文学批評 吉田修一『悪人』論 ――ドストエフスキー『罪と罰』から欠落したもの

 

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 吉田修一『悪人』に、ドストエフスキー罪と罰』の殺人場面の象徴である斜めからの夕日の光を照らす。と、そこには車のライトに照らし出された峠の絞殺と、パトカーの赤いライトに照らし出された灯台の未遂現場しかない。

 両者の差異を見ることで、『悪人』の怖さを解読する。

『悪人』には『罪と罰』と同じモチーフがあるが、それ以上に欠落したものも多い。「ないないづくし」ともいえるくらいだ。その欠落、「ない」ことに、『悪人』の真の怖さがある。より現代的でニヒルな怖さが。

 どのように怖いか、川上弘美が語っている。

《小説は、鳥瞰(ちょうかん)から始まる。国道の峠道をはるか上空から辿るうちに、いつの間にか視点は国道を走行する者のものとなる。

 四頁め。視点はぐっと一人の男に近づいてゆく。男は理容店をいとなんでいる。日曜日、男は鋏を使いながら、つれない妻のことや福岡に出て保険の外交員として働いている娘のことを思う。

 十頁め。視点は福岡にいる男の娘の周囲に移動する。仕事の倦怠。歓心をかいたい男のこと。意地悪な同僚のこと。読んでいると体が震える心地になってくる。恐ろしいことが書いてあるわけではない。歪みのない描写があるばかりだ。けれど、いやな予感がある。

 三十九頁め。男があらわれる。長崎からやってきたのだ。車を使って。金色に髪を染めている。視点が男に据えられるのはほんの三頁ほどである。怖い。怖いだけではなく、なんというか、しっかりとした手触りがある。

 四十七頁め。女が死ぬ。テレビのニュースが、その死を告げる。死んだ女の最後のぬくもりも血の匂いも、まだ感じられない。作中のどの女が死んだのかも、わからない。ひどく怖い。怖いけれど、どこか妙に気持ちいい。手触りの、ためだろうか。言葉を使って、そこにないものをはっきりとそこにあらわせる。

 優れた小説なのだと思う。殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく。

 殺されたという事実。殺したという事実。その事実の中にはこれほどの時間と感情の積み重なりと事情がつまっているのだということが鮮やかに描かれたこの小説を読みおえたとき、最後にやってきたのは、身震いするような、また息がはやまって体が暖まるような、そして鼻の奥がすんとしみるような、不思議な感じだった。

 芥川龍之介の「藪の中」読後の気分と、それは似ていた。よく書いたものだなあ、と思う。》

 最後にやってきた《芥川龍之介の「藪の中」読後の気分と、それは似ていた》とは、登場人物たちのポリフォニックな声と視点、矛盾しあう心象と記憶、善と悪の境界、加害者と被害者の交錯、といった重層的・錯綜的な意味合いではなかろうか。

(実のところ、なぜか川上の指摘は正確さにかけていて、早くも三頁めには、《この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ。》と殺された女の名前が出て来るし、十二頁めでその男は三瀬峠のカーブの路肩にあらわれているが、全体の色調として外れているわけではない。)

 

罪と罰』に言及した「辻原登書評『悪人』」がある。小説家辻原は『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』で、『罪と罰』を数回にわたって学生達に講義している「ドストエフスキー読み」でもある。

《◇渦巻くように動き、重奏する響き

 すべての「小説」は「罪と罰」と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひとつを前にしている。

 渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。

 脊振(せふり)山地を南北に貫く国道263号線の県境の山中にある三瀬(みつせ)峠。佐賀と長崎と福岡を結ぶ道路がここで交わる。峠道は鬱蒼(うっそう)とした樹々におおわれている。トンネルがある。

 二〇〇二年一月六日、九州北部で珍しく積雪のあった日、長崎の若い土木作業員が、福岡に暮らす若い女性保険外交員を絞殺し、この三瀬峠に遺棄したとして長崎県警に逮捕された。

 ……とこのように語り出された物語の鳥瞰(ちょうかん)的視点は、JR久留米駅近くの理髪店、被害者の実家の内部へと一気に急降下する。いましも、福岡の保険会社の寄宿舎にいる佳乃(よしの)が母親に電話を掛けてきたところで、屈託ない長話になる。数時間後に彼女は殺される。

 この殺人には二人の男が絡んでいる。大学生の男が彼女をクルマで三瀬峠まで乗せ、首を絞め、ドアの外へ蹴り出し、そのあと土木作業員が……。

 二人の男は見知らぬ同士で、被害者だけが二人を知っている。いったい何があったのか。

 警察の捜査を中心に、被害者と二人の男に関わりのある人々が、作者のストーリィ・テリングの才腕によって闇の中から次々と呼び出され、息せき切って、渦巻くように動き出す。日常(リアル)をそのまま一挙に悲劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致という至難の業がここに完璧に実現した。

 主題(内容)とは、惹(ひ)かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とはそれをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。

   祐一はまるで逃げるように病院を出て行った。駐車場へ向かう祐一の姿が、月明かりに照らされていた。すぐそこにある駐車場へ向かっているはずなのに、美保の目には、彼がもっと遠くへ向かっているように見えた。夜の先に、また別の夜があるのだとすれば、彼はそこ(・・)(傍点評者)へ向かっているようだった。

 そこ(・・)に待っているのは、すべての視点をひとつに束ね、引き受ける作者のそれである。殺人者祐一はラストで、作者の終末からの視点、哀しみと慈しみにみちたまなざしの中へと迎えられ、消えてゆく。

 祐一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだが、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貧しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激しく変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛(たた)えた視点、つまり神の視点を獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。

 最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛(かいしゅん)のはてから絞り出される祐一の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコーリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。》

  

<「土地」>                                                                       

罪と罰』の冒頭は、「観念と狂気の都市、ペテルブルク」「黙示録の都市、ペテルブルク」「酷暑の七月」(亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)からなる。

《七月はじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろとK橋の方へ歩きだした。

 彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建ての建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸(なんど)に近かった。(中略)

 通りはおそろしい暑さだった。おまけに雑踏で人いきれがひどく、どこを見ても石灰、材木、煉瓦、土埃、そして別荘を借りる力のないペテルブルグ人なら誰でも、いやというほど知らされている、あの言うに言われぬ夏の悪臭、――こういったものが一度にどっと青年をおしつつんで、そうでなくてもみだれた神経をいよいよ不快なものにした。》

 

 川上弘美書評の《小説は、鳥瞰から始まる》、とは「土地」を見る神の目に読者を同一化させる。

 吉田は「波 E magazineNami インタビュー」の「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る 【前篇】」でこんなことを言っている。

《――吉田さんと小説の打合せをすると、必ず土地とか地図の話になりましたね。

吉田 そのへんは相変わらずですよ。『湖の女たち』でもそうでしたけど(注・地名は変えているが琵琶湖周辺が舞台)、小説を書く時、土地がいちばん味方になってくれるんですよ。土地は裏切らない、みたいな(笑)。

 ――地図は普通の地図をご覧になる?

吉田 最近は Google マップとかも見ます。昔はぴあMAPとか好きでした。

 ――ストリートビューなんかも?

吉田 大好きで止まんなくなります。

 ――Google マップは『東京湾景』の頃にはなかったのに、吉田さんの小説は俯瞰や高低差があるというか、三次元的に土地を捉えている感じを受けます。

吉田 「パーク・ライフ」で、風船にカメラをつけて公園を写すところがあるんです。まだドローンがない時に書いたのが自慢(笑)。僕の地図というか、街の見方は高度も入っている気はします。》

 

 小説冒頭はこうだ。

《263号線は福岡市と佐賀市を結ぶ全長48キロの国道で、南北に脊振(せふり)山地の三瀬(みつせ)峠を跨(また)いでいる。

 起点は福岡市早良(さわら)区荒江交差点。取り立てて珍しい交差点ではないが、昭和四十年代から福岡市のベッドタウンとして発展してきた土地柄にふさわしく、周囲には中高層のマンションが建ち並び、東側には巨大な荒江団地がひかえている。(中略)

 この荒江交差点を起点に早良街道とも呼ばれる263号線が真っすぐに南下する。街道沿いにはダイエーがあり、モスバーガーがあり、セブンイレブンがあり、「本」と大きく書かれた郊外型の書店が並ぶ。ただ、何店舗かあるコンビニだけを注意して見ていくと、荒江交差点を出てしばらくは通りに面して直接店舗の入口があるのだが、それが野芥(のけ)の交差点を過ぎた辺りから、店先に一、二台分の駐車場がつくようになり、その次のコンビニでは五、六台分、そのまた次のコンビニでは十数台分と駐車場の規模が広がって、室見川(むろみがわ)と交わる辺りまでくると、いよいよ大型トラックも楽に数台停められる広大な敷地の中に、小箱のようなコンビニの店舗が、ぽつんと置かれたようになってしまう。》

 ダイエーモスバーガーセブンイレブンといったありきたりすぎる固有名詞と、コンビニの駐車場の規模が、日本中どこにでもあるデ・ジャヴな「土地」を、しかし「観念と狂気の都市」でも「黙示録の都市」でもない郊外のうすら寒い日常を裸でさらけ出す。

 ここで突然、「時間」の要素が割り込む。「酷暑の七月」ではなく、雪がちらつく「真冬の夜」、どこか忙しいがぽっかりと生活活動が真空になる年末年始という季節感とともに。

「土地」は、欲望の脈打つ動脈のようにぷっくらと膨れあがり、どくどく蠢く。わずか三頁めで、「事後の物語」となってしまうのだが、そこから「事前」と「事後」のショットが「回想」を交えさせて「時間」を往き来する。

《二〇〇二年一月六日までは、三瀬峠と言えば、高速の開通で遠い昔に見捨てられた峠道でしかなかった。

 敢えて特徴づけるとしても、トラック運転手にとっての節約の峠道、暇を持て余した若者たちにとっての胡散臭い心霊スポットのある峠道、そして地元の人にとっては、事業費五十億円を投じた巨大トンネルが開通した県境の峠道でしかなかったのだ。

 しかし、九州北部で珍しく積雪のあったこの年の一月初旬、血脈のように全国に張り巡らされた無数の道路の中、この福岡と佐賀を結ぶ国道263号線、そして佐賀と長崎とを結ぶ高速・長崎自動車道が、まるで皮膚に浮き出した血管のように道路地図から浮かび上がった。

 この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ。

 九州には珍しい積雪のあった日で、三瀬峠が閉鎖された真冬の夜のことだった。》

 

 主人公清水祐一と友人柴田一二三(ひふみ)が待ち合わせする長崎市近郊の漁港辺りのパチンコ店も、どこにでもある「土地」だった。流木のような祐一。

《パチンコ店「ワンダーランド」は、街道沿いに忽然とある。海沿いの県道が左へ大きくカーブした途端、下品で巨大な看板が現れ、その先にバッキンガム宮殿を貧相に模した店舗が建っている。

 誰が見ても醜悪な建物だが、市内のパチンコ店に比べると、出玉の確立が高いので、出末はもちろん、平日でも大きな駐車場には、まるで砂糖にたかる蟻のように、多くの車が停められている。》

 祐一は佐賀にいる光代とメールでつながる。思い出される単調な風景に、寂しさがつのる。

《祐一は車で何度か走ったことのある佐賀の風景を思い描いた。長崎と違い、気が抜けてしまうほどの平坦な土地で、何処までも単調な街道が伸びている。(中略)

 道の両側には本屋やパチンコ店やファーストフードの大型店が並んでいる。どの店舗も大きな駐車場があり、たくさん車は停まっているのに、なぜかその風景の中に人だけがいない。

 ふと、今、メールのやり取りをしている女は、あの町を歩いている人だ、と祐一は思った。とても当り前のことだが、車からの景色しか知らない祐一にとって、あの単調な町を歩くとき、風景がどのように見えるのか分からなかった。歩いても歩いても景色はかわらない。まるでスローモーションのような景色。いつまでもいつまでも打ち上げられない流木が見ているような景色。(中略)

 寂しいと思ったことはなかった。寂しいというのがどういうものなのか分かっていなかった。ただ、あの夜を境に、今、寂しくて仕方がない。寂しさというのは、自分の話を誰かに聞いてもらいたいと切望する気持ちかもしれないと祐一は思う。これまでは誰かに伝えたい自分の話などなかったからだ。でも、今の自分にはそれがあった。伝える誰かに会いたかった。》

 

<部屋>

 ラスコーリニコフとソーニャの部屋は饒舌な表象を纏っている。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《小説の第一部で作者は五階建てアパートの最上階にあるラスコーリニコフの屋根裏部屋は「戸棚」を思わせた、と書き、その後、三度にわたって「船室」をイメージしている。ロシアの文化学者トポロフは、この「船室」の比喩に難破船救出のイメージを重ね、「救済のモチーフ」が込められているという。ところが、彼の屋根裏部屋はやがて新たな比喩に出会うことになる。彼の下宿を訪ねてきた母親のプリヘーリヤが思わずこう声をあげるのだ。

「おまえの部屋、ほんとにひどいったらないわね、ロージャ、まるで棺桶ですよ」

 屋根裏部屋と棺桶の対比は、ラスコーリニコフと「ラザロの復活」の話の導入とみなすのが妥当である(「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」)。

 しかしここでは、別の文脈での解釈を試みているチホミーロフの意見を紹介したい。彼によれば、ラスコーリニコフの部屋と棺桶の対比は別の意味をもっており、主人公の青年は、「悪霊」につかれた男のイメージとして読めるという。

「イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、家に住まないで墓場を住まいとしていた」(「ルカによる福音書」八章二十七節)

 棺と部屋のイメージ的な連関は何もラスコーリニコフの屋根裏部屋に限られるわけではない。印象的なのは何よりも、ソーニャの住んでいるアパートの形状に対する作者のこだわり方である。これははたして何を意味しているのだろうか。むろん、ドストエフスキーが執筆当時、このような部屋をじっさいに目にしていた可能性もあるが、主人公ラスコーリニコフの部屋を「戸棚」「船室」、さらには「棺桶」と二重写しさせてきた手法を思い起こした場合、そこに何かしら不吉な暗示を感じないわけにはいかない。

「ソーニャの部屋はどこか物置小屋を思わせるところがあり、たいそう不均衡な方形をなしていて、そのせいか、なにかしらいびつな印象を与えた。窓が三つある運河に面した壁が、斜めに部屋を区切るような感じで、そのため一つの角が恐ろしくとがり、どこか奥の方までつづいていたので、ろうそくのとぼしい灯では、はっきりと見きわめられなかった。逆にもういっぽうの角は、ぶざますぎるほど間のびしていた」

 わたしは、ここに墓地のイメージを見てとる。それはなぜか。

 わたしの直感では、この長細い台形に二重写しされているのは棺である。》

 

 ひきかえて『悪人』に出てくる「部屋」は無味乾燥で、人間の匂いが乏しい。何もないことが怖いのだ。

 母が祐一の祖母房枝と姉妹にあたる矢島憲夫(のりお)は、解体業を営み、そこで祐一を働かせている。

《潰れた座布団に腰を下ろすと、憲夫は部屋の中をぐるりと見渡した。古い土壁には、すっかり黄ばんでしまったセロハンテープで、いくつかの車のポスターが貼ってあり、床には同じく車関係の雑誌があちこちに積まれている。

 正直、それ以外、何もない部屋だった。若い女のポスターがあるわけでもなし、テレビも、ラジカセもない。

 あるとき房枝が、「祐一の部屋はここじゃなくて、自分の車の中やもん」と言っていたが、この部屋を見ると、房枝の言葉が大げさではなかったのがよく分かる。》

 光代の部屋は、「不自由のない部屋だった」、「居心地のいい部屋だった。」

《家賃四万二千円の2DK。2DKと言えば聞こえはいいが、六畳間が二つ、襖(ふすま)で仕切られているだけの間取りのアパートで、光代たち姉妹のほかは、すべて小さな子供のいる若夫婦ばかりだ。》

 それだけである。あえて付け加えれば、佐賀駅で待ち合わせした光代と祐一が入る「個性的なことを強調するが故に個性を消されてしまった」ラブホテルの一室がこの小説の世界を表象している。

《狭いエレベーターで二階へ上がると、目の前に「フィレンツェ」と書かれたドアがあった。

 噛み合わせが悪いのか、祐一が何度か鍵を回してやっとドアが開く。開いたとたん、眩(まぶ)しいほどの色が目に飛び込んでくる。壁は黄色く塗られ、ベッドにオレンジ色のカバーがかけられ、白い天井が丸く刳(く)り貫(ぬ)かれてフレスコ画もどきの絵がはめ込んであるが、新鮮味だけがない。

 中に入って光代は後ろ手でドアを閉めた。強い暖房と通気の悪い空気のせいで、汗が滲(にじ)み出しそうだった。》

 

<夕日と車のライト>

 ドストエフスキー作品では、夕日が大きな意味をなす。『罪と罰』の第一部第一章。ラスコーリニコフの家の門からちょうど七百三十歩にある老婆の家へ下見に出かけたラスコーリニコフ

《老婆は思案しているらしく、しばらく黙っていたが、やがてわきへ身をひいて、奥の部屋のドアを指さし、客を通しながら、言った。

「お入りなさい、学生さん」

 青年が通されたのは、小さな部屋だった。黄色い壁紙がはってあり、ゼラニウムの鉢植(はちうえ)がいくつかおいてあって、窓にモスリンのカーテンが下がっていたが、ちょうどそのとき入日をまともに受けて、明るく染まった。《あのときも、きっと、こんなふうに日がさしこむにちがいない!……》だしぬけにこんな考えがラスコーリニコフの頭に浮かんだ。》

 第一部第五章、子供時代に馬が鞭や鉄棒で滅多打ちされて殺される場面を夢に見て、老婆殺しを決行しようとしていた自分を嫌悪し、堪えられぬ、と思う。

《彼は、こんなに長い間重くのしかかっていたあの恐ろしい重荷を、もうはらいのけてしまったような気がして、心が一時に軽くなり、安らかになった。《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください。わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》

 橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映(ゆうば)えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々(もろもろ)の魔力から、妖術(ようじゅつ)から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!》

 ところが、この直後に、運命に絡めとられ、遠まわりすることで、夕方七時にはリザヴェータが不在だと偶然に聞き知り、ついに決行に及んでしまう。 

 第三部第六章、老婆殺人を思い起こす夢の中では夕日ではないが、斜めから差し込む赤い月の光がある。

《彼はそっと、爪先立(つまさきだ)ちで客間へ入った。月の光が部屋中に冷たくさしこんでいた。すっかりもとのままだ。椅子(いす)、鏡、黄色いソファ、額の絵。大きな、まるい、銅のように赤い月がじっと窓をのぞきこんでいた。》

 辻原登は『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』で、この部分を引用した後、《夕日は斜めの光、『罪と罰』あるいはドストエフスキーの作品の中では最も重要なモチーフです。斜めの光。作品の重要な場面には斜めの光が差しています》と指摘する。ついで、『悪霊』の第二部付録の「スタブローギンの告白」の少女凌辱事件において、夕日が斜めに差し込んでこなければこの場面は成立しないとし、《この斜光は、何度も言うように楽園や神、自由、不死、永遠、そういう場所からやって来る非物質的な、形而上的な光です。この光が斜めに差して魂へと届く。そこでは何が起きているかというと、残酷な殺人や、少女凌辱、おぞましい醜悪な行為が行われている。ドストエフスキー的な展開になります》と語ってから、よく知られる柳田國男『山の人生』冒頭「山に埋もれたる人生ある事」の、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が子供を二人まで鉞(まさかり)で斫(き)り殺す文章に差し込む夕日について語ってゆく。悪を照らし出す光であると同時に、人間を聖化する光。

 

 ところが、吉田修一『悪人』に夕日はない。三瀬峠の佳乃殺人現場では増尾アウディのテールランプとルームライト、祐一のスカイラインのヘッド・ライトであり、灯台での光代殺人未遂場面ではパトカーの赤いライトと警官たちの懐中電灯の交差する光に過ぎない。悪を照らすでもなく、聖化する夕日の光ではなく、無機質なだけにより怖ろしい光。

「第四章 彼は誰に出会ったか?」、祐一は増尾と佳乃の乗ったアウディを追う。

 

《どれくらい走ったのか、男の車が急停車したのは峠の頂上に差し掛かる場所だった。祐一は慌ててブレーキを踏んで、ライトを消した。真っ暗な闇の中、赤いテールランプが、まるで巨大な森の赤い眼光のようだった。

 祐一はハンドルを握ったまま、じっと森の赤い眼を見つめていた。峠だけが呼吸しているようだった。次の瞬間、車のルームライトがついた。光の中、佳乃と男の影が動いた。あっという間だった。ドアが開き、佳乃が降りようとした。その背中を男が蹴ったのだ。路肩に崩れ落ち、後頭部をガードレールで強打した。(中略)

 男の車が去って、どれくらい経ったのか、祐一は恐る恐る車のライトをつけた。光は佳乃が蹲った場所まで届かなかったが、それでも冬の月光よりも役には立った。

 サイドブレーキを下ろし、かすかに足をアクセルに乗せた。峠の道を照らす青いライトが、水が染みるような速度で、佳乃の元へ近づいていく。

 ライトがはっきりと佳乃の姿を捕らえたとき、青白い光の中で佳乃は怯え、光の中を見ようと、必死に目を細めていた。

 再びサイドブレーキを引いて、祐一は運転席のドアを開けた。佳乃が身構えるように、バッグを抱ききかえる。

「大丈夫?」(中略)

 何もかもが一瞬の出来事だった。血の気が引いた。ライトの前にしゃがみ込んでしまった佳乃の顔を、強いライトが照らし、髪の毛一本一本が逆立っていた。

「ご、ごめん。……」

 痛みに顔を歪めた佳乃が、やっと抜けた指を握り、奥歯を噛み締めている。

「人殺し!」》

「最終章 私が出会った悪人」の灯台の管理小屋の場面、保護された派出所の窓から逃げ帰ってきた光代。

《光代の肩を抱いて、管理小屋に入ろうとすると、ふと足を止めた光代が、麓から一列になって林道を上がってくるパトカーの赤いライトに気づく。赤いライトの列は、確実に灯台に近づいていた。いくつものサイレンがこだまする。祐一は光代の背中を押した。(中略)

 管理小屋のガラス窓から、赤いライトが差し込んでくる。差し込む赤いライトが、泣き濡れた光代の頬を染める。赤いライトに気づいた光代が、祐一にしがみつこうとする。警官たちの足音が近づいてくる。

「俺は……、アンタが思うとるような、男じゃない」

 祐一はしがみつこうとする光代のからだを乱暴にベニヤ板の上に倒した。

 光代の短い悲鳴が響く。警官たちの懐中電灯が、ガラス窓の向こうで交差している。そのとき祐一は光代のからだに馬乗りになり、その冷たい首筋に手をかけた。

 目を見開いた光代が、何か叫ぼうとする。祐一は目を閉じた。光代の首筋にかけた手に力を込めた。背後でドアが開く。いくつもの懐中電灯が、そんな二人の姿をとらえた。》

 

<観念、思想、イデオロギー、宗教>

罪と罰』の「ナポレオン主義」「非凡人と凡人の二つの階層論」「プルードン理論」「フーリエ主義」といった、ラスコーリニコフによる老婆殺しの「事前」に鬱屈していた観念、イデオロギー、あるいは空想、妄想は、「事後」にラスコーリニコフの口から予審判事ポリフィーリーへの弁明やソフィーへの告白で饒舌なまでに繰りかえし説明されるのだが、『悪人』の祐一には大上段の観念、思想も、自分を語る言葉も欠落している。入退院を繰り返す祖父の面倒見、偶然の運命的な殺人行為、不器用な心優しさ、母親に見捨てられた家庭環境による情状酌量を鑑みて、親鸞の「悪人正機」に思いを馳せるむきもあろうが、「悪人」とは、の問いかけはあっても、「悪人なおもて」ということでもなさそうである。

 同様に、『罪と罰』で、ソフィーや第四部第四章の「ラザロの復活」といった「事後」のキリスト教、宗教のモチーフも『悪人』には決定的に欠落している。あえて言えば、祖母房枝が被害にあった悪質な健康食品セミナーの勧誘と押し売りに卑俗な社会現象がみてとれるといったところか。

 ここにも、「ない」ことの不毛がある。そして繰り返すが、近代的な人間意識が「ない」ことの現代的な怖さが。

 

<事前の物語なのか事後の物語なのか>

 亀山郁夫『『罪と罰』ノート』に、《思えば、『罪と罰』を事前の物語として読むか、事後の物語として読むか、で根本から意味は変わる。老女殺害は、早くも第一部で起ってしまう。圧倒的な数の読者にとって『罪と罰』は、事後の物語であるはずである。すなわち、主人公ラスコーリニコフは真に生まれ変われるのか。しかし、もしこのように『罪と罰』を事後の物語としてのみ読むならば、老女殺害の動機を探ることにはあまり意味がないことになる。》

 第一部は、全体の約六分の一にすぎない。

 

 一方、『悪人』は全体約四百頁のわずか三頁めで、《この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃(よしの)を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ》とあるからには、圧倒的に事後の物語である。しかし、殺人に至る事前の物語が事後の物語に回想的に挿入され、殺人そのものは三百頁めでようやく描写されるというミステリアスに読者を引っ張る構成になっている。しかも、事前の物語における殺害動機は不透明で、事後の物語でも主人公祐一ははじめて人に信じられる経験を持ちはしても、真に生まれ変わるというところまで物語は進まない。

 

<夢>

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《ドストエフスキーの小説には、夢の記述がひんぱんに登場する。しかし、この『罪と罰』ほど夢の記述が多い小説はほかにない。登場人物たちのそれぞれが、夢を見ることで異界との触れあいをもつ。(中略)『罪と罰』の読者にとって、迫害され、惨殺される百姓馬のモチーフほど衝撃的な場面はない。フロイトユングも存在していない時代、ドストエフスキーがどこまで、「科学的な」夢の解析に通じていたかわからないが、彼は自分なりの直観にしたがって小説と夢の調和的な関係を築きあげていった。そして、老女殺害を計画するラスコーリニコフを、恐ろしいサディズムに興じる酔っ払いたちを見つめる少年時代の時分だけではなく、荒れ狂う若者たちに重ネワわせていた。》

 

 しかし、祐一はまったくと言ってよいほど夢をみない。唯一は、灯台の場面。

《光代は寝袋を出ると、まだ二人の体温の残る寝袋をベニヤ板の上にきちんと畳んだ。祐一がペットボトルの水でうがいをする音につられて外へ出ると、目の前に日を浴びた眩(まぶ)しい海が広がり、カモメが低い空を飛んでいく。

「きれかねぇ」

 思わず見とれて呟いた。口の中の水を足元に吐き出した祐一が、「そういえば、昨日の夜、夢見た」と照れ臭そうに言う。

「夢? どんな?」

 光代は裕一の手からペットボトルを奪った。

「光代と一緒に暮らしとる夢。ほら、昨日、寝る前に二人で話したろ? 住むならどんな家がいいかって。そこに住んどる夢」

「どっち? 一戸建て? マンションのほう?」

「マンションのほう。……でも夢の中で、光代にベッドから蹴り落とされたけど」

 祐一がそう言って短く笑う。光代はペットボトルの水を一口飲むと、「だって、寝袋の中でほんとに蹴ったもん」と言い返した。》 

なんとも慎ましい夢なのだが、この夢はファッションヘルスで知り合って、その気になった祐一がアパートを借りた途端、姿をくらました女、美保とのエピソードを思い起させる。友人の柴田一二三(ひふみ)が語る。

《要するに女とは何の約束もしとらんのですよ。ただ、ヘルスの部屋で、こういう暮らしがしてみたいって女の夢物語を聞いとっただけ。祐一って、本当に昔からそういうところがあるんですよ。起承転結の起と結しかないっていうか、承と転は自分勝手に考えるだけで、その考えたことを相手に告げもせん。自分の中では筋道が通っとるのかもしれんけど、相手には伝わらんですよ。「こんな仕事辞めて、祐一くんみたいな人と、小さなアパートで暮らせたらいいなぁ」って女に言われて、まずアパートを借りてしまうんですよ、アイツは。》

 幼くして別れて暮らすことになった母親と一緒に住みたい、という隠れた願望があるのだろう。

 

<運命/偶然>

《橋をわたりながら、彼はおだやかな目でしずかにネワ河と、真っ赤な太陽の明るい夕映(ゆうば)えを見やった。彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。まるでまる一月の間彼の心にかぶさっていたものが、一時にとれてしまったようだ。自由、自由! 彼はいまあの諸々(もろもろ)の魔力から、妖術(ようじゅつ)から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!》

 この後、「偶然」という「運命」が介入してくるのだが、辻原登が頁を割いているので、『罪と罰』本文引用は略して、辻原の解説のみ引用する。

《ところが、ここに偶然が介入します。(中略)

 なぜラスコーリニコフは遠回りをするのか。彼自身、犯行後に考えてみたけれどもわからなかった。自由になったのだから、普通なら疲れていたら真っすぐ下宿に帰って、寝て、新しく人生を始めようとするのに、なぜか彼は遠回りになるセンナヤ広場に向かった。理由が自分でもわからない。ラスコーリニコフにはわからない。作者の問題です。

 なぜ作者は彼を遠回りさせたのか。センナヤ広場を通ることによって、老婆の義理の妹のリザヴェータが町人夫婦と会話しているのを立ち聞きすることになります。リザヴェータは義理の姉にいじめ抜かれていますが、天使のような人で一切不平を言わない。ところが、周りの人たちがあまりに気の毒に思って、自分で商売ができるように手伝ってくれます。

 彼女たちの仕事は質屋ですが、同時に倒産したり、一家離散で夜逃げした人たちが残した家財道具などをまとめて安く買って、それを中古品として販売するような商売をしています。雑貨を売っていた町人夫婦にセンナヤ広場でリザヴェータが会って、その商売の件で<明日の夕方七時に私のうちにいらっしゃい。それはお姉さんには黙っていらっしゃい、わかるとまたいじめられるから>と言われて、<じゃあ、行きます。七時ですね>と応えるのを、ラスコーリニコフが聞く。(中略)

 ここで、ラスコーリニコフは再びあの計画を実行することを決めます。なぜドストエフスキーラスコーリニコフに遠回りさせたのか、それは、リザヴェータがいないことを偶然に聞くという犯行のきっかけをラスコーリニコフに与えるために、つまりストーリーのために遠回りをさせた。この偶然がラスコーリニコフの運命になります。》

 さて、辻原は自身の『冬の旅』は『罪と罰』を意識して書いた小説だが、書き方はまるで違う、と前置きしてから、

《殺人を犯すラスコーリニコフは、小説の冒頭から内面を持った人間で、さまざまなことを考えて、虫けらのような老婆を殺しても自分は許されるという、弁論を用意し、実際に殺人を犯すところから始まります。

 私が考えたのは、人間は最初から内面なんか持っていない、持っているかのように書くのが近代小説で、それはフィクションだ。実際にはわれわれは確固たる内面を持っていて、あらかじめ存在しているわけではない。

 人が人を殺そうとするとき、自由な選択によってその行為が成されているのだろうか。自由な選択ができる人間というのは、確固とした内面を持っていることが前提になる。内面が他者の目に見えるものになったとき、それを行動という。行動には動きや声がある。内面の自由な選択、それが動機と呼ばれる。しかし、どうもこの人間観はうさん臭い。近代の最大のフィクションではないだろうか。現実の裁判も、こうした人間観にもとづいている。》

 

 川上弘美が「怖い」と言ったのは、近代的な「内面」「動機」「自由」の欠落ゆえだろう。

 吉田『悪人』の犯罪は、もとより確信犯ではなく、偶然の運命に導かれている。『罪と罰』と違うのは、導かれたのが犯人の祐一ではなく、裕福な大学生増田が尿意をもよおして、祐一と佳乃が待ち合わせしていた東公園に立寄ったことだった。立小便という、それだけのことが祐一の殺人のきっかけだった。そして光代が餃子を食べてニンニク臭かったことがさらなる誘引となって。

 無罪放免された増尾が、天神にある行きつけのカフェに友人たちを集めて、戦果報告する場面から。

《「あの夜さ、なんか無性にイライラしとってさ、お前らそういうことない? これといった理由もないとに、なんかこうムカムカきて、一ヵ所にじっとおれんような夜とか」

 増尾の言葉に集まった若い男たちが頷く。

「な? あるやろ? あの夜がまさにそうで、とにかく車でもかっ飛ばそうと思うて出かけたわけよ。途中、小便しとうなって東公園に寄ったら、そこであの女と偶然ばったり」

「あの女と面識あったと?」

 一番近くに座っていた男が、テーブルに身を乗り出すようにして訊いてくる。

「ああ、あった。 なぁ? 鶴田とかも知っとるよな? ほら、天神のバーで知り合うた、保険会社で働いとるとかいう、女三人組で、なんか垢抜(あかぬ)けん奴ら。あんとき一緒やったヤツもおるやろ?」

 増尾の問いかけに、何人かがやっと思い出したように、「ああ」と声を漏らす。

「あの中の一人。なんかそのあともしつこうメールとか送ってきてさ。あ、そうそう、さっき調べたらあの女からのメールまだ残っとった。見るや?」

 三瀬峠で殺された女からのメールを見るか? と自慢げな増尾に訊かれて、みんながテーブルに身を乗り出してくる。一瞬、鶴田は虫唾が走るような嫌悪感を覚えたのだが、集団の勢いに押されて、何も言い出すことができなかった。

 ポケットから出した携帯を弄(いじ)りながら、「でな、とにかくあの夜、この女と偶然会うて、車に乗せたっちゃん。まぁ、それが間違いの始まりで……」と増尾が話を続ける。

「なんかさ、どよーんとした目つきで俺のことを見るわけ。どっか連れてって、て目で。こっともムシャクシャしとるし、この尻軽女どっかに連れてって一発かませばすっきりするかなぐらいの気持ちで車に乗せたんやけど、乗せたとたん、餃子(ギョーザ)食うてきたらしく、息は臭かし、一気にテンション下がってさ。結局、三瀬峠まで走ったあと、いい加減、我慢できんようになって、置き去りにしてやった」》

(ところで、尿意を催して東公園の公衆便所に入った増尾は、個室から出てきた同世代の男の素性を理解し、酔いに任せて「しゃぶらせちゃろか?」と笑いかけるが、「フン、おめぇがしゃぶれ」と鼻で笑われ、さらに苛立ちが増す。吉田の小説にはゲイがよく登場するが、『悪人』にはフェラチオの場面が多い。祐一はその公衆便所で男に背後に立たれたことがある。はじめてのホテルで光代の喉に祐一は性器を突き刺した。鶴田はエロビデオのフェラチオシーンで精を放つ。)

 

<佳乃とリザヴェータ/光代とソーニャ>

 追われる男を愛する女、殺人者と救済する女ということでは光代はソーニャに相当する。運命、偶然によって殺されてしまった佳乃は、老婆の妹で、不在なはずが居合わせて殺されるリザヴェータに相当する。

リザヴェータの意外な裏事情を知ると、佳乃が出会い系サイトで不特定多数と性的関係を持っていたことと結びついて興味深い。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《リザヴェータがたえず妊娠しているという、酒場で耳にした話がある(「しかし、学生がおどろき、大笑いした点というのは、リザヴェータがひっきりなしに妊娠しているという事実だった……」)。(中略)

 ヴィスバーデン版、すなわち『罪と罰』(この段階では「告白」)一人称形式による「中編小説」として書かれつつあった段階で、ドストエフスキーは、このリザヴェータに、妊娠六ヵ月目というディテールを付け加えていたのである。そしてその「妊娠」の理由について彼は、ザメートフの原型であるバカービンとリザヴェータが「できていた」事実をナスターシャに暴露させている。そこでのやりとりを紹介しよう。

「なに? やつが? そんなばかな?」ラズミーヒンは叫んだ。

「そうなの。彼女、あの人に下着まで縫ってやっていた。で、やっぱり一文もくれてやらなかったけれどね」

「そんなことぜったいにあるもんか」ラズミーヒンは叫んだ。「彼女には、別の男もいたんだぜ。知ってるんだ」

「ええ、もしかして三番目もいたかもよ、いや、もしかして四番目だって」ナスターシャはそう言って笑いだした。「なんでも言うことをきく女だったのよ……いろんな遊び人があの人を弄んだの。見つかった赤ちゃんは、そいつらのよ……」

「赤ちゃんて?」

「解剖の結果わかったの。六月目だったんだって。男の子でね。死んでたそうよ」

 現在わたしたちが読むことのできる最終稿とくらべ、恐ろしくリアルな描写といわざるをえない。リザヴェータに対し、検死が行われたという事実は、最終稿ではむろん一行も触れられていない。》

 

 ラスコーリニコフがソーニャを訪ね、すべてを「告白」する。と、ソーニャとリザヴェータが同一化する。

《「つまり、ぼくはその男(・)の親しい友人だということになるわけだ……知っているとすればね」ラスコーリニコフはもう目をそらすことができないように、執拗に彼女の顔に目をすえたまま、話をつづけた。「その男はリザヴェータを……殺す気はなかった……老婆が一人きりのときをねらって……行った……ところがそこへリザヴェータがもどって来た……男はそこで……彼女も殺したんだ」

 さらにおそろしい一分がすぎた。二人はじっと目を見あったままだった。

「これでもわからないかね?」と彼は不意に、鐘楼からとび下りるような気持で、尋ねた。

「い、いいえ」とほとんど聞きとれぬほどにソーニャはささやいた。

「ようく見てごらん」

 そう言ったとたんに、また先ほどのあの感覚が、不意に彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た、そして不意にその顔にリザヴェータの顔を見たような気がした。彼はあのときのリザヴェータの顔の表情をまざまざと思い出した。彼が斧を構えてにじりよったとき、彼女は片手をまえにつき出して、壁のほうへ後退(あとずさ)りながら、まるで子供のような恐怖を顔にうかべて、彼におびえた目を見はったのだった。それはちょうど小さな子供が急に何かにおびえたとき、じっと不安そうにおびえさせたものに目を見はり、ながら、いまにも泣き出しそうになって、小さな手をつき出して相手を近づけまいとしながら後退る、あの様子にそっくりだった。ほとんどそれと同じ状態がいまのソーニャにも起った。やはりさからう力もなく、やはり恐怖の表情をうかべて、彼女はしばらく彼を見つめていたが、不意に、左手をまえにつき出して、指をわずかに相手の胸にふれながら、ゆっくりベッドから立ちあがり、すこしずつ身をそらし、相手にすえつけた目はしだいにすわってきた。彼女の恐怖が不意にラスコーリニコフにもつたわった。まったく同じような恐怖が彼の顔にもあらわれ、同じようにソーニャの顔に目をすえはじめた。その顔には同じような子供っぽい(・・・・・)微笑さえうかんでいた。

「わかったかね?」と、彼はとうとう囁(ささや)くように言った。

「ああ!」という悲痛な叫びが彼女の胸からほとばしった。》

 

 ラスコーリニコフの告白の冷静さに比べて、『悪人』の祐一の告白はあまりに幼い。

 灯台を見に行く途中、呼子(よぶこ)の海沿いに立つ民宿兼レストランの二階で、光代は仕事をさぼり、丸一日自由な時間を得たことに、知らず知らずに興奮して、イカの美味に熱弁を奮うが、

《ふと前を見ると、祐一が肩を震わせ、目を真っ赤にしている。慌てて、「ど、どうしたと?」と声をかけた。

 テーブルの上で祐一の拳が強く握りしめられ、音を立てるほどに震えている。

「……俺、……人、……殺してしもた」

「え?」

「……俺、ごめん」

 一瞬、祐一が何を言ったのか分からず、光代はまた、「え? 何?」と素っ頓狂な声を上げた。

 祐一は俯いたまま、テーブルで拳を握りしめるだけで、それ以上のことを言わない。涙目で肩を震わせ、「俺、……人殺してしもた」と漏らしたきり、それ以上のことを言わない。安物のテーブルに、硬く握りしめられた祐一の拳があった。本当にすぐそこにあった。(中略)

「……本当はもっと早う、話さんといけんやった。けど、どうしても話せんやった。光代と一緒におったら、何もなかったことになりそうな気がした。何もなくなるわけないとし……。今日だけ、あと一日だけ光代と一緒におりたかった。昨日、車の中で話そうと思うた。でも、ちゃんと最後まで話せるか自信がなかった」(中略)

 白い皿には色鮮やかな海藻が盛られ、見事なイカが丸一匹のっている。イカの身は透明で、下に敷かれた海藻まで透かして見える。まるで金属のような銀色の目が、焦点を失って虚空を見つめている。まるで自分だけでも、この皿から逃れようと、何本もの脚だけが生々しくのた打っている。(中略)

「……あの晩、ちゃんと待ち合わせしとったとに、あの女、別の男とも同じ場所で会う約束しとって。『今日、あんたと一緒におる時間ない』って言われて、その男の車に乗ってしもうて、そのままどっかに行ってしもうた。……俺、バカにされたようで悔しくて、その車、追いかけて……」》

 皿の上のイカが、虚空を見つめている銀色の目が、のた打つ脚が、告白する祐一のようでもある。

 光代と佳乃は同一化したか。光代と佳乃は、二人とも同じように首を絞められはする。しかし、光代への絞殺未遂は確信からであり、その動機は様々な解釈(あえて光代を逃亡共犯者ではなく被害者に仕立てたのか)が可能であり、佳乃殺しと違って衝動的なものではない。祐一の告白はどこまで真実なのか嘘なのか計り知れないところがあるけれども、内面も動機も光代の首を締める祐一の手に存在する。母親への愛憎・確執から、自分が母の被害者ではなく、母への復讐の「加害者」である、という烙印を押したという読みも匂わせている。

 ここに「佳乃-母―光代」の三角形を見ることができる。

 そして、深層心理的な母殺しがある。

 映画では申し訳程度(駄目な母親像)に残された母への「回想」を見てゆく前に、『悪人』ならではのテーマをおさえておく。

「嘘」と「灯台」だ。

 

<嘘>

「第一章 彼女は誰に会いたかったか?」は、川上弘美が《十頁め。視点は福岡にいる男の娘の周囲に移動する。仕事の倦怠。歓心をかいたい男のこと。意地悪な同僚のこと。読んでいると体が震える心地になってくる。恐ろしいことが書いてあるわけではない。歪みのない描写があるばかりだ。けれど、いやな予感がある。》という「彼女」こと佳乃の無邪気な「嘘」の連続だ。ほとんど毎頁のような他愛もない嘘によって彼女は運命に近づく。「咄嗟」が運命を決定してゆく。祐一の殺人もまた咄嗟の行為ではなかったか。

《その晩、増尾からメルアドを訊かれたのは事実だった。だが、それ以来、何度か彼とデートをしているという佳乃の話は嘘(うそ)だった。》

《天神のバーで知り合ったとき、佳乃は三人の中で自分だけがメルアドを訊かれたことを誇りに思っていた。その誇りがつい、「ねぇ、増尾くんからメールきた?」という沙里の質問に、「うん、きたよ。今週末会う」という咄嗟(とっさ)の嘘をつかせてしまった。》

《もちろん増尾が沙里のことを嫌っているなど真っ赤な嘘だった。ただ、ときどき佳乃はなんでもすぐ真に受ける眞子に、他愛もない嘘をつき、その反応を楽しむことがあったのだ。》

《佳乃はまたポテトサラダに箸を伸ばした眞子を眺めながら、「仲町鈴香のこと、あの子、増尾くんのことが好きらしいっちゃんね。それで私にライバル心持っとるんよ」と言った。

 咄嗟に出た嘘だったが、これが思わぬ索制になりそうだった。万が一、増尾と同じ学校に通う友人から、鈴香が何か知り得たとしても、この嘘が鈴香の真実を嫉妬からの負け惜しみに変えてくれる。》

《「どこで待ち合わせしとうと?」

 前を歩く眞子に訊かれ、佳乃は一瞬迷って、「えっと、吉塚駅前」と嘘をついた。まさか二人がこっそりとあとをつけてくるわけもないのだが、これから増尾と会うと嘘をついているので、なんとなく警戒したのだ。》

 

「第四章 彼は誰に出会ったか?」の、時間が遡った殺人事件当夜、祐一は「早く嘘を殺さないと、真実の方が殺されそうで怖かった」と嘘をつく佳乃の喉を押さえつける手に力を込める。

《「人殺し!」

 祐一が肩に手を置いた途端、佳乃がそう叫んだ。祐一は思わず手を引いた。

「人殺し! 警察に言ってやるけんね! 襲われたって言ってやる! ここまで拉致(らち)されたって! 拉致られて、レイプされそうになったって! 私の親戚に弁護士おるっちゃけん。馬鹿にせんでよ! 私、あんたみたいな男と付き合うような女じゃないっちゃけん! 人殺し!」

 佳乃が叫ぶ。まったくの嘘なのに、祐一はなぜか膝が震えて止まらなかった。

 佳乃はそれだけ言い放つと、痛む指を握って歩き出した。車の周囲を離れれば、街灯もない峠道で、すぐに佳乃の姿は闇に呑まれる。「ちょ、ちょっと、待てって」と祐一は声をかけたが、それでも佳乃は歩いていく。

 佳乃の足音が遠ざかる闇の中へ、祐一はたまらずに駆け込んだ。

「嘘つくな! 俺は何もしとらんぞ!」(中略)

「人殺し! 助けて! 人殺し!」

 佳乃の悲鳴が峠の樹々を揺らす。佳乃が声を上げるたび、祐一は恐ろしさに身が震えた。こんな嘘を誰かに聞かれたら……。

 祐一は目を閉じていた。佳乃の喉を必死に押さえつけていた。恐ろしくて仕方なかった。佳乃の嘘を誰にも聞かせるわけにはいかなかった。早く嘘を殺さないと、真実の方が殺されそうで怖かった。》

 

灯台

 はじめに「灯台」という単語が登場するのは、第一章「彼女は誰に会いたかったか?」の、博多湾の埋め立て地に建つラブホテルで、祐一が佳乃の半裸の写真をとろうとして、「三千円ならいいよ」と言われ、携帯のボタンを押し、門限があるからと佳乃に言われたときだ。このときにはまだ「灯台」がキーワードだと読者は知らない。

《ホテルの駐車場から遠くに福岡タワーが見えた。首を伸ばして眺めようとする祐一を、「ちょっと、急いでって」と佳乃が急(せ)かした。

「福岡タワーの展望台に上ったことあるね?」

 面倒臭そうに、「子供のころ」と答えた佳乃が、早く車に乗りこむように、と顎(あご)でしゃくる。祐一は、「あれ、灯台みたいやね」と言おうとしたが、佳乃はすでに助手席に乗り込んでいた。》 

 

 次に「灯台」が出て来るのは第三章「彼女は誰に会ったか?」で、事件から九日が経っていた。祐一にメールが来る。

《<こんにちは。覚えてますか? 二ヵ月くらい前にちょっとだけメールをやりとりした者です。私は佐賀に住んでいる双子の姉で、そのときあなたと灯台の話で盛り上がったんだけど、もう忘れちゃいましたか? 急なメールでごめんなさい>》

 そこから二人のメールは「灯台」の話題をめぐる。

《<私も。ねえ、あれからどこか新しい灯台行った?>

<最近ぜんぜん行っとらん。週末も家で寝てばっかり>

<そうなんだ。ねえ、どこだっけ? 前に薦(すす)めてくれた奇麗な灯台って>

<どこの灯台? 長崎? 佐賀?>

<長崎の。灯台の先に展望台がある小さな島があって、そこまで歩いて行けるって。そこから夕日見たら泣きたくなるくらい奇麗だって>

<ああ、それやったら樺島(かばしま)の灯台やろ。うちから近いよ>(中略)

《佐賀にもある? 奇麗な灯台

 すぐに送られてきたメールに、<あるばい。佐賀にも>と祐一は送り返した。

<でも唐津のほうやろ? うち市内のほうやけん>》

 

 逃避行の末、二人は有田で車を乗り捨て、なかなか踏ん切りがつけられない祐一に、「灯台に行こうよ」と提案したのは光代だった。電車とバスを乗り継いでやって来た。

灯台は断崖の下に広がる海を見下ろしていた。鎖の張られた手すりの向こうに道はなく、真下から激しい波音が聞こえる。眼前の風景を眺めていると、ここが行き止まりというよりも、この先、どこへでも行ける気がした。》

 

<母>

 まず、祐一の祖母房枝を巡って。

《この房枝と、今はほとんど寝たきりの夫、勝治(かつじ)の間には、重子(しげこ)、依子(よりこ)という二人の娘がいる。長女重子は現在、長崎市内で洒落(しゃれ)た洋菓子店を営む男と所帯を持ち、二人の息子はそれぞれ大学に通わせたあと独り立ちさせている。房枝によれば、「ぜんぜん心配のいらんほうの娘」になる。一方、次女の依子が祐一の母親なのだが、こちらがどうも落ち着かない。若いころ、市内のキャバレーに勤めていた男と結婚し、すぐに祐一を産んだはいいが、祐一が小学校に上がるころには男が出奔、仕方なく祐一を連れて実家に戻り、その後、祐一を房枝たちに押しつけて家を出た。今では雲仙の大きな旅館で仲居をしているらしいが、祐一にとっては、そんな両親に連れ回されるよりも、造船所で長年勤め上げた祖父と祖母に育てられ、結果的にはとかったのではないかと憲夫は思っている。なので祐一が中学に上がるとき、彼らが祐一を養子にすると言い出したとき、憲夫は真っ先に賛成したのだ。》

《房枝は自分が作り与える食事で、一人の少年が一端の男に成長していく姿を、呆れながらも感嘆の思いで眺めてきた。

 男の子に恵まれなかったこともあるが、娘たちのときには味わえなかった何か、女の本能のようなものを、孫を育てていくうちに感じている自分に気づいた。

 もちろん当初は、実の親である次女の依子にどこか遠慮していたところもあった。しかし、その依子がまだ小学生の祐一を置いて、男と姿を消してからは、これで自分が祐一を育てられるのだと、娘の不貞を嘆きながらも、力の漲ってくる思いがあった。房枝は五十歳になろうとしていた。

 男に捨てられた依子に連れられて、この家にやってきたとき、祐一はすでに母親を信じていないように見えた。口では、「お母さん、お母さん」と甘えてみせるのだが、その目はもう依子を見ていなかった。》

 

 つい数日前に出会ったばかりなのに、仕事が終るころには居ても立ってもいられなくなって、車で佐賀に向かい、わずかな時間、紳士服「若葉」の駐車場に入って、車の中で抱き合った。朝早い祐一につらい思いをさせたくないという光代の気持ちから、十時を回ったころ長崎へ戻る帰り道で信号待ちの祐一は回想する。

《あれはまだ祖父母の家に連れて来られる前、おふくろと市内のアパートに住んでいた。ある日、「今からお父さんに会いに行くよ」と、とつぜんおふくろが言った。喜んで支度をして、一緒に路面電車に乗った。「駅に着いたら汽車に乗り換えるけんね」とおふくろは言った。「遠いと?」と尋ねると、「ものすごー、遠いよ」と答えた。

 混んだ路面電車で、おふくろは吊り革を摑んだ。俺はそのスカートを摑んだ。電車が走り出すと、前に座っている男たちが、互いの肩を突き合いクスクスと笑い出した。剃(そ)り忘れたおふくろの腋毛を笑っているらしかった。おふくろは顔を真っ赤にして腋をハンカチで隠した。暑い日だった。混んだ電車は大きく揺れて、おふくろのハンカチがずれるたびに、男たちが笑いを堪えた。

 JRの駅について、汽車に乗り換えた。揺れる路面電車で必死に腋を隠していたおふくろは、水を浴びたように汗だくだった。切符を買おうと混んだ窓口に並んでいるとき、俺は、「ごめんね」と謝った。おふくろはきょとんとして首を捻り、「暑かねぇ」と微笑むと、俺の鼻に浮んだ汗を、そのハンカチで拭ってくれた。》

 とつぜん背後でクラクションを鳴らされて我に返った祐一は発車してラジオをつけると、三瀬峠の殺人事件で指名手配されていた男が名古屋で捕まって、取り調べを受けているとのニュースが流れる。

 祐一は、石橋佳乃を三瀬峠へ連れて行ったあの男が、今日名古屋で捕まった、と呟いているのに、なぜか昔、一緒に親父に会いに行った日の情景が思い出される。

《親父が出ていったばかりのころ、おふくろは毎晩のように泣いていた。心細くて横に座ると、俺の頭を撫でながら、「嫌なことはぜ~んぶ忘れてしまおうねぇ。一緒にぜ~んぶ忘れてしまおうねぇ」とますます声を上げて泣いた。

 おふくろと一緒に乗った列車の窓からは、海が見えた。座ったのが山側の座席で、海側の座席にはお揃いの帽子をかぶった小学生の兄弟とその両親が座っていた。首を伸ばして、海を見ようとすると、うとうとしていたおふくろが目を覚まし、「ほら、ちゃんと座っときなさいよ。危ないけん」と頭を押さえた。「着いたら、海ならいくらでも見られるけん」と。

 どれくらい乗っていたのか、気がつくと、おふくろと同じようにうとうとしていた。

「ほら、降りるよ」と、とつぜん腕を摑まれて、寝ぼけたまま列車を降りた。駅からしばらく歩いた。着いたところはフェリー乗り場だった。

「ここから船に乗って、向こうに行くけんね」

 フェリー乗り場の駐車場には、たくさんの車が並んでいた。この車も全部、一緒にフェリーに乗るのだとおふくろは教えてくれた。

 列車の中でおふくろが言った通り、目の前には海があり、遠くに対岸の灯台が小さく見えた。灯台を見たのはあのときが初めてだった。》 

 ポケットで携帯が鳴って、警察の人が来ていると、祖母が震える声で伝えて来て、反射的に祐一は電話を切った。別れたばかりの光代に会いに佐賀に戻り、光代に「あのまま高速に乗って帰るはずやった。けど、昔のこと思い出してしもうて「子供のころ、おふくろと一緒に親父に会いに行ったことがあって……、そのときのこと」と言葉をつなぐ。

 

 憲夫の言葉(独白なのか、祐一逮捕後の刑事による質問への答えなのか、こういった断章を吉田は巧みにはさんでポリフォニックな効果を出す)。

《あの日、祐一はフェリー乗り場に置き去りにされたとですよ、結局、翌朝までじっと一人で待っとったらしかです。切符ば買いに行くって言うて、そのまま逃げた母親ば、フェリー乗り場の桟橋の柱に隠れて、朝までずっと待っとったらしかです。

 翌朝、係員に見つけられたとき、祐一はそれでも動こうとせんやったって。「母ちゃんがここにおれって言うたもん!」って、その人の腕に噛みついたって。

 置き去りにする前に、母親が言うたらしかとですよ。「向こうに灯台の見えるやろう?」って、「あの灯台ば見ときなさい」って。「そしたらすぐお母さん、切符買うて戻ってくるけんね」って。》

 結局、母親が連絡して来たのは一週間後で、児童相談所家庭裁判所の世話になって、祖父母が二人を引き取って、それからまたすぐ母親が男作って逃げ出して。

 それでも親子とは不思議で、祐一は年に一回あるかないか、祖母に内緒で母に会って食事をしているという。

 

《「置き去られるもの」 中沢けい 『悪人』書評

 過去の出来事が奇妙な形で凝固し、その人の行動規範を作ってしまうことがある。『悪人』の登場人物・清水祐一はフェリー乗り場で母親に置き去りにされた経験をもつ。突然の「置き去り」の原因がわからない。自分が何か悪いことをしたから、母親に嫌われたのではないか…。少年は加害と被害の関係を反転させてみる。しかし、憶測は現実に追いつくことはない。この居心地の悪さが、彼の生を大きく左右する。

 後年、母親の抱く罪悪感を知った祐一は、「欲しゅうもない金」を彼女から毟り取るようになる。加害と被害の反転が形にされたのである。それは善意ではない、単なる独りよがりかもしれない。彼はこの矛盾について他人の理解を求めなかった。だが、たとえそれが矛盾に満ちた行為であったにせよ、過去の関係を清算し、再び出会いたいという願いの現われでなかったと誰が言えよう。

 清水祐一は「置き去られる人」である。懇意にしていたヘルス嬢にも、出会い系サイトで知り合った保険外交員の女にも彼は捨てられる。そして、その度に彼は「加害者」に転じようとするのだ。後者はこの小説の駆動軸である殺人事件となる。だが、激情と混乱のなかで祐一が殺害行為に及んだのは確かだとしても、被害と加害の反転という「不気味」な範型は、はっきりと顔を覗かせている。

 そんな祐一が「一緒におって! 私だけ置いてかんで!」という女の叫びをいかに聞いたか。既に殺人事件は起きてしまっており、捜査の網は確実に狭まっている。彼は「置き去る人」になろうとしていた。女の首を絞める。逮捕後の供述では、自分は変質者であり、女は利用しただけだと答える。彼はやっと出会えた人にいま自分ができることを考えていた。「あの人は悪人やったんですよね?」ラストを締めくくる女の語りに浮かぶ疑問符は、みずからに向けた説得に近い。皮肉に結ばれた一本の線が悲しい。

 ところで、忘れてならないのは、登場人物のほとんどが実は「置き去られるもの」だと言えることである。非人格の「悪人」がどこかにいるのではないか。この作品は「何か」から置き去りにされていく現代人の寂しさと苛立ちを、「皮膚に浮き出した血管のように」脈打たせている。吉田修一の目はひどく抽象的なものを追うが、小説家の本来の姿とはそういうものかもしれない。『悪人』はその命題をも問う力編となった。》

 

 東公園で、どうだったか。

《佳乃は一度も振り返らずに、男の車に乗ってしまった。走り出した車は紺色のアウディで、どんなローンを組んだとしても、祐一には手の出なかったA6だった。

 がらんとした公園沿いの並木道を、男の車が走り出す。凍えた地面に白い排気ガスがはっきりと見えた。

 自分が置き去りにされたのだと、祐一はそこで初めて気づいた。それほどあっけない一幕だった。置き去りにされたと思うと、とつぜん全身の皮膚を破るような血が立った。怒りでからだが膨張するようだった。

 祐一はアクセルを踏み込んで、車を急発進させた。(中略)

 祐一は更にスピードを上げ、男の車の横を走った。ハンドルを握りながら、車の中を窺うと、助手席に座った佳乃が、満面の笑みを浮かべて喋(しゃべ)っていた。一言、謝ってほしかった。約束を破ったのは佳乃なのだから、一言謝ってほしかった。》

 母への「回想」が、三瀬峠の「嘘」に割り込む

《「嘘つくな! 俺は何もしとらんぞ!」

 叫びながら駆け込むと、立ち止まった佳乃が振り返り、「絶対に言うてやる! 拉致されたって、レイプされたって言うてやる!」と叫び返してくる。真冬の峠の中なのに、山全体から蝉の声が聞こえた。耳を塞ぎたくなるほどの鳴き声だった。

 自分でも何に怯えているのか分からなかった。ここまで拉致された。レイプされた。佳乃の言葉はまったくの嘘なのに、まるで自分がそれを犯してしまったようで、血の気が引いた。必死に、「嘘だ! 濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ!」と、心の中で叫ぶのだが、「誰が信じてくれる? 誰がお前のことなんか信じてくれる?」と真っ暗な峠が囁(ささや)きかけてくる。

 そこには暗い峠道しかなかった。証人がいなかった。俺がここで何もしていないということを証明してくれる者がいなかった。婆さんに、「俺は何もやっとらん!」と弁解する自分の姿が見えた。「俺は何もやっとらん!」と、自分を取り囲む人々に叫び続ける自分の姿が見えた。そのときふいに「母ちゃんはここに戻ってくる!」とフェリー乗り場で叫んだ、幼い自分の声が蘇(よみがえ)った。誰も信じてくれなかったあのときの声が。(中略)

「……俺は何もしとらん」

 佳乃の両肩を強く押さえた。痛みに声を漏らす佳乃が、それでも噛みつくように、「誰があんたのことなんか信じるとよ!」と叫ぶ。

「人殺し! 人殺し! 人殺し!」》

 

 ここには、「象徴的」な意味での「母殺し」がある。

罪と罰』に「母殺し」を見てとる読みがある。

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)《カリャーキンが興味深い指摘を行っている。ナポレオン主義の理論にしたがって老女を殺し、「偶然」にリザヴェータを殺したラスコーリニコフの行為は、母殺しであるというのだ。

「たとえ偶発的であるにせよ、世界の文学にこれほどの規模をもった母殺しの小説がほかにあるだろうか」(中略)

 そこに現われるのは、彼があるとき呪わしいものと感じた母―ドーニャ―ラスコーリニコフの三角形に代わる、リザヴェータ―ソーニャ―ラスコーリニコフの新しい三角形である。そして彼は、現実のレベルではリザヴェータを、象徴的なレベルにおいては母親をそれぞれ殺すのである。》

 

<もっと早く会っていれば>

『悪人』では祐一が。そしてラストシーンで光代が。

 祐一はニュースで男が捕まったと知り、祖母から警察の人が来ていると連絡が入ると、母とフェリー乗り場に行って見た灯台を思い出して、光代のアパートに舞い戻ったのだが、

《アパートの階段から、暗い車内でハンドルに突っ伏している祐一が見えた。車のライトが汚れたポリバケツを照らしている。

 光代は階段を下りたところで思わず足を止めた。目の前の光景が幻覚のように思えたのだ。会いたいと思う気持ちが、こんな光景を見せているのではないかと。

 それでもゆっくりと近寄ると、足元で砂利が鳴った。光代は運転席のガラスを指先で叩いた。叩いた瞬間、祐一がビクッと起き上がる。「どうしたと?」と光代は声を出さずに尋ねた。その口元を見つめている祐一の目が、どこかとても遠い場所を見ているようだった。

 光代はもう一度ガラスを叩いた。叩きながら「どうしたと?」と目で尋ねた。それに答えるように祐一が目を逸らす。光代はまたガラスを叩いた。しばらくハンドルを握ったまま俯(うつむ)いていた祐一がゆっくりとドアを開ける。光代は一歩あとずさった。

 車を降りてきた祐一が、何も言わずに光代の前に立つ。光代はその顔を見上げながら、「どうしたと?」とまた訊いた。

 通りを車が一台走っていく。路肩の雑草がその風圧で激しく揺れる。そのときだった。祐一がとつぜん光代を抱きしめた。あまりにとつぜんで、光代は短い声を上げた。

「俺、もっと早う光代に会とればよかった。もっと早う会っとれば、こげんことにはならんやった……」

 抱きしめる祐一の胸から声がする。》

 

 最終章。逃避行の終着、灯台で。

《「ねぇ、一つだけはっきりさせとっていい?」

 光代の言葉に、祐一が少し緊張する。

「祐一が、私を連れて逃げとるんじゃないんやけんね。私が祐一に頼んで一緒に逃げてもろうとるんやけんね。誰に訊かれても、そう言うとよ」

 光代の言葉をどう理解すればいいのか分からないようで、祐一が眉間に皺を寄せる。光代はまるで自分が別れの言葉を発したような気分になって、思わず祐一の胸に顔を押しつけた。

「私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に終わって、あっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年……。私、今まで何しとったとやろ? なんで今まで祐一に会えんかったとやろ? 今までの一年とここで祐一と過ごす一日やったら、私、迷わずここでの一日ば選ぶ……」

 祐一に髪を撫でられながら、光代はそこまで言うと、絶え切れずに鼻を啜(すす)った。ポケットから出されたばかりの祐一の手が、まるで毛布のように温かい。

「俺だって、光代との一日ば選ぶよ。あとはもうほんとに何もいらん。……でも、俺、なんもしてやれん。光代のこと、いろんな所に連れてってやりたかったけど、どこにも連れてってあげられん」

 光代は裕一の胸に頬を押しつけた。

「……俺ら、あと何日くらい一緒におられるやろか」

 祐一が寂しそうにそう呟く。その直後だった。断崖に張られた鎖の上に、粉雪が一つ落ちて、とけた。》

 小説中で、もっとも抒情的な場面といってよい。

 

罪と罰』ではソーニャが。第五部第四章。ソーニャへの告白の場面。

《もういつからか忘れていた感情が、波のようにおしよせて、たちまち彼の心をやわらげた。彼はそれにさからわなかった。涙が二粒彼の目からこぼれでて、睫毛(まつげ)にたれ下がった。

「じゃ、ぼくを見すてないでくれるね、ソーニャ?」と彼はすがるような気持で彼女を見まもりながら、言った。

「ええ、ええ、いつまでも、どこまでも!」とソーニャは叫んだ。「あなたについて行くわ、どこへでも! ああ、神さま!……わたしはどこまで不幸なのでしょう!……どうして、どうしてもっと早く来てくださらなかったの! ああ、悲しい!」

「だから、来たじゃないか」

「いま頃(ごろ)! ああ、いまさらどうしよう!……いっしょに、いっしょに!」彼女はわれを忘れたようにこうくりかえすと、また彼を抱きしめた。「流刑地(るけいち)へだってあなたといっしょに行くわ!」

 

 ラスコーリニコフからの直接の言葉はないが、シベリアの収容所での、寄り添う二人が言葉以上に語る。これもまた美しい場面だ、ドストエフスキーにしては甘すぎるくらい甘い。しかも『悪人』とは違って、自首、判決の事後であり、未来が見えている。

《不意に彼のそばにソーニャがあらわれた。彼女は足音を殺してそっと近よると、彼のよこに腰を下ろした。まだひじょうに早く、朝の冷たさがまだやわらいでいなかった。彼女は古いみすぼらしい外套(がいとう)を着て、緑色のショールをかぶっていた。顔にはまだ病後のやつれがのこっていて、痩せて、蒼白(あおじろ)く、頬(ほお)がこけていた。彼女は愛想よく嬉しそうに、にっこり彼に微笑(ほほえ)みかけたが、いつもの癖で、おずおずと手をさしのべた。

 彼女はいつも彼におずおずと手をさしのべた。ときには払いのけられるのではないかとおそれるように、ぜんぜん手を出さないことさえあった。彼はいつもさも嫌(いや)そうにその手をとり、いつも怒ったような顔をして彼女を迎え、どうかすると、会ってもはじめから終りまでかたくなに黙りこんでいることもあった。彼女はすっかり彼におびえて、深い悲しみにしずみながらもどって行ったことも、何度かあった。しかしいまは二人の手は解けなかった。彼はちらと素早く彼女を見ると、何も言わないで、俯(うつむ)いてしまった。彼らは二人きりだった。誰も見ている者はなかった。看守はそのとき向うをむいていた。

 どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突きとばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝(ひざ)を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真(ま)っ蒼(さお)になった。彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に愛していることを、そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった……》

 

ボードレール悪の華』>

 川上弘美書評の《ひどく怖い。怖いけれど、どこか妙に気持ちいい。手触りの、ためだろうか。言葉を使って、そこにないものをはっきりとそこにあらわせる。》とは、吉田修一ボードレール悪の華』を愛読して来たことと関係があるだろう。

 

「作家の読書道 第二十八回 吉田修一さん」(WEB本の雑誌)から。

《【人生を変えた詩集】

――本に興味を持ち始めたのはいつごろですか?

吉田 : 小学校や中学でも読んではいたんですけど、好きで読んでいるというより、あるから読んでいるという感じでした。高校1年のころ、新潮文庫なんかに入っている詩集を読み始めたんですよ。文章というものがおもしろいなあと思ったのは、そのときが最初だったと思います。どちらかというと体育会系の人間だと思っていたので、そういうのに手が出なかったんですけど、たまたま手にとった何冊かがおもしろくて、「自分はこういうものをおもしろいと思えるんだなあ」と発見したというか。ランボーボードレール萩原朔太郎中原中也など手当り次第に読んでいました。

――初めて詩集を手にしたときの状況をお聞かせください。

吉田 : たぶん放課後にどこかへ行こうとしてたんでしょうね。学校の図書室で待ち合わせをしていて、友達が来ないのでぶらぶらしていたときです。それから図書室へよく行くようになりました。誰でも読んでいるような有名な詩集ばかりですけど。たぶんあれを読んでいなかったら、小説なんか書いていないだろうし、ほんとに文章というか文学がまさか好きになれるとは思っていなかったので、あの経験はけっこう大きかったかもしれませんね。

――その中で核をなすもの、これははずせない1冊は?

吉田 : この1冊というのはないんですけど、当時引いた線が最も多いのはボードレールですね。

――今でもときどき読み返しますか?

吉田 : 年に何度か、気がつくとパラパラとめくってますね。煮詰まっているときに多いです。》

 

「【人気作家にきく】『アンジュと頭獅王』吉田修一さんインタビュー・前編|「本が人生に与えてくれるもの」」から。

《――高校時代は?

吉田 文科系ではなかったですね。水泳部に所属していて、自分では運動部系の人間だと思っていました。ただ、部活の前になぜか部員が図書室で集まるという習慣があり、図書室はたまり場でした。そのとき、自分でも驚くほどの強烈な読書体験をしました。

――何が起きたのですか?

吉田 いつものように、部活の友達を待っているときです。退屈のあまり、一冊の詩集を手に取ってパラパラめくっていたところ、詩の一行が突然、ストンと心に入ってきたのです。ビックリしました。自分が文学、それも詩を読んで感動する人間であるとは思ってもいなかったから。それから、ボードレールランボーなどをむさぼるように読み始めました。大学時代も、よく詩集を読みました。たまに昔読んだ詩集をめくることがあるのですが、線が引いてあるのです。どうして、そんなところに線を引いたのか、今となってはよく分からないのですが、当時の自分には大切だったんでしょう。》

 

<「悪」あるいは「悪人」>

吉田は「波 E magazineNami インタビュー」の「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る 【後編】」でこんなことを言っている。

《――前号で〈人間の生(なま)っぽい感じ〉という話がありました。『さよなら渓谷』は酷い犯罪をおかした男と、その被害者だった女の物語です。これも恋愛小説といえば恋愛小説ですが、この時期から、より犯罪のウエイトが重くなっていくのは、生の人間を出しやすいから、なのでしょうか?

吉田 犯罪をおかす時の人間がいちばん魅力があるから、と言ったら変ですかね。言い換えると、その人間が犯罪をおかす時をいちばん見てみたいんですよ。今度の『湖の女たち』もいろんな罪をおかす人たちが出てきますが、なんで僕がこんなに犯罪者に惹かれるのか、ちょっとわかんないです。犯罪自体ではなくて、そこに漂う空気に、懐かしいとも居心地がいいとも違うけど、惹かれるんですよ。

 ――正確には、犯罪よりも、犯罪によって歪んでしまう人間関係に突っ込んでいかれます。

吉田 『さよなら渓谷』は男女間でしたが、男同士だって、本気と冗談の間で、ふざけて揉み合っているうちに、本当に殺し合いみたいになる瞬間ってありますよね。境目を越えてしまって、関係や感情ががらりと変わる。あの変り目みたいなものを書きたいのかもしれません。
 今になって思い返してみると、さっきの(前号参照)「十年大丈夫」じゃないけど、まず『悪人』をチャレンジとして書いてみて、続けて『さよなら渓谷』が書けた時は、「あ、大丈夫だ、こういうタイプのものを書いていけるな」という自信がつきました。

 ――「こういうタイプ」というのは?

吉田 もちろん自分が書いているものだから、まったく関係なくはないんだろうけど、ほぼ自分とは関係のない小説。〈他人の物語〉を自分が引き受けられる、ということですかね。まだ『悪人』は、場所にしろ人物にしろ、自分に近いものがあるんですよ。でも『さよなら渓谷』は、二三回温泉に行ったことがあるだけの土地だし、こういう関係ももちろん経験がない。だけど、これを書けたことで、新聞や雑誌で気になった事件を小説にしていくことができるんだ、と思えたんです。》

 もうひとつ大事なことは、『悪人』の登場人物たちの生っぽさである。

《――『長崎乱楽坂』にせよ『7月24日通り』や『悪人』(07年)にせよ、長崎があるのはやっぱり得ですよね、作家として。

吉田 これはもう本当に得。で、いま思うと、肉体労働者の生活が近くにあったのも得。やはり、地方の街で、ああいう人たちの近くで育つと、人間の生(ナマ)っぽい感じがよくわかるんですよ。もちろん東京のサラリーマンの家庭にも生っぽいところはあるのでしょうけど。
 作家になってしばらく経った時、東京の都心の道を歩いていたら、いわゆる肉体労働系のお兄ちゃんたちが屯(たむろ)ってた。そしたら、そのお兄ちゃんたちを「怖い」と言う人がいたんです。逆に僕は、背広のサラリーマンの人たちが集まっていると体が固まるんですよ。もし、こっちに肉体労働者の人たち、あっちに丸の内のサラリーマンたちがいて、どちらかに混じって弁当を食べなきゃいけないと言われたら、間違いなく肉体労働者の方で食べます。刷り込みみたいに馴染みがあって、落ち着くんですよね。
 その彼らを「怖い」と言われた時、「あ、なるほど」と思った。もう作家になっていたから、「こういうことをちゃんと書いていけばいいんだな」って。》

 

<追われる男と愛する女>

『悪人』『罪と罰』に共通する「追われる男と愛する女」というモチーフは、グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』に似ているという意見もあるが、愛する女ローズには自己犠牲の女ながらも、追われる男ピンキーは根っからの不良で殺しも厭わず、彼の幼時体験が影響しているとはいえ、宗教性、「追う者と追われる者」というグリーン定番の追う者(『ブライトン・ロック』では無邪気な女アイダ)、内面描写の連続、カメラ・アイなどが『悪人』とは違う。

吉田修一:ノンフィクションライターの清水潔さんと、以前に対談でご一緒させて頂いたことがあるんです。ノンフィクションライターの方が事件の記事を書く時はあらゆることを隅々まで調べるから、完全に“追う”側の立場でいるそうなんです。それで言うと僕は完全に“追われる側”として書いているなと。犯人側として書くか、犯人を追う側として書くか、事件という題材を扱うにしてもアプローチの仕方って全然違うんですよね。

吉田修一:小説なので、もちろん色んな視点を持って書くので、必要な時にどちらも行き来はできるですけど、やっぱり基本的には断罪されていく側の人間に気持ちは付いているんでしょうね。

吉田修一:僕ももちろん地続きなんですよ。僕は、さっきも言ったように“犯罪者側”としての立ち位置であることが基本なので、自分と同じような生活…例えばふらっと居酒屋に行くような男が、あるきっかけでその後に犯罪者になるという可能性については非常にフラットなんでしょうね。違和感がまったく無いというか。だから、犯罪を犯した人間を書くと言っても、自分をわざわざ無理矢理はめ込もうとしなくても、ごく自然な生活環境でいることができるんです。やっぱり、根本的な部分で『犯罪者』を書こうとしていないんですよね。普通に、誰しもに有り得ることであるということであって。

吉田修一:善と悪に関しては、表裏一体というより繋がっているもので、いつでも入れ替わりが可能なものなんじゃないかと思っています。この小説の中では、罪を犯してしまった人たちはそうなりたくて進んだわけではなく、何かのきっかけでそのどちらかが入れ替わってしまっただけで。善と悪は、対峙する人によってそれぞれの解釈が違っているし、すごく…曖昧なものだと思いますね。

(「吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線」(『HARDEST』interview by CHINATSU MIYOSHI 2016年12月3日) 》

 

<映画で落とされたもの/回想>

『悪人』単行本の帯に浅田彰の推薦文がある。

《新聞連載小説とはかくも面白いものだったのか! 様々な視点を交代させて高速回転する万華鏡のように進む物語。その全体を見下ろす視点はない。作者は登場人物たちの行き交う道を自ら移動しつつ彼らの姿に目を凝らす。実のところ、したたかな「悪人」である作者の視線は常にクールで時に意地悪だ。だが、その「悪意」に、普通の人たちを上から温かく見守っているつもりの知識人の「善意」のような嘘はない。言い換えれば、それは誰もが善人であり悪人でもある現実をじっと見つめる正真正銘の作家の視線なのだ。デビューから十年。吉田修一は作家としてなんと大きく飛躍したことだろう! 浅田彰 

 映画化された『悪人』から欠落したものは、小説『悪人』の魅力を半減している。「ポリフォニー」、「回想」、「母殺し」などだ。かわって映画では、祖母房枝の悪質健康食品押売りからの回復、佳乃の父佳男の大学生増田への復讐行為を大きくとりあげて、家族愛の回復に月並化した。

 浅田が顕彰した「様々な視点を交代させて高速回転する万華鏡のように」というポリフォニックなもの、川上弘美の言う《殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく》が、辻原登の《被害者と二人の男に関わりのある人々が、作者のストーリィ・テリングの才腕によって闇の中から次々と呼び出され、息せき切って、渦巻くように動き出す。(中略)視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる》が、映画化にあたって、商業的な上映時間の制約と、観客の分りやすさと引き換えに失われてしまった(映画ゆえではなく(外さない映画はいくらでもある)監督の性向からだろう)。

 

 映画で外されたエピソード、心中の描写、回想には以下のようなものがある。

 谷本沙里が寝る前に浮かぶ情景、埼玉出身の仲町鈴香の心の中、佳乃の上司で生命保険会社営業所長の寺内吾郎は警察署で死体の身元確認を求められて佳乃に間違いないと証言するがその心中、二ヵ月前に携帯サイトで知り合った佳乃(=ミア)と関係して金を払った進学塾講師林完治は事情聴取を受けるがそのいきさつ、双子の妹珠代は姉光代が高校時代につきあっていた大沢くんに意外な執着を示していたことを盗み見た日記から知るエピソード、光代が高速バスジャックに遭いかけたこと、友人柴田一二三から見た祐一。谷本沙里、珠代以外は映画に登場すらしない。

 同じく登場しない金子美保は祐一の性分、人となり、最近のいきさつを知るうえで最も重要だった。2年前まで長崎のファッションヘルスで働いていて、祐一は毎晩のようにやってきては、「ぶたまん」やケーキや手作り弁当を持参するようになる。祐一は一緒に住むことを勝手に考えてアパートまで借りてしまうのだが、美保は怖くなって店をやめ、行方をくらましてしまった。祖父を入院させるために祐一が連れて行った病院で、体調を崩して入院していた美保は偶然の再会に、許しの気持ちから声をかける。ところが祐一は青ざめ、逃げるように出て行ってしまう。

 母依子が、働き始めて何年か経っていた祐一と島原市内で食事して、アパートまで車で送ってくれたとき、車の中で急に泣き出してしまい、《お母ちゃんだけが悪かとやけん、いくらでも恨んでよかとよって。母ちゃんはこの十字架ば背負うて生きていくしかなかとやけんって。》と泣いて泣いて、やっと泣き止んだら、それまで小遣いに千円渡そうとしても受け取らなかったのに、顔を合わせれば、毟り取って行くようになったという依子の回想を受けて、美保が事件の後でテレビのワイドショーや雑誌をみて、祐一が母から「欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」、「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」と言っていたことを思い出す。最後まで一緒にいて殺されかけた光代に、《なんか引っかかるとですよ。「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」って言うたときのあの人の顔が。》と繋がる。

 

罪と罰』は、はじめ一人称告白体形式として書かれ、紆余曲折を経てその放棄と三人称への移行という重大な転換があった。創作ノートに次のように書いている。

「自分からの物語であり、彼からのではない。もし告白だというのなら、ほんとうにぎりぎりの極限まですべてを明らかにしなければならない。物語の一瞬一瞬がことごとく明瞭になるように。NB。参考までに。告白だと所によって純真さを欠き、何のために書かれたのかを心に描くことがむずかしくなる。ただし作者からだと過剰にナイーブで率直であることが必要だ。一見したところ、だれが見ても新しい世代の一員となるような、全知の過誤を犯すことのない存在を提示してくれる作者を想定することが必要だ。」(亀山郁夫『『罪と罰』ノート』)

(ここで「自分」=作者ドストエフスキー、「彼」=ラスコーリニコフ。)

 吉田修一『悪人』は、冒頭から一人称告白体、内面描写を慎重に避けているが、途中から脇役人物の告白、心情描写を挟み込む。そして最後に他ならぬ祐一の内面描写が出て来るのだが、吉田らしくもない失敗だろう。どこか安易な種明かし、底の浅い作為の匂い、取り繕った嘘、情緒に訴える話のまとまりを感じてしまう。馬込光代を脅迫して精神的に追い詰めていた、苦しむところを見ることで性的に興奮しとった、今は俺の言葉を信じてくれる人はおると分かった、とかのいじらしい(偽?)告白がなくても、ここまでの文章で祐一の、この言葉では表現し尽せない複雑な内面、裏表は十二分にわかるではないか。

 

《李監督とともに自作の脚色に初挑戦した吉田に、自らの代表作の映画化を振り返ってもらった。(取材・文:編集部)

「祐一や光代が主役になれるのはこの2時間だけなんですよね」

 TVドラマの「東京湾景」「春、バーニーズで」や、映画「7月24日通りのクリスマス」「パレード」等、これまでに多数の映像化作品がある吉田だが、映像化の企画に自ら関わり、自作を脚色するのは今回が初めてだった。

「今回の脚色に際して、小説の『悪人』を映画の『悪人』に変えようとは思ってませんでした。ただ物語のなかで起こる事件とその周りにいる人たちというのが頭のなかにあって、それを文章で表現したら小説になり、シナリオにしたら映画になるという感覚でした。そういう意味では、小説のこの部分を絶対に削りたくないとかそういうことはまったくなくて、文章化された小説のどこを拾い上げていくかということを考えて書きましたね」

 小説では事件に至る経緯や祐一の葛藤を描いた前半部分に多くのページを割いていたが、映画では前半はコンパクトにまとめられ、小説の後半で描かれる祐一と光代の逃避行に比重が置かれている。

「『悪人』という小説は前半が長いし、回想が多いので、李監督とは脚本執筆の最初の段階からなるべく回想シーンはやめようという共通した認識があったんです。監督としても、回想は使わないでなるべく時間をまっすぐに流したいと思っていたようです。その流れのなかで、祐一を中心にしたストーリーを組み立てていきました。僕自身も最初に脚本を書くと決まったときに、前半部分を映画で見たいかと自分に問いかけたときに、それほど見たいとは思いませんでした。だから、脚本は第一稿から、事件の日から書いてました」

 映画は後半からクライマックスにかけて、主に祐一と光代の逃避行が中心に描かれるが、事件に巻き込まれていく祐一の祖母に扮した樹木希林と、祐一に殺される佳乃の父親に扮した柄本明の演技が強烈な印象を残す。

「やっぱり樹木さん、柄本さんのシーンは画として強かったと思いますね。シナリオも最初は祐一と光代が中心でしたが、最終的に、樹木さんのおばあちゃんと、柄本さんのお父さんが入ってきて、全体に占める割合が大きくなったんですよね。あれは、僕らが最初に考えていたときよりも分量的にはかなり増えていて、自分たちでは逆に上手くいったと思っているんです」

 祐一や光代がどんな人間なのかを常に考えながら脚本を書いていたという吉田。彼らの存在は、この現代において何を象徴しているのだろうか。

「祐一が実際にこの世界で生きていたとしたら、残念ながら一度も主役になれない人間だと思うんです。それは、場所や性格のせいもあるし、いろんなことでそうなると思うんです。実生活で、たとえあの劇中の事件を起こしていたとしても、たぶん新聞に3行くらいでてすぐに忘れられてしまうでしょう。それは光代も同じだと思います。

    (「映画.com」2010年9月10日更新)》

 

 最後に、吉田修一の「運命/偶然/回想」に対する粋な計らいを紹介しよう。それとない描写なので、気づかずに読みすごしてしまった人もいるのではないか。

 最終章「私が出会った悪人」で、佳乃の父佳男は久留米から福岡に出て来て、娘を峠に置き去りにした大学生増尾に復讐しようとするが、逆に痛めつけられてしまう。

《「俺は何もしとらんぞ!」

 苛立ったような、怯えた表情で、増尾がそう言い捨てて、走り去っていく。佳男はますます白くなる視界の中で、逃げていく増尾の背中を睨んだ。

「待て……、佳乃に謝れ……」

 叫んでいるはずなのに、口からは白い息しか出てこない。走って逃げていく増尾の姿を、吹雪が掻(か)き消してしまう。冷たい粉雪が一つ、佳男のまつげに落ちて、とける。

「佳乃……、お父ちゃん、負けんぞ……」

 薄れていく意識の中、よちよち歩きの幼い佳乃の姿が浮かんでくる。……ここはどこだ? どこのフェリー乗り場だ? 向こうには海が広がっている。広い駐車場を佳乃が駆けていく。》

「運命」なのに違いない。

 幼いころ、佳乃と裕一はフェリー乗り場で出会っていた、それを知ることもなく被害者と加害者になった、と吉田修一は作りこんだ。

 灯台からコンビニに買い出しにいった光代の帰りが遅かった。麓の街の明かりの中を、パトカーの赤いライトが何台も走り抜ける。

《幼いころ、母親に置き去りにされ、じっと眺めていた対岸の灯台がふと思い出された。

 あのとき母親は、「すぐに戻ってくるけんね」と告げて姿を消した。祐一はその言葉を信じた。でも、いくら待っても、母親は戻ってこなかった。きっと自分が何か悪さをしたからだろうと思った。それが何だったのか必死に考えた。でも、いくら考えても、母を怒らせた理由が見つからなかった。

 あれは最終のフェリーが出ようとしたころだった。待ちくたびれて岸壁沿いを一人で歩いていると、駐車場のほうから一人の女の子が駆け寄ってきた。歩けるようになって間もないのか、勢いのついた自分の足を、どう扱えばいいのか分からないようだった。駆け寄ってきた女の子を、祐一は抱きとめた。ほっとした女の子の顔を、祐一は未だに覚えている。あとを追いかけて来た父親が、娘を抱え上げようとすると、女の子が手に握っていたちくわを、祐一のほうに差し出した。祐一は断ったが、その父親が、「さっき買うたばっかりやけん、食べんね」と手渡してくれた。祐一は礼を言って受けとった。

 考えてみれば母親がいなくなり、翌朝、フェリー乗り場の係員に発見されるまでの間、唯一口にしたのがあのちくわだった。》

 必ずや、夕日の斜めの光がちくわを照らしていたに違いない。

                               (了)

          *****引用または参考文献*****

吉田修一『悪人』(朝日新聞社

吉田修一・李相日『悪人 シナリオ版』(朝日文庫

*「川上弘美書評『悪人』」(読売新聞 2007年4月8日)

*「辻原登書評『悪人』」(毎日新聞 2007年5月20日朝刊)

*「吉田修一|常人と犯罪者 曖昧な境界線」(『HARDEST』interview by CHINATSU MIYOSHI 2016年12月3日)

*「中沢けい書評『悪人』」(「すばる」2007年7月号 掲載)

*「悪人:インタビュー」(「映画.com」2010年9月10日更新)

ドストエフスキー罪と罰 (上)(下)』工藤精一郎訳(新潮文庫

亀山郁夫『『罪と罰』ノート』(平凡社新書

辻原登『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』(朝日新聞出版)

ミハイル・バフチンドストエフスキー詩学』望月哲男、鈴木淳一訳(ちくま学芸文庫

小林秀雄ドストエフスキイの作品』(全集第六巻)(新潮社)

*『ドストエフスキー全集 別巻 ドストエフスキー研究』唐木順三編(筑摩書房

江川卓『謎とき『罪と罰』』(新潮選書)

*「作家の読書道 第二十八回 吉田修一さん」(WEB本の雑誌 2004年)

*「特集 吉田修一の20年 吉田修一新潮文庫の自作を語る」(波 E magazineNami インタビュー 2019年9、10月)

*「【人気作家にきく】『アンジュと頭獅王』吉田修一さんインタビュー・前編|「本が人生に与えてくれるもの」」(小学館 Hugukumuはぐくむ 2019年10月12日)

グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳(早川epi文庫)