子兎と一角獣のタピストリ(11)「恋愛小説 from 私小説 to 本格小説」

  「恋愛小説 from 私小説 to 本格小説

 

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《太郎は十メートルと離れていない所に立ったが、そのガラス玉のような眼は現実の世界は見ていなかった。つと天を見上げると、白い月をめがけてお椀の中のものを力の限り投げた。粉々になった人骨は透き通って宙を舞い、やがてパラパラと落ちてきた。月の下に立った太郎はじっと眼を閉じていた。白い細かい人骨を頭から浴びて岩のように不動であった。》

 きっと本格小説とは聞きなれない言葉でしょう。それは大正末期に心境小説(私小説のこと)に対立する批評概念として使われたようです。本格小説は『アンナ・カレーニナ」や『ボヴァリー夫人』のようなもので、結局、偉大なる通俗小説に過ぎない、作り物である、 一女工の手記の前にはドストエフスキーもない、とまで批判されました。私小説なら、そのうえ不幸であればあるほど真実があるという情緒は逆に、幸福には嘘がある、となってしまう。こうして日本近代文学は知的で愚かな中産階級の幸福な日常を小説化することなしに、作家自ら求めた不幸な心境を、形式に無頓着に、主体も他者もなく、だらだら売りつける名人芸となりました(そのこと自体、まことに不幸な文化状況です)。

 水村美苗の『本格小説』は、ニューヨーク郊外で東太郎の成功を目のあたりにした(そこまでが長い序章)水村美苗という作者と同名の登場人物が、その男の半生に関する「小説のような話」、「ほんとうにあつた話」を若い元文芸誌編集者加藤祐介から雨夜に聞くという仕立てになっています。読者は、私小説めいた「ほんとうらしさ」の印象の上で、「小説のような話」を聞かされることになるのです。祐介の話はすぐに女中冨美子の「関係ないこともたくさんお話ししていい?」で始まる限定的な視点に渡されます。思籠のようにもたらされた「小説のような話」を私は、私小説的なものから遠く隔たった本格小説にしたいと、日本語による困難さを感じつつ書き始めるのでした。さらにそれらが作者の序とあとがきに挟まれている。まるで幾重にも折りたたまれたパイ生地のように、話の中に話が、聞き手の中に話し手が、あまやかな空気をはさんで焼き上げられています。《東大郎という名は実名である》と水村美苗が念をおすとき、聞き手としての読者は本格小説私小説、作り物と真実の境界を揺れ動くのです。

 ニュークリティシズムの精緻な読解の土壌に脱構築批評(ディコンストラクシォン)を開花させたポール・ド・マンの、イェール大学での最後の生徒だった水村ですから、「テクストが体系的に関連しあいつつも倫理的には矛盾するようないくつもの意味の可能性を示している」ことを忘れていないはずです。この小説にはド・マンにおける「誘惑と拒絶」、「理解するという行為そのものに常に内在するあやうさ」、「アレゴリー」が隠れたテーマとなっているに違いありません。たとえば、太郎への誘惑と拒絶、小説の最後で冬絵が祐介に明かす冨美子の謎の開示と真実の隠蔽の疑惑は、虚構と現実のあいまいな線引きとなって月の光に照らされます。ド・マンが論じたルソー『新エロイーズ』の牧歌的にみえて燻る情熱の三角関係も練り込まれているでしょう(水村は漱石の未完の遺作『明暗』の完結編『続明暗』で鮮やかにデビューしましたが、漱石文学のライト・モティーフは三角関係の倫理でした)。

 でも『本格小説』を読み始めれば、そんな辛気臭い批評などどうでもよくなってしまう。ここには本を読む悦びが溢れている。現代小説の果てしない退屈さではなく、なんども読み返したくなる近代小説のそれです。エミリー・ブロンテ嵐が丘』の女中ネリーと俗物ロックウッドに一工夫した合わせ鏡のような語りの構造に抱かれて、これ以上さきへ行ってはならぬぎりぎりのところまで連れてゆかれるヒースクリフとキャサリンの狂気のような恋愛、そのゴシック的恐ろしさと「目に見えない世界」への情念の火が、太郎とよう子の身分違いのロマンスにもはっきりと感じられます。幼なじみの恋と憎しみ、この世を越えた魂の融合、結ばれなかつた男女の死後の交わり。純粋な愛は様々な罪を許すものです。

 ジェイン・オースティンや「細雪』のように、金と暇のある女たちの日常をリアルな固有名詞で子細に描き、それ以上の高みも深みもないのに、さきへさきへとページを繰らせてしまう春絵、夏絵、冬絵三姉妹の耳を楽します自負と偏見の会話に、「女人救いがたし」と思いつつも微笑みを禁じえません。そう、ここにあるのは幸福感です。引揚げ、蒲田の孫請け工場、三軒茶屋の共用便所アパート、駆け落ち、死などがあつたにしても、ステレオタイプな不幸で泣かせる(日本精神分析すべき、あいも変らぬベストセラーの泉)小説ではありません。成城学園前の五月の太陽の眩しさ、軽井沢の西洋館の鎧戸から差し込む光、そして読書の幸福まで描かれているではないですか。

 読み進むとたくさんたくさん思いあたるのです。緋鯉を散らした浴衣、クラリネット、左利き、電球、少女文学全集、ドクター・アズマ、月の光を集めた白い服、ロングアイランド、屋根裏部屋、桜の園、禁酒をといて呑み始めた理由、……。感じられる「時」の玉手箱の蓋が開きます。ゴム跳び、「エンガチョ切った」、どんぐり拾い、紙芝居、空地、西部劇ごっこ、たき火、フラフープ、げんまいパンのホーヤホヤッ!」、秋祭り、ソースせんべい、……。とりわけまだ戦後の負の部分、貧しさ(遠足に行けない子、鉛筆のない子)、下品さ(鼻たらし)という悪目立ちが残っていた昭和三十年代から四十年代の記号が過剰なまでにあります。それに比べ平成という時代はのっぺりとして軽薄を通り越して希薄かと、その精神性の乏しさ、ツァラトゥストラの言う「小さき人々」にぞっとしてしまう。

 現代における恋愛小説の困難さは、高揚する情熱が自己分析的な覚めた意識の眼にさらされ、物語という表現形式の崩壊、素朴さの喪失が、恋愛の絶対性を支える力を失わせてしまつたからと辻邦生は、(加藤祐芥と出会う前の)水村美面に手紙を書きました。けれどもよう子の愛の声を聞き、その灰と交わる太郎を見るとき、恋愛小説はまだ可能だと思いしらされるのです。

 

――あたし、もう絶対に、絶対に許さない。 一生許さない。

――あのあとだって、ずっと、ずっと待っていたのに。

――あたしが死んでも、殺したいって思い続けてちょうだい。

――でも、ああ、まだ死にたくない。死んじゃったら、幸せも何もないじゃない……