文学批評 「三島由紀夫『春の雪』――不可能な恋」

  「三島由紀夫『春の雪』――不可能な恋」

 

f:id:akiya-takashi:20190201162735j:plain f:id:akiya-takashi:20190201162746j:plain



                      

 ハードカバーの金色の帯に白抜きで「現代に甦る比類ない恋愛小説!」とある。「古典と近代の精髄を結集して、恋愛の本質を悲劇的な高みで、優雅・冷徹に描き出した三島文学の集大成!」とつづく。

 しかし、『春の雪』に関わる批評は、『豊饒の海』四部作の第一巻としての伏線を探し求め、三島の伝記素を嗅ぎとることに終始し、文学それ自体として批評することはもちろん、恋愛小説として読むことから遠い。

『春の雪』を恋愛小説として読むこと、ロラン・バルトが『若きウェルテルの悩み』を読んだように、どれほどに恋愛の言説から成り立っているかを考察し、さらにはその恋愛の不可能性を確認したい。

 

<その名を軽んじているさま>

「誰だい」

「聡子さんさ。貴様にも写真を見せたことがあるだろう」

 と清顕は、その名を軽んじているさまを、語調にさえあらわにして言った。岸の聡子はたしかに美しい女だった。しかし少年は断乎(だんこ)としてその美しさを認めないふりをしていた。なぜなら彼は、聡子が彼を好いていることをよく知っていたからである。

 

 これは十八歳の松枝(まつがえ)清顕(きよあき)が二つ年上の綾倉(あやくら)聡子(さとこ)に対してではなく、もっとも親しい友達の本多(ほんだ)繁邦(しげくに)に情熱の「ざわめき」を隠した一場面で、《友達に自分の不遜(ふそん)を知られることは恥じなかったが、悩みを知られることは怖(おそ)ろしかった。》 だが、清顕の永年(ながねん)の秘密主義はつねに守られていたわけではなく、ときに虚栄心が反作用として働き、隠していることをそれとなく気づいてください、から一歩進んで目撃者を欲する行為に走ることもある。シャムの王子たち、バッダナディド殿下(ジャオ・ピー)とクリッサダ殿下(クリ)とを自宅に迎え入れ、打ちとけた王子たちが恋人や女友達の写真を示したのち、今度はぜひ清顕の愛する人の肖像を見たいとせがむや、《若い虚栄心が、咄嗟(とっさ)の間(ま)に、清顕にこう言わせてしまった。「日本ではそうやってお互いの写真を交換する習慣はないけれど、近いうちにきっと彼女を紹介しましょう」》と。

 では聡子に対してはどうだったかといえば、のちの、雪の俥上での接吻の場面、《さて唇が離れてみると、今まで美しく囀っていた鳥が急に黙ったような、不吉な静けさがあとにのこった。二人はお互いの顔を見られなくなって、じっとしていた。しかしこの沈黙は、俥の動揺のおかげで大いに救われた。何かほかのことに忙しくしているという感じで。》とばかりに隠しおおせたけれども、恋愛の時間が進行し、雨の霞町の離れでの事(こと)の後では、例のお手紙をお返しいただきたいと重ねて言う蓼科(たでしな)に、《清顕はなお黙って、何事もなかったかのように毛筋一つ乱れずに美しく装(よそお)って坐っている聡子を見つめている。聡子がつと目を上げた。清顕と目が合った。その刹那、澄んだ激しい光りがよぎって、清顕は聡子の決意を知った。「手紙は返せない。又こうして逢いたいからだ」 とその刹那に勇気を得て、清顕は言った。》

 そのときはじめて、情熱のざわめき、熱狂を隠しおおすことが放棄された。

 

 <不吉な犬>

「黒い犬じゃございません? 頭が下に垂れて」

 と、聡子は実に率直に言い切った。みんなはそれではじめてそれと知ったようにざわめきだした。

 清顕は自負を傷つけられた。一見女らしくない勇気を以(もっ)て、不吉な犬の屍(しかばね)を指摘した聡子は、持ち前のその甘くて張りのある声音といい、物事の軽重をわきまえた適度な朗らかさといい、正(まさ)しくその率直さのうちに、手ごたえのある優雅を示していた。

 

 大伯母にあたる月修寺(げっしゅうじ)門跡(もんぜき)の稀な上京を迎えて、聡子が松枝家へ紅葉を見せにお連れしたのに違いないが、この不測のできごと、ひらいた口の牙(きば)の純白と赤黒い口腔(こうこう)をみせた犬の屍に門跡は慈悲心から、回向(えこう)して進ぜまっさかいに、と提案した。そのあと母屋(おもや)の座敷での門跡の法話は、唯識(ゆいしき)のごくとば(・・)口へ人々をみちびき入れるためのわかりやすい挿話を引いたものだったが、本多は彼流に解釈して清顕の耳に流し込む。唐の世の元暁(がんぎょう)という男が野宿をして、夜中に目をさまし、ひどく咽喉(のど)が渇いていたので、かたわらの穴の中の水を掬(むす)んで飲んだ。こんなに清らかで、冷たくて、甘(うま)い水はなかった。朝になって目がさめ、それが髑髏(どくろ)の中に溜(たま)った水だったので、元暁は吐(もど)してしまった。しかしそこで彼が悟ったことは、心が生ずれば則(すなわ)ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二になり、という真理だった。《しかし俺に興味があったのは、悟ったあとの元暁が、ふたたび同じ水を、心から清く美味しく飲むことができただろうか、ということだ。純潔もそうだね。そう思わないか? 相手の女がどんな莫連だろうと、純潔な青年は純潔な恋を味わうことができる。だが、女をとんだあばずれと知ったのちに、そこで自分の純潔の心象が世界を好き勝手に描いていただけだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋心を味わうことができるだろうか? できたら、すばらしいと思わんかね?》

 ここには、のちに影を落とす、聡子の純潔というテーマが先取りされていて、おそらくは洞院宮治典(とういんのみやはるのり)殿下への純潔にとどまらず、二重の裏切りとなる清顕へのそれも隠微な疑いの蕾を秘している。

 ところで、真黒な犬の口腔は、シャンデリアの光の余波を宿した聡子の歯、北崎の家でみた女陰の朱の口、老女蓼科の濡れた口腔の充血と見紛う京紅(きょうべに)の紫紅色に姿をかえ、小説の最後の場面で苦しむ清顕の、《熱に乾いた唇から、前歯の燦(きら)めきが阿古屋貝(あこやがい)の内側の光彩を洩(も)らしていた》に結実する『春の雪』の内/外、境界のひとつの象徴である。

 

 <私がもし急にいなくなってしまったとしたら>

 数本の竜胆を摘み終えた聡子は、急激に立上がって、あらぬ方(かた)を見ながら従って来る清顕の前に立ちふさがった。そこで清顕には、ついぞ敢(あえ)て見なかった聡子の形のよい鼻と、美しい大きな目が、近すぎる距離に、幻のようにおぼろげに浮んだ。

「私がもし急にいなくなってしまったとしたら、清様、どうなさる?」

 と聡子は抑えた声で口迅(くちど)に言った。

 

 清顕にとって聡子は、どのように分類不能な存在、測りがたい独自性を存在であったか。《聡子は女友達であると同時に敵であり、王子たちが意味しているような、甘い感情の蜜(みつ)ばかりで凝り固められた人形ではなかった》かと《思えば清顕は、ただ美しい女として聡子を考えたことはない。彼女が表立って攻撃的であったためしはないのに、いつも針を含んだ絹、粗い裏地を隠した錦(にしき)、その上清顕の気持もかまわずに彼を愛しつづけている女、という風に感じていた。》 ステレオ・タイプをもってしての読みとり、分類は、雪の朝の俥上の狂おしいあいびきで不能となる。《聡子が急に目を閉じた。清顕はその目を閉じた顔に直面した。京紅の唇だけが暗い照りを示して、顔は、丁度爪先(つまさき)で弾(はじ)いた花が揺れるように、輪郭を乱して揺れていた。清顕の胸ははげしい動悸(どうき)を打った。制服の高い襟(えり)の、首をしめつけているカラーの束縛をありありと感じた。聡子のその静かな、目を閉じた白い顔ほど、難解なものはなかった。》

 

<急に、いわれもなく>

「申し上げられないわ、そのわけは」

 こうして聡子は、清顕の心のコップの透明な水の中へ一滴の墨汁をしたたらす。防ぐひまはなかった。

 清顕は鋭い目で聡子を見た。いつもこれだ。これが彼をして聡子を憎ませるもとになるのだ。急に、いわれもなく、性(しょう)の知れない不安を呉(く)れること。

 

 聡子は清顕の痛覚点を熟知していて、たわむれの針をさしてくる。《「仕合せなときは、まるで進水式の薬玉(くすだま)から飛び立つ鳩(はと)みたいに、言葉がむやみに飛び出してくるものよ、清様。あなたも今におわかりになるわ」》の年上ぶった確信、優雅の罪、それらは薄い皮膚のような予見の自負を裏切り、諧謔を忘れた恋する者が世界をもっとよく見ようと瞼をこする指先のささくれに荒塩をすり込む。 《「もう帰りましょうか」》、《「子供よ! 子供よ! 清様は。何一つおわかりにならない。何一つわかろうとなさらない。私がもっと遠慮なしに、何もかも教えてあげていればよかったのだわ。御自分を大層なものに思っていらしても、清様はまだただの赤ちゃんですよ。本当に私が、もっといたわって、教えてあげていればよかった。でも、もう遅いわ。……」》

 

<うわさ話>

 スープがはじまると、母はすぐのどかな口調で語り出した。

「ほんとうに聡子さんにも困ったものだわ。今朝お断わりのお使者を出したと御報告がありました。一時はすっかり、お心が決ったようにお見受けしたんだけれど」

「あの子ももう二十歳(はたち)だろう。我儘(わがまま)をとおしているうちに、売れ残りになってしまう。こっちも心配してやっている甲斐(かい)がないというもんだ」

 と父が言った。

 

 母と父のうわさ話は清顕の疑念を晴らすことになったものの、物語の終盤では悪しきうわさを聞くはめとなる。いたって気楽なものでも、一種の客観性を帯びていて、それこそがうわさ話の耐えがたさだった。新聞が洞院宮家の御都合による綾倉聡子との婚約破棄を報じると、学習院の相当な家の息子でも、人もあろうに清顕に向って、事件の感想を求めたりするのにおどろいた。《「世間じゃ綾倉家に同情しているようだけれど、僕は皇族の尊厳を傷つける事件だと思うね。聡子さんという人が頭がおかしいということは、あとからわかったというじゃないか。どうして前以(まえもっ)てわからなかったものだろう」》 

 ときには皮肉なことに、心痛を引きおこす下世話なうわさ話によって恋愛対象の価値に生気が吹き込まれることがある。《学友がこの事件のこと、聡子のことを口にするたびに、彼は、折しも冬の深まる遠山(とおやま)の雪が、空気のきわめて澄んだ朝、二階の教室の窓から望まれるのにも似て、聡子が遠く高く衆目の前に、その輝かしい潔白を黙って掲げている姿を見るように感じた。》

 

 

<寝間着の胸をひらいた>

 月は浮薄なほどきらびやかに見えた。彼は聡子の着ていた着物のあの冷たい絹の照りを思い出し、その月に聡子の、あの近くで見すぎた大きな美しい目を如実(にょじつ)に見た。風はもう止(や)んでいた。

 清顕は煖房(だんぼう)のせいばかりでなく、体が火のように熱く、熱さに耳も鳴る思いがしてきて、毛布をはだけ、寝間着の胸をひらいた。

 

 瞑想する者の姿であの人のことを考えている。悪しき夜、影と闇。欲望の暗黒の中にいる。「いなくなるって、どうして?」と、無関心を装いながら不安を孕んだ反問に、「申し上げられないわ、そのわけは」と言い放って、清顕の心を波立たせ、苦しめた聡子への復讐を考えている。《『あの人を瀆(けが)す! それが必要だ。あの人が二度と起(た)ち上がれぬほどの侮辱を与える! それが必要だ。そのときはじめてあの人は、僕を苦しめたことを後悔するだろう』》 鎌倉の海の夜は、善き夜、安らぎの夜と言えたのか、とりわけ聡子にとって。 《時の薄片のすぐ向う側に、巨大な「否」がひしめいていた。松林のざわめきはその音ではなかったろうか。聡子は自分たちが、決して自分たちを許さないものによって取り囲まれ、身守られ、守護されているのを感じていた。》 「巨大な「否」がひしめいていた」とは、良きにつけ悪しきにつけ三島らしい比喩だ。

 

 <物狂おしい侮辱の手紙>

 清顕は永い躊躇(ちゅうちょ)の末に、とうとう昨日、聡子に宛てて、物狂おしい侮辱の手紙を書いてしまっていた。まだその文面、何度となく書き直して精密に拵(こしら)えたつもりの侮辱の文面は、一字一句脳裏(のうり)に刻まれている。

『……あなたの威嚇(いかく)に対して、こんな手紙を書かなければならないのは、小生としても甚だ遺憾なことです』という切口上で、その手紙ははじまっていた。

 

 恋する者が書きはじめるやいなや、魔につかれた言葉が頭をもたげ、多弁な筆が自走する。無秩序で邪悪な熱い泡が次々と破裂し、本人は言語能力を駆使したつもりでも紋切り型の手紙は、いまわのきわで痙攣している。《『女という女は一切、うそつきの、「みだらな肉を持った小動物」にすぎません。あとはみんな化粧です。あとはみんな衣裳(いしょう)です。(中略)あなたが子供のときから知っていた、あの大人しい、清純な、扱いやすい、玩具(おもちゃ)にしやすい、可愛らしい「清様(きよさま)」は、もう永久に死んでしまったものとお考えください。……』》

 

 <それは何という望ましい事態であったろう!>

『今夜、聡子はいつにもまして美しい。彼女は化粧を等閑(なおざり)にしては来なかった。僕が願ったがままの姿でここへ来てくれた』

 そう何度も心にくりかえしながら、聡子のほうへ振向くことはできないというこの事態、しかも、たえず背中に彼女の美しさを感じているというこの事態、それは何という望ましい事態であったろう!

 

 どのように素晴らしいのか、肉体の何がフェティッシュとなりうるのか、何に素晴らしいを言いたかったのか。《冷たく見えるほどに高くはないが、象牙(ぞうげ)の雛(ひな)のように整った形の鼻をした聡子の横顔は、ごくゆるやかな流し目のゆききにつれて、照り映えたり翳(かげ)ったりした。》 象牙、水晶、珊瑚、瑪瑙、硝子、歯といった硬質なものへの引力、そして光と影、内と外への関心。それは「女」という最大の他者への決して達成されることのない関心でもある。《その幾分薄目な唇にも美しいふくらみが内に隠れ、笑うたびにあらわれる歯は、シャンデリアの光の余波を宿し、潤んだ口のなかが清らかにかがやくのを、細いなよやかな指の連なりが来て、いつも迅速に隠した。》 

 のちの夕桜の樹下の接吻には、二項対立、二律背反への偏愛がほのみえる。《拒みながら彼の腕のなかで目を閉じる聡子の美しさは喩(たと)えん方もなかった。微妙な線ばかりで形づくられたその顔は、端正でいながら何かしら放恣(ほうし)なものに充(み)ちていた。その唇の片端が、こころもち持ち上ったのが、歔欷(きょき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中にたしかめようと焦(あせ)ったが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇(ゆうやみ)のすばやい兆(きざし)のように思われた。》

  

<『たしかにあの手紙を読んでいないのだろうか』>

 四人の青年に囲まれて、京風の三枚重ねを寛々と着こなした聡子は、立華のような、花やかで威ある姿をしていた。

 王子たちがこもごも聡子に英語で問いかけ、清顕が通訳をしたが、そのたびに同意を求めるように清顕へ向ける聡子の微笑が、あまりみごとに役割を果しているので、又清顕は不安になった。

『たしかにあの手紙を読んでいないのだろうか』

 

 メッセージを聴きとろうと試みる。《一昨日の晩のあの明るい応対の声と比べて、聡子の声、聡子の表情に、何か際立(きわだ)った変化はないかと、彼はそれとなく目をつけはじめた。又、心に砂が滴(したた)ってきた。》 語が、イメージが、思いが、応え合い重なり合い、清顕の肉体が内部から振動しはじめる。胸を高鳴らせた一昨日の声とは電話の声、記憶のなかの過去の声と目の前の現在の声とが共鳴しあう。《「何でございますか、今ごろ、清様(きよさま)」 「実はね、昨日あなたに手紙を出したんです。そのことでお願いがあるんだけど、手紙が着いても、絶対に開封しないで下さい。すぐ火中すると約束してください」 「何のことかわかりませんけれど……」 聡子の何事もあいまいにする遣口(やりくち)が、一見のどかなその口調のうちに、すでにはじまっていると感じた清顕はあせっていた。それにしても聡子の声は、この冬の夜の中に、六月の杏子(あんず)のように、程よく重たく温かく熟れてきこえた。》

 

 <触れ合う膝頭>

「どこでもいい。どこへでも行ける限りやってくれ」

 と答えた清顕は、聡子も同じ気持なのを知った。そして梶が上がると共にややのけぞったままの姿勢を固くして、二人ともまだ手を握り合ってさえいなかった。

 しかし膝掛の下では、避けがたく触れ合う膝頭が、雪の下の一点の火のようなひらめきを送ってよこした。

 

 かすかな接触さえ拒まれることがある。鎌倉の別荘、終南別業へ聡子を呼び寄せて一夜をすごしたいという清顕の計画に加担した本多が、逢瀬ののちに東京へ連れ戻す自動車の中で聡子と語りあう場面は、聡子の目にまだ放恣な火の名残があり、この女を理解したいという一種ふしぎな衝動が論理的な詮索癖をもつ本多に起っていただけに残酷だ。《車の動揺は、何度か聡子の膝(ひざ)をこちらへ片寄せたが、二人の膝頭が決してぶつからぬように聡子が身を庇(かば)う機敏さは、小車(おぐるま)を廻す栗鼠(りす)の回転のような、めまぐるしいものを見る思いで、本多の心をやや苛(いら)立たせた。少なくとも聡子は決してそんなめまぐるしさを、清顕の前では見せぬだろうと思われた。》 それは、「今夜すでに、僕は罪に加担してしまったのです」と言った本多に、強く、怒ったように遮った言葉、「罪は清様と私と二人だけのものですわ」の余人を寄せつけない冷たい矜(ほこ)りと同質だった。

 ところで、「どこでもいい。どこへでも行ける限りやってくれ」という声は、フロベールボヴァリー夫人』の、恋するエンマとレオンを乗せてルーアンの街をひた走った性愛の辻馬車を連想させはしないか。

 

<見えない扇が徐々にひらかれる>

 俥の動揺が、次の瞬間に、合わさった唇を引き離そうとした。そこで自然に、彼の唇は、その接した唇のところを要(かなめ)にして、すべての動揺に抗(さか)らおうという身構えになった。接した唇のまわりに、非常に大きな、匂(にお)いやかな、見えない扇が徐々にひらかれるのを清顕は感じた。

 

 恋する者が読みとろうとする何かとは、「わたしは愛されているのだろうか」(「もう愛されていないのだろうか」、「まだ愛されているのだろうか」)であり、だからこそ清顕は、いまやイメージから記号へと昇華した接吻の、良い記号と悪い記号を読みとろう、解釈しよう、証拠としよう、説明しよう、とひとり苦しむ。柔らかさに対する不安、内部への怖れ、不確実さの忌避は、硬度が高いものへの愛着の裏返しであって、《それにつれて聡子の唇はいよいよ柔らいだ。清顕はその温かい蜜(みつ)のような口腔(こうこう)の中へ、全身が融かし込まれるような清顕は怖(おそ)ろしさから、何か形あるものに指を触れたくなった。》 聡子は涙を流し、《清顕は自分の指先が触れる彼女の耳朶(みみたぶ)や、胸もとや、ひとつひとつ新たに触れる柔らかさに感動した。これが愛撫(あいぶ)なのだ、と彼は学んだ。ともすれば飛び去ろうとする靄(もや)のような官能を、形あるものに託してつなぎとめること。》 

 これは、レヴィナスの「愛撫の現象学」の「愛撫の本質はなにも把持しないことにある。自らのかたちから絶えず逃れ出るものに懇願することにある。(……)愛撫は探し求め、尋ね求める。愛撫は暴露することをではなく、探求することそれ自体を志向している。(……)満たされるや否や、愛撫を生起させた欲望は再び蘇る。この欲望はいわば「未だないもの」によって賦活されているのである。」(『全体性と無限』合田正人訳)であろう。つなぎとめること、それは「扇」の喩で現れ、物語の最後、月修寺へ向う清顕が襲われた痛切な思い、《『現実は今、多くの見えない薄片を寄せ集めて、透明な扇を編もうとしている。ほんの一寸(ちょっと)した不注意で、要(かなめ)は外れ、扇は四散してしまうかもしれないのだ。』とか、愛の体系化への夢であった。

  

<手紙はなお綿々とつづく>

「この文は何卒(なにとぞ)お忘れなく御火中下さいますように」

 という一行まで、手紙はなお綿々とつづくのであるが、清顕はそのところどころに、きわめて優雅な言葉を使いながら、迸(ほとばし)るような官能的な表現があることにおどろいた。

 

 届かなかった手紙、読まれなかったはずの手紙が悲恋の舟を漕いでゆく物語において、清顕の手に首尾よく届けられた聡子の恋文は恋愛の言語が過剰かつ過小であること、陳腐なきまり文句の氾濫、子供っぽさ、美的創造へ昇華されるはずといったロマン主義神話への裏切りの見本帖であって、人はけっして恋文を恋愛対象のために書くのではなく、何を書こうとも、自分のことしか書いていないことの証左である。《「平安朝の世なら、清様が歌を下さって、私が返しを差上げたところでしょうに、幼ないころから習った和歌が、こんなときには何一つ心を表わそうとしないのにはおどろきます。それはただ私の才が貧しいからでございましょうか?」》、《「清様。あのときのことを思いますと、今も恥かしさとうれしさで身が慄(ふる)えるような気がいたします。日本では雪の精は雪女でございますけれど、西洋のお伽噺(とぎばなし)では、若い美しい男のように覚えておりますので、凛々(りり)しい制服をお召しの清様のお姿は、丁度私を拐(かど)わかす雪の精のように思い做(な)され、清様のお美しさに融(と)け込むのは、そのまま、雪に融け入って凍死する仕合せのように思われました。」》

 清顕の返事は一行も書きだされていないという空白の技巧を三島は用いたが、この手紙がいかに空虚な欲望表出でべとべとしていたかは、次の感官表現で暗示されている。《彼は目を閉じて、手紙を封筒に入れ、匂(にお)いやかな桜いろの舌尖(したさき)を少し出して、封筒の糊(のり)を舐(な)めた。それは薄い甘い水薬のような味がした。》

  

<狂おしいほどに恋している>

 この王子たちと共にいると、王子たちの熱帯的な感情が波動を及ぼすのか、清顕自身もやすやすと自分の情熱を信じ、あからさまにそれを表白することもできそうな気がした。

 彼は今ためらわずに自分に向って言うことができた。僕はあの人に恋している、それも狂おしいほどに恋している、と。

 

 恋に恋する。それはもう一度清顕に訪れる。いよいよ治典王殿下と聡子の儀の勅許が下りたとき、高い喇叭(らっぱ)の響きのようなものが、清顕の心に湧(わ)きのぼった、『僕は聡子に恋している』と。《『優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を』と彼は考えた。この観念がはじめて彼に、久しい間堰(せ)き止められていた真の肉感を教えた。思えば彼の、ただたゆたうばかりの肉感は、こんな強い観念の支柱をひそかに求めつづけていたのにちがいない。彼が本当に自分にふさわしい役割を見つけ出すには、何と手間がかかったことだろう。『今こそ僕は聡子に恋している』 この感情の正しさと確実さを証明するには、ただそれが絶対不可能なものになったというだけで十分だった。》 恋に恋する、とは三島文学のひとつの型であって、至高に恋する、禁に恋する、死に恋する、到達しえないものに恋する、不可能ゆえの恋である。

 

 <並みいる人たちの目のなかで>

こんな別嬪(べっぴん)のお姫(ひい)さんを私の目から隠していたとはね」

 と殿下は綾倉伯爵に苦情を仰言(おっしゃ)った。そばにいた清顕は、この瞬間、何かわからぬ軽い戦慄(せんりつ)が背筋を走るのを感じた。聡子が、並みいる人たちの目のなかで、一個の花やかな鞠(まり)のように高く蹴上(けりあ)げられる心地がしたのである。

 

 花見の宴に招かれた洞院宮治久(はるひさ)王(おう)殿下は危険な存在だ。第三王子治典王殿下のお妃にどうかと、聡子を引合せるためだったのだから。それにひきかえ、シャムの王子たちの無害、無垢であったことよ。ジャオ・ピーの恋人月光姫(ジン・ジャン)の写真を見て清顕は、思いのほか平凡な少女であることに少し落胆した。『これに比べれば聡子は百倍も千倍も女だ』と清顕はしらずしらずのうちに比較していた。 

 帝国劇場の幕間(まくあい)、シャムの王子たちに聡子を紹介すると、王子たちは誇大なお世辞を言い、聡子は耳朶(じだ)を赤らめた。《「ひらかな盛衰記」の開幕のベルが鳴った。一同はおのがじし席へ戻った。「僕が日本へ来て見たなかで一番美しい女の人だ。君は何という仕合せ者だろう!」 と通路を並んで入りながら、ジャオ・ピーは声をひそめて言った。》

 

 <あたりを憚(はばか)る調子>

 接吻(せっぷん)しようとすると聡子はあたりを憚(はばか)って拒んだが、同時に自分の着物を、桜の幹いちめんの粉(こ)をまぶしたような苔(こけ)から庇(かば)ったので、そのまま清顕に抱かれてしまった。

「こんなことをしていると辛(つら)いばかりだわ。清様(きよさま)、お離しになって。」

 と聡子が低声(こごえ)で言うのに、なおあたりを憚る調子がありありと聴かれたので、清顕はその取り乱し方の不足を怨(うら)んだ。

 

 聡子のあたりを憚る調子、取り乱し方の不足は「なぜあなたはわたしをほんの少しだけ愛するのか」、「なぜほんの少し愛するなんて、だしおしみができるのか」という執拗な問いを経て、「自分を愛しているのに、ただそう言ってくれないだけだ」という信念へと錯綜する。桜の樹下で倖(しあわせ)の絶頂にいるという保証を得たいのに叶わないがゆえに聡子を怨んでしまう清顕はいったい何を心底望んでいるのか。

 一方、ジャオ・ピーは月光姫(ジン・ジャン)の便りが途絶えてすでに二ヶ月となり、姫の餞別(せんべつ)のエメラルドの指環を月光姫(ジン・ジャン)の写真のかたわらへさしのべて、哲学的な思弁をくりだす。《「僕は、恋するということが時間と空間を魔術のようにくぐり抜ける秘密がどこにあるか探ってみたいんです。その人を前にしてさえ、その人の実在を恋しているとは限らないのですから、しかも、その人の美しい姿形は、実在の不可欠の形式のように思われるのですから、時間と空間を隔てれば、二重に惑わされることにもなりうる代りに、二倍も実在に近づくことにもなりうる。……。」》 三島文学における「存在と時間」と恋愛。清顕にとっての聡子もそうであったが、『豊饒の海』四部作の最後の場面では、聡子にとっての清顕こそが実在しない。

 

<どうやって聡子の内部へ到達できるのか>

 すでに夕闇が深く領しているその耳の奥底には、何か神秘なものがあった。その奥にあるのは聡子の心だろうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤(うる)んできらめく歯の奥にあるのだろうか?

 清顕はどうやって聡子の内部へ到達できるのかと思い悩んだ。

 

 『春の雪』は、内部/外部の縁のせめぎあいの物語であり、たとえば清顕が十五歳になったときの「御立待(おたちまち)」の祝いは、旧暦八月十七日夜の月を、庭に置いた新しい盥(たらい)の水に映して、供え物をする古いしきたりだが、夜空が曇ると、一生運が悪いと云われているだけに、清顕にはその明るい檜(ひのき)の板の盥が露芝の上に裸で置かれた自分の魂の形のように思われた。《その盥の縁のうちらから彼の内面がひらけ、縁の外側からは外面が……。》 そして接吻は内部/外部のせめぎあう接点で、《一つの雪片がとびこんで清顕の眉に宿った。聡子がそれを認めて「あら」と言ったとき、聡子へ思わず顔を向けた清顕は、自分の瞼(まぶた)に伝わる冷たさに気づいた》、その瞼は、視覚がとらえた現実の、内部/外部の薄い境界である。

 

<深く傷つける言葉>

 何事が起ったのだろう。そこには彼をもっとも深く傷つける言葉ばかりが念入りに並び、もっとも彼の弱い部分を狙って射た矢、もっとも彼によく利く毒素が集約されており、いわば彼をいためつける言葉の精華であった。

 

 いさかいにみえて、拒絶と歓待が同時に現れることがあって、雨の霞町の下宿の離れで、まぎれもなく恋している清顕に、勅許の重みをかけて抗(はむか)ってくる聡子の拒絶と誘惑。八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよい出て、彼の頬にかかった。《その手は清顕の頬を押し戻そうとし、その唇は押し戻される清顕の唇から離れなかった。》 果てしれぬ甘美と融解が、捩れの動作と心理をともなってはじまる。《清顕はどうやって女の帯を解くものか知らなかった。頑ななお太鼓が指に逆らった。そこをやみくもに解こうとすると、聡子の手がうしろへ向ってきて、清顕の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に助けた。二人の指は帯のまわりで煩瑣(はんさ)にからみ合い、やがて帯止めが解かれると、帯は低い鳴音(なきね)を走らせて急激に前へ弾(はじ)けた。》

  

<泣いていたのは>

「それにしても聡子はやさしい娘だ。たしかに心を動かす活動写真ではあったが、泣いていたのはあの人一人だった」

 活動写真のあいだ聡子は心おきなく泣き、明るくなったとき、侯爵ははじめてその涙に気づいたのである。

 

 清顕は涙を滅多に見せない。たとえ見せても、聡子からの厚い手紙を封も切らずに火鉢にくべ、いぶる煙を避けかねての一滴の滴(したた)りだけだ。ところが、聡子は接吻のたびに涙を流し、その涙を知るたびに清顕は内省へ引き戻される。いったい恋愛の主体はどちらなのか。雪の俥でのはじめての接吻、《聡子は涙を流していた。清顕の頬にまで、それが伝わったことで、それと知られた。清顕は矜(ほこ)りを感じた。》 観桜会での二度目の接吻のときも、清顕は突然、聡子の頬が涙に濡れているのを知って、幸福な涙か不幸な涙かと、いちはやく占いはじめる。霞町での事の後では、《清顕が乱れたままの姿の聡子を抱き寄せて、頬に頬を寄せていると、彼女の涙が伝わって来るのが感じられた。倖(しあわ)せのあまり泣いている涙だと信じられたが、同時に、二つの頬を伝わって流れるこの涙ほど、今自分たちのしたことが取り返しのつかぬ罪だという味わいを、しめやかに語っているものはなかった。》 

 

 <何の証拠があろうか?>

 王子の言葉からいろいろと思い当たるふしがある。自分は今、聡子に対して「二倍も実在に近づいた」と信じているのだが、そして自分が恋したものは彼女の実在ではなかったと確実に知ったのだが、それに何の証拠があろうか? ややもすれば、自分はただ「二重に惑わされて」いるのではなかろうか? そして自分が恋しているのは果して彼女の実在で……。

 

 私がもし急にいなくなってしまったとしたら、という聡子の言葉が、内務省の秀才との縁談のことで、その話を断ったとすれば、理由は清顕に明白に理解できた。《それは聡子が清顕を愛していたからである(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。これで彼の世界は再び澄み渡り、不安は失(う)せ、一杯の澄明(ちょうめい)なコップの水と等しくなった。》

 理解したいと思うのは恋愛の人だけではなく、見る人本多、眺める人本多は、なにごとも理解したいと思う人だった。聡子を鎌倉から送る自動車の中でも、聡子を理解したいという一種ふしぎな衝動が起っていた、《しかし、こんな恋にみちあふれたたおやかな女、自分のすぐ傍らにいて心ははるか遠くに託(かず)けているこの女を、理解するとはどんな種類の作業であろう。》 本多のその習癖は、いつの日か、覗く作業、視姦する行為に変貌してゆくだろう。

 

 <煩(わずら)わされるのは御免>

 あれは麻糸が漉き込んであったわけではない。ことさら強い意志力を振い起さなくては、手紙を破くことができないものが彼の裡(うち)にひそんでいたのだ。何の恐怖だったろう。

 彼はもう二度と聡子に煩(わずら)わされるのは御免だった。彼女の香気の高い不安の霧で、自分の生活を包まれるのはいやだった。やっと明晰(めいせき)な自分を取戻すことができたというのに。

 

 清顕の父母は全く恬淡(てんたん)に、宮家と綾倉家のお話の進み具合を息子にも話してきかせ、勝気な聡子がお見合の席ではさすがに固くなって、ものも言えなかった、などと可笑(おか)しそうに伝えた。清顕には聡子の悲しみを読むいわれもなく、やがて来る不幸を軽減すべく、恋愛の快楽を制限しようと心が知らずはたらく。《貧しい想像力の持主は、現実の事象から素直に自分の判断の糧(かて)を引出すものであるが、却(かえ)って想像力のゆたかな人ほど、そこにたちまち想像の城を築いて立てこもり、窓という窓を閉めてしまうようになる傾きを、清顕も亦(また)持っていた。》

 

 <不可能という観念>

 何が清顕に歓喜をもたらしたかと云(い)えば、それは不可能という観念だった。絶対の不可能。聡子と自分との間の糸は、琴の糸が鋭い刃物で断たれたように、この勅許というきらめく刃で、断弦の迸(ほとばし)る叫びと共に切られてしまった。

 

 ひそかに待ち望んでいた事態はこれだった。屹立(きつりつ)し拒否している無類の美しさ。《しかし、この歓喜は何事なのだ。かれはこの歓びの、暗い、危険な、おそろしい姿から目を離すことができなかった。自分にとってただ一つ真実だと思われるもの、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること、……そのような生き方が、ついに彼をこの歓喜の暗い渦巻く淵(ふち)の前へ導いたのであれば、あとは淵へ身を投げることしか残されていない筈だ。》 一方、絶望のせいでの発作、心の荒廃は、聡子の納采が決り、逢瀬がかなわなくなった清顕が、学校の森の小径を歩きながら幼ない土竜(もぐら)の屍(しかばね)を見つけると、その尾をつまんで立上り、小径が池のほとりに接すると、事もなげに屍を池へ投(ほお)った場面であろう。

 

 <まだ残っていはしないか>

 彼は再び幼い聡子と互(かた)みに書いた手習いの百人一首をとりだして眺め、十四年前の聡子の焚(た)きしめた香の薫りがまだ残っていはしないかと考えて、その巻紙に鼻を寄せた。するとその黴(かび)の匂いともつかぬ遠々しい香りから、一つの痛切な、世にも無力で同時に不羈(ふき)な、彼の感情のふるさとが蘇(よみがえ)った。

 

 清顕がフェティシズムの身振りをしめすことはめずらしい。幼ないころ、習字に飽きた二人を興がらせようとして、巻物に小倉(おぐら)百人一首を一首ずつ交互に書かせてくれたのが残っていた。《源重之(しげゆき)の「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけて物をおもふころかな」という一首を清顕が書くと、そのかたわらに、大中臣能宣(おおなかとみよしのぶ)の「みかきもり衛士(ゑじ)のたく火の夜はもえ昼は消えつつ物をこそ思へ」という一首を、聡子が書いている。》

 「風をいたみ」の歌は、恋の思いで自分だけがつらくせつない、という片恋の歌で、はじめ聡子が、おわりには清顕がそうだった。かたや「みかきもり」の歌は、夜は恋の思いに身をこがし昼は身も消えいるばかりの恋わずらいで、夢に現れないほどに消えたかと思った恋の思いは熾火(おきび)のようにくすぶっていて、ふとした風をきっかけに身を焼くほどに燃えあがる、とは勅許ののちの二人だった。

 

 <余計な告げ口>

 清顕は、蓼科があんなにも白々しい嘘(うそ)をついて実は清顕の手紙を聡子に読ませていたこと、又、余計な告げ口をして清顕の腹心の飯沼を失わせたことを責め立て、とうとう蓼科は、空涙(からなみだ)かはしれないけれど、涙を流して手を突いて詫(わ)びた。

 

 松枝侯爵に「蓼科のばばあが一度ならず二度までも、お耳拝借をやりおった」と独り言を言わしめた聡子つきの老女蓼科の場合は、友情とは違うが、注進する人以上の役を担い、逢瀬を取持ちながら、情熱の衰えを待とうとする快さの虜(とりこ)となっていた。《蓼科には情熱の法則を知悉(ちしつ)しているという自負があったし、露(あら)われないことは存在しないも同様だという哲学があった。つまり蓼科は、主人伯爵をも宮家をも、誰をも裏切っているわけではなかった。まるで化学の実験でもするように、一つの情事を、一方ではわが手で助けてその存在を保証し、一方では秘密を守り痕跡(こんせき)を消して、その存在を否定していればよかった。》 

 注進する人は同類を敏感に嗅ぎわけるから、洞院宮妃殿下の好みの麻雀を聡子に手ほどきさせようと、松枝侯爵が柳橋(やなぎばし)の街合の女将(おかみ)と一人の老妓(ろうぎ)を綾倉家へ遣わすと、蓼科は聡子の秘密に対する玄人の鋭い目を感じた。《「松枝様の若様はどうしておいででしょう。私はあんな男前の若様をほかに存じませんよ」 と、老妓が麻雀の牌を動かしながら何気なく言いかけたとき、女将が実に巧みにさりげなく話題を転じたのを、蓼科は感じとって神経を病んだ。》 聡子は蓼科の入知恵でつとめて口数を少くしていたけれども、《女の体の明暗に対して誰よりも目の利(き)く筈のこの女たちの前で、聡子は心をひらかぬように気をつけるあまり、今度は別の心配が生れた。聡子が鬱(うっ)した気分を見せすぎれば、このお輿入(こしい)れに不本意らしいという口さがない噂(うわさ)のもとになるからであった。》

 

 <世界を打開する力>

 それまで思ってもいなかった犀利(さいり)な知恵が生れてきて、彼はこの周到に詰め寄せられた世界を打開する力が、自分にそなわっているのを感じた。彼の若い目はかがやいた。

『前には破いてくれとたのんだ手紙を読まれてしまったのだから、今度は逆に、そうだ、あの粉々に引き裂いた手紙を活(い)かせばいいのだ』

 

 いかに振舞うべきか、何をなすべきか、という自問と苦悩は聡子にこそふさわしい。詫(わ)びる蓼科は泣き腫らした目を宙に向けたまま物語る。《「若様のあのお手紙をお読み遊ばしたお姫様が、どんなにお悩み遊ばしたか・しかも若様の前では、露ほどもお顔にお出しにならぬように、どんなに健気(けなげ)にお力(つと)め遊ばしたか。私の入知恵で、新年の御親戚(しんせき)会で、思い切って殿様に直々(じきじき)お尋ねの上、どんなに御安心遊ばしたか」》、そうして、《「それが、侯爵様のお計らいで、宮家の御縁談が持ち込まれたとわかったとき、ただ若様の御決断をお心あてに遊ばして、そればかりにすべてを賭(か)けておいでになったのに、若様は黙ってお見すごし遊ばした。それからのお姫様のお悩み、お苦しみは、とても口にも言葉にも尽せるものではございません。もう勅許も近々の下りようというとき、最後の望みを若様のお耳に入れたいと仰言るので、どうお引止めしてもお聴き届けにならず、私名義の先達(せんだっ)てのお手紙をお書きになった」》

  

<純潔は結びつかねばならず>

 清顕が遊び女(め)の快楽の手ほどきを頑(かたく)なにしりぞけたのは、以前からそんな聡子のうちに、丁度繭(まゆ)を透かして仄青(ほのあお)い蛹(さなぎ)の成育を見戍(みまも)るように、彼女の存在のもっとも神聖な核を、透視し、かつ、予感していたからにちがいない。それとこそ清顕の純潔は結びつかねばならず、その時こそ、彼のおぼめく悲しみに閉ざされた世界も破れ、誰も見たことのないような完全無欠な曙(あけぼの)が漲(みなぎ)る筈(はず)だった。

 

 それにしても「曙(あけぼの)」という表現は、ここぞというとき、どれほど登場することか。その意味するところは何なのか。

 それはさておき、聡子の真実はどうだったのだろう。聡子の純潔の真実は。八年前の梅雨の晩、霞町の北崎の家の離れで、綾倉伯爵はたしかに蓼科に、「今から頼んでおく」と言ったのである。《すなわち、聡子が成人したら、とどのつまりは松枝の言いなりになって、縁組を決められることになるだろう。そうなったら、その縁組の前に、聡子を誰か、聡子が気に入っている、ごく口の固い男と添臥させてやってほしい。その男の身分はどうあってもかまわない。ただ聡子が気に入っているということが条件だ。決して聡子を生娘のまま、松枝の世話する婿に与えてはならない。そうしてひそかに、松枝の鼻を明かしてやることができるのだ。》 では、その「口の固い男」が清顕であったというのか。他ならぬ松枝侯爵の息子であることから二重に鼻を明かしてやることができたというのか。それとも、『春の雪』創作ノートに見せ消ちとなっている、「聡子は処女ではなかった。それ故、宮との結婚をおそれ、童貞の清顕と結ばれし也」の残映を見出しうるのか。いずれにしろ、その虚偽は、お髪(ぐし)を下ろした聡子に鬘(かつら)を誂(あつら)えて世間の目を繕うではないかと、松枝、綾倉両夫婦のあいだで妙案がもちあがり、《「若宮さんもまさか聡子の髪にはお触りになるまい。よしんば多少不審に思われても」 と侯爵は笑いながら、不自然に声をひそめて言った。》の鬘に仮託されているに違いない。

 

<無限に誘い入れ>

 聡子は一言も、言葉に出して、いけないとは言わなかった。そこで無言の拒絶と、無言の誘導とが、見分けのつかないものになった。彼女は無限に誘い入れ、無限に拒んでいた。ただ、この神聖、この不可能と戦っている力が、自分一人の力だけではないと、清顕に感じさせる何かがあった。

 

 得度式の朝、聡子は身を清めて墨染の衣を着、御堂(みどう)で数珠(じゅず)を手に合掌していた。門跡が剃刀(かみそり)で一剃(そ)りされ、般若心経(はんにゃしんぎょう)をお唱えになる。《「観自在菩薩。行深(ぎょうじん)般若波羅密多(はらみた)時。照見五蘊(うん)皆空。度一切苦厄。……」》 「五蘊(ごうん)」とは、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)で、色は外側の目に見えるもの、客観であり、受・想・行・識は内側の目に見えないもの、主観である。「照見五蘊(うん)皆空」とは、外側も内側も、つまりは肉体的存在、感覚、心の働き、そういったものがすべて空であると照らし見ることを意味しており、ここにも『春の雪』の内/外がある。《聡子は和して目を閉じているあいだ、徐々に肉の舟の底荷は取去られ、錨(いかり)は放たれて、この重い豊かな読誦(とくしょう)の声の波に乗って、漂いだすような心地がした。》 聡子は、この世の官能のすべて、欲望の充足、恋愛の成就、執拗な希求を捨て、現世を剥離する。

 

<幾重に包まれた>

 清顕は聡子の裾(すそ)をひらき、友禅の長襦袢(ながじゅばん)の裾は、沙綾形(さやがた)と亀甲(きっこう)の雲の上をとびめぐる鳳凰(ほうおう)の、五色の尾の乱れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聡子の腿(もも)を遠く窺(うかが)わせた。しかし清顕は、まだ、まだ遠いと感じていた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があった。

 

 いつも相手をいたわりながら軽(かろ)んじ、いつわりの姉の役を演じつづけていた聡子は、愛の抱擁という身振りのなかで、神聖な、美しい禁忌となった。まだ、まだ遠い。錯乱の瞬間とはいえ、合体の欲望は充たされるのか。《ようやく、白い曙の一線のように見えそめた聡子の腿に、清顕の体が近づいたときに、聡子の手が、やさしく下りてきてそれを支えた。この恵みが仇になって、彼は曙の一線にさえ、触れるか触れぬかに終ってしまった。》

『春の雪』は「白」の氾濫がおびただしい。白い曙、白い項、白い擬宝珠の蕾、白木の墓標、白布、白い鞠毛、白靴下、白いレエスの襟飾り、白木の棺、白く燻んだ肌、襟足の白、胸もとの白の逆山形、月に白む腹、白粉、白梅、白い道、そして雪と月。

《――二人は畳に横たわって、雨のはげしい音のよみがえった天井へ目を向けていた。彼らの胸のときめきはなかなか静まらず、清顕は疲れはおろか、何かが終ったことさえ認めたがらない昂揚(こうよう)の裡(うち)にいた。》 やさしい静けさのなかに、心残りが漂い、所有願望が立ち戻って来る。

  

<あらゆる疑惑>

 彼は女に導かれるときに、こんなにも難路が消えて、なごやかな風光がひろがるのをはじめて覚(さと)った。暑さのあまり、清顕はすでに着ているものを脱ぎ捨てていた。そこで肉のたしかさは、水と藻(も)の抵抗を押して進む藻刈舟(もかりぶね)の舟足のように、的確に感じられた。清顕は、聡子の顔が何の苦痛も泛(うか)べず、微光のさすような、あるかなきかの頬笑みを示しているのをさえ訝(いぶか)らなかった。彼の心にはあらゆる疑惑が消えた。

 

 八年前の北崎の家の離れで、蓼科への伯爵の言葉はさらに続いた。《ところでお前は、閨のことにかけては博士(はかせ)のようだが、生娘でないものと寝た男に生娘と思わせ、又反対に、生娘と寝た男に生娘ではなかったと思わせる、二つの逆の術を聡子に念入りに教え込むことができるだろうか? 蓼科はそれに対して、しっかりとこう答えた。「仰言(おっしゃ)るまでもございません。二つながら、どんなに遊び馴れた殿方にも、決して気づかれる心配のない仕方がございます。それはよくよくお姫様にお教え申上げましょう。それにしても、あとのほうは、何のためでございますか?」 「結婚前の娘を盗んだ男に、大それた自信を持たせぬためだよ。生娘と知って、下手に責任を持たれてはかなわぬ。その点もお前に委(まか)せておく」》

 何の苦痛も泛(うか)べず、あるかなきかの頬笑みを示したのは聡子の術だったのか。それはどちらの術で、遊び馴れぬ清顕が訝らなかったのはどういう意味で、「あらゆる」疑惑とは何で、嫉妬という感情は生じようもなかったのか。ここには、本多が傍聴した市井のありきたりな三角関係の確執による情痴事件にみられる、わかりやすい嫉妬は存在せず、創作ノートに、抹消されずに残された「一緒に寝る。《聡子の非処女の伏線》」が、無意識にか作為的にか櫓脚(ろあし)のように尾を引いている。

  

<所在なさに死ぬような思いがしていた>

「お召しでございますか?」

 聡子はうなずいて、身のまわりに乱れた帯のほうを目で指し示した。蓼科は、襖を閉めると、清顕のほうへは目もくれずに、無言で畳をいざって来て、聡子の着衣と帯を締めるのを手つだった。それから部屋の一隅の姫鏡台を持ってきて、聡子の髪を直した。この間、清顕は所在なさに死ぬような思いがしていた。

 

 抱擁のあとの、おろかしさをわが身ひとつに引き受けた無為のみだらさ。女二人の儀式のような仕度の時間、すでに無用の人となった清顕は、身じまいを終えているのに、いや、終えているがために、よりみだらである。

 鎌倉からの帰路の車中でも、本多に「ええ、覚悟をしておりますわ」、「私は未練を見せないつもりでおります」と感傷性をあらわさなかった聡子には、何の乱れもない端正な横顔のように、みだらさは存在せず、むしろ、それは本多の側に発生する。《「ごめんあそばせ。あれだけ気をつけたのに、まだ靴の中に砂が残っているような気がいたしますの。もし気づかずに家で靴を脱げば、靴の係は蓼科ではありませんから、砂を怪しむ女中の告げ口が怖ろしゅうございます」 本多は靴の始末を婦人がするとき、どうしているべきか知らなかったので、一図に窓へ顔を向けて、そのほうを見ないようにしていた。(中略)耳のせいかと思われるほど、ごくかすかな音が、多分聡子が脱いだ靴から床へ落した砂音が背後にきこえた。本多はそれを、世にも艶(つや)やかな砂時計の音ときいた。》 他人の恋愛の秘めた時間を、覗く目ではなく、より高次の想像力をもつ感覚器官として耳で、あたかも婦人の排尿に耳を澄ますかのようなみだらさである。

 

<語り続ける>

 そこで語っているのは、一人の恋している情熱的な青年で、彼の言葉にも動作にも見られた不本意と不確実は、すっかり拭(ぬぐ)い去られていたのである。

 頬も紅潮し、白い歯をきらめかせ、何か言いさして恥らいながら、張りのある声で語りつづける清顕は、その眉(まゆ)にいつにもまさる凛々(りり)しさが宿って、恋する若者の申し分ない絵姿になった。

 

 聡子もまた、鎌倉からのかえり道では、往(ゆ)きとは打って変って能弁になり、とめどなく、自分の心の内や行動のなりゆきを言葉にして語り続ける。《「どうしてでしょう。清様と私は怖(おそ)ろしい罪を犯しておりますのに、罪のけがれが少しも感じられず、身が浄(きよ)まるような思いがするだけ。先程も浜の松林を見ておりますと、この松林が、生きてもう二度と見ない松林、その松風の音が、生きてもう二度と聞かれない松風のような気がするのです。刹那(せつな)刹那が澄み渡って、ひとつも後悔がないのでございますわ」 語りながら聡子は、そのたびごとに最後の逢瀬(おうせ)のように思われる清顕とのあいびきが、殊(こと)に今夜は、清寧な自然に囲まれて、どんなに怖ろしい、目のくらむほどの高みに達したかを、つつしみのなさを犯して、語り残したくてならない気持ちが、どうして本多にわかってもらえるだろうかと焦っていた。》

 

<三日も会わずにいることは耐えられないんだ>

「貴様と王子たちを置いて、僕はときどき東京へこっそり帰るだろう。あの人に三日も会わずにいることは耐えられないんだ。僕の留守には、王子たちをごまかし、又万一、東京の家から電話があるようなことがあっても、そこをうまくごまかしてくれるのは、貴様の腕だ。今夜も僕は、最終の汽車の三等に乗って東京へゆき、あしたの朝の一番でかえってくるよ。たのむよ」

 

 清顕は、あきらかにはしゃいでいる。祝祭のなかにいるごとく。それは待ち望まれるもの、ひめやかなよろこびだ。恋する者は、夕食を、会話を、やさしさを、よろこびのたしかな約束を楽しむ。本多とジャオ・ピーは転生にまつわる議論をやめ、清顕とクリッサダが嬉々として忙しげに砂の寺院を建てている子供らしい砂遊びに目を移すと、しらぬ間(ま)に、四人の頭上には星空があった。《潮風の湿り気が肌にまつわると、そこから却って、火のようなものが噴きのぼってきた。「もう帰ろう」 と突然清顕が言った。それはもちろん客たちを夕食へ促す意味だった。しかし本多は、彼がひたすら最終の汽車の時刻を気にしているのを知っていた。

 

 <このいつわりの世界>

「僕がさっきから解こうと思っていた謎は、月光姫(ジン・ジャン)の死の謎ではなかった。それは月光姫(ジン・ジャン)が病んで死ぬまでの間、いや、すでに月光姫(ジン・ジャン)がこの世にいなくなってからの二十日間、もちろん絶えぬ不安は感じていたけれども、何一つ真実は知らされず、僕がこのいつわりの世界に平然と住んでいられた、というその謎なのだ」

 

 そうしてジャオ・ピーは、世界の微妙な変質を嗅(か)ぎ当てることができなかったとせき上げ、言葉はもつれて絶えた。

 一方、聡子の落飾もある種の死ということができて、得度式の朝、氷室(ひむろ)のような御堂の冷たさの底で、剃刀は聡子の頭を綿密に動き、内と外の懸橋のような髪の一束一束が落ちる。《かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関わりがあったものが残らず外側へ捨て去られ、人間の体から手が落ち足が落ちてゆくように、聡子の現世は剥離(はくり)してゆく。》 清顕は落飾を知って、何事もなかったかのような、いつわりの永続という希望を自分で作りだす。《『彼女の狂気という噂は、議論の余地もないほどのいつわりだ。そんなことは到底信じられない。それなら彼女の遁世(とんせい)と落飾も、ひょっとすると仮りの装(よそお)いにすぎないかもしれぬ。聡子はただ一時のがれに、宮家へのお輿入(こしい)れを避けるために、つまりは僕のために(、、、、、)、こんな思い切った芝居を打ったのかもしれないのだ』》

 

<彼も王子たちの悲しみに影響されて>

「王子たちはもう一日も早く帰国したいお気持ちだろう。誰が何と言おうと、このまま留学をつづける気持にはなられまい」

 と本多は二人きりになると、すぐ言った。

「僕もそう思う」

 と清顕は沈痛に答えた。彼も王子たちの悲しみに影響されて、云うに云われぬ不吉な思いに沈んでいることはあきらかだった。

 

 ところが、清顕の言葉はジャオ・ピーへの同情、お互いの恋愛の不可能性を苦悩の内に投影した同一化とはまったく違った理由から来ていた。《「王子たちが発(た)たれるとすると、僕ら二人だけでここにとどまっていることは不自然になる。あるいはファーザーやマザーがここへ来て、一緒に夏を過すことになるかもしれない。いずれにしても、僕らの幸福な夏はおわってしまった」 と清顕は独り言のように言った。恋する男の心が恋の他(ほか)のものを容(い)れなくなって、他人の悲しみに対する同情さえ失っているのを、本多はありありと認めた》のだった。

  

<何を仰言(おっしゃ)るの、清様>

「たとえ納采があったあとでも……」

「何を仰言(おっしゃ)るの、清様。罪もあまり重くなれば、やさしい心を押し潰してしまいます。そうならぬうちに、あと何度お目にかかれるか、教えていたほうがましでございます」

「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」

「ええ。どういう形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いている道は、道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終って、海がはじまるのは仕方がございませんわ」

 

 恋の感覚のために薄くなった肌にすりつけられる秘めた告白の言葉のあれこれ。

雪の中、聡子が俥へ上ってきた。《「何だって……何だって、急に?」 と清顕は気押(けお)された声で言った。「京都の親戚(しんせき)が危篤(きとく)で、お父(でえ)さんとお母(たあ)さんが、ゆうべ夜行でお発ちになったの。一人になって、どうしても清(きよ)さまにお目にかかりたくなって、ゆうべ一晩中考えた末に、今朝の雪でしょう。そうしたら、どうしても清様と二人で、この雪の中へ出て行きたくなって、生れてはじめて、こんな我儘(わがまま)を申しました。ゆるして下さいましね」》 

 お腹(なか)の子を始末するために大阪へ発つ聡子との、激情を抑えた最後の対話は、ほとんど成り立たないがためにかえって無限の注釈を内包している。《ようやく彼は母と離れて、短い別れの挨拶を伯爵夫人と交わし、いかにも軽い序(つい)での感じで、聡子に向って、「じゃあ、気をつけて」 と言った。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を置こうと思えば置くこともできそうだった。しかし、彼の手は痺(しび)れたようになって動かなかった。そのとき正(まさ)しく清顕を見つめている聡子の目に出会ったからである。》

 

<相対(あいたい)の死>

 彼はかねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めているのを知りつつあった。いちばんたやすい解決は二人の相対(あいたい)の死にちがいはないが、それにはもっと苦悩が要る筈(はず)で、こういう忍び逢(あ)いの、すぎ去ってゆく一瞬一瞬にすら、清顕は、犯せば犯すほど無限に深まってゆく禁忌の、決して到達することのない遠い金鈴の音(ね)のようなものに聞き惚(ほ)れていた。

 

 蓼科は、松枝家執事の山田の口から、手紙に関する清顕の嘘をきいたとき、敵に廻ることではなく、すべてを承知の上で清顕と聡子の望みどおりに動くほうを選んだ。《これは聡子に対する本物の愛情に拠(よ)るものだったと云えようが、同時に蓼科は、事ここに至って生木を裂くことが、聡子の自殺を惹(ひ)き起しはしないかと怖れたのである。》

 しかし、その蓼科が、伯爵夫妻に聡子の姙娠(にんしん)を打明け、松枝侯爵宛の遺書を送ってから、カルモチンを嚥(の)んだ単純で軽率な自殺未遂もまた恋愛の領野であったのだろうか。

 後註で典拠と宣言されてはいないものの、『春の雪』には、『今昔物語』、『竹取物語』、『古事記』からの換骨奪胎がみられ、とりわけ三島『日本文学小史』第二章の『古事記』における軽王子(かるのみこ)と衣通姫(そとほりひめ)の物語への関心は強い。引用すれば、その恋人同士の心中は、「日本最古の心中であるということのほかに、私がもっとも興味を持つのは、道徳に叛き共同体から完全に放逐された者同士が、根無し草であることに耐えられず、しかも何ら懐郷の情に駆られるでもなく、そこで追いつめられた者の片隅の幸福と平和に安んずるでもなく、ただちに心中するという心理なのである」と論じられた。清顕と聡子の恋も、現世と黄泉の国との境界となる月修寺への登り坂を舞台に、軽王子(かるのみこ)と衣通姫(そとほりひめ)の物語とは違った形式と時間のずれこそあれ、心中に他ならない。

 

<あんまり好きだから>

「こうして御一緒に歩いていても、お仕合せそうには見えないのね。私は今の刹那(せつな)刹那の仕合せを大事に味わっておりますのに。……もうお飽きになったのではなくて?」

 と聡子はいつものさわやかな声で、平静に怨(えん)じた。

「あんまり好きだから、仕合せを通り過ぎてしまったのだ」

 と清顕は重々しく言った。

 

 脇役もふくめて、「わたしはあなたを愛しています」と面と向かって言わない。遠まわしな言葉で愛をほのめかすか、いきなりの無言の行為を求めるか、愛の叫びを第三者に発するだけだ。《「何かお花を摘んでくるわ。清様(きよさま)も手つだって下さらない?」》、《「手紙は返せない。又こうして逢いたいからだ」》、《「……でも、もし永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ」》、《「それでも、とにかく聡子は僕のものです」》

  

<待ちこがれる苦しみ>

 放課後、学校の外からかけてみた電話は、蓼科からの返り言をこんな風に伝えた。それは、御承知のとおりの事情だから、ここ十日ほどはお逢わせすることができない、時期が来ればすぐお知らせするから、それまで待ってもらいたい、というのである。

 彼はその十日を、待ちこがれる苦しみの裡にすごした。以前、聡子に冷たくしていたころの自分の行いの報いが来たのをはっきりと感じた。

 

 はじめ清顕は待つようなことはしなかった。人を待たせはしても自分は待たなかった。聡子を帝国劇場の歌舞伎に誘おうと階段を駆け下りて電話をかけたように。幌をあけると雪が崩れてきた気配に車夫が立止まるや、「そうじゃないんだ。行け!」、「行け! どんどん行ってくれ」と晴朗に若々しく叫んだように。それが終わりの近づくにつれ蓼科にさんざん待たされ、待ちわび、ほんのわずかな遅れにも苦悩がざわめく。結末の月修寺では、三月二十二日から聡子に会うために五日間、六回、玄関で待たされ、二十六日朝、春の雪の舞うなかでもついに会えない。《一老は昨日までのように、すぐお断りの口上を言わずに、そこへ清顕を置き去りにして中へ去った。永遠に思われるほど永い時を清顕は待った。待つうちに、霧のようなものが目先にかかって、苦痛と浄福の感じがおぼろげに一つに融け合った。》

 

<苦悩は果てしがなく>

 逢瀬は短かく、又二十日ほどあとに逢うという不確かな約束をして二人は別れた。

 その晩、清顕の苦悩は果てしがなく、いつまで聡子は夜の約束を拒むだろうと思うと、彼は世界全体から拒まれているように感じて、その絶望の只中(ただなか)で、もはや自分が聡子に恋しているということに疑いがなくなった。

 

 書生飯沼の苦悶は孤独であり、惨めだ。密通相手の女中みね(、、)には殿のお手がついていた。「嘘(うそ)だ。お前は何か知っている」と清顕に追及された飯沼は、「みね(、、)から聞いた話ですが、これはみね(、、)が私にだけ内密に話して、絶対に誰にも言うな、と言った話です」と前置きし、若様に関係したことですから、申し上げたほうがいいかもしれません、と侯爵が清顕を花柳界に誘い、一人前の男にさせる実地教育をほどこしたのか聡子が訊いてきたという話を語りだす。《「念のために申し上げますが、この話はすべて、侯爵様が、寝物語に、と申しては何ですが(その言葉を、飯沼は云(い)おうようない痛恨をこめて放った)、寝物語に、笑いながらみね(、、)にお話しになった事であります。それをみね(、、)がありのままに私に伝えたのです」》

  

<この世の秩序の崩壊>

 重要なのは、二人が誰憚らず、心おきなく、自由に逢うことのできる場所と時間だけだった。それはもはやこの世界の外(そと)にしかないのではないかと疑われた。そうでなければ、この世界の崩壊の時にしか。

 大切なのは心ではなくて状況であった。清顕の、疲れた、危険な、血走った目は、二人のためにするこの世の秩序の崩壊を夢みていた。

 

 しかし聡子は、耐えがたさからか、とある覚悟をしていた。《「こんなことを申上げるべきではないかもしれません。でも、本多さんのほかに、きいていただく方はいないのですもの。私のやっていることは、怖ろしいことだと知っております。でも、禁(と)めて下さいますな。いつか結着のつくことは知れているのでございますから。……それまでは一日のばしに、こうしていとうございます。ほかに道はありません」》 本多が、聡子の「覚悟をしている」と「いつか結着がつく」という気持が、どういう風につながっているのか、と質問をするや、聡子は「よく訊(き)いて下さいました」と安らかに応じた。《「私がいつかそれを終らせることができる筈だと仰言(おっしゃ)るのね。清様の親友としてそう仰言るのは御尤(ごもっと)もだわ。私が生きたまま終らせることができなければ、私が死んで……」》

 

<歩調を合わすことができない>

 来夏の大学の受験を目ざして、勉強に精を出す者は本多を含めて際立(きわだ)ってみえ、無試験の大学を志す者は運動にいそしんでいた。そのいずれとも歩調を合わすことができない清顕は、ますます孤独になった。話しかけても返事をしないことの多くなった清顕は、皆からうっすらと疎(うと)まれていた。

 

 まわりの人はみな、あたりまえのように実(じつ)の世界で有為な人として生きているというのに、自分は虚の世界で無為の人として生きている(いこうとしている)という、羨望と卑下と自尊がないまぜとなったトーマス・マン的主題は、はじめから三島の芯にあった。

 時に、所を得た体系、しかるべき場所、世界が許す構造に位置していないという苦痛が、快楽へと転化することがある。《燃えているものは悪ではない、歌になるものは悪ではない、という訓(おし)えは綾倉家の伝承する遠い優雅のなかにほのめかされていたのではなかったか?》 松枝家という岩乗(がんじょう)な一族の指に刺った清顕という「優雅の棘(とげ)」の感情はそこへ向かう。《着るものを着てしまうと、清顕は舟べりに腰かけて、足をぶらぶらさせながらこう言った。「僕たちが許された仲だったら、とてもこんなに大胆にはなれないだろう」 「ひどい方ね。清様のお心はそれだったのね」と聡子は怨(えん)じる風情(ふぜい)を見せた。かれらの叩(たた)く軽口には、しかし名状しがたい砂の味わいがあった。すぐかたわらに絶望が控えていたからだ。》

  

<顳顬(こめかみ)が熱く波打つ>

 ……読みおわった清顕は、そこに自分の名が書かれていなかったことに一瞬味わった卑怯(ひきょう)な安堵(あんど)をかなぐり捨て、父を見上げた自分の目が、白(しら)を切る目に見えないことを念じていた。しかし唇は乾き、顳顬(こめかみ)が熱く波打つのが感じられた。

 

 長い巻紙に書かれた蓼科の書置、「御姫様御懐姙も御内輪のことと存じまいらせ候」という不始末を仕出来(しでか)したのが清顕であることを本人から確かめた祖母は、「宮様の許婚(いいなずけ)を孕(はら)ましたとは天晴(あっぱ)れだね」と言い放ったが、侯爵は「それでは松枝の家(いえ)も破滅です」と力なく返す。恋するものの破局は、まわりの人にとっては、美しいなめし革の手袋を裏がえしたように、内臓をみせつけるような秩序の破局という相をあらわした。ところが、聡子がお髪(ぐし)を下ろしたことを夫人からきいたとき、《綾倉伯爵はただ放心していた。破局というものを信じるのはいくらか下品な趣味だと考えられたから、そんなものは信じなかった。破局の代りに仮睡(まどろみ)というものがあるのだ。だらだら坂が未来のほうへ無限に下りてゆくのが見えていても、鞠(まり)にとっては転落が常態で、おどろくべきことは何もなかった。怒ったり悲しんだりするのは、何かの情熱を持つこと同様に、洗煉(せんれん)に飢えている心が犯す過誤のようなものだ。》 

 一方、清顕は年の暮れともなると、自分の境涯に言葉の鞭打(むちう)ちを加えるようになる。《『僕は一人取り残されている。愛慾の渇き。運命への呪(のろ)い。はてしない心の彷徨(ほうこう)。あてどない心の願望。……小さな自己陶酔。小さな自己弁護。小さな自己欺瞞(ぎまん)。』》 これら無残な誇張を怖(おそ)れない言葉こそ自己の全面的崩壊をまのあたりにした恋するもののとめどなさと言えよう。

 

 

<力を失ったまま、空気の中へ>

 清顕は母の不安を知りつつ助け舟も出さずに、やや離れて佇立(ちょりつ)している。彼は気が遠くなりそうな思いを、その固い起立の姿勢で保っていた。自分が縦に垂直に倒れているように感じた。力を失ったまま、空気の中へ、立姿を鋳込(いこ)まれているかのようだった。ホームはひえびえとしていたが、彼は制服の蛇腹の胸を反らせて、待つ苦しみのあまり内臓まで凍ってしまったような気がした。

 

 この現実世界のフェーディング現象と不在感覚は、洞院宮治典王(とういんのみやはるのりおう)殿下との話が自分の周囲であわただしく運ばれてゆくことを冷然と眺めていた聡子の様子に似ている。《聡子が目立って黙りがちになり、物思いに耽(ふけ)る折が多いのを、蓼科は大そう気づかったが、その一方、聡子は水の流れるように、父母のいいつけもよく聴き、何事にも素直に従うようになり、以前のように異を樹(た)てることがなく、ほのかな微笑ですべてをうけ入れた。こうして何もかも肯(うべな)うやさしさの帳(とばり)の裏に、聡子は、このごろの曇った空のような、広大な無関心を渡していた。》

  

<粗暴な形をとりすぎている>

 清顕は大人同士が話しているあいだ、うつむきがちな聡子へ落す自分の視線が、熱烈な注視になりがちのことを怖(おそ)れていた。もちろん心はそのような注視を望んでいる。しかし清顕が怖れているのは、聡子の脆(もろ)い白さを、過激な日光で灼(や)いてしまうことである。ここで働く力、ここで通じる感情は、何かきわめて微妙なものでなければならず、自分の情熱がそのためには粗暴な形をとりすぎているのを清顕は知った。

 

 十日ぶりに、三越の近所の閑散な汁粉屋の一隅で向い合せに坐(すわ)ることができた聡子の顔はいつになく化粧が浮いて、髪が重たげである。《「今夜は逢えないの?」 と清顕は心(こころ)急(せ)いて訊(き)きながら、決してはかばかしい返事が来ぬことを予感していた。「御無理を仰言(おっしゃ)らないで」 「何が無理だ」 と清顕の言葉は激して、心はうつろだった。聡子はうなだれたかと思うと、もう涙を流していた。あたりの客を憚(はばか)って、蓼科が白い手巾(ハンカチ)をさしだして、聡子の肩を押した。その肩の押し方がやや邪慳(じゃけん)に感じられたので、清顕は鋭い目で蓼科を睨(にら)んだ。》

 恋人を無法な要求の鉄格子に閉じ込めている恋するものは、己の醜悪な姿に怪物を見る。

  

<その肌のどこがまっ先に>

 着物の下の聡子の体を、自分は隅々まで知っている。その肌のどこがまっ先に羞恥(しゅうち)に紅(あか)らみ、どこがしなやかに撓(たわ)み、そこが、その中に白鳥が捕われているかのように、羽ばたきの顫動(せんどう)を透かして見せるかを知っている。どこが喜びを愬(うった)え、どこが悲しみを愬えるかを知っている。知悉(ちしつ)しているものすべてが、おぼろに微光を放って、聡子の体を着物の上からも窺わせるのだが、今、心なしか聡子が袂(たもと)でいたわっている腹のあたりにだけは、彼のよく知らぬものが芽生えている。

 

 海に千々に乱れる月影の百万の目に見られて、聡子が清顕の肉体を感じた鎌倉の浜の舟陰。《清顕の小さな固い乳首が、自分の乳首に触れて、なぶり合って、ついには自分の乳首を、乳房の豊溢(ほういつ)の中へ押しつぶすのを聡子は感じていた。それには唇の触れ合いよりももっと愛(いと)しい、何か自分が養っている小動物の戯(たわむ)れの触れ合いのような、意識の一足(ひとあし)退(しりぞ)いた甘さがあった。肉体の外(はず)れ、肉体の端(はな)で起っているその思いもかけない親交の感覚は、目を閉じている聡子に、雲の外れにかかっている星のきらめきを思い出させた。》 聡子は、思い充溢(じゅういつ)のなかで海になった。

  

<もうあの人とは、二度と会いません>

 聡子は急いでいた。毎日、子供が菓子をねだるように、剃髪をせがんだ。とうとう門跡も折れて、こう仰言(おっしゃ)った。

「剃髪(おたれ)を上げたらな、もう清顕さんには会えへんが、それでよろしいか」

「はい」

「もうこの世では会わんと決めたら、そのときに御髪(おぐし)を剃(た)れて進ぜるが、後悔しやしたら悪いさかいに」

「後悔はいたしません。この世ではもうあの人とは、二度と会いません。お別れも存分にしてまいりました。ですから、どうぞ……」

 と聡子は清い、ゆるぎのない声で言った。

 

 愛する人をわがものにすることの放棄、それは清顕にも仮初のように生じたことがあった。あとは勅許をいただけばよいばかりになって、松枝家のお宮様のお祭に聡子が招かれなかったころのことである。《喪失の安心が清顕を慰めていた。彼の心はいつでもそういう働きをするのであったが、喪(うしな)うことの恐怖よりも、現実に喪ったと知るほうがよほどましなのだった。彼は聡子を喪った。それでよかった。そのうちにさしもの怒りさえ鎮(しず)められてきた。》 しかし、この悟りは、絶対の不可能を自ら招き寄せ、至高の禁を犯すための、短い休息にすぎなかった。

 

 

<不眠は次第に募っていた>

 彼は人には語らなかったが、しばしば眩暈(めまい)に襲われたり、軽い頭痛におびやかされたりするようになっていた。不眠は次第に募っていた。夜の臥床(ふしど)では、あしたこそ聡子の手紙が来て、出奔の日時と場所を打合せ、どこか人知れぬ田舎町の土蔵造りの銀行のある町角あたりで、走り寄る聡子を迎えて腕に思うさま抱きすくめる情景を、次々と巨細(こさい)に想像した。

 

 狂気はひっそりと泛(うか)び上る。まるで暗い池から頭をもたげてこちらを窺(うかが)う忌(いま)わしい鼈(すっぽん)のように。八日たっても、蓼科からの連絡は絶えたままで、十日目に、蓼科は病気で臥(ふせ)っているらしいと告げられると、《清顕は狂おしい思いにかられて、夜、麻布へひとりで行って、綾倉家のあたりをうろついた。鳥居坂界隈(かいわい)の瓦斯(ガス)灯(とう)の下をゆくときに、明りの下へさしだした手の甲が蒼(あお)ざめてみえるのに心を挫(くじ)かれた。死の迫った病人は、よく自分の手を眺めるものだ、という言い伝えを思い出したのだ。》

 

 <ありありと姿を現(げん)ずる>

 するうちに聡子は夢と現(うつつ)の堺(さかい)に、突然、ありありと姿を現(げん)ずるようになった。もはや清顕の夢は、夢日記に誌(しる)すような客観的な物語を編むことがなくなった。ただ願望と絶望が交互に来て、夢と現実が互(かた)みに打消し合い、あたかも海の波打際(なみうちぎわ)のように定めない線を描いていたが、その滑らかな砂上を退(ひ)く水の水鏡に、突然、聡子の顔が映るのであった。

 

 清顕の夢日記。自分がシャムへ行っている夢である。ジャオ・ピーがはめていたエメラルドの指環(ゆびわ)が、いつのまにか自分の指へ移ったらしい。《「背後に立っている女の顔が映ったのかと思って振向いたが、誰も居ない。エメラルドの中の小さな女の顔は、かすかに動いて、さっきはまじめに見えたのが、今度は明らかに微笑みを湛(たた)えている。自分は手の甲にたかった蠅のむず痒(がゆ)さに、あわてて手を振ってから、もう一度指環の石を覗(のぞ)こうとした。その時、女の顔はすでに消えていた。それを誰とも確かめることができなかった言おうようない痛恨と悲しみのうちに、自分は目をさました。……」》

  

<ここを遁れ出したい思い>

 日ましに、ここを遁(のが)れ出したい思いは彼の心の中の抗しがたい力になった。すべてのものが、時間が、朝が、昼が、夕べが、又、空が、樹々(きぎ)が、雲や北風が、諦(あきら)めることしかないと告げているのに、なお不確定な苦しみが彼を苛(さいな)みつづけているのなら、何事にまれ確定的なものをこの手につかみたく、ただ一言であれ聡子の口から疑いようのない言葉をききたくなった。言葉が無理なら、ただ一目顔を見るだけでもよかった。

 

 恋愛の苦痛を解消しようと、一時のやすらぎにすぎないと気づきつつも、危機からの出口に幻覚を見る。聡子は破滅的な誘惑とはまったく異なる解決策を選択していた。《渡り廊下のはての本堂のうちに、蝋燭(ろうそく)のゆらめきが遠く映った。こんなに早くお勤めをしている人があるべきではない。花車(はなぐるま)の模様の絵蝋燭が二つ点ぜられ、仏前に聡子が坐(すわ)っていた。夫人にはそのうしろ姿が全く見覚えがないような感じがしたが、聡子は髪を自ら切っていた。その切った髪を経机に供え、数珠(じゅず)を手にして、一心に祈っていたのである。》

  

<心の緩みに起因する>

 寺男が出てきて、名前と用向をきき、しばらく待たせられて、一老(いちろう)があらわれた。しかし決して玄関へ上げようとはせず、門跡(もんぜき)は会わぬと云っておられること、まして御附弟(ごふてい)は人に会われることはない、と剣もほろろの応待で追い返した。こういう応待はもとより多少予期されたところであったので、清顕はそれ以上押さずに一旦宿へ帰った。

 彼は明日に望みを繋(つな)いでいた。一人でつらつら考えるのに、この最初の失敗は、俥に乗って玄関先まで行った心の緩みに起因するように思われた。

 

 恋するものは無垢である。無垢の苦痛、無垢の不幸というものがある。恋するものはまた、愛する人への義務を怠ったと思いこみ、あやまちを感じて有罪を宣告する。月光姫(ジン・ジャン)の死を知らされたジャオ・ピーは、ようやくベッドに身を起し、清顕に向って自らを責めたてた。《「朝のそよ風、木々のそよぎ、たとえば鳥の飛翔(ひしょう)や啼(な)き声にも、間断なく目をそそぎ耳を澄ましていることをせず、それをただ大きな生の喜びの全体と受けとって、世界の美しさの澱(おり)のようなものが、日毎にそれを底のほうから変質させていることに気づかなかった。ある朝、もし僕の舌が世界の味わいに微妙な差を発見していたら、……ああ、もしそうしていたら、僕は即座にこの世界が、『月光姫(ジン・ジャン)のいない世界』に変ってしまっていることを、嗅(か)ぎ当てていたにちがいないのだ」》

 

 <ますます行じ、ますます苦難を冒す>

 あくる日の二十四日の朝は、起きるとから不快で、頭は重く、体は倦(だる)かった。しかし、ますます行じ、ますます苦難を冒すほかに、聡子に会う手だてはないと思われたので、俥もたのまず、宿から寺まで小一里の道を歩いて行った。幸い美しく晴れた日ではあったが、歩行は辛(つら)く、咳は深まるばかりで、胸の痛みは時折、胸の底に砂金を沈めたように感じられた。

 

《「お髪(ぐし)を下ろしたのね」 と夫人は、娘の体を掻(か)き抱くようにして言った。「お母(たあ)さん、他に仕様はございませんでした」 とはじめて母へ目を向けて聡子は言ったが、その瞳(ひとみ)には小さく蝋燭の焔(ほのお)が揺れているのに、その目の白いところには、暁の白光がすでに映っていた。夫人は娘の目の中から射(さ)し出たこのような怖(おそ)ろしい曙(あけぼの)を見たことはない。》 またしても曙。しかしこの曙は、相手の心を動かしたいという邪悪な目論見によらない、無私から発した苦行、自己懲罰に違いない。

 

 <魂自体の動きがはじまって>

 病が篤(あつ)ければ篤いほど、病を冒して行(ぎょう)ずることに、意味もあり力もある筈(はず)だ。それほどの誠に聡子は感応するかもしれないし、しないかもしれない。しかし、今やたとい聡子の感応が期待できなくても、自分に対して、そこまで行じなくては気の済まぬところへ来ている。聡子の顔をぜひ一目見たいという翹望(ぎょうぼう)は、はじめ彼の魂のすべてを占めていたが、そのうちに魂自体の動きがはじまって、その望みをも目的をも乗り超えてしまったように思われた。

 

 蓼科は説く、「子(やや)さんを始末遊ばすのでございますよ、一刻も早く」、「警察は宮家を憚(はばか)って、万が一にもこれを表沙汰(おもてざた)にすることはございません」 そう言われて、聡子の顔に泛(うか)んだのは安堵(あんど)ではなかった。なにか、手に負えぬもの、一切に抗じる愛の肯定。《「私は牢に入りたいのです」 蓼科は緊張が解けて、笑いだした。「お子達のようなことを仰言って! それは又何故(なにゆえ)でございます」 「女の囚人はどんな着物を着るのでしょうか。そうなっても清様が好いて下さるかどうかを知りたいの」 ――聡子がこんな理不尽なことを言い出したとき、涙どころか、その目を激しい喜びが横切るのを見て、蓼科は戦慄(せんりつ)した。》

 

 <あの忘れがたい思い出>

 俥が来た。彼は宿の者が押しつける毛布に膝を包んで出発した。それだけ身を包んでいるのに、おそろしく寒かった。

 黒い幌の隙間(すきま)から、ほのかに雪片が舞い込んでくるのを見て、清顕は去年の雪の中を、聡子と二人で俥を遣(や)ったあの忘れがたい思い出に突き当り、胸をしめつけられるような心地がした。

 

 愛する人と結びつく忘れがたい思い出。幸せな、悲痛な、追憶。俥は車夫の懸声と共に辷(すべ)り出した。《見上げる空は雪のせめぎ合う淵(ふち)のようだった。二人の顔へ雪はじかに当り、口をひらけば口のなかへまで吹き込んだ。こうして雪に埋もれてしまったら、どんなにいいだろう。「今、雪がここへ……」 と聡子は夢見心地の声で言った。雪が咽喉元(のどもと)から胸乳(むなぢ)へ滴(した)たったのを言おうとしたらしい。》

 若い清顕は世界と直面したかったのだが、たしかに月修寺への道で、世界に、明晰な外界に直面していた。

 

 <少しも憔悴したように見えず>

 本多がおれほど清顕の脳裡(のうり)にあるものを、決して自分のものにすることができないと、痛切に感じたことはなかった。清顕の体は目前に横たわっているが、その魂は疾駆していた。ときどき夢うつつに聡子の名を呼ぶらしい紅潮した顔は、少しも憔悴(しょうすい)したようには見えず、むしろふだんよりも活々(いきいき)として、象牙(ぞうげ)の内側に火を置いたように美しかった。

 

 宿で臥(ふせ)る清顕に代って、本多は月修寺に出向く。お目通りかなった門跡に口上を述べ、清顕が聡子に一目会うためなら命をも賭(か)けていることを告げた。《そのとき本多は、決して襖一重というほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅か一間(ひとま)を隔てた部屋かと思われるあたりで、幽(かす)かに紅梅の花のひらくような忍び笑いをきいたと思った。しかしすぐそれは思い返されて、若い女の忍び笑いときかれたものは、もし本多の耳の迷いでなければ、たしかにこの春寒の空気を伝わる忍び泣きにちがいないと思われた。》

 しかし、むしろ、真の心の憔悴は、もうこの世では逢わないと誓って落飾した聡子の側にあったのではないか。

                             (了)