子兎と一角獣のタピストリ(16)「或日の芥川龍之介」

  「或日の芥川龍之介

 

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《それから何分かの後である。厠へ行くのにかこつけて、座をはづして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかつて、寒梅の老木が古庭の苔と石との間に、的礫たる花をつけたのを眺めてゐた。日の光はもううすれ切つて、植込みの竹のかげからは、不相変面白さうな話声がつづいている。彼はそれを聞いてゐる中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透つて来る寂しさは、この云いやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたやうな、堅く冷い花を仰ぎながら、何時までもぢつと彳(たたず)んでゐた。》

 そう言葉を結んだのはちょうど十年前の大正六年夏のこと、あれが「話」らしい話のない小説だったのかもしれない、この昭和二年春には改造社の講演旅行で大阪へ行ったついでに佐藤春夫阪神間の岡本に住む谷崎潤一郎と辮天座で人形芝居を見た、人形は役者よりも美しい、殊に動かずにいる時は綺麗だった、けれども人形を使っている黒ん坊というものは薄気味悪い、現にゴヤは人物の後にたびたびああいうものをつけ加えた、僕等もあるいはああいうものに……不気味な運命に駆られているのだろう、それにしても近松の時代ものは世話ものよりも必ずしも下にあるものではない。すでに時計は午前一時をまわつて二十四日、昨日は十時過ぎには最後の客も帰って夜半から降りだした雨にここ数日の猛暑が引くかのようだ、ようやく『続西方の人』を書き終える《我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。》思えば聖書を読むようになったのは弥ぁちゃんとの結婚を芥川家から反対されてからだからかれこれ十二年になる、失恋のあと吉原に耽溺し歌もいくつか作った、薄唇醜かれどもしかれどもしのびしのびに口触りにけり、けれども自秋風の歌作りは『赤光』に感動していらいあきらめてしまった、どうして軽井沢で片山広子の歌に感慨をおぼえ旋頭歌を作ってみたのだろう、たまきはるわが現し身ぞおのづからなる、赤らひく肌をわれの思はずと言はめや、斎藤氏には以前から不眠症の薬としてアヘンエキスオピアムを処方してもらっていたけれどこの二月には独逸バイエル会社のヴェロナールを入手できたとの知らせに一オンスニ円五十五銭で届けてもらい持薬としていた。すでにヴェロナールの致死量は飲み下した念のため強力な眠剤ジアールも服用した、苦しまずに死ねる縊死は理にかなっていても女人の文字の下手さに急に愛を失ったことのある僕にとっては美的嫌悪を感じさせる、もう妻への遺書をとる手が震えてきたらしい《一、生かす工夫絶対に無用。》 二階の書斎から聖書をもって妻と也寸志の寝ている八畳に入り横になったまま枕もとの聖書をぼんやり開くと涎が流れだしてきた……人形芝居を見たあと谷崎氏を引きとめて語りあかした、人生のこと文学のこと友達のこと江戸の下町の音のことはては家庭の内輪話まで持ちだして、ちょうどあの折は『改造』誌上で谷崎氏の『饒舌録』を相手に『文芸的な、あまりに文芸的な』で「話」らしい話のない小説そして構成的美観そうして詩的精神をめぐって論争していたところなのに翌日はたしか南地のユニオンとかいったダンスホールに根津の奥さんから誘われたのを幸いいっしょにダンス場を見に行った、タキシードに着替えた潤公のダンスというのは横浜時代の名残かとても勇ましく他の組にぶつかろうとお構いなしなうえ背丈の加減か少しチークダンスで根津夫人も最初は気恥ずかしそうだったのに馴れてゆくうちタンゴ、ワルツと繰り返し踊っていた、あれこそ肉体的力量、体質の相違……半透明の歯車がたくさん右の目の視野に廻転しはじめる大震災の年の八月に鎌倉雪ノ下の平野屋別荘で知り合った岡本かの子の琵琶の実のごとき明るい瞳がくるくる廻る料理がそれからそれへと食卓の上へ運ばれるように美人も続々とはいって来る、あれは上海の小有天という酒樓で三十になったばかりの大正十年の春から夏にかけて秀(ひで)しげ子の媚びと自分本位から逃れるように中国旅行したときのことまっさきに愛春という美人が来たいかにも利巧そうな日本の女学生めいた品の好い丸顔で外胸に翡翠の蝶がきらきら光ってチョウノシタぜんまいニニルアツサカナ時鴻は紅や白粉も濃艶を極めていた洛娥は黒い紋緞子に匂いの好い白蘭花を挿んだ薄命の美人だった梅逢春が座に加わったのはもう鱶の鰭の湯が荒らされた後で手なぞは子供のように指のつけ根の関節がふっくりした甲にくぼんでいて胡弓と笛とに合わせながら唄を歌いだした色の白い小造りな御嬢様じみた美人は薄紫の緞子の衣裳に水晶の耳環を下げていて名前を尋ねてみたら花費玉と宛然たる鳩の喘き声で返事をした支那の女の耳は何時も春風に吹かれて来たばかりのよう手入れの届いた美しい耳をしている西廂記の鶯鶯が髻偏雲乱挽(もとどりかたよりてくもみだれひき) 日高猶自不明眸(ひたこうしてなおおのずからめいぼうならず) 暢好是懶懶(ちょうこうこれらんらん) 半晌擡身(はんしょうみをもたげ) 幾回掻耳(いくかいみみをかく) 一声長歎(いっせいちょうたんす) というのはきっとああいうみみだったのにちがいなくちいさなかいがらのようなあいすべき

              

 東京日日新聞(昭和二年七月朝刊社会面)、《文壇の雄芥川龍之介(三六)氏は廿四日午前六時半市外滝野川町田端四三五の自邸下座敷八畳間に於て常用してゐた催眠剤ヴェロナールを多量に服用し自殺を遂げた》

 谷崎潤一郎、《芥川君の亡くなつた七月二十四日と云ふ日は、また私の誕生日なのである。》《私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着替へると、わざわざ立つてタキシードのワイシヤツのボタンを嵌めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切であつた。》

 根津夫人(のちの谷崎夫人松子)、《芥川氏とも踊って戴きたかったが、終始壁の人で、私は私たちの動きを追っていられる眼を感じていた。そして、美しく澄みきったその哀愁のたゝえられた眼が、絶えず心を捉えていた。》

 斎藤茂吉(青山脳病院院長)、《夜ふけてねむり死なむとせし君の心はつひに冰(こほり)のごとし》《やうやくに老いづくわれや八月の蒸しくる部屋に生きのこり居り》

 岡本かの子、《こうこうと鶴の啼くこそかなしけれいづべの空や恋ひ渡るらん》