短歌批評 「岡井隆の蜜と乳」

  「岡井隆の蜜と乳」

 

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 岡井隆の歌に特徴ある語彙は何だろう。

 まず「性愛」があげられよう。他の歌人にはあらわれることすらめったにない語にも関わらず、岡井には数十首もの「性愛」の語の歌、連作がある。「性愛」の語は、象徴的意味をもたせるにはすでに充足してしまっているので、その歌をとりあげる気はおきない。

 ついで人は「蜜」と「乳」と言うかもしれない。「乳」はともかくとして「蜜」を使う歌人もまた少ない。『蒼弯の蜜』という歌集名や、その源ともなった「蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしずけき伴侶」が知名ではあるものの、ではどれほど「蜜」という語の歌があるかと調べてみれば、おそらくは十首ほどにすぎないだろう。しかし、「蜜」という語は読むことの快楽を存分に与えてくれる記号だ。

 一方、「乳」の歌は世人もそうであるがずっと多く、各歌集に一、二首は見いだせる。「蜜」と対でとらえるならば、滋養としての分泌物たる「乳」は聖書の世界、神話の領域に通じてゆくわけだが、岡井における「乳」の多くは普通一般のように肉体としての乳房、乳首として歌われている。それでも、その「乳」は両義性をおび、喩としても機能しているから、読みの快楽に耽ることができる。男性歌人としては「乳」への拘りは相当に強いと言える。

「蜜」の歌と「乳」の歌を読んでゆく。すべてというわけではない。「草こえて飛びちがいたる蜜蜂の翅見えぬまで宙にとどまる」(『斉唱』)や「夕妻の乳しばりゐるかたはらを綿のごとくになりて過ぎ来つ」(『禁忌と好色』)のような写実的な歌はよい歌であり、暗喩というものが潜んではいるかもしれないが、触れずに通りすぎる。

 

 まず「蜜」の語のある歌からはじめる。

 

 蜜房の一隅きずきつつありとおもう寡黙に涵(ひた)り居たりき

 

『眼底紀行』から。句またがりにためらいがある。六角形の規則正しい網目状の「蜜房」から、社会的地位、家庭での役割といった構築物が思い浮かぶ。本来ならば幸せの構図であり、達成感をよびさますはずの構造なのだが、岡井にとってはそんな単純なものではない。「一隅」を「きずき」と肯定表現するも、「つつあり」で思いとどまり、「とおもう」で内省におちいる。そして「寡黙」とならざるをえない。五句のi母音の連続が身動きできない悲鳴のようだ。まだまっすぐな岡井であった。

 

 燈(ひ)を点(つ)けて魔の夕ぐれを行くときに蜜(みつ)凝(こご)りたる西空が見ゆ

 

マニエリスムの旅』から三首。自転車や車といった乗り物のライトではなく、自分自身の燈ととりたい。発光するのは眼か。欲望に火がおこり、快楽の眼に燈が点く。視る人として魔の刻、夕ぐれを行く。どこへ。遠い西空に夕映えが広がり、はや甘露の蜜色に染まっている。甲虫類のように蜜に吸い寄せられてゆく。蜜はただでさえとろりとしているのに、期待から濃厚さを過ぎて凝固してしまう。薄膜を張り、しわを曇らせ、白く結晶している。身動きできぬように視姦者は拘束されてゆく。

 

 蜜を煮る火をほそめたり苦しさや身のほど知らぬたたかひ強ひて

 

「蜜」は欲望か快楽か。「ほそめたり」と二句で切れているから火をほそめたことが苦しいのではないだろうが、三句「苦しさや」を軸に意味が螺旋を描く。自らの欲望の火をほそめたのか、あるいは欲望の相手の快楽の蜜を煮る火をほそめたのか。後者ととったほうが一人称の世界に収東せずにエロティックな関係が生じ二重螺旋と化す。火を消すのではなくほそめたところに、悔恨しているようでしていない粘り強き岡井の精神がみえる。焦げつかさないようにじっくりと煮つめてゆく快楽。ことこと。ふつぶつ。蜜のシロップで岡井の自伝的「私性」がコンポートのように料理され、煮くずれる。

 

 立膝をして胡坐(あぐら)して詞(し)を書けば唇(くちびる)のへに蜜は寄りくる

 

 二句「して」の二度づかいが意識的なうえに、さらに「詞」の音を重ねる作為性。持てあまし気味の時間の移ろい、待ち望む期待感をたたみかけてくる。立膝、胡坐というくだけたポーズの列挙、「して」とバ音の国語の俗っぽい上旬に、下旬の麗句を対立させてみせる手練などは岡井にとってお手のもののこなれた構成技法だろう。詞を書く時間の熟成と煩間のすえの女詩神の訪れ、囁き声を蜜と名づけたのか。蜜には催淫性がある。現在進行形で流れるように近づいてくる。

 

 蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

 

『人生の視える場所』から二首。蜜をかたむけたのは神の手か。かたむけられた蜜はとろりとろりととめどなくこの濁世(じょくせ)に注がれたのか。その滴から黄金の甘さを身に浴びて濡れ光ることができたのか。形而上学的な晴朗さのはろばろとした歌だ。上旬と下旬の幸福な関係。「蒼穹」ではじまり「伴侶」で結ぶシンメトリックなデザイン感覚。「蜜」と「時」による永遠へのあこがれ。韻律の美しさはあえて言うまでもない。

 

 蝗あり野蜜はしとど流るればあらがはを着てヨハネ大股(おほまた)

 

 聖書の世界。《このヨハネは駱駝(らくだ)の毛織衣(けおりごろも)をまとひ、腰(こし)に皮(かは)の帯(おび)をしめ、蝗(いなご)と野蜜(のみつ)とを食(しょく)とせり》のマタイ伝のヨハネである。岡井の歌では食への言及がないぶん、想像力を刺激するところがある。「あらがは」、「大股」の荒ぶる預言者像に「野蜜」の甘やかさが官能的だ。《ヨカナーン! おまえは私を見ないで、神を見た、とサロメは歎いたのだ。》の詞書のごとく、すぐれて視覚的であり、しかも「流るれば」、「大股」の言葉で映像は巨人のようにゆったりと動きだす。                   

 

 眸(まみ)といひ眼(め)と呼ぶ孔(あな)ゆかくまでにすがしき蜜は吾(あ)に注がれつ

 

『禁忌と好色』から二首。「眸」から「眼」、そして「孔」。雅語を医学用語、物理用語へと移し換えてゆき、「かくまですがしき」とまた美しい調べに引き戻す。視る人(ひと)岡井は、同時に視られる人岡井でもある。M音とa母音に視線を意識する波動が交錯する。「すがしき蜜」とは女人の視線なのだろうが、自我から分泌される無意識の蜜なのか。しかし岡井によって歌にされる過程で恋の欲望の蜜というより精神の蜜へと純化されている。

 

 さはいへど男女(をとこをみな)はうつろなる蜜房の辺(へ)にたぬしきものを

 

 初句いきなりの「さはいえど」に岡井の工夫と思弁性があらわだ。この「蜜房」も社会生活、日常生活、スクエアな営みといったところだろう。アイロニーめいた口ぶりに結句のヲ音が響く。

 

 性(せい)といふさびしき指はときとして密の流るる彼方を指(さ)せり

 

『五重奏のヴィオラ』から二首。「性」、「指」、「蜜」とくれば愛撫か自慰のような性愛の行為を連想しがちだが、「さびしき指」の喩と、蜜はここではなく「彼方」に流れていることから観念的な多義性を内包している。「蜜の流るる彼方」とは、あるいは浄土か曼茶羅のような全体像のことか。「指」の語の二度の表れが夢うつつの二重映像として揺らぐ。「さびしき夢」の表徴するところは何だろう。指は人間の所業を司り、喜怒哀楽をどうしようもなく生みだしてしまうが、そのようなものとして性もあり、しかしときとして宗教的至上の世界に向かう。悦楽の彼方へと。

 

 蜜をぬり蜜につどふを捕え来てさやぎあへるもただ二夜(ふたよ)のみ

 

 言い換えや二度つかいといった言語遊戯をその律の効果も狙って好む岡井だ。どのような快楽であったのか、女との快楽ではなく、読書の快楽にすぎなかったのかもしれないけれど、「捕え来て」、「さやぎあヘる」の表現の昆虫コレクターめいた趣向やフェティシズムヘの親近感がある。

 

 たとふれば秘密のみつは蜜の味ドンファンの背に頬を埋(うづ)めよ

 

『神の仕事場』より二首。蜜が蜜なのは禁断の甘美さということであり、岡井はこういう通俗的になりがちなことも男っぽく正面切って言ってみせる。「たとふれば」のような入り方も作者が得意とする人をくった手法のひとつである。核心に一気に切りこんでみせる。胸ではなく「背」であるところに、ある種の衿持と屈折があるのだが、「ドンファン」とは誰のことだろう、とあえて問わせる厚顔さもあわせもつ。

 

 死者たちのために流るる蜜の雨生きながら葬(はふ)らるるといづれ

 

 下旬の変則性に、六道輪廻に捲きこまれるような薄気味悪さがある。「いづれ」の予言力。「るる」「るる」の導きの鈴の音。『チベット死者の書(バルド・トェ・ドル)』における中有のありさまの経典を思い出させる。死後、他の諸器官が機能しなくなっても耳という感覚器官は最後まで働きつづけると言う。ならば「蜜の雨」は死者の耳もとに降る生者たちの言葉に違いない。言葉の蜜の雨が死者の耳の穴にとろとろと流れ込んでゆく。「死者たち」と複数形であることに作者における死の日常性を想う。

 

 まっすぐに物を見るなどしたまふな見ぬ幸福は黒糖の蜜

 

ヴォツェック/海と陸』から。M音を意識した歌。「見る」、「見ぬ」のような一首のなかでの技巧的変奏を好む岡井はまた、黒糖の蜜のような泥臭さ、男臭さをも好むけれども、その複雑な人間性、リアリズムとロマネスクの絡みあい、解剖学と性愛の重層性を成分とした岡井の蜜は、岩や森からのかぐわしきハーモニーとしてのピュシスな蜜ではなく、脳からの蜜であろう。欲望、快楽の蜜は天上感覚に満ちている。それはマグダラのマリアの香油のような蜜、タントラの危うさの蜜である。

 

「乳」の語のある歌に移る。結論めいたことを言ってしまえば、岡井の歌は口唇性や音と言葉のふくよかな調べから母性に通底している感がある。それは岡井の深層世界を解く鍵かもしれないし、オウディプス・コンプレックスと結びつける強引さも可能かもしれないが、ここでは深入りしない。作者をめぐるとめどない女性たち(そして子供たち)との婚姻、別離といった伝記的要素に足を止める気はない。

 数多いので、一首ずつではなく、歌集ごとにまとめて読んでゆく。

 

 蒼白の乳房を揺りて遠まきに見ていたるのみ山羊らかくろう

 

『斉唱』から。羊と山羊を好む。「蒼白の乳房」と「山羊」との関係性、表徴はといえば、想像するだけでいくつかの物語が生まれる。政治の季節のイデーもあるらしい。岡井に特徴的な、見ることと行為することとの愛憎劇がある。色は白。ファナティックなことへの嫌悪にも通じる。

 

 昨(きぞ)の夜は乳を抑えきさみどりの手の葉脈をおもいて行けり

 乳のさき明るき牝が近づきて狩人のそのたびだちの騒立ち

 しばしだに他人(ひと)の思想に拠りし恥 乳房かげろうその束の間を

 

『眼底紀行』からの三首。これらの乳には若さが漲っている。ふくよかさとは違う。漢字の多用、言葉の調子の鋭さ、早さ、硬質さによる。「乳のさき」も明るく息ぶいて尖っている。蒼い、「さみどり」であり「思想」である。思想と性愛がせめぎあい、抑えるべき早春としてそこに在る。退廃の気配はいまだない。母性的なものへの憧憬もなく、若い牝への神話的本能に勇んでいる。ディアーナとアクタイオンの物語を想う。そもそも物語性に心惹かれてやまない作者なのだ。主人公は岡井のメタモルフォーゼんに他ならず、マニエラを駆使した仮面を幾重にも被って登場する。

 

 たいらぎはかくのごときか目覚めたる闇のしずくにも乳房は憩う

 進退のことをおもえり蹴おとされ行く狭間(はざま)には魔の乳(ちち)満ちて

 乳房を恥ぢて立ちゐるをとめらの層々として部屋に立ちゐる

 あした死ぬことたしかなる人の胸乳房ゆたけくかげろひて見ゆ

 

『天河庭園集』および『天河庭園集(新編)』より四首。調べがここちよい。夢幻的、幻想的な趣をおびている。すでに頽廃の気分、達成の境地、死後の世界の予感がただよい、なぞめいたやすらぎの乳房に吸い寄せられている。たとえそれが乳色にけぶる魔性であると気づいていても、たゆたう誘惑に負けることを望む気配。乳には催眠効果があり、P・デルボーの絵画のような心象風景といえる。「いずくにも」、「狭間」、「部屋」の語に、空間意識、辺境意識、閉塞感がある。「層々として」のような表現におもしろがる。「ゆたけくかげろひて見ゆ」のyu音のまろやかさは「狭間には魔の乳満ちて」のma音の共鳴とあいまって絶妙。

 

 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて

 

『歳月の贈物』から。歌ができた背景など知らなくても華やいだ気分、はれがましさは伝わってくる。五つの句の頭韻をすべてa母音で晴れやかに鳴り響かせ天へと放つ。「さぶしき」の濁音にふくらみがある。歳月や時への思いは人一倍強く、それが「乳7」に結びついている。この「乳」は肉でもあり養でもあろう。「て」で終る歌が日につくのはドラマを盛りこみたいがためか、思弁的なスタイルゆえか、あるいは継続と復活の意思表示か。「ぬ」で終らせなかったことで花をかかげる手が下がることはない。

 

 口中に満ちし乳房もおぼろなる記憶となりて 過ぐれ諫早(いさはや)

 

『鵞卵亭』より。時間の経過がここにもある。乳房に対する口唇愛は言うまでもない。惑溺の記憶。「諫早」のa母音の連続で自伝的要素と、自己顕示と紙一重で戯れてみせる。「早」の字が「過ぐれ」に絡みつく。乳房はいつもおぼろであったり、かげろうのなかにあったり、夢うつつなものとなって視覚から消え去り、頬ふくらます口の記憶としてとどまる。岡井にとっての「乳」は失われた時とともに口中に満ちるものでなければならないようだ。

 

 うしろから抱くときの乳 梅雨はまだ降りみ降らずみ子規(ほととぎす)過ぎ

 

『人生の視える場所』から。書誌的含み、とりわけ正岡子規をめぐる仕掛けが組みこまれている。自ら解題したとおり、i母音の調べが重視されている。まず言葉や調べがあって、その組み合わせから歌ができてゆくということもあろう。「梅雨」といい「子規」といい、じめじめとした畳からの低いアングルが「うしろから抱く」の視界をなす。横臥して抱かれた乳が藤の花房のように畳にとどくかとどかないかのところで揺らいでいる、などと想像してみるのもおもしろい。「子規過ぎ」の意味はどういうことだろう。ほととぎす(の鳴く季節)が過ぎて、というのでは単純に過ぎよう。

 

 乳房のあひだのたにとたれかいふ奈落もはるの香にみちながら

 すみずみに現実(うつつ)の乳は満ちながらしかもはつかに現実(うつつ)超えたる

 

『禁忌と好色』から二首。「たに」と「はる」という岡井好みの語彙がある。ひそけさにかすんでいる。たとえそれが「奈落」であり、「現実」ではなかったとしても桃源郷のような情景が思い浮かぶ。ひろがりと奥行きがある。濃淡による遠近感と言いなおしてもよい。すぐれて視覚的であるものの色彩感覚には乏しく、モノクロの映像美であるが、映画『羅生門』の木漏れ日の光と影の美しさを思いおこせば、欠点と決めつけることはできまい。歌集名からもボオドレール『悪の華』を連想させる。その悪の香り、奈落の気配ゆえにいっそう墨惑的なのだ。「たに」と「たれ」、「現実」のリフレイン、どちらも美しい旋律で酔わせる。「みちながら」、「満ちながら」の従属願望のフレーズに満ちるだけではまだ足りず、口中からむせて溢れる乳を求めつづける眩量がある。「蜜」や「乳」にまといつくはずの嗅覚や味覚の震えといった感覚は岡井の性分ではないが、この二首には香りがある。月光のうすあかりで乳のようにすべすべしている。

 

 バスタオル風に乳房を巻いてゐる言葉にはすこしさからつてやれ

 

『五重奏のヴィオラ』より。「性欲に関しては、実に清明に澄むものだナ。」の詞書がついている。一首を独立して読みとこうとする者にとっては岡井の方法論、実験性、ジャンルのまたぎと正面から組み合うことはやっかいである。主題性、物語性に強い連作の場合には、一首に独立性など存在しうるのか。歌と詞書とが離れてみえるほどポリフォニーがあるはずだし、ひとたび詞書を目にしてしまったからには詞書から自由に歌を読めない。上旬の喩に岡井らしい性的ほのめかしのおかしみがある。隠している、はらりと解けそうで、思わせぶりで、危うい。そんな不安定でありつつ巻きつけてくる感覚を全体におよぶ句またがりの行きつ戻りつと、下旬の国語表現であえてぶつきらぼうに椰楡しているが、実はこの歌こそが詞書なのかもしれない。

 

 含むとは乳房をふふむくちびるの人こそは見め<愁(うれひ)>ふくむと

 雨雲があのなつかしい乳房なら爪さき立ちて天(あま)つ接吻(くちづけ)

 風神のひとしほ勢(きほ)ふ夜半ながら乳房が岬(さき)に悪を求めつ

 

『親和力』から三首。fu音をm音がフーガのように追いかけ戯れる構成であったり、a母音からなる晴れやかさであったり。「ふふむ」の口中から浴れる空気音。< >で括られた愁とは、時間のなせる技でもある。倒置表現を好むのはスタイリストである所以だ。どれもスケールの大きな歌で、神なるもの、天上的なるもの、自然界に親和してゆくゲーテ的なおおどかな力をふっくらと表現している。

 

 うたがへばもの皆白くいちじくをちぎりて出づる乳の香ぞすれ

 

『神の仕事場』から。「いちじくをちぎりて出づる乳」のi母音による息急く舌触り。乳が白いばかりでなく、すべてが白く濡れ、喧せるように甘く香ってくる。ここには疑うことから物語がはじまる神話的世界がある。吉岡実サフラン摘み』に似たセクシュアリティはいちじくのせいか。このいちじくは淡紅をみせずに自黒の世界にかすんでいる。

 

 まろやかな乳房をつつむうすぎぬに眄(ながしめ)くるるタベにあらず

 

『夢と同じもの』から。半球を包むうすぎぬのトポロジー。眄の接線のエロティシズム。結句「タベにあらず」のアイロニー。予定調和とアイロニーと酒脱さは、西脇順二郎に似た透徹さからくる。はかなさや俗怠の感覚が詩を迎える。

 

 しろたへの乳房(ヴィア・ラクテア)に舌を置く疫(えやみ)のやうにならねばいいが

 様式を穫(え)てうつくしくなるころにうしなはれゆく乳臭(ちしう)かなしも

 乳房垂るるごとくに垂るる星座さへ晩(おそ)き、晩(おそ)すぎる眺望とせむ

 

『大洪水の前の晴天』より三首。これほどまでに語句のリフレインや変奏を偏愛し、信頼するのはなぜだろう。歌だけが美しく残る、と言わんばかりに言葉に律を奏でさせて、視る人は読む人を酔わせようというのか。前衛の様式であろうと(あるほどに)、その方法論を身につけてスタイルができてくるや方法論を脱して無意識的方法とでもいったものに到る、と言えば聞こえはよく東洋思想めくが、それは乳臭いとも青臭いとも形容される若さの勢い、攻めが失われてゆくことをも意味するだろう。そのうえで若い歌人たちの感覚や手法をとりこみ、今ひとたびおのれに方法意識を課してゆくエネルギーとエゴイズムの底しれぬ危うさ。だがもうそこに初期歌集の硬質感はなく、斉藤茂吉晩年の『白い山』への道を岡井は乳の幻影を夢見つつ辿ろうとしているのだろうか。「乳房(ヴィア・ラクテア)」という医学的命名に茂吉きどりがあり、こういったことに対して、作者への好き嫌いがはっきりと出るだろう。

 岡井隆の髭は蜜と乳に濡れている。

                         (了)