う」ということだったから……。それまで盛んにワイワイ観ていたのが、三越劇場時代です。それからだんだん親しくしてもらって、「地獄変」なんか書いたでしょう。「鰯売(いわしうり)」とかね。僕としてはあくまでファンの気持でというのが建前で、楽屋に行っても、ためにするために楽屋に行きたいとは思わないな。いわゆる劇作家としてでなく、全くファンの気持で部屋にも行かしてもらったし、友達にもしてもらう、将来もその気持で付合いたいのです。

司会 先生はやっぱり舞台のイメージを壊したくないという……。

三島 そういう気持だったのですがね。というより、歌舞伎の楽屋というものに、世間の人が持つような恐怖心があったから。つまりどういう不思議なところか、どういう特殊なところか、とても恐いような気がしていたのです。成駒屋さんに限って、そういうイメージが裏切られるということはなかった、と思っていますがね。僕が「中村芝翫(しかん)論」を書いたのは、なんという雑誌だったかな、今は勿論ない雑誌だけれども、あんたの芝翫時代でしたね。》

 

 中村歌右衛門は大正6年(1917年)1月20日生まれなので、三島の八歳年上であるにも関わらず、この昭和33年の対談時には、三島が歌右衛門を「あんた」と呼ぶ関係になっている(歌右衛門が三島を「先生」と呼んでいるのは歌舞伎台本を書き、演出していたからであろう)。

「お軽の扮装で初対面」のあと、小説『女方』の演出の場面を連想させる「大時代な本読み」があり、「鏡花作品は楽しみ」「武智鉄二の仕事」「愛着は「大内実記」に」、そして女形の魅力について二人の意見が一致する「女と女形」があって、「飽くまでファンの立場」と対談は続く。

 出会いをお膳立てした「文芸」に発表した短文『新歌右衛門丈のこと』(「文芸」昭和27年1月)を読むことができる。

《日ごろさしもの鉄面皮の僕が、歌右衛門丈の前に出て初対面の挨拶をすると、体は固く、言葉は自在を欠くやうに思はれた。僕は丈の年来のひいきであり、時花(はやり)言葉でいふと、一辺倒のファンである。今まで何度か人に丈の楽屋へ誘はれたことがあるが、その舞台上の幻影がほんのわずかでも崩れるのがおそろしさに、つい対面の折を逸して来た。今度は扮装のままといふことだつたので、やうやく丈を訪ねる勇気が出たのである。

 さう言ふと、ばかに勿体(もつたい)ぶつてゐるやうにきこえるが、僕は丈の雪姫や八重垣姫や墨染を、この世ならぬ美、歌舞伎の妖精(えうせい)だと考へつゞけてゐたかつたのである。

 逢つてみる。決して幻影は崩れない。

 それから五日たつた。却(かへ)つて幻影は鞏固(きようこ)になり、正確になつた。僕があの短かい逢瀬のあひだ、失礼ながら丈の内部に想像したものは、今は滅びた壮大な感情のかずかず、婦徳や嫉妬や犠牲や懊悩や怨恨の、今の世に見られない壮麗な悲劇的情熱のかずかずであつた。》

 どこにでもいる世間のファンの気持が汲みとれるが、にも拘らず三島は「決して幻影は崩れない」と「壮麗な悲劇的情熱」の二つともを卑俗に否定した複雑な感情を題材に『女方』を仕立てあげたというわけだ。

 

 三島の『女方』執筆前後の、歌右衛門をめぐる歌舞伎関連を年譜で整理すれば、芝翫歌右衛門)論を発表後、楽屋で初対面、その後は松竹の依頼を受けて歌右衛門に当てたいくつかの歌舞伎を書き、演出もし、舞台上演している。

中村芝翫論』(昭和24年、「季刊 劇場」)。

『新歌右衛門のこと』(昭和26年4月、「六世中村歌右衛門襲名 歌舞伎座プログラム」)。

歌舞伎座楽屋で初対面(昭和26年11月、「忠臣蔵 道行」お軽の扮装のままの歌右衛門と)

地獄変』(昭和28年12月、歌舞伎座)。

『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』(昭和29年11月、歌舞伎座)。

『熊野(ゆや)』(昭和30年2月、歌舞伎座)。

『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじつき)』(昭和30年11月、歌舞伎座)。

小説『女方』(昭和32年1月、「世界」)。

『むすめごのみ帯取池(おびとりのいけ)』(昭和33年11月、歌舞伎座)。

豪華本写真集『六世中村歌右衛門三島由紀夫編、『六世中村歌右衛門序説』所収(昭和34年9月、講談社)。

四世鶴屋南北作『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)』の復活台本監修(昭和34年11月、歌舞伎座)、歌右衛門の桜姫。

 最後の歌舞伎作品『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(昭和44年11月、国立劇場)は歌右衛門のためではなかった。

 

<小説『女方』>

女方』は、「世界」昭和32年1月の初出で、翌昭和33年に、『橋づくし』『施餓鬼舟』『急停車』『博覧』『十九歳』『女方』『貴顕』の六編からなる短編集『橋づくし』として刊行された。

「あとがき」には、三島らしく韜晦の滲む注文がある。《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する。》 

 昭和43年の文庫自選短編集『花ざかりの森・憂国』では、著者「解題」として、《『女方』に扱った役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位》とアイロニカルなコメントを残している。別の文庫自選短編集『真夏の死』に収められた『貴顕』については、《歴然たるモデルがあり、作中に明示しているように、私の少年時代の思い出のモデルを、できるかぎり抽象化して、ウォルター・ペイターのイマジナリイ・ポートレイトの技法に倣って、描き出そうとした短編である》としているが、『女方』については「役者」のモデルについての言及はない。

 いったい、「役者」のモデルが六世中村歌右衛門であることがあからさまな『女方』はどういう作品なのだろうか。歌右衛門を想定して歌舞伎台本を書いていた三島が、いくら小説という文芸作品のなかとはいえ、揶揄したとしか思えない『女方』を発表した。しかし、それを歌右衛門が怒ったという徴候が、いくつかの対談(三島、歌右衛門、演劇人によるさまざまな対談)にあたっても見当たらないばかりか、そもそも『女方』という小説などどこにも存在しない幻であるかのように誰の口の端にも上らない。

 ここで、小説『女方』の筋立てを、なるべく原文を引用する形でみてゆく。というのは、『女方』の文体そのものが女形万菊の存在そのもの、肌触りだからである。

 そして、《だれの目にも明らかなほど分りやすくはない。》

 

(一)増山は佐野川万菊の藝に傾倒してゐる。國文科の學生が作者部屋の人になつたのも、元はといへば万菊の舞臺に魅せられたからである。高等學校の時分から増山は歌舞伎の虜(とりこ)になつた。佐野川万菊は今の世にめづらしい眞女方(まをんながた)である。花やかではあるが、陰濕であり、あらゆる線が繊細をきはめてゐる。力も、權勢も、忍耐も、膽力も、智勇も、強い抵抗も、女性的表現といふ一つの關門を通さずしては決して表現しない人である。ただやみくもに女を眞似ることで得られるものではない。たとへば「金閣寺」の雪姫などは、佐野川屋の當り役で、増山は一ト月興行に十日も通つた記憶があるが、何度重ねて見ても彼の陶酔はさめなかつた。佐野川屋の舞臺には、たしかに魔的な瞬間があつた。その美しい目はよく利いたので、花道から本舞臺を見込んだり、本舞臺から花道を見込んだり、あるひは「道成寺」でキッと鐘を見上げたりするときの目には、目づかひ一つで觀衆の全部に、情景が一變したかのやうな幻覺を起させることがよくあつた。「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、戀人の求女(もとめ)を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。いよいよお三輪が、人格を一變して、いはゆる疑着(ぎちやく)の相をあらはす件(くだ)りである。お三輪は髪を振りみだす。彼女のかへつてゆく本舞臺には、彼女を殺すべき鱶七の刃が待つている。死と破滅へむかつて、裾をみだして駈けてゆく白い素足は、今自分を推し進めてゐる激情が、舞臺のどの時、どの地點でをはるかを、正確に知つてゐて、嫉妬の苦しみのなかで欣び勇みながら、そこへ向つて馳せ寄るやうに思はれた。

 

(二)増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた。しかし幻滅はなかなか訪れなかつた。舞臺の万菊に魅せられたのは、増山は男であるから、あくまで女性美に魅せられたのであることはまちがひない。が、この魅惑が、樂屋の姿をまざまざと見たのちも崩れないといふのはふしぎである。それは、それ自體としてグロテスクであるかもしれない。が、増山の感じた魅惑の正體、いはば魅惑の實質はそこにはなく、從つてそこでもつて彼の感じた魅惑が崩壊する危険はなかつた。舞臺の女方の役のほてりが、同じ假構の延長である日常の女らしさの中へ、徐々に融け消えてゆく汀のやうな時、その時、もし万菊の日常が男であつたら、汀は斷絶して、夢と現實とは一枚の殺風景なドアで仕切られることになつたであらう。假構の日常が假構の舞臺を支へてゐる。それこそ女方といふものだと増山は考へた。女方こそ、夢と現實との不倫の交はりから生れた子なのである。

 

(三)万菊が人にものをたのむときの、尤もそれは機嫌のよいときのことであるが、鏡臺から身を斜(はす)にふりむいて、につこりして軽く頭を下げるときの、何とも云へぬ色氣のある目もとは、この人のためなら犬馬(けんば)の勞をとりたいとまで、増山に思はせる瞬間があつた。さういふと万菊自身も、自分の權威を忘れず、とるべき一定の距離を忘れてゐないながらも、明瞭に自分の色氣を意識してゐた。これが女なら、女の全身の上に色氣の潤んだ目もとが加はるわけであるが、女方の色氣といふものは、或る瞬間の一點の仄(ほの)めきだけが、それだけ獨立して、女をひらめかせるものであつた。万菊は軽く會釋(ゑしやく)をして、弟子を連れて、先に廊下へ出て、増山のはうへ斜(はす)かひにふりむいて、につこりしながら、もう一度會釋をした。目尻に刷いた紅(べに)があでやかに見えた。増山が自分を好いてゐることを、万菊はよく承知してゐると増山は感じた。

 

(四)増山の属する劇團は、十一月、十二月、正月と、同じ劇場に居据ることになり、正月興行の演目が、早くから取沙汰された。その中に或る新劇作家の新作がとりあげられることになり、この作家は若さに似合はぬ見識家で、いろいろな條件を出し、増山は作家と俳優との間のみならず、劇場関係の重役との間をも、複雜な折衝を通じてつないでゆくことで多忙を極めた。劇作家の出した條件の一つに、彼の信頼してゐる新劇の或る若い有能な演出家に、演出を擔當させるといふ一條があり、重役もそれを呑んだ。新作は「とりかへばや物語」を典據にした平安朝物で現代語の脚本であつたが、重役はこの新作については奧役(おくやく)に委ねることをしないで、若い増山に一任すると言つた。演出家の川崎は定刻に遅れた。年若な俳優の多い新劇畑で育つたものは、素顔で並ぶと堂々たる貫禄の年輩の俳優ばかりの歌舞伎役者に、馴染んでゆくのが容易ではない。事實、打合せ會に並んだ大名題(おほなだい)の役者たちは、無言の、慇懃な態度で、どことはなしに川崎に對する軽侮の氣持を漂はせてゐた。万菊は、矜(ほこ)りを秘めてつつましく控へ、侮る様子がさらになかつた。

 

(五)抜き稽古がはじまつてみると、果して川崎は、西洋人が紛れ込んで來たやうなものであることが、みんなにわかつてしまつた。川崎は歌舞伎のかの字も知らなかつた。そばで増山が歌舞伎の術語の一つ一つを説明してやらなければならない。かういふことから、川崎は大そう増山をたよりにするやうになつた。十二月興行の千秋樂のあくる日から、いよいよ顔を揃へた立稽古がはじまつた。川崎と俳優たちの間にはしばしば火花が散つた。「ここは、どうも、立上れないところですがね」「何とかして立上つて下さい」 苦笑ひをしながら、川崎の顔は、みるみる矜(ほこ)りを傷つけられて蒼ざめてくる。「立上れつて仰言つたつて無理ですな。かういふところは、じつと肚に蓄(た)めて物を言ふところですから」 そこまで言はれると、川崎は、はげしい焦躁をあらはして、黙つてしまふ。しかし万菊のときはちがつてゐた。川崎が坐れと言へば坐り、立てと言へば立つた。水の流れるやうに、川崎の言葉に從つた。万菊が、いかに氣の入(はひ)つてゐる役だとはいへ、いつもの稽古のときと可成ちがふのを増山は感じた。右手の壁ぎはに万菊が端坐してゐる。目がいかにも和(な)いで、やはらかな視線が、川崎のはうへ向いて動かうともしない。……増山は軽い戦慄を感じ、入らうとしてゐた稽古場に入りかねた。

 

(六)「さうでせうか。川崎さんがあんまりやりにくさうでお氣の毒だわ。××屋さんも△△屋さんも、すこしかさにかかつた言ひ方をなさるもんだから、私、ひやひやして。……おわかりでせう。私、自分でかうしたいと思ふところも、川崎さんの仰言るとほりにして、私一人でも、川崎さんがなさりいいやうに、と思つてゐるのよ。だつて他の方々に、私から申上げるわけに行かないし、ふだんやかましい私が大人しくしてゐれば、他の方々も氣がつくだらうと思ひます。さうでもして、川崎さんを庇つてあげなければ、折角ああして、一生けんめいやつていらつしやるのに、ねえ」 増山は何の感情の波立ちもなしに、万菊のこの言葉をきいてゐた。万菊自身が、自分の戀をしてゐることに氣づいてゐないのかもしれなかつた。彼はあまりにも壮大な感情に馴らされてゐた。そして増山はといへば、万菊の中に結ぼほれた或る思ひは、いかにも万菊にふさはしくないやうに思はれた。舞臺稽古の前日になると、川崎の焦躁は、傍目(はため)にもいたいたしかつた。稽古がすむ。待ちかねてゐたやうに、増山を酒に誘ふ。「どうしてです。あの人のどこがいいんです。僕は稽古中に、ごてて言ふことをきかなかつたり、いやに威嚇的に出たり、サボタージュをしたりする役者には、あんまり腹も立たないけれど、万菊さんは一體何です。あの人が一等僕を冷笑的に見てゐる。腹の底から非妥協的で、僕のことを物知らずの小僧ッ子だと決めてかかつてゐる。そりやああの人は、何から何まで僕の言ふとほりに動いてくれる。僕の言ふとほりになるのはあの人一人だ。それが又、腹が立つてたまらないんだ。『さうか。お前がさうしたいんならさうしてやらう。しかし舞臺には一切私は責任はもてないぞ』とあの人は無言のうちに、しよつちゆう僕に宣言してるやうなもんだ。あれ以上のサボタージュは考へられんよ。僕はあの人が一等腹黒いと思ふんだ」増山は呆れてきいてゐたが、この青年に今眞相を打明けることは憚られた。 

     

(七)年が明けて、曲りなりにも、初芝居の初日はあいた。万菊は戀をしてゐた。その戀はまづ、目ざとい弟子たちの間で囁かれた。たびたび樂屋へ出入りをしてゐる増山にも、これは逸早(いちはや)くわかつたことだが、やがて蝶になるべきものが繭の中へこもるやうに、万菊は自分の戀の中へこもつてゐた。彼一人の樂屋は、いはばその戀の繭である。世間普通の役者なら、日常生活の情感を糧にして、舞臺を豊かにしてゆくだらうが、万菊はさうではない。万菊が戀をする! その途端に、雪姫やお三輪や雛衣(ひなぎぬ)の戀が、彼の身にふりかかつてくるのである。それを思ふと、さすがに増山も只ならぬ思ひがした。増山が高等學校の時分からひたすら憧れてきたあの悲劇的感情、舞臺の万菊が官能を氷の炎にとぢこめ、いつも身一つで成就してゐたあの壮大な感情、……それを今万菊は目(ま)のあたり、彼の日常生活のうちに育(はぐく)んでゐるのである。そこまではいい、しかし、その對象は、才能こそ幾分あるかもしれないが、事(こと)歌舞伎に関しては目に一丁字もない、若い平凡な風采の演出家にすぎない。

  

(八)「とりかへばや物語」の世評はよかつた。正月も七日のことである。増山は万菊の樂屋に呼ばれた。「……今夜ハネたら、御一緒にお食事をしたいんですけど、あなたから御都合を伺つていただけない? 二人きりで、いろいろお話したいつて」「はあ」「わるいわね。あなたにこんな用事をおねがひして」「いや……いいんです」 そのとき万菊の目はぴたりと動きを止(や)めて、ひそかに増山の顔色を窺つてゐるのがわかつた。増山の動搖を期待して、たのしんでゐるやうに感じられた。「ぢやあ、さう申し傳へてまゐりますから」 と増山はすぐ立上つた。川崎は花やかな廊下に似合はぬ身装(みなり)をしてゐた。増山は彼を廊下の片隅へ連れて行つて、万菊の意向を傳へた。「今さら何の用があるんだらう。食事なんてをかしいな。今夜は暇だから、全然都合はいいけど」「何か芝居の話だらう」「チェッ、芝居の話か。もう澤山だな」 川崎は、やつてきて、外套のポケットに両手をつつこんだまま、ぶつきらぼうな挨拶をした。「それぢやあ」と万菊は増山に會釋をした。微笑してゐる口もとが仄かに襟巻のかげに見えた。「いいのよ。傘は私がさしてゆくから。それより運轉手に早くさう言つて頂戴」 万菊は弟子にさう言ひつけて、自分でさした傘を、川崎の上へさしかけた。川崎の外套の背と、万菊のモヂリの背が、傘の下に並んだとき、傘からは、たちまち幾片(いくひら)の淡雪が、はねるやうに飛んだ。見送つてゐる増山は、自分の心の中にも、黒い大きな濡れた洋傘が、音を立ててひらかれるのを感じた。少年時代から万菊の舞臺にゑがき、幕内(まくうち)の人となつてからも崩れることのなかつた幻影が、この瞬間、落した繊細な玻璃(はり)のやうに、崩れ去つて四散するのが感じられた。『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた。

 

<『中村芝翫論』と『六世中村歌右衛門序説』>

 三島は、祖母と母の影響によって、十三の年から歌舞伎を見はじめ、「丸本をもって行って、役者の型を舞台を見つめながら鉛筆だけうごかして、メモした」(「僕の『地獄変』」)劇評ノートは、のちに『芝居日記』として刊行されているが、作家としてデヴューするや、戸板康二を通じて歌舞伎に関する評論を発表する機会を得、昭和24年に『中村芝翫論』を「季刊 劇場」に発表した。

 現在でも揺るぐことなき六世中村歌右衛門論である『中村芝翫(しかん)論』の美学は、昭和26年に芝翫が六世中村歌右衛門を襲名したさいの歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』においても、あるいは昭和34年に三島が編者となって世に出した『六世中村歌右衛門』写真集の巻頭を飾る『六世中村歌右衛門序説』においてさえもまったく変化していない。すぐに、昭和32年の小説『女方』の雪姫、お三輪の劇評にほぼそのまま使われていることに気づく。

中村芝翫論』の核となる文章はこうだ。

中村芝翫の美は一種の危機感にあるのであろう。

 金閣寺の雪姫が後手に縛(ばく)されたまま深く身を反らす。ほとんどその身が折れはしないかと思われるまで、戦慄的な徐(ゆる)やかさで、ますます深く身を反らす。その胸へ桜が繚乱と散りかかる。

 妹背山(いもせやま)のお三輪がいじめの官女たちにいじめられる。裾(すそ)を乱し、身もだえし、息も絶えんばかりに見える。そのたおやかさが、今にも崩(くず)折(お)れそうな迫力を押しだす。 かごつるべの見染めで八ツ橋が花道へかかる。八文字(はちもんじ)を踏みはじめる合図に、男衆の肩で右手を立てて、本舞台を見込んで嫣然(えんぜん)とする。踏み出す足に華麗な衣裳がグラグラと揺れる。

 こうした刹那(せつな)刹那に、芝翫のたぐいなく優柔な肉体から、ある悲劇的な光線が放たれる。それが舞台全体に、むせぶようなトレモロを漲(みなぎ)らす。妖気に似ている。墨染や滝夜叉が適(かな)うのは当然である。》

芝翫のお三輪や墨染や滝夜叉には、たおやかな悪意が内にこもって、その優柔な肉を力強く支えている。人はそれを陰性という。しかしただの陰性にこのような力はない。彼の演技の中心は、人間の理性をも麻痺させるような力強い・執拗な感性の復讐にあるように思える。》

 

 歌舞伎座プログラム中の『新歌右衛門のこと』でも次のように踏襲されている。

《今度の歌右衛門の特徴というべきは、あの迸(ほとばし)るような冷たい情熱であろう。芝翫の舞台を見ていると、冷静な知力や計算のもつ冷たさではなくて、情熱それ自身の持つ冷たさが満溢(まんいつ)している。道成寺のごとき蛇身の鱗(うろこ)の冷たさがありありと感じられ、氷結した火事を見るような壮観である。芝翫の動くところ、どこにも冷たい焔がもえあがり、その焔は氷のように手を灼(や)くだろうと思われる。》

 

『六世中村歌右衛門』写真集の『六世中村歌右衛門序説』では、前記『新歌右衛門のこと』全体をまるごと引用しているうえに、歌右衛門と楽屋で逢い、歌舞伎台本を書き、時代な本読みをはじめ、嫌気を起させた演出の苦労(三島歌舞伎についての文献にあたれば、いくつものエピソードが見つかる)も踏まえての、三島らしい逆説の形而上的論理を展開している。このナルシシスム論こそが、小説『女方』を読み解くうえでの重要なキーである。

 さきに渡辺保が、《歌舞伎座の外は築地から銀座へ向かう晴海通り。折からの夜の賑わいのなかに自動車のライトがあふれている。そのライトのなかを美しい女形姿の半二郎が悠々と静かに歩いて行く。(中略)ここを読みながら私は三島由紀夫が『六世中村歌右衛門序説』で有楽町の朝日新聞社前の喧騒と歌舞伎座歌右衛門の舞台を対比させた件りを思い出した。三島由紀夫と同じように吉田修一も現実と虚構を対比させている。》に相当する白昼夢のような文章がある。

《かりに私が、昼間の銀座街頭を散策して、現代の雑多な現象に目を奪われ、人もなげな様子で腕を組んで歩く若い男女や、目つきの鋭い与太者の群や、春画売りや、昼日中からそれらしい素振りを見せる街娼や、さては家族連れで舶来の洋品を商う店に立寄る有名な実業家や、政治家や、これらの織りなす人出を縫って歩き、新聞社の玄関に発着する夥(おびただ)しい自動車の窓に、緊張した記者やカメラマンの横顔を瞥見(べっけん)しつつ、ようやく劇場の前に達して、外光に馴れた目を一旦場内の薄闇に涵し、むこうにひろがる光りかがやく舞台の上に、たとえばそれが「娘道成寺(むすめどうじょうじ)」の一幕ででもあって、ただひとり踊り抜く歌右衛門の姿を突然見たとする。このとき私の感じるのは、時代からとりのこされた一人の古典的な俳優の姿ではなくて、むしろ今しがたまで耳目を占めてきた雑然たる現代の午(ひる)さがりの光景を、ここに昼の只中の夜(・・・・・・)があって、その夜の中心部で、一人の美しい俳優が、一種の呪術のごときものを施しつつ、引き絞って一点に収斂(しゅうれん)させている姿である。》を受けて、

《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである。

 もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである。》

 さらに三島は表現を変えて称揚した。

《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。》

 

アポロンディオニュソス

 三島作品のほとんど、『仮面の告白』『愛の渇き』『金閣寺』『午後の曳航』『春の雪』『暁の寺』などは、『女方』と同じ構造の下にある。折口やバルトが女形に見抜いた「幻想のようなもの」「シニフィアン」「記号」(対象は、あるときは同性の同級生、あるときは若い園丁、あるときは金閣、あるときは母の恋人、あるときは宮家と婚約した幼なじみ、あるときはタイの姫君、そしてあるときは女形)には、決して到達できない、いや到達してはならない「絶対」であるという構造。妄想によって強化された「幻想(幻影)」に焦がれる悲劇の構造は、空無の、虚無の「絶対」への愛恋でもある(天皇も同じ位置づけ)。不可能な幻想への欲望ゆえに、ついに幻滅し、嫉妬し、はては死という破滅にむかう、美とナルシシスムと悪の三位一体。「幻滅と嫉妬と破滅」とは、なにも三島の病理的なものではなく、ギリシャ悲劇、ラシーヌ劇、歌舞伎にみられる、古典的であるからこそ現代的でもある病理、深層心理に裏打ちされたもので、それゆえに歌右衛門は魅力的であったし、同じく三島文学もまた魅力的なのである。

 さきに引用したように、三島は『六世中村歌右衛門序説』に、《私はかねて俳優という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、女方というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら女方のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである》と書いたが、それこそが『女方』において、《増山が作者部屋の人となつたのは、歌舞伎の、わけても万菊の魅惑に依ることは勿論だが、同時に、舞臺裏に通暁することなしには、この魅惑の縛しめからのがれられないと思つたためでもあつた。人ぎきに舞臺裏の幻滅をも知つてゐて、一方では、そこに身を沈めて、この身一つに本物の幻滅を味はひたいと思つたためでもあつた》という増山への三島の仮託だったろう。

 しかし本心では三島は、増山ではなく万菊(歌右衛門)に、つまりは「俳優」(女形)を、自身を意味する「作家」に置き換えたいと欲望していたのではないか。すると、「私はかねて作家という芸術家の、ナルシス的創造過程に深い興味を寄せて来たが、作家というものについては、一そうその興味の深まるのを感じる。何故なら作家のナルシシスムとは、いわば自分でない者へのナルシシスム(・・・・・・・・・・・・・・)であり、彼の鏡の映像と彼自体とは、あの希臘(ギリシヤ)の美少年のような同一の姿をとらないからである」と欲望したが、鏡の映像は、美とはほど遠い貧弱な肉体をもった自分そのものであることに絶望しつづけたのではないか。

 三島は歌右衛門のような、《もし美が存在しえず、社会がその存在を否定するならば、彼自身が美とならなければならないが、この背理を犯すには、鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではないということは、何という有効な条件であろう! 又、何という巧みな詐術であろう。その鏡裡の像の存在は、正しく彼自身によって保証されているのであるが、他ならぬ彼自身こそ、その存在を否定する者であるということは、何という微妙な逆説であろう。

 女方のナルシシスムとは、かくて、理不尽な、やみくもな、すべてを背理に押し包んでしまう、暴力的な熱病の如きものである。それは怖ろしい否定的なナルシシスムであり、現代社会の否定を彼がものともしないのは、彼自身が(楽屋に於て)全社会に先立っての否定者であり、否定者としてのナルシスだからである。このようなナルシシスムこそ、永遠に不敗であり、無敵である。従って六世中村歌右衛門は不敗なのである》という存在には、いくら肉体美を得ようとも「鏡のなかの美しい映像が、彼自身であってしかも彼自身ではない」存在には、舞台で演じる女方とは違って、作家はなりえないのだった。

 女形歌右衛門は不敗であったが、作家三島は、《『俺はやつとここまで來て幻滅を知つたのだから、もう芝居はやめてもいい』と彼は思つた。しかし幻滅と同時に、彼はあらたに、嫉妬に襲はれてゐる自分を知つた。その感情がどこへ向つて自分を連れてゆくのかを増山は怖れた》のように、幻影のはてで「幻滅と嫉妬と破滅」すること、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」(遺作『豊饒の海 天人五衰』末尾)ことで必敗なのであり、むしろ必敗の美学の芸術家として生きたのだった。

「あとがき」の、《「女方」は俳優の分析であり、「貴顯」は藝術(げいじゆつ)愛好家の分析である。前者の主人公は女性的なディオニュソスであり、後者の主人公は衰退せるアポロンである。この二篇はいはば對(つい)をなしてをり、一雙(さう)の作品として讀(よ)まれることを希望する》とは、ときに正直すぎる人三島が真正直に心中を吐露したものだろう。

 ニーチェは『悲劇の誕生』で、芸術は、夢の世界としてのアポロン的なものと、陶酔の世界としてのディオニソス的なものの対立を軸として発展してきて、しかもアポロン的なものディオニュソス的なものとの二重性に結びついているということを指摘した。早くからニーチェに心酔し、理解していた明晰な三島は、アポロン的なものディオニソス的なものを軸として、しかも二重性を忘れることなく、たくみに仮面の裏表を操る芸術家として数々の作品を世に出してきたが、幼いころから自己の暴力的で血の滴るディオニソス性の不足をはっきりと感じていた。衰退せる近代人としてのアポロン的な夢みる三島は、自分もまた、歌右衛門のようなディオニソス的な陶酔の悲劇の主人公であることを望んだが、ついぞかなわなかった。『女方』は万菊こと歌右衛門を揶揄した小説ではなく、増山であり川崎である三島自身を揶揄した小説なのだ。

 しかしそれでも、《一人の俳優の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく俳優の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの肉体の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて俳優は、一時代の個性になり、魂になる。私は六世歌右衛門にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである》との頌は、そのまま作家三島由紀夫にあてはめることができよう。

「一人の作家の中で、美とナルシシスムと悪がいかに結びつき、いかに関わりあうか、それはおそらく作家の天分と価値とを決定する基本的な条件である。美は存在の力である。客観性の保証である。悪は魅惑する力である。佯(いつ)わりの、人工と巧智の限りをつくして、人を魅し、憑(つ)き、天外へ拉(らつ)し去る力である。そしてナルシシスムは、彼自身のなかで、美と悪とを強引に化合させる力である。すなわち、彼自体であるところのものと、彼自体ではないもの、すなわちあらゆる外界を、他人を、他人の感動と情緒とを、一つの作品の中に塗り込めて維持する力である。こうしてはじめて作家は、一時代の個性になり、魂になる。私は三島由紀夫にこの三つの要素の、間然するところのない複合体を見るのである。」

 

 昭和45年(1970年)の三島没から四半世紀以上、歌右衛門は三島が嫌悪した老いを、『女方』に描かれた「役者の世界の、壮大な卑俗と自分本位」をもって生き抜いた。容色が大事な女形ゆえになおさら、忍び寄る老いの醜と孤独に闘い、内面と外面の拮抗によって芸は円熟し、醜の美とでもいった奇蹟を生んだ。「美とナルシシスムと悪」に、老いと孤独と醜を加えて、七十九歳の最後の舞台、平成8年(1996年)8月の舞踊『関寺小町』まで歌右衛門は、『女方』に描かれた「女性的なディオニュソス」として陶酔を観客に与え続けたと知る時、三島が『女方』の万菊に、晩年の孤高の残光に揺らめく「夢と現實との不倫の交はりから生れた」女形歌右衛門の未来の幻影までも織り込んでいたことに気づかされる。

                                 (了)

 

           ****参考または引用文献****

吉田修一『国宝 (上・下)』(朝日新聞出版)

*『新潮 2018年12月号』(渡辺保書評「歌舞伎と小説のあいだ――『国宝(上・下)』吉田修一」所収)(新潮社)

*『婦人公論 2019年10月23日号』(「令和元年「中央公論文芸賞」受賞作『国宝』選評 浅田次郎鹿島茂林真理子村山由佳」所収)(中央公論社

三島由紀夫女方』(日本ペンクラブ 電子文藝館、講談社「日本現代文学全集」)

*『マクアイ・リレー対談――中村歌右衛門氏・三島由紀夫氏対談』(「幕間」昭和33年5月)

戸板康二三島由紀夫対談『歌右衛門の美しさ』(劇評別冊「六世 中村歌右衛門」昭和26年4月)

*木谷真紀子『三島由紀夫と歌舞伎』翰林書房

*『三島由紀夫研究⑨ 三島由紀夫と歌舞伎』松本徹ほか(鼎書房)

*『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)

三島由紀夫自選短編集『花ざかりの森・憂国』(『女方』所収)(新潮文庫

三島由紀夫自選短編集『真夏の死』(『貴顕』所収)(新潮文庫

中村歌右衛門『「三島歌舞伎」の世界』聞き手 織田紘二(『芝居日記』所収、新潮社)

*『折口信夫全集22 かぶき讃(芸能史2)』(中央公論社

ロラン・バルトロラン・バルト著作集7 記号の国』石川美子訳(みすず書房

ニーチェ悲劇の誕生西尾幹二訳(岩波文庫

渡辺保女形の運命』(岩波現代文庫

渡辺保歌右衛門伝説』(新潮社)

渡辺保(文)、渡辺文雄(写真)『歌右衛門 名残の花』(マガジンハウス)

渡辺保『歌舞伎のことば』(大修館書店)

渡辺保『戦後歌舞伎の精神史』(講談社

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社)

*関容子『歌右衛門合せ鏡』(文藝春秋

*「歌舞伎の黒衣経験を血肉に、冒険し続けた4年間 吉田修一さん新刊「国宝」1万字インタビュー」(朝日新聞「好書好日」2018年9月8日)

木下千花溝口健二論  映画の美学と政治学』(「芸道物考」所収)(法政大学出版局

 

文学批評 ボルヘスを斜めから読むための補助線 ――『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』/『エンマ・ツンツ』/『もうひとつの死』 

 

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・ミュージカル『エヴィータ』の人気に、実在のエヴィータエバ)のカリスマ性、神話性が寄与していることは否めないだろう。丸谷才一はエッセイ『私怨の晴らし方』で、『まねごと』におけるボルヘスの完璧な私怨の晴らし方を紹介してから、比較して鷗外『空車(むなぐるま)』は、武者小路実篤夏目漱石を賛美して鴎外を敬愛しないことへの揶揄であるという松本清張の解釈に賛同し、鷗外には「もともと詰まらぬことを根に持つて文を行(や)る癖(へき)があつた」と指摘し、「残念なことに出来が悪いし無内容である」と結んでいる。

ボルヘスの伝記を読んで、徹底したペロン嫌ひであることを知り、いささか衝撃を受けた。この作家があの軍人を尊敬してゐるとはまさか思つてゐなかつたけれど。

 もちろん彼があの大統領に反感を持つのは筋が通つてゐる。第一に彼は英米流の民主主義を奉じてゐて、独裁やファシズムは性に合はなかつた。第二にマチスモ(男性的権力意識)を敵視してゐて、ペロンはその代表みたいな男だつた。第三に彼は自分が図書館員の職から鶏と兎の検査官の職に左遷されたのはペロンの命によると信じてゐた(これはどうやら違ふらしい)。そんなわけだから、何かにつけて非難したつて、不思議はない。

 それなのにわたしがボルヘス伝を読んで、執念深いペロン攻撃に驚いたのには理由がある。彼のごく短い短編小説に、あの将軍を扱つた玲瓏(れいろう)珠のごとき名篇があるからだ。こんなに怨んでゐるくせに、愛憎を突き抜けた感じの、構えへの大きい小品が書ける。すごいものだなと敬服したのだ。

 しかし、とりあへずペロン夫妻の生涯を一筆がきして置かう。ペロンはアルゼンチンの軍人、政治家、大統領。イタリアに留学し、ムッソリーニに共鳴して帰国、一九四三年クーデターに参加。労働者に受けがよく、陸軍大臣、副大統領。反ペロン派のよつて幽閉されただ、労働者の大規模な抗議デモにより釈放された。四六年、金髪の夫人エバ(寒村の私生児として生れた声優、女優)の人気のせいもあつて大統領選で圧勝。五一年に再選されたが、五二年七月にエバが亡くなると、彼への支持も衰へて行つた。

 その短篇小説『まねごと』はこんな話だ。

 一九五二年七月、アルゼンチンのとある村に喪服の男が現れ、一軒の小屋を選び、棺に見立てた段ボールの箱に金髪の人形を納めたものを展示する。村人たちがやつて来て列を作り、男に向つて「将軍」と呼びかけてお悔やみを言ふと、男は握手をし、何か短く挨拶する。ブリキの箱に二ペソづつ銅貨が投げ入れられる。

 これは実話で、しかも役者と場所を変へてほうぼうでおこなはれた、と説明をつけてからボルヘスは書く。

「それは言わば、ある夢の影であり、『ハムレット』の劇中劇のようなものである。喪服の男はペロンではなく、ブロンドの髪の人形はその妻のエバ・ドゥアルテではなかった。しかし同様に、ペロンはペロンではなく、エバエバではなかった。」(鼓直訳)

 ボルヘスといふ果実からしたたり落ちた一滴。オリジナルとコピーは見事な一対となり、さらに、オリジナルなど存在せず、コピーとコピーの関係があるだけといふ認識が示され、ペロンとエバの人生は香具師(やし)と人形による奇妙な興行と当価値のもにされる。香具師と人形が一瞬のうちに神話化されると言つてもよい。皮肉な発想による完璧な仕上げの工藝品。ここには意趣返しなどといふ卑しい動機はまつたく見えず、ただボルヘスの世界観とそれを托するに打つてつけのラテンアメリカ的現実がある。いや、作家が私怨を晴らすときにはかう書けといふ模範、と見るべきか。》

 

・ レヴィ=ストロースは、社会学民族学の問題にとりくむ前に、ほとんどいつもマルクス『ルイ・ ボナパルトブリュメール十八日』を何ページか読んで、思考に活力を与えていたという。

 似たような意味あいで、二十世紀の二人の哲学者は、思想・哲学書の「序」にボルヘスを引用することによって、思考に活力ばかりか起点をも与えた。

 一つめはミシェル・フーコー『言葉と物』。

「序」がボルヘスのテクストの紹介(『続審問』の『ジョン・ウィルキンズの分析言語』の引用)から始まるのはよく知られたところだ。

《この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。いま思考と言ったが、それは、われわれの時代と風土の刻印をおされたわれわれ自身の思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、<同一者>と<他者>についての千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである。ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは、つまり、この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに差ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。(中略)

 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、《唐突なもの》や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生れたためだったろう。》

 これを端緒にフーコーは文化の諸コード、秩序、知の考古学、「エピステーメー」へと思考を展開してゆく。

 二つめはジル・ドゥルーズ『差異と反復』。

「はじめに」の最後で、哲学的表現の新しい手段の追求のために、哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきとして、ボルヘスで締めくくってゆく。

《周知のように、ボルヘスは、想像上の本を報告することにかけては卓越した力量をもっている。しかしボルヘスがもっと徹底してことにあたるのは、彼が、たとえば『ドン・キホーテ』のような実在する書物を、想像上の著者ピエール・メナール自身によって再生産された想像上の書物であるかのようにみなしておきながら、しかもこのピエール・メナールを今度は実在的な人物であるかのようにみなすときである。そのとき、もっとも正確でもっとも厳密な反復が、最高度の差異を相関項としているのである(「セルヴァンテスのテクストとメナールのテクストは、言葉のうえでは同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限に豊かである……」)。哲学史の諸報告は、テクストに関する、一種のスローモーション、凝固あるいは静止を表象=再現前化していなければならず、しかも、その諸報告が関係しているテクストばかりでなく(・・・・・・)、その諸報告がその内部に潜んでいる当のテクストまでも扱わなければならない。したがって、哲学史の諸報告は、或る分身的存在をもつのであり、そして、古いテクストとアクチュアルなテクストの相互間における(・・・・・・・)純然たる反復を、理想的な分身としてもつのである。(後略)》

 そもそもボルヘスの文学自体が「差異と反復」なのは、彼のキーワード、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」をイメージすればすぐにわかる。

 

ボルヘスの本質について、ブランショが『来るべき書物』の中で述べている。

ボルヘスは、本質的に文学的な人物であって(これは彼が、つねに、文学によって許された理解の様式にしたがって理解しようとしているという意味だ)、彼は、この悪しき永遠性及び悪しき無限性とたたかっているが、法悦と呼ばれるあの輝かしい逆転に到るまでは、おそらくこの二つだけが、われわれの吟味しうるものである。書物とは、彼にとっては原理的に世界なのであり、世界とは一冊の書物である。まさしくこのことこそ、世界全体の意味に関して、彼を安心させることとなるようだ。なぜなら、世界全体が理性に貫かれているかどうかということについては、人は疑いを抱くことが出来るが、われわれが作る書物の場合、それも特に、たとえば探偵小説のように、まったく明確な解決がぴったりするまったくあいまいな問題として、たくみに構成された仮構物的な書物の場合、われわれには、それらが、知性に浸透され、精神というあの連結能力によって動かされていることがわかっている。だが、もし、世界が一冊の書物であれば、どんな書物もみな世界である。そしてこの無邪気な同語反復から、さまざまなおそるべき結果が惹き起こされるのである。》

 

・しかし、ボルヘスには『ブロディーの報告書』(一九七〇年)のように、ボルヘス曰く「簡潔で直截な」、「リアリスティック」な作品もある。それは土着的でマッチョな世界であり、七十歳の出版だから、それまでの作風から旋回したのかと思われがちだが、『伝奇集』(一九四四年)にも『エル・アレフ』(一九四九年)にも、アルゼンチンを舞台とした、「リアリスティック」風な、「土着的でマッチョな世界」がいくつか入っている。人によってはボルヘスの真髄であるにも関わらず敬遠しがちな「観念論」をも包含し、つまりは「ボルヘスのすべて」が凝縮、顕現している。

 これから読む『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』、『エンマ・ツンツ』、『もうひとつの死』は、『エル・アレフ』からのそういった三作品である。

 知られているように、晩年のボルヘスは遺伝性眼疾の進行によってほぼ盲目だったが、朗読による読書、口述筆記、介添人の腕に頼っての世界旅行と、作家人生を精力的に生き抜いた。私たちもまた、ボルヘスを理解し感じとるために、闇夜の道標となる補助線があれば、たちまち夢とうつつの世界が現前するだろう。

 

<『タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九~一八七四)』>

     わたしはさがしている

      創世記の自分の顔を。

         イエイツ『螺旋階段』

 一八二九年二月六日、終日ラバジェ将軍の攻撃に悩まされながら、ロペス麾下の師団と合流すべく北進して来たガウチョの義勇兵の一隊は、ペルガミーノから二十キロばかり離れた、とある名も知らぬ牧場で休止した。明け方近く、男たちの一人が執拗な悪夢にうなされた。小屋の薄暗がりの中で、その男のうろたえた叫び声が、隣りに寝ていた女を目覚めさせた。彼が何を夢みたのかは知るよしもない。というのは翌日の午後四時頃、義勇兵たちは、スアレスの騎兵隊に五十キロも追われたあげく、夕闇迫る湿地の丈高い草の間で潰滅したからである。その男は、すでにペルーやブラジルの戦いに活躍したサーベルで頭蓋を割られ、溝の中で死んだ。例の女の名はイシドラ・クルスといった。生れた子供は、タデオ・イシドロと名づけられた。

 わたしの目的は、彼の全生涯を反復すようというものではない。その人生を構成した数々の昼と夜の中、私の関心を引くのはただ一夜である。残りの日夜については、その夜を理解するのに不可欠な場合にのみ、語ろうと思う。彼の冒険譚は有名な歌物語に詳しい。例の、ほとんど無尽蔵ともいえる変形、解釈、曲解が可能なために、今ではその材料が「すべての人には凡(すべ)ての人の状(さま)に従へり」(コリント前書第九章二十二節)という有様になってしまった物語である。タデオ・イシドロの物語について評釈した人びとは――これが又数多いのだが――彼の人格形成に及ぼした平原の影響を強調する。しかし、彼と全くよく似たガウチョの中にも、パラナ川沿岸の森林地帯や、ウルグアイの丘陵地帯に生れそして死んだ者もいるのである。なるほど彼が単調この上ない未開の世界に生きていたのは確かだ。一八七四年に天然痘で死ぬまで、彼は山もガスの火口も風車も目にしたことがなかった。又都会も見たことがなかった。一八四九年に、彼はフランシスコ・ザビエル・アセベードの牧場から、牛を追う旅でブエノス・アイレスへ行った。他の牛追いたちは、胴巻きを空にするために町へくり出した。が用心深いクルスは、家畜置場にほど近い安宿から遠くへは出なかった。そこで彼はたった一人、無言で数日を暮した。土間に眠り、マテ茶をすすり、夜明けと共に起き、夕べの祈りと共に床についた。彼は(言葉も、理性さえも届かぬところで)、その都会が自分には無縁であることを悟っていた。牛追いたちの一人が、酔っぱらって、彼をからかいはじめた。クルスは彼を無視した。しかし帰りの旅の途中幾夜も、焚火を囲んでいる時に、その男がからみ続けたので、クルスは(その時まで怒った顔も不快そうな顔も見せたことはなかったのに)、ナイフの一突きで彼をのばしてしまった。逃亡の途中、彼は湿地の茂みに身をかくす羽目になった。幾夜かたって、鷺(チヤハ)の叫びで警察に包囲されていることを知った。彼は草むらでナイフの刃をためし、足が草にもつれるのを避けるために拍車を外(はず)した。降伏するよりはあくまで戦う方をえらんだのだ。前腕と肩と左手に傷を負ったが、敵方の最も勇敢な連中に深傷(ふかで)を負わせた。指の間を血が流れ落ちると、なおいっそう獅子奮迅の勢いを増した。明け方近く、出血のために弱って、ついに武器をたたき落された。軍隊は、当時、一種の懲罰機関の役割を果していたから、クルスは北部国境の小堡に派遣された。一兵卒として内戦に参加し、ある時は故郷の州のために、ある時はそれを敵にまわして戦った。一八五六年一月二十三日、カルドーソの湿地帯で二百人のインディオと戦った、エウセビオ・ラプリーダ曹長麾下の三十人の白人部隊の中にも彼はいた。この時の戦闘で、彼は槍傷を受けている。

 彼の判然としない、勇敢な生涯には多くの空白がある。一八六八年頃、彼が再びペルガミーノにいることが知れる。結婚したか、同棲したか、一児の父となり、わずかな土地の所有者である。一八六九年には、土地の警察の巡査部長に任命された。すでに過去は清算されていた。そしてその頃は、自分は幸せだと思っていたにちがいない。心の奥底ではそうではなかったのだが。(その夜を、まだ未来に隠れて、根底から照らし出す啓示の一夜が待ちかまえていたのだ。ついに自分の本当の顔を見る夜、ついに自分の名を聞く夜が。真の意味を理解すれば、それは一夜にして彼の全生涯を尽くすことになるのだ。いやむしろ、その夜の一瞬が、その夜の一行為がといった方がよいだろう。なぜなら、行為こそわれわれの象徴だからだ。)およそ運命とは、いかに長く又複雑であろうとも、本質的には「ただ一瞬で」成り立っているものだ。その一瞬に、人は、決定的におのれの正体を知るのである。アレキサンダー大王は、アキレスの神話の中に自分の鉄の未来を見、スウェーデンのカール十二世は、アレキサンダー大王の伝記の中に自分の未来の反映を見たと言われている。読むことを知らなかったタデオ・イシドロ・クルスにとって、その啓示は書物によって与えられたのではない。彼は乱闘の中で、そして一人の男の中に、おのれ自身を見たのであった。その次第は次のとおりである。

 一八七〇年六月の末、彼は二人の男を殺害した無法者を逮捕せよとの命令を受ける。南部国境守備のベニート・マチャード大佐の部隊の脱走兵である。売春宿で酔っぱらったあげくの喧嘩で黒人を殺し、又ぞろ酒の上の喧嘩でロハス郡の住民を殺したという。彼がラグーナ・コロラーダの出身であることもその手配書には書き添えられていた。それこそ、四十年ばかり前にガウチョの義勇軍が、結局彼らの肉を禿鷹や野犬の餌食に供することとなった不運な戦いに出陣するために、終結した地点だったのである。それは、後にブエノス・アイレスのビクトリア広場で、その最後の叫びをかき消さんばかりに轟きわたる太鼓の響きの中で処刑された、マヌエル・メーサの出身地だった。それは又、クルスの父であり、ペルーとブラジルの戦場で活躍したサーベルに頭蓋を割られて溝の中で死んだ、あの無名の男と出身地でもあった。クルスはその地名をとっくに忘れていたのだが、軽い、しかし名状しがたい胸騒ぎと共に、今彼はそれを思い出した……

 警官たちに追われたお尋ね者は、馬を縦横に乗り廻して、長い迷路を織りなした。しかしついに、七月十二日夜、捜索隊は彼を追いつめた。彼は丈高い草の茂みに身をひそめた。ほとんど見とおしのきかぬ闇である。クルスとその部下は、足音をしのばせて、その真中に隠れた男が待ちかまえているか眠っているかしているはずの、かすかにゆらぐ茂みに向って進んで行った。鷺(チヤハ)が叫びをあげた。タデオ・イシドロ・クルスは、以前この瞬間を経験したことがあるような気がした。犯人は戦うために隠れ場所から出て来た。クルスはぞっとするような彼の顔を見分けた。のび放題の髪と半白のあごひげがその顔を蚕食しているように見える。ある明白な理由から、それに続く戦闘の模様を描写するのはやめることにする。ただ、逃亡者がクルスの部下の幾人かに重傷を負わせ、或いは殺したことだけを指摘すれば足りよう。闇の中で戦っている間に(暗の中で彼の肉体が戦っている間に)、彼は理解しはじめたのだ。一つの運命が他の運命よりよいなどということはあり得ない、しかし、誰も自分の内なるものを尊重する他はないのだ、ということを。自分の肩章や制服が今や邪魔になったということを。自分本来の運命は一匹狼であって、衆をたのむ犬ではないことを。あの相手こそ自分自身であることを理解したのだ。はてしない平原の夜が明けた。クルスは軍帽をかなぐり捨て、勇士を殺すような犯罪には加担出来ないと叫ぶや、自分の部下を向うにまわして戦いはじめた。逃亡者マルティンフィエロと肩をならべて。》

 

ボルヘスは『ボルヘスとわたし――自選短篇集』(原題 “The Aleph and other stories 1933-1969”)で本作を「著者注釈」している。

《この物語は野性の呼び声(・・・・・・)のアルゼンチン版である。これはまた、一八八二年にホセ・エルナンデス(アルゼンチンの作家、一八三四~八六)によって書かれた、ガウチョの多難な放浪の歌物語『マルティンフィエロ』に対するひとつの注釈(グロス)でもある。この歌物語》におけるクルスは、かつては命知らずのならず者だったが、改心して巡査部長にまでなり、脱走兵の殺人犯マルティンフィエロの捜索に行く警察隊の隊長となる人物である。そしてクルスは、おたずね者の勇気をまのあたりにして彼の側につき、自分の部下を数人殺して、昔の生活に戻っていく。この予期できない唐突な決断ゆえに、わたしはクルスをエルナンデスの作品中、最も興味深い、謎に満ちた人物であると思う。わたしの知る限りでは、敵方に転じた警官の奇妙な行動に驚嘆した読者はわたしだけのようだ。『マルティンフィエロ』はもはや古典となっているので、その中の出来事は何か当然のことと思われ、誰も新鮮な驚きを覚えないのだろう。

 クルスの行動に対するわたし自身の当惑が、わたしにこの物語を書かせたのだと思う。警官クルスの前半生は、エルナンデスの作品に詳述されている。そこで、この歌物語に親しんでいる読者に最後まで気づかれないように、背景となる情況を変える必要があった。クルスという名前には、タデオ・イシドロを冠した。また、エルナンデスの作品とは関係のないメサの処刑とか、二百人のインディオたちと戦ったラプリーダ麾下の三十人の白人の話のような歴史的エピソードを織りこんだ。付随的な詳細のうちには、わたし自身の先祖に由来するものも多い。例えば、冒頭で義勇兵ガウチョたちを潰走させてしまうスワレスなる人物は、わたしの曾祖父である。そして、クルスが働いていた農場は、これまた親族のフランシスコ・ザビエル・アセベード所有のものである。ついでに言えば、マヌエル・メサの最後の呪いの叫び声をかき消すために、太鼓を打ち鳴らすように命じたのはスワレスであった。しかしながら、この物語が単なるトリックで終ってしまわないように、わたしはそこにあるヒントや痕跡を残しておいた。物語の第二節で早くも、あの歌物語との関連が明かされる。そして物語の最後で、明らかな理由によって闘いの場面は描写しないとあるが、その理由とは、『マルティンフィエロ』の中でそれが詳細に述べられている、ということである。

 タデオ・イシドロ・クルスが自身の正体を見出し、マルティンフィエロと敵対することを拒絶するあの劇的な瞬間、そこには、意識されてはいなくとも根深いスペイン的なものがあるように思われる。わたしは、鉄の鎖で数珠(じゅず)つなぎにされて行く囚人たちを目にした騎士ドン・キホーテが、護衛の役人に彼らの釈放を要請する有名な一節を思い出す。「めいめいの者が犯した罪はあの世で償わせるがよい。悪人をこらしめ、善人を嘉(よみ)することをゆるがせにし給うことなき神が天にましますのじゃ。正しい人びとが他人の刑罰の執行人となることは決してほめた話ではない……。」》

 

清水徹が「ひとつのボルヘス入門」(一九八一年の講演記録の書き直し)で、「ボルヘスにおける地方性と国際性」と題して考察しているが、これら三つの作品に当てはまる。

《(前略)ボルヘスには中世英文学に関する著書などもあって、博識の権化のような作家、博識によって幻想をつくりだすような作家なのですが、じつはけっしてそれだけではない。彼の短編小説を読むと、ガウチョ(gaucho)つまりラプラタ河流域の大草原(パンパ)(pampa)で家畜の養育にあたる、いわばアルゼンチンにおけるカウボーイのような役どころである人間と、コンパドリート(compadrito)――都市の場末に住んでいるならず者で、独特のやや悪趣味な服装をして自分では伊達男のつもりでおり、傲然と他人を見下ろし、ナイフで自分の名誉を守ろうとするような人間、このふたつのタイプがよく出てきます。(中略)

 ボルヘスの著書『エバリスト・カリエゴ』(一九三〇、一九五五)によれば、この民衆詩人はボルヘスが幼時をすごしたパレルモ地区での隣人で、ならず者(コンパドリート)たちとつき合い、いつも黒づくめの服装で、肺を病んで血痰を吐きながら、タンゴの流れる場末街の魂をうたいつづけたという人物です。

 ボルヘスはこの本で、パレルモ地区の過去――「いちじくの木が土塀に影を落とし、落花生売りの頼りなげな角笛の音が夕暮れをまさぐり、シャボテンを無雑作に飾った石の壺が貧しい家に置いてある」ような地区、「目深にかぶったミトラ風の鰐広帽と田舎者じみたたっつけズボンの盗賊」が、気取ってわざわざ刃渡りの短いナイフをもって、警察に個人的な決闘を挑むような地区の話を書きながら、ブラウニングの「ここ、まぎれもなくここで、英国は私を救った」(Here and here did England help me)という一句を思い出し、「英国」を「ブエノスアイレス」と入れ換えてこう思う――「その詩句は、私にとって、孤独の夜の象徴であり、街の無限のなかをさまよう恍惚として終ることのない散策の象徴であった。というのも、ブエノスアイレスは果てしがなく、幻滅や苦悩のうつにある私が、その数ある通りへとはいりこんでゆくと、かならず思いもよらぬ慰めが得られたものである。その慰めとは、あるときは非現実の感覚だったり、あるときは中庭の奥から聞えてくるギターの調べだったり、またあるときは、生の交歓だったりしたのだが」(中略)

 ボルヘスは《ガウチョ》とか《コンパドリート》というアルゼンチンの土着的なものを、いわばその本質をなすと同時に人間にとって普遍的な要素でもあるものへと還元し、そのことによって透明化するのです。ガウチョやコンパドリートが伊達をつらぬいて、決闘でころりと死んでしまう、――ボルヘスはそういう物語をたくさん書いていますが、それらはアルゼンチンの土着的風俗を表現するための題材としてあるのではなく、人間の生と死をめぐる非常に単純素朴な、それゆえに生と死をめぐる根源的な謎がますますくっきりと浮かびあがるような状況として選ばれているのです。人間の生活のひどく単純な要素と、生と死とをめぐる根元的な不可能さ、時が過ぎ、それとともにいかなる人間的な夢も満たされぬまま過ぎ去って、非情な死が訪れるという現実を感じとるときの、あるエモーショナルなもの、総じて《時間》に関する独特な感覚――たしかにそれは、ガウチョやコンパドリートの風俗をふまえた、《アルゼンチン的悲哀》と名づけられるものではありますが、と同時にたんなる《地方性》といったものではなく、まぎれもなく《時間》というものに関する普遍的で根源的な情感でありましょう。そうした普遍的な情感が、パンパ、ガウチョ、コンパドリート、タンゴ、といった道具立において、じつにくっきりと浮かびあがる、といったふうなのです。(中略)

 アルゼンチンの「伝統的」な風俗、ブエノスアイレスの「地方的」な庶民性――それらもボルヘスの作品のなかに取り入れられたとき、「伝統的」とか「地方的」といった言葉に示されるところの、いわば《時間》の相の下において形成された「いま(・・)」「ここ(・・)」におけるものという性格を失なう。そして一方では、人間の生と死をめぐる根源的なものを浮かびあがらせるための舞台装置という役割にしりぞき、他方ではボルヘス独特の、一見詭弁とも思える時間論を形成してゆくのです。

 ボルヘスの巧智。――ボルヘスはここで、いかにも地方色そのものといった風物を点描しながら、場末街のひとりの民衆詩人を論じている。だが、そういうボルヘスの筆はいつのまにか、このカリエゴなる人物が《時間》のなかでもつ一回限りの個体性の輪郭を薄れさせてしまう。かわりに出現するのは、ある素朴な、それゆえに根元的な仕草を繰り返しているように見える人間たち、彼らひとりひとりの個体としてのはかなさと、個体の繰り返しとしての種の永遠との対比、そうした対比を認めるときににじみだす哀愁、そういったものなのです。》

 

<『エンマ・ツンツ』>

《一九二二年一月十四日、タルブーフ=レーヴェンタール織物工場から帰ったエンマ・ツンツは、玄関ホールの奥で、ブラジルの消印のある手紙を見つけた。それは、彼女の父の死を告げるものだった。最初は切手と封筒に目を欺かれた。それから見馴れぬ筆蹟に不安を覚えた。九行か十行の文字が、紙片一ぱいに書きなぐられていた。マイエル氏が誤ってヴェロナールを多量に服用し、今月の三日にバジェの病院で死亡した、とエンマは読んだ。父の下宿の友人の、フェインとかファインとかいうリオ・グランデの人が、亡くなった人の娘に宛てるものとも知らずに署名していた。

 エンマは紙片を取り落した。彼女の第一印象は、腹部と両膝の力が抜けた感じだった。次いで、何とも知れぬ罪悪感と、非現実感と、寒さと、恐怖に襲われた。それから、早く今日が終って明日になっていればよいのに、と思った。だが次の瞬間、その願いは無益であると悟った。なぜといって、父の死はこの世で一回限り起ることであり、しかも永遠に続くものだからである。彼女はその紙片を拾い上げて、自分の部屋へ行った。こっそりと彼女はそれを引き出しにしまった。どういう理由からか、その遠方の出来事をすでに知っていたかのように。多分、その事態をすでに推測しはじめていたのだろう。すでに未来の自分になっていたのだ。

 次第に濃くなる夕闇の中で、エンマはその日の終りまで、かつての幸せな日々にはエマヌエル・ツンツであったマヌエル・マイエルの自殺を嘆き悲しんだ。彼女はグワレグワイの近くの小さな農場で過した夏休みを思い出し、母親を思い出し(思い出そうとし)、競売にされたラヌスの小さな家を思い出し、黄色い菱形窓を思い出し、禁固刑の判決を、汚名を思い出し、「出納係の受託金横領」についての新聞記事と共に匿名の投書を思い出し、さらに(これは片時も忘れたわけではなかったが)父親が、最後の夜に、誓って盗んだのはレーヴェンタールだと彼女に言ったことを思い出した。レーヴェンタール、アアロン・レーヴェンタールは、以前はその工場の支配人だったが、今は所有者の一人になっていた。エンマは、一九一六年以来、この秘密を守って来た。誰にも明さず、親友のエルザ・ウルスタインにさえ言わなかった。恐らくひどい不信を買うことを避けたのだろうし、その秘密が自分と不在の父親を結ぶ絆になると信じたかったからだろう。レーヴェンタールは彼女が知っていることを知らなかった。エンマ・ツンツはこの些細な事実のために、優越感を抱いていた。

 その夜は一睡もせず、曙光が四角い窓を明るませた時には、彼女の計画はすでに出来上っていた。その日は彼女にとって無限に思われたが、いつもと変らぬように努めた。工場にはストライキの噂が流れていた。エンマはいつものように、あらゆる暴力に反対すると言明した。六時に仕事が終ると、エルザと一緒に、体育館とプールのある女性のクラブへ行った。自分たちの名前を署名した。彼女は名前と苗字をくり返し、一字ずつ綴りを言わなければならなかった。身体検査につきものの下品な冗談にも答えなければならなかった。エルザやクロンフス家の末娘と、日曜の午後はどの映画に行こうかと議論した。それから恋人の話になったが、誰もエンマが会話に加わるとは思わなかった。四月には十九になるというのに、男たちはまだ、彼女に病的といってよい程の恐怖をおこさせるのだった……家に帰ると、タピオカのスープと二、三の野菜を調理し、早目に食べ、床について何とか眠ろうとした。このようにして、骨の折れる、しかも平凡な十五日金曜日、つまりその前夜が過ぎて行った。

 土曜日、彼女は焦燥にかられて目をさました。それは焦燥であって不安ではなかった。さらに、ついにその日が来たという奇妙な安堵でもあった。も早計画したり想像したりする必要はない。数時間もすれば、事は単純に見えるだろう。彼女は「ラ・プレンサ」紙で、スウェーデンのマルメーの船《北極星号》が、その夜第三埠頭から出航するという記事を読んだ。電話でレーヴェンタールを呼び出し、他の女たちには内密で、ストライキに関することをお耳に入れたいとほのめかして、暮れ方に彼の事務所に寄ると約束した。彼女の声はふるえていた。だがそのふるえは、密告者にふさわしかった。その朝は、他にこれといったことは起らなかった。エンマは十二時まで仕事をし、それから、エルザやベルラ・クロンフスと日曜の散歩の細かい打合せをした。昼食後、目を閉じたまま横になって、すでに周到にめぐらした計画を再検討した。最後の一歩は最初の一歩ほど恐ろしくはないだろうし、きっと勝利と正義の味を味わわせてくれるだろうと思った。突然、ぎょっとして彼女は起き上がり、たんすの引き出しにかけ寄った。それをあける、とミルトン・シルスの写真の下に、前夜のまま、ファインの手紙があった。誰も見たはずはない。彼女はそれを読みはじめ、それから破りすてた。

 その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう? エンマはリニエルス街のアルマグロに住んでいた。その午後、彼女が港へ行ったことは分っている。恐らくあのいかがわしいパセオ・デ・フリオ界隈で、幾重にも鏡に映り、灯りに身をさらして、飢えた視線に裸にむかれたのだろうが、それよりは、最初気づかれずに無関心な入り口からさまよい入ったと想像する方がまっとうだろう……二、三軒のバーにはいって、他の女たちのもの馴れた手練手管に目をとめた。最後に、彼女は《北極星号》の乗組員たちに出会った。その中の一人は非常に若く、甘い気分をかきたてられそうだったので、別の一人、多分彼女より背が低くて野卑な男をえらんだ。恐怖の純粋さを鈍らせぬためだった。その男は彼女をとある戸口へ連れて行き、それから陰気な玄関ホールへ、それから曲りくねった階段へ、それから控えの間(そこにはラヌスの家と同じ菱形窓があった)へ、それから廊下へ、それから一つの戸口へと進んでその戸を彼女の後で閉めた。重大な出来事は、時間の外でおこる。その直前の過去が、あたかも未来から切りはなされているように思えるからか、或いは、その出来事を構成する部分部分が、非連続に見えるからである。

 そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 彼女はたしかに一度は考えた、そしてその瞬間、その必死の計画を危くぶちこわすところだった、とわたしは信じる。今自分がされているような、ぞっとする程いやらしいことを父が母にしたのだ、と彼女は考えた(考えずにはいられなかった)。彼女はそのことを軽く驚きながら考え、それからす早く、めまいの中に逃避した。その男はスウェーデン人かフィンランド人か、とにかくスペイン語を話せなかった。彼女が彼にとって道具であったのと同じく、彼もエンマの道具であった。ただ、彼女は彼の快楽に奉仕し、一方彼は彼女の正義に奉仕したのである。

 ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。

 アアロン・レーヴェンタールは、真面目な男で通っており、親しい友人の間では吝嗇家とされていた。彼は、ひとりで、工場の上の階に住んでいた。それはさびれた町外れだったから、彼は泥棒を恐れていた。工場の中庭には大きな犬が飼ってあり、机の引き出しに連発拳銃が忍ばせてあることは誰知らぬ者もなかった。その前年に、彼は思いがけず妻――ガウス家の娘でかなりの持参金を持って来た!――を亡くして仰々しく悲しんでいたが、彼の本当の情熱は金にあった。内心赤面しながらも、彼は自分が金をもうける方よりは貯める方に向いていると心得ていた。彼は非常に信心深かった。そして祈禱や勤行とひきかえに、善行を積まなくてもよいという密約を神と交わしたのだと信じていた。禿げで、肥って、喪服を着け、いぶしガラスの鼻眼鏡をかけ、金色の髭をたくわえたその男は、窓のそばに立って、女工ツンツの密告を待ちかまえていた。

 彼女が鉄の門(彼がそれをあけておいた)を押して、うす暗い中庭を横切って来るのが見えた。鎖でつながれている犬が吠えた時、少し遠廻りするのが見えた。エンマの唇は、低い声で祈りを唱えている人のように、いそがしく動いていた。疲れながらも、それは、レーヴェンタール氏が死の直前に聞くはずの宣告をくり返していたのであった。

 事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。

 アアロン・レーヴェンタールの前に出ると、何としても父の復讐をとげようという思いよりも、自分の受けた凌辱に罰を加えたいという気持の方を強く感じた。かくも綿密に準備された恥の後では、彼を殺さずにおくことは出来なかった。それに、大芝居をうつ暇もなかった。腰かけて、おずおずと、彼女はレーヴェンタールに弁解し、(密告者の特権として)口外しない約束の念をおしてから、いく人かの名前をあげ、なおその他の名前を匂わせ、それからまるで恐怖に負けたかのように口をつぐんだ。こうして、レーヴェンタールが水を一ぱい取りに行くようにし向けることに成功した。彼がその大げさな様子をいぶかりながらも大目に見て食堂から戻って来た時、エンマはすでに引き出しからずっしりした連発拳銃を取り出していた。彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。(「わたしは父の復讐を果したのであり、誰もわたしを罰することは出来ないはずだ……」)しかし彼女は途中でやめた、というのもレーヴェンタール氏はすでに死んでしまったからだ。彼が理解し得たかどうかは、彼女にはついに分らなかった。

 激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》

 実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ボルヘス作品には女性が主人公のものはほとんどない。男性、もしくは男性ではあるが、ほとんど性別はどうでもよいような普遍的人間からなる。たまに女性が登場しても脇役にすぎない。『ブロディーの報告書』の中の「老婦人」のハウレギ夫人も、「決闘」のフィゲロア夫人とマルタ・ピッサロの女二人も、女性性を刻印されていない。ボルヘス自身が女性に対して奥手であり、引っ込み思案であったことも関係しているのかもしれないし、たまたま論じる対象が男だっただけでジェンダーやセックスなどどうでもよいことだったのかもしれない。

 そういう意味では、このエンマ・ツンツという女主人公は、処女を喪失する(セックスの場面もあるが、エロティシズムはない)ということで、まさしく女性として描かれた珍しい作品である。

 

柄谷行人は『批評とポスト・モダン』所収の『唐十郎の劇と小説』で、《滞米中、私はひとが現代の小説について話すのを聞いたことがなかった。例外的に話題になったのはボルヘスである。しかし、ボルヘスが話題になることと、小説が話題にならないこととは同じことである。小説とは、描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法であるが、ボルヘスにはそれが一切欠けている。彼の小説は、本についての注釈であり引用なのである。》と書いているが、この『エンマ・ツンツ』には、ボルヘスの小説には一切欠けているはずの《描写であり、風景であり、内部であり、つまるところ認識論的な遠近法》が書き連ねられている。

《ひとりになった時、エンマはすぐには目を開かなかった。ナイト・テーブルの上には、男がおいて行った紙幣があった。エンマは身を起して、前に手紙を破り棄てたように、それを粉々にちぎった。紙幣を破ることは、パンをすてるのと同じ不敬な行為である。エンマはとたんにそれを後悔した。傲慢な行為を、しかもその当日にしてしまうなんて……彼女の恐怖は、肉体の悲しみの中に、嫌悪感の中に消えてしまった。むかつきと悲しみとにがんじがらめになりながら、しかしエンマはゆっくりと起き上って、着物を着ていった。部屋の中には、もう明るい色は残っていなかった。夕闇が濃くなっていた。エンマは誰にも見られずに出て行くことが出来た。通りの角で、西へ行く市内電車に乗った。計画にのっとって、顔を見られないように、最前部の座席をえらんだ。恐らく、単調に動いて行く街並みの中で、さっき起ったことは何も汚しはしなかったのだと確認することで、自ら慰めていたのだろう。彼女は家並みのまばらになって行くくすんだ郊外を通過し、それらを見るそばから忘れて行って、やがてワルネスの一つの辻で降りた。矛盾した話だが、彼女の疲労が力となったのだ。なぜなら、疲労のために彼女はその冒険の細部に集中せざるを得なくなり、その根拠や目的を見失ってしまったからである。》

《彼女は引き金を二度引いた。かなり大きな体が、銃声と硝煙に打ち砕かれたかのようにくずおれ、水を入れたコップは砕け散り、驚きと怒りを浮べた顔が彼女を見まもり、その顔の唇がスペイン語イディッシュ語で彼女を罵った。その悪罵はいっこうに弱まらなかったので、エンマはもう一発射たねばならなかった。中庭で鎖につながれた犬が吠えはじめ、猥らな唇からどっと血が噴き出して髭と服を汚した。エンマはあらかじめ用意した告発をはじめた。》

《激しい犬の吠え声が、まだ気をゆるめることは出来ないことを彼女に思い出させた。長椅子を乱し、死体の上衣のボタンを外し、ガラスのとび散った鼻眼鏡を取ってそれをファイルのキャビネットの上においた。それから受話器を取り上げて、後に同じ言葉や別の言葉でたびたびくり返すことになったことをくり返した。《信じられないことが起こりました……レーヴェンタールさんがストライキを口実にしてわたしを呼びつけたんです……彼はわたしを辱めました、わたしは彼を殺しました……》》

 

・『エンマ・ツンツ』が「時間」と無縁かといえばそうではない。エンマの殺人行為は、分岐し続ける「時間」の内と外を往き来する。

《その午後の出来事を何らかの現実性をもって物語ることは、困難でもあろうし、また恐らく適切ではないだろう。地獄のような経験には非現実性がつきものである。この属性はその恐怖をやわらげもし、また多分一層つのらせもするように思われる。それを行った当人さえほとんど信じられないような行為を、一体どうすれば真実らしく見せることが出来るだろう? 今はエンマ・ツンツの記憶さえ否認し混同しているあの束の間の混沌を、どうすれば再現することが出来るだろう?》

《そういった時間の外の時間の間、その切れ切れのむごたらしい感覚がどうしようもなく乱れている間に、エンマ・ツンツは、この犠牲をうながした当の死者のことを、ただの一度でも考えただろうか? 》

《事は、エンマ・ツンツの予想どおりには起らなかった。昨日の明け方以来、彼女は、断固として拳銃をつきつけてこの卑劣漢に卑劣な罪を告白させ、神の正義をして人間の正義に勝たしめるという大胆不敵な計略をあらわにする自分の姿を、何度も夢想していたのだ。(恐怖からではなく、自分が正義の手先であるという理由で、彼女は罰せられることを望まなかった。)それから、胸のど真中にぶちこむただの一発が、レーヴェンタールの運命を封印するだろう。ところが、事はそんな風には運ばなかった。》

《実際、その話は信じがたかったが、大筋のところは真実だったから、誰にも感銘を与えた。エンマ・ツンツの語調は真実だったし、その恥辱は真実だったし、その憎悪も真実だった。彼女が受けた凌辱もまた真実だった。ただ状況と、時間と、一つ二つの固有名詞だけが虚偽だった。》

 

ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』の第6章「偽なるものの力能」でボルヘスにまで言及した、可能と不可能の「共不可能性」という時間論は、殺すかもしれないし、殺されるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……で、『エンマ・ツンツ』にあてはまる(さらには、後述する作品の『もうひとつの死』にもあてはまる)。

《思想史を振り返ると、時間はつねに真理という観念を危機にさらすものであったことがわかる。真理が時代によって変化するということではない。真理を危機にさらすのは、時間の単なる経験的な内容ではなく、時間の純粋な形態、あるいはむしろ純粋な力である。こうした危機は、古代にあってすでに「不慮の未来」という逆説において明らかになっている。海戦が明日起こりうる(・・)というのが真(・)であれば、次の二つの帰結のうちの一つをいかにして避ければよいのか。つまり、不可能が可能から生じる(というのは、海戦が起これば、もはや起こらなかったことはありえないから)、もしくは、過去は必ずしも真ではない(というのは、起こらないことが可能であったから)という二つの帰結である。この逆説を詭弁といってかたづけるのは容易である。これは逆説であるといっても、真理が時間の形態に対してもつ直接的な関係を考えることの難しさを示しており、真なるものを、実際に存在するものからは隔たった、永遠なるもの、あるいは永遠を模倣するもののうちに閉じ込めることを余儀なくさせる。この逆説に関して、最も巧妙な解決方法を手にするには、ライプニッツをまたなければならないが、彼の解決方法はまた、最も謎めいており、最も屈折したものでもある。ライプニッツによれば、海戦は起こることもありうるし、起こらないこともありうるが、それは同じ世界の中でのことではない。つまり、ある一つの世界では起こり、別の世界では起こらないのであり、この二つの世界は可能であるが、「ともに可能」ではない。それゆえ真理を救済しながらこの逆説を解決するためには、共不可能性(・・・・・)という美しい概念を捏造しなければならない(これは矛盾とはたいそう異なっている)。ライプニッツによると、可能なものから生じるのは、不可能なものではなく、共不可能なものである。そして、過去は必然的に真でなくても、真でありうる。しかし真理の危機はこうして解決されるというよりも、むしろ中断されるだけである。というのも、もろもろの共不可能性は同じ世界に属し、もろもろの共不可能な世界は同じ宇宙に属すると断言することを妨げるものは何もないからだ。「たとえば憑(ファン)は秘密を握っている。見知らぬ誰かがドアをたたく……。憑(ファン)は侵入者を殺すかもしれず、侵入者は憑(ファン)を殺すかもしれない。二人とも一命を取りとめるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれないし、等々……。あなたは私のところにくる。でも、可能な様々な過去のうちの一つにおいては、あなたは私の敵であり、別の過去においては友である……」。これがライプニッツへのボルヘスの答えである。つまり、時間の力、時間の迷路としての直線はまた、分岐し、たえず分岐し続ける線でもあり共不可能的な現在(・・・・・・・・)を通って、必然的に真ではない過去(・・・・・・・・・)にもどってくる。》

 

・ところで、エンマ・ツンツもまたある種の悪党なのではないか。イシドロ・クルスや、『もうひとつの死』のダミアンのような、いわくありげな男たちではなく、女工の少女であっても。『まねごと』の、ペロンとエヴィータへの「完璧な仕上げの工藝品」のような私怨の晴らし方を、小説を書けない少女は、自らの処女性と銃とで暴力的に果たしたのだ。

 ボルヘス批評はどれも同じように、「時間」「無限後退」「永遠」「鏡」「不死」「迷宮」「図書館」といった惑星として軌道を廻り続けるのが常だが、ポール・ド・マンは「現代の文豪――ホルヘ・ルイス・ボルヘス」で、《ボルヘスは難解であり、どこに位置づけるべきかきわめて困難な作家なのだ。批評家が適切な比較事項をあれこれ捜し求めても、その試みは徒労に終わるのである。》としたうえで、「悪党」「暴力」という卓抜な惑星を発見する。

《とりわけ初期作品についていえることだが、ボルヘスは悪党のことを書いているのだという点は、誰もが認めるはずである。たとえば短篇集『汚辱の世界史』では、実に魅力的な悪漢が一堂に会している。しかしながらボルヘスは、悪党という主題が道徳的なものであるとは考えていない。ここに収録されている短篇群から示唆されるのは、いかなる意味においても社会や人間性、人間の運命といったものに対する告発などではないし、ジイドのニーチェ的主人公ラフカディア(『法王庁の抜け穴』に出てくる若者)のごとき気楽な観点でもない。彼の作品における悪党とは、審美学的、形式論的原理として機能しているものである。(中略)

 厖大なるボルヘスの文学作品群を構成している短篇小説は、カフカの作品とは違い、道徳的寓話などではないのである。ボルヘスカフカと比較されることが多いが、それは誤りであろう。ボルヘスの作品が心理分析を試みたものであるはずがない。一番近い文学上の類比でいうならば、彼は実体験ではなく知的命題を再提出=表象しているという点で、十八世紀の「哲学的短編小説」の系譜に近いといえるだろうか。『カンディード』[ヴォルテール作・一七五九年]と『ボヴァリー夫人』[フロベール作・一八五六年]から、同種の心理洞察や直接的個人体験を期待するのは間違っていよう。そしてボルヘスの作品は、一九世紀小説よりヴォルテールを読む際に似た期待を抱きながら読むべきものなのだ。(中略)

 おそらくボルヘスが才気溢れる作家であるため、彼の創り出した鏡の世界には、常にアイロニカルではあるが、深遠なまでに無気味な雰囲気が漂うのであろう。『汚辱の世界史』のようにきな臭さの漂うものから、のちの『伝奇集』における暗く荒れ果てた世界まで、恐怖の影にはさまざまあるが、『創造者』では暴力がいっそう荒涼かつ陰鬱なものになっている。ボルヘスが生まれ育ったアルゼンチンの雰囲気に近づいてきているのであろうか。(中略)彼の初期作品における鏡の技法には、時間が無限という無形の空虚の中に永久(とわ)に没入するのを堰き止めんとする意図が表象されていた。すなわち文体とは、哲学者の思索と同様、不死を求める営みなのだ。だがこの試みは、失敗に終わらざるを得ない。ボルヘスがお気に入りの作品であるトマス・ブラウンの『壺葬論』(一六五八年)から引用するならば、「物事を仮初(かりそ)めにしか惟(おもんみ)ぬ、時間という阿片の解毒剤などないのである」。だがこれは、先にも述べた、詩人が現実に対して用いているトリックと同じものを、ボルヘスの神が詩人に仕掛けているからということではない。神とは実は、人を永遠という幻想に騙し導く悪党の頭(かしら)であった、ということではないのである。邪(よこしま)な詐術にひそむ詩的衝動とは、人のみぞ有している、人をして本質的に人間なのだということを指し示すものなのだから。しかしながら神は、詩が失敗に終わったことの証しとなる死という形をとり、現実そのものを支配する権力としての舞台に登場する。それこそが、ボルヘスの全作品に暴力という主題があまねく窺われる奥深い理由なのである。》

 

<『もうひとつの死』>

《たしか二年ほど前、(その手紙はなくしてしまったが)ガノンがグワレグワイチュの農場から、ラルフ・ウォルドー・エスマンの『過去』という詩篇の、恐らく最初のスペイン語訳を送るという手紙をよこし、追伸に、わたしも多少は覚えているはずのドン・ペドロ・ダミアンが、数日前の夜肺充血で死亡したと書き添えてあった。熱に浮かされたその男は、譫妄状態の中で、マソリェールの戦いの血なまぐさい一日を再び生きたという。その知らせは何ら驚くにあたらなかったし、異常とも思えなかった。なぜなら、ドン・ペドロは、十九か二十の頃から、アパリシオ・サラビアの旗の下に馳せ参じていたからだ。一九〇四年の革命が勃発した時、彼はリオ・ネグロかパイサンドゥの農場で作男として働いていた。ペドロ・ダミアンはエントレ・リーオス州のグワレグワイチュの出身だったが、仲間について行き、彼ら同様無知で向う意気が強かったから、叛乱軍に加わったのである。彼は一、二度小ぜり合いを経験してから、最後の戦闘に加わった。一九〇五年に帰郷すると、謙虚に黙々と、再び野良仕事に精を出した。わたしの知る限り、彼は二度と故郷の州を出ていない。そして死ぬまで三十年というもの、ニャンカイから十キロばかりの一軒家に住んでいた。その人里はなれた所で、一九四二年頃、わたしは一夕彼と会話をまじえた(一夕彼と会話をまじえようとした)。彼は無口で無教養な男だった。マソリュールの戦いの喧騒と怒号が、彼の一生を使い切ってしまった。だから、死の時にそれを再び生き直したと聞いても私は驚かなかったのだ……もう二度とダミアンに会えないと知って、わたしは彼を思い出そうとした。が、わたしの視覚的記憶は余りに薄かったので、わずかに思い出すことが出来たのは、ガノンが撮った一枚の写真の面影だけであった。彼に会ったのは一九四二年の初頭に一度限りであり、写真の方は何度も見ていることを考えれば、この事実には何の不思議もない。ガノンがその写真を送ってくれたのだが、それもなくしてしまったし、今となっては探す気もない。もし出くわすことがあれば、恐怖を感じるだろう。

 第二のエピソードは、数か月後モンテビデオで起る。ドン・ペドロの高熱と苦悶が、マソリェールの敗戦にもとづく幻想物語をわたしに思いつかせた。その概況を聞いたエミール・ロドリゲス・モネガルが、その戦闘に参加したディオニシオ・タバーレス大佐に紹介状を書いてくれた。大佐はある日の夕食後にわたしを迎えた。彼は中庭の揺り椅子に坐って、前後の脈絡なく、しかし往時をいとおしみながら思い出を呼びおこした。ついに届かなかった弾薬のこと、疲れきって到着した騎兵隊のこと、埃だらけで半分眠りながらじぐざぐの迷路を織りつつ行進する兵士たちのこと、モンテビデオにはいることも出来たはずなのに、「ガウチョは都市をこわがるから」という理由で進路を変えたサラビアのこと、首をちょん切られた男のこと、わたしには両軍の激突というよりは牛泥棒や山賊の夢のように思える内戦のこと。イリュスカス、トゥパンバエ、マソリェールといった戦場の名前が続いた。彼はそれを実に効果的な間をとって眼前に彷彿とさせるので、同じことを何度もくり返し語ったにちがいないことが分り、その言葉の裏には、真実の記憶がもはやほとんど残っていないのではないかとさえ思われた。彼がちょっと息をついた時、わたしはどうにかダミアンの名をはさむことが出来た。

「ダミアン? ペドロ・ダミアンかね?」と大佐は言った。「あれはわしの部下だったよ。ちっこい混血でね、みなはダイマンと呼んでいた――川の名にちなんでな。」大佐はいきなり大声で笑い出し、それから、又急に笑いやんだが、そのぎこちなさは、真実のものかみせかけのものか分らなかった。

 ここで声の調子を改めた彼は、戦争というものは女と同じで、男にとっての試金石となるのだから、戦火をくぐるまでは、自分が何者なのか誰にも分りはしないのだ、と言った。自分は臆病だと思っていた者が、実際は勇敢だったり、又その逆に、白人を示す白リボンをひめらかして酒場あたりをのし歩いていたくせに、後になってマソリェールでは、腰抜けを暴露したあのあわれなダミアンのような者もある。常連との撃ち合いの時は男らしく振舞ったが、いざ軍隊同士が真正面からぶつかって砲撃がはじまり、誰もが、まるで5千人の敵兵が自分一人をめがけて殺到して来るような気がする戦場では、全く別問題になる。あわれな雑種さ。それまでずっと農場で羊を消毒液に浸ける仕事をして暮して来たのが、突然あんな激烈な行動に引きずりこまれたんだから……

 馬鹿げたことに、タバーレスの話を聞いている中、わたしは居心地の悪い思いがして来た。もっとちがった風にことがおこってほしかったと内心望んでいたのだろう。無意識の中に、何年も前に一夕会ったきりの老ダミアンから、わたしは一種の偶像を仕立て上げていたのだ。タバーレスの話はそれを打ち砕いた。突然、ダミアンが孤立し、頑なに自分の殻に閉じこもっていた理由が読めた。それはつつましさからではなく、恥ずかしさから来たものだったのだ。卑怯な行為をしたという悔恨に責められている男の方が、単に向こう見ずな男よりずっと複雑で興味があるものだ、とわたしはむなしく自分に言いきかせた。ガウチョのマルティンフィエロより、ロード・ジムやラズーモフの方が、より心に残る。そのとおりだ、とはいえ、ダミアンは、ガウチョとして、マルティンフィエロとなるべきだったのだ――とりわけ、ウルグワイのガウチョたちの前では。タバーレスの言葉の表裏に、いわゆるアルティギスモの野趣が感じられた。即ち、ウルグワイの方がわがアルゼンチンより素朴であり、したがってより勇猛であるという(恐らく論駁しがたい)信念が……その夜、わたしたちは、いささか誇張した親愛の情をこめて、別れの挨拶を交したのを覚えている。

 その冬、わたしの幻想物語(それはどういうものかなかなか体をなさなかった)に、一、二の状況が必要だったので、再びタバーレス大佐の家を訪ねることになった。彼はもう一人同年輩の紳士と一緒だった。バイサンドゥから来たフアン・フランシスコ・アマーロ博士とかいう人物で、彼もまたサラビア将軍の革命に参加したという。当然、話はマソリェールのことになった。アマーロは二、三の挿話を語ってから、ゆっくりと、声に出して考えている者の調子でつけ加えた。

「サンタ・イレーネで夜営をしたのを覚えていますが、そのあたりの男が数人、われわれに合流しました。その中に、戦闘の前夜に死んだフランス人の獣医と、エントレ・リーオス出身の、ペドロ・ダミアンとかいう若い羊毛刈り(エスキラドール)がいましたな」

 わたしは鋭くさえぎって口をはさんだ。「ええ、知ってます。弾丸の前でおじけづいたアルゼンチンの男でしょう」

 わたしは言葉を切った。二人が当惑したようにわたしを見ていたからだ。

「それはちがいますよ、あなた」としばらくしてアマーロが言った。「ペドロ・ダミアンは、男なら誰でもうらやむような死に方をしました。午後の四時頃でした。正規軍の歩兵部隊が丘の上の塹壕にたてこもっているところを、わが軍が槍で攻撃したんです。ダミアンは喊声(かんせい)をあげて先頭を切りました。その時、一発の弾丸が胸のどまんなかを貫いたんですよ。彼はあぶみにつっ立ち雄叫びを終えるや、どうと地面に転げ落ち、多くの馬蹄にかけられました。そしてマソリェールの最後の総攻撃は、彼の屍を踏みこえて行われたのです。それほど大胆不敵な奴でした。しかも二十(はたち)そこそこでね」

 彼が話したのは、疑いもなく、別のダミアンのことだ。が、わたしはふと、その若者は何と叫んでいたのかと訊く気になった。

「悪態だよ」と大佐が言った。「突撃の時はそういうもんだ」

「多分ね」とアマーロが言う、「しかし、奴はこうも叫んでいましたよ、《ウルキーサ万歳!》とね」

 わたしたちは黙りこんでしまった。がようやく大佐がつぶやいた。「どうもわれわれは、マソリェールではなくて、百年も前に、カガンチャかインディア・ムエルタで戦ったような気がしますな。」彼は心底困惑した様子でつけ加えた。「わしはあの部隊の指揮をとっていたんだが、そのダミアンとかの話を聞くのは誓ってはじめてなんだ」

 大佐にダミアンのことを思い出させることはづしても出来なかった。

 彼の記憶喪失がわたしにひきおこした驚愕は、その後ブエノス・アイレスでもう一度くり返されることになった。ある午後、英語の本を扱うミッチェル書店の地階で、エマスンの作品集の喜ばしい第十一巻をぱらぱらとめくっていると、パトリシア・ガノンに出会ったのである。わたしは『過去』の翻訳のことをたずねた。すると、そんな翻訳は考えてもいない、大体スペイン文学だけでうんざりなので、エマスンなぞはよけいなことだと言うのだ。わたしは、彼がダミアンの死を知らせてくれた同じ手紙で、翻訳を送ると約束したことを思い出させようとした。すると彼は、ダミアンとは誰だと訊く。いくら話しても無駄だった。彼がひどく怪訝な顔つきで聞いているのに気がつくと、恐怖の念がきざして来たので、わたしは、あの不幸なポーよりもはるかに複雑で技巧的で、明らかにずっと独特な詩人エマスンを誹謗する人びとを話題にした文学談義に逃げこんだ。

 いくつかの事実をつけ加えておかねばなるまい。四月に、ディオニシオ・タバーレス大佐から手紙を受取った。彼の記憶の霧がはれて、マソリェールの攻撃の先鋒となりその夜丘の麓に埋葬された、エントレ・リーオス出身の若者を、今ははっきり覚えているという。七月、わたしはグワレグワイチュを通った。ダミアンの小屋は見当らなかったし、彼を覚えている者も今はないようであった。ダミアンの死を看取った牧場番人のディエゴ・アバローア自身も冬のはじめに亡くなっていた。わたしは何とかダミアンの容貌を思い出そうとしてみた。数ヵ月後、古いアルバムをくっていた時、わたしが喚起しようとしていたあの浅黒い顔は、実はオセローを演じている有名なテノール歌手、タンベルリークのそれだったことに気がついた。

 さて、ここでいくつかの推測に移るとしよう。最も容易だが、同時に最も不満足な推測は、二人のダミアン――一九四六年頃エントレー・リーオスで死んだ臆病者と、一九〇四年にマソリェールで死んだ勇士――を想定することである。しかし、この推測の欠陥は、タバーレス大佐の記憶の奇妙な変動、それほど短時日に、あの戦闘の生き残りの姿どころか名前まで拭い去った健忘症という、全く謎めいた事実を説明出来ない点にある。(第一の男がわたしの夢想だったという、より単純な可能性は、受入れることが出来ないし、受入れたいとも思わない。)それよりもっと奇妙なのは、ウルリーケ・フォン・キュールマンが考えた超自然的推測である。ウルリーケによれば、ペドロ・ダミアンはその戦闘で戦死した、が、息を引き取る時に、エントレ・リーオスに返して下さいと神に祈った。神はその願いを聞き届ける前に一瞬ためらわれた。その間にその男は死んでしまい、倒れるところを人に見られた。神は、過去を作り変えることは出来ないが、過去のイメージを変えることは出来るので、ダミアンの非業の死というイメージを、失神のそれに切りかえたのだ。こうしてエントレ・リーオスの若者の霊が故郷に帰ったのである。帰ったにはちがいない、が、霊の身であったことを忘れてはならない。それは、女もなく友もない孤独の中に生きた。それはあらゆるものを愛し所有した、しかし距離をおいて、あたかも鏡の向う側からのようにそうしたのである。ついにそれは「死んだ」、そしてその希薄なイメージは、水が水に溶けるように消失してしまった。この推測には誤りがある。しかし、多分これがわたしに真実の仮説(今わたしが真実と信じている仮説)を暗示したのだ。それはより単純であると同時に、より前代未聞のものであった。まるで魔法のように、わたしはそれをピエトロ・ダミアーニの論文『全能について(デ・オム・ニポテンテイア)』の中に発見したのだが、そこに至る契機は、正しくダミアーニの自己証明の問題が提起されている『天国篇』第二十一歌の二行を読んだことにあった。その論文の第五章で、ピエトロ・ダミアーニは――アリストテレスやトゥールのフレデゲールに反して――神はかつて存在したものを存在しなかったものにすることが出来る、と主張している。こうした昔の神学論争を読んでいる中に、わたしはドン・ペドロ・ダミアンの悲劇的生涯を理解しはじめたのである。

 わたしの解答はこうである。ダミアンはマソリェールの戦場で臆病者のような振舞いをした。そこで余生をその恥ずべき怯懦を修正することに捧げた。エントレ・リーオスに戻った。誰に対しても手をふりあげず、誰一人傷つけず、勇士の名誉も求めず、ただニャンカイの僻地に住んで、茨や野生の牛と格闘しておのれを鍛えた。確かにそれとは気づかずに、奇蹟を準備していたのだ。彼は心の奥底で、「もし運命がもう一度おれを戦場にかりたてるなら、今度こそ堂々と戦うぞ」と誓っていた。四十年というもの、秘かな希望を抱いて彼は待ちに待った。そしてようやく臨終(いまわ)の際に、運命は戦いをもたらしたのだ。それは譫妄状態をとって訪れた、というのも、ギリシア人が夙に知っていたように、われらは夢の影に過ぎないからである。断末魔に、彼はあの戦闘を再び生き、男らしく振舞い、最後の総攻撃の先鋒を切っている時、胸の真中に弾丸を受けた。かくして、一九四六年、長い艱難辛苦の後にペドロ・ダミアンは、一九〇四年の冬から春への間に起きたマソリェールの敗戦において死んだのである。

神学大全』には、神が過去を作り変えることは不可能とされているが、原因と結果との錯雑した連鎖関係については言及がない。その関係はあまりにも広くまた密接であるために、たとえとるに足らぬと思えるたった一つの(・・・・・・)昔の事実も、現在を無効にすることなく抹消するのは不可能だろう。過去を修正することは、ただ一つの事実を修正することではない。それは、無限に及ぼうとするその事実の結果を抹消することになる。換言すれば、それは二つの世界史を創ることになるのだ。たとえてみれば第一の歴史においては、ペドロ・ダミアンは一九四六年にエントレ・リーオスで死に、第二の歴史においては、一九〇四年にマソリェールで死んだのである。われわれが今生きているのはこの第二の歴史の方だが、第一の方の抹消がすぐに行われなかったために、これまで述べて来たような奇妙な矛盾が生じたのであった。ディオニシオ・タバーレス大佐の脳裡には、さまざまな局面が継起した。最初、彼はダミアンが腰抜けのように振舞ったことを思い出した。次に、全く記憶を失った。それから、その壮烈な死を思い出したのである。牧場番人アバローアの場合も納得がゆく。思うに、彼はドン・ペドロ・ダミアンについて天地にも多くの記憶を保持していたが故に、死ななければならなかったのだ。

 わたし自身に関しては、同様の危険を冒しているとは思わない。なるほどわたしは、人間の理解を絶する推移、理性の中傷とでもいうべきものを推測し記録して来た。しかし、わたしのこのような特権行使のはらむ危険は、ある情況によって弱められている。現在のところ、わたしは常に真実を書いて来たという保証をもたない。わたしの物語の中には、いくつかの記憶違いがあるのではないかと思う。ペドロ・ダミアンは(もし実在するとして)、ペドロ・ダミアンという名ではなかったのではないか、さらにわたしが彼をその名で記憶しているのは、いつの日か、この物語全体がピエトロ・ダミアーニの論文によって暗示されたものだと信ずるためではなかったのか、と思われるのだ。似たようなことが、冒頭に言及した、過去の改変不能をうたった詩についてもあてはまる。今から数年後の一九五一年頃には、わたしは一個の幻想物語を作り上げたと信じているだろうが、その実、実際に起った出来事を記録したことになるだろう。丁度、二千年ほど前に、何も知らないヴァージルがある男の誕生を記録したと信じながら、キリストの誕生を予告していたように。

 哀れなダミアン! 二十歳の時に、悲劇的でしかも世に知られぬ戦争の局地戦で、死が彼を連れ去った。しかし、彼は心底から望んでいたものを手に入れたのだ。手に入れるまでには長い時間がかかったとはいえ、恐らくこれにまさる幸福はあり得ない。》

  

・この作品も『ボルヘスとわたし』にあって「著者注釈」を読める(なにもボルヘスの「著者注釈」に限ったことではないが、小説作品そのものより面白くないのは、冗長だからか、説明的であることによって詩、秘儀が凡庸に切り下がり、決して読みを深めをしないのは、ある種の定理ともいえる)。

《すべての神学者が、神による一つの奇蹟――過去を取り消すという奇蹟――を否定していた。ところが、十一世紀の大司教ピエトロ・ダミアーノは、ほとんど想像し難いその力を神に与えている。これからヒントを得たわたしは、卑近なやり方で同様の離れ業を試そうとする科学者についての物語を書いたことがある。彼は二個の黒い球を上段の引出しに、そして三個の黄色い球を下段の引出しにしまい、長年の苦行の末、それらの球が場所を変えているのを見出すというのである。わたしはすぐに、こんな単純な奇蹟など意味がないと思うようになり、何かもっと劇的なことを考え出さねばならなかった。そして、まさに死に直面して、無意識のうちに、そのような奇蹟に到達することになる平凡な男を思いついた。アパリシオ・サラビア(ウルグアイの軍人、政治家、一八五五~一九〇四)の革命は子供のころからわたしの空想をかきたてていたので、僻地におけるその内乱を背景として利用し、基本的美徳としてのガウチョ的な勇気とわたしの形而上学的な意図を結合する方法を考え出した。こうして生まれたのがこの物語であり、これは当初、『贖(あがない)』と題されていた。

 文学的配慮のため、この物語では奇蹟は四十有余年の歳月を待って実現される。ペドロ・ダミアンの過失は、彼がアルゼンチン兵士としてただ一人、ウルグワイ人たちの間にいたがゆえに、その体面上、いっそう屈辱的な耐え難いものであった。しかし最後にダミアンは、久しく渇望していたように、攻撃の先鋒を(・・・・・・)切っている時に(・・・・・・・)胸を撃たれて死ぬ(・・・・・・・・)。もしこれが現実に起ったことだとしたら、兵隊仲間は、一兵士の死といった小さな事実に留意することなどなかったであろう。

 冒頭でエマソンの詩に言及したのは、主として二つの理由による。第一には、単にわたしがその美しさを称賛しているからであり、第二には、もし読者がその詩を手にするような時――その詩は過去の変更不可能性を強く表現したものだから――この物語との関連あるいは対照に思いをはせていただくためである。

 友人の本名を虚構の中にとり入れるのは、わたしの大好きな手口(・・)である。もう一つの死」の中には、ウルリーケ・フォン・キュールマン、パトリシオ・ガノン、そしてエミール・ロドリーゲス・モネガルなどの名前が見られる。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「不死性」から。

《われわれにとって自我というのは取るに足りないものであり、自意識など何の意味もありません。私が自分をボルヘスだと感じ、あなた方がそれぞれ自分自身をA、B、あるいはCだと感じたとしても何の違いがあるでしょう。違いなどありません。そうした自我というのはわれわれ全員が共有していて、何らかの形ですべての被造物のうつにあるものなのです。したがって、個人のそれではなく、もうひとつのあの不死性は必要不可欠なものだと言えるでしょう。たとえば、ある人が自分の敵を愛したとすると、その時キリストの不死性がよみがえってきます。その瞬間、その人はキリストになるのです。われわれが、ダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読み返したとします。その時、われわれは何らかの形でその詩を創造した瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになります。ひとことで言えば、不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれの残した作品の中に生き続けることなのです。その作品が忘れ去られたとしても、気にすることはありません。》

《最後に、私は不死を信じていると申し上げておきます。むろん個人のそれではなく、宇宙的な広がりをもつ広大無辺の不死です。われわれはこれからも不死であり続けるでしょう。肉体的な死を越えて、われわれの行動、われわれの行為、われわれの態度物腰、世界史の驚くべき一片は残るでしょう。しかし、われわれはそのことを知らないでしょうし、知らない方がいいのです。》

 

ボルヘス『語るボルヘス』の「時間」から。

《時間をどうしても無視できないのは、それが本質的な問題だからだ、と私は言いたいのです。われわれの意識は絶えずある状態から別の状態へと変化していきますが、それが継起、つまり時間なのです。時間は形而上学のもっとも肝要な問題である、と言ったのはたしかアンリ・ベルクソンだと思います。もしこの問題が解決されていたら、おそらくほかのすべての問題も解決されていたことでしょう。しかし、幸いなことにこの問題が解決される気遣いはないようですから、今後もこの問題に取り組むことができそうです。《時間とは何か、そう訊かれなければ、何であるか分かっているのに、人から尋ねられたとたんに分からなくなってしまう》と聖アウグスティヌスは言っていますが、われわれはこれからもこの言葉を繰り返し使うことができると思います。

 時間に関してはこれまで二十世紀、あるいは三十世紀にわたって考察が続けられてきましたが、大きな進歩があったとは思われません。私は決まって、「人は二度同じ川に降りていかない」という言葉に戻っていくのですが、この言葉を書いた時、ヘラクレイトスはどれだけ困惑を覚えたことでしょう。今でもわれわれは、時間の問題について思索を巡らせると、あの古代の哲学者と同じ思いにとらわれます。なぜ人は二度同じ川に降りていかないのでしょう? ひとつは川の水が絶え間なく流れ去っていくからであり、もうひとつはわれわれ自身もまた川、つまり移ろい、変化していく存在だからです――この考えは、形而上学的な意味でわれわれの心を打ち、畏怖の念を起させるもとになります。時間の問題とはそのようなものなのです。つまり、逃れ去っていくものの問題であり、時は移ろっていくのです。ここで思い出されるのが、ボワロー(ニコラ・ボワロー=デプレオー、一六三六~一七一一.フランスの詩人)の「何かが自分から遠ざかった瞬間に、時は流れる」という美しい詩句です。》

 

ボルヘスと親交のあったアルゼンチンの作家エルネスト・サバトは、評論集『作家と亡霊たち』の『二人のボルヘス』で、辛辣な批評を展開した。なにもサバトの文学観、予言を尊重する必要はないが、ここにあげた三作品は、下記に一部引用するサバトの批判と求めを乗り越えて、「後世に残るボルヘス」に違いない。

《そしてボルヘス、肉体と感情を持ち、肉体のもろさを劇的なまでに痛感していたボルヘスは、多くの芸術家(それに多くの若者)と同じく雑踏のなかで秩序を、不安のなかで安らぎを、不幸のなかで平和を求め、プラトンの手を借りて絶対的宇宙に近づこうとした。そして作品のなかで菱形の部屋や図書館や迷宮に住む亡霊たちを時間から切離し、そこに言葉を通してしか生きることも苦しむこともない世界――苦しみとは時間と死に他ならない――を作り上げたのである。ボルヘスの作品は現実の向こうにある大理石の世界を象徴する。時として彼は、偉大な文学にふさわしいのは純粋精神の領域だけであると考えているように見える。実際には偉大な文学の名に値するのは、不純な精神、すなわちプラトン的天上世界に生きる亡霊ではなく、このヘラクレイトス的混沌の世界に生きる人間を扱った作品に他ならない。人間の特性は純粋精神などではなく、暗闇に引き裂かれた心の部分、人間の存在にとって最も重大なことが起こるこの領域なのである。愛、憎しみ、神話、フィクション、希望、夢、どれ一つとして厳密な意味で精神に属するものではなく、すべて思想と血、意識的な力と盲目な衝動が暗い色で熱く混ざりあったものである。苦悩に満ちた曖昧な心は肉体と理性に引き裂かれ、死すべき肉体の情熱に囚われながらも、精神の永遠を求めることをやめず、相対と絶対、堕落と不死、悪魔と神の間を常にさまよい続ける。芸術と詩はその混乱した領域から、他ならぬ混乱を土台に生れてくる。神は小説を書かない。

 だからこそ ボルヘスプラトン的アヘンは役に立たない。すべてが遊び、まやかし、子供じみた逃避に見えてしまう。哲学や科学があの理想世界こそ本物だといくら言い張っても、我々にとっては現世だけが不幸と幸せを与えてくれる本物の世界なのである。我々の肉体と、唯一本物の精神、つまり肉体を伴った精神が日々生き抜いているのは、血と火と愛と死でできたこの現実世界以外にはないのである。》

《時間の進行を否定した後でボルヘスは(美しく感動的に)こんなことを書く。「それでも、それでも……時間の経過や自己、そして宇宙の存在を否定することは、一見絶望のように見えても実はひそかな慰めを伴う……私は時間で出来ている。時は私を押し流す川だが、私もまた川である。私を噛み砕く虎だが、私もまた虎である。私を焼き尽くす火だが、私もまた火である。不幸にも世界は本当に存在するし、不幸にも私はボルヘスなのである。」

 この最後の告白をするボルヘスこそ我々の求めるボルヘスであり、真に作家の名に値するボルヘスだ。ブエノス・アイレスの黄昏や幼児期の中庭、場末の通りといった貧相ではかないが極めて人間的なことを詠った詩人、これが(予言してもいい)後世に残るボルヘスなのだ。信じてもいない哲学や神学を軽々しく弄んだ後、輝きには欠けるが確かなこの世界、誰もが生まれ、苦しみ、愛し、死ぬこの世界へと戻ってくるボルヘス、記号でしかないレッド・シャルラッハ(筆者註:ボルヘス『死とコンパス』の殺し屋)が幾何学的に罪を犯す任意の町Xではなく、我々が生きて苦しむ愛憎にまみれた町、薄汚れてくすんだ、この本物のブエノス・アイレスに生きるボルヘスなのである。》

 

                               (了)

        *****引用または参考*****

*『筑摩世界文学大系81 ボルヘスナボコフ』(『伝奇集』、『エル・アレフ』、『ブローディーの報告書』篠田一士訳所収)(筑摩書房

*J・L・ボルヘス『創造者』(『まねごと』所収)鼓直訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスボルヘスとわたし――自選短篇集』牛島信明訳(ちくま文庫

*J・L・ボルヘス『続審問』中村健二訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘス『語るボルヘス木村栄一訳(岩波文庫

*J・L・ボルヘスエバリスト・カリエゴ』岸本静江訳(国書刊行会

*『ボルヘスの世界』(清水徹「ひとつのボルヘス入門」所収)(国書刊行会

野谷文昭編『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』(岩波書店

*『すばる』1999年9月号(ポール・ド・マン「現代の文豪──ホルヘ・ルイス・ボルヘス」橋本安央訳所収)(集英社

ミシェル・フーコー『言葉と物――人文科学の考古学』渡辺一民佐々木明訳(新潮社)

*G・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳(河出文庫

*G・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一他訳(法政大学出版局

*ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』平野幸彦(白水社

モーリス・ブランショ『来るべき書物』粟津則雄(ちくま学芸文庫

丸谷才一『無地のネクタイ』(『私怨の晴らし方』所収)(岩波書店

エルネスト・サバト『作家とその亡霊たち』(『二人のボルヘス』所収)寺尾隆吉訳(現代企画室)